「タリバンの女性観」http://bit.ly/dzEBaZ に明らかなようにタリバンの女性観は「家父長的」と言えても、必ずしも女性蔑視、女性の「権利」を否定するものではない。但し、それはあくまでも理念の話で、アメリカが自由、平等、人権、民主等の理念を掲げるのと同じ。「タリバンの女性観」の作者は、平均的アラブ人文系大卒者でも書けない格調高い古典アラビア語を操る第一級のムスリム教養人(私より遥かに上)なので、タリバンの下級行政官、戦闘員が、これだけの学識、道義性を備えていると期待することはできません。自由、平等、民主主義、人権等の理念を掲げるアメリカの現実の政治、戦争の実態がそれらの理念を大きく裏切り傷つけているのと同じく、タリバンの行政、政策でも現実が理念を裏切る事態は、地下抵抗運動の常として情報通信、指揮命令系統が万全でなく理念が末端まで浸透しないため、むしろあって当然。理念のレベルの批判と現実のレベルの批判を分ける必要がある。アフガンでは今も女学校、女子生徒が襲撃される事件が散発しているが、タリバンは公式に関与を否定している。指揮命令系統の破壊のために中央が把握しない所で末端が暴走した可能性は否定しきれないが中央の指令でない事は信ずべき。しかし残念ながら、アルジャズィーラのようなタリバンに比較的好意的な中東のメディアすら、タリバンの犯行を示唆する書き方がされている。http://bit.ly/d6ym9I タリバンに関する記事は偏見と歪曲に十分に気をつけて記事を読まなくてはならない。
現在アフガン滞在中の西谷氏が現地の病院の記事の続報をブログに掲載している。http://www.nowiraq.com/blog/ 同氏の善意は疑いないが、写真には成人していると思われる女性(イスラーム法の成人は第二次性徴の発現)の髪や肌を露にした写真がある。こういう無神経な行動が、タリバンに、西欧の慈善活動の裏の真の目的がイスラームの破壊の陰謀だとの疑いが正しかったとの確証を与え、ひいては彼女らの安全を危険に晒すことになることが、「タリバンの女性観」を読めば理解できると思う。賛同や共感を求めているのではなく、ただ「事実」を指摘している。その事実から、タリバンの考えを尊重しアフガン女性に(タリバン流の解釈のと付け加えても構わない)イスラームの教えを遵守させるよう気を配るべき、と考えるか、やはりタリバンは殲滅すべきだ、と考えるかは各自の価値観次第である。
付録: 以下、gharibahさんのツイッターより転載
どうして「捏造されたタリバン情報の訂正」を世の中は広めたくないんだろう?
http://ajwrc.org/jp/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=443 これ、現地のパキスタンでは今年ようやく政府調査結果が出て、「これはイスラマにあるNGOによるやらせ映像」と判明。関係者逮捕。政府はタリバン擁護していなかった。この映像が流れた時国民の大半が抗議した。だが、映像関係者が「あの荒い画質にあの鮮明な音声はあり得ない」と疑問を投げかけ、スワートの現地出身者が「あの訛りはあの土地のものではない」と証言、「捏造映像ではないか」という疑い通りの結果となった。でもねぇ・・・現地ではそう報道されたけど、この「少女の鞭打ち」映像を扱った海外のサイト等はこの調査結果を知らないのか、訂正も補足もしていない。少なくとも日本語の記事はそのようだ。先程アドレスを貼り付けた女性資料センターも未だに当時のままの記事だ。私が調査結果情報を提供したが。
「タリバンの少女鞭打ち事件は捏造映像」記事
http://www.liveleak.com/view?i=aa0_1269890472 http://www.forumpakistan.com/swat-girl-flogging-video-proved-fake-t50919.html
Swat Girl flogging video proved Fake
Last year a Video spread all over Media on TV channels and Internet in which few Pakistani Taliban where showed flogging a 17 years old Girl in name of "Islamic Shariah" in Swat city of Pakistani province NWFP. After coming of this video some so called Secular and Liberal elements started targeting Islam and Shariah. This Video was used by Anti Islam elements to give wrong image to Islam and declare Shariah a Barbaric thing. This Video got millions of views on Youtube and International Media used it to target Islam.
But Yesterday Pakistan Law-enforcement agencies has caught the Maker of this video who has claimed that this Video was fake and he got 1 Lakh Rs for making this video from a NGO. The girl who was showed in the video also got 1 Lakh Rs. The Video was actually made to defame Islam, Shariah, Jihad and Pakistan.This video is the latest example how some Anti Islam elements are using Media to play their dirty game against Islam.
The News
Monday, March 29, 2010
PESHAWAR: A resident of Swat, who claims to have prepared the fake video of flogging of a girl in Swat, has termed it drama and revealed that he received Rs0.5 million for doing so before the launch of military operation ‘Rah-e-Rast’.
Before the operation ‘Rah-e-Rast’, an NGO financed preparation of fake video of flogging in which they portrayed the Tehrik-e-Taliban Pakistan (TTP) members flogging a woman. The provincial government and Malakand Commissioner Syed Muhammad Javed ordered investigations and sought report from the authorities concerned.
After the successful operation in Malakand division, the law-enforcement agencies had arrested the children who were present in the video while a resident of Swat was apprehended by Kohat administration. The children and the arrested man revealed that the video was fake and said that it was made on the demand of Islamabad-based NGO which provided him Rs0.5 million.
Sources revealed that woman who was flogged in the video was also arrested and she revealed that she had received Rs0.1 million while Rs50,000 were given to each child. Sources said that the NGO produced the video to defame the country’s integrity and respect.
Sources stated that the law-enforcement agencies dispatched the report about the arrests of the culprits and proposed action against the NGO. They also said that the security agencies also apprehended the TTP workers who flogged the people.
2010年6月8日火曜日
20100607戦況
アフガニスタン・イスラーム首長国サイトwww.alsomod.org(アラビア語のみ)より、7日付戦況報告:クンドゥス、軍閥アブドッサタール派指揮官と部下3名殺害、ワルダク米装甲車1台破壊兵6名殺7負傷、オルズジャン警察3名殺、ヘルマンド米兵3殺2負傷、ア政府兵2殺。ファラーハ、米戦車2台破壊乗員全員殺害。カンダハル外国侵略軍9名殺害、武器押収。ザービル、外国侵略軍戦車装甲車2台破壊7名殺、ア兵士5名殺。以下、日付無しの見出しより、カーブル10名死傷、ムーサーカルア英兵5殺、パクティア米兵3殺、ホスト米兵5殺、バグラム米兵4殺。
2010年6月7日月曜日
「ターリバーンの思想的基礎(4)」(ターリバーンの女性観)
ターリバーン(イスラーム首長国)の思想の基礎(4)
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=3186:2010-05-20-19-03-12&catid=88:48somoodmag&Itemid=53
10.女性問題に関する聖法に則った見解
ターリバーンの思想における女性問題は、それをめぐって西洋に大きな争論を引き起こさせた重要な問題の一つであり、(西洋は)それを口実にターリバーンの思想とその体制を中傷し、西欧のメディアはアフガン女性が不正に監禁され人権を奪われ自由を制限されており、アフガン社会を構成する男性の営為から遠ざけられ、教育や労働の権利を妨げられている等々などのイメージを流布させた。
こうして自由主義の西洋は空想の上で、アッラーを主としイスラームを宗教、律法として、そして(預言者ムハンマドの弟子の)第一世代の「信徒の母たち(預言者ムハンマドの妻たち)」と貞淑に(神のために)奮闘(ジハード)した女性(ムスリム信徒)たちを手本、模範として信ずるアフガン人女性たちの状態について歪曲されたイメージを捏造した。
西洋は、アフガン人女性を無神論の西洋の基準、価値観によるその穢れた観方で眺めることに固執している。
アフガニスタンの女性問題の真相とは何か?この高貴な被造物(女性)に対するターリバーンの観方はどんなものであろうか?ターリバーンの思想のおける女性の廉直と放縦に関する基準とは何か?アフガン女性の問題に対して西洋が騒音を上げる裏の真の理由は何であろうか?
アフガンの女性問題に関連するこうした諸問題に答えるためには、少し遠回りしてアフガニスタンにおける西洋の女性解放運動の背景について知り、ターリバーンがアフガン女性の西洋化運動に対して確固として立ちふさがり、その計画を阻止し、その結果として不信仰世界全体の憎悪を招き寄せることになったかを知る必要がある。
ターリバーンの思想において、ムスリム女性とは宗教における男性の姉妹同胞であり、(男女)双方の真の宗教(イスラーム)が両者に課した聖法の義務において全く平等である。彼女の兄弟のムスリム男性が聖法の諸規定の遵守を求めらるのと同じように、彼女もまた彼女の主の聖法の諸規定の遵守を求められるのである。
イスラーム社会における彼女の地位は、尊敬される母か、大切な姉妹か、気高い娘か、貞婦かであり、いずれの場合も、尊ばれる人間の女性なのである。
そして女性が奉仕され、男性が奉仕する存在であることにより、女性は男性から区別される。というのは、イスラームの聖法は彼女の養育と扶養、尊厳と名誉の保護を男性の責任としているからである。そしてそれは至高なるアッラーが女性の体質の中に創り給うた自然の生物学的相違を尊重することによってしかありえない。なぜならそれによって女性は男性には担うことができる苦役、激務に耐えられないからである。
女性の廉直と放縦に関するターリバーンの思想の基準、度量衡はイスラームが定め、このウンッマ(ムスリム共同体)の初期世代のイスラーム学者たちが明らかにしてきた基準それ自体である。
十字軍の西洋が、その無神論的性向からしてイスラームを全面的に拒絶することから、女性の正邪に関するターリバーンの基準を拒否するのも驚くにはあたらない。
西洋の脳内の問題は、その物質的自由主義的な西洋的観点からアフガン女性を見ることから生ずるのである。もし(西洋が)アフガン女性を、彼女たち自身の宗教と彼女たちの社会の慣習、そして彼女たち自身の聖法と民族の文明に対する彼女たち自身の道徳的文化的遵守を通して見るなら、アフガンの信徒の女性の問題に関して西欧が妄想したようなものはどこにも見出すことは無いのである。
しかし西洋人たちの頭の中のこの問題は、植民地主義的敵対的目的アフガン女性の思想への攻撃から生じているのである。というのは女性らこそが過去何世紀にも亘ってイギリス人、ロシア人、アメリカ人とその十字軍の同盟者たちに、侵略者たちに苦渋を飲ませてきた戦いにおいて侵略者たちに屈辱を味わわせてきた勇敢な戦士たちを生育してきたからである。
西洋はアフガン女性ムスリムの無法な西洋化の波に抵抗し、女性たちがジハード、移住、忍耐、戦闘準備によって父や兄弟や夫や息子と共に戦線に立つのを見て、敵たちは彼女たちへの攻撃方法を変え、その(新戦略の実行)責任を植民地主義(西洋)諸国がイスラーム世界での玉座に就かせたウンマ(ムスリム共同体)の裏切り者、(西洋の)傀儡の(現地人)為政者たちに負わせ、彼ら(現地人ムスリム為政者たち)が法令や政策や制度でムスリム女性に、脱衣、半裸、彼女たちの宗教の規範からの逸脱を強制したのである。これらのムスリムを自称する犯罪者たちのいかに不正なことか。アフガニスタンでもこうした為政者たちの役割は他のイスラームの国々より少なくは無かった。
ハビーブッラー王が王位に就くと彼は自分の妻から洋服を着せ始めた。その後に彼の息子のアマーヌッラーが彼の王位を継いだが、新王は少年期から西欧の自由主義にかぶれており、6ヶ月以上にも及ぶ奇態な洋行に出かけ、同行したサルヤー王妃はアフガニスタンの衣装を着て出国したが、膝を丸出しにした洋服を着て帰国したのである。
この西洋かぶれの王はジハードとジハード戦士の国に洋服を広めるために、自分の妻に政府要人たちの集まりで頭巾を頭から脱ぎ捨てるように命じ、彼女は男性たちの間に頭を晒し胸を露にして座り、王は名士たちの妻にも同じことをするように命じ、こうして王妃と宮殿から女性の脱衣とイスラーム聖法に則るスカーフへの反対運動が始まったのである。
その後にフランスで育ち自由主義文化に染まったザーヒル・シャー王が登位し、女性の放縦により広く門戸を開き、(男女)共学と道徳的退廃のあらゆる手段を国に広げ、宗教を「民衆のアヘン」と看做す無神論の共産主義の種をこの国に植えたのである。
その後彼の父方甥のムハンマド・ダーウードが彼の後を継ぎ、共産主義者に殺されるまで彼はその(先王ザーヒル・シャーの)政策を継承した。
共産主義者たちと共にこの国のソ連の占領が始まり、赤色共産主義への門戸が開かれ、都市の女性の心にまだ残っていた道徳、宗教、貞節、羞恥心は根絶させられた。
共産主義政権が崩壊した時、ラッバーニーが率いるジハード諸組織が政権を握った。しかし彼の政権は聖法の施行と共産主義の生み出した腐敗の撲滅には関心を示さず、他の(ジハード
諸組織に対立して共産主義者(の残党)と共闘し、(祖)国を悲惨な内戦に落としいれ、何十万の世帯が戦火を逃れて(祖)国を離れて西洋の国々に難民となって脱出した。
これらの家族が西洋に到着すると、西洋社会は彼らを抱き込み、心底からムスリムのアフガン社会を攻撃するための毒槍として彼らを利用するために、堕落した西洋文化に染め上げた。
多大な犠牲の末にターリバーン運動が政権を握ると、(ターリバーン運動は)大都市で以下のように纏められるような極めて道徳的に堕落した状況を引き継ぐことになった。
1. 一連の世俗主義の諸政権が生み出した女性の諸領域における恐るべき道徳的退廃。
2. 女性の無規範主義を信奉する無神論の共産主義が生み出した宗教、道徳的退廃。
3. 堕落した西欧諸国における多くのアフガン人の疎外から生ずる腐敗。
4. 世俗主義と共産主義の諸政権によるイスラーム刑法の施行の廃棄。
5. 堕落した政府が広範に普及させた映画、劇場、クラブ、ラジオ、テレビ、新聞などのメディア、俗悪雑誌、猥褻書籍などによる不品行を広める様々な手段の存在。
6. ムジャーヒィドゥーン政府が腐敗との戦いに失敗し、政府の要人の多くが堕落した組織のネットワークに絡み取られたこと。
7. 教育の全ての段階での共学制度の危険な悪影響。
8. 全ての段階での教育、政府機関でのイスラーム式服装の禁止。
9. 西洋、共産主義諸国のメディアによるイデオロギー攻撃。
10. アフガン人に西洋思想、文化を普及させるための人道、教育、医療支援の装いの下の何百もの西洋諸組織の存在。
かつてこういった原因が女性の諸領域、青年層における極めて危険な状況を生み出しており、この存在する腐敗との戦いはターリバーンに断固たる政策を採ることを要請した。そしてその根絶は、存在する腐敗の規模より強大な矯正の努力なしには可能ではない。それゆえターリバーンは以下のような必要な政策を採ることを余儀なくされた。
1. 女性だけの教育のための環境、カリキュラム、黒板、建物等を用意するまでの一定期間、女性教育を延期すること。
2. それは女性の教育の禁止を意味しない。むしろ国の憲法は、女性のための教育の機会を十分に与えることを明記していたのであり、憲法39条は女性教育はイスラーム聖法の枠内で、そのための法律によって定められる。
3. 聖法の施行と腐敗の広まりの防止のため、聖法に則ったヒジャーブ(スカーフ)の強制。
4. 石打刑と鞭刑を含む聖法に基づく刑法の施行。
5. 勧善懲悪省の設立と、人々へのその宗教の教化、忠告と良き説諭によって不品行を自粛しない者の懲戒。
6. 西洋諸機関の監視と、その全活動の監督。
7. 疑わしい筋の思想的害毒が人々の脳中にその害毒を撒き散らさないように、その出版放送手段を禁止すること。
そして十字軍の西洋と他の邪悪な意図を持つ国々はこの(ターリバーンによる腐敗撲滅)政策を目にしてその(西洋諸国の)迷妄の思想と不信仰の諸理論がアフガン女性と新世代に浸透しないのを悟った時、彼らが堕落させようと奔走してきたアフガン女性の彼らの言うところでは侵害されている権利を請求すると吹聴し始めたのである。
アフガン人の女性の性状は他のイスラームの国々の女性とは多くの点で異なっている。例えばアフガン人女性はアッラーの恩寵によって未だに健全な信仰の天性を保持しており、彼女らの考えは西洋物質主義に汚染されておらず、移住とジハードに耐え、その日暮らしで辛抱しており、露出や裸体よりも貞操と慎み深さを選好している。これらの性質全てによって、彼女らは新しい世代にイスラームの諸原則を教える資格を与えるに相応しい。そしてそれが全ての力をもたらして彼女らを保護するのであるが、またそれが西洋が彼女たちが備えていることに我慢出来ないものでもあるのである。それで西洋はアメリカがアフガニスタンを攻撃し、この国のムスリム女性を堕落させる多くの分野を開拓し、その堕落のための包括的な計画を立案した時、アフガン女性に対する隠れた憎悪から安堵したのである。これらの悪魔的な計画は以下の通りである。
1. イスラームのヒジャーブを脱ぎ捨てるようにとの女性の扇動。それを彼女が投げ捨てるのは、それ(ヒジャーブ)はターリバーン政権と関係するものだから、ターリバーン政権が崩壊した以上、ヒジャーブも脱ぎ捨てられるべきだ、という訳だ。アフガニスタンに向けられた西欧のメディアはこの領域で重大な役割を果たした。
2. 女性問題省という名の女性省の創設。女性は国家問題の一つとなり、それを特別に担当する一つの省が必要となった。この省の創設の裏にある真の目的は、制度的枠組と緻密な計画の下で(組織的に)女性を堕落させることであり、この奇怪な省がアメリカの専門家たちの監督下でそれを執行したのである。おそらくこれは世界の歴史の中でも最も奇怪な省であろう。
3. 生活の全領域において男女の混交に場を開いたこと。政治に始まり、教育、商業、娯楽、ミスコン、遊び場、ダンスホール、芸術と彼らが呼ぶところの破廉恥な遊興、ジャーナリズムやメディア、その他の生活環境である。
4. 数十のテレビ局を開設とそこでの美女の雇用。例えばカーブル市だけでテレビ放送のための20以上の民間局があり、また首都とアフガンの他の州で国営、民営の200以上のラジオ局がある。これらの放送局は最悪の猥褻、不品行を放送し、これらの衛星放送が社会の道徳構造に腐敗、弛緩、分裂をもたらすために、遂には一部の政府官庁でさえがこれらの放送局に倫理上の監督の強制を求めるに至る程であった。にもかかわらず、傀儡政府は西洋諸国が背後についているこれらの放送局の暴走を抑えることができないのである。
5. 西洋社会の以下の3原理に基づくアフガン社会の再構築の執拗な行動。
(a) 万事における男女平等。
(b) 男性の女性に対する管轄権を失わせるために女性の生活の(経済的)自立化。なぜなら女性が夫から経済的に自立すれば、性的目的以外に必要としない一人の男性になぜ付き従わねばならず、多くの従属を課す夫婦の制限に従う代わりに性的本能を自由に満たさないのか。
(c) 社会生活の清廉、貞潔な整序のためにイスラームが設定した防壁の破壊のための男女の完全な混交。
6. 本、雑誌、写真、映画、演劇、ナイトクラブなどあらゆる扇情の手段の大量の持ち込み。警察による倫理規制の廃止、扇情的音楽、若い男女の猥談を放送する数十の放送局の開設。
7. ゲストハウスの名による、大都市での売春宿の開設と、そこへの中国、韓国、旧ソ連圏諸国からの売春婦の輸入。遂には首都カーブルで売春宿の害悪が増大し内務省が介入しその閉鎖を命令じたところ、かつては外国人不信仰者専用であったのを再開するようにアフガン人の若者が公然と求めるようにまでなってしまった。
8. 西洋諸組織によるエイズ対策の美名の下の何百万もの避妊用品の配布。しかし実はそれは保守的なアフガン社会に婚外性交を広めるためなのである。
9. 国内のミスコンへの参加と海外でのミスコンへの派遣のための芸者集団の結成。
10.聖法の諸規定が紙の上のインクでしかなくともわずかなりとも残存している地方裁判所に訴えることを望まない者をおびき寄せるための地方裁判所に隣接にしての女性の権利擁護事務所の設立。
11.油などの食料品で釣って女子を国立学校に誘う一方で男子にはそれを禁ずること。
十字軍の西洋がこれらのことを行うのは、女性であるということで女性のためではなく、アフガン人女性を信仰の天性から逸脱させ、その貞女の性質を歪め、男性か男性もどきにし、子供たちが西洋かインドの映画を見てその価値観や生活様式の影響を受けるがままに家庭を放置するようにするためなのである。
貞節な信仰者の女性は(西洋の)目障りでしかなく、西洋にとっては彼女にはいかなる価値もない。それどこからそのような女性は殺し、破壊し、夜陰に乗じて彼女らの家を襲撃し、泣き叫ぶ彼女らの目の前で夫を殺すに値するのであり、彼女は家の爆撃による子供の殺害で苦しめるべきなのである。なぜならば彼女はジハード戦士の妻、あるいはジハード戦士の疑いがある若者の母だからであり、それゆえに彼女はその家を破壊するか、助けてと叫ぼうとも、牢屋に引き摺って行くべきなのである。
この問題は、問題の本質は、女性のイスラームと信仰との戦いが問題なのであり、女性の権利、あるいは彼女らのターリバーン、あるいは他の誰かに対する闘いの問題ではないのである。
他方、ターリバーンの女性に対する見方は、彼らの心中に深く根付いたバランスの取れたイスラームの見方であり、彼らは女性に授乳され養われ、彼女らの庇護の許に育ち、彼女らの愛情の下にイスラーム教育を受けたのであり、それゆえ彼らは自分たちの血と命を捧げて彼女らの名誉と尊厳を護るのであり、彼女らが西洋の悪鬼や東洋のペテン師どもの慰み物になることを望まないのである。
それゆえ彼らこそ女性とその聖法が彼女らに定める権利の真の擁護者なのであり、彼らこそ堕落した西洋の狼たちから女性を守る者なのである。(続く)
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=3186:2010-05-20-19-03-12&catid=88:48somoodmag&Itemid=53
10.女性問題に関する聖法に則った見解
ターリバーンの思想における女性問題は、それをめぐって西洋に大きな争論を引き起こさせた重要な問題の一つであり、(西洋は)それを口実にターリバーンの思想とその体制を中傷し、西欧のメディアはアフガン女性が不正に監禁され人権を奪われ自由を制限されており、アフガン社会を構成する男性の営為から遠ざけられ、教育や労働の権利を妨げられている等々などのイメージを流布させた。
こうして自由主義の西洋は空想の上で、アッラーを主としイスラームを宗教、律法として、そして(預言者ムハンマドの弟子の)第一世代の「信徒の母たち(預言者ムハンマドの妻たち)」と貞淑に(神のために)奮闘(ジハード)した女性(ムスリム信徒)たちを手本、模範として信ずるアフガン人女性たちの状態について歪曲されたイメージを捏造した。
西洋は、アフガン人女性を無神論の西洋の基準、価値観によるその穢れた観方で眺めることに固執している。
アフガニスタンの女性問題の真相とは何か?この高貴な被造物(女性)に対するターリバーンの観方はどんなものであろうか?ターリバーンの思想のおける女性の廉直と放縦に関する基準とは何か?アフガン女性の問題に対して西洋が騒音を上げる裏の真の理由は何であろうか?
アフガンの女性問題に関連するこうした諸問題に答えるためには、少し遠回りしてアフガニスタンにおける西洋の女性解放運動の背景について知り、ターリバーンがアフガン女性の西洋化運動に対して確固として立ちふさがり、その計画を阻止し、その結果として不信仰世界全体の憎悪を招き寄せることになったかを知る必要がある。
ターリバーンの思想において、ムスリム女性とは宗教における男性の姉妹同胞であり、(男女)双方の真の宗教(イスラーム)が両者に課した聖法の義務において全く平等である。彼女の兄弟のムスリム男性が聖法の諸規定の遵守を求めらるのと同じように、彼女もまた彼女の主の聖法の諸規定の遵守を求められるのである。
イスラーム社会における彼女の地位は、尊敬される母か、大切な姉妹か、気高い娘か、貞婦かであり、いずれの場合も、尊ばれる人間の女性なのである。
そして女性が奉仕され、男性が奉仕する存在であることにより、女性は男性から区別される。というのは、イスラームの聖法は彼女の養育と扶養、尊厳と名誉の保護を男性の責任としているからである。そしてそれは至高なるアッラーが女性の体質の中に創り給うた自然の生物学的相違を尊重することによってしかありえない。なぜならそれによって女性は男性には担うことができる苦役、激務に耐えられないからである。
女性の廉直と放縦に関するターリバーンの思想の基準、度量衡はイスラームが定め、このウンッマ(ムスリム共同体)の初期世代のイスラーム学者たちが明らかにしてきた基準それ自体である。
十字軍の西洋が、その無神論的性向からしてイスラームを全面的に拒絶することから、女性の正邪に関するターリバーンの基準を拒否するのも驚くにはあたらない。
西洋の脳内の問題は、その物質的自由主義的な西洋的観点からアフガン女性を見ることから生ずるのである。もし(西洋が)アフガン女性を、彼女たち自身の宗教と彼女たちの社会の慣習、そして彼女たち自身の聖法と民族の文明に対する彼女たち自身の道徳的文化的遵守を通して見るなら、アフガンの信徒の女性の問題に関して西欧が妄想したようなものはどこにも見出すことは無いのである。
しかし西洋人たちの頭の中のこの問題は、植民地主義的敵対的目的アフガン女性の思想への攻撃から生じているのである。というのは女性らこそが過去何世紀にも亘ってイギリス人、ロシア人、アメリカ人とその十字軍の同盟者たちに、侵略者たちに苦渋を飲ませてきた戦いにおいて侵略者たちに屈辱を味わわせてきた勇敢な戦士たちを生育してきたからである。
西洋はアフガン女性ムスリムの無法な西洋化の波に抵抗し、女性たちがジハード、移住、忍耐、戦闘準備によって父や兄弟や夫や息子と共に戦線に立つのを見て、敵たちは彼女たちへの攻撃方法を変え、その(新戦略の実行)責任を植民地主義(西洋)諸国がイスラーム世界での玉座に就かせたウンマ(ムスリム共同体)の裏切り者、(西洋の)傀儡の(現地人)為政者たちに負わせ、彼ら(現地人ムスリム為政者たち)が法令や政策や制度でムスリム女性に、脱衣、半裸、彼女たちの宗教の規範からの逸脱を強制したのである。これらのムスリムを自称する犯罪者たちのいかに不正なことか。アフガニスタンでもこうした為政者たちの役割は他のイスラームの国々より少なくは無かった。
ハビーブッラー王が王位に就くと彼は自分の妻から洋服を着せ始めた。その後に彼の息子のアマーヌッラーが彼の王位を継いだが、新王は少年期から西欧の自由主義にかぶれており、6ヶ月以上にも及ぶ奇態な洋行に出かけ、同行したサルヤー王妃はアフガニスタンの衣装を着て出国したが、膝を丸出しにした洋服を着て帰国したのである。
この西洋かぶれの王はジハードとジハード戦士の国に洋服を広めるために、自分の妻に政府要人たちの集まりで頭巾を頭から脱ぎ捨てるように命じ、彼女は男性たちの間に頭を晒し胸を露にして座り、王は名士たちの妻にも同じことをするように命じ、こうして王妃と宮殿から女性の脱衣とイスラーム聖法に則るスカーフへの反対運動が始まったのである。
その後にフランスで育ち自由主義文化に染まったザーヒル・シャー王が登位し、女性の放縦により広く門戸を開き、(男女)共学と道徳的退廃のあらゆる手段を国に広げ、宗教を「民衆のアヘン」と看做す無神論の共産主義の種をこの国に植えたのである。
その後彼の父方甥のムハンマド・ダーウードが彼の後を継ぎ、共産主義者に殺されるまで彼はその(先王ザーヒル・シャーの)政策を継承した。
共産主義者たちと共にこの国のソ連の占領が始まり、赤色共産主義への門戸が開かれ、都市の女性の心にまだ残っていた道徳、宗教、貞節、羞恥心は根絶させられた。
共産主義政権が崩壊した時、ラッバーニーが率いるジハード諸組織が政権を握った。しかし彼の政権は聖法の施行と共産主義の生み出した腐敗の撲滅には関心を示さず、他の(ジハード
諸組織に対立して共産主義者(の残党)と共闘し、(祖)国を悲惨な内戦に落としいれ、何十万の世帯が戦火を逃れて(祖)国を離れて西洋の国々に難民となって脱出した。
これらの家族が西洋に到着すると、西洋社会は彼らを抱き込み、心底からムスリムのアフガン社会を攻撃するための毒槍として彼らを利用するために、堕落した西洋文化に染め上げた。
多大な犠牲の末にターリバーン運動が政権を握ると、(ターリバーン運動は)大都市で以下のように纏められるような極めて道徳的に堕落した状況を引き継ぐことになった。
1. 一連の世俗主義の諸政権が生み出した女性の諸領域における恐るべき道徳的退廃。
2. 女性の無規範主義を信奉する無神論の共産主義が生み出した宗教、道徳的退廃。
3. 堕落した西欧諸国における多くのアフガン人の疎外から生ずる腐敗。
4. 世俗主義と共産主義の諸政権によるイスラーム刑法の施行の廃棄。
5. 堕落した政府が広範に普及させた映画、劇場、クラブ、ラジオ、テレビ、新聞などのメディア、俗悪雑誌、猥褻書籍などによる不品行を広める様々な手段の存在。
6. ムジャーヒィドゥーン政府が腐敗との戦いに失敗し、政府の要人の多くが堕落した組織のネットワークに絡み取られたこと。
7. 教育の全ての段階での共学制度の危険な悪影響。
8. 全ての段階での教育、政府機関でのイスラーム式服装の禁止。
9. 西洋、共産主義諸国のメディアによるイデオロギー攻撃。
10. アフガン人に西洋思想、文化を普及させるための人道、教育、医療支援の装いの下の何百もの西洋諸組織の存在。
かつてこういった原因が女性の諸領域、青年層における極めて危険な状況を生み出しており、この存在する腐敗との戦いはターリバーンに断固たる政策を採ることを要請した。そしてその根絶は、存在する腐敗の規模より強大な矯正の努力なしには可能ではない。それゆえターリバーンは以下のような必要な政策を採ることを余儀なくされた。
1. 女性だけの教育のための環境、カリキュラム、黒板、建物等を用意するまでの一定期間、女性教育を延期すること。
2. それは女性の教育の禁止を意味しない。むしろ国の憲法は、女性のための教育の機会を十分に与えることを明記していたのであり、憲法39条は女性教育はイスラーム聖法の枠内で、そのための法律によって定められる。
3. 聖法の施行と腐敗の広まりの防止のため、聖法に則ったヒジャーブ(スカーフ)の強制。
4. 石打刑と鞭刑を含む聖法に基づく刑法の施行。
5. 勧善懲悪省の設立と、人々へのその宗教の教化、忠告と良き説諭によって不品行を自粛しない者の懲戒。
6. 西洋諸機関の監視と、その全活動の監督。
7. 疑わしい筋の思想的害毒が人々の脳中にその害毒を撒き散らさないように、その出版放送手段を禁止すること。
そして十字軍の西洋と他の邪悪な意図を持つ国々はこの(ターリバーンによる腐敗撲滅)政策を目にしてその(西洋諸国の)迷妄の思想と不信仰の諸理論がアフガン女性と新世代に浸透しないのを悟った時、彼らが堕落させようと奔走してきたアフガン女性の彼らの言うところでは侵害されている権利を請求すると吹聴し始めたのである。
アフガン人の女性の性状は他のイスラームの国々の女性とは多くの点で異なっている。例えばアフガン人女性はアッラーの恩寵によって未だに健全な信仰の天性を保持しており、彼女らの考えは西洋物質主義に汚染されておらず、移住とジハードに耐え、その日暮らしで辛抱しており、露出や裸体よりも貞操と慎み深さを選好している。これらの性質全てによって、彼女らは新しい世代にイスラームの諸原則を教える資格を与えるに相応しい。そしてそれが全ての力をもたらして彼女らを保護するのであるが、またそれが西洋が彼女たちが備えていることに我慢出来ないものでもあるのである。それで西洋はアメリカがアフガニスタンを攻撃し、この国のムスリム女性を堕落させる多くの分野を開拓し、その堕落のための包括的な計画を立案した時、アフガン女性に対する隠れた憎悪から安堵したのである。これらの悪魔的な計画は以下の通りである。
1. イスラームのヒジャーブを脱ぎ捨てるようにとの女性の扇動。それを彼女が投げ捨てるのは、それ(ヒジャーブ)はターリバーン政権と関係するものだから、ターリバーン政権が崩壊した以上、ヒジャーブも脱ぎ捨てられるべきだ、という訳だ。アフガニスタンに向けられた西欧のメディアはこの領域で重大な役割を果たした。
2. 女性問題省という名の女性省の創設。女性は国家問題の一つとなり、それを特別に担当する一つの省が必要となった。この省の創設の裏にある真の目的は、制度的枠組と緻密な計画の下で(組織的に)女性を堕落させることであり、この奇怪な省がアメリカの専門家たちの監督下でそれを執行したのである。おそらくこれは世界の歴史の中でも最も奇怪な省であろう。
3. 生活の全領域において男女の混交に場を開いたこと。政治に始まり、教育、商業、娯楽、ミスコン、遊び場、ダンスホール、芸術と彼らが呼ぶところの破廉恥な遊興、ジャーナリズムやメディア、その他の生活環境である。
4. 数十のテレビ局を開設とそこでの美女の雇用。例えばカーブル市だけでテレビ放送のための20以上の民間局があり、また首都とアフガンの他の州で国営、民営の200以上のラジオ局がある。これらの放送局は最悪の猥褻、不品行を放送し、これらの衛星放送が社会の道徳構造に腐敗、弛緩、分裂をもたらすために、遂には一部の政府官庁でさえがこれらの放送局に倫理上の監督の強制を求めるに至る程であった。にもかかわらず、傀儡政府は西洋諸国が背後についているこれらの放送局の暴走を抑えることができないのである。
5. 西洋社会の以下の3原理に基づくアフガン社会の再構築の執拗な行動。
(a) 万事における男女平等。
(b) 男性の女性に対する管轄権を失わせるために女性の生活の(経済的)自立化。なぜなら女性が夫から経済的に自立すれば、性的目的以外に必要としない一人の男性になぜ付き従わねばならず、多くの従属を課す夫婦の制限に従う代わりに性的本能を自由に満たさないのか。
(c) 社会生活の清廉、貞潔な整序のためにイスラームが設定した防壁の破壊のための男女の完全な混交。
6. 本、雑誌、写真、映画、演劇、ナイトクラブなどあらゆる扇情の手段の大量の持ち込み。警察による倫理規制の廃止、扇情的音楽、若い男女の猥談を放送する数十の放送局の開設。
7. ゲストハウスの名による、大都市での売春宿の開設と、そこへの中国、韓国、旧ソ連圏諸国からの売春婦の輸入。遂には首都カーブルで売春宿の害悪が増大し内務省が介入しその閉鎖を命令じたところ、かつては外国人不信仰者専用であったのを再開するようにアフガン人の若者が公然と求めるようにまでなってしまった。
8. 西洋諸組織によるエイズ対策の美名の下の何百万もの避妊用品の配布。しかし実はそれは保守的なアフガン社会に婚外性交を広めるためなのである。
9. 国内のミスコンへの参加と海外でのミスコンへの派遣のための芸者集団の結成。
10.聖法の諸規定が紙の上のインクでしかなくともわずかなりとも残存している地方裁判所に訴えることを望まない者をおびき寄せるための地方裁判所に隣接にしての女性の権利擁護事務所の設立。
11.油などの食料品で釣って女子を国立学校に誘う一方で男子にはそれを禁ずること。
十字軍の西洋がこれらのことを行うのは、女性であるということで女性のためではなく、アフガン人女性を信仰の天性から逸脱させ、その貞女の性質を歪め、男性か男性もどきにし、子供たちが西洋かインドの映画を見てその価値観や生活様式の影響を受けるがままに家庭を放置するようにするためなのである。
貞節な信仰者の女性は(西洋の)目障りでしかなく、西洋にとっては彼女にはいかなる価値もない。それどこからそのような女性は殺し、破壊し、夜陰に乗じて彼女らの家を襲撃し、泣き叫ぶ彼女らの目の前で夫を殺すに値するのであり、彼女は家の爆撃による子供の殺害で苦しめるべきなのである。なぜならば彼女はジハード戦士の妻、あるいはジハード戦士の疑いがある若者の母だからであり、それゆえに彼女はその家を破壊するか、助けてと叫ぼうとも、牢屋に引き摺って行くべきなのである。
この問題は、問題の本質は、女性のイスラームと信仰との戦いが問題なのであり、女性の権利、あるいは彼女らのターリバーン、あるいは他の誰かに対する闘いの問題ではないのである。
他方、ターリバーンの女性に対する見方は、彼らの心中に深く根付いたバランスの取れたイスラームの見方であり、彼らは女性に授乳され養われ、彼女らの庇護の許に育ち、彼女らの愛情の下にイスラーム教育を受けたのであり、それゆえ彼らは自分たちの血と命を捧げて彼女らの名誉と尊厳を護るのであり、彼女らが西洋の悪鬼や東洋のペテン師どもの慰み物になることを望まないのである。
それゆえ彼らこそ女性とその聖法が彼女らに定める権利の真の擁護者なのであり、彼らこそ堕落した西洋の狼たちから女性を守る者なのである。(続く)
2010年6月6日日曜日
1-4(الدعائم الأساسیة لفكر طالبان )الإمارة الإسلامية
الدعائم الأساسیة لفكر طالبان (الإمارة الإسلامية)
الأحد, 17 يناير 2010 21:51
بقلم: عبد الوهاب الكابلي
ظهرت حركة طالبان (الإمارة الإسلامية) في نهایة القرن العشرین المیلادي، لتكون طليعة الحركات الإسلامیة للقرن الحادي والعشرين، وكأن الله تعالی كان یرید أن یضرب أعتی قوة في الأرض وهي قوة العالم الصلیبي بأضعف قوة عسكریة في الأرض، لیعلم الناس من جدید أن القوة الحقیقیة هي قوة الإیمان، لا قوة المادة التي یعبدها معظم الناس في هذا الزمن، فكان میلاد حركة طالبان، ثم وصولها إلی الحكم، وتقدیمها للبشریة نوعاً جدیداً من الحكم نسيه الناس منذ قرون من الزمن وهو الحكم بما أنزل الله.
فنفذوا شریعة الله، و أسعدوا العباد بتوفیر الأمن والطمأنینة لهم، وحاربوا الظلم، والفساد، والقوانین الجاهلیة، التي فرضتها علی الأفغان القوی الاستعماریة بید عبیدها ممّن ینتسبون إلی الإسلام، فحاربتها الدول الصلیبیة، ورماها عالم الكفر عن قوس واحدة، واتحدت للقضاء علیها جمیع ملل الكفر والنفاق تحت رایة راعیة الصلیبیة العالمیة في هذا الزمن. إلاّ أن الله تعالی وفّق (الإمارة الإسلامية) للثبات أمام جیوش العالم الكفري، وها هي الآن وصلت من جدید إلی مشارف الفتح المبین إن شاء الله تعالی.
إن حركة طالبان هي حركة فریدة من نوعها في كفاحها، ونظریاتها، وقناعاتها الفكریة، ونظرتها إلی الكون، والبشر، ومعاییرها للتعامل مع غیرها.
فما هي الدعائم الفكریة التي تستند إلیها الحركة في اتخاذ سیاساتها، وتنطلق منها في إجراء خططها و برامجها؟
إنّه سؤال یتشوّق الناس في العالم لمعرفة جوابه، والإجابة علی هذا السؤال یقتضي العودة إلی معرفة الخلفیة الفكریة ومصادر التلقّي والإطّلاع علی المنهج الذي تربّی علیه قادة الإمارة الإسلامية.
فهنالك یمكننا التعرف علی ظاهرة (طالبان) ونظریتها تجاه الحكم والسیاسة، وفهمها للشریعة الإسلامیة و تفسیرها لحوادث التاریخ الإسلامي، و بما أنّ العبد الضعیف عمل لسنوات طویلة في صف الحركة وشاهد نشأتها، ومراحل تطورها، واطلع علی نفسیات قادتها ومنسوبیها، و درس علی نفس المنهج والطریقة التي درسوا علیها، وتأثر من نفس البیئة التي تأثروا منها، فقد یسرّ الله تعالی لي أن أتعرّف عن كثب علی الحركة بعيداً عن التأثیرات الخارجیة التي نتجت عن التعتیم الإعلامي الغربي والتي بنی علیه بعض الناس تصوّرهم عن الحركة و تصرّفاتها، فأجحفوا في حقها عن عمد، أو بالغوا في أمرها و هم لا یعلمون عن حقیقتها الكثیر، فحاولت في هذا المقال أن ألخّص الدعائم الفكریة والركائز الأساسیة للحركة وتصوّرها عن الحكم والنظام، والكفر والإسلام، ولا أدّعي الصواب الكامل فیما توصّلت إلیها من معرفة هذه الدعائم، و إنما هي نقاط أساسیة وخطوط عریضة لهذا الفكر استوحیتها من واقع الحركة ومواقفها تجاه الحوادث ومجریات الأمور وهي كالتالي:
1 – فهم قادة الحركة ومؤسسیها للإسلام: إن مؤسسي الحركة وقادتها السیاسیین و العسكریین كلهم من المنتسبین إلی العلم الشرعي بین عالم متخرج وطالب لا یزال في مرحلة طلب العلم الشرعي، و مصادر التلقي عندهم هي أدلة الشرع التي كانت في زمن سلف هذه الأمة، یدرسونها في الكتب التي ألفّها علماء الإسلام في القرون الماضیة التي كان یفهم فیها الناس الدین خالصاً نقیا عن التفسیرات المنحرفة والشوائب الفكریة الدخیلة التي تسرّبت إلی المعرفة الإسلامیة في كتب علماء العصر الأخیر ومذكراتهم التي ألّفوها بعد تأثیر المستعمرین الغربیین، والمستشرقین الحاقدین علی الإسلام في المناهج التعلیمیة لبلاد العالم الإسلامي، وكان من تأثیر هذه الكتب أن قدّمت العلم الشرعي علی الطریقة الغربیة منزوعة الروح، و لم توجد في نفوس دارسیها ضرورة العمل بما یتعلمونه من النظریات الدینیة والأحكام الشرعیة، بل قدّمت العلم الشرعي كشيء من التراث یشوبه كثیر من تأثیرات الفكر الاستشراقي التي تثیر الشكوك في صحة الشریعة و صلاحیتها للتطبیق. وهذه الشریحة من العلماء أنتجتها الجامعات الحكومیة وغیر الحكومیة التي أُنشئت في العالم الإسلامي من قِبَل الحكومات التي لا تؤمن بالإسلام كشریعة و قانون لحیاة البشر، بل تسعی لإقصائه من واقع الحیاة لیخلو مكانه للقوانین الوضعیة وشرائع الغرب، فهي لا ترید للناس أن یفهموا الإسلام خالصا نقیا عن تأثیرات الفكر الغربي كیلا لا یثور الناس ضدها لانحرافها عن الإسلام الحقیقي.
أمّا طالبان فهم في منجاة من هذا الفهم المشوب للإسلام، لأنهم درسوا الإسلام في المدارس الدینیة الخالصة أو المساجد، والتي لا تسیطر علیها الحكومات العمیلة، فأوجدت فیهم أصالة المنهج ونقاء العلم فهماً قریباً من فهم السلف للدین والشریعة، ولا شك أن هذه المدارس فیها نقائص كثیرة في مجال الإدارة وتحدیث النظم و طریقة تقدیم المعلومات، و ربّما في خلوّ مناهجها من بعض العلوم الضروریة التي استجدت في مجال المعرفة.
ولكن هذه النقائص لم تمنع دارسي هذا المنهج من أن یفهموا الإسلام علی مراد الشریعة و طریقة السلف.
وكان من تأثیر خلوّ المنهج من تأثیرات الفكر الغربي أن یكون هناك انفصال كامل بین أفكار و سیاسات خریجي مدارس الدینیة الخالصة، وبین أفكار وسیاسات من ربّاهم الغرب علی طریقته، و أن لا تكون هناك نقاط الوصل بین الإسلام ومقتضیاته من معتنقیه، و بین كفر و أتباعه.
وهذا الذي أغاظ الغرب و ألّب أمم الكفر ضد طالبان الذین لا ینتهجون المنهج الغربي في السیاسة والحكم والقوانین والعلاقات الدولیة وغیرها من مجالات الحیاة.
فأعلن الغرب حرباً عالمیة شعواء ضد فكر طالبان و فهمهم للإسلام، ولم یكتف بالحرب العسكریة فقط، بل بدأ یخوض حروباً كثیرة ضد طالبان في مجالات التعلیم، و الإعلام، والاقتصاد، والسیاسة، والاجتماع، و ینفق مئات الملیارات من الدولارات في جمیع هذه المیادین للقضاء علی تأثیرات فكر طالبان التي ظهرت بأشكال مختلفة في المنطقة، خوفا من أن یقضي هذا الفكر علی النظریات الغربیة التي عمل لترسیخها الغربیون في أذهان المسلمین في العالم الإسلامي، فالحرب في أفغانستان ضد الإمارة الإسلامية لیست حرب القبض علی الشيخ أسامة حفظه الله أو غیره، بل هي حرب ضد الفكر الإسلامي الأصیل الذي لا یتصالح مع الغرب الصلیبي، و أذنابه من حكام البلاد الإسلامية، ونتوصل بعد مطالعه نظریة طالبان ومواقفهم السیاسیة أن العلم الشرعي عندهم لیس شیئاً یدرس للشهادات والوظائف والتفاخر العلمي وإنما هو دین یجب أن یخرج من النظریة إلی التطبیق العملي مهما كلفهم من التضحیات، و لا شك أن تطبیق الشریعة یحتاج إلی إزاحة الحواجز والعراقیل التي تحول بین المسلمین و بین إقامة نظام علی أساس الإسلام، وهذه الإزاحة إنما تكون باستخدام القوة العسكریة إذا لم تنفع هناك قوة الدلیل والبرهان، وهذا ما فعله طالبان أثناء حكمهم في أفغانستان، ولا زالوا یقدّمون الدماء والأشلاء في سبیل تطبیق ما تعلموه من شریعة ربهم تعالی، وهذا الذي یمیّزهم ممن یتعلمون الدین علی الطریقة الأكادیمیة ضمن القوالب الغربیة للعلم والتعلیم، فعلماء الجامعات یدرسون العلوم الشرعیة للإطلاع والتحقیق، أمّا طالبان وهم أبناء المدارس والمساجد فیدرسون العلوم الشرعیة للعمل والتطبیق.
2 - عدم تلوّث أفكارهم وعقولهم بالفساد الذي أوجدته الحضارة الغربیة في مجالات الفكر والسلوك والسیاسة والنظام.
إن الأنظمة والحكومات الطاغوتیة التي تسلّطت علی البلاد الإسلامیة وشعوبها معظمها جاءت عن طریق المستعمرین الغربیین بعد أن قام المستعمرون بتربیة هذا الجیل وإعداده في المدارس التي أنشؤها في البلاد الإسلامیة، أو أُرسِلوا في بعثات تعلیمیة إلی البلاد الغربیة لیتلقّوا التربیة علی أيدي الغربیین وفي بیئة بعیدة عن كل أنواع التأثیر الإسلامي لیتمّ إعدادهم كحكام لمستقبل العالم الإسلامي بعد رحیل المستعمرین.
ودرسوا المناهج التي وضعها المستعمرون لغسیل مخّهم، فتلوّثت عقولهم وأفكارهم بالفلسفات المادیة والإلحادیة لفلاسفة الغرب الذین تحرّروا عن كل قید دیني، وتلقوا الأسالیب اللادینیة في الحكم والسیاسة والنظام، وتشرّبت نفوسهم التعلیمات الكفریة في رفض الدین والاستسلام له، وبعد أن عاد هذا الجیل من الجامعات الغربیة وكانوا قد اصطبغوا بشكل كامل بالصبغة الغربیة، سلّمتهم الدول الاستعمارية زمام الأمور في البلاد الإسلامیة المستعمَرة، فانتهجوا في حكوماتهم و إداراتهم المناهج والنظریات الغربیة الإلحادیة وأقصوا الشریعة عن الحكم و التطبیق، بل حاربوها محاربة شدیدة، و وضعوا قوالب جدیدة في جمیع جوانب الحیاة لیصوغوا فیها الشعوب صیاغة غربیة وفق المعاییر التي وضعها المستعمرون لصیاغة مستقبل العالم الإسلامي، فأقام بعضهم الأنظمة الشیوعیة الملحدة، و بعضهم الأنظمة العلمانیة اللیبرالیة التي ترفض التحاكم إلی الشریعة، وأذاقوا شعوب العالم الإسلامي الویلات تلو الویلات في سبیل تطبیق مبادئهم المستوردة عن طریق ممارسة القهر والتعذیب والسجون. وهكذا تحوّل العالم الإسلامي في أقل من قرن إلی ذیل للغرب بعد أن فقد شخصیته الإسلامیة المستقلة، و أصبح الإسلام غریبا في دیاره، كما أصبح المسلمون غرباء في دیارهم تحكمهم القوانین والنظریات الأجنبیة.
أمّا (طالبان) فلم تتلوّث عقولهم بالفساد الذي أحدثته الفلسفات الغربیة من العلمانیة والديمقراطية، والبراغماتیة، والذرائعیة، ومنطق المصلحة واللذة، ولغة القهر والخداع في معاملة الأمم و الشعوب، بل اتخذوا أفكارهم و نظریاتهم وفلسفة حیاتهم، ومعاییر التعامل مع غیرهم جمیعها من الشریعة الإسلامیة، و بدأوا بإحیاء ما أماتته اللادینیة من أحكام الشریعة الإسلامیة في جمیع میادین الحیاة، ولم یبالوا بمخالفتها أو موافقتها لما توافقت علیها ما یسمی بالمجامع العالمیة مادامت أمر بها الإسلام، وقد ألغوا جمیع الأنظمة والقوانین المخالفة للشریعة الإسلامیة والتي استوردتها الحكومات اللادینیة السابقة.
و لّما رأی الغرب أن طالبان تقدّم للمسلمین والعالم نموذجاً آخر من الأفكار والنظریات التي تخرج الناس من ظلمات المعاییر الغربیة المادیة إلی نور الإسلام، وعدل الشریعة الإسلامیة، ومن نفاق السیاسات الغربیة إلی نقاء الإسلام وشفافیة تعلیماته السمحة، ومن تضلیل الحكومات العمیلة إلی الاهتداء بمنهج سلف أمة الإسلام، فوجد الغرب في هذا العمل الخطر علی مبادئه التي عَمِل لنشرها في العالم الإسلامي، وأقنع المسلمین بجدواها دهورا من الزمن.
فلذلك بدأ الغرب یوجّه سهام اتهاماته و إساءاته إلی فكر طالبان ونظامهم لتنفیر الناس منه، كیلا یقلده المسلمون في البلاد الإسلامیة الأخرى والتي كبّلت القوانین الغربیة حریات أهلها الدینیة، و أفسدت التصورات الغربیة عقول الناس و أفكارهم فیها.
3 – رفض التحاكم إلی ما یسمی بالشرعیة الدولیة والأمم المتحدة وقوانینها وقرارتها:
إن ما یسمّی الیوم بالشرعیة الدولیة والأمم المتحدة بجمیع فروعها وإداراتها المدنیة والعسكریة فهي في الحقیقة غطاء برّاق لإخفاء الفعّالیات و السیاسات الاستعمارية التوسّعیة، وفرض الهیمنة السیاسیة والقضائیة من قََِبَل عدد من الدول القویة علی الدول الضعیفة ومنها الدول الإسلامیة، فوضعت الدول القویة القوانین واللوائح والقرارات لهذه الإدارات التي تسمّی (بالدولیة) علی شكل تضمن تفوّقها علی بقیة الدول بتقیید صلاحیاتها وتكبیل أیدیها بالقوانین الظالمة، وهذا ما شهده العالم خلال أكثر من ستین سنة ماضیة، فهي في الحقیقة وسیلة لإضفاء الشرعیة علی الإجرامات التی ترتكبها الدول الاستعمارية في حق الدول و الشعوب الضعیفة.
ولكی یتحّتم تطبیق هذه القوانین علی جمیع الشعوب المضطهدة فقد أحاطها الغرب بهالة عظمیة من القداسة حیث جعلها لا تقبل أی نقد، أو مناقشة، أو إعادة نظر في صیاغتها، وتبدیل موادها، وكأنها فوق جميع المقدسات والتعالیم السماویة التي أنزلها الله تعالی علی أنبیائه لإسعاد البشر.
وبما أن أنظمة وحكومات العالم الإسلامي من صنائع الغرب المستعمر، و یدیر شئونها أناس ممن خانوا الله تعالی ورسوله وأخلصوا الوفاء للدول الاستعمارية التي مكنوهم من الوصول إلى الحكم و البقاء فیه، فقد آمنوا بقوانین و قرارات هذه الإدارات (الدولیة !!؟) كما یؤمن المسلمون بالإسلام، وتفانی هؤلاء العملاء في التحاكم إلیها وتطبیقها كما یتفانی المسلمون في الاحتكام إلی شرع الله و تطبیقه في شؤون حیاتهم.
وهكذا تحكمت الهیمنة الغربیة القانونیة علی حیاتنا في دول العالم الإسلامي، وأصبح الخروج علی هذه القوانین أو رفض التحاكم إلیها من أعظم الجرائم التي یعاقب لمخالفتها دول وشعوب بالقتل الجماعي، والتدمیر، والتشرید، وإسقاط حكوماتها، والسیطرة علی ثرواتها، إلی أن تنقاد لهذه القوانین طوعاً أو كرها.
ولكن (طالبان) أبطلوا هذه الأسطورة و أعلنوا خروجهم علیها، ونادوا بأعلى صوتهم أن التحاكم یجب أن یكون لشرع الله أوّلا وأخیراً في جمیع الشؤون الداخلیة والخارجیة، وأثبتوا بثباتهم علی مبادئهم وإیمانهم الذي لم یتزعزع أمام العواصف الشدیدة أن العزة لله ولرسوله و للمؤمنین و لكن المنافقین لا یعلمون.
ولم تبق هذه الدعامة الفكریة لدی طالبان في حدود شعار أجوف كما ترفعه بعض الجهات المنتسبة إلی الإسلام، بل صدّقه العمل منهم حین واجهوا ابتلاء التحاكم إلی القرارات الدولیة أو التمسك بمرجعیة الشرع في جمیع الشؤون، فرفضوا الاستسلام إلی قرارات الشرعیة الدولیة!!
وتمسكوا بالإسلام وإن كان ثمن هذا التمسك ذهاب حكومتهم ونظامهم الذي أقاموه بدمائهم وأشلائهم بعد تضحیات عظیمة، لأن الهدف من الحكم عندهم كان إعلاء كلمة الله تعالی، وما دامت كلمة الله كانت لا تعلو في الحكم، فلم تكن هنالك أیة قیمة في فكرهم للحكومة لیساوموا علیها الغرب.
ولكن كل هذا لا یمنعهم من أن یؤیّدوا اللوائح والقرارات الدولیة التي لا تتعارض مع تعالیم الإسلام.
وهذا الفهم هو نفس الفهم الذي كان یلقّنه الرسول صلی الله علیه وسلم أصحابه حین رغّبهم للهجرة من مكة، ولم یرض بالاشتراك في الحكومة مع الجاهلیة في مكة، وإن كان أهل مكة یرضون برئاسة رسول الله صلی الله علیه وسلم للحكومة بشرط أن لا یمسّ جاهلیتهم في الحكم والقوانین والتحاكم إلی ما وجدوا علیه آباءهم.
إن إحیاء مثل هذا الفهم لمن المآثر العظمیة لطالبان في زمننا الذي یتسارع فیه الحكام إلی الخنوع و الاستســــــــــــلام إلی
القوانین الكفریة للبقاء علی سدات الحكم.
4 - إخلاص الولاء لدین الله تعالی وعدم مساومة أهل الباطل:
هناك الكثیر من الحركات والجماعات الإسلامیة التي تدّعي الولاء لدین الله تعالی ما لم تكن هناك محن و ابتلاءات، أمّا إذ جاءت المحن الشدیدة والابتلاءات الممحصة فسرعان ما یمیلون إلی المداهنة والمساومة، ویصانعون أهل الباطل علی حساب المبادئ الإسلامیة للحفاظ علی مكاسبهم الدنیویة، والأنكی من هذا هو أنها تحالف الأعداء بشكل مخز وتفتح جبهة حرب من الداخل ضد المجاهدین والمدافعین عن دین الله تعالی، وتكیل للمجاهدین تُهم الإرهاب والتطرف، وقلّة العلم، وعدم الفهم لروح الإسلام، و تردد نفس المصطلحات والشعارات التي یسعی لترویجها العدو ضد الجهاد والمجاهدین، وكم عانت أمّتنا من هذه الجماعات والحركات المتاجرة بالإسلام؟. وكم من المفاهیم الإسلامیة مُسِخَت من أفعال هذه الجماعات و مواقفها المشینة؟ وكم من هذه الجماعات والأحزاب المنتسبة إلی الإسلام رأیناها وهي تنضم إلی الحلف الصلیبي العالمي ضد المجاهدین بحجة إدانتها للإرهاب والتطرف ؟
أمّا حركة طالبان فهي بفضل الله تعالی أخلصت ولاءها من الیوم الأول للإسلام، ولم تصانع الجماعات والأحزاب المشبوهة في وصولها إلی الحكم، ثم أثبتت إخلاص ولائها من جدید بتطبیقها الشریعة الإسلامیة وكانت قد نُحیت من التنفیذ لأزمنة طویلة، وقد قامت بهذا العمل العملاق الذي عجز عنه الإسلامیون فی العالم رغم الإساءات و توجیه الاتهامات إلیها والتشكیك في أمرها، وكان رصیدها القوي في هذا المشوار الشاق هو إخلاص ولائها لدین الله تعالی.
ولا ندّعي بذلك عصمة طالبان من أي خطأ أو زلل في تطبیق الشریعة، أو نقاء صفوفها من العناصر السیئة، فهي كأيّ حركة أخری كان فیها أصحاب الأغراض، و طلاب المناصب، وربّما الدخلاء من رواسب المنظمات الجهادیة السابقة الذین تزعزع ولاؤهم للإسلام أمام الدولارات الأمریكیة، ولكن هؤلاء خذلوا الحركة حین جاءت المحن فلفظتهم الحركة ولم یبق لهم في صفوف طالبان أیة مكانة. ( یتبع )
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=1561:fiker-taliban44&catid=50:44somoodmag&Itemid=58
الدعائم الأساسیة لفكر طالبان – الإمارة الإسلامية (الحلقة الثانية)
السبت, 20 مارس 2010 18:19
بقلم: عبد الوهاب الكابلي
5 - دفع العلماء وأهل الدین للقیادة ّبعد تنحیة الملوك والعلمانیین لهم من هذا المجال: إن حركة طالبان تری من خلال فهمها لروح هذا الدین وتاریخه المجید أن حق القیادة السیاسیة للأمة الإسلامیة هو لعلماء الدین وورثة الأنبیاء، وهذا ما حكمت به تعالیم الدین الإسلامي بكل الوضوح، وخیر مثال لهذا النهج هو شخص النبي صلی الله علیه وسلم حیث كان هو القائد الأعلى للدولة الإسلامیة إلی جانب منصب النبوة الشریف، فهو الذي كان یدیر الشؤون السیاسیة و العسكریة، والمالیة، و التشریعیة للأمة، وهو الذي كان یضع الخطوط العریضة للسیاسة الدولیة للدولة الإسلامیة بالإضافة إلی تعلیم الأمة دین ربها، و إخراج الإنسانیة من الظلمات إلی النور .
الحلقة الأولى من هذا الموضوع نشر في مجلة الصمود العدد الرابع والأربعون:
على العنوان: اضغط هنا
وفيها: 1 – فهم قادة الحركة ومؤسسیها للإسلام
2 - عدم تلوّث أفكارهم وعقولهم بالفساد الذي أوجدته الحضارة الغربیة في مجالات الفكر والسلوك والسیاسة والنظام.
3 – رفض التحاكم إلی ما یسمی بالشرعیة الدولیة والأمم المتحدة وقوانینها وقرارتها.
4 - إخلاص الولاء لدین الله تعالی وعدم مساومة أهل الباطل.
وبعد وفاته صلی الله علیه وسلم فُوٍّض أمر قیادة الأمة إلی أعلم رجل بدین الله تعالی ، وأعرف إنسان بروح شریعة الإسلام وهو أبو بكر الصدیق رضي الله عنه و أرضاه، وهكذا كانت تنتقل القیادة من عالِم إلی عالِم ، وفي ظل قیادتهم الحكیمة كانت تتسع رقعة دولة الإسلام و تنتشر دعوته في الآفاق.
وبعد انقضاء خیر القرون جاء دور الانحطاط بسبب انحراف الناس عن تعالیم الدین، وأُسندت القیادة السیاسیة للأمة في كثیر من الأحیان إلی من تحكمهم أهواؤهم أكثر مّما تحكمهم شریعة ربهم ، فكانت هناك تساهلات في أمر تطبیق الشریعة، والتي تسببت في ضعف شوكة الأمة، فخسر المسلمون بلاداً كثیرة، وذاقت الأمة الویلات تلو الویلات، ولم یخرجها من حمأة هذا الذل إلا القادة الذین كانوا یتحاكمون إلی الشریعة في كل الأمور، فأعادوا الأمور إلی نصابها، كأمثال الأیوبيّ ، والغزنويّ ، والمظفر قطز، وغیرهم ممن كان معهم زادهم من العلم الشرعي ، أو كانوا یستنیرون بعلم من معهم من علماء الإسلام .
إلاّ أنّ تلك الأدوار التاریخیة المزدهرة لم تدم طویلاً ، وآلت الحاكمیة إلی أیدي الحكام المستبدین الذین قدّموا أهواءهم علی الدین، واضطهدوا أهل الدین و علماءه، وعملوا بمكرٍ لتنحیة علماء الشرع عن میدان السیاسة والقیادة.
وقد قام المحتلون الأجانب بعد استیلائهم علی الحكم في بلاد المسلمین بفصل الدین عن الحیاة، وروّجوا اللادینیة، وقضوا علی أيّ دور للدین في أمور الحیاة والحكم، كما قاموا بتحجیم دور العلماء في أمور الحیاة والسیاسة، فصاروا یتسلّون ببعض العبادات الانفرادیة ومدارسة أحكامها في مدارسهم التي غلبت علیها الرهبنة بعد أن كانت منارات للدعوة والإرشاد، و تخریج القیادات التي كانت تذود
عن حیاض الأمة .
ولم یكتف المستعمرون بذلك، بل أنشأوا جیلاً جدید من أبناء المسلمین في المدارس الحكومیة التي أنشأوها و قررّوا فیها تدریس المناهج اللادینیة بواسطة المدرسین الأجانب أو تلامذتهم من بني جلدتنا الذین تربّوا في أحضان المستشرقین والمنصرین تحت رعایة الاستعمار .
وبدأ الجیل الجدید معاداة الدین ، وأصبح یتنكر لمبادئه وأحكامه ، وأخلص في الولاء للمحتلین الأجانب الذین سلّموهم زمام أمور البلاد بعد رحیلهم عنها عسكریاً، وكان من أمر هذا الجیل المتفرنج أن أوجد طرازاً جدیداً من القیادة والحكم ما هو ظاهره انتساب إلی الإسلام و باطنه مروق من الدین و محاربة لشعائره و أحكامه .
ولكی یخلو المجال بأكمله لهذا الجیل المتفرنج فقاموا بإقصاء العلماء و الغیّورین علی الدین من القیادة ومراكز صنع القرار لیتمكنوا علی أوسع نطاق من صیاغة الشعوب الإسلامیة في قالب الغرب من دون أن یواجهوا العراقیل.
هذا وقد وضع المستعمرون الأجانب لهذا الجیل الجدید قبل رحیلهم دیناً جدیداً أحلّوه محل دین الله تعالی وهو دین (الديمقراطية) الذي یحكم البشر بأهواء الناس، ویستوي فیه أفضل الخلق في هذا الزمن بأفجر المخلوقین في الحقوق السیاسیة واستحقاق الحاكمیة، فبدأ الحّكام الادینیون بتوطید أركان دینهم الجدید بكل ما یمتلكون من القوة العسكریة وفنون التعذیب والسجون .
ولكی یستمر هذا الطراز من الحكم و الحیاة في البلاد الإسلامیة فقد صاغوا المناهج التعلیمیة في البلاد الإسلامیة بالطریقة التي تلائم أهداف الغربیین في الوطن الإسلامي .
أمّا المناهج التعلیمیة في المدارس الإسلامیة والجامعات التي تشرف علیها الحكومات هي الأخرى أصیبت بالعقم، وغدت تدرّس المواد الشرعیة منزوعة الروح في عبارات متكلفة لعبت بها الصناعات الأدبیة و فلسفة الیونان التي لا تجد مصداقاً علی أرض الواقع.
وهكذا انحصر الدین في عبادات محدودة كالصلاة والزكاة والأحوال الشخصیة و شيء قلیل من الأبحاث الإسلامیة والعقائدیة التي ترتبط بالفرق الكلامیة والعقائدیة التي كانت موجودة قبل مئات السنین، أمّا الفرق والجماعات العقائدیة المعاصرة وفتنها الهوجاء التي اكتسحت العالم الإسلامي من أقصاه إلی أقصاه فلم تتطرق إلیها مناهجنا التعلیمیة الإسلامیة في هذه البلاد، ولم یبیّن فسادها لعامة الناس علی قدر كاف لیكونوا منها علی حذر، فجاءت الشیوعیة الحمراء ولعبت بعقول الناس وعواطفهم ، ثم جاءت بعدها اللیبرالیة الفاجرة التي نازعت الله تعالی في حاكمیته وتطبیق شریعته في الناس.
ففي مثل هذا الوضع المأساوي ظهرت حركة (طالبان) ودخلت المعترك السیاسي والقیادي من أوسع أبوابه، فقلبت الموازین، وغیَّرت المعاییر، وأعادت الأمور من جدید إلی نصابها، وخرج علی العالم إمام المسجد مرّة أخری لیُعلن للعالم بملء فیه بأعلى صوته (إن الحكم إلاّ لله)، و قرع مرة أخری أسماع الشیوعیین و اللیبرالیین بأنّ {وَمَن لَّمْ يَحْكُم بِمَا أَنزَلَ اللّهُ فَأُوْلَـئِكَ هُمُ الْكَافِرُونَ }المائدة44
وهكذا امتلك إمام المسجد مرّة أخری بعد مضي ما یقرب من ألف سنة القیادة السیاسیة العلیا في هذا البلد، وأثبت من جدید أن إمام المسجد هو الأحقّ بالإمامة العظمی من أیّ أحد غیره، وهذه هي سنة رسول الله صلی الله علیه وسلم وخلفائه الراشدین المهدیین، و أنّ ما طرأ علی الأمة من الرضوخ إلی القیادات اللادینیة هو أمر لیس من طبیعة هذا
الدین.
ودحضت حركة طالبان بإقامتها الحكومة و تطبیقها للشریعة فریة الغرب العظمی التي سعی لتثبیتها في أذهان المسلمین لما یقرب من قرنین، وهي فریة عدم صلاحیة الشریعة الإسلامیة لتسییر أمور الدولة والسیاسة في هذا الزمن، و بذلك أثبتت حركة طالبان بشكل عملي أن دارسي الدین و أئمة المساجد أحسن كفاءة من غیرهم من فراخ الفكر الغربي في تسییر أمور الدولة و النظام .
إنّ طریق طالبان لم یكن مفروشا بالورد في إنجاح هذه التجربة التي كادت الأمة أن تیأس من نجاحها، بل كان طریق الدماء والأشلاء والتضحیات والصبر الطویل، ولقد واجهوا فیها التحدیات المحلیة والإقلیمیة والعالمیة ، وضحّوا بعشرات الآلاف من خیرة الشباب من طلبة العلم وحفّاظ كتاب الله تعالی، وواصلوا لیلهم بنهارهم إلی أن تغلبوا علی كل العوائق وشقوا طریقاً جدیداً بصلابة الإیمان والاعتزاز بالدین، ولم تثنيهم تخویفات الناس الذین قالوا لهم { إِنَّ النَّاسَ قَدْ جَمَعُواْ لَكُمْ فَاخْشَوْهُمْ فَزَادَهُمْ إِيمَاناً وَقَالُواْ حَسْبُنَا اللّهُ وَنِعْمَ الْوَكِيلُ }آل عمران173
إنهم لم یستسلموا للضغوط الإقلیمیة والعالمیة التي مورست ضدهم في جمیع مراحل تطور هذه الحركة، ولا ساوموا علی المبادئ التي یؤمنون بها مهما اشتدت المحن، ولم یلبسوا الشریعة الإسلامیة بشرائع الطاغوت و أنظمة أبالسة البشر الذین یناوئون الله تعالی في حكمه .
و لما یئس العالم الكفري من استمالة (طالبان) بالوسائل السلمیة والمساومات السیاسیة وفشلت جمیع جهوده في قولبة هذه الحركة في قالب الديمقراطية الذي غیّر فیه صیاغة كثیر من الحركات والجماعات الإسلامیة بعد إذابتها بحامض (المعایشة السلمیة) وجعلها (ماكیاجاً) للأنظمة الطاغوتیة، أعلن العالم الكفري ضدهم حرباً صلیبیة شعواء، وبذل كلّ ما في وسعه لوأد هذه التجربة قبل أن ینتبه إلیها المسلمون من رقدة التخدیر التي خدّرهم بها شیاطین الغرب من خلال خدعاتهم الشیطانیةُ .
ولكن الله تعالی أراد أن یهزم العالم الكفري كلّه بید هؤلاء الفقراء الذین لا یملكون في حربهم ضد العالم الكفري إلاّ دماءهم و أشلاءهم و شیئاً قلیلاً من الأسلحة الخفیفة التي لا یجدون لها الذخیرة إلاّ تلك المصدأة التي دفنوها في التراب یوم أن سقط حكمهم قبل أكثر من ثماني سنوات .
وها هي أمریكا المغرورة تتزلّف إلیهم و ترید منهم الاشتراك في الحكومة التي أقاموها لعملائهم في كابل، ولم تتنازل أمریكا إلی هذا الموقف الذلیل إلا بعد أن جرّبت الحرب ضد طالبان خلال ثماني سنوات ماضیة.
ومن ناحیة أخری فقد فرضت حركة طالبان نفسها علی السیاسة الدولیة كحركة یقودها من انطلقوا من المساجد ومحاریبها علی عكس ما رأی الناس من القیادات العلمانیة ممن رباهم الغرب، وقد أوضحت قیادة هذه الحركة من خلال اتخاذ مواقفها الصلبة الحكیمة أن الحركة لیست جماعة من الدراویش یلعب بعواطفها شیاطین السیاسة العالمیة بأحابیلهم ومكائدهم الشیطانیة، بل هي حركة یقودها من علماء الإسلام من صقلتهم تجارب الحكم والحروب والمواجهة العالمیة، و یتمتعون بذكاء سیاسي وفهم دقیق للأوضاع و الألغاز السیاسیة في المنطقة والعالم .
فهذه الدعامة الفكریة لطالبان لا تنحصر في دفع العلماء للقیادة والسیاسة بعد أن نحّاهم الملوك والعلمانیون من هذا المجال، بل الأمر یتعدی إلی ما هو أكبر من ذلك، وهو إنشاء جیل جدید من الشباب المجاهدین یفهمون الحرب، و السیاسة، والإعلام، و مواجهة المكائد العالمیة، بدهاء و ذكاء إلی جانب فهمهم ما تطلبه منهم المعركة من التكیّف المستمّر مع أطوار الصراع، وهذا یوفّر للحركة مقومات القیادة للشعوب الإسلامیة في الحرب الصلیبیة الدائرة التي یقودها الغرب و أذنابه من الحكام المجرمین في العالم الإسلامي، و الذین یلبّون لجمیع طلبات الغرب خوفاً علی عروشهم، و إذا أردنا أن نجمل القول في هذه الدعامة من دعائم الفكر لدی حركة طالبان فنقول : إن حركة طالبان أكسبت المسلمین الثقة بصلاحیة العلماء والمجاهدین لقیادة المسلمین في هذا العصر، وأنّها أزالت الخمود والجمود الطارئین علی علماء المسلمین، و دفعت بهم من جدید إلی معترك القیادة والحكم ، و أنها استفادت من تجارب من سبقتها من الحركات الإسلامیة وأضافت إلیها الجدید لتتأهل و تؤهّل للقیادة والمقاومة في الحال والمستقبل، إلاّ أن هذه التجربة تحتاج إلی ترشید أكثر، و إلی توثیق علمي تاریخي واسع یشمل جمیع جوانب هذه الحركة، فهي قدمّت نموذجاً جدیداً من العمل للإسلام من خلال عمل عسكري و مدني في إطار شرعي یجمع بین الرجوع إلی ما كان علیه الإسلام في عهد السلف و بین مسایرة المستجدات العصریة في معترك الصراع الدیني والحضاري بین الإسلام وأعدائه من ملل الكفر وإن قلل المرجفون والمنافقون من شأنها .
وهي حریة بأن تدرس تجربتها القیادة والروحیة في مجالي الحكم والقیادة، ولا ینبغي أن یكون اعتناء أصحاب الفكر الإسلامي بها و برؤیتها للجهاد والحكم و بتأثیرها في سیر الأحداث العالمیة و الصراع الفكري المعاصر أقل من اعتناء الكفار بها في هذا الزمن.
6 – الكفر بالديمقراطية واعتبارها دیناً للجاهلیة المعاصرة :
من الدعائم الأساسية الهامة في فكر طالبان الكفر بالديمقراطية واعتبارها دیناً للجاهلیة الغربیة المعاصرة التي ترفض الاهتداء بوحي الله تعالی إلی آخر رسله محمد صلی الله علیه وسلم، وتتحاكم إلی أهواء البشر في جمیع أمور الحیاة .
وتعتقد حركة طالبان اعتقاداً جازماً أن الإسلام دین كامل في النظام السیاسي والتشریع والاقتصاد والأخلاق والاجتماع. ولیس بحاجة أبداً إلی الترقیع بالديمقراطية أو أي دین وقانون آخر، وهذا هو المراد من قول الله تعالی في محكم كتابه {الْيَوْمَ أَكْمَلْتُ لَكُمْ دِينَكُمْ وَأَتْمَمْتُ عَلَيْكُمْ نِعْمَتِي وَرَضِيتُ لَكُمُ الإِسْلاَمَ دِيناً فَمَنِ اضْطُرَّ فِي مَخْمَصَةٍ غَيْرَ مُتَجَانِفٍ لِّإِثْمٍ فَإِنَّ اللّهَ غَفُورٌ رَّحِيمٌ }المائدة3
ومن قوله تعالی : {وَمَن يَبْتَغِ غَيْرَ الإِسْلاَمِ دِيناً فَلَن يُقْبَلَ مِنْهُ وَهُوَ فِي الآخِرَةِ مِنَ الْخَاسِرِينَ }آل عمران85
فالإسلام دین یستوعب جمیع أبعاد حیاة البشر، و یعالج جمیع مشاكله و قضایاه إلی یوم القیامة. فلو لم یكن كذلك لما رضیه كآخر دین للبشریة جمعاء إلی یوم القیامة، و لما اعتبر الخارجین منه من الخاسرین.
وتعتقد (طالبان) أن الديمقراطية دین جاهلي معاصر یرفض حاكمیة الله تعالی في الأرض، ویجعل السیادة العلیا في الأرض للبشر في شكل الأغلبیة، فالأغلبیة هي التي تضع القوانین، وتختص بصلاحیات التحلیل و التحریم، وهي التي تختار الحاكم طبقاً لأهوائها، وللحفاظ علی مصالحها، ولا تستسلم لشریعة الله الحقة في أيّ أمر من أمورها، فالأغلبیة في الديمقراطية تحتل مكانة (الإله) وأهواؤها تحتل مكانة (شریعة) الإله.
فتصور طالبان عن الديمقراطية هو أن الديمقراطية دین وضعه فلاسفة الغرب المعاصر بعد انحراف الكنیسة وطغیانها علی جمیع حقوق البشر، و مصدر التشریع فیها أهواء البشر وعقولهم ، وهي تقوم علی أصلین مهمین وهما: أصل السیادة : ومعناه أن السیادة العلیا في التحلیل و التحریم هي للبشر، ولا تعترف بأیة سیادة أخری تفوق هذه السیادة أو تساویها في المرتبة، فهي سلطة مطلقة – للحكم علی الأشیاء والأشخاص والأوضاع نابعة عن آراء الأغلبیة الناخبة .
وأصلها الثاني هو أصل الحقوق والحریات التي خلاصتها تمكین الفرد من كل ما یریده ما دامت حریته لا تحدد حریة الآخرین، ولا یجوز لأي شرع أو دین أن یحرم الناس من الحریات والحقوق التي تخوّلها الديمقراطية الناس مهما كانت مكانة الدین والشرع، فلیس هناك في الديمقراطية مؤمن وكافر، كما أنه لیس هناك كفر و إیمان، وإنّما هناك مساواة كاملة بین البشر في جمیع الحقوق، كما أن هناك حسن وقبح، فالحسن ما استحسنته الأغلبیة، والقبح ما استقبحته الأغلبیة سواء وافق علیهما الدین أولم یوافق علیهما .
ولا تنحصر الديمقراطية في هذه النظریة، بل تتعداها إلی غیرها من المفاهیم والتي تعرف بالمنظومة الديمقراطية ومنها التعددیة السیاسیة والتي یسعی المحتلون غرسها في البلاد الإسلامیة ویدعمونها بهدف تفریق المسلمین في البلد الواحد. وتری ( طالبان ) أن فكرة التعددیة السیاسیة في البلد المسلم ذریعة لتفریق المسلمین وتقسیمهم إلی كتل وجماعات تكید بعضها للبعض للوصول إلی سدة الحكم .
ولذلك تؤمن (طالبان) بإقامة نظام إسلامي عادل واحد یجمع شمل المسلمین علی كلمة التوحید تحت رایة الإسلام الواحدة منعاً للتنافس المذموم في الوصول إلی الحكم، كما أنها تری في نفس الوقت ضرورة فتح باب النصيحة لولاة أمر المسلمین (لأن الدین النصیحة) و (لأن أفضل الجهاد كلمة حق عند سلطان جائر) وخیر النصیحة هي أن تبذل لإمام المسلمین .
أمّا الأحزاب العلمانیة اللادینیة والقومیة وغیرها التي ینشئها الغزاة المحتلون أو التي تنشئها الدول الاستعمارية وتمولها للوصول إلی الحكم، و تنفق الملایین في شراء الذمم لها لتجعلها مطیة للوصول إلی أغراضها في الیوم و الغد، فهي لیست في میزان الإسلام و الشریعة الإسلامیة بشيء، ولا یجوز أن یُسمح بإنشائها وأن یؤذن لها بالقیام بالفعالیات اللادینیة في أرض الإسلام .
ولم ینس المسلمون في أفغانستان والعالم الإسلامي ما عانوه بالأمس من الأحزاب الشیوعیة من القتل، و العذاب، والتشرید، و السخریة من الدین والمقدسات، وسلخ الأمة عن دینها، ولم تندمل تلك الجراح حتى جاء الديمقراطيون اللیبرالیون تحت ظل القاصفات الغربیة لیذیقوا المسلمین أشد أنواع التنكیل والتعذیب، وما أحداث أفغانستان والعراق والصومال، وفلسطین وغیرها من البلاد الإسلامیة إلاّ جرائم هذه الأحزاب التي نشأت بمباركة الدول الكفریة في بلاد العالم الإسلامي .
وتری (طالبان) أن جهاد الشعب الأفغاني المؤمن طیلة ثلاثین سنة ماضیة لم یكن في سبیل الديمقراطية وفتح المجال للأفكار التغریبیة، بل كان و لازال جهاداً إسلامیاً یقدم فیه هذا الشعب المسلم ملایین الشهداء لإعلاء كلمة الله تعالی وتطبیق شریعته بین عباده .
وكل فكرة ونظریة تصرف شعبنا المؤمن عن هذا الهدف السامي وتحول بینه و بین قیام النظام الإسلامي علی أرض الجهاد و الشهداء حَریّة بأن لا یسمح لها، بل یجب أن یقضی علیها تقرباً إلی الله تعالی وجهاداً في سبیله .
فالديمقراطية في نظر (طالبان) دین الجاهلیة المعاصرة التي تسعی لنشرها في العالم بقوة النار والحدید، والإسلام في نظرهم دین آخر، وهو الدین الحق الذي أنزله الله تعالی علی خیر البشر محمد صلی الله علیه وسلم، و فیه وحده سعادة البشر، وبینهما فرق الكفر والإیمان .
7 – وحدة الصف ورفض العصبیات الجاهلیة :
تشكل المحافظة علی وحدة الصف ورفض العصبیات الجاهلیة دعامة هامة في فكر حركة الطالبان، ولذلك لم توجد التصدعات والانشقاقات في صف الحركة علی الرغم من مرورها بالمحن العظیمة، ومحاولات الأعداء الكثیرة في تقسیم أفراد الحركة إلی المتشددین و المعتدلین وما إلی ذلك من التسمیات، ولكنها لازالت قویة متماسكة تحافظ علی وحدة صفها تحت قیادة قائدها الذي أثبت جدارته للقیادة باتخاذ المواقف الإیمانیة الصلبة في صراع الحركة العظیم لعالم الكفر بأجمعه.
وهناك عوامل مهمة ساعدت علی وحدة الصف في الحركة وحفظتها من الانقسامات والانشعابات وهي كالتالي :
1 – وجود الطاعة الكاملة في المعروف من أفراد الحركة لأمیرها عن طوعیة، لأنّ الطاعة لولي الأمر في الإسلام أمر شرعي تحثّ علیه نصوص الشرع، وتحذّر الجماعة المسلمة عن مغبة مخالفة تلك النصوص الشرعیة، ولكون معظم أفراد وقیادات الحركة من علماء الدین الإسلامي وطلاب العلم الشرعي فهم أولی الناس وأقدرهم علی فهم تلك النصوص الشرعیة والالتزام بتعالیمها الدینیة، وهذا الفهم والالتزام یمنعان منسوبيّ الحركة من إتباع الهوى والجري وراء الشهرة ومتاع الدنیا الذي یصبو إلیه المنشقون عن الحركات الإسلامیة في كثیر من الأحیان .
2 – عدم الانصياع إلی إشاعات العدو وعدم الاكتراث بما یقوله الأعداء عن قیادات الحركة ومواقفهم تجاه الأحداث، لأن معظم الخلافات في صفوف الحركات الإسلامیة تنشأ من إساءة الظنون بالقیادات بسبب الإشاعات والشبهات التي یثیرها العدو بین أتباع الحركات، و بما أن معظم أفراد الحركة ممن یتمتعون بالعلم الشرعي، فیصونهم علمهم الشرعي من التأثر بإشاعات العدو عملاً بقوله تعالی: {وَإِذَا جَاءهُمْ أَمْرٌ مِّنَ الأَمْنِ أَوِ الْخَوْفِ أَذَاعُواْ بِهِ وَلَوْ رَدُّوهُ إِلَى الرَّسُولِ وَإِلَى أُوْلِي الأَمْرِ مِنْهُمْ لَعَلِمَهُ الَّذِينَ يَسْتَنبِطُونَهُ مِنْهُمْ وَلَوْلاَ فَضْلُ اللّهِ عَلَيْكُمْ وَرَحْمَتُهُ لاَتَّبَعْتُمُ الشَّيْطَانَ إِلاَّ قَلِيلاً }النساء83
فهم یرجعون الأمر إلی أولی الأمر ولا یقبلونه بالكیفیة التي یذیعه الأعداء، ومن جانب آخر فإن الطاعة في الإسلام هي في المنشط والمكره، فهذه الالتزامات وهذا الفهم لواقع الحركة عامل هام من عوامل منع التصدعات في صفها .
3 – إن قادة الحركة لا یمتازون عن بقیة أفرادها بشيء من متاع الدنیا ، فلیس هناك في القادة ما ینفّر الأتباع عنهم، لأن جمیعهم من الفقراء ومن عامة الشعب، یعیشون مثل ما یعیش الناس، ویأكلون ویلبسون مما یأكل ویلبس منه عامة أفراد الحركة، بل ربما كانت حالة القادة المعیشیة أضعف وأخشن من أحوال أتباعهم، ولم یجد الغربیون إلی الآن شیئاً من أموال وعقارات القادة لیصادروه منهم أو یتخذوه وسیلة للضغط علیهم، وهذا الفقر و خشونة العیش هي التی أقنعت أفراد الحركة وعامة الشعب بعدم رغبة قیادات الحركة في متاع الدنیا، فأوجدت هذه الصفات في نفوس الناس محبة الالتفاف حول قیادة الحركة وعدم الخروج علیها.
4 - إنّ الخلافات في صفوف الحركات والجماعات تنشأ في أغلب الأحیان عن التنافس علی المناصب والوظائف، ولكن الأمر یختلف في حركة طالبان حیث المناصب فیها تكليفية، ولیست تشریفیة، وهي لیست مِنَح، بل هي مِحَن وخروج إلی میادین الجهاد والقتال، وعرض النفس علی القتل والجرح والأسر والمصائب، ولیس هذا في ظروفها الحالیة فحسب، بل هو نهج كان سائداً في أیّام حكم الحركة أیضا، حیث كنت تجد الیوم أحد أفرادها وزیراً ، ثم كنت تجده في الغد قائداً لخط النار الأول، وبعد غد كنت تجده في وظیفة عادیة أخری، وبعدها كنت تجده لا یشغل أیة وظیفة رسمیة، وربما كنت تجده بعدها والیا لولایة من الولایات، فالمناصب والوظائف كانت تكالیف شاقة ، ولم تكن مغانم دنیویة یتنافس الناس في الوصول إلیها، ولذلك لم تكن هناك روح التنافس في نفوس قادة الحركة وأفرادها، بل كانوا یعتبرون المناصب مسؤلیات عظیمة یستصعبون تحمّلها، ولا یتقدم إلیها إلاّ من لا یرغبون في الدنیا.
وقد حاول أعداء طالبان كثیراً أن یقسّموا رجال الحركة إلی
متشددین ومعتدلین، ولكن جهودهم باءت بالفشل حیث لم یجدوا في صف الحركة من ینساق وراء دعایاتهم، فلم ینفع الأعداء في هذا الطریق لا العروض الضخمة، ولا الرشاوى المالیة والسیاسیة، لأن الانتساب إلی الحركة إنّما یكون علی وشیجة الإیمان والبذل في سبیل الله ، ولا یكون للحصول علی المناصب .
وهذا لا یعني عصمة صف الحركة من النفعیین والمتخاذلین وأصحاب الأغراض، بل هي كأیة حركة إسلامیة أخری تتكون من البشر، والبشر لیسوا ملائكة ، إلاّ أن الذي یمّیز (طالبان) عن غیرها من الحركات هو أن المتخاذلین والنفعیین لا یمكنهم الاستمرار في صف الحركة بسبب طبیعة الحركة الاحتسابیة و سیرها علی الطریق الشاق، و النفوس المریضة لا تحتمل الصبر علی المشقات و المحن و كدّ العیش.
ومما یقوی من تماسك الحركة هو ابتعادها عن العصبیات القومیة واللسانیة والإقليمية وغیرها من العصبیات الجاهلیة الممقوتة، فالحركة تتشكل من جمیع القومیات السنیة ، وفی قادتها الأزبك والتركمان والطاجیك والبلوش والبشتون والنورستانیون وغیرهم ممن ینتمون إلی القومیات المختلفة.
وهذا هو سرّ تواجدها الواسع في جمیع الولایات الأفغانیة، ومعیار التفاضل في الحركة هو التقوى إلی جانب الإخلاص والجدّ في العمل، وهذا ما تسعی الحركة للحفاظ علیه بكل جدیّة وعزم . ( یتبع )
آخر تحديث ( الاثنين, 05 أبريل 2010 11:57 )
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=2189:2010-03-20-13-49-36&catid=83:alsomood46magazine&Itemid=58
الدعائم الأساسیة لفكر الطالبان (الإمارة الإسلامية)3
الاثنين, 19 أبريل 2010 14:21
بقلم: عبد الوهاب الكابلي
ومن الأفكار الأساسیة أیضا لدی الطالبان نظریة العمل للإسلام بالأسالیب الإسلامیة الخالصة وعدم الانفتاح علی الغرب في أسالیب العمل التنظیمي السیاسي، و بذلك أغلقت (الطالبان) المنافذ والمداخل أمام تلامذة الغرب وسفراء فكره للتأثیر فیهم وتمییع مبادئهم التي قاموا لتنفیذها من أول یوم.
إن قیادة (طالبان) تدرك جیداً أن الذین تربوا في أحضان الغرب وتشرّبوا من مبادئه المادیة لا یكنّون أيّ إخلاص للإسلام والأمة الإسلامیة، لأن المُثُل العلیا في أذهان هؤلاء الناس هي مُثُل الغرب في جمیع مجالات الحیاة، والإسلام في نظرهم عبارة عن تعالیم روحیة بحتة لا صلة لها بنظام الحكم أو تسییر أمور البشر، فهمّهُم الكبیر هو صوغ حیاة المسلمین في القوالب الغربیة، و كلّما وصل هؤلاء الناس إلی القیادة ومواقع التأثیر في الجماعات الإسلامیة عملوا لإفسادها، أو تمییعها، لتوافق الأفكار الغربیة في الفحوى وإن اختلفت عنها في التسمیات.
ولكن موقف (طالبان) هذا لیس معناه عدم الاستفادة من الخبراء والفنیین وعلماء العلوم التجریبیة الأوفیاء لدینهم وبلادهم الذین اكتسبوا علوماً نافعة في الغرب وعادوا لیخدموا بها دولهم وشعوبهم لتسعد بمواردها الطبیعة ومعادنها الثریة التي تنتظر الأیدی الأمنیة العلمیة، وتهدف (طالبان) من اتخاذ هذه السیاسة إلی سدّ الطریق أمام تلامذة الغرب الحاقد من أن یتزعّموا البلد والنظام سیاسة، وفكراً وثقافة، وقانوناً، لأن وجود مثل هذه الشخصیات فی قیادة الجماعات الإسلامیة أو وجود تأثیرها في سیاسات الجماعات الإسلامیة هو بمثابة حامض مذیب یفعل فعله فیما حوله مع مرور الزمن.
وقد شوهدت معظم الحركات الإسلامیة في النصف الثاني من القرن العشرین كیف أنها كانت في بدایة أمرها جماعات إسلامیة قویة بعثت في شباب الأمة روح الاعتزاز بالدین وقدّمت للأمة الإسلامیة خدمات جلیلة، بل واشتركت في الجهاد المسلح والكفاح العسكري لتخلیص البلاد الإسلامیة من نیر الاستعمار، ولكن بعد كل ذلك انتكست انتكاسات كبیرة، وانقلبت علی عقب بعد أن تأثرت ببعض مبادئ الغرب، وأخذت منه بعض أسالیب العمل السیاسی، فتغیرت مناهجها، وتبدلت أدبیاتها الفكریة إلی أن تغیرّت ماهیتها عمّا أنشأها علیها منشؤوها المخلصون، وأمست هذه الجماعات شبه ديمقراطية أصابها داء العلمنة، وصارت تزن أمورها بموازین الديمقراطية الغربیة، وتشترك في الحكومات الائتلافیة ذات القواعد العریضة، وتنضم إلی الأحلاف التي تكوّنها الأحزاب العلمانیة للوصول إلی سدة الحكم، وكأن الهدف الأهمّ لهذه الجماعات المنتمیة إلی الإسلام هو الوصول إلی كرسي الحكم بأیة طریقة كان، سواء كان عن طریق التخلّي عن المفاهیم الإسلامیة الخالصة تزلفّا إلی الأحزاب والحكومات اللادینیة، أو كان عن طریق المشاركة في الانتخابات علی الطریقة الغربیة التي یستوي فیها المؤمن بالكافر، والمصلح بالفاجر، أو عن طریق مدّ الجسور بینها وبین الغرب في أشكال مختلفة، أو كان بالطعن في الجماعات الجهادیة التي تسعی لإقامة الحكم الإسلامي عن طریق الجهاد الإسلامي بعد القضاء علی الأنظمــــــة الطاغوتیة الكافرة والعمیلة.
إن هذه الجماعات التي أصابها داء التشابه والتأثر بالغرب لیست قلة ولا هي من الجماعات الصغیرة، بل هي كثیرة وكبیرة، وقد شوهدت لها الأمثلة في مصر، والتونس، والجزائر، والسودان، والأردن، والتركیا وبلاد الجزیرة العربیة وبلاد الشبه القارة الهندیة، وطاجكستان، وأخیراً في العراق التي وقفت وفیها إلی جانب المحتلین للمشاركة في الحكومة التي أقامها الأمريكيون.
أمّا أفغانستان فأحزابها التي كانت تُسمی بالأمس القریب أحزاباً جهادیة وإسلامیة وكانت ترفع أعلام الجهاد كما كانت تنادي بشعارات إقامة الحكومة الإسلام فهي الیوم أمست أسوأ حالاً من مثیلاتها من الأحزاب في العالم الإسلامي، حیث وقفت جمیعها بشكل أو بآخر تحت رایة الصلیب في إطار الإدارة الأفغانیة العمیلة التي أوجدها الصلیبیون بعد احتلالهم لهذا البلد.
إنّ بعض تلك الجماعات اتخذت، سیاسة العداء السافر للجهاد والمجاهدین، وانضمت بشكل رسمي إلى حكومة الاحتلال، وبعضها الأخرى التي تجید سیاسة المراوغة والاستفادة من الفرص لم تدخل في الحكومة من البوابة الرئیسة بإعلان رسمي جريء، ولكنها أدخلت معظم رجالها و كوادرها التنظیمیة عن طریق النوافذ التي أسدلت علیها ستائر بشتى الأسماء.
فانضم معظم رجالها بحكومة الاحتلال، وبقیت حفنة قلیلة منها خارج الحكومة للمتاجرة باسم الجهاد والمجاهدین، ولا تستحي من إجراء المحادثات السریة أو العلنیة أحیاناً بحكومة العملاء إذا سال لعابها للاشتراك في الحكم، ولكن بشرط أن یكون لها النصیب الأوفر في الإدارة التي سیخلفها الاحتلال في أفغانستان.
وإذا تتبعنا جذور الانحراف في فكر هذه الجماعات الشبه علمانیة فنری أن الفساد تطرّق إلیها من المنافذ التالیة:
1 - اتخاذ الأسالیب الغربیة للحیاة والعمل.
2 - تمكین تلامذة الغرب من العمل والتأثیر في صفوفها.
3 - التخلّي عن عقیدة الولاء والبراء في العمل التنظیمي و الفردي للإسلام.
4 - الحرص علی رغد العیش والنعیم الدنیوي، والهروب عن حیاة التخشّن والعزیمة التي كان یربّي علیها الرسول صلی الله علیه وسلم أصحابه رضي الله عنهم.
5 – الإحساس بالخجل من الانتماء إلی المفاهیم الإسلامیة النقیة الخالصة التي یسميها الغرب الكافر بالأصولیة، والتطرف، والرجعیة، وغیرها من التسمیات.
6 – الانبهار ببعض مظاهر الحضارة الغربیة المادیة، وإحلالها محل الالتزامات المعنویة والروحیة في العمل الإسلامي.
7 – تلقین التوصیات الانهزامية للجیل الناشئ في الصراع مع الغرب، والتركیز علی مصانعة الغرب لإنهاء الصراع عاجلاً، وإن كان علی حساب المفاهیم والعقائد الإسلامیة الخالصة، وإقامة النظام الإسلامي الخالص.
8 - التوجه الكبیر للوصول إلی سدة الحكم بدلاً عن التوجه إلی محاربة أنظمة الطاغوت، وإقامة الحكم الإسلامي علی المنهج الإسلامي الخالص.
وهناك غیرها من الأسباب والعوامل التي وفّرت أسباب فساد الجماعات الإسلامیة.
أمّا حركة (طالبان) فهي لكونها یقودها من انطلقوا من محاریب المساجد وأروقة المدارس الإسلامیة الخالصة، فهي إلی الآن بفضل الله تعالی بمنأى من هذا الفساد، وقد أثبتت بسیاساتها الصریحة ضد الغرب وجهوده التغریبیة أنها لا تساوم علی مبادئها، ولا تغفل عن خطر تلامذة الغرب علی كیانها، فلذلك لم تنفتح علی الغرب ولا لأن قناعتها في صراعها الفكري ضد الغرب، ومادامت تنتهج هذه السیاسة لسیرها فهي ستكون بخیر إن شاء الله تعالی، وإن فسادها سیبدأ من یوم أن تفتح أبوابها للقیادیین ممن تربوا علی أفكار الغربیین أو تأثروا بهم.
(یتبع)
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=2672:-----3&catid=87:47somoodmag&Itemid=58
الدعائم الأساسیة لفكر (طالبان) (الحلقة الرابعة )
الخميس, 20 مايو 2010 23:33
بقلم: عبد الوهاب الكابلي
10 - الرؤیة الشرعیة لقضیة المرأة:
إن قضیة المرأة في فكر طالبان لمن القضایا الهامّة التي أثار الغرب حولها الجدل الكبیر، واتخذها من المطاعن في فكر طالبان ونظامهم، وقدّم الإعلام الغربي الصورة عن المرأة الأفغانیة بأنها مظلومة محبوسة، مهضمومة الحقوق و مقیدة الحریات، وأنها أبعدت عن مسايرة الرجال في تمدین المجتمع الأفغاني، وأنها حرمت من حق التعلّم والعمل وأنها..... وأنها ....
وهكذا اختلق الغرب اللیبرالي في مخیلته صورة شوهاء عن حال المرأة الأفغانیة المؤمنة التي تؤمن بالله رباً وبالإسلام دیناً وشریعة، وبأمهات المؤمنین والصالحات المجاهدات من الرعیل الأول قدوة ومثالاً.
ولكن الغرب مصرّ علی أن ینظر إلی المرأة الأفغانیة نظرته العوراء من منظور المعاییر والقناعات الغربیة الملحدة.
فما هي حقیقة قضیة المرأة في أفغانستان ؟ وما هي نظرة طالبان إلی هذا المخلوق الكریم، وما هي المعاییر في فكر طالبان لاستقامة المرأة أو انحرافها؟ وما هي الأسباب الحقیقیة من وراء ضوضاء الغرب التي رفعها لقضیة المرأة الأفغانية ؟
إن الإجابة علی هذه الأسئلة وغیرها مما یرتبط بشأن المرأة الأفغانیة تحتاج إلی أن نعود إلی الخلف قلیلاً لنعرف خلفیة حركة تحریر النسوان الغربیة في أفغانستان، و لنعرف أیضا كیف وقفت (طالبان) سداً منیعاً أمام حركة تغریب المرأة الأفغانیة وأبطلوا مشاریعها مما جلب علیهم سخط عالم الكفر بأجمعه ؟
إن المرأة المسلمة في فكر طالبان هي أخت الرجل المسلم في الدین، ویستویان جمیعاً في الالتزامات الشرعیة التي یفرضها علیهما دینهما الحق، فهي مطالبة بأن تلتزم أحكام شریعة ربها، كما یطالب أخوها المسلم بالتزامها.
ومكانتها في المجتمع الإسلامي فهي إمّا (أمّ) محترمة، أو ( أخت ) عزیزة ، أو (بنت ) كریمة، أو (زوجة) وفیة، وفي جمیع الأحوال هي إنسانة محترمة .
ویمیّزها عن الرجل كونها أنها مخدومة والرجل خادمها، حیث جعلت الشریعة الإسلامیة تربیتها، والإنفاق علیها، والدفاع عن كرامتها وشرفها، من مسؤلیات الرجل المسلم، و ما ذلك إلاّ مراعاة للفروق الفطریة والفسیولوجیة التي أودعها الله تعالی في كیانها، حیث لا تتحمل معها من المشاق والمتاعب ما یقدر الرجل تحمّلها .
أمّا المعاییر والموازین في فكر طالبان لاستقامة المرأة المسلمة أو انحرافها فهي نفس المعاییر والموازین التي وضعها الإسلام ، وبیِّنها علماء سلف هذه الأمة .
وبما أن الغرب الصلیبِيّ بنزعاته الإلحادیة یرفض الإسلام بأجمعه، فلا غرابة في أن یستنكر معاییر طالبان لصلاح المرأة أو فسادها.
فالمشكلة في ذهن الغرب تنشأ من نظرته إلی المرأة الأفغانیة من المنظور الغربي اللیبرالي المادي، فإنّه لو نظر إلی المرأة الأفغانیة من خلال دینها، وأعراف مجتمعها، والتزاماتها الخُلُقیة والثقافیة تجاه شریعتها وحضارة قومها، لما كان هناك ما اختلقه الغرب في خیاله من قضیة للمرأة الأفغانیة المؤمنة.
ولكن هذه القضیة في أذهان الغربیین ناشئة عن أغراض استعماریة وعدوانیة، وعن غزو لفكر المرأة الأفغانیة التي طالما أنجبت أجیالاً من الشجعان المغاویر الذین مرّغوا أنوف المعتدین من الإنجلیز، والروس، والأمریكیین، وحلفائهم الصلیبین من الأوربيين في المعارك التي ذاق ویلاتها المعتدّون خلال القرنین الماضیین من الزمن.
وحین رأی الغرب صمود المرأة الأفغانیة المسلمـــــــــة أمام
موجات التغریب العاتیة، وأنها تقف في صف المواجهة إلی جوار أبیها أو أخیها، أو زوجها، أو إبنها، بالجهاد والهجرة، والصبر، والإعداد للقتال، غیرّ الأعداء أسلوب غزوهم لها، و ألقوا بهذه المسؤولیة علی عاتق الحكام العملاء، وخونة الأمّة الذین نصبتهم الدول الاستعمارية علی عروش الحكم في العالم الإسلامي لیجبروا المرأة المسلمة علی السفور والتعري، والخروج عن أحكام دینها عن طریق قوانین وتدابیر، وأوضاع هیأها هؤلاء المجرمون ممن ینتسبون إلی الإسلام زوراً.
ولم یكن نصیب أفغانستان من هؤلاء الحكام بأقل من البلاد الإسلامیة الأخرى، فجاء الملك حبیب الله إلی الحكم وبدأ یروّج في حریمه للملابس الغربیة.
ثم ورثه ابنه الملك أمان الله في الحكم، وكان الملك الجدید في أول شبابه ومفتوناً باللیبرالیة الغربیة، فخرج إلی أوروبا في رحلته العجیبة التي استغرقت أكثر من ستته أشهر، وكان قد اصطحب معه زوجته الملكة (ثریّا) في ملابس أفغانیة، ولكنها عادت من سفرها في ملابس غربیة مكشوفة الساقین.
ولكی یروّج هذا الملك المفتون بالغرب اللباس الغربيّ في بلد الجهاد والمجاهدین أمر زوجته بإلقاء الخمار عن رأسها في مجلس أعیان الحكومة، فجلست بین الرجال حاسرة الرأس مفتوحة الصدر، وطلب الملك من زوجات الأعیان أن یفعلن الفعلة نفسها، وهكذا بدأت حركة سفور النساء والتمرّد علی الحجاب الشرعي من حریم الملك وبلاطه.
وجاء بعده الملك (ظاهر شاه) الذي كان نشأ في فرنسا وتثقف بثقافتها اللیبرالیة ففتح المجال لانحراف النسوان علی نطاق أوسع، ونشر في البلد التعلیم المختلط وجمیع أنواع وسائل فساد الأخلاق، وغرس في البلد بذور الشیوعیة الملحدة التي تعتبر الدین أفیون الشعوب.
ثم ورثه ابن عمه (محمد داود) الذي واصل نفس المسیرة إلی أن قضی علیه الشیوعیون.
وجاء مع الشیوعیین الاحتلال السوفيتي للبلد، وفتحت أبواب البلد أمام الشیوعیة الحمراء لتقضي علی ما تبقّی من الخُلُق والدین والعفة والحیاء في نفوس النساء في المدن.
وحین سقط النظام الشیوعي، ووصلت المنظمات الجهادیة بقیادة (ربّاني) إلی الحكم، لم تلتفت حكومته إلی تطبیق الشریعة ومحاربة الفساد الذي خلّفته الشیوعیة، بل تواطأت حكومته مع الشیوعیین ضد خصومه من المنظمات الأخرى، و جّر البلد إلی حرب أهلیة خطیرة حیث ألجأت حربه مئات الآلاف من الأسر لترك البلد والذهاب إلی البلاد الغربیة فرارا من الحرب.
وما أن وصلت تلك العائلات إلی الغرب إلاّ واحتضنتها المجتمعات الغربیة لتصبغها بالثقافة الغربیة الفاجرة، لتستغلها كحراب مسمومة لضرب أخلاق المجتمع الأفغاني المسلم في صمیمه.
ولمّا وصلت حركة طالبان إلی الحكم بعد التضحیات الكبیرة ورثت في المدن الكبیرة وضعاً خُلُقیا فاسداً للغایة یمكننا إجماله في النقاط التالیة:
1 - الفساد الخُلُقي الهائل الذي أوجدته الحكومات العلمانیة المتتالیة في المجال النسوي .
2 - الفساد الدیني و الخلقي الذي أوجدته الشیوعیة الملحدة التي كانت تؤمن بمبدأ الإباحیة في النساء.
3 - الفساد الناشئ عن اغتراب عدد كبیر من الأفغان في بلاد الغرب الفاجرة.
4 - إلغاء تطبیق الحدود الشرعیة من قِبَل الحكومات العلمانیة والشیوعیة.
5 - وجود وسائل إشاعة الفاحشة من السينما والمسارح، والنوادي، ووسائل الإعلام من الإذاعة والتلفاز، والصحف والمجّلات الخلیعة، والكتب الماجنة، التي نشرتها الحكومات المفسدة علی نطاق واسع.
6 - إخفاق حكومة المجاهدین في محاربة الفساد، ووقوع شخصیات كبیرة من الحكومة في شبكات الجهات المفسدة.
7 - الآثار السیئة الخطیرة لنظام التعلّم المختلط في جمیع مراحل التعلیم.
8 – منع اللباس الإسلامي في المؤسسات التعلیمیة والحكومیة في جمیع مراحلها.
9 - الغزو الفكري الموجه من الوسائل الإعلامیة للدول الغربیة والشيوعیة.
10 - وجود مئات المؤسسات الغربیة لإشاعة الأفكار والثقافة الغربیة بین الأفغان تحت لافتات الخدمات الإغاثية، والتعلیمیة، والصحیة، وغیرها.
وكانت هذه الأسباب وغیرها أوجدت وضعاً خطیراً للغایة في المجال النسوي، والوسط الشبابي.
وكانت محاربة الفساد الموجود تطلب من طالبان اتّخاذ تدابیر حاسمة، وكان القضاء علیها لا یمكن إلاّ أن تكون الجهود الإصلاحیة أكثر وأقوی من حجم الفساد الموجود، ولذلك اضطرّت طالبان لاتخاذ التدابیر اللازمة التالیة:
1 – تأجیل تعلیم النسوان لفترة معیّنة إلی أن تهيأ ظروف، ومناهج، ولوائح، ومباني خاصة بالتعلیم النسوي، وذلك لم یكن بمعنی منع تعلیم النسوان، بل كان دستور البلد ینص علی توفیر فرص التعلیم للنسوان حیث تنص المادة التاسعة والثلاثون من الدستور علی (أن تعلیم النسون ینظم في إطار الشریعة الإسلامیة ضمن قانون خاص).
2 - إحالة الموظفات الحكومة إلی التقاعد، و إجراء معاشهن.
3 - فرض الحجاب الشرعي تنفیذاً لحكم الشریعة، ومنعاً من انتشار الفساد.
4 - تنفیذ الحدود الشرعیة، ومنها حد الرجم والجلد.
5 – إنشاء وزارة للأمر بالمعروف والنهي عن المنكر، وتبصیر الناس بدینهم، وتأدیب من لم یرتدع عن الفساد بالنصیحة والموعظة الحسنة.
6 - فرض الرقابة علی المؤسسات الغربیة ومراقبة جمیع نشاطاتها.
7 – منع الجهات المشبوهة من تملّك وسائل النشر، للحفاظ علی سلامة المجتمع من بث سمومها الفكریة في أذهان الناس.
وحین رأی الغرب الصلیبي والدول ذات الأغراض السیئة الأخرى هذه التدابیر وعلمت أن أفكارها الضالة ونظریاتها الكفریة لا یصل إلی المرأة الأفغانیة والجیل الجدید، أخذت تنفخ في أّبواقها وتنادي بمطالبة الحقوق المهضومة بزعمها للمرأة الأفغانیة التي یسعی الغرب لإفسادها.
إن المرأة في أفغانستان تختلف في كثر من أحوالها عن المرأة في الدول الإسلامیة الأخرى، ومن أمثلة هذا الاختلاف أن المرأة الأفغانیة لا زالت بفضل الله تعالی علی فطرتها الإیمانیة السلیمة، ولم یتلوث فكرها بلوثة الغرب المادیة، وأنها لا زالت تصبر علی الهجرة والجهاد، وأنها لا زالت تصبر علی قوت الیوم، وأنها لازالت تفضّل العفاف والتحّشم علی الخلاعة والتعرّي، وهذه كلها صفات تؤهّلها لتربیة جیل مؤمن بالمبادئ الإسلامیة، والذي یدافع عنها بكل ما أوتي من قوة، وهذا الذي لا یتحمل الغرب وجوده فیها.وقد نفّس الغرب عن أحقاده الدفینة تجاه المرأة الأفغانیة حین هجمت أمریكا علی أفغانستان، فأوجدت مجالات كثیرة لإفساد المرأة المسلمة في هذا البلد، ووضعت خطة شاملة لهذا الإفساد، وكان من بنود هذه الخطة الشیطانیة التالي:
1 – تحریض المرأة علی التخلّص من الحجاب الإسلامي، و إلقائه عنها باعتباره شيء یرتبط بنظام (طالبان)، وما دام سقط نظام طالبان فلیسقط الحجاب أیضا، وقد قام الإعلام الغربيّ الموجّه إلی أفغانستان بدور خطیر في هذا المجال.
2 - إنشاء وزارة للنسوان باسم (وزارة شؤون المرأة) وكأن الأنوثة شأن من شؤون الدولة، ویحتاج أمرها إلی وزارة خاصة .
إن الهدف الحقیقي من وراء إنشاء هذه الوزارة كان إفساد المرأة ضمن إطار منظم، وخطة محكمة، تقوم بتنفیذها هذه الوزارة العجیبة تحت إشراف الخبراء الأمریكیین، ولعلها أغرب وزارة في تاریخ الوزارات في العالم.
3 - فتح مجالات الاختلاط للنساء بالرجال في جمیع میادین الحیاة، بدأً من السیاسة، والتعلیم والتجارة، والألعاب، والمسابقات، ومجالس اللّهو، والاشتراك في سهرات الرقص، ومجالات الفنون الخلیعة التي یسمونها بالفنون الجمیلة، والصحافة والإعلام، وغیرها من مرافق الحیاة.
4 – فتح عشرات القنوات التلفزیونیة واستخدام النساء الجمیلات فیها، فعلی سبیل المثال هناك في مدینة (كابل) لوحدها أكثر من عشرین محطة غير حكومیة للبث التلفزیوني، وهناك ما یقرب من مأتي محطة إذاعیة بین حكومیة وغیر حكومیة في العاصمة والولایات الأفغانیة، وتقدّم المحطات أرذل أنوع الفحش والمجون، حتى وصل الأمر ببعض الإدارات الحكومیة تطالب الحكومة بفرض الرقابة الأخلاقیة علی هذه القنوات لما أحدثته هذه الفضائیات من الفساد والمیوعة والتفكك في بنیة المجتمع الخُلُقي، ولكن هذه المحطات أقوی من أن یكبح جماحها حكومة العملاء، لوقوف الدول الغربیّة وراء هذه المحطات.
5 - العمل الدؤوب لإقامة المجتمع الأفغاني الجدید علی أسس بنیان المجتمع الغربي الثلاثة وهي :
الف - المساواة بین الرجل والمرأة في كل شيء .
ب - استقلال النساء بشؤون المعاش لإفقاد قوامة الرجل علیها، لأنها إذا استغنت اقتصادیاً عن الزوج فلماذا تلازم رجلاً بعینه وهي لا تحتاجه إلاّ للأغراض الجنسیة فقط، ولماذا لا تروي غریزتها الجنسیة بشكل حُرّ بدلاً من التقیّد بقیود الزوجیة التي لها كثیر من التبعات.
ج - الاختلاط المطلق بین الرجال والنساء لهدم الحواجز التي أقامها الإسلام لتنظیم حیاة المجتمع بشكل نظیف، وعفیف.
6 - توفیر جمیع وسائل الهیجان الجنسي من الكتب، والمجلات، والصور، والسینما، والمسارح والنوادي اللیلیة، ورفع قیود الرقابة الخُلُقیة من قِبَل الشرطة، وفتح عشرات المحطات الإذاعیة لبث الموسیقي المهیّجة، والحوارات الدنیئة مع الشباب والشابات.
7 - فتح بیوت الدعارة في المدن الكبیرة باسم المضيفات (Guesthouses) وجلب البغایا إلیها من الصین، والكوریا الجنوبیة، والجمهوریات السوفيتية السابقة.
وقد بلغ من أمر بیوت الدعارة في مدینة (كابل) العاصمة أن تدخلّت وزارة الداخلیة في أمرها، وأمرت بإغلاقها حین تفاقم شرها، وأصبح الشباب الأفغان یرددونها بشكل علني بعد أن كانت خاصة للأجانب الكفرة.
8 – توزیع المؤسسات الغربیة الملایین من وسائل منع الحمل بین المجتمع الأفغاني بحجة مكافحة (الإیدز)، وهي في الحقیقة ترویج لفاحشة الزنا في المجتمع الأفغاني المحافظ.
9 – تشكیل جماعات كثیرة للاعبات للاشتراك في المسابقات المحلیة، وإرسالهن إلی المسابقات الخارجیة.
10 - إنشاء مكاتب الدفاع عن حقوق المرأة بجوار المحاكم الأهلیة، لیرجع إلیها من لا یرید أن یتحاكم إلی القوانین المحلیة التي لازال فیها شيء من الأحكام الشرعیة، و إن كانت حبراً علی ورق.
11 – ترغیب البنات للذهاب إلی المدارس الحكومیة بإعطائهن المواد التموینیة من السمن وغیرها، بینما یُحرم الذكور منها.
إن الغرب الصلیبي لا یفعل كل ذلك للمرأة من حیث هي امرأة، بل یفعلها لیخرج المرأة الأفغانیة من فطرتها الإیمانیة، ویمسخ فیها طبعها الأنثويّ العفیف، ویصیّرها رجلاً، أو شبه رجل، لتخرج إلی خارج عشّها، وتترك أولادها للأفلام الغربیة، أو الهندیة، یتلقون منها الخُلُق وطریقة الحیاة.
أمّا المرأة المؤمنة العفیفة فهي لا تزال قذی في عینیه، ولیست لها أیة مكانة عنده، بل هي تستحقّ القتل، والدمار، ومداهمة بیتها في ظلام اللیل، وقتل زوجها بین یدیها وهي تصرخ، وهي تستحقّ عند الغرب أن تفجع بقتل أولادها بقصف بیتها، لأنها زوجة مجاهد، أو أم شاب یُشك فیه أن یكون مجاهداً، وهي كذلك تستحق أن یداس بیتها، أو تساق إلی السجون وهي تصرخ وامعتصماه!
فالقضیة في جوهرها قضیة الحرب ضد إسلام المرأة وإیمانها، ولیست قضیة حقوق المرأة أو الانتصار لها ضد (طالبان) أو غیرهم.
أمّا رؤیة طالبان للمرأة فهي رؤیة إسلامية متزنة ومتأصلة في نفوسهم، فهم أّناء المرأة رضعوا من لبانها، ونشأوا في كنفها، و تلقّوا التربیة الإسلامیة في ظل عطفها، ولذلك فهم یدافعون بدمائهم وأشلائهم عن عرضها وكرامتها، ولا یریدون لهم أن تكون ألعوبة في أیدي أبالسة الغرب، أو دجّالي الشرق.
فهم مدافعون الحقیقیون عن المرأة وحقوقها الشرعیة، وهم حماتها عن ذئاب الغرب الفاجر ( یتبع)
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=3186:2010-05-20-19-03-12&catid=88:48somoodmag&Itemid=53
الأحد, 17 يناير 2010 21:51
بقلم: عبد الوهاب الكابلي
ظهرت حركة طالبان (الإمارة الإسلامية) في نهایة القرن العشرین المیلادي، لتكون طليعة الحركات الإسلامیة للقرن الحادي والعشرين، وكأن الله تعالی كان یرید أن یضرب أعتی قوة في الأرض وهي قوة العالم الصلیبي بأضعف قوة عسكریة في الأرض، لیعلم الناس من جدید أن القوة الحقیقیة هي قوة الإیمان، لا قوة المادة التي یعبدها معظم الناس في هذا الزمن، فكان میلاد حركة طالبان، ثم وصولها إلی الحكم، وتقدیمها للبشریة نوعاً جدیداً من الحكم نسيه الناس منذ قرون من الزمن وهو الحكم بما أنزل الله.
فنفذوا شریعة الله، و أسعدوا العباد بتوفیر الأمن والطمأنینة لهم، وحاربوا الظلم، والفساد، والقوانین الجاهلیة، التي فرضتها علی الأفغان القوی الاستعماریة بید عبیدها ممّن ینتسبون إلی الإسلام، فحاربتها الدول الصلیبیة، ورماها عالم الكفر عن قوس واحدة، واتحدت للقضاء علیها جمیع ملل الكفر والنفاق تحت رایة راعیة الصلیبیة العالمیة في هذا الزمن. إلاّ أن الله تعالی وفّق (الإمارة الإسلامية) للثبات أمام جیوش العالم الكفري، وها هي الآن وصلت من جدید إلی مشارف الفتح المبین إن شاء الله تعالی.
إن حركة طالبان هي حركة فریدة من نوعها في كفاحها، ونظریاتها، وقناعاتها الفكریة، ونظرتها إلی الكون، والبشر، ومعاییرها للتعامل مع غیرها.
فما هي الدعائم الفكریة التي تستند إلیها الحركة في اتخاذ سیاساتها، وتنطلق منها في إجراء خططها و برامجها؟
إنّه سؤال یتشوّق الناس في العالم لمعرفة جوابه، والإجابة علی هذا السؤال یقتضي العودة إلی معرفة الخلفیة الفكریة ومصادر التلقّي والإطّلاع علی المنهج الذي تربّی علیه قادة الإمارة الإسلامية.
فهنالك یمكننا التعرف علی ظاهرة (طالبان) ونظریتها تجاه الحكم والسیاسة، وفهمها للشریعة الإسلامیة و تفسیرها لحوادث التاریخ الإسلامي، و بما أنّ العبد الضعیف عمل لسنوات طویلة في صف الحركة وشاهد نشأتها، ومراحل تطورها، واطلع علی نفسیات قادتها ومنسوبیها، و درس علی نفس المنهج والطریقة التي درسوا علیها، وتأثر من نفس البیئة التي تأثروا منها، فقد یسرّ الله تعالی لي أن أتعرّف عن كثب علی الحركة بعيداً عن التأثیرات الخارجیة التي نتجت عن التعتیم الإعلامي الغربي والتي بنی علیه بعض الناس تصوّرهم عن الحركة و تصرّفاتها، فأجحفوا في حقها عن عمد، أو بالغوا في أمرها و هم لا یعلمون عن حقیقتها الكثیر، فحاولت في هذا المقال أن ألخّص الدعائم الفكریة والركائز الأساسیة للحركة وتصوّرها عن الحكم والنظام، والكفر والإسلام، ولا أدّعي الصواب الكامل فیما توصّلت إلیها من معرفة هذه الدعائم، و إنما هي نقاط أساسیة وخطوط عریضة لهذا الفكر استوحیتها من واقع الحركة ومواقفها تجاه الحوادث ومجریات الأمور وهي كالتالي:
1 – فهم قادة الحركة ومؤسسیها للإسلام: إن مؤسسي الحركة وقادتها السیاسیین و العسكریین كلهم من المنتسبین إلی العلم الشرعي بین عالم متخرج وطالب لا یزال في مرحلة طلب العلم الشرعي، و مصادر التلقي عندهم هي أدلة الشرع التي كانت في زمن سلف هذه الأمة، یدرسونها في الكتب التي ألفّها علماء الإسلام في القرون الماضیة التي كان یفهم فیها الناس الدین خالصاً نقیا عن التفسیرات المنحرفة والشوائب الفكریة الدخیلة التي تسرّبت إلی المعرفة الإسلامیة في كتب علماء العصر الأخیر ومذكراتهم التي ألّفوها بعد تأثیر المستعمرین الغربیین، والمستشرقین الحاقدین علی الإسلام في المناهج التعلیمیة لبلاد العالم الإسلامي، وكان من تأثیر هذه الكتب أن قدّمت العلم الشرعي علی الطریقة الغربیة منزوعة الروح، و لم توجد في نفوس دارسیها ضرورة العمل بما یتعلمونه من النظریات الدینیة والأحكام الشرعیة، بل قدّمت العلم الشرعي كشيء من التراث یشوبه كثیر من تأثیرات الفكر الاستشراقي التي تثیر الشكوك في صحة الشریعة و صلاحیتها للتطبیق. وهذه الشریحة من العلماء أنتجتها الجامعات الحكومیة وغیر الحكومیة التي أُنشئت في العالم الإسلامي من قِبَل الحكومات التي لا تؤمن بالإسلام كشریعة و قانون لحیاة البشر، بل تسعی لإقصائه من واقع الحیاة لیخلو مكانه للقوانین الوضعیة وشرائع الغرب، فهي لا ترید للناس أن یفهموا الإسلام خالصا نقیا عن تأثیرات الفكر الغربي كیلا لا یثور الناس ضدها لانحرافها عن الإسلام الحقیقي.
أمّا طالبان فهم في منجاة من هذا الفهم المشوب للإسلام، لأنهم درسوا الإسلام في المدارس الدینیة الخالصة أو المساجد، والتي لا تسیطر علیها الحكومات العمیلة، فأوجدت فیهم أصالة المنهج ونقاء العلم فهماً قریباً من فهم السلف للدین والشریعة، ولا شك أن هذه المدارس فیها نقائص كثیرة في مجال الإدارة وتحدیث النظم و طریقة تقدیم المعلومات، و ربّما في خلوّ مناهجها من بعض العلوم الضروریة التي استجدت في مجال المعرفة.
ولكن هذه النقائص لم تمنع دارسي هذا المنهج من أن یفهموا الإسلام علی مراد الشریعة و طریقة السلف.
وكان من تأثیر خلوّ المنهج من تأثیرات الفكر الغربي أن یكون هناك انفصال كامل بین أفكار و سیاسات خریجي مدارس الدینیة الخالصة، وبین أفكار وسیاسات من ربّاهم الغرب علی طریقته، و أن لا تكون هناك نقاط الوصل بین الإسلام ومقتضیاته من معتنقیه، و بین كفر و أتباعه.
وهذا الذي أغاظ الغرب و ألّب أمم الكفر ضد طالبان الذین لا ینتهجون المنهج الغربي في السیاسة والحكم والقوانین والعلاقات الدولیة وغیرها من مجالات الحیاة.
فأعلن الغرب حرباً عالمیة شعواء ضد فكر طالبان و فهمهم للإسلام، ولم یكتف بالحرب العسكریة فقط، بل بدأ یخوض حروباً كثیرة ضد طالبان في مجالات التعلیم، و الإعلام، والاقتصاد، والسیاسة، والاجتماع، و ینفق مئات الملیارات من الدولارات في جمیع هذه المیادین للقضاء علی تأثیرات فكر طالبان التي ظهرت بأشكال مختلفة في المنطقة، خوفا من أن یقضي هذا الفكر علی النظریات الغربیة التي عمل لترسیخها الغربیون في أذهان المسلمین في العالم الإسلامي، فالحرب في أفغانستان ضد الإمارة الإسلامية لیست حرب القبض علی الشيخ أسامة حفظه الله أو غیره، بل هي حرب ضد الفكر الإسلامي الأصیل الذي لا یتصالح مع الغرب الصلیبي، و أذنابه من حكام البلاد الإسلامية، ونتوصل بعد مطالعه نظریة طالبان ومواقفهم السیاسیة أن العلم الشرعي عندهم لیس شیئاً یدرس للشهادات والوظائف والتفاخر العلمي وإنما هو دین یجب أن یخرج من النظریة إلی التطبیق العملي مهما كلفهم من التضحیات، و لا شك أن تطبیق الشریعة یحتاج إلی إزاحة الحواجز والعراقیل التي تحول بین المسلمین و بین إقامة نظام علی أساس الإسلام، وهذه الإزاحة إنما تكون باستخدام القوة العسكریة إذا لم تنفع هناك قوة الدلیل والبرهان، وهذا ما فعله طالبان أثناء حكمهم في أفغانستان، ولا زالوا یقدّمون الدماء والأشلاء في سبیل تطبیق ما تعلموه من شریعة ربهم تعالی، وهذا الذي یمیّزهم ممن یتعلمون الدین علی الطریقة الأكادیمیة ضمن القوالب الغربیة للعلم والتعلیم، فعلماء الجامعات یدرسون العلوم الشرعیة للإطلاع والتحقیق، أمّا طالبان وهم أبناء المدارس والمساجد فیدرسون العلوم الشرعیة للعمل والتطبیق.
2 - عدم تلوّث أفكارهم وعقولهم بالفساد الذي أوجدته الحضارة الغربیة في مجالات الفكر والسلوك والسیاسة والنظام.
إن الأنظمة والحكومات الطاغوتیة التي تسلّطت علی البلاد الإسلامیة وشعوبها معظمها جاءت عن طریق المستعمرین الغربیین بعد أن قام المستعمرون بتربیة هذا الجیل وإعداده في المدارس التي أنشؤها في البلاد الإسلامیة، أو أُرسِلوا في بعثات تعلیمیة إلی البلاد الغربیة لیتلقّوا التربیة علی أيدي الغربیین وفي بیئة بعیدة عن كل أنواع التأثیر الإسلامي لیتمّ إعدادهم كحكام لمستقبل العالم الإسلامي بعد رحیل المستعمرین.
ودرسوا المناهج التي وضعها المستعمرون لغسیل مخّهم، فتلوّثت عقولهم وأفكارهم بالفلسفات المادیة والإلحادیة لفلاسفة الغرب الذین تحرّروا عن كل قید دیني، وتلقوا الأسالیب اللادینیة في الحكم والسیاسة والنظام، وتشرّبت نفوسهم التعلیمات الكفریة في رفض الدین والاستسلام له، وبعد أن عاد هذا الجیل من الجامعات الغربیة وكانوا قد اصطبغوا بشكل كامل بالصبغة الغربیة، سلّمتهم الدول الاستعمارية زمام الأمور في البلاد الإسلامیة المستعمَرة، فانتهجوا في حكوماتهم و إداراتهم المناهج والنظریات الغربیة الإلحادیة وأقصوا الشریعة عن الحكم و التطبیق، بل حاربوها محاربة شدیدة، و وضعوا قوالب جدیدة في جمیع جوانب الحیاة لیصوغوا فیها الشعوب صیاغة غربیة وفق المعاییر التي وضعها المستعمرون لصیاغة مستقبل العالم الإسلامي، فأقام بعضهم الأنظمة الشیوعیة الملحدة، و بعضهم الأنظمة العلمانیة اللیبرالیة التي ترفض التحاكم إلی الشریعة، وأذاقوا شعوب العالم الإسلامي الویلات تلو الویلات في سبیل تطبیق مبادئهم المستوردة عن طریق ممارسة القهر والتعذیب والسجون. وهكذا تحوّل العالم الإسلامي في أقل من قرن إلی ذیل للغرب بعد أن فقد شخصیته الإسلامیة المستقلة، و أصبح الإسلام غریبا في دیاره، كما أصبح المسلمون غرباء في دیارهم تحكمهم القوانین والنظریات الأجنبیة.
أمّا (طالبان) فلم تتلوّث عقولهم بالفساد الذي أحدثته الفلسفات الغربیة من العلمانیة والديمقراطية، والبراغماتیة، والذرائعیة، ومنطق المصلحة واللذة، ولغة القهر والخداع في معاملة الأمم و الشعوب، بل اتخذوا أفكارهم و نظریاتهم وفلسفة حیاتهم، ومعاییر التعامل مع غیرهم جمیعها من الشریعة الإسلامیة، و بدأوا بإحیاء ما أماتته اللادینیة من أحكام الشریعة الإسلامیة في جمیع میادین الحیاة، ولم یبالوا بمخالفتها أو موافقتها لما توافقت علیها ما یسمی بالمجامع العالمیة مادامت أمر بها الإسلام، وقد ألغوا جمیع الأنظمة والقوانین المخالفة للشریعة الإسلامیة والتي استوردتها الحكومات اللادینیة السابقة.
و لّما رأی الغرب أن طالبان تقدّم للمسلمین والعالم نموذجاً آخر من الأفكار والنظریات التي تخرج الناس من ظلمات المعاییر الغربیة المادیة إلی نور الإسلام، وعدل الشریعة الإسلامیة، ومن نفاق السیاسات الغربیة إلی نقاء الإسلام وشفافیة تعلیماته السمحة، ومن تضلیل الحكومات العمیلة إلی الاهتداء بمنهج سلف أمة الإسلام، فوجد الغرب في هذا العمل الخطر علی مبادئه التي عَمِل لنشرها في العالم الإسلامي، وأقنع المسلمین بجدواها دهورا من الزمن.
فلذلك بدأ الغرب یوجّه سهام اتهاماته و إساءاته إلی فكر طالبان ونظامهم لتنفیر الناس منه، كیلا یقلده المسلمون في البلاد الإسلامیة الأخرى والتي كبّلت القوانین الغربیة حریات أهلها الدینیة، و أفسدت التصورات الغربیة عقول الناس و أفكارهم فیها.
3 – رفض التحاكم إلی ما یسمی بالشرعیة الدولیة والأمم المتحدة وقوانینها وقرارتها:
إن ما یسمّی الیوم بالشرعیة الدولیة والأمم المتحدة بجمیع فروعها وإداراتها المدنیة والعسكریة فهي في الحقیقة غطاء برّاق لإخفاء الفعّالیات و السیاسات الاستعمارية التوسّعیة، وفرض الهیمنة السیاسیة والقضائیة من قََِبَل عدد من الدول القویة علی الدول الضعیفة ومنها الدول الإسلامیة، فوضعت الدول القویة القوانین واللوائح والقرارات لهذه الإدارات التي تسمّی (بالدولیة) علی شكل تضمن تفوّقها علی بقیة الدول بتقیید صلاحیاتها وتكبیل أیدیها بالقوانین الظالمة، وهذا ما شهده العالم خلال أكثر من ستین سنة ماضیة، فهي في الحقیقة وسیلة لإضفاء الشرعیة علی الإجرامات التی ترتكبها الدول الاستعمارية في حق الدول و الشعوب الضعیفة.
ولكی یتحّتم تطبیق هذه القوانین علی جمیع الشعوب المضطهدة فقد أحاطها الغرب بهالة عظمیة من القداسة حیث جعلها لا تقبل أی نقد، أو مناقشة، أو إعادة نظر في صیاغتها، وتبدیل موادها، وكأنها فوق جميع المقدسات والتعالیم السماویة التي أنزلها الله تعالی علی أنبیائه لإسعاد البشر.
وبما أن أنظمة وحكومات العالم الإسلامي من صنائع الغرب المستعمر، و یدیر شئونها أناس ممن خانوا الله تعالی ورسوله وأخلصوا الوفاء للدول الاستعمارية التي مكنوهم من الوصول إلى الحكم و البقاء فیه، فقد آمنوا بقوانین و قرارات هذه الإدارات (الدولیة !!؟) كما یؤمن المسلمون بالإسلام، وتفانی هؤلاء العملاء في التحاكم إلیها وتطبیقها كما یتفانی المسلمون في الاحتكام إلی شرع الله و تطبیقه في شؤون حیاتهم.
وهكذا تحكمت الهیمنة الغربیة القانونیة علی حیاتنا في دول العالم الإسلامي، وأصبح الخروج علی هذه القوانین أو رفض التحاكم إلیها من أعظم الجرائم التي یعاقب لمخالفتها دول وشعوب بالقتل الجماعي، والتدمیر، والتشرید، وإسقاط حكوماتها، والسیطرة علی ثرواتها، إلی أن تنقاد لهذه القوانین طوعاً أو كرها.
ولكن (طالبان) أبطلوا هذه الأسطورة و أعلنوا خروجهم علیها، ونادوا بأعلى صوتهم أن التحاكم یجب أن یكون لشرع الله أوّلا وأخیراً في جمیع الشؤون الداخلیة والخارجیة، وأثبتوا بثباتهم علی مبادئهم وإیمانهم الذي لم یتزعزع أمام العواصف الشدیدة أن العزة لله ولرسوله و للمؤمنین و لكن المنافقین لا یعلمون.
ولم تبق هذه الدعامة الفكریة لدی طالبان في حدود شعار أجوف كما ترفعه بعض الجهات المنتسبة إلی الإسلام، بل صدّقه العمل منهم حین واجهوا ابتلاء التحاكم إلی القرارات الدولیة أو التمسك بمرجعیة الشرع في جمیع الشؤون، فرفضوا الاستسلام إلی قرارات الشرعیة الدولیة!!
وتمسكوا بالإسلام وإن كان ثمن هذا التمسك ذهاب حكومتهم ونظامهم الذي أقاموه بدمائهم وأشلائهم بعد تضحیات عظیمة، لأن الهدف من الحكم عندهم كان إعلاء كلمة الله تعالی، وما دامت كلمة الله كانت لا تعلو في الحكم، فلم تكن هنالك أیة قیمة في فكرهم للحكومة لیساوموا علیها الغرب.
ولكن كل هذا لا یمنعهم من أن یؤیّدوا اللوائح والقرارات الدولیة التي لا تتعارض مع تعالیم الإسلام.
وهذا الفهم هو نفس الفهم الذي كان یلقّنه الرسول صلی الله علیه وسلم أصحابه حین رغّبهم للهجرة من مكة، ولم یرض بالاشتراك في الحكومة مع الجاهلیة في مكة، وإن كان أهل مكة یرضون برئاسة رسول الله صلی الله علیه وسلم للحكومة بشرط أن لا یمسّ جاهلیتهم في الحكم والقوانین والتحاكم إلی ما وجدوا علیه آباءهم.
إن إحیاء مثل هذا الفهم لمن المآثر العظمیة لطالبان في زمننا الذي یتسارع فیه الحكام إلی الخنوع و الاستســــــــــــلام إلی
القوانین الكفریة للبقاء علی سدات الحكم.
4 - إخلاص الولاء لدین الله تعالی وعدم مساومة أهل الباطل:
هناك الكثیر من الحركات والجماعات الإسلامیة التي تدّعي الولاء لدین الله تعالی ما لم تكن هناك محن و ابتلاءات، أمّا إذ جاءت المحن الشدیدة والابتلاءات الممحصة فسرعان ما یمیلون إلی المداهنة والمساومة، ویصانعون أهل الباطل علی حساب المبادئ الإسلامیة للحفاظ علی مكاسبهم الدنیویة، والأنكی من هذا هو أنها تحالف الأعداء بشكل مخز وتفتح جبهة حرب من الداخل ضد المجاهدین والمدافعین عن دین الله تعالی، وتكیل للمجاهدین تُهم الإرهاب والتطرف، وقلّة العلم، وعدم الفهم لروح الإسلام، و تردد نفس المصطلحات والشعارات التي یسعی لترویجها العدو ضد الجهاد والمجاهدین، وكم عانت أمّتنا من هذه الجماعات والحركات المتاجرة بالإسلام؟. وكم من المفاهیم الإسلامیة مُسِخَت من أفعال هذه الجماعات و مواقفها المشینة؟ وكم من هذه الجماعات والأحزاب المنتسبة إلی الإسلام رأیناها وهي تنضم إلی الحلف الصلیبي العالمي ضد المجاهدین بحجة إدانتها للإرهاب والتطرف ؟
أمّا حركة طالبان فهي بفضل الله تعالی أخلصت ولاءها من الیوم الأول للإسلام، ولم تصانع الجماعات والأحزاب المشبوهة في وصولها إلی الحكم، ثم أثبتت إخلاص ولائها من جدید بتطبیقها الشریعة الإسلامیة وكانت قد نُحیت من التنفیذ لأزمنة طویلة، وقد قامت بهذا العمل العملاق الذي عجز عنه الإسلامیون فی العالم رغم الإساءات و توجیه الاتهامات إلیها والتشكیك في أمرها، وكان رصیدها القوي في هذا المشوار الشاق هو إخلاص ولائها لدین الله تعالی.
ولا ندّعي بذلك عصمة طالبان من أي خطأ أو زلل في تطبیق الشریعة، أو نقاء صفوفها من العناصر السیئة، فهي كأيّ حركة أخری كان فیها أصحاب الأغراض، و طلاب المناصب، وربّما الدخلاء من رواسب المنظمات الجهادیة السابقة الذین تزعزع ولاؤهم للإسلام أمام الدولارات الأمریكیة، ولكن هؤلاء خذلوا الحركة حین جاءت المحن فلفظتهم الحركة ولم یبق لهم في صفوف طالبان أیة مكانة. ( یتبع )
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=1561:fiker-taliban44&catid=50:44somoodmag&Itemid=58
الدعائم الأساسیة لفكر طالبان – الإمارة الإسلامية (الحلقة الثانية)
السبت, 20 مارس 2010 18:19
بقلم: عبد الوهاب الكابلي
5 - دفع العلماء وأهل الدین للقیادة ّبعد تنحیة الملوك والعلمانیین لهم من هذا المجال: إن حركة طالبان تری من خلال فهمها لروح هذا الدین وتاریخه المجید أن حق القیادة السیاسیة للأمة الإسلامیة هو لعلماء الدین وورثة الأنبیاء، وهذا ما حكمت به تعالیم الدین الإسلامي بكل الوضوح، وخیر مثال لهذا النهج هو شخص النبي صلی الله علیه وسلم حیث كان هو القائد الأعلى للدولة الإسلامیة إلی جانب منصب النبوة الشریف، فهو الذي كان یدیر الشؤون السیاسیة و العسكریة، والمالیة، و التشریعیة للأمة، وهو الذي كان یضع الخطوط العریضة للسیاسة الدولیة للدولة الإسلامیة بالإضافة إلی تعلیم الأمة دین ربها، و إخراج الإنسانیة من الظلمات إلی النور .
الحلقة الأولى من هذا الموضوع نشر في مجلة الصمود العدد الرابع والأربعون:
على العنوان: اضغط هنا
وفيها: 1 – فهم قادة الحركة ومؤسسیها للإسلام
2 - عدم تلوّث أفكارهم وعقولهم بالفساد الذي أوجدته الحضارة الغربیة في مجالات الفكر والسلوك والسیاسة والنظام.
3 – رفض التحاكم إلی ما یسمی بالشرعیة الدولیة والأمم المتحدة وقوانینها وقرارتها.
4 - إخلاص الولاء لدین الله تعالی وعدم مساومة أهل الباطل.
وبعد وفاته صلی الله علیه وسلم فُوٍّض أمر قیادة الأمة إلی أعلم رجل بدین الله تعالی ، وأعرف إنسان بروح شریعة الإسلام وهو أبو بكر الصدیق رضي الله عنه و أرضاه، وهكذا كانت تنتقل القیادة من عالِم إلی عالِم ، وفي ظل قیادتهم الحكیمة كانت تتسع رقعة دولة الإسلام و تنتشر دعوته في الآفاق.
وبعد انقضاء خیر القرون جاء دور الانحطاط بسبب انحراف الناس عن تعالیم الدین، وأُسندت القیادة السیاسیة للأمة في كثیر من الأحیان إلی من تحكمهم أهواؤهم أكثر مّما تحكمهم شریعة ربهم ، فكانت هناك تساهلات في أمر تطبیق الشریعة، والتي تسببت في ضعف شوكة الأمة، فخسر المسلمون بلاداً كثیرة، وذاقت الأمة الویلات تلو الویلات، ولم یخرجها من حمأة هذا الذل إلا القادة الذین كانوا یتحاكمون إلی الشریعة في كل الأمور، فأعادوا الأمور إلی نصابها، كأمثال الأیوبيّ ، والغزنويّ ، والمظفر قطز، وغیرهم ممن كان معهم زادهم من العلم الشرعي ، أو كانوا یستنیرون بعلم من معهم من علماء الإسلام .
إلاّ أنّ تلك الأدوار التاریخیة المزدهرة لم تدم طویلاً ، وآلت الحاكمیة إلی أیدي الحكام المستبدین الذین قدّموا أهواءهم علی الدین، واضطهدوا أهل الدین و علماءه، وعملوا بمكرٍ لتنحیة علماء الشرع عن میدان السیاسة والقیادة.
وقد قام المحتلون الأجانب بعد استیلائهم علی الحكم في بلاد المسلمین بفصل الدین عن الحیاة، وروّجوا اللادینیة، وقضوا علی أيّ دور للدین في أمور الحیاة والحكم، كما قاموا بتحجیم دور العلماء في أمور الحیاة والسیاسة، فصاروا یتسلّون ببعض العبادات الانفرادیة ومدارسة أحكامها في مدارسهم التي غلبت علیها الرهبنة بعد أن كانت منارات للدعوة والإرشاد، و تخریج القیادات التي كانت تذود
عن حیاض الأمة .
ولم یكتف المستعمرون بذلك، بل أنشأوا جیلاً جدید من أبناء المسلمین في المدارس الحكومیة التي أنشأوها و قررّوا فیها تدریس المناهج اللادینیة بواسطة المدرسین الأجانب أو تلامذتهم من بني جلدتنا الذین تربّوا في أحضان المستشرقین والمنصرین تحت رعایة الاستعمار .
وبدأ الجیل الجدید معاداة الدین ، وأصبح یتنكر لمبادئه وأحكامه ، وأخلص في الولاء للمحتلین الأجانب الذین سلّموهم زمام أمور البلاد بعد رحیلهم عنها عسكریاً، وكان من أمر هذا الجیل المتفرنج أن أوجد طرازاً جدیداً من القیادة والحكم ما هو ظاهره انتساب إلی الإسلام و باطنه مروق من الدین و محاربة لشعائره و أحكامه .
ولكی یخلو المجال بأكمله لهذا الجیل المتفرنج فقاموا بإقصاء العلماء و الغیّورین علی الدین من القیادة ومراكز صنع القرار لیتمكنوا علی أوسع نطاق من صیاغة الشعوب الإسلامیة في قالب الغرب من دون أن یواجهوا العراقیل.
هذا وقد وضع المستعمرون الأجانب لهذا الجیل الجدید قبل رحیلهم دیناً جدیداً أحلّوه محل دین الله تعالی وهو دین (الديمقراطية) الذي یحكم البشر بأهواء الناس، ویستوي فیه أفضل الخلق في هذا الزمن بأفجر المخلوقین في الحقوق السیاسیة واستحقاق الحاكمیة، فبدأ الحّكام الادینیون بتوطید أركان دینهم الجدید بكل ما یمتلكون من القوة العسكریة وفنون التعذیب والسجون .
ولكی یستمر هذا الطراز من الحكم و الحیاة في البلاد الإسلامیة فقد صاغوا المناهج التعلیمیة في البلاد الإسلامیة بالطریقة التي تلائم أهداف الغربیین في الوطن الإسلامي .
أمّا المناهج التعلیمیة في المدارس الإسلامیة والجامعات التي تشرف علیها الحكومات هي الأخرى أصیبت بالعقم، وغدت تدرّس المواد الشرعیة منزوعة الروح في عبارات متكلفة لعبت بها الصناعات الأدبیة و فلسفة الیونان التي لا تجد مصداقاً علی أرض الواقع.
وهكذا انحصر الدین في عبادات محدودة كالصلاة والزكاة والأحوال الشخصیة و شيء قلیل من الأبحاث الإسلامیة والعقائدیة التي ترتبط بالفرق الكلامیة والعقائدیة التي كانت موجودة قبل مئات السنین، أمّا الفرق والجماعات العقائدیة المعاصرة وفتنها الهوجاء التي اكتسحت العالم الإسلامي من أقصاه إلی أقصاه فلم تتطرق إلیها مناهجنا التعلیمیة الإسلامیة في هذه البلاد، ولم یبیّن فسادها لعامة الناس علی قدر كاف لیكونوا منها علی حذر، فجاءت الشیوعیة الحمراء ولعبت بعقول الناس وعواطفهم ، ثم جاءت بعدها اللیبرالیة الفاجرة التي نازعت الله تعالی في حاكمیته وتطبیق شریعته في الناس.
ففي مثل هذا الوضع المأساوي ظهرت حركة (طالبان) ودخلت المعترك السیاسي والقیادي من أوسع أبوابه، فقلبت الموازین، وغیَّرت المعاییر، وأعادت الأمور من جدید إلی نصابها، وخرج علی العالم إمام المسجد مرّة أخری لیُعلن للعالم بملء فیه بأعلى صوته (إن الحكم إلاّ لله)، و قرع مرة أخری أسماع الشیوعیین و اللیبرالیین بأنّ {وَمَن لَّمْ يَحْكُم بِمَا أَنزَلَ اللّهُ فَأُوْلَـئِكَ هُمُ الْكَافِرُونَ }المائدة44
وهكذا امتلك إمام المسجد مرّة أخری بعد مضي ما یقرب من ألف سنة القیادة السیاسیة العلیا في هذا البلد، وأثبت من جدید أن إمام المسجد هو الأحقّ بالإمامة العظمی من أیّ أحد غیره، وهذه هي سنة رسول الله صلی الله علیه وسلم وخلفائه الراشدین المهدیین، و أنّ ما طرأ علی الأمة من الرضوخ إلی القیادات اللادینیة هو أمر لیس من طبیعة هذا
الدین.
ودحضت حركة طالبان بإقامتها الحكومة و تطبیقها للشریعة فریة الغرب العظمی التي سعی لتثبیتها في أذهان المسلمین لما یقرب من قرنین، وهي فریة عدم صلاحیة الشریعة الإسلامیة لتسییر أمور الدولة والسیاسة في هذا الزمن، و بذلك أثبتت حركة طالبان بشكل عملي أن دارسي الدین و أئمة المساجد أحسن كفاءة من غیرهم من فراخ الفكر الغربي في تسییر أمور الدولة و النظام .
إنّ طریق طالبان لم یكن مفروشا بالورد في إنجاح هذه التجربة التي كادت الأمة أن تیأس من نجاحها، بل كان طریق الدماء والأشلاء والتضحیات والصبر الطویل، ولقد واجهوا فیها التحدیات المحلیة والإقلیمیة والعالمیة ، وضحّوا بعشرات الآلاف من خیرة الشباب من طلبة العلم وحفّاظ كتاب الله تعالی، وواصلوا لیلهم بنهارهم إلی أن تغلبوا علی كل العوائق وشقوا طریقاً جدیداً بصلابة الإیمان والاعتزاز بالدین، ولم تثنيهم تخویفات الناس الذین قالوا لهم { إِنَّ النَّاسَ قَدْ جَمَعُواْ لَكُمْ فَاخْشَوْهُمْ فَزَادَهُمْ إِيمَاناً وَقَالُواْ حَسْبُنَا اللّهُ وَنِعْمَ الْوَكِيلُ }آل عمران173
إنهم لم یستسلموا للضغوط الإقلیمیة والعالمیة التي مورست ضدهم في جمیع مراحل تطور هذه الحركة، ولا ساوموا علی المبادئ التي یؤمنون بها مهما اشتدت المحن، ولم یلبسوا الشریعة الإسلامیة بشرائع الطاغوت و أنظمة أبالسة البشر الذین یناوئون الله تعالی في حكمه .
و لما یئس العالم الكفري من استمالة (طالبان) بالوسائل السلمیة والمساومات السیاسیة وفشلت جمیع جهوده في قولبة هذه الحركة في قالب الديمقراطية الذي غیّر فیه صیاغة كثیر من الحركات والجماعات الإسلامیة بعد إذابتها بحامض (المعایشة السلمیة) وجعلها (ماكیاجاً) للأنظمة الطاغوتیة، أعلن العالم الكفري ضدهم حرباً صلیبیة شعواء، وبذل كلّ ما في وسعه لوأد هذه التجربة قبل أن ینتبه إلیها المسلمون من رقدة التخدیر التي خدّرهم بها شیاطین الغرب من خلال خدعاتهم الشیطانیةُ .
ولكن الله تعالی أراد أن یهزم العالم الكفري كلّه بید هؤلاء الفقراء الذین لا یملكون في حربهم ضد العالم الكفري إلاّ دماءهم و أشلاءهم و شیئاً قلیلاً من الأسلحة الخفیفة التي لا یجدون لها الذخیرة إلاّ تلك المصدأة التي دفنوها في التراب یوم أن سقط حكمهم قبل أكثر من ثماني سنوات .
وها هي أمریكا المغرورة تتزلّف إلیهم و ترید منهم الاشتراك في الحكومة التي أقاموها لعملائهم في كابل، ولم تتنازل أمریكا إلی هذا الموقف الذلیل إلا بعد أن جرّبت الحرب ضد طالبان خلال ثماني سنوات ماضیة.
ومن ناحیة أخری فقد فرضت حركة طالبان نفسها علی السیاسة الدولیة كحركة یقودها من انطلقوا من المساجد ومحاریبها علی عكس ما رأی الناس من القیادات العلمانیة ممن رباهم الغرب، وقد أوضحت قیادة هذه الحركة من خلال اتخاذ مواقفها الصلبة الحكیمة أن الحركة لیست جماعة من الدراویش یلعب بعواطفها شیاطین السیاسة العالمیة بأحابیلهم ومكائدهم الشیطانیة، بل هي حركة یقودها من علماء الإسلام من صقلتهم تجارب الحكم والحروب والمواجهة العالمیة، و یتمتعون بذكاء سیاسي وفهم دقیق للأوضاع و الألغاز السیاسیة في المنطقة والعالم .
فهذه الدعامة الفكریة لطالبان لا تنحصر في دفع العلماء للقیادة والسیاسة بعد أن نحّاهم الملوك والعلمانیون من هذا المجال، بل الأمر یتعدی إلی ما هو أكبر من ذلك، وهو إنشاء جیل جدید من الشباب المجاهدین یفهمون الحرب، و السیاسة، والإعلام، و مواجهة المكائد العالمیة، بدهاء و ذكاء إلی جانب فهمهم ما تطلبه منهم المعركة من التكیّف المستمّر مع أطوار الصراع، وهذا یوفّر للحركة مقومات القیادة للشعوب الإسلامیة في الحرب الصلیبیة الدائرة التي یقودها الغرب و أذنابه من الحكام المجرمین في العالم الإسلامي، و الذین یلبّون لجمیع طلبات الغرب خوفاً علی عروشهم، و إذا أردنا أن نجمل القول في هذه الدعامة من دعائم الفكر لدی حركة طالبان فنقول : إن حركة طالبان أكسبت المسلمین الثقة بصلاحیة العلماء والمجاهدین لقیادة المسلمین في هذا العصر، وأنّها أزالت الخمود والجمود الطارئین علی علماء المسلمین، و دفعت بهم من جدید إلی معترك القیادة والحكم ، و أنها استفادت من تجارب من سبقتها من الحركات الإسلامیة وأضافت إلیها الجدید لتتأهل و تؤهّل للقیادة والمقاومة في الحال والمستقبل، إلاّ أن هذه التجربة تحتاج إلی ترشید أكثر، و إلی توثیق علمي تاریخي واسع یشمل جمیع جوانب هذه الحركة، فهي قدمّت نموذجاً جدیداً من العمل للإسلام من خلال عمل عسكري و مدني في إطار شرعي یجمع بین الرجوع إلی ما كان علیه الإسلام في عهد السلف و بین مسایرة المستجدات العصریة في معترك الصراع الدیني والحضاري بین الإسلام وأعدائه من ملل الكفر وإن قلل المرجفون والمنافقون من شأنها .
وهي حریة بأن تدرس تجربتها القیادة والروحیة في مجالي الحكم والقیادة، ولا ینبغي أن یكون اعتناء أصحاب الفكر الإسلامي بها و برؤیتها للجهاد والحكم و بتأثیرها في سیر الأحداث العالمیة و الصراع الفكري المعاصر أقل من اعتناء الكفار بها في هذا الزمن.
6 – الكفر بالديمقراطية واعتبارها دیناً للجاهلیة المعاصرة :
من الدعائم الأساسية الهامة في فكر طالبان الكفر بالديمقراطية واعتبارها دیناً للجاهلیة الغربیة المعاصرة التي ترفض الاهتداء بوحي الله تعالی إلی آخر رسله محمد صلی الله علیه وسلم، وتتحاكم إلی أهواء البشر في جمیع أمور الحیاة .
وتعتقد حركة طالبان اعتقاداً جازماً أن الإسلام دین كامل في النظام السیاسي والتشریع والاقتصاد والأخلاق والاجتماع. ولیس بحاجة أبداً إلی الترقیع بالديمقراطية أو أي دین وقانون آخر، وهذا هو المراد من قول الله تعالی في محكم كتابه {الْيَوْمَ أَكْمَلْتُ لَكُمْ دِينَكُمْ وَأَتْمَمْتُ عَلَيْكُمْ نِعْمَتِي وَرَضِيتُ لَكُمُ الإِسْلاَمَ دِيناً فَمَنِ اضْطُرَّ فِي مَخْمَصَةٍ غَيْرَ مُتَجَانِفٍ لِّإِثْمٍ فَإِنَّ اللّهَ غَفُورٌ رَّحِيمٌ }المائدة3
ومن قوله تعالی : {وَمَن يَبْتَغِ غَيْرَ الإِسْلاَمِ دِيناً فَلَن يُقْبَلَ مِنْهُ وَهُوَ فِي الآخِرَةِ مِنَ الْخَاسِرِينَ }آل عمران85
فالإسلام دین یستوعب جمیع أبعاد حیاة البشر، و یعالج جمیع مشاكله و قضایاه إلی یوم القیامة. فلو لم یكن كذلك لما رضیه كآخر دین للبشریة جمعاء إلی یوم القیامة، و لما اعتبر الخارجین منه من الخاسرین.
وتعتقد (طالبان) أن الديمقراطية دین جاهلي معاصر یرفض حاكمیة الله تعالی في الأرض، ویجعل السیادة العلیا في الأرض للبشر في شكل الأغلبیة، فالأغلبیة هي التي تضع القوانین، وتختص بصلاحیات التحلیل و التحریم، وهي التي تختار الحاكم طبقاً لأهوائها، وللحفاظ علی مصالحها، ولا تستسلم لشریعة الله الحقة في أيّ أمر من أمورها، فالأغلبیة في الديمقراطية تحتل مكانة (الإله) وأهواؤها تحتل مكانة (شریعة) الإله.
فتصور طالبان عن الديمقراطية هو أن الديمقراطية دین وضعه فلاسفة الغرب المعاصر بعد انحراف الكنیسة وطغیانها علی جمیع حقوق البشر، و مصدر التشریع فیها أهواء البشر وعقولهم ، وهي تقوم علی أصلین مهمین وهما: أصل السیادة : ومعناه أن السیادة العلیا في التحلیل و التحریم هي للبشر، ولا تعترف بأیة سیادة أخری تفوق هذه السیادة أو تساویها في المرتبة، فهي سلطة مطلقة – للحكم علی الأشیاء والأشخاص والأوضاع نابعة عن آراء الأغلبیة الناخبة .
وأصلها الثاني هو أصل الحقوق والحریات التي خلاصتها تمكین الفرد من كل ما یریده ما دامت حریته لا تحدد حریة الآخرین، ولا یجوز لأي شرع أو دین أن یحرم الناس من الحریات والحقوق التي تخوّلها الديمقراطية الناس مهما كانت مكانة الدین والشرع، فلیس هناك في الديمقراطية مؤمن وكافر، كما أنه لیس هناك كفر و إیمان، وإنّما هناك مساواة كاملة بین البشر في جمیع الحقوق، كما أن هناك حسن وقبح، فالحسن ما استحسنته الأغلبیة، والقبح ما استقبحته الأغلبیة سواء وافق علیهما الدین أولم یوافق علیهما .
ولا تنحصر الديمقراطية في هذه النظریة، بل تتعداها إلی غیرها من المفاهیم والتي تعرف بالمنظومة الديمقراطية ومنها التعددیة السیاسیة والتي یسعی المحتلون غرسها في البلاد الإسلامیة ویدعمونها بهدف تفریق المسلمین في البلد الواحد. وتری ( طالبان ) أن فكرة التعددیة السیاسیة في البلد المسلم ذریعة لتفریق المسلمین وتقسیمهم إلی كتل وجماعات تكید بعضها للبعض للوصول إلی سدة الحكم .
ولذلك تؤمن (طالبان) بإقامة نظام إسلامي عادل واحد یجمع شمل المسلمین علی كلمة التوحید تحت رایة الإسلام الواحدة منعاً للتنافس المذموم في الوصول إلی الحكم، كما أنها تری في نفس الوقت ضرورة فتح باب النصيحة لولاة أمر المسلمین (لأن الدین النصیحة) و (لأن أفضل الجهاد كلمة حق عند سلطان جائر) وخیر النصیحة هي أن تبذل لإمام المسلمین .
أمّا الأحزاب العلمانیة اللادینیة والقومیة وغیرها التي ینشئها الغزاة المحتلون أو التي تنشئها الدول الاستعمارية وتمولها للوصول إلی الحكم، و تنفق الملایین في شراء الذمم لها لتجعلها مطیة للوصول إلی أغراضها في الیوم و الغد، فهي لیست في میزان الإسلام و الشریعة الإسلامیة بشيء، ولا یجوز أن یُسمح بإنشائها وأن یؤذن لها بالقیام بالفعالیات اللادینیة في أرض الإسلام .
ولم ینس المسلمون في أفغانستان والعالم الإسلامي ما عانوه بالأمس من الأحزاب الشیوعیة من القتل، و العذاب، والتشرید، و السخریة من الدین والمقدسات، وسلخ الأمة عن دینها، ولم تندمل تلك الجراح حتى جاء الديمقراطيون اللیبرالیون تحت ظل القاصفات الغربیة لیذیقوا المسلمین أشد أنواع التنكیل والتعذیب، وما أحداث أفغانستان والعراق والصومال، وفلسطین وغیرها من البلاد الإسلامیة إلاّ جرائم هذه الأحزاب التي نشأت بمباركة الدول الكفریة في بلاد العالم الإسلامي .
وتری (طالبان) أن جهاد الشعب الأفغاني المؤمن طیلة ثلاثین سنة ماضیة لم یكن في سبیل الديمقراطية وفتح المجال للأفكار التغریبیة، بل كان و لازال جهاداً إسلامیاً یقدم فیه هذا الشعب المسلم ملایین الشهداء لإعلاء كلمة الله تعالی وتطبیق شریعته بین عباده .
وكل فكرة ونظریة تصرف شعبنا المؤمن عن هذا الهدف السامي وتحول بینه و بین قیام النظام الإسلامي علی أرض الجهاد و الشهداء حَریّة بأن لا یسمح لها، بل یجب أن یقضی علیها تقرباً إلی الله تعالی وجهاداً في سبیله .
فالديمقراطية في نظر (طالبان) دین الجاهلیة المعاصرة التي تسعی لنشرها في العالم بقوة النار والحدید، والإسلام في نظرهم دین آخر، وهو الدین الحق الذي أنزله الله تعالی علی خیر البشر محمد صلی الله علیه وسلم، و فیه وحده سعادة البشر، وبینهما فرق الكفر والإیمان .
7 – وحدة الصف ورفض العصبیات الجاهلیة :
تشكل المحافظة علی وحدة الصف ورفض العصبیات الجاهلیة دعامة هامة في فكر حركة الطالبان، ولذلك لم توجد التصدعات والانشقاقات في صف الحركة علی الرغم من مرورها بالمحن العظیمة، ومحاولات الأعداء الكثیرة في تقسیم أفراد الحركة إلی المتشددین و المعتدلین وما إلی ذلك من التسمیات، ولكنها لازالت قویة متماسكة تحافظ علی وحدة صفها تحت قیادة قائدها الذي أثبت جدارته للقیادة باتخاذ المواقف الإیمانیة الصلبة في صراع الحركة العظیم لعالم الكفر بأجمعه.
وهناك عوامل مهمة ساعدت علی وحدة الصف في الحركة وحفظتها من الانقسامات والانشعابات وهي كالتالي :
1 – وجود الطاعة الكاملة في المعروف من أفراد الحركة لأمیرها عن طوعیة، لأنّ الطاعة لولي الأمر في الإسلام أمر شرعي تحثّ علیه نصوص الشرع، وتحذّر الجماعة المسلمة عن مغبة مخالفة تلك النصوص الشرعیة، ولكون معظم أفراد وقیادات الحركة من علماء الدین الإسلامي وطلاب العلم الشرعي فهم أولی الناس وأقدرهم علی فهم تلك النصوص الشرعیة والالتزام بتعالیمها الدینیة، وهذا الفهم والالتزام یمنعان منسوبيّ الحركة من إتباع الهوى والجري وراء الشهرة ومتاع الدنیا الذي یصبو إلیه المنشقون عن الحركات الإسلامیة في كثیر من الأحیان .
2 – عدم الانصياع إلی إشاعات العدو وعدم الاكتراث بما یقوله الأعداء عن قیادات الحركة ومواقفهم تجاه الأحداث، لأن معظم الخلافات في صفوف الحركات الإسلامیة تنشأ من إساءة الظنون بالقیادات بسبب الإشاعات والشبهات التي یثیرها العدو بین أتباع الحركات، و بما أن معظم أفراد الحركة ممن یتمتعون بالعلم الشرعي، فیصونهم علمهم الشرعي من التأثر بإشاعات العدو عملاً بقوله تعالی: {وَإِذَا جَاءهُمْ أَمْرٌ مِّنَ الأَمْنِ أَوِ الْخَوْفِ أَذَاعُواْ بِهِ وَلَوْ رَدُّوهُ إِلَى الرَّسُولِ وَإِلَى أُوْلِي الأَمْرِ مِنْهُمْ لَعَلِمَهُ الَّذِينَ يَسْتَنبِطُونَهُ مِنْهُمْ وَلَوْلاَ فَضْلُ اللّهِ عَلَيْكُمْ وَرَحْمَتُهُ لاَتَّبَعْتُمُ الشَّيْطَانَ إِلاَّ قَلِيلاً }النساء83
فهم یرجعون الأمر إلی أولی الأمر ولا یقبلونه بالكیفیة التي یذیعه الأعداء، ومن جانب آخر فإن الطاعة في الإسلام هي في المنشط والمكره، فهذه الالتزامات وهذا الفهم لواقع الحركة عامل هام من عوامل منع التصدعات في صفها .
3 – إن قادة الحركة لا یمتازون عن بقیة أفرادها بشيء من متاع الدنیا ، فلیس هناك في القادة ما ینفّر الأتباع عنهم، لأن جمیعهم من الفقراء ومن عامة الشعب، یعیشون مثل ما یعیش الناس، ویأكلون ویلبسون مما یأكل ویلبس منه عامة أفراد الحركة، بل ربما كانت حالة القادة المعیشیة أضعف وأخشن من أحوال أتباعهم، ولم یجد الغربیون إلی الآن شیئاً من أموال وعقارات القادة لیصادروه منهم أو یتخذوه وسیلة للضغط علیهم، وهذا الفقر و خشونة العیش هي التی أقنعت أفراد الحركة وعامة الشعب بعدم رغبة قیادات الحركة في متاع الدنیا، فأوجدت هذه الصفات في نفوس الناس محبة الالتفاف حول قیادة الحركة وعدم الخروج علیها.
4 - إنّ الخلافات في صفوف الحركات والجماعات تنشأ في أغلب الأحیان عن التنافس علی المناصب والوظائف، ولكن الأمر یختلف في حركة طالبان حیث المناصب فیها تكليفية، ولیست تشریفیة، وهي لیست مِنَح، بل هي مِحَن وخروج إلی میادین الجهاد والقتال، وعرض النفس علی القتل والجرح والأسر والمصائب، ولیس هذا في ظروفها الحالیة فحسب، بل هو نهج كان سائداً في أیّام حكم الحركة أیضا، حیث كنت تجد الیوم أحد أفرادها وزیراً ، ثم كنت تجده في الغد قائداً لخط النار الأول، وبعد غد كنت تجده في وظیفة عادیة أخری، وبعدها كنت تجده لا یشغل أیة وظیفة رسمیة، وربما كنت تجده بعدها والیا لولایة من الولایات، فالمناصب والوظائف كانت تكالیف شاقة ، ولم تكن مغانم دنیویة یتنافس الناس في الوصول إلیها، ولذلك لم تكن هناك روح التنافس في نفوس قادة الحركة وأفرادها، بل كانوا یعتبرون المناصب مسؤلیات عظیمة یستصعبون تحمّلها، ولا یتقدم إلیها إلاّ من لا یرغبون في الدنیا.
وقد حاول أعداء طالبان كثیراً أن یقسّموا رجال الحركة إلی
متشددین ومعتدلین، ولكن جهودهم باءت بالفشل حیث لم یجدوا في صف الحركة من ینساق وراء دعایاتهم، فلم ینفع الأعداء في هذا الطریق لا العروض الضخمة، ولا الرشاوى المالیة والسیاسیة، لأن الانتساب إلی الحركة إنّما یكون علی وشیجة الإیمان والبذل في سبیل الله ، ولا یكون للحصول علی المناصب .
وهذا لا یعني عصمة صف الحركة من النفعیین والمتخاذلین وأصحاب الأغراض، بل هي كأیة حركة إسلامیة أخری تتكون من البشر، والبشر لیسوا ملائكة ، إلاّ أن الذي یمّیز (طالبان) عن غیرها من الحركات هو أن المتخاذلین والنفعیین لا یمكنهم الاستمرار في صف الحركة بسبب طبیعة الحركة الاحتسابیة و سیرها علی الطریق الشاق، و النفوس المریضة لا تحتمل الصبر علی المشقات و المحن و كدّ العیش.
ومما یقوی من تماسك الحركة هو ابتعادها عن العصبیات القومیة واللسانیة والإقليمية وغیرها من العصبیات الجاهلیة الممقوتة، فالحركة تتشكل من جمیع القومیات السنیة ، وفی قادتها الأزبك والتركمان والطاجیك والبلوش والبشتون والنورستانیون وغیرهم ممن ینتمون إلی القومیات المختلفة.
وهذا هو سرّ تواجدها الواسع في جمیع الولایات الأفغانیة، ومعیار التفاضل في الحركة هو التقوى إلی جانب الإخلاص والجدّ في العمل، وهذا ما تسعی الحركة للحفاظ علیه بكل جدیّة وعزم . ( یتبع )
آخر تحديث ( الاثنين, 05 أبريل 2010 11:57 )
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=2189:2010-03-20-13-49-36&catid=83:alsomood46magazine&Itemid=58
الدعائم الأساسیة لفكر الطالبان (الإمارة الإسلامية)3
الاثنين, 19 أبريل 2010 14:21
بقلم: عبد الوهاب الكابلي
ومن الأفكار الأساسیة أیضا لدی الطالبان نظریة العمل للإسلام بالأسالیب الإسلامیة الخالصة وعدم الانفتاح علی الغرب في أسالیب العمل التنظیمي السیاسي، و بذلك أغلقت (الطالبان) المنافذ والمداخل أمام تلامذة الغرب وسفراء فكره للتأثیر فیهم وتمییع مبادئهم التي قاموا لتنفیذها من أول یوم.
إن قیادة (طالبان) تدرك جیداً أن الذین تربوا في أحضان الغرب وتشرّبوا من مبادئه المادیة لا یكنّون أيّ إخلاص للإسلام والأمة الإسلامیة، لأن المُثُل العلیا في أذهان هؤلاء الناس هي مُثُل الغرب في جمیع مجالات الحیاة، والإسلام في نظرهم عبارة عن تعالیم روحیة بحتة لا صلة لها بنظام الحكم أو تسییر أمور البشر، فهمّهُم الكبیر هو صوغ حیاة المسلمین في القوالب الغربیة، و كلّما وصل هؤلاء الناس إلی القیادة ومواقع التأثیر في الجماعات الإسلامیة عملوا لإفسادها، أو تمییعها، لتوافق الأفكار الغربیة في الفحوى وإن اختلفت عنها في التسمیات.
ولكن موقف (طالبان) هذا لیس معناه عدم الاستفادة من الخبراء والفنیین وعلماء العلوم التجریبیة الأوفیاء لدینهم وبلادهم الذین اكتسبوا علوماً نافعة في الغرب وعادوا لیخدموا بها دولهم وشعوبهم لتسعد بمواردها الطبیعة ومعادنها الثریة التي تنتظر الأیدی الأمنیة العلمیة، وتهدف (طالبان) من اتخاذ هذه السیاسة إلی سدّ الطریق أمام تلامذة الغرب الحاقد من أن یتزعّموا البلد والنظام سیاسة، وفكراً وثقافة، وقانوناً، لأن وجود مثل هذه الشخصیات فی قیادة الجماعات الإسلامیة أو وجود تأثیرها في سیاسات الجماعات الإسلامیة هو بمثابة حامض مذیب یفعل فعله فیما حوله مع مرور الزمن.
وقد شوهدت معظم الحركات الإسلامیة في النصف الثاني من القرن العشرین كیف أنها كانت في بدایة أمرها جماعات إسلامیة قویة بعثت في شباب الأمة روح الاعتزاز بالدین وقدّمت للأمة الإسلامیة خدمات جلیلة، بل واشتركت في الجهاد المسلح والكفاح العسكري لتخلیص البلاد الإسلامیة من نیر الاستعمار، ولكن بعد كل ذلك انتكست انتكاسات كبیرة، وانقلبت علی عقب بعد أن تأثرت ببعض مبادئ الغرب، وأخذت منه بعض أسالیب العمل السیاسی، فتغیرت مناهجها، وتبدلت أدبیاتها الفكریة إلی أن تغیرّت ماهیتها عمّا أنشأها علیها منشؤوها المخلصون، وأمست هذه الجماعات شبه ديمقراطية أصابها داء العلمنة، وصارت تزن أمورها بموازین الديمقراطية الغربیة، وتشترك في الحكومات الائتلافیة ذات القواعد العریضة، وتنضم إلی الأحلاف التي تكوّنها الأحزاب العلمانیة للوصول إلی سدة الحكم، وكأن الهدف الأهمّ لهذه الجماعات المنتمیة إلی الإسلام هو الوصول إلی كرسي الحكم بأیة طریقة كان، سواء كان عن طریق التخلّي عن المفاهیم الإسلامیة الخالصة تزلفّا إلی الأحزاب والحكومات اللادینیة، أو كان عن طریق المشاركة في الانتخابات علی الطریقة الغربیة التي یستوي فیها المؤمن بالكافر، والمصلح بالفاجر، أو عن طریق مدّ الجسور بینها وبین الغرب في أشكال مختلفة، أو كان بالطعن في الجماعات الجهادیة التي تسعی لإقامة الحكم الإسلامي عن طریق الجهاد الإسلامي بعد القضاء علی الأنظمــــــة الطاغوتیة الكافرة والعمیلة.
إن هذه الجماعات التي أصابها داء التشابه والتأثر بالغرب لیست قلة ولا هي من الجماعات الصغیرة، بل هي كثیرة وكبیرة، وقد شوهدت لها الأمثلة في مصر، والتونس، والجزائر، والسودان، والأردن، والتركیا وبلاد الجزیرة العربیة وبلاد الشبه القارة الهندیة، وطاجكستان، وأخیراً في العراق التي وقفت وفیها إلی جانب المحتلین للمشاركة في الحكومة التي أقامها الأمريكيون.
أمّا أفغانستان فأحزابها التي كانت تُسمی بالأمس القریب أحزاباً جهادیة وإسلامیة وكانت ترفع أعلام الجهاد كما كانت تنادي بشعارات إقامة الحكومة الإسلام فهي الیوم أمست أسوأ حالاً من مثیلاتها من الأحزاب في العالم الإسلامي، حیث وقفت جمیعها بشكل أو بآخر تحت رایة الصلیب في إطار الإدارة الأفغانیة العمیلة التي أوجدها الصلیبیون بعد احتلالهم لهذا البلد.
إنّ بعض تلك الجماعات اتخذت، سیاسة العداء السافر للجهاد والمجاهدین، وانضمت بشكل رسمي إلى حكومة الاحتلال، وبعضها الأخرى التي تجید سیاسة المراوغة والاستفادة من الفرص لم تدخل في الحكومة من البوابة الرئیسة بإعلان رسمي جريء، ولكنها أدخلت معظم رجالها و كوادرها التنظیمیة عن طریق النوافذ التي أسدلت علیها ستائر بشتى الأسماء.
فانضم معظم رجالها بحكومة الاحتلال، وبقیت حفنة قلیلة منها خارج الحكومة للمتاجرة باسم الجهاد والمجاهدین، ولا تستحي من إجراء المحادثات السریة أو العلنیة أحیاناً بحكومة العملاء إذا سال لعابها للاشتراك في الحكم، ولكن بشرط أن یكون لها النصیب الأوفر في الإدارة التي سیخلفها الاحتلال في أفغانستان.
وإذا تتبعنا جذور الانحراف في فكر هذه الجماعات الشبه علمانیة فنری أن الفساد تطرّق إلیها من المنافذ التالیة:
1 - اتخاذ الأسالیب الغربیة للحیاة والعمل.
2 - تمكین تلامذة الغرب من العمل والتأثیر في صفوفها.
3 - التخلّي عن عقیدة الولاء والبراء في العمل التنظیمي و الفردي للإسلام.
4 - الحرص علی رغد العیش والنعیم الدنیوي، والهروب عن حیاة التخشّن والعزیمة التي كان یربّي علیها الرسول صلی الله علیه وسلم أصحابه رضي الله عنهم.
5 – الإحساس بالخجل من الانتماء إلی المفاهیم الإسلامیة النقیة الخالصة التي یسميها الغرب الكافر بالأصولیة، والتطرف، والرجعیة، وغیرها من التسمیات.
6 – الانبهار ببعض مظاهر الحضارة الغربیة المادیة، وإحلالها محل الالتزامات المعنویة والروحیة في العمل الإسلامي.
7 – تلقین التوصیات الانهزامية للجیل الناشئ في الصراع مع الغرب، والتركیز علی مصانعة الغرب لإنهاء الصراع عاجلاً، وإن كان علی حساب المفاهیم والعقائد الإسلامیة الخالصة، وإقامة النظام الإسلامي الخالص.
8 - التوجه الكبیر للوصول إلی سدة الحكم بدلاً عن التوجه إلی محاربة أنظمة الطاغوت، وإقامة الحكم الإسلامي علی المنهج الإسلامي الخالص.
وهناك غیرها من الأسباب والعوامل التي وفّرت أسباب فساد الجماعات الإسلامیة.
أمّا حركة (طالبان) فهي لكونها یقودها من انطلقوا من محاریب المساجد وأروقة المدارس الإسلامیة الخالصة، فهي إلی الآن بفضل الله تعالی بمنأى من هذا الفساد، وقد أثبتت بسیاساتها الصریحة ضد الغرب وجهوده التغریبیة أنها لا تساوم علی مبادئها، ولا تغفل عن خطر تلامذة الغرب علی كیانها، فلذلك لم تنفتح علی الغرب ولا لأن قناعتها في صراعها الفكري ضد الغرب، ومادامت تنتهج هذه السیاسة لسیرها فهي ستكون بخیر إن شاء الله تعالی، وإن فسادها سیبدأ من یوم أن تفتح أبوابها للقیادیین ممن تربوا علی أفكار الغربیین أو تأثروا بهم.
(یتبع)
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=2672:-----3&catid=87:47somoodmag&Itemid=58
الدعائم الأساسیة لفكر (طالبان) (الحلقة الرابعة )
الخميس, 20 مايو 2010 23:33
بقلم: عبد الوهاب الكابلي
10 - الرؤیة الشرعیة لقضیة المرأة:
إن قضیة المرأة في فكر طالبان لمن القضایا الهامّة التي أثار الغرب حولها الجدل الكبیر، واتخذها من المطاعن في فكر طالبان ونظامهم، وقدّم الإعلام الغربي الصورة عن المرأة الأفغانیة بأنها مظلومة محبوسة، مهضمومة الحقوق و مقیدة الحریات، وأنها أبعدت عن مسايرة الرجال في تمدین المجتمع الأفغاني، وأنها حرمت من حق التعلّم والعمل وأنها..... وأنها ....
وهكذا اختلق الغرب اللیبرالي في مخیلته صورة شوهاء عن حال المرأة الأفغانیة المؤمنة التي تؤمن بالله رباً وبالإسلام دیناً وشریعة، وبأمهات المؤمنین والصالحات المجاهدات من الرعیل الأول قدوة ومثالاً.
ولكن الغرب مصرّ علی أن ینظر إلی المرأة الأفغانیة نظرته العوراء من منظور المعاییر والقناعات الغربیة الملحدة.
فما هي حقیقة قضیة المرأة في أفغانستان ؟ وما هي نظرة طالبان إلی هذا المخلوق الكریم، وما هي المعاییر في فكر طالبان لاستقامة المرأة أو انحرافها؟ وما هي الأسباب الحقیقیة من وراء ضوضاء الغرب التي رفعها لقضیة المرأة الأفغانية ؟
إن الإجابة علی هذه الأسئلة وغیرها مما یرتبط بشأن المرأة الأفغانیة تحتاج إلی أن نعود إلی الخلف قلیلاً لنعرف خلفیة حركة تحریر النسوان الغربیة في أفغانستان، و لنعرف أیضا كیف وقفت (طالبان) سداً منیعاً أمام حركة تغریب المرأة الأفغانیة وأبطلوا مشاریعها مما جلب علیهم سخط عالم الكفر بأجمعه ؟
إن المرأة المسلمة في فكر طالبان هي أخت الرجل المسلم في الدین، ویستویان جمیعاً في الالتزامات الشرعیة التي یفرضها علیهما دینهما الحق، فهي مطالبة بأن تلتزم أحكام شریعة ربها، كما یطالب أخوها المسلم بالتزامها.
ومكانتها في المجتمع الإسلامي فهي إمّا (أمّ) محترمة، أو ( أخت ) عزیزة ، أو (بنت ) كریمة، أو (زوجة) وفیة، وفي جمیع الأحوال هي إنسانة محترمة .
ویمیّزها عن الرجل كونها أنها مخدومة والرجل خادمها، حیث جعلت الشریعة الإسلامیة تربیتها، والإنفاق علیها، والدفاع عن كرامتها وشرفها، من مسؤلیات الرجل المسلم، و ما ذلك إلاّ مراعاة للفروق الفطریة والفسیولوجیة التي أودعها الله تعالی في كیانها، حیث لا تتحمل معها من المشاق والمتاعب ما یقدر الرجل تحمّلها .
أمّا المعاییر والموازین في فكر طالبان لاستقامة المرأة المسلمة أو انحرافها فهي نفس المعاییر والموازین التي وضعها الإسلام ، وبیِّنها علماء سلف هذه الأمة .
وبما أن الغرب الصلیبِيّ بنزعاته الإلحادیة یرفض الإسلام بأجمعه، فلا غرابة في أن یستنكر معاییر طالبان لصلاح المرأة أو فسادها.
فالمشكلة في ذهن الغرب تنشأ من نظرته إلی المرأة الأفغانیة من المنظور الغربي اللیبرالي المادي، فإنّه لو نظر إلی المرأة الأفغانیة من خلال دینها، وأعراف مجتمعها، والتزاماتها الخُلُقیة والثقافیة تجاه شریعتها وحضارة قومها، لما كان هناك ما اختلقه الغرب في خیاله من قضیة للمرأة الأفغانیة المؤمنة.
ولكن هذه القضیة في أذهان الغربیین ناشئة عن أغراض استعماریة وعدوانیة، وعن غزو لفكر المرأة الأفغانیة التي طالما أنجبت أجیالاً من الشجعان المغاویر الذین مرّغوا أنوف المعتدین من الإنجلیز، والروس، والأمریكیین، وحلفائهم الصلیبین من الأوربيين في المعارك التي ذاق ویلاتها المعتدّون خلال القرنین الماضیین من الزمن.
وحین رأی الغرب صمود المرأة الأفغانیة المسلمـــــــــة أمام
موجات التغریب العاتیة، وأنها تقف في صف المواجهة إلی جوار أبیها أو أخیها، أو زوجها، أو إبنها، بالجهاد والهجرة، والصبر، والإعداد للقتال، غیرّ الأعداء أسلوب غزوهم لها، و ألقوا بهذه المسؤولیة علی عاتق الحكام العملاء، وخونة الأمّة الذین نصبتهم الدول الاستعمارية علی عروش الحكم في العالم الإسلامي لیجبروا المرأة المسلمة علی السفور والتعري، والخروج عن أحكام دینها عن طریق قوانین وتدابیر، وأوضاع هیأها هؤلاء المجرمون ممن ینتسبون إلی الإسلام زوراً.
ولم یكن نصیب أفغانستان من هؤلاء الحكام بأقل من البلاد الإسلامیة الأخرى، فجاء الملك حبیب الله إلی الحكم وبدأ یروّج في حریمه للملابس الغربیة.
ثم ورثه ابنه الملك أمان الله في الحكم، وكان الملك الجدید في أول شبابه ومفتوناً باللیبرالیة الغربیة، فخرج إلی أوروبا في رحلته العجیبة التي استغرقت أكثر من ستته أشهر، وكان قد اصطحب معه زوجته الملكة (ثریّا) في ملابس أفغانیة، ولكنها عادت من سفرها في ملابس غربیة مكشوفة الساقین.
ولكی یروّج هذا الملك المفتون بالغرب اللباس الغربيّ في بلد الجهاد والمجاهدین أمر زوجته بإلقاء الخمار عن رأسها في مجلس أعیان الحكومة، فجلست بین الرجال حاسرة الرأس مفتوحة الصدر، وطلب الملك من زوجات الأعیان أن یفعلن الفعلة نفسها، وهكذا بدأت حركة سفور النساء والتمرّد علی الحجاب الشرعي من حریم الملك وبلاطه.
وجاء بعده الملك (ظاهر شاه) الذي كان نشأ في فرنسا وتثقف بثقافتها اللیبرالیة ففتح المجال لانحراف النسوان علی نطاق أوسع، ونشر في البلد التعلیم المختلط وجمیع أنواع وسائل فساد الأخلاق، وغرس في البلد بذور الشیوعیة الملحدة التي تعتبر الدین أفیون الشعوب.
ثم ورثه ابن عمه (محمد داود) الذي واصل نفس المسیرة إلی أن قضی علیه الشیوعیون.
وجاء مع الشیوعیین الاحتلال السوفيتي للبلد، وفتحت أبواب البلد أمام الشیوعیة الحمراء لتقضي علی ما تبقّی من الخُلُق والدین والعفة والحیاء في نفوس النساء في المدن.
وحین سقط النظام الشیوعي، ووصلت المنظمات الجهادیة بقیادة (ربّاني) إلی الحكم، لم تلتفت حكومته إلی تطبیق الشریعة ومحاربة الفساد الذي خلّفته الشیوعیة، بل تواطأت حكومته مع الشیوعیین ضد خصومه من المنظمات الأخرى، و جّر البلد إلی حرب أهلیة خطیرة حیث ألجأت حربه مئات الآلاف من الأسر لترك البلد والذهاب إلی البلاد الغربیة فرارا من الحرب.
وما أن وصلت تلك العائلات إلی الغرب إلاّ واحتضنتها المجتمعات الغربیة لتصبغها بالثقافة الغربیة الفاجرة، لتستغلها كحراب مسمومة لضرب أخلاق المجتمع الأفغاني المسلم في صمیمه.
ولمّا وصلت حركة طالبان إلی الحكم بعد التضحیات الكبیرة ورثت في المدن الكبیرة وضعاً خُلُقیا فاسداً للغایة یمكننا إجماله في النقاط التالیة:
1 - الفساد الخُلُقي الهائل الذي أوجدته الحكومات العلمانیة المتتالیة في المجال النسوي .
2 - الفساد الدیني و الخلقي الذي أوجدته الشیوعیة الملحدة التي كانت تؤمن بمبدأ الإباحیة في النساء.
3 - الفساد الناشئ عن اغتراب عدد كبیر من الأفغان في بلاد الغرب الفاجرة.
4 - إلغاء تطبیق الحدود الشرعیة من قِبَل الحكومات العلمانیة والشیوعیة.
5 - وجود وسائل إشاعة الفاحشة من السينما والمسارح، والنوادي، ووسائل الإعلام من الإذاعة والتلفاز، والصحف والمجّلات الخلیعة، والكتب الماجنة، التي نشرتها الحكومات المفسدة علی نطاق واسع.
6 - إخفاق حكومة المجاهدین في محاربة الفساد، ووقوع شخصیات كبیرة من الحكومة في شبكات الجهات المفسدة.
7 - الآثار السیئة الخطیرة لنظام التعلّم المختلط في جمیع مراحل التعلیم.
8 – منع اللباس الإسلامي في المؤسسات التعلیمیة والحكومیة في جمیع مراحلها.
9 - الغزو الفكري الموجه من الوسائل الإعلامیة للدول الغربیة والشيوعیة.
10 - وجود مئات المؤسسات الغربیة لإشاعة الأفكار والثقافة الغربیة بین الأفغان تحت لافتات الخدمات الإغاثية، والتعلیمیة، والصحیة، وغیرها.
وكانت هذه الأسباب وغیرها أوجدت وضعاً خطیراً للغایة في المجال النسوي، والوسط الشبابي.
وكانت محاربة الفساد الموجود تطلب من طالبان اتّخاذ تدابیر حاسمة، وكان القضاء علیها لا یمكن إلاّ أن تكون الجهود الإصلاحیة أكثر وأقوی من حجم الفساد الموجود، ولذلك اضطرّت طالبان لاتخاذ التدابیر اللازمة التالیة:
1 – تأجیل تعلیم النسوان لفترة معیّنة إلی أن تهيأ ظروف، ومناهج، ولوائح، ومباني خاصة بالتعلیم النسوي، وذلك لم یكن بمعنی منع تعلیم النسوان، بل كان دستور البلد ینص علی توفیر فرص التعلیم للنسوان حیث تنص المادة التاسعة والثلاثون من الدستور علی (أن تعلیم النسون ینظم في إطار الشریعة الإسلامیة ضمن قانون خاص).
2 - إحالة الموظفات الحكومة إلی التقاعد، و إجراء معاشهن.
3 - فرض الحجاب الشرعي تنفیذاً لحكم الشریعة، ومنعاً من انتشار الفساد.
4 - تنفیذ الحدود الشرعیة، ومنها حد الرجم والجلد.
5 – إنشاء وزارة للأمر بالمعروف والنهي عن المنكر، وتبصیر الناس بدینهم، وتأدیب من لم یرتدع عن الفساد بالنصیحة والموعظة الحسنة.
6 - فرض الرقابة علی المؤسسات الغربیة ومراقبة جمیع نشاطاتها.
7 – منع الجهات المشبوهة من تملّك وسائل النشر، للحفاظ علی سلامة المجتمع من بث سمومها الفكریة في أذهان الناس.
وحین رأی الغرب الصلیبي والدول ذات الأغراض السیئة الأخرى هذه التدابیر وعلمت أن أفكارها الضالة ونظریاتها الكفریة لا یصل إلی المرأة الأفغانیة والجیل الجدید، أخذت تنفخ في أّبواقها وتنادي بمطالبة الحقوق المهضومة بزعمها للمرأة الأفغانیة التي یسعی الغرب لإفسادها.
إن المرأة في أفغانستان تختلف في كثر من أحوالها عن المرأة في الدول الإسلامیة الأخرى، ومن أمثلة هذا الاختلاف أن المرأة الأفغانیة لا زالت بفضل الله تعالی علی فطرتها الإیمانیة السلیمة، ولم یتلوث فكرها بلوثة الغرب المادیة، وأنها لا زالت تصبر علی الهجرة والجهاد، وأنها لا زالت تصبر علی قوت الیوم، وأنها لازالت تفضّل العفاف والتحّشم علی الخلاعة والتعرّي، وهذه كلها صفات تؤهّلها لتربیة جیل مؤمن بالمبادئ الإسلامیة، والذي یدافع عنها بكل ما أوتي من قوة، وهذا الذي لا یتحمل الغرب وجوده فیها.وقد نفّس الغرب عن أحقاده الدفینة تجاه المرأة الأفغانیة حین هجمت أمریكا علی أفغانستان، فأوجدت مجالات كثیرة لإفساد المرأة المسلمة في هذا البلد، ووضعت خطة شاملة لهذا الإفساد، وكان من بنود هذه الخطة الشیطانیة التالي:
1 – تحریض المرأة علی التخلّص من الحجاب الإسلامي، و إلقائه عنها باعتباره شيء یرتبط بنظام (طالبان)، وما دام سقط نظام طالبان فلیسقط الحجاب أیضا، وقد قام الإعلام الغربيّ الموجّه إلی أفغانستان بدور خطیر في هذا المجال.
2 - إنشاء وزارة للنسوان باسم (وزارة شؤون المرأة) وكأن الأنوثة شأن من شؤون الدولة، ویحتاج أمرها إلی وزارة خاصة .
إن الهدف الحقیقي من وراء إنشاء هذه الوزارة كان إفساد المرأة ضمن إطار منظم، وخطة محكمة، تقوم بتنفیذها هذه الوزارة العجیبة تحت إشراف الخبراء الأمریكیین، ولعلها أغرب وزارة في تاریخ الوزارات في العالم.
3 - فتح مجالات الاختلاط للنساء بالرجال في جمیع میادین الحیاة، بدأً من السیاسة، والتعلیم والتجارة، والألعاب، والمسابقات، ومجالس اللّهو، والاشتراك في سهرات الرقص، ومجالات الفنون الخلیعة التي یسمونها بالفنون الجمیلة، والصحافة والإعلام، وغیرها من مرافق الحیاة.
4 – فتح عشرات القنوات التلفزیونیة واستخدام النساء الجمیلات فیها، فعلی سبیل المثال هناك في مدینة (كابل) لوحدها أكثر من عشرین محطة غير حكومیة للبث التلفزیوني، وهناك ما یقرب من مأتي محطة إذاعیة بین حكومیة وغیر حكومیة في العاصمة والولایات الأفغانیة، وتقدّم المحطات أرذل أنوع الفحش والمجون، حتى وصل الأمر ببعض الإدارات الحكومیة تطالب الحكومة بفرض الرقابة الأخلاقیة علی هذه القنوات لما أحدثته هذه الفضائیات من الفساد والمیوعة والتفكك في بنیة المجتمع الخُلُقي، ولكن هذه المحطات أقوی من أن یكبح جماحها حكومة العملاء، لوقوف الدول الغربیّة وراء هذه المحطات.
5 - العمل الدؤوب لإقامة المجتمع الأفغاني الجدید علی أسس بنیان المجتمع الغربي الثلاثة وهي :
الف - المساواة بین الرجل والمرأة في كل شيء .
ب - استقلال النساء بشؤون المعاش لإفقاد قوامة الرجل علیها، لأنها إذا استغنت اقتصادیاً عن الزوج فلماذا تلازم رجلاً بعینه وهي لا تحتاجه إلاّ للأغراض الجنسیة فقط، ولماذا لا تروي غریزتها الجنسیة بشكل حُرّ بدلاً من التقیّد بقیود الزوجیة التي لها كثیر من التبعات.
ج - الاختلاط المطلق بین الرجال والنساء لهدم الحواجز التي أقامها الإسلام لتنظیم حیاة المجتمع بشكل نظیف، وعفیف.
6 - توفیر جمیع وسائل الهیجان الجنسي من الكتب، والمجلات، والصور، والسینما، والمسارح والنوادي اللیلیة، ورفع قیود الرقابة الخُلُقیة من قِبَل الشرطة، وفتح عشرات المحطات الإذاعیة لبث الموسیقي المهیّجة، والحوارات الدنیئة مع الشباب والشابات.
7 - فتح بیوت الدعارة في المدن الكبیرة باسم المضيفات (Guesthouses) وجلب البغایا إلیها من الصین، والكوریا الجنوبیة، والجمهوریات السوفيتية السابقة.
وقد بلغ من أمر بیوت الدعارة في مدینة (كابل) العاصمة أن تدخلّت وزارة الداخلیة في أمرها، وأمرت بإغلاقها حین تفاقم شرها، وأصبح الشباب الأفغان یرددونها بشكل علني بعد أن كانت خاصة للأجانب الكفرة.
8 – توزیع المؤسسات الغربیة الملایین من وسائل منع الحمل بین المجتمع الأفغاني بحجة مكافحة (الإیدز)، وهي في الحقیقة ترویج لفاحشة الزنا في المجتمع الأفغاني المحافظ.
9 – تشكیل جماعات كثیرة للاعبات للاشتراك في المسابقات المحلیة، وإرسالهن إلی المسابقات الخارجیة.
10 - إنشاء مكاتب الدفاع عن حقوق المرأة بجوار المحاكم الأهلیة، لیرجع إلیها من لا یرید أن یتحاكم إلی القوانین المحلیة التي لازال فیها شيء من الأحكام الشرعیة، و إن كانت حبراً علی ورق.
11 – ترغیب البنات للذهاب إلی المدارس الحكومیة بإعطائهن المواد التموینیة من السمن وغیرها، بینما یُحرم الذكور منها.
إن الغرب الصلیبي لا یفعل كل ذلك للمرأة من حیث هي امرأة، بل یفعلها لیخرج المرأة الأفغانیة من فطرتها الإیمانیة، ویمسخ فیها طبعها الأنثويّ العفیف، ویصیّرها رجلاً، أو شبه رجل، لتخرج إلی خارج عشّها، وتترك أولادها للأفلام الغربیة، أو الهندیة، یتلقون منها الخُلُق وطریقة الحیاة.
أمّا المرأة المؤمنة العفیفة فهي لا تزال قذی في عینیه، ولیست لها أیة مكانة عنده، بل هي تستحقّ القتل، والدمار، ومداهمة بیتها في ظلام اللیل، وقتل زوجها بین یدیها وهي تصرخ، وهي تستحقّ عند الغرب أن تفجع بقتل أولادها بقصف بیتها، لأنها زوجة مجاهد، أو أم شاب یُشك فیه أن یكون مجاهداً، وهي كذلك تستحق أن یداس بیتها، أو تساق إلی السجون وهي تصرخ وامعتصماه!
فالقضیة في جوهرها قضیة الحرب ضد إسلام المرأة وإیمانها، ولیست قضیة حقوق المرأة أو الانتصار لها ضد (طالبان) أو غیرهم.
أمّا رؤیة طالبان للمرأة فهي رؤیة إسلامية متزنة ومتأصلة في نفوسهم، فهم أّناء المرأة رضعوا من لبانها، ونشأوا في كنفها، و تلقّوا التربیة الإسلامیة في ظل عطفها، ولذلك فهم یدافعون بدمائهم وأشلائهم عن عرضها وكرامتها، ولا یریدون لهم أن تكون ألعوبة في أیدي أبالسة الغرب، أو دجّالي الشرق.
فهم مدافعون الحقیقیون عن المرأة وحقوقها الشرعیة، وهم حماتها عن ذئاب الغرب الفاجر ( یتبع)
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=article&id=3186:2010-05-20-19-03-12&catid=88:48somoodmag&Itemid=53
20100604戦況
ザーブル州、ANA軍車両1台破壊、乗員死亡。同州、ANA兵6名死亡、施設2箇所占領。ヘルマンド州、米軍の爆撃によって非武装市民20名死亡、多数負傷。クナル州、米軍石油トラック1台破壊。クンドゥズ州、Gul Bagh地域を占領、ア兵2名死亡。ウルズガン州、警官8名死亡、3名負傷。ナンガルハル州、米軍タンクローリー1台破壊。ワルダグ州、警官4名死亡、複数の負傷者は病院へ運ばれた後毒殺。ローガル州、米兵1名死亡、2名負傷。ガズニー州、ポ兵5名死亡。ヘルマンド州、三つの政府関連施設を占領。
20100602戦況
ホースト州、警察車両1台破壊、兵士3名死亡、4名負傷。パクティカ州、Omni地区中心部を攻撃、詳細不明。パクティヤ州、NATO軍兵站部隊攻撃、車両3台破壊。ザーブル州、ア軍・NATO軍と戦闘、両軍合わせて12名死傷、空爆により市民に被害。ヘルマンド州Marjah、二度の戦闘で米兵3名死亡、2名負傷。カンダハール州、NATO軍戦車3台破壊、兵士3名死亡。ガズニー州、米兵7名死亡、2名負傷、外国兵1名死亡、2名負傷。ラグマン州、米軍基地攻撃、戦車1台破壊、死傷者数詳細不明。ナンガルハル州、警官2名が降伏。ヘラト州、警察署を占拠、車両3台破壊、警官2名負傷。ヘルマンド州、米軍戦車3台破壊、乗員死傷。ワルダグ州、NATO軍戦車1台破壊、NATO兵2名死亡、ANA兵3名死亡、数名負傷。ガズニー州、ポ軍戦車1台破壊、死傷者数不明。カピサ州、仏兵4名死亡。ヘルマンド州、ANA兵5名死亡。ヘルマンド州、英軍戦車2台破壊、英兵2名死傷、NATO兵2名死亡。カンダハール州、Zhari地区で米軍の反撃失敗、多数死傷。ア軍車両1台破壊。NATO兵3名死亡、2名負傷。警官3名死亡。ザーブル州、ア兵5名死亡。ファラー州、米戦車2台破壊(記事では1台)爆撃で市民に被害。Marjah、戦闘で米兵5名死亡、2名負傷、ムジャヒディーン1名負傷。カーブル市、the meeting hall of Loya Jirgaを狙って自爆攻撃の装備をしたムジャヒディーン4名がア軍と戦闘中。パクティカ州、警官十名死傷。ホースト州、爆発で傭兵3名死亡。パクティカ州、NATO軍関連施設をミサイル攻撃、詳細不明。ホースト州、米兵5名死亡。
20100531戦況
カンダハール州で米NATO軍と戦闘、詳細不明。ヘルマンド州、米兵1名死亡、3名負傷。カンダハール州、米NATO軍兵站部隊攻撃、トラック2台破壊、兵士4名死亡、複数負傷。ワルダグ州、米軍戦車1台破壊、米兵4名死亡。ガズニー州、ANA軍基地を攻撃、兵4名死亡、7名負傷。カピサ州、仏兵10名死亡。タハル州、Lala Maidan地域を獲得。ホースト州、州都近郊のア軍基地で自爆攻撃、司令官3名を含む兵士19名死亡、23名負傷。パクティヤ州、警官2名死亡。同州、米軍ヘリ一機撃墜、乗員死亡。パクティヤ州Wazai Zadran、NATO軍兵站部隊攻撃。兵站車2台破壊、護送兵2名死亡、ムジャヒディーン3名負傷。NATO軍兵站車はTawfan Security Companyに所属。同地区中心部を攻撃、被害多数。Koykar Campaignに対して戦闘、詳細不明。パクティヤ州、ア兵7名死亡、警察用車1台破壊、傭兵3名死亡。4名負傷、ムジャヒディーン1名負傷。パクティヤ州、傭兵駐屯所を攻撃、警官3名死亡、4名負傷、ムジャヒディーン2名死亡。カンダハール州、NDS職員Akhtar Muhammad死亡。ザーブル州、米軍戦車1台破壊、現地人通訳含む兵士死亡。カンダハール州、兵站車3台破。ナンガルハル州、ANA軍用車1台破壊。ファラー州、Dasht地区中心部を攻撃、詳細不明。ヘルマンド州、英軍戦車1台破壊、英兵5名死亡、6名負傷。同州、爆発でア兵4名死亡。ローガル州、米兵4名死亡、3名負傷、ムジャヒディーン1名死亡、3名負傷。カンダハール州、ANA兵。11名死傷、軍用車2台破壊。ヘルマンド州Marjah、爆発で米兵多数死傷。同じく戦闘で米兵多数死傷。米兵1名死亡、2名負傷。ガズニー州、警官1名死亡。ラグマン州、Dowlat Shah地区中心部を攻撃、詳細不明。クナル州、米兵2名死亡。ザーブル州、米軍戦車1台破壊。ラグマン州、州都の米軍基地を攻撃、詳細不明。パクティヤ州、警察を攻撃、車両を破壊、詳細不明。ウルズガン州、米軍戦車1台破壊、米兵6名死亡。ヘルマンド州、米軍の攻撃に勝利、外国兵4名死亡。ローガル州、兵站部隊を攻撃、兵士死傷。ニムルーズ州、役人1名を含む警官9名死亡。ガズニー州。ポ軍戦車1台破壊、兵士6名死亡。ザーブル州、ANA兵7名死亡、軍用車1台破壊。同州、ア軍・NATO軍との間で戦闘、戦車1台破壊。ヘルマンド州、英軍戦車1台破壊、乗員死亡。ファラー州、NATO軍基地を攻撃、詳細不明。ガズニー州、兵站車2台破壊、死傷者数不明。ワルダグ州、米兵3名死亡、2名負傷、通訳1名死亡。
登録:
投稿 (Atom)