2012年3月11日日曜日

預言者・預言・啓示

「預言者・預言・啓示」
現代日本語における「預言者」、「預言」、「啓示」は、明治の開国以降の欧米諸語の訳語として定着したものであり、本来それぞれヨーロッパのユダヤ・キリスト教の伝統に基礎をおく概念である。ヨーロッパ諸語の預言者はギリシャ語の「プロフェーテース」を語源とする。「プロフェーテース」の語義は「代わりに語る者」であったが、ヘブライ語聖書(タナハ)の「預言者」の訳語となったことにより、ユダヤ・キリスト教の術語として「神の代弁者」を意味するようになった。ヘブライ語聖書において預言者を指す語としては、「見る」を意味するヘブライ語の派生形「ホーゼー(見者)」「ローエー(見者)」、神の人を意味する「イシュ・ハ・エロヒーム」、アッカド語の「ナブー(呼ぶ)」に由来する「ナービー(神に召し出された者)」があるが、後のユダヤ教・キリスト教の術語としては「ナービー」が用いられるようになる。
ヘブライ語聖書の配列では、「トーラー(律法、モーセ五書)」の後に「諸預言者」が置かれるが、そこで言う預言者たちとは、ヨシュア、サムエルなどの前期預言者とイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの後期預言者を指す。しかし、創世記ではアブラハムも「ナービー」と呼ばれており、ラビ・ユダヤ教はモーセをトーラーの作者にして、最大の預言者とみなす。またラビ・ユダヤ教においては、預言者たちの中でもモーセだけが神から直接に預言を授かった特別な存在とされ、トーラーは全てモーセが書いた神の言葉そのものとみなされ、他の預言者たちは、トーラーの内容を変更することも、それを超えた新しい教えをもたらすこともなく、彼らの預言の機能はトーラーの解説に過ぎないとされる。また預言はエズラの時代をもって終わり、その後には、ただその残響「バト・コール(声の娘)」が残るのみとされる。
新約においては、イエスを預言者と信じた民衆の存在、自らを預言者に擬したイエスの言葉が伝えられているが、イエスが単なる預言者ではなく、預言者以上のもの、神の子であることが強調されており、ヨハネがイエスの先駆けとなる預言者と位置づけられている。また使徒言行録は、預言者と呼ばれる者たちの初代教会における存在と活動を明記しているが、12使徒やパウロが預言者と呼ばれることはなく、その地位は決して高くはない。また後のキリスト教神学の中では、術語としての預言者はヘブライ語聖書における預言者たちのみを指すことになる。
近現代の西洋においては「預言者」の語はユダヤ・キリスト教の教義から離れた使用法も一般化している。古代ユダヤの預言者たちを典型とする倫理預言と、釈迦を典型とする自己救済の模範を示す模範預言を対比されたマックス・ウェーバーの預言の2類型論は有名である。
 イスラームにおいては、預言者はヘブライ語と同語根の「ナビー」であり、ムハンマドの預言者性の信仰は創造主アッラーの唯一性の信仰と相俟ってイスラームの信仰告白を構成する二柱の一つである。クルアーン中のムハンマドの称号には「預言者」と並んで、(アッラーの)使徒(ラスール)、吉報伝達者(バシール)、警告者(ナズィール)などがあるが、最も多用され、イスラーム学の術語として定着するのは、預言者と、使徒である。預言者は、アッラーからの啓示を授かった者、使徒はその啓示を民に伝える使命を授かった者、と概念上は区別されるが、歴史に名を残した預言者は全て使徒であるため、預言者と使徒は事実上同義で、ムハンマドに関しても両者は互換的に用いられる。イスラームでは、ムハンマドは最後の預言者であることは、宗派を問わず合意の成立した教義であるため、ムハンマド以降のいかなる人間に対しても決して預言者の呼称が用いられることはなく、新しい預言者の出現を説く者は背教者とみなされる。
 啓示は、より広い概念であり、ヘブライ語聖書には明白に対応する語はなく、新約ではアポカリプスが、ヨーロッパ諸語の「啓示」(英語ではリベレーション)に当るが、アポカリプスと呼ばれるものだけが啓示なわけではない。ユダヤ・キリスト教の神学においては、むしろ神は歴史の過程の中に自己を開示するものとみなされるようになる。ラビ・ユダヤ教では、歴史は何よりも先ず、神の言葉、トーラーを中核とするヘブライ語聖書において示されると考えられた。一方、キリスト教では、神の啓示とは、ヘブライ語聖書、あるいはイエスの言行録である福音書、新約などの書物ではなく、神の言葉(ロゴス)であるイエス自身であると考えられた。西洋の宗教学は、ユダヤ教・キリスト教の神秘主義思想をも啓示の一種とみなしており、また近代の西洋のユダヤ・キリスト教においては、自然の中に神の摂理を見る「自然的啓示」の思想が発展した。
 一方、クルアーンでは、「啓示」と訳されて来た言葉は、アッラーの教示である「ワフユ」である。クルアーンなどの啓典は天使ジブリールを介してアッラーから預言者に下されたものと表象される。クルアーンの中ではワフユの対象は預言者に限らないが、後のイスラーム学では預言者への啓示に限定して用いられるようになる。イスラームは、ムハンマド以降には預言者の存在を認めないが、アッラーと人間とのコミュニケーションの可能性を全否定するわけではない。術語としては、預言者ならぬ可謬の宗教者が神から授かる知は、ワフユとは別の単語、イルハーム(霊感)、カシュフ(開示)などの語によって呼び分けられる。またイスラームにおいて自然的啓示は、自然現象が、クルアーンの節と同じく、「アッラーの徴(アーヤ)」と呼ばれていることによって基礎付けられている。
F. E. Peters, The Voice, the Word, the Books: the Sacred Scripture of the Jews, Christians, and Muslims, 2007, New Jersey