2010年6月18日金曜日

イスラーム革命の本質と目的

بسم الله الرحمن الرحيم
『イスラーム革命の本質と目的 - 大地の解放のカリフ制』



Ⅰ. イスラーム政治論概説

序.
イスラームには「供物」がない。
偶像崇拝を厳禁するイスラームに神像がないことは周知であろう。モスクは何もない空間であり、画像にせよ、彫像にせよ、神を表す像は一切存在しない。
モスクには神の像がないだけではなく祭壇がない。教会、寺院、神社などで見られるような、線香、灯明、花などが捧げられる場がモスクには一切ない。
仏壇や神棚にお供えをし、そのお下がりを人間がいただく、といった象徴的行為としてさえも、イスラームには神に供え物をするということがない。
同じく偶像崇拝を禁ずるユダヤ教では、正式な儀礼では、幕屋の祭壇を作り、動物を屠り焼き尽くしその煙を主に捧げる。ちなみにこの聖書の儀礼の「焼き尽くす」(ヘブライ語ではolah)がナチスの「ホロコースト」の原義である。
 イスラームでも、ラクダ、牛、羊は犠牲に捧げられる。イスラームの大祭、犠牲祭は、聖書とも共通するアブラハムが息子を神に捧げる故事にちなんだ儀式だが、祭壇のようなものが作られることは一切ない。象徴的にさえ屠殺された動物を神に捧げるしぐさは一切なく、肉はその場で切り分けられ、人々に配られる。
 神は人間の供え物を必要としない。神が命じるのは、人々の間に「モノ」が行き渡ることであり、その命令に従おうとの人間の志だけを、神は嘉納し給う。
 神は、天地の主であり、天にあるもの、地にあるもの、すべてはことごとく神の所有物である。
 大地は神のものであり、人間もまた神のものである。
神から委ねられたものを正しく神に返す。それが人間に与えられたイスラームの使命である。

1.自律の呪縛
 現代人を苛む「自由」の強迫観念は、カントの「自律」の呪縛から生じている。
他人のみならず、自分自身の身体性にも拘束されないような意思の存在、その意思の主となること、それが「自律」であり、そうした自律を成し遂げることができる者だけが、成熟した理性を備えた人間である。このカントの人間観こそが、啓蒙主義の行き着いた先であり、その中に近代人の宿痾である「自由」の強迫観念の結晶化した姿を見て取ることができる。
こうした「自由」、「自律」の呪縛から、「誰もが自律し、自由であるような政治空間」への強迫的執着が生ずる。このカントの呪縛のおかげで、「自らの意思によって締結した契約の自己遵守」という素朴な社会契約論は、「無知のヴェール」による民主主義の正当化という現実から目を逸らすロールズの居直り、ネグリ=ハートの「全員による全員の統治」といった妄想のように様々な形に姿を変えて今日まで生き延びてきた。我々は世界と、そして自分自身と正しく向き合うために、まずこのカントの呪縛から解放されなくてはならない。
「人間の自由、自律」というカントの呪縛の根源は、啓蒙思想の方法論的個人主義的の人間観にある。啓蒙思想の人間観は、人間を「本姓においてポリス的動物」と考えるアリストテレスの政治学との決別の上に成り立っている。
我々は、生まれる時も、生まれる場所も、親も性別も、何一つ選ぶことのできないまま、世界の中に産み落とされ、社会の中で育てられていく中で、それぞれ別個の人間になっていく。「自由」も「自律」もそうした事実を捨象した虚空にのみ生ずる幻影に過ぎない。
 社会契約論の前提とするような自然状態は実在しない虚構に過ぎないが、仮にそのような社会契約が実際に締結されたとしても、そうして成立した国家における政治を自由な個人の自発的な合意による自律と呼びうるのは、せいぜいその第一世代のみであり、次の世代にとっては、国家はそこに産み落とされ、いやおうなくその中で生きなければならない所与の支配の現実となる。自由、自律の幻想を脅迫的に維持するためには、ロールズの「無知のヴェール」を被って現実から目をそらせるか、「全員による全員の支配」というネグリ=ハートの無内容な呪文を唱えて自己催眠に陥るしかない。
 カントの呪縛から逃れるために、我々はもう一度アリストテレスの政治学の伝統に立ち返ろう。

2.人間と社会
 アリストテレスは、人間をポリス的存在と定義した。ポリス的存在は「社会的存在」とも「政治的存在」とも訳されるが、「翻訳の時代」と言われた約1世紀(750-850年)にかけて現存したギリシャ語文献の殆どをアラビア語に訳したイスラーム文化では、アリストテレスのこの定義は文字通りに「都市的(madan)」と直訳され、アル=ファーラービー(950年没)、イブン・スィーナー(1037年没)、イブン・ルシュド(1198年没)らの所謂イスラーム哲学者だけでなく、スンナ派、シーア派の法学者、神学者などにも受け入れられ、宗派を超えた政治思想の共有財産となる。
 現代のスンナ派イスラーム主義の元祖とも言われるイブン・タイミーヤ(1328年没)の次の言葉にも、アリストテレスの政治学の残響が明らかに認められる。
 「人間は現世、来世の幸福の達成のためには、有益なものを得、有害なものを退けるための協働、相互扶助が欠かせない。それゆえに『人間は本性上、都市的である』と言われるのである。人間は益を得るために行うべきことを命ずる者、害を退けるために避けるべきことを禁ずる者に従わなくてはならない。」
ギリシャ政治学の伝統を継承したイスラーム学は、「人間は集まって協働し、助け合うことなくしては、生活必需品を手に入れ、外敵から身を守ることのできない存在である」、と教える。社会の中で始めて人間は人間として生存することができるのであり、そこには協働を成り立たせ社会を律する命令・禁止の支配関係が不可欠なのである。
人間が孤立して生きることが出来ない以上、自律・自立した個人が自発的に集まって自由な契約を結ぶことで社会を作るのではなく、社会が個人に先立って存在しなくてはならない。
我々の個人の人生を振り返っても、記憶の中には、既に食べる物、着る物、眠る場所を与えられ、人々の話す言葉を話し、社会の中に投げ入れられていた自分しか見出すことが出来ない。社会、社会のルールと秩序は、我々の全てに先立って存在していた。同じように人類の歴史をどこまで遡ろうと、社会を意のままに創設した自由な個人たちを見出すことは出来ない。
社会は個人に先在する。そしてその社会には協働と支配関係があらかじめ埋め込まれている。社会の支配関係を所与、与件とするアリストテレスの人間観がイスラーム政治論に受け入れられたのは、社会における上下関係を肯定するクルアーンの聖句「彼(アッラー)こそはお前たちを地の継承者となし、おまえたちのある者を別の者よりも高い地位に置き給うた御方。」(6章165節)とも符合しているからである。
イスラームは、人間が社会的存在であり、社会とは協働のための命令・禁止の支配関係に他ならないとの認識において、アリストテレスの人間観と一致する。またアリストテレスにおけるポリス、社会とは「善」の実現を目指す倫理的な場であり、この点においても、アリストテレスの人間観は、社会を勧善懲悪の場とみなすイスラームの人間観と一致する。
イスラームとアリストテレスの相違が現れるのは、この「善」の内容、社会において善が実現されるあり方のレベルとなる。

3.政治的権威
イブン・タイミーヤは社会におけるこの命令・禁止の支配・権力関係を「wilyah(政治的権威)」と呼ぶが、「wilyah」はイスラーム法の用語としては、制限行為能力者を保護、監督し、法律行為を代行する「後見人(wal)」の「権限・義務」を意味する。
イブン・タイミーヤによると、宗教・権力関係は究極的には命令、禁止に還元され、また権力関係を勧善懲悪に志向させることが、神が人間に預言者を遣わし宗教を定めた目的である。彼は言う。
「宗教と全ての権威が命令と禁止に凝縮されるとするなら、アッラーがそのために使徒を遣わし給うた命令は善の命令であり、アッラーがそのために使徒を遣わし給うた禁止は悪の命令である」
人間にとって支配・権力関係が不可欠であるという前提に立った上で、その支配・権力関係自体を神の法の下に置くこと。これがイスラームの政治論の要諦となる。イブン・タイミーヤは言う。「人間にとって命令者、禁止者への服従が不可欠であるなら、アッラーとその使徒に服従することが人間にとって最も良いことが知られる。」
 全ての人間は一なる神の被造物、僕(しもべ)であり、神の僕に過ぎない人間が、神の僕たる別の人間を支配することは、自らを神になぞらえ神の大権を犯す大罪である。
許されるのは、ただアッラーとその使徒の命令、禁止の執行者となることだけである。神の僕としての人間は、自らの能力に応じて神の命令を遂行する義務を負う。 人を従える権力を有する者は、自分自身が神の命令を行うのみならず、自分が力を及ぼしうる者にも神の命令を遵守させる義務を負う。それが他人に勝る力を有する者の権限・義務であり、イスラームにおいては、他者に対して神の命令の執行するこのような権限・義務が「政治的権威(wilyah)」であり、それを有する者が「権力者(wl, ul al-amr)」なのである。
 人間の力に差異があり、人間の社会には、上下関係、支配権力関係が存在することは、所与の事実である。しかしイスラームにおいては、そもそも人間の「力(qudrah)」とは神の命令を履行する「義務負荷の場(man al-wujb)」に過ぎず、他者を支配する「力」もまた、その「力」によって人々をして神の命令を守らしめる義務を果たすために与えられたものであり、他者の支配もまた、神の命令の履行に過ぎない。イスラームの政治論においては、強者の「支配」と映るものも実は神の命令への服従であり、また弱者の強者への服従もまた、強者自身に服従するのではなく強者が命じるところのアッラーの命令に服従しているのである。つまりイスラーム的政治においては「支配者」も「被支配者」も共にアッラーの命令にのみ服従するのである。

4.法と支配
 イスラームの政治においては、支配者も被支配者も実はアッラーの命令にのみ従う。強者はその力に応じて弱者にはない「支配者」としての重責を負い、弱者はその弱さゆえに支配者が負う責任を免じられ、支配者への服従の義務を負う一方、支配者による庇護と援助の権利を享受する。真の支配者はアッラーのみである。
イブン・タイミーヤは言う。「被造物を支配しようと望むことは不正である。なぜなら人間は一つの種であるから、人が自分の同類を下にして自らが上に立とうとすることは不正だからである。」
立法が、人を支配する命令の定立である以上、人間に立法権を認める民主主義が、イスラームの政治論と相容れないことは明白である。民主主義は、人民の支配を謳う外見とは裏腹に、弱者を犠牲にし、強者を利する支配の一様式でしかない。 いかなる美名で飾り立てようとも、民主主義とは、権力を求める者たちが徒党を組み、勝利した側が与党となって立法の名の下に人々を支配する命令を制定するシステムでしかない。
 イスラームにおいて、立法権は神のみに属し、預言者ムハンマドの啓示によって定められたイスラーム法は、最後の審判に至るまで妥当し、改変も追加も許されない。それゆえいかなる権力者、党派といえども、法の名において自らの利益の実現を図ることはできない。人間に許されるのは、イスラーム法の定める大綱の具体化における解釈と、その実施に当たっての細則を定めることだけである。
 他方、人民主権を標榜する民主主義国家は、立法府を主権の担い手としているが、そもそも主権者たる国民が自らの主権を行使して制定したはずの法律自体が国民に知られていないのが実情である。それは現在では立法の殆どが、実際には国民の選んだ国会議員ではなく官僚の手によって作られているという、いわゆる官僚立法による立法府の形骸化を問題とする以前の根本的問題である。わが国を例にとっても、日々、膨大な数の、法律と行政命令が公布され、それは『官報』に公示されているが、一般国民は『官報』の存在すら知らない。驚くべきことに、法学は義務教育の必須科目になっておらず、義務教育の中で僅かに教えられているのは生活から遊離した憲法の一部のみであり、罪刑法定主義の建前を掲げながら、刑法の殺人罪や窃盗罪さえ教えられていないのである。
 一方、イスラーム法は、正気の全ての成人ムスリムがその履行の義務を負うことから、全てのムスリムは幼少時から、礼拝、浄財、斎戒、巡礼などの宗教法規のみならず、法源学 、法理学の基礎、責任能力、行為能力などの法学的基礎概念などを学び、成人するまでに一通りの法学的知識を身につける。そうしたイスラーム教育は現在に至るまで、西欧式の学校のカリキュラムの内外で存続し、熱心に教え学び続けられているのである。
 そしてイスラーム学を学ぶにはクルアーン、ハディースの言葉であるアラビア語が必修であり、その教科書には権威の定まったアラビア語の古典が、国境の垣根を越えて東はインドネシアから西はモロッコまで共通に教えられている。権威の定まったアラビア語の古典が存在し、それが教科書として教えられるということは、国家が自己に都合のよい教科書を作成して教育内容に介入できないことを意味する。共通語としてのアラビア語、共有財産としてのイスラーム法学の古典教科書の存在が、西欧の生み出した偶像神「国民国家」によるナショナリズムのイデオロギーの強力な洗脳に抗して、国籍・民族・国境の壁を越えたムスリムのイスラーム復興への連帯を現実に可能にする確固たる文化的基盤なのである。

5.「力」と自由
 何物にも束縛されない人間の抽象的「自立・自律」、「自由」などというものをイスラームは認めない。人間は無一物で自然の中、社会の中に産み落とされる。人間の行為も思考も、適当な温度、湿度、酸素濃度、重力などの整った自然環境の中で、協働する人間と共に身体技術、発話などの文化を身につけることによって可能になる。それらの自然的、文化的環境の全てが揃って初めて人間の行為も思考も可能となるのであるが、それらのどれ一つとってもその人間が創り出したものではなく、恵み授けられた所与である。
 人はそれぞれに具体的に相異なる身体能力、知的能力、経済力、知識、情報、文化資本などの恵みを与えられている。それらの具体的な所与の総体が「力」であり、その「力」の認識が、各人の行為空間を定める。各人が、各々の「力」、「行為空間」を、宗教儀礼、財産法、商法、家族法、訴訟法、刑法、訴訟法、戦時国際法などの法規定、精神修養の身体技法、修行道などの生活の全領域をカヴァーするクルアーンとハディースの教えである豊かな聖法の全体と照らし合わせることにより、ムスリムの行動指針は定まる。
イスラーム法は、人間の行為を決疑論的に(1)義務、(2)推奨、(3)中立、(4)自粛、(5)禁止の5範疇に分類する。このうちで神から厳命されておりその違反に来世での懲罰が定められた(1)義務と(5)禁止を除いた、(2)推奨、(3)中立、(4)自粛が、人間が「自由」に選ぶことができる行為の領域となる。
ムスリムは、各人が神に与えられた固有の恵みの総体としての「力」の広がりとしての行為空間を、神に命じられた義務行為を果たし、禁止行為を除外することによって縮減し、その残された「自由」な領域の中で、その時点での自己の信仰の度合いに応じてできる限り神の意に沿う生き方を選ぼうと努める。
 この世界観の中には、他の束縛を一切受けない自立・自律した個人に固有の抽象的な「自由」などという観念の入り込む余地はない。人間の行為空間を形作る「力」は具体性を持った神の恵みとしての所与の全てであり、それは全て神の命令を行うために神から与えられた神授の信託であり、神の定めた義務と禁止の外の恵みの領域が、人間の「自由」に任されているに過ぎないからである。
 イスラームにあっては、人間の「力」の全てを恵み与えた主なる神によって定められた義務と禁止の外の行為空間が、「自由」の領域であることは、論理必然的に自明である。
カントの呪縛に幻惑され真実が隠蔽されているものの、「自由民主主義」社会であっても「自由」が実在するわけではない。いずれの世界であれ「自由」は実在せず、ただ禁止されていないことが「自由」として表象されるだけに過ぎない。「自由」とはドーナツの穴のようなものであり、実在するのはドーナツであり、ドーナツの穴はドーナツの不在としてしか「存在」しないのである。
本邦を例にとっても、服装の「自由」とは、「公然わいせつ罪」に抵触しない範囲では何を身に着けようと犯罪とはみなされないという意味であり、飲酒の「自由」は、道路交通法や未成年者飲酒禁止法に抵触しない範囲での飲酒行為が許されていることでしかない。日本には服装は自由で、飲酒も認められているが、イスラーム社会には服装の自由がなく、飲酒の自由もない、ということではない。ただ日本とイスラーム社会では服装、飲酒の禁じられる範囲が異なり、それに応じて自由度も異なる、ということに過ぎない。言論の自由は、詐欺、不当表示、著作権などの無数の禁令による制限を蒙っており、昨今では、ポリティカル・コレクトネス概念の普及により差別用語の禁止が強化され、セクシャルハラスメントなどのケースでは刑事罰が課されることもあり、ますますその範囲が曖昧になってきている。
 自由とはドーナツの穴に過ぎず、それ自体として実在するものではない。人間が自由であるとの錯覚、幻想に陥っている西欧人は、単に自分たちを縛る文化拘束性に無自覚に隷属し、その存在すら目に入らなくなっているに過ぎない。
人間の本質的被拘束性を自覚するイスラームは、人間の「自由」を、神の命令の実現のために授けられた神の恵みである「力」の行使の許容範囲と考える。イスラームにおいては「自由」の想起には神から授かった恵みと神に課された義務の自覚が構造的に伴っているのである。
いかなる社会であれ、法の禁令があり、その禁令の及ばない自由な領域がある。ただ、そのことに完全に自覚的であり、それを主体的に引き受ける社会はイスラームをおいて他には存在しないのである。

6.真のグローバリゼーション
 イスラームは人間による人間の支配を認めない。人間の「力」は、神授の恵みであり、その「力」を授けた主アッラーだけが、人間にその命令への服従を要求することができる。
 アッラーは人間の主であるのみならず、天地とその間にあるもの全ての主である。
 大地はアッラーの所有であり、人は皆、その上を自由に往来することが許されている。大地に柵を設け、「国民」をその中に囲い込み、非「国民」を締め出すことは誰にも許されない。
 アメリカは「移民の国」を自称し、アメリカの自由が世界から移民をひきつけている、と錯覚しているが、2003年の統計でアメリカにおける外国出生者人口は3347万人、全人口に占める割合は僅か11.7%に過ぎない。一方、西欧的基準からは自由、人権、民主主義のいずれも世界最低水準のサウディアラビア(そもそも議会すら存在しない)は、2000年の統計で全人口2084,6884人中、外国人人口が525,8079で25.2%を占めており、民主主義の欠如においてはサウディアラビアと大差のないクウェート、カタル、アラブ首長国連邦などの湾岸王政諸国では外国人の割合は更に高く、クウェート、カタルでは約60%、アラブ首長国連邦では約80%にも達する。アラブ首長国連邦も議会も政治的自由・権利も存在せず、貧富の格差も桁外れに大きな国であるが、軍の兵士や警察官という国防、治安にいたるまで大半が外国人によって担われており、それでいて、治安は極めて良く、凶悪犯罪は少なく、深刻な社会不安も存在しない。
 僅か1割程度の「外国人」の存在によって不法入国者・不法労働者問題などの深刻な社会問題が引き起こされ、2001年の「9・11」以降はムスリム移民への恐怖から司法手続きを経ずに外国人を拘束し、電話や携帯電話の盗聴、Eメールの傍受を認める「テロリズムを摘発し阻止するため適切な手段を提供し、アメリカを団結させ強化する法律」(通称「アメリカ愛国法」)を制定しなくてはならなくなったアメリカには「自由」を口にする資格などそもそもないのである。
 真のグローバリゼーション(地球化)とは、地球上の全ての国境が廃絶され、人、モノ、金(金と書いてマネーとルビを振ってください)の全てが自由に流通する世界、なによりも人が自由に移動できる世界の実現を意味する。第三世界の国境の檻の中に人々を閉じ込め、「自由貿易」の美名の下に豊かな国がモノとを収奪し吸い上げるために自国に有利なモノと金(金と書いてマネーとルビを振ってください)のみの「自由な」移動を力ずくで押し付けるアメリカ製の「グローバリゼーション」は植民地主義の砲艦外交の変奏に過ぎない。
 真のグローバリゼーションは、大地の唯一の主であるアッラーの聖法のみが支配する法治空間「イスラームの家」の拡大により、弱肉強食のジャングルの掟が支配する無法地帯を分割統治する「領域国民国家」の支配者たちのカルテルが打破されることによってのみ、達成される。
 「ネーション(民族)」の差異によって人を「国民」と「非-国民」に分け、「国民」だけで大地を囲い込む「ナショナリズム」は、「ヒューマニズム」「人類の平等」の理念にあからさまに反する。ナショナリズムこそ、今日まで放置されている「ヒューマニズム」に反する最悪の差別である。そして20世紀の2度にわたる世界大戦、朝鮮戦争、各地のヨーロッパの旧植民地の独立戦争、ベトナム戦争、中東戦争(対イスラエル戦争)、中越戦争、イラン・イラク戦争、フォークランド戦争(イギリス・アルゼンチン戦争)、湾岸戦争(イラクのクウェイト侵攻)などにおいても、ナショナリズムがそれら全ての戦争の主たる要因になっている。ナショナリズムこそが戦争を引き起こす主要因、平和に対する最大の脅威である。
人類の「平等」、「人権」、「平和」を唱導する「自由民主主義(リベラル・デモクラシー)」諸国は、政教分離ではなく、先ず政治とナショナリズムを分離し、ナショナリズムを政治の場に持ち込むことこそを厳禁すべきなのである。

7.カリフ制
 大地はアッラーのものであり、人類はその上を自由に移動することが許されている。地球に領域国民国家に分割し、それぞれを国境の檻で囲い込むことは許されない。
大地は、大地の主であるアッラーの聖法のみが支配する単一の法治空間「イスラームの家」として統一されなくてはならない。そしてこの単一の法治空間「イスラームの家」の統合の象徴がその元首であるカリフであり、唯一のカリフが元首として「イスラームの家」を統べる政治制度がイスラーム国家、すなわち「カリフ制」である。
イスラームの家は単一でなければならず、その元首カリフの存在はただ一人しか許されない。OIC(イスラーム諸国会議機構)のような領域国民国家の支配者たちによる「カリフ制」の再興を妨げるためにイスラームの名を騙って結んだカルテルは、決して認められない。
 ただ一人であることから、カリフが独裁者であるかのような誤解があるが、カリフはイスラーム法の執行者でしかなく、法の支配の下にその権力は限られたものでしかない。カリフが唯一でなければならない理由は、神の唯一性と構造的に同一である。
 イスラームの根本教義は「アッラーフの他に神はない」との信仰告白に還元されるが、より正確に訳すなら「神は存在しない。しかしアッラーフは別である(判断留保)。」となる。 イスラームの根本教義の更に核心には、「神は存在しない」との神の否定がある。森羅万象の全てから神性を剥奪し、神は存在しない、どこにも神は存在しない、との神の否定からイスラームは出発する。
 同様に、イスラームの政治制度であるカリフ制もまた、何よりも先ず、地上における神の主権の簒奪者である支配者たちの否定、人類の国境という名の檻からの解放から出発する。一切の被造物の神性を否定する一神教としてのイスラームが無神論を基点とするように、人間による人間の支配を一切認めないイスラームのカリフ制は、一切の地上の権威を認めないアナーキズムの論理を突き詰め、その不可能性の露呈した空間の上に、神の聖法の唯独りの執行者としてのカリフの存在を例外的に認めることによって初めて正当化されるのである。

8.イスラーム民主主義
 人間による人間の支配を認めないイスラームは、聖法の執行に定位した政治論を展開する。人間に許されるのは、ただアッラーとその使徒の命令、禁止の執行者となることだけである。神の僕としての人間は、自らの能力に応じて神の命令を遂行する義務を負う。人間の所与の「力」はそれぞれに相違するため、人を従える権力を有する者は、自分自身のみならず、自分が従わせることのできる者にも神の命令を遵守させる義務、つまり勧善懲悪の義務を負うが、この勧善懲悪こそが、全ての地上の政治的権威の存在理由であり、政治の目的である。
 そしてこの勧善懲悪は「国家」のような何らかの権力機構の仕事ではなく、全てのムスリムが各自の力に応じて担うべき義務である。 かくしてイスラームにおける政治的権威は拡散し、全てのムスリムに分有されることになる。イブン・タイミーヤは預言者のハディース(アル=ブハーリー、ムスリム)を引用して、イスラームにおける「政治的権威(wl)」の意味を説明して以下のように述べている。
「政治的権威者(wl)とは羊飼いと同じ人間の牧者である。預言者は言われる。『お前たちは皆、牧者であり、お前たちは全てのその信託(rayah、字義通りには羊の群れ)に責任を有する。人の上に立つイマームは牧者であり、自分の信託に責任を負う。妻は夫の家の牧者であり、自分の信託に責任を持つ。子供は牧者であり、その父の財産の牧者であり、自分の信託に責任を負う。奴隷はその主人の財産の牧者であり、自分の信託に責任を負う。お前たちは皆、牧者であり、またお前たちは皆、自分の信託に責任を負うのではないか。』」
 またイブン・タイミーヤは「裁き司(qd)」の語についても、「『裁き司(qd)』とはカリフやスルタンであれ、果ては子供の習字のコンテストの審判に至るまで二人〔以上〕の人間の間を裁定する者すべてを指す名称なのである」 と述べて、カリフから習字コネテストの審判までが等しく政治的権威であり、同じ原則が適用されることを強調する。
 人間の「力」の相違の所与から出発し、全てのムスリムが各自の「力」に応じて政治的権威を分有し、アッラーの命令に従い、聖法に則って勧善懲悪を実践する。アッラーの命令に共通して服従する「全員による全員の支配」。これを「代表」の擬制に拠らないイスラームの「真の民主主義」と呼ぶこともできよう。
 
9.後見と委任代理
 既述の通り、イスラームにおいて政治的権威を指す語は、「wilyah」であり、それは法学用語として先ず未成年者などの制限行為能力者に対する後見人の権限であった。後見人と非後見人の間にあるのは、能力者と非能力者の一方的な「家父長制的」権力関係である。人間の間の「力」の差異、社会における上下、権力関係を所与として認めるイスラームにおいて、政治的権威が「後見人の権限(wilyah)」をモデルとしていることに不思議はない。イラン・イスラーム革命を指導したホメーニー(1989年没)もまた、この「wilyah」概念に基づき、イスラーム法学者が国政を司るべきであるとの「法学者の政治的権威(wilyah faqh)」論を構築している。
 しかしイブン・タイミーヤは政治権力者には「家父長制的」な「後見人」の側面と共に、「委任代理人」の側面があると述べる。後見人としての政治権力者(wult)は人民に対して「人間の上に立つアッラーの代理人(Nuwwb Alla al al-ibd)」の地位にあるが、委任代理人としての政治権力者は「人間同士の委任による代理人(wukal al-ibd al nufsi-him)」であり、人民との関係も「共同経営者の一人のパートナーの地位(manzilah aad al-sharkain maa al-khar)」となる。
後見人は聖法の定める法定代理であり、被後見人によって委任されるわけではなく、罷免されることもない。しかし委任代理人は、契約によって代理人に選任されるのであり、契約に反する行いがあれば解任することもできる。イブン・タイミーヤは「預言者はムスリム共同体(ummah)に自分たちの権威者(wult)を擁立(tawliyah)するように命じられた」 と述べ、人民による政治的権威の選任を示唆している。
 つまりwilyah(後見)の概念が「王権神授説」に相当するとすれば、wiklah(委任代理)は「統治契約(君臣契約)論」に相当する。
 シーア派の政治論と比較することで、スンナ派の政治論の特徴がより明らかになる。シーア派は、預言者ムハンマドは神の啓示に基づき自分の後継者を指名していたと考える。シーア派は、神によって預言者の後継者に指名されたムスリムの指導者を「イマーム」と呼ぶが、指導者が「神的指名(na)」によって決まるとのこの考えは典型的な王権神授説である。 一方、スンナ派は、預言者が生前に後継者を指名したとのシーア派説を否定し、預言者はムスリムたちに自分たちの指導者の選挙(ikhtiyr)を任せたと考える。
スンナ派はシーア派の「神的指名(na)」説との対比により、自派の立場を「選挙(ikhtiyr)」説として定式化する。王権神授説的シーア派のイマーム説との論争の中で成立したスンナ派のカリフ理論によると、カリフは神によって直接に任命されるのではなくムスリムの選挙によって選ばれ、忠誠契約の締結によってカリフ位が発効する。これは典型的な統治契約論である。
このようにスンナ派のカリフ理論は、王権神授説と統治契約説の折衷である。 それは社会が人間に先在し、社会の秩序、権力関係が人間にとって所与であるとのリアリスティックな政治認識と、聖法に則り万人が各自の力に応じて政治的権威を分有し、勧善懲悪を執行するとの「民主主義的」要素にそれぞれ対応していると言うことができるのである。

10.民選カリフ制
 社会は人間に先在し、人々の間の「力」の相違は所与である。我々はカントの自由の呪縛から自らを解放し、「支配・権力関係は自分たちの契約によって創出されたものであり、それゆえ自分たちは自由で政治とは自己支配、自律に他ならない」との幻想を捨てなくてはならない。強者はその力によって支配し、弱者はその弱さによって支配を被る。「強者が弱者を支配するのは、弱者が強者に支配権を委ねたからだ」との考えはルサンチマンが生み出す妄想に過ぎない。
強者による弱者の支配の「事実」に、「力とは義務負荷の場である」との「力」の「規範的理解」を重ね合わせることによって、カリフを頂点とする権力のヒエラルキーが各自の力に応じた聖法執行の義務の履行としての支配を行うとのイスラーム政治論が構想される。イスラームの、生来の人間のこの「不平等」を認めるリアリズム、個人の倫理と共同体の政治を統合する「『力』と義務が即応する」との行為論は、政治理論の基礎に据えられなくてはならない。
 しかし、政治理論とは、現実の認識の表現であると同時に、現実に作用を及ぼす規範的認識でもある。イスラーム政治哲学もまた規範的認識として、現実の政治秩序をイスラーム的に正当化することもあれば、断罪することもある。しかし概して言えば、イスラームの政治論は、現実の秩序をそのまま神意の表れとして肯定、正当化してきたことが多かったように見受けられる。
人間の「力」とは、身体能力、知的能力、経済力、知識、情報、文化資本といった所与の総体であるが、それらは純粋に個人的なもののように思われる身体能力でさえ、家庭環境や教育の所産であり、全てが共同体的なものであり、共同体的な「力」は制度によって生み出される。そして政治哲学は制度を正当化することによって「力」の生成に直接に関与する。
 統治者が「自らの」「力」によって人々を支配するのは事実であるが、統治者がその「力」を獲得する過程で既に政治理論によって正当化された制度を利用しており、また人々を「力」で支配し統治者となった後にも、政治理論によって正当化されることによってその支配が強化され安定するのもまた事実である。統治者はそもそも当該社会の中の最強者であることによって統治者となるのであるが、政治理論が制度的に統治者の権限、支配の正当性、服従の義務を規定している場合、その権力は更に強化され安定する。
 イラク戦争を例にとっても、アメリカ(国際法上は英米による占領 )によるイラクの支配は、アメリカ軍の武力征服以外の何物でもなかったが、アメリカが事後的に占領の国際法的承認による理論的正当化を求め、またその後もお手盛りの政権(暫定政府、移行政府を経て正式政府)に主権を委譲しイラク国民が統治する外見を取らせているのも、政治理論による正当化が現実に権力の強化、安定に寄与するからである。古典イスラーム政治論が、カリフの資格条件を欠き、カリフ選挙人による選任も前任カリフによる後継者指名も得ていない覇者であっても、武力により実効支配を確立した場合に、そのカリフ位、支配の正当性を認めているのも、同じ理由からである。
また「力」の不平等、支配・権力関係は、人間が自ら選び取ったものではなく、その中に産み落とされた所与であるのは事実であるが、時間の中に生きる人間にとって「力」は短期的には「所与」であっても、中・長期的には、その布置をある程度変えることが可能な「所為」でもある。
 従って、社会における支配・権力関係は不可避の所与ではあっても永遠不変ではなく、ある程度の可塑性があり、規範的政治理論は、現実の支配・権力関係に対して一定限の操作可能性を有する。
 古典イスラーム政治論は、政治的権威をイスラーム聖法の執行機関として機能的に規定しているが、その制度的側面については、元首としてのカリフとその大権の代行者としての補佐官、地方総督、軍司令官、裁判官などの職制の大綱のみを定めて、その詳細は時代と場所の状況に応じて臨機応変に決めればよいとしている。
 スンナ派のイスラーム政治論は、シーア派のイマーム王権神授説のアンチテーゼとしてのカリフ民選論、家父長制的後見(wilyah)論のアンチテーゼとしての委任代理(wiklah)の統治契約論という「民主的要素」を有していながら、その制度論的展開にはこれまで興味を持ってこなかった。しかしイスラーム世界が欧米の領域国民国家システムに組み込まれる中で、人々が政治に一定の民意を反映させる装置としての選挙制度に馴染じみ、選挙への関心と参加要求が高まっている現在、基本的人権、国民主権などの虚偽の理念との連関を断ち切った上で、「人はそれぞれ違った固有の『力』を与えられておりその『力』に応じて政治的権威の権限と義務を担う」とのイスラーム政治論の基本原理を補完する「カリフ民選論」、「委任代理統治契約論」の具体化として制度論的に「選挙」を位置づけ、「民選カリフ制」を理論化することがムスリムにとっての喫緊の課題なのである。

11.聖法と基本的人権
 民主主義は、主権を有する国民に立法権を認めるが、現在の欧米諸国が採用している民主主義、「自由民主主義(リベラル・デモクラシー)」は民意を無制限に認めるものではない。リベラル・デモクラシーは、歴史的には自然法から派生した基本的人権を、民主主義、国民主権の上位に起く。つまり、主権を有する議会といえども、基本的人権を侵害する立法を行うことはできないのである。 なぜならば国民主権という考え方自体が、基本的人権概念を前提として始めて成立するため、基本的人権は国民主権に論理的に先行するので、主権者たる議会が基本的人権を否定する法律を制定することは、主権者としての議会の正当性の根拠を自ら否定する自己矛盾を犯すことになるからである。
 リベラル・デモクラシーは、上位に基本的人権があり、その基本的人権から国民主権が演繹され、授権された国会が、自然法・基本的人権に反しない限りでの立法権を持つ構造を取る。実はこのリベラル・デモクラシーの構造は、イスラーム政治論と相同なのである。
 イスラーム政治論においては、基本的人権にあたるものが、イスラーム聖法(シャリーア)である。イスラーム聖法とはアッラーの啓典クルアーンと、預言者ムハンマドの言行(スンナ)の教えであり、世の終わりまで妥当し変更が許されず不可侵である。
 この聖法がムスリムの責任能力者に政治的権威、即ちカリフの擁立と服従を義務付ける。カリフへの服従がアッラーから命じられている以上、カリフによる命令は聖法に反しない限りアッラーの命令と等しく全てのムスリムを拘束する、つまりカリフは聖法の範囲内での事実上の「立法権」を有するのである。
 つまりリベラル・デモクラシーの下では、基本的人権を上位規範として、そこから授権された民選の議会が、上位規範たる基本権に抵触しない限りでの立法権を行使するのに対して、イスラーム政治論では、聖法を上位規範として、そこから授権された民選のカリフが、上位規範たる聖法に抵触しない限りでの「立法権」を行使するのである。
 イスラーム政治論における聖法はリベラル・デモクラシーの基本的人権に相当するが、両者の相違は、基本権の内容が抽象的で曖昧なのに対して、聖法が具体的で詳細である点にある。基本的人権の内容は歴史的にも大きな変遷を経ており、現在でもリベラル・デモクラシーを標榜する国の中でもその解釈は異なっている。
 基本的人権の中でも最も基本的な生きる権利についてすら、いかにそれを侵害から保護するかについては合意は存在せず、その侵害者の生命を合法的に奪う死刑を認めるか否かについても、日本やアメリカのように死刑を認める国とヨーロッパ諸国のように認めない国が存在する。
 イスラーム聖法では、イスラーム国家に合法的に居住する者全てに、宗教、民族、性別などによる差別なく生命の安全を保障している。但し聖法は死刑を認めているので、死刑にあたる罪を犯した者の生命は保証されない。聖法で死刑が定められているのは殺人罪、強盗殺人罪、背教罪、姦通罪である。生命の安全の保障は、その侵害に対する殺人罪、強盗殺人罪の存在によってであり、社会権としての生存権は、困窮者に対する国庫からの生活扶助の義務によって保障される。
他方、日本の法律では、刑法の内乱罪(77条1項)、外患誘致罪(81条)、外患援助罪(82条)、 殺人罪(199条)、強盗致死罪・強盗殺人罪(240条)、 強盗強姦致死罪(241条)や 爆発物取締罰則の爆発物使用(1条)などが死刑を定めている。社会権としての生存権に関しては憲法第25条がその規定となる。
 また日本国憲法は第30条で納税を義務として課し、国会に税額を決める権限を委ねており、税は政争の反映となる。
一方、イスラーム聖法は、クルアーンとスンナが課す定率の浄財(ムスリムのみに課される)、定額の人頭税(非ムスリムのみに課される)を除き、課税を許さない。アル=ジャッサース(981年没)が「人々を不正に支配し税金を徴収する者たちに対しては、彼らが勢力を有しているなら、全てのムスリムが彼らと戦い殺害してなくてはならない。・・・中略・・・税の名で彼らが人々の富を収奪することに固執するのを悟った全てのムスリムには、どのような手段を用いてでも彼らの殺害が許される。そして彼らが人々の富を収奪するのを助ける彼らの部下や仲間も同様(に殺害が許される)である。」 と述べているように、イスラームは支配者が課税の名の下で人民を搾取することを厳禁しているのである。

12.聖法の法的安定性
 聖法の具体的な内容の一部については前章で垣間見たが、基本的人権概念の内容が歴史的にも地域的にも大きく異なるのに対して、聖法の内容の統一性は刮目に値する。聖法、即ちクルアーンとスンナの教えは、主な「スンナ(預言者ムハンマドの言行録)集成」が出揃い、スンナのテキストが凡そ確定し、法学派が成立する9-10世紀にかけて、その解釈がほぼ定まり、その後現在に至るまで、東はインドネシアから西はモロッコに至るイスラーム世界全域で、その同一性を保っている。
 この高度の安定性こそ、イスラーム法の最大の特徴である。上述の通り、我が国では義務教育でも刑法の基礎さえ教えられていないが、パスカル(1662年没)が既にその有名な箴言「ピレネー山脈のこちら側では真実、向こう側では誤り」によって人間の作った法律、この世の正義の空しさを揶揄しているように、欧米でも事情は同じである。いつ誰が作ったか、そしていつまた誰によって変えられるか分らない法律を自らの生きる指針にしようと思う者がいないのは事の道理である。一方で、全世界の創造主アッラーからその無謬の使徒への啓示によって教えられたと信じられているイスラーム聖法は、その信徒たちによって「不磨の大典」として一字一句疎かにせず厳密に護持され学び伝えられてきた、それゆえイスラーム教徒は、いつの時代でもイスラーム世界のどこへ旅しようとも、自分たちがそこで果たすべき義務は何であるか、また期待できる権利が何であるか、迷うことなく行動することができたのである。
 20世紀最大の法哲学者と言われるラートブルフによると、法には相互に矛盾する(1)正義、(2)合目的性、(3)法的安定性、の3つの理念が存在するが、正義や法の目的は客観性を欠き恣意的に解釈されうるため、法的安定性こそが最も重要である。法格言にも「法であるものは、法であり続けなければならない」 と言われるように、法は容易なことでは変更されてはならないのである。
 リベラル・デモクラシーの基本的人権は近代西欧という時代的・地域的制約を受けたローカルな価値観でしかなく、曖昧な概念であり、恣意的解釈を免れず時代や地域によって内容は大きく変化する。そのように曖昧な基本的人権の正義概念、目的を基準として、「イスラーム聖法が正義に悖る、合目的性を欠く」などと批判しその変更を求めることは、世界の法系の中でも最も優れた1000年を超えて維持されてきたイスラーム法の法的安定性を犠牲にすることであり、法的安定性は一度損なわれるとその回復は極めて困難であることからも到底容認できないことは、巨視的視野から法理学を見渡すことのできる者には理解できよう。
 一例としてクルアーンの男女に関する記述を取り上げよう。33章35節「まことに、男のムスリムと女のムスリム、男の信仰者と女の信仰者、男の献身者と女の献身者、誠実な男と誠実な女、忍耐する男と忍耐する女、謙虚な男と謙虚な女、施しをする男と施しをする女、斎戒をする男と斎戒をする女、己の陰部を守る男と守る女、アッラーを多く念唱する男と念唱する女、アッラーは彼らに御赦しと大いなる報酬を用意し給うた。」は「男のムスリムと女のムスリム・・・」以下男女をペアで挙げているが、古典注釈によるとこの節の啓示は、預言者ムハンマドの妻の一人が「アッラーはクルアーンの中で男にばかり言及し、良い事で女に言及し給うことがありません」、あるいは「どうしてアッラーはクルアーンの中で男には言及するのに、女には言及し給わないのでしょうか。」と詰問した時に啓示されたと伝えられている 。
 西欧では近年になって職業名に“-man”とつくものは女性差別的でありポリティカル・コレクトネスに反するとして、“-person”に変更されているが、イスラームでは男性名詞、女性名詞の使い方が公正であるか否かは、既に預言者ムハンマドの時代に自由に議論されていたのである。また遺産相続について女子が男子の半額であることについても、それが不公平ではないかどうかについて預言者の許で自由な議論がなされており、最終的に人間の有限な認識能力では何が最善かを判断することはできないことで決着がついている。 人類史的視点に立って見れば一時の流行に過ぎない「基本的人権」などを法制化しても、朝令暮改に終わり、長期的には、西欧に生じたように法への信頼自体を掘り崩す結果になるのは目に見えているのである。

13.イスラーム経済
 人間の認識能力には限りがあり未来の帰結を見通すことはできない。特に「中国で蝶が羽ばたくと、大西洋にハリケーンが起きる」「バタフライ効果」が発生する複雑系である政治や経済のような現象においては近未来の予測すら不可能である。
 2008年秋アメリカの大手証券会社リーマン・ブラザーズの経営破綻を機に、一時期は最先端の金融工学の成果として持て囃されたアメリカの「カジノ経済」は瞬く間に崩壊し、世界は金融不況に突入した。
 イスラーム法は、マネー・ゲーム、カジノ経済を断固否定する。イスラームが利子を禁じていることは夙に知られているが、禁じられているのは利子だけではない。一切の賭博が禁じられているだけでなく、証券(銀行券を含む)による証券の取引も禁じられ、先物取引もまた原則として禁じられ、特に正貨に関しては即金の等価交換以外の取引は厳禁される。
そしてイスラームは金銀本位制であり、不換紙幣は通貨として認められない。イスラーム経済は市場のマネー・ゲームを認めないだけでなく、国家による通貨の管理、金融政策も認めない。徹底した実体経済志向がイスラームの特徴である。
 基本的人権のような一時の流行の思想に流されてイスラーム法に変更を加えることが許されないのと全く同じく、近視眼的な目先の利益に惑わされて、イスラーム法を破り、金銀本位兌換通貨を廃し、利子、先物取引、証券による証券の取引を「金融工学」の美名の下に解禁することもまた許されない。
原油高により潤う湾岸産油国の資本がイスラーム・マネーなどと呼ばれ、「イスラーム金融」と称するビジネスが注目を集めているが、OIC(イスラーム諸国会議機構)がイスラームの名を騙りながら実際にはカリフ制の実現を妨げる反イスラーム的政治組織だったのと同じく、これらの経済現象もその実態はイスラームに反するマネー・ゲームに過ぎない。イスラーム経済の基礎は金銀本位制であり、金銀の正貨の裏づけのない不換紙幣のやりとりは全てマネー・ゲームでしかなく、ましてや紙幣のやりとりすらないコンピューター上だけでの電子マネーのヴァーチャルな取引などは、真のイスラーム経済の対極に位置している。ペーパー・マネー(不換紙幣)と、債務による債務の取引による「信用創造」によって成り立っている現行の銀行制度を前提とする金融経済システムは、全体としてイスラームの教えに反しているのである。
イスラームの教えを蔑ろにしマネー・ゲームで距離を得た湾岸産油国では、アラブ首長国連邦のドバイが世界最高層のビル「ブルジュ・ドバイ」(2008年現在地上160階、688メートル)を建設中であるのに続き、クウェートが1,001mの「ブルジュ・ムバーラク・アル=カビール」、サウディアラビアが1,600mの「マイル・ハイ・タワー」を建設予定であると発表している。これぞまさに預言者ムハンマドの「砂漠のベドウィンの羊飼いたちがこぞって高層ビルを建てるのを見る。それは最後の審判の予兆の一つである。」の予言の成就であり、イスラームの教えが失われた末世の姿に他ならないのである。

結語.
 大地はアッラーの所有である。アッラーは被造物の供物を必要としない。アッラーの大地は人、モノ、金(金と書いてマネーとルビを振ってください)、情報が自由に行き来する場として万人に開かれている。人、モノ、金(金と書いてマネーとルビを振ってください)、情報の円滑な流通には地上に治安と秩序が確立される必要がある。大地の主アッラーの定めた「イスラーム聖法」の施行により、この大地を治安と秩序が維持される法治空間に変えることが、イスラーム政治の目標、イスラーム共同体の使命である。
 人類は皆、アダムの末裔であり、国民と非-国民を差別し、大地を切り分け国民を囲い込み、非-国民を締め出すことは許されない。領域国民国家は存在してはならない。
 誰もが「人類の平等」、「基本的人権」を口にするこの時代に、国民と非-国民で人間を差別し、人間の最も基本的な権利である移動の自由を制限する「領域国民国家」の存在に明白な否を唱える者が誰もいないことは驚くべきことである。
 現在のこの世界において、人道に反する「領域国民国家」を偶像神リヴァイアサンの支配として否定し、全ての領域国民国家の即座の廃絶を訴える「カリフ国家樹立運動」だけが、人道を尊び正義を貫く意味のある世界で唯一の政治勢力である。
 イスラーム聖法の支配するこの法治空間が「イスラームの家」であり、聖法の執行機関がカリフ制国家である。大地の唯一の主アッラーのみに大地の主権、聖法の立法権を帰すカリフ制国家、「イスラームの家」は単一の統合体でなければならない。そしてこのカリフ制国家、「イスラームの家」の単一性は、全ての領域国民国家の峻拒を意味する。それはアッラーのみへの絶対帰依を意味するイスラームが、なによりも多神崇拝、偶像崇拝との戦いに他ならなかったように、イスラーム政治、カリフ制国家の樹立は、大地の主権を簒奪し、人間の生殺与奪権を握り奴隷として支配する偶像神「リヴァイアサン」、即ち「領域国民国家」の支配者たちの打倒なしには実現できないからである。
 領域国民国家「リヴァイアサン」が現在の偶像崇拝の主神であるとすれば、その配偶神は不換紙幣「マモン」(「あなたがたは神と富(マモン)の両方に仕えることはできない」『マタイによる福音書』6章24節)である。
 触れたものを全て金に変えてしまったミダス王の神話にあるように、マモンの魔力に憑かれた者は、貨幣が交換価値であることを忘れ、その無限の増殖、蓄積に狂奔するようになる。イスラームはマモンの跳梁を防ぐために、貨幣の退蔵を諌め物流を促し、貨幣の自己増殖に他ならない金利を禁じ、通過量を一定に保つため正貨を希少資源である金と銀に限った。
 ところが西欧資本主義は金銀本位制を離脱し、金利を貪り、実体経済を軽んじマネーゲームのバーチャル経済を許し、「物神(マモン)崇拝」に陥り、西欧の文化植民地に成り下がったイスラーム世界もそれに追随している。2008年秋の金融危機により、世界はマモン崇拝の危険性に気づきつつある。今こそ、イスラーム世界が率先してマモン崇拝の資本主義経済の軛から脱し、金銀本位制、無利子、物流・実体経済重視のイスラーム経済に復帰すべき時なのである。
 イスラームは今、二大偶像神「リヴァイアサン(領域国民国家)」と「マモン(資本主義)」への隷属から地球と人類を解放し、人間による人間の支配を打破し聖法のみの支配する法治空間を地上全てに広げるために、イスラーム的政治秩序「カリフ制国家」の再興のための最後の闘いに取り組もうとしている。人類の未来は、このイスラームの挑戦の成否にかかっているのである。



Ⅱ.  イスラーム復興運動の背景と構図

序.
帝国主義による西洋による世界の分割、植民地支配により、アジア・アフリカの国々は、その政治・社会・経済・文化システムを破壊された。イスラーム世界もその例外ではなかった。イスラーム世界も西洋の政治・経済思想に立脚する「国際秩序」に組み込まれ、イスラームの統合的な世界観は破壊された。それ以来、イスラーム世界でも、支配階層は、西洋の価値観を身につけ、その西洋文化の言説を操る者に独占される状況が今もなお続いている。
1991年のソビエト連邦崩壊により、アメリカ流の資本主義と自由民主主義が世界を席巻するようになったが、アメリカはそのイデオロギーを世界に広める情宣活動を行っており、イスラーム世界での支配的言説も、その圧倒的な影響を受けるようになっている。こうしたアメリカの情宣活動は、日本に関してはフルブライト奨学金が竹中平蔵(慶応義塾大学教授・元総務大臣)ら親米知識人の養成に大きな役割を果たしたことが知られているが、アジアのムスリム諸国における情宣活動ではむしろアジア・ファンデーションが中心になって、インドネシアのJaringan Islam Liberal(リベラル・イスラーム・ネットワーク)(http://islamlib.com/en/)、マレーシアのSisters in Islam(イスラームにおける姉妹)(http://www.sistersinislam.org.my/BM/indeks.htm)のようなイスラームの名の下にアメリカ流の自由民主主義を広める組織に資金援助している。
 自国の安全保障の実現のための「ソフトパワー」として自国の価値観が世界的に共有されることを目指すこと自体は、アメリカであれ、他の国であれ、当然の国家戦略であり、そのことの是非は問題ではない。我々にとってここで重要なのは、このようなアメリカの支援を受けた組織が英語で発信する情報への偏向と、往々にしてそれが過大評価されることの問題性である。
 こうしたアメリカの援助を受けた組織が、欧米人に理解され、好まれる言説を熟知し、英語で情報発信をし、積極的に欧米人との接触を求めるのに対し、一般のムスリム、イスラーム組織は欧米人に限らず「異教徒」の文化に興味が薄く、非ムスリムが理解できる言語、言説で情報を発信しようとの発想もない。それゆえ欧米人が、理解以前に接触さえもが困難なウラマーゥ(イスラーム学者)、イスラーム組織を敬遠し、こうしたアメリカの援助を受けた組織をインフォーマントとして、イスラームを理解しようすることは理解できる。しかしそれは、イスラームの認識においてこうした「親米」組織のバイアスを無批判に受け入れることになるばかりでなく、イスラーム世界の現状認識としても、彼らの影響力を過大評価するという問題を生むことになる。アメリカ流の「業績主義」のエートスを身につけた「現地知識人」たちは、資金援助を受けるために、自分たちの業績を誇大に報告するものだからである。
 こうした「自由・民主主義」を唱えるムスリム、イスラーム組織は、残念ながら現在に至るまで、西洋の思想への迎合、折衷以外に、なんら新しい思想を生み出していない。第二次世界大戦の敗戦によりアメリカに支配され否応なく「自由・民主主義」社会の一員として生れ育った我々にとって、彼らの迎合、折衷の心情も論理も理解するのは易しい。著者は、彼らについては特に論ずるに値しないと考えている。彼らの唱える「自由・民主主義」には我々日本人にとって取り立てて目新しい主張は何もなく、特に傾聴に値しない。他方、彼らの唱えるイスラームについても、やはり積極的な新しい主張は何もない。彼らや彼らを情報源とする欧米のマスコミや研究者たちが、「原理主義者」、「保守主義者」、「毛激派」、「狂信者」などと呼んでいるイスラーム学者、イスラーム組織の「イスラーム」についての考え方を正確に理解さえしておけば、彼らムスリム「自由・民主主義者」たちの主張は、イスラームの教えからの逸脱として容易に理解が可能である。彼らの主張は、イスラームと自由・民主主義の双方についての彼らの浅薄な理解による折衷でしかないからである。
 そこで本章では、日本では知られることの少ない現代イスラーム思想運動の主要潮流について、一般の日本の読者にも理解できる範囲で、できる限り了解可能な言説に翻訳して紹介するように努めたい。

1.イスラーム世界の統一の崩壊
(1)イスラームの世界認識
 イスラームは世界を「ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)」と「ダール・アル=ハルブ(戦争の家)」の二分法で把握する。
 ダール・アル-イスラームとは、諸宗教共同体が、それぞれが宗教儀礼、など家族法の領域では自治を享受しながら、「公法」においては「イスラーム公法」に服して共存する空間を指す。預言者ムハンマドの政治的権威の後継者、即ちカリフがイスラーム公法によって諸宗教集団を治めるこの政治体制が「カリフ制国家」である。
 他方、人間に関してはイスラームは、「ムスリム(信仰者)」と「カーフィル(不信仰者)」の二分法を取る。このムスリムの理念的共同体がウンマである。カーフィル(不信仰者)は、イスラーム公法に服することによって「ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)」を治める「カリフ制国家」の「市民権」を得、法的には「庇護民」としてイスラーム公法の下にムスリムと同様の生命権、財産権を獲得することができるが、ムスリムのウンマの一員となることはできない。ムスリムは、庇護民としてのカーフィルの法的権利は尊重しても、カーフィルに同胞愛、宗教的連帯感を抱くことはない。ところがムスリムに関しては「ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)」の圏外の「ダール・アル=ハルブ(戦争の家)」の住民であろうとも、その人種、民族、国籍を問わずウンマの一員として同胞意識を持つ。要するにウンマは西欧的国民国家の国境を越えて広がる意味空間なのである。
「ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)」、「カリフ制国家」、「ウンマ」の三つの概念が、イスラーム世界を理解するためのキーワードである。この三者がほぼ重なり合っていたのが、帝国主義列強により植民地化される以前のイスラーム世界であったとすれば、カリフ制国家が崩壊し、ダール・アル=イスラームが人為的な国境によって寸断され、ウンマの同胞意識だけが残ったのが現在のイスラーム世界である、と言うことができる 。
(2)現代イスラーム世界の成立
 帝国主義列強はダール・アル=イスラーム(イスラームの家)を寸断して植民地化し国境線を引き、この国境線の枠組みを守り西欧の「国民国家」の理念を受け入れた欧化主義者にのみ独立を許した。1924年のオスマン・カリフ国の滅亡後、かつてダール・アル=イスラーム(イスラームの家)であった諸地域は形式的には次々に独立を得て植民地支配を脱したが、それはダール・アル=イスラーム(イスラームの家)が復活したことを意味しない。カリフ国家の崩壊による政治的統一の消失と共に、国民国家の国境設定により物流と人的移動も禁じられ、ダール・アル-イスラームの一体性は名実ともに失われたのである。
 苛酷な植民地支配の歴史の中で、イスラーム世界の伝統的政治、経済、教育システムの上部構造は徹底的に破壊され、イスラーム学の水準は地に堕ちた。しかしイスラームの基層となる感情レベルでの神への信仰心と社会レベルでのウンマの連帯意識は大きく損なわれることなく残った。それゆえイスラーム世界には西欧型の政教分離の「世俗国家」は生まれなかった。イスラーム世界に政教分離の世俗国家が成立しなかった理由は、政権から独立した宗教組織の自立・自律を許すと、それはウンマを統合する強大な国際ネットワークを形成し国家の権力を凌ぐものとなり、支配の正当性の脆弱な政権の存立自体を脅かすようになることを支配者たちが恐れたからである。それゆえイスラーム世界に成立した新興国家群の独裁者たちはこぞってワクフ(信者から寄進された宗教団体の財産)を没収し国有化し宗教界の独自の財源を奪うと同時に、師弟のパーソナルな関係に基づく伝統的イジャーザ(免許皆伝)制教育を廃し宗教教育を西欧式学校制度に組み込み、宗教を完全に支配下におくことに努めた。これは国家権力と宗教権力が互いに自立し、双方が互いの自立性を認め合う政教分離ではなく、国家による宗教統制に他ならないなのである。
 それゆえカリフ制国家の崩壊の後に寸断されたダール・アル=イスラーム(イスラームの家)に成立した国家群の体制を「世俗国家」と呼ぶのは誤解を招きやすい。むしろその実態は王制であると共和制であるとを問わず、政教の分離がなされず政治権力が教義解釈権、宗教界の人事、財政権を掌握する古典的な意味での「皇帝教皇制(ツェザロパピスムス)」に近いのである 。「世俗主義」を謳うトルコにしても、モスクは宗教庁の管理下にあり、モスクの説教師も公務員として国家の厳格な統制に服しており、西欧型の政教分離を旨とする世俗国家とは似ても似つかぬ代物なのである。

2.イスラーム復興の背景
(1)シーア派宗教界
 現代におけるイスラーム復興現象はスンナ派とシーア派では互いに間接的に影響しあいながらも別個に並行して発展した。
 イランのシーア派は、カージャール朝末期のアフガンの侵入による混乱期に、宗教勢力が政治権力からの自立を勝ち取った。それにはシーア派教義に由来する財政的要因と制度的要因との二つの大きな要因がある。
 財政的には、シーア派ではイマーム(最高指導者)の不在時にはシーア派信徒のフムス(5分の1税)はムジュタヒド(教義解釈権保有者)がイマームの代理として管理するとの教義、システムが確立しており、これが宗教界の国家からの自立を経済的に可能にしていた。
 制度的には18世紀に、法解釈学の専門家であるムジュタヒドのみがイスラーム法の解釈権を持ち、大衆はそのムジュタヒドの判断を仰がねばならないと説くウスール(原理)派が、クルアーン(コーラン、イスラムの聖典)とハディース(預言者ムハンマド及び一二人のシーア派イマームの言行録)の解釈には特別な法解釈学の習得を必要としないとするアフバール派に勝利し、教義問題における宗教界の俗人に対する支配権が確立された。ウスール(伝承)派はムジュタヒドの間にもアーヤ・アッラーフ(神の徴)、フッジャ・アル=イスラーム(イスラームの証)などの階層を設け、最高権威マルジャア・タクリードを頂点とするムジュタヒドが、教学生、俗人を指導する階層的教権を作り上げた。またシーア派は、イマーム廟などを有する聖地ナジャフ(イラク)、カルバラー(イラク)、コム(イラン)などを世俗権力の手の及ばぬ不可侵の聖地として確保することができた 。
 宗教勢力が相対的に自立しており、政教分離がなされ、皇帝教皇制が弱体であったシーア派世界では、タバコ・ボイコット運動(1891年)、立憲革命(1905年)以来、シ
ーアのウラマー(イスラーム学者)には大衆指導、政治参加の伝統が存在したのである。
(2)スンナ派原点回帰主義
 シーア派世界ではイスラーム復興運動は宗教界の伝統的権威を背景にウラマーの主導によって行われたが、スンナ派世界のイスラーム復興運動のパターンはこれとは反対のものであった。
 スンナ派世界では、イスラーム復興運動は、伝統否定の形を取った。スンナ派イスラーム復興運動の先駆であるワッハーブ派は、伝統イスラームの「法学 - 神学 - スーフィズム(神秘主義)」の学派体制の権威を否定し、学派の介在を排してクルアーンとスンナ(預言者の言行)の直接の参照と文字どおりの解釈の義務を説いた。また雑誌『マナール』に拠るラシード・リダーのサラフィーヤ(古義学派)も同様の方向性を有した。
 ワッハーブ派のウラマーたち、ラシード・リダー自身はイスラーム学の伝統的な教育を受けたウラマーゥ階層の出身であったが、彼らの思想は本質的にイスラームの万人祭司主義を徹底したものであり、ウラマーゥの権威を否定し、クルアーンとスンナの直接的参照と適用を万人に義務づけるものであり、その意味で宗教界の権威を根底から掘り崩すものであった。
 本稿ではワッハーブ派、サラフィーヤ運動の流れを汲み「学派」の権威を否定するスンナ派原点回帰主義を、便宜的に(A)ワッハーブ派、(B)イスラーム主義に分類する。
(A)ワッハーブ派は、ハディース学を最重要視し、聖者廟参詣、聖者崇敬の禁止、歌舞音曲の禁止、男女の隔離、集団礼拝の敢行などの旧来からの法学、神学的問題にのみ関心を集中し、現代的な社会・政治・経済問題に無関心なウラマーゥとその信奉者たちであり、サウディアラビアの宗教エスタブリッシュメントであるウラマーゥ(イスラーム学者)を中核に世界中に支持者が広がっている。特にインド亜大陸では、「アフレ・ハディース」と呼ばれ、イスラーム学者の養成機関マドラサ(新学校)のネットワークにおいて、デオバンディー学派、バレルビー学派に続く第三の勢力をなしている。なおデオバンディー学派は、神学・法学的にはマートゥリーディー・ハナフィー学派を信奉するがクルアーン、スンナに照らした改革を唱えスーフィズムの伝統には否定的で、伝統を墨守するバレルビー学派と厳しく対立しており、むしろワッハーブ派と良好な関係を保っている 。なおアフガニスタンのターリバーンは学問的出自から言うと、このパキスタンのデオバンディー学派に師事した学徒集団である。
(B)イスラーム主義者は、ハディース学、イスラーム法学などの伝統イスラーム学の先行研究に拘泥せず、現代的問題にクルアーン、スンナを直接参照し適用することが可能だと考え、それによって社会・経済・政治の総合的なシステムとしてのイスラームの復興を目指す。イスラーム復興主義の衝動者たちはウラマーゥではなく、「俗人」である。教育の浸透、識字層の拡大により「俗人」の聖典への直接のアクセスが可能になったことから、この新しいタイプの「俗人」のイスラーム復興主義知識人階層を生まれた。1928年にエジプトで生まれたムスリム同胞団は、ラシード・リダーのサラフィーヤの系譜につながる大衆運動であったが、その指導者層は伝統イスラーム教育を受けたウラマーゥではなく法曹界出身者などの「俗人」たちであった。
 こうした「イスラーム主義」の代表的運動体・団体としては、アラブ世界の「ムスリム同胞団」、インド亜大陸のジャマーアテ・イスラーミー(Jamaat-e-Islami)、トルコの現代の政権党「公正発展党(Adalet ve Kalkınma Partisi)の母体となったミッリー・ギョリュシュ(Milli Görüş)運動、インドネシアのムハンマディーヤ、公正繁栄党(Partai Keadilan Sejahtera)、マレーシア・イスラーム党(Partai Islam Se-Malaysia)などがあり、これらの運動は思想的・人的に緩やかな国際ネットワークを作り共闘関係にある。
(3)アラブ社会主義の自壊とOIC結成
 1950年から60年代にかけて、アラブ世界では、旧ソ連の支援を受けたエジプトのナセルやシリア、イラクのバアス党などが独立の余勢をかってアラブ社会主義によるアラブ世界での覇権の確立を目指した。このアラブ社会主義による既成秩序への挑戦に対抗して、湾岸の王制諸国を糾合し、イスラーム外交の名の下にアラブ社会主義を共産主義=無神論と断じるイデオロギー闘争を展開したのがサウディアラビアの故ファイサル国王であり、1962年には彼のイニシアチブの下に、サウディアラビアのメッカに本部をおく世界のイスラーム団体の調整・支援機関ラービタ(世界イスラーム連盟)が作られた。
 またサウディアラビアは、アラブ社会主義体制の本国での弾圧を逃れたエジプト、シリア、イラクなどのムスリム同胞団員などのイスラーム主義者に恰好の亡命先を提供した。エジプト・シリア統合の失敗、シリア・イラク両バアス党の分裂、エジプトのイエメン内戦への介入の失敗、そして1967年の第三次中東戦争の敗北などによって、アラブ社会主義は最終的に自壊した。財政・外交的支援を条件にナセルがファイサルの軍門に下り、アラブ社会主義陣営が覇権への野望を放棄することによって、ファイサルのイスラーム外交は、1969年のOIC(イスラーム諸国会議機構)の創設決定として結実することになる。
 ワッハーブ派は、元来瑣事拘泥主義で他派に対して極めて偏狭であったが、この時期には無神論のアラブ社会主義という敵を前にして、スンナ派原点回帰主義の諸グループを支援し、共闘したのである。

3.イスラーム復興運動の展開
(1)スンナ派反人定法論
 1960年代にはアラブ社会主義とのイデオロギー闘争の中で、社会主義のみならず西欧法を継受した近代国家体制そのものを否定する理論が定式化された。これが「人間の作った法律による支配は神の主権の否定であり背教にあたる」との反人定法論である。
 学界における反実定法論の先駆者はサウディアラビアの王国ムフティー(最高法官)ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・アル=シャイフ(1969年没)であった。
 アール・アル=シャイフは、イスラーム法(イスラーム法)に則って統治を行わない者はムスリム共同体から「破門」される不信仰者であるとする。彼はフランス法や英米法などを継受した実定法を立法の法源とし人々に強制的に適用することを、イスラーム法を拒みアッラーフ(イスラムの神)とその使徒に反逆する最も明白で包括的な最悪の形態であると述べ、「この『不信仰』にまさる『不信仰』があろうか」と断罪した。
 アール・アル-シャイフの実定法批判は、イスラーム法に則る統治を建前とするサウディアラビアのムフティーとしての、共和制諸国に対する批判、いわば外からの批判であった。
 ところがアラブ社会主義体制をとるエジプトにあって内側からこれを批判したのが、創設者ハサン・アル-バンナー亡き後の「ムスリム同胞団」最大のイデオローグであったサイイド・クトゥブ(1966年没)の「ジャーヒリーヤ論」であった。クトゥブによると、イスラームとはアッラーフのみに「統治権」を帰すること、具体外的にはイスラーム法の完全な施行を意味する。統治権がアッラーフのみに帰されない、つまり立法権が人間の手に握られている状態は、人間の人間に対する隷属を意味する。彼はそれをイスラームに対立するものとして、「ジャーヒリーヤ(無明)」と呼び、「イスラーム世界」の現状をジャーヒリーヤと断じた。イスラームとジャーヒリーヤの二分法を掲げる「ジャーヒリーヤ論」は権力者にとっては極めて危険なものであった。それゆえ彼の影響力を恐れた時のエジプト大統領ナセルにより、1966年、クトゥブは国家転覆容疑によって処刑されたのである。
(2)スンナ派イスラーム復興運動の分極化
アラブ社会主義とのイデオロギー闘争を通じて、西欧法を継受したアラブ社会主義体制の反イスラーム性の理論的認識が深まったが、イスラーム主義者に対する投獄、拷問、虐殺、処刑といった現実の対応は、その認識を強化するものであった。また中東の政権は例外なく軍事独裁政権であり、宗教・言論は政府の完全な統制下にあり、イスラーム主義者には平和的手段による政権獲得の道は完全に閉ざされていた。
 こうした状況下でスンナ派イスラーム復興運動は、漸進的に個人のイスラーム化、社会のイスラーム化、国家のイスラーム化を目指す改革派と、国家のイスラーム化には武力革命が必要であるとする反体制武装闘争派に分極化していった。
 そしてアラブ社会主義の自壊に伴いイスラーム主義への弾圧が相対的に緩和された中で、改革派、武装闘争派双方によって社会のイスラーム化が進められていった。
 本来、イスラームは学問であるため、イスラームヘの弾圧が緩めば、学問の論理に従って、学問的に正しいイスラーム理解が進歩する。イスラーム復興運動の興隆の主たる原因は学問の進歩と大衆化にある。
 学問の進歩と民衆のイスラーム化を媒介したのが、学校などの公教育と、モスクなどの非公式教育である。両者は重なる部分もあったが、公的教育は国家の統制下にあるため基本教義と私的宗教儀礼の教育に偏る傾向があったが、比較的自由なモスク教育は、社会倫理など実践的な問題をも教え、モスク教育を基礎にそこで男性の顎髭(預言者ムハンマドに倣って男性の威厳のしるしとされる)、女性のヒジャーブ(べール)、男女の隔離といった風俗、社会倫理のイスラーム化が進行した。
 スンナ派のイスラーム主義の担い手は主として「俗人」であった。彼らは各自の職業を通じて社会のイスラーム化を計った。中でもエジプトでは相対的自由期に大学学生自治会、職業組合のイスラーム化が進み、1980年代には大学の学生自治会と医師組合、技師組合、弁護士組合などの職業組合の大半がムスリム同胞団の支配下に入った。漸進改革派は勉強会の中で民衆の教化と共に、モスクに付属する病院を建て貧者に無料の診察を行うなど、社会奉仕活動を通じても民衆の支持を集めていった。
(3)革命のジハード論
 クトゥブは、イスラームとジャーヒリーヤ(無明)を二項対立的に把握し、ジャーヒリーヤとの妥協は許されず、ジャーヒリーヤを克服しイスラーム社会を再建するためには、ジハード(聖戦)が必要不可欠であるという。なぜならイスラームが解放の教えである以上、イスラームの信仰の自由が確保されるためには、先ず人間の人間に対する支配-隷属関係が打破されねばならず、それには言論による論証のみでは足りず、体制変革の革命のための「運動」が組織される必要があるからである。
 クトゥブのジャーヒリーヤ社会論の現状認識と体制変革への訴えを、既述のアール・アル-シャイフの反実定法論、イスラーム法に背く統治を行う為政者とのジハードを命ずる中世の法学者イブン・タイミーヤ(1328年没)のファトワー(法判断)と接合して、革命のジハード論を法学的に定式化したのが、イスラーム集団のウマル・アブド・アル-ラフマーン、ジハード団のアブド・アル-サラーム・ファラジュらエジプトのジハード連合のイデオローグたちの理論的作業であった。
 イスラーム法(イスラーム法)以外の人定法の施行は背教にあたる
 → したがって人定法を施行する為政者はムスリムではなく背教者である
 → 背教の為政者に対してはジハードが義務となる
 → ところが現在の「ムスリム諸国」の支配者たちは人定法を施行している
 → それゆえ既存の全ての体制のジハードによる打倒が義務となる
との論理が革命のジハード論の骨子である。
 革命のジハード論は1970年代後半に輪郭が固まったが、この革命のジハード論が、その後のスンナ派世界における反政府武装闘争の基礎理論となる。
(4)シーア派「法学者による後見」論からイラン・イスラーム革命へ
 こうしてスンナ派世界で革命のジハード論の理論化が進みつつある頃、シーア派世界では、イランを追放され1965年にイラクのシーア派聖地ナジャフを亡命先に定めたアーヤ-アッラーフ・ホメイニーが王制の打倒とイスラーム法学者の直接統治の必要を説く「法学者による後見」理論を編み出していた。
 ホメイニーは、シーア派信徒の唯一の正当な指導者であるイマームの不在中は法学者こそがその代理人である以上、イスラームは王制を認めていないと言う。シーア派では宗教弾圧の下では「タキーヤ(信仰を隠すこと)」が許されている。しかしイスラーム社会そのものが危機に瀕している場合には「タキーヤ」は許されず、パーレヴィー帝政は西欧の手先となりイスラームを滅ぼそうとしている以上、これを打倒し、法学者が直接政治の監督にあたるイスラーム共和制を樹立しなくてはならないとホメイニーは説いた。
 ホメイニーは世界に広がるシーア派のウラマーゥ・ネットワークを通じてイラン帝政打倒派の組織化に成功していた。そして1979年にはイランではイスラーム世界で初めての民衆革命によってパーレヴィー朝帝政は倒れ、イスラーム革命により、「法学者による後見」理論に立脚するイスラーム共和国が樹立された。
(5)シーア派世界へのイラン革命の影響
 アラブ社会主義とのイデオロギー闘争期には、国家レベルにおける世界のイスラーム運動の盟主はワッハーブ派宣教国家サウディアラビアをおいて存在しなかった。
 ところがイラン・イスラーム共和国の成立以降は、スンナ派のワッハーブ派宣教国家サウディアラビアとイラン・イスラーム共和国が主導権を争うという国際イスラーム運動の基本構図ができあがる。
 イランはイラン・イスラーム革命をイラン一国を越えるイスラーム革命と位置づけ、イスラーム革命の輸出を目指した。いわゆる「革命輸出」戦略構想に基づきイランは「世界イスラーム解放運動機構」を組織したが、この組織にはイラクとクウェイトのダウワ(宣教)党、バハレーンのイスラーム解放戦線、サウディアラビアのアラビア半島イスラーム革命組織、レバノンのヒズブッラー(神の党)、イスラミック・アマルなどが加入し、各国のシーア派イスラーム主義反体瑚派の指導者たちがイランを活動拠点に定めることになった。イラン革命の影響の下に1979年にはサウディアラビア、バハレーン、クウェイトなど多くのシーア派住民を抱える湾岸諸国ではシーア派の待遇の改善を要求するストライキやデモが頻発した。スンナ派政権は弾圧をもってこれに応じたため、湾岸諸国では1982年のバハレーンのシーア派反体制組織によるクーデター未遂事件、1979年のメッカ巡礼団爆破事件などシーア派による反体制活動が続けられている。
 またイラクではシーア派住民の間で大きな影響力を有したアーヤ・アッラーフ・ムハマド・バーキル・アル-サドルが「法学者による監督論」を受容したが、イスラーム革命の波及を恐れるバアス党政権は1980年、アル-サドルを処刑する。
 イランの「革命輸出」が大きな成功を収めたのはレバノンのシーア派の政治組織化である。レバノンでは、ヒズブッラー、イスラミック・アマルなどシーア沢が民兵団を結成し大きな政治勢力となった。反イスラエル闘争ではイランと立場を同じくしたヒズブッラーが主役になり武装闘争の結果1985年にはレバノン南部を占拠していたイスラエル軍を撤退させる大きな成果をあげた。
(6)スンナ派世界におけるサウディアラビアのヘゲモニー
 イラン・イスラーム革命の成功は、スンナ派世界にも大きな衝撃を与えた。サウディアラビア、バハレーン、クウェイトなどシーア派住民が政治、社会、経済的に差別を被っている湾岸諸国ではイラン革命に触発されたシーア派住民によるストライキやデモが頻発し、国家統合が脅かされた。また宗教界の反応としては伝統的にシーア派を異端として敵視するワッハーブ主義は、イラン革命による革命輸出を「シーア派の伸張」の脅威とみなした。
イラン革命はイスラーム革命であると同時に、王制の打倒を目指す共和革命でもあり、イランを超えて全てのムスリムに王制の打倒を呼びかけた。そして1979年にはイラン革命に呼応するかのようにサウディアラビアでワッハーブ派の中からもサウディ王制を否定しイスラーム国家の樹立を目指したメッカ・カアバ神殿占領事件が起きた。そこでサウディアラビアを筆頭とする湾岸の王制諸国は、王制批判の国内への波及防止のため、イラン・イスラーム革命のイスラーム性を否定しシーア派イランの特殊な事態に過ぎないものとして、イラン一国に革命を封じ込める方策をとった。
 このようにイランの脅威の認識において国家と宗教界の利害は一致したため、湾岸諸国はイラン革命とのイデオロギー闘争に際して、国内的にはシーア派嫌いのワッハーブ派宗教界を優遇し積極的に利用すると共に、ラービタなどの配下の国際イスラーム団体を通じて世界のイスラーム運動を支援し、イランに対抗してイスラーム世界の盟主の地位の確保をはかった。
 また武装闘争に関しても「革命ジハード論」の代表的イデオローグでありサウディアラビアでの教職を終え帰国したウマル・アブド・アル-ラフマーンの指導するイスラーム集団とジハード団の合作になる「ジハード連合」が1981年にサダト・エジプト大統領を暗殺した。またシリアではシーア派の分派の「異端」アラウィー派出身のアサドのバース党独裁政権に対し、ムスリム同胞団が1976年頃から武力闘争を始めており、1981年にハマで大規模な武装蜂起を行ったが鎮圧され、数万人とも一言われる犠牲者を出してシリア国内の同胞団は壊滅した。エジプトにおけるジハード連合によるサダト暗殺、シリアのムスリム同胞団によるハマ蜂起はいずれも政権奪取に成功せず失敗に終わり、両国のイスラーム主義武装闘争派は徹底した弾圧を被ったが、殺害、逮捕を免れた武装闘争派の多くはサウディアラビアに亡命する。折からサウディアラビアはアフガニスタン・ジハード支援の一環として、本国で弾圧されたアラブ人反体制イスラーム主義武装闘争派をアラブ・ムジャーヒドゥーン(義勇兵)として組織化し、パキスタンのペシャワール経由でアフガニスタンの反共ジハードに送り込んだ。この「アフガン・コネクション」の形成の主役の一人がサウディアラビア最大のゼネコンであるビン・ラーデン財閥のウサーマ・ビン・ラーデンであった。またスーダンで1986年にイスラーム主義に好意的なウマル・バシール将軍の率いるクーデターが成功し、イスラーム主義の伸張の足枷が無くなると、ハサン・トラービーの指導するイスラーム救国戦線によってスーダンの政治・社会の漸進的イスラーム化が始まった。ところがイスラーム救国戦線を財政的に支援したのもビン・ラーデン財閥などのサウディのイスラーム主義者であった。

4.イスラーム復興運動の現在
(1)1990年代のスンナ派イスラーム主義の反政府武装闘争
 サミュエル・ハンチントンが『第三の波』(三嶺書房 1995年)の中で『民主化の第三の波』と呼んだ民主化運動は、1989年に東欧の旧ソ連の衛星国の独裁政権を次々と崩壊させ、1991年末には終に旧ソ連をも消滅させたが、イスラーム世界でも1980年代の終わりから1990年代の初めにかけて盛り上がりを見せた。その時期に、イスラーム世界でも、欧米がイスラーム世界の民主化を支援するのではないか、イスラーム世界の独裁政権に対して、民主化に向けての圧力をかけるのではないか、という期待が高まった。しかし1989年に複数政党制を導入したアルジェリアでイスラーム主義政党「イスラム救国戦線(Front islamique du salut: FIS)」が1991年に選挙で圧勝し政権を握ろうとした時に、それを軍事クーデターでつぶした軍事政権対して欧米はそれに圧力をかけるどころか逆にそれを支援したため、「民主化」を求めるイスラーム世界の民衆の間には「民主化」を唱える欧米への幻滅と不信が広がった。 またほぼ時を同じくして起こった1991年の湾岸戦争は、イラクによるクウェイト占領に対して武力行使をしながらイスラエルのパレスチナ占領を支援するアメリカの「ダブル・スタンダード」に対するイスラーム世界に拭いがたい不信感を植え付けた。1980年代を通じて地下に潜行していたスンナ派イスラーム主義武装闘争派の反政府武装闘争が1990年代に再び火を噴くことになるのは、このような時代背景があってのことである。
 アルジェリアのイスラーム救国戦線(FIS)の非合法化、党首ら幹部の逮捕、大弾圧は平和的手段によるイスラーム化が不可能であるとのイスラーム主義武装闘争派の認識を再確認させるものであった。以後、アルジェリアではイスラーム主義武装闘争派と政府の内戦が続いており、犠牲者は10万人を超えている。またエジプトでも1990年に「イスラーム集団」のスポークスマンが暗殺され、その報復にイスラーム集団がリファアト・マフジューブ国会議長を暗殺したのを機に、イスラーム主義武装闘争各派の武装闘争が再燃した。イスラーム集団は1992年秋には外国人観光客襲撃戦術を採用し、1993年のニューヨーク貿易センター・ビル爆破事件ではイスラーム集団の指導者ウマル・アブド・アル-ラフマーンが容疑者として逮捕された。
1990年代にスンナ派世界で武装闘争が再燃した背景にはいくつかの理由がある。第一に革命のジハード論の理論的整備と普及があげられる。1980年代を通じてイスラーム主義武装闘争派は、武装闘争を控え理論の整備とその教宣に専念してきたのである。第二は、アフガニスタン・ジハードの終結によるアラブ・ムジャーヒドゥーンの本国への帰還である。1989年2月にアフガニスタンから旧ソ連軍が撤退し、1992年4月にはナジブラ政権が崩壊すると、ムジャーヒドゥーンの連立政権が成立したが、アフガン・ムジャーヒドゥーンの問に内紛が生じたため、失望したアラブ・ムジャーヒドゥーンの多くは本国に密かに帰国した。彼らが本国での武装闘争を指導したのである。 またアフガンで戦ったアラブ・ムジャーヒドゥーンの中には、その後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992-1995年)、コソボ紛争(1991-2000年)などにムスリム側に立つ義勇兵として参加し、その後、本国に帰国し、反体制武装闘争に加わった者もあった。
(2)9・11/イラク戦争の背景
 1990年代、イスラーム世界では、イスラーム主義武装闘争派による反政府闘争が再燃した。この反政府闘争は、人定法の施行によって背教した為政者の打倒のジハードを説く革命のジハード論に立脚し、「遠い敵」である外国の異教徒より「自国の為政者」という「近い敵」の打倒が優先されるべきとの情勢判断に基づいていたが、内戦を招来することから大衆的得られず多くの犠牲者を出しながら目的を達成する見通しが立たず、戦略の転換を余儀なくされることになった。
 そうした状況下で、俄かに注目を浴びたのが、ウサーマ・ビン・ラーディンの対米ジハード(ユダヤ人と十字軍に対するジハード)論である。ウサーマ・ビン・ラーディンはアフガニスタンで旧ソ連の占領軍とのジハードを戦った義勇兵であり、その関心は古典的な「イスラームの家」を侵略する異教徒に対する防衛ジハードに留まっている。しかしアラビア半島を聖地とみなし、ペルシャ/アラビア湾岸におけるアメリカ軍の駐留をアメリカによる「イスラームの家」の侵略、聖地の冒涜と看做すことで、アメリカとの戦いを防衛ジハードの枠組みで正当化したのが、ビン・ラーディンの独自性であった。
 ビン・ラーディンは、「イスラームの家」の内部と外部、また内部における侵略者とムスリム、庇護民を区別せず、「イスラームの家」の外のアメリカ人とその権益、また「イスラームの家」、サウディアラビア国内の在留米軍だけではなく、在留米軍の駐留を容認する政府、民間施設の全てに対するジハードを呼びかけた。
 ビン・ラーディンの議論は、イスラーム法学的には極めて粗雑であったが、アメリカを主要敵とみなしジハードを訴える単純明快な議論は、湾岸戦争で強い反米感情を育まれたムスリム大衆の心を捉えた。それに拍車をかけたのが、アメリカの反イスラーム的外交と、アメリカ国内における反イスラーム意識の高まりであり、それを象徴したのが、国際的影響力を有する外交雑誌Foreign Affairs (Vol.72, No.3. pp.22-28)に発表されたアメリカの国際政治学者サミュエル・ハンティントンの論文「文明の衝突(The Clash of Civilizations)」であった。特にケニアとタンザニアの米大使館爆破への報復としてクリントンが19998年の8月20日に行ったスーダンの民間薬品工場の爆撃は直接、間接に多くの犠牲者を出し、イスラーム世界でのアメリカへの憎悪を増幅させた。
 ムスリム諸国の政権打倒を目指す「対内ジハード」から、イスラーム世界を侵略する欧米を標的とする「対外ジハード」へのイスラーム主義武装闘争派の戦略転換の明白な指標となったのが、1998年のユダヤ教徒・十字軍に対するイスラーム世界戦線」である。同戦線はビン・ラーディンを担いでエジプトのジハード団の指導者アイマン・アル=ザワーヒリーが組織したものであるが、アル=ザワーヒリーは2000年1月にジハード団を脱退し、ビン・ラーディンと共に欧米を標的とする対外ジハードに専心することになる。「9・11」は劇的ではあったが、こうしたアメリカとイスラーム世界の双方における敵意の増大の連鎖の一環であった。
(3)9・11/イラク戦争後のスンナ派イスラーム復興運動
「9・11」は世界最大最悪のテロ国家アメリカの国内で起こったテロ事件であり、本来はアメリカの国内問題であったが、ブッシュ政権は、これを利用しイラクの侵略に踏み切った。サッダーム・フサイン政権は、イラク・イラン戦争、湾岸戦争、国内の反体制派の虐殺で100万人以上のムスリムを殺害し、一族による残虐な暴政も相俟って、国内的にも隣国からも怨嗟の的となっており、その打倒とその後の占領行政は本来失敗しようがない容易なものであるはずであった。しかしブッシュ政権がこれ以上はないほどの拙劣な外交、占領政策を行ったためイラク戦争は泥沼化し、ビン・ラーディン、アル=ザワーヒリーの思惑通り、イスラーム世界における反米感情は高揚し、イスラーム主義の諸潮流が活性化することになった。
「9・11」は、イスラーム世界の独裁政権に「テロとの戦い」の名目で国内のイスラーム主義反体制派の弾圧強化のお墨付きを与えるものであった。しかし、アメリカ軍によるイラク占領におけるイラク市民への虐待、イラクの富の収奪の実態が明らかになり、イスラーム世界で、反米感情と共にイスラーム意識が高揚したのである。
ビン・ラーディンにアメリカに占領されたと非難されたサウディアラビアは2003年には駐留米軍を全て撤収させた。
イラクの隣国のトルコではミッリー・ギョリュシュ運動の流れを汲む公正発展党が2002年の総選挙で大勝し単独与党となりエルドアン党首が首相となり、2008年の大統領選挙では副党首のアブドゥッラー・ギョルが大統領に選ばれている。
 またエジプトでは2005年末の選挙で、アメリカの中東民主化要求によりムバーラク政権が、ムスリム同胞団への弾圧の手を緩めたため、同胞団は民選444議席中88議席を獲得する「大躍進」を遂げた。
 イラク侵略に先立って侵攻しターリバーン政権を崩壊させ傀儡政権を樹立させたアフガニスタンでも、2008年にはターリバーンの復活が顕在化した。米軍とNATO(北大西洋条約機構)軍による民間人への攻撃は目に余るものがあり、アメリカの傀儡のカルザイ大統領すら、民間人の被害に繰り返し抗議し、次期大統領に選ばれたバラク・オバマ氏に民間人への攻撃の停止を訴えざるを得ない情勢になっている。
 また「テロとの戦い」の名の下に、アメリカのアル=カーイダとターリバーンに対する戦いに協力してきたムシャッラフ軍事政権は、総選挙で大敗し、2008年8月ムシャッラフは大統領を辞任に追い込まれた。
(4)シーア派の伸張
 イラク戦争の最大の受益者がシーア派及び、イランであることには疑念の余地はない。サッダーム・フサイン政権が崩壊すればシーア派が政権を掌握することは専門家の間では常識であった。しかしアラブ・社会主義のバアス党サッダーム・フサイン政権の世俗主義の長年にわたる支配の下におかれていたシーア派の間で、イスラームがどの程度の影響力を有するかは未知数であった。しかしイラク戦争開始後、イランのシーア派の間で最も政治的影響力を有する人物は、ナジャフ在住のイラン人の大アーヤトゥッラーでイラク・シーア派宗教界の最高権威アリー・スィースターニーであることが明らかになった。スィースターニーは、彼の師で死ぬまで政治的静寂主義を保ったアル=フーイーとは異なり、政治に積極的に関与し、占領軍への無抵抗、憲法の承認、スンナ派との内戦の忌避、選挙への参加などを呼びかけ、強い指導力を発揮してイラクのシーア派の立場の強化に努めてきている。また現在のイラクの政権党「統一イラク同盟」の中で大きな勢力を有する「イラク・イスラーム最高会議(Supreme Islamic Iraqi Council:SIIC)は、1982年にイラクの高位イスラーム学者ムハンマド・バーキル・アル=ハキーム(2003年没)が亡命先のテヘランで設立した「イラク・イスラーム革命最高会議」を母体としており(2007年改称)、本来イラン型のイスラーム革命を目指す組織であった。イラクのシーア派の間でヘゲモニーを握ったのは世俗派ではなく、宗教勢力であったのである。
アメリカとサッダーム・フサインの戦いで漁夫の利を得たシーア派とイランの勢力の伸張は、スンナ派アラブ諸国から脅威とみなされた。シーア派がイランからイラクを経てレバノンに伸びる「シーア派三日月地帯」の勢力圏を形成するとの2005年のヨルダンのアブドゥッラー国王の警告は、このスンナ派の懸念の表現であった。
 2006年7月にはレバノンのシーア派政党ヒズブッラーが、イスラエル兵を拉致したが、その報復にレバノンに越境侵攻したイスラエル軍をヒズブッラーは撃退した。ヒズブッラーのこの「勝利」は、イスラエルの「無敵神話」を崩す快挙として、スンナ派のアラブ民衆からも高い評価を受けた。
 またイラクにおけるシーア派政権の成立は湾間諸国にも影響を及ぼし、シーア派住民が多数を占めるバハレーンでは2006年の議会選挙でシーア派政党「国民イスラーム協約協会」が第一党になっている。

5.結び
現在イスラーム世界ではイスラーム学の発展と大衆化に伴ってイスラーム復興現象が顕在化している。イスラーム復興はスンナ派世界とシーア派世界で並行して進行中であるが、両者におけるウラマーゥの社会・経済的機能の相違により、復興運動の形態には顕著な相違が見られる。
 イスラーム復興の最終目的が国家のイスラーム化にあることは共通するが、スンナ派では争点がイスラーム法(シャリーア)の施行にあるのに対して、シーア派ではむしろ国家におけるイスラーム法学者の地位が焦点となる。
 シーア派では皇帝権から自立し階層的に信徒を組織した宗教権力が存在したため、イラン・イスラーム革命においては「法学者による後見論」を唱える大アーヤトゥッラーのホメイニーの率いるウラマーゥ層がイスラーム主義反政府運動を主導しイスラーム革命政権を樹立し、アメリカ占領下のイラクでも大アーヤトゥッラーのスィースターニーの指導の下にダウワ党、イラク・イスラーム最高評議会、サドル派らシーア派宗教勢力が政権を獲得することになった。
「法学者による後見」論によると国家のイスラーム性を保証するものは法学者による監督をおいてなく、それゆえ宗教界の最高権威たる法学者(マルジャア・タクリード)が国家の最高指導者を兼ねる教権制の実現こそがイスラーム革命の目標となったのである。 またイラクでは、議会選挙、憲法制定自体が、イラン国籍の純粋なイラン人でしかなく選挙権も被選挙権も持たないスィースターニーのお墨付きを得て初めて円滑に実現したことから、イラクのシーア派にとってのスィースターニーの「宗教的権威」が、そもそも「国家」制度自体を超えていることが明らかになった。
 一方スンナ派世界では、軍事独裁政権が宗教を統制下におく皇帝教皇主義的支配が行われ、ウラマーゥの絶対多数は公務員として国家体制に組み込まれており、国家から自立した宗教権力は存在しない。スンナ派世界では一般にイスラーム復興運動の主たる担い手は職業的なウラマーゥではなく、弁護士、医師、技師などの宗教的に目覚めた「俗人」イスラーム主義者であった。スンナ派イスラーム主義はウラマーゥのイスラーム法の独占的な解釈権を否定するため、スンナ派のイスラーム運動においては教権制は問題とならない。 スンナ派が目指すイスラーム国家とは、イスラーム法の主権、即ち「法の支配」の原理のもとに、「世俗」の職業を有するイスラーム主義者が「シェーラー(協議)議会」を通じて国家を運営する形態である。スンナ派イスラーム復興運動は、伝統的な宗教界の権威の解体を背景とするため、その理想とする政体もイスラーム史上類例のない体制となるわけであるが、それは構造的には「法の支配」と「議会制」の組み合わせである近代西欧の政治制度に近いものと言えよう。
 これまでのスンナ派イスラーム復興運動は領域国民国家の枠組みを超えることができていない。その点においては、「民主主義」の枠組み内で選挙を通じて議会の多数派を占めることによって政権の獲得を目指す「穏健漸進改革派」も、ジハードによる反イスラーム政権の打倒を目指す「急進武装闘争派」も、領域国民国家の枠組みでイスラーム法の施行が可能であるとの前提を共有している。しかしスンナ派のイスラーム政治論において、イスラーム法の施行の要はカリフであり、イスラーム世界、即ち「イスラームの家」を総べるカリフの存在なくしては、イスラーム法の十全な施行は、そもそも最初から期待することができない。 迷走を続けるスンナ派イスラーム復興運動の将来は、イスラーム学的裏付のある政治理論の構築にかかっている。この点において、イラン・イスラーム革命がフランスに亡命中にホメイニーによって指導された先例もあるが、インドネシアを除くスンナ派のムスリム諸国には言論・政治活動の自由がないため、むしろムスリムにも一定限の言論、政治活動の自由を保障している西欧への亡命者の活動に注目する必要があると思われる。
イスラーム運動の構造は重層的であり、イスラーム学の展開と連動している。それゆえ我々は事柄の本質を弁えぬ西欧の皮相なイスラーム報道に惑わされず、イスラーム運動の諸潮流の理念と歴史を正確に押さえたうえで、イスラーム学の今日的展開をフォローし錯綜する現実を正確に分析しうる視座をもつことが求められているのである。


Ⅲ. 解放党とイスラーム地球革命

序.
イスラームは普遍宗教、世界宗教である。9・11以降の現代世界においては、ムスリムのネットワークが欧米を含む世界中に存在することはもはや周知であろう。
しかし、意外なことに実体のある国際的なイスラーム政治運動を呼べるものは、「解放党(Hizbut Tahrir)」以外に存在しない。
OIC(イスラーム諸国会議機構)のような国家をメンバーとする団体は、トルコのような政教分離を国是とする国、カザフスタンのような旧ソ連圏の非宗教国家だけでなく、スリナム(ムスリム人口非14%)やベナン(ムスリム人口比20%)のようにムスリムが少数派である上に、政治的実権を有するわけではなく、なぜメンバーであるのかよく分からない国も含まれており、イスラーム政治運動とは全く逆の、イスラーム世界の分断の固定化装置でしかない。
またインド亜大陸起源のタブリーギー・ジャマーアトは、民族、国籍を超えた「国際イスラーム運動」ではあるが、政治活動を意識的に避けていることから、イスラーム政治運動とは呼べない。
 著名な「ムスリム同胞団」はアラブ人に限られた運動であり、ジャマーアテ・イスラーミーはインド亜大陸出身者を越えることができない。ムスリム同胞団、ジャマーアテ・イスラーミーは政党を結成し政治にも関与しているが、明確な政治的主張はなく、国単位の組織を超えた国際的な政治的意思決定システムも持たず、実体は政治運動というよりは社会運動である。ムスリム同胞団、ジャマーアテ・イスラーミーは、イスラーム世界の内部ではインドネシアの福祉正義党(PKS)、マレーシアのマレーシア・イスラーム党(PAS)とイデオロギー的に連帯し、非イスラーム世界でも留学生、移民などの組織化において共闘関係にあり、国際イスラーム・ネットワークの構築における主要なアクターとなっているが、国籍、民族を超えた政治的意思決定システムを作ることができず、国際政治運動に脱皮することに失敗している。
 そうした状況下で、明確なイスラーム政治のヴィジョンを有し、民族、国籍を超えた国際的な政治運動の組織化に成功した唯一の例外が、解放党である。
 政治活動を制限し、特にイスラーム政治運動は厳しく弾圧するイスラーム世界の独裁、専制体制下では、解放党は地下活動を余儀なくされており、その活動はイスラーム主義の活動家や治安関係者以外には知られることは少なかった。しかしインターネットの普及に伴い、教宣活動の規制が困難になると、解放党は国際組織としての本領を発揮し、その活動を世界的に展開し始め、その存在は、欧米でも注目を集めるようになってきている。『テロリズム・モニター』2007年8月号は述べている。「5年前には、ほとんどの西洋の観察者たちは『解放党(Hizbu-ut Tahrir)』を脅威とはみなしていなかった。各国の為政者たちを打倒し、イスラーム法を施行するカリフを擁立するとの彼らの政治目標は非現実的で、西欧で生まれ育ったムスリムたちの共感を得るとは思えなかったからである。(中略)しかし過去5年間で、混迷を極める世界の成り行きとアメリカに対する世論の潮流の変化は、解放党に彼らのアジェンダを展開するチャンスを与えた。」
 解放党の国際性はそのWebsiteからも明らかである。党本部はアラビア語、英語、ドイツ語、トルコ語、ウルドゥー語、ロシア語の6か国語の公式Website(http://hizbut-tahrir.or.id/)、アラビア語、英語、トルコ語の3か国語の「解放党メディア・オフィス」、英語の「カリフ制(Khilafah)」の3つのウエブサイトを運営しているが、その他に各国支部単位では、イギリス(http://www.hizb.org.uk/hizb/)、ドイツ(http://www.islam-projekte.com/)、フランス(http://albadil.edaama.org/)、ポーランド(http://www.islam-in-poland.org/)、オランダ(http://www.kalifaat.org/)、デンマーク(http://www.hizb-ut-tahrir.dk/new/)、オーストラリア(http://www.hizb-australia.org)、バングラディシュ(http://www.khilafat.org/index.php)、トルコ(http://www.turkiyevilayeti.org/)、
インドネシア(http://hizbut-tahrir.or.id/)、マレーシア(http://www.mykhilafah.com/)の支部がそれぞれの言語でウエブサイトを開設している。
 上述のようにイスラーム政治運動に対する弾圧はイスラーム世界の方が激しいため、解放党の活動も、非イスラーム世界での活動の方がより活発であった。世界的な情報収集、発信に関してはイギリスが解放党の情報発信センターとなっていた。解放党は、2007年度には、大衆行動のレベルでも、非イスラーム世界のケニアとウクライナでカリフ会議を開催したのに続き、インドネシア支部がイスラーム世界では始めての国際カリフ会議をジャカルタで開催することに成功した。この会議にはインドネシアの2大イスラーム団体、「ナフドトルウラマー」と「ムハンマディヤ」も参加し、参加者は新聞発表で10万人を数えた。インドネシアは1998年のスハルト独裁政権の崩壊後、言論・政治活動の自由化が進み、百家争鳴百花繚乱の政治状況にある。このインドネシア解放党による大衆動員、カリフ会議の開催の成功は、言論・政治活動の自由化が進んだ場合のイスラーム政治運動の目標がカリフ再興に収斂していくことを示すものであり、極めて興味深いケースである。
イスラームの政治体制はカリフ制であり、世界宗教・普遍宗教としてのイスラームの未来を考える上で、カリフ制の復興を掲げる唯一の国際イスラーム政治運動である解放党を無視することはできない。
 にもかかわらず、本邦において、解放党は学術研究が立ち遅れているばかりか、マスコミや治安関係者の間でも殆ど知られていない。 解放党のカリフ論の紹介が急務である所以である。

1. 解放党の歴史と組織
解放党の創立者タキー・アル・ディーン・アル=ナブハーニーは、1909年パレスチナのハイファ近郊のイジュズィム村に生まれた。高名なイスラーム学者でありカーディリー教団のスーフィーでもあった母方祖父ユースフ・イスマーイール・アル=ナブハーニーの薫陶を受ける。1928年にエジプトに留学しアズハル高校に入学し、1932年ダール・アル・ウルームとアズハル大学を卒業する。同年に帰国し,ハイファの公立学校とイスラーム学校で、イスラーム学を教える。1938年以降、パレスチナのイスラーム裁判所の職を歴任し、1948年にはエルサレムのイスラーム上告法廷判事に任命されるが、1951年には職を辞し、イスラーム学の教職につくが翌年には解放党の結成のために辞職、1953年に解放党を創立する。
解放党は1952年に内務省に政党登録を申請するが,翌1953年に却下された。政党登録申請の拒否後,解放党は公的には政治活動を禁じられている。ナブハーニーはモスクでの説教の禁止,教職からの追放,逮捕,国外追放などヨルダン治安当局から様々な弾圧を被り、ダマスカスを経てレバノンに移住し、レバノンから解放党を率いた。
1977年にアル=ナブハーニーが死亡すると、アブド・アル=カディーム・ザッルームが党首の座を継いだ。ザッルームは1924年にパレスチナのヘブロンのイスラーム学者の家系に生まれ、エジプトのアズハル大学に留学し、1949年にイスラーム法学の博士号を取得し、帰国後イスラーム学の教職についた後、1952年にアル=ナブハーニーに出会い、解放党の創立に加わり、1956年以来中央指導部委員となり、1977年に党首となり、2003年に死去するまで、党首の座にあった。
2003年に第3代党首に就任したアター・アブー・ラシュタは1943年にヘブロンに生まれ、エジプトのカイロ大学工学部で社会開発工学を学び1966年に卒業している。アターは1950年代に解放党に入党し、アラブ諸国で活動した後、1980年代に解放党ヨルダン支部で頭角を現し、党の初代のスポークスマンに任命され、2003年に第2代党首ザッルームが亡くなるとその跡を継ぎ、イスラーム学者ではない「俗人」出身者としての初めての党首として第3代党首になり、現在に至っている。
解放党はその組織構造、メンバーシップ、党員のリクルートなどについて、1930年代にアラブに現れた厳格なイデオロギー統制と高度な中央集権制を特徴とするナショナリスト・コミュニストの政治組織をモデルとし、以下のようなピラミッド型の組織を構成している。
(1)党首(amr)を長とする中央指導委員会
(2)支部長(mutamad)を長とする地域(wilyah)委員会
(3)区長(naqb)を長とする地区委員会
(4)監督(mushrif)を長とする学習サークル(alqah
 このうち地域委員会が党の実質的な活動を担う中核であり、現行の国民国家の一国から数カ国に相当する領域を管理する単位であり、中央指導委員会の命令を受け地方でそれを実行する役割を有する。地域委員会の長「支部長(mutamad)」と地域委員会委員は、全ての党員によって二年に一度の選挙で選ばれる。 支部長は、中央指導委員会から当該地域の監督の全権を委任され、地域委員会は、それぞれの都市部に区長をリーダーとする地区委員を任命する。
地域支部はシリア、イラク、レバノン、トルコなどから始まったようであるが、現在の地域支部の正確な数は分からない。2007年には45以上の国で解放党の活動が観察されていると報告されている。 独立にウエブサイトを運営している支部以外にも、ロシア支部、オーストラリア支部、パキスタン支部、ウクライナ支部、スーダン支部、ケニア支部が存在していることが、解放党系列のウエブサイトから確認される。中央アジアでは、1999年代後半以降に、解放党の活動が顕在化しており、ウズベキスタンを中心に、クルグスタン、タジキスタンでも勢力を伸ばしつつある、それぞれが正式な支部を有するか否かは不明である。
 2008年のアメリカ大統領選挙では、アメリカ支部が、在米ムスリムに選挙のボイコットを求めるビラを配布したと伝えられている。
 正確な党員数は不明であるが、2004年の時点でシブ・マリクはおよそ100万人と見積もっている。
 

2.解放党の政治理論
 解放党の政治論は、その憲法草案に凝縮されている。
訳出した『カリフ国家の諸制度』の扱うカリフ、委任補佐、執行補佐、地方総督、軍、ジハード司令官、外交、司法、行政機構、国民議会なども、それぞれカリフ(17条)、委任補佐(7条)、執行補佐(3条)、地方総督(9条)、軍(10条)、ジハード司令官(5条)、外交(11条)、司法制度(20条)、行政機構(6条)、国民議会(7条)などの憲法の条文に対応している。
解放党の憲法草案の総則第1条は,「イスラームの信条が,国家の基礎である……」と,イスラーム国家がイデオロギー国家であることを明言する。統治制度については,第15条において「統治システムは単一システムであり,連邦制度ではない」と述べ,連邦制を否定することによってイスラーム国家の単一性を再確認し,第20条では「(1)主権(siydah)はイスラーム法(shar)に帰属し,人民にではない。(2)権力(suln)はウンマに属する。(3)ただ一人の国家元首の任命がムスリムの義務である。(4)イスラーム法の法制化(tabann akm sharyyah)は国家元首のみの大権であり,彼が憲法ほか全ての法律を制定する。」とのイスラーム国家の4大原則を定める。
 解放党の政治理論においては,この4原則はイスラーム国家の必要不可欠な構成要件であり,そのうち1つでも欠ければ,その国家はもはやイスラーム国家ではない。国家元首については,「国家元首こそ,権力とイスラーム法の執行に於いて,ウンマの代理となる。」(第29条)ちなみに元首の資格は(1)男性,(2)ムスリム,(3)自由人,(4)成人,(5)正気,(6)義人であることの6つであり(第38条),シューラ(諮問)議会が元首候補名簿を提示し選挙を行い最多票を獲得した者が元首に選任される(第38条)。
 またムスリム国民と元首の関係は「理性を有する成人ムスリム男女は国家元首選出とそのバイア(忠誠誓約)の権利を有するが,非ムスリムはその権利を有しない。」(第31条)。「バイアが締結される人々のバイアによって国家元首契約が締結されれば,その時点で,他の者のバイアは『服従のバイア』であって『締結のバイア』ではなくなり,反逆の可能性の考えられる者全員にそれ(服従のバイア)が課される。」(第32条)
解放党の目的はカリフ国家の再興にある。解放党憲法草案にあるイスラーム国家とは即ちカリフ国家であり,元首とはカリフに他ならず,カリフこそがイスラーム国家の要である。「解放党は,カリフの付随物とみなされる。」解放党の政治論においては,国家とはカリフに他ならないのである。「国家の元首とは,即ち国家であり,国家に属する全ての権限を有する」(第39条)のである。このように解放党の国家論はカリフ論に集約され,従ってその革命論もカリフ論に基礎を置いている。
解放党の政治論によると,今日のイスラーム諸地域は,イスラーム法上,全域が「不信仰の居住圏(dr al=kufr)」・あるいは「戦争の居住圏(dr al=arb)」とみなされる。「不信仰の居住圏」とは,「イスラームの居住圏(dr al=Islm)」の対立概念である。「イスラームの居住圏」とは,「イスラームの法規に則って統治され,その治安がイスラームの安全保障,つまりムスリムのスルタンの安全保障に基づいている居住圏」であり,逆に通用している法がイスラームの法規でないか,あるいは非ムスリムによって治安が保たれているなら,その土地はたとえ住民の殆とがムスリムであろうとも「イスラームの居住圏」ではなく,「不信仰の居住圏」である。 そして今日のムスリム諸国は,「イスラームの居住圏」の第2条件である「ムスリム権力による治安の維持」は,その絶対多数において満たされているが,第1条件「イスラーム法による統治」実現されていないために「イスラームの居住権」ではなく「不信仰の居住権」なのである。
解放党はイスラーム的生活,ムスリム社会の再現にはカリフ国家の再興が不可欠であり,従ってカリフ国家の再興,カリフ任命は,ムスリム共同体にとって「死命を制する課題」と考える。カリフ国家の再興の実現は個人の努力のみにのっては不可能であり,集団行動が必要である。また必要とされるのは政治的行動であって,慈善活動,禁欲修行,啓蒙警世,勧善懲悪,修身,世直しの訴えなどとは厳密に区別されなくてはならない。ウンマの死命を制する課題であるカリフ国家再興に従事する「政党」としての解放党の存在が要請される所以である。
 解放党は,唯一の場合を除き,為政者の放伐を認めない。それは背教であり,為政者の背教とは,不信仰の諸法規に則る統治である。「為政者が明白な不信仰を示した,つまり不信仰の諸法規に則って統治を行うか,あるいは域内に不信仰が蔓延するのを放置した場合には,その為政者との戦闘,彼に対する武装蜂起、奪権闘争が義務となる。但し,放伐が義務となるのは,放伐が可能であり,かつそれが「イスラームの居住圏」においてである場合のみである。「為政者に対する武装蜂起,戦闘,奪権闘争が義務となるのは,蓋然的にであれ為政者を排除する力を有する場合のみである。また為政者が明白な不信仰を示した場合に,為政者への武装蜂起,戦闘が義務となるのは,その地が『イスラームの居住圏』であり,イスラームの諸法規が施行されていた場合である。…中略…もしその地が『不信仰の居住圏』であり,イスラームの諸法規が施行されていない場合には,その地のムスリムを支配する為政者の排除は,『助勢』の方法によることになる。…」ここで言う「助勢」の方法とは,「不信仰の居住圏」の「イスラームの居住圏」への転化のための3つの段階の最終段階で採られる方法論である。
 解放党は,マディーナにおけるイスラーム国家建設にいたる預言者の足跡の分析から,イスラーム国家建設の過程を以下の3つの段階に分ける。
第1段階は「啓蒙」段階であり,ムスリム個人個人に党の思想を広める。文化面に限定され,党の原則を理解した個人により党組織ができれば第2段階に移行する。この第1段階での教宣活動は秘密裏に行われる。
 第2段階は「対社会活動」段階であり,①サークル文化活動,②公開文化活動,③イデオロギー闘争,④政治闘争,⑤公共福祉活動などを行う。この第2段階では教宣活動は公然と行われる。
第3は,「奪権」段階であり,教宣活動の庇護とカリフ国家樹立・政権奪取のために,実力者への「助勢要請」を行う。
 カリフ国家の再興のための奪権は,最低でも現行の国民国家体制の枠組みにおける「国家」のレベルでの権力の掌握となる。
こうした解放党の政治理論の大綱は既に1949-52年に書かれたとされる『イスラームの制度(Ni±Ãm al=Isl±m)』で出揃っていたが、解放党はその理論の細部を更新、充実、洗練させてきた。ここの訳出した『カリフ国家の諸制度』2005年版では、軍旗や国家のような細部についてまで、預言者の言行録に基づいて詳論されているのも、カリフ制再興の時期は近いとの、解放党の現状認識を示しているように思われる。

3.解放党のカリフ論の特徴
 解放党のカリフ論は、基本的に、イスラーム政治学の礎石と看做されるアル=マーワルディー(1058年没)の古典『統治の諸規則』に基づいている。
 カリフを初め、委任補佐(wazr tafwd)、執行補佐(wazr tanfdh)、地方総督(wl)、知事(mil)、裁判官(qd malim)、行政不正裁判官(mutasib)、軍総司令(amr jihd)などの概念は全てアル=マーワルディーの『統治の諸規則』にある概念であり、それを下敷きにしている。
 イスラーム法は、アッラーと使徒の命令に反したことを命ずるのでない限りカリフの命令には服従しなくてはならないと命じている。つまり聖法に反しない範囲での事実上の「
立法権」をカリフに認めている。古典法学はカリフ論、あるいはイスラーム国家論の細部に至るまで全てに規定を設けているわけではなく、むしろ制度の骨格を決めているだけで具体的な内容については定めないままに残している場合が多い。解放党のカリフ論も、大枠においては、古典法学の議論を踏襲しているが、古典に定めがなく自分たちの自由な裁量と創意に任されているとみなす問題については、このカリフの「立法権」によって新しい制度を設けることを提案している。解放党は、これを字義通りには「構築」を意味するアラビア語「tabann」の語を用いて、古典法学上の制度とは区別して論じている。本書ではこれを「法制化」と訳したが、解放党が憲法草案や本書『カリフ国家の諸制度』の中で「法制化」と呼んでいるものは、イスラーム法学の枠組みを踏み外さない範囲で解放党が目指す独自の理想国家論であり、またカリフ国家再興に向けての解放党の政権担当の志を表す「マニュフェスト」ともみなされるものである。
 その最も重要な例が、「国民議会(majlis ummah)」の創設である。
解放党は、ここで「我々はここで国民議会(衆議・査問院)の設立、及びそれが国民の代表として選挙によって選ばれ、以下にのべるような権限を有することを法制化する。」(原著152頁)と高らかに、「国民議会」の創設を宣言している。確かに、クルアーンと預言者のスンナ(現行)は、統治者に衆議を命じているが、制度としては衆議に特化した常設の機関は、預言者とその弟子たちの時代には存在せず、アル=マーワルディーの『統治の諸規則』にもそのような制度はない。
これは時代の要請に応え、「手続き的民主主義」を取り入れ、民意によってカリフの権力に掣肘を加えるために衆議とカリフの査問を任とする常設の「議会」を、古典カリフ論がそのような制度を定めていないにも拘わらず敢えて制度化するとの解放党の「民主的」立場を示すマニュフェストなのである。
 議会は、解放党が独自の「民主的」立場を「法制化」の語によって宣言したマニュフェストであるが、他にも解放党は、敢えて「法制化」などの語を用いて特に独自の立場であることを強調することなく、古典法学の通説を離れて「民主的」な見解を採用している。
 第一に、覇者のカリフの正当性の否認である。アル=マーワルディーはカリフの正当な就位手続として、(1)カリフ資格条件を満たした候補者の中からの、カリフ選挙人資格条件を満たす選挙人による選任と、(2)前任カリフによる後継指名、の二つしか認めていなかった。しかしアル=ナワウィー(1277年没)以降は、このアル=マーワルディーの説を否定し、カリフ資格条件を満たさない覇者にもその実効支配によりカリフとしての正当性を認めることがスンナ派4法学派全ての定説となった。解放党はこのスンナ派4法学派の定説「覇者のカリフ位の正当説」を敢えて無視し、より民主的なアル=マーワルディーの有資格者の中からの選任説を選んでいるのである。
 第二に、解放党は、カリフの正当な就位手続として、アル=マーワルディーも第二の方法として承認しており、スンナ派4法学派全体の定説でもある「前任カリフによる後継者指名」を認めていない。これには古典法学の中では、アル=マーワルディーの同時代人で同名の『統治の諸規則』の著者アブー・ヤゥラー(1066年没)が、前任カリフの後継者指名を認める傍論の中で、厳密には後継者指名自体によってはカリフ位は定まらず前任カリフの死後にムスリムたちが後任のカリフと結ぶ統治契約によって初めてそのカリフ位が締結すると述べている先例があるだけである。
 第三に、カリフの罷免権を行政不正裁判所に与えたことである。確かに古典イスラーム法学は、カリフがその資格条件を失った場合に、カリフ位が失効すると論じてきたが、罷免権を要する機関を特定し罷免を制度化することはなかった。アル=マーワルディーの『統治の諸規則』もカリフ位の失効を論じているが、それを判定する機関を特定し制度化せず、また行政不正裁判官の職務を詳述しながら、その中にカリフの罷免を数えていない。
 第四に、カリフの資格条件からクライシュ族の出自を外したことである。クライシュ族の出自がカリフの資格条件であることは古典イスラーム法学のコンセンサスであった。しかし現代ではカリフ条件を必須条件とそうでない推奨条件に分け、クライシュ族の出自はそうであることが望ましいが必要条件ではない、とするより「平等主義的」な新説が有力となっており、解放党もこの立場に立っているのである。
 解放党は人間が主権、立法権を有すると説くイデオロギーとしての民主主義を厳しく断罪し峻拒するが、独裁者を掣肘し民意を政治に反映させる「手続き的民主主義」に関しては、それを積極的に取り入れ、イスラームの政治理念の制度化を図っているのである。
 古典イスラーム学のカリフ論を継承しつつも、西欧近代の歴史的経験とその政治論の成果も柔軟に取り込んだこの解放党のカリフ論こそ、現代イスラーム政治論はその出発点とすべきなのである。

4.解放党の「現代性」
 現代世界の抱える最大の問題は、「リヴァイアサン(国民国家)」と「マモン(財神)」の2つの偶像神に対する物神崇拝である。
 アメリカ発の「グローバリゼーション」とカジノ経済により、「リヴァイアサン(国民国家)」と「マモン(財神)」のもたらす災厄に人々が気付き始めたのは、20世紀の終わりから、21世紀の初頭にかけてである。20世紀の前半からこの二つの偶像神を主要敵と見定めて戦い続けてきた点にこの解放党の「現代性」がある。
 インターネットは1990年代から一般家庭に普及し始めていたが、21世紀に入るその普及が加速し、「領域国民国家」にはもはや情報の流れをコントロールすることはできなくなった。それはインターネットの生誕の地でもあり、いまや世界唯一の超大国、覇権国となったアメリカですらそうである。インターネットの普及は、人類は一つであり、「領域国民国家」の檻は幻想であることを白日の下に晒した。しかし「領域国民国家」の国境の檻により人、モノ、金(金と書いてマネーとルビを振ってください)の自由な流れを阻害し意のままに支配することによって利益を確保しているアメリカは、国境の檻の幻想性とそれに基づく支配を糊塗するために、ヒューマニティーと人類の平等の理念をあからさまに損なう「ナショナリズム」の虚偽のイデオロギーを温存し、あたかも「領域国民国家」の枠組みの中で「自由」「平等」が達成されるかの如く幻惑する美名を関した「グローバリゼーション」の標語により、「領域国民国家」システムの延命を図っている。それが、ナショナリズムをきっぱりと拒絶できないネグリ・ハートが歯切れ悪く「帝国」と呼んでいる現代世界の権力支配構造の実相である。
解放党は、ナショナリズムこそが真理と正義の認識を妨げるジャーヒリーヤ(イスラームと対立する無明)の現代ヴァージョンであることを鋭く見抜き、領域国民国家を廃絶するカリフ国家の再興によってしか、イスラームの目指す人類の平等、真の正義の実現は不可能であることを、いかなる妥協も排し一点の曇りもない論理的整合性をもって一貫して主張し続けてきたのである。
また解放党は、石油などのエネルギー資源が、個人が所有すべき私有財産でも、国家が恣に処分、利用できる国有財産でもなく、全てのムスリムのために利用すべき財の第三のカテゴリーである共有財産であることを示し、産油国への富の偏在を批判してきた。
エネルギー資源の共有化と並んで、解放党の経済論の特徴に金銀本位制がある。解放党はイスラームの通貨制度は金銀本位制であるとし、不換紙幣の合法性を否定した。
1971年にアメリカ大統領ニクソンがドルと金の交換を停止し、国際通貨制度は金とドルが交換されない変動相場制すると、各国政府は金の裏付のない紙幣を増刷するようになり通貨の量が増えインフレが更新し、1980年代からは世界各地でバブル経済を発生させ、1990年からは日本、アジアでバブル経済が崩壊したが、2008年には遂にアメリカの金融バブルが崩壊し世界は金融不況に突入した。
 実体経済を軽視し金(金と書いてマネーとルビを振ってください)が金(金と書いてマネーとルビを振ってください)を生むバブル経済の根底にイスラームの禁ずる利子と並んで不換紙幣の発行による金銀本位制からの離脱を見出し、利子を廃止し不労所得を禁じ金銀本位制に復帰し通貨量を安定させ実体経済を活性化させるべきとの正論を説く解放党の経済論の「現代性」が、今こそ正当に評価されるべき時なのである。
 時代の流行に惑わされず、永遠に妥当する聖法の正義を守り貫く姿勢が逆説的に解放党の思想に「現代性」を付与している。しかし聖法の根幹を揺るがさない問題に関する柔軟な対応にもまた解放党の現代性を見て取ることができる。
 解放党が他のイスラーム政治団体に類例のない最先端の多言語対応のウェッブサイトを運営していることは既に述べた。また文化の領域においても先端を行くアメリカのヒップホップ・グループSoldiers of Allah(解散)、イギリスのBlackstoneなども解放党のメッセージを伝えていると言われている。 『カリフ国家の諸制度』の増補版(2005年)では、カリフ国家の国歌制定の合法性が論じられている。解放党がカリフ国家の再興に成功した暁には、我々はヒップホップの国歌が新生カリフ国で斉唱されるのを耳にすることができるかもしれない。
(了)

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