2020年9月29日火曜日

第28「名声と偽善」章:『宗教諸学の再生・要約』

 



第28章「名声と偽善」

 知りなさい。名声は心(カルブ)が好むものであり、篤信者(スィッディーク)以外はそれを退けることはできない。それゆえ篤信者の頭から最後まで離れないものが支配権(リヤーサ)の愛だと言われる。それでその意味を節に分けて説明する。

 知りなさい。名声の本質は評判が広がることで、それは非難されるべきものである。例外はアッラーがその宗教(イスラーム)を広めるために有名にされた者である。アナスはアッラーの使徒が以下のように言われたと述べている。「アッラーが護り給う者を除いてその宗教と現世(の生活)について人々から後ろ指を指されるより悪いことはない」。

 アリーは言った。「散財しても有名になるな。噂され知られるために自分を目立たせるな。隠し沈黙せよ。そうすれば平安である。敬虔な者は上機嫌だが、悪人は不機嫌である」。

 イブラーヒーム・ブン・アドハムは言った。「欲望(対象)を好む者はアッラーを認めない」。タルハは一緒に歩いている者たちの方を見て言った。「まとわりつく蠅、灯火に群がる蛾」と言った。スライマン・ブン・ハンザラは言った。「私たちがウバイイ・ブン・カアブと一緒にいて、私たちが彼の後を歩いていると、ウマルが彼をみつけ、鞭で打って言った。『見なさい、信徒たちの長よ、何をするか』すると(ウマルは)言った。「それは付いていく者たちにとっては恥辱、前を歩く者には(思いあがりの)誘惑だからだ」。

 ハサンが伝えて言うところ。ある日、イブン・マスウードが家を出ると、人々が彼の後をついて歩いた。そこで(イブン・マスウードは)彼らに目を向けて言った。「なぜ私についてくるのか?アッラーにかけて、もしあなたがたが私の(家の)扉が閉められた時(の私の姿)を知っていれば、誰も私について来ないだろう」。ハサンは言った。「人々の背後で靴音が響くと愚か者どもは気もそぞろになる」。

 匿名の徳:

 アッラーの使徒は言われた。「誰も気にもかけず、乱れ髪、誇りまみれで粗末な服を着ていても、アッラーに誓えば、必ず果たす者がいる。バラーゥ・ブン・マーリクはそのような者の一人である」。イブン・マスウードもアッラーの使徒が以下のように言われたと述べている。「誰も気に留めない粗末な衣服を着た者であってもアッラーに請願すれば適い、『アッラーよ、あなたに楽園を祈願します』と言えば、アッラーが現世では何も授けなくとも楽園を授け給うような者がいかにたくさんいることか」。

 アブー・フライラは預言者が以下のように言われたと述べた。「楽園の民とは、王侯に面会の許可を申し込んでも許されず、女性に結婚を申し込んでも結婚してもらえず、発言しても静聴してもらえないような誰も気にかけない粗末な服を着て埃にまみれ髪も乱れた者ばかりである。彼らは困っていることがあっても心の中で繰り返し呟くばかりである。しかし最後の審判の日にその(一人の)光が人々に分配されれば彼らに十分に行き渡る」。

 以下のように伝えられている。ウマルが(マディーナの預言者)モスクに入ると、ムアーズ・ブン・ジャバルがアッラーの使徒の墓のところで泣いていた。そこで(ウマルが)「なぜ泣いているのか」と尋ねると、(ムアーズは)言った。「私はアッラーの使徒が以下のように言われるのを聞いた。『些細な偽善も多神崇拝(シルク)である。アッラーは、居なくなっても探されず、居ても気付かれないような目立たぬ敬虔な者たちを愛で給う。彼らの心は導きのランプであり、あらゆる暗闇から救われる」。

 イブン・マスウードは言った。「地上の人間には知られずと、天上の天使たちに認められる

知識の鉱脈、導きのランプ、家の敷布(底本ではأجلاسだがナッジャール版の أحلاسで読む)、夜のランプ、心中の反省、衣服の襤褸のような者でありなさい」。

「名声欲の非難について」節

 アッラーは仰せである。「それは来世の家であり、我らはそれを地上での驕り高ぶり、堕落を望まない者のために作った」(28章83節)

 知りなさい。財貨の意味が諸物の所有であったように、名声の本質は心(カルブ)の所有である。そして財貨の所有者がその財貨によって求める対象を得るように、心の所有者はそれによって求める対象を得るのであり、名声はその求める対象の一つである。

 財貨が職業や産業によって得られるのと同じく、心は様々な行動(ムアーマラート)によって得られる。心は信条によってしか支配できない。ある種の完成に達していると信じられるあらゆる者に対して、人の心は従う。心の所有とは人々に崇拝させることであり、また奴隷にすることである。そして財貨が愛されるなら、名声は猶更である。

 知りなさい。名声は支配と主権を求める霊の糧である。というのは霊はアッラーの命令の世界に属するからであり、それは人間に対して主権と支配と奴隷化を求め、完全性を愛し、それを求める。それゆえあなたはこの欲求のない(底本ではينفعكだがナッジャール版のينفكで読む)者を見つけることはできないだろう。

 知りなさい。魂はただ賞賛されることで安らぎ、それで感激する。なぜなら魂は充足を愛し、それ(賞賛)によって充足を感じるからである。逆に非難されるのを嫌うのは、(魂は)不足を嫌い、それ(非難)によって(自分に何かが)不足していると感じるからである。

名声欲への処方の説明:

 知りなさい。名声欲に憑りつかれた者は、名声を欲し、それをいかに増して、被造物(人間)の心を奪うかにしか関心がなくなる。そしてそれによって偽善と偽信仰を余儀なくされる。

 それゆえアッラーの使徒はそれ、つまり金銭欲と名声欲を家畜の柵の中の獰猛な二匹の狼に譬えられ、言われた。「水が草を育むようにそおれは偽信仰を育む」。その対処は知識と校医の組合せである。

 知識とは、その目的が心の所有であることを知ることである。我々は(心は)たとえ澄んで健全であろうとも、その最後は死であることを既に明らかにした。それは正しく永続するものではない。地上の東西全ての者があなたに跪拝しても、50年たてば跪拝した者も跪拝された者も生存していないのである。あなたはあなた以前に死んだ有名な者たちと同じである。それは実体のない幻の充足である。なぜならそれは死によって消滅するからである。

 それはハサン・バスリーがウマル・ブン・アブドゥルアズィーズに書簡を送った時に書いたとおりである。「あなたが死が書き定められた者の最後の者で既に死んだかのようであれ」。そこで(ウマル・ブン・アブドゥルアズィーズが)その返事に書いた。「あなたが現世に存在しないかのように、またあなたがすでに来世にいるかのようであれ」。彼らは末路を見すえ、来世が近いことを知っていたのである。

 行為について言えば、彼らにはそのための道がある。彼らの中には酒に似た飲み物を飲み、人々が酒を飲んでいると誤解して彼を避ける者もいる。また中には禁欲によって有名であっても、風呂に入り、別人の服を着て現れ、道の途中で止まり、遂には人々が彼(の正体)を知り、彼を捉え、服を脱がせ、殴って、「この泥棒め」と言って追い出すような者もいる。

 そのための最短の道は孤立と知り合いのいない場所への移住である。地元で隠棲するなら人々が自分が隠棲し引き籠ったことを知っているために一種の偽善を免れない。

賞賛を好み非難を嫌うことから救われるための処方の説明:

 その原因が充足が幻想にすぎないためであることは既に述べた。それには根拠がなく、此岸でしか意味がなく、たとえ賞賛が宗教的な事柄についてであっても来世では無意味であることを知れば、それは幻想でしかない。というのは充足は良き末期によってでしかないが、それはこの危険を乗り越えた後だからである。

この章の第二の主題「偽善」の説明

 知りなさい。偽善(リヤーゥ)は禁じられており、偽善者はアッラーの御許で御怒りを被った者である。「礼拝に気もそぞろで偽善的に(他人に)見せるだけに礼拝する者たちに災いあれ」(107章4節)とのアッラーの御言葉がそれを示している。またアッラーは仰せである。

「その主に拝謁することを望む者は善行を行い、その主の崇拝において何物も並べてはならない」(18章110節)。

 また「アッラーの使徒よ、どうすれば救われますか」と尋ねられ、(預言者は)答えられた。「しもべが人間(の表か)を意識せずにアッラーに服従することである」。また(預言者は)言われた。「あなた方に対して最も心配なのは小さな多神崇拝です」。(人々が)「アッラーの使徒よ、小さな多神崇拝とは何でしょうか」と尋ねると、(預言者は)「偽善(リヤーゥ)です。アッラーは『最後の審判の日にしもべたちにその行為に対して報われる時に、『お前たちが下界で偽善的に(行為を)見せびらかした者たちのところに行って彼らの許に報償があるか見るがよい』と仰せになる。」また(預言者は)言われた。「アッラーに『悲しみの谷』からの庇護を求めなさい」。そこで「アッラーの使徒よ、それは何ですか」と尋ねられ、(預言者は)答えられた。「(他人に)みせびらかすために偽善者にクルアーンを読誦する者たちのために用意された火嶽にある涸れ谷です」。

 アブドゥッラー・ブン・ムバーラクはその伝承経路である男から以下のように伝えている。

その男はムアーズ・ブン・ジャバルに言った。「あなたがアッラーの使徒から聞いたハディースを私に語ってください。」

(その男は)言った。「すると(ムアーズは)私が彼は泣き止まないのではないかと思うほどに泣いた後で静かになり、それから言った。「私はアッラーの使徒が私に『ムアーズよ』と言われるのを聞き、彼に『ここにおります。アッラーの使徒よ。あなたは我が父母より大切ンあ御方です、アッラーの使徒よ』。そこで(預言者は)言われた。『あなたに記憶すればあなたの役に立つが、それを忘れて失くしてしまうと、最後の審判の日にアッラーの御許であなたの弁明が尽きてしまうようなハディースを話しましょう』」。ムアーズよ、アッラーは天地を創造する前に7人の天使を創造された。それから7つ天を創造しそれぞれの天に、それぞれに門番の天使を作り、それらに威厳を備えさせました」。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちがしもべの行為のうちの善行を取り上げて進み、それを浄めて増やし、それを第二天まで届けると、第二天担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴れ。私は誇りの天使である。この者はその行為で現世の名誉を求めていた。我が主はその行為が私を超えて他の者(第三天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである。この者は人々の集まりで彼らに対して自慢したからである。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは喜捨と斎戒と礼拝の光に悦び満足してしもべの知識を持って第三天に向かって昇っていった。するとその(第三天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴れ。私は傲慢の天使である。この者はその行為で現世の名誉を求めていた。我が主はその行為が私を超えて他の者(第四天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである。この者は人々の集まりで彼らを見下したからである。

(ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは蜂のブンブンうなる羽音のような賞賛、礼拝、大巡礼、小巡礼の騒音を立てるしもべの行為を携えて第四天に向かって昇っていった。するとその(第四天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴り、それでその背と腹を殴れ。私は自己満足の天使である。我が主はその行為が私を超えて他の者(第五天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである。この者は行為を行う時に、自分の行為に自己満足を混ぜ込んだからである。」

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは実家に向かう婚礼の花嫁のようにしもべの行為を運んで第五天に向かって昇っていった。するとその(第五天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴り、それを彼の肩の上に担がせよ。私は嫉妬の天使である。なぜならその者は人々を嫉妬し、学びんで自分の行為と同じことを行った者、崇拝の功徳を得た全ての者を嫉妬し、彼らを謗っていたからである。我が主はその行為が私を超えて他の者(第六天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである」。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは礼拝、浄財、小巡礼、大巡礼、斎戒のようなしもべの行為を携えて第六天に向かって昇っていった。するとその(第六天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴れ。なぜなら試練や害悪に見舞われたアッラーのしもべを少しも慈しまず、見下して見捨てた私は慈悲の天使である。(我が主は)その行為が私を超えて他の者(第七天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである」。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは雷鳴のような音響、陽光のような光を放ち、三千の天使が同行する斎戒、礼拝、扶養、イジュティハード、敬神のようなしもべの行為を携えて第七天に向かって昇っていった。するとその(第七天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴り、それで彼の四肢を殴り、それでその心に錠をかけよ。我が主は私に、その者と我が主の顔を望んで行わなかったあらゆる行為とを遮断せよ、と命じられた。なぜならその行為においてアッラー以外を意識し、法学者たちの間での高い地位、学者たちの許での評判、諸国での名声を望んでいたからである。我が主はその行為が私を超えて他の者に渡してはならない、と仰せである。アッラーだけに捧げられたのでない行為は全て偽善(リヤーゥ)であり、アッラーは偽善者の行為を受け入れません」。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは礼拝、浄財、斎戒、大巡礼、小巡礼、良い性格、沈黙、アッラーの唱念斎のようなしもべの行為を携え、第七天の天使たちの行列と共に昇っていき、遂に全ての覆いを過ぎ去りアッラー御前に至った。そして彼ら(天使たち)は彼(アッラー)の御前に立ち、彼のためにアッラーのみに捧げられた行為を証言します。

 (ムアーズは続けて)言った。

 アッラーは彼らに仰せられる。「あなたがたは我がしもべの行為の記帳天使であるが、私はその魂(ナフス)の監視者である。あの者はその行為で私を意識せず、それで私以外を意識していた。それゆえ彼には我が呪いがあり、天使たちは皆、「この者にあなたの呪いあれ、またこの者に我らの呪いあれ、七つの天とその中にいる者たちもこの者を呪います」。

 ムアーズは言った。

 私は言った。「アッラーの使徒よ。あなたはアッラーの使徒であり、私はムアーズです。どうすれば救われるのでしょう。」

 すると(預言者は)言われた。「あなたの預言者に倣い、クルアーン読誦者などのあなたの同胞に対する誹謗に口を慎みなさい。自分の罪を自分で負い、彼らにそれを担わせるな。彼らを非難することで自分を浄め、自分を彼らの上に立たせようとするな。現世の行為を来世の行為に混入させるな。あなたの口座で高慢に振舞い、あなたの悪い性格を人々に疎んじさせるな。他の人間がいるところで一人だけと密談してはならない。また現世の善福が立たれないように人々に対して孤高になってはならない。人々(の間)を引き裂いて、最後の審判の日に獄火の犬があなたを噛み千切ることがあってはならない。アッラーは『活発に活動する者たちにかけて』(79章2節)と仰せである。ムアーズよ、それ『活発に活動する者たち(ナーシタート)』とは何か分りますか。」

 私が「あなたは私の父と母より大切な御方です、アッラーの使徒よ、それは何でしょうか」と言うと、(預言者は)「肉と骨を焼き尽くす(ナシャタ)獄火の犬です。」と言われました。私が「あなたは私の父と母より大切な御方です、アッラーの使徒よ、だれがこのような難題に耐えられるでしょうか。誰がそれから救われるのでしょうか」と尋ねると、(預言者は)言われました。「ムアーズよ、アッラーが易しくされた者には易しいこと。あなたは自分のために望むことを人々にも望み、自分が嫌うことを他人がされるのも嫌だとおもえば十分です」。

 (ムアーズ)は言った。「私はこのハディースの内容への訓戒のためにムアーズ以上にクルアーンを多く読む者を知りません」。

 イクリマは言った。アッラーはしもべにその意図に応じて、その行為に応じては与えないものを授け給う。なぜならば意図は、偽善が入り込まないほど更に奥深くにあるものだからである」。

偽善の本質の説明:

 「偽善(riyā')」は「見ること(ru'yah) 」の派生語、「声望(sum‛ah)」は「聞くこと( samā‛)」の派生語である。「偽善」の語義は人々が自分たちの許での地位を見ることを求めることであり、人々の許での地位を求めることは、崇拝行為以外の行為によることもあれば、崇拝行為によることもある。

 それゆえ崇拝行為以外における偽善とは粗末な服を着たり、それ(服)をたくし挙げてたり、黄色い顔をし、目を窪ませ、髪をほつらせ、声を潜め、無理にゆっくり静かに歩いたり、悪筆で書いたりして見せることである。これらのことは全て崇拝行為による偽善の保管物である。それらの目的が他人にみせびらかすことならばそれらは全て禁じられている。

 学者が説教で韻をふんで博識をみせびらかすのも同じである。それ(韻文)によって宗教がより受け入れられる近道になることを狙っているなら別で、説教の核心でのその(韻文を使う)意図が正しいこともあり、その場合は許されることもある。

 偽善は崇拝行為の要件についてであることもある。それは人々が自分について禁欲的で敬虔だと思い込むようにと人々の前で長々と屈身礼と跪拝することである。無理に人々の前で行う必要がないため、自宅で長々と屈身礼や跪拝をすれば偽善を免れることができると思って、わざと独りでそうするかもしれない。しかしそれがその決意であればそれ(偽善)を免れるどころか、偽善を増すことになるのである。

 これについては偽善とは名声を求めることである、と言うのが正しい。そしてそれは崇拝行為についてか、それ以外についてかのどちらかになる。財貨について合法なものを求めるような崇拝行為以外についてであれば、ごまかしがない限り禁じられていない。しかしそれ(ごまかし)は財貨についても名声についても同じように禁じられているのであり、名声を求めることが全面的に禁じられているとは考えるべきではない。というのは、生活の必要のために必要最小限の名声は僅かな財貨は必要に鑑み求めることが許されるのと同じである。そしてそれが「私をこの地の宝庫の上に置いてください。私は博識な管理人です」(12章55節)とのユースフの言葉の意図するところである。それゆえ財貨について既述の通り名声にも毒と仙薬が共に存在するからである。

 多くの財貨がアッラーの唱念を妨げ気を逸らすように、多くの名声も同じである。自分から求めたのでなく大きな名声を得たのであり、それでアッラーの唱念から気が逸れないなら、それを利用するのは、気前良さ、利他、福利を被造物(人類)に及ぼすことによって大きな財貨を使うのと同じである。それゆえその規定は既述の多くの財貨の規定と同じである。

 名声は預言者たちや学匠たちや正統カリフの名声を超えることがあってはならない。そうならず、それによってアッラーから気を逸らしてはならず、それ(名声)が無くなっても悲しんではならない。それで美しい服を見せるため(リヤーゥ)に人間の間に出ていくことは禁じられていない。なぜならそれには崇拝行為による偽善(リヤーゥ)でなはいからである。それはアーイシャの伝承が示している。

 アーイシャは言った。「アッラーの使徒は教友たちのところに出かける時には水鏡を眺めターバンと髪を整えられました。

 (アーイシャが)言った。「私が『アッラーの使徒であるあなたがそんなことをするのですか』と言うと、(預言者は)「そうです。アッラーはしもべが同胞たちの前に出る時には彼らのために着飾るのを愛で給います」と言われた。

 そう、それはアッラーの使徒の崇拝行為であったのである。なぜならば(預言者は)被造物への宣教を命じられていたのであり、もし人々に見下されたなら、それ(宣教)がダメになるからである。

 知りなさい。偽善にも段階がある。もし行為の目的が100パーセント偽善であれば、それは崇拝行為を完全に無効にする。崇拝行為の意図において偽善が優勢であった場合もこれとほぼ同じである。

 もし崇拝行為と偽善が拮抗しており両方を意図した場合、どちらにも傾かずに保身が出来れば、それで儲けものである。

 基本が崇拝行為の意図であれば偽善が劣位となる。偽善がなかったとすれば崇拝行為に向かう。崇拝行為を意図しない単なる偽善であっても偽善は侮れない。行為の大本が損なわれるこことはなくとも、報償が減るか、その偽善に応じて罰せられる。「私は多神崇拝(シルク)を最も必要としない自足者である」とのアッラーの御言葉は、(崇拝行為と偽善の)二つの意図が等しい場合を指しており、この最後の種類を排除するものである。

 知りなさい。もし偽善が信仰の原則に及ぶならそれは偽信仰(ニファーク)であり、獄火の最下層に永遠にとどまる。信仰の原則ではなく法的義務の原則に関わっているなら、より(罪は)軽い。(偽善が)(法的)随意行為や崇拝行為の諸性質に関わっている場合については既に述べた。、

隠れた偽善の説明:

 それは黒蟻よりももっと隠れたものであり、それは被造物に見られることで崇拝行為を損ねることはないが、崇拝行為の遂行に影響することもない。しかしその崇拝行為を知るか見るかしなくてはならず、それを喜ぶ。これが隠れた偽善である。

 偽善を防ぎ治療する方法はその原因が財貨と名声への愛、賞賛への愛であることを知ることだが、それについては既に述べた。その後で生ずること(次の段階)では、アッラーが自分の秘密をご覧になっており、いずれ(最後の審判の日に)自分に「私はあなたを見る者たちの中で最も(評価が)甘い者である」と仰せになることを熟考するのが良い。それからもしそれ(名声)を得た者が行き着くところ(死)、ぞれ(名声)が死によって消えることを熟考すれば、その脱却が望ましいことが分る。

罪の隠蔽の軽減措置の説明:

 知りなさい。純粋信仰(イフラース)の基本は内密でも公然でも同じであることである。ウマルは言った。「あなたがたは公然の行為に気をつけよ」。人々が「信徒たちの長よ、公然の行為とは何ですか」と尋ねると、ウマルは答えた。「あなたがたの誰かがそれを見ても恥ずかしくないことである」。

 (預言者は)言われた。「これらの醜行の何かを犯した者はアッラーの覆いに隠れなさい」。罪が表に出ることは自分自身からの場合と同じく他人からであっても忌避することが望ましい。

偽善を恐れて崇拝行為を放棄することが許されないことの説明:

 我々は言おう。動因は偽善の元ではない。その過程で虚偽が恐れられる。それゆえ崇拝行為を放棄するのは望ましくない。なぜなら悪魔の目的は(人間が)崇拝行為をやめてしまうことで達成されるからである。だから崇拝行為を敢行し、(偽善を治す)薬で偽善を防ぎなさい。それゆえ彼ら(スーフィー)のある者は言う。「偽善とは被造物(人間)が見ているからといって崇拝行為を放棄することである。被造物(人間)のためにそれ(崇拝行為)を行うのは純然たる偽信仰(ニファーク)に他ならない。

 崇拝行為の中には、カリフ職、イマーム職、スルタン職や教育や説教のような被造物(人間)に関わるものもある。(預言者は)言われた。「正義のイマーム(カリフ)の一日は独りで行う60年の崇拝行為に優る」。

 知りなさい。敬虔な者たちはそれから逃げる。なぜならそれには大きな危険があるからである。なぜならそこでは財貨や名声やその他の厄災によって内面の諸属性が動揺するからである。それゆえ預言者は言われた。「どんな集団の後見人であれ、最後の審判の日には腕を鎖で首に繋がれてやって来るが、彼が行った正義がそれを解き放つか、不正がそれを固く結びつけるかのいずれかである」。

  それゆえ理性ある者は危険な場からは逃げるのが正しい。それゆえ自分自身を見つけなさい、そして自分を支配しているのが(来世での崇拝行為の)報償を求めることであれば行いなさい。その徴は自分の代わりになる者が現れたらそれで満足し、怒らずその者を任用することである。理解し益を得よ。アッラーこそ正答を最もよくご存知である。