『ムスリム・マイノリティー法学』
前書
アッラーは、人間自身の観察と、彼がその地の上、天の下に暮らすマクロコスモスの観察を通じて、彼らが御自身を知るようにと人間を創り給うた。いや、アッラーは、この世界を上の世界も下の世界も、御自身の美しい御名と高貴な属性によって人間がそれを知るためにしか創り給いた。アッラーはそれを聖なる啓典の最後の書の中で示し、クルアーンの中で仰せられた。「アッラーこそは,7層の天と同様に(7層の)大地を,創造なされた方である。(アッラーの)御命令はそれらの間から下って来る。それで,本当にアッラーは,凡てのことに全能であり,またアッラーの御知識が,凡ての事物を確かに包囲なされることを,あなたに分からせるためである。」(65離婚12節)
人はその主を知るなら、彼が彼らを創造し数えきれない恵みを授け給うたが故に義務となる崇拝と服従という彼の権利を彼に与える。
それゆえ彼はその使徒たちを吉報伝達者、警告者として遣わし給うた。彼らが至高なるアッラーへと人間を導き、彼のために彼が愛で給うもの、嫌い給うもの、そして彼が満足し給い怒り給う信条、言葉、行為を明らかにし、人々が意見を違えることについて彼ら(使徒)が彼らの間を裁き、彼らどうしの間の関係と、彼らと彼ら創造主の間に公正な基準を立てるためである。
アッラーはこの被造物を無意味に創られたわけではなく、人々をいたずらに捨て置き、無視し放置し給うことはない。そうではなく彼らを地上における代理人とし給い、彼らにそれ(地)を開発することを命じ給い、また彼にのみ宗教を捧げて彼を崇拝することを命じ給うた。
これは全てアッラーがそれによってその諸啓典を下し諸使徒を遣わし給うた主の聖法、神の道に従っているのである。彼ら(使徒たち)のメッセージは、信条の基本、道徳の母型、唯一神への崇拝の基礎において一致しているのである。「かれがあなたに定められる教えは,ヌーフに命じられたものと同じものである。われはそれをあなたに啓示し,またそれを,イブラーヒーム,ムーサー,イーサーに対しても(同様に)命じた。「その教えを打ち立て,その間に分派を作ってはならない。」」(42協議章13節)
そして彼らの聖法の詳細の規定は時と時間と人間の状態によって異なるのである。「汝らの各々に我らは聖法と道を設けた」(5食卓48節)
これらのメッセージは、アッラーが彼によって宗教を完成させ信徒たちに対する恩寵を全うし給うた預言者たちと使徒たちの封印ムハンマドの使信によって封印し給うた。「今日われはあなたがたのために,あなたがたの宗教を完成し,またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし,あなたがたのための教えとして,イスラーム満足にしたのである。」5食卓章3節)
この使信、あるいは最後のムハンマドの聖法は以下のものを包括している。
(a) 健全な信条。それは人間の存在物、創造主と被造物、存在物と存在付与者、アッラーと人間、生と死、現世と来世に対する観方を但し、信条を理性の錯覚、妄想の酔言、妄執の迷誤、宗教を売り物とする者の歪曲から純化する。
(b) 永遠の使信は宗教儀礼をも含む。それはアッラーがそのムスリムのしもべたちに課し給うたものであり、彼らをその主と繋ぎ彼ら自身を清め心を浄化し主の自分たちへの恩寵への感謝を果たし、彼への完全な隷属を達成するためである。
(c) またどうように道徳、高貴な特性をも含む。それで人間を高める、あるいはそれによって人間が高められ、動物や野獣と区別されるようになるのである。それは家畜のように本能のみの支配下にあるのでもなく、野獣のように牙や爪によって統御されているのでもない。(人間は)健全な天性の徳、鋭敏な理性、正しい行状によって統御されているのである。そしてそれは最善の手本によって体現されていたのであるが、それはその人格がクルアーンであったムハンマドであったのである。彼は言われた。「私はただ正しい道徳 -あるいは高貴な道徳 -を完成させるためだけに遣わされた。」
この人類最後の神の使信は、個人の生活、社会生活、国民生活、諸国民、諸国家の相互関係を律する律法をも含んでいる。
そしてそれは包括性、バランス、補完性、主的、道徳的、人道的、国際的価値の尊重によって特徴づけられる。
同様に、それはいかなる場合においてもその現実主義、利便性(yusr)によって特徴づけられる。それは人間の福利の実現と現世と来世でのその物質的霊的向上を目指す合理的で理解可能なものなのである。
この使信、あるいはムハンマドの聖法は、場所、時、人間の諸問題について一般性を有する聖法である。
それは人類全体に対する、あるいは万世に対する聖法であり、またそれはあらゆる世代に対する聖法であり、その啓典(クルアーン)以後に(新しい)啓典はなく、その預言者(ムハンマド)の後に(新しい)預言者はいない。そしてそれは生の全てのための聖法である。なぜならそれは生をアッラーと、カイサルとであれ他の被造物の誰とであれ分割することを認めないからである。そうではなくカイサルもカイサルに属するものも唯一無二のアッラーに属する。
それはあらゆるムスリムに対してどこにいようと、いかなる状態にあろうとも、いつであろうとも、その能力と状況に応じて拘束する義務となる聖法であり、聖法が正しく考慮するその不可欠性と必要性を斟酌するものである。それはそのムスリムが為政者であり、臣民であれ、男であれ女であれ、豊かであれ貧乏であれ、旅行中であれ定住者であれ、イスラームの家の中にいるのであれ、イスラームの家の外にいるのであれ、ムスリム社会の中にいるのであれ、非ムスリム社会の中にいるのであれ同じである。しかし英知に満ちた寛大な聖法は全ての人間の状況を考慮し、困難を負わせず、宗教における難儀を押し付けず、担いきれない試練を課さない。それゆえムスリムは西洋であれ東洋であれ、イスラームの祖国の中であれ、その外であれ、イスラームが治めるか、世俗主義が支配的な国であれ、聖法自体が確証している通り、自分の能力に応じて自分の生活においてイスラームの聖法と方法論に裁定を求めることを命じられている。
それゆえ、聖法の効力の範囲の外で生き「私は聖法の規範、宗教の義務負荷を免じられている」と言えるムスリムは存在しない。但し聖法自体が、その諸原理、諸原則、諸規範、諸典拠に則って免じている場合を除くのである。
それゆえ我々は、以下の前提の光の下に、「マイノリティーの法学(Fiqh)」、「異邦人の法学」、「非ムスリム社会の法学」の研究を行う。つまり、彼らはどこに居ようともイスラームの義務負荷とその聖法の諸規範の実行を求められているムスリムなのである。「東も西も,アッラーの有であり,あなたがたがどこに向いても,アッラーの御顔がある。」(2雌牛115節)
それゆえ彼らは信仰の契約の義務によりその諸規範を課され拘束されるムスリムなのである。至高者がクルアーンの中で仰せの通りである。「信仰する男も女も,アッラーとその使徒が,何かを決められた時,勝手に選択すべきではない。アッラーとその使徒に背く者は,明らかに迷って(横道に)逸れた者である。」「33部族連合章36節」
また至高者は仰せである。「本当の信者たちは,裁きのため,アッラーと使徒に呼び出されると,「畏まりました。従います。」と言う。本当に,そのような人々こそ栄える者である。」(24御光章51節)
それゆえムスリムはその信仰と帰依を完成するためにイスラームの信条、崇拝、道徳、立法の全てを受け入れる必要がある。その全てがクルアーンとスンナの中に一つの構造の中で命令、禁止、許可の形で語られている。そして(クルアーンとスンナの)明文はこれらの種類の全てを促し脅し約束し威嚇している。それゆえ決してその一部を受け入れ一部を拒むことは決して許されない。このような宗教の分割について、アッラーは「あなたがたは啓典の一部分を信じて,一部分を拒否するのか。凡そあなたがたの中こんなことをする者の報いは,現世における屈辱でなくてなんであろう。また審判の日には,最も重い懲罰に処せられよう。アッラーはあなたがたの行うことを見逃されない。」(2雌牛章85節)と仰せになり、それをイスラエル人に対して非難している。
そしてアッラーは「それでアッラーの下されるものによって,かれらの間を裁き,決してかれらの私・に従ってはならない。アッラーが,あなたに下される(教えの)どの部分についても惑わされないよう,かれらに用心しなさい。」(5食卓章49節)との御言葉でその最後の使徒に語りかけ給うている。
しかしこの最後の聖法の特徴の一つとして、それは人々の現実と地上におけるその数々の問題を無視して空想、夢想に飛翔したりはしない。そうではなく、それは現実主義であり、人間の現実と、その不可欠性、必要性の圧力の下にある弱さを考慮し、時代と場所と状況、そして周囲の物、周囲の者に影響を受ける程度を知っている。それゆえそのファトワー(教義回答)がその条件に応じて変わり、人間から困難を除去し、人を最高の理想から最低の現実に引き下ろし、彼らに猶予を与え重荷と嵌められた枷を取り除いたとしても不思議はない。
この偉大で容易で寛大で簡潔な聖法の諸規範は、全ての責任能力者たちにその状況や状態を考慮することなく適用されるような印紙、型どおりの決まり文句ではない。そうではなくそれは、あらゆる状況にその衣服を着せ、あらゆる問題に、それに押し付けられた外からの移植ではなくそれ自体の内部からのそれに相応しい解決を与えるのである、
我々は、「アッラーにしっかりと縋っている者は,必ず正しい道に導かれるのである。」(3イムラーン家章101節)との至高なるアッラーの御言葉を固守し、この研究において、この真実に、光を投げかけるものを見出すことできるであろう。
(1)ムスリム・マイノリティーとその法学的諸問題
専門用語としての「マイノリティー」の意味:
ここで我々の論ずる専門用語としての「マイノリティー」とは何を意味するか。
移民の増加と世界が互いに近くなったことの結果として、現代では、この語は流布している。それによって、「いかなる地域においてであれ、宗教、宗派、人種、言語など、人間集団が互いに区別される基本事項において、その住民のマジョリィティーから区別されるあらゆる人間集団」を意味する。
その例として、西洋におけるキリスト教、中国の仏教、インドにおけるヒンドゥー教徒社会のムスリム・マイノリティーがあり、それは信条と宗教においてマジョリティーと異なっている、そおれはエジプト、シリア、イラクなどのキリスト教徒マイノリティー、モロッコ、イラン、トルコなどのユダヤ教徒マイノリティーとも同じであり、また世界の多くの国々のカトッリクのマイノリティーも同じである。
またアルジェリヤやモロッコのベルベル人、イラン、イラク、トルコ、シリアのクルド人のような人種的マイノリティーもある。
またカナダ(モントリオールとその周辺)のフランス語話者のような言語的マイノリティーもある。
世界のマイノリティーの中で最も目立つのは宗教的マイノリティーであり、それをめぐってそこここで問題が発生している。
マイノリティーに必須なこととして、大抵の場合、マジョリティーを前にして劣勢であることがある。なぜなら多勢は力を生むのに対して、少数であることは弱さを生み出すからである。
クルアーンは恵みを示し、恩寵を思い起こさせるために、多勢について、我々に語っている。それは自分の民に語りかける(預言者)シュアイブの「お前たちが少数であったが、(アッラーが)汝らを多数となし給うた時のことを思い起こせ」(高壁章86節)との言葉を通してである。
バドルの戦いの後のムハージル(亡命者)たちへの恵みについての至高者の御言葉「汝らが地上において虐げられる少数者で人々が自分たちを陵辱するのではないかと恐れていたところを(アッラーが)神佑により住まいを授け助け給うた時のことを思い起こせ」(戦利品章26節)も同様である。
古のアラブ詩人は「ただ栄光は数にあり」と述べており、アムル・ブン・カルスームは自部族の数を誇って詠っている。
我らは陸を満たし、手狭になった。 我らは海、船で満たす。
サムエルは自部族の少なさを弁解して述べている。
我らの数の少なさを見下す。私はそれに対して言う、まことに高貴な者は僅か。
この数的な少なさのために、往々にしてマイノリティーはマジョリティーからの不正や迫害を蒙る。特にマジョリティーに党派主義や他者への優越思想が支配的な場合にはそうである。それゆえ地上のどこでもマイノリティーがマジョリティーに対して自分たちの存在を維持するために自分たちで糾合し団結するのを見出す。もっともイスラームのマイノリティーは人々の中でこの団結、一致において最も欠けているのである。それは彼らの宗教(イスラーム)が、彼らの間を繋ぐべきイスラームの同胞愛、彼らを一つの身体のようにみなすべきイスラームの信条の規定により、犯罪や敵対においてでなく篤信と敬虔において補完しあい、団結し、助け合うように彼らに勧めているにも関わらずなのである。
イスラーム・マイノリティー
ムスリムはその居住地によって二種類に分かれる。
第一類:イスラーム法学者が「イスラームの家(Dar al-Islam)」と呼ぶもの、現代の我々の用語では「イスラーム社会」「イスラーム国(bilad Islamiyah)」、の内部に住む者である。それ(「イスラームの家」「イスラーム社会」「イスラーム国」の用語)によって我々は、住民の多数派が少なくともアザーン(礼拝告知)、礼拝、斎戒、クルアーン朗誦、モスク建立、巡礼の許可などの宗教儀礼の挙行においてイスラームを公言しているムスリムであり、結婚や離婚などの家族規定を自分たちの宗教(イスラーム)の規範に従って行っている国を意味している。
第二類:イスラーム社会から遠く離れて「イスラームの家」、あるいは「イスラーム世界」に外に暮す者。
この類は二種に分かれる。
第一類:古にイスラームに入信したその土地の原住民であるが、彼らの他の非ムスリムの住民と比較してマイノリティーである者。
これらのマイノリティーはインドのムスリム・マイノリティーのような1億5千万人にも達するほど巨大でもありうるし、それより少なくもありうる。マイノリティーのあるものは数千人にも達しない。
それらの中には北アフリカの数百万人があるが、その大多数は無理やりに奴隷として連行された者であったが、(本来)自由人の子孫の自由人であった。
またそれらの中にはブルガリヤなど東欧の数百万人がいる。
第二種:仕事、亡命、勉学など合法的な理由でイスラーム国から非イスラーム国にやって来てその国の合法的居住許可を得た移住者。彼らの一部は国籍を取得し、その地域の憲法の認める市民権や選挙権を得ている。
西洋におけるムスリム・マイノリティー
「
トルコのヨーロッパ側、アルバニヤ、ボスニア、ヘルツェゴビナ、コソボ、マケドニアなどの、彼らの一部はその国の原住民である。これらの者はマイノリティーとみなされてはならない。なぜなら実のところ彼らの国はイスラーム国だからであり、クロワティヤ、セルビア、モンテネグロ、ブルガリヤのムスリムなども、彼らはその国の住民だからである。
また西欧人で新たにイスラームに入信した者もいる。フランスのマグリブ諸国からの移民- そこ(フランス)の最大のイスラーム移民で約500万人 - で彼らに組み込まれる者もある。彼らの一部はフランス国籍を取得しており、他の者は権利を有する合法的な滞在許可を得て居住している。
ドイツのムスリム移民も同様で大半はトルコ人であり、約300万人に達し、多くはドイツで生まれている。
イギリスにもムスリム移民がおり、その大半は、インド、パキスタン、バングラディシュなど英連邦出身である。
またオランダ、ベルギー、ハンガリー、イタリヤ、スペイン、スカンジナビア諸国など、西欧の多くの国々にもムスリムがいる。
ムスリムたちはかねてよりヨーロッパで自分たちのアイデンティティーを自覚し始めており、総合的なイスラーム覚醒が生じている。彼らは自分たちの存在を維持するために様々な宗教、文化、社会、経済団体、礼拝のためにモスク、子弟教育のための学校、専門家養成のための単科大学、総合大学を設立し始めている。ヨーロッパにおけるムスリム移民のために特記すべき団体として、フランスの、イスラーム団体連合、イスラーム研究ヨーロッパ大学があり、既に多くの学生が卒業している。同様な者はイギリスにもあり、ファトワー(教義回答)発布・研究ヨーロッパ評議会も、既に7回の大会を開き、重要な多くのファトワーや勧告を発し、ムスリムの多くの問題を、聖法とその目的の光に照らして解決してきた。
イギリスには「イスラーム組織」、「イスラーム庇護の家」、ロンドンのイスラーム・センターなどの多くのイスラーム諸組織があり、パリ、ローマ、アイルランドのダブリン、ドイツのミュンヘン、アーヘン、ケルン、そしてスイスのジュネーブなど、ヨーロッパの国々にも多くのイスラーム・センターがある。
アメリカ合衆国とカナダにもムスリムがおり、その数は700万人以上と見積もられており、その大半は自由人の子孫の自由人でありながら強制され鎖で奴隷にされ祖国から攫われて来たアフリカ系ムスリムである。
彼らは最も残酷な拷問、迫害を被り、病気や拷問で殺されて死ぬ者もあった。
彼らの多くが奴隷解放後、「彼らの出自」に回帰し、彼らの多くが自分たちが本来ムスリムの子孫のムスリムであることを知った。彼らの少なからぬ者たちのイスラーム(回帰)は歪んだ混乱したものであったが、アッラーは彼らに彼らのためにそのイスラームを正す最良の人々を用意し給い、彼らは真のイスラームからの追放の後にそれに戻り、大きなイスラームの隊列に参入したのである。
そして彼らに、アラブ・イスラーム諸国からの新人たちが加わり、中にはアメリカやカナダの国籍を取る者、これらの国々における居住圏を獲得する者も現れた。
そして彼らにはその数、活動、士気に相応しい宗教、教育、文化、社会、それどころか政治組織が生じている。
東洋におけるムスリム・マイノリティー
世界各地のイスラーム・マイノリティー、移民の状況の中でも東洋のマイノリティーについて忘れてはならない。その中にはインドのイスラーム・マイノリティーのようにムスリム人口約1億5千万人と推定される巨大マイノリティーもある。彼らには自分たちの伝統、モスク、イスラーム学校、文化、アイデンティティーがあり、彼らはインド文化の形成に深甚な貢献を成した。インドが世界各地の観光客を引き付ける遺跡のいかに多くがイスラーム遺跡であることか。またイギリスの植民地支配からの独立戦争、解放闘争における彼らの参加も顕著なものであった。
最近までムスリム・マイノリティーの国々とみなされていた純粋なイスラーム諸国がある。それは(中央)アジアの諸イスラーム共和国、ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、アゼルバイジャンなどである。かつてソ連時代に私は言った。「これらの諸共和国をイスラーム・マイノリティーと呼ぶことは明白な不正である。それは純粋なイスラーム共和国であり、強制され力づくでソ連に組み込まれただけである。」
ロシア共和国にはコーカサスやタタールなどの約2千万人の様々な民族のムスリムがおり、その中にはロシアからの独立達成を求めて今も戦い続けているチェチェン人がいる。彼らは血統、言語、国土、歴史、宗教のいずれにおいても自分たちとロシアを結び付けるいかなる絆があるとも感じていないのである。
中国には数千万人のムスリムがいる。中国の統計学者は出来る限り彼らの人口を少なく見積もろうとしている。文豪シャキーブ・アルスラーンはウジャージュ・ヌワイヒドが翻訳した『イスラーム世界の現在』に対する彼の有名な注釈の中で約70年前のその時点でムスリムの数は5千万人以上だと述べた。もし我々がこの間の世界のムスリムの人口増加率に基づいて彼らの数を推定するなら、彼らの人口は1億5千万人以上となろう。
また実のところムスリムのマジョリティーを抱える国であるが、西洋がそれをキリスト教国にし、そこのムスリムをマイノリティーにすることに固執する国がある。統計数字がその主張を半焼しているにもかかわらず。その例はエチオピヤ、エリトリア、チャドにおいて明らかである。
またタイ、ミャンマー、シンガポール、スリランカなどや、タンザニヤ、ウガンダ、ケニア、ガーナ、コンゴ、ナイジェリア、南アフリカなどのような、重要な(ムスリム)マイノリティーを要するアジア・アフリカの多くの国がある。
西洋のムスリム・マイノリティーとイスラームの関係の発展
ムスリム・マイノリティー、特に元のイスラーム諸国からの移住者たちは、イスラームとの関係において、思想、情緒、行動様式的に、様々な段階を経てきた。
最初の段階では、文字通りの「喪失」であった。意識がなく、イスラームへの帰属、イスラーム的アイデンティティーの十分な自覚さえなかった。
それはカリフ国が敗北し連合軍が勝ち西洋世界がその文明を輝かせ、イスラーム世界が以前にはその諸国が経験したことのなかったその(西側)植民地権力の下に入った第一次世界大戦後に始まった。
イスラーム・マイノリティー -あるいはイスラーム・マイノリティーと看做されたものと言うべきか- はその時点では二つの種類のムスリムの形をとっていた。
1. その国の原住民
2. イスラーム世界からの新移民
その国の原住民については、その大半は共産主義の鉄槌の支配下にあった東欧とロシアであった。彼らの中には、ボスニア、ヘルツェゴビナ、コソボ、マケドニア、アルバニア、ブルガリア人などがいた。彼らは信条、聖法、道徳、文化的に、イスラームから遠ざかり、また他のイスラーム共同体からも遠ざかった。彼らは思想面でイスラームについて無知、行動様式においてもイスラームから懸け離れた者となった。彼らをイスラームと繋ぐものは、父母から息子や娘たちに教えられた「アッラーの他に神はなくムハンマドはその使徒なり」との信仰告白だけとなってしまい、その意味内容もそれを唱えた者が守るべき果たすべき義務と避けるべき禁忌も知らなかったが、その信仰告白のおかげで、イスラーム、使徒の人格、聖クルアーン、あるいは彼らが名前だけを知りその読み方も知らないままにその外形を尊崇しているクルアーンの書物に対する漠然としたイスラームに対する愛着があったのである。もっともそのクルアーンの書物すらなかなかお目にかかることができなかったのであり、どうにかそれを見つけた者は、大切な宝物を見出したかのさまであったのであるが。
あの時点においては、強制的にソ連に組み込まれその政治構造の一部となったことから、ウズベキスタン、カザフスタン、アゼルバイジャン等のソ連の(中央)アジアイスラーム共和国が、このイスラーム・マイノリティーのカテゴリーに入った。この意味でそれはイスラーム・マイノリティーである。あの時点では私は言ったものだ。「それらは完全なイスラーム地域だ。ソ連への力ずくの加入はそれからイスラーム的性格を奪わない。」
ともあれ、それがその諸国の原住民のムスリム・マイノリティーの実態であった。
アラブ・イスラーム諸国からの移民の状態について言えば、先ず、それは僅かしかいなかった。そして移民の多くは、その宗教心がしっかりしておらず、生活の糧と金を求めてであった。彼らはその(西洋)世界について何も知りはしなかった。彼らはイスラームが弱体化していた国から移民したのである。それゆえ彼らは移民したのである。そして西洋世界がその力と勝利の絶頂にあるように見えた時の、このような彼ら自身の特殊事情、彼らの民族の一般的事情のために、彼らは自分たちのアイデンティティー、自分たちの宗教の要請を考えようとはしなかったのである。その結果が、第一世代と第二世代、特に第一世代の喪失である。彼ら(第一、第二世代)は新しい世界に完全に溶け込んでしまった。なぜなら彼ら融滅から護る信条もなく、彼らを庇護する避難所、守る番人は全く存在しなかったからである。
その最も顕著な現象がオーストラリアへのアフガン人の初期移民である。彼らの多くは文盲で彼らの第一世代はモスクを建てたが、オーストラリア女性と結婚し、彼らの子供たちは母親の宗教に染まって育った。それゆえ、その後になって、我々はただそのモスクの建物だけを見出すのであり、そこで礼拝、崇拝、学問を行う者は見かけられないのである。
南米、特にアルゼンチンでも同様で、第一世代は原住民たちの中に溶け去ってしまい、彼らの中には(カルロス・ムヌイム大統領のように)公然とキリスト教に改宗した者まで我々の目につくのである。
その後でムスリム移民たちは自分たちの目から無知の埃を払い落し始め、自分たちの出自と自分たちには自分たち独自の信条と特別な使命があるとの宗教的アイデンティティーへの思慕を感じ始め、イスラーム世界のムスリム同胞たちとのコンタクトし、彼らにモスク建設やイスラーム学者や伝道師の派遣の援助を求め始めた。
おそらくこうした新しい覚醒は、古い移民の後に続いた新人たちのせいであろう。彼らが死者を蘇られ、停滞を活気づけたのである。おそらくそれは自分たちの故郷での迫害により亡命を強いられた者たちである。それゆえ彼らは自らの宗教(イスラーム)を携えてこれらの国々に亡命し、そこに新しい種を植えたのである。アッラーはそれから多くの種類の実を結ばせ給うた。「アッラーがいかに良い言葉の譬えを挙げ給うか見ないか。良き言葉のようで、その根はしっかりしており、枝は天に伸び、その主の御許しを得て、いつもその実を結ぶ。」(イブラーヒーム章24-25節)
これをもってムスリム・マイノリティー、特に移民にとっての新時代が始まった。この時代は段階を経てより強く堅実に発展し、今日我々がヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、極東、アフリカで目にし見ているような段階に達したのである。それは「イスラーム覚醒」と呼ぶことのできるものである。
そしてこのイスラーム覚醒はネィテブ・ムスリムにも影響し、彼らは深い居眠りから目覚め、国ごとに違った形ととりながらも、イスラームの機関車に力強く参入し始めた。
この(ムスリム)マイノリティーの新時代の段階を我々は以下のように区分することができる。
1.(ムスリム)アイデンティティー自覚段階
2.覚醒段階
3.行動段階
4.集合段階
5.建設段階
6.土着化段階
7.相互作用段階
そして我々は今やこの社会との積極的相互作用段階にある。そしてこの段階においては引き籠りと自分たちだけへの内閉、他者への対応の警戒の余地はない。既にムスリム・マイノリティーはしっかりとした土台の上に立ち、自分に自信を持ち、自己に誇りを抱き、自己のアイデンティティーの表現、自己の存在の防衛、独自性の表出、そして自分たちの有する人類への文明的メッセージの提示が可能となっているのである。
(移民は)かつてはモスクが必要だとその建設におおいに熱中していたのであるが、この段階においてその学術、教育、伝道諸組織を整えつつある。というのは、それ(モスク)はムスリム社会の最初の組織だからである。
その後、発展するにつれて、ムスリムの子弟が同輩たちが教科書のカリキュラムを学ぶのと同様に宗教の基礎を学ぶためのイスラーム学校の建設に関心を向けた。
その後、更に発展すると、時代に適した導師や伝道師、現代的な有資格の教師、そして本物のイスラーム文化に習熟すると同時に同時代とその諸潮流と、諸知識、諸問題、諸発展の中で生き、聖法から同時代の諸問題を解決するものを引き出す法的推論を行う時代に即した聖法の学者の養成のためのイスラーム研究の高等学院、専門大学の設立を考え始めているのである。
マイノリティーについての法学的問題
この原住民と移民の二種類のマイノリティーには、多くの苦情の訴えのある問題がある。一部はマジョリティー側からの彼らの権利に対する侵害や彼らの宗教的特殊性への無配慮のような政治問題であり、一部は経済問題である。というのは、大抵の場合、これらのマイノリティーは、横暴なマジョリティーが彼らの生活水準や糧を勝手に算定するために限られた収入しかない貧者だからである。また一部は文化問題であり、マジョリティーの文化が、ムスリムの独自なその特殊な信条、価値観、アイデンティティーを構成する文化を無視して教育、情報、広報センター、公共生活などを支配していることから生じている。
ムスリムの問題の多くはイスラーム法学的性格を有する。それはその国のムスリム・マイノリティーが自分たちの宗教的アイデンティティー、イスラーム的信条、崇拝儀礼、結婚、離婚、家族問題の聖法の諸規範、食べ物、飲み物、衣服の問題におけるハラール(許されたもの)とハラーム(禁じられたもの)、その他の対人関係行為、人々との、特に非ムスリムとの関係について、彼らから遠ざかるべきか、彼らと交わるべきか、またどの程度までの交際が許されるか、についての知識をしっかり持とうとの願望から生ずるのである。
四分の一世紀以上前にヨーロッパ、アメリカ、極東のムスリムの訪問を始めて以来、どんな町や地方に滞在して講演や講義を行った時も、本流のような質問の雨を浴びないことはなかったが、多くの場合、それらは類型的であるか、重複していた。なぜなら全員が同じ境遇に暮らし、共通の願望を持ち、同じか類似の問題に悩まされていたからである。
彼らの質問は特に移民たちは最初に先ず、その西洋世界に彼らがいること自体について、果たしてそれが合法的であるか、非合法であるか、別の表現をするなら、不信仰の国に滞在することが許されるか、許されないか、から始まる。また「多神教との間で暮す全てのムスリムとは私は無縁である」とのハディース、「多神教徒と交わる者はその同類である」とのハディースのような、それを禁ずるハディースは何を意味するのか。そのハディースはそもそも真性なのか。
自分の宗教(イスラーム)、あるいは息子や娘たちの宗教に不安がある場合、非イスラーム的、あるいは非道徳的な環境で暮らしムスリムがそこに滞在することに対する規定は何か。
ついで居住権以上のもの、その国の国籍取得が来る。それはムスリムに物質的、概念的な権能を与える。それは彼に本来の国民と同様の定住圏を与えるので、誰も彼を思うままに追放することはできなくなる。またそれは選挙権や、候補推挙、その他の、多くの重要な権利を与える。それでムスリム団体が団結、協調、強力するなら、政治的圧力団体、「ロビー」を形成することも可能になる。そして諸政党への支持を示し、彼らを自分たちの味方につけるように試み、ムスリムは諸政党と候補者の選択にあたって重要な役割を果たし、彼ら(候補者)の中で自分たちの価値観に最も近い、あるいは自分たちの利益と権利、あるいは自分たちの共同体の重大な諸問題について最も顧慮してくると思う者を選ぶことができる。
しかしこの国籍には、それについての聖法の規定を明らかにする必要のある諸事項が付帯する。それはその国籍を取得する者が唱える宣誓の文言である。その中には憲法、あるいは公共秩序に対する尊重の明言も含まれる。それはイスラームと背反しないのか>
またそれはムスリムにその国家の軍隊への徴兵を課す場合もあろう。それには問題はないが、その国家がイスラーム国(bilad)に宣戦したなら、その場合のムスリムの立場はどうなるか。その国家に背くのか、ムスリムの同胞と戦うのか。全てのムスリムは、ムスリムに対してその血(身体、生命)、財産、名誉が不可侵であるのではないか。
また質問され、通常そうした国を訪問した全ての宗教(イスラーム)学者が尋ねられる問題の一つが。その国民が屠殺したもので我々が屠殺の聖法に適った条件を満たしているか否かを知らないような市場で売られレストランで調理して供される肉についての規定は何か、である。
屠殺された肉はムスリムの屠殺肉の条件の全てを満たす必要があるのか、それともアッラーがその食物を我らに食することを許し給うた「啓典の民」の屠殺肉には一部の免除規定が許容されているのだろうか。また我々は探求し、詮索し、追及しなくてはならないのか、それとも我々には隠されたことについては尋ねずにそれに対してアッラーの御名を唱えて食べるべきなのか。
また元は豚脂から製造されていたかもしれないが、化学的に変質した、あるいはイスラーム法学者の用語では「その不浄性が変化した」、ゼリーのような食品、食品以外の石鹸のようなもの、あるいはゲル状物資の規定はどうか。
また時に豚であったり他の動物であったりする内臓から採取されることもある凝乳物が混ざっているかもしれないチーズの規定は何か。もし豚由来である可能性が高いと思った場合の規定は何か。
またもし豚由来であった場合、その凝乳物は不浄か不浄ではないか。もし不浄であった場合、チーズ生産において許されない量はどれだけか。それともその混入により免責されるものに数えることができるのか。
豚肉や酒類が供されるレストランでムスリムが働くことの規定は何か。酒を豚を飲食しない場合、そこでの食事の規定は何か。
殆どの消費が合法であるが豚や酒を売っている店(小売店やスーパーマーケット)でムスリムが働くことの規定は何か。
もし法律がそうした禁制品を割合は僅かでもそこで売ることを強要している場合、そうした店をムスリムが開店することが許されるか、それともムスリムはそうした商売は全面的に禁止されるか。
個人的には当人には出されなくともお客に酒や豚が供される宴会にムスリムが招かれた場合のムスリムの規定は何か。言い訳して招待に応じず、周囲の社会から絶縁して暮し、それによってムスリムに対して悪いイメージを抱かせることになってもか。それとも社交と共生のために招待を受けるべきか。
非ムスリムに対するサラームの挨拶の規定は。またその(非ムスリム)の結婚式や決まった披露宴に出席する社交の規定は何か。またその祝日、特にクリスマスなどの宗教的祭日の挨拶の規定は何か。特に彼らがムスリムの祝日に挨拶をしている場合はどうか。
当該国で当局を通じて成立した結婚の規定は何か。ムスリムが執行したのでなくとも、イスラーム法上有効な結婚と看做されるか。それともモスクやイスラーム・センターなどで(イスラームの)宗教家の手による結婚契約が必要か。それには政府当局からの結婚証明は不要か。
政府当局によって成立した離婚をムスリムの夫が否定した場合の規定は何か。というのは、ムスリムでない裁判官による離婚であるから。
法律が許さない場合、既婚ムスリムが -事実婚として- 第二夫人と娶った場合の規定は。
妻が夫と対立した場合、誰が彼女の権利を保障するのか。イスラーム・センターの導師は法律に反してそうした結婚契約を結ぶことが許されるか。
その国で一人でいることが困難な環境に迫られて後見人無しに結婚することが(ムスリマ)女性に許されるか。あるいは移民の長や(イスラーム)センターの導師などを後見人として。
西洋人女性との結婚は許されるか。西洋人は啓典の民と看做されるか、それとも無宗教者か。そこではその結婚に条件や制約があるか。
女性がイスラームに入信したが、夫が彼女と一緒に入信しなかった場合の彼女の規定は何か。彼女と夫は離縁になるか、それとも別の解決があるか。
その国の法律では両親が自分がその全てあるいは一部を受け取る資格のある遺産を残して裕福な父、母が死んだ者は、自分や家族や兄弟やイスラームの宣教のためにどうしてもそれが必要でも、ムスリムと不信仰者は相互に遺産相続をしないため、それを放棄するのか。それともそのムスリムには両親の遺産に対して(受け取ることができる)緩和規定があるか。
その国に他にない場合、有利子銀行や保険会社との取引の規定は。
そうせざるを得ない場合、我々はそれに自分の財産を預けることが許されるか。我々は利子つきでそれを預け、その利子を貧者か、資金が見つからず必要としているイスラーム団体に与えるために取ることは許されるか。
有利子銀行から借金して家を買うことの規定は何か。家主に介入されることなく自分の家族と客のために自由にできる家をムスリムが必要とするためである。買主が銀行に払う分割払い分と利子は月々の家賃と等しいか同じくらいであるとしてである。
可能であれば選挙や立候補、そうでなければどこかの政党の支持、あるいは加入と党員資格取得、あるいはムスリムに最も役に立つ候補者の支持などによる国政への参加の規定は何か。
ムスリムには自分たちの要求を表現する独自の政党の結成は許されるか。
モスク、学校、クラブ、社会、文化、経済団体の設立などのムスリムの間での集団行動の規定は何か。
以上、個人、家族、社会、文化、経済、政治、国際関係の様々な生活領域におけるこれら多くの多岐にわたる諸問題があり、そして我々がそれについての(イスラームの)宗教的立場を(知りたいと望み)、またムスリムが自分の宗教の教えを護って生きたいと望んだ場合にそれについてのムスリムの立場を知りたいと望むような諸問題がある。
それらは我々にイスラームがたとえ「イスラームの家」の外にあってもイスラームがムスリムの行動と思考に深甚な影響を与えていること、イスラームの故郷からの移民が自分の宗教、主、聖法を忘れさせることがなく、アッラーが自分を嘉し給うように、自分の宗教とその聖法の支配下から離れないように、と切望していることを示しているのである。至高なるアッラーは仰せである。「アッラーにこそ、東も西も属する。汝らがどこを向こうと、アッラーの御顔がある。」(雌牛章115節)また使徒も言われている。「どこにいようとアッラーを畏れよ。」
西洋諸国などのムスリム・マイノリティー、移民から提出されたこれらの問題は、西洋であろうと東洋であろうと、イスラームの家の中であろうと外であろうとどこにいるのであれ責任能力者の全ての行為について通暁した賢明な聖法の学者たちによる回答を要している。
そしてこれらの問題の多くにはイスラーム学者たちが答えているが、彼らの従う学派の違い、寛容であったり偏狭であったり、物事を易しくしたり困難にしたりするそれぞれの傾向に従って見解が分かれている。
一部の者は優れたイスラーム学者であるが、これらのマイノリティーの置かれた状況、非ムスリム社会での彼らの苦難への認識が欠けている。そして彼らに対しては、ただ本の中で読んだことだけから、イスラーム学者が、彼らの現実の理解、彼らの必要と需要に対する十分な研究無しにファトワー(回答)を発するだけでは足りないのである。
それゆえ我々には洞察に満ちた法学(Fiqh)、現実に適した法学、時代に応じた法学が必要なのである。(クルアーンとスンナの)明瞭な明文、聖法の諸原則と目的から出発しながらも、時代と場所と人々の状況の変化を考慮する法学である。そしてそれが我々が本書で光を当てようとしているものなのである。成功はアッラーの御許にあり、神佑もまた彼の御許から。
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