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2010年12月17日金曜日

『カリフ国家の諸制度 ― 統治と行政』 2

第9章.司法

司法とは強制を伴う判断の宣告である。それは人々の間の訴件の裁定、あるいは共同体の権利を害するものの阻止、あるいは人々と、統治者であれ、公務員であれ、カリフであれ、その配下の者であれ統治機構に属する者との間の紛争の解決である。
司法とその正当性の典拠は、クルアーンとスンナである。
クルアーンについては、至高者の御言葉「彼らの間をアッラーが啓示されたもので裁け」(5:49)、「アッラーとその使徒が呼ばれたなら、彼らの間を裁け」(24:48)であり、スンナについては、使徒は自ら裁判を執り行い、人々の間を裁かれたのである。
またアッラーの使徒は裁判官を任命もされた。アリーをイエメンの裁判官に任命し、裁判の方法について示し、「2人の訴人がお前に裁きを求めて来れば、他方の言い分を聞く前に、最初の者に有利な判決を下してはならない。そうすればいかに裁くべきか分かるだろう。」と言って戒められた。 また使徒はムアーズ・ブン・ジャバルをアル=ジャナドの裁判官に任命されている。これらは皆、司法の正当性の典拠なのである。
司法の定義は上述の人々の間の裁判を含むと共に、市場監督(isbah)も含む。「市場監督」とは、山積みの食物に関するハディースに述べられているような「共同体の権利を害することに対する強制を伴う判断の宣告」である。
「アッラーの使徒が食べ物が山積みになっているところへ通りかかられた。使徒がその中まで手を入れられると指に湿ったものが触れた。そこで使徒は『食べ物の売り手よ、これは何だ』と詰問されました。売り手が『雨に降られたのです』と答えると、使徒は『人々に分かるように、なぜそれを表面に置かなかったのか。商売で誤魔化す者は、我々(ムスリム)の一員ではない。』と咎められた。」
また司法の定義には行政問題の検分も含まれる。なぜならそれも裁判の一種だからである。それは統治者に対しての苦情、つまり行政上の不正である。その定義は、「人々と、カリフ、あるいはその補佐、総督、公務員の誰かの間で生じた紛争、あるいは裁判の判決と統治の依拠する聖法のテキストの意味の解釈をめぐる人々の間での争いに対する強制を伴う判断の宣告」である。行政上の不正(malim)の語は価格統制に関して、「私は、アッラーに見える時、血(傷害・殺人)、財産について、その者に対して犯した不正(malamah)で私を訴える者が誰もいないことを望む」とのハディース に言及されている。為政者、地方総督、公務員などに対して誰であれ不正を訴えた案件は行政不正裁判官に申し立てられ、行政不正裁判官は強制を伴う判断を宣告する。これで使徒の言行録にある三種の裁判を包括する定義が与えられる。それは「人々の間の訴件の裁定、共同体の権利を害するものの阻止、あるいは臣民(rayah)と統治者の間の紛争、あるいは国民と公務員の間の公務員の仕事をめぐる紛争の解決」である。

裁判官の種類
 裁判官は三種類である。その第一は、裁判官であり、それは社会関係行為(mumalt)や刑罰に関する人々の間の訴訟の裁定の担当者である。第二は市場監督官(mutasib)であり、それは共同体の権利を害する違反の裁きの担当者である。第三は、行政不正裁判官であり、それは人々と国家の間の紛争の解決の担当者である。
 これが裁判の種類の説明であるが、即ち人々の間の訴訟を裁定する裁判の典拠は、使徒自身が裁判を行われ、またムアーズ・ブン・ジャバルをイエメン地方の裁判官に任命されたことである。市場監督とも呼ばれる共同体の権利を害する違反を裁く裁判の根拠は使徒の言行である。使徒は「商売で誤魔化す者は、我々(ムスリム)の一員ではない」と言われている。 このように使徒は、商売で誤魔化しをしている者を見つけ出して止めさせられ、また市場の商人たちに誠実(idq)と浄財(adaqah)を命じておられたのである。「我々はマディーナの市場で商売をしていたが、我々は「仲介屋(samsirah)」と呼ばれていた。そこにアッラーの使徒が我々の許にやって来られ、我々の自称より良い名(「商人」)で我々を呼ばれました。彼は『商人たちよ、こうした商売には無駄口や誓がつきものだ、それゆえそれを浄財で清めよ』と言われたのでした。」
「ザイド・ブン・アルカムとアル=バラーゥ・ブン・アーズィブは共同経営者だったが、二人で銀を即金と後払いで買った。その報が預言者に届くと、預言者は二人に、『即金で買った分は追認し、後払いで買ったものは返却せよ』と命じられた。」
こうしてアッラーの使徒は後払いのリバー(利子取引)を禁じられた。これらはすべて市場監督の裁判である。
共同体の権利を害する違反を裁く裁判を「市場監督(isbah)」と呼ぶことは、イスラーム国家に特有の専門用語であり、つまりそれは商人、職人などの商売、労働、生産、計量などにおいて共同体に害を及ぼす誤魔化しがないかの監督である。二人に後払い(の利子取引)を禁じられたアル=バラーゥ・ブン・アーズィブのハディースに明らかなように、こうしたことを預言者は説明し、命じ、その裁定に人を任じられたのである。またイブン・サアドの『大列伝』、イブン・アブド・アル=バッルの『全書』に記されているように、アッラーの使徒はサイード・ブン・アル=アースをマッカ征服後、マッカの市場の監督官に任じられた。それゆえ、市場監督の典拠はスンナなのである。
 またウマル・ブン・アル=ハッターブは彼の部族の女性アル=シファーゥ・ウンム・スライマーン・ブン・アビー・ハスマを市場の裁判官、つまり市場監督裁判官に任命し、アブドッラー・ブン・ウトゥバをマディーナの市場監督に任命した。これはマーリク(マーリーキー法学祖、ハディース学者、795年没)が『踏み均された道(al-Muwaa)』、アル=シャーフィイー(シャーフィイー派法学祖、ハディース学者、820年没)が『遡及伝承集(al-Musnad)』に収録している。またウマルは預言者が為されていたように、自分自身でも市場監督の裁判を行い、市場を巡回していたのである。アル=マフディー(アッバース朝第3代カリフ在世775-785年)の治世までは、カリフは自ら市場監督を行っていたが、彼は市場監督に特化した機関を創設し、それは司法機関の一部になった。アル=ラシード(アッバース朝第3代カリフ在世786-809年)の時代には市場監督官は市場を巡回し、計量の誤魔化しを検査し、商人の商売を監督していた。
 行政不正裁判と呼ばれる裁判の典拠は、至高者の御言葉「お前たちが何かで争うなら、それをアッラーと使徒の許に持ち込め」(4章59節)である。この句は「信仰する者よ、アッラーに従い、使徒と汝らの中の権威ある者に従え」(4章59節)の句に後続している以上、臣民(rayah)と権威の間の紛争も、アッラーとその使徒、つまりアッラーの裁定に持ち込まなくてはならないのである。そしてそれにはこの紛争を裁く裁判官の存在が必要となるが、それが行政不正裁判官なのである。なぜなら行政不正裁判の定義は、人々とカリフの間の問題の裁定が含まれているからである。
 また使徒の言動も行政不正裁判の典拠である。但し、使徒は、国家の領域内のどこにも、行政不正裁判に特化した裁判官は任命されなかった。同様に正統カリフたちも同じ道を辿り、自分たち自身で行政不正裁判を行った。アリー・ブン・アビー・ターリブもそうであったが、特にそのための時間を決めていたわけでもなく、特別な手続きも定めず、不正が生じた時に、職務の一部として場当たり的に対応していたのである。その状態はウマイヤ朝第5代カリフ・アブドルマリク・ブン・マルワーンの治世まで続いたが、彼が行政の不正のために特別な時間と手続きを設け、そのために特定の日を定めた最初のカリフとなった。彼は自ら不正を取り調べたが、難しい問題は、その裁判官にまわしてそれを裁かせた。それからカリフは自分に代わって人々の間の不正を取り調べる代行者たちを置くようになり、不正の取調べための機関が設置されることになった。当時それは「正義の館」と呼ばれた。行政の不正の裁きに特化した裁判官を任命することは許される。なぜならカリフは、自分自身に許されていることなら何事でも、自分に代わってそれを行う代行者を任命することが許されているからである。またそれに特化した日時と手続きを決めることも、許容事項(mubt)に属するので許されるのである。

裁判官の資格条件:
 裁判官にはムスリム、自由人、成人、正気、義人、そして現実にイスラーム法の規定の何が当てはまるかを理解できることが資格条件となる。行政不正裁判を司る者は、それに加えて司法長官と同じく、男性であること、独自の法判断ができる学識者(ムジュタヒド)であることが条件となる。なぜならその職務は裁判に加えて統治であり、行政不正裁判官は統治者を裁き、統治者に対して聖法を執行するので、裁判官の他の資格に加えて男性であることが条件となる。また通常の裁判官の資格としては法学者であればよかったが、行政不正裁判官はそれだけではなく独自の法判断ができる学識者(ムジュタヒド)でなくてはならない。なぜなら行政不正裁判官が裁く不正には、聖法上の典拠がないか、典拠とした聖法が当該事件に当てはまらないかで、統治者がアッラーの啓示に則らずして裁いたことが含まれるが、こうした不正は、「独自の法判断ができる学識者(ムジュタヒド)」にしか裁くことができないからである。「独自の法判断ができる学識者」でない者が無知によって裁くことは、禁じられており、許されない。それゆえ行政不正裁判官には、統治者の資格条件、裁判官の資格条件に加えて、「独自の法判断ができる学識者(ムジュタヒド)」であることが条件となるのである。
 
裁判官の任命
使徒の為されたことに基づき、裁判官、市場監督官、行政不正裁判官は、全国の全ての訴件に対しての一般的任命によって任命されることも許され、また特定の場所で特定の種類の訴件についてのみ任じられることも許される。使徒はアリー・ブン・アビー・ターリブをイエメンの裁判官に任じ、ムアーズ・ブン・ジャバルをイエメンの地方の裁判官に任じたが、アムル・ブン・アル=アースには1件の訴訟についてのみ裁かせたのである。

裁判官の俸給
 アル=ハーフィズ(イブン・ハジャル・アル=アスカラーニー)は『神佑』の中で「『俸給rizq』とは、『イマームが国庫からムスリムの福利厚生を行う者に支給するもの』である」と述べている。裁判は国庫から俸給を受け取るに値する仕事の一つである。それは国家がムスリムの福利厚生のためにそれを行うように彼ら(裁判官)を雇用する仕事なのである。そしてムスリムの福利厚生のために、国家が聖法に則ってそれを行う者を雇う仕事は全て、それを行う者は、それが崇神行為であろうと、なかろうと、その賃金を受け取る権利がある。その典拠は、アッラーが、「それに従事する者」(9章60節)と言われ、浄財の徴税吏に浄財を配分されているからである。
「何であれ我々が誰かを雇ってその者に俸給を決めたなら、俸給を得た後で彼が得たものは、欲得である。」(ハディース)
アル=マーワルディーは『網羅(al-w)』の中で以下のように述べている。
「裁判は国庫から俸給を得ることが許される仕事に含まれる。なぜならアッラーが、『それに従事する者』(9章60節)と言われ、浄財の徴税吏に浄財を配分されているからである。またウマルはシュライフを裁判官に任じ、彼に毎月100ディルハムの俸給を払ったからである。カリフ位がアリーに移ると、アリーは彼の月給を500ディルハムに増額された。またザイド・ブン・サービトは裁判で俸給を受け取った。」
 またアル=ハーフィズ(イブン・ハジャル・アル=アスカラーニー)は『神佑』の中で以下のように述べている。
「アブー・アリー・アル=カラービースィーは、『預言者の直弟子とその後の世代の学識者全員の見解として、裁判官が裁判で俸給を得ることに問題はない。そしてそれは諸地方の法学者の見解でもあり、彼らの間に私は異論を知らない。確かに一部の者たちはそれを忌避しており、その中にはマスルークがいる。しかそれらの者たちの中でそれを禁じている者を私は誰も知らない』と述べている。イブン・クダーマ(ハンバリー派法学者、1223年没)も『大全(al-Mughn)』の中で「ウマルはムアーズ・ブン・ジャバルとアブー・ウバイダをシリアに派遣した時に、彼らに『お前たちの許にいる者たちの中の義人を探して、裁判官に任用し、彼らを優遇し、彼らに俸給を、アッラーの財(国庫)から支給せよ』と書き送った」と述べている。

法廷の組織構成
 裁判の判決の権限を有する一人の裁判官以外で法廷が構成されることは許されない。彼の他に、一人以上の裁判官が臨席することは許される。しかし彼らに判決の権限はなく、ただ協議、意見表明の権限を有するのみで、彼らの見解は拘束力を持たない。
 それは使徒が1件の訴訟で2人の裁判官を任命されたことは一度もなく、1件の訴訟につき一人の裁判官を任命されたからである。また裁判とは強制を伴う聖法の判断の宣告であるが、ムスリムにとって聖法の判断は一つであり、複数とはならない。それはアッラーの規定であり、アッラーの規定は一つだからである。確かに、その解釈は複数になることもあるのも事実である。しかし実際に行われるべきものということでは、ムスリムにとってそれは一つでしかなく、決して複数にはなりえないのである。裁判官が訴訟で強制を伴う聖法の判断を宣告する時、この宣告は唯一でなければならない。なぜならそれは本質においてアッラーの規定の執行であり、アッラーの規定は、その解釈が複数に分かれることがあっても、それが実行される時には唯一であり、複数とはなりえないからである。それゆえ1件の訴訟において、つまり一つの法廷において、裁判官が複数となることは許されない。
 全ての訴訟において、一つの地方であるが、人の場所に、別個の二つの法廷がある場合、それは許される。なぜなら裁判はカリフの代行であるので、代理委任(waklah)に準じて、複数になることが許されるのである。また一つの場所に複数の裁判官がいることも許される。一つの場所で、訴人たちの間で、2人の裁判官のどちらを執るかで争いが生じた場合は、原告の側が優先され、原告が望む裁判官がその訴訟を担当する。なぜなら原告は権利請求者であり、それゆえ原告が被請求者(被告)に勝るからである。
 裁判官は、法廷の座でしか判決を下すことは許されない。証拠証言も誓言も法廷の座以外では有効とは看做されない。その典拠は「アッラーの使徒は、2人の訴人は判事(kim)の前に座るように裁定された」とのハディース である。このハディースは裁判が成立する形式を明らかにしている。そしてそれはそれ自体が聖法で定められた形式である。つまり、裁判が成立する特定の形式が存在しなくてはならないのであり、それは2人の訴人が判事の前に座ることである。「アッラーの使徒がアリーに『2人の訴人がお前の前に座ったなら、最初の者の言い分を聞いたように、他方の言い分を聞くまでは発言してはならない』と言われた」とのアリーが伝えるハディースもそれを支持している。またそれは「2人の訴人がお前の前に座ったなら」との言葉で特定の形式を示しているのである。それゆえ法廷は裁判の成立条件であり、アル=ブハーリーがアナスから伝える「誓言は被告に課される」との使徒の言葉にある誓言の有効性の条件でもある。原告にここで言われること(誓言)が求められるのは、法廷において以外はない。アル=バイハキーの伝える「証拠は原告に課され、誓言は被告に課される」との使徒の言葉にある証拠も法廷でしか有効ではない。被告がここで言われること(証拠提出)を求められるのも、法廷において以外はないのである。
 裁判の種類に関して、裁判所に複数のレベルがあることは許され、一部の裁判官に一定期間、特定の訴件を任せ、それ以外の訴件を別の裁判所に委ねることも許される。
 それは、裁判はカリフの代行であり、それは代理委任と全く同じで、いかなる相違もないからである。それは代理であり、代理は不特定であることも、特定されていることも許される。それゆえ裁判官はある裁判官(甲)を特定の訴件について任命し、他の訴件については(代理委任を)拒むことも許され、また別の裁判官(乙)を別の訴件に任命することも許され、また同じ場所であっても最初の裁判官(甲)が任命された同じ訴件に任命することも許される。それゆえ第一世代のムスリムたちの間で存在したように、法廷のレベルが複数存在することは許される。
アル=マーワルディーは『統治の諸規則(al-Akm al-Sulaiyah)』の中で以下のように述べている。
「アブー・アブドッラー・アル=ズバイリーは言った。『バスラの我々の指揮官たちは一定の期間、裁判官を大モスクに勤務させ、「モスク付裁判官」と呼んでいた。200ディルハムと20ディーナール、あるいはそれ以下で裁判を行い、必要経費を課した。彼はその場を外れることも、決められた金額を超えることもなかった。』」
使徒はアムル・ブン・アル=アースに彼の代行を委ねたように、1件の訴訟のみの裁判に彼の代行を任じたこともあれば、アリー・ブン・アビー・ターリブにイエメンでの裁判を代行させたように、ある地方の全ての訴訟での裁判の代行を任命することもあった。それは裁判を限定することが許されるのと同じく、その一般化も許されることを示しているのである。
 破毀院、控訴院もない。裁判は決定のレベルにおいては単一であり、裁判官が判決を下せば、その判決は執行される。それを他の裁判官の判決が破棄することはありえない。イスラーム法原則に「イジュティハード(独自の法判断)は同格の判断を破棄しない」とある通りである。どのムジュタヒドにも他のムジュタヒドに対する論駁はない。それゆえ他の裁判所の判決を棄却する裁判所の存在は有効ではない。
 但し裁判官が、イスラーム法の法規定を捨てて、不信仰の法規定で裁いたか、クルアーンか、スンナか、預言者の直弟子たちのコンセンサスの確定的な明文に反する裁定を下すか、あるいは故意の殺人で同害報復刑の判決を下したところが、真犯人の殺人犯がみつかったなどの事実と異なる判決を下したような場合には、裁判官の判決は破棄される。
それは「われわれのこのこと(宗教)に本来そこになかったものを捏造した者は否定される」とのハディース による。またジャービル・ブン・アブドッラーは「男が女と姦通をした。そこで預言者の命令で彼は鞭で打たれた。その後でその男は既婚者であると判明した。そこでその男は預言者の命令で石打に処された。」と伝えており、マーリク・ブン・アナスは、以下の話を伝え聞いたと伝えている。「ウスマーンの許に6か月で出産した女性が連れてこられたが、ウスマーンは彼女を石打にするように命じた。するとアリーが彼に「彼女に石打はない。なぜなら至高なるアッラーは『妊娠と離乳は30か月』(46章15節)と言われ、また『母親は授乳の全うを望む者には、彼女らの子を満2年間授乳する』(2章233節)と言われているので、妊娠は6か月であることになり、それゆえ彼女には石打はない。」と言った。そこでウスマーンは彼女の釈放を命じた。」
 アブドッラッザーク(al-ann, ハディース学者、827年没)はアル=サウリー(Sufyn, ハディース学者、法学者、778年没)が「もし裁判官がクルアーンか、スンナか、コンセンサスの成立していることに反する判決をくだしたら、彼の後の裁判官がそれを棄却する。」と述べたと伝えている。
 そしてこれらの(誤った)判決を棄却する権限を有しているのは行政不正裁判官なのである。

市場監督官
 市場監督官とは、法定刑の課される罪や傷害・殺人の範疇には入らないが、公共の権利にかかわり、しかし原告がいないような、全ての問題を司る裁判官である。
 これが市場監督裁判官の定義であり、山積みにされた食物のハディースから取ったものである。使徒は山積みにされた食べ物の湿気を感知し、人々が見えるように、それを山の表面に置くように命じられた。これは人々に共通する権利であり、使徒はそれを視察し、誤魔化しがなくなるように、湿った食べ物を山の表面に置くように裁定されたのである。これはこの種の全ての権利を含んでいるが、法定刑犯罪、傷害・殺人罪は含まない。なぜならそれらは本来、人々の間の争いであり、この範疇には入らないからである。 

 市場監督官の権限
 市場監督官は法廷を開廷することなくいかなる場所でも違反に気付いた現行犯でその違反を裁くことが出来る。市場監督官はその命令をその場で執行するために配下に複数の警察官を従える。
 市場監督官は訴訟を司るために法廷を要さず、違反の存在を確認さえすればそれを裁くことができる。市場監督官は、市場であれ、民家であれ、乗り物の上であれ、戦場であれ、昼夜を問わず何処でも何時でも裁く権限を有する。なぜならば訴訟を司るのに法廷が条件となることを論証する典拠は市場監督官には当てはまらないからである。裁判に法廷が条件となることを証明するハディースは「2人の訴人が判事(kim)の前に座る」、「2人の訴人がお前の前に座ったなら」と述べているが、こうした条件は市場監督の裁判官には存在しないのである。なぜならば市場監督の裁きにはそもそも原告と被告がおらず、公共の権利の侵害か、あるいは聖法の違反があるだけだからである。また使徒は山積みの食べ物を視察した時には、市場を巡回中であったが、その食べ物が売り物として山積みされているのを見聞したのであり、その持ち主を彼の許に召喚したりはせず、違反を見つけたその場で裁きを下されたのである。これは市場監督の裁判が法廷を必要としない典拠なのである。
 市場監督官には、市場監督官の資格条件を備えた代行者を選任し、様々な方面に配属する権限を有する。こうした代行者たちには、その委任された問題について、任命された地域、地区内で、市場監督の任務を遂行する権限が与えられる。
 但しこれは市場監督官の任命の時点で、その任命に代行任命権、つまり後任指名(istaikhlf)権の授与が含まれていた場合である。もし彼に後任指名権、つまり代行任命権が与えられていなければ代行の任命の権限はないのである。 

行政不正裁判官
 
 行政不正裁判官とは、臣民(rayah)であれ、「非―国民」であれ、国家権力下に暮らす個人が、カリフであれ、それ以下の為政者や公務員であれ、国家から蒙った不正の除去のために設けられた裁判官職である。
 以上は行政不正裁判官の定義であるが、行政不正裁判官の典拠は、預言者が為政者が不当に行った行為を不正と呼ばれたと伝える以下ハディースである。
「使徒の治世に物価が上昇し、人々が『アッラーの使徒よ、物価統制をされてはどうでしょう』と言うと、使徒は言われた。『アッラーこそ、物価を創造し、高め、低くし、恵まれる御方である。私は、(楽園で)アッラーに見える時、血についでであれ、財産についてであれ、私がその者に不正を為したと誰も訴えないことを望む。』と言われた。」
使徒は物価統制を不正(malimah)と呼ばれた。なぜなら、もしそれを行えば、彼に権利のないことを行ったことになるからである。同様に国家が人々の福利厚生のために計らった公共的諸権利に関して生じた諸問題の不正の処理は行政不正裁判の管轄となる。
 もし人々の公正福利のために何らかの行政の制度を設けたところ、臣民(rayah)の誰かがその制度によって不正を蒙ったと訴えるなら、その訴件は行政不正裁判の管轄となる。なぜならそれは国家が人々の福利厚生のために設けた行政によって生じた不正だからである。
例えばそれは、公共の水を国家が設置した水車で農業の潅漑のために引いた場合に生じた不正のようなケースである。その典拠は、あるマディーナの「援助者」の一人が、国家の潅漑によって蒙った不正についての以下のハディースである。それは潅漑用水を一人、一人、順番に農地に流す、という制度であったが、その「援助者」は、アル=ズバイルが、彼の農地に水を遣る前に、自分の農地に水を流すことを望んだ。それはその用水路がアル=ズバイルの土地に先に通っていたからであるが、アル=ズバイルはそれを拒んだ。そこでこの問題はアッラーの使徒の許に持ち込まれたが、使徒は、先ずアル=ズバイルが自分の農地に軽く水を引いた後にその「援助者」の隣人に水を回すようにと(つまり、アル=ズバイルがその「援助者」を助けるために水車に一杯の水を取らないようにと)、と2人の間を裁定した。しかしその援助者はその裁定に満足せず、アル=ズバイルの潅漑の前に自分の農地に水が流れることを望んだ。そしてアッラーの使徒に、彼のその裁定がアル=ズバイルが自分の従兄弟であるから(身内を贔屓したのだ)と言った。(それはアッラーの使徒に対する重大な不敬であったが、使徒はその「援助者」がバドルの戦いに参加した古参の信者であったために、その発言を赦された)
そこで使徒はアル=ズバイルが潅漑における彼の権利を全うすること、それは水が、塀の土台、つまり側壁、あるいは木の根元に達するまで水を引くようにと裁定した。(学者たちは、その意味を「人のくるぶしまで水が達するまで」と解釈している)。
それゆえ上述のこの二つのハディースから理解されるように、統治者によるものであれ、国家機関とその命令によるものであれ、誰が蒙った不正であれ、不正行政とみなされ、その件は、その不正の解決のために、カリフか、カリフがその代行を委任した行政不正裁判官に訴えることができる。

行政不正裁判官の任命と罷免
行政不正裁判官はカリフ、あるいは司法長官によって任命される。なぜなら行政不正裁判は裁判、つまり強制を伴う聖法の判断の宣告であり、既述の通り使徒が全ての種類の裁判官を任命されていたことから、全ての裁判官はカリフによって任命されることになるからである。それゆえカリフが行政不正裁判官の任命権者なのであり、司法長官は、カリフによって任命された時点で行政不正裁判官の任命を認めた場合、その任命が許される。
首都にある最高行政不正裁判所はカリフ、大臣、司法長官に対する訴件のみを扱い、行政不正裁判所の地方支部が、地方総督、知事、その他の公務員に対する行政訴訟を管掌すると定めることも許される。カリフは中央行政不正裁判所に、その下にある地方支部の行政不正裁判官の任命と罷免の権限を委譲することも許される。
カリフが首都の最高行政不正裁判所の裁判官たちを任命、罷免する。最高行政不正裁判所長官、つまりカリフの罷免を審査する行政不正裁判官、の罷免に関しては、原則は、他の全ての裁判官の場合と同様に、カリフに任命権と同じく罷免権がある。しかし、もし罷免権がカリフの手にあれば、その権限が禁止事項を導く蓋然性が高い状況が生じうるため、その際には、「禁止事項の誘引となるものは禁止事項である」との法原則が適用されるのである。というのはこの原則には蓋然性があれば十分だからである。
その禁止事項の誘引となる状況とは、カリフ、大臣、司法長官(カリフが司法長官に行政不正裁判官の任命、罷免権を与えた場合)に対する行政訴訟がおこされた場合である。なぜならこの場合に罷免権がカリフの手中にあるなら、その行政不正裁判官の判決に影響し、結果的に行政不正裁判官のカリフとその補佐たちを罷免する権力を制限することになるかもしれないからである。それゆえ罷免権はこの場合には禁止事項への誘引となるので、こうした状況では、罷免権をカリフに与えることは禁止されるのである。
 それ以外の場合には、規定は原則のままとなる。つまり行政不正裁判官の罷免権は任命権と全く同じくカリフが有するのである。

行政不正裁判の権限
行政不正裁判所は国家機関に働く者による不正であれ、カリフによる聖法の規定に対する違反であれ、憲法、法令その他の、カリフが定めたあらゆる政令の立法の文言の解釈であれ、行政法令によって臣民(rayah)が蒙った法益の侵害であれ、不当な税金の押し付けであれ、その他の何事であれ、あらゆる行政上の不正を審査する権限を有する。
行政不正裁判には、法廷の開廷、被告の訴え、原告の存在は条件とならず、行政不正裁判所はたとえ誰からの訴えがなくとも、行政上の不正の審査を開始する権限がある。それは行政訴訟が、国家機関の人間に関わる場合も、カリフの聖法への違反に関わる場合も、立法、憲法、カリフの定めた法令の意味の解釈に関わる場合も、課税に関わる場合も、国家の国民への(rayah)弾圧、暴力による迫害、財産の没収などの不正、公務員や兵士の俸給の不払い、減額、支給遅延などあらゆる場合について同じなのである。(法廷、被告、原告の訴え不要)
なぜなら、行政不正裁判には原告が不要であり、そもそも原告が存在しない以上、訴訟の審議が法廷の存在を条件とする典拠は、行政不正裁判には当てはまらないからである。行政不正裁判所は、誰も訴える者がいなくとも、また被告が出廷する必要もないので、被告がいなくとも、行政の不正を審査する。なぜなら行政不正裁判所は行政上の不正を精査するのであるから、裁判に法廷の存在が条件となる典拠であるハディース「アッラーの使徒は、2人の訴人は判事の前に座るように裁定された」 と「2人の訴人がお前の前に座ったなら」 は行政不正裁判には当てはまらないからである。
それゆえ行政不正裁判は場所にも時間にも法廷にもその他の何物にも縛られるとなく、全く無制限に、行政の不正を審査することが出来る。但し行政不正裁判所の権限の格の高さに鑑み、それなりの威厳が保たれる必要がある。エジプトとシリアでは王侯たちの時代には、行政不正裁判はスルターンの宮廷で行われ、「正義の館」と呼ばれ、スルタンの代行者たちを従事させ、裁判官や法学者たちが臨席した。アル=マクリーズィー(歴史家、1441年没)は『王たちの国の知識への道(al-Sulk il Marifah Duwal al-Mulk)』の中で、「スルタン・アル=サーリフ・アイユーブ王(アイユーブ朝初代スルタン在位1169-1193年)は、行政上の不正を取り除くために、『正義の館』に公証人、裁判官、法学者たちと共に、自分の代行者たちを召集した」と述べている。それゆえ、行政不正裁判所に、壮麗な部屋を作ることに問題はない。なぜならそれは許されたことであり、特にそれによって正義の重大さが際立つならそうなのである。

カリフ制が再興される以前の契約、商行為、訴訟
カリフ制が再興される前に確定し、執行された契約、商行為、訴訟の判決は、その当事者の間で有効に成立し、カリフ制の樹立以前に執行済みであると看做され、カリフ制の下での裁判により覆されることはなく、蒸し返されることもなく、また同じ訴件がカリフ制の樹立後に再度受理されることもない。
但し、以下の2つの場合は例外となる。
(1) 確定し執行済みの件であっても、それがイスラームに反する悪影響を将来まで持続的に及ぼす場合。
(2) その件が、イスラームとムスリムに害を為す者にかかわっている場合。
上記の2つの場合を除いて、カリフ制が再興される前に確定し、執行された契約、商行為、訴訟の判決が、覆されず、再考されないのは、使徒が(イスラーム以前の)無明(ジャーヒリーヤ)時代の商行為、契約、訴訟などを、彼らの居住地が「イスラームの家」に転化した時に、破毀されなかったからである。使徒はマッカの征服後も、かつてそこを捨てた町(マッカ)に戻らなかった。アキール・ブン・アビ-・ターリブ(預言者ムハンマドの従兄弟)がクライシュ族の慣習法に従って、イスラームに入信してマディーナに亡命した預言者の親族たちの家屋を相続し、それを処分し、売却しており、その中には預言者自身の家も含まれていた。そしてその(マッカを征服)の時、預言者は「どこに宿泊されますか?」と尋ねられ、「アキールは我々に住まい(rib)を残しているか?」と聞き返された。  
アキールは既にアッラーの使徒の家を売ってしまっていたが、使徒はそれ(我が家の売却)を取り消されなかったのである。
またアブー・アル=アース・ブン・アル=ラビーウは、彼の妻がアッラーの使徒の娘のザイナブで先にイスラームに入信しバドルの戦いの後でマディーナに亡命していたが、彼はまだその時点では多神教徒のままでマッカに留まっていたが、遅れて自分もイスラームに入信しマディーナに亡命した時、使徒は無明時代に結んだ婚姻契約を追認し、婚姻契約を新たに結びなおさせることなく、妻で自分の娘のザイナブを彼に返された。イブン・マージャはイブン・アッバースから「アッラーの使徒は、娘のザイナブを最初の婚姻から2年後にアブー・アル=アース・ブン・アル=ラビーウに返された」と伝えているが、それはアブー・アル=アースが入信した後のことであった。
 イスラームに反し継続的な悪影響のある問題の再考に関しては、使徒は彼らがイスラーム国家に住むようになった後では、残っていた利子を帳消しにして、元金だけを彼らに残した。つまりイスラームの家の成立後は、彼らに残っていた利子は無効にされたのである。
「『別離の巡礼』でアッラーの使徒は『無明時代の利子のうちの全ての利子は無効となった。お前たちには資本金は残る。お前たちの誰も不正をはたらかず、不正を蒙ることもない』言われた。」
また同様に無明時代の慣習法で4人以上の妻と結婚していた男たちはイスラームの家の後には4人のみに止めるようになった。
「ガイラーン・ブン・サラマ・アル=サカフィーが10人の妻と共にイスラームに入信した時、預言者が彼に彼女らの中から4人を選ぶようにと命じられた」(ハディース)
イスラームに反する継続的な悪影響がある契約については、カリフ国家が樹立されればその悪影響は除去されなくてはならない。その除去は義務なのである。たとえば、もしムスリム女性がイスラーム入信前にキリスト教徒であったとすれば、カリフ国家の樹立後には聖法に則り、この契約は取り消される。
 イスラームとムスリムを害する者に関わる問題については、使徒はマッカを征服された時、無明時代にイスラームとムスリムに害をなしていた数人の処刑を許された。
「イスラーム入信によっても、それ以前になしたことは義務である」とのハディース があるにもかかわらず、カアバ神殿の外布にしがみつこうとも彼らは処刑されるとして、処刑を許されたのは、イスラームとムスリムを害する者がこのハディースの規定の例外として除外されるからである。
しかし使徒は彼らの中でもイクリマ・ブン・アビー・ジャハルを赦された。後に彼らの一部を赦されたことから、カリフはこれらの者については再考することも、赦すことも出来るのである。これは、真理の言葉を口にしたムスリムを迫害したか、イスラームを誹謗した者に当てはまる。なぜならそれらの者には「イスラーム入信によっても、それ以前になしたことは義務である」とのハディースは当てはまらず、彼らはそこから除かれるからである。それゆえカリフが適当とみなすなら、彼らの問題は再考に付されるのである。
これらの2つの場合以外には、カリフ制樹立以前の契約、商行為、判決は、カリフ制樹立前に確定され、執行が終わっている限り、取り消されることもなく、再考されることもないのである。
たとえば学校の門を壊した容疑で2年の入牢の判決を受けて、カリフ国家樹立以前にその2年の刑期を終えて出所していた者が、カリフ国家樹立後に、自分は入牢は不当であると考え、彼に入牢の判決を下した者を訴えても、その訴えは棄却される。なぜならカリフ制樹立以前に裁判は行われ、判決が下され、それは既に執行されたのであるから、彼の問題はアッラーに委ねられるのである。
一方、10年の入牢の判決を受け、刑期が2年経った時点でカリフ制度が樹立された場合、カリフにはその件を取り扱うことができ、(1)刑罰を完全に取り消し無罪放免にするか、(2)あるいは経過分のみを追認する、つまり判決が2年の刑であったとして釈放するか、(3)残りの判決については、臣民(rayah)にとって有益な聖法の規定が適用され、特に個人の権利に関わる問題であった場合には、人間関係の改善に役立つ聖法の規定が適用されるような判断を下すかのいずれも許される。

10.行政機関(国民福祉)
 国事行政、国民福祉は、国事を担当し人々の福祉を実現する諸官庁、諸局(dawir)、諸部(idrt)が管掌する。全ての官庁(malaah)には事務総長(mudr mm)が任命され、全ての部、局には直接に責任を負ってその行政を司る部、局長を置く。これらの部、局長は、実務においては、彼らの属する官庁、部局の事務総長に対して責任を負い、一般法規や規則の遵守面においては総督や知事に対して責任を負う。
 かつてアッラーの使徒は、諸官庁を自ら管掌する一方、その行政の書記を任じていた。使徒はマディーナで人々の福祉を司り、諸事の世話をし、問題を解決し、人間関係を調整し、需要を満たし、それらにおいて彼らの状況が改善されるように導かれていた。これらは全て人々の生活を問題、支障なく安楽にするための行政なのである。
教育に関しては、アッラーの使徒は戦利品としてのムスリムの財産となった不信仰者の捕虜の解放にあたって身代金の代わりに、10人のムスリムの子弟の教育を課された。教育の保証は人々の福祉の一部であった。
医療に関しては、アッラーの使徒に医者が贈られたが、彼はその医者をムスリムたちのために提供された。アッラーの使徒が、贈り物としてもらった医者を(売ったり賃貸ししたり)処分もせず、侍医ともせず、ムスリムたちのために提供されたことは、医療がムスリムの福祉の一部であった典拠である。
労働問題については、アッラーの使徒は、ある男に、人々に物乞いをして貰ったり、断られたりする替わりに、紐と斧を買って薪を集めて人々に売るように指導された。
「『援助者』の一人の男が預言者の許にやって来て物乞いをした。預言者は『お前の家に何かないか』と尋ねられた。男は『はい、一部を着たり、一部を敷いたりする布と、器があります』と答えた。そこで預言者は『それらを私に持って来なさい』と言われ、男はそれらを持参した。アッラーの使徒はそれらを手にされ『誰かこれらを買う者はいないか』と言われた。ある男が『私がそれを2ディルハムで買います』と言ったので、使徒はそれらを彼に与え2ディルハムを受け取り、それを件の『援助者』に渡され、『1ディルハムで家族に何か買い与えなさい。そして残りの1ディルハムで手斧を買ってそれを持ってきなさい』と言われた。そして彼が手斧を買って持ってくると、アッラーの使徒は自らの手でそれに柄を付けられ、そして『行って、薪を集めて、売りなさい。私は今後、15日間、お前には会わない。』と言われた。そして彼はそれを実行し、10ディルハムを儲けてやって来たのであった。」
道路問題では、アッラーの使徒はその治世に、紛争が生じた場合は、道路の幅を7腕尺にして、道路の整備をされている。
「預言者は通り道について人々が争った時には、7腕尺と裁定された」(ハディース)
それは当時にあっては道路整備行政であった。シャーフィイー派の見解にあるように、必要があれば、より大きくても構わない。
また使徒は道の侵害を禁じられている。
「ムスリムの公道を1指尺でも奪う者には、復活の日、アッラーは7つの地をその首に巻きつけ給う」(ハディース)
農業に関しては、アル=ズバイルとある「援助者」の男が、二人の土地を流れる水路の潅漑で争った時に、使徒は「ズバイルよ、先ず水を引き、それからお前の隣人に水を流してやれ」と言われている。
 このように、使徒はムスリムの福祉を司り、その行政問題を、易しく簡単に解決され、そのために時には直弟子たちの手を借りられた。その後、人々の「福祉(mali)」は、カリフが管掌するか、そのためにそれを担う有能な事務長を任命する(国家)機関となった。そしてそれが我々の決定でもあるが、それはカリフの重責を軽くするためである。特に、福祉が多様化、増大したので、人々の福祉のための機関が創設される。その機関は、有能な事務長が臣民(rayah)の暮らし易い方法と手順で運営し、煩雑でなく簡単で容易に必要なサービスを十分に提供するのである。
 この機関は諸官庁、諸局(dawir)、諸部(idrt)で構成される。官庁 (malaah)は最高行政府であり、国籍管理、運輸、貨幣鋳造、教育、保健、農業、労働、道路など国家のあらゆる公益を司る。この官庁は、官庁自体の行政及び、下位の部局の行政を管掌する。局は局自体及び、下位の部の行政を管掌する。部は部自体及び、下位の支部(fur)や係(aqsm)の行政を管掌する。
 これらの官庁、部局は、あくまでも国事を担当し、人々の福祉を実現するために創設される。これらの官庁、部局の運営を保証するためには、その責任者の任命が必要である。全ての官庁にはその官庁の諸事を直接管掌し、下位の全ての部局を監督する事務総長が置かれる。全ての部、局には、その部、局には直接責任を負い、下位の支部(fur)や係(aqsm)にも責任を負う事務長が置かれる。

行政機関は行政の統治に非ず
 行政機関とは、行為の実行の方策の一つ、手段の一つでしかなく、特別にその根拠を要しない。その基礎を示す一般的根拠で十分である。これらの方策は人間の行為であるので、聖法の規定に則って機能しないと有効ではない、とは言われない。そうは言われないのである。なぜならばこれらの聖法の典拠は、その基礎を一般的に示しており、それがそこから派生する諸行為を含んでいるのである。但しその基礎から派生する行為の聖法の典拠があるなら、その時、それはその典拠に従属するのである。例えば、至高者は「浄財を納めよ」(2章83節他多数)と言われている。これは一般的典拠である。そして、浄財の義務が生ずる資産最低額、浄財徴税、浄財のかかる資産の種類などのそこから派生する諸行為の典拠が来る。これらは全て「浄財を納めよ」との聖句からの派生である。しかし浄財徴税吏の浄財の具体的徴収方法の詳細については、騎乗で行くのか、徒歩で行くのか、手助けに賃労働者を雇うのか、それを帳簿に計算、記入するのか、彼らに集合場所を決めておくのか、彼らが徴収した浄財を置く貯蔵庫を設けるか、これらの貯蔵庫は地下に作られるか、あるいは穀倉のように地上に建てられるのか、通貨の浄財は袋によって徴収されるのか、箱によってなのか、などは「浄財を納めよ」の派生であるから、その一般的典拠(「浄財を納めよ」)に全て含意されているのである。なぜならそれらに関する特定の典拠はないからである。方策は全て同様なのである。つまり方策とは、一般的典拠が示されている基礎となる行為の派生的行為で、この派生的行為には特に典拠は示されていないが、その基礎となる行為の典拠がその(派生的行為の)典拠なのである。
 それゆえ行政の方策は、特定の行政の方策の禁止を示す個別のクルアーン、スンナの明文のテキストがない限り、いかなる制度を採用しても構わない。行政機関の仕事の効率化と、人々の福祉の実現に適しているなら、それ以外の行政の方策は採用できるのである。なぜならば行政の方策は聖法の典拠を要する統治ではないからである。それゆえウマルは兵士と臣民(rayah)に恩賞や報償などの公有財や国家財を分配するために、彼らの名前の登録のために登記庁制度を採用したのである。
「ウマルは登記簿の記帳についてムスリムたちに諮問したが、アリー・ブン・アビー・ターリブが『毎年、あなたの許に徴収された富を分配し、そこから何も取ってはならない』と言い、ウスマーン・ブン・アファーンは『私は富は人々に十分にあると思います。もし受け取った者とまだ受け取っていない者が区別できるように記録していなければ、混乱が生ずるのでは、と懸念します』と言った。そこでアル=ワリード・ブン・ヒシャーム・アル=ムギーラが『私はかつてシリアに居たが、そこの王たちが登記簿に登記し、兵士を徴兵しているのを見ました。それゆえ登記簿に登録し、兵士を徴兵してください。』と言った。ウマルはアル=ワリードの意見を採用し、アキール・ブン・アビー・ターリブ、マフラマ・ブン・ヌファイル、ジュバイル・ブン・ムトイムを呼び出し、『人々を家ごとに書き記せ』と命じられた。」この三人は、クライシュ族の系譜に詳しい者であった。」
 その後、イラクでイスラームが勝利したが、登記庁は、それ以前のままであった。シリアはギリシャ人の王国であったのでシリアの登記庁はギリシャ語が用いられていたが、イラクはペルシャ人の王国であったためイラクの登記庁ではペルシャ語が用いられていた。ウマイヤ朝カリフ・アブドルマリクの治世のヒジュラ暦81年にシリアの登記庁はアラビア語に変わったが、その後、臣民(rayah)の必要に応じて、登記庁の新設が続いた。当時、軍の登記庁は軍籍と俸給を司り、労務の登記庁は税と権利を司り、地方総督と知事の登記庁は任命と罷免を司り、財務の登記庁は収入と支出を司る、といった形であった。当時の登記庁の新設は需要に応じてであり、方策や手段の変化に応じてその法策は時代に応じて異なっていたのである。
 それゆえ官庁の役所、あるいは登記庁と呼ばれるものの新設には必要性が考慮されるのであり、その必要な責務の遂行に役立つ行動の方策、実行の手段は時代毎、地域ごと、国毎に異なってよいのである。
 以上は、官庁、あるいは登記庁の創設についてであった。それらの公務員の責任については、彼らは被雇用者であると同時に「臣民(rayah)」の一人である。彼らは被雇用者である、つまりその職務を遂行する限りにおいて、所属部局の上司、つまり部局長に対して責任を負い、「臣民(rayah)」としては、地方総督、カリフ補佐に対して責任を負い、カリフに対して責任を負い、聖法の諸規定と行政規則に拘束される。

官庁の行政政策
 官庁の行政政策は、制度において簡易、職務遂行において迅速、行政担当者が有能であることを旨とする。それは福祉の現実の実態から引き出される。福祉を望む者はそれが迅速かつ、完全な形で実現することだけを望む。使徒も「アッラーは万事において最善を尽くすことを命じ給うた。殺す時にも最善の殺し方をし、屠る時も、最善の屠殺をせよ」(ムスリムがシャッダード・ブン・アウスから伝えるハディース)と言われている。それゆえ職務遂行に当たって最善を尽くすことは聖法によって命じられているのである。そして福祉の実現における至善の達成には行政部局は、(1)制度における簡易性、(2)仕事の遂行の迅速性、(3)時実務担当者の能力と適正性、の3つの性質を備える必要がある。なぜなら制度の簡易さは手続を簡単で易しくし、複雑さは困難にするからであり、迅速性は、福祉を要する者の便宜となるからである。これらはその職務遂行自体に必要なだけでなく、職務に最善を尽くすためにも不可欠なのである。

行政機関就労資格者
 国籍(tbiyah)と適正を有する者は全て、男女、ムスリム、非ムスリムの区別を問わず、全ての省庁の長官、公務員に任命されることが出来る。
 これは賃契約(ijrah)の規定から演繹される。なぜなら国家の行政官、公務員は、賃契約の規定によると、賃労働者(被雇用者)であり、賃労働者の雇用は、ムスリムであれ、非ムスリムであれ、無条件に許されているからである。これは賃契約の合法性の一般的、無限定的典拠によっている。
至高なるアッラーは「もし彼女たちがお前たちのために授乳したなら、彼女らにおの賃金を支払え」(65章6節)と言われているが、この節は一般的であり、ムスリムに限定していないのである。
「至高なるアッラーは『復活の日に我は3人の者を糾弾する。・・・中略・・・賃労働者を雇い、契約通りに働かせておいて彼にその賃金を払わない者である。』と言われる。」(ハディース)
このハディースも無限定で、ムスリムの賃労働者と限定していない。またアッラーの使徒はアル=ディール族(バクル族の支族)の男と賃契約を結ばれたが、その男は当時まだその部族の宗教(多神教)に従っていた。これもムスリムとの賃契約と同じように非ムスリムとの賃契約が許されることの典拠となる。同様に典拠の一般性、限定の不在から、男性との賃契約が許されるのと同じく、女性との賃契約も許される。女性も国家の行政部局の部局長になることも、公務員になることも許され、また非ムスリムも国家の行政部局の部局長になることも、公務員になることも許される。なぜならそれらは賃労働者(被雇用者)であり、賃労働の根拠は、一般的、無限定だからである。

第11章.国庫
 「国庫(bait al-ml)」とは熟語であり、「国家収入を支出されるまで保管する場所」を意味して用いられることもあり、「ムスリムたちが権利を有する財物を徴収し、支給する権限を占有する機関」を意味して用いられることもある。
 既述の通り、我々は(地方)総督が、軍、司法、財務を除いて、地域を管轄すべきである、と定めた。それに基づき、軍には全体の中央執行機関(ジハード総司令)があり、司法にも、全体の中央執行機関(司法長官)があったが、同様に財務にも全体の中央執行機関があり、それが国庫である。それゆえ国庫は他の国家機関から独立した機関であり、他の国家機関と同様にカリフに直属する。
 加えて、国庫がかつてアッラーの使徒、あるいはカリフ、あるいはその(使徒、カリフ)の許可を得てそれを管掌した者に直属していたことを示す典拠は豊富にある。アッラーの使徒は時に自ら国富を金庫に搬入し、時に財物を受け取り、それを分配し、それを倉庫に入れ、時にそれらの仕事を他者に委任された。同様に使徒の後の正統カリフたちも国庫の管理を自ら執り行ったり、その代行を他者に委ねたりしていた。
以下の3つのハディースにあるように、アッラーの使徒は国富を、モスクに置くか、彼の妻たちの部屋のどこかに置くか、あるいは倉庫に収められていた。
「預言者の許にバハレーンから財物が届けられると、預言者は『それをモスクに置いてきなさい』と言われた」(ハディース)
「私(ウクバが)はマディーナで晩午の礼拝を預言者の背後で行ったが、預言者は礼拝終了の平安の挨拶を済ますと、急いで立ち上がり、人々の頭上を跨ぎ越えて彼の妻たちの部屋のどれかに向かわれた。人々は彼の様子に恐れをなしていた。その後、使徒は人々の間に現れ、彼が急いだことを人々が訝しんでいるのを見て『(礼拝中に)私たちの許に置いてあった砂金のことを思い出したもので、それが私の心を占めるのを嫌って、それを分配してしまうように命じてきたのだ』と言われた」(ハディース)
「私(ウマル)が『アッラーの使徒は何処にいらっしゃるか』と尋ねると、『アル=マシュルバの倉庫におられます』と彼女(ハフサ)は答えた。・・・中略・・・私はアッラーの使徒の倉庫を我が目で見たが、部屋の片隅におよそ手に一杯分ほどの大麦と、同じほどの量のネムリグサの葉と、動物の生皮が掛けられていた。私の両目に涙があふれた。すると使徒は『イブン・アル=ハッターブよ、なぜ泣くのか』と尋ねられた。私は『アッラーの預言者よ、あなたの脇腹にはゴザの跡があり、あなたの倉庫には私が眼にしたものしか見出せないというのに、どうして泣かないでいられましょう』と答えた。」
 正統カリフの治世に、国富が保管される場所が「国庫」と呼ばれるようになった。
「アブー・バクルはアル=スンフに国庫を有していたが、誰も番をする者はいなかった。私が『あれには番人をおかないのですか』と言うと、彼は『あれには鍵がある』と答えた。彼はその中にあるものを空になるまで与えていた。彼がマディーナに移るとそれも移して彼の自宅においた。」
「ある男がウマルのところにやって来て『信徒の長よ、私を乗せて行ってください。私はジハードを望んでいます。ウマルは男に『自分で取りなさい』と言い、彼を国庫に入れ、彼は望むままに取った。』と語った」
「アブー・フザイファの解放奴隷のサーリムは、サルマー・ビント・ヤアールという名の女性の解放奴隷だった。無明時代にサーイバが彼を奴隷の身分から解放した。彼(サーリム)がヤマーマで戦死した時、ウマル・ブン・アル=ハッターブがその遺産を持ってきて、ワディーア・ブン・フザームを呼び、『これはあなたたちの解放奴隷(サーリム)の遺産だ。あなた方がそれに最も権利を有する』と言った。すると彼(ワディーア)は言った。『信徒の長よ、アッラーは我々を豊かにして下さいました。彼をかつて我々の仲間のサーイバが解放しましたが、我々は彼(サーリム)から何も得よう(nand, narza’a)とは望みません。』そこでウマルはそれを国庫に入れた。」
「スフヤーン・ブン・アブドッラー・ブン・ラビーア・アル=サカフィーが皮袋の落し物を見つけ、ウマル・ブン・アル=ハッターブの許に届けた。ウマルは『一年間、それを公示し、落とし主が分かれば彼のものとなり、そうでなければあなたのものとなる』と言ったが、結局(落とし主は)知られなかった。翌年の巡礼で、ウマルは彼にそれを持参し、彼にそれを思い出させて『これはあなたのものだ。アッラーの使徒はそれを我々に命じられた(落とし物は1年の公示の後に落とし主が分からなければ拾い主に渡すこと)』と言った。彼が『私はそれを要りません』と言うと、ウマルはそれを取って、国庫に入れた。」
「ウスマーンの時代に、アリーの解放奴隷が死んだが、彼には後見人がいなかった。そこでウスマーンの命令で、彼の遺産は、国庫に入れられた。」
「アリーは国庫が殻になるまで財物を分配し、それからそれを水で洗い、そこに座りました」
以上が「場所」を指す第一の用語法である。
第二の「機関」を指す用法の根拠は、倉庫で保管できない財もあることである。例えば、土地、井戸、石油、ガス、鉱山、あるいは国庫に編入せず、直接有資格者に分配された富裕者から徴収した浄財などである。「国庫」の語は時に、「場所」を意味することは不可能な「機関」の意味で用いられてきた。
「(カリフ・ウマルは)イブン・マスウードを裁判と国庫に派遣した」 と伝えられているが、ウマルがイブン・マスウードを国庫の門番に任命したということはありえない。それは受け取り、支給する機関を意味するしかない。
イブン・アル=ムバーラク(ハディース学者、797年没)が『禁欲(al-Zuhd)』の中で以下のように伝えているのも、この意味、つまり「機関」としての「国庫」である。
「アル=ハサンからバスラの司令官たちがアブー・ムーサー・アル=アシュアリーと共にやって来てウマルに彼らに食べ物を分けてくれるように頼んだ。そこでウマルは最後に『司令官たちよ、私はあなたがたに国庫から羊2頭と麦2ジャリーブを分け与える』と言った。」
国庫の収入と支出の処分権者はカリフである。アッラーの使徒は「苦難の軍」へのウスマーンの寄付を自分の家で受け取られた。
「預言者が『苦難の軍』の装備をされているところに、ウスマーンが1000ディーナールを持参し、預言者の家でそれを渡したが、預言者はそれを受け取り、『ウスマーンは今日為したことゆえ、害を受けることはない』と言い、それを何度も繰り返された。」
預言者は時に自分で分配された。
「預言者の許にバハレーンから財物が届けられると『それをモスクに置いてきなさい』と言われた。・・・中略・・・礼拝を終えると、やって来て底に座り、目に入った者全員に分け与えられた。そして彼が立ち上がったとき、わずか1ディルハムが残っただけであった。」(ハディース)
また同様にアブー・バクルもバハレーンから届けられた財物を自ら分配した。
「アッラーの使徒は私に言われた。『もしバハレーンから財物が届いていたなら、お前に、これと、これと、これを与えていただろう。』つまり、3つである。そしてアッラーの使徒が亡くなられて、バハレーンの財物が届くと、アブー・バクルは告知者に命じ、『アッラーの使徒に債権、あるいは約束があった者は我々の許に来なさい』、と呼ばわった。そこで私は彼の許に行き、『アッラーの使徒は、私にこれとこれ、と言われました』と言うと、彼は私に3つをくれました。」(ハディース)
「ウマル・ブン・アル=ハッターブの許にイラクで拾ったものを持参した時、国庫の管理人が彼に、私がそれを国庫に入れましょう、と言うと、ウマルは『カアバ神殿の主にかけて、それが国庫に入れられれば私は即座にそれを分配して決して残さない』と言い、モスクに置かせ、その上に皮布を置き、『援助者』と『亡命者』の男たちがそれを警護した。翌日になると、アル=アッバース・ブン・アブドルムッタリブとアブドッラフマーン・ブン・アウフが彼と共におり、二人のうちの一人の手を取って、あるいは二人のうちの一人が彼の手を取り、それを見て、皮布をめくると、それまで見たこともない光景を見た。その中には金、サファイア、トパーズ、真珠が輝いていた。するとウマルが泣き出した。そこで二人のうちの一人が彼に『アッラーにかけて、今日は泣く日ではなく、感謝と喜びの日です。』ウマルは答えた。アッラーにかけて、私はあなたが行ったところに私は行っていない。しかし民の間にこのようなものが増えれば、必ず彼らの間に災難が起きる。そしてキブラ(礼拝の方向)に向き直り、天に両手をかざして言われた。『アッラーよ、私が知らぬ間に陥られる者にならないよう、私はあなたに庇護を求めます。私はあなたが『我らは彼らを知らない間に陥れる』(7章182節)と言われるのを聞きました。』そして言った。『スラーカ・ブン・ジャウシャムはどこか』と尋ねた。毛深く細い腕の男が彼を連れて来たが、ウマルはスラーカにペルシャ皇帝ホスローの腕輪を与え、『それを腕に付けよ』と言い、彼はそうした。そこでウマルは『アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、と言え。ペルシャ皇帝ホスローから腕輪を取り上げ、ムドリジュ族のベドウィンのスラーカ・ブン・ジュウスムにつけさせ給うたアッラーに称えあれ、と言え』と言い、それを杖でまわし、「これを果たした者は信託者だ」と言った。するとある男が、『私はあなたにあなたこそアッラーの信託者です、と言いましょう。人々はあなたがアッラーに対して果たしたことをあなたに対して果たしたているのです。あなたが豊かになれば、彼らも豊かになるのです。』ウマルは『あなたは正しい』と言い、それを分配した。」
「ウスマーンの時代に、アリーの解放奴隷が死んだが、彼には後見人がいなかった。そこでウスマーンの命令で、彼の遺産は、国庫に入れられた。」 と「アリーは国庫が殻になるまで財物を分配し、それからそれを水で洗い、そこに座りました」 は既に記した。
「預言者は『(礼拝中に)私たちの許に置いてあった砂金のことを思い出したもので、それが私の心を占めるのを嫌って、それを分配してしまうように命じてきたのだ』と言われた」(ハディース)
「アッラーの使徒はビラールが浄財を保管していた倉庫に入られたが、そこでナツメヤシの実の山を見つけ、『ビラールよ、このナツメヤシの実は何か』と尋ねられた。ビラールが『私はこれをあなたがお困りの時のためにとっておいたのです』と答えた。すると使徒は『おまえは火獄の煙から免れているのか。施しなさい。玉座の主が、貧しくしたり飢えさせたりし給うのではと恐れるな』と言われた。」(ハディース)
「私(アブドッラー・ブン・ルハイー・アル=ハウザーニー)はアッラーの礼拝告知者ビラールに会って『アッラーの使徒の扶養費はどうなっていましたか。』と尋ねた。すると彼は『何も持っていませんでした。アッラーが彼を使徒として使わされて以来、亡くなられるまで、私がそれを管理していました。彼の許にムスリムの男がやって来て、その男が裸だと見ると、彼は私に出かけて借金をして服を買い、彼に着せ食べさせるように命じられました』」(ハディース)
「アッラーの使徒は若いラクダを借りていました。彼の許に浄財のラクダが運ばれてきました。そこで彼は私(アブー・ラーフィウ)に男に若ラクダを返すように命じられました。しかし私は最良の立派なラクダしか見つけられませんでした。しかしアッラーの使徒はそれを彼に与えよ、と命じ、『最善の人間とは、最善のものを返す者だ』と言われました。」(ハディース)
「アッラーの使徒はムアーズをイエメンに使わされた時、言われた。『・・・もし彼らがお前に従えば、彼らにアッラーが彼らに彼らの中の豊かな者から徴収し彼らの貧しい者に戻される浄財があることを教えよ。もし彼らがそれでお前に従えば、お前は彼らの財産の貴重なものを取り上げてはならない。不正を蒙る者の祈りを恐れよ。その祈りとアッラーの間には覆いはないのだから』」(ハディース)
正統カリフたちは使徒の足跡を歩み、彼ら以外の者にも財務を任せることがあった。
「アブー・バクルはアブー・ウバイダ・ブン・ジャラーフに国庫を任せ、その後、彼をシリアに派遣した」
「アブー・バクルとウマルは彼(ムアイキーブ)に国庫を任せた」
「彼(アブドッラー・ブン・アル=ズバイル)はアブー・バクルに手紙を送り、彼は彼に国庫を任せた。ウマル・ブン・アル=ハッターブも彼ら2人(アブドッラー・ブン・アル=ズバイルとアブドッラー・ブン・アル=アルカム)を追認した。」

国庫は2種に分類できる。
(1)収入部:3つの登記庁を含む。
回収と地租登記庁:戦利品、地租、征服地、人頭税、回収、税を含む。
公共財登記庁:石油、ガス、電気、鉱脈、海、河川、池、泉、森林、牧草地、禁猟区
浄財登録庁:正貨の浄財、商品の浄財、農産物の浄財、果実の浄財、ラクダの浄財、牛の浄財、羊の浄財
(2)支出部:8つの登記庁を含む
カリフ官房登記庁
国家省庁登記庁
俸給登記庁
ジハード登記庁
浄財配分登記庁
公有財産配分登記庁
非常事態登記庁
公共収支、公共会計、公共監査登記庁

第10章:情宣
情宣は宣教と国家の重要事であり、国民福祉行政に属する省庁の一つではなく、その位置づけは、独立機関としてカリフに直属し、その地位は国家の他の機関と同じである。
 イスラームを印象的に紹介する独自の情宣政策の存在理由は、人々がイスラームに目を向け、それを学び、それについて考えるようになるよう、そしてイスラーム教徒の住む土地のイスラーム国家(カリフ国家)への編入を容易にするために、人々の理性に訴えかけることである。そもそも情宣に関わる事柄の多くは、国家に深く関わるものであり、カリフの命令なしには公にすることは許されない。軍隊の動き、勝利や敗戦の報、軍需産業などの軍事に関わることの場合、それは明らかであろう。これらは全て、発表するか隠蔽するかの決定がカリフにかかっている情報なのである。
 その典拠は、クルアーンとスンナである。クルアーンについては、「・・・安全または危険の事情がもたらされる度、彼らはそれを言いふらす。それを使徒、または彼らのうち権威を持った者に戻せば、それを見つけ出した者はそれを彼らから知ったであろうに。・・・」(4:83)」である。この節の主題は、情報の開示である。
 スンナについては、以下ハディースである。「クライシュ族には情報がなく、アッラーの使徒の情報は彼らに届かず、使徒が何をしているのか、彼らには分からなかった」
「預言者がアーイシャに言われた。『私の軍装の用意をせよ、ただしそれを誰にも言うな』それから行路を指示したが、彼女(アーイシャ)はそれを隠したので、マッカのクライシュ族の多神教徒たちには情報が届かなかった。」
また「苦難の戦い」についてアル=ブハーリーとムスリムがカアブから以下のように伝えている。「アッラーの使徒は戦いに出陣しようと考えたとき、必ず別のことでそれを隠された。」その戦い(「苦難の戦い」の)でも、実際には、酷暑の中、砂漠を越えて遠征し、多くの敵を相手に戦ったのであるが、ムスリムたちにはその戦争に備えるように事態を明かしたが、彼が望むような形で知らせられたのである。
「預言者は、ザイドとジャアファルイとイブン・ラワーフの訃報が届く前に、その死を悼まれ、『ザイドが旗印を持っていたが戦死し、それからじゃあファルがそれを取ったが戦死し、それからイブン・ラワーフがそれを取って戦死した。アッラーの剣の一本がそれを取り、アッラーが彼らに勝利を授けられるまで、彼の両目には涙があふれていた』と言われた。」
 この正統カリフたちによるこの規定の適用の例としては以下の伝承がある。
「ウマルの許に、アブ・ウバイダがシリアを包囲したが、彼に対して備えがなされている、との報がもたらされた。そこでウマルは彼に手紙を送った。
『汝に平安あれ。アッラーは、信仰する僕に、苦難を与えられた時には、必ず後で安楽を授け給り、苦難が二つの安楽に勝ることはない。アッラーは仰せられる。「信仰する者たちよ、忍耐し、競って忍耐し、配置に就け。そしてアッラーを畏れ身を守れ。きっとおまえたちは成功するであろう。」(3章200節)』
 アブ・ウバイダは返書した。『汝に平安あれ。アッラーは言われる。「・・・知れ、現世の生活は遊びにして戯れ、そして虚飾であり、おまえたちの間での誇示のし合い、財産と子供における多さの競い合いにほかならないと。 ・・・」(57:20)。ウマルはこの手紙を持って出かけ、説教壇に座り、それをマディーナの住民に読み上げ、『マディーナの民よ、アブー・ウバイダはあなたがたに彼がジハードを望むことを暗示したのだ』と言った。」
 カリフかカリフの代行者と不信仰の諸国の代表者たちの間で行われる交渉、協議、討論なども軍事情報に準ずる。こうした交渉の例としては、フダイビーヤ協定における最終的に協定の文言が決定するまでの使徒とクライシュ族の代表との間で行われた協議があり、直接の討論の例としては使徒とナジュラーンのキリスト教徒の使節との討論と呪詛の呼びかけがあり、また使徒の命令によるサービト・ブン・カイスとハッサーンのタミーム族の使節との討論などがある。これらは全て内容が公開されており、秘密は何処にもなかった。
 また日常生活のニュースや政治、文化、科学のプログラム、世界のニュースなど、国家と直接に重大な関係がなく、それについてカリフ自身の見解を知るまでの必要がない種類の情報もある。そういった情報でも部分的に生活の一部において国家の見解と異なり、また国際関係における国家の立場と衝突することもありうるが、そうした場合の国家の監督は、問題毎に異なるものとなるのである。
 それゆえ情宣機関は主要な二つの部門を備える必要があることになる。
第一部門:軍事、軍需産業、外交など、国家に関わる重大な情報の処理。この部門の仕事はこの種の情報の直接の監督であり、国営のメディアであれ、民営のメディアであれ、この種の情報は、情宣機関の検閲を受けた後でなければ、報道されない。
第二部門:その他の情報の処理。その監督は間接的であり、国営メディアであれ民営メディアであれ、その報道のために事前に検閲を受けて許可を得る必要は一切ない。
 
メディアの認可
 情報メディアは認可を必要としない。イスラーム国家「カリフ国家」の「国籍(tbyah)」を有する者は誰でも、読み物(新聞、雑誌)であれ、聴く物(ラジオ)であれ、見る物(テレビ)であれ、いかなる情報メディアを立ち上げることも許され、ただ情宣機関に立ち上げる情報メディアについて知らせる報告以外のことは必要とされない(報告義務のみで、認可は不要)。
 彼はただ上述のような国家に関わる重大な情報(軍事、軍事産業、外交)の報道には事前に許可を得る必要があるが、それ以外の情報は事前の許可なく報道できるのである。いずれにしてもあらゆる場合にメディアの責任者は報道するすべての情報に責任を負い、他の臣民(rayah)のどの個人とも同じく、聖法へのいかなる違反をも審問されるのである。
 聖法の諸規定に基づく国家の情宣政策の大綱を明らかにする法令が発布される。そして国家はその大綱の要請に従って、イスラームとムスリムの利益に奉仕し、団結し強く、アッラーの絆に縋り、善に満ち善を広め、堕落した思想、迷妄の文化を寄せ付けない社会、悪しきものを拒み良きものを認め、万世の主アッラーを称えるイスラーム社会の建設のために奉仕するのである。

第13章:国民議会(衆議・査問院)

 それは世論においてムスリムを代表する人々から構成される議会であり、カリフは諸事において彼らに諮り、彼らは国民(ummnah)に代わって為政者たちを査問する(musabh)。それは使徒がマッカの『避難者』とマディーナの『援助者』の中からそれぞれの民を代表する人々と衆議され、衆議し意見を採用するにあたって、アブー・バクル、ウマル、ハムザ、アリー、サルマー・アル=ファーリスィー、フザイファなどの一部の弟子たちを他の者たちよりも重んじた先例に倣っているのである。
 同様にアブー・バクルも何か問題が生じた時には、マッカの『避難者』とマディーナの『援助者』の一部の人々の意見を聞きくために衆議を行った。アブー・バクルの治世に諮問されたのは、イスラームの学者や教義回答者たちであり、「アブー・バクルは意見を持つ人々、イスラームの学識を有する人々と衆議したい事態が生じた時には、『避難者』とマディーナの『援助者』の人々を呼び、ウマル、ウスマーン、アリー、アブドッラフマーン・ブン・アウフ、ムアーズ・ブン・ジャバル、ウバイ・ブン・カアブ、ザイド・ブン・サービトを呼び出していた。」 これらの者たちはアブー・バクルのカリフ在世中、教義回答を行っていた。教義についての質問で、人々が彼らに頼ったのであり、アブー・バクルもそれを認めたのである。その後、ウマルがカリフに就任したが、やはりこれらの人々を呼び出したのである。また同様にムスリムに為政者の査問を求める典拠も存在する。正統カリフの治世に生じたように、ムスリムたちは為政者の査問を行っていた。そして国民(ummah)は衆議において代表を立てることが許されたように、査問においても代表に委ねることができる。それらのことはすべて、為政者の査問と、クルアーンとスンナの明文において確定している衆議の双方において、「国民(ummah)」を代表する特別議会を設けることの合法性を示している。それは無限定に「国民議会(majlis ummah)」と呼ばれる。なぜならそれは査問と衆議において「国民(ummah)」を代表しているからである。
 そしてこの議会に「臣民(ray)」の非ムスリムの議員が、為政者から蒙った不正、彼らに対するイスラーム法の乱用、あるいは彼らへのサービスの提供の不足などを訴えるために存在することは許される。

衆議の権利
 衆議は全てのムスリムがカリフに対して有する権利である。カリフが諸事において彼らに諮問し、依拠することは、彼らの権利である。
至高者は言われる。「事にあたっては彼らと協議せよ、しかし何時が決意を固めたなら、アッラーに一任せよ。」(3章159節)
また言われる。「彼らのことは彼らの間での衆議」(42:38)
そして使徒は衆議のために人々に諮っておられ、バドルの戦いでは戦闘の場所について彼らの意見を聞き、ウフドの戦いの際にも、マディーナの市外で迎え撃つか、市内引き込んで戦うかについて、彼らと衆議した。第一のケース(バドルの戦い)では、アル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルの意見に従って陣を敷いた。それは経験豊富な専門家の戦術的な意見だったので、それを採用したのである。そしてウフドの戦いの第二のケースでは自分自身の考えと違っていたにもかかわらず、多数意見に従って陣を敷かれたのである。
 ウマルはイラクの征服地の処理問題で、それは戦利品なので、それをムスリムたちの間で分配するか、それとも、その土地はその住人の占有に留めたままで、地租を課し、その土地自体はムスリムの国庫の所有とするかで、ムスリムたちに諮った。結果的にウマルは自分自身の推論(イジュティハード)で結論し、殆どの預言者の直弟子たちの殆どが賛成したことを実行し、そのイラクの土地をその地租を払うという条件で、元の持ち主たちの占有のままに残すことに決めたのである。

査問の義務
 ムスリムがカリフに対して衆議の権利を有したのと同じく、ムスリムは為政者たちの行為、行動を査問しなくてはならない。アッラーはムスリムに為政者の査問を課し、為政者が臣民の権利を侵害するか、臣民に対する彼らの義務を疎かにするか、臣民の問題を放置するか、イスラームの諸規定に背くか、アッラーの啓示以外に基づく統治を行うかした場合には、臣民に、統治者の査問と更迭を厳命し給うているのである。
「アッラーの使徒は『いずれおまえたちが耐える支配者、否認する支配者が現れる。忍耐した者には罪はなく、否認した者は安心である。しかし満足して従った者は(どうであろう)。』と言われた。人々が『我々は彼らと戦ってはなりませんか』と尋ねると、使徒は『いや、彼らが礼拝をしている限りは』と答えられた」(ハディース)
ここでは「礼拝」はイスラームによる統治の比喩である。
 アブー・バクルの背教戦争の決断を、ムスリムたちは最初は反対した。その筆頭がウマルだった。
「アッラーの使徒が亡くなった時、アブー・バクルがおり、アラブ遊牧民の不信仰に陥った者が不信仰に陥った。ウマルは「アッラーの使徒が『私は、人々がアッラーの他に神はない、と言うまで彼らまで戦うことを命じられた。それを唱えた者は、その財産と生命が私にとって不可侵となる。但し、その権利による場合を除く。その者の裁定はアッラーにある。』と言われているというのに、どうして我々が人々と戦えるでしょうか」と言った。するとアブー・バクルは『アッラーにかけて、私は礼拝と浄財を分ける者と戦う。浄財は、財産の権利なのである。アッラーにかけて、もし彼らがアッラーの使徒に納めていた羊の貢納を私に拒むなら、私はその拒絶に対して彼らと戦う』と言った。そこでウマルは言った。『アッラーにかけて、これはアッラーがアブー・バクルの胸を開き給うたに他ならない。私はそれが正しいと分かった。』」(ハディース)
 またビラール・ブン・ラバーフ、アル=ズバイルなどはウマルがイラクの征服地を戦士たちに分配しなかったことに反対していた。またある遊牧民の男はウマルに、彼が土地の一部を反故地にしたことで反対していた。
「遊牧民の男がウマルのところに来て言った。『信徒の長よ、我々の土地は、我々が無明時代に戦い取ったもので、イスラーム時代になってその上で我々はイスラームに入信しました。それなのになぜあなたはそれを保護地にして取り上げるのですか』ウマルは黙って頭を垂れ、口髭を振るわせた。というのはウマルは怒ると口ひげが震えたのである。それを見た遊牧民は彼に対してその言葉を繰り返した。そこでウマルは言った。『財産はアッラーの財産であり、僕はアッラーの僕である。アッラーにかけて、もしアッラーの道での運搬用の動物がいないのなら、私は1シブルの土地も保護地としなかった。』」
ウマルは共有財の土地の一部をムスリムの馬のために保護地としたのである。またある女性は、婚資が400ディルハムを越えることを禁じたことで、ウマルを非難して「ウマルよ、それはあなたの権限ではない。アッラーの御言葉『お前たちが彼女らの一人にキンタールを与えていても、彼女から少しでも取り上げてはならない』をあなたは聞いていないのか。』ウマルは、女性が正しく、ウマルが間違った、と言った。
 またアリーはカリフであったウスマーンの巡礼と小巡礼の完遂についての言葉を批判した。
「我々はウスマーンとアル=ジャフファの地にいた。彼と共にシリア人の一団がいた。その中にはハビーブ・ブン・マスラマ・アル=ファフリーもいた。彼がウスマーンに小巡礼を巡礼と纏めることを提案したところ、ウスマーンは彼に『巡礼と小巡礼をもっとも完全に行うには、その両方を共に巡礼月中にしないほうがよい。小巡礼を遅らせて、アッラーの館(カアバ神殿)を2度訪れるほうがより良い。アッラーは誠に良いことに広い幅を持たせ給うた。』と言った。その時、アリー・ブン・ターリブは谷底でラクダに草を食べさせていたが、ウスマーンの言葉が彼の耳に届くと、ウスマーンのところへ行き、面前に立って、言った。『あなたはアッラーの使徒が定められたスンナと、アッラーがクルアーンでその僕たちのために許された軽減措置に楯突き、それを禁じて、人々を苦しめるのですか。それは、やむをえない事情がある者、遠くの者のために許されていたというのに。』そこでウスマーンは人々の方を向いて言った。『私はそれを禁じましたか。私はそれを禁じたわけではありません。あれはただ私が示唆した意見に過ぎません。望む者はそれを採用し、望む者はしなければよい。』」
 これらの伝承の全てに基づき、国民議会には衆議の権利があり、査問の義務があることになる。既述の通り、衆議と査問は異なる。衆議とは、(カリフが)決定の前に、意見を求める、あるいは意見を聞くことであり、査問は、決定をした後、あるいはその執行を終えた後での反対表明なのである。

国民議会議員選挙
 国民議会議員は指名により任命されるのではなく、選挙で選ばれる。なぜならば彼らは意見表明における人々の代理だからであり、代理はただ代理任命者によってのみ選ばれるからである。代理は代理委任者に対していかなる条件も課されない。なぜなら国民議会議員は個人、集団としての、意見表明における人々の代表であるが、広大な地域における互いに知らない民の間での代表を知ることは、その者を代表に選んだ者にしか可能でないからである。そしてまた使徒も、意見を聞くのに依拠した者を選ぶにあたって、その者の能力、適性、人格などを基準にはせず、第一に能力や適性に関わらず世話役(nuqab)であること、第二にマッカの「避難者」とマディーナの「援助者」の代表者であること、の二つの基準で選任されたからである。衆議院議員設立の目的は、人々を代表することにある。それゆえ国民議会の議員が選ばれる基準は、世話役からの選任の場合に意図されていたように人々を代表していることであるか、「避難者」と「援助者」からの選任の場合に意図されていたように諸集団を代表していることか、である。周知でない人々の間では、個人であれ団体であれ代表することは選挙による以外にはできないため、国民議会の議員の選任は選挙に定まるのである。誰に相談するかを使徒が決めていたことについては、「避難者」と「援助者」が住んでいた土地、マディーナは狭く、使徒ムハンマドは、ムスリムたちは全てのムスリムをよく知っていたからである。その証拠として、(マディーナの住民が集団入信しムスリムの数が増えた)「第二次アカバの誓い」では、もはや誓いをたてたムスリムたちを使徒は知っていたわけではなかったので、「お前たちの中からそれぞれの部族に責任を負う12人の世話役を私のために選び出しなさい」と彼らに言って、世話役の選任を彼ら自身に任せたのである。
 それゆえ国民議会の議員が意見表明における代理人であること、国民議会設立の目的が意見表明及び監査における個人と集団が代表されていることであること、そして互いに顔見知りでない人々の間ではその目的は総選挙によってしか実偏しないこと、これらの全てから、国民議会の議員が指名によって任命されるのではなく、選挙によって選ばれることが結論されるのである。

国民議会選挙の方法
(1)地方総督についての議論の中で既に述べた通り、我々は地域についてその住民を代表する議会の選挙を採用した。その目的は二つあり、第一はその地域の現実と需要についての必要な情報を総督に知らせることである。それは地域住民に平穏な暮しを保証し、必要なものを揃え、サービスを提供する任務を総督が遂行する手助けのためである。第二に総督の地域住民の統治に対する満足、不満の表明である。議会が多数決で総督の不信任を議決すれば、総督は罷免されるのである。つまり地域議会の地位は、総督がその地域を知る手助けと、住民の総督に対する信任、不信任の表明による行政的地位であり、総督の職務遂行の円滑化が目的の全てであり、以下に述べる国民議会の場合と異なり、地域議会には他のいかなる権限もないのである。
(2)我々はここで国民議会(衆議・査問院)の設立、及びそれが国民の代表として選挙によって選ばれ、以下にのべるような権限を有することを法制化する。
(3)つまり、地域議会議員の選任のための選挙と、国民議会議員の選挙があることになる。
(4)選挙手続を簡略化し、臣民の選挙の重複による負担を無くすため、地域議会の選挙が先ず行われ、次いで地域議会の当選者が集まり、彼らの中から国民議会議員が選ばれる、つまり地域議会は国民の直接選挙により、国民議会は地域議会が選ぶと我々は決めた。つまり国民議会の任期は地域議会の任期と一致するのである。
(5)選ばれて国民議会議員に昇格した地域議会議員の欠員は、地域議会選挙で時点で落選した者が繰り上げ当選する。同点だった場合は籤引きで決める。
(6)庇護民は地域議会における自分たちの代表を選挙で選ぶ。そしてそれらの代表が国民議会の代表を選ぶ。それは地域議会選挙、国民議会選挙と同時に行われる。
 以上の事項を考慮し、地域議会選挙法、国民議会選挙法が起草される。アッラーのお許しがあれば、詳細については適当な時期に議論されることになる。
 
国民議会議員資格
 (カリフ国家の)国籍(tbiyah)を有する全てのムスリムは、成人で正気でありさえすれば、男女を問わず、国民議会の議員の選挙権、被選挙権を有する。なぜなら、国民議会は統治機構の類ではないので、ハディースにある女性が統治者となることの禁止は該当しないからである。国民議会は衆議と査問を任とし、それは男性の権利であるのと同じく女性の権利でもある。召命13年目(つまりマディーナ聖遷の年)、マディーナから男性73名と女性2名の合計75名のムスリムがマッカのアッラーの使徒の許にやって来て、全員が第二次アカバ誓約を使徒に捧げた。
この第二次アカバ誓約は、戦争における忠誠誓約、政治的誓約であった。この誓約の締結の後、使徒は彼ら全員に向かって言った。「お前たちの中からそれぞれの部族に責任を負う12人の世話役を私のために選び出しなさい」と彼らに言って、部族長の専任を彼ら自身に任せたのである。
これは使徒の彼ら全員に対して全員の中から代表者を選べとの命令であり、選挙人に関しても被選挙人に関しても男性のみに限定して女性を排除してはいないのである。無限定な表現は特に限定する典拠がない限り、限定されない意味を表す。それは一般語が特殊化されない限り一般的意味を表すのと同様である。ここでの使徒の言葉は一般的で無限定であり、どこにも限定、特殊化する言葉はない。それゆえ使徒はこの2名の女性にも世話人を選ぶことを命じると同時にムスリムの世話人に選ばれる権利も認められたのである。
 そしてある日、使徒は人々と忠誠誓約を交わすために座られたが、アブー・バクルとウマルは彼と共に座っており、男女のムスリムたちが彼に忠誠を誓ったのである。この忠誠誓約は統治に対する誓約であって、イスラーム入信の誓約ではなかった。なぜなら彼女らは既にムスリムになっていたからである。そしてフダイビーヤでの「満悦の誓約」の後にも、女性もまた使徒に忠誠を誓っている。至高なるアッラーは言われる。「預言者よ、おまえの許に信仰する女が来て、アッラーになにものをも同位とせず、盗みをせず、姦通をせず、子供たちを殺さず、手と足の間で捏造した虚偽をもたらさず、善においておまえたちが背かないことをおまえに誓約したなら、彼女らと誓約し、彼女らのためにアッラーに赦しを乞え。まことに、アッラーはよく赦す慈悲深い御方。」(60章12節)この誓いも統治に対する誓いである。なぜならばクルアーンは彼女らが信仰あるムスリムであることを認めているからである。この忠誠誓約は、善において使徒に背かないことに対してであったのである。
加えて、女性には意見の表明において代理を立てることも、他人の代理として意見を述べることも許されている。と言うのは、自ら意見を述べることも、代理にそれを依頼することも女性の権利だからである。それは代理委任契約には、男性であることは条件とならず、女性も代理人となることができるからである。
またウマルの事跡から、彼が世論を聴取したいと思う出来事が起きた時には、それが聖法の諸規範に関わるものであれ、統治に関わるものであれ、あるいは国家のあらゆる行為に関わるものであれ、ムスリムたちをモスクに呼び集めたことが知られている。彼は男性と女性を呼び、彼ら全員の意見を聞いたのであり、婚資の上限設定のケースである女性が彼を論駁した時は、自分の意見を撤回したのである。
またムスリムが国民議会に権利を有するように、非ムスリムも国民議会に代表を送ることも、そこで自分たちの選挙人の代議員となり、イスラームの法規定が彼らに対して濫用されていないか、統治者から不正を蒙っていないかについて、彼らに代わって意見を述べることができる。
ただし、意上とは違って、イスラーム聖法の規定については、非ムスリムには意見を述べる権利はない。なぜならばイスラーム聖法はイスラームの教義から派生し、聖法の詳細な典拠から演繹される行為規範であり、イスラームの教義によって決まる特定の観点から人間の諸問題を扱うのであるが、非ムスリムはイスラームの教義と矛盾する教義を信奉し、生き方についてイスラームの見方と対立する見方を有しているため、聖法の規定について彼らの意見が聞かれることはないのである。
また非ムスリムにはカリフの選挙権、カリフ候補推薦権もない。なぜなら非ムスリムは統治については権利を有さないからである。それ以外の国民議会の権限とそれに関する意見の表明については、非ムスリムはムスリムと同じである。

国民議会議員の任期
国民議会議員には任期が定められる。なぜならアブー・バクルは諮問の人選にあたって、使徒が諮問に依拠した人々に限らなかったし、ウマル・ブン・アル=ハッターブも諮問の人選にあたってアブー・バクルが諮問した人々に限らなかったからである。またウマルがその治世の後半に依拠した者は、治世の前半に諮問していた人々とは違っていた。これらのことは国民議会の議員の任期が特定期間であることを示している。我々はここでその期間を5年間と定めたい。

国民議会の権限
国民議会は以下の権限を有する。
(1).(a)カリフによる国民議会への諮問
 国民議会は、深遠な思想や研究を必要としない内政上の臣民の諸事に関わる実務的な仕事や問題についてカリフに答申する。例を挙げるなら、統治、教育、保健、経済、商業、工業、農業などの諸問題で臣民が生活の安心を感じられるような必要なサービスを充実させること、都市の防衛、治安の維持、敵襲への備えなどの臣民の要求であり、これらの全てにおいて、議会の見解はカリフを拘束する。つまり議会の多数意見は執行される。
(b) 真理の発見、開戦の決定など、深遠な研究や精査を必要とする思想問題や、戦争計画の準備などの経験、情報、知識を必要とする事柄、全ての技術的問題、実践的問題については、多数決ではなく、専門家の意見が採用される。
また財政、軍事、外交問題は、カリフが聖法の規定に則り自らの判断と裁量で直轄し、議会の見解を行うのではない。カリフはそれらの問題についても議会に諮り、その見解を採用することもでき、議会もそれについての見解を答申することできるが、これらの問題については議会の見解は拘束力を持たないのである
(2).立法においては議会の意見は採られない。立法はクルアーンとスンナ、その両者に導かれた預言者の直弟子たちのコンセンサス、聖法に則った類推、つまり正しい法演繹に基づく。聖法の諸規定の法制化、法令の制定はこの方式となる。カリフは議会に法制化を望む諸規定、法令を移管することができ、議会のムスリム議員は、その検討、正誤の指摘の権限を有する。もし議会がそれらの聖法の諸規則の典拠と演繹の正当性についてカリフと見解を異にした場合、それが国家によって採用された聖法の法制化の法理論と不整合によるものであれば、その裁定は行政不正裁判所に移管され、それについては行政不正裁判所の判断が拘束力を持つ。
(3)議会は、内政、外政、財務、軍事など全ての国事において、カリフが行った行為についての査問権を有する。(カリフの査問においては)議会の多数決が拘束力を有する問題に関しては議会の見解が拘束力を持つが、多数決が拘束力を有さない問題に関しては拘束力はない。
 カリフが既に執行済みの行為のイスラーム法的正当性の有無について議会とカリフが意見を異にした場合、その正当性の有無の認定は行政不正裁判所に移管され、それについての行政不正裁判所の決定は拘束力を有する。
(3)議会は、カリフ補佐、地方総督、知事に対する不信任案提出権を有し、不信任案の議会の多数決は拘束力を持ち、カリフはその即座の罷免が課される。
地方総督と知事の信任、不信任に関して、国民議会と当該地域の地域議会の判断が異なった場合、地域議会の判断が優先される。
(4)国民議会のムスリム議員には、行政不正裁判所がカリフ就位資格条件に適うと認めた者の中からカリフ候補を絞込む権限がある。それはカリフの選挙手続についての箇所で詳述した通りで、6人に絞り込もうと2人に絞り込もうと同じである。また議会が絞り込んだ候補者以外の候補者は受け入れられない。」
以上が国民議会の権限であり、以下はこれら権限の典拠である。
第1項.(a) - 研究や精査を必要としない実務的な仕事や問題についての国民議会の見解が拘束力を有する典拠は、ウフドの戦いでアッラーの使徒と高弟たちはマディーナでの迎撃を考えていたにもかかわらず、多数の意見に従って多神教徒軍を迎え撃つためにマディーナから出征したこと、また使徒がアブー・バクルとウマルに述べた言葉「もし諮問してお前たち2人が一致したなら、私がお前たち2人に反対することはない」である。それゆえ臣民の平穏な生活のためのサービスの提供、治安の維持、都市の防衛、敵襲への備えなどのための行動を決める見解に関係する実践的な事柄は全て、使徒が自分の意見と異なるにもかかわらず、多数意見に従ってウフドに出陣したように、カリフ自身の考えと異なろうとも議会の多数決が拘束力を有するのである。
第1項.(b) – この種の事柄では、バドルの戦いでアッラーの使徒がアル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルの意見に従って戦陣を敷いたように。カリフは学者、技術者、専門家の意見を採用するのが原則である。イブン・ヒシャームの『預言者伝』は以下のように伝えている。
「アッラーの使徒が、バドルのオアシスの近くに陣取った時、アル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルはその場所に不満で使徒に次のように尋ねた。『アッラーの使徒よ、この場所は、至高なるアッラーがあなたにここで止まることを命じられたのでしょうか。それなら、我々はここから前にも後ろにも動きますまい。それとも、ここで停まったのは、あなた自身の判断、戦略、策謀でしょうか。』預言者が『いやこれはわたし自身の判断、戦略、策謀である』と答えると、アル=フバーブは言った。『ここは軍営には向きません。人々と一緒に立ち敵のクライシュ族の水場の近くまで進軍しそこに軍営を設け、その周辺の井戸を埋めてしまい、その上に溜池を作りそこに水を満たすのです。そうすれば我々はクライシュ族と戦いながら水を飲めますが、彼らは水を飲めません。』そこでアッラーの使徒は共に居た者たちと出立し、クライシュ族の水場の近くまで進軍しそこに軍営を設け、その周辺の井戸を埋めてしまうように命じられ、軍営を敷いた井戸の上に溜池を作りそこに水を満たし、人々は器をその中に入れた。」使徒はアル=フバーブの話を聞き、その意見を採用したのである。
判断、戦略、作戦の類のこうした件においては、その決定において、人々の考えには何の価値はなく、専門家の意見だけが価値を有するのである。技術的問題、研究と精査を要する思想などもその例となる。この定義により、こうした問題では人数には価値がなく、知識、経験、専門性だけが価値を有するので、人々の世論ではなく、技術者、専門家の見解が依拠されるのである。
財政問題もこうした例である。なぜなら聖法は徴税されるべき富の種類を定め、またその支給先、徴税時期も定めているので、徴税とその使途について、人々の意見を考慮する余地はないからである。軍事も同様で、聖法はその指揮をカリフに委ね、ジハードの諸規則を定めているので、やはり聖法が既に規定していることでは、人々の意見を考慮する必要はないからである。また他国との外交関係も同様である。なぜなら外交は研究、精査を要する思想問題であり、また作戦、戦略、策謀であるジハードとも関わるので、世論、人数の多寡に意味はないのである。しかしカリフはこうした事柄についても議会に諮問のために議題にし、意見聴取することは許される。なぜなら提案自体は合法な事項の一つに過ぎないからである。バドル戦いの事例から明らかにしたとおり、こうした問題における議会の見解は拘束力がない。権限を有する者のみが決定権を有するのである。
第1項の(a)と(b)の違いを、例を挙げて説明しよう。交通手段のない辺境の地の村などの住人の福祉のサービスで川に橋をかけるにあたっては、
国民議会の多数決はカリフを拘束するが、橋をかけるのに技術的に最適な場所の選定や橋の工学的に最善の設計、けた橋にするか、吊り橋にするか、などは技術者、専門家が諮問を受けるのであり、議会の多数決で決めるわけではないのである。
 年の学校に子弟を通わせるのが大変な村に学校を建てる場合も同様で、議会の多数決はカリフを拘束する。しかし村のどこに学校を建てるか、学校のデザインに調和し教育に最適な環境はどこか、あるいは土地も建物も国有化するのか、それとも年契約で借り上げるのか、などの具体的手続きについては、議会の多数意見ではなく、技術者、専門家に諮問する。こうした問題でもカリフは議会にも諮問できるが、その意見に拘束されることはない。
 また敵国との最前線の辺境の地については、村の防備、敵襲の撃退、敵襲にあたって住民を殺害、難民化から守ることについては、議会の多数決は拘束力を有するが、いかに防備を固めるか、敵襲の撃退にはどういう手段、武器を用いるかなどの問題はすべて専門家、技術者たちが諮問を受けるのであり、国民議会ではない。
第2項.立法はアッラーのみの大権である。アッラーは言われる。「統治権はアッラーにのみ属する」(クルアーン12章40節)
また言われる。「いや、汝(預言者ムハンマド)の主にかけて、彼らは自分たちの間で生じた紛争において汝を調停者とし、汝の裁定に対して心中に不満を抱かず、全てを委ねるのでない限り、信仰したことにはならない」(クルアーン4章65節)
同様に「彼らはアッラーを差し置いて、彼らの中の律法学者や修道士たちを主と崇める」(9章31節)の聖句の解釈についてアル=ティルミズィーが伝えるところでは、アディー・ブン・ハーティムは以下のように言っている。
「私(アディー・ブン・ハーティム)が首に金の十字架をかけて預言者の許を訪れたところ、彼は私に『アディーよ、その偶像を捨てなさい』と言われました。私は彼が『彼らはアッラーを差し置いて、彼らの中の律法学者や修道士たちを主と崇める』(9章31節)を読誦し、『ユダヤ教徒やキリスト教徒は確かに律法学者や修道士を拝んでいたわけではない。しかし彼らは律法学者や修道士たちが彼らに許可したものは許されているとみなし、彼らに禁じたものは何であれ、自分たちもそれを禁じていたのである』と言われたのを聞いた。」
それゆえ立法は全員一致であれ、多数決であれ、国民議会の意見が採用されることはない。立法はクルアーン、スンナとその両者に導かれた正当な法的推論(イジュティハード)のみに基づくのである。それゆえアッラーの使徒はフダイビーヤの和約に際して「私はアッラーの僕、その使徒であり、彼の御命令に背くことは決してない」と言われ、ムスリムの多数意見を拒否されている。和約はアッラーからの啓示だったからである。それゆえ立法において人々の意見に依拠することはないのである。この原則に基づき、聖法の諸規定の法制化、法令の制定は記述の通り、カリフのみの大権となるのである。とは言え、カリフは聖法の諸規定、法令を法制化するにあたって、国民会議の意見を知るために、事前にそれを国民会議に諮問することはできる。ウマル・ブン・アル=ハッターブは聖法の規定についてムスリムたちに意見を求め、預言者の直弟子たちの誰もそれを非難しなかった。一例を挙げると、イラクの征服地に関して、ムスリムたちはウマルに征服地をそれを勝ち取った戦士たちの間で分配するように求めていた。ウマルは人々の考えを聞いたが、最終的にその土地を人頭税に加えて一定の地租を支払う条件で元の所有者たちの手中の占有のままに残すことに決めたのである。ウマルと、その前にはアブー・バクルが聖法の規定について預言者の弟子たちの意見を聞き、時にそれを採用し、そのことで彼らの誰も両名を非難しなかったことは、それが許されていることについての預言者の弟子たちのコンセンサスの証明なのである。
 カリフが制定したこうした法令の聖法からの演繹、あるいは国家によるその法制化の方法論の正当性をめぐって、カリフと国民議会が対立した場合、行政不正裁判所に付託することについては、カリフが法制化した法規定について、その法規定に聖法上の典拠があるか、その聖法上の典拠が事実に該当しているか否かについて審査することは行政不正裁判官の権限であるので、カリフと議会の多数派がカリフの制定した法規定がイスラーム聖法上合法か否かで争う場合、その裁定は行政不正裁判官の権限であるため、彼に委ねられ、行政不正裁判の判決は拘束力を有するのである。
非ムスリムの国民議会議員には、カリフが法制化を望む法規定、法令の法案を審議する権限はない。それは彼らがイスラームを信じていないからであり、為政者からこうむる不正についての意見の表明は彼らの権限であるが、法規定や聖法の法令自体について意見を差し挟むことは彼らの権限にないからである。
第3項. その典拠は統治者の査問について述べたハディースの一般原則である。
アッラーの使徒は言われた。「いずれ自分たちが行わないことをお前たちに命ずる司令官たちがお前たちの上に立つことになる。彼らの嘘を本当とし、彼らの不正を助ける者は我らの一員ではなく、私は彼と関わりはない。彼は楽園の池で私の許に来ることはない。」
「最高のジハードは不正なスルタンの許で真実を口にすることである」(ハディース)
「殉教者の長はハムザ・ブン・アブドルムッタリブ、そして不正なイマームに向かって立って、彼に(善を)命じ(悪を)禁じ、その結果殺された者である。」(ハディース) 「いずれおまえたちが耐える支配者、否認する支配者が現れる。忍耐した者には罪はなく、否認した者は安心である。しかし満足して従った者は(どうであろう)。」(ハディース)

と言われた、と述べたと伝えている。これらのテキストは一般的であり、聖法の諸規定に基づいて統治者を査問すべきこと、また査問はあらゆる行為に関わる典拠である。それゆえカリフやその他の補佐、総督、知事たちに対する議会の査問は実際に行われたすべての行為に及ぶ。それは聖法への背反、あるいは過誤、ムスリムへの加害、臣民への不正、臣民の諸事の世話の怠慢であれ、そうであり、カリフはそうした査問、抗議に対して自分の言動、行政について、自分の視点、言い分を説明して応答し、自分の行政、行動が正しく潔白であることを議会に納得させる義務がある。議会がカリフの視点を受け入れず、言い分を拒絶した場合には、第1項.(a)のように議会の多数意見が拘束力を有する問題であれば、議会の見解が拘束力を持ち、第1項(b)のようにそうでない場合には拘束力を有さない。たとえば前出の例で言えば、査問が「なぜある地方には十分な数の学校がないのか」、というものであれば、査問が拘束力を有するが、査問が「ある学校がなぜ甲の設計によって建てられ、乙の設計でなかったのか」との査問は拘束力を持たない。それゆえ「信仰する者よ、アッラーに従い、使徒と汝らの中の権威ある者に従え。そしてお前たちが何かで争うなら、それをアッラーと使徒の許に持ち込め」(4:59)とのアッラーの御言葉により、その問題は議会の求めに応じて行政不正裁判所に付託される。この節の意味は「ムスリムたちよ、お前たちが何事であれ権力者と争うなら、それをアッラーと使徒に訴えよ、つまり、聖法に照らして判断せよ」ということであり、「聖法に照らして判断する」とは「裁判にかけること」であり、それゆえに行政不正裁判所に訴えるのであり、その裁定は拘束力を持つ。なぜならこの件では行政不正裁判所が所轄だからである。
第4項.その典拠は、アッラーの使徒によるバハレーン知事アル=アラーゥ・アル=ハドラミーの罷免である。その理由はアブド・アル=カイス族が彼への苦情を使徒に訴えたからである。イブン・サアドはムハンマド・ブン・ウマルから以下の逸話を伝えている。
「アッラーの使徒はアル=アラーゥ・ブン・アル=ハドラミーにアブドルカイス族の20名の男を連れて使徒の許に出頭するように書き送り、アル=アラーゥはアブドッラー・ブン・アウフ・アル=アシャッジュを団長とするアブドルカイス族の20名の男を伴い、バハレーンにはアル=ムンズィル・ブン・サーウィーを代行として残して使徒の許に来た。そこで(アブドルカイス族の)使節団はアル=アラーゥ・ブン・アル=ハドラミーに苦情を申し立て、アッラーの使徒は彼を罷免し、アバーン・ブン・サイード・ブン・アル=アースをその後任に任命され、彼に『アブド・カイス族に気を配り、彼らの長を優遇せよ』と言われた。」
 またウマル・ブン・アル=ハッターブもサアド・ブン・アビー・ワッカースを管区の人々の苦情のみによってその総督職から罷免し「私が彼を罷免したのは無能故でも、背任のためでもない」と言っており、これらの事例は、地域住民は自分たちの総督や知事に対する不満、不信任を表明する権利があり、カリフはそれに基づいて彼らを罷免する義務があることを示しているのである。つまり、地域議会と国民議会にはムスリム全ての代理人として総督や知事に対する不信任を表明する権利があり、多数決で不信任案が可決された場合、カリフは直ちにそれらの総督、知事を罷免しなければならない。地域議会と国民議会の議決が異なった場合は、地域議会の議決が通る。なぜなら地方総督、知事の行状については地域議会の方が国民議会よりも詳しいからである。
第5項.第一は候補者の絞込みであり、第二はまず6人に、次いで2人に絞り込むこと。第一の候補者の絞込みについては、正統カリフの擁立の歴史的経緯は、ムスリムの代表たちが自分たちで直接に行うか、あるいは自分たちに代わってカリフに任せることによって候補の絞込みがなされたことを示している。
 サアーダ族の屋形では、候補者はアブー・バクル、ウマル、アブー・ウバイダ、サアド・ブン・ウバーダで、彼らだけであった。つまり彼らにまで絞られていた。それはサアーダ族の屋形に集まった預言者の直弟子たちの合意で決まり、その後、アブー・バクルに忠誠誓約がなされたときに直弟子たち全員の合意がなった。
 アブー・バクルの治世の末期に、彼は後任のカリフについてムスリムたちと3か月にわたり協議を重ねた結果、彼らは彼の推薦するウマルに賛同した。つまり候補者は一人に絞られたのである。
 カリフ候補の絞込みのプロセスがより明らかになったのはウマルの刺殺によってであった。ムスリムたちはウマルに後任の推薦を頼み、周知のごとくに彼は6人の候補を挙げ、彼らに限るように言明したのである。
 アリーへの忠誠誓約では、そもそも彼が唯一の候補者であったので、候補者を絞り込む必要はなかった。
 こうした絞込みは、ムスリムたちの多くの前でなされたので、もしカリフへ推薦されるべき他の人々の権利を損なうため許されないようなら、拒絶され執行されなかっただろう。それゆえカリフ候補の絞込みは預言者たちの直弟子たちのコンセンサスで許可されているのです。それゆえウンマ(ムスリム共同体)、つまりその代表は、ウンマが直接にであれ、カリフにその代行を委ねてであれ、候補を絞り込むことが許されるのである。
 以上が絞込みの許可の典拠であったが、それを最初6人にまで絞り込むことについては、ウマルの事例に倣うものであり、その後で2人に絞り込むのはアブドッラフマーン・ブン・アウフの先例であると同時に、ムスリムの選挙人の多数派による忠誠誓約の実現のためでもある。つまり候補者が2人以上いた場合、選挙者の30%しか獲得していない、つまり50%以上の多数を得ていないことがありうるが、候補者が2人を超えなければ多数派の勝利が実現するのである。
 行政不正裁判所がカリフ就位資格条件を満たすと認めた候補者の中から国民議会が2名の候補を絞る込むことについては、国民議会による絞込みがカリフを選ぶためであるから、つまりその者がカリフ就位資格条件を満たしている必要があるのである。それゆえ行政不正裁判所がカリフ候補者から就位資格条件を備えていない者を全て排除し、その後、国民議会が、行政不正裁判所がカリフ就位資格条件を満たすと認めた候補者の中から絞込みを行うのである。これが第5項なのである。

支障なき発言、意見表明権
 国民議会の全ての議員は、聖法の許す範囲内で、いかなる制限もない発言、意見表明の権利を有する。議員は、意見表明におけるムスリムの代理である。そして査問においては、その任務は、カリフや、その他の国家の統治者、あるいは国家機関のあらゆる公務員が行うことの批判であり、彼らへの査問は彼らに対して勧告、意見表明、提案、討議、国家の犯罪への抗議による。そして国民議会がこうしたことを行うのは全て、ムスリムの勧善懲悪、為政者への査問、勧告、協議の義務の履行における彼らの代理としてに他ならない。なぜならそれらはムスリムにとって義務であるからである。
至高なるアッラーは言われる。「汝らは人類に出現した最善の共同体であり、善を命じ、悪を禁ずる」(2章231節)
「地上に我らが彼に力を与えれば、礼拝を挙行し、浄財を払い、善を命じ、悪を禁ずる」(22:41)
また以下のように、勧善懲悪を指示するハディースも数多く伝わっている。
「わが魂を御手に握られる御方にかけて、善を命じ、悪を禁じよ。さもなければアッラーはその御許からお前たちに懲罰を下され、その後には、もはやお前たちが祈っても、お応えにならないであろう。」)
「お前たちが悪を見たなら、手でそれを糾せ。もしそれができなければ舌で。それもできなければ心で。それが最弱の信仰である。」
 これらのクルアーンの節、ハディースはムスリムに勧善懲悪を命じている。為政者の査問は、勧善懲悪の一つに他ならない。統治者に対する勧善懲悪の重要性に鑑みて、統治者に対する勧善懲悪を特記するハディースさえも存在している。
「最善のジハードとは、不正なスルタンの許で真実を語ることである」
これは統治者の査問、統治者の許で真実を語ることの義務、それがジハード、しかも最高のジハードであることを示す明文であり、それは「殉教者の長はハムザ・ブン・アブドルムッタリブ、そして不正なイマームに向かって立って、彼に(善を)命じ(悪を)禁じ、その結果殺された者である。」とアッラーの使徒の真正なハディースに述べられているように、たとえ殺されるに至るとしても、とまで、それを強く促し、勧めているのである。
 使徒が、フダイビーヤの和約の締結において、弟子たちが彼に激しく反対した時も、彼らの反対をたしなめられることなく、ただ彼らの意見を拒んで和約を結ばれたのである。なぜなら彼の行為はアッラーからの啓示によるものであったので、それについては人々の意見には何の価値もなかったからである。しかしその後で、使徒が彼らに供犠の羊を屠り、髪を剃り巡礼の潔斎を解くように求めたのに、彼らが使徒の命令に従わなかったときには、彼らを譴責されたのである。またアル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルがバドルの戦いで使徒の定めた軍営地に反対した時も、彼を叱責せず、逆に彼の諫言に従ったのである。同様にウフドの戦いでは自分の考えと違ったにもかかわらず多数意見に従ってクライシュ族の敵軍を迎え撃つためにマディーナから出征された。これらの全てにおいてアッラーの使徒は彼らの反対に耳を傾け、応えられたのである。
 また使徒の直弟子たちは、使徒の跡を継いだ正統カリフたちを査問したが、正統カリフは彼らを譴責しなかった。また彼らはウマルが説教壇に立って貢納のイエメンの上着を分配している時に彼を査問し、また彼が婚資の値上がりを禁じた時に一人の女性が彼に反対した。また預言者の直弟子たちは、ウマルがイラクを征服した後、その土地を分配しなかったので、彼に反対し、査問した。ビラールとアル=ズバイルは特に激しく反対したが、ウマルは彼らが自分の意見に納得するまで彼らと話し合い、協議し続けたのであった。
 それゆえ国民議会のどの議員にも、ムスリムの代理であることに鑑みて、いかなる妨害もなく、害を被ることもなく、望むままに意見を表現することができる。国民議会議員は、カリフ、カリフ補佐官、地方総督、知事、そして国家機関のいかなる公務員でも査問する権利があり、彼らにはそれに応える義務があったのである。
 そして同様に非ムスリムの国民議会議員も、彼らが被った不正に関しては、それが意見表明における聖法の規則の範囲内にある限り、いかなる妨害もなく、害を被ることもなく、意見を述べる権利を有するのである。

付録1.旗章、旗印
アッラーの使徒がマディーナに樹立された初期イスラーム国家において以下のように存在していたことからの帰結として、イスラーム国家には旗章と旗印がある。
(1).語義的には「旗章(liw)」、「旗印(ryah)」はアラビア語辞典『包括』によると、どちらも「旗(alam)」を意味する。
 その上で、聖法は用法においてそれぞれに固有の聖法的意味を付与した。
*「旗章」は、白地に黒で「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使徒なり」と書かれている。「旗章」は、軍司令(amr)、軍総揮官(qid)に授けられ、その周囲を巡回する彼の場を示す印となる。
「預言者がマッカを征服し入城された時、彼の旗印は白色だった」(ハディース)
「預言者はウサーマ・ブン・ザイドをギリシャ攻撃軍の司令官に任じ、彼に旗章を授けた」(ハディース)
*「旗印」は、黒地に白で「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使徒なり」と書かれている。「旗印」は師団、旅団、連隊などの軍の下位の単位の司令官たちに授けられる。その典拠はアル=ブハーリーとムスリムが伝えるハディース「使徒はハイバルの戦いで『私は明日、アッラーとその使徒を愛し、アッラーとその使徒もその者を愛する男に旗印を授ける』と言われ、それをアリーに授けた。」である。その時点でのアリーは師団長、あるいは旅団長にあたった。アル=ハーリス・ブン・ハッサーン・アル=バクリーは以下のように述べている「私たちがマディーナに着くと、アッラーの使徒が説教壇に立っておられ、ビラールが剣を手にして彼の前に立っており、多くの黒旗がありました。『これらの旗はなんですか』と私が尋ねると人々は『アムル・ブン・アル=アースが戦いから帰還したのだ』と答えた。」『多くの黒旗がありました』とは、アムル・ブン・アル=アースが軍指令でありながら、黒旗はたくさんあった、つまり師団長、旅団長たちがそれぞれ黒旗を持っていたことを意味するのである。
 それゆえ旗章は軍司令のものであり、旗印は残りの軍、軍団、師団、旅団などのものであった。つまり旗章は一つの軍に一つしかないが、旗印は一つの軍の中にも複数存在したのである。
 それゆえ旗章は、軍司令唯一人の印であり、旗印は兵士たちの印であったことになる。
旗章は軍司令に授けられ、彼の司令部の印となる。つまり軍司令部に固定される。戦闘中には、軍指令自身であれ、軍指令が任命した別の指揮官であれ、戦闘の指揮官が旗印を授けられ、戦場での戦闘中にそれを掲げる。それゆえ旗印(ryah)は戦場で戦闘の指揮官の許に掲げられているので「戦争の母(umm arb)」とも呼ばれるのである。
 それゆえ戦闘中には旗印は全ての戦闘の指揮官の許にあることになり、それは当時においては周知の事柄であり、旗印が立っていることは戦闘の指揮官の戦闘力の印であった。こうしたことは軍の戦闘の慣習に応じて遵守すべき組織行政なのである。
 アッラーの使徒は、ザイドとジャアファルイとイブン・ラワーフの訃報が届く前に、その死を悼まれ「ザイドが旗印を持っていたが戦死し、それからじゃあファルがそれを取ったが戦死し、それからイブン・ラワーフがそれを取って戦死した。」と言われた。
 また戦闘中に軍の総揮官が戦場におり、それがカリフ自身である場合には、旗印だけでなく旗章が戦場に掲げられることが許される。イブン・ヒシャームの『預言者伝』には、大バドルの戦いの話の中で、その戦場で旗章と旗印が掲げられていたことが伝えられている。
 平時、あるいは戦争終結後には、ムル・ブン・アル=アース軍についてのアル=ハーリス・ブン・ハッサーン・アル=バクリーのハディースにあるように、旗印は軍の中に分散され、師団、旅団、連隊に掲げられる。
(2)カリフはイスラームにおける軍総司令官であるので、聖法に則り、旗章は彼の本営、カリフ宮に掲げられる。なぜなら旗章は軍司令官に渡されるからである。またカリフは国家諸機関の行政上の長でもあるので、行政府としてのカリフ公邸に旗印を掲げることも許される。
 他の国家機関、官庁、役所については旗印だけが掲げられる。なぜなら旗章は軍司令だけに、その本営の印として、特別に与えられるからである。
(3)旗章は槍に結び、巻かれ、軍団の数に応じて軍司令官に授けられる。第一軍団長、第二軍団長、第三軍団長、・・・シリア軍団長、イラク軍団長、パレスチナ軍団長、・・・アレッポ軍団長、ヒムス軍団長、ベイルート軍団長・・・など軍の名称に従って、軍団長に与えられる。
 原則は、槍に巻きかれており、例えばカリフの重要性ゆえにカリフ宮の上に掲げられる場合や、平時であっても軍の旗章の栄光をウンマ(ムスリム共同体)が目にするために、軍団長たちの軍営の上に掲げる場合のような必要性がない限り掲げられない。但しこの場合でも敵に軍団長の軍営地を知られる恐れがあるなど国防面で問題が生ずる場合は、原則に戻り、巻かれてしまったままにし、掲げない。
 旗印は現在の普通の旗のように風になびくままにしておけばよく、諸官庁に掲げられる。
 要約:
第一.軍
(1).交戦状態においては、旗章は軍団長の軍営に置かれる。原則は広げず槍に巻きつけておくが、安全が確保できれば掲げることも出来る。 旗印は戦場でも戦闘の指揮官が掲げ、カリフが戦場にいるなら、旗印を掲げることも出来る。
(2).平時には、旗章は軍団長たちに渡され、槍に巻かれるが、軍団長たちの軍営に掲げられることもできる。
旗印は軍の中で、師団、旅団、連隊、大隊やその他の部隊に分散され、各師団、旅団、連隊、大隊やその他の部隊毎に行政的に独自の旗印を持ち、それを掲げても構わない。
第二.国家諸機関、官庁、治安機関
旗印のみが掲げられる。但しカリフ宮は例外で、カリフは軍総司令官であることから、旗章が掲げられる。また行政的にはカリフ宮は官庁の最高府でもあるから、旗章と旗印を共に掲げることもできる。また民間団体や民間人もまた、特に祝日や戦勝記念日などの機会などに、その社屋や自宅に旗印を持ち、掲げることが出来る。

付録2.カリフ国家の国歌
 特定の集団を他集団と、あるいは国家を別の国家と区別するために唱える標語を定めることは許容事項の一つである。ムスリムたちは他国との会戦での標語を作っており、アッラーの使徒の治世にも彼の承認の下にそれを用いていた。「塹壕の戦い」、「クライザ族との戦い」では「ハーミーム。彼らは神佑を得ない。」「ムスタラク族との戦い」では「神佑を得た者よ、私は殺せ、私を殺せ」という標語などを採用していた。
 加えて、アッラーは人間に、聴力、視力、発話能力などの身体的特性を恵み給うたのであり、それは許可の一般的根拠となる。特別に何かが禁止されたとの典拠がない限り、望むがままに、聞き、見、話し、標語を唱えればよいのである。
 それゆえカリフ国家には、他の国と自らを識別するために唱えられる標語を採用することは許される。外交関係において、カリフが他国を訪問するとき、あるいは他国の使節を謁見する時などにそれを用いるのである。同様に一般庶民も、様々は機会に、寄り合い、公共の集会、学校、放送などでそれを唱えることが出来る。朗唱の方法については、大きな声で唱えようと、小さな声で唱えようと、抑揚をつけて唱えようと、抑揚無しに唱えようと、それらは全て許されているのである。ムスリムたちは彼らがそれを唱える機会に応じて心を打つ声で自分たちの標語を吟唱していたのである。
 そこでカリフの諸外国の元首たちとの公式会見で必ず唱えられ、国民(ウンマ)が特定の機会に唱える国歌を作詞することに決めた。アッラーのお許しにより正統カリフ国家が再興された時には、その国歌には以下のような条件が遵守される。
(1)その中で、正統カリフ国家の再来についてのアッラーの使徒の予言が実現し、アッラーの使徒である鷲の旗が再び掲げられることが述べられること。
(2)カリフ国家再興の暁には大地は財宝を吐き出し、天はその恵みを降らせ、不正に満ちた大地を正義で満たすとの使徒の予言について言及する。
(3)参詣される3つのモスク、マッカの聖モスク、マディーナの預言者モスク、そしてユダヤ人機構の根絶の後のエルサレムの最果てのモスクを筆頭とするイスラーム諸地方のカリフ国家への編入後の全世界の征服と善の普及について言及する。
(4)ウンマ(イスラーム共同体)が、アッラーの御望みになる人類最善のウンマに戻り、その最大の目標がアッラーの御満悦であり、アッラーがその恩寵、慈悲、最高の楽園の栄光を授けてくださることを最後に述べて終わる。
(5)国家の中で「アッラーは至大なり」と繰り返し唱える。「アッラーは至大なり」の語は、イスラーム、ムスリムの生活に特別な地位を占める。それはムスリムたちの勝利や祝日に繰り返し唱えられ、感動的なあらゆる場で口を衝いて出るのである。
以上に述べたことに基づき、アッラーのお許しにより適当な機会に、カリフ国家の国歌の全文テキストが本書の付録に収められることになろう。
我々は最後に祈る。万世の主アッラーにこそ称えあれ。

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