2026年11月1日日曜日

なぜイスラーム世界は後れを取ったのか アフメト・クル 2026年10月16日 なぜイスラーム世界は社会経済的に発展が遅れているのだろうか。イスラーム教徒が多数を占める国々を、一人当たり国民総所得で欧米諸国だけでなく世界の他の国々とも比較すると、多額の石油収入があるにもかかわらず、その水準は平均を下回る。平均寿命、就学年数、識字率についても同じことがいえる。さらに、イスラーム教徒が多数を占める50か国のうち、自由民主主義国は一つもなく、選挙民主主義国に分類される国もわずかしかない。これに対し、世界の他の国々では、およそ半数が選挙民主主義国である。 しかし、欧米の知識人の間で、なぜそうなのかと問うことは、ほとんどタブーになっている。私自身、この問題を扱う本を執筆していたとき、そのことを知った。当時、同じ学科の同僚から、トルコ語とアラビア語では出版しても、英語では出版しないほうがよいと勧められた。この本がイスラーム嫌悪をあおるのではないかと心配していたのだ。『イスラーム、権威主義、低開発』は2019年に英語で刊行され、その後15の言語に翻訳されたが、欧米とイスラーム教徒が多数を占める国々とでは、受け止められ方が異なってきた。欧米の研究者からはオリエンタリズムやヨーロッパ中心主義だと批判された一方、トルコ、ボスニア、レバノン、パキスタン、バングラデシュ、インドネシアで刊行された版は、これらの社会が抱える問題について、もっと早く行われるべきだった分析として好意的に受け止められた。 私は低開発の原因をイスラームに求めているのだろうか。そうではない。宗教的な思想は重要だが、それは、より広い政治的、社会的、物質的な文脈のなかに存在している。よく知られているように、イスラームはその初期の歴史において、科学と経済の目覚ましい進歩と両立していた。欧米の研究者の大多数は、その初期の進歩に終止符を打ち、これらの社会を後れた状態にとどめているのは、欧米の植民地主義だと考えている。私はこれに同意しない。植民地主義と帝国主義が有害だったことは確かだが、それらはイスラーム世界だけが経験したものではない。ラテンアメリカから東アジアに至るまで、多くの国々が同様の状況に直面しながらも、発展と民主化を実現する道を見いだしてきた。しかも、イスラーム世界が西ヨーロッパに後れを取り始めたのは、広範な植民地化が始まる前のことである。 「イスラームはその初期の歴史において、科学と経済の目覚ましい進歩と両立していた。」 欧米の多くの研究者にとって、イスラーム社会の歴史的な停滞を強調しすぎることは、オリエンタリズムの視点を通して、ヨーロッパの基準でその社会を裁くことを意味する。このような姿勢は、いまこそ問い直すべきである。エドワード・サイードの『オリエンタリズム』は、半世紀前には認識の枠組みを変える著作だった。しかし今日、その中心概念は、不都合な結論を導く研究を安易に退けるために使われている。いずれにせよ、オリエンタリズムという非難を避ける明白な方法がある。現代のイスラーム世界を、その世界自身が歴史上成し遂げた業績に照らして評価することである。かつてイスラーム社会は、今日まで影響を及ぼす哲学者、科学者、数学者を世界に送り出すとともに、大陸間貿易でも中心的な役割を果たしていた。当時のヨーロッパは、知的にも経済的にも周縁に位置していた。この時代、イスラーム教徒は、インド・アラビア数字の記数法、光学、アリストテレス哲学など、さまざまな新しい知識をヨーロッパ人に教えた。 しかし11~12世紀になると、イスラーム世界と西ヨーロッパの立場は逆転し始めた。この過程で中心的な役割を果たしたのが、宗教、政治、知識、経済を担う各層の関係である。イスラームの初期の歴史において、イスラーム学者であるウラマーは一般に、政治権力と深く関わることは腐敗につながると考えていた。そのため、商業を通じて資金を得ることを好み、商人と緊密な関係を保っていた。当時、イスラーム学者とその家族の大半は商業に携わっており、公的資金を受け取る者はごく少数だった。こうして政治権力から独立していたことが、知的発展と経済発展に恩恵をもたらした。 ところが、11~12世紀にイスラーム世界は変容を遂げた。その中心にあったのは宗派主義である。中東と北アフリカの各地でシーア派勢力が台頭したことにより、バグダードのアッバース朝カリフたちは著しく弱体化し、この脅威に対抗するためスンナ派の結集を呼びかけた。カリフたちは「スンナ派の信条」を宣言し、一部のシーア派、合理主義的な神学者、哲学者など、その見解がこの信条に反するとみなされた人々は、背教者とされ、処刑の脅威にさらされた。 この変容は、宗教権威と政治権力の提携をもたらした。この同盟は、哲学者や商人を徐々に周縁へと追いやり、イスラーム世界に科学と経済の長期的な停滞を招いた。その後、イスラーム世界では宗教と政治に関わる制度の改革が試みられたが、ウラマーとその提携相手である君主たちは、背教法、国家権力、そしてマドラサを通じた教育の独占を利用して現状を維持した。15~19世紀にかけて、イスラーム教徒は三つの帝国を築いた。スンナ派のオスマン帝国、シーア派のサファヴィー朝、そしてスンナ派が統治しながらも宗派主義をとらなかったムガル帝国である。これらの帝国は、バルカン半島からベンガルに至る広大な地域を支配した。軍事的には強大だったものの、初期のイスラーム教徒が持っていた知的・経済的な活力を復活させることはできなかった。ウラマーと国家の同盟が、哲学者を事実上排除し、商人を周縁に追いやったからである。 イスラーム世界が知的・経済的な勢いを失いつつあった一方で、西ヨーロッパは11~12世紀以降、正反対の道を歩んだ。そこでは教会と国家の区別が進み、大学が開設され、強力な商人階級が台頭した。 初期のイスラーム社会は非常に活力に満ちており、中国の製紙技術のような新しい技術を目にすれば、すぐに取り入れた。西ヨーロッパの社会が最初の製紙工場を開設したのは、イスラーム教徒より数世紀も後のことだった。だが、階級間の関係が変わると、革新に対する姿勢も変わった。イスラーム教徒は、印刷機や望遠鏡、遺体を用いた医学研究など、西ヨーロッパで発展した新しい技術や手段を取り入れるまでに、何世紀も待つことになった。 19世紀になると、とりわけイスタンブールとカイロのイスラーム教徒のエリートの間では、西洋に追いつくためにはイスラーム社会に改革が必要だという点で、ほぼ合意が成立していた。これらの政治エリートは「オリエンタリスト」だったわけではない。彼らはただ、西洋と比べた自国の状況を知っていたのである。1829年から1880年まで生きたオスマン帝国の官僚で知識人のズィヤー・パシャは、有名な詩にこう記した。「異教徒の地を旅して、都市や邸宅を見た。/イスラームの領域をさまよい、荒廃しきった有様を見た。」 しかし、19世紀と20世紀の改革の試みは、部分的な成功にとどまった。何世紀にもわたる知的・経済的停滞の遺産は、イスラーム社会にとって克服が困難なものだった。改革派の官僚たちはしばしばウラマーを脇に追いやったが、知識人層やブルジョワジーを復活させようと本気で取り組むことはなかった。改革者の大半は軍出身であり、国家主義的な傾向が強すぎたため、言論の自由や自由市場の価値を十分に理解できなかった。過去半世紀の間に、ウラマーと国家の同盟は、さまざまな形でイスラーム世界の広い範囲において再び力を強めてきた。アラビア半島におけるワッハーブ派とサウード家の同盟、イランのイスラーム革命、パキスタンにおけるシャリーア法廷と軍の結びつき、エジプトにおけるアズハルと軍の同盟、トルコにおける宗務庁と選挙で選ばれた政治家の同盟が、その例である。 では、何をすべきなのか。まず必要なのは、現状に正直に向き合い、オリエンタリズムという非難や植民地支配の遺産への嘆きで、問題を覆い隠すことを拒むことである。欧米の植民地主義と帝国主義が、多くのイスラーム諸国に損害を与え、その資源を搾取したことは確かだ。しかし、その歴史だけに狭く目を向けることは、イスラーム教徒が自らの内部の問題に取り組み、制度を改革することから注意をそらしてきた。この地域の歴史を誠実に語り直すことは、イスラーム嫌悪を助長するものではない。例えば、イスラームはキリスト教と違って政教分離を拒むため、自由民主主義とは相いれないと、しばしば主張されてきた。しかし、イスラームの歴史を分析すると、初期には宗教と国家の間に一定程度の分離があり、それが科学と経済の黄金時代に寄与したことがわかる。ウラマーと国家の同盟は、イスラームの神学上の必然でもなければ、歴史を通じて一貫して存在してきた事実でもない。 この歴史解釈が示唆するのは、現代のイスラーム教徒が、知的・経済的な創造性を促し、自由化と民主化を可能にするような形で、宗教と国家の関係を再設計できるということである。こうした改革を実現するために、イスラーム教徒が西洋化する必要はない。彼ら自身の初期の歴史が、自らの伝統に根ざした着想を与えてくれるからである。 アフメト・T・クルは、サンディエゴ州立大学の政治学教授。近著に『イスラーム、権威主義、低開発――世界的・歴史的比較』がある。

なぜイスラーム世界は後れを取ったのか

アフメト・クル

2026年10月16日

なぜイスラーム世界は社会経済的に発展が遅れているのだろうか。イスラーム教徒が多数を占める国々を、一人当たり国民総所得で欧米諸国だけでなく世界の他の国々とも比較すると、多額の石油収入があるにもかかわらず、その水準は平均を下回る。平均寿命、就学年数、識字率についても同じことがいえる。さらに、イスラーム教徒が多数を占める50か国のうち、自由民主主義国は一つもなく、選挙民主主義国に分類される国もわずかしかない。これに対し、世界の他の国々では、およそ半数が選挙民主主義国である。

しかし、欧米の知識人の間で、なぜそうなのかと問うことは、ほとんどタブーになっている。私自身、この問題を扱う本を執筆していたとき、そのことを知った。当時、同じ学科の同僚から、トルコ語とアラビア語では出版しても、英語では出版しないほうがよいと勧められた。この本がイスラーム嫌悪をあおるのではないかと心配していたのだ。『イスラーム、権威主義、低開発』は2019年に英語で刊行され、その後15の言語に翻訳されたが、欧米とイスラーム教徒が多数を占める国々とでは、受け止められ方が異なってきた。欧米の研究者からはオリエンタリズムやヨーロッパ中心主義だと批判された一方、トルコ、ボスニア、レバノン、パキスタン、バングラデシュ、インドネシアで刊行された版は、これらの社会が抱える問題について、もっと早く行われるべきだった分析として好意的に受け止められた。

私は低開発の原因をイスラームに求めているのだろうか。そうではない。宗教的な思想は重要だが、それは、より広い政治的、社会的、物質的な文脈のなかに存在している。よく知られているように、イスラームはその初期の歴史において、科学と経済の目覚ましい進歩と両立していた。欧米の研究者の大多数は、その初期の進歩に終止符を打ち、これらの社会を後れた状態にとどめているのは、欧米の植民地主義だと考えている。私はこれに同意しない。植民地主義と帝国主義が有害だったことは確かだが、それらはイスラーム世界だけが経験したものではない。ラテンアメリカから東アジアに至るまで、多くの国々が同様の状況に直面しながらも、発展と民主化を実現する道を見いだしてきた。しかも、イスラーム世界が西ヨーロッパに後れを取り始めたのは、広範な植民地化が始まる前のことである。

「イスラームはその初期の歴史において、科学と経済の目覚ましい進歩と両立していた。」

欧米の多くの研究者にとって、イスラーム社会の歴史的な停滞を強調しすぎることは、オリエンタリズムの視点を通して、ヨーロッパの基準でその社会を裁くことを意味する。このような姿勢は、いまこそ問い直すべきである。エドワード・サイードの『オリエンタリズム』は、半世紀前には認識の枠組みを変える著作だった。しかし今日、その中心概念は、不都合な結論を導く研究を安易に退けるために使われている。いずれにせよ、オリエンタリズムという非難を避ける明白な方法がある。現代のイスラーム世界を、その世界自身が歴史上成し遂げた業績に照らして評価することである。かつてイスラーム社会は、今日まで影響を及ぼす哲学者、科学者、数学者を世界に送り出すとともに、大陸間貿易でも中心的な役割を果たしていた。当時のヨーロッパは、知的にも経済的にも周縁に位置していた。この時代、イスラーム教徒は、インド・アラビア数字の記数法、光学、アリストテレス哲学など、さまざまな新しい知識をヨーロッパ人に教えた。

しかし11~12世紀になると、イスラーム世界と西ヨーロッパの立場は逆転し始めた。この過程で中心的な役割を果たしたのが、宗教、政治、知識、経済を担う各層の関係である。イスラームの初期の歴史において、イスラーム学者であるウラマーは一般に、政治権力と深く関わることは腐敗につながると考えていた。そのため、商業を通じて資金を得ることを好み、商人と緊密な関係を保っていた。当時、イスラーム学者とその家族の大半は商業に携わっており、公的資金を受け取る者はごく少数だった。こうして政治権力から独立していたことが、知的発展と経済発展に恩恵をもたらした。

ところが、11~12世紀にイスラーム世界は変容を遂げた。その中心にあったのは宗派主義である。中東と北アフリカの各地でシーア派勢力が台頭したことにより、バグダードのアッバース朝カリフたちは著しく弱体化し、この脅威に対抗するためスンナ派の結集を呼びかけた。カリフたちは「スンナ派の信条」を宣言し、一部のシーア派、合理主義的な神学者、哲学者など、その見解がこの信条に反するとみなされた人々は、背教者とされ、処刑の脅威にさらされた。

この変容は、宗教権威と政治権力の提携をもたらした。この同盟は、哲学者や商人を徐々に周縁へと追いやり、イスラーム世界に科学と経済の長期的な停滞を招いた。その後、イスラーム世界では宗教と政治に関わる制度の改革が試みられたが、ウラマーとその提携相手である君主たちは、背教法、国家権力、そしてマドラサを通じた教育の独占を利用して現状を維持した。15~19世紀にかけて、イスラーム教徒は三つの帝国を築いた。スンナ派のオスマン帝国、シーア派のサファヴィー朝、そしてスンナ派が統治しながらも宗派主義をとらなかったムガル帝国である。これらの帝国は、バルカン半島からベンガルに至る広大な地域を支配した。軍事的には強大だったものの、初期のイスラーム教徒が持っていた知的・経済的な活力を復活させることはできなかった。ウラマーと国家の同盟が、哲学者を事実上排除し、商人を周縁に追いやったからである。

イスラーム世界が知的・経済的な勢いを失いつつあった一方で、西ヨーロッパは11~12世紀以降、正反対の道を歩んだ。そこでは教会と国家の区別が進み、大学が開設され、強力な商人階級が台頭した。

初期のイスラーム社会は非常に活力に満ちており、中国の製紙技術のような新しい技術を目にすれば、すぐに取り入れた。西ヨーロッパの社会が最初の製紙工場を開設したのは、イスラーム教徒より数世紀も後のことだった。だが、階級間の関係が変わると、革新に対する姿勢も変わった。イスラーム教徒は、印刷機や望遠鏡、遺体を用いた医学研究など、西ヨーロッパで発展した新しい技術や手段を取り入れるまでに、何世紀も待つことになった。

19世紀になると、とりわけイスタンブールとカイロのイスラーム教徒のエリートの間では、西洋に追いつくためにはイスラーム社会に改革が必要だという点で、ほぼ合意が成立していた。これらの政治エリートは「オリエンタリスト」だったわけではない。彼らはただ、西洋と比べた自国の状況を知っていたのである。1829年から1880年まで生きたオスマン帝国の官僚で知識人のズィヤー・パシャは、有名な詩にこう記した。「異教徒の地を旅して、都市や邸宅を見た。/イスラームの領域をさまよい、荒廃しきった有様を見た。」

しかし、19世紀と20世紀の改革の試みは、部分的な成功にとどまった。何世紀にもわたる知的・経済的停滞の遺産は、イスラーム社会にとって克服が困難なものだった。改革派の官僚たちはしばしばウラマーを脇に追いやったが、知識人層やブルジョワジーを復活させようと本気で取り組むことはなかった。改革者の大半は軍出身であり、国家主義的な傾向が強すぎたため、言論の自由や自由市場の価値を十分に理解できなかった。過去半世紀の間に、ウラマーと国家の同盟は、さまざまな形でイスラーム世界の広い範囲において再び力を強めてきた。アラビア半島におけるワッハーブ派とサウード家の同盟、イランのイスラーム革命、パキスタンにおけるシャリーア法廷と軍の結びつき、エジプトにおけるアズハルと軍の同盟、トルコにおける宗務庁と選挙で選ばれた政治家の同盟が、その例である。

では、何をすべきなのか。まず必要なのは、現状に正直に向き合い、オリエンタリズムという非難や植民地支配の遺産への嘆きで、問題を覆い隠すことを拒むことである。欧米の植民地主義と帝国主義が、多くのイスラーム諸国に損害を与え、その資源を搾取したことは確かだ。しかし、その歴史だけに狭く目を向けることは、イスラーム教徒が自らの内部の問題に取り組み、制度を改革することから注意をそらしてきた。この地域の歴史を誠実に語り直すことは、イスラーム嫌悪を助長するものではない。例えば、イスラームはキリスト教と違って政教分離を拒むため、自由民主主義とは相いれないと、しばしば主張されてきた。しかし、イスラームの歴史を分析すると、初期には宗教と国家の間に一定程度の分離があり、それが科学と経済の黄金時代に寄与したことがわかる。ウラマーと国家の同盟は、イスラームの神学上の必然でもなければ、歴史を通じて一貫して存在してきた事実でもない。

この歴史解釈が示唆するのは、現代のイスラーム教徒が、知的・経済的な創造性を促し、自由化と民主化を可能にするような形で、宗教と国家の関係を再設計できるということである。こうした改革を実現するために、イスラーム教徒が西洋化する必要はない。彼ら自身の初期の歴史が、自らの伝統に根ざした着想を与えてくれるからである。

2026年10月16日

アフメト・T・クルは、サンディエゴ州立大学の政治学教授。]

近著に『イスラーム、権威主義、低開発――世界的・歴史的比較』がある。

2024年9月6日金曜日

『イスラーム諸学の革新・要約』とイスラームの解釈学的アプローチ

『イスラーム諸学の革新・要約』とイスラームの解釈学的アプローチ


1.はじめに


本稿は、現代世界に求められるイスラームの解釈学的アプローチにおけるガザーリーの『イスラーム諸学の革新・要約』の有用性とその限界を明らかにする。

現在の世界は、サミュエル・ハンチントン が予言した低強度のフォルトライン紛争が同時多発的に世界中で発生し、特にガザ戦争以降、第二次世界大戦後の国際秩序の既得権益を守ろうとする欧米(+日本)とその偽善と不正に異議を申し立て、西欧列強が作ったゲームのルールを変えようとする「グローバルサウス」と総称される非西欧文化圏の対立が一挙に加速、先鋭化し、コントロールの利かない世界大戦に発展しかねない危機的状況にある。

この現状はミクロとマクロの両レベルでの行き過ぎたアイデンティティ・ポリティクスによって煽られた人々の分断をもたらす国家主義的で排他的なジンゴイズムの言説の世界各地での増大を特徴としているが、それにはデジタル資本主義の急速な発展によって引き起こされた側面が大きい。私見によると、この全世界/人類を巻き込む破滅的な戦争の危機を解決する鍵は、創造物への絶対的な忠誠を要求する偶像崇拝の束縛から人類と地球を解放する共役不能な異なる価値観を有する複数の文明圏が共存する新たな国際秩序を構築することにある。

そのためには、自己と異なる文化的背景を有する異文明圏の住人である「他者」の世界観、価値観を理解しなくてはならず、それには異文化理解の方法論としての解釈学的なアプローチが必要である。しかし我々が今必要としている解釈学的方法が古典研究や人類学などで用いられる異文化理解の方法論とは異なることを認識するには、現代の時代精神(Zeitgeist)を文明的に概観する必要がある。 そこで迂遠になるが、ここではサミュエル・ハンティントンの論文『文明の衝突』を手がかりに現代世界を紐解いてみよう。

ハンティントンは、西洋文明が普遍的な文明ではないことを認め、国際関係のルールは将来、非西洋文明のさまざまな主体によって決定されるだろうと予測し、非西洋文明との戦争がより頻繁になるだろうと警告した。それを放置すると世界大戦に発展する可能性があるため、西側諸国は他の文明の宗教的前提を理解し、彼らが大切にしているものを考慮して共存する方法を見つける必要があるのである 。

しかし、冷戦勝利後の全能感と多幸感に浸っていた西側諸国は、ハンティントンの忠告に耳を貸さなかった。 彼らは西洋の世俗主義を普遍的な文明、非西洋文明を劣ったものとみなし、その真実性の主張(Wahrheitsanspruch)を無視し、近代西洋文明の非西洋文明への度重なる文化的侵略の隠れ蓑として自らの経済力と軍事力を利用した。 

その結果、西洋文明に対する最も可能性の高い脅威は儒教文明とイスラーム文明の同盟にあるというハンティントンの事前警告にもかかわらず、イスラーム文明の中で最も西洋化された国であったトルコはないがしろにされ、反西洋文明圏に追い込まれるという事態に至っている。 

しかし、より注目すべき失敗はロシアの扱いである。 ハンティントン自身はロシアの封じ込めに楽観的であり、1993年の出来事に基づいて、ロシアとウクライナは同じ正教文明内のスラブ民族であるため、文明の点で共存できると述べていた。 

ハンティントンは、ロシアを西洋文明と正統派スラブ文明の間で世界で最も重要な「引き裂かれた国」と表現し、ロシアが伝統主義的、全体主義的、権威主義的な反西洋世俗文明の陣営に加わる可能性があることに気づいていた。 しかし、彼はロシアを日本と並んで近代西欧文明に近い国と考えていた。ハンチントンによると、短期的にはロシアや日本との協力関係を促進し維持して、中華儒教世界やイスラム世界の軍事力の拡大を抑え、地域的な文明間紛争が大規模な文明間戦争にエスカレートするのを防ぐことが西側の利益になることは明らかである。それゆえ彼は「ロシアは儒教文明やイスラーム文明といった西洋文明陣営に追いやられるべきではない」と考えていた。

しかし同時に、上で述べたように、ハンティントンは、長期的にロシアと共存するためには、西側は近代西側文明の真実の主張(Wahrheitsanspruch)を放棄し、ロシアの価値観が西洋文明の価値観とは相容れないものであることを受け入れた上で妥協点を探さなければならないと付け加えることを忘れなかった。

しかし欧米はハンチントンの提案に応えるどころか、自由、人権、民主主義の名の下に、正統文明を分断しようとし、西洋世俗主義文明による文化侵略政策を推進した。  その結果、今日私たちが見ているように、欧米は正教スラブ文明帝国であるロシアを中国、北朝鮮、イランの側に追いやることになり、期せずしてハンティントンが予言したいわゆる「儒教文明とイスラーム文明の同盟」がロシアを触媒として形成されることになったのである。さらに、2023年10月以来紛争を引き起こしたガザにおけるイスラエルの大量虐殺行為に対する西側諸国の支持は、西側文明が提唱する人権、民主主義、自由などの二重基準と偽善を暴露した。 この支援により、総称して「グローバル・サウス」として知られるアジアとアフリカ諸国の大部分が、西洋文明に対する反対だけを理由に反西洋的になるようになった。

だからと言って、ここでの論点は西洋文明の二重基準と偽善を批判することではない。 そうではなく重要なのはハンティントンが「西洋文明は西洋的であり、また近代的でもある。そして非西洋文明は西洋になることなく近代になろうとしてきたのである。 …非西洋文明は、近代の一部である富、技術、技能、機械、武器を獲得しようと試み続けるだろう」と述べた西洋近代文明の二重性である。

ハンティントンによれば、文明とは「人々の最も高度な文化的集団であり、人間を他の種から区別するものを除いて人々が持つ最も広範なレベルの文化的アイデンティティである。そしてそれは、言語、歴史、宗教、習慣、制度などの共通の客観的要素と、人々の主観的な自己認識の両方によって定義される」

イスラーム文明、中国文明、正統スラブ文明、インド文明などの非西洋文明は、主観的な自己同一化によって民族の自己同一性を維持してきた。しかし、共通の客観的要素という観点から見ると、絶滅の危機に瀕しているブラジルの未接触の先住民族を除いて、地球上のすべての民族は現在、「近代化された」西洋のやり方の採用を強いられている。

西洋帝国主義列強によるアジア・アフリカの植民地化の時代であった19世紀に、西洋列強によって未開人のレッテルを貼られて奴隷のように扱われ植民地化されるのを回避するために、アジア・アフリカの全ての民族が西洋化を強いられたのである。この現象は一般に「富国強兵」政策と呼ばれている。その結果、西洋式の学校教育が義務化され、時間と生産活動の管理、近代的な工業生産と戦争が、ライフスタイルの西洋化を目的とした厳しい規律訓練を通じて実現した。

この意味で近代西洋文明は「普遍文明」として特徴づけることができる。したがって、たとえ中国の儒教文明、イスラーム文明、オーソドックス教会スラブ文明などに属していても、現代人はすべて近代西洋文明の一員とみなすことができる。

ハンティントンが雄弁に表現したように、私たちは皆、二つの文明の間で「引き裂かれ」ている。 イスラームを信仰する日本人であり、歴史的に黒船来航により開国を余儀なくされ第二次世界大戦の敗戦後の軍事占領によって「民主化」されるという米国の圧倒的影響を受けた国である日本で仏教と神道のルーツを持つ家族の中に生まれた筆者は近代西洋文明、儒教中華文明、日本固有の文明、そしてイスラーム文明の間で四つに「引き裂かれている」ことを自覚しているが、数は重要ではない。本質的なのは、非西欧文明に属する人間はすべて、近代西洋文明と自分が生まれ育った文明の間で「引き裂かれ」ているという葛藤を自覚しなければならないことである。

本稿では、この現象を社会学用語で「疎外(alienation, Entfremdung)」、イスラーム学のアラビア語で「グルバ(ghurbah)」と呼ぶ。 イスラームの疎外、グルバが、現代世界において、イスラームについての知識も理解もない非イスラーム文明圏の住人に対してだけでなく、イスラーム文明の地で生まれ育ったムスリムにイスラームを伝える場合にも、解釈学的なアプローチが必要とされる理由である。


2.イスラームのグルバ(疎外)

イスラームへの主観的な帰属意識は、現在のような世界的危機に対処するには役に立たない。そうした主観的な帰属意識を共有する者の多さは、むしろ有害無益である。なぜなら自称、他称のムスリムたちが主観的にはイスラームの教えに則っていると信じ込んでいる行動の多くが往々にしてイスラームの根本教義であるタウヒード(唯一神信仰)の原則に反しており、むしろ預言者ムハンマドが厳しく非難した「ジャヒリーヤ(「無知」を意味するアラビア語。イスラームに対比して用いられ,預言者ムハンマドにクルアーンの啓示が下る以前のまだイスラームを知らないアラブの状態を言うが、歴史用語としてはムハンマドの時代に先行する約150年間のアラブ社会を指す場合が多い) への呼びかけ(‘azā’ jāhilīyah)、あるいは党派/部族意識(ta‘aṣṣub)でしかないからである。

確かに、客人をもてなすことや貧しい人々への慈善行為などイスラームの美徳は、学者であるか庶民であるかを問わず、今なお民族の違いを超えて多くのムスリムに身体化されて共有されている。 しかし規律正しい時間厳守のライフスタイルは、近代西洋文明の産業資本主義段階で「教育」の名の下に人々に強制された労働倫理とともに、「ハビトゥス」(ピエール・ブルデュー)、あるいはエートス(マックス・ウェーバー)となって学校、工場、軍隊などの施設での訓練を通じて具体化され、無意識のうちに私たちの行動を支配している。

この意味で、私たちがクルアーン、ハディース、また千年ほど前に書かれたイスラーム学の古典を読んだとしても、それらの解釈の仕方やそれを読むことの社会的意義は、ホワイトカラー労働者が獲得すべき知識と教養に他ならない。それらの知識と教養は近代西洋文明の枠組みの中で定義され、教育の一環として学習され、その習得は社会的地位に直結している。

それゆえ現代世界の危機に対処できるダイナミックな勢力としてイスラームを復活させたいと心から願うのであれば、単にイスラームへの主観的な帰属意識を誇るだけでは十分ではなく、内省を通じてイスラームを理解しようとする自分たちの行動や属性の客観的なパターンが近代西洋文明によって飼い慣らされ、近代西欧文明の価値観を体現していることにまず気づかなければならない。言い換えれば自分自身がイスラーム文明から疎外されていることを認識し、対自的な自己理解を達成するためには、自分自身を反省の対象にしなければならない。

自分自身のイスラームからの疎外を客観的に認識することは学問的に困難なけでなく、それを主観的に認めることは感情的にも苦痛な試練である。しかし、ガザーリが『学知の革命(Iḥyā’ ‛Ulūm al-Dīn)』で強調しているように、悔い改め(タウバ)は救済の出発点であるため、イスラームを真に理解するためにはまず自己の誤りを自覚することが不可欠なのである。

しかし教義的にもイスラームの疎外に必ずしも落胆する必要はない。なぜならイスラームの疎外が預言者のハディースで予告されており、それ自体がイスラームの真実性の証しでもあるからである。 

「イスラームは奇妙なものとして始まり、また奇妙なものとして始まった姿に戻るだろう。奇妙な者たちに幸あれ」(ムスリム正伝集)

「『大食漢どもが呼びかけあって大盆に群がってくるように、諸民族があなたたちを貪ろうと呼びかけあうようになる』とアッラーの使徒が言われ、「その日には我々は少数なのか」と尋ねられると 「いや、その日あなたがたは多数だが、あなたは激流を流れる塵芥のようなゴミでしかない。アッラーがあなたの敵の胸からあなたへの恐れを取り除き、あなたの心中に弱さを投げ込むからである」と答えられた。更に「 弱さとは何でしょうか」と尋ねられると、 「現世への愛と死の恐れである」と答えられた。(アブー・ダーウード正伝集)

 約千年前、ガザリーの師であったアブドルマリク・ジュワイニー(シャーフィー派法学者、アシュアリー派神学者:1085年没)はすで「そして私たちの時代は、その状態からそう遠くない」と述べている  ジュワイニーによると、彼の時代には学匠たち(a’immah)は姿を消し、その後継者は絶え、似非学者たちはシャリーア(クルアーンとハディースの明文の教え)の枝葉末節にこだわって本質を見失い、新奇な珍説を唱えて物議を醸す問題を引き起こしたが、彼らの研究の目的は、無内容な美辞麗句で煙に巻いて議論に勝ち、無知な学徒や大衆の注目を集めることだった。それでは、シャリーアの知識は衰退し、その担い手は居なくなり、異説を列挙した書物の数は増え続けるだろう。しかし書物が増えても正しく指導してくれる教師がなければ、独学は混乱と理解の欠如を招くだけであり、人々はもはや全てを読むことができなくなり、我慢強く学ぼうとの興味が失せ、学ぶ者がいなくなるのである。 

イスラームの疎外は預言者の孫弟子(tābi‛)の時代にすでに起こっていた。預言者ムハンマドの時代には女性はモスクで男性と一緒に祈っていたがハナフィー法学の一通説では女性は自宅で祈るべきである。

ハナフィー派の法学者でハディース学者でもあったバドルッディーン・アイニー(1453年没)はその理由を以下のように説明している。


アッラーの使徒ムハンマドの未亡人アーイシャは「もし使徒様が生きていて女性たちが今何をしているのかを見ていたとしたら、イスラエルの民の女性たちと同じように、女性たちがモスクでの祈りに参加するのを必ずや阻止しただろう」(ブハーリーとムスリムの正伝集)

著名なハディース学者でハナフィー法学者のバドルッディーン・アイニー師はアーイシャのこの言葉を解説して「もしアイーシャが、近頃の女性が様々な僻事や悪行に手を染めているのを目撃していたら、女性のモスクへの立ち入りをもっと厳しく禁じるていただろう」(Badr al-Dīn al-‘Aynī, ‘Umdah al-Qāri’, Vol.3, p.230) 


アイニーは、カイロのアッバース朝カリフを名目上の宗主とする当時のスンナ派の盟主であったマムルーク朝治下に生きた碩学だった。アイニーが生きたアッバース朝カリフ政権下のマムルーク朝時代のムスリムでさえ、イスラームから疎外されていたことを自覚し、預言者ムハンマドの死後に彼の弟子たちの間で起きたものの何千倍ものイスラームからの逸脱が起こったことを嘆いていた。このような歴史的背景を考慮すると、西洋列強によって文化的に植民地化され、近代西洋文明に部分的に組み込まれている今日のムスリムが、どれほどの疎外を感じているのかを考えなければならない。

イスラームからの疎外の最も深刻な問題は、イスラームからの疎外の現実に無自覚であることである。特に今日では、クルアーンやハディースだけでなく、何万冊ものイスラーム学の古典がインターネット上にアップロードされている。さらに有名なウラマーは言うまでもなく、イスラーム諸国のイスラーム問題省や大学や、民間のイスラーム組織、正体不明の有象無象の自称宣教師、説教者によって発布された「ファトワ」が大量に存在する。実際、これらのファトワの一部は現在 AI によって作成されており、この割合は将来的に更に増加していくだろう。イスラームに関する「情報」はかつてない規模で爆発的に増加している。 しかし、正しい理解のない情報は知識ではない。{憶測は決して真理の代わりにはならない} (クルアーン10章36節)

 むしろそれらの情報は人々に自分の無知に対する謙虚な認識を失わせ、うぬぼれと虚栄心を生じさせ、 そして最終的には学ぶことに倦み疲れさせ興味を失わせる、真理を覆い隠すノイズに過ぎない。これが現代におけるイスラーム疎外の現代的形態なのである。

既述のように、この種のイスラームからの疎外の前兆はジュワイニーの時代に既に現れており、ジュワイニーの弟子であったガザーリーの著作『誤りから救うもの』や『イスラーム学知の革命』はその疎外の克服を目指して書かれたと言われている。 

しかし現代のイスラームの疎外は、ジュワイニーやガザーリーの時代よりもはるかに複雑かつ深刻である。 ガザーリーは、当時のイスラーム疎外への処方箋として、『哲学者の意図』や『哲学の自己矛盾』などで当時流行していた哲学者の語彙や論述スタイルを、利用し、シャリーア、つまりクルアーンとハディースの明文テキストから演繹されたイスラームの本質を同時代人にも理解できるように「神学、法学、スーフィズム」というパッケージの形で提示するスタイルを編み出した。。

現在求められているのは、ガザーリーが彼の時代に採用したアプローチに似ている、つまり現代西洋文明に固有の語彙と概念的枠組みを用いてのイスラームの本質を伝えるための新しい方法の定式化である。しかしそれらの語彙と概念枠組みはあまりにも深く根付き身体化されているため、その影響を対自的に自覚することは難しい。現代人の心に届く言葉で伝える解釈とは、イスラームが疎外されているために現在私たちが直面している文化的、社会的、経済的、政治的な問題にイスラームがどう対処できるかを示す解釈である。

本稿では方法論として解釈学的アプローチが使用されるが、それは「非イスラーム文明で生まれ育った非ムスリムにイスラームを伝える」といった月並みの異文化コミュニケーションの方法論ではない。 むしろ、幾重ものベールの背後に隠されたアッラーのメッセージを解読するための最初のステップは、自分自身がイスラームから疎外されていることを自覚し、自己の「内なる西洋」の毒を「自ら身を切り血を絞り出し」て解析し、その解毒剤を探し出すことなのである。


3. イスラームと解釈学サイクルの理解

前章で述べたように、今日ではイスラーム文明の中で生まれ育ったムスリムにとっても、解釈学的アプローチは不可欠である。 現在、統計ではムスリムの数は15億人から20億人と言われているが、アラビア語を母語とする人の数は約3億人に達する。 イスラームの経典、クルアーンとハディースはすべてアラビア語で書かれている。 したがってアラビア語を知らない人は、たとえムスリムであっても、アラビア語のイスラーム本来のメッセージを突然聞いても、その内容は一言も理解できないだろう。

非アラビア語を母語とするムスリムにとって、異文化間のコミュニケーションにおける翻訳の最も基本的な形式、つまり異言語間翻訳の必要性は自明である。 標準アラビア語(背側アラビア語)では、古典アラビア語と現代アラビア語は文法的に近く、外国人向けの標準アラビア語文法教育においては両者に明確な区別はない。 

しかし、すでに述べたように、預言者ムハンマドが生前長年にわたって親しく言葉を交わしていた高弟たちでさえ、自分たちの導き手である預言者を失った後は、クルアーンとハディースのメッセージを理解することができなかった。

言語学では、意味を統語論(syntaxs)的意味、意味論(semantics)的意味、語用論(pragmatics)的意味に分類する。 古典アラビア語は現代アラビア語文法で理解できるため、アラビア語話者にとって「内なる西洋」であるイスラームの疎外感を認識することは困難である。 しかし、クルアーンとハディースの統語論的意味や意味論的意味はアラビア語話者にとって理解しやすくても、彼らがライフスタイルを共有し、「言語を共に生きる」ことがなければ、語用論的な意味は理解できない。

そして、クルアーンとハディースは、その統語的意味を文法的および辞書的な神学的意味で説明する釈義を書くために人間に啓示されたのではなく、自分の置かれた状況を診断し、その中でどう生きるべきかを知るための「ガイド」として、それを行動の指針として使うために啓示されたのである。言い換えれば、イスラームにとって本当に重要なのは実践的な理解、あるいはプラグマティック(語用論的/実用的)な理解なのである。。

だとすれば、排外主義やジンゴイズムによる分断と紛争による人類滅亡を救うダイナミックな力としてイスラームを復活させるために必要なのは、イスラームの解釈学的な理解でなければならない。

イスラームに対する解釈学的なアプローチの必要性は、アラブ人にとっても非アラブ人ムスリムにとっても同様であり、すべてのムスリムに共通の課題であるが、非アラビア語話者の場合には解釈学的アプローチの必要性は明らかであるのに対して、アラビア語話者にとっては解釈学的アプローチの必要性はかえって理解が難しい。

そこで本稿では、イスラームとは全く触れずに非イスラーム文明で生まれ育った非アラビア語話者がイスラームをどのように理解し、どのようにその理解を他の人々と共有すべきかについて、主に『イスラーム学知の革命・要約』の和訳を例に用いて解釈学的なアプローチとは何かを明らかにしていく。なお以下では『イスラーム学知の革命・要約』を『要約』と略記する。

「部分は全体から理解されなければならず、全体は部分から理解されなければならない」と表現される解釈学的循環は、シュライエルマッハー(Friedrich Ernst Daniel Schleiermacher) に始まり、ディルタイ(Wilhelm Dilthey) 、を経て発展し、ガダマー(Hans Georg Gadamer) のもとで普遍的な重要性を獲得したものであり、あらゆる種類のテキストの解釈に適用できる包括的な理論となっている。

創造主なる神アッラーの創造物である宇宙には、たとえ私たちには理解できなくても、それぞれに独自の表現によるあらゆる被造物の創造主への賛美が響きわたっている。宇宙とは、万物の創造神に向けられた賛美が複雑に織り込まれたテキストである。ガリレオは、聖書と宇宙は神によって書かれた二冊の本であると述べたが、セム系/アブラハム的唯一神教のアッラーの意志を理解するための主要な文書の役割を担っているのはむしろクルアーンと宇宙である。

クルアーンは、創造神にいかにイスラーム(服従)すべきかを教えると同時に、宇宙とは被造物がどのように神に服従しているかを洞察するために読むべきテキストである。イスラームを理解するとは、世界の真相を把握し、人間の生活を支配する原則を理解することであり、イスラームを正確に理解するには、宗教に関する包括的な知識が必要となる。しかしそのような理解は一夜にして得られるものではない。イスラームの理解の道行は、全体の断片的な側面の探求から始まる。しかし部分を理解するには、解釈学的循環によりその部分が置かれた文脈を認識することが不可欠である。

イスラームの教えは、信仰告白句「lā ilāh illā Allāh」に簡潔に表現されている。「lā」という用語は英語の否定詞「no」であり、「ilāh」は神を意味する。「illāh」は「しかし」を表し、「Allāh」は崇拝に値する真の神を意味する。 イスラーム全体の探求を始める出発点としては、簡潔なこの信仰告白句が最適である。この句はイスラームの最小の断片、「部分」であるが、それを構成する単語との関係においては「全体」となる。

このイスラームの信仰告白句を総合的に理解するには、まず「lā ilāh」(神は存在しない)を理解する必要がある。ただしこの最初の部分「lā ilāh」だけを取り出すと、神の存在の否定となる。「lā ilāh」まで読んで、本を閉じ、イスラームの教えは神を否認する無神論だ、と結論したなら、それはイスラームの理解として不完全であるばかりか、完全な根本的誤解となる。

これは極めて簡単な例にすぎないが、イスラームを学ぶことの本質が凝縮されている。ゼロからイスラームを理解する旅に出ようとする者は、特に日本のようにムスリム学者と実際に接する機会が少ない環境では、最初は不完全で偏った情報から始めるしかない。つまり包括的な文脈を欠いたたまたまその時点で自分に提示されたイスラームの不完全で部分的な断片をイスラームだと思いなすことになる。

「lā ilāh illā Allah」という信仰告白句のフレーズは甚だ簡潔であるため、その全体を簡単に見渡すことができる。しかしクルアーンという啓典となると、文庫本(岩波文庫)で3巻、学術書となると分厚いながら一冊に収まる一点の書物であるが、一目で見渡せる量ではなく、概要、大意であれ全文の意味を理解することは簡単なことではない。クルアーン全巻を暗唱しているのは言うまでもなく何千、何万ものハディースに精通していた千年前のアラブ系のイスラーム学の碩学たちにとってさえ、その意味を理解するのは容易なことではなかった。長年にわたって数多くのクルアーン釈義書(tafsīr)が書き継がれてきたのはそのためである。

たとえアラブ人であっても、特に西洋の社会文化システムの枠組みの中で教育を受けたアラブ人にとって、何年もかけて古典アラビア語を習得し、古典釈義書を参照しながらクルアーンを研究することは、解釈学的螺旋を昇る最初の第一歩としては適切ではない。なぜならば解釈学的サイクルのうち、全体に見通しを与える部分は、それ自体が一目で見渡すことができる包括的な全体でなければならないからである。

その意味でイスラームを学ぼうとする初学者に、ガザーリーの『要約』をテキストして用いることは、たとえ部分的なものであるとしても、イスラーム理解の予備的な概要を提供し、イスラームの全体を垣間見る、という目的に役立つ。その理由は次章で詳しく説明しよう。


4.イスラーム学の革新

クルアーンとハディースに明らかにされた神の意志を理解するために、イスラーム文明は 神学、法学、スーフィズムの三つの学問分野を確立した。アブー・ハーミド・ムハンマド・ガザーリー(1111年没)は、神に仕えるイスラーム研究体系の発展において極めて重要な役割を果たした。彼は、精神性を失い外枠となった「外面の学問」(‛ilm ẓāhir)神学、「内面の学問(‛ilm bāṭin)」であるスーフィズムとを有機的に統合することによってこそれを達成したのであり、 彼の記念碑的な大著『イスラーム学知の革命』は、この統合の証である。

イスラーム学の書誌学者として名高いハーッジ・ハリーファ(1657年没)は、『イスラーム学知の革命』の永続的な重要性を強調し、それをスンナ派イスラーム研究の標準的な古典であり、『神学大全』と呼んでいる。シーア派神秘哲学者でハディース学者のファイド・カシャーニー(1680年没)による『イスラーム学知の革命』の注釈である『白い大道(al-Maḥājjāh al-Bayḍā')』は、それが世界的に認められ、よく練り上げられた構造を有し明晰に書かれ論理的に整理されていると述べている。つまり同書はスンナ派とシーア派の間の根深い宗派対立を超えて900年以上にわたって世界中のムスリムの間で広く受け入れられており、あらゆる形の党派主義による人間社会の分断が特徴的な今日の世界において、非常に貴重で有益な作品と言うことができる。

この意味で『イスラーム学知の革命』も『要約』にも、人間相互間の問題(‘ādāt)に焦点を当てた第二部に「イマーム/カリフ職」に関する章が含まれていないことは注目に値する。この時代、ガザリー自身が『信条における中庸(al-Iqtiṣād fī al-I‛tiqād)』の中で述べているように、神学書の中にイマーム/カリフを擁立する義務を論証する「イマーム・カリフ職」の章を設けるのがイスラーム学の慣行であった。そうであるならばイスラーム学大全である『イスラーム学知の革命』に「イマーム・カリフ職」の章が存在しないのは不自然であり、説明を要する。  その理由の一つは、ガザリがイマーム/カリフ論を論ずるに足る重要な問題とは考えていなかったことである。それどころか、彼はこれをムスリムの間の分裂と内戦を助長する可能性のある危険な問題とみなしていた。

ガザーリーの時代には、アンダルスのウマイヤ朝と北アフリカのファーティマ朝の両王朝がカリフを自称し、アッバース朝カリフの権威が失墜しただけでなく、イスラーム世界全体で半独立の地方政府が乱立して混乱に陥っていた。イランでは、イスマーイール派の分派のニザール派がアラムート要塞から暗殺部隊を派遣し、アッバース朝カリフを宗主とするセルジューク朝に対して激しい武力闘争を行っていた。

ガザーリーは「それは狂信、独善、党派意識の源泉であり、たとえそれが正しかったととしても、それを深入りするよりも避ける方が賢明である。正しくてさえ避ける方が良いなら、間違っていたならどれほど有害であろうか」と述べているが、誰が正当なイマーム/カリフかについて議論することは、合理的な議論によって解決され統一をもたらすのではなく、独善と分裂と内戦を招くだけだという彼の政治的見解は当時の政治状況を反映していると考えられる。 

しかし、『イスラーム学知の革命』にカリフに関するセクションがないことは、ガザーリーが読者に「政治」から完全に遠ざかるように促していることも、彼が権力者に媚びへつらい、その不正を容認する「静寂主義者」であったことも意味しない。それは『イスラーム学知の革命』にはカリフに関する章の代わりに「勧善懲悪(amr bi-l-ma‛rūf wa-nahy ‘an al-munkar:善を命じ悪を禁ずること)」に関する章を設けていることによって裏付けられる。  この章では「勧善懲悪」の主体がカリフではなくすべての信者であることが強調され 、カリフがはむしろその悪行、不正、暴虐が非難される対象となる。((暴君に対する勧善懲悪を進めて、ガザーリーは「最高の殉教者は、ハムザ・イブン・アブドゥルムッタリブであり、次に、イマームの前に立ち、彼に服従し、神の意志に反する行為を禁じた人物であり、そのために殺された者である」「不義の支配者のもとでの真実の言葉は最高のジハードであり、そのような行為をした者が殺された場合、彼は殉教者である」の二つのハディースを引用している))

ガザーリーは、イマームの正当性について論ずることが、イスラーム社会に分裂や内紛が生じさせることを警戒していたが、彼のこの懸念は「勧善懲悪」にも当てはまる。 彼によれば、「勧善懲悪」には、(1)告知(ta'rīf)、(2)忠告(wa'aẓ)、(3)脅迫( takhshīn fī qawl)、(4)暴力による強制阻止(man' bi-qahr)の4つの段階がある。しかし権力者(スルタン)に対しする暴力による脅迫や強制的阻止は、内戦(fitnah)を引き起こし、既に悪い状況をさらに悪化させる危険があるために許されない。

但しガザーリーは、内戦の危険がなければ、それは許され、さらには推奨されるだろうとも付け加えている。  自分の同時代のウラマーが臆病な俗物であり、暴君を前にして何も言えなかったという『イスラーム学知の革命』での彼の痛烈なウラマー批判は、それを裏付けている。

 

シャリーアはカリフの擁立(naṣb al-imām)が命じていることがイスラーム法学の合意事項であることをガザーリーは認めているだけでなく、政治哲学的にカリフ制が不可欠性であることを論証している。 シャリーアが最後の審判に至るまで妥当するとの法的安定性の観点からも、人々がカリフ制の義務を理解することは教学的にも極めて重要である。しかし当時の現実に照らすと、イスラーム法的に正当なただ一人のカリフを選ぶ法的義務をいかに果たすべきか、と、実践に踏み込んで考えることは、学識を欠く初学者が無い知恵を絞ってみても、かえってイスラーム共同体の分裂、紛争、内戦を招くだけなので考えない方がましであると『要約』は教えているのである。私見によると、この『要約』のリアリズムはイスラームの疎外という現在の状況においても示唆的である。

厳密な学術的研究、特に数学を基礎とする研究では、体系的な「積み上げ」式アプローチが不可欠である。この学習スタイルでは、各ステップが個々の概念 (パスカルが「幾何学の精神」と呼んだ哲学) の正確な理解に基づいて、一歩ずつ着実に歩を進めることが求められる。 しかし、宗教、文化、文明の理解には、それとは別のアプローチが必要となる。事象の全体を「瞬時に」(tout d'un coup)、「一目で」(d'un)把握できる「繊細な世親」が必要となるのである。  。こ繊細な精神により解釈学的循環が可能になり、全体とその構成部分の理解の間での不断の螺旋状の上昇による理解の深化が実現するのである。本稿ではこの解釈学的理解の深化の過程を「解釈学的螺旋」と呼ぼう。

異言語および異文化翻訳の場合、最初のステップは字義通りの翻訳、または逐語訳であり、「ソース言語」のテキストを別の「ターゲット言語」に翻訳する。 例えば、5世紀初頭頃、日本は朝鮮半島を経由して中国から漢字とともに仏教や儒教などの中国文化を学んだ。 そして、最初の日本語辞書『新撰字鏡』は、9世紀末から10世紀初頭に僧昌住によって書かれた。 

辞書を使った逐語訳は、厳密な学術研究の体系的な「積み上げ」式アプローチに似ており、幾何学の精神と相性が良い。クルアーンとハディース、そしてイスラーム学の古典はすべて、辞書で各単語のアラビア語の意味を調べれば、一語一語日本語に翻訳できる。しかし、解釈学の文脈では、この逐語訳は理解の手始めの最も低いレベルでしかない。

前述の通り、イスラームの信仰告白句は英語では「No god but Allah」と訳される。英語の「God」は通常、日本語では「神」と訳される。しかし、特に8世紀に書かれた古事記 や日本書紀 のような作品を紐解くと、日本語の「神」には、先史時代以来の重層的な含意が意味があることが分かる。そしてそれらの意味は、クルアーンの「神(ilāh)」の意味とは大きく異なる。逐語訳はイスラームやセム系あるいはアブラハムの一神教に対する深い理解のない一般の日本人にとっては、イスラームの大まかな理解の第一歩としてなら許容可能ではあるかもしれない。しかしその時点で理解したと思って何の疑問も抱かず好奇心を失い知識を求める旅(ṭalab al-‛ilm)を止めてしまっては、イスラーム文明圏の住人たちの平均的なイスラームの理解のレベルにさえ達することはできない 。

こうした解釈学的螺旋は『要約』の翻訳にも同じことが当てはまる。したがって同書を読み進めるに当たっては、個々の単語の厳密な意味の理解にこだわるのではなく、この一冊の本もまた本来の理解の対象である「全体」の「一部」に過ぎないことに常に自覚的であることが不可欠となる。『要約』を読む目的は、「一目で」そして「一息に」全体像を見渡すような読書体験を通じて『要約』に通底するロジックを「一気に」把握することにあるからである。

筆者は、6年前にイスラームに改宗したばかりの日本の大学でアラビア語を学ぶ学徒のために、アラビア語古典原文講読のテキストとして『要約』を選び1年余りをかけて通読し 、昨年(2023年)マルマラ大学神学部の山本直輝先生と共訳して公刊したが、最優先事項は、真のイスラームの知識を求める初学者にこの作品をできるだけ早くアクセスできるようにすることだった。つまり『要約』の翻訳は、イスラームの厳密な文献学的読解を目指す学究を読者として想定してではなく、イスラームに興味を有するすべての識字層の読者を念頭において行われたものなのである。

従って『要約』がその「一部」として位置付けられる「全体」の文脈を設定することは読者に委ねられている。その文脈には、宗教現象全般でも、セム系/アブラハム的一神教でも、イスラーム文明でも、スンナ派イスラームでも、より専門化された古典イスラーム文献研究でも、あるいは『要約』の元になった『イスラーム学知の革命・要約』自体であっても構わない。読書の目的を選ぶ責任はあくまでも読者自身のものなのである。


5. 解釈学的地平融合

解釈学的には、イスラームに対する私たちの理解は解釈学的循環を経て、地平線融合の途切れることのないプロセスを通じて上向きに螺旋を描く。 ただし、私たちが立っている地平線を正しく認識することなしには、実りある地平の融合 は起こり得ないことに注意することが重要だ。

19世紀の西洋の時代以降、東アジアの中国文明、アフロ・ユーラシアのイスラーム文明、東ヨーロッパのロシア正教文明を含む地球全体が、世俗主義的な近代西洋の文化植民地、西洋文明の従属文明となった。 西洋文明の 私たちは、歴史的なイスラーム文明の多くの要素を共有し続けている一方で、政治、経済、教育、文化制度などのさまざまな領域でその覇権の下にいる。 すなわち、私たちは現代西洋文明と伝統的なイスラーム文明の両方からの二重の疎外を経験しているのである。

実際、疎外感は単なる客観的事実ではなく、主観的に認めるのが苦痛なトラウマ的経験でもある。 しかし、私たちの人生を解釈学的螺旋と地平融合の場として考えるならば、疎外はむしろ新たな真実の開示の機会として積極的に見ることができる。

翻訳理論では、元の言語を「ソース言語」と呼び、翻訳された言語を「ターゲット言語」と呼ぶ。 クルアーンの日本語翻訳の場合、「原文言語」は古典アラビア語、「訳文言語」は現代日本語となる。 本稿では、文化解釈学において解釈される文化を「ソース文化」、その中で解釈される文化を「ターゲット文化」と呼ぼう。

最初の段階では、私たちが生まれ育った幼少期の母語や、初等・中等教育で学んだ語彙のネットワークからなる「ターゲット文化」の中で、さまざまな「ソース文化」を解釈する。

気が付いた時には我々は国家に登録された家族の子供である。 次いで国家の管理する学校に通う子どもたちには、定められた学齢に達すると、国家が定めた国語あるいは公用語で書かれた教科書が与えられ、定められた学区で固定の人数のクラスに配置され、国家によって任用された教員によって定められた国家が定めたカリキュラムを教えられる。それが私たちの「ターゲット文化」である。

国家も国語も学校も住民登録も家庭裁判所も法定通貨も存在しない時代に預言者ムハンマドの信奉者たちがどのようにしてシャリーアの知識を獲得したのかを理解するための最初のステップとしては、我々は「ソース文化」に自分の先行理解を投影するしかない。「ターゲット文化」となる現代アラブ世界では、初等教育は「タルビヤ(tarbīyah)」、中等教育および高等教育は「タアリーム(ta‘rīm)」と呼ばれる。事実「イスラーム的タルビヤ」や「イスラーム的タアリーム」などの表現が使用されており、本質的に近代西洋文化の概念を預言者の時代に押し付けている。これは完全な時代錯誤、誤解であり、よく言ってもミスリーディンであるが、その是非を問うても無意味である。なぜなら最初の段階では、それ以外のことはできないからである。

第二段階から解釈学的循環が始まる。ここで「ターゲット文化」は現代アラブ文化であるが、「ソース文化」は西欧列強による文化植民地化以前の前近代・イスラーム世界である。実際、近代以前の西洋とイスラーム世界は、ヘブライ語聖書のヘブライズムとギリシャの学問であるヘレニズムという二つの学問体系を共有する双子文明であり、学校制度などではイスラーム世界の方が進んでいた。アラブ・イスラーム文化は西洋文化に大きな影響を与えてきた。

したがって、ソース文化とターゲット文化の間の距離は近く、はるかに理解し易い。そして現時点では、アラビア語と西洋諸言語の両方で「客観的な」学術研究があり、それも参照することができる。ガザーリーの『要約』が解釈学的アプローチの最も適切な参考文献として使用できるのもこの段階である。

解釈の最初の段階では「ソース文化」の個々の概念を「ターゲット文化」のそれに類似した概念に置き換えるだけで理解できたように感じて、それで十分である。しかし次の段階では、ソース文化とターゲット文化の近似概念の正確な意味を、それぞれの意味ネットワークの文脈に戻した上で、文献学的手続きによって厳密に確定し、その微妙な差異を明らかにした上で、それぞれの分化システムの中における両概念の構造的な位置と機能を探らなければならない。

この段階では、同じ単語、たとえ類似した概念であっても、異なる歴史的文脈ではまったく異なる状況の現象である可能性があることが理解される。この段階で初めて、解釈学的地平融合が起こり、西洋近代文化を古典イスラーム文化との違いを意識して相対化し、逆に古典イスラーム文化をその意識を介して相対化し、その過程において認識主体としての二つの文明の間で「引き裂かれ」た自己の変容が生ずる。 

我々は現在、ナショナリズム、人種差別、ジンゴイズム、排外主義の蔓延から生じる分裂と紛争の増大によって加速される世界のブロック化、グローバリゼーションと様々の非国家主体の増殖による相互確証破壊理論 による拡大核抑止の向こうかによる核戦争のチキンレースによる第三次世界大戦の脅威に直面している。

私見によるとこれらの問題は、世俗主義的な現代西洋文明によって促進された「本来の自己」の存在を前提に自己と他者との差異を強調する行き過ぎたアイデンティティ・ポリティクスによって引き起こされたものである。それゆえ古典的なイスラーム研究と近代西洋に生まれた世俗主義を批判的に比較するための指針として『要約』を利用しすることで、解釈学的なアプローチを通じて、自他の相違を強調する排外主義の蔓延という現代の課題に対するイスラーム文明のあるべき対応とは何かを明晰に分析することができるのである。

実のところ、次のような疑問が生じる。数千年にわたってイスラーム文明が発展させてきた多元主義社会における多言語、多民族、多宗教の共存システムを、近代西洋文明の文化帝国主義的覇権主義に対抗するものとして、今日の国際関係においてどのようにして復活させることができるのだろうか?そしてさらにどうすればそれをムスリムと非ムスリムの双方に効果的に伝えることができるだろうか?

しかし実のところ、ガザーリーの『要約』を参照しての哲学解釈学を通じたイスラーム文明と近代世俗西洋文明の地平融合は、準備段階にすぎない。現代の危機を克服するための真のイスラーム的対応の探求は、哲学的解釈学の範囲をはるかに超えているからである。哲学解釈学は、イスラーム文明と近代西洋文明の間で引き裂かれている現在のムスリムの疎外感を癒す効果をもたらしているに過ぎない。

実際、ガザーリの『要約』の文脈で証明されているように、イスラーム文明と現代の世俗的な西洋文明を融合するために哲学解釈学を採用することは、単なる初期段階を表している。 現代の危機に対処するためのイスラーム的解決策の探求は、哲学解釈学の領域を超えている。 哲学解釈学は、イスラーム文明と西洋文明の間で引き裂かれているムスリムが経験している現在の疎外感を緩和し、トラウマからの回復を促進し、新たなスタートを切るのに役立っていますが、まだ始まりにすぎない。 私たちの前には、挑戦的で未知の道が待っている。


6.ネオ・イジュティハード

一般的なケースに適用できる規定(ḥukm)をシャリーアから演繹するにせよ、特定の実際の問題にいかに対処すべきかを問われて回答(iftā')するにせよ、現実を深く理解しその状況の中で具体的にいかに行動すべきかを考える必要がある。

我々の用語では、「現実の理解」とは、「ターゲット文化」の文脈における状況の理解に相当し、「現実を深く理解しその状況の中で具体的にいかに行動すべきかを考える」とは、すなわちクルアーンとハディースの「ソース文化」の文脈における意味が文献学的に確定できる「明文テキスト(nūṣūṣ)」を通して、「現実を深く理解しその状況の中で具体的にいかに行動すべきかを考える必要がある」とは「解釈学的地平融合」が求められることを意味する。 


既述のようにガザーリーはイスラーム研究を神への奉仕に捧げられた学問として再生させた。当時偽善的な形式主義に堕していた神学と法学にスーフィズムの精神性を吹き込み三つの学問分野を統合することでそれを達成した。そして、シャラフ・ナワウィー(Sharaf al-Dīn al-Nawawī:1277年没) の『諸目標(al-Maqāṣid)』を皮切りに、神学、法律、スーフィズムを一冊の本に纏めた初学者(ṭalabah al-'ilm)向けのイスラームのさまざまな入門書が書かれてきた。

クルアーンは一冊の書物ではあるが、論理的に順序付けられた章に編成されておらず主題毎に整理されてもいない。ましてや数百万冊のハディースは預言者ムハンマドによって書かれた本でさえなく、多くの伝達者によって記憶された預言者の記憶を聞き取り調査をした後世の学者によって収集された記録のコレクションである。そのように乱雑に並べられた膨大なハディースやクルアーンを「一目見て(d'un seul respect)」「瞬時に(tout d'un)」把握できる人間はいない。 

ガザーリーが統合した神学(uṣōl al-dīn)、法学(fiqh)、スーフィズム(taṣawwuf)の三対の教義体系は、初学者(ṭalabah al-'ilm)がシャリーアの総体を学ぶために、ウラマーが8世紀半ばから13世紀半ばまでの約5世紀にわたって切磋琢磨し地平融合を繰り返し解釈学的螺旋を昇りながら作り上げた「解釈体系」である。

しかしアイニーが生きた14-15世紀や、ガザーリーとその師のジュワイニーが生きた11-12世紀だけでなく、預言者の高弟子たちさえも神の啓示を授かった完璧な指導者である預言者ムハンマドの死後、「グルバ」つまりイスラームからの疎外を自覚していた。

ガザーリーでさえハディース学は弱かったと言われており  そして、ハディースに精通した学者ḥāfiẓ、ḥujjah、ḥākim (「ハーフィズ・ハディース」とは10万のハディースについて、その内容や伝承経路の全てについて知識を持つ者、「フッジャ」とは30万のハディースについて、その内容や伝承経路の全て、そしてその語り手の伝記情報について詳しく知る者のことであり、ハーキムとは、語り継がれているすべてのハディースについて知識を持つ者のことである)は偉大なウラマーの中でも稀であった少数だった。「たとえイスラーム学の文献がすべて失われてしまっても『イスラーム学知の革命』だけが残ればそれだけで十分である」とまで称賛された『イスラーム学知の革命』も、実のところ、神の啓示の全体に直接アクセスできずクルアーンとハディースを自分で解釈することのできない学徒のための「間に合わせ」でしかない。

私見によると、初学者がイスラームを理解するための第一歩の教材としての『革命』の重要性はまだ失われていないとしても、ウンマ(ムスリム共同体)の今日の危機に対する処方箋としてはすでに期限切れになっている。それはイスラームに関する情報が不足しているためではなく、今の時代が議論に勝ち富や名声、権力を獲得することを目的とした空虚な美辞麗句や奇を衒った詭弁、フェイクニュースがインターネット上に溢れている時代だからである。今の時代、真実は曖昧になり、何が真実なのかはもはや誰にも分からない。ジュワイニーはこのような状況を既に予見していたが、今日の現実は彼の予測を上回っている。インターネット上で質問をするだけですぐに回答が得られるこの時代に、何十年にもわたる学問の修行に勤しむ動機付けはもはや殆ど失われている。また疑わしい正体不明のWebサイトを閲覧すると、誰もが自分の好みに合った回答を見つかることができる。したがって、『要約』のような短い書物であっても、碩学の指導の下で忍耐強く読み切る学徒は稀である。

したがって、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが「梯子の上に登ったなら、梯子を捨てなければならない」(Tractatus Logico-Philosophicus:6.54) (Tractatus Logico-Philosophicus:6.54)と言ったように、ムスリム知識人、特に若い世代は、ガザーリーの『要約』を読み終えれば、それを捨て去り、未知の新たな段階に足を踏み入れなかればならない。この新しい段階を「ネオ・イジュティハード」と呼ぼう。

スンナ派イスラーム法学の一般的な見解によれば、既成の法学派の方法論に束縛されず、クルアーンとハディースを独自に解釈できる「無条件のムジュタヒド(mujtahid muṭlaq)」はもはや存在しない。しかしイブン・タイミーヤ(1328 年没)が『シャリーアによる政治(al-Siyāsah al-Shar‘īyah)』の結語で述べているように、すべてのムスリムはこの世で啓示の命令を実現するために自分の能力と知識の限りを尽くして努力しなければならないという意味で、イジュティハードを義務付けられている。

法学で概説されているイジュティハードの資格を満たしていないにもかかわらず、私たちは、スンナ派だけでなくシーア派のハディースも含む何百万ものハディースのテキストにインターネット上で容易にアクセスできる時代に生まれ合わせた以上、私たちはイブン・タイミーヤが述べた意味でのイジュティハードを行う使命があるのである。

そしてそれを実践するためには、(1)私たちが実際に住んでいる現代の世俗主義的な西洋文化の「ターゲット文化」を理解し、(2)ソース言語である古典アラビア語でクルアーンとハディースが語っていることが、我々が住んでいるこの世界で何を行うことを求めているのかをターゲット言語の適切な表現に置き換えて理解し、(3)その理解した内容を「ターゲット文化」の若い世代の共感を呼ぶ最も適切な形で伝える表現方法を理解しなければならない。

ネオ・イジュティハードの解釈学的なアプローチでは、イブン・カイイムが述べているように 、「ソース文化」から「ターゲット文化」への翻訳は弁証法的であり、解釈学的螺旋となる。 ここで強調しなければならないのは、たとえこの解釈学的アプローチが弁証法的であっても、最も重要なことは「ターゲット文化」の理解であり、特に現代の危機への対応においては、未来を担う若者の「ターゲット文化」の理解であるということである。彼らの心に響く言葉で語りかけるすことが重要なのである。 なぜなら、クルアーンやハディース、イスラーム学の古典を自由自在に引用しどれほど雄弁に滔々と論じたて、高尚な説教を行おうとも、彼らの心に届かなければ、それは単なる衒学趣味の自己満足に過ぎないからである。


7.結論に代えて

したがって、イスラームの解釈学的理解を達成するには、まず我々が永遠で不変の強固な基盤の上に立っているという幻想を払拭する必要がある。これは、本質主義者がしばしば抱く誤解だ。既に引用した「イスラームは奇妙なものとして始まり、また奇妙なものとして始まった姿に戻るだろう。奇妙な者たちに幸あれ」と「大食漢どもが呼びかけあって大盆に群がってくるように、諸民族があなたたちを貪ろうと呼びかけあうようになる」との二つのハディースがこの自覚への手がかりを提供する。

預言者の地平と我々自身の地平の違いの認識に基づいて求められる地平の融合は、現代の西洋文明をヒステリックに拒絶するものでも、無批判に受け入れるものでもない。それは「叡智は信仰者の迷いラクダである。それゆえそれを見つけた者がそれに最も権利がある」(『ティルミズィーのスンナ集成』)と「ある民族の真似をする者はその者の仲間である」(『アブー・ダーウードのスンナ集成』)の二つのハディースのバランスを考慮して行われなければならないが、イスラーム学の標準的な古典である『要約』は参照するのに最も相応しい参考文献と言えよう。

しかし中庸のバランスは確かに重要だが、近代西洋文明と衰退したイスラーム文明との間の安易な妥協を決して伴うべきではない。地球規模の人類生存の危機に対処し、異なる文明間の公平な共存を促進する新たな多元的国際秩序を生み出すには、人間の理解を超えこれまで何人も思いつかなかった真に独創的なイジュティハード、「目に見えず、耳に聞こえず、人の心に思い浮かぶことがないもの(mā lā ‛ayn ra'at wa-lā udhn sami’at wa-lā khaṭara ‛alā qalb bashar)」(ブハーリー正伝承が収録するハディース)が求められる。我々の若者たちの中に、未だ姿を現していないヒジュラ暦15世紀の「革新者(mujaddid)」(「革新者/ムジャッディド」とは、イスラーム暦の変わり目に現れ、イスラーム共同体を刷新すると言われる改革者を意味する) を見出す洞察を主が我々に授け給いますように。

したがって、この「ネオ・イジュティハード」の段階において最も重要なことは若者の「ターゲット文化」を理解し、彼らの心に響く方法で話しかけることである。筆者がラノベの形でイスラームの入門書『俺の妹がカリフなわけがない!』(晶文社2020年)を書いた理由は、それが今では東アジアの若者だけでなく、西洋、中東、中央アジアのムスリムの若者にとっても「ビルドゥングスロマン(教養小説)」、生きる指針、成熟の為のロールモデルとなっているからである。(「トルコの若者は『心臓を捧げよ』と話しかけてくる…イスラーム圏で日本アニメが愛されている納得の理由」『プレジデントオンライン』(2024年1月16日)参照。https://news.infoseek.co.jp/article/president_77566/)

筆者は現在、その続編でムハンマド・ブン・ハサン・シャイバーニー(ハナフィー派法学者:805年没)の『大スィヤルの書』とフーゴー・グロティウス(オランダの国際法学者1645 年没)の『戦争と平和の法』の比較によって、異なる文明、帝国、国家間の正義に基づく多元国際社会の共存の原理と規則からなる「真の国際法」とは何かを提示する『愛紗と学ぶイスラーム国際法』を執筆中である。同書が若い同胞たちのネオ・イジュティハードの呼び水となりますように神佑を祈り筆を擱く。


2024年6月14日金曜日

「アフガニスタンの政治的および経済的障害に対処するモスクワ フォーマットの戦略的重要性」 The Afghanistan official voice June 7, 2024

 「アフガニスタンの政治的および経済的障害に対処するモスクワ フォーマットの戦略的重要性」

The Afghanistan official voice

 June 7, 2024 - 6:09 pm


モスクワ フォーマットは、アフガニスタンと地域諸国が直面する複雑な問題に対処するために設計された強力な外交プラットフォームです。2017 年に設立され、その目標は、地域の大国と関係国を 1 つの傘の下に集め、アフガニスタンと地域の安定、安全、発展を促進することを目的とした対話、理解、議論に参加することです。


このフォーマットは、対話と相互理解を通じて地域協力を強化し、複雑な問題を解決する効果的なメカニズムとして機能し、アフガニスタンに多くの利益をもたらします。これらの利益には以下が含まれます。


地域協力: モスクワ フォーマットは、アフガニスタンとその近隣諸国が直面している多面的な課題に取り組む上での地域協力の重要性を強調しています。ロシア、中国、インド、パキスタン、イラン、アフガニスタンを含む中央アジア諸国間の包括的な議論につながる環境を提供します。これらの地域諸国の懸念と利益が考慮されるように努力し、それによって平和、安全、安定のための協力のレベルと有効性を高めます。


安全保障協力: モスクワ フォーマットは、平和と安定の確保、麻薬密売との闘い、その他の安全保障上の懸念への対処における地域協力を促進します。安全保障と諜報情報を収集して共有することで、これらの問題に対処するための効果的で実行可能な戦略の開発が可能になり、それによって地域諸国の安定化に貢献します。


経済開発と人道支援: モスクワ フォーマットは、アフガニスタンの人道的および開発上のニーズを特定します。援助が効率的に集められ、アフガニスタンの困窮者に届くように、共同協力を促進します。さらに、経済分野では、モスクワ フォーマットは経済開発イニシアチブ、インフラ再建、投資を促進し、それによってアフガニスタンの長期的な成長と経済的安定を支援します。


外交的関与: モスクワ フォーマットへの参加は、アフガニスタンの地域および国際大国との外交的関与を強化します。これは、近隣諸国、地域諸国、および世界諸国とのアフガニスタンの外交関係の強化に貢献し、平和と開発の取り組みに対する国際的支援を確保します。


多面的アプローチ: モスクワ フォーマットは、関係するすべての国と大国の利益と懸念が考慮されることを保証します。この包括的なアプローチは、アフガニスタンの課題の解決を促進し、バランスの取れた開発をサポートします。


能力構築: モスクワ フォーマットを通じて、アフガニスタンは能力構築イニシアチブの恩恵を受けます。地域協力は、アフガニスタンのさまざまな機関の能力と専門的能力を高め、安全保障、統治、開発問題を効果的に管理します。


国際的支援の強化: モスクワ フォーマットは、アフガニスタンに対する国際的な注目と支援を引き付けるのに役立ちます。このようなプラットフォームでアフガニスタンの課題、問題、ニーズを強調することで、復興と開発の取り組みのための追加リソースを動員し、政治的意志に大きな影響を与えます。


戦略的ソリューション: モスクワ フォーマットは対話と協力を重視しているため、アフガニスタンの課題に対する持続可能な解決策につながる環境が生まれ、それによって同国の長期的な平和と安定の確立に役立ちます。


モスクワ フォーマットは、地域協力とアフガニスタンのさまざまな課題への対処に最適な環境を提供します。安全保障協力を強化し、経済発展を促進し、地政学的利益のバランスをとることで、このフォーマットはアフガニスタンの安定と繁栄を促進する上で重要な役割を果たします。モスクワ・フォーマットは、継続的な取り組みと共同協力を通じて、アフガニスタンを進歩、繁栄、自立へと導く上で極めて重要な役割を果たしています。


終わり。

The Afghanistan official voice

 June 7, 2024 - 6:09 pm

Strategic Significance of the Moscow Format in Addressing Afghanistan’s Political and Economic Obstacles

By: H.N The Moscow Format is a robust diplomatic platform designed to address the intricate issues faced by Afghanistan and regional countries. Established in 2017, its goal is to bring regional powers and involved nations under one umbrella to engage in dialogue, understanding, and discussions aimed at fostering stability, security, and development in Afghanistan and […]



By: H.N


The Moscow Format is a robust diplomatic platform designed to address the intricate issues faced by Afghanistan and regional countries. Established in 2017, its goal is to bring regional powers and involved nations under one umbrella to engage in dialogue, understanding, and discussions aimed at fostering stability, security, and development in Afghanistan and the region.


This format serves as an effective mechanism for enhancing regional cooperation and resolving complex issues through dialogue and mutual understanding, yielding numerous benefits for Afghanistan. Some of these benefits include:


Regional Cooperation: The Moscow Format underscores the importance of regional collaboration in tackling the multifaceted challenges facing Afghanistan and its neighboring countries. It provides an environment conducive to comprehensive discussions among Central Asian nations, including Russia, China, India, Pakistan, Iran, and Afghanistan. Efforts are made to ensure that the concerns and interests of these regional countries are considered, thereby enhancing the level and efficacy of cooperation for peace, security, and stability.


Security Cooperation: The Moscow Format facilitates regional collaboration in ensuring peace and stability, combating drug trafficking, and addressing other security concerns. By gathering and sharing security and intelligence information, it enables the development of effective and implementable strategies to address these issues, thereby contributing to the stabilization of regional countries.


Economic Development and Humanitarian Assistance: The Moscow Format identifies Afghanistan’s humanitarian and developmental needs. It promotes joint cooperation to ensure that aid is collected efficiently and reaches those in need in Afghanistan. In addition, in the economic sphere, the Moscow Format fosters economic development initiatives, infrastructure reconstruction, and investment, thereby supporting Afghanistan’s long-term growth and economic stability.


Diplomatic Engagement: Participation in the Moscow Format enhances Afghanistan’s diplomatic engagement with regional and international powers. This contributes to strengthening Afghanistan’s diplomatic relations with neighboring, regional, and global countries, and secures international support for peace and development efforts.


Multifaceted Approach: The Moscow Format ensures that the interests and concerns of all involved countries and powers are considered. This comprehensive approach facilitates the resolution of Afghanistan’s challenges and supports balanced development.


Capacity Building: Through the Moscow Format, Afghanistan benefits from capacity-building initiatives. Regional cooperation enhances the capabilities and professional competence of various institutions in Afghanistan to effectively manage security, governance, and developmental affairs.


Increased International Support: The Moscow Format helps attract international attention and support for Afghanistan. By highlighting Afghanistan’s challenges, issues, and needs on such a platform, it mobilizes additional resources for reconstruction and development efforts and significantly influences political will.


Strategic Solution: The Moscow Format’s emphasis on dialogue and cooperation creates environment conducive for sustainable solutions to Afghanistan’s challenges, thereby aiding in the establishment of long-term peace and stability in the country.


The Moscow Format provides an optimal environment for regional cooperation and addressing various challenges in Afghanistan. By enhancing security cooperation, promoting economic development, and balancing geopolitical interests, this format plays a crucial role in advancing Afghanistan’s stability and prosperity. Through sustained commitment and joint cooperation, the Moscow Format plays a pivotal role in leading Afghanistan towards progress, prosperity and self-reliance.


End.



「アフガニスタンに焦点を当てた会議への参加は条件付きであるべき」2024年6月11日『アフガニスタン公報(The Afghanistan official Voice)』

 

 

『アフガニスタン公報(The Afghanistan official Voice)』

2024年6月11日

ファルーク・ガルジー

「アフガニスタンに焦点を当てた会議への参加は条件付きであるべき」


第6回「モスクワ・フォーマット」会議が昨日テヘランで開催された。会議にはロシア、中国、イラン、パキスタンが参加し、アフガニスタン・イスラム首長国にも招待状が送られた。しかし、アフガニスタン・イスラム首長国は、自国の事情を考慮し、会議への参加を見送った。この不参加の決定は重要である。

最初に断っておくと、今回の不参加はイランや他の特定の国に対する不満によるものではない。むしろ、我々はアフガニスタンに関する国際的な集まりにはアフガニスタンの代表が参加すべきだと考えている。

会議ではアフガニスタンの内政、国民、政府がどうあるべきかについて有意義な議題設定がなされることが決定的に重要であったので、我々アフガニスタン当局は、参加するか否かを決める前に、会議のアジェンダを事前に知らされているべきであった。ところが念ながら今回の会議の開催にあたって我々アフガン人が蚊帳の外に置かれ、結果的に我々の要望を無視して決議がなされることになっていたのは誠に遺憾であった。

アフガニスタンの代表団の主張に耳を傾けず、挙国一致内閣の樹立や女性の権利のような偏った内政問題だけをクローズアップするなら、それは逆効果であり、有害ですらある。アフガニスタンの旧政権の残党の領袖たちは、外国勢力と密約を結んで売国奴となって政財界に返り咲こうとせず、粘り強いアフガニスタン国民の希望、願望、願望に配慮し、本当に国益にかなう経済問題についての議論に見返りを求めず無条件に参加し、問題解決に協力しなくてはならない。

これまでアフガニスタン国民無数の苦難を耐え、命を落とし、家を失い、そして国から追われ、多くの犠牲を払いながらも艱難辛苦を耐え忍んでいくつもの超大国の介入を撥ね退けてきた。それゆえアフガニスタン国民は価値観、信仰、国益においていかなる譲歩も妥協もしないことを知らねばならない。

しかしそれを理解せず、「モスクワフォーマット」の開催諸国が、我々アフガン人に圧力をかけるための道具として会合を開くかのような威圧的なそぶりを見せるなら、我々はそのような理不尽な会合に参加することはない。これが我々が今回の会合に不参加を決めた理由である。



“Participation in Afghanistan-focused conferences should be conditional”

The Afghanistan Official Voice 

Published : June 11, 2024 - 8:28 am

Author : Farooq Ghalji


The 6th “Moscow Format” meeting took place in Tehran yesterday. The meeting was attended by Russia, China, Iran, and Pakistan, with an invitation extended to the Islamic Emirate of Afghanistan. However, the Islamic Emirate, considering its own circumstances, decided not to participate in the meeting.

It is important to note that the decision not to attend the assembly is not directed against Iran or any other country. Rather, it reflects the Afghan perspective that any international gathering concerning Afghanistan should involve Afghan representation.

Afghan authorities should have access to the meeting’s agenda before making a decision to participate, as it is crucial to ensure that discussions focus on issues relevant to Afghanistan’s internal affairs, its people, and its system. It is unfortunate when Afghan voices are not given an opportunity to be heard, and their requests are disregarded in the resulting resolutions.

If a meeting predominantly centers around topics such as forming an inclusive government in Afghanistan, women’s rights, and other internal matters, while the input of the Afghan delegation is not valued, it becomes counterproductive and even detrimental. Afghanistan has endured immense suffering and sacrifices for its independence.

The Afghan people have endured countless hardships, sacrificing their lives, homes, and country while resisting the interventions of various superpowers. Therefore, it is crucial to ensure that the values, beliefs, and national interests of the Afghan nation are not compromised. Afghan leaders should not engage in secretive conspiracies with external forces or disregard the wishes, desires, and aspirations of the resilient Afghan people. Instead, they should openly engage in discussions related to economic matters and collaborate on issues that truly benefit Afghanistan.

However, if Afghans perceive a gathering as a means to exert pressure on them, then the Afghan government and people reserve the right to decide for their non-participation.


2021年11月13日土曜日

アンドリュー・H・ワトキンス著「タリバンの復権から3ヵ月後の評価」 (CTC SENTINEL第14巻第9号) 序文仮訳

タリバン政権の3ヵ月後の評価

(CTC SENTINEL第14巻第9号)

著者

アンドリュー・H・ワトキンス

要旨:過去10年間にタリバンの影の統治が浸透し、軍事的・政治的な勢いが増しているにもかかわらず、復活したイスラーム首長国の最初の3カ月間は、国家の統治の担当に苦労していることが明らかになった。タリバンは、政権掌握に専念し、脅威には迅速かつ厳しく対応してきた。彼らは国家の管轄や構造を明確に定義しておらず、2021年8月15日以前と同じように活動を続けている多くのメンバーたちに長期的な計画を知らせていない。タリバンの指導者たちは、内部の結束を維持することが引き続き重要であると考えている。これはタリバンの昔からの特徴であり、差し迫ったアフガニスタンの経済的・人道的危機への対応の障害となる可能性が高い。

2021年8月15日、春先に開始された激しい軍事作戦でアフガニスタンの大部分を制圧した後、アシュラフ・ガニー政権指導部と実質的にすべての治安部隊が姿を消ししたカブールに、タリバンは進軍しほぼ無血で同日中に入城した 。(注1)

欧米が支援するイスラーム共和国の崩壊は迅速かつ広範囲に及び、米国やその他の同盟国が混乱した避難を完了するために奔走している間にも、タリバンは直ちにその空白に踏み込んだ。

ある意味では、タリバンは自分たちの幹部たちや戦闘員を、手早く新設の政府に押し込んだ。タリバンは2カ月足らずの間に、国内に残っているほとんどの政治指導者から忠誠を誓うか、少なくとも黙認のジェスチャーを引き出し、暫定政府(あるいはそのように見せかけた政府)の閣僚を任命し、都市部では厳しいく強圧的だが概ね秩序ある新しい治安体制を確立し、国境をしっかりと管理し、経済的苦難を考慮して税関を設定した。周辺国との地域内域外交を行い、山岳地帯の州で起きた抵抗運動を迅速かつ冷徹に鎮圧し、イスラーム国ホラーサン(ISK)支部に対する戦闘や、多くの元治安当局者への報復など、治安上の課題を根絶するために多くの資源を投入した。  (注2)

しかし多くの点で、タリバンの意思決定は、指導者たちの協議と合意形成による時間のかかる保守的なものであることが明らかになった。それは彼らの武装闘争が長続きした原動力であったが、全国規模での責任ある迅速で効率的な統治には妨げにもなる(注3)。 

政権復帰後もタリバンの行動の多くは、彼らがそうではないと主張したり、観察者が不和の証拠だと指摘したりする行為であっても、タリバンを特徴づける目標や原則に基づいている。

1)タリバンは、組織レベルでも個人レベルでも、脅威の認識に基づいて行動している。20年以上にわたって抵抗運動を存続発展させるためには、潜在的な脅威を常に認識し、解決する必要があった。脅威を特定し、狙いを定め、排除するか、懐柔することは、昔も今もほとんどのタリバンのメンバーたちの中心的な仕事である。

2) タリバンの指導者たちが政策を議論したり、戦略的な行動を決定したりするときには、内部の結束力を維持することを優先し、それを確実にするような選択をしてきたという一貫した実績がある 。(注4) 派閥による権力争い、若い戦闘員の間での過激化した意見、ISKによるイデオロギー的な挑戦、技術者の能力不足にもかかわらず、政権を取ってからのタリバンは、抵抗運動であった時期に育んできた結束力を今のところ維持することができている。しかし、アフガニスタンの民衆に大きな犠牲を強い、飢えた民衆を遠ざけたり、近代国家を維持するのに十分な資金を確保できなかったりするリスクを冒してでも、内部分裂を防ぐことを最優先しようとの決意によって、あらゆる場面で意思決定がなされてきた。

3)最後に、イスラーム共和国の崩壊とタリバンの全国制覇があまりに早かったため、8月15日の時点ではタリバンはまだ不安定で、国内の掌握には更に努力を要すると考えられていたことが忘れられがちである。

政権を握ってからの3ヶ月間、この反体制組織は、自分たちが倒した国家とあまり変わらない近代国家の輪郭に沿って機能し始めようと、あるいはそうする気がない/できない場合には、少なくとも機能しているように見せようと奔走している。(注5) タリバンの各層のメンバーや戦闘員たちは、ジャーナリストやアフガニスタンの人々に、この国の問題を解決するには時間がかかると繰り返し語ってきた 。(注6)このような能力不足のために、タリバンは多くの点で戦時中のデフォルトのスタイルや作戦モードに戻り、民間人に厳しい制限を加え、場合によっては人権侵害、誘拐、殺害を行っている 。(注7)

本稿では、この最初の3カ月間の出来事を、ガバナンスと安全保障に焦点を当てて検証する。第1章では、タリバンがカブールに侵入した後の政権交代を検証する。第2章では、タリバンが権力を固めていく過程での、タリバンの統治の主要な目標と原則を明らかにする。第3章では、タリバンの政府形成と統治スタイルを詳細に検討する。第4章では、「イスラーム国」の挑戦にどう対応したかなど、安全保障に対するタリバンのこれまでの取り組みを評価する。第5章では、過去3カ月間に同グループが課した社会的制約、「イスラーム国」との関係にどう対応したか、女性の教育問題への取り組み方など、タリバンによる社会サービスの提供について検討し、最後に、結論を述べる。

筆者は、8月15日以降、アフガニスタンの複数の地域に残っていた数十人のアフガニスタン人や外国人に遠隔地でインタビューを行った(安全上の理由で正式なインタビューができなかった場合は、証言を得た)。本稿では、国際的なメディアやアフガニスタンのメディアの報道を引用しながら、和平交渉や政治的イデオロギーに対するタリバンの考え方や、結束力を重視してきたタリバンの長い歴史について、筆者のこれまでの研究成果を紹介する。

注:本稿では主にタリバンを単一のアクターとして捉え、そのように分析している(ただし、全体を通して派閥や個人の行動には注意を払っている)。しかしそれは、タリバンの錯綜した利害関係者、派閥、部族連合、思想潮流、家族の徒党、個人(時には国境を越えた)のネットワークの複雑さや多様性を無視したり、最小化したりすることを意図したものではない。そうではなく、この分析手法は選択は認識論的、文体的なものである。米軍や外国軍がアフガニスタンに駐留していた時期でさえ、タリバンは指導者の死を2年近くも極秘にしていた。この3ヵ月間、アフガニスタンでは多くのことが変化してきた。タリバンの様々な構成要素とそれらの間の力学に関する外部の人間の認識はしょせんは不完全で、すぐに時代遅れになる可能性が高いことは確かなのである。


(注1)反乱軍の2021年キャンペーンについては、Jonathan Schroden, “Lessons from the Collapse of Afghanistan’s Security Forces”, CTC Sentinel 14:8 (2021)参照。
(注2)  元治安当局者の標的については、Yogita Limaye, "Amid violent reprisals, Afghans fear the Taliban's 'amnesty' was empty," BBC, August 31, 2021.
(注3) このグループの意思決定の遅さは、武装抵抗勢力としてのタリバンが戦争の政治的解決を目指して米国との交渉を開始した過去2年間のほとんどの期間で目立っていた。米国およびイスラム共和国の代表者との交渉の中で、タリバンは何度も重要な場面で、指導部に持ち帰って厳しい協議をするために一時中断を要求した(そのために何度もパキスタンに戻っている)。Kathy Gannon, "Taliban leaders visit Pakistan to talk Afghan peace push," Associated Press, August 24, 2020.
(注4)Andrew Watkins, "Taliban Fragmentation: Fact, Fiction and Future," U.S. Institute of Peace, March 2020.
(注5)タリバンは、COVID-19の対応が実際には貧弱なものであったことを増幅させようとした広報キャンペーンと同様に、各州での閣僚会議や法令、活動を広報しているが、その中には包括的で持続可能なサービス提供を開始したと思われるものはほとんどない。パンデミックへの対応については、Ashley Jackson, "For the Taliban, the pandemic is a ladder," Foreign Policy, May 6, 2020.
(注6)一例として、Ayesha Tanzeem, "What's next in Afghanistan. "を参照。VOA speaks with a Taliban footsoldier," Voice of America, October 21, 2021.

2021年10月14日木曜日

試訳(Tentative translation of Speech by Minister of Foreign Affaris of Afghanistan):「アフガニスタン暫定外務大臣アミール・ハーン・ムッタキー演説 」

アフガニスタン暫定外務大臣アミール・ハーン・ムッタキー演説

   於:ドーハ・インスティテュート紛争人道研究センター 2021年10月11日

       Center for Conflict and Humanitarian Studies at Doha Institute 2021/10/11

あなた方に平安と神の慈悲と祝福がありますように

こんばんは、何よりもまず、皆さまを歓迎します

アフガニスタンに平和と安定が戻り、40年に及ぶ戦争の後、初めてアフガニスタンが単一の政治的権威の下に置かれた時に、ドーハで友人たちに会えることを、私は心から喜んでいます。

ドーハという名前は、アフガニスタンの独立と平和というテーマと結びついています。2020年2月、ここでアメリカと歴史的な協定を結んだことで、外国軍がアフガニスタンから撤退し、主権が回復し、大きな前向きの変化が生じました。

良き友スルタン・バラカト教授とその同僚の方々が、これまでもアフガニスタン問題の専門家と関係者を集めて学術会議をアレンジしてくださっているスルタン・バラカ先生と同僚の皆さまに大変感謝しています。

ご列席の皆さま。

昨年8月、アフガニスタンは重大かつ歴史的な変化を遂げました。この変化は、多くの分析や予測に反して、非常に平和的な形で展開されました。20年間にわたる正当な抵抗の後、私たちはついに、外国の干渉を受けずに独立したイスラーム政府の基礎を築くことができました。

レジスタンス運動が勝利した時には、流血と大規模な破壊が起こるのが常です。それゆえこの(平和的)展開は多くの人にとって驚きでした。しかし私たちの軍は復讐心を持たず、平和、兄弟愛、相互承認、国民の団結というメッセージを掲げてカブールに入り、長年の政治的・軍事的ライバルをも受け入れました。

当初、我々は話し合いによって納得の上でカブールに入ることを目指していましたが、旧政権のトップとその治安担当者の逃亡に伴う権力の空白が生じたため、地域のリーダーやカブールの住民から我々の軍がカブールに入り、安全を提供することを求められました。

参加者の皆さま

アフガニスタンは全世界に前向きな関係のメッセージを伝えています。我々はどの国の内政にも干渉せず、また他の国も我々の内政に干渉しないことを期待しています。アフガニスタンは、1978年以来、外国からの干渉、侵略、内戦、その他さまざまな不幸の犠牲となってきました。

私たちは、地域や世界との外交関係、そして国内での良き統治の新たな頁を開きたいと考えています。私たちは、他の国々の正当な利益と要求を十分に尊重し、その代わりに他国からの互恵的な扱いを期待しています。私たちは、アフガニスタンの不安定さと紛争が長期化した主な理由のひとつは、外国人による占領と政治体制への干渉であると考えています。もし外国人による干渉や押し付けられたモデルがなければ、平和を愛する国家としての我々アフガニスタン人は、すでにずっと前に和解し、平和と安定を手に入れていたでしょう。アフガニスタンの状況が改善された主要な原因の一つは、我々の国が政治的独立と自決権を回復したことです。

外国軍の全面撤退に先立って私もメンバーとして参加させていただいた交渉チームは、アフガニスタンの人々を代表して米国と約2年間にわたる真剣な交渉を行い、2020年2月に合意書に署名しました。ドーハ合意は、アフガニスタンからの外国軍の安全な撤退への道を開いただけでなく、アフガニスタン・イスラーム首長国と国際社会との間の前向きな関係の新たな段階を迎えたのです。

ドーハ合意は、アフガニスタンと世界、特に米国との関係を定めるための枠組みを提供しています。ドーハ合意が完全に実施されれば、アフガニスタン・イスラーム首長国と米国およびその同盟国との関係における既存のすべての障壁を取り除くことができると、私たちは信じています。そのためにも、当事者はドーハ合意の内容にコミットし続けなければなりません。

親愛なる皆さま。

先ほど申し上げたように、私たちは全世界との前向きな関係を望んでいます。私たちはバランスのとれた外交政策を信じており、バランスのとれた政治的アプローチのみがアフガニスタンを不安定な状態から救い出し、私たちの利益と世界の利益を守ることができると信じています。

また、私たちは協力と相互理解に基づく隣国、地域との前向きな関係を望んでいます。地理的な観点から言えば、アフガニスタンは地域の十字路の役割を果たしています。新政府は、アフガニスタンのこの能力を十分に活用し、地域の大きな経済変革への道を切り開く決意をしています。

アフガニスタンはイスラーム教国として、イスラーム世界の政府や国家と緊密で前向きな関係を望んでいる。アフガニスタンは、イスラーム世界の重要な一部です。また、アラブ諸国や湾岸諸国との特別な関係を望んでいます。アフガニスタンは外国の紛争に巻き込まれることを望んでおらず、すべての側との前向きな関係を望んでいます。

さらに、欧州連合(EU)の理解と積極的な関与も求めています。アフガニスタンは、戦争を終えた以上、積極的な関わりを持ちたいと考えています。新政府は、自国民が欧州に避難することを奨励したり、強制したりすることを望んでいません。そのような状況は誰の利益にもなりませんし、アフガニスタン難民がヨーロッパの負担になることも望んでいません。アフガニスタン人は、故郷であるアフガニスタンで豊かな生活を送らなければならないのです。

錚々たる参加者の皆さま。

私たちは、グローバルなレベルでの政治的多様性を信じています。思想、イデオロギー、民族、言語の違いは現存しており、この現実は認められなければなりません。

アフガニスタンという国、そしてアフガニスタン人という国民は、他の世界の国々との類似点と相違点を持っています。私たちが他者との違いを理解しているように、他者もまた私たちとの違いを理解してくれることを期待しています。アフガニスタンでは、外国からイデオロギーや政治モデルを押し付けても、成功しません。今、アフガニスタン人は、自分たちの社会的、国家的、宗教的な価値観に沿った政治体制を樹立する機会を得ており、国内での説明責任を果たすとともに、国際的な義務を果たすことができるようになっている。

アフガニスタン新政府の内閣は、国内のあらゆる地域から能力ある者が参加する管理内閣です。行政サービスの遅れを防ぐために、我々の指導者(信者たちの長:ハイバトゥッラー・アフンザダ)は暫定内閣を発表することを決めました。改革は内閣と省庁のレベルの両方で行われています。

私たち(タリバン暫定政府)の下で、前政権(アシュラフ・ガニー政権)で働いていた50万人の公務員が働いており、給料をもらっています。私たちは、前政権で働いていた公務員を一人も解雇しておらず、その能力を新イスラーム政府のために活用したいと考えています。新政府は、既存の能力を差別なく活用し、すべてのアフガニスタン人、特に若い世代が政府に参加できるようにすることを目指しています。

親愛なる同僚の皆さん。

私たちはここ数日、上級代表団の一員としてドーハに滞在し、米国をはじめとする各国の代表者と生産的な会議を行いました。これらの会合は、双方の関係にポジティブな影響を与えると信じています。

ここに改めて、戦争と抑圧の段階が終わったことをお伝えしたいと思います。アフガニスタンは国際関係の新しい段階に入っており、この新しい段階に応じて新たに必要とするものが生じます。それゆえすべての当事者は共通の利益に向けて努力すべきなのです。

最後になりましたが、長年にわたって私たちに交渉の場を与えてくださったカタール国に、改めて感謝の意を表します。また、本日、皆様の前でお話をさせていただく機会を与えてくださった私の良き友人である「紛争・人道問題研究センター所長」のバラカット教授にも感謝いたします。そして今回の会議に共に参加してくださったゲストの皆様にも感謝しています。

どうもありがとうございました。

みなさまの未来が祝福されますように。


Speech by Minister of Foreign Affaris

Director of the Center for Conflict and Humanitarian Studies at Doha Institute Prof. Sultan Barakat, Doha-based ambassadors, representatives of International Organizations and respected academics, 


Assalam o Alaikum Wa Rahmatullah wa Barakathu, 


First and foremost, I welcome you all and good evening, 


I am overjoyed that I see friends in Doha at a time when peace and stability has returned to Afghanistan and for the first time after four decades of war, Afghanistan is under the shade of a single political authority. 

The name Doha is linked with the topic of independence and peace in Afghanistan. In February 2020 when we signed a historic agreement with the United States of America right here, it resulted in foreign troops withdrawing from Afghanistan, our sovereignty being restored and a great positive change taking place. I am very thankful to Prof. Sultan Barkat and his colleagues who, from time to time, have arranged academic discussions between experts and professionals regarding issues affecting Afghanistan.

Distinguished participants, 

Afghanistan passed through a crucial and historic change last August. This change, contrary to many analyses and calculations, unfolded in a very peaceful manner. Following two decades of legitimate resistance, we were finally able to lay down the foundation of an independent Islamic government without any foreign interference. 

The development was a surprise for many because when a resistance group succeeds, bloodshed and widespread destruction naturally occur, but our forces entered Kabul sans spirit of revenge and with a message of peace, brotherhood, acceptance of one another and national unity, and we even embraced our longtime political and military rivals. 

At the beginning we sought to enter Kabul through talks and understanding, however, following a power vacuum left in the wake of the escape of the head of the former regime and his security officials, community leaders and Kabul residents solicited our forces to enter the city and provide security. 

Honorable participants, 

Afghanistan conveys a message of positive relations to the whole world. We do not want to interfere in the internal affairs of any country, and our expectation from others is also that they not interfere in our domestic affairs. Afghanistan – since the year 1978 – has been a victim of foreign interferences, invasions, civil wars and a range of other miseries. 

We want to open a new chapter of diplomatic relations with the region and the world, and good governance at home. We fully respect the legitimate interests and demands of other countries, and in return we expect reciprocal treatment from others. We believe one of the major reasons for prolonged instability and conflict in Afghanistan has been occupation and interferences in our political structure by foreigners. Had it not been for foreign interferences and imposed models, we the Afghans, as a peace-loving nation, would already have reconciled and attained peace and stability a long time ago. One of the major reasons for the current positive situation in Afghanistan is the political independence and the right of self-determination of our entire nation. 

Prior to the full withdrawal of foreign troops, our negotiating team in which I also had the honor of being a member, held almost two years of serious negotiations with the United States of America on behalf of Afghan people, culminating in signing of an agreement in February 2020. The Doha agreement not only paved the way for the safe withdrawal of foreign forces from Afghanistan, but it also opened a new chapter of positive relations between the Islamic Emirate of Afghanistan and the international community. 

The Doha agreement provides a framework in defining relations between Afghanistan with the world, and particularly with the United States of America. We believe that the complete implementation of the Doha agreement can iron out all existing barriers for relations between the Islamic Emirate of Afghanistan and the United States of America along with its allies. On this basis, parties must remain committed to the contents of the Doha agreement. 

Dear colleagues, 

As I alluded to earlier, we want positive relations with the entire world. We believe in a balanced foreign policy and we believe only balanced political approach can rescue Afghanistan from instability and also protect our interests and interests of the world. 

We also want positive relations with our neighbors and the region based on cooperation and understanding. From a geographical perspective, Afghanistan serves as a regional crossroads. The new government is determined to fully utilize this capacity of Afghanistan and to pave the way for a great regional economic transformation. 

Afghanistan, as a Muslim country, wants close and positive relations with the governments and nations of the Islamic world. Afghanistan is an important part of the Islamic world. We also want special relations with the Arab and Gulf states. Afghanistan does not want to partake in foreign conflicts, rather we want positive relations with all sides. 

Moreover, we also seek to have understanding and positive engagement with the European Union. Afghanistan wants to have positive engagement after closing the chapter of war. The new government does not want its people to be encouraged or be forced to take refuge in the Europe. Such a situation is not in the interest of anyone, nor do we want Europe to be burdened with our refugees. Afghans must have a prosperous life in their home, Afghanistan. 

Distinguished participants, 

We believe in political diversity on a global level. The differences of ideas, ideologies, ethnicities, languages is a reality, and this reality must be acknowledged. 

Afghanistan as a country, and Afghans as a nation have similarities and differences with other world nations. Just as we are able to grasp differences of others with us, our expectation is that others also grasp our differences with them. The imposition of ideologies and political models on Afghanistan from outside has not yielded results. The Afghans now have an opportunity to form a political system in line with its societal, national and religious values such that it will be accountable at home and also be able to fulfill its international obligations.

Cabinet of the new Afghan government is caretaker and qualified individuals from all parts of the country are represented. In order to prevent delay in government services, our leadership decided to declare a caretaker cabinet. Reforms are being undertaken both in the cabinet and ministerial level. 

We have five hundred thousand civil servants working and being paid by us that also used to work in the previous administration. We have not discharged any former government workers, and we want to use their capabilities for the new Islamic government. The new government seeks to utilize the existing capabilities without any discrimination and allow all Afghans specifically the young generation to partake in the political structure. 

Dear colleagues, 

We have been in Doha for the last few days as part of a high level delegation. We had productive meetings with representatives of the United States and other sides. We believe these meetings will have positive impact on the relations of both sides. 

I once again want to remind you that the phase of war and pressure has ended. Afghanistan is entering a new chapter in its relations and this new chapter has new requirements. Therefore, all parties should work towards our common interests.

To end, I again express my gratitude to the State of Qatar that has hosted our negations for many years. I would also like to thank my good friend Prof. Barakat, the Director of the Center for Conflict and Humanitarian Studies, who has provided me with the opportunity to be in your presence for a few moments today. And I am also thankful to all the guests who have participated with us in this meeting

Thank you very much, 

May you remaining time be blessed



2021年10月7日木曜日

「戦争犯罪で告発された CIAのアフガン人の代理人たちは アメリカで再出発することになった」(2021年10月6日)

 「戦争犯罪で告発された CIAのアフガン人の代理人たちは アメリカで再出発することになった」(2021年10月6日)

アンドリュー・キルティ、マシュー・コール

『インターセプト』

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%97%E3%83%88)


https://theintercept.com/2021/10/05/zero-units-cia-afghanistan-taliban/?utm_campaign=theintercept&utm_source=twitter&utm_medium=social


― CIAはゼロ部隊とその家族を優先的に避難させ、多くの弱者である米国の従業員や人権活動家を取り残した ―


2021年8月24日、アフガニスタンのカブールで、ハミド・カルザイ国際空港への入国を希望するアフガニスタン人たちは、悪名高いCIAが支援する準軍事組織「01」の戦闘員によって締め出されていた。

タリバンが8月にカブールを制圧する前、アメリカの支援を受けたアフガニスタンのコマンド部隊「ゼロユニット」は、アフガンの戦場の亡霊のような存在だった。CIAのアドバイザーとともに、彼らは恐れられ、近年ではほとんど目立たなくなっていた。

しかし、タリバンが勝利してから米軍が撤退するまでの慌ただしく激しい数週間、「01」と呼ばれるゼロ部隊に所属する戦闘員たちは、他の連携した民兵たちと合わせてNSU(National Strike Unit)と呼ばれ、アメリカ軍がハミド・カルザイ国際空港を確保するのを助けた。昼夜を問わず威嚇射撃を行い、「01」の戦闘員は、避難便に乗るために空港に入ろうとするアフガニスタン人や外国人の群衆を拘束し、捜索しようとした。同時期にタリバンの戦闘員が他の空港入口で支配権を維持しようと奮闘していたのと同じである。

8月下旬のある晩、空港の北西ゲートを警備していたアフガン「01」の司令官が、写真を撮っていたインターセプトのジャーナリストに、その戦闘機のアメリカ人ハンドラーに自分の名前を教えてほしいと頼んだ。野球帽をかぶり、腰に拳銃を下げていたそのハンドラーは、ジャーナリストが避難便で出発したいなら、すぐにそうしてくれと言った。その男は、すぐに「私の仲間」(01戦闘員のこと)を避難させると言った。そうすれば、ゲートは完全に閉じられる。アメリカ人は、01戦闘機の司令官に向かって、自分たちがこれから向かう国の国民が報道の自由を重視していることを説明した。

CIAはゼロ部隊のメンバーのアフガニスタンからの退去を優先させ、7,000人もの元隊員とその親族を飛行機で送り出したが、その一方で、弱者である数千人の元米政府・軍人、人権活動家、援助者が取り残されていた。『アルジャジーラ』が報じたところによると、NSUコマンドーは、元米政府通訳の女性が、自分と夫と3人の子供のためにそれぞれ5,000ドルを渡さない限り、空港のゲートを通過させることを拒否したという。この女性は、自分と親戚が空港でNSUのメンバーに殴られたと言っていたが、賄賂を払う余裕はなかった。米国で訓練された別の軍隊、アフガン国軍のKKA(アフガン・スペシャル・ユニット)の元隊員2人が、カブールの隠れ家で『インターセプト』に語ったところによると、彼らを避難させるための正式な努力は行われず、飛行機に乗ることができた隊員は個人的なコネでそうなったという。2人の元隊員は、空港の北西ゲートに近づいた後、01人の民兵に追い返されたという。それ以来、少なくとも4人のKKA隊員がタリバンに追われて死亡したという。

同盟国民を避難させるCIAの能力は、他の米国政府機関をはるかにしのぐものであり、この戦争におけるCIAの重要な役割を示している。ワシントン・ポスト紙によると、CIAは2万人ものアフガン人の「パートナー」とその親族を避難させており、これは米国が受け入れた6万人のアフガン人全体のほぼ3分の1にあたる。なお、CIAはコメントを求められても答えなかった。

CIAの取り組みについての報道は、ほとんどが賞賛されている。しかし、ゼロ部隊は、アフガニスタン全土で数え切れないほどの民間人を殺害した致命的な夜間襲撃で知られていた。『インターセプト』は、「01」部隊がカブール南西部のワーダック州で行った10回の襲撃を記録しており、その中で子供を含む少なくとも51人の民間人が殺害されている。「01」の任務のほとんどは、アフガニスタンの戦闘員が知っているように、少数のCIA「アドバイザー」や、米国防総省の統合特殊作戦司令部から借り受けた米国の特殊部隊が率いていた。

「米国は、戦争犯罪や深刻な人権侵害を犯した者に安全な避難場所を提供するべきではない」と、この部隊の虐待に関する報告書を執筆した『ヒューマン・ライツ・ウォッチ』のアジア部門アソシエイト・ディレクター、パトリシア・ゴスマン氏は言う。「アフガニスタンでは、これらの部隊は、略式処刑やその他の虐待を含む自分たちの行動に対して責任を負うことはなかった。米国およびこれらの部隊のメンバーを再配置する国は、到着した部隊を選別し、人権侵害に関与した可能性のある者を調査すべきである」と述べている。

この作戦を直接知る元米情報機関高官によると、このゼロ部隊のメンバーのほとんどはカタールに空輸され、そこでCIA準軍事将校がアフガニスタンの元同僚を米国に送るよう働きかけたという。

この元米高官、2人の元アフガン情報機関高官、そしてゼロ部隊の一部のメンバーと同じ米軍基地に避難してきた別のアフガン部隊の元コマンドーによると、元アフガン・コマンドーは再定住を待つ間、バージニア州とニュージャージー州の2つの基地を含む米軍基地とドイツのラムシュタイン空軍基地に収容されている。ゼロ部隊の別の少人数グループはアラブ首長国連邦にいるが、数週間以内に渡米する予定だと、元アフガン関係者の1人が「インターセプト」に語った。両元アフガン関係者は、以前ゼロ部隊に所属していて、現在は米国にいる親族と話をしたことがあるという。

ゼロ部隊は、米国政府内では「モホーク」と呼ばれていたが、CIAが管理する非正規のコマンド部隊としてスタートした。情報機関は、主にパキスタン国境近くの北部と東部にある米国の小さな前哨基地からゲリラ戦闘員として活動するチームを訓練した。このプログラムの当初の目的の多くは、CIAがパキスタンへの国境を越えた襲撃を行うことであった。

ゼロ部隊は、米国が説明責任を回避するための偽装工作を可能にするもので、ベトナム戦争時のCIAのフェニックス計画に似たところがあった。フェニックス計画では、CIAはアメリカ人指揮官が率いる南ベトナムのゲリラを中心とした地方偵察隊を作った。アフガンのゼロ部隊と同様に、PRUは情報収集とベトコン容疑者の暗殺を行った。

2010年、アフガニスタン政府はCIAと協定を結び、NSUをアフガニスタンの旧諜報機関である国家安全保障局(NDS)との共同プログラムにすることを決めた。この2人の元アフガン政府高官は『インターセプト』に、このミッションは共同で運営されたが、部隊の資金は引き続き米国政府が独占的に提供していたと語っている。この変更により、CIAは人権侵害や戦争犯罪の告発に対して、もっともらしい反証を主張することができるようになった。

しかし2019年、アフガニスタンの最上級防衛官僚であるハムドゥラ・モヒブ(当時のアフガン国家安全保障顧問)は、「01」はCIAにコントロールされていると『インターセプト』に語った。「率直に言って、彼らがどのように機能しているのか...完全には把握していません」と彼は当時語っている。「私たちは、これらの活動がどのように行われているのか、誰が関与しているのか、どのような構造になっているのかを明らかにするよう求めてきた。これらの作戦がどのように行われているのか、誰が関与しているのか、どのような構造になっているのかを明らかにするよう求めてきた。」

ジョー・バイデン大統領が1月に就任した直後、CIAはNDSに1年分の予算を与え、もうゼロ部隊を支援しないし、資金提供も継続しないと言ったと、元アフガン情報機関関係者の1人が『インターセプト』に語っている。

2021年9月6日、カブールのダウンタウンから数マイル北東に位置し、アメリカがアフガニスタンから撤退する前に中央情報局と「01」が拠点としていたイーグル・ベース内で、アメリカが支援する「01」部隊を示すスプレー・ペイントが見られる。

カブールの北東の丘の中腹にある広大なCIAと01の施設「イーグルベース」は、かつてはアメリカの最も近い同盟国以外は立ち入ることができなかった。

高速道路からは、丘の中腹に作られた射撃場と、ベージュ色の建物群に向かって蛇行する細い道路が見える。ヘリコプターの格納庫、弾薬庫、兵舎、そして戦争初期に尋問や拷問が行われていた「ソルトピット」と呼ばれるCIAのブラックサイトなどが見えた。

右派医療機関のネットワークがヒドロキシクロロキンとイベルメクチンで数百万円を稼いでいることがハッキングされたデータで明らかになった。

周囲の警備は、アフガニスタンの基準から見ても非常に厳しいものだった。高さ6フィートの土の壁の周りには溝がある。次に、コンセルティーナワイヤー、スチールケーブルでつながれた色あせた赤いボラード、さらにコンセルティーナワイヤーで覆われた高さ10フィートの泥とコンクリートの壁が続き、300フィートごとに高台の見張り台が設置されている。夜間は投光器が全周を照らしている。

2019年以前、「01」戦闘機は夜間の任務のために車両の護衛隊でイーグル基地を出発していた。ワルダック州での襲撃に「01」を同行させていたNDSの元テロ対策担当者によると、2回のワルダック州でのミッションで護送車が待ち伏せされたことで変化があったという。その後、「01」のミッションのほとんどは、アメリカのチヌーク・ヘリでワルダックに飛来するようになった。イーグル基地周辺の住民が2019年に『インターセプト』に語ったところによると、週に数回、夕刻に出発して夜明け前に戻ってくるデュアルローターのヘリコプターの独特な音を聞いたという。それ以外では、「01」の戦闘機はほとんど見られなかった。

しかし、タリバンは誰がイーグル基地を占拠しているかを知っていた。2019年7月25日、ゲートに到着した無印のトヨタ・ランドクルーザーで移動するCIA職員を狙った自爆テロが発生したと、タリバンのスポークスマン、ザビフラ・ムジャヒドが同年のインタビューで語っている。地元住民は、その日、屋敷の門で白いランドクルーザーに対して爆弾テロが行われたことを確認した。この事件はメディアの注目をほとんど集めなかった。米軍のアフガニスタン派遣部隊である「確固たる支援任務(Resolute Support Mission=RSM)」(とアフガニスタン・イスラム共和国の治安部隊(ANDSF)に対して北大西洋条約機構(NATO)が訓練・助言・支援を行う任務。これは13年間に渡って14万人が参加し2014年12月28日に完了した国際治安支援部隊(ISAF)に続く任務であり指揮官は元デルタフォース指揮官のオースティン・S・ミラー大将。なおアメリカ軍は訓練だけでなく対テロ作戦の「自由の番人作戦」を行った)。「確固たる支援任務」のスポークスマンは、『インターセプト』に対し、その日にカブールで外国軍の犠牲者が出たことは知らないと述べた。また、CIAもコメントを控えた。

この広大な施設は、8月末の米軍のアフガニスタン撤退の最終日に火災や爆発物で施設の一部が破壊されて以来、タリバンの戦闘員が占拠している。最後の米軍機がカブールを出発してから1週間後の9月初旬、「01」部隊が着用していたのと同じ虎縞模様のファティーグを黒っぽく着たタリバンの戦闘員たちが、ジャーナリストたちをイーグルベースの廃墟に案内していた。

タリバンの「バドル」313旅団は、1400年前に預言者ムハンマドがわずか313人で敵軍を制圧したとされる「バドルの戦い」にちなんで名づけられた精鋭コマンド部隊である。彼らを率いるのは、民族衣装にサングラス、手術用マスクをつけた40代の英語を話すタリバン隊員だった。

その約2週間前の8月26日の夕暮れ時、空港での自爆攻撃とその後の銃撃戦で、米軍兵士13名を含む約170名が死亡した。カブールの住民は緊張していた。夜半前に市内で大きな爆発音がした時、多くの人は2度目の攻撃があったのではないかと心配した。しかし、この爆発は制御された爆発で、弾薬庫、武器庫、車両、イーグル基地内のさまざまな施設が破壊された。CIAが放棄した後、タリバンに残したくなかった施設である。アムネスティ・インターナショナルの武器・軍事作戦担当シニア・クライシス・アドバイザーで、元米空軍爆発物処理官のブライアン・カスナーは、「インターセプト」が撮影した現場の写真を見て、「非常に性急で混乱した撤退だった」と語った。

銃弾、迫撃砲、手榴弾が、火事で破壊された弾薬庫の炭化した土台の上に散らばっていた。武器庫と思われる焼け跡には、カラシニコフ、ベルト給弾式のPKMやDShK機関銃、ロケット弾発射機、迫撃砲の筒などの銃身が拾い棒のように積み上げられていた。

寮の建物の中には、ゼロ部隊のトレードマークであるトラ柄のユニフォームがフックに掛けられ、床に散らばっていた。鉄製のロッカーには、戦術兵器のパッケージや若い家族のパスポート写真が捨てられていたが、五角形の軍章には「The Shield & Swords of Afg, NSU (01)」と書かれていた。


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