2019年10月17日木曜日

「イスラーム世界を見る視線の交錯 ——日本とフランスの対話」応答


「イスラーム世界を見る視線の交錯 ——日本とフランスの対話」応答  2019/10/16
中田考

 「イスラーム世界を見る視線」という今回のシンポジウムのテーマに深く関わっているので、私事になりますが最初に少し詳しく自己紹介をさせていただきます。
私は神道の家系に生まれました。子供の頃は夏休みは実家の里の神社で暮らしていました。二人の叔父は今も神主をしております。私自身は無宗教でしたが小学校の時からカトリックとプロテスタントの教会に通いキリスト教に親しんでいました。1980年に東大に入学して駒場聖書研究会に入会し、1982年に東大に新設されたイスラム学研究室に進学し、翌1983年にイスラームに入信しました。卒論、修論ではイブン・タイミーヤの思想を専攻しました。1986年にエジプトに渡航しカイロ大学に留学し、1992年にイブン・タイミーヤの政治哲学をテーマにカイロ大学文学部哲学科から博士号を授与されました。留学中にジハード団の学者ムハンマド・ヒジャーズィー師からイスラーム法学などを習う一方、キプロスのナクシュバンディーヤ・スーフィー教団のシャイフ・ナーズィムに弟子入りし、1996年にはシャーズィリーヤ教団に移りました。その後、1992年から1994年までサウディアラビアの日本大使館で「内政における宗教勢力の動向」の調査を委嘱され専門調査員を務めました。その後、帰国し、山口大学、同志社大学でイスラーム学を教えてきましたが、同志社大学一神教学際センター幹事、日本ムスリム協会理事として宗教間対話にも参加しました。2013-2014年にイスラーム国を5回訪問し、私戦予備及び陰謀罪で捜査され、本年8月に不起訴が決まりました。

1.日本からムスリム世界を見る
 私は、ムスリムでありながらムスリム世界を遠くから哲学者の目で眺めているという点でビダール先生と同じであり、イスラーム国の出現の原因と責任が欧米ではなくムスリム世界にあり、その起源がワッハーブ派にあり現代のワッハーブ派が金銭崇拝(worship of this false God called Money)、つまり銭神崇拝(Mammonism)であるとの認識においてビダール先生に同意します。
 もちろん、違いもあります。ビダール先生がムスリムとして育ち、旧ローマ帝国領で哲学者として活動されているのに対し、私はキリスト教徒でも1%以下、ムスリムは0.1%もいない日本で世俗教育を受けて育ち西欧的な人文社会科学を学んだ後でイスラーム学の訓練を受けてイスラームに入信したという点で、ムスリム世界をより遠く距離をおいて眺めています。またイスラーム国の出現の原因がムスリム世界にありワッハーブ派が起源であることには同意しますが、私の実際に目にしたイスラーム国は決して特別な怪物ではなく、怪物であるとすれば、それは領域国民国家(territorial nation states)という怪物リバイアサン(leviathan)たちの一匹に過ぎず、現代のワッハーブ派サウディアラビアの問題も、銭神崇拝とリヴァイアサン崇拝の多神崇拝と考えるのがより正確です。
 ユダヤ教でもキリスト教でもイスラームでも仏教でもヒンドゥー教でも伝統宗教には、生まれながらに信徒である、という受動的なあり方と、教義を学んだ上で本人の意思による入信という主体的な有り方の二つがあり、現実には前者が圧倒的に多数であり、後者の主体的であるべき入信さえ慣習制度化されているのが普通です。これはキリスト教では幼児洗礼の問題としてよく知られています。
 私はアッラーとその使徒ムハンマドを信ずる職業的イスラーム古典文献学者ですので、私にとっての「ムスリム」とは、アッラーの御許でムスリムと認められ(アッラーの御許の宗教はイスラーム[クルアーン319節])救済を約束された者のことでしかなく、自称他称のムスリムたちには興味はありません。とは言っても、誰がムスリムかを神が名指しで教えてくれるわけではないので、神の代理人という概念を持たないイスラームでは、誰がムスリムかは啓典クルアーンと神の使徒ムハンマドの言行録(ハディース)を手掛かりに自分で考えるしかありません。

2.末法のイスラーム
 現在世界のムスリムの数は15億人とも言われていますが、その絶対多数はただ先祖がムスリムだったというだけの「名ばかりムスリム」、「エスニック・ムスリム」で、ムスリムの名に値せず論ずるに足りません。預言者ムハンマドも言われています。「食客たちが大盆に互いに呼ばわり群がるように諸国民がお前たちに群がりよせることになろう。その時お前たちは多数だが川面の塵芥のようで、お前たちの心には弱さ(死の恐れ)があり、敵たちの心からはお前たちへの恐怖は取り去られている。」[1]
 仏教には、時代が経つにつれて僧侶も戒律を守らなくなり分派の争論により仏法の正しい理解が失われ、教えの形だけが残り中身は失われ、悟り開く者がなくなる「末法(“sad-dharma-vipralopa”, disappearance of the true dharma)」という考え方があります。日本でも1052年が末法元年とされ、以来、千年の長い時間を経て末法思想は人々の間に広く行き渡りました。
 イスラームの教えでも、ウンマ(ムスリム共同体)は預言者ムハンマドの時代から堕落を続け、ついには最後の審判を迎えます。最後の審判が何時かは正確には誰にも分かりませんが、最後の審判のさまざまな徴は予言されています。ちなみにマムルーク朝エジプトの大学者スユーティー(al-Suyūṭī 1505年没)は、ムスリムのウンマの寿命を1000年以上1500年以下と計算してます。今年は1441年なのでまだ少し余裕があります。,
日本の仏教徒の数は人口は約9割ですが、現代の日本人の思考も行動も釈迦の教えとは殆んど何の関係もないことは日本人なら誰でも知っています。ですから日本人である私には、末法の仏教と同じく、現代のイスラームが形だけでムスリムとは名ばかりであることは、体感的に理解できます。
 キリスト教のように、人が神の子になったり、神の子の代理人がいたり、人に神(聖霊)が憑く、といった概念を持たないイスラームにおいては、誰がムスリムかを判断できるのは、神だけです。しかしイスラームの教えはアッラーとその使徒を信ずる者にしか課されませんから、共同生活を送るには、ムスリムとそうでない者を区別する必要が生じます。ジハードやイスラーム刑法を持ち出さなくとも、食物規定やドレスコードが違えば共同生活が困難なのは、イスラームに限った話ではありません。そこでこの世で暫定的に誰かをムスリムとして扱うかどうか、という問題が生じます。
 カリフとダールルイスラーム(イスラームの家 dār al-islām)が存在し、まがりなりにもムスリムが主権を持ち、シャリーア(≒イスラーム法)が通用していた時代には、誰がムスリムか、が問題になることは通常ありませんでした。ムスリムの社会、ムスリムの家庭に生まれた者は自動的にムスリムであり、誰がムスリムかは自明で、あえて問うまでもなかったからです。しかし、カリフがいなくなり、ムスリム世界がヨーロッパ列強によって植民地化され、西欧の法制が押し付けられると状況はすっかり変わってしまいました。名ばかりのムスリムが本当にムスリムか、を問わざるをえないシチュエーションが露呈することになってしまったわけです。
もちろん、既に述べたようにムスリムかどうか、という問いは現世での便宜的な判断であり、他のムスリムについて「その信仰が本物か」を問うものではありません。それは神だけが知ることであり、人間が知ることができることでも、知る必要があることでもないからです。キリスト教とは違いイスラームには内心の信仰を問い質す告解や異端審問のような制度は有りません。人間の内心には干渉しない。これがイスラームにおける「信仰の自由」の意味です。そしてこの世の便宜的な判断はイスラーム法裁判官(カーディー qāḍī)が下しますが、イスラーム法裁判官の司法権は預言者ムハンマドの現世の裁定権の延長であるため、カリフ不在の世界では、この便宜的な判断も下せないことになります。これが現在のムスリム社会の混迷の主要な原因の一つです。

4.イスラーム国の誕生の背景
 イスラームに限らず伝統宗教では、宗教は生得的なものであり、通常それが問題されることはありません。しかし例外的にそれが問われる状況は存在し、イスラーム法にも規定があります。この発表の文脈で重要なのは、学者(アーリム ālim)と無学者(ジャーヒル jāhil)あるいは大衆(アーンミー āmmī)の区別です。無知な大衆には多くを求めるのは無理だとの冷めたリアリズムです。大伝承学者ハーキム(al-Hākim 1014年没)は「地上にクルアーンの一つの節も残っておらず、残っているのは、人々の諸集団の老人や老女が、『我々は、アッラーの他に神はない、とのこの言葉を、父祖たちから受け継ぎ、それを唱えている』ということだけ、となる。」との預言者ムハンマドの予言と、「その『アッラーの他に神はない』との言葉で地獄の業火から救われる」とのムハンマドの高弟フザイファ(Khudhaifah)の言葉を伝えています。この問題はイスラーム国などのサラフィー・ジハード主義者(Salafī jihādī)の間でも「無知による免責(udhr bi-jahl)」問題として広く知られ盛んに論じられているものです。
 「怪物はあなた方の自身の内側から来たのです(the monster has come from your own innards)」とはビダール先生の言葉ですが、イスラーム国 ― ビダール先生が言う「怪物」 ― はまさにムスリムこのムスリム社会の知的、道徳的堕落から生まれたものです。ビダール先生はその慢性病(chronic illnesses)が、宗教のドグマに対する良心の自由の完全な権利を本当に断固として認める永続するデモクラシーを確立できない無力、政治権力を支配的な宗教的権威から十分に分離できないことpowerless in establishing lasting democracies which really and definitely recognize the complete right of conscientious freedom towards the religious dogmas; the inability to sufficiently separate political power from the controlling religious authorityであると書かれています。しかし事実はむしろ、ムスリム社会の慢性病は、人権や平等などのデモクラシーのドグマに対する良心の自由を認めるカリフ制を確立できない無力、宗教的権威を支配的な政治権力から十分に分離できないこと(powerless in establishing caliphate which recognizes the complete right of conscientious freedom towards the secular dogmas like democracy, human rights, and equality; the inability to sufficiently separate religious authority from the controlling political power)にあります。
 アーノルド・トインビーが「世界の残りと同じく西洋世界の人民の90%の宗教の90%はナショナリズム(nationalism is 90% of the religion of 90% of the people of the Western World and the rest of the World as well)」、つまり「国家崇拝(state worship)」と喝破した通り、ムスリム世界を支配している真の宗教は、イスラームではなく。西欧と同じく民主主義、人権、民族主義,、国家主義などの世俗主義のイデオロギーです。それは領域国民国家の警察力と軍事力によって、反対者を犯罪者として抹殺するだけでなく、小児期から学校教育の洗脳によって強制されています。ムスリム世界の全ての国で全ての人間を支配しているのは世俗の民主主義によって選ばれた支配者と、議会が定めた法律であり、宗教はその世俗の支配者、議会が「宗教」と認めたもの以外は、たとえクルアーンに明記されていようとも、預言者ムハンマドの言葉であろうとも、非合法化され、それに反対する「自由」はありません。そしてそれらの国家は領域国民国家システムの支配者たちによって正当性を与えられ、つまり欧米諸国の武力によって守られることによって存続しているのです。そして、西欧の真の宗教が、民族主義(nationalism)、国家崇拝(state worship)であり、人権も民主主義も平等も全てそれを粉飾するための隠れ蓑に過ぎないことを明らかにしたのがイスラーム国でした。

5.イスラーム国が明らかにしたもの
 イスラーム国の特徴を一言で言うなら、自由なヒューマニズムの法の支配、つまり法による全ての人間の自由な信仰に基づく支配です。つまり、イスラーム国の理念に共鳴する者であれば誰であれ受け入れ、共に法(sharī‛ah)に則って支配する、というのがイスラーム国の特徴です。私自身が実際にこの目で見たことですが、イスラーム国の入国審査では、パスポートの提示も求められず、国籍、民族、宗教、思想の違いを問われることなく、誰でも受け入れられます。もちろん、ムジャーヒディーンになって支配する主体になるためには、イスラーム国でもサラフィー・ジハード主義であることが求められたと思いますが、イスラーム国は、万人に開かれています。イスラーム国がインターネットを駆使しして全てのムスリムにヒジュラ(移住)を呼びかけていたことはよく知られています。
 欧米がイスラーム国を恐れ、シリアとイラクに干渉して攻め込んだのは、欧米の偽善を暴露するイスラーム国のこの道義的力を恐れたからです。それは欧米によるイスラーム国への攻撃によって故郷を追われたシリア「難民」がヨーロッパに押し寄せたことではっきりします。
 ヨーロッパは、百万あまりのシリアからの「難民」が流入すると、続々と押し寄せる「難民」にパニックに陥り、彼らに国境を閉ざし受け入れを拒否します。今日人権と言われるものの殆どは社会権と呼ばれるもので、普遍的と自称しようとも、ある時代に西欧という一地方の国々の為政者たちが自分たちの趣味と都合で適当に決めた法律に過ぎず、普遍的どころか、アメリカとヨーロッパで大きく違うだけでなく、EU内部でも大きく異なります。特に宗教と政治の関係はそうです。
社会権は、西欧諸国によってこしらえられたローカル・ルールであり、そこに正義などありません。「緯度の三度の違いが、すべての法律をくつがえし、子午線一つが真理を決定する。数年の領有のうちに、基本的な法律が変わる。。川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である。(Trois degrés d’ élévation du pôle renversent toute la jurisprudence. Un méridien décide de la vérité. En peu d’années de possession les lois fondamentales changent.. Plaisante justice qu’une rivière borne ! Vérité au-deçà des Pyrénées, erreur au-delà.)」とのパスカルの言葉は今も真理です。しかし他方、 人権の中でも、自由権、特に社会契約以前による国家の成立以前から存在した、と措定される自然権には、ある程度の時代と地域を超えた「普遍性」があります。その中でも最も基本的な権利は私見では移動の自由(freedom of movement)です。人間は陸であれ、海であれ、空であれ、好きな時に好きな処に移動することが出来ます。移動の自由を妨げることは誰にも許されません。人種であれ、民族であれ、宗教であれ、言語であれ、国籍であれ、人間を差別し、人為的な国境によって中の人間を閉じ込め、外の人間を締め出すことは、人権侵害です。国境により人間の移動の自由を妨げる領域国民国家の正当性を認める者は一人の例外もなく全員が、自由も平等も人権もヒューマニティーも口にする資格がないばかりでなく、「人道に対する罪(crime against humanity)」を犯しているのです。
戦火を逃れ故郷を捨て安住の地を求めて彷徨う者の移動の自由を奪う者に、自由も平等も人権もヒューマニティーも語る資格は有りません。特にその「難民」たちが故郷を捨てざるをえなくなった原因が自分たちの空爆による責任者であるなら猶更です。百万人の難民が流入したことでEUはシリア難民の拒否を宣告し、スロバキアのロベルト・フィツォ首相は、「自国にはイスラム教徒を1人たりとも入れない」と明言し、ハンガリーのオルバン首相も、移民の流入を拒絶するために国境にフェンスを設け、ムスリム移民は受け入れられない、と述べました。
EUとトルコの対応を比較すると、問題はより明確になります。人権の擁護者をもって任じ他国にもそれを押し付けるEU、西欧諸国と違い、あからさまなトルコ民族主義を国是とする「国民国家」であるトルコですが、350万人のシリア難民を受け入れています。言うまでもなく、シリア人は他国民であるだけでなく民族的にもトルコ人ではなく異民族のアラブ人です。しかし、いきなり350万人もの難民が流入したことでさまざまな社会経済的問題が起き難民に対する不満が高まっているにもかかわらず、コスモポリタンなAKPは言うまでもなく、トルコ民族主義のCHP(人民共和党)だけでなく、極右トルコ超民族主義の民族主義行動党(MHP)の支持者の間ですら、EUのネオナチのような極右排外主義集団による難民の追放運動は生じていません。
面積約80万㎡、人口約8千万人、GDP2兆ドルのトルコが350万人の異民族の難民を受け入れることが出来るのに、面積400万㎡以上、人口約5億人、GDP22兆ドルのEU100万人の難民しか受け入れられないというのはどういうことでしょうか。このことは、西欧人にとって、人権、平等、自由、ヒューマニティーなどはせいぜい自己欺瞞の建前でしかなく、真の行動原理は、排外民族主義と拝金主義であることを示しています。リヴァイアサン崇拝とマモン崇拝の多神教徒であることで、EUもサウディアラビアも五十歩百歩でしかありません。もちろん、中で暮らす者にとって、五十歩と百歩の差は重要ですが、私のような哲学者にとっては理論的な差はありません。
移住して来ようとする者たちを締め出した上でEUの内部の人間にしか保証されない権利はEU市民の「特権」でしかなく、人間の普遍的権利「人権」ではありません。人権というものがもしも存在するなら、それは特定の人間だけでなく、例外なく全ての人間が有するもののはずです。国籍で人を差別し、難民に自国領に入国する移動の自由さえ与えもせず、他国の人間には自分たちの価値観を押し付けようとする西欧人は、自由、平等、人権、ヒューマニティー、民主主義の擁護者などではなく、自民族優越思想に染まった帝国主義者に過ぎません。
イスラーム国の戦いは、ヒューマニティーを否定する西欧の領域国民国家の支配から人類を解放し、自由なヒューマニズムの法の支配を確立するためのものであり、私たちはイスラーム国を崩壊させたことで、人類の解放の夢を自らつぶしたことになるのです。イスラーム国には別のさまざまな問題があることを私は否定しませんし、イスラーム国がユートピアでないことは言うまでもありませんが、それはヒューマニズムとはまた別の話です。ビダール先生は「経済危機の解決だけによってではなく、本質的に我々人類全体に関わる前例のない精神的/霊的危機の解決によってしか人類の未来はない。我々はこの根本的な挑戦に応えるために、全地球規模で、一つに纏まることができるだろうか?(the future of humanity will occur not only by the resolution of the financial crisis, but essentially by the resolution of the spiritual crisis without precedent which involves our humanity in its entirety. Saurons-nous tous nous rassembler, à l'échelle de la planète, pour affronter ce défi fondamental ?)」と言われています。しかし、そのためには、まず地上の全ての人間が、領域国民国家という牢獄、国境という檻から解放され、望むままに望むところに、EUであれ、アメリカであれ、日本であれ、イスラーム国であれ、移住することができるようにすることであり、「知識人」の役目は、なによりもまず、それを訴えることだと私は信じています。ですから。我々がなすべきことは、イスラーム国をつぶすことでなく、イスラーム国の成立を奇貨として、イスラーム国のオルタナティブとなる「ヒューマニズムの法の支配」を提示すること、即ち、欧米は国籍による差別を廃して地上の全ての人間に平等な社会権とヘゲモニー国家群の為政者の選挙権を与えること、ムスリム世界はアブー・バクル・バグダーディーに不満なら、より相応しいと自分たちが考えるカリフを擁立することであったはずです。

6.スーフィズムと宗教間対話
 ビダール先生は、人類全体に関わる精神的/霊的危機の解決の希望を、スーフィズム、特に哲学的スーフィズムによる宗教間対話interreligious dialogue, ecumenism)に託しているように思いますが、残念ながら私は賛同できません。私自身、一神教学際研究センターの幹事の資格で研究者として、日本ムスリム協会の理事の資格で宗教者として、数多くの宗教対話に参加してきました。また時祷(wird)も実践しない怠慢な徒弟(murid, apprentice)ですのであまり名乗りませんが、最初に述べたようにナクシュバンディーヤ、シャーズィリーヤの教団とバイア(誓約)を交わしたスーフィーであり、Ibn Qudāmah(620年没)Ibn al-Jawzī(597年没) から法衣(khirqah)を受け継いだカーディリー教団の導師であったイブン・タイミーヤを信奉するイスラーム学者として、初学者向けの入門書Muammad Amīn Kurdī(1914年没)著『シャーフィイー師の学派に則り宗教学を学ぶ初学者の悦び(Sa‛ādah al-mubtadi'īn fī ‛ilm al-dīn ‛alā madhhab al-Imām al-Shāfi‛ī)、またオスマン朝期スーフィズムの最高峰と信ずる‛Abd al-Ghanī al-Nābulusī(1731年没)の『イスラームの真義(Ḥaqā'iq al-islām)』を翻訳するなど、スーフィズムの意義を認めています。しかし現代のスーフィーにも宗教間対話にもポジティブな意味があるとは思いません。
現代においてムスリム世界のスーフィーたちは、人民を抑圧搾取する腐敗堕落した支配者たちの言動を100%唯々諾々と誉めそやし、彼らにイスラーム的正当性の外観を与えるためだけに存在を許されている茶坊主に成り下がっており、西欧的な基準に照らしても、イスラーム的にも、人類に対してもムスリム世界に対してもポジティブな貢献は見当たりません。彼らの役目は、支配者たちのあからさまなイスラームからの逸脱を糾弾する者に、「原理主義者」、「過激派」、「形式主義者」、「テロリスト」などのレッテルを貼ることだけです。スーフィーたちはこの世の支配者たちの政策を100%追認しますが、スーフィーの提言によって政策や立法が変わった、という話は一つも聞きません。もしイスラームの教養もない腐敗堕落した支配者たちの思い付きの政策が、すべてスーフィーたちによって賛同できるものであるなら、スーフィーだけの知る深遠な知恵など最初からどこにもないことになります。またスーフィーの精神性/霊性が、合理的に理解可能な行動や言葉によって示される、つまり祈りが聞き届けられることによる、というなら、アラブのスーフィズムの中心であるシリアでなぜ25万人が殺され、500万人が難民になっているのでしょうか。
欧米で活動するスーフィーも事情は同じで、欧米で自分たちが築いてきた既得権を失い、迫害、追放されないように、保身に汲々とするばかりで、ポジティブな貢献は何もありません。彼らは欧米に敵対的なアルカーイダやイスラーム国などのためにイスラームフォビアが高まり、自分たちが巻き添えにならないために、彼らはイスラームとは無関係であり、自分たちこそが真のムスリムであると論証し、欧米社会に適応した宗教であるとのお墨付きを得るために西欧の宗教者たちとの宗教間対話に精を出しますが、欧米内部の不公正であれ、欧米と第世界の間の不公正であれ、あるいは地域紛争であれ、行動によってであれ、言論によってであれ、祈りの力によってであれ、なんら解決せず、また男女平等、思想の自由、宗教的寛容、デモクラシーなど西欧の流行の後追いの猿真似以外に、欧米に対してイスラーム、あるいはスーフィズムに独自なポジティブなオルタナティブを提供したという話も聞きません。
 プロテスタント神学者小原克博が以下のように述べているように、政教分離と宗教対話が思想の自由や宗教的寛容をもたらさず国家崇拝、排外的ナショナリズムの道具になることは、大日本帝国の歴史が証明しています。「日本近代史においても、万国宗教大会(1893年)や宗教家懇談会(1896年)のように、現代の宗教間対話に近いものがあった。しかし、宗教同士の宥和が進むことは、必ずしも日本社会全体が寛容な社会となることを意味しなかった。 ―中略― 宗教の共存そのものが国家秩序に組み込まれ、政教分離の形式のもとに、排他的なナショナリズムの一部として機能した(In the modern age of Japan there were already interreligious dialogues such as the World's Parliament of Religions (1893) and the Council of the Religious Leaders (1896), which seem to be comparable with the contemporary ones. However, cooperation between religions did not always result in the tolerant Japanese society as a whole.The coexistence of religions have been embedded into the national order and played a role of exclusive nationalism in the separation of state and religion”)。エラノス会議(Eranos)にも参加し、日本的霊性の唱道者として国際的に有名な鈴木大拙も、日本の軍国主義だけでなくナチスにも賛同していました。政教分離の名の下に民族主義、国家主義を容認する宗教者に高い霊性など期待できません。

7.モンゴルの寛容とイスラーム世界の世俗化
 西洋では政教分離、より正確には「国家と教会の分離」、は近代的価値のように思われていますが、実は、東アジアでは見慣れた光景です。もっとも正確には近代西欧が言う政教分離とは国家により宗教管理であり、むしろWeber宗教社会学の「皇帝教皇主義(Caesaropapism)」に近いものですが。そしてそれはイスラーム世界でも既に経験済みのものです。モンゴルの支配です。モンゴルの侵入により、西遼(Qara-Khitai, 1218年滅亡)、ホラズムシャー朝(Khwarazmian dynasty, 1231年滅亡)、ルーム・セルジューク朝(Seljūqs of Rūm, 1243年服属)、アイユーブ朝(Ayyubids, 1250年滅亡)、アッバース朝カリフ国(Abbasids, 1258年)が滅亡し、イスラーム世界は壊滅的な打撃を蒙ります。モンゴル帝国は血統を重んずる「民族主義」国家でしたが、特定の宗教を公定宗教とせず全ての宗教を保護する「モンゴルの寛容」と呼ばれる政教分離政策を特徴としました。東アジアの元(Yuan)朝は滅亡まで政教分離政策を続けましたが、残りの3帝国イル・ハーン国(Ilkhanids )、キプチャク・ハーン国(Golden Horde)、チャガタイ・ハーン国(Chagatayids)はイスラーム化します。支配者のガーザーン・ハーン(1304年没)のイスラーム改宗後日が浅くモンゴル的「世俗主義」の特徴をまだ色濃く残していたイル・ハーン国に和平使節として訪れたイブン・タイミーヤが当時の状況について貴重な証言を残しています。
 彼らは名目的にムスリムにはなっており、イスラームを尊重してはいますが、義務は一部しか果たしておらず、偶像崇拝にも「寛容」です。しかし何より重要なことは、彼らがそのために戦う究極の忠誠の基準がモンゴル帝国の敵か味方かであり、従うべきは支配者の命令であることです。味方であれば異教徒とでも戦わず、敵であればムスリムとでも戦い、神の命令に則っているか反しているかに関係なくて支配者の命令に従うのです。
イブン・タイミーヤは言います。「たとえアッラーとその使徒の敵である不信仰者であろうとも、モンゴル帝国のために戦う者ならば、むしろ賞賛したりそのまま好きにさせておくが、逆にモンゴル帝国から離反したり、反抗する者に対しては、たとえそれが模範的なムスリムであろうとも、戦うことを認める(بل من قاتل على دولة المغول عظموه وتركوه وإن كان كافرا عدو الله ورسوله وكل من خرج عن دولة المغول أو عليها استحلوا قتاله  وإن كان من خيار المسلمين)」この記述はイスラーム国と戦うムスリム世界の「世俗国家」に住む領域国民国家リヴァイアサン崇拝者たちにそのまま当てはまります。
 またイブン・タイミーヤは言います。「彼らにとってのムスリムというものは、ムスリムたちにとっての、自分たちの中の公正な者、行い正しい者、義務(のみならずそれ)以上の良いことを進んで行う者といった存在であり、彼らにとっての不信仰者とは、ムスリムにとっての、自分たちの中の不正な者、最低限の義務しか行わない者といった者に等しいということである。(المسلم عندهم بمنزلة العدل أو الرجل الصالح أو المتطوع في المسلمين والكافر عندهم بمنزلة الفاسق في المسلمين أو بمنزلة تارك التطوع)」[2]
 世俗主義のイル・ハーン国のムスリムたちにとっては、ムスリムとは善良な人、不信仰者とは邪悪な人、ほどの意味しか持ちません。このイブン・タイミーヤの言葉もまた、政教分離の名によってイスラームを西欧キリスト教的な「宗教」に切り詰め、法的側面、政治的側面をイスラームから切り離した現代の世俗主義者のムスリムたちが口にしたとしても、少しも違和感がありません。

結語
 既に述べたように、政教分離や世俗主義は、西欧では最新の流行ではあっても、東アジアでは馴染みのものです。そしてイスラーム世界もまた政教分離・世俗主義のモンゴル帝国による支配によって遥か昔に通り過ぎた道です。もちろん、過去の世俗主義と現代の世俗主義、過去の民族主義と現代の民族主義とは違います。現代の民族主義、世俗主義は、「代表(representation)」と「法人(legal body)」という誤魔化しの(delusive)フィクションによって個々の人間が抵抗できないまでに肥大化し人間の精神と肉体を完全に支配し奴隷化する「可死の神(Mortal God)」リヴァイアサンを主神とする偶像崇拝です。この偶像神は「大量破壊兵器」で武装した軍隊と警察の暴力を背景に、学校とマスメディアという洗脳機関を通じて、ナショナリズム、エタティズムの教義を、信仰の対象、即ち「宗教」ではなく、普遍的真理であるかのように教え込みます。このリヴァイアサンの許では「宗教」は、リヴァイアサンに隷属する限り、慣習や趣味のように、生き方の本質に社会に影響を与えず、人生の本質に無関係な些末事として「自由」を与えられるのです。
 タウヒード(tawḥīḍ, unification)の教えとしてのイスラームの現代における使命は、精神、身体、社会、経済、政治の全てにおいて超越者のみを志向することにより、被造物によるあらゆるしがらみから解放された自由を全ての人類にもたらすことだと私は信じています。
「木を見て森を見ず」という諺があります。ムスリム世界の最果て、アブラハムの宗徒が1%もいない極東に生きるムスリムには、アブラハムの宗徒の世界、ムスリム世界の住人には距離が近すぎて見えないイスラームの全景、本質がかえって見通せる、ということもあるのではないでしょうか。
私見では、我々が生きる現代世界のリヴァイアサン崇拝の本質を理解するためには、ヘレニズム・キリスト教の「受肉(incarnation)」の概念にまで遡った哲学・神学的分析が必要となります。しかしそれは割り当てられた発表時間と私の能力を超えています。いつか改めて議論する機会があるなら、発表者にとって望外の幸せです。

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参考文献
中田考『イスラーム国訪問記』( 20193月、現代政治経済研究社)
[本書は一般書店では取り扱っておらず、Amazon.co.jpで販売、発送]
筆者は「イスラーム国」とその前身である「ヌスラ(助勢)戦線」、「イラクとシリアのイスラーム国」を、20133月、9月、12月、20143月、9月と計5回にわたって訪問した。本書は「ASAHI中東マガジン」に連載されたその記録「イスラーム国訪問記」を大幅に書き直し、未発表の資料と写真を組み込み、新たにイスラーム国の思想と歴史に関する解説、ラッカ在住のキリスト教徒に対して行ったインタビューの翻訳、イスラーム法上の異教徒の取り扱い規定、及びそのインタビューに同行した戦場カメラマンの横田徹氏の手記を新たに加えて編集したものである。



[1] قال رسول الله صلى الله عليه وسلم: يوشك الأمم أن تداعى عليكم كما تداعى الأكلة إلى قصعتها. فقال قائل: ومن قلة نحن يومئذ. قال: بل أنتم يومئذ كثير ولكنكم غثاء كغثاء السيل ولينزعن الله من صدور عدوكم المهابة منكم وليقذفن الله في قلوبكم الوهن. قال قائل: يا رسول الله وما الوهن قال: حب الدنيا وكراهية الموت.  (أخرجه أبو داود)
[2] 問題の民(タタール)は、その軍隊は、不信仰のキリスト教徒や多神教徒も含んでいるが、大多数は求められれば(イスラームの)信仰告白の言葉を唱え、使徒を讃えてみせるようなムスリムを名乗る者からなるのであるが、礼拝をする者はごく少数にしか過ぎない。ラマダーンの斎戒(断食と禁欲)は(日常の)礼拝よりは守られている。また彼らはムスリムを他の者たちより優遇しており、さらに彼らの許では真面目なムスリムは敬意が払われている。彼らはイスラームを部分的に実践しており、イスラームの遵守の度合において様々なのではあるが、彼らの大半の依って立つ立場、彼らが戦う立場は、イスラームの諸規定の多くを、あるいは、そのほとんどを無視していることを示している。なぜならば、彼らは最初にイスラームへの入信を義務づけたとしても、その諸規定の遵守を怠る者と戦おうとはしないからである。いや、むしろ彼らは、たとえアッラーとその使徒の敵である不信仰者であろうとも、モンゴル帝国のために戦う者ならば、むしろ賞賛したりそのまま好きにさせておくが、逆にモンゴル帝国から離反したり、反抗する者に対しては、たとえそれが模範的なムスリムであろうとも、戦うことを認めるのである。また彼らは不信仰者に対してジハードを行わず、啓典の民にジズヤ(人頭税)を課し卑しめることもなく、彼らの兵隊たちの誰であれ、太陽や月など好きなものを崇拝するのを禁じようともしない。つまり、彼らの行ないから明らかなことは、彼らにとってのムスリムというものは、ムスリムたちにとっての、自分らの中の公正な者、行い正しい者、義務(のみならずそれ)以上の良いことを進んで行う者といった存在であり、彼らにとっての不信仰者(カーフィル)とは、ムスリムにとっての、自分たちの中の不正な者、最低限の義務しか行わない者といった者に等しいということである。
 また、彼らの多くは、彼らの支配者(スルタン)が禁じるのでない限り、ムスリムの生命、財産を不可侵としない、つまり、それに手を付けずにはおかない。彼らは支配者(スルタン)がそうしたことを禁じた場合にはそれに従うが、それは命じた者が王だからであって、イスラームの教えのみによるのではないのである。また、彼らの大半は、礼拝、喜捨、巡礼などの義務を遵守せず、自分たちの間の裁きをアッラーの定めに基づいて行わず、彼らの慣習法に基づいて裁くのであるが、それはイスラームに一致していることもあれば、背反していることもある(فهؤلاء القوم المسؤول عنهم(ا دَولَة الإلخانية) عسكرهم مشتمل على قوم كفار من النصارى والمشركين وعلى منتسبين إلى ألإسلام وهم جمهور العسكر ينطقون بالشهادتين إذا طلبت منهم يعظمون الرسول وليس فيهم من يصلي إلا قليل جدا وصوم رمضان أكثر فيهم من الصلاة وأعظم من غيره والصالحين من المسلمين عندهم قدر وعندهم من الإسلام بعضه وهم متفاوتون فيه لكن الذي عليه عامتهم والذي يقاتلون عليه متضمن لترك من شرائع الإسلام أو أكثرها. فإنهم أولا يؤجبون الإسلام ولا يقاتلون من تركه. بل من قاتل على دولة المغول عظموه وتركوه وإن كان كافرا عدو الله ورسوله وكل من خرج عن دولة المغول أو عليها استحلوا قتاله  وإن كان من خيار المسلمين. فلا يجاهدون الكفار ولا يلزمون أهل الكتاب بالجزية والصغار ولا ينهون أحدا من عسكرهم أن يعبد ما شاء  من شمس أو قمر أو غيرذلك. بل الظاهر من سيرتهم أن المسلم عندهم بمنزلة العدل أو الرجل الصالح أو المتطوع في المسلمين والكافر عندهم بمنزلة الفاسق في المسلمين أو بمنزلة تارك التطوع. كذلك أيضا عامتهم لا يحرمون دماء المسلمين واموالهم إلا أن ينهاهم عنها سلطانهم أي لا يلزمون تركها وإذا نهاهم عنها أو غيرها أطاعوه لكونه سلطانا لا بمجرد الدين)。

2018年11月17日土曜日

2018/11/17 於:京都エデン 「どうなるサウディアラビア? ―トルコとサウディの250年戦争―」

2018/11/17 於:京都エデン
「どうなるサウディアラビア? ―トルコとサウディの250年戦争―」
中田考(同志社大学客員教授)

1. サウディ崩壊のシナリオ:カショギー(ジャーナリスト暗殺)事件で顕在化
2018年10月2日:サウディ在イスタンブール総領事館で殺害
トランプがサルマン国王に「お前の王座は米国の軍事支援がなければ2週間もたない」
サルマン皇太子「サウディはアメリカができる30年前1744年からここにある」
2. サウディ(第2代アブドゥルアズィーズ在位1765-1803年)-トルコ250年戦争
1818年:オスマン朝のエジプト総督ムハンマド・アリーにより第一次王国滅亡
2018年3月:エジプトのメディアに対してムハンマド皇太子
「オスマン・トルコ(Ottoman)とイランとテロリスト(ムスリム同胞団、IS)は悪の三極枢軸、トルコのエルドアンはカリフ制を押し付けようとしている。」
3. サウディの特殊性
 オスマン帝国存在時にその権威に挑戦、1902年にリヤド首長国として独立。
 領域国民国家システムによって承認される前からイスラーム国家として存在。
4.カリフ制としてのサウディアラビア
ワッハーブ派のジハードは、オスマン帝国の支配の正当性を支える当時のスンナ派イスラームに対する全面的否定による「宗教/政治的殲滅戦」。
5.1744年サウディ・ワッハーブ派政教盟約
 1744年、ダルイーヤ(リヤド市の一部)でイマーム(教主)イブン・サウード(その末裔がサウディ王家)とシャイフ(首長)イブン・アブドゥルワッハーブ(その末裔がシャイフ家)が「政教盟約」が締結され、ワッハーブ派教団国家成立。
 ジハードによるワッハーブ派の教義広宣により、サウード家はナジュドの覇者となり、孫の大サウード(在位1803-14年)の時代には東はアフサー、カティーフからカタルまで、西はヒジャーズ地方全域、北はアラビア半島を越えてシリア、イラクの一部まで、南はアスィール、ナジュラーンからイエメンとオマーンの一部を支配下におき、アラビア湾から紅海に至るサウド家最大の版図を実現。
サウディアラビアは教義的にジハードによる宣教を正当化するのみならず、財政的にも存続のために構造的に不断のジハードによる戦利品収入を要請する軍事拡張主義国家。
5.ワッハーブ派の基本教義と政治理念、国家原理
ワッハーブ派はスンナ派超正統主義アフル・ハディース-サラフィー主義の一派
スンナ派のハディース、クルアーンのみの権威を認め、外来思想、後代の権威否定
特殊ワッハーブ派的思想は政治思想:政教盟約に凝縮されている。
政治理念:①タウヒードの宣教②善の命令と悪の禁止③イスラーム法の厳格な施行
国家原理:①ジハードによる宣教②サウード家の王政の承認③無課税財
6. 第三次王国の成立
第二次王国の最後の教主(イマーム)アブドゥッラフマ―ンの息子アブドゥルアズィーズ(1902-1953年)がリヤドを奪回しナジュドを平定し1902年リヤド首長国を建国。
1913年アハサーを落とし東部州に覇権確立
1925年ヒジャーズ全域制圧(オスマン帝国1922年滅亡)
1926年にはナジュド・ヒジャーズ王国の建国を宣言
1932年サウディアラビア王国と改称
1934年にはイエメンと戦いアスィール地方を併合、軍事的拡大ほぼ終結。
7. ワッハーブ派教団国家の変質
ジハードを続けるワッハーブ派屯田兵イフワーンを1929年のシビラの戦いで殲滅
ジハードによるタウヒードの宣教は、政教盟約に基づくワッハーブ派教団国家樹立のレゾンでトール。ジハード放棄はワッハーブ派教団国家の決定的な変質の印。
以後サウディアラビアは、リアルポリティクスにおいて、西欧の領域国民国家システムに完全に組み込まれながら、ワッハーブ派の3つの政治理念と3つの国家原理を掲げる建前を維持し続ける難しい舵取りを強いられることになる。
8. 冷戦とOICの結成
冷戦構造下で、1950年代から60年代にかけてアラブ社会主義の既成秩序への挑戦に対抗し湾岸の王制諸国や保守的なモロッコやヨルダンなどのアラブ王制諸国を糾合し、イスラーム外交の名の下にアラブ社会主義を共産主義=無神論と断じるイデオロギー闘争を展開したのがサウディアラビアの故ファイサル国王(当時の皇太子)。1962年マッカに本部をおく世界のイスラーム団体の調整・支援機関世界イスラーム連盟結成。
エジプト・シリア統合の失敗、シリア・イラク両バアス党の分裂、エジプトのイエメン内戦介入の失敗、第三次中東戦争の敗北などによって、アラブ社会主義は最終的に自壊。ファイサルのイスラーム外交は、1969年のOIC(イスラーム諸国会議機構、後のイスラーム協力機構)の創設決定に結実
9. ムスリム同胞団の庇護
全体主義抑圧体制アラブ社会主義諸国(エジプト、シリア、イラク等)の「宗教弾圧」を逃れたムスリム同胞団員にサウディアラビアはかっこうの亡命先を提供した。
ワッハーブ派は極めて偏狭であったが、この時期には無神論のアラブ社会主義という共通の敵を前にしてスンナ派イスラーム主義改革派の諸グループを支援し共闘。
10. 反人定法論の成立
1960年代にアラブ社会主義とのイデオロギー闘争の中で、シャイフ家のサウディアラビア初代ムフティー(教義諮問官)ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・アッシャイフ(1969年没)『人定法に裁定を求めること(Taḥkīm al-Qawānīn)』執筆。
11. イラン・イスラーム革命、GCCの結
12. ホメイニーの「イスラーム法学者の後見」理論に基づいて建国されたイラン・イスラーム共和国は、イラン・イスラーム革命をイラン一国を越えるイスラーム革命と位置づけ、「革命輸出」戦略をとった。ワッハーブ派はシーア派を不倶戴天の仇とみなし、イラクに侵攻しシーア派の聖地カルバラーやナジャフで住民を虐殺し、東部州のシーア派住民に対しても異教徒として扱い迫害。
ホメイニーはイスラーム共和国を樹立するや、「世界イスラーム解放運動機構」、サウディアラビアにも「アラビア半島イスラーム革命組織」を組織。
13. イラン・イスラーム共和国の成立以降、スンナ派のワッハーブ派宣教国家サウディアラビアとイラン・イスラーム共和国が主導権を争う国際イスラーム運動の基本構図定着。
王制批判の国内への波及防止のため、イラン封じ込め政策。
国内的には、シーア派を憎むワッハーブ派を重用。
国際的には①1981年に湾岸王制諸国(クウェート、アラブ首長国連邦、バハレーン、カタル、オマーン)を糾合し集団安全保障体制構築を目指してGCC(湾岸協力会議)を結成。②世界イスラーム連盟などの配下の国際イスラーム団体を通じて世界のスンナ派イスラーム諸運動を支援しイランに対抗してイスラーム世界の盟主の地位の確保をはかる。
14. マッカ聖モスク占拠事件
イラン革命はシーア派を超えて全てのムスリムに王制の打倒を呼びかけた。イラン革命に呼応するかのように1979年11月20日(ヒジャラ暦1400年元日)、イフワーンの流れを汲む約300名の武装集団がモスクを訪れる予定であったハーリド国王を廃位し、マフディー(救世主)の支配の到来を告げ人々にマフディーへの忠誠を要求してモスクを占拠。「政教盟約」を根底から否定する流れの存在が露呈。
15. 湾岸戦争から9.11へ
冷戦構造の下ではイラクのバアス党(アラブ復興社会党)サッダーム・フセイン政権は社会主義とアラブ民族主義による王制諸国打倒、アラブ統一を目指す革命国家の急先鋒、つまりサウディアラビアの主要仮想敵であったが、革命の混乱に乗じてイランに攻め込んだイラクをサウディアラビアは「敵の敵は味方」と支援。
ところがイラン・イラク戦争(1980-1989年)が終結するとイラクは1990年年8月クウェートに攻め入り併合。自国の油田地帯にもイラクが手を伸ばすことを恐れたサウディアラビアは米軍を援軍として招き入れた。
異教徒の米軍を「聖地」アラビア半島の国土に引き込んだサウド王家の「イスラームの盟主」としての威信失墜、情報統制の緩和によって、湾岸戦争以降、イスラーム主義者の政府批判の動きが、「覚書グループ」(サルマーン・アルアウダ、サファル・アルハワーリーら著名なウラマー)と呼ばれるイスラーム主義者集団によるファハド国王への上奏文の形を取った一連の政府批判文書の流布によって一挙に顕在化。この「覚書グループ」が含まれていた。またサウディアラビアの富豪でアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは米軍を招き入れたサウド王家を厳しく批判、2001年9月11日にアメリカで同時多発攻撃。実行犯19人のうち15人がサウディアラビア人であったことは、それまでサウディアラビアの情報操作によって隠蔽されてきたワッハーブ派の反米感情の強まりを世界に知らしめた。
16. シーア派の伸長
イラン革命後、イランの指導の下で全世界のシーア派の政治的覚醒。
*レバノン:イラン革命の影響でイスラーム共和制の樹立を目指して1982年に結成されたヒズブッラ―は独自の軍事部門を有し1983年には米仏軍を、2000年にはイスラエル軍をレバノンから撤収させ、レバノン内の「国家内国家」とも言われる存在となった。
*イラク: 2003年アメリカがフセイン政権を打倒しイラクを占領すると、政権を担える勢力はダウワ党とその分派でよりイランに近い「イラク・イスラーム革命最高評議会」などのシーア派イスラーム主義勢力しかなく、イラクにはイル・ハーン国がシーア派に改宗して以来(1304-1353年)のシーア派政権が誕生。
18.アラブの春
スンナ派諸国の腐敗した専制、独裁政権が長期にわたって続き民衆には閉塞感が「アラブの春」を可能に。「アラブの春」で民衆蜂起によって長期独裁政権の崩壊は、スンナ派ムスリム諸国の専制君主、独裁者たちに大きな衝撃を与え、生き残った政権は以前にも増して弾圧を強めることに。
19.「アラブの春」後に政治の舞台に躍り出たのは、厳しい弾圧の中で草の根型の社会運動としてかろうじて生き延びていたアラブ最大の社会運動ムスリム同胞団。個人の覚醒、社会の覚醒を経て、議会主義に立脚し選挙を通じてイスラーム国家を樹立し、各地のイスラーム国家の合邦統一によりカリフ制を再興し、最後に世界をイスラーム化する、というのがムスリム同胞団の綱領。アラブの春の飛び火を最も恐れたのが、国内に多くのムスリム同胞団の出稼ぎ労働者を抱えながら、選挙も人権も自由も平等も存在しない専制王制諸国、特にサウディアラビアとUAE。
20.イエメン内戦
イエメンではイラン革命の影響を受け反米、反イスラエルのスローガンを掲げるシーア派の分派ザイド派のイスラーム主義運動フーシー派(アンサール・アッラー)が2014年に首都サナアを攻略し2015年には完全に政府機能を掌握。サウディアラビアはフーシー派がサナアを制圧すると即座にスンナ派諸国連合軍を組織し、イエメンに軍事介入、アムネスティーから人権侵害を批判される空爆を続けながら3年が経過してもサウディアラビアはサナアを攻略できないばかりか、報復に首都リヤドがフーシー派によるミサイル攻撃に。
21.カタル団交、宮廷クーデター、ワッハーブ派ウラマーの弾圧
サウディアラビアは、2017年6月5日、アラブ首長国連邦、エジプト、バハレーンと謀ってカタルとの断交、経済封鎖に踏み切った。第一次サウディアラビア王国はオスマン帝国によって滅ぼされたが、実際にサウディアラビアを討伐したのは当時半独立状態にあったオスマン帝国エジプト総督ムハンマド・アリー。また冷戦期には、サウディアラビアのファイサルはエジプトのナセルとイエメンで代理戦争を戦っている。また教義的にもエジプトはワッハーブ派が異端視するスンナ派伝統主義イスラーム学の牙城であるアズハル機構を擁しており、厳しく対立。
カタルとの断交は、設立当初より「西欧の基準」の「自由な報道」でサウディアラビアの専制政治、人権蹂躙、腐敗を糾弾するアルジャジーラを庇護するカタルに苛立ちを隠していなかったが、テロの支援を口実に、テロ支援国家イランや、「テロ組織」同胞団との絶縁、アルジャジーラの閉鎖などの要求を掲げて。ついで6月21日サウディアラビアではムハンマド・ブン・ナーイフ皇太子が解任され、代わってサルマーン国王の息子の副皇太子ムハンマド・ブン・サルマーンが皇太子に昇格する「宮廷クーデター」。
これに対しトルコのエルドアン大統領は直ちにカタルへの支持を表明したのみならず、カタル防衛のために軍を派遣。カタルはサウディアラビアの要求を拒絶し、GCCのクウェートやオマーンすら断交に追随せずサウディアラビアによるカタル孤立化の目論見は失敗。これによってサウディアラビアとカタル断交の陰にトルコとカタルの対立があることが顕在化。
カタル断交の背景は2018年3月のエジプトのメディアに対するムハンマド皇太子の「オスマン・トルコ(Ottoman)とイランとテロリスト(ムスリム同胞団、IS)は悪の三極枢軸である」と呼び「トルコのエルドアンはカリフ制を押し付けようとしている。」とトルコのエルドアンがカリフ制の再興を目指している、との非難。
アラブ各地でテロリストの汚名を着せられたムスリム同胞団のメンバーが、カタルとトルコに亡命した。ムルスィーの失脚、逮捕投獄によりアラブのカリフ擁立の夢破れた同胞団が、エルドアンに夢を託した。ナセル時代の同胞団弾圧を逃れエジプトからドーハに亡命した同胞団の精神的指導者カラダーウィーが2017年の5月にエルドアンをオスマン帝国のカリフの別称「スルタン」の称号で呼び、17億のムスリムはエルドアンに忠誠を誓うべきである、と述べ、その映像がインターネットを通じて世界に配信。
サウディアラビアがイラン、トルコ、カタル、テロリスト(同胞団、IS)との敵対に踏み切ったのは、アメリカにイスラエルから距離を取りイランに融和的だったオバマに代わって親イスラエルでイランに敵対的なトランプ大統領の登場のため。
サウディアラビアはイスラエルと結びトランプに全面的に協力しアメリカの支持を得ることで、「イスラーム法学者による後見」論を国是とするシーア派のイラン、カリフ制再興を目指すスンナ派伝統派のエルドアンと同胞団、カリフ制再興を称するジハードによるタウヒードの宣教のワッハーブ派の原理念に忠実なISのムスリム世界統一への動きを阻止し、サウド王家の既得権益を守る生存戦略を選択。トランプの支持を取り付けるために、ムハンマド皇太子は2018年4月アメリカの『アトランティック』のインタビューに答え、ユダヤ人国家としてのイスラエルを承認した。3イスラエルの承認は、サウディアラビア外交の根本的な変化を示すものであるが、とりわけアメリカの大使館のイスラエル移転(2018年5月14日)に対してパレスチナにみならずムスリム世界各地で抗議の声が沸き起こっている時期に、トランプのイスラエル政策を支持し、イスラエルの国家承認を口にすることは、イスラームの盟主を称してきたサウディアラビアの威信を大きく傷つけた。
サルマン・アウダ、サファル・ハワーリーら逮捕、死刑求刑。
21.このような背景の下、カショギー(サウジ国籍『ワシントンポスト』などに寄稿)*2018年10月2日サウディ在イスタンブール総領事館で殺害
サウディの発表:4日全面否定、総領事館を歩いて出た、12日内相殺害否定、21日外相殺害はならず者によって行われた大失敗、25日検察殺害計画的
*23日 サウディ投資会議の日にぶつけてエルドアン演説(サルマン国王のみ免責)
MBS:エルドアンとサルマンの間を引き裂こうとの陰謀は成功しない
*11月1日 『ワシントンポスト』MBS、カショギー殺害後クシュナーとボルトンに電話で危険なイスラーム主義者と誹謗(カショギーは反ワッハーブ派、成文法制定要求)
*イエメン内戦:10月30日ポンペオ、マチスが停呼びかけ
22.サウディの命運
短期的にはカタル・ボイコットとイエメン内戦介入をやめられるかが焦点
*25日MBS:カタルの経済は良好、今後5年で大きな貢献が期待できる
カタル・ボイコットは、真の目標はトルコとムスリム同胞団
*「イエメン内戦は最悪の人道危機」スティーブン・クック米議会外交問題上級研究員『ニューズウィーク』(10月30日)トルコは直接の利害関係なし。(むしろイランに有利なのでトルコも米国もそれほど乗り気でないが人道的に無視できない)
マティス(米)のイエメン停戦の呼びかけはイランの勝利とみなされる。Monitor 11/1
*エルドアンは11月2日付『ニューズウィーク』に寄稿:カショギー殺害はサルマン国王ではない最高レベルからの指示
*11月15日:サウディアラビア検察11人起訴5名死刑求刑と発表
*11月17日CIA! MBAが弟ハーリド駐米大使に命じてカショギーをイスタンブール総領事館に誘き寄せて殺させる。

纏め
*サルマン朝は始まる前に終わる?MBS専制王制から独裁者(≠啓蒙君主)を目指した
(サウディ王制支持基盤のワッハーブ派と敵対:飴と鞭で黙らせているが)
*サウディアラビアの未来に3つのレベル
①領域国民国家システムvs帝国の復興(西欧、英米、ロシア、インド、中国、イスラーム)
②スンナ派vsシーア派
③スンナ派内:サラフィー、改革派(同胞団)、伝統派、世俗派(反イスラーム)
④サラフィー内:サラフィー非政治派、ワッハーブ派、サラフィー・ジハード主義者

2018年9月20日木曜日

イスラーム法学におけるカリフ論の発展覚書


نهاية المطلب في دراية المذهب, لإمام الحرمين عبد الملك بن عبد الله بن يوسف الجويني, دار المنهاج, جدة, 1428ه-2007. ج.17.
ولا مطمع في ذكر أوصاف الأئمة وما تنعقد (ص.125) الإمامة به فإن القول في هذا يتعلق بفن مقصود, والقدر الذي يجب الاكتفاء به ذكر الإمام العادل والخروج عن طاعته الواجبة.(ص.126)

العزيز شرح الوجيز المعروف بالشرح الكبير
أبو القاسم عبد الكريم بن  محمد بن عبد الكريم الرافعي القزويني الشافعي
(  م1160- 1226 هـ = 555- 623)

, لبنان1997  - 1417 , دار الكتب العلمية. ج.10, ص.71, فصل: في شروط الإمام-  :
 وهي أن يكون مكلفا,  .... مسلما ... عدلا ... حرا  ذكرا عالما مجتهدا ... شجاعا ...ودا الرأي وكفاية وفي (الأحكام السلطانية) لأقضى القضاة الماوردي: اشترط سلامة الأعضاء ... وأن يكون من قريش....
ص.72.:  فصل: لا بد للأمة من إمام يحيي الدين ويقسم السنة وينسف المظلومين ويستوفي الحقوق ويضعها مواضعها يصلح الناس فوضى, وتنعقد الإمامة بطرق: أحدها: البيعة ....(ص.73) والثاني استخلاف الإمام من قبل ... (ص.75)
 والثالث: القهر والاستيلاء, فإذا مات الإمام وتصدى للإمامة من يستجم شرائطها من غير استخلاف وبيعة وقهر الناس بشوكته وجنوده انعقدت الخلافة لانقياد الناس وانتظام الشمل بما فعل ولو لم يكن مستجمعا للشرائط بل بل كان فاسقا أو جاهلا....  ولأن المقصود من نصب الإمام أن تتحد الكلمة وتندفع الفتن ولو لم تجب الطاعة واالتأبي غالب على الطباع استبد كل برأيه وثارت الفتن ولا يجوز نصب إمامين في (ص.76) وقت واحد, لما فيه من اختلاف الرأي وتفرق الشمل.

2018年8月5日日曜日

東西の自然理解 - 環境・生命・倫理 ー イスラームの立場から

於:2018年8月5日 京都パレスサイドホテル 東西宗教交流学会

「東西の自然理解 - 環境・生命・倫理」 「イスラームの立場から

                        中田考(同志社大学客員教授)

1.現代のイスラーム世界でのディスコース
* 大量に「研究」あり。例えば、Dr.Derya Iner(Charles Sturt Univ.)「イスラームにおける環境倫理と生命倫理(Emvimental Ethics and Bioethics in Islam)」 https://www.isra.org.au/site/user-assets/docs/workshop-2a--beliefs-providing-moral-and-ethical-framework--islam.pdf
* 問題を考える手掛かりにならないことはないが、全く信用できない
* 現代西欧の同名の学問論文のフォーマット(環境倫理、生命倫理)にクルアーンやハディースなどの適当な文言を代入しただけ
* 重要なのは、ここのテキストの断片ではなく、伝統イスラーム学には「環境倫理」、「生命倫理」などとおう問題設定、学問分野が存在しなかったこと

2.現代イスラーム世界のディスコースの問題点
* 「西欧の世界支配の19世紀」のムスリム世界の植民地化
* 現在世界に存在する「宗教」は、リヴァイアサン(主権国家:権力)とマモン(富:金)の配偶神に隷属する偶像崇拝(「拝金教」by和田秀樹)のみ
* 自称ムスリムたちも実際に崇拝しているのは、神ではなく国家。好例がハラール認証。

3.イスラームの合法秩序
* カリフ制 vs  領域国民国家システム
* 金本位制 vs 不換紙幣 
 法人国家と紙幣 = どちらも実体のない、名前、記号 = 偶像

4.イスラームの二元論的世界観
* 純粋一神教 = 二元論(神=創造主 vs 世界=被造物)
* 「イスラームは現世(ドンヤー)と来世(アーヒラ) or現世と宗教(ディーン)」
* 広義のイスラーム = 現世と来世 = 世界のあり方の全て
* 狭義のイスラーム ≒ 宗教=来世 (現世と来世の二元論→イスラーム的「政教」分離)

5.イスラームのアニムズム的世界観
* 森羅万象がそれぞれの原語で神を称える
「7つの天と大地、またその間にある凡てのものは、かれを讃える。何ものも、かれを讃えて唱念しないものはない。だがあなたがたは、それらが如何に唱念しているかを理解しない。…」(クルアーン17章44節)
* 身体部位も全て意識を持つ
「その日(最後の審判)、アッラーの敵は集められ、火獄への列に連らなる。かれらが(審判の席)に来ると、その耳や目や皮膚は、かれらの行ってきたことを、かれらの意に背いて証言する。するとかれらは、(自分の)皮膚に向かって言う。「あなたがたは何故わたしたちに背いて、証言をするのですか。」それらは(答えて)「凡てのものに語らせられるようにされたアッラーが、わたしたちに語らせられます。かれは最初にあなたがたを創り、そしてかれの御許に帰らせられます。」と言う。(41章19‐21節)

6.死体を傷つけることの禁止
「死体の骨を折ることは生者の骨を折るに等しい」(イブン・マージャ、アブー・ダーウードのハディース[預言者ムハンマドの言葉]集成)イブン・アブドルバッル(マーリキー派法学者1071年没)注釈「死者も生者と同じように苦しむ」

7.世界の無時間性
* 世界は全て神の永遠の知の中に恒存
* 来世も神の視点からは現存

2018年6月16日土曜日

俺の妹がカリフなわけがない! 【エピソード0】

俺の妹がカリフなわけがない!


إذا رأيتم الرايات السود قد جائت من قبل المشرق فأتوه فإن فيها خليفة الله المهدي

若見黑旗來自東方 汝等即往 彼有訶黎佛都羅 乃天導者也




【エピソード0】
世界制覇を公約に掲げて生徒会長に当選した俺の妹が「生徒会長」を「カリフ」に改称した。俺の妹がカリフなわけがない!男性であることは、カリフ有資格者の10条件の一つだ!!





「カリフになれ」
小さくつぶやかれた言葉が、耳に残る。あれはまだ俺と双子の妹愛紗が四歳にも満たなかった頃。
「お兄しゃま、かりふとはなんでしょう」
「エラい人のことだぞ、きっと。長官よりもエラいんだぞ」
あの頃の俺には、幼児向け特撮戦隊モノの長官が、誰より偉い人に見えていたんだと思う。祖父の今際の枕元でそんな会話をする俺たち兄妹に、父夢眠は無言だった。
「垂葉、愛紗……天馬家の使命を受け継ぐ子どもたち」
俺たちの頭をゆっくりと撫で、そうして祖父は静かに息を引き取ったのだ。



君府学院は、俺たち兄妹の祖父天馬真筆のさらに祖父天馬真人が設立した、中等部・高等部を持ち、全寮制の、完全学費無料の学校で、自由と正義を実現する人材を創るという理念を掲げている。
でも、完全学費無料で全寮制とか、無理があるに決まっている。普通に考えてどうやって経営するんだ?と思うだろう?俺だってそう思う。
それでも祖父の代までは苦しいながらも頑張っていたようだ。しかし、それも父が経営破綻させて、世界的大企業、石造財閥に譲り渡すことになるのは、祖父の死後あっという間だった。
少人数教育、徳育重視で大アジア主義に基づき、外国語として中国語、アラビア語、トルコ語、ペルシャ語が学べるという風変りな学校だったが、経営破綻した学院をグローバル・エリートを養成する受験名門校へと生まれ変わらせたのが石造財閥の長、石造高遠新理事長だ。
新たにクラスは成績順に分けられ、石造理事長が建てた新校舎に上位クラスを移動させ、中でもプラチナクラスの教室は高遠の徹底したエリート主義、能力主義、信賞必罰の教育方針に基づいて、生徒一人一人の椅子も飛行機のファーストクラス並みの快適さだ……と学院パンフレットには書いてある。
そうして、学院近くの邸宅をも追われ、学院の経営からも身を引いた父は、石造財閥当主の恩情というか、俺は絶対に嫌がらせだと思うんだが、用務員兼雑用として小さな部屋を与えられ、俺たち兄妹もそのまま君府学院に通うことが許されたんだ。



あれから10年、成績順に別れたクラスに、やはり成績順、男女別に分けられた寮へと別れ住むことになった愛紗と顔を合わせることはほとんどない。
「は?愛紗が生徒会長に立候補?え、あり得ないだろ?」
成績最下位クラスのブロンズクラスが定席の俺と違って、愛紗は入学以来常に学年トップを走り続けているし、成績だけで言えば不思議でもなんでもないんだが。
「だって……誰が愛紗になんか入れるんだ?」
俺は生徒会役員選挙告示の前で、本気で首を捻った。
確かに愛紗は成績もいいし、アラブの血が混ざっていると言われれば納得するくらいには、彫りも深く大きな目に小さな頭、整った顔立ちをしている。美人と言って差し支えないと思う。まっすぐに伸びた背中、凜とした立ち姿は彼女が武道を嗜んでいるからだろうか。
だが、いかんせん愛紗の無愛想さは常軌を逸したレベルだ。喜怒哀楽という人間らしい感情を持っていないんじゃないかとすら思わせる。それに生真面目で一切の妥協を許さないという性格だから、友だちらしい友だちはいないはず……いや、愛紗と2人だけの武術部で鍛錬している新免衣織だけは、もしかしたら愛紗の親友と言えるかも知れない。
「親友っていうより、信奉者ぽいけどな」
思わず苦笑が漏れる。高校一年で剣道の全日本大会を征した、剣術二天一流の達人である衣織と、手裏剣術の愛紗。幼い頃から二天一流の継承者として育てられ、武道一筋で浮き世離れした言動で、同級生たちから敬遠されていた衣織に、愛紗だけが生真面目に相手をして、決して笑うことがなかった。そのせいか、衣織は愛紗の信奉者とも言えるほどに、愛紗を慕っているようだ。
「まぁ、でも愛紗が生徒会長とか……普通にあり得ないだろ」
そう、その時は俺もそう思っていた。
生徒会長立候補者は2人。多少美人でも無愛想で、口を開けばウエメセで人をバカにしたような話し方しかできない愛紗には人望とうものが決定的に欠けている。その上愛紗の対立候補・石造無碍は、父のあと理事長になった石造財閥当主の御曹司で、愛紗と同じプラチナクラス、つまり成績トップのクラスで、演劇部部長、さらにテニス部にも在籍しエースでもある、という絵に描いたような王子様だ。
しかもその王子様は学院の広告塔とも言える、子役からのアイドル藤田波瑠哉を筆頭に、見目麗しい男女のお取り巻きを引き連れているのだ。
「だいたい、なんで生徒会長になんかなりたいんだ?愛紗のヤツ」
双子には以心伝心がある、なんて漫画の世界のことだ。俺には妹の考えていることがまったく、これっぽっちも理解できない。
実際、チラホラと聞こえてくる下馬評も圧倒的に無碍有利だったんだ。
そう、その日生徒会総選挙の立候補者演説で、少なくとも無碍の挨拶が終わるまでは、確実に。
「私たちは、神に自由な人間として創造されました。私はこの学院の創立者の掲げた理念に則り、自由と正義に基づく地球の解放の前衛とするために、地上における神の代理人、神の預言者の後継者、カリフとして、生徒会長に立候補します」
壇上の愛紗は声を張り上げるでもなく、淡々とそう言うと言葉を切った。
ざわざわと生徒達の声が広がる。
「なに、あれ?マジで言ってるの?」
「中二病?でもオレらもう高校生だよな」
「あの人、学年トップの天才じゃなかったの?」
戸惑いよりも嘲笑の声が多いのも当然だろう。
応援演説のために衣織が愛紗に近寄っても、ざわついた講堂は静かにならない。
「私たちは生徒会のために、この身と命を捧げます」
愛紗の前に膝を折った衣織が、腰に佩いた長刀を一閃する。
左腕を真っ直ぐに伸ばしていた愛紗は身動ぎもしなかった。
「きゃーーーーー!」
女生徒の悲鳴があがる。
「きゅっ救急車を!!」
「な、なんてことを……」
阿鼻叫喚と化した講堂で、壇上の2人だけが静かだった。
自分が切り落とした愛紗の左腕をそっと持ち上げた衣織が、愛紗に付き従う。
「大丈夫です。救急車は事前に呼んであります。剣の達人に名工の鍛えた刀で切られた者は、切られたことに気づかないと言います。筋肉繊維も神経も骨組織も壊さず切り落とした腕は直ぐに縫合すれば元通りになるはずです。私たちには神のご加護があるのです」
さすがにこの度肝を抜くパフォーマンスの後で、生徒会選挙はいったん中止になった……はずだった。
翌日、愛紗が自らの言葉通り、なんでもない顔をして登校してくるまでは。
立候補者演説、応援演説とも終了していたため、日を改めて行われた投票は、下馬評をひっくり返して、圧倒的多数により、愛紗が当選してしまったのだ。
「いや、まぁ生徒会長になろうと、なんだっていいけどさ」
双子の兄妹として産まれながら、片や成績トップの生徒会長様、片や万年最下位クラスの俺としては、やっぱり少し面白くないっていうか……。
そんな俺の前で生徒会長就任挨拶のために再び壇上に上がった愛紗が淡々とした表情のまま、口を開いた。
「皆さんの信託に基づき、私、天馬愛紗は生徒会を自由と正義に基づく解放の礎とすべく、最初の仕事として、生徒会長をカリフと改称致します」
「ちょっと待てーーーーっ!」
俺は思わず起ち上がって叫んでいた。
「それ、おかしいだろう?なんだってたかが一私立学校の生徒会長がカリフなんだよ、だ、第一高校生が真剣を持ち歩いてるとかあり得ないだろうがっっ」
「はぁ、もう少し静かに、論理的に話せないのですか?衣織が腰に差しているのは、新免家に代々伝わる銘刀《姥捨て》と《過労死》、本阿弥光悦が研いだ逸品で重要文化財に指定された美術品です。丁重に取り扱えば何の問題はありません。」
「いや大問題だろ~、いきなり人の腕を切り落とすのは!」
 「あれは古来より伝わる刀の切れ味の鑑定法、試し斬りです。校医のドクター和田も、さすが重要文化財、見事な切れ味、と感心していました」
「あのマッドサイエンティスト、ってか、校内で手術済ませたのか?」
「我らが君府学院の保健室は創立以来救急病院の指定を受けているのです」
「ウソだろぅ…いや……だから、そうじゃなくて、カリフ制なんて、とっくの昔に廃止されてるだろう」
俺だって祖父さんの死後、ちょっとは気になってカリフについて勉強したんだ。
「トルコ共和国でカリフ制度が廃止されたのは一九二四年でしたね」
「あ、ああ、そうだ。なのに……」
「しかし、そもそもカリフ制はトルコ共和国が作ったものではありません。従ってトルコ共和国によって廃止されることもありません。世界はお兄様がネットを覗いて想像していらっしゃるよりもずっと複雑で奥深いものなのです」
「……あっ、うっ」
「では、まだ少し貧血気味ですので、カリフ就任挨拶はここまででよろしいですね?」
これが、俺の妹、天馬愛紗がカリフに就任した瞬間だった……わけがない!生徒会長とカリフが一緒にされていいわけがない!俺の妹がカリフなわけがない!

2017年12月17日日曜日

第二部理論枠組:漸進戦略と圏域政治 第1章 地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ Ⅰ. 空間把握、地理認識と地図

第二部理論枠組:漸進戦略と圏域政治

第1章
地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ
1. 空間把握、地理認識と地図
 フェルナン・ブローデルは『文明史』冒頭の文章において、地理学の文明形成におけるオリジナルな貢献をイスラーム文明の例として示すために、「地図は真の物語を知らしめる」と言う 。実のところ、個人であれ、その個人からなる社会であれ、より大きい尺度の文明の集合であれ、それを支える一番の基礎は、「文明の自己認識」 となる実存意識に対応する空間-時間把握である。
 強大な文明が飛躍していくのを先導しその文明の裾野の周辺にある種の秩序を形成する社会は、歴史の舞台に登場した時点から、その影響力によってその歴史の舞台を形作り始める時期の間に、それ自身の故地から世界を認知していく。より単純な地理的環境把握からより複雑な世界把握へと直接的に発展するこの意識は、地図の上に最も具体的な形をとって現われる。戦略思考の形成に関して既に述べたように、地理学は客観的な現実であるが、地図はこの客観的現実の文明的認識過程を経た主観的形態である。天文学が科学の中心を占めた存在認識によっていくつもの文明を作り上げたバビロニア人は天空の物質との関連において地表における空間認識を構築し、イラン人は世界を互いに平等な7つの円から成る7つの領域(国)へ分け、自分達の空間を4番目の中心の円に配置した後に他の6つの円を互いに接する形でこの中心の円の周囲に配置した。
 地理に関する最初の系統立った知識は、一方ではエジプトを超えて、他方ではベロッススの現ボドルム湾の端にあるコス島(スタナコ、あるいはスタンチオ、[トルコ語名]イスタンキョイ)において紀元前640年代に設立された学校によりバビロン的知識を手中にしたギリシャ人の地理認識も、自己の文明圏を広げたことで包括的な形を採ったエーゲ海中心の認識である。世界を周囲を大洋に囲まれた平坦な円盤として認識したホメロスの世界観はギリシャの空間認識の限界をも描き出していた。世界を円柱の底面として描いたミレトスのアナクシメネス(紀元前500年代)も同様にギリシャ都市国家群の影響圏が拡散する地域をそのまま広げ続けていくという認識だった。この認識はシチリア島からカスピ海にまで達する一つの世界を思い描いていた。
 マケドニアから出発し、東へと伸びる古代文明圏を影響下に組み込んだ(多文化他宗教)混淆的な帝国を樹立したアレクサンドロス大王によって、こうした空間認識とその認識を基にした地図も変化した。 マケドニアからメソポタミア、インドとエジプトへと伸びた帝国に自分の名前を冠した都市(アレキサンドリア)の建設を戦略の支柱に据えたアレキサンダー大王は、自分自身を文明のジンテーゼの地理把握とその(空間)把握の中心概念の具象化としたのである。世界と地理の把握は、アレキサンダー大王の非常に戦略的な決定によって古代エジプト、地中海、メソポタミアの「肥沃な三日月地帯」に建設したアレキサンドリアから始まり、アレキサンダーによってメソポタミア、イラン、インドに相次いで作られたアレキサンドリアの名に由来する都市によって普及していったのである。この認識の学問的下部構造と地図測量学上の実質的な具体化もまたアレキサンドリアによって形を取った。人類のその時代までの知的遺産の蓄積が詰まったこの都市(アレキサンドリア)は、最初の地理基準(経緯度)を作ったエラトステネス(天文学者、数学者、前194年没)は、地理の認識と地図測量学に重要な新しい道を開いたストラボン(地理学者、前23年没)と、最も重要な古典的世界観形成において中心的な役割を演じたプトレマイオス(天文学者、168年没)の仕事の苗床を準備した。これらの仕事の元になった地図がアレキサンダー大王の支配領域の包摂と、その結果としてイランとインドをも地理的認識がその位置づけることになったことは、文明圏と政治的支配の関係を明瞭に示している。
 イタリヤ中部の都市国家という自己理解によって生まれたローマも拡大するにつれて、自己を中心とする空間把握を支配領域に広めていった。古典的地図において「Mare Interum(中海)」と呼ばれた地中海はローマ人にとって「Mare Nostrum(我らの海)」であった。西欧からメソポタミアへ黒海から地中海へ広がり(ローマ)帝国の戦略的脊柱を成す幹線道路は、そのネットワークにおいて「全ての道はローマに通ずる」という格言によって空間把握の中心として具体的に認識されていたのである。
 キリスト教によって変化した空間把握と地理意識の格好の例もまたアレキサンドリア出身の6世紀の人コスマス・インディコプレウステス(地理学者、没年不明)であった。古典的に知られていた地域を超えて、エチオピア、インド洋、スリランカまで旅し、キリスト教に入信して後に『キリスト教地誌』を著したコスマスの主たる目的は、聖書とキリスト教正統信仰に適合した空間認識を地理学の形式で表現することであった。世界はその時代のものとノアの洪水以前のものとの二つの部分であり、地中海と、イラン、アラブ、カスピの海と湾からなると述べるコスマスは、地表は海で囲まれており、そしてこれらの海の向こうに(Terra ultra Oceanum,海上の陸)人類が洪水の前に住んでいた地域とアダムの楽園があると主張した。
 世界は四方に東はインド人、西はケルト人、北はスキタイ人、南はエチオピア人がいると述べるコスマスは、この説明によって、一方でキリスト教の世界観に適合した空間把握、他方で、キリスト教世界を中心とする地理的認識の限界を明らかにした。 この中心を受容をこのように前に持ってこられたことで、アジアの遠くムスリムを破ってキリスト教世界を護るプレスター(司祭)ジョンと名乗る聖王が治める(キリスト教)王国があるとの伝説が出来上がった。教皇アレクサンデル3世(在位1159-81年)は1177年にこの伝説的な王に自らの書簡を託した博士を遣わせた。しかしその教学博士の使節は帰ってこず、ムスリムに敵対するモンゴル王との接触を望んだ教皇インノケンチウス世(在位1198-1226年)が派遣したドミニコ会とフランシスコ会の修道士たちが極東(元朝)に旅した後には、そのような王国が存在しないことが判明した。同じ時期にゴグとマゴグの概念をめぐって紡ぎあげられた議論は、伝説、歴史、地理の知識がいかに入り込んでいるかを示す例に満ちている。しかし、これらはみな内側から見られた連続的な要素であるが、古代ギリシャからローマとキリスト教を経た後で、植民地主義の文化に中でも「私と他者」の区別として近代地理学の認識の形をとって受け継がれた。
 イスラーム文明の歴史の舞台への登場も、ブローデルが強調したように独自の地理的諸条件に直接的に関わっていた。古代の文明圏の周辺地帯に現れたイスラームは、アレキサンダー大王の時代に生まれその後に広がった諸文明が影響しあう領域の全てを支配下におさめ、スペインからインド、中国文明圏にまで広がる地域に新しい空間認識が生まれるための土台を用意した。
 初期のイスラームの地誌学者たちは、プトレマイオスの伝統の中で(アッバース朝)カリフ・マァムーン(在位813-833年)に献呈された最初の世界地図であったようにプトレマイオスの伝統を大きく進歩させる一方で、他方でバルフ学派の中でイスラーム世界を中心とする新しい空間認識を反映し全く独自の進歩を遂げた。学派の創始者の(アブー・イスハーク・イブラーヒーム)バルヒーは『イスラームの国(Mamlakah Islam) 』の諸地域を扱った地図を作り、すべての地域に地帯の名前を与えた。この学派の重要な代表者の一人マクディスィーは地中海中心の古典的地誌学を超えて、インド洋志向の重要な作品に数えられるが、それまで未知であった地域を加えた地図を作り上げた。バルヒー学派のマッカを中心とする円形の世界の地図を発展させたこと、南北差の再定義は諸文明の「自己認識」から出発して地理的認識を発展させたことの重要な例の一つである。ビールーニーの最初の大西洋とインド洋の間の繋がりを示した地図を発展させたことは、イスラーム文明が広まった地域と空間把握の間の関係を示すこと、後のヨーロッパの旅行者たちによって発展させられた新しい地理学の理解の最初の先触れであるとの点で重要である。
 社会が中心の周辺での空間把握を発展させたもう一つの好例はトルコの地誌学である。1072年と1074年の間に書かれた『トルコ語辞典(Diwan Lughah al-Turk )』の著者マフムード・カシュガリーがトルコ語の方言の分布に則って描いた世界地図はべラサグン市を中心としてなされ、7つの川の地域がトルコ系諸部族民の定住地として識別されている。ユーラシアの遠方にあるベルサグンから、すべての古代文明が交差する地域にあるイスタンブールのオスマン帝国の時代の地誌に至る時間は、
空間把握の変化、文明の進化、世界秩序の概念の関係を明白な形で生み出した。
 1413年にアフマド・スライマーン・タンジーが作った黒海と大西洋の東岸のヨーロッパとアフリカ沿岸、イギリス(ブリテン)諸島を描いた海図は、同時に空間の地平の早い時代の反映とみなされる。オスマン帝国の地誌学の奇跡の最高峰ピール・ライースの地図は、アレキサンダー大王の文明のジンテーゼの引力圏の古代の全ての遺産がアレキサンドリアで統合されたのと同じことがオスマン帝国の黄金時代のイスタンブールでもなされたことを示している。1567年のマジャール・アリー総督の地図とほとんど同じ時期に発展させられたフマーユーン地図が含む(1)黒海とマルマラ海、(2)東地中海とエーゲ海、(3)中央地中海とアドリア海、(4)西地中海とスペイン、(5)西欧の大西洋岸とイギリス諸島、(6)エーゲ海、(7)モレアス専制公領と南イタリヤ、(8)世界、(9)ヨーロッパと北アフリカ、という9つの地域からなる地図の内容もオスマン帝国の権威がいきわたった領域をカバーしており、古代の地図の伝統を超えた豊富な内容を有する独自なものとなっている。
地球全体の認識を可能にした「地理上の発見」、資本主義の前段階である重商主義、明確な国境の中で組織化される国民国家という現象は、ヨーロッパの(国際政治)秩序の礎石を成すウエストファリア体制が次第に整っていく過程における近代西洋文明の空間認識と経済、政治認識の間の密接な関係を明るみに出す。ヨーロッパを上の中心に置くヨーロッパ中心の世界地図は、ヨーロッパ中心の商業システムとヨーロッパ型の国家形成の広まりと並行して発展したのである。

2017年11月12日日曜日

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨
2017年11月11日 イベントバー・エデン     
 中田考(同志社大学客員教授)

1.「フトゥーワ」
「フルースィーヤ馬術」≒「ムルーアおとこらしさ」≒「フトゥーワ若々しさ」
騎手、男性、若者という特定の集団に特有の気質、倫理、理想像などを表す語になった。
イブン・カイイム(1350年没)『ムハンマドのフルースィーヤ(騎士道)』(注)
「フルースィーヤと勇敢さには二種類ある。最も完全なものは宗教と信仰の持ち主のものであり、もう一つは全ての勇者に共通するものである。本書はムハンマドのシャリーアに適った騎士道について纏めたものであるが、それは心と身体を共に捧げる最高の崇拝の形態であり、その徒を慈悲深き御方(アッラー)のための戦いに駆り立て、楽園の最上階に導くのである」
2.スラミー
アブドゥッラフマーン・スラミー(1021年没)
ニーシャープールで活躍した高名なハディース学者であり、イスラーム思想史上初めてスーフィーの立場からクルアーンの注釈書を書いた。多くの弟子を育てたが、中でも有名なのは同じニーシャープール出身の古典教科書『クシャイリーの書簡』の著者クシャイリー。
3.スーフィズムとは
スラミー『スーフィズムについての序論』
「(スーフィズムの要件)現世における禁欲、念神(ズィクル)と崇拝の励行、人々に依存しないこと、僅かな飲食や衣服で満足すること、貧しい者たちの世話、煩悩の滅却、勤行(ムジャーハダ)、謙抑(ワラウ)、常に志を高くもつこと、最小限しか食べず必要なことだけを話し睡魔に襲われた時だけ眠ること、自己反省、被造物(人間)から遠ざかり疎遠になること、導師たち(マシャーイフ)の拝顔、モスクで時間を過ごすこと、粗衣の着用」

(注)勇気は人間の性格の中の高貴な性格の一つであり、以下の四つの形で結実する。(1)果敢であるべきところでの果敢さ、(2)自重すべきところでの自重、(3)堅忍であるべきところでの堅忍、(4)転身すべきところでの転身。その逆は勇気の瑕疵であるが、それは臆病、無分別、軽薄、放心である。そして見識と勇気を兼ね備えた男こそが、軍隊を率い戦事行政を行うことができるのである。人には、「男」、「半人前」、「なにものでもない者」の三種がある。「男」とは正しい見識と勇気を兼備した者である。・・・「半人前の男」とは、二つのうちの一つを有するが他方を持たない者であり、「なにものでもない者」とは、どちらも欠く者である。・・・    ムジャーヒド(聖戦士)には5つの特質がある。どんな軍であれそれらが揃えば、相手の多寡にかかわらず、神佑に恵まれずにはいない。第1:堅忍不抜。第2:至高なるアッラーを多く念ずること。第3:アッラーと、アッラーの使徒への服従。第4:合意があり、失敗と弱体化を招く内紛がないこと。第5:その全ての要、支、そして基礎であるもの、即ち忍耐である。これら5つの上に勝利のドームが建てられる。