序
日本語の「豊か」と訳させるアラビア語の単語は「ガニー」、「貧しい」と訳される単語は「ファキール」である。
このガニーとファキールはクルアーンでは、「人々よ、お前たちはアッラーを必要とする者(ファキール)であり、アッラーこそは自足し(ガニー)賞賛されるべき御方であらせられる。」(35章15節)、ガニーはアッラーの属性、ファキールは人間の属性として、対照されている。
アラビア語において、ガニー(豊か)の基本的な意味は、いかなるものも必要としないことであり、逆にファキール(貧しい)とは、何かを必要とすることである。
ガニー(豊か)とはモノに満ち溢れた状態ではなく、ファキール(貧しい)とは、モノが不足している状態ではない。モノがいかに満ち溢れていようとも、巨万の富を所有していようと、それらに依存しているなら、その者はファキールであり(貧しく)、逆にモノをなに一つ持たない(「慈悲遍き御方」章48節)無一物であろうとも、それで自足しているなら、その者はガニーなのである。
究極の富者であるアッラーは、他のいかなる存在者をも必要とせず、ただ独り自存する御方である。世界創造以前、アッラーはただ独りおわし彼に並んで存在するものは何もなく、そして現在もまたそうである、と言われる。それゆえ真に豊かな者ガニーは、アッラーをおいて存在しない。
アッラー以外の被造物は、無から生じ無に帰し、その束の間の存在の一瞬において、その存在する場がなければならず、またその内的構成要素と外的条件が揃うことをも必要とする。被造物はどれも単独で存在することはできず、他の被造物を必要とするが、その必要とされる他の被造物もまた単独で存在することはできず、更に別の被造物を必要とする。いかなる被造物も自存することはできない。自存することのできないものは、先在する何かに拠ってしか存在することができず、自存することができない被造物の世界は、存在論的に等位にあり同じく先在者を必要とする他の被造物から生ずることはできない。被造物の世界が存在するためには、先在者を必要としない無始の自存者が必要とされる。
被造物はその存在のために、他者を必要とする、即ちファキール(貧者)であるが、被造物の存在の最終根拠となる、もはや他に何者も必要としない絶対他者が、無始の(カディーム)自存者(カイユーム)である究極の富者(ガニー)、アッラーなのである。
全ての被造物は、その存在自体を他者に依存しているがゆえに、本質的にファキールでしかありえない。しかし全ての被造物は、それが存在する限りにおいて、その瞬間毎に存在の要件を過不足なく完全に充足している、とも言える。被造物は、その存在において、その存在の前提となる時空自体を含めて、その存在の要件となる他の全ての被造物の存在とその存在の障害となる全ての被造物の不在を微塵の過不足も無く同時的に与えられることによって始めて存在する。全ての被造物は、相互依存のネットワークの一部であり、無限の必要を本質とするファキールでありながら、同時に創造主アッラーに拠ることで、その無限の必要の全てを過不足なく与えられたアッラーに拠るガニーでもある。
被造物は全て、それ自体としては本質的にファキールであると同時に、アッラーに拠って過不足なく完全にガニーであり、その意味において、「貧/富(ファキール/ガニー)」の区分は存在しない。動物の餌が無くなり死に、生命が失われるとしても、その動物は生きている間は死ぬその瞬間まで、その生命を支える全てのものを与えられてガニーとして存在し、その条件が失われるときに存在を終えるのであり、餌に囲まれていて病死する、あるいは老衰死する別の個体以上にファキールとして(貧しく)死ぬわけではない。また動植物のいる地球がガニーで、水も酸素も無い荒涼たる惑星がファキールであるわけでもなく、恒星が爆発し超新星として消滅しようとも、いずれの過程においても、ガニーになったりファキールになったりするわけではなく、いつでもその存在のために創造主による無限の配剤を必要とするファキールであると同時にその状態において存在するための条件の全てを過不足なく満たされたガニーなのである。この、存在の全ての条件を過不足なく与えられ存在が実現した状態を「カダル」と呼ぶ。カダルとは、「天命」、「予定」、と意訳されるが、原義は、「量」、即ち、万物が存在するために過不足なく与えられたそのもの特有の量、「応分」を意味するのである。
それゆえ「貧/富(ファキール/ガニー)」とは、人間の、より正確に言うなら、人間の意識、あるいは心にのみかかわる問題である。人間だけが、「本質に於いてファキールでありながらアッラーに拠って過不足なくガニーである」との完全な調和を離脱し、自らと他者をファキール、あるいはガニーとみなす。それはアッラーから「選択」と呼ばれる行為の自由度を被造物の中で特別に授かった人間のみの特質である。
あらゆる被造物の中で人間のみに「選択」が与えられた経緯は、クルアーンに以下のように述べられている。
「まことに、われらは天と地と山々に信託を提示したが、それを担うことを拒み、それに対して怯んだ。そして、人間がそれを担った。まことに、彼は不正で無知であった。(33:72)
この節の指す信託とは、善悪の選択であり、他の被造物は、善を行い悪を避ける責任を果たし得ず懲罰を被ることを恐れて、信託を担うことを拒んだが、人間だけがそれを引き受けた。人間はアッラーの命令を知り自らの判断で善悪の選択を行うため、言葉と理性を授かったが、クルアーンはこの信託を担った人間を不正で無知と形容している。それは人間が善悪の選択を自ら為すことの責任の重さを十分に自覚しておらず、また悪を犯すことによって我が身に罰を招き、自らに対して不正を犯すことになるからである。
ここには、理性と自由を有する特別な存在として人間が他の被造物より優れている、とのヨーロッパ・キリスト教的な人間観とは対極にある、イスラームの「倫理的」人間観が表明されている。人に与えられた理性と選択は、人をして善と悪の決断を強いる試練に他ならない。理性と選択は、人をして人たらしめるが、それは即自的に善である他の被造物と異なり、対自的に善を選びうる代償に悪を選んで身を滅ぼしうる倫理的存在である、ということに他ならない。
またクルアーンは、別の箇所で、「われがジン(幽精)と人間を創ったのは、彼らをわれに仕えさせるためにほかならなかった」(51章56節)と人間の創造の目的が、神に仕え崇拝することであることを明らかにしているが、クルアーン注釈者たちは、「アッラーに仕える」とは、「アッラーを知る」ことを意味すると述べている。また預言者ムハンマドの伝えるハディースによると、アッラーは「われは隠れた宝であったが、知られたいと欲し、それゆえ被造物を創造した」と仰せられた。
人間が創造されたのはアッラーに仕えるためであるが、アッラーに仕えることの究極の目的はアッラーを知ることである。人間は理性と選択を授かりながら、欲望に目を晦まされ身体を支配され真理を見失い悪行を犯す存在であるが、アッラーに仕えるために授けられた理性を、アッラーに仕えることのみを志して用いる道を選ぶなら、アッラーの崇拝は、アッラーの知に至り、その時人間は、知がそのまま崇拝となる真知の境地に達し、対即自的に善なる存在として、アッラーの創造の目的を実現することになるのである。
欲望だけでなく理性、言葉を与えられ、善悪の裁定を蒙る代償に行為の選択の自由度を獲得した存在としての人間は、ファキールでありながらも存在に必要な全ての条件をアッラーに与えられて過不足なくガニーである「今ここの自分」の存在様態に飽き足りず、今ここで別様に有り得る仮想的自分と比較して、あるいは将来どこかに存在すると仮定した自分を有らしめるために、今ここにある自分に何かが足りない、即ちファキールであると考えることが可能となる。自分の身体、自分の食べ物、自分の家、自分のお金、自分の家族、自分の財産、自分の民、自分の名誉、自分の権力、自分のモノは無限に増え続ける。そして自分のモノが増え続けるほど、自分のモノでないモノも増え続ける。今ここの自分の存在を支えるために食べたもの以外の食べ物が「自分のモノ」として所有されるとの観念が生まれたとき、「自分のモノでない食べ物」との観念が同時発生する。本当は、自分の食べ物とは、自分が存在するために既に食べられたものだけなのに。今ここの自分の存在を支えるために食べたもの以外の食べ物を「自分のモノ」と看做すことにより、「自分のモノでない食べ物」の観念が生じ、その「自分のモノでない食べ物」を所有したいとの欲望が生まれるとき、その者は「今ここの自分」の存在に不要な食べ物を必要とみなすファキールとなる。「今ここの自分」が必要としない富、権力が自分をガニーにする、と考える者は、「自分のモノ」を所有すればするほど、「自分のモノでないモノ」が増えていく。賃貸マンション住まいの者がマンションを手に入れれば、持ち家への欲求が生じ、持ち家を買えば、別荘が欲しくなり、別荘を持つ者には、海外の宮殿が視野に現れる。
また「今ここの自分」の存在に満足しない者は、存在しない未来の自分を妄想し、その妄想が妄想の必要を生み出し、ファキールに成り下がる。老後のセキュリティー完備の看護老人ホームの購入資金の数億円を所有しないことがファキールであることになり、今ここでの自分の存在の豊かさ、ガニーであることは忘れ去られる。
全ての被造物は、現象的には他の被造物の存在を自己の存在の条件とし、究極的には存在するためにアッラーを必要し、それ自体としては何物をも所有しない無一物、ファキールである。しかし善悪の選択を与えられた人間は、善を行うために、アッラーから「自分のモノ」として用いることの許された力「クドラ」を信託される。
繰り返し述べている通り、人間は本来無一物であり、いかなる所有もない。この信託された力「クドラ」もまた預かり物に過ぎず、全ての人間がその者に固有のクドラを授かっており、そのクドラの範囲は本人を含めて誰にも確定することはできない。
人は全て各自のクドラに応じて善を行い悪を避ける責任を負う。イスラームにおいては、善と悪は、シャリーア(聖法)と呼ばれる掟として、アッラーの使徒を通じて人間の言葉で語られた啓示によって規範の体系として示される。しかし各自のクドラはそのような形で一義的に示されるものではない。
人間には、身体的な力、経済力、政治力、知力など様々なクドラがある。そして身体的な力にしても、自分がどのような力を持っているかは自分自身にも自明ではない。目の前で急流で子供が溺れている場合、たとえ泳げる人間でも、その子を助けるクドラが自分にあるかどうかをとっさに判断することは容易ではなかろう。また立って礼拝を行うことが出来ない者には座った姿勢での礼拝が許されているが、足自体に障害があるのではない重篤な病人の場合、立って礼拝を行うクドラがあるかどうかの判断は微妙である。またまたラマダーン月の日中の斎戒はそれを行うことクドラのない病人には課されないが、日中食を断つクドラの有無もまた一義的に決まるものではない。また集団的行為や時間の要素が入った場合は問題はより複雑になる。「イスラームの居住圏」が侵略された場合には、住民には侵略者の撃退のためのジハードが義務になるが、そのクドラがない場合には、義務は免じられる。しかし敵を撃退するのにどれだけの戦力が必要になるか自体が確定的に知りえないことに加え、敵を撃退する戦力は個人のクドラの範囲を超えているが、長期にわたって武器を調達し抵抗軍を組織し侵略者を撃退するクドラを自分が有するかどうかは、自分自身の身体能力や財力を超えた政治力、信用、胆力、情報収集能力、情報分析能力などを総合したものでありその有無を一義的に判断することは誰にもできない。
授かった理性と選択をもってアッラーに自ら仕えるために、自分に委ねられたクドラを知ること、つまり自分に何ができるかを知ることが、最初に人間に課された義務である。
自分のクドラの下にあるモノはアッラーに仕えるために用いなければならない。人間が自らの選択によってアッラーに仕える存在である以上、自らのクドラの下にあるモノに対して一定の裁量権があることは当然である。しかし自分のクドラの下にあるモノも全てアッラーからの預かりものである以上、自由に裁量してよいわけではない。その裁量の範囲を定めるのは、聖法である。自分のクドラの下にある自らの肉体ですら、西欧的な意味での自由な処分を許されるわけではなく、自殺も自傷行為も許されず、自らを債務奴隷として売ることも、性行為を賃労働に供することも許されない。また自分の後見の下にある孤児の財産を自分自身のために売り払ったり利用することは許されず、たとえ自分自身の財産であれ賭け事に浪費することも、利子を取って貸し付けることも許されない。
人は己に委ねられたクドラに応じてアッラーに仕える義務を負うが、アッラーに仕えるために何を為すべきかは、聖法によって知られる。アッラーに仕えるために何を為すべきかは聖法によって知られるが、それは人のクドラに応じる。従って、人が為すべきことは、人のクドラによって異なる。アッラーに仕える段階は、大別して、3つある。
第一は、信仰の段階であり、先ず理性を授かり神について考えるクドラを備え更にアッラーの使徒の啓示についての教えを知るクドラを得た者には、唯一なる神アッラーの存在を信じ使徒の教えを信仰すること、即ちイスラーム、帰依が最初の義務となる。この信仰、イスラームの帰依なくしては、いかなる行為も、神に仕える善行として嘉されることはない。このイスラームの信仰を持つことが、アッラーに仕える第一歩である。
第二の段階は、シャリーア(聖法)の行為規範の遵守の段階となる。聖法はイスラームの信仰を得た後の人間の行為範疇を(1)義務、(2)推奨、(3)合法、(4)忌避、(5)禁止の5範疇に分類する。聖法を遵守するためには、先ず、シャリーアを学ばなければならない。アッラーの啓示は使徒を通して人間の言葉を通してなされる。そして使徒は、共同体全体に対してその共同体全体を律する規範を伝えるために遣わされた者であるので、シャリーアは共同体の普通の成員であれば誰もが理解できるレベルの容易に理解できる容易な言葉遣いで表現されている。このレベルでは、自分のクドラの下にある「自分のモノ」は「自分のモノ」、「他人のモノ」は「他人のモノ」と素朴に認識し、「自分のモノ」は自分で好きなように処分し、「他人のモノ」も出来るならなんとか手に入れたいとの欲望を抱くような霊的にも知的にもごく普通の凡人にも分る形で、アッラーに仕えて現世で良く生きる指針を来世での賞罰を動機付けとする(来世的)宗教法の言語で説く。それが、(1)最低限行うべき義務、(2)犯してはならない禁忌、(3)できることなら為した方がよいがしなくても罰を受けるのではない推奨行為、(4)避けた方が良いが行ってしまっても罰は無い自粛すべき忌避行為、(5)そして行っても行わなくてもどちらでも良い道徳的に中立な合法行為、との上記のイスラーム法の行為の5範疇分類である。
第三の段階は、真智求道の段階で、創造の目的であるアッラーの知がそのままアッラーの崇拝であるような、アッラー御自身への希求、絶対帰依の段階である。この段階では、人が目指すのは、現世のみならず来世の賞罰ですらなく、アッラー御自身であり、この段階での言説は、賞罰を動機付けとする(来世的)宗教法の言語ではなく、日常世界の意味とを超えた神秘主義的真理の言語によって語られる。この段階においては自分の授かったクドラが引き起こす行為の真の主体はアッラーに他ならず、「自分のモノ」は何一つ存在せず、森羅万象の全てはアッラーの御意志による、その属性の顕現であることが明らかになり、アッラーの真知の中に「自分の行為」は消滅し、アッラーへの崇拝、賞賛だけが浮かび上がる。
我々は、イスラームについて語る時、アッラーに仕えること、即ち、イスラームには上記の3つのレベルがあることに注意しなくてはならない。救済宗教としてのイスラームを考える時、イスラームの教えを知るクドラのない者、あるいは教えを聞いてもその意味をよく理解するクドラのない者、あるいは教えを理解しても欲望に打ち克つ意志のクドラを持たない者は、礼拝や斎戒の義務を行わない、飲酒や姦通の禁忌を犯すだけではなく、たとえ強盗、強姦、殺人と極悪非道の限りを尽くそうとも、心の隅に唯一なる神の慈悲に縋る信仰の欠片を宿していれば、それによって楽園の救済に与ることができる。それもまたイスラームである。しかしだからと言って、アッラーの慈悲に縋って極悪非道の限りを尽くすことがイスラームだと言うのは、イスラームの説明として正しいとは言い難い。また聖法のレベルでも、義務を果たし禁忌を犯しさえしなければ来世での懲罰を被ることはない。最低限の義務と禁止を守るならば、それはイスラームなのである。しかし法律を子細に検討し法に抵触しないぎりぎりの合法的行為を狙うのは、ヤクザや詐欺師であって堅気の善良な市民ではない。イスラームでも禁に触れないというだけで、それをイスラーム的と呼ぶのは問題である。むしろ義務を果たし禁忌を犯さないのは当然の前提であり、それ以上の推奨行為を行い、忌避行為を自粛してこそ、イスラーム的と呼ぶべきではなかろうか。また推奨行為の励行、忌避行為の自粛は現世の利害を超越し来世を志向するがゆえに、間違いなく宗教的行為と言えるが、なおそれが賞罰の言語で語られる以上、楽園の報奨ではなくアッラー御自身を希求するイスラームの理想を表すものではない、とも言える。
イスラームは、多様な人間のクドラに応じて、様々な形で発現する。そのことをもって、「イスラームの豊かさ」と呼ぶことができるかもしれない。
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