2011年3月8日火曜日

やさしい神様のお話

アッナーブルスィー師の廟とモスク

アルスラーン師の墓

アルスラーン師の廟とモスク(表紙用)

アッナーブルスィー師の墓、墓に詣でるハサンとハビーバ

ユースフ師とハビーバ 

著者の前書き

 この翻案を始めるきっかけを作ったのは、わたしの姪でした。ヴィザの話をしたのも、当時不登校気味だった姪が自分の居場所を見つけあぐねているのかと思ったからでした。彼女は、実家のすぐ近くに住んでいて、わたしが里帰りする度「ありがたい話」をせがむ彼女の母親とは別のムスリマの妹と一緒に小学校に上がる前からわたしのイスラームの話を聞くのを楽しみにしてくれていました。

 ある年の冬、わたしは、わたしの先生(アッシャイフ・ユースフ・ムヒーユッディーン・アル=バッフール)からこの本を紹介され、一緒に読み、その直後に里帰りした際、話の素材に取り上げることを思いつきました。

 今、読み直してみると最初から終わりまで著者の言わんとすることはただ一つ、あらゆる二元論を退けてタウヒード(神の唯一性)の中に没入する、ということです。最初に出てくるペアの話もヴィザの話も原著にはまったく出てきません。数回の連載を進めるうちにほぼ原著に忠実に沿った内容に変わっています。最初の部分を新たに書き直そうかとも思いましたが、せっかくなので元のままに残すことにしました。

 ここに書かれたことは、理屈ではわかっても実際にそれを生きることは極めて困難でしょう。神の恩寵に触れ、そのような瞬間を味わう時を神の御許に召される前に知ることができるよう祈るばかりです。

 なお、タイトルの「やさしい」は「神さま」ではなく、「話」にかかります。やさしいことばでタウヒードを解説したものですが、その内容は「やさしい」どころか、非常に難解です。やさしい表現に誘われて、ひとつひとつゆっくりゆっくり味わいながらお読みください。

序文

知れ、―アッラーがおまえにすべての良きことを教え給い、一挙一動において過ちから守り給いますように― アッラーに対するシルク(多神教) ―罪の中でももっとも忌まわしく、恥ずべき行為のうちもっとも汚れたこの行為からの守護をアッラーに求めます― をアッラーは決して赦し給わないことを。たとえ、前髪を掴む日(審判の日)にそれ以外の反逆行為をみな赦し給うたとしてもである。

 至高なるアッラーは仰せられた、『まことにアッラーは、彼に同位者を配すことは赦し給わないが、それ以外のものはお望みの者には赦し給う』(第4章[女]48節)。また、次のようにも仰せられた、『アッラーに同位者を配す者は、空から落ちて鳥がさらったか、風が遠いところに吹きさらったかのようである』(第22章[ハッジ]31節)。また、アッラーは、ルクマーンが息子に訓戒して次のように語ったと述べ給うた、『息子よ、アッラーに同位者を配してはならない。まことに多神教ははなはだしい不正である』(第31章[ルクマーン]13節)。また、アッラーは仰せられた、『まことに、アッラーに同位者を配した者、アッラーは彼には楽園を禁じ給うた』第5章[食卓]72節)。

 これらの節において言及されている「シルク(多神教)」は一部のシルクに限定したものではなく、シルク全般を指すもので、明らかなシルクも隠れたシルクも一まとめにしたものである。なぜなら、明白なシルクであろうと隠れたシルクであろうといずれも正真正銘のシルクだからである。「明白なシルク」と言った時には、そのシルクはそれをなす者にはっきりと見て取れるものであり、「隠れたシルク」と言った時には、その本人がそれに気付いていないものであると我々は考えるが、およそこの世のシルクはそのようなものである。多神教徒は、たとえ自分達がアッラーと並べて他の神々を崇拝していたとしても、自分たちが多神教徒であるとは自覚せず、ただ祖先のやり方にしたがっているだけだと考えたり、それらの神々は自分たちをアッラーにより近づけてくれるものだと思い込んでいるからである。クルアーンの中でアッラーが仰せのように、確かに彼らはアッラーに同位者を配しているが、自分達が多神教徒であるとは思っていないのである。もし、明白なシルクはその当人以外には明白で、隠れたシルクの方は本人はそれに気付いていないのであれば、明白なシルクと隠れたシルクの違いはないということになる。なぜなら、隠れたシルクは当人以外の者には明白だからである。したがって、神学者がシルクを2種類に分類しても、アッラーの御許においてはシルクはただ1つなのである。至高なるアッラーは仰せられた、『己の主の拝謁を願う者は善行をなせ、そして、己の主の崇拝行為になにものをも並び置いてはならない』(第18章[洞窟]110節)。「崇拝行為」とは、信念とことばと行為のことである。「なにものをも(アハド)」は否定文で用いられる非限定の名詞であり、およそ考えられうるもの、感知されうるものすべてを含み、したがって明白なシルクも隠れたシルクも含意する。明白なシルクとは、アッラーのほかにも人間が崇拝するに値する別の主がいる、あるいはアッラーの諸特徴のうち一つでも同じ特徴を持ったり、アッラーの諸行為のうち一つでも同じ行為をなしたり、彼の御名のうち一つでも同じ名を持ったり、彼の裁定のうちのなんらかのものを下すものがアッラーのほかにいるという信念が自分自身、あるいは自分以外の者の目に明白なものである。一方、隠れたシルクとは、そうした信念が自分自身からも隠れているものである。彼がそのようなシルクにあるのは、心が不注意であるためである。自己認識おいて不注意な者は、存在や、聴力、視力、知、生命、力、意志のような全ての属性において、あるいは英断者、高貴者、繊細者、知者のような全ての名において、あるいは崇拝行為の生成や神命違反の消滅、あるいは単独で個別にクルアーンとスンナの規定の下に入るような事柄に対してハラームやハラールと断定するような全ての判断において、自分がアッラーの共同者であると思い込んでいるではないか。それによって、そうした者は自分の置かれている状態について不注意であり、その実体に気づいていないのである。彼は自分が、至高なるアッラーと並び、アッラーの属性で形容され、神名で呼ばれ、自分は自分から生ずる業と判断が属する別の存在者であると思い込んでいる。というのは、そうした者は、我々が述べたことに気づき、自分自身で自分を客観してそれに気づき、一般論としては我々が述べたことを至高なるアッラーに関係付け、自分に対してはそれを関係付けないと言い張る。しかし、それはその者が、(存在、属性、神名、業を神と自分に)「関係付ける」ということがどういうことなのか分かっていないからである。それは丁度、ある場所に敵から身を隠しているところに、自分を探している敵がやって来て自分を見つけなかったのに、その敵が自分を見つけるのではと恐れるあまり、敵に「私はこの場所にはいない」と言ったせいで、その敵がそのことばを聞きつけ彼を捉えたにもかかわらず、自分が声を出したことによって敵に(自分の隠れ場を)教えたことに気付かない者のようなものである。同じようにその者も、我々が彼についてそうであると述べたことに考えをめぐらせてそれを誤解し、それ(誤解したもの)を自分で自分について否定するのであるが、その時、その否定においてそれを肯定していながら、万世の主に帰依するに至るまで気が付かない。そして、たとえ気が付いて万世の主に帰依したとしても、その時も万世の主に帰依するに至るまで気が付かないままに、それにおいて隠れたシルクを犯しているのであり、それはその者が自分自身で気付くのでなく至高なるアッラーが彼を気付かせ給い、その者が自分自身で至高なるアッラーに帰依するのではなく至高なるアッラーが彼をアッラーに帰依させ給うまでずっとそうなのである。その時に至れば、それにおいてそれは至高なるアッラーから至高なるアッラーによってその者の中にそれが生ずるのであって、その者自身からその者によってそれが生ずるのではなく、その者がそれを自分自身で生じさせるのでなくそれを自分の中に見出すのである。預言者(アッラーの祝福と平安あれ)は言われた。「真実在の息吹の恵みを待ち受けなさい。至高なるアッラーにはお前たちの生涯の日々の中に息吹の恵みがあるのだから。」

「待ち受け」とは、準備、障害の除去に他ならず、その基礎は、宗教の何事についても僕(しもべ)に抗う妄念が残らないほどまでの理性と感覚から隠れた事象への信仰と、それに対する内面と外面における絶対帰依であり、真実在と被造物への対応における命令と禁止からなる聖法の礼節による修身である。そうすれば終にはその者の心からその主の臨在にまで労苦なく魅せる者を見出し、「真実在による魅惑の一つは人間とジン全ての(善の)行為に匹敵する」と預言者(アッラーの祝福と平安あれ)が言われた神的魅惑の境地に入る。その時、その者は至高なる真実在の取り計らいの中に入り、取り計らいにおいて自らの身を引き、隠れたシルクも明らかなシルクも免れて、タウヒード(唯一神崇拝)の徒の集団に入る。そして選択を奪われて魅惑の境地に留まるか、元の境地に戻るかのいずれかである。その者の選択の状態における選択の剥奪は、「知り、知らず」、「存在し、存在せず」、「行為し、行為せず」という彼の混乱の諸中心を占める。このようにそうした者の心境の全ては互いに矛盾しており、その矛盾の中に一致そのものがあるのである。至高者は仰せられる、『汝が投げた時、汝が投げたのではない。そうではなくアッラーが投げ給うたのである』(第8章[戦利品]17節)。僕(しもべ)は投げていなかったが投げたのと同じように、存在していないが存在しているのである。

 それゆえ知りなさい。あなたが理解の徒であるなら、錯覚の幻惑を警戒せよ。

(1)神さまはひとり

 神さまはひとりです。

 神さま以外のものはみな対(つい)になっています。

 「対」とは、ペアーのことです。テニスのペアーのように、ふたりで一組になることです。

 たとえば、おとうさんとおかあさんは対です。おとうさんひとりでは子供はできません。おかあさんだけでもできません。ふたりがそろってはじめて子供はできます。

 人はひとりでは人になれません。むかし、おおかみに育てられた女の子がいました。おおかみに育てられた女の子はおおかみになりました。おおかみのように四つ足で走り、おおかみのように生肉を食べ、もちろん人間のことばは話せませんでした。こどもは、おとなからことばを教えてもらわなければ話せるようにならないのです。だから親と子も対です。

 私たちのまわりにはまだまだいろいろな対があります。天と地、太陽と月、昼と夜も対です。

 光と陰も対です。陰があるから光の明るさがわかります。大きいと小さいも、大きいものがあるから小さいものは小さく、小さいものがあるから大きいものは大きいのです。片方だけでは大きいのか小さいのかわかりません。善と悪、幸福と不幸も同じです。

 電極のプラスとマイナスも対です。プラスとマイナスをつないだ時に電流は流れ、電気がつきます。片方だけでは電気はつきません。

 神さま以外のものはこうしてみなペアーになっています。ふたつで助け合っています。

 でも、神さまはひとりで、だれの助けもいりません。ひとりですべてのことをやってのけます。

 そこが神さまと神さまでないのものとの大きな違いです。

(2)創造主

 神さまの最も大きな特徴のひとつは、神さまが創造主(そうぞうしゅ)である、ということです。

 「創造主」の「創」はつくる、「造」もつくる、という意味です。すべてをなにもないところから作った方、それが創造主です。そして、神さま以外のものはみな作られたものです。

 科学の進歩のおかげで今日の人には、昔の人にはできなかったこともできるようになりました。牛の小さな細胞から一頭の牛を作ることにも成功しました。でも、なにもないところから何かを作り出すことは今日の科学にはできません。未来の科学でもできないでしょう。

 神さまは作った方であり、神さま以外のものは作られたもの、それが神さまと神さまでないものとの大きな違いです。

 作られたものにはかならずはじめがあります。

 私たちにはだれでもたんじょうびがあります。生まれた日です。

生まれる前に私たちはどこにいましたか。おかあさんのおなかの中です。小さな血のかたまりだったあかちゃんはおかあさんのおなかの中でぐんぐん大きくなって、10カ月目におぎゃあと泣きながら外に出て来ます。

 では、その前にはどこにいたのでしょうか。どこにもいませんでした。その前には私たちは存在(そんざい)していなかったのです。

 神さまにはじめはありません。だからたんじょうびもありません。

 この世の時間は神さまが作りました。時間を作った神さまは時間の外にいます。ですから、どんなに時間を過去にさかのぼっても、そこには元から神さまがいます。また、どんなに時間を未来に進めても、そこにはずっと神さまがいます。神さまには、はじめもおわりもないのです。

 ところで、自動車はどんなふうに作るか知っていますか。自動車を作る時には、まず部品をそろえなければなりません。それからそろった部品を組み立てます。できあがるまでにはとうぜん時間がかかります。

 では、神さまがものを作る時はどうでしょうか。神さまがものを作る時には、ひとこと「あれ」と言うだけでおしまいです。神さまが、あれ、と言ったら、それはそこにあらわれます。準備もいらなければ、時間もかかりません。「あれ」と言ったら、あるのです。

 「あれ」と言うだけでそれを存在させてしまう神さまは、「あるな」と言えば、たちまちその存在をなくしてしまうこともできます。ですから、私たちが今ここに生きているということは、神さまが私たちを生かそうと望んでいるということです。神さまが望んでいるから私はここにいるのです。

 たとえてみるなら、私たちはみな神さまからこの世のヴィザをもらっているということです。ヴィザとは、この国にいてもいいよ、という許可証(きょかしょう)です。許可証がなかったらその国にはいられません。

 私たちはだれも、気が付いた時にはこの世にいます。なんのためだかよくわかりません。なんでこんな顔をして、なんでこんな頭をして、なんでこんな性格なのかわかりません。でも、いるということは、神さまが、それでいいんだよ、そのなりでそこにいたらいいんだよ、と許可証を出してくれているということです。

 それはつまり愛の印です。神さまが私を愛しているという印なのです。だから、いる必要のない人とか、まちがってそこにいる人とかはひとりもいません。

 許可証には「いついつまで有効」という期限があって、その期限がきたら許可証は神さまに返さなければなりません。でも、その時まではだれに遠慮することなく、いばってそこにいたらいいのです。

(3)「私がいる」という思い込み

 神さまが「あれ」と言ったらあり、「あるな」と言ったら消えてしまう私たちの存在は、はかないものです。私たちは神さまが望んだから生まれ、神さまの助けにささえられて生きています。ひとりで生きている人はだれもいません。

 私たちは息をすったりはいたりしていますが、それはじぶんでやっていることではありません。心臓はドキンドキン動いていますが、それもじぶんで動かしているのはありません。みな神さまがしていることです。そして、神さまが、やーめた、と思えば、心臓は動くのをやめ、息はとまってしまうのです。

 ですから、ほんとうの意味で存在しているのは、神さまだけです。じぶんが存在していると思ったら、それは神さまの特徴を持っていないのに持っていると主張するのと同じことです。

 アラビア語で会社のことを「シャリカ」といいます。会社とは人と人が協力して一緒になにかをするところです。神さまはひとりでなんでもできます。仲間はいりません。その神さまに仲間を並べ、神さまと同じような力をもったものが他にもいると考えることを「シルク」といいます。日本語でいうと、「多神教」です。

 たとえ、あなたがただおひとりの神さまを信じていたとしても、神さまと並んでじぶんも存在していると思うなら、あなたはシルクをおかしています。黒い岩のうえを這うアリよりももっと気づきにくい「かくれたシルク」です。

 でも、だったら、私たちは存在していないということですか。ここにいる私はまぼろしなのですか。

 いいえ、そういうことではありません。私たちはちゃんといます。でも、いると思った次の瞬間に天井がおちてきて死んでしまうかもしれません。あるいは、車にポーンとはねとばされて死んでしまうかもしれません。いつだって私たちは死と背中あわせです。

 神さまは違います。神さまはいつだっています。ずっと前から存在し、これからもずっと存在します。そんな神さまの存在の確かさにくらべたら、私たちは存在しているなんてとても言えない、ということです。

 じぶんのはかなさを忘れてじぶんが存在していると思うことは、じぶんが神さまのようだと思うことです。ですから、神さまの唯一性、つまり、神さまがたったひとりだということを知るためには、まず「私がいる」という思い込みからぬけださないといけません。

 じぶんからぬけだせば、存在しているのは神さまで、じぶんではないということがはっきりしてきます。そして、じぶんが存在していると思っていたことがどんなに思い上がったことだったか、どんなに神さまへの感謝を忘れた行為だったかに気づきます。

 私たちが一日になんども「アスタグフィルッラー(アッラーにお赦しを求めます)」と言わなければならないのはそのためです。ものをぬすんだり、人をきずつけたり、うそをついたりしなくても、知らないうちにうっかりじぶんが神さまみたいになった気でいるからです。

(4)他人からじぶんを解放すること

 私たちの多くは他人のとりこになっています。「とりこ」とは、つかまえられて、自由に動けないことです。

 こんなことをしたら人はどう思うだろうか、人はほめてくれるだろうか、それとも人に笑われるだろうか。こんな時、みんなだったらどうするだろうか、といつも人のことばかりが気になって、じぶんのしたいことができません。それどころか、じぶんがなにをしたいのかもわからなくなってしまいます。他人の意見にふりまわされ、他人の目にうつるじぶんのすがたが気になるあまり、ほんとうのじぶんが見えなくなってしまうのです。

 ですから、ほんとうのじぶんを見いだすためには、他人からじぶんを解放しなければなりません。他人の意見や他人の評価)から自由になるのです。他人の目でじぶんを見るのをやめた時、私には私のほんとうのすがたが見えてきます。じぶんと人をくらべてもしかたがないこと、私には私に神さまがくれた私の良さがあることに気づくのです。

 ほんとうのじぶんをじっと見つめたら、そこに神さまの存在のしるしがあることが見えてきます。私がいるということが神さまのいるしるしなんだということがわかってきます。

(5)じぶんからぬけだすこと

 他人から解放されて、ほんとうのじぶんが見つかったら、こんどはそのじぶんからぬけ出さなければなりません。じぶんにとらわれていたら、神さまは見えてこないからです。

 たとえば、私たちは、「私の手」といいますが、私の手は私がつくったのでも、私が見つけたものでもありません。神さまがつくって、神さまがくれたものです。

 私たちが私のものと思っているものは、すべて神さまからのもらいものです。

 私には手がありますが、手のない人もいます。私に手があるのは私のせいではなく、その人に手がないのはその人のせいではありません。どちらも神さまが決めたことで、神さまが望んだから私には手があり、神さまが望んだからその人には手がないのです。私の手だって、神さまが望んだら動かなくなってしまうかもしれません。神さまがくれたものですから、神さまがとりあげても私には文句はいえません。

 手だけではありません。お金もそうです。私のもっているものはみんなそうです。もともと私のものなどなにもないのです。そのことに気づいた時、私たちは神さまの大きな愛に気づきます。

 なぜなら、私がもっているものは元はみんな神さまのもので、神さまが私に特別に使うことをゆるしてくれたものだからです。

 私がもっているものは、あの人がもっているものとくらべて小さいかもしれません。でも、小さくても神さまはそれをあの人ではなくて私に特別にくれたのです。すべては、神さまから私への特別の贈り物です。そのひとつひとつが神さまからの愛のしるしです。そのことに気づけば、どんなに感謝しても感謝したりないことがわかるでしょう。

 じぶんが、じぶんのものなどひとつもない、小さくて弱い存在)であることに気づいた時、私たちは神さまの大きさに気づきます。

 私たちはおいのりをする時に地面にひたいをつけます。私たちは土から作られました。そして土にもどります。王様だろうとこじきだろうと同じです。地面にひたいをつけた時、私たちはじぶんが土くれにすぎないことを思いだし、じぶんがどんなに小さな存在かを知ります。そして、それを知った時、一番大きな神さまに一番近づくのです。

(6)欲望のとりこ、行いのとりこ

 私たちは欲望のとりこになっています。

 おいしいものが食べたい、とか、きれいな家に住みたい、とか、お金がほしい、とか、ほめられたい、とか、えらくなりたい、だとか、いろいろな思いにとらわれています。

 そうしたことを望むことを、神さまは私たちに禁じてはいません。でも、ほしい、ほしい、とそのことばかりかんがえていると、心はそのことでいっぱいになって、神さまのことがどこかにいってしまいます。

 ほしい、ほしい、という欲望の声は、私たちの「ナフス=自我」の声です。自我は、すぐに消えてしまう小さなこと私したちを夢中にさせ、永遠につづく大切なことから私たちの心をそらします。

 私たちはまた、じぶんの良い行いのとりこにもなっています。

 私たちは神さまに近づくためにいろいろ良い行いをします。たとえば、おいのりや、だんじきや、ほどこしをします。でも、そのことばかりかんがえていると、いつのまにか、神さまのためにしていることをわすれてしまうことがあります。

 きょうもたくさんおいのりをした、とか、きょうでだんじきは何日目だ、とか、あの人よりもたくさんほどこしをした、とか、そういうことに気を取られているうちに、なんのためにしているのかわからなくなってしまうのです。それはちょうど、なにか買いたいものがあって貯金をはじめたのに、だんだん貯金することがおもしろくなって、買いたいものがあったことを忘れてしまうのに似ています。

 神さまのためによい行いをしているはずだったのに、その行いがかえって神さまのことを忘れさせてしまっているのです。それではせっかくの良い行いも神さまにはとどかず、ただの自己満足になってしまいます。自己満足とは、わたしたちの「ナフス(自我)」が喜ぶことです。神さまが喜ばずに、じぶんが喜ぶのです。

(7)敬虔さのとりこ

 私たちは、神さまという大目標から私たちの心をそらせる欲望の声をふりきり、自我のでしゃばりをおさえつけて、神さまにむかう道を進めますが、そこには、私たちをとりこにしようと待ちかまえているもう一つのわながあります。

 それは、「なんて私は敬虔なんだろう」、とか、「こんなにも私は神さまに近づいた」という思いです。

 神さまにおわりはありません。おわりのない神さまに私たちが到達することはありません。ですから、こんなに私の信仰は深まった、とか、これだけ神さまに近づけば十分だ、ということは決してありません。いつだってまだまだ先はあるのです。

 神さまは、ときに私たちに、私たちの五感ではとらえられない不思議を明かしてくれることがあるかもしれません。けれども、それに目をうばわれて、そこで立ち止まってはなりません。私たちには進むべき先があるのです。私たちの目標は不思議ではなく、不思議の主(ぬし)なのです。

 私たちは、じぶんの欲望と、じぶんの善行と、じぶんの信仰にだまされてはなりません。神さまはその向こうにいるのです。じぶんの善行や信仰に気をとられているあいだは、神さまからまだまだ遠いのです。

 ほんとうに神さまのことで心がいっぱいだったら、じぶんのことなど忘れて、じぶんがどんな善行をした、とか、じぶんの信仰はどんなだ、とか、そんなことはどうでもよくなって、そのどうでもいいということすらどうでもよくなってしまうはずです。そのときには、神さまに近づこうという思いすらどこかに行ってしまっているでしょう。

 

(8)神さまはいつも一緒

 神さまのような方はほかにはいません。神さまのかわりになるものはいません。

 また、神さまより大切なことはありません。神さまは、私たちがほかのことに気を取られることがあってはならない方なのです。

 神さまはいつもそこにいます。いつも私たちと一緒で、どこにいようとずっと私たちのことを見ています。

 神さまが私と一緒なのは、私が生まれたときからではありません。それよりもずっとずっと前、時間のはじまる前から一緒でした。神さまが私と一緒なのは、私が死ぬときまででもありません。それからずっとずっと先、時間のおわりよりもまだ先まで一緒です。なぜなら、神さまは時間のはじまる前からいて、時間のおわる後までいる方だからです。

 神さまは、私がおぎゃあといってこの世に生まれてくるずっと前から私のことを知っていました。時間をこえた古い古い神さまの知識の中に、私はすでにいたのです。そのときから神さまが私と一緒だったから、今、私はここにいるのです。

 神さまが私たちのそばにいるというのに、どうして私たちの多くは神さまのことに気がつかないのでしょうか。

 それは、神さまは私たちのそばにいるのに、私たちが神さまから遠くにいるからです。ほかのことに気を取られて、神さまのことが見えなくなっているのです。

 もし、私が神さまのほうを向いたら、こんどは私には私のことが見えなくなるでしょう。なにかに夢中になった時にはほかのものは見えなくなるからです。

 私がじぶんのほうを向いている時には、神さまの命令が重荷に感じます。おいのりをきまった時間にしなければいけない、とか、だんじきをしなければいけない、とか、いろいろきまりごとがあってきゅうくつだなあ、と感じます。それは、私が私のナフス=自我のところにいるからです。ナフスが私をしばりつけているから、神さまの命令にきゅうくつを感じるのです。

 じぶんと一緒にいることをやめて、神さまと一緒にいるようになったら、命令は命令でなくなります。どんなことも水が上から下にながれるようにすんなりと自然になるはずです。

(9)信仰

 神さまを信じるとは、神さまにすっかり服すことです。

 神さまにすっかり服すとは、ほかのいっさいのものからはなれることです。

 人は頼りになりません。じぶんも頼りになりません。

 確かなもの、かわらないもの、なくならないものは、なにひとつありません。神さまを信じるとは、まずそのことに気づいて、神さまいがいのものに頼る気持ちをすっかりすてることです。

 確かな信仰とは、心の静けさです。

 人からはなれ、じぶんからはなれ、心を神さまにすっかりあずけた人は、ちょうど風のない池のように静かで、池の周りでどんなことが起こっても、そこに波が立つことはありません。神さま以外のどんなものもその静けさを乱すことはないのです。

 確かな信仰の第一歩は、確かな知識を持つことです。うたがいの心がすっかり消えるまで確かな根拠を調べることです。確かな根拠とは、神さまからの啓示のことばと預言者のことばです。

 つぎに、確信のきざしをじぶんのうちに感じ取り、それを味わうことです。そうなったら、もうことばによる説明や裏づけに頼る必要はなくなります。

 それから、ついには、確信そのものをじぶんのうち見いだし、神さまと共にいるじぶんを、じぶんそのもののうちに消しさってしまうのです。

 そして、じぶんを消しさったところで、私は私に戻るのです。

(10)変容

 他人から解放された私は、神さまのお望みのままにありようをかえていきます。

 そこには、私の意志や力が入り込むよちはありません。私は神さまのなすがままにかえられていくのです。

 はじめ、私の目にうつるのは、ひとびとの多様なすがたでした。

 ところが、あるとき、私は、そのさまざまな人のさまざまな行為の向こうに唯一の神さまがいることに気づきます。

すべてのことが神さまの決定であり、神さまのご意志によってあらわれた神さまの御業であることに、気づくのです。

 それから、私はそこに、神さまの御名のあらわれをみいだします。それから、そこに、その御名のさし示す特徴が、ちょうど日が昇り、光がさしこむようにあらわれるのを、私は見るのです。

 そして、ついにはそこに、すべてから超絶し、大いなる神秘にかくされた神さまそのものを見出すでしょう。

 そのとき、信仰は確信となります。

 私は、他人から解放され、私自身からも解放される中で、知識にもとづいた確信から目撃による確信へと確信を深め、ついには確信そのものとなるのです。

 

(11)神さまの命令を守ること

 神さまは、私たちに、なにが正しくて、なにが間違っているかを教えてくれています。どんなことをすべきか、どんなことをしてはならないか、教えてくれています。それは、すべて私たちのためです。私たちが、神さまによって神さまを求めるようになるためにそれはあるのです。

 神さまによって神さまを求める、とはどういうことでしょうか。

 もし、私たちがこの世とあの世のほうびがほしくて神さまにしたがうのだとすれば、目的は神さまではなく、神さまからのほうびです。

 神さまを求めるのと、神さまからのほうびを求めるのとは、べつのことです。

 神さまは、私たちに、私たちが望んだものをあたえてくれます。ですから、ほうびを望んだ人には、ほうびがあたえられます。一方、神さまを望んだ人には、神さまと、神さまの手のなかにあるほうびと、両方が手にはいるでしょう。

 神さまのところには、神さまにつれていってもらわないと達することはできません。どんなに善いことをしても、また、どんなに敬虔な人に助けてもらっても、神さまにひっぱってもらわなければ、神さまにつうじる橋は渡れないのです。

 私が、じぶんの行いによってではなく神さまによって、また、神さまの手にあるほうびではなく神さまを求めたとき、神さまのおきてはわたしにとって命令ではなく、神さまの証しとなります。そして、私の行いはすべて、神さまの定めたとおりのものとなります。

 私たちは、じぶんには良いことをすることができるし、悪いことをしないことができると思っています。どちらもじぶん次第だと思っています。でも、それは無知による思い込みにすぎません。ほんとうのイスラームの境地に達すると、私たちにはなにかをする力も、なにかをしない力もなく、すべて神さまのなすがままであることがわかります。私たちにできることは、神さまが決めたことを果たすことだけなのです。

 私たちはなにかをしようと望んだり、なにかをしようと選んだりしていますが、それも、じつは神さまがしていることです。

 私たちの心が神さまのもとにあれば、心は良い行いが神さまの御心にかない、悪い行いが神さまの御心に反することを感じ取って、悪いことができなくなります。心が神さまのところにあると、しぜんに良いことがじぶんの中から流れ出るようになるのです。

 一方、私たちの心が神さまのもとをはなれ、私たち自身のもとにあると、私たちはじぶんの弱さや醜さに引きずられて、間違ったことをしやすくなります。神さまが迷わそうと望んだ者は、じぶん自身に頼り、じぶんのせいで道をふみ外していくのです。

(12)神さまの真実

 イスラームの真実は神さまのもとにあります。

 神さまのもとにあるしんじつは、神さましか知りません。ですから、神さまによってしかそこに到達することはできません。

 神さまによらずに、じぶんで知ろうとしても、そのりかいは不完全(ふかんぜん)で、その人の理解したイスラームは不完全です。じぶん勝手に頭だけで理解した真実には、真実の味わいがありません。

 真実の味わいは、じぶんに頼る気持ちをすて、じぶんをそっくり神さまにおまかせしたときに、はじめて知ることができます。

 私たちが神さまを求めるのは、神さまのくれるほうびがほしいからではなく、また、神さまに恐ろしい地獄からまもってもらいたいからでもありません。神さまが真実だから、だから神さまを求めるのです。

 神さまは人間の理解をこえた方です。その神さまをじぶんの知力で理解しようとする思い上がった者を、神さまはその人自身の無知の闇の中に放っておきます。それで、その人は、じぶんの無知によって真実におおいをかけ、真実を見いだせないのです。

(13)時と場をこえた神さま

 神さまはどこにもいません。

 なぜなら、神さまは、時も、場所もこえた方だからです。

 私たちは、この世のできごとを、なんじ、なんにち、なんがつ、なんねん、と時間のくぎりで呼び、後だとか先だとか順序づけしますが、それは思い込みにすぎません。時をこえた神さまのもとでは、後のことも先のこともひとつで、ただそれが神さまの御意志によって先にあらわれたり、後になったりするだけのことです。

 神さまには、昼も夜もありません。きのうもきょうもありません。時間をつくったのは神さまで、神さまは時間の外にいるからです。

 時間のなかに生きる私たちにとっては、きのうのことは近く、去年のことは遠いことです。でも、時間の外にいる神さまにとっては、きのうのことも、去年のことも、ずっとずっとむかしのことも、それから、私たちにはまだ起こっていない遠い未来のことも、同じくらいに近いのです。

 また、私たちはみな、どこかにいます。なにかの上だったり、なにかの下だったり、なにかの近くだったり、なにかから遠くだったりします。でも、それもまた、思い込みにすぎません。

 たとえば、私たち私たちの住む地球が銀河系のどこに位置して、なんという星からどのくらいはなれている、と言うことができます。つまり、地球には場所があります。では、宇宙全体はどうでしょうか。宇宙はどこにある、と宇宙のある場所を示すことはできるでしょうか。できません。なぜなら、あるものの場所を示すためには、それをつつみこむ、それよりも大きな空間が必要だからです。それをもたない宇宙に場所はありません。とすれば、宇宙よりもさらにずっとずっと大きな神さまにも場所はないのです。

 

(14)おきて

 神さまの決めたおきてのことをアラビア語で、「シャリーア」といいます。

 シャリーアとは、水飲み場に通じる道のことです。

 のどがかわいた人は、その道をたどれば、のどのかわきをいやす水に行き着くことができます。神さまのおきても、それをたどれば、私たちを命の泉につれていってくれるのです。

 神さまのおきてとは、私たちがこの世とあの世でしあわせになるためにもうけられたさまざまな枠です。その中には、お酒をのむことやぬすみなど、してはいけないと定められた枠もあれば、おいのりやだんじきなど、決まった時間にするように定められた枠もあります。また、枠にもいろいろ種類があって、かならず守らなければならない枠や、できれば守ったほうがいい枠など、さまざまです。

 一方、真実には枠はありません。「真実」とは、ものごとそれ自体、そのもののことです。

 ものごとそれ自体は、それについての知識を得たところで知ることはできません。なぜなら、知識は、その人の知力に応じた知識にすぎないからです。限界のある知識によってとらえられた真実は、その知識の枠に切りとられた真実で、真実そのものではありません。

 真実は、私たちが私たちの存在のみなもとに立ち戻って、それとひとつとなることによってしか知ることはできないのです。

(15)おきてと真実

 真実を知らないまま神さまのおきてを守る者に、神さまは努力をあたえてくれます。その人は、努力によって知識と行いを得るでしょう。そして、その努力によって獄火から守られます。

 でも、その努力は、じつは、かくれたシルク(多神教)です。なぜなら、その人は、その人自身のところにとどまっていて、じぶんのために努力しているからです。

 一方、真実によって生きる者に、神さまは恵みをあたえてくれます。

 真実とは、天と地と、その間にあるすべてのものがそれによって支えられている神さまの命令です。「あれ」という神さまのひとこと、その上にすべてはあるということです。

 真実によって生き、おきてを守る者に、神さまは神さまの命令の真実を見せてくれます。

 神さまが命令を発する世界、それは唯一の世界です。その世界を知ること、それが信じるということです。それは、理性や感性によって得られるものではありません。それは、信仰によってのみ得られるものです。

 神さまの命令によって作りだされた世界は、多の世界です。そして、その世界を知るとは、おきてを知ることです。

 命令は唯一で、作り出されたものはいろいろです。でも、じつは、命令と、作られたものは、ひとつです。なぜなら、作られたものは、命令が形をとったものだからです。命令は、作られたものの大元なのです。命令はひとつで、作られたものはさまざまです。それは、神さまがほかのどんなものも遠くよせつけないほどに唯一なる御方だからです。

 ひとつの命令は、ひとつの形をとって、ひとつの作られたものをなします。そしてまた、ひとつの命令は、別の形をとって、別の作られたものをなします。2つの作られたものは、ひとつの命令から作られていながら、2つの対立しあう形をもつのです。そうして対立しあういくつもの作られたものの中で、神さまの唯一性はうかびあがるのです。

 命令が形をとったものが作られたものなら、その間には似ているところがあるはずです。ところが、そこにあるのは、むしろ比べることのできないほどの違いです。そうして、作られたものはどれも、それにしかわからないことばで神さまの超越をたたえているのです。

 そのことが理解できない人たちは、互いに互いをけなしあったりします。でも、そうして互いが互いに違っているということこそ、じつは、それらを作った方が、それらのさまざまなあらわれをはるかに越えた高みにいることを示すものなのです。

行いは、さまざまです。人には人のなすべきことがあり、私には私のなすべきことがあり、人がなにをなそうと、それは私にはかかわりのないことです。行いのうらにある意図もまた、さまざまです。

(16)知識を求めること

 神さまについての知識こそ、私たちがもとめるべきものです。

とはいえ、神さま以外の知識も、じつは、みな神さまについての知識です。なぜなら、すべては神さまのひとつの命令が形をとったものだからです。

なにかについて、表面にあらわれたことだけを知っても、その本質をなしているものを知らなければ、それを知ったことにはなりません。

私たち自身の知識は、表面にとどまった知識にすぎません。ほんとうの知識は神さまのもとにあります。ですから、私たちは、神さまについての知識、つまり、真実の知識を神さまに求めなければならないのです。

一方、おきてにかんする知識は、知る必要のあることを、知る必要のある時に求めるだけで十分です。たくさんのことを知ることは、かならずしも良いことではないのです。むしろ、知ることがかえって私たちの害になることすらあるのです。おきてにかんする知識は、それを行うためにあり、たんなる知識のためにあるのではありません。

神さまにかんする知識が増えれば増えるだけ、神さまにたいするおそれの気持ちは増え、いっそう神さまに近づき、いっそう行いは清いものとなります。神さまのことを知った人のささげる一回のおいのりは、神さまのことをよく知らない人のささげる千回のおいのりよりもずっと価値があるのです。

一方、おきてにかんする知識は、それが行いを伴わないものであれば、増えれば増えるだけ、ますます神さまから遠ざかり、ますます思い上がりの気持ちを強めるばかりです。人より物知りであることをじまんに思ったり、神さまのことよりも知識に心がとらわれるようになるからです。

おきてにかんする知識をもって、それを実行する人がいたとしても、その人に神さまにかんする真の知識がなければ、それは知識を実行したことにはなりません。

神さまにかんする真の知識をもたない人は、かくれたシルク(多神教)をおかしているからです。なぜなら、その人は、おもてむきのおきてだけを知って、すべてのものをつかさどっている神さまのほんとうの法を知らないからです。その人は、じぶんもまたその法の上に立っていることを知りません。それで、じぶんでじぶんを動かしていると思っています。それがかくれたシルクなのです。

私たちは、じぶんがなにものであるかを知ったとき、神さまを知り、そして、すべてのことを知ります。そのとき、私たちはあらゆるもののうちに神さまを見出すでしょう。

なにを見ても、そこで神さまに出会うのです。

もちろん、それは神さまに形をあたえることとはちがいます。すべてのものの中に神さまを見るからといって、神さまの超越性がそこなわれることはありません。神さまはすべてのものの上にあらわれています。そして、あらわれていると同時にひめられているのです。

(17)努力の人と恵みの人

真実を知らずにおきてだけによって立つ人は、じぶんを崇拝行為においこみ、その中にじぶんをとじこめます。それは、努力であり、骨折りであり、ぶつかりあいです。それは手に入れるものです。

一方、おきてと真実によって立つ人は、恵みを得ます。それは、さずかりものであり、くつろぎであり、平和です。それは手に入るものです。

努力によって立つ人は、夜も昼も、神さまへの崇拝に熱中します。

真の知識をもたずに崇拝行為をする人は、じぶん自身と、じぶんの行いと、じぶんの行いをささげる神さまとが同じように存在すると思っています。真実を知らない人は、なにをするにしても、じぶんと、じぶんの行いと、そして神さまと、三つをいつも一緒にならべるのです。でも、じぶんとじぶんの行いは作られたもので、神さまは作る方で、三つはならべられるものではないのです。

神さまからの恵みと共に立つ人には、行いも知識もありません。その人からあらわれる崇拝行為も、知識も、神さまからの恵みであって、その人の行いはないのです。なぜなら、行いがあるためには行いをする人が必要ですが、その行いをする人がそこにはいないからです。その人はいないのです。そこにいるのはただ神さまだけです。そこには「三」はありません。それこそ、「タウヒード(ただひとりの神さまだけがいること)」なのです。

真実を知った人のなす崇拝行為は、もはや命令として課せられたものではありません。それは、アッラーからの恵みであり、ねぎらいです。

(18)神さまに至る道

神さまに至る道は三つの段階からなっています。

その第一歩は、神さまの定めたおきてを知ることです。なぜなら、私たちの動きも静止も、私たちの外面的な行いも内面的な行いも、行いにはそれぞれ神さまが定めたきまりがあるからです。神さまから命じられたことをなし、神さまから禁じられたことを止めるためには、神さまのおきてを知らなければなりません。それが、神さまに近づくための第一歩です。でも、そこに留まっていては、神さまからはまだ遠くはなれています。私たちはその先に道を進めなければなりません。

神さまに至る道の第二歩は、神さま以外のものにたよる気持ちをすっかり捨てて、神さまだけにたよることです。

神さまに従うからほうびがあり、神さまに背くから罰があり、食べ物を食べるからおなかがいっぱいになり、感覚があるから感じる、と考えて、手段にたより、それによって安心をえることは、神さまにたよる気持ちのさまたげとなります。ただし、そうした手段を駆使することは、それに心をあずけなければ、神さまにたよる気持ちをさまたげるものではありません。

神さまにたよるとは、すべてのことは、良いことも悪いことも、ためになることもならないことも、みな神さまが作ったものであり、神さまが存在させているのだということを信じることです。どんな手段も、それだけではなんの結果ももたらしません。

神さまを信じ、神さまにたよること、それが神さまに至るための第二歩です。でも、そこで立ち止まっては、わたしたちの目的である神さまにはまだ到達できません。

神さまに至る道の第三歩は、タウヒードです。タウヒードとは、存在しているのは神さまだけであり、なにかが存在するとすれば、それは神さまの存在によって存在しているだけで、それ自身で存在しているわけではない、ということです。ただし、存在しているのは神さまだけだといっても、すべてが神さまの一部ということではありません。なぜなら、すべては虚しく、滅びるものであるのに対して、神さまは真実で、ゆらぎないものだからです。神さまを信じている人でも、その多くは、神さまが存在するようにほかのものも存在すると思い込んでいます。でも、それはかくれた多神教です。

 タウヒードは真実の開示があってはじめて知られるものです。心の目からおおいがとりのぞかれ、ものごとのありのままが見えてくるのです。そして、すべてが神さまによって存在し、神さまによって動き、あるいは静止していることを目撃するのです。

 なお、真実の開示を受けた人には、ふつうは知ることのできない未来のことや、過去のことを知ることがありますが、それに気を取られることは神さまから気がそれることです。

(19)理性による迷い

 じぶんが神さまによって動かされているのではなく、じぶん自身によって動いていると考える人は、理性によって迷わされ、真実から、つまり、天と地を創った神さまから離れていきます。

 理性とは、神さまが人間に光として与えてくれたものですが、ものごとの形をとらえるための知覚です。その理性によって、神さまや預言者や最後の日など、目に見えないことを知ろうとする人は、間違った理解をし、自分でも知らないうちに迷い、そして、人をも迷わせます。

ある人に良いことを望んだとき、神さまはその人に道を示し、神さまがその人を教え導いてくれます。ところが、神さまが良いことを望まなかったときには、その人は道を示されても、心をかたくなに閉ざし、それについて勝手な議論するだけで、理解すべきようには理解しません。そして、そういう人は、宗教は理性とあいいれないものだと考え、神さまを信じる人たちを理性が狂った人たちだと考えます。

理性は真実を理解するための助けとして人間に与えられたものですが、神さまの教えと導きがなければ、理性だけでは真実をとらえることができません。神さまの助けのないところでは、理性はただ不毛な議論にふけり、そうして身を破滅に招くばかりです。

理性だけによって真実を得ようとすれば、私たちは真実の道から足を踏み外すことになります。真実は神さまによって求めるべきです。神さまに求めれば、神さまは導きを恵んでくれるでしょう。神さまはみずからの手で私たちを教え導き、私たちを空(から)にして神さまの前に引き出してくれるでしょう。そのとき私たちは理性のじゅばくを解かれ、無知の闇から救い出されるのです。

(20)欲望による迷い

人はまた、欲望によって迷わされ、来世のことからそれています。

欲望とは、神さま以外のものに執着する心です。天国に入りたいと思う気持ち、火獄から逃れたいと思う気持ち、神さまにしたがう行為をなそうとし、神さまに背く行為を避けようとするこだわり、神さまに近づきたいという思い、これらはみな我欲であり、神さま以外のものへの心の傾きです。そして、それらこそ神さまから私たちを遠ざけるおおいなのです。

そのような我欲にとらわれた人は、たとえ神さまのことを忘れていないとしても、天国の最下位の住人となるでしょう。まして、その人が神さまよりほかのことに気を取られていれば、その人は獄火に永遠に留まることになります。

神さま以外のものを愛する人は、真実から目と耳を封じられ、真実から遠ざけられます。でも、ほんとうを言えば、神さま以外のものを愛する人が愛しているのは神さまです。なぜなら、神さま以外のものなどほんとうはないからです。そのことを知らないから、神さま以外のものを愛していると思い込んでいるのです。愛の対象はいつでも神さまで、それ以外にはありません。ただ、人はそれに気づいていないのです。

欲望によって来世を求めようとすれば、私たちは求めるものからますます外れることになります。来世は欲望によって得られるものではありません。それは、どんな状況においても、表向きも内面も、神さまにのみよって立つこと、つまり、自我の介入を完全に断つことによって得られるものです。なぜなら、神さまの命じることをおこなうのも、神さまの禁じることを避けるのも、じぶんの力によるものではないからです。じぶんの力で神さまの命令を守っていると考えることは、多神教であり、神さまの命令を守らないことよりももっと深刻な罪です。

(21)神さまの英知にたよること

神さまによって神さまにつかえ、神さまによって神さまの命令を守るのでない人は、じぶんの欲望によって神さまにつかえているのであり、その人は神さまのどれいではなく、じぶんの欲望のどれいです。

欲望のどれいとなった人は、神さまのことを知っていても、神さまの真実が見えません。神さまがその人の目をおおい、耳をふさぎ、心をかたくなにするからです。たとえその人に知識があったとしても神さまが彼を迷わせるのです。

私たちは、じぶんの判断ではなく、神さまの英知によってものごとを判断しなければなりません。じぶんの判断力にたよって、それによって判断すれば、神さまのまっすぐな道からそれていくでしょう。

反対に、神さまのおきてについて判断するときも、頭で考えてなにかを決めるときも、普段のなにげない判断のときも、つまり、どんなときにも、じぶんの欲望に従うのではなく神さまによって判断すれば、神さまが正しい道に導いてくれます。

神さまを見えないままに信じた人、神さまの英知と御業はじぶんにはわかりえないのだと心底知った人は、そうしたことについてあれこれ問わず、神さまに服します。理解できなくても、無理にそれを知ろうとはせず、うたがわず、迷いません。神さまが教え、導いてくれるまでじっと待つのです。

そういう人は、神さまの光によってものごとを見、感じ、理解します。神さまの光とは、非在のうちに沈んでいたものを照らし出し、それを存在の場に引き出す光です。神さまの光は、ふつうの光とちがって、色もなければ、くっついたり離れたりすることもありません。永遠の存在者である神さまの不動の光に浸されて、わたしたちの非在は浮かび上がるのです。

神さまの光によってものごとを見る人は、神さまの光を目にし、すべてのものが根本的な非在にあり、じぶんもまたその一部であることに気づきます。

(22)神さまを知った人

神さまを知った人は、その人そのものが光となります。それは、神さまによって見、神さまによって聞き、神さまによって輝き、血の一滴にいたるまで、また骨のすみずみまで神さまによって立つということです。神さまを知った人は、その人自身光となり、すべてのものもまた光となるのです。その人が足場とする光そのものにその人がなってしまうのです。

神さまを見えないままに信じた人は、神さまの光でものを見ますが、神さまを知った人は、神さまによって神さまを目にします。神さまを知った人の目には神さま以外のものはうつらないからです。神さまが立ちふさがり、神さま以外のものは見えないのです。

なにを見ても、そのむこうに神さまがすけて見える人、その人は神さまを知った人ですが、なにを見てもその前に神さまが立ちふさがって見える人のほうがさらに上です。

さらに、なにを見てもそこに神さまを見る人は、そのなにかによって神さまを目にすることを妨げられず、また、神さまによってそのなにかを目にすることも妨げられません。その人は、神さまによって神さまを見、つくられたものによってつくられたものを見、そして、神さまによってつくられたものを見、つくられたものによって神さまを見るのです。

(23)神さまのしるし

神さまを見えないままに信じた人は、地平線の向こうに神さまのしるしを目にします。でも、「じぶん」というおおいの前に立ち止まっているため、じぶんのうちに神さまのしるしがあることには気づいていません。その人は、さまざまな考えに振り回されることから脱し、神さまについての確かな知識を得ていますが、じぶん自身に留まっているため、じぶんの中に神さまのしるしを見出せずにいるのです。じぶん自身から抜け出さないかぎり、神さまの真実は知ることはできません。

じぶん自身に留まっている人に、神さまは、これをせよ、これはしてはならない、と命令を出します。なぜなら、その人は、神さまの御意志のままに転じるさまざまなものごとからじぶんを切り離して考えているからです。じぶんにじぶんを課しているから、それで神さまも命令を課すのです。じぶんで立っていると思うから、これをせよ、とか、これはしてはならない、という神さまの命令に苦痛と困難を覚え、じぶん自身の中でじぶんとじぶんがぶつかり合うのです。

そういう人は、来世では、神さまから清算を受け、行いが秤にかけられ、恐ろしい思いで火獄の上にかかった橋を渡り、身の縮む思いで行いの書を受け取るでしょう。

一方、地平線の向こうに神さまのしるしを見るように、じぶん自身のうちにも神さまのしるしを見る人は、神さまこそ真実であると知り、その前にすっかりじぶん自身を消し去ります。その時、神さまは、その人のことを引き受け、外面も内面もそっくりその人のことを思いのままにします。そうなれば、神さまの命令は義務として課せられたものではなくなります。その人が神さまの命令にしたがうことも背くことも、みな神さまが決めたままに起こるだけのこととなります。すべてのものは神さまの御意志のままに生起していますが、その人もまた、その一部となるのです。その人が神さまの命令にしたがうのも背くのも、神さまになされるがままですから、義務も苦難もありません。

そういう人は、来世では清算なしに楽園に入り、行いは秤にかけられることなく、気づかないうちに橋を渡り、悲しむことなく行いの書を受け取るでしょう。神さまに守られた者には、不安も悲しみもないのです。

(24)神さまを求める人

神さまが身柄を引き受け、味方となるのは、すっかりじぶんから消え去った人だけです。その人にはもはや動きも、静止も、存在も、神さまによらずにはなにも残っていません。そして、そのとき、神さまは、神さまの真実によって、その人を真に存在させるのです。

そうでない人は、神さまに敵対する自我によって支配されます。

私たちは、じぶんの自我に敵対しなければなりません。自我と闘った人は救われ、それにしたがった人はほろびるのです。

じぶん自身によっておおいをかけられ、見えないままに信じる人は、神さまだけでなく、じぶんも存在すると考えます。神さまの恵みがじぶんに降り注がれ、神さまの御意志にじぶんが沿わせられていることに気づいていないのです。

そういう人は、神さまを求めます。求める人は、求めるものの大きさに応じて、その求める気持ちも大きくなり、それだけ辛いものとなります。ですから、神さまを求める人は、神さまが大きいだけに、辛さもまた一層大きなものとなります。

だれもが神さまを求めていますが、それに気づかず、なにか別のものを求めていると思っています。なぜなら、ほんとうのところは神さましか存在しないからです。

自我が消え去った人は、すべてのもののうちに神さまを見いだします。すべてのものが消え去り、ほろびゆくものであることを目にし、じぶんがいつでも神さまを、それに気づいていないときでさえ、求めていたことに気づきます。

一方、自我がそばに留まっている人は、すべてを目にしますが、決して神さまを見いだせません。そのため、じぶんが神さまを求めていることにすら気づかないでいるのです。

(25)神さまから求められる人

 あなたがじぶんから消え去ったとき ―そのとき、あなたは、あなたではなく、あなたのうちにある神さまのしるしを目にし、それに目をうばわれ、あなた自身から離れ出るのです― 、あなたは求める人ではなく、求められる人となります。

 でも、じぶんから消え去るといっても、じぶんで望んで、じぶんの意志でそうなるのではありません。神さまが望んだとき、神さまがあなたをそのようにするのです。神さまが慈悲を注ごうと望んだとき、それを止めることはだれにもできません。また、逆に神さまが慈悲を取り上げようと望んだときには、だれもそれをもたらすことはできないのです。

 じぶんから消え去るとき、あなたは神さまに求められた人です。神さまは、あなたを望んだから、あなたをあなたから消し去ったのです。神さまはあなたを恩寵で包み、あなたをご自身の許にぐいと引き寄せたのです。神さまはモーセに言いました、「われは、われ自身のものにおまえを作り上げた」(クルアーン第20章41節)。

 じぶんから消え去り、神さまの許に留まった人は、神さまにつかえる行為を厭いません。一方、じぶんに留まった人は、それを厭います。じぶんを神さまとならべ、思い上がっているからです。

(26)目撃者となること

 じぶんがじぶんで存在すると思っている人は、じぶんというおおいによって神さまからへだてられ、それで神さまが見えず、見えないままに神さまを信じています。

神さまがいることをいつでもどんなときにもはっきりと知るためには、じぶんをじぶんから消さなければなりません。

 じぶんがじぶんで存在しているという思い込みから目がさめた人は、じぶんがずっと前から神さまによって存在していたけれど、それに気づいていなかったのだということに気づきます。気づいていなかったから、見えないままに神さまを信じるだけにとどまり、神さまの目撃証言をこばんでいたのです。

神さまによって存在するというほんとうの在りかたに気づいた人は、神さまを見えないままに信じると同時に、その目撃者となります。

 目撃証人となった人は、目にしたことについて語ることが義務となります。見たことをかくし、それについて黙っていることは罪になるのです。

(27)神さまそのものによって支えられること

 すべてのものを動かす神さまの命令によって動かされながら、じぶん自身にとどまり、命令の場を目にすることのない人は、神さまを見えないままに信じる人です。一方、命令を支配する神さまによって動かされる人こそ、神さまを知った人です。この二人の間には、大きな違いがあります。

 神さまの命令によって支えられ、それに気づかない人は、打ち負かされています。神さまが上から押さえつけているのです。一方、神さまによって支えられた人は、押さえつけられてはいません。

 神さまの命令こそがすべての被造物を支えるものですが、それは神さまの一側面にすぎず、神さまそのものではありません。神さまそのものに支えられた人は、神さまの一側面に支えられた人よりも一段上なのです。

 神さまそのものに支えられるとは、どういうことでしょうか。それは、私たちがじぶん自身から消え、神さまの多くの特徴の海にどっぷりと身をしずめ、神さまのさまざまな名前の大波にさらわれて、神さまそのものの岸辺に打ち上げられるということです。

 神さまそのものの岸辺に打ち上げられた人は、そのとき、じぶん自身よりも神さまを選びとったのであり、神さまがその人の場にとってかわっているのです。神さまそのものが前面に立ち、その人は神さまに満たされ、神さまがその人そのものとなるのです。

(28)神さまの命令によって立つことと、神さまによって立つこと

 神さまの命令によって立つ人は、神さまの特徴に支えられ、神さまの名前に支えられた人で、そういう人は人々の上に立ちます。そして人々はその人にしたがうでしょう。

 そういう人にはすべてが思いどおりになります。神さまにつかえることも、知識も、糧もかんたんに手に入るでしょう。

 だから、その人が神さまの命令によって立つのは、神さまのためではなく、じぶんのためです。それで、その人自身がじぶんに決まりごとを課しているのです。

 でも、それがじつは、その人を神さまから遠ざけるおおいになっています。だからこそ、その人と神さまの間にあるいろいろなことは、その人の思いどおりになるのです。その人は神さまの命令によって立ちますが、その命令はその人と神さまをつなぐものです。つまり、その人がやすやすと応える命令は、その人と、その人がめざす神さまの「あいだ」にあるのです。

 神さまの命令によって立つ人の前に、ものごとは、神さまの命令にしたがって順序よくならびます。そして、その人は、それらを原因だとか結果だとか名づけます。先に来たのが原因で、後から来るのが結果です。すべてはその人の都合のいいように運び、ものごとはその人に味方するでしょう。ほんとうはそれらは神さまの命令にしたがっているだけですが、その人は、それらがじぶんにしたがっているような気になります。

 一方、神さまの真実を目にし、神さまによって立つ人の前に、ものごとはばらばらに散り乱れています。その人は、それらを原因だとか結果だとか名づけません。すべてのものはその人にしたがいますが、それはその人にではなく、神さまにであることをその人は知っています。それは、その人が、それらのものごとに向かって命令を発する神さまとつながっているからです。

 (アーダムに跪拝した天使たちと、跪拝を拒んだ悪魔イブリースの違いもそこにあります。)

(29)忍耐

 神さまにいたる道の最初のステップは、忍耐です。

それは、苦しいこと、辛いことがあっても、人に不平をもらすことなく、見かけも心うちも定めに服し、辛い思いをぐっと飲み込むことです。そして、いらだつことなく、我慢しているとすら感じないのです。

 そのような心境は、神さまに夢中になった人でなければ得られません。神さまに夢中になった人は、じぶんが逆境にいるとか順境にいるとかの自覚もありません。そのような心境は、神さまの助けがあってはじめて得られるものです。

 忍耐とは、神さまの望みに服すということです。なぜなら、良いことも悪いことも神さまが望み、選び、起こすのであり、神さまが望んだこと以外なにも起こらないからです。

 私たちが我慢してもしなくても、それで辛いことが増えるわけでも減るわけでもありません。いらだったとしても、なにもかわりはしないのです。

 神さまは、忍耐を与えようと決めた人に忍耐を与えます。いらだちを与えようと決めた人には、忍耐ではなくいらだちを与えます。私たちは、神さまの決めたことが起こる場にすぎないのです。神さまが望めば、それは起こり、それにあらがうことはできません。すべては、神さまの命令に従っているのです。

(30)神さまの命令

 神さまは、私たちに、神さまを信じよ、と命じます。礼拝せよ、と命じます。でも、その命令にこたえて神さまを信じたり、礼拝をすることは、時のない昔にすでに神さまの命令によって決まっていることです。時のないはるか昔に神さまが発した命令にこたえて、私たちは今、神さまの命令どおりに礼拝したり、神さまの命令どおりに礼拝を怠ったりするのです。

 「神さまの命令どおりに礼拝を怠る」などという言い方を私たちはしませんが、「すべては神さまの御許から」とか「神さまこそすべてを創った御方」というのはそういうことです。良いことも、悪いことも、この世で起こることはすべて、時を越えた昔に神さまがふりわけたことで、ものごとはその命令に従って起こり、それに反することはできません。神さまが、「あれ」と言えば、私たちにはその命令どおりにあることしかできないのです。ただし、神さまは私たちの目からそうした命令と定めを隠しています。ですから、私たちにはそれを言い逃れにつかうことはできないのです。

 「あれ」という命令によって、ある人は神さまを否定し、ある人は礼拝を怠ります。神さまを信じよ、礼拝せよ、という預言者を通じた神さまの命令は、「あれ」という命令が具体的な形を取って実現するためのきっかけにすぎず、預言者がたずさえてきた良い便りも警告も信仰が定められた幸せな人のためにあります。信仰の否定が定められた不幸な人は、警告があろうとなかろうと、いずれにせよ信仰を否定するでしょう。彼らに警告がなされるのは、知らなかったという言い逃れを封じ、警告されたのに聞かなかったという事実が確定するためにすぎません。

 真実とは、この「あれ」という神さまの命令を知り、神さまに従う人も神さまに背く人もどちらもほんとうのところは神さまに従っているのだということを知ることです。

(31)満足、そしてされるがままに

 神さまにいたる道の第一のステップ、忍耐のつぎにあるのは、満足です。それは、神さまが望んだことに満足し、それを心しずかに受け入れることです。つまり、良いことでも、悪いことでも、なんなく受け入れて、心に無理がないことです。

 そういう人に神さまは満足し、彼らも神さまに満足します。そういう人は、心おだやかで、神さまの満足だけを求め、神さまに満足していますが、彼らが神さまに満足しているというのは、じつは、神さまが彼らに満足しているということなのです。

 神さまがお望みになることは、すべて良いことです。そして、人は、良いことにしか満足しないものなのです。

 人のたましいは、そのひとつひとつが神さまの世界であり、そのそれぞれはいくつもの神さまの世界からできています。神さまの真実に目覚めた人の世界はそのひとつひとつが天使からなり、それらの天使たちは神さまの神聖さをたたえています。一方、神さまのことを忘れた人の世界はさまざまな姿かたちで動き回るシャイターンからなっています。そこでは天使たちはくさりにつながれていますが、つながれた状態で神さまをたたえ、その讃美のひとつひとつから天使が生み出されています。

 さて、忍耐と満足のステップをへて、最後に行きつくステップは、神さまのお望みのままにあることです。そこには、忍耐も満足もありません。この最後のステップに行きついた人には、なにか困ったことがあって、それに耐えるということもなければ、なにかうれしいことがあって、それに喜ぶということもないのです。どちらも神さまが時をこえた昔に決めたことにそって起こっただけのことだからです。

その人からはその人自身の特徴は消え去り、そこには神さまの特徴があらわれるでしょう。

(32)知識と行為

知識と行為は神さまに至るための通り道です。

知識とは、神さまがなにを命じ、なにを禁じているかに関する知識、なにを信じるべきかに関する知識です。それらを知ることは行為への一歩です。行為とは、まず、そうした神さまに至るための知識を得ようと努力することです。

知識は行為につながっています。知識を持った人には、かならずその知識にもとづいた行為があるのです。

信じることも行為のひとつです。たとえば、姦通が禁じられていると知った人にとって、それを避けることは知識にもとづいたひとつの行為ですが、それが禁じられていると確信することもまたひとつの行為です。

禁じられている姦通を、禁じられていると知りながら犯したとしても、だからといってそれが禁じられているというその人の確信が失われたわけではありません。それが禁じられていると信じることは、それを避けることよりももっと大切なことです。なぜなら、禁じられたことを避けるのは手足による行為ですが、それが禁じられていると信じることは心の行為で、その確信を失うことは神さまを否定することだからです。

手足の行為にしっぱいしたとしても、それが知識をそこねるわけではありません。でも、神さまがなにを禁じているかを知っていながら、その禁止を信じない人、つまり、知識に心の行為をそわせない人は、なにも知らないで偶像につかえている人よりももっと悪いのです。

(33)行為と知識

神さまがなにを命じ、なにを禁じているかを知ってそれを信じ、その知識にもとづいた行為を神さまだけをめざして行うことは、さらなる知識、つまり、真の知識である神さまの知識にいたる通り道です。神さまから送られた御使いによってもたらされた知識にもとづいて行動する人に、神さまは、神さまの御許から直接に、神さまにいたる知識をあたえてくれるのです。

神さまが決めたきそくに関する知識は学ぶことによってえられますが、神さまからの知識は、学んでえられるものではありません。なぜなら、それは神さまごじしんに関する知識だからです。

確かに、神さまに関する知識には、学んで得られるものもあります。でも、それは、目のみえない人が色とはどんなものかを教わって知るようなものです。その人にできることは、目のみえる人からの説明をそのまま信じて受け入れることだけで、ほんとうに知ることはできません。神さまについても同じです。神さまの御使いの言うことを信じて神さまのことを知ったとしても、その人は、ほんとうのところは神さまのことをまるで知らないのです。知らない神さまについて頭でいろいろ考え、じぶん勝手に理解したとすれば、その人は正しい道からはずれたことになります。それは御使いの伝えた知識にもとづくものではありません。

そのようなものと、神さまによって明かされた、あらゆるもののうちにあらわれた神さまの真実に関する神さまの御許からの知識は、まったく別のものです。

(34)学んで得た知識と与えられた知識

 神さまの本質にかかわる知識の持ち主は、預言者たちの相続人です。

預言者たちの知識は神さまから贈りものとして与えられた知識であり、学んで知られたものではありません。一方、神さまのおきてに関する知識は、それも預言者の知識ではあるのですが、人から人に教え伝えられ、教わることによって得られるものです。

 神さまそのものの知識は人の仲介なしに、神さまから直接に与えられるもので、だれもがそれを手にするわけではありません。それは、神さまによって生き、じぶんを捨てて神さまに身をあずけ、内面も外面もじぶん自身によってではなく神さまによって立つ人にだけ与えられるものです。

 その知識は、決して死ぬことのない生きた神さまから、決して死ぬことのない生きた人に与えられる知識なのです。

 学んで得た知識を持った人は、預言者の知識の単なる運び手にすぎず、ほんとうに知った人ではありません。神さまそのものの知識を持った人こそ、ほんとうの意味で「知った人」なのです。なぜなら、その知識はその人がじぶんで得たものではなく、神さまから与えられた神さまの知識だからです。

 クルアーンの中に、『アッラーのしもべのうち学者たちこそが彼を畏怖する』ということばがありますが、ここで言われる「学者」とは、神さまからの開示によって神さまを知った人たちのことです。神さまを知らない人に、どうやって神さまをあがめおそれることができるでしょうか。

(35)じぶん自身を知ること

 勉学による知識はじぶんで学んで身につける知識ですが、じぶんがなにものであるかに関する知識は学んで得られるものではなく、与えられて悟るものです。

「おのれを知った者はおのれの主を知ったのである」という預言者のことばがありますが、どうしたらじぶんを知ることはできるのでしょうか。

知識は行為への道ですが、行為はさらなる知識への道です。勉学によって得た知識にしたがって行為をなす人は、それによってじぶんじしんがなにものかを知るのです。つまり、勉学による知識がじぶんじしんの知につながっているのです。わたしたちが学ぶのは、じぶんじしんを知るためなのです。わたしたちが学ぶ目的はそこにあるのです。

神さまの御許からの知識は、神さまを知る通り道です。なぜなら、神さまのほかに神さまのことを知るものはないからです。

神さまは、神さまの御許からの知識を、それを与えようと望んだ人に与えます。一方、神さまが私たちに学ぶように命じる知識は、神さまを知ることはできないという私たちの限界を私たちに気づかせるためのものです。そこで私たちは立ち止まって、神さまにたいしてじぶんがどうふるまうべきなのか、神さまをどのようにおそれたらいいのかを学びます。そして、神さまにたいしてふるまうべき態度を身につけ、神さまにたいして持つべきおそれの気持ちを持ったとき、神さまはその人に、その人がなにものかを教えてくれるでしょう。そのとき私たちはじぶんがなにものかを、じぶん自身によってではなく、神さまによって知るのです。

(36)神さまにいたる六つの道

神さまの御許から与えられた知識によって神さまを知った人には、それまで見えなかったものが見えてきます。その人からはうたがいや迷いのおおいが取り除かれるからです。

神さまの真実が明らかにされた人は、その真実の中に消え去り、しもべであるじぶんも、それ以外のものも、すべて消えてなくなります。そこにあるのは真実なる御方だけとなります。それこそが神さまに到達するということです。

神さまに至る道には六つの段階があります。

まず第一は、神さまの決めたきまりにかんする知識で、それは学びとるものです。

第二は、その知識にもとづいた行いです。それは神さまだけをめざしたものでなければなりません。また、そこにじぶん勝手なやり方をまぜることがあってもなりません。

第三は、神さまだけをめざした行いの結果として神さまから与えられる、神さまの御許からの知識です。それは努力して得られるものではなく、神さまからの助けによるものです。神さまの助けによって、その人は神さまにぐいと引き寄せられるのです。きまりにかんする知識を得ることや、それにしたがった行いをすることは地道な積み上げですが、神さまの御許からの知識は、一度にふいっとやって来るものです。それはめったに起こることではなく、どうしたら得られるという法則性もありません。知識と行為を汲み尽くしたすえに神さまにぐいと引き寄せられるのです。

第四は、神さまを知ることです。

第五は、神さまの真実がさまざまなあらわれにおいてあらわれることです。

そして、第六は、理性でとらえるあらゆるもの、感覚で感じ取るあらゆるものに対して消え去ることです。そのとき、個々の魂のこんせきは消えてなくなっているでしょう。

(37)愛すること、愛されること

他人から解放されたものの、じぶん自身から解放されていない人は、まだ愛される人ではなく、愛する人です。

クルアーンの中に、『彼が愛し給い、また彼らも彼を愛する』(第5章54節)ということばがありますが、もとにあるのは神さまの私たちに対する愛です。私たちは神さまを愛しますが、それは神さまが私たちを愛しているからであって、私たちが神さまを愛するのはその結果にほかなりません。

神さまのことから気がそれ、他人のことに気を取られているかぎり、人はじぶん自身にとらわれていますが、他人というおおいが取り除かれると、他人に気を取られることがなくなります。すると、その人は神さまのじぶんへの愛をよくよく思い知り、じぶんのうちにも神さまへの愛があることに気づき、神さまを愛するようになります。

すると、神さまは、その人にすべてのものごとの秘密が明かしてくれるでしょう。神さまの愛の中に身を沈め、消え去った人に、神さまはご自身を明かし、その人は、神さまがじぶんを愛してくれていること、つまり、愛しているのは私たちではなく、神さまなのだということを知ります。

言ってみるなら、太陽がわたしたちを愛していることに気づくようなものです。太陽は月の上にその輝きをあらわし、私たちは月の輝きを愛しますが、それは、実際には私たちを愛する太陽の光にほかなりません。こうして私たちは神さまに至り、神さまの前におもむくのです。

(38)正しい人、心ある人

じぶん自身を神さまへの愛の中で消し去らないかぎり、その人にとって神さまの顔はおおいにかけられたままで、神さまに至るとびらが開かれることはありません。たとえ、神さま以外のすべてから消え去ったとしても、じぶんの中にじぶん自身がちょっとでも残っていては、神さまのひみつは明かされないのです。

あなたがじぶんの中に残ったじぶん自身までも消し去ってしまおうとすれば、神さまはその努力を手助けし、ついにはじぶん自身からも消え去るでしょう。そのときはじめて、あなたは神さまにふさわしいように正された人となります。神さまにふさわしい人となったあなたには神さまがより添い、神さまが万事うけおってくれます。神さまにふさわしい人とならない限り、神さまはより添ってはくれません。

さて、神さまにふさわしく正された人の反対は正しい道から外れた人です。それは、神さまがいながら、その神さまにならべてじぶんを置き、じぶんをよりどころとした人です。わたしたちは、神さまをよりどころにするよう正しい本性をあたえられて生まれてきます。ところが、じぶんの手であれをしたりこれをしたりするうちに、いつの間にかその正しい本性をだいなしにしてしまうのです。心がだいなしになれば、体もだいなしになります。

「ナフス(自我)」にとらわれた人は、なにを見てもそこに神さまからのしるしを見てとることができません。そこに神さまからのしるしを見てとることができるのは、心ある人だけです。それは、ナフスではなく、神さまをよりどころにする人です。その人に神さまは神さまのひみつを明け渡してくれます。わたしたちは、そして、わたしたち以外のどんなものも、そのひみつによって神さまから生まれ出ているのです。そのひみつとは、あらわれたもののうちに隠れたもっとも聖なる神さまの本質です。そのひみつが託されたとき、目にかけられたおおいはとりのぞかれ、「神さまと私」という二つのものに隠れていた神さまの唯一性はあきらかになります。

(39)タウヒードの完成

神さまにいたる道をたどる私たちに、じぶんのものと呼ぶような動きが、心の動きにしろ、体の動きにしろ、残らずなくなったとき、そのとき、私たちは、ちょうど中を水が流れる雨どいのようなものとなります。なにもないところから生じ、なにもないところに帰っていくさまざまな動きがじぶんの中を通り過ぎるにまかせ、いっさい手出ししないのです。

じぶんの心と体の動きをじぶんのものと呼ぶのはごく当たり前のことで、そこから脱するには神さまの助けが不可欠です。神さまの助けによってじぶんの動きをすっかりなくしたとき、私たちはじぶん自身のうちに神さまの働きを目にします。じぶんによってではなく、神さまによってじぶんが動くのを見るのです。そのとき、神さまについてのゆらぎない信仰は完全なものとなるでしょう。

そのとき、そこには私の存在はもはやなにも残っていません。お酒がお酢に変わったとき、そこにお酒は一滴も残っていないのと同じです。けがれたお酒はなくなって、清らかなお酢があるだけです。見た目には同じ液体でも、その特徴は別のものにすっかり変わっているのです。そこにはもう欠点だらけの私はいません。いるのは、完全な性質をそなえた神さまだけです。いるのは、神さまを見つめる神さまです。そのときこそ、タウヒード、つまり神さまを唯一の御方とすることは完成するのです。タウヒードとは、私も、私以外のどんなものも存在せず、存在するのはただ神さまだけだということです。

神さまを唯一の御方とするそのときに、そこに私がいるとすれば、その私の存在はタウヒードの完成をじゃまするものです。私がいなくなって、はじめてタウヒードは完成するのです。

(40)心の人

心が光にとりまかれた内面の人、それはものごとの真実を明かされた人です。そのような人は、いたるところで神さまを確信します。どんなときにも、その人から神さまがいなくなることはありません。心の人は、その心のうちで、神さまによって、神さまを見つめているのです。そういう人の心は、なにを見ても、そこに神さまを見ることができます。ちょうど、その人の目が、神さまによって創られたもののさまざまな形のうちに神さまのあらわれを見ることができるようにです。

内面によってものごとを見る人は、ものごとの内側にあるもの、つまり、神さまのお顔を見るのです。一方、外面によってものごとを見る人は、いずれこわれてなくなる外側を見ているにすぎません。この世の外側だけを見る人は、来世のことを知りません。この世の外側にあらわれたものしか見ない人は、来世で、神さまだけが真実であり、この世のすべては神さまから気をそらす神さま以外のものであったことに気づくでしょう。

この世にあるものは神さまと並ぼうとするものばかりですが、来世では、神さまと並ぼうとするものはなく、すべては神さまによってあります。ですから、この世にあるものは、神さまのことを思い出すことをのぞいて、みな、むだな気晴らしにすぎません。

神さまの御使いのことばに次のようなものがあります。「人間のたわむれには三つのこといがいは禁じられている。その三つとは、射撃と乗馬と夫婦でむつみ合うことである」。射撃と乗馬は、敵を追いはらい、害を取りのぞくためのものです。夫婦のむつみあいは子供を残すためです。それらもみな気晴らしですが、神さまから気をそらすものではなく、神さまにささえられた気晴らしです。それ以外の、神さま以外のものをよりどころとした生活は、私たちには禁じられたものなのです。

(41)死ぬまえに死ぬこと

神さま以外のものをよりどころとした現世の生活は禁じられたものであり、そのような現世よりは来世のほうがずっとすばらしく、永遠につづくものです。一方、神さまをよりどころにした生活は、もはや現世ではありません。すでにそれは、けっして終わることのない永遠の生活です。ただ、そこに住んでいる人が、あるところから別のところに移るだけのことです。なぜなら、その人はあらゆるもののうちに神さまを見ているからです。

欲望や悪のゆうわくという敵との戦いにおいて、神さまへの愛のうちにじぶんのナフス(自我)を殺した人、その人こそ、神さまのもとに戻った人です。

神さまの御使いのことばに、「死ぬまえに死になさい」というものがあります。さけられない死がおとずれるまえに、じぶんから進んで死になさい、ということです。そのような死をえらばない人はみな、神さまから気をそらすものでしかない気晴らしの現世によって神さまの真実をおおいかくした人です。

死ぬまえに死んだ人は、神さまの地において、神さまへの信仰のあかしとして死んだシャヒード(殉教者)であり、気晴らしや娯楽にうつつをぬかしている人たちをよそに、永遠の生を生きているのです。

(42)確信の人と信仰の人、そして、その心にゆらぎが生じるとき

神さまの命令や禁止に関する知識に深く通じていたとしても、じぶん自身やじぶんの身体によって神さまの真実から気がそれ、真実からおおわれた人は、神さまの命令を果たすにも、神さまの禁止を遠ざけるにも、つねにじぶん自身をよりどころにしているのであって、神さまにしっかりと目を定めて祈り、呼びかけているのではありません。そうではなく、じぶん自身の許にとどまって、神さまを見えないままに信じているのです。その人の信仰は、ちょうど目の見えない人が色を信じているようなものです。そういう人は、じぶん勝手に、じぶんの理性をよりどころに、神さまのほうにまなざしを向けていますが、ほんとうは神さまが見えていません。神さまによって神さまを見ていないから、神さま以外のものしか見えないのです。そういう人は、遠いところから神さまに呼びかけているだけで、少しでも神さまから離れれば、たちまち神さまの恩を忘れてしまいます。そういう人は見えないものを信じているだけであって、ものごとのすべてにおいて神さまと共にいて、神さまにゆらぎない確信をもっている心の人とは違うのです。

ただし、心の人にも、神さまに由来しない内的、あるいは外的な動きが起こることがあり、そんなときには確信にゆらぎが生じます。というのも、その人はそのとき、ほんとうは神さまのものである心をじぶん自身の許に引きよせてしまっているからです。逆に、なにごとであれ、それを見つめる心に神さまの目撃以外のどんなものもよぎることなく、ただ、ひたすら神さまによって神さまだけを見つめるとき、その人の確信はまったきものとなります。そのとき、その人の目には神さま以外のものはなにも見えず、神さまの真実しか見えなくなります。そのとき、その人は、あらゆるものをじぶんの目によってではなく、真実の目によって見ているのです。

一方、信仰の人は、神さまの命令によらない動きが起こったときに信仰にゆらぎが生じます。その人はそのとき、神さまの命令ではなく、じぶん自身に従って心が動いたことに気づきます。逆に、じぶん自身ではなく、神さまの命令によって心が動いたと感じたとき、―すべてのものごとは、私たちが意識しようとしまいと、じつのところは神さまの命令によって動いているのですが― そのものごとを神さまの命令以外のものに由来付けることを止めたがゆえに、その人の信仰はまったきものとなるのです。

(43)確信の人と信仰の人

神さまを確信した人の心にその人自身による動きはありません。なぜなら、その人はその人のところにはいないからです。その人は神さまの許にいて、そこにいるのは神さまだけだからです。ですから、その人の確信にゆらぎはまったくありません。その確信にゆらぎが生じるのは、その人の心に動きが生まれたときです。そのとき、その人はじぶんのところに戻ってしまっているのです。

一方、信仰の人の心は動いたり、動きを止めたりします。なぜなら、その人はその人自身のところにいるからです。もちろん、その人は神さまを信じていますから、動くのも静止するのも、じぶん自身によってではなく、神さまの命令によっています。そして、その人の心の動きに神さまの命令によらない動きが起こったとき、その人の信仰は不完全なものとなります。そのときその人は、じぶんの存在が神さまの命令によって支えられていることを忘れて、じぶん自身で支えているような気になっているからです。神さまの命令に従って動くかぎり、その人の信仰は完全です。その人は、信仰者としてあるべきままに、神さまの命令によって立つすべてのものの流れにじぶん自身を委ねているからです。

神さまだけを見つめ、神さまだけが存在していることを目にする人の心に、神さま以外のものがよぎったとき、それは神さまに対する反逆であり、神さまに対する不信仰です。なぜなら、不信仰(クフル)とは、神さまの真実をおおい隠すことであり、神さまだけを見つめる人にとっては、どんなものにおいても神さまがおおわれることなくすっかりあらわれているからです。ですから、ほんの少しでも神さまがおおわれれば、それは神さまに対する不信仰におちいったに等しいのです。

(44)天使たちがアーダムへの跪拝の向こうに見ていたもの

神さまは、私たちのそれぞれに、それぞれの能力にあったものを背負わせます。私たちのだれにも背負える以上のことをつとめとして課すことはないのです。

神さまは、シャイターンの父祖イブリースと天使をこころみて人間アーダムに向かって平伏するよう彼らに命じました。イブリースはジンの仲間でしたが、天使の間に立ちまじって確信の境地を得ているようにふるまっていました。「もし、おまえたちがわれにゆらぎない確信を持ち、どんなもののうちにもわれを見つめ、どんなおもてにあらわれたことにおいてもわれに反抗しないのであれば、この新たにあらわれたものに向かって平伏し、その確信がほんものであることを明らかにしてみせよ」。それが神さまが求めたところでした。

すると、天使たちはいっせいに、アーダムというこの作られたおおいを通して、その向こうにあらわれた神さまに向かって平伏しました。こうして天使たちは、彼らが確かに確信の境地にあることを明らかにしました。彼らは神さまを見つめることに夢中で、神さま以外のものが目に入っていないことをみごと証明してみせたのです。

一方、シャイターンは、自分が確信の境地にあることを天使たちに強調し、それを彼らに教える立場にあるかのようにふるまっていましたが、「アーダムに向かって平伏せよ」という命令をこばみました。それは、彼がじつはその境地に達していないこと、つまり、神さまだけを見つめることから気持ちがそれていたことを明らかにするものでした。

「この私が、あなたが泥から創った者に向かって平伏するのですか」、そうイブリースは言い返しましたが、実際に彼が平伏を命じられたのはアーダムに向かってではなかったのです。そうではなく、あらゆるもののうちにあらわれた神さまに向かってだったのでした。もし、シャイターンが、ほんとうに彼が言うように神さましか見えない境地にあったとすれば、天使たちのように即座に神さまの命令にこたえていたでしょう。こうして神さまは、イブリースが口で言っていたことがほんとうではなかったことを、じぶん自身の行為によって明らかにさせたのでした。

(45)信仰の人と確信の人

すべてのものごとは神さまの命令によって起こるのであり、それらは神さま以外のもので、そのうしろに神さまがいると感じている人、それが信仰の人です。その人は、神さまを見えないままに信じているのです。

そして、あるものごとが神さまの命令によるものではないと感じることがあったとき、その人は、体をつかってなにか悪いことをしたわけではなくても、神さまにそむいたことになります。そむいたからといって、不信仰におちいったということではありません。ただ、信仰が不完全なものとなったということです。

(神さま以外の)すべての存在が神さまの存在に支えられていると感じることが信仰の完成ですが、神さまだけを見つめる心の人、つまり、存在するのは神さまだけと知った確信の人からみれば、それは不完全です。不完全ですが、だからといって不信仰というわけではありません。ただ、ふつうの信仰深い人にとっては良いことでも、もっと近くで神さまにおつかえする人にとっては悪いこととなるものがあるということです。

(46)愛の人

神さまが命じたことをおこない、神さまが禁じたことを遠ざけ、そうすることにおいてただひたすら神さまを目指す人、そういう人は、昼も夜もどんなときでも神さまをおそれる努力の人です。その努力をやめたとき、その人は罪人(つみびと)となります。たとえ、おそれるべき方が真の神さまであるとその人が思っていたとしてもです。そう思う気持ちすらなければ、それは不信仰です。神さまをおそれる気持ちをなくしたとき、人は、罪人か不信仰の人となるのです。

神さまをおそれるこの境地は、信仰を持った人のふつうの境地で、知識と行いの人の境地です。

一方、すべてのものを愛の目によって見る人、その人の目には、神さま以外のすべてははかなくほろびゆくものでしかなく、その人がすべてに対して向ける愛は、じつはそこにあらわれた神さまに対する愛にほかなりません。そのような愛の人は、この世のこともあの世のことも、目に見えることも見えないことも、どんなときでもすべてを神さまにすっかりおまかせした人です。

愛は、神さまの真の知識のいくつもの段階のはじまりであり、知識と行いのいくつもの段階のおわりです。知識と行いから愛は生まれ、愛から真の知識は生まれるのです。

知識と行いの人は努力をします。一方、愛の人は努力を捨てます。というのも、その人は、自分の愛する方、つまり、じぶんに対しお望みのことをなし、お望みのことを決める方にすべてをおまかせするからです。もし、その人が、ほんの少しの間でも神さまにおまかせするのをやめて、じぶんでなんとかしようとする気持ちを起こしたなら、その人はもはや愛の人ではなく、神さまをおそれるふつうの信仰者の境地に戻ってしまったことになるでしょう。

(47)知識と行い、愛、そして、真知

神さまのことを知った人、それは、神さまへの愛の結果、神さまの真の知識を得た人であり、また、知識と行いの結果、神さまへの愛に気づいた人のことで、つまり、第三の段階に達した人です。知識と行い、それから、愛、それから真知の三段階です。

知らなければ、行うことはできず、知って行うことがなければ、愛することはなく、愛することがなければ、真知に至ることはありません。ですから、知識は行いの条件であり、行いは愛の条件であり、愛は真知の条件です。

「知識」とは、神さまについての知識であり、神さまのおきてについての知識です。

「行い」とは、ただ神さまだけをめざした純粋な行いです。

「愛」とは、神さまの真実の愛です。

「真知」とは、神さまの真の知識です。

いわゆる知識のある人のうち、どれほど多くが、神さまと神さまのおきてのことを知らないことでしょう。また、神さまと神さまのおきてのことを知った人のうち、どれほど多くが、それに従って行う人でないことでしょう。あるいは、せっかく知っていても、それをどのように行ったらいいのかわからないため、それと別のものに基づいた行いをしている人が、どれほど多くいることでしょう。あるいはまた、知識に基づいて行う人でも、どれほど多くが、その行いにおいて神さまだけをめざしていないことでしょう。あるいは、神さまだけをめざしたとしても、その状態が長続きしない人がどれほど多いことでしょう。

それでは、愛に到達することはできず、神さまの真の知識に到達することはできません。また、愛する人のどれほど多くが、神さまへの愛とそれ以外の愛を混同し、神さまへの愛をそれ以外のものへの愛だと勘違いしていることでしょう。また、たとえ、じぶんの愛が神さまへの愛だとわかっていても、愛の大きさはその愛するものをどれだけ知っているかに応じるものなので、じぶんでは気がつかないうちに神さまの真実をこばみ、恩を忘れ、その結果、神さまの真知を見る目を封じられてしまうことがあるのです。

(48)不在という存在

神さまを知った人にはじぶんからの動きはありません。神さまを愛したとき、その人は努力をやめ、神さまを真に知ったとき、その人は神さまにおまかせすることすらやめるのです。その人には努力しようという気持ちも、おまかせしようという気持ちもなく、ただただ静けさがあるばかりです。

その静かな状態がゆらいだとき、その人は愛の境地に戻り、そのとき、じぶんからの動きがいっさいなくなった真知の境地は失われます。

神さまによって存在する人は、じぶん自身をうしなっているのです。その人の神さまによる存在が、その人のその人による存在を消し去ってしまうからです。ですから、動きもなければ、静止もありません。この消滅の境地においては、動きがなくなると同時に、静止もなくなり、そこに真の存在である神さまが立ちあらわれるのです。つまり、それは、不在という存在です。これが神さまに至る究極の境地です。この不在を手放したとき、その人は真知の境地に戻ることになるでしょう。

(49)神さまをおそれ、神さまを愛し、神さまを知り、そして、ついには神さまにおいて消滅すること

神さまをおそれる人には、落ち着きがありません。神さまをおそれ、神さまの命じることを守り、神さまの禁じることを避けようと常に心をくだき、心も体もやすまるときがないからです。

神さまを愛する人には、決意はなく、弱さもありません。どんなときも、愛する神さまにおまかせし、神さまがじぶんに良かれと望んだことだけを望むからです。

神さまを知った人にいっさい動きはありません。神さまの力に押さえ込まれて、じっとしているからです。

神さまにおいて消滅した人には、存在はありません。そこにいるのは、神さまおひとりだからです。

神さまをおそれる人は、そのおそれる神さまのお喜びを求めることに夢中です。

神さまを愛する人は、愛する神さまにおまかせすることに夢中です。

神さまを知った人は、知った神さまに向かってじっと身をひそめることに夢中です。

存在する人は、じぶんを存在させた神さまの存在の中に消滅することに夢中です。

そして、その後ろには神さまがいて、しっかりとそれらの人びとを取り囲んでいるのです。

(50)神さまの愛

神さまの愛は、あらゆるものの中にあります。私たちの中にも見出されるはずです。あるのに見えないのは、その愛がいろいろなものによって隠されてしまっているからです。神さま以外のものに気をとられ、神さま以外のものに頼ることによって心の鏡が汚れてしまっているからです。

心の鏡がみがかれ、汚れから清められたなら、神さまの愛を隠しているいろいろなものは消え、そこに愛はあらわれるでしょう。

神さまの愛は、神さまへのゆらぎない確信を得てはじめてわかるものです。神さまの存在をはっきりと知ったとき、心の目からおおいが取り上げられ、心をまどわしていたさまざまなものの形は消えます。すると、「私、私」という思いがいっぱいにつまっていた心はまっさらな心となり、神さまの息吹となり、そこにあるのは神さまの命令だけとなるでしょう。そうして、すべてのものごとは神さまのもとに返されるのです。そして、そのとき、神さまの愛は私の中にあらわれるでしょう。そのとき、私はすでに消え去っていて、神さまの愛は、神さまから出て神さまに向かうばかりです。それこそがほんとうの宗教で、それ以外に宗教はないのです。

(51)神さまを愛すること

 神さまをほんとうに愛したなら、その人の心にはじぶん自身のほかなにも残っていないでしょう。ただし、じぶんといっても、そのじぶんは消え去った後のじぶんです。愛は、神さまから出て、神さまに向かうばかりなのです。

 神さまをほんとうに愛したなら、その人の心には愛する神さまのほかなにも残っていないでしょう。

 じぶん自身のほかなにも残らない、と言っても、神さまのほかなにも残らない、と言っても、それは同じことです。なぜなら、神さまをほんとうに愛する人はその愛する神さまそのものとなるからです。

 もし、愛する人の心にじぶんのほか、あるいは神さまのほかになにか残っているものがあるとすれば、その愛は不完全です。なぜなら、それは、それ以外のものの存在を信じているということだからです。

 神さまこそが存在であり、それ以外のものに存在はありません。

神さまの存在があらゆる場面においてはっきりと見えないとすれば、それは、その人の目が不完全であり、したがって、その人の愛が不完全だということです。

(52)つらいときに泣くこと

つらいことが起こったとき、「ああ、これも神さまがわたしに与えてくださったものなのだ、これに耐えればごほうびがいただけるのだ」と思って喜んだとすれば、その人はまだじぶん自身を消し去ってはいません。じぶんが神さまとならんで存在するとかん違いしているのです。ほんとうに神さまのもとにじぶんを消し去った人は、つらいことが起こったときには、苦しみ、悲しむのです。

神さまのことを深く知ったある人が、ある日、空腹の苦しみにたえかねて、なみだをこぼしました。それを見た人はおどろいて言いました、「あなたはおなかがすいたと言って泣くのですか」。すると、その人は言いました、「神さまがわたしを空腹にしたのは、わたしを泣かせるためだからです」。

別の人にこんな話があります。その人の一人息子が死にました。人々がおくやみにおとずれると、その人は、けらけらと笑っていました。「息子が死んだのに、どうして笑うのか」と人々はたずねました。すると、その人の答えはこうでした、「神さまが望まれたことをどうしてわたしが喜ばずにいられようか」。

でも、悲しいことが起こったときにその人が喜んだのは、その人の敬虔さゆえではなく、敬虔さが足りなかったからのことでした。じっさい、だれよりも敬虔な私たちの預言者は、おさない息子をなくしたとき、悲しんで泣かれました。

じぶんの欲望と戦っている人にとっては、苦しみの中で喜ぶことはその人が達しうる最高の状態でしょう。でも、神さまだけを見つめ、じぶんから消え去った人にとっては、神さまが決めた自然の流れに身を任すことがその人のあるべきすがたです。その人にとってはどんなものも存在しないのですから、どんなことがあっても、それにあらがって無理することはしません。ものごとが起こるがままにまかせるのです。

自然の情に身を任せることは、じぶんの欲望、つまり、じぶんのナフス(自我)にしたがうことで、それはとがめられるべきことではなかったでしょうか。

でも、神さまの導きのままに欲望にしたがうことは、まちがったことではないのです。いけないのは、神さまの導きなしに、じぶん勝手にじぶんの欲望にしたがうことなのです。

(53)神さまによって悲しみ、神さまによって喜ぶこと

神さまからの恵みに喜々とする人もまた、じぶん自身のところにとどまっている人です。なぜなら、その人には、神さまのほかにじぶんを喜ばせるものがあるということだからです。

神さまのもとにじぶんを消し去った人は、神さまの恵みを、じぶんの自我で味わうのではなく、神さまによって味わいます。

私が私から出たとき、私は、私の私ではなく、神さまの私となります。そうなったら、私の自我は、もう苦しみを与えられても恵みを与えられても悲しむことも喜ぶこともなくなります。そこには、それを味わう「私」は残っていないからです。すると、神さまは、その空(から)になった「私」の中に、それらの苦しみや恵みが自然の情としてもたらす悲しみや喜びを流し込み、私はそれを自我によってではなく神さまによって受け止めるのです。そして、そこにあらわれた悲しみや喜びは、消え去った「私」をゆるがすことは決してありません。

(54)愛する人のことば

神さまのうちに消え去った人は、もはや愛する人ではありません。なぜなら、そこにはその人の愛する神さましかいないからです。そうなったら、その人にとっては、あらゆるものがいとしいものとなるでしょう。「私」自身もいとしくてなりません。なぜなら、それらのほんとうのすがたをおおいかくしていたサビはもうそこに残っていないからです。そうして、愛は神さまの神さまご自身に対する愛にもどるのです。

愛する人がことばを発するとき、その人の口からは息が出たり入ったりしますが、胸の深いところから出た息は、口を通って音となり、文字となり、単語をなし、ことばとなります。その発せられたことばに乗って出るのが言霊(ことだま)です。ことばとは、そのひとの息吹(いぶき)なのです。

愛する人のことばは英知です。つまり、ものごとの真実を告げるものです。それは、ほかの人たちのことばのように、おもての意味を伝えるだけのものではないのです。

英知とは、今あるものはそれ以上かんぺきなものはないほどにかんぺきであり、神さまが作られたものはすべてそのようなかんぺきさをそなえていると知っていることです。もし、今あるものよりもかんぺきなものがあったとしたら、今あるものはかんぺきさにおいて欠けるところがあるということで、それではそれを作られた神さまに欠けるところがあるということになってしまいますが、そのようなことはありえないからです。

英知とは、すべてのものは神さまに支えられて存在し、神さまのご意志によって存在をやめるのだと知ることですが、それは、神さまから直接教えてもらった人にしかわからないことです。神さまは、神さまの望んだ人にだけその英知を与えられるのです。

(55)神さまに愛された人

神さまに愛された人は、じぶん自身から消え去った人で、愛する人よりもさらに一段上です。なぜなら、愛する人は、求める人ですが、愛される人は、求められる人だからです。

求める人は、求めるものが大きければ大きいほど、疲れも大きくなります。ですから、神さまを求める人は、求めるものがとてつもなく大きいだけに、疲れも大きいでしょう。一方、求められた人は、じぶんを求めるその相手が大きければ大きいほど、得られる安らぎは大きなものとなりますから、神さまに求められた人は、その人を求める神さまがとてつもなく大きいだけに、大きな安らぎに包まれるでしょう。求める人の疲れと、求められた人の安らぎの間には大きなひらきがあります。

愛するものも、愛されるものも、ほんとうのところでは神さまに戻されます。なぜなら、神さまこそご自身を愛し、また、ご自身に愛される方だからです。そして、そのいずれについても、無から立ちあらわれたしるし(アラーマ)があり、それが「世界(アーラム)」と呼ばれるものです。つまり、世界とは、世界でないもの、つまり神さまを指し示すしるしなのです。

それゆえ、愛するものは神さまが愛する方であるがために愛し求めるのであり、愛されるものは神さまが愛する方であるがために、愛され求められるのです。ですから、愛するものと愛されるものはどんなものの上にもかわるがわるにあらわれます。つまり、なにかを愛する人はだれも、そのなにかに愛されているのです。そのことを知っている人と知らない人との間には大きな違いがあります。『言え、知った者と知らない者とが同じであろうか』(クルアーン39:9)とはこのことをいうのです。

愛された人の吐息、つまり、その人の心から意味を運んで発せられたことばは、その人の望んだままを実現する力です。

愛する人は、愛する方のさまざまな様相を追いかけ、その美しさのこんせきをみとめることに夢中です。そのため、じぶんの心を夢中にさせるものについて語るその人のことばは英知となるのです。ところが、その人の心は、そうした英知のことばによって愛する方のことを忘れてしまい、そのために愛からそれ、さまざまなあらわれによって愛する方からひきはなされてしまいます。

一方、愛された人は、じぶんを愛してくださる方のためにその方の特徴をあらわし、その美しさのこんせきを知らしめることに夢中であるため、その人のことばは力となり、その人が愛する方の美しさのこんせきと完全さのかがやきを実現したいと望むたび、それはそこに見出されることとなるのです。

(56)愛の人と崇拝行為の人(その1)

神さまによろこんでいただくために神さまにつかえること、つまり、いっしょうけんめい神さまにめいじられたことをなおこない、きんじられたことを遠ざけることは、すべて見返りのためのものです。つまり、それは来世でごほうびをもらったり、地獄の火からすくってもらうためです。たとえ、それがそうした見返りをもとめてのことではなく、ただひたすらに神さまのお顔をめざしたものであったとしてもです。

一方、神さまへの愛は、神さまに近づくことをめざします。神さまに近づいたとき、人は、すべてのものの真実のうちに神さまの真実が現れるのを目にするでしょう。愛は、神さまに近づくためにあります。人の心に愛が生まれたとき、その人はいろいろなかたちで神さまに近づいているのです。

ですから、神さまにしもべとしておつかえすることよりも神さまを愛することのほうがすぐれています。おこないは見返りのため、つまり、神さまいがいのものをもとめることですが、愛は近づきのためであり、神さまご自身をもとめることだからです。

神さまにしもべとしておつかえすることと神さまを愛すること、この2つは、神さまのめいじられたことをなし、神さまのきんじられたことを遠ざけることを通し、すべてのものがよって立つ神さまのご命令によって立つという1つのおこないの上にかわるがわるに現れますが、それぞれ心がめざすところにおいて異なっています。

神さまは、わたしたちのおこない、つまり外に現れたものを見ておられるのではなく、わたしたちの心、つまり、わたしたちの愛を見ておられます。ですから、愛の人は崇拝行為に精を出す人よりもすぐれているのです。

(57)愛の人と崇拝行為の人(その2)

神さまの命令によって立つ人が、じぶんでものごとを左右しようとすることを止めたとき、その人のことは神さまが取り仕切ってくださるようになります。そうなれば、その人のなすことはみな神さまからのものとなり、その人にはイバーダ(しもべの行為)と呼ぶようなものはなにひとつなくなるでしょう。そこにあるのは神さまからのめぐみばかりです。そうして、その人は、おこないのない愛の境地に立つのです。

一方、ものごとをじぶんで左右しようとすることを止めなければ、その人のなすことはその人が神さまにささげるものです。それが崇拝行為と呼ばれるものであり、その人は愛の境地からはまだ隠されています。

愛の人も、崇拝行為の人も、おもてむきにはなんの違いもなく、やっていることは一つです。ふたりの違いをなしているのは、心のありようです。

崇拝行為の人の心のなかをのぞいてみれば、その人が神さまいがいのものに気を取られているのがわかるでしょう。その人には、自分がなしていることはほうびを受けるにふさわしいことだという要求がましい思いがあって、それが、神さまからのめぐみとしての崇拝行為からその人を遠ざけています。

一方、愛の人の心をのぞいてみれば、その人が神さまいがいのことには見向きもしていないことがわかるでしょう。その人の心は神さまのことでいっぱいです。その人がなす崇拝行為はどれも神さまからその人へのめぐみであり、その人の愛もまた神さまからのめぐみです。その人は、自分のおこないなどなにひとつないことを知っているのです。

すると、その人には、神さまのみもとにあるめぐみの宝庫からさまざまなめぐみの最良のものが与えられ、栄誉のふくが着せられるでしょう。愛の人は、それにおどろき、ことばをなくし、神さまにおねがいごとをすることすら忘れてしまいます。そこで、神さまから送られた天使がその人にたずねます、「なにか望むものはあるか」。すると、そのひとは言うでしょう、「なにも望まないことを望みます」。

(58)愛の人と崇拝行為の人(その3)

「なにも望まないことを望みます」。愛の人のこのことばを聞いた天使は、彼にどのような栄誉が与えられているかを知るでしょう。そして、彼には神さまへのお近づきという栄誉が与えられ、彼には神さまとのしんみつな語らいが許されること以上にふさわしい報いはないことに気づくでしょう。なぜなら、神さまは、それいがいのどんなものも彼をよろこばせることはなく、彼にとっては神さまいがいのどんなものも消え行くむなしいものでしかないことを知っておられるからです。

そうして、愛する人はその愛するお方のおそばにいるよろこびを得るでしょう。その人はねがいもとめたものを得るのです。そういう人こそじぶんかってな思い込みではなく、神さまご自身によって「わがしもべ」とみとめられたひとです。それは、じぶんたちが神さまにささげた行為はみな神さまからのとてつもなく大きなめぐみであると知っている人たちです。そして、神さまは、神さまご自身が彼らにめぐみとして与えられたそうした行為を、彼らからの「イバーダ(しもべのおこない)」とみなし、それゆえ、彼らを「わがしもべ」と呼んでくださるのです。神さまいがいのすべてを、神さまにささげる崇拝行為すら捨てて、神さまいがいのどんなものにも気を取られることのなかった彼らを、神さまは、「わが愛する者」となしてくださるのです。神さまは、彼らには服従行為、崇拝行為をめぐみ、神さまにそむいた者にふりかかる神さまのおいかりから彼らを守ろう、と言ってくださるでしょう。

神さまは、神さまの正しいしもべに、つまり、みかけだけでなく心のありかたにおいても、神さまのおそばにはべり、神さまとしたしく語らうにふさわしいしもべとなった者に、だれも目にしたことのないもの、だれも耳にしたことのないもの、だれにも思いつかなかったものを用意してくださっています。

だれも目にしたことのないものとは、わが目で神さまを見ることです。神さまは、その人たちに、神さまご自身の姿を見せてくださるのです。そして、彼らは、かつて目にしたことのないものを見るでしょう。

また、彼らには、神さまご自身が神さまからのあまい語りかけを聞かせてくださるでしょう。それは、だれも耳にしたことのないものです。

そのようなものは、見たこともなく、聞いたこともないばかりか、想像したことすらないものです。

(59)神さまを見ること

神さまは、神さまの正しいしもべには、来世で神さまご自身の姿を現してくださいます。肉体の目と心の目からおおいがとりのぞかれ、また、肉体の耳と霊的な耳からおもりがはずされて、しもべはおのれの主である神さまを目にし、神さまの語りかけを耳にします。どんな目も見たことがなく、どんな耳も聞いたことがなく、どんな人の心にも思いついたことのないものを目にし、耳にするのです。

それは来世においてはじめてかなうことですが、この世にいながらにして見ることのできる現れもあります。神さまは、神さまの正しいしもべには、現世に生きる今、おおいをとりのぞいてくださり、ほかのことに気を取られ、まどわされている人が見たことのないようなもの、そういう人が聞いたことのないようなものを目にし、耳にするめぐみをくださるのです。それは、まどわされた人には想像すらおよばないものです。

とはいえ、来世で見るもの、聞くものは、現世で見るもの、聞くものよりもはるかにすばらしいものです。しもべは、この世からあの世に移ることによって、神さまを目にし、神さまの語りかけを耳にする度合いを深めるのです。そして、来世では、はてしなく、えいえんにその階梯(かいてい)を上りつづけ、1つ階梯を上るたびに、前に見ていたものはおおいにすぎなかったことに気づくでしょう。そうして、つぎつぎと、はてしなくあらたな開示がなされるのです。前に見ていたものはさらなる現れのおおいでしかなく、また、さらなる現れはその前のものをかくしてしまうものなのです。

(60)神さまのしもべとなること

しもべが神さまを、じぶん自身のためではなく、神さまご自身のために求めたとき、神さまは、かつてだれも見たことのないような神さまの美しさを見せ、かつてだれも聞いたことのないような神さまからの語りかけを聞かせてくださいます。

しもべがものごとの真実に気づき、なにかを欲しいと思う気持ちからはなれ、神さまを求める気持ちからすらはなれたとき、あるいは、しもべがものごとがどこに行きつくかを知り、神さまにしてはいけないと禁じられたことや神さまにそむくことをしたいという気持ちをすっかりなくし、また、じぶんの心に生まれるどんなことも、じぶんが望むと望むまいとに関係なくすべて神さまによってつくられるのだと知って、神さまにするように命じられたことや神さまのご意志にかなったことをしようという気持ちすらもなくしたとき、そのときこそ、その人はほかのどんなものしもべでもなく、じぶんの望むことすらもすっかり神さまにしたがった神さまのしもべとなったのです。それが愛の人です。

そのようになった人は、すべてのものを通じて姿を見せてくださる神さまのほかにはどんなものも欲しいとは思わず、神さまのほかにはなにも望むことはなくなります。そのような人は、どんなものを求めても、どんなものを望んでも、それは神さまを求め、神さまを望んでいるのです。なぜなら、すべてはいずれ消え去り、神さまのお顔だけが残るのであり、それだけがその人にとっては望みだからです。

かんぜんなしもべとなった人に神さまは、それまでは神さまいがいを求める気持ちによってかくされていたご自身のことを明らかにしてくださいます。じぶんをじぶんからかくしていたおおいが消えるのです。すると、今度は、神さまを求める気持ちがおおいになって、その人はじぶん自身からかくれてしまいます。それから、そのおおいもなくなり、その人はすっかり消え去ってしまいます。神さまの唯一性のとくちょうの中にしもべとしてかんぜんに消えてなくなるのです。消えてなくなるとはどういうことかというと、神さまのまなざしを通してものごとを見ることによって存在するという思い込みがなくなることです。

神さまはわたしたちのことを見ていてくださる、と言われますが、それは、神さまがわたしたちに代わってわたしたちを見てくださるということです。神さまは、義務としてかされた崇拝行為のほかにたくさんの崇拝行為をしたしもべには、神さまご自身がその人の目となってくださるからです。そうして、もとから存在していなかったしもべは消えてなくなり、永遠のむかしから永遠のみらいにまでずっと存在する神さまだけが残るのです。

(61)神さまのおきては神さまがともにおられることのしるし

神さまのおきてはきゅうくつなものです。なぜなら、わたしたちの自我はじぶん以外のだれかが決めた決まりにしたがうことをきゅうくつに感じるものだからです。

それでもまっすぐに神さまに向かって歩み続け人に神さまは神さまのおきての元である神さまご自身の知識をあたえてくださるでしょう。神さまの啓示の書や預言者さまのことばの中にそれを見出した人は、そこでくつろぎます。なぜなら、そこにはおきてにきゅうくつさをおぼえるような自我はもはや存在しないからです。神さまの真実を知ったとき、自我は本来の無に帰るのです。すると、ひとは、神さまがこうしてじぶんに語りかけてくださっているのは、神さまがえいえんの昔からずっとじぶんといっしょにいてくださったことを示すものだったのだと気づくからです。神さまは、わたしたちの主であらせられたときからおきてを定める方であり、おきてを課されるわたしたちは、えいえんの神さまのもとにおいてすでにしもべであったのです。

神さまからちょくせつあたえられた神さまご自身の知識は、神さまのほんとうの知をもたらします。なぜだろう、という問いかけをわたしの心に生み出すのも神さまなら、それはこういうことだと答えをあたえてくださるのも神さまです。神さまのほんとうの知を得たひとは、神さまとの間をへだてていたおおいがやぶられるために、神さまに対して気安さを得ます。そして、本来しもべなら主人に対してとてもできないような大それたことをすることがあるでしょう。そして、神さまはほかのひとであれば許さないようなこともその人に対しては大目に見てくださるのです。

(62)ほんとうの行為者

神さまがただおひとりであるということをほんとうに味わった人の道は、愛の道です。それは、心が神さまだけをみつめ、ほかのどんなものにも目をくれず、また、どんなものを見ても目に入るのは神さまだけで、その味わいに夢中になることです。

そして、この、神さまへの愛のほかに宗教はなく、崇拝行為はないのです。

 愛の人でない人たちが宗教と呼ぶもの、また、礼拝や断食など崇拝行為と呼ぶものはすべて、愛の人にとっては神さまからの恵みです。わたしたちには神さまによるほかなんの力もありません。わたしたちは、わたしたちが崇拝行為をする、というふうに言いますが、わたしたちに崇拝行為をさせているのは神さまであり、ほんとうの行為者は神さまおひとりなのです。

 神さまに崇拝行為をささげつづけ、ついには神さまの真実を会得した人は、もはや崇拝行為をする人ではありません。なぜなら、崇拝行為には神さまに崇拝行為をささげる「わたし」という自我が必要だからです。神さまの真実を得て、その真実の光によって自我が消滅したとき、その人は神さまのお力の波にどんなふうにも運ばれ、それでいて静けさを保ったままとなるでしょう。その人がなにか崇拝行為をするとしても、その人は崇拝行為をする人ではありません。自我にとらわれた人たちが見たら、その人が崇拝行為をしていると言うでしょうが、心の人たちの目にはそれはその人がしているものではありません。その人は、ただ、ずっと前からその人に定められていたところに立っているだけなのです。

 愛の人には行いはありません。なぜなら、行いがあるところには、なす人と、なされたものがあり、つまり三つのものがあるということになってしまうからです。それでは、神さまの唯一性はなくなってしまいます。

ほんとうのところはこうです。神さまはわたしたちをつくり、わたしたちに手足を与え、そして行動の力と意志の力を与えてくださいましたが、それと同時に、わたしたちのなすことすべて、それが体によるものであろうと心によるものであろうと、すべてをまた神さまはつくられたのです。

わたしたちがなしたものは、わたしたちという視点に立てばわたしたちのなしたものですが、実はわたしたちには行いはなく、わたしたちも、わたしたちの行いも、すべては神さまの行いなのです。これは、じぶん自身ではなく、神さまに目を定めた愛の人の視点です。なぜなら、愛の人は神さまだけを見つめ、そこには自我という視点はもうないからです。じぶんの行いというものがあるのは、神さまから目をおおわれた人たちで、愛の人にはいついかなる状態にあってもじぶんの行いはないのです。

(63)愛

愛の道とは、神さまを見ることに心うばわれて、すべてのものからすっかり消えてなくなることです。じぶんも、じぶんいがいのどんなものも、もうそこにはなにも残っていないのです。

行為に心をかたむけた人は、たとえその行為が神さまを一心に思ってなしたものであっても、じぶんのために努力し、それによって救いや成功を求めているのです。つまり、そのひとは神さまではなく、じぶん自身の神さまからの分け前に気を取られているのです。

一方、神さまへの心からの愛の中に身を置いたひとは、じぶんのためではなく神さまのために努力し、神さまへの愛ゆえに神さまに仕えています。つまり、そのひとが神さまに仕えるのは、しもべとして仕えることによって神さまの主性をうかびあがらせるためであって、じぶんの救いや成功のためではないのです。

崇拝行為の人は、たえずじぶんの行為を見ています。つまり、じぶんの崇拝行為を見つめ、それを目指し、それに気を取られ、それにこだわっているのです。それはつまり、その人が神さまを見つめることを忘れ、神さまを目指し、神さまに夢中になり、神さまにこだわることからそれているということです。それはもちろん神さまに対し礼を欠くものです。なぜなら、その人は、愛するお方よりも崇拝行為に気をとられ、崇拝行為が多いだの少ないだのにこだわり、その報いに目がうばわれているからです。

一方、愛の人は、愛するお方だけを見つめ、愛するお方に夢中です。つまり、神さまに目をうばわれ、それいがいのものからすっかり気がそれているのです。

崇拝行為に夢中になると、それをささげるはずのお方から気がそれてしまいますが、愛にはそのようなことはありません。というのも、愛は、ただ一つ、神さまからしもべへの愛のほかなく、その愛がしもべの心の中で神さまへと送り返されるだけのことだからです。神さまがしもべを愛し、そして、しもべも神さまを愛するのです。つまり、神さまにしもべに対する愛があったとき、その愛はしもべからそれることなく、しもべに向います。同じく、しもべのうちに神さまへの愛があったときには、それは神さまからそれることなく、神さまに向います。そこが愛と、しもべの側からだけの崇拝行為とのちがいです。

恋に狂った男のもとに恋人がやって来て、「わたしがあなたの恋人よ」と言いました。すると、男は彼女に言いました、「わたしから去ってくれ。わたしはあなたに恋するあまり、あなたのことすら見えなくなった」。つまり、愛が愛する者に愛する相手のことを忘れさせたのです。やって来た恋人はもはや彼の愛の対象ではなく、彼の恋人への愛は、そこに愛をもたらした神さまのあらわれがあったがゆえの愛へとかわり、愛はそのみなもとである神さまのもとへと戻ってしまったのです。恋人を愛し、恋人に焦がれていたとき、彼はじぶんの愛の真実に気づいていませんでしたが、彼の目からその真実をおおいかくしていたものが除かれたとき、かくされていた光が差し込んだのです。そこで彼は、館ではなく、館の主に向ったのです。

(64)すべてのうごきは神さまのもの

 ひとは、じぶんも、じぶん以外のものもみな、神さまが久遠の昔にごぞんじであったものを通して神さまがあらわれているだけであることに気づき、そうしてあらわれた神さまの存在以外にはじぶんもじぶん以外のどんなものも存在しないことに気づいたとき、神さまを知ります。そうなったとき、存在するのは神さまおひとりだけとなり、じぶんもじぶん以外のどんなものも、ほかのどんなものでもなくその神さまの存在によって存在するようになります。もちろん、それはわたしたちが神さまの化身になったり、神さまと一体になったりということとはまったくちがうものです。

 そうなったとき、わたしたちの吐息の一息一息、心にうかぶ神さまについての思い、神さまの唯一性、神さまの主性についての真実をことばにした一言一言は、わたしたち自身の力によるものではなく、神さまご自身によるものとなるでしょう。神さまに近づいた人には、神さまがその人の耳となり、目となり、語る口となるからです。なぜなら、じぶんがなにものかを知ったその人に、もはやじぶんというものはないからです。

 また、そうなったとき、わたしたちのうごきはすべて、外にあらわれたものも心の中のものも、良いことも悪いことも、じぶんで選ぶものも選びようのないものも、すべてが神さまのものとなり、神さまから出たものとなり、神さまがわたしたちを通してあらわれたものとなります。わたしの存在など神さまの知識においてはまったくの無であり、わたしはかつて存在したことはなく、今も存在することなく、わたしたちと同じく作られたものはすべて存在していないのです。

 一方、じぶんやじぶん以外のものが、神さまの存在の外でそれ自身として存在していると思っている人は、神さまを知らない人です。その人は、すべてのものにあらわれる神さまのあらわれに気づいていません。そのような人のうごきは、外にあらわれたものも心の中のものも、良いことも悪いことも、じぶんで選ぶものも選びようのないものも、みな、その人のものです。なぜなら、その人は、神さまを知らないために神さまから切りはなされていて、じぶんひとりで、神さまによらずして存在していると考えているからです。

 神さまを知らない人の呼吸は、神さまを知らないためになんの知も運ばないただの息の出入りにすぎません。

(65)神さまに仕える人、神さまのためにがまんする人、真実の人

 神さまに仕える人、つまり、いつでもどこでも神さまに命じられたことをなし、神さまに禁じられたことを遠ざけ、そうすることでじぶんをいやしめる人には落ち着きがありません。つまり、そういう人は神さまに仕えるために始終おおいそがしです。神さまに仕える人であり続けるためには常に心を働かせていないとならないからです。じぶんでじぶんを支えないとならないのです。

 神さまのためにがまんする人、つまり、神さまいがいのものから身を遠ざけ、現世ばかりか来世のことまで遠ざけるひとは、神さまに仕えることにいそがしい人よりは一段上ですが、そういう人には心を熱くする望みがありません。つまり、そういう人には神さまいがいのなにかを好きだったり、なにかを欲しいと思うことがなく、常に神さまいがいのものから身をそむけています。すべてのものを所有し、すべての力を持った神さまにお目にかかることを熱望して、夜も昼も隠れたシルク(多神教)を止めることができません。というのも、そういう人はじぶんでは神さまと共にいるつもりですが、実際にはいつもじぶんと一緒だからです。もし、その人の心の目が開いていたなら、それをがまんして遠ざけたりはしなかったでしょう。なぜなら、心の目が開いた人には、神さまいがいのものなど見えないからです。

 さて、真実の人、つまり、なすこと、言うこと、信じることにおいて誠実な人、あるいは、見ることのできないものごとで真実と受け入れるべきことを真実と受け入れた人は、神さまにひたすら仕える人や神さまのためにがまんする人よりも高い境地にあり、神さまのおそばに一層近づいた人です。そういう人にはあらゆることにおいて頼るものがありません。その人のよりどころはただ神さまおひとりであって、神さまいがいのなにかに頼ったり、じぶん自身に頼ることはないのです。

(66)神さまを知った人

 神さまのことをほんとうに知った人、つまり、神さまがじぶんの主であり、じぶんが神さまのしもべであると知ってじぶん自身によって立つと同時に神さまによって立つ人は、ある場所から別の場所に移ったり、ある心のじょうたいから別の心のじょうたいに変わるどんな力も、神さまのあらわれの外には持ち合わせません。そのような移り変わりは、じぶんの主である神さまのあらわれの中で、じぶん自身によって立つと同時に神さまによって立ってこそ起こるものなのです。

 じぶん自身だけによって立つ人は、隠れた多神教をおかしています。一方、神さまだけによって立つ人は、よっぱらったじょうたいにあり、じぶんのことも神さまのこともわかっていません。

 しんじつを知った人とは、神さまとじぶん自身の両方を知った人、つまりその両方によって立つ人です。その人のもとにはひとつのものしかありません。それでいて、その人には2つのあらわれがあって、そのどちらにもそれにふさわしいものを与えているのです。つまり、その人はてんびんの2つの皿のつりあいを取っているのです。

 その人がなにかに対して力を持つことがあるとすれば、それは神さまの存在におけるじぶん自身の不在によってでしかありません。

 また、そういう人はどんな場合においても、どんなことについても、すべてを知り尽くした神さまのあらわれであるじぶん自身によるほか、じぶんで選ぶということがありません。

 そういう人には、じぶんの望みというものもありません。つまり、神さまのあらわれであるじぶん自身によるほか、どんなものに対しても心が惹かれるということはないのです。

 また、そういうひとにはどんな動きもありません。静止もありません。おもてむきも、ほんとうのところも、神さまのあらわれそのものであるじぶん自身によるほかはどんな動きも静止もないのです。

(67)神さまと親しくなった人

 神さまはお望みのままに姿をあらわすことができます。天使たちはほんらいの姿とは別の姿で人の前にあらわれることがあります。であれば、なんでもできる神さまは自在にすがたを取ることもおできになるでしょう。じっさい、審判の日、神さまは人々が信じたようなすがたを取って人々の前にあらわれ、間違って神さまをイメージしていた人々はその間違ったイメージのままにあらわれた神さまについていく、ということも伝えられています。

 さて、神さまの存在のあらわれの中に存在している人には、もう神さましかいません。そこにはもうなんのあらわれもなく、神さまがおられるだけです。

 じぶんの良いおこないがみな、しんじつなるおかたであらせられる神さまのはたらきであることに気づいた人は、神さまと親しくなったのです。そうするほか、神さまと親しい関係をむすぶことはできません。なぜなら、神さまそのものと親しくすることはむりだからです。というのも、神さまそのものを目にしたとき、その人は消えていないので、その味わいもないからです。

神さまと親しくなった人は、ほんとうのところは神さまと親しくなったのではなく、じぶん自身と親しくなったのです。つまり、神さまがじぶんのもとにあらわれられたことによって、良い人となったじぶんが好きなったのです。そのことを神さまと親しくなったというふうに言うのです。

人が良いおこないをしたり、罰にあたいするような悪いことをなすのも、みな神さまがみちびいたり、迷わせたりなさるからですが、それらは神さまの知識の中のその人が持っているもののあらわれにすぎません。良いことは神さまからのめぐみであり、悪いことは神さまの公正さゆえのことです。そして、神さまの知識の中でその人が持っているものとは、神さまのことです。ですから、じぶん自身を知った人は神さまを知ったのであると言われるのです。じぶん自身を知らない人は神さまを知りません。

 そうして神さまと親しくなった人は、じぶん自身をきらい、そこに神さまのあらわれによってしか消すことのできない荒れ果てたさまやかげりを見つけて、そこから逃げ出すのです。

(68)神さまに夢中になること

表向きも内側も神さまに夢中になった人、つまり、神さま以外のものから身をそらし、神さまだけを見つめる人であっても、それが神さまに近づいたり、来世の高い地位を得たり、じぶんをこの世とあの世のはめつから救うためであれば、神さまはその人に神さまを見ることを禁じるでしょう。なぜなら、たとえ神さまのことに熱心でも、その人はつまらない見返りを目的としているからです。わたしたちは、どういうじょうたいで死んだかに応じて来世でよみがえらされます。ですから、どんなにいっしょうけんめい神さまにしたがって生きたとしても、その目的が神さまからそれていれば、わたしたちは来世でも神さまを見ることはないのです。まして、神さまにそむいて生きた人にはどんな来世が待っていることでしょう。

一方、神さま以外のすべてから身をはなし、神さまゆえに、ただただ神さまののぞむとおりになりたいがために神さまに夢中になった人の目を神さまは開いてくださいます。わたしたちはみな神さまのためにつくられました。そして、わたしたちを取り巻く全てのものはわたしたちのためにつくられました。ですから、わたしたちは、わたしたちのためにつくられたものに気をとられて、わたしたちがそのためにつくられたものである神さまから気をそらせることがあってはならないのです。

神さまがわたしたちの目を開いてくださると、見るもの、聞くもの、感じとるものすべてのうちに神さまを見出すようになります。もちろん、すべてのうちに神さまを見出すと言っても、それらの中に神さまが宿っているわけでも、すべてがそのまま神さまだというわけでもないことは言うまでもありません。

(69)のぞみを消すこと

わたしたちの心から神さまをじぶん自身のために求める気持ちがすっかり消えてなくなったとき、神さまはわたしたちに真理のとびらを開いてくださいます。わたしたちのものごと、いえ、すべてのものごとがその上によりかかっている真理のとびらを開いてくださるのです。なぜなら、神さまがわたしたちの目となり、その目を通してわたしたちはものごとを見るようになるからです。

神さまがわたしたちの目となると、その目を通してわたしたちにはものごとのほんとうが見えてきますが、開かれるのは真理そのものではなくて真理のとびらです。なぜなら、真理はただひとつであり、この世のもののひとつひとつがその真理のとびらだからです。そして、真理のとびらであるものごとのほんとうが見えたとき、わたしたちは一のうちに多を見出し、また、多のうちに一を見出すでしょう。

神さまをのぞむ気持ちであれ、それ以外のものをのぞむ気持ちであれ、あるいは、良いことをのぞむ気持ちであれ、悪いことをのぞむ気持ちであれ、なにかをのぞむ気持ちも、のぞむまいとする気持ちもあなたからすっかり消えてなくなったとき、神さまはあなたに、それまでに知り得た神さまの唯一性とはちがうほんとうの神さまの唯一性を明かしてくださるでしょう。もはやそこには「わたし」はいませんから、あなたの理解による神さまの唯一性ではなく、神さまによる神さまの唯一性が実現するのです。

(70)神さまによって明かされた神さまの唯一性

神さまによって明かされたものは確信です。それ以前にじぶん自身で理解したものは思い込みにすぎません。

神さまによって明かされた神さまの唯一性とは、存在するのは神さまだけで、そこには「わたし」は存在しないということです。かつてわたしが神さまとならんで存在したことはなく、これからも存在することはありません。また、神さま以外のどんなものも、かつて神さまとならんで存在したことはなく、今も、これからも、ありません。ただ神さまがすべてのものに寄りそって存在するのであり、そうした神さまの寄りそいがなければ、なにものも存在しません。この世のものが存在するのは、この世においてのことにすぎず、神さまが存在するような意味で存在するのではありません。なぜなら、神さまはこの世においてではなく、えいえんの過去からえいえんの未来において存在するからです。

神さまを求めた人は、この世のものの世界から出て、神さまのもとに向かいます。そこでは神さまだけが存在し、それ以外のものなどそもそもないのです。

(71)ただ神さまになされるがままにあること

 もし、わたしたちが、じぶんの内と外のいっさいがっさいを神さまにゆだね、神さまを神さまからもほかからも求めることなく、かといって、神さまを求めることを止めてしまうのでもなく、つまり、求めるにしても求めないにしても、ただただ神さまになされるがままにおまかせするなら、神さまはわたしたちを神さまの近くに引きよせ、おそばにはべらせてくださるでしょう。神さまにじぶん自身をゆだねた人に、神さまもまたご自身をゆだねてくださるのです。

 一方、もし、わたしたちが、じぶんの内と外のことごとくにおいて神さまにあらがい、神さまを神さまから、または、ほかから求めるにせよ、あるいは逆に神さまを求めることを止めるにせよ、いずれにおいても神さまがわたしたちにあてがおうとするものにさからうならば、神さまはわたしたちを遠ざけ、わたしたちをおそばから退けられるでしょう。神さまにじぶんをゆだねない人に神さまはご自身をゆだねられることはなく、神さまにさからうなら、神さまもまたその人に対立されるのです。

(72)神さまによって神さまに近づくこと

もし、わたしたちが神さまによって神さまに近づいたなら、つまり、わたしたち自身が求めたのでなく、わたしたちの心に神さまが投じてくださった神さまを求める気持ちのままに神さまに近づいたなら、神さまはわたしたちに近づいてくださるでしょう。わたしたちが、自我の求めに応じてでなく、つまり、神さま以外によって神さまを求めたのでなければ、そこには神さまからわたしたちを遠ざけるものはなにもないからです。  

一方、もし、わたしたちがわたしたち自身によって神さまに近づこうとするなら、つまり、神さまに近づきたいというじぶんの思いから、近づくことによって得られるだろうすばらしい境地欲しさに神さまに近づこうとするなら、神さまはわたしたちを遠ざけられ、神さまの御顔を拝することをお許しにならないでしょう。なぜなら、わたしたちが神さま以外によって神さまを求めれば、まさしくそのことによって神さまはわたしたちをご自身からかくされるからです。ただし、「神さま以外」と言っても、わたしたちの目にそう見えるだけで、ほんとうのところは神さま以外のものなど何一つありません。神さま以外のものがあるというわたしたちの思い込みこそがおおいとなるのです。

(73)神さまから命令と禁止を負わされる人

もしわたしたちがわたしたち自身のために神さまを求めたならば、つまり、わたしたちのこの世での良いこと、またはあの世での良いこと欲しさに神さまを求めたなら、神さまは私たちにいろいろと骨の折れる命令と禁止の重荷を負わせられるでしょう。わたしたちがわたしたち自身のもとにとどまって、自我にとって心地よいものを求めるなら、神さまはわたしたちに、そうした負荷義務の中で自我の望まない疲労困憊に出会うことを余儀なくされるからです。というのも、神さまは公正なお方ですから、天秤がつりあうようになさるからです。つまり、わたしたちがじぶん自身のために神さまを求めるなら、神さまもまたご自身のためにわたしたちにさまざまなことを課し、求められるのです。

(74)神さまにつかえる喜び

わたしたちが、わたしたち自身のためではなく神さまゆえに神さまを求めれば、わたしたちと神さまのあいだを妨げる覆いは上げられ、神さまはわたしたちに心安く接してくださるでしょう。そのとき、神さまはあなた自身となっています。

「神さまゆえに神さまを求める」とは、わたしたちが神さまのどれいであることをはっきりとうかび上がらせたいと望むこと、また、そうすることによって神さまがわたしたちの主としてわたしたちの前にご自身をあらわしてくださることを望むことです。

神さまの前にわたしたちがわたしたち自身であることをやめれば、それまでわたしたちが神さま以外のものだと思い込んでいたものもすべてまたわたしたちの前から消えてなくなります。そうしたら、わたしたちは、神さまの前でじぶんでじぶんを貶めることをやめて、神さまによって神さまに対して遠慮ない者となるでしょう。すると、わたしたちの背にのしかかっていた義務の重荷はなくなり、不遠慮ゆえの安らぎがそれにとってかわるでしょう。そして、神さまに達した者が味わう甘美さを味わうことによって不適切と不毛の苦い味わいはすっかりなくなっているでしょう。

(75)神さまに近づく

神さまにどれだけ近いかは(でも、ほんとうのところは神さまはいつでもわたしたちのすぐ間近におられます)、わたしたちがどれだけわたしたち自身から離れているかによります。神さまに近づくとは、神さまの中にそっくり消え去ることです。そのとき、わたしたちは、じぶんがここに存在し、こうしていること、なにをなすにしても、なにを思うにしても、すべて神さまに支えられているのだということをまざまざと知るでしょう。

一方、もしわたしたちが神さまから遠く離れているとすれば、それは、わたしたちが神さまのご意志や神さまの決定の高いハードルをいくつも越える道のりの途上にいて、そのような道のりを越えているとも気づかずにいるからです。わたしたちは、じぶん自身のもとに立ち止って、神さまと並んでじぶんが存在すると思い込み、じぶんの状態に気を取られているため、そこに現れた神さまの御業が見えなくなっているのです。それは、神さま以外のもの前に立ち止っているせいですが、何度もいうように、ほんとうは神さま以外のものなどありません。それはわたしたちの思い込みですが、その思い込みがわたしたちを障害の前に立ち止らせているのです。

(76)ご命令の一振り

 神さまが「なにか」を思いのままに存在させようとお望みになったときには、「あれ」というご命令の一振りで、それまで存在しなかった「なにか」は神さまの思い通りの形をとってそこにあらわれます。

神さまのことから気の逸れた心にご命令の一振りが出され、なにかをする、あるいは、なにかをしないことが決定されたとき、それは実際に形を取って現れますが、そのとき、じぶんの中に生じた神さまからのご命令の「一振り」はそれによって実現した具体的な形に気を取られて、その一振りの働きを見失います。

その「一振り」の結果生じた具体的な現われから目を離し、「一振り」自体に目を向けてみれば、そこには最初に目にした具体的な形とは別のものが立ち現れるはずです。その別のものとは、ご命令の「一振り」それ自体です。具体的な形に気を取られている限り、その一振りが神さまのご命令の一振りであることに気づくことはできません。すべては様々なご命令の一つの現われに過ぎないのですが、それに気づかず、それとは別のものだと思ってしまうのです。

様々な形をとってわたしたちの前に現れたものがどれもみな神さまのご命令の一振りの現われだという真実を知った人は、じぶん自身を知ったことになります。そして、じぶん自身を知った人は神さまを知ります。わたしたちは、わたしたち自身がじぶんに着せ掛けた様々な形によってじぶんのほんとうの姿からおおわれてしまっています。同じように、神さまも、神さまご自身がごじぶんに対して描き出した様々な形容によって身を隠しておられます。

神さまのご命令の一振り、それこそがわたしたち人間の真の姿で、その上に加えられた様々な形態はその真実をわたしたちに見えなくさせるものにすぎません。神さまが最初の人間アーダムを神さまの似姿に創られた、と言われるのはそういうことです。

(77)すべては一つのご命令、一つの息吹から

神さまのおそばにはべることを望む人は、どんなことをしていても、それに気を取られることなく、神さまのことにすっかり心を向けなければなりません。あなたがじぶん自身を置いて神さまの許に向かうなら、神さまはあなたを受け入れてくださるでしょう。あなたがじぶんを捨て去って神さまに向かえば、神さまもあなたのほうに向かってくださるのです。

わたしたち一人一人は、まなざしの一撃のようにすばやい神さまのご命令の一振りです。わたしたちは多種多様の別個の存在であるかのようですが、実は、神さまのご命令から発せられたただ一つの息吹にほかならず、ご命令が一つなら、息吹も一つであり、ただ、その息吹に多様な側面があるためにわたしたちが多種多様に見えるだけのことです。

わたしが、わたし自身を引っさげたまま神さまの許に行こうとしても、神さまはわたしをご自身から隠されるでしょう。神さまのご命令の一振りが取って現れた形に気を取られて、その大もとの一振りを見過ごし、それでじぶん自身を見失い、あらゆるもののうちに神さまを見出すことからも遠ざけられるのです。わたしがじぶんを捨てずに神さまに向かうなら、わたし自身がおおいとなって、神さまはわたしのほうに向かってはくださらないのです。

(78)行為の人、恩寵の人

一心にへりくだって神さまから命じられたことを果たし、神さまから禁じられたことを退ける人は、行動の基盤となるおきてときまりについてよく知っていなければなりません。でなければ、行動できません。なぜなら、知識がなければ行為はでたらめになるからです。知識こそが行為の道なのです。

行為の人は、じぶんの行為に注意を払い、それを吟味しないとなりません。ですから、じぶんを見ることからどうやっても離れられません。なぜなら、なにをするにつけ、それを知識に照らし合わせ、それが正しいか間違っているか確かめないとならないからです。その結果、ことあるごとにじぶん自身を振り返り、見つめることになるのです。

神さまがじぶんに課した行為において最高の到達点に至りたいと思うなら、行為の人ではなく、恩寵の人となるべきです。つまり、恩寵を受けるに値しない者でありながら、ひとえに恩寵の主である神さまからのご好意によって行為を恵まれる者となるのです。そうなれば、いちいちじぶんの行為を振り返って見る必要はなくなります。なぜなら、なにか行為がわたしの中から生じても、それはわたしの行為ではなく、神さまがわたしの中でなさったものだからです。神さまは、諸々の行為を創った上で、それを「わたしの行為」と呼ぶことをわたしたちに許してくださっているだけのことなのです。

(79)「じぶんの行為」

行為は、神さまから心が逸れ、真実からおおわれた人の道にあるもので、愛の人の道のものではありません。確かに、審判の日には過去になした行いが告げられ、裁かれる、と言われていますが、それは、行為をじぶんのものだと思っている人たちに向けられたことばです。

真実を知った人は、感謝の念のうちに行為をなします。なぜなら、その行為を恵んでくださった方を見ているからです。行為は表向きの形にすぎず、ほんとうは恵みなのです。

行為をじぶんのものだと思っている人は、じぶんが行為者だと思うまさにそのことによって隠れた多神教を犯しています。行為をなすものと、行為がなされるもの、そして、行為それ自体はそれぞれ別のもので、それでは三つのものが存在することになってします。それでは、タウヒード(すべてを唯一なる方に帰属させること)になりません。

だれであろうと、たとえ預言者であろうと、「じぶんの行為」によって楽園に入ることはない、と言われますが、それは、「じぶんの行為」と思っているかぎりは多神教を犯していることになるからです。

(80)静止すること

神さまがご自身を明かしてくださることによって神さまを知った人は、静まります。つまり、手足も心も落ち着き、現世のことでも来世のことでも、どんな状況でもとまどったり右往左往することがなくなります。そういう人には動きはなく、また、静止もなく、神さまの存在の現れの中で本来の無に戻っているのです。静まる、とは、動くもの1つ1つを動かす「わたし」の意志の動きを止め、この創られた世界において静止したものとなることです。命令を発する意志の動きを止めたとき、あなたは、本来の静止状態に戻り、無となるのです。

一方、神さまがご自身を明かしてくださらないために神さまのことを知らない人は、じぶんで神さまを知ろうとして動き回ります。そして、そのためにおおいをかけられ、道から外れ、迷い、太古の昔に定められたことに振り回され、神さまのもろもろの決定に満足せず、心を破滅させる疲れや面倒におちいります。

(81)『アッラーのほかに神はないことを知れ、そして、おまえの罪の赦しを乞え』(クルアーン第47章19節)

わたしたちに求められるのは、神さまの永遠の知識の中においてそうであったように、今現在のわたしたちの知識においてもやはり神さまだけが存在し、わたしもわたし以外のものも神さまと並んで存在するのではない、と知ることです。これこそが「ラーイラーハイッラッラー(アッラーのほかに神はない)」の意味するところですが、それは知ってみて初めてわかることです。神さまのほかには存在者はないにもかかわらず、その神さまと並んでじぶんが存在すると思うこと自体、神さまに赦しを乞わなければならない罪であり、それに匹敵する罪はないとすら言えるものです。

神さまはわたしたちにすべきこととすべきでないことを課し、わたしたちを試み給うていますが、それは、わたしたちがじぶん自身によって行為をなすのか、それとも神さまによって行為をなすのか、それを見極めるためでした。

もしわたしたちが神さまから課せられた命令や禁止に気を取られて、神さまを見失ったなら、また、もしわたしたちが、神さまと並んでじぶんも存在すると思い込み、じぶんの存在をじぶんで支えていると言い張ったなら、つまり、それは神さまがわたしたちをそのように向けられたということですが、そうなれば、わたしたちは間違いなくはめつです。

(82)かくれたシルク

神さまを信じる人のほとんどは、神さまと並んでじぶんも存在すると思い、じぶんで神さまを信じ、じぶんで神さまの命令を果たし、じぶんで神さまの禁止を避けているつもりでいます。でも、そういう人たちの行いは、外に現れたものにしろ、心の内に秘められたものにしろ、はたして神さまの正道において正しいものかそれとも間違っているのか、よくわかりません。なぜなら、それらはすべてかくれたシルク(多神教)の上になされているからです。しかも、その人はじぶんがかくれたシルクをなしているとは夢にも思いません。そこには表立って多神教を思わせるようなことばはありませんから、神さまを信じる人がなしたことは神さまの聖法にかなったものとわたしたちはみなすべきですが、ほんとうにそれらの行いが神さまに受け入れられるものであったかどうかは神さまにまみえる日に初めて明らかになるでしょう。

一方、じぶん自身によってではなく、神さまによって存在し、神さまによって信仰し、神さまによって命令を守り、禁止を避ける人がなすことは、どんなものもその人を神さまに近づけます。その人の行為はその人を神さまから遠くへだたった底辺から神さまのおそばの高みにまで近づけてくれるのです。わたしたちが神さまに近づく行為をじぶんから進んで続けていれば、やがて神さまはわたしたちを愛してくださるからです。

(83)振り出しに戻る

さらによく神さまを知り、また、その神さまの現われの中でじぶんというものを知った人は、神さまを信じるのも、神さまの言いつけを守るのも、禁じられたこと避けるのも、どれもみなそれらを神さまの現れのひとつとしてじぶん自身の手でなします。そういう人は、じぶん自身から身を引いたすぐれた人の境地から、じぶん自身によって立つふつうの信仰者の境地に戻ります。ゴールしたら、振り出しに戻るというわけです。

その人は一見ふつうの人となんらかわりなく、じぶん自身によって立っていますが、それは、ひとつの決定によって定められたことの現れとして神さまがじぶんの許に現れた現われの中でじぶん自身によって立っているのであって、ひとつの理解のもとにそれに形を与えているにすぎないのです。

ふつうの人は、神さまをよく知った人の境地には遠くおよびません。見かけはどちらも同じようですが、じつのところは大違いで、クルアーンの中でも神さまはふつうの人についてはよそよそしく、「神さまは彼らをうしろから取り巻いておられる」と語っておられますが、神さまをよく知った人には親しげにことばをかけ、「おまえたちがどこを向こうと、そこには神さまの御顔がある」と言ってくださっています。神さまを知ったとくべつの人たちがなす行いは、神さまがその人たちのうちにつくられた行いであり、その人たち自身は神さまを見ることに夢中で、じぶんのしていることなど見ていません。

わたしたちの行いはじつにさまざまで、レベルもさまざまです。ふつうの人はそのひとつに立ち止ったままですが、すぐれた人はひとつ、またひとつと上のレベルに昇っていきます。さらにもっとすぐれたとくべつの人はそれらを一気に飛ぶようにかけあがるのです。

神さまを知れば、神さまをかわき求めるそれまでの気持ちは一旦おさまります。でも、神さまをさらによく知ったひとは、知っても知ってもまだもっと知りたいという思いから離れられないでしょう。

(84)神さまのタウヒード

あなたがなんであれ神さま以外のものを求める気持ちを遠ざければ遠ざけるほど、神さまを信じる気持ちは深まり、ゆらぎないものとなっていきます。ふだんの行いであれ、神さまにささげる崇拝行為であれ、あるいはまた、神さまを知り、神さまを見ることであれ、神さま以外のどんなものにも心がひかれることがなくなれば、それだけ、神さまを求める気持ちは増え、神さまを強く確信する心はさだまり、手足は神さまにへりくだるようになるでしょう。

神さまからあなたをかくす覆いにほかならないあなた自身をあなたが避ければ避けるだけ、あなたのタウヒード(神さまを唯一の方とすること)は強固なものとなります。そこにはもはや表立ったシルク(多神教)もかくれたシルクもありませんから、あなたは目の覚めるような真のタウヒードを味わうでしょう。そして、ついには、神さまのタウヒードがあなたを通して現れることによってタウヒードは完成します。つまり、えいえんの昔から、えいえんの未来まで、神さまだけがただおひとりのみ存在するようになるのです。

(85)二重の覆い

神さま以外のものによるタウヒードは、たとえ現れても完全なものとはなりえません。なぜなら、神さま以外のものは、目に見える世界のものも、目に見えない世界のものも、みな、わたしたちがじぶん自身を知ることを妨げる覆いだからです。そして、そうしたものによって覆われたわたしたち自身もまた一つの覆いをなし、それによって神さまの真実を見ることから妨げられています。わたしたちは、神さまを見ることからじぶん自身によって覆いをかけられた上、じぶん以外のものによってじぶん自身を見ることからも覆いをかけられ、つまり、二重に覆いをかけられているのです。

神さまはだれからも覆いかくされてはいません。なぜなら、なにかを覆い包むものは、それよりも大きくなくてはなりませんが、神さまより大きなものはないからです。ですから、神さまご自身は完全な現われで存在しています。ただ、それでいながら、神さま以外のものからはかくれているのです。

神さまは、わたしたちの頭による理解や五感による知覚からかくされています。つまり、わたしたちがわたしたち自身によって、ふだん神さま以外のものを理解し感じ取るのに用いる知覚によってとらえようとしても、神さまはとらえられないのです。

さまざまなものに気を取られてじぶん自身から覆われたわたしたちに、じぶんが何者かを知ることはできず、まして、神さまを知ることはできません。なぜなら、じぶん自身を知った者こそがじぶんをいつくしみ、支えてくださる神さまのことを知るからです。

わたしたちは、わたしたちを取り巻くさまざまなことを知ろうとしてそれらに気を取られていますが、実は、それらはわたしたち自身のうちに現れたわたしたち自身に向けられたわたしのたち自身の一つの現れであり、さまざまなもののうちに輝き出でた神さまの現れにほかなりません。

(86)すべてはわたし自身

わたしたちが理性によって知覚するものは、わたしたちの理解力に応じてわたしたちの心に印づけられた現われであり、理性とは、そうした現われをとらえる能力のことをいいます。人によってその理解力はことなり、すぐれた理解力をもった人もいれば、そうでない人もいます。

神さまの現われについて言えば、そうした印づけは、神さまの特徴やはたらきを表現した神さまのさまざまな名前によって、わたしたちに知覚できる神さまの現われの中に示されます。同じように、わたしたちが感じ取るものはみな、まず目、耳、舌、鼻、その他の身体(つまり皮膚)といった五つの器官に直接に現れた後、人それぞれの持つ五感に知覚された神さまの名前と特徴として現われるのです。

神さまが知る御方であると同時に知られる御方であるように、人間も知る者であると同時に知られる者でもあります。なぜなら、神さまは最初の人間アーダムを神さまの似姿に創られたからです。また、この世にあるものは、すべてわたし自身がわたしのうちに現われたもの、つまり、わたし自身なのです。

(88)サラーム

神さまからじぶん自身によって覆いをかけられ、そしてまた、じぶん以外のものによってじぶん自身からも覆いをかけられたわたしたちは、わたしたち自身から離れれば、神さまを見るでしょう。と言っても、神さまは隠れておられるわけではありません。神さまが隠されることは決してなく、これまでもこれから先もずっと今ここにおられ、わたしたちを見守っておられます。隠れているのはわたしたちのほうであり、神さまの前にいるのに、それが見えていないのです。

もし、あなたが神さまのほうに顔を向け、神さまを目にしたなら、もうほかのものは目に入らないでしょう。いえ、あなたはほかのものを見ているでしょうが、それはもはや「ほかのもの」ではありません。「ほかのもの」と呼んでいたものは単なる名前にすぎず、それには実体はなかったのです。それは、偶像崇拝者が、実体のない像を「神」と呼ぶのと同じようなものです。

「ほかのもの」という名が消えてなくなれば、その名といっしょにそれまでは実体があると思っていたものも消えてなくなります。そして、そこに残るのは、すべてのものが寄って立ち、天と地に現われるすべてのものがその御力によって支えられている真に生きた御方、神さまだけなのです。

このことに気づいたとき、あなたの心は平安に満たされ、もはやこの世とあの世においてなんの恐れも不安もないでしょう。

それでは、サラーム(平安)あれ。(了)

متن الرساله

بسم الله الرحمن الرحيم

كلك شرك خفى ولا يبين لك توحيدك إلا إذا خرجت عنك. فكلما أخلصت يكشف لك أنه هو لا أنت فتستغفر منك. وكلما وحدت بان لك الشرك فتجدد له فى كل ساعة ووقت توحيداً وإيماناً. وكلما خرجت عنهم زاد إيمانك. وكلما خرجت عنك قوى يقينك.

يا أسير الشهوات والعبادات. يا أسير المقامات والمكاشفات أنت مغرور. أنت مشتغل بك عنه أين الاشتغال به عنك. وهو عز وجل حاضر ناظر وهو معكم أينما كنتم فى الدنيا وفى الآخرة. فإذا كنت معه حجبك عنك وإذا كنت معك استعبدك له.

الإيمان خروجك عنهم. واليقين خروجك عنك.

إذا زاد إيمانك نقلت من حال إلى حال. وإذا زاد يقينك نقلت من مقام إلى مقام.

الشريعة جعلت لك حتى تطلبه منه به تعالى لك. والحقيقة له حتى تطلبها به له عز وجل حيث لا حين ولا أين. فالشريعة حدود وجهات. والحقيقة لا حد ولا جهة. القائم بالشريعة فقط تفضل عليه بالمجاهدة. والقائم بالحقيقة تفضل عليه بالمنة. وشتان ما بين المجاهدة والمنة. القائم مع المجاهدة موجود. والقائم مع المنة مفقود.

الأعمال متعلقة بالشرع الشريف والتوكل متعلق بالإيمان والتوحيد متعلق بالكشف الصحيح.

الناس تائهون عن الحق بالعقل. وتائهون عن الآخرة بالهوى. فمتى طلبت الحق بالعقل فقد ضللت. ومتى طلبت الآخرة بالهوى فقد ضللت.

المؤمن ينظر بنور الله. والعارف ينظربه إليه.

ما دمت أنت معك أمرناك. فإذا فنيت عنك توليناك. وما تولاهم إلا بعد فنائهم.

ما دمت أنت فأنت مريد. فإذا أفناك عنك فأنت مراد.

اليقين الأدوم فى غيبتك عنك ووجودك به.

فكم بين ما يكون بأمره وبين ما يكون به. إن كنت قائماً بأمره خضعت لك الأسباب. وإن كنت قائماً به تضعضت لك الأكوان.

أول المقامات الصبر على مراده. وأسطها الرضا بمراده. وآخرها أن تكون بمراده.

العلم طريق العمل. والعمل طريق العلم. العلم طريق المعرفة والمعرفة طريق الكشف. الكشف طريق الفناء.

ما صلحت لنا وفيك بقية لسوانا. فإذا حولت السوى أفنيناك عنك فصلحت لنا فأودعناك سرنا – إذا لم يبق عليك حركة لنفسك كمل يقينك، وإذا لم يبق لك وجود عنك كمل توحيدك – أهل الباطن مع اليقين. وأهل الظاهر مع الإيمان. فمتى تحرك قلب صاحب اليقين نقص يقينه. ومتى لم يخطر له خاطر كمل يقينه. ومتى تحرك قلب صاحب الإيمان بغير الأمر نقص إيمانه. ومتى تحرك بالأمر كمل إيمانه.

معصية أهل اليقين كفر. ومعصية أهل الإمان نقص – المتقى مجتهد. المحب متكل: والعارف ساكن. والموجود مفقود. لا سكون لمتقى. ولا عزم لمحب. ولا حركة لعارف. ولا وجود لمفقود.

ما تحصل المحبة إلا بعد اليقين.

المحب الصادق قد خلا قلبه مما سواه. وما دام عليه بقية محبة لسواه فهو ناقص المحبة.

من تلذذ بالبلاء فهو موجود. ومن تلذذ بالنعمة فهو موجود. فإذا أفناهم عنهم ذهب التلذذ بالبلاء والنعمة – المحب أنفاسه حكمة. والمحبوب أنفاسه قدرة.

العبادات للمعاوضات. والمحبة للقربات – أعددت لعبادى الصالحين مالا عين رأت ولا أذن سمعت ولا خطر على قلب بشر – لما أرادونى لى أعطيتهم مالا عين رأت ولا أذن سمعت.

إذا أفناك عن هواك بالحكمة. وعن إراداتك بالعلم صرت عبداً صرفاً لا هوى لك ولا إرادة. فحينئذ يكشف لك عن نفسك فتضمحل العبودية فى الوحدانية. فيفنى العبد ويبقى الرب تعالى.

الشريعة كلها قبض. والعلم كله بسط. والمعرفة كلها ادلال.

طريقتنا كلها محبة لا عمل. وفناء لا بقاء.

إذا دخلت فى العمل كنت لك، وإذا دخلت فى المحبة كنت له. العابد راء لعابدته. والمحب راء لمحبته.

إذا عرفته كانت أنفاسك به وحركانك له. وإذا جهلته كانت حركاتك لك.

العابد ماله سكون. والزاهد ماله رغبة. والصديق ماله ارتكان. والعارف ماله حول ولا له قوة ولا اختيار ولا إرادة ولا حركة ولا سكون.

الموجود ماله وجود.

إذا استأنست به استوحشت منك.

من اشتغل بنا له أعميناء. ومن اشتغل بنا لنا بصرناه.

إذا زال هواك يكشف لك عن باب الحقيقة فتفنى إرادتك فيكشف لك عن الوحدانية فتحققت به انه هو بلا أنت معه.

إن سلمت إليه قربك. وان نازعته أبعدك. ان تقربت إليه به قربك، وان تقربت إليه بك أبعدك. ان طلبته لك كلفك، وان طلبته له دللك، قربك خروجك عنك. وبعدك وقوفك معك.

ان جئت بلا أنت قبلك. وان جئت بك حجبك.

العامل لا يكاد يخلص من رؤية عمله. فكن من قبيل المنة ولا تكن من قبيل العمل. ان عرفته سكنت. وان جهلته تحركت. فالمراد أن يكون ولا تكون.

العوام أعمالهم متهمات، والخواص أعمالهم قربات. وخواص الخواص أعمالهم درجات. كلما اجتنبت هواك قوى ايمانك. وكلما اجتنبت ذاتك قوى توحيدك.

الخلق حجاب. وأنت حجاب، والحق ليس بمحجوب، ومحتجب عنك بك. وأنت محجوب عنك بهم. فانفصل عنك تشهده والسلام.

 おまえのすべては隠れたシルク(多神崇拝)であり、おまえがおまえ自身から抜け出さない限り、おまえのタウヒード(アッラーこそ唯一なる御方とすること)を彼(アッラー)が明かし給うことはない。ゆえに、おまえが(おまえから抜け出すことにおいて)誠実であればあるだけ、彼は、彼こそがおられ、おまえではないことを開示し給う。そして、おまえはおまえの罪の赦しを乞う。

 おまえがアッラーに唯一性を帰す度、おまえにシルクが明らかとなり、それゆえおまえは彼への唯一崇拝と信仰を毎時毎刻新たにする。また、おまえが彼ら(他者)から抜け出す度、おまえの信仰は増し、おまえがおまえから抜け出す度、おまえの確信は強まる。

 欲望と勤行のとりこよ、階梯と開示のとりこよ、おまえは欺かれている。おまえは彼を離れて自分に専心している。おまえの自分自身を離れての彼への専心はどこへいったのか。威力比類なき彼こそは現世においても来世でもおまえたちと共におられ、目の前におわし、御高覧し給うておられるというのに。おまえが彼と共にいる時、彼はおまえをおまえ自身から覆い給い、一方、おまえがおまえ自身と共にいる時には、彼はおまえを彼に隷属させ給う。

 信仰とは、おまえが彼らから離脱することであり、確信とは、おまえがおまえから離脱することである。

 おまえの信仰が増えた時、おまえは一つの境地から別の境地に転じさせられ、おまえの確信が増えた時、おまえは一つの階梯から別の階梯に転じされられる。

 聖法(シャリーア)はおまえ自身のために、おまえが自分のために至高なる御方を彼ご自身から彼によって求めるよう作られたものであるが、真理(ハキーカ)は彼ご自身のもので、おまえが威力比類なき御方を彼ご自身によって彼ご自身のために、「いつ」も「どこで」もなしに求めるためである。聖法とはいくつもの境界といくつもの方向であるが、真理には境界もなければ方向もないからである。

 聖法にのみよって立つ者は努力を賜り、真実によって立つ者は恩寵を賜る。努力と恩寵の間の開きは大きい。努力と共に立つ者は存在しているが、恩寵と共に立つ者は抹消されている。

 諸行為は聖法にかかわり、タワックル(一任)は信仰にかかわり、タウヒードは正しい開示にかかわっている。

人々は理性によって真実から道を踏み外し、欲望によって来世から道を踏み外すのである。それゆえ、おまえが真実を理性によって求めたなら、おまえはすでに迷いに陥っているのであり、来世を欲望によって求めても、また迷いに陥っているのである。

 信仰者はアッラーの光で眺め、真知者は彼によって彼を眺めるのである。

 おまえがおまえと共にある限り、われらはおまえに命じるが、おまえがおまえから消え去ったなら、われらはおまえを後見しよう。そして彼らが消滅した後でなければ、彼が彼らの後見し給うことはない。

 おまえがおまえである限り、おまえは求める者であるが、彼がおまえをおまえから消滅させたなら、おまえは求められる者となろう。

 最も永続する確信はおまえのおまえからの不在と、おまえの彼による存在のうちにある。

彼のご命令によってある者と彼ご自身によってある者の間の隔たりはいかばかりか。おまえが彼のご命令によって立てば、あらゆる手段がおまえに服すが、おまえが彼によって立つなら、万物がおまえの自由自在となる。

 諸階梯の最初は、彼の望み給うものに対する忍耐である。その中間は、彼の望み給うものに対する満悦である。その最終は、おまえが彼が望み給うものによってあることである。

 知識は行為の道であり、行為は知識の道である。そして、知識は真知の道であり、真知は開示の道であり、開示は消滅の道である。

 おまえの中にわれら以外のものに対するものが残っている限り、おまえはわれらに適さない。おまえが他のもの一切を引き離したなら、われらはおまえをおまえから消滅させよう。そうすれば、おまえはわれらに適したものとなり、われらはわれらの秘密をおまえに託す。おまえにおまえ自身のための動きが残らずなくなった時、おまえの確信は完成し、おまえにおまえ自身の許での存在が残らずなくなった時、おまえのタウヒードは完成する。

 内面の者たちは確信と共にあり、外見の者たちは信仰と共にある。確信を持った者の心が動くなら、彼の確信には欠けるところがあり、彼にどんな心の揺れ動きも起こらなければ、彼の確信は完成している。信仰を持った者の心がご命令なしに動くなら、彼の信仰には欠けるところがあり、ご命令によって動くなら、彼の信仰は完成している。

 確信の民の反逆行為は不信仰であるが、信仰の民の反逆行為は(信仰の)不足である。畏れ身を守る者は努力する者であり、愛する者は拠り頼む者であり、真知を得た者は落ち着いた者であり、存在する者は抹消された者である。畏れ身を守る者に静謐はなく、愛する者に決意はなく、真知者に動きはなく、抹消された者に存在はない。

 確信の後でなければ、愛が生じない。真に愛する者、その心は彼以外のものを空にしている。彼に彼以外のものへの愛が残っている限り、彼は愛において欠ける者である。苦難に喜ぶ者は存在し、恩恵に喜ぶ者は存在する。だが、われらが彼らから彼らを消滅させた時、苦難と恩恵に喜ぶ気持ちは消え去る。愛する者、その吐息は英知であるが、愛された者、その吐息は力である。

 崇拝行為はさまざまな代償のためであり、愛は近接のためである。われは正しきわがしもべたちに目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に浮かんだこともないものを用意した。彼らが、わがためにわれを望んだことに対し、われは彼らに目が見たこともなく、耳が聞いたこともないものを与える。

 われらがおまえを英知によっておまえの欲望から消し去り、知識によっておまえの意志から消し去った時、おまえはおまえになんの欲望もなく、意志もない純粋なしもべとなった。そして、その時、彼はおまえ自身からおまえに対し開示し給う。そして、その時、しもべ性は唯一性の中に消滅する。しもべは消え、至高なる主が残り給う。

 聖法はみな締め付けであり、知識はみな開放であり、真知はみな指示である。

 われらの道、そのすべては愛であり、行為ではなく、消滅であり、残存ではない。おまえが行為に入った時にはおまえはおまえのものである。だが、おまえが愛に入った時、おまえは彼のものとなる。崇拝者は彼への崇拝行為のために彼を見るが、愛する者は彼への愛のために彼を見る。

 おまえが彼を知った時、おまえの吐息は彼と共にあり、おまえの動きは彼のものとなる。だが、おまえが彼を知らなければ、おまえの動きはおまえのものである。

 崇拝者に静謐はなく、禁欲者に願望はなく、篤信者に依存はなく、真知者に境地はない。また、彼には力も選択も意志も動きも静止もまたない。

存在者、彼には存在はない。

もしおまえが彼と親しんだなら、おまえはおまえ自身を疎ましく思うであろう。

 己のためにわれらに専心する者があれば、われらは彼の目を見えなくし、われらゆえにわれらに専心する者にはわれらは彼の目を見えるようにしよう。

 おまえの欲望が途絶えた時、彼はおまえに真実の扉を開き給う。そして、おまえの意志が消え去った時、彼はおまえに唯一性を開示し給い、おられるのは彼であり、おまえは彼と共にあるのではない、ということが彼によって真実のものとなる。

 もしおまえが彼に委ねるなら、彼はおまえを近づけ給い、もしおまえが彼に抗えば彼はおまえを遠ざけ給う。おまえが彼によって彼に近づくなら、彼はおまえを近づけ給うが、もし、おまえがおまえによって彼に近づくのであれば、彼はおまえを遠ざけ給う。また、もしおまえが彼を己のために求めたなら、彼はおまえに負担を課し給うが、もしおまえが彼ゆえに彼を求めたのであれば、彼はおまえを導き給う。おまえの近接とは、おまえのおまえからの離脱であり、おまえの疎遠とは、おまえがおまえの許に留まることである。もしおまえがおまえなしでやって来たなら、彼はおまえを受け入れ給う。だが、もしおまえがおまえと共にやって来るなら、彼はおまえを遮り給う。

 行為者は、己の行為を見ることから抜け出そうとしない。それゆえ、恩寵の方からあり、行為の方からあろうとしてはならない。おまえが彼を知れば、おまえは静まるが、おまえが彼を知らないなら、おまえは動く。目的は彼があらせられることであり、おまえがあることではない。

凡夫の諸行為は懸念であり、選良の諸行為は近接であり、選良の選良の諸行為は階梯である。おまえがおまえの欲望を避ける度、おまえの信仰は強まり、おまえがおまえそのものを避ける度、おまえのタウヒードは強まる。

 被造物は覆いであり、おまえもまた覆いである。真実なる御方は覆われてはいない。おまえによっておまえから身を隠し給うておられるのである。また、おまえは彼ら(他者)によっておまえから覆われている。それゆえ、おまえから身を切り離すがよい、そうすれば、おまえは彼を目撃するであろう。ワッサラーム(平安あれ)。

解説

 『やさしい神さまの話』の元になった『タウヒードについての書簡(Ris±lah fµ al-TawƵd)』の著者アルスラーン・ブン・ヤークーブ・アル=ディマシュキーはダマスカスで没したイスラーム学者ですが、その生涯については殆ど何も知られていません。没年についてさえイスラーム暦540年から711年まで諸説あります。彼が導師を勤めてイスラーム学を講じたモスクに隣接する廟内の墓碑銘には540没と刻まれていますが、『アラブ著述者総覧(MuÔjam al-MuÕallifµn)』にはイスラーム暦699(西暦1300)没と記されています。

 しかし彼はその『タウヒードについての書簡』によってイスラーム学の歴史に名を残しています。同書は邦訳でA4の用紙で3枚足らず小品ながら、多くの注釈書が著されています。そのうちザカリーヤーゥ・アル=アンサーリー(926/1520年没)の注釈『大慈者の開示の書(Kit±b FatÆ al-RaÆm±n)』とアリー・ブン・アティーヤ・アラワーン・アル=ハマウィー(939/1530年没)の注釈 『大慈者の開示の注釈(SharÆ FatÆ al-RaÆm±n)』はムフタル・ホランドによる英訳が出版されています。(Shaikh Walµ Rasl±n Ad-dimashqµ, Concerning the Affirmation of Divine Oneness, 1997, Al-baz Publishing, Florida)『やさしい神さまの話』はアブド・アル=ガニー・アル=ナーブルスィー(1143/1731年没)による同書の注釈書『酒屋の芳香と器楽の音色 - アルスラーン師の論考の注釈(Khumrah al-űn wa-Rannah al-AlƱn - SharÆ Ris±lah al-Shaikh Arsl±n, 1997, Makabah al-Q±hirah, Cairo) 』を下敷きとした翻案です。

アル=ナーブルスィーはオスマン朝時代に活躍したイスラーム学者で、クルアーン解釈学、イスラーム神学、法学、神智学などイスラーム諸学の領域で数百点の作品を残していますが、イブン・アラビー(638/1240年没)とその追従者たちによる「存在一性論(waÆdah al-wuj¹d)」の神智学説の擁護者としても有名です。『酒屋の芳香と器楽の音色 - アルスラーン師の論考の注釈』は「存在一性論学派の神智学者としてのアル=ナーブルスィーの特色が色濃く出た作品です。アル=ナーブルスィーの廟はダマスカスのサーリヒーヤ地区にあり、現在も多くの参詣者を集めています。

私たちが『タウヒードについての書簡』の読了免状をいただいたユースフ・アル=バッフール・アル=ハサニー先生はレバノン出身でアズハル大学シャリーア学部を卒業した後、永年カナダでイスラームの普及に努めたイスラーム学者ですが、アブドゥ・アル=カーディル・イーサーに師事したシャーズィリーヤ教団の導師でもあります。

本書の目的は、イスラーム学の神智学の伝統の中で育まれてきた信仰の言葉を現代日本語に移し、その神髄を日本の同胞たちに伝えることにあります。

主が私たちの拙い業を嘉し、本書を手にされた読者諸賢を祝福し給いますように。アーミーン

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