2017年12月17日日曜日

第二部理論枠組:漸進戦略と圏域政治 第1章 地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ Ⅰ. 空間把握、地理認識と地図

第二部理論枠組:漸進戦略と圏域政治

第1章
地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ
1. 空間把握、地理認識と地図
 フェルナン・ブローデルは『文明史』冒頭の文章において、地理学の文明形成におけるオリジナルな貢献をイスラーム文明の例として示すために、「地図は真の物語を知らしめる」と言う 。実のところ、個人であれ、その個人からなる社会であれ、より大きい尺度の文明の集合であれ、それを支える一番の基礎は、「文明の自己認識」 となる実存意識に対応する空間-時間把握である。
 強大な文明が飛躍していくのを先導しその文明の裾野の周辺にある種の秩序を形成する社会は、歴史の舞台に登場した時点から、その影響力によってその歴史の舞台を形作り始める時期の間に、それ自身の故地から世界を認知していく。より単純な地理的環境把握からより複雑な世界把握へと直接的に発展するこの意識は、地図の上に最も具体的な形をとって現われる。戦略思考の形成に関して既に述べたように、地理学は客観的な現実であるが、地図はこの客観的現実の文明的認識過程を経た主観的形態である。天文学が科学の中心を占めた存在認識によっていくつもの文明を作り上げたバビロニア人は天空の物質との関連において地表における空間認識を構築し、イラン人は世界を互いに平等な7つの円から成る7つの領域(国)へ分け、自分達の空間を4番目の中心の円に配置した後に他の6つの円を互いに接する形でこの中心の円の周囲に配置した。
 地理に関する最初の系統立った知識は、一方ではエジプトを超えて、他方ではベロッススの現ボドルム湾の端にあるコス島(スタナコ、あるいはスタンチオ、[トルコ語名]イスタンキョイ)において紀元前640年代に設立された学校によりバビロン的知識を手中にしたギリシャ人の地理認識も、自己の文明圏を広げたことで包括的な形を採ったエーゲ海中心の認識である。世界を周囲を大洋に囲まれた平坦な円盤として認識したホメロスの世界観はギリシャの空間認識の限界をも描き出していた。世界を円柱の底面として描いたミレトスのアナクシメネス(紀元前500年代)も同様にギリシャ都市国家群の影響圏が拡散する地域をそのまま広げ続けていくという認識だった。この認識はシチリア島からカスピ海にまで達する一つの世界を思い描いていた。
 マケドニアから出発し、東へと伸びる古代文明圏を影響下に組み込んだ(多文化他宗教)混淆的な帝国を樹立したアレクサンドロス大王によって、こうした空間認識とその認識を基にした地図も変化した。 マケドニアからメソポタミア、インドとエジプトへと伸びた帝国に自分の名前を冠した都市(アレキサンドリア)の建設を戦略の支柱に据えたアレキサンダー大王は、自分自身を文明のジンテーゼの地理把握とその(空間)把握の中心概念の具象化としたのである。世界と地理の把握は、アレキサンダー大王の非常に戦略的な決定によって古代エジプト、地中海、メソポタミアの「肥沃な三日月地帯」に建設したアレキサンドリアから始まり、アレキサンダーによってメソポタミア、イラン、インドに相次いで作られたアレキサンドリアの名に由来する都市によって普及していったのである。この認識の学問的下部構造と地図測量学上の実質的な具体化もまたアレキサンドリアによって形を取った。人類のその時代までの知的遺産の蓄積が詰まったこの都市(アレキサンドリア)は、最初の地理基準(経緯度)を作ったエラトステネス(天文学者、数学者、前194年没)は、地理の認識と地図測量学に重要な新しい道を開いたストラボン(地理学者、前23年没)と、最も重要な古典的世界観形成において中心的な役割を演じたプトレマイオス(天文学者、168年没)の仕事の苗床を準備した。これらの仕事の元になった地図がアレキサンダー大王の支配領域の包摂と、その結果としてイランとインドをも地理的認識がその位置づけることになったことは、文明圏と政治的支配の関係を明瞭に示している。
 イタリヤ中部の都市国家という自己理解によって生まれたローマも拡大するにつれて、自己を中心とする空間把握を支配領域に広めていった。古典的地図において「Mare Interum(中海)」と呼ばれた地中海はローマ人にとって「Mare Nostrum(我らの海)」であった。西欧からメソポタミアへ黒海から地中海へ広がり(ローマ)帝国の戦略的脊柱を成す幹線道路は、そのネットワークにおいて「全ての道はローマに通ずる」という格言によって空間把握の中心として具体的に認識されていたのである。
 キリスト教によって変化した空間把握と地理意識の格好の例もまたアレキサンドリア出身の6世紀の人コスマス・インディコプレウステス(地理学者、没年不明)であった。古典的に知られていた地域を超えて、エチオピア、インド洋、スリランカまで旅し、キリスト教に入信して後に『キリスト教地誌』を著したコスマスの主たる目的は、聖書とキリスト教正統信仰に適合した空間認識を地理学の形式で表現することであった。世界はその時代のものとノアの洪水以前のものとの二つの部分であり、地中海と、イラン、アラブ、カスピの海と湾からなると述べるコスマスは、地表は海で囲まれており、そしてこれらの海の向こうに(Terra ultra Oceanum,海上の陸)人類が洪水の前に住んでいた地域とアダムの楽園があると主張した。
 世界は四方に東はインド人、西はケルト人、北はスキタイ人、南はエチオピア人がいると述べるコスマスは、この説明によって、一方でキリスト教の世界観に適合した空間把握、他方で、キリスト教世界を中心とする地理的認識の限界を明らかにした。 この中心を受容をこのように前に持ってこられたことで、アジアの遠くムスリムを破ってキリスト教世界を護るプレスター(司祭)ジョンと名乗る聖王が治める(キリスト教)王国があるとの伝説が出来上がった。教皇アレクサンデル3世(在位1159-81年)は1177年にこの伝説的な王に自らの書簡を託した博士を遣わせた。しかしその教学博士の使節は帰ってこず、ムスリムに敵対するモンゴル王との接触を望んだ教皇インノケンチウス世(在位1198-1226年)が派遣したドミニコ会とフランシスコ会の修道士たちが極東(元朝)に旅した後には、そのような王国が存在しないことが判明した。同じ時期にゴグとマゴグの概念をめぐって紡ぎあげられた議論は、伝説、歴史、地理の知識がいかに入り込んでいるかを示す例に満ちている。しかし、これらはみな内側から見られた連続的な要素であるが、古代ギリシャからローマとキリスト教を経た後で、植民地主義の文化に中でも「私と他者」の区別として近代地理学の認識の形をとって受け継がれた。
 イスラーム文明の歴史の舞台への登場も、ブローデルが強調したように独自の地理的諸条件に直接的に関わっていた。古代の文明圏の周辺地帯に現れたイスラームは、アレキサンダー大王の時代に生まれその後に広がった諸文明が影響しあう領域の全てを支配下におさめ、スペインからインド、中国文明圏にまで広がる地域に新しい空間認識が生まれるための土台を用意した。
 初期のイスラームの地誌学者たちは、プトレマイオスの伝統の中で(アッバース朝)カリフ・マァムーン(在位813-833年)に献呈された最初の世界地図であったようにプトレマイオスの伝統を大きく進歩させる一方で、他方でバルフ学派の中でイスラーム世界を中心とする新しい空間認識を反映し全く独自の進歩を遂げた。学派の創始者の(アブー・イスハーク・イブラーヒーム)バルヒーは『イスラームの国(Mamlakah Islam) 』の諸地域を扱った地図を作り、すべての地域に地帯の名前を与えた。この学派の重要な代表者の一人マクディスィーは地中海中心の古典的地誌学を超えて、インド洋志向の重要な作品に数えられるが、それまで未知であった地域を加えた地図を作り上げた。バルヒー学派のマッカを中心とする円形の世界の地図を発展させたこと、南北差の再定義は諸文明の「自己認識」から出発して地理的認識を発展させたことの重要な例の一つである。ビールーニーの最初の大西洋とインド洋の間の繋がりを示した地図を発展させたことは、イスラーム文明が広まった地域と空間把握の間の関係を示すこと、後のヨーロッパの旅行者たちによって発展させられた新しい地理学の理解の最初の先触れであるとの点で重要である。
 社会が中心の周辺での空間把握を発展させたもう一つの好例はトルコの地誌学である。1072年と1074年の間に書かれた『トルコ語辞典(Diwan Lughah al-Turk )』の著者マフムード・カシュガリーがトルコ語の方言の分布に則って描いた世界地図はべラサグン市を中心としてなされ、7つの川の地域がトルコ系諸部族民の定住地として識別されている。ユーラシアの遠方にあるベルサグンから、すべての古代文明が交差する地域にあるイスタンブールのオスマン帝国の時代の地誌に至る時間は、
空間把握の変化、文明の進化、世界秩序の概念の関係を明白な形で生み出した。
 1413年にアフマド・スライマーン・タンジーが作った黒海と大西洋の東岸のヨーロッパとアフリカ沿岸、イギリス(ブリテン)諸島を描いた海図は、同時に空間の地平の早い時代の反映とみなされる。オスマン帝国の地誌学の奇跡の最高峰ピール・ライースの地図は、アレキサンダー大王の文明のジンテーゼの引力圏の古代の全ての遺産がアレキサンドリアで統合されたのと同じことがオスマン帝国の黄金時代のイスタンブールでもなされたことを示している。1567年のマジャール・アリー総督の地図とほとんど同じ時期に発展させられたフマーユーン地図が含む(1)黒海とマルマラ海、(2)東地中海とエーゲ海、(3)中央地中海とアドリア海、(4)西地中海とスペイン、(5)西欧の大西洋岸とイギリス諸島、(6)エーゲ海、(7)モレアス専制公領と南イタリヤ、(8)世界、(9)ヨーロッパと北アフリカ、という9つの地域からなる地図の内容もオスマン帝国の権威がいきわたった領域をカバーしており、古代の地図の伝統を超えた豊富な内容を有する独自なものとなっている。
地球全体の認識を可能にした「地理上の発見」、資本主義の前段階である重商主義、明確な国境の中で組織化される国民国家という現象は、ヨーロッパの(国際政治)秩序の礎石を成すウエストファリア体制が次第に整っていく過程における近代西洋文明の空間認識と経済、政治認識の間の密接な関係を明るみに出す。ヨーロッパを上の中心に置くヨーロッパ中心の世界地図は、ヨーロッパ中心の商業システムとヨーロッパ型の国家形成の広まりと並行して発展したのである。

2017年11月12日日曜日

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨
2017年11月11日 イベントバー・エデン     
 中田考(同志社大学客員教授)

1.「フトゥーワ」
「フルースィーヤ馬術」≒「ムルーアおとこらしさ」≒「フトゥーワ若々しさ」
騎手、男性、若者という特定の集団に特有の気質、倫理、理想像などを表す語になった。
イブン・カイイム(1350年没)『ムハンマドのフルースィーヤ(騎士道)』(注)
「フルースィーヤと勇敢さには二種類ある。最も完全なものは宗教と信仰の持ち主のものであり、もう一つは全ての勇者に共通するものである。本書はムハンマドのシャリーアに適った騎士道について纏めたものであるが、それは心と身体を共に捧げる最高の崇拝の形態であり、その徒を慈悲深き御方(アッラー)のための戦いに駆り立て、楽園の最上階に導くのである」
2.スラミー
アブドゥッラフマーン・スラミー(1021年没)
ニーシャープールで活躍した高名なハディース学者であり、イスラーム思想史上初めてスーフィーの立場からクルアーンの注釈書を書いた。多くの弟子を育てたが、中でも有名なのは同じニーシャープール出身の古典教科書『クシャイリーの書簡』の著者クシャイリー。
3.スーフィズムとは
スラミー『スーフィズムについての序論』
「(スーフィズムの要件)現世における禁欲、念神(ズィクル)と崇拝の励行、人々に依存しないこと、僅かな飲食や衣服で満足すること、貧しい者たちの世話、煩悩の滅却、勤行(ムジャーハダ)、謙抑(ワラウ)、常に志を高くもつこと、最小限しか食べず必要なことだけを話し睡魔に襲われた時だけ眠ること、自己反省、被造物(人間)から遠ざかり疎遠になること、導師たち(マシャーイフ)の拝顔、モスクで時間を過ごすこと、粗衣の着用」

(注)勇気は人間の性格の中の高貴な性格の一つであり、以下の四つの形で結実する。(1)果敢であるべきところでの果敢さ、(2)自重すべきところでの自重、(3)堅忍であるべきところでの堅忍、(4)転身すべきところでの転身。その逆は勇気の瑕疵であるが、それは臆病、無分別、軽薄、放心である。そして見識と勇気を兼ね備えた男こそが、軍隊を率い戦事行政を行うことができるのである。人には、「男」、「半人前」、「なにものでもない者」の三種がある。「男」とは正しい見識と勇気を兼備した者である。・・・「半人前の男」とは、二つのうちの一つを有するが他方を持たない者であり、「なにものでもない者」とは、どちらも欠く者である。・・・    ムジャーヒド(聖戦士)には5つの特質がある。どんな軍であれそれらが揃えば、相手の多寡にかかわらず、神佑に恵まれずにはいない。第1:堅忍不抜。第2:至高なるアッラーを多く念ずること。第3:アッラーと、アッラーの使徒への服従。第4:合意があり、失敗と弱体化を招く内紛がないこと。第5:その全ての要、支、そして基礎であるもの、即ち忍耐である。これら5つの上に勝利のドームが建てられる。

2017年11月2日木曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 2章 2節 3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識


3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識
 戦略理論の欠如の重要な要素の一つは、心理的不安定の原因となるアイデンティティーと歴史意識の間の矛盾とその矛盾が戦略思想に与える影響である。既に心理学の古典となったレインの『引き裂かれた自己』がこの問題を解明する出発点になる。自我の分裂に道を開く心理的危機を究明するこの作品は、心理学以外にも利用できる多種多様な分野における危機を分析する重要な概念と方法論の道具立てを提供している。特にレインが明らかにした実存的安心と自我の関係と、「具体化された(embodied)自我」と「具体化されない(unembodied自我」を区別することで立証したクリティカルな領域、とりわけ政治の領域における多くの問題に関する我々の理解を容易にしてくれる。
 レインは、心理学的危機の根本には、個人の実存とその自我の結びつ断絶が見出されると述べ、そしてその断絶が不可避的に自我の分裂をもたらすことを解明した。自己の実存を疎外する人物は、やがて、自我の諸要素の統合性を失う一方で、他者に対しては自己を統合的に見せかける虚偽自我(false-self)の像を作り出す。内的自己(Inner self)と外的自己(embodied self)の間に裂け目が開かれると、危機は深刻化し、自分自身と外部環境の双方との間で発生する危機の迷路に入り込んでしまう。
 トルコで起きている多面的な危機もまた、内的自己と外的自己の間の分裂の所産とみなされる。共同体のレベルで、個人の実存に対応するものが、その歴史と地理の次元である。共同体が歴史と地理の次元で自己疎外を起こすと、個人が自己疎外を起こして、虚偽自我に陥るのと似ている。周知のように小学校から歴史と地理の教育に多くの時間が割かれているにもかかわらず、我々は一種の没歴史化の時代を生きている。記念日や祭日を祝うことは我々の歴史の知識を強化する代わりに、超歴史的分野への方向性に道を開いている。1998年にはトルコ共和国建国75周年、1999年にはオスマン帝国建国500周年が祝われた。しかし共和国の10周年行進曲やオスマン帝国のトルコ行進曲(mehter)は、メタ歴史的レベルでの認識を超えて、今日まで連なる我々のアイデンティティーのさまざまな全ての要素を統合する個人アイデンティティー意識と社会的全体性によって、我々は表現することができるだろうか?
 伝統の諸要素を受け入れずに、我々のアイデンティティーを偽装すれば、その対極をもたらすことになる。そして内的自己からかけ離れた虚偽自我に続き、隣接する別人たちと同一化しするうちに、ついには、「他者」、敵さえも生み出すことになる。我々の聖なるシンボルのためには戦いも辞さず、引き裂かれた自己の裂け目を埋めようとするが、歴史と地理の次元のすべてを断ち切った新たな引き裂かれた自我を生み出したことには気付くことができない。
 内的自己と外的自己の間の裂け目を覆い隠すために、安っぽい勝利に酔い、同じように安っぽい退廃に陥る。我々はサッカーの試合でのトルコの勝利に10周年行進曲に熱狂し、フィンランドに負けたことを審判の贔屓のせいにしている。それゆえ、自分たちの成功を訓練された努力の成果とみなすことも、失敗から学ぶこともできず、事実ではなく事実を超えた心理に目を向け、個人のレベルでの問題においてと同じように、自分たちの実存、つまり歴史を疎外し、また自分たちの環境、つまり地理的次元も断絶するのである。
 歴史の記憶と意識が弱い共同体は、その歴史に実存を記銘することが非常にむつかしい。歴史の方向を決める場合、主体的で活動的な共同体と、歴史の成り行きまかせの主体性を欠く受動的な共同体の間の極めて重要な違いもまた歴史的認識の型である。
 歴史の意識と記憶が深い共同体は、思いがけない勝利に浮かれることも、敗北主義に陥ることもない。歴史経験から得た情報と現実の力の配置の間に、戦略的合理性と予想に基づく有意味な関係を構築し、慎重に未来図を描くのである。歴史の意識と記憶が弱く受け身で主体性がない共同体は、取り残されるか、取るに足らない成功に酔ったり些細な失敗に落ち込んだりを繰り返す心の弱さから、戦略的決定を下すことができなくなる。それゆえいつも浮沈を経験しするが、成功も失敗も他人次第なのである。
 この観点から見ると、さかんに議題にのぼったセーブル条約の共和国建国75周年記念とオスマン帝国建国700年記念が重なったことは意味のある一致である。セーブル条約はオスマン帝国とトルコ共和国の間の「狭い海峡」である。この「狭い海峡」を我々が生き、乗り越えてきた。しかし生きてきたということは、我々がその間ずっとこの「狭い海峡」の恐怖の中で生きてきたということではなく、またこの「海峡」を乗り越えるにもずっと勝利の思い出に浸っている必要はない。
 フランス人は今日の存在を続け、戦略的計画を立てるのに、ナポレオンの勝利をずっと思い起こして勝利に酔い痴れているわけでもなければ、ナポレオンの敗北の後のフランス人の命運を握ったウィーン会議の成り行きをいつまでも気に病んでいるわけでもない。同様にドイツ人も、ビズマルクとヴィルヘルム2世によるドイツのアイデンティティーと統一を実現した帝国的勝利が今もドイツの戦略的言説の中心をなしているわけではなく、またセーブル条約が我々を陥れた「狭い海峡」にも似た「狭い海峡」に陥れたヴェルサイユ条約を、自分たちの頭上でずっと揺れているデモクレスの剣のように見なし続けているわけではない。もっと近い過去の例を取るなら、ヒットラーの華々しい軍事的勝利と、その勝利の後の全世界にドイツ民族を軽蔑させ、破壊し、呪わせた敗北を共に経験したアデナウアー、シュミット、コールのようなドイツの指導者たちが、このような勝利-敗北の振り子の不可避の振幅に一喜一憂していたなら、はたしてドイツは今日、歴史の舞台の上、歴史の流れの中で、再び重きをなす国となることができたであろうか。
 戦略意識は歴史に、戦略計画立案はその時点でのリアリティーに基づかなければならない。
我々にとってのセーブル条約の記憶と認識は、それに至る過程における我々の問題点を視野に収めた分析によって、評価を下すことができるなら、意味あるものとなる。しかし逆に我々を金縛りにし自己弁護に終始させるような心的トラウマに突き動かされていては、前に進むことはできず、新しいセーブル条約への道を開くことになるのである。物事を歴史の流れの中において見ることができるほど、我々は弱点を克服することができる。
 グローバルな、あるいは地域的な野心を持つ国家はしばしば何世紀にもわたる歴史的、地理的、文化的な土台である定数に根差していればいるほど、繰り返しダイナミックに解釈されうる長期的なビジョンを有する戦略思考に基づいた未来志向の戦略計画を立てることができる。対外的な脅威の認識については、長期的な戦略を短期的な戦術に落とし込むことができ19世紀には「太陽が沈むことがない」帝国となったイギリスには長期的で野心的な戦略があったが、力をつけた大国となったドイツがこの(イギリスの)戦略に挑戦する脅威として認識された。第二次世界大戦後、グローバルで野心的なアメリカの戦略が練り上げられたが、ソ連の脅威がこの戦略を妨げる脅威として認識されることで戦術が査定され決められた。日本には太平洋戦略、ドイツには7B(ベルリン-ブダペスト-ベルグラト-ビュクレシュ-ボアズラル-バグダト-ボンベイ)ユーラシア戦略があったが、ドイツも日本も何世紀にもわたるその遠大で野心的な戦略には短期的な脅威の認識が欠けてはいなかった。手段は変わっても、戦略の基本と優先事項は不変なのである。
 野心のある国家はその戦略に従って脅威を認識するが、主体性がなく受け身の国家は脅威の認識に左右され近視眼的な戦略を立てる。国家は、理由が何であれ、内部矛盾こそが戦略の基本であると明言している限り、その国が二度と弱体化することはありえない。
 他の国の経験からこの問題を自問すれば、この問題をより明らかに理解することができる。IRAの存在の脅威は、少なくとも3世紀にわたって、イギリスの国家戦略、軍事戦略の認識を規定してきたのではなかったか。オクラホマ連邦政府ビル爆破事件(1995年)を起こしたキリスト教原理主義白人優越主義民兵の存在を理由に、グローバルなアメリカの国家的、軍事的戦略がこの民兵たちによって再構築される必要があると言う戦略家が、アメリカでいかなる戦略研究機関に就職できるだろうか?冷戦期にドイツで活動的であった極左テロ組織は、ドイツの東西戦略の中でどう位置付けられていたのか?あるいは国家の内部矛盾を基本的な戦略の優先事項とみなしているようなら、影響力のある戦略を実効に移すことができる野心的な大国の一つになることができるだろうか?わかりやすく、我が国の歴史を例に取ろう。16世紀の「オスマン帝国の時代」を作ったオスマン帝国の大陸と海洋の戦略はこの世紀に広まった「ジェラーリーの乱」を基本とする土台で組織化されるなら、オスマン帝国のこの政界での秩序を作る主張である「世界秩序(Nizam-ı Âlem)」構想など、笑うべき非現実的なレトリック以上のものであったであろうか?
 この国の戦略を単なる一極の外敵脅威とみなす視野狭窄は、内的脅威によって認識するなら、仮想敵国を利する弱点となる。ポスト冷戦期の歴史的地理的深みを有するダイナミックなトルコの戦略の定義と実行が必要な時代に、制度的、歴史的、心理的要素によって、トルコの内部矛盾による衰退過程を説明することは、トルコ民族の全ての力を動員する共通戦略構築に対する最も深刻な障害となるのである。

2017年10月19日木曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 2章 2節 2.歴史的背景

2.歴史的背景
 このグローバルなアプローチと戦略理論の欠如の制度的弱点を生んだより深い原因は歴史的体験の蓄積の中に求められなければならない。それは歴史的体験の最も顕著な特徴の一つであるオスマン‐トルコ帝国の対外政策の伝統の帝国主義‐植民地主義的戦略を実施していないことの中に見出すことができる。 
 大国が古典的国家戦略を発展させた19世紀は、植民地の世紀だったが、この19世紀のオスマン帝国にとっての懸案は、国家の一体性の維持とこれ以上の土の喪失を防ぐことに他ならなかった。そしてこれが、国境の内部だけに限定した防衛戦略という現状維持のアプローチがやがて対外政策の慣行となるに至る端緒となったのである。大国はこの理論枠組に則った戦略に従い、国境の内側に留まり、その新しい均衡の維持に努めることになった。
 このように失われた全ての部分の後に手に残ったものが守られたことに不安、混乱、恐れ、の中に居れられた、それで国境を超えた領域との関連は切断される。トルコ行進曲の「敵から故地へ」のリフレインのノスタルジックなメロディーの両極の戦略の間で選択がなされる。絶対的な支配か、絶対的な放棄か、となり、支配権が失われた土地は直ちに放棄される一方、新しい国境は死に物狂いで防衛するようになったのである。それが、絶対的な支配と絶対的な放棄の中間の影響領域を作り上げたり、国境を国境を超えた外交によって守ったり、戦略によって同盟したり、放棄せざるをえない領土は自己の戦略に近い政治エリートに委ねたり、大国の間の紛争を利用しながら戦術的可動域を確保するような中間的戦術の余地をなくしてしまう。
 これ、オスマン帝国の衰退期の重要な例外の一つであるアブデュルハミト2世が模索した植民地政策である。アブデュルハミト2世の植民政策は(世界の)ムスリムたちに国境を超えて影響し、列強のオスマン帝国に対する浸食政策を一定程度防ぎ遅らせることができた。この理由で、アブデュルハミト2世の33年間には、93回の戦争があった他には、深刻な領土の喪失はなかったが、この中間的を放棄し、「絶対的な支配権か絶対的な放棄」政策を復活した「統一と進歩委員会(青年トルコ党)」の治世に、オスマン帝国は、大国としての存在を、とりわけその最後の支えであったバルカン-中東中軸を、わずかな間に失ったのである。
 この両極端の間の行きつ戻りつは、その結果として、オスマン-トルコ帝国の対外政策の伝統であったグローバルな戦略的地平を狭め、戦術的選択肢を減らし、近い地域に対する影響力を失い、内政における矛盾を外敵の脅威に転嫁する悪循環に陥った。尚、重要性は、対外政策の必要性、と国内政治文化の間の調和的各種多様を実現させない。それゆえ、国内政治で支配的になったイデオロギー的言説とプラグマティズムが、対外政策の必要性を棚上げしたのである。
 件のオスマン-トルコ帝国の19世紀における対外政策によって例証することができる。この時期のバルカン諸国、カフカース、中東の政治は、絶対的な支配権と絶対的な放棄の間に挟まれたこの戦術の不毛性の好例である。例えば、バルカン諸国を放棄してから後は、オスマン-トルコ帝国の対外政策の伝統におけるこの地域に対する関係は、絶対的放棄の特徴に数えられえる移民に限られることになった。豊かな天然資源を有する中東とアラブ地域を放棄してから後は、イデオロギー上の連環のある東方に背を向ける政策が実行された。シャイフ・シャーミルの(反乱の失敗の)後にカフカースがロシアに引き渡されて以降は、カルス、アルダハン、エルズルム台地の防衛が懸案となった。国際法上も議論があるモスルとキルクークの放棄の後では、この地域での完全に放棄された土への野望が、絶対的支配権を死守すべき東アナトリアに否定的な影響をあたえないように努めた。最終的(1911年)に植民地主義者に奪われたリビアの西トリポリの抵抗戦の後には、北アフリカの喪失が続くことになるこの地域に対する一方的なの関係は、50年後に共産圏に対して我々が西側の友好国であることの証としてアルジェリアのムスリム(の独立闘争)に対してフランスの植民地主義者を支持するという形で示したのである。
 バルカン諸国を放棄した後、オスマン帝国が残した文化的、政治的意味での資産の維持に十分な熱意を示さなかったように、国内の政治文化的変化の否定的な影響によって、オスマン帝国の歴史の遺産とイスラーム文化の影響を失うことに為す術がなく、特にブルガリアとギリシャでそうであった。トルコ外交の政策決定者たちは、ブルガリアでのオスマン帝国の遺産である文化の立脚点としての様々な宗教施設の抹消に対して抗議しないままに、政治文化の国境を越えての影響を及ぼすべき関係の範囲について誤った判断を下したが、その結果はジブコフ(ブルガリア総書記)時代の同化運動によって明らかになった。
 ポスト冷戦期においてもそれが続いていたことがボスニア政策において明らかになった。対外政策において影響力があった一部の政治家が、ボスニア紛争の最初の局面でイゼトベヴィッチのイスラームのアイデンティティーを嫌って、フィクレト・アブデチュのような世俗の指導者たちをトルコが支援すること望んだ。後になってアブデチュがセルビア人の側についたことがバルカン諸国のイスラームのアイデンティティー及びオスマン帝国の遺産とトルコの域内政治との間の不可避の従属関係を作り上げた。バルカン諸国で破壊された全てのモスク、解散させられた全てのイスラーム組織、文化の領域で消された全てのオスマン帝国の伝統の一つ一つが、トルコがこの地域での国境を超えた影響力の名残の礎石なのである。トルコはバルカン諸国での絶対的放棄のシンボルになった移民の政策の代わりとなるオルタナティブの中庸の政策を取らねばならない。この中庸の政策の土台となっているバルカン諸国のオスマン-イスラーム文化の存続が不可避である。特にバルカン諸国におけるオスマン臣民の子孫の二主要民族、つまりボスニア人とアルバニア人の独立国家を持とうとの試みは、その自然な同盟諸国とトルコの間にある共通の歴史的文化の絆の土台によって支えられていることが必要である。
 トルコは、バルカン諸国の政策を、バルカン戦争の悲劇の苦い記憶が織り成し冷戦のパラメーターが強化した東トラキアとイスタンブールを死守せねばならないとの心理的トラウマから解放しなくてはならない。この地域の新たな状況下での東トラキヤとイスタンブールの防衛は東トラキアをめぐる従来の同盟ではなく、バルカン諸国における国境を超えた影響下にある領域を外交的、軍事的意味で能動的な利用対象とすることを断念することによる。今日のバルカンでは地域的な規模での活動的な諸勢力が均衡状態を作り出しており、その自然な帰結としての中間的な形態を、柔軟でダイナミックに使いこなせる国々が影響力を増している。不活発で停滞した国はこの地域でのリーダーシップを失い、次第に孤立化していくのである。
 絶対的支配権‐絶対的放棄の二項対立という難題はコーカサスにおいては現実的である。実質的にはエルズルム高原の北東部分でありながら93年戦争以来現在にいたるまでカフカースにおいてはそれと似たような状態になっている。その時以来現在まで、オスマン‐トルコ帝国の対外政策の最も重要な課題は、ロシア-ソ連の拡張戦略においてアナトリアの地政学上の鍵であるエルズルム高原を南西に下ることを防ぐことである。それには、一つは失敗、他は失敗の二つの例外がある。エンヴェル・パシャ(陸軍大臣)の「アッラーフエクベル山脈の悲劇」を生み、カズム・カラベキル(1948年没、大国民議会議長)はロシア内部騒乱を見据えて実現させた活動の結果として、当時の2世紀の間で初めてコーカサスで攻勢に出てカルス・アルダハン国境周辺を取り戻し、ナフジュバン問題でも明確な保証を手にすることができた。この二つの例の帰結は、冒険と見通しのある攻勢との違いに関して、対外政策の担当者に対する重要な歴史の教訓となる。
 カズム・カラベキルによる成功は、絶対的支配権を確立しようとの大規模な軍事動員と絶対的放棄を代表する広範囲な人口移動とを調和させる政策の伝統の基礎となる柔軟性をも明らかにしている。危機的な状況を正しく認識し、時を見計らい、外交と軍事を組み合わせ、成功を収める有効な振る舞いができる。
 トルコが対コーカサス政策を長期にわたって放棄してきた最も重要な理由は、エルズルム高原の北東での影響力の回復の自信の欠如と新たな93もの戦争の悲劇を繰り返さないかとの不安に由来する弱気である。そのために、冷戦期に、NATOが策定した軍事戦略は単にエルズルム高原の南西の防衛のために設定された。拡大するロシアの同盟勢力を、コンヤ平原に至るまでに、どれほど弱体化させられるかを、計算したのである。
 トルコはこの心理的防衛機構のせいで、カフカース地方での自然の同盟者たちを強化し、ロシア人の内部矛盾を利用することに思いもよらなかった。カフカース諸国と中央アジアの問題で見られる政策の矛盾と準備不足の最も重要な原因はこの心理的欠陥である。
 トルコの対外政策策定者はこの臆病さを乗り越えてカフカースでも積極的で柔軟な攻勢が必要である。コンヤ平原へ下ることができると考えるロシアはチェチェンへの侵攻でさえ困難に直面した。これは誇大広告ではない。この状況の適切な条件の下での洞察力のある積極的な政策の成果を無視するなら、将来の東アナトリアの防衛にかかる費用は甚大になる。バルカン諸国になぞらえるなら、東トラキアとイスタンブールの防衛は、アドリア海とボスニア、東アナトリアとエルズルム防衛、北カフカースとグロズヌイから始まっているのである。
 トルコの中東政策には絶対的支配権‐絶対的放棄のジレンマと戦略計画の欠如が刻印されている。第一次世界大戦後、中東との政治‐文化‐戦略的橋渡しの役割を投げ捨て、背をむける政策を取ったトルコは、この地域でのすべてのグローバルな関係を決定するパワーによる天然資源の分配過程の中で、そこでの五百年続いた(オスマン帝国の)支配権がもたらした利点を十分に活用されていない。この唯一の例外は、フランスの撤退により発生した空白と第二次世界大戦の前の混乱に巧みに乗じたアタチュルクのハタイ作戦であった。
 トルコは、中東に対して、特に経済地理的枠組において、背を向ける政策を取ることで、この地域での資源と力の分配を決めるにあたって静的パラメーターだけを勘案しており、文化的意味で疎外されたこの地域の民衆にも、政治的エリートにも十分な影響を行使することができないでいる。しかしトルコには、この地域を放棄したオスマン帝国の生き残りの知的‐政治的エリートと、その歴史的伝統、その様々な共同体の間の文化地理的同質性があり、柔軟に対応すれば、それらの長所それだけで中東に対する戦略の礎石となりうる。ダマスカスやバグダードのようなアラブの多くの大都市では最近までトルコ語で普通にコミュニケーションがとれる社会階層が存続していたのである。トルコは、この階層との良い関係による影響力と歴史的な特権を有する地域国家であるとのイメージを形成しなければ、グローバル・パワーのいくつかの中心地の中東における代表として振る舞うことで、この地域での疎外感を次第に深めていくことになる。
 この疎外が進むことでトルコは、この地域における影響力を失うと同時に南東アナトリアを防衛しなければならない現実に直面させられる。国境を超えた優位性を効果的に活用できないでいるトルコは国境とその内部での自己完結性というヨーロッパ中心主義のテーゼを押し付けられている。更に悪いことには、今日のトルコは、この地域を500年間にわたり支配してきた歴史を有するにもかかわらず、この地域にわずか50年の歴史しか持たないイスラエルの諸々の戦略を裏書きすることで、この地域にかかわる政策において域内での疎外を深めてきたのである。イスラエルがシリアに対して行っている和平においてトルコのその資源の和平の諸要因の間にある地域でのダイナミックな利害関係がどこまで柔軟な対外政策の立場を必要としたケースをまたもっと見せる。
 この対外政策の弱点の全体という氷山の水面下には、心理的準備不足、戦略理論の見通しの欠如、ダイナミックに変化する条件に適応するのに障害となる硬直した外交的言辞、国内政治文化と対外政治の間の不調和などの様々な問題が隠れている。対外政策策定者は、なによりもまず、国境を超えた戦術を生み出しそれを固持するとの心の準備があることが必要である。そしてその心の準備には、国内世論をその方向に誘導する社会心理的文化とその正当性の基盤の統合が必要である。
 そのための心理的基礎は、トルコの地政学的、文化地理的、経済地理的事実から出発する理論枠組の起点であらねばならない。現在に至るまで、欠乏を認識する戦略理論は、欠乏の克服のためには、研究機関によって政策決定者の間に健全な関係回路が形成されなければならない。この戦略を適用するにあたっては、あらゆる種類のイデオロギー的言説の狂信を逃れることが最も大切である。バルカン諸国のムスリム・マイノリティー集団を反体制派への避難所と、すべてのロシア語学習者を共産主義者のエージェントと、すべてのアラビア語話者を反政府派か、保守反動とみなすような決めつけが、さまざまな現象の解釈に無批判になされるままにされてきたことは明白である。1980年代に中東に向けての輸出増大に対してアラビア語話者の不足をきたしたトルコは、今日ではカフカースと中東との関係において、ロシア語話者とロシア研究者の不足があらゆるレベルで痛感された。ロシアとの何世紀にもわたる戦争の歴史を有する民族(共同体)に現れたロシア語話者とロシア研究者の不足は、冷戦期のトルコの政治エリートの中が感じていた不安の典型的な兆候であった。この点で、トルコは、何よりも前に、国内の治安問題を超えて、接触状態にあったすべての地域と諸共同体を分析することができ、役に立つ人材の育成が必要である。
 それは、国内政治文化と対外政策の間の再調整が必要であることの最も重要な証である。民衆を信頼しその内部から生まれた民衆文化を統合するためにその力を引き出すことができないエリートは、国境を超えたグローバルな開かれた地平に向き合うことも、国内の治安と統一を守ることもできない。それゆえ歴史的連続性の重要な証の一つである戦略的思考において、心理的要素の問題は戦略の立案の中心になるのである。

2017年10月13日金曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』 第一部 第1章 Ⅱ.戦略理論の欠如 組織的、構造的背景


Ⅱ.戦略理論の欠如

 トルコの対外政策の最も重要な弱点の一つは戦略的及び戦術的行動を首尾一貫した枠組の中で組み立てていないことである。つまり、異なる地域での戦術的行動と適合した上位の戦略を立案することにおいても、戦術を段階的に組み立てることにおいても、深刻な弱点が存在するのである。その結果、そうした戦術的行動は、分を超えると戦略的意味を帯びてしまい、国家の前を塞ぎ、可動域を狭める結果を生む。

 内的に首尾一貫した連続性を示すと同時に変化してゆく条件に順応できる戦略理論をトルコの立案には相対立するさまざまな弱点があることには、歴史的、心理的、文化的、そして組織的原因があるのである。

 

  1. 組織的、構造的背景

 戦略理論の欠如には、直接的な制度の構造上の原因が存在する。そうした(戦略立案の)営為の制度的基礎である組織には、外務省、TBMM(トルコ国民大議会)、対外政策に関わるものとしてMGK(国民安全保障会議)、参謀本部、そしてその関連省庁のようなその他の官庁、大学、学術機関、政党、そして官立、半官、独立の研究機関がある。

 対外政策の政治的、行政的責任を負う外務省は、その責任の自然な帰結としての戦略の分析、説明、オルタナティブの検討において中心的地位を占める。しかし、戦略研究、戦略形成において、良い制度を備え、豊富なリソースを有する国家においてさえ、外務省が政治的、行政的性格を有し、オルタナティブの複数の対立する理論的枠組を設定することは、否定的な影響を与えうる。対外政策を司る組織の行政的性格に由来する通常業務は、律動し、広範囲にわたる深い戦略的分析の障害になることがある。

 一方、短期の政治的成果の方が長期的な戦略的な成果よりも影響力があり重要になるのは

外交政策を担う組織の政治的次元のせいである。この状況は他の公職にも当てはまる。他方、対外政策の中核をなす優先事項の社会政治的正当性の基礎となる国家機関、戦略アプローチは、優先事項の方向性を左右するのであり、そのために思想的、合理的過程であるべき戦略理論の研究も官僚的、国家的性格を帯びることになる。それもまた単調と停滞に道を開くのである。

 戦略理論とその理論による分析は、対外政策のオルタナティブが必要である場合に対応できるだけの有益性がある。単調で形式主義の戦略分析は自己限定による不毛なループに陥る。この形式主義的アプローチをイデオロギー的枠組にしてしまうと、不毛なループ、停滞を引き起こす。

 冷戦期のアメリカとソ連の戦略の相異なる成り立ちは、そのイデオロギー的枠組の比較の最良の教材である。硬化したイデオロギー上の但しさに還元する公式な戦略分析に頼るソ連の対外政策の単調さは、異なる起源に由来するために別のシナリオが可能になったアメリカの対外政策の柔軟性に対抗できなかった。ソ連の対外政策の官僚主義的な硬直した行為は、独立研究機関、戦略分析者たちの多くの視角を包摂する様々なアプローチを検討することができ、それに従って組織的行動を取ることができたアメリカの対外政策の、多くの選択肢を有するダイナミックな行為と対照的であった。ソ連は対外政策担当者たちが行動領域を狭めているときに、アメリカの対外政策担当者は新しい行動領域とそれを実行に移す主体を容易に見出すことができていた。

 トルコの対外政策の組織面を見るなら、何よりもまず外務省を筆頭とする国家機関が、戦略研究を遂行する十分な金銭的、制度的下部構造を備えていない。外務省はその組織の貧しい資能力の範囲内で要請に応じようと務める戦略研究センターは、この地域の他の多くの同種の組織と共に、準備期間がなかったトルコは国家として、人材の点でも組織の点でも多くの限界を抱えている。意思決定過程で戦略分析が必要であると考える外務省を筆頭とする国家組織が、そ戦略分析の必要を適える手段を備えており、官僚主義的に陥らないようにそれらの間で調整がなされることが、戦略理論分析の欠如を克服するために制度的に不可欠な条件である。

 ことなる政治的優先順位を有する諸政党がさまざまな優先事項を工夫し、実行可能な対外政策のオルタナティブを発展させ、そしてそれをTBMMのプラットホームに載せるのもトルコのオルタナティブ戦略研究を積極的に多様化するための重要なリソースとなる。このためにも政党自体が決まりきった日常業務の政治を超えて、長期にわたる行動の基礎となるためには、政治と外交のある意味での学校を持つ必要がある、

 政党がその内部に長期的なパースペクティブで国政の議題を準備することができるスタッフを抱えていれば、政権が交代しても、言論と政策アプローチの伝達において政治的意思を官僚組織に容易につなぐことができる。全く準備期間を経ていない野党のスタッフが政治権力を使える立場にアクセスすることは、政治意志を官僚機構のスタッフにつなぐコミュニケーションを破壊し、きわめてデリケートな言葉と慎重な動きを要する対外政策の実行に否定的な影響を与えることがある。相異なる対外政策を有するいろいろな政党を正しく知らしめる戦略アプローチを理論化し、議会に届けることは、対外政策の国論をより理性的に正しく方向付けることができる。一部の国でみられる「影の内閣」の制度は、継続性のある戦略と政策の研究に実効性を与えることができる。

 大学と独立研究機関の政策形成への参加は、この問題における長い伝統が存在することと、この参加を継続的なものとすることを保証する下部構造と、財政支援の保証を必要とする。こうした組織の知的生産と分析力の増加は、グローバル規模の戦略を展開する国の対外政策を支える最重要要素の一つとみなされる。国際関係が急激に変化する時代において国家戦略に新地平を開くグローバルな規模と内容を有する理論枠組の構築とその枠組を補完する地位的専門領域が成立すれば、ダイナミックな諸条件に素早く適合し、突発的自体にも適切に対応する対

外政策への反映が実現する。そうして作られた対外政策の優先事項の社会政治的な正当性の基礎形成にこうした組織が貢献していることも見逃されてはならない。大学は単なる教育機関の一つではなく、同時に研究機関とも見做されており、独立の研究センターが持続的な財政支援を見出しうる環境に参加することが、対外政策の社会的組織化の下部構造を構成する。

 トルコでは、経済のボトルネックによるにせよ、人口増加圧力が教育を必要とするためにせよ、大学は研究機関としての性格から遠ざかり、次第に国民教育と就職に役立つ高等教育機関に変わってしまったことが、大学が戦略理論とその分析を継続的に遂行することを妨げている。大学の構造の中で様々な分野で専門化のために設立された諸機関が十分な資金と機関に必要な物理的下部構造を有していないことが、そのユニットの組織化を遅らせ、この領域の空洞化の進行に道を開いている。この格好の例が、EUへのフルメンバーシップを申請した1987年以来現在に至るまで、数多くのECの機関が設立されたにもかかわらず、EUの多くの分野での専門家の不足を託っていることである。

 トルコで見られる戦略理論の欠如はまた、政治学者と政治実務家の間の制度的断絶の徴とも見做される。大学と学術環境はこの種の理論的営為が不足しているだけでなく、政治実務者である官僚や外交官との橋渡しをする有効なチャンネルともなっていない。こうした理由で、マハンとスパイクマン[1]によるアメリカのグローバル戦略、ハウスホファー[2]のドイツ、マッキンダー[3]の英露の戦略に関する影響の研究に類似した対外戦略の理論‐実践関係についてのアプローチは、トルコにはまだ存在しない。最新のフクヤマ[4]とハンチントン[5]の「新世界秩序」の思想や、その理論を、アメリカの政治実務家がグローバルな紛争に対して戦略的に使用することが正当であることを支持していること、及びキッシンジャー[6]やブレジンスキー[7]のような理論‐実践について独自の経験を有した戦略理論家がプロジェクトを立案していることが、この関係がどれほど重要であるかを示している。



[1] N.J. Spykman, The Geography of the Peace, New York: Harcourt Brace, 1944.
[2] Karl Haushofer, Bausteine zur Geopolitik, Berlin, 1928, Weltmeere und Weltmëchate, Berlin, Zeitgeschichite Vertag, 1941, Geopolitik des Pazifischen Ozeans, Heidelberg, Kurt Vowinckel Vertag, 1938.
[3] H.J. Mackiner, “The Geograhical Pivot of History”, Geographical Journal, 1904/23, pp.421-442.
[4] F. Fukuyama, “The End of History?”, The National Interest, 1989/16(Summer)pp.3-18,  The End of History and the Last Man, New York, The Free press, 1992.
[5] S. Huntington, “The Clash of Civilizations”, Foreign Affairs, 1993/72(Summer), 22-49, The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, New York , Simon & Schuster, 1996. Ahmet Davutoğlu, “The Clash of Interests; An Explanation of the World (Dis)Order”, Perceptions, Journal of International Affairs, Dec, 1997-Feb. 1998, 11/4, pp.92-121.
[6] Kissinger, Diplomacy(The New World Order Reconsidered), New York, Simon & Schuster, 1994.
[7] Zbigniew Brzezinski, The Grand Chessboard: American Primacy and Its Geo-strategic Imperatives, New York, Basic Books, 1997.

2017年10月9日月曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 第二章:戦略理論 希少性とその解決 1.トルコのパワーの要素の見直し

第二章:戦略理論 希少性とその解決
1.トルコのパワーの要素の見直し
 近年ではしばしば、トルコの国際関係における正しいパワーの潜在力がどれほどの規模であるか、そしてそのパワーの潜在力が外交的視点からどれだけの規模で使用可能であるのかに関して議論がなされている。この問題における議論とアプローチは、両極端の間を行き来している。ときには静態的で場当たり的な評価によって、トルコが手に入れることができるパワーの潜在力は、実際より遥かに下のレベルで見積もられ、トルコにとって外部のパワーセンターが用意した政策を適用するように努める。また時としては逆に、トルコのパワーの定数と潜在的な変数は、新しい国際情勢における新規でダイナミックなパワーであるとの大いに楽観的な観測がなされる。
 90年代を特徴づけていた不安定な同盟関係にある国々の短期間に移り変わる行動と、対外政策における官僚主義のリスクを負わない外交の間を揺れ動き、戦術的行為が戦略的に統合されないこともまた、この問題において共通の観方が存在しないためである。「細くて長い道」で始まったEUの冒険も、「おお、入ろう、おお、入ろう」という態度と、「入らないこともある、唯一の選択肢がEUというわけではない、と人々は考えている」という考え方の間で行きつ戻りつしていた。希望に満ちて主張される「アドリア海から万里の長城まではトルコ世界である」とのスローガンは、時として中央アジア諸国さえも警戒させ弁解を要する危うさともなる。イスラーム世界に対する友愛と文化的紐帯の言葉は、東と南からやってくる脅威の認識と反対である。スローガンに過ぎない西洋への帰属と感情の籠った第三世界への帰属の間で板挟みの外交辞令は、外務大臣の気持ち次第で移り変わるものに過ぎない。
 この戦略的希少性の最も重要な原因は、対外政策の構造の主な要素としての、定数と潜在力の与件の視点の首尾一貫性のない変化によって、この与件を、魅力的な影響で、対外政策の影響に変わる戦略思考は、政治意志と戦略計画の主題における希少性である。短期間のラディカルな変化を示すことが可能でないことのために対外政策構造の定項要素である歴史、地理、文化、人口の要素の観点、政治エリート、官僚機構、平凡な市民の間の深刻な差異を示している。一つの集団が対外政策における最も重要な基礎とみなす歴史的、文化的諸要素が、別の集団からは、最も重い足枷とみなされた。(全ての当事者に)共有される視点で理解されるべきトルコの地理も深刻な差異の焦点である。またトルコが近くの圏域との統合を押し進めるべきであるとの思想と、できる限りこの圏域での影響を地域を超えて拡張し多面的に統合する必要があるという考えの間の対立もまた、もう一つの別の要素となっている。もっと客観的な人口についてさえも見解が一致しているわけではない。この点に関して、トルコの最も重要な資産である若年人口でさえ、時として最大の障害と否定的に評価されるのである。
 潜在力の与件という点でも、状況はそう違わない。政治的意思と行動に左右される短期間においてさえそれが変化することの好例は、定項与件と名付けた経済力、技術力、軍事力の最も戦略的な要素の一つであるエネルギー問題において見られる対応の不一致である。
 これらの全ての与件に著しい影響を与える政治的意思に関しても、ここ10年の政治的不安定がもたらした短期政権のせいで、大きな浮き沈みがあった。時の政権に左右される政治的意思形成は、政府外要因が入り込むことで更に複雑化する。物理力が異なる方向性に分散させられると、その客体は動くことができないか、不安定に揺れ動くしかないように、90年代のトルコの対外政策も秩序や調和からはほど遠い外見を呈していた。対外政策の優先順位における突然の変化は、戦略的連続性を著しく弱めてしまう。90年代のトルコの対外政策の連続性を示す唯一のものは外務大臣の度重なるすげ替えだけであった。それは他の要素としての戦略立案にも深甚な影響を与える。有効な戦略計画によって対外政策が大きく左右されると、内的整合性を毀損し、ひいては対外イメージをも損ねることになる。
 パワーの構成要素について今日なされている議論における最も重大な誤りは、パワーの定項のダイナミックな解釈が活発でなく、遅れていることである。イデオロギーの優先順位が、歴史と文化のパラメーターと照らして、冷戦期においては正しかった諸前提が、地理のパラメーターに照らして、静的な枠組で分析されているのである。対外政策における重大な逸脱に道を開いた静的な解釈と遅れも、元来は(パワーの)定項と潜在力を調和的に長期的な戦略的の一体性の一環として扱われなかったことの結果である。これも我々に戦略計画と政治的意思の欠如の問題に直面している。
 90年代に入って我々が採用したと称される対外政策の言説が、90年代の終わりにかけて謎のイメージの悪化を被った原因もこの戦略的一貫性の欠如である。逆に二千年代に似たようなイメージの悪化がなかったのは対外政策の主な要素に関して共通の戦略理論の基礎を形成できたからである。

2017年10月5日木曜日

エデン発表要旨「中東溶解‐呪われたクルド民族主義 ― カイロ大学の“先輩”小池百合子を語る」2017/10/3  

「中東溶解‐呪われたクルド民族主義 ― カイロ大学の“先輩”小池百合子を語る」

2017/10/3 イベントバー・エデン        同志社大学客員教授 中田考

発表要旨・資料

*中東人の発言は全て(一つの例外もなく)ポジショントーク、小池はそれを日本に。

*中東人類学者アーネスト・ゲルナー(Ernest Gellner, d.1995)のナショナリズムの定義
「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である」

*アラブの二つの定義:①アラブ人を父とする者 ②アラビア語を話す者(ムスタウラブ)
①カフターン族(南アラブ) ヤアラブ・ブン・カフターンを名祖
②アドナーン族(北アラブ) マアド・ブン・アドナーンを名祖(アブラハムの子イシュマエル[イスマーイル]を太祖) 
つまり、小池百合子はアラブ人(ムスタウラブ)

*「民族(部族、人種、語族)」概念は古来より存在。しかし現代の「nation」とは別。
古代アラブにも疑似ナショナリズム的イデオロギー存在:アサビーヤ、ジャーヒリーヤ
「世情の堕落の多くは、財貨や名声などを取って、ハッド刑を免除することから生じるのである。それはアラブやトルコやクルドの遊牧民、村落民、都市民、農民、カイスやヤマンの諸党派、定着民の指導者や名士や貧者たち、将軍や将校や兵士たちなどの堕落の最大の原因なのである。」
「血縁、郷土、人種、法学派、神秘主義教団など、イスラームとクルアーンの呼び掛けからそらすものはすべて、ジャーヒリーヤ時代の挽歌なのである。」イブン・タイミーヤ(1328年没)

*ナショナリズム:第一次世界大戦、第二次世界大戦の原因、史上最悪のイデオロギー
 イスラームはジャーヒリーヤと戦うためにもたらされた。「現代のジャーヒリーヤ」ナショナリズムこそイスラームが戦うべき対象。

*ダウトオウル『戦略的縦深』
「国際関係の中でのある国家の固有の存在感とパワー(G)に関し、こうした関心に対応する可変的な定義を発展させることができる。定数(SV)、歴史(T)、地理(C)、人口(N)、文化(K)として、変数(PV)は、経済力(Ek)、技術力(Tk)、軍事力(Ak)として定義され、一国の力をこのような形で示すことができる。
G=(SV+PV)×(SZ×SP×SI)
この定式で、SZは戦略思考、SPは戦略的計画、SIは政治的意思を意味する。
SV=T+C+N+K & PV=Ek+Tk+Ak となるので、この式を展開すると
G={(T+C+N+K)+Ek+Tk+Ak)}×(SZ×SP×SI)となる。」
国際情勢分析の3レベル:①地政学(長期)②(中期)③国際関係(短期)

*中東溶解:①シリア、②イラク、③イエメン、④湾岸諸国 (遠因:カリフ制の崩壊)
①シリア:25万人以上が死亡、総人口の約半数1千万人近くが難民化
(イラン・イラク戦争でイラン支援)
*直接の原因:1.アラブの春 2.1982年ムスリム同胞団殲滅(ハマー事件)
←1965年サイイド・クトゥブ処刑、1949年バンナー暗殺(エジプト)
(ムスリム同胞団vsアラブ社会主義 ←→ アラブ王政諸国vsアラブ社会主義諸国)
 *トルコ国境の町コバネの対IS戦いで国際テロ組織PKK(クルド労働党)の分派のクルド勢力[クルド民主統一党(PYD)人民防衛隊(YPG)]支援 ペシュメルガ協力

 ②イラク:破綻国家 内戦、難民、国家分裂(2014年イスラーム国、クルド独立)
 *直接の原因:1.湾岸戦争(1990-1年)シーア派、クルド人蜂起弾圧(米見捨てる)
  2.アメリカのイラク侵攻、サダム政権崩壊(2003年)、イラク分裂
  (2001年「9・11」→ アメリカ軍アフガニスタン侵攻タリバン政権崩壊
           → アフガニスタン破綻国家化)
  3.シーア派政権[特にマーリキー政権在位(2006-2014年)]の悪政
         (シーア派各派、サダムの治世にイランが庇護)
  4.アラブの春
   A.スンナ派弾圧→ 2014年 スンナ派反シーア強硬派イスラーム国誕生
   B.クルド自治政府予算カット→ 2017年 クルド自治政府独立国民投票

 ③イエメン:最悪の人道危機 サウジ主導のアラブ連盟軍介入以来8千人以上が死亡
       コレラ感染の疑い37万人
 *直接の原因:1.イラン・イスラーム革命 1979年 シーア派革命輸出
2.アラブの春 2012年アリー・サーリフ政権崩壊  
        3.ハーディー政権崩壊 2015年 シーア派ザイド派首都サナア制圧
          サウジ主導のアラブ連合軍サナア空爆

④湾岸諸国:サウジアラビア(世界第4位の軍事大国)「宮廷クーデター」2017年
  M.B.N皇太子廃位し、国王の息子ムハンマド・ブン・サルマン(M.B.S)新皇太子
    M.B.S 2015年国防大臣としてイエメン内戦介入
  2017年6月 カタル断交(対イラン安全保障体制としてのGCC崩壊の危機)
      2017年9月 サルマン・アウダら社会派イスラーム学者ら逮捕
      サウジアラビア:シーア派、ムスリム同胞団、ワーッハーブの全てを敵に

*クルド人は存在するのか?
 クルド人は「3千万人の人口を有する国家を持たない最大の民族」なのか???
クルマンジー語(北部クルド語)とソラニー語(南部クルド語)は互いに通じない。
*クルディスタン独立
 1.1920年 セーブル条約でクルディスタン独立承認(1923年ローザンヌ条約で反故)
 2.1946年 クルディスタン人民共和国(ソ連によってイラン北部に建国)
 3.1990-1年 湾岸戦争:アメリカはサダムフセイン政権への反乱を煽り梯子を外す
   → クルド人自治地域(1970~ ハラブジャ事件1988年)に飛行禁止地帯
   2003年クルド地域(自治)政府(KRG)
   2014年 イスラーム国台頭によるイラク政府軍撤退、KRG事実上の独立
*クルディスタン民主党(KDP)、クルディスタン愛国同盟(PUK)の対立、政治的腐敗
*2003年サダムフセイン政権崩壊直後比較的治安定のクルディスタン復興バブル
*KRGの腐敗、マーリキーとバルザーニーの対立による中央政府からの配布金カット
*2014年以降、油田地帯のキリクークを支配下においたが経済回復せず
*2017年9月26日 クルディスタン独立投票  
イラクだけでなく隣国トルコ、イランも反対 ←→ 賛成派イスラエルだけ
イラクは空路閉鎖
 *クルド人は世俗国家に賛成か?
「失われたクルド人」東アラブの近代スーフィズム覚醒運動の担い手としてのクルド人
ハーリド・バグダーディー(1827年没)
トルコ共和国成立時のシャイフ・サイードの乱(1925年)
現在のトルコのマドラサ・ネットワーク
シリア前ムフティー・アフマド・クフタロー(2014年没)
アサドの御用学者ブーティー(2013年没)

 


2017年10月2日月曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第1部 1章 3節 2.トルコのパワーのパラメーターと防衛体制

2.トルコのパワーのパラメーターと防衛体制
我々が扱う時代のトルコの他の国々の相違として、上記の定式に照らしてその防衛体制を例として説明すべきである。この防衛体制における歴史の要因は、トルコをして、現行の国際法上の国境の暫定的な影響を超えた防衛戦略を取る必要性に直面させている。オスマン帝国の歴史的、地政学的領土に生まれてその遺産を引き継ぐトルコ共和国の防衛体制は、主権を有する国境内だけに限定されて構築されることはできない。
この歴史遺産は、トルコ共和国の国境を超えた介入を必要とする事実上の状況をいつでも生み出しうる。ボスニア、コソボ紛争は、その最も印象的な例であった。バルカン諸国政策を冷戦パラメーターがもたらした二極構造の周辺に位置したNATO(北米条約機構)の枠組に組み込まれたトルコは、国境を接する隣国であるブルガリアとの関係は、(資本主義・自由主義)ブロックの内部紛争、ギリシャとの関係はブロック内の脅威とみなし、その
考えに基づいて空軍力を整備する。したがってユーゴスラヴィアの解体によって、ドラヴァ-サバ島を地政学的枢軸とするボスニア紛争、モラヴァ-ヴァルダルを地政学的中枢とするコソボ-マケドニア紛争に介入する可能性に基づいて、防衛体制を構築したのである。そしてこの紛争が起きた時、トルコの航空機がボスニア上空で滞空時間がわずか数分しかなかったことが明らかになったため、空中での燃料補給が可能な航空機の購入につながった。その教訓を踏まえると、トルコの防衛戦略は、防衛産業が有する歴史的責任を視野に入れた上で立案しなければならないことがわかる。
トルコの地理は、その防衛産業の構造に直接的に影響を与える重要な様々な要素を含んでいる。半身を三方向で海に囲まれている一方で、陸に奥行きがあるトルコの地理は、多くの国々とは逆に、海と空の防衛戦略を統合的に組み立てることによって守られる。この地理が国防上の必要事項をもその交差する領域で規定する。1964年と1967年のキプロス紛争において、海軍が必要な水陸両用車を保有していなかったことが外交政策のオプションを狭めることが明らかになったことは、その好例である。この軍事的欠陥とジョンソン書簡が海軍の体制を立て直し、トルコは1974年の上陸(キプロス軍事介入)作戦を行うことにできるようになった。この地理的要因の影響の好例は、トルコのエーゲ海政策に見ることができる。エーゲ海の3000近くの大小さまざまな島々や小島より更に小さい岩礁を保有するトルコは、そのような地理が要請する海軍の建設を必要としている。
人口急増の時代が始まったため、20世紀初頭の1500万人から20世紀末には7000万人に達し、この30~40年で人口が二倍になると予想されるトルコのこの(人材という)重要な与件を正当に評価するためには、経済力と防衛の需要、体制、構造の間に持続的で首尾一貫した関係を築く必要がある。正しい価値観を有し健全な教育を受けた国家の機動力である人口という要素は、必要とされる用意周到に準備された状況においても不安定の原因ともなり得る。トルコのような強大な人的潜在力を有し世界の最も不安定な地域の地政学的交差点に位置する国々は場当たり的な政策によっては安定しえない。
トルコの勢力均衡におけるこれらの定項を実現させる大きな可能性は、防衛体制の観点からは同時に大きなリスクでもある。このリスクを最小に減らしながら、その可能性を実行に移すことは、歴史、地理、人口のような定項と、農業、産業構造、交通、天然資源のような経済的諸要因と技術的潜在力をマッチングする戦略を立案することによって初めて可能となる。
この点において、経済発展戦略と防衛戦略の間の関係は、安定した上位戦略によって規定されねばならない。トルコは現在までそれを行わなかったことの問題に直面している。80年代までは、輸入補助制度に頼る経済発展戦略を採用していたトルコは、この戦略に適合した防衛産業(育成)戦略を発展させた。トルコにそのような連携がなかったことで、1974年に平和運動の前にキプロス問題で難局に陥ったことは、受け身の場当たり的な戦略的体制の所産であった。また経済力、技術力と防衛体制の間の緊密な関係に気づけば、それが必然的であったと付言できる。
80年代の後の輸出志向経済発展戦略を採用した時代においても、防衛(産業)部門の輸出の潜在力は十分に評価されておらず、その部門での技術革新も望ましい規模で実現されていなかった。近年では、潜水艦のような一部の製品によって、極東市場に参入を試みたのも、この不足に遅ればせながら気づいたことを示している。F-16戦闘機のアセンブリー生産の部品の一部の生産を担うようになったことを重要な一歩として評価することができるなら、国産技術の発明を付け加えるレベルでの本物の持続的な成功を成し遂げることができよう。航空機の近代化にまだ外国からの支援が必要であることを痛感したトルコが、輸入によって入手された航空機部品の近代化においても、パワーの能力の定項と変項の視点からは、(トルコより)はるかに遅れた国々にも頼らざるをえないことに気づいたことは、問題の深刻さを示していた。
トルコはポスト冷戦期に関して、まだ自前の首尾一貫した戦略を持つに至っていない。防衛産業を含んだ形での新しい戦略を立案することなしには、次第に地域性、グローバル性を増しつつある危機に即応することはできない。今日では、パワーの諸要素と戦略の立案の調整においてなされた最も重大な間違いは、パワーの定項諸要素がダイナミックに活用せず取り残されたままにされていることである。外交における重大な失策に道を開いた静的な理解とその遅れも、元はと言えば、定項と変項の諸要素を調整し統合する長期的な戦略的一体性の不在の結果であったのである。このこともまた、戦略的計画と政治意志の欠如という問題に我々を向い合せる。共同体の政治的、経済的、精神的伝統を統合する新しい戦略の構築と防衛産業を、この枠組みにおいて、パワーの定項要素をダイナミックな解釈し、パワーの変項の潜在力を起動させる形で新しく考え直すことが、基本となる出発点でなくてはならないのである。

2017年9月27日水曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』1部 1章 Ⅲ.応用分野例:防衛産業

Ⅲ.応用分野例:防衛産業
1.パワーのパラメーターと防衛産業
 国の防衛産業はその国のパワーバランスの産物でもあると同時にその重要なパラメーターでもある。この枠組において、国の防衛産業は基本的に変項の産物であると共に前記のパワーの等式の全ての要素が相互に影響する領域で生まれる。防衛産業の成り立ちは、変わらないものとして我々が扱ってきた国の歴史と対外政策の間のバランスに応じて決まる。カール大帝の神聖ローマ・ゲルマン帝国以来現在に至るまで、ヨーロッパの北から中央へと拡大していったドイツの中枢とその中枢の東ヨーロッパの草原地帯における後背地が必要とする陸地が優先的に防衛され、歴史的な遺産が防衛されてきたことは、影響がいかなる形をとるかを示す良い例である。同様にヨーロッパ大陸の政治と、グローバルな国際政治を、ユーラシア大陸を取り囲む海を支配することによって行う伝統を有するイギリスの国防が海洋を重視するのも、歴史的与件による戦略と防衛の重点化の所産である。
 歴史は、パワーの等式における定数として、国防に直接的に影響する。この点で、オスマン帝国の継承国としてのトルコ共和国は、いまだに形を変えて帝国的性格を維持し続けようとするロシアとも、そのような遺産を守る義務があるルーマニヤとも、歴史にあまり拘束されないデンマークとも、大変大きく異なる防衛戦略を取る必要がある。
 定数である地理も防衛体制や産業の発展に直接的に影響する。たとえば海に全く接しない内陸国オーストリアのような国には、海洋戦略を編み出すことも、その戦略に必要な海軍力を持つことも問題とはならない。ただ海に通ずるドナウ川でのどのようなことができるかを立案できるだけなのである。逆に数千の島からなるインドネシアは海軍を無視した陸軍重視の国防戦略では生き残ることができない。アフロユーラシア大陸と遠く海で隔てられたアメリカ大陸から世界中にヘゲモニーを行使しなければならないため、アメリカは陸海空軍を統合的に使用する特殊な戦略に対応できる独特な戦略を有することになった。機動力と兵站補給能力を有する海軍と航空母艦保有の優位は、アメリカがこの独自の地理から必要としたものなのである。
 人口は短期間には変わらない定数であり、また国防体制と産業構造に影響する要素の一つでもある。そのことは防衛産業の生産段階と、生産された武器使用の領域の双方において見いだされる。人口7千万のトルコの国防と、2百万人のアルメニアの国防では、必要とされるものは同じではない。防衛産業戦略は、経済開発戦略全体と調和する最適な比率でこの人口という要素(人材)を配分することによってこそ成果をあげられる。
 この定数の多方面にわたる影響にもかかわらず、防衛産業のあり方を直接的に決める主たる要因は、経済的、技術的、軍事的能力のような変数である。国家の歴史、地理、人口のパワーがどれだけの規模の防衛産業を必要とするとしても、それを実現する変数は、その経済の発展レベルとテクノロジーの力なのである。経済発展戦略と国防が必要とするものとを調和、統合することができない防衛産業が、経済全般の均衡と無関係に重要な発展を成し遂げることは不可能である。こうした国々はせいぜい武器の密輸ができる規模での武器の生産と輸送をする程度の国家になることができるだけである。
 重要なのは経済発展なのか、安全保障のパラメーターなのか、との議論が割れている国がその双方で一貫して目に見えた成果をあげることは大変難しい。この件で最も不経済な行動を取るのは、安全保障のパラメーターが必要とする費用を優先し、経済発展を二の次にしておきながら、その安全保障のために必要な兵器と防衛体制を全面的に輸入に頼る国々である。このような国々は、一方で、乏しい資源を経済的には利益をもたらさない兵器の購入に振り向けながら、他方で、自前の防衛産業の経済部門(育成)を疎かにしたせいで、一般的には対外債務のバランスと兵器生産の依存のような国家の経済的、軍事的脅威結果の形で見ている。逆にこの件で最も生産性が高いのはは、防衛セクターを経済の独自分野として位置づけ、そのセクターが防衛の需要に対応し、また生産した兵器、防衛体制が経済を牽引するように計画を立案する国家である。第三世界の国家はこの分類では第一の範疇に入り、先進国は第二の範疇に入り、それによって新植民地主義体制の(存続)を保証している。
 防衛産業で経済力、経済の発展水準と並んで二番目に重要な要素は技術力である。軍事的要請と経済発展、技術のイノベーションの間には、想像以上に近い関係がある。経済発展とパラレルな技術のイノベーションが軍事戦略は重要な規模で影響するが、逆の過程も同様である。多くの重要な技術的発見、イノベーションは、最初はまず軍事的要請によってなされ、この意味で防衛産業は技術的発展の機動力をなしている。アメリカの国防において使用された多くの新技術は、後に民生に転用されたが、第一次世界大戦は技術的観点からはるかに大きな重要な変化があったことが忘れられてはならない。同様に、特に飛行機産業において第二次世界大戦の継続を可能にした技術の進歩は、後に重要な技術として民生に転用されたことも事実である。
技術の裏付けなく単なる安全保障上の一時の危機的状況に強いられて国家が防衛産業に参入したとしても、短期的には生産の限界を克服できたとしても、長期的には技術の拘束性を逃れることはできない。
 国家の防衛戦略とそれに適した産業構造は、その定項が要請する最適水準と経済的、技術的、軍事的能力の間の最適のバランスの実現の下で決定されるのであるが、そのバランスの調和をその時々において適切にもたらすためには、それを動かす要因としての政治的意思と、戦略的計画立案が必要である。したがって、このきわめて多面的な与件の間の関係を可能にする主たる要因は、戦略的な計画の存在と、その計画を発展させたり実行に移す政治意志なのである。
 そのような政治意志も戦略的な計画もない行動は、人間は短期的には見かけ上の成功を収めることがあっても、長期的には国家の全体的な均衡を方向づける機動力になることない。長期的な計画の中で行為する国は、後に残る成果を積み重ねていくが、短期的な危機的状況に場当たり的に反応する国は、継続性がある戦略から逸れる定めにある。この戦略から逸脱することは、長期的には、防衛体制を腐食し、同時に対外依存をもたらす。防衛体制がこのような状態で、外国に依存する国家は、独立国家としてのぶれ、のない政治意志を有することはできない。
 長期的かつ継続性がある要素に基づいたアメリカ、ドイツ、ロシアは、その防衛産業の構造を、定項と変項といかなる規模ででも正確に適応させられることは明白である。アメリカが大陸を超えた戦略において依拠する原則は、いまだに海洋地勢学者マハンが20世紀の初めに定式化した基本法則に基づいている。この戦略的連続性と確固たる政治的権威こそが、アメリカをして、勢力均衡における定項と変項を有利に利用して世界覇権国(ヘゲモニック・グローバル・パワー)にさせた根本的な理由なのである。その逆に、仲間内での見栄の張り合いから巨額の武器を購入している富裕な中東産油国は、戦略的計画性も確固たる政治意志もない国防政策によって、武器の代わりに石油収入を言いなりに差し出す相手方の金庫のようなものになっているのである。

2017年9月19日火曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 1章 2節:人材とその戦略への影響



Ⅱ.人材とその戦略への影響
 パワーの定式においては、定数と変数は組み合わされて相互に影響する。つまり、歴史、地理、人口学的、文化的要素、そしてその他の要素の影響の合計がパワーに及ぼす影響の規模となる。そのための定式によって、すべての指標によって示されているのである。戦略思考、戦略計画、政治意志は、これらすべての要素に、わかりやすい例として大きく影響する。つまり、定数や変数にどれだけ大きな優位があるとしても、戦略的に思考せず、戦略的計画と戦略的意思を十分強く一貫して行動に移さない国家は、パワーを実現することはできない。(逆に)時にはネガティブな戦略立案と政治的意思があれば、マイナスの乗数さえ、定数と変数の総計である(国家の)パワーを減ずるという形で実現される。
 第一次世界大戦で、特に、コーカサスとパレスチナの戦線での戦略的計画の不在が道を開いた悲劇が、オスマン帝国のパワーバランスにマイナスの乗数による大いなる衰退をもたらしたことが、その分かりやすい例である。アッラーフエクベル山脈で7万人の兵士が凍死したことも、拙劣な戦略の計画が、変数としての軍隊を加速度的に弱体化させた最も明らかな例の一つである。同じ地域で数年後にカズム・カラベキル将軍がカルスとアルダハン地域を救い出した「東方作戦」は、凋落した国家の極度に弱体化した軍隊であれ、正しい一貫した戦略計画があれば通常のパワーの定式のパフォーマンスを示すことができることの良い例である。
 同様にアブデュルハミド2世の治世の政治意志を実行に移すことを可能とする外交的手段である国家の歴史と地理という定数が、加速度的な国家崩壊を(一時的に)食い込めたことは明瞭である。それとは逆に第二憲政期における政治意志の混乱は同じ定数と変数にマイナスの乗数効果を及ぼし、史上最も長く続いた国家(オスマン帝国)を終焉に導いたこともまた事実である。
 ワイマール共和国とヒトラーのドイツの間のパワーの相違も、同じ定数と変数であっても、(違って)戦略的計画に政治意志によって、いかに異なったパワーバランスに道を開くか、のもう一つの分かりやすい例である。この事実は我々の地域からの例も支持している。サウジアラビアのパワーバランスにおける最も重要な要素としての石油を中心とする経済の潜在力は、(皇太子から国王への)移行期のファイサルの治世の政治意志を伴うことで、重要なパワーの要素となったが、その後に、政治意志を欠くことにより、機能しなくなったことはだれの目にも明らかなことである。
 要約すると、国家のパワーバランスにおける重さは、定数と変数の戦略的計画と政治意志は、加速度的決定が結果的に現れた。良い戦略的計画と政治意志があること、定数と変数、弱い国に自己潜在力の上でパワーとなることを実現して、一貫性のない戦略的計画と弱い政治意志、潜在力のある国自身の基準よりもっと下がったレベルでパワーバランスを有することに道を開くことができる。
 この状況は国家の最も基本的な戦略的なパワーが人材であることを明らかにする。戦略上の定数としての地理と歴史は変えることはできない。しかしこの優秀な人材はこの地理と歴史に新しい地平を開く意味を与えることができる。(逆に)人材が劣悪であれば地理と歴史という要素が同じであっても国家は弱体化する。
 神聖ローマ‐ゲルマン帝国の内部でドイツ人がばらばらに住んでいたことは、カール大帝(814年没)以来18世紀に至るまで、歴史と地理に由来する大きな弱点であった。同じ歴史と地理の与件は、フリードリッヒ2世の手で捏ね合わせて作られたパン、ビスマルクの鉄拳の下で柱石を積み重ねた建物、ヴィルヘルム2世の手でグローバルなパワーとなった。この伝統から無敵の紋章を引き出したヒトラーは同じ地理と歴史を悪用したために大破滅を招くことになった。こうした例は大規模な戦略を展開するすべての共同体に見いだされる。
 歴史と地理に反する戦略の変数の間に場を得る経済発展は、技術的、軍事的能力は、直接的に人的要素の質と力にかかっている。質が高い、高等教育を受けた、民族の目標を体現する人材は、廃墟からでも偉大な経済を復興することができる。ドイツと日本が第二次世界大戦後に成し遂げた経済発展、アメリカの1929年の大恐慌を克服することで示したパフォーマンスは、人材と民族の戦略的団結の関係の最も分かりやすい例である。莫大な天然資源の潜在力を有する中東諸国が、その潜在力を戦略的パワーに変換できない主たる原因は、人材の欠如、あるいは良質の人材が政治制度によって戦略目標を正しく具体化できる計画に沿って組織されていないことである。
 トルコの戦略方針における最も良い例もまた人材に関わるものである。トルコは歴史と地理の与件とそれらの与件の活用を可能にする文化的下部構造の観点からは、グローバルな戦略を展開する多くの国々を羨ましがらせる蓄積を有している。しかし、それだけでは十分ではない。これらの戦略的パワーを構成しうる全ての要素も、それをダイナミックに意味づけし、変転する国際情勢に適応させ、相対立するパワーの諸要素を調整することができる牽引力があり視野の広い人材を欠くならば、これら全ての潜在力から動力を引き出すことはできないのである。こうした牽引力のある人材が存在する場合でさえ、その人材と政治制度による戦略的選好との間に調和的な理解と正当性の共有関係が成り立たないと、その有能な人材も、不適切な職場で能力を発揮できずに無駄骨を折らされることになる。
 国家の戦略的な開放性の最もデリケートで重要な要素は、制度の中枢の政治意志と社会の指導的市民の人材の間の正当性(meşruiet)共有関係である。現代において頻繁に用いられる慣用表現で言うと、「深遠な国家には深遠な国民がいる」のである。国民の深遠に達せず、その深みにおいて共有された価値システムに由来する霊的一体性を発現させることができない国家の深遠性は、粗暴なパワーになり下がるほかないのである。
 人材と政治システムの間の正当性共有関係の最も重要な点は、信頼関係である。人材の信頼をかちえることができない国家は戦略的地平を開拓することも、社会の潜在力を動機づける戦術的目標を設定することも、その戦術的目標に適した手段を正しいタイミングで実行することもできない。同様に、国家の意思決定メカニズムから疎外された人材は戦略の立案者となることも、その一翼を担うこともできない。戦略的パワーは、そのパワーを実現することができる人材を信頼することで、真の実存を獲得するのである。

2017年9月10日日曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』 第一部 1章 1節 4項:戦略計画と政治意志


4.戦略計画と政治意志

 戦略思考と戦略計画の間には、内容‐形式の関係が存在する。与件が決定する戦略思考の内容は、その潜在項を合理的な筋書きに整序する戦略的計画によって理解できるように造形される。著名な軍略学者カール・フォン・クラウゼビッツ(1831年没)は戦術と戦略の間の関係を「戦術は、兵力を戦争のために使用する技法、戦略は戦争を最終的な平和のために使用する技法である」と定義している。どのような兵力が、どんな小さな戦争で、どのような規模で使用されたかは、それらの戦争の結末の平和が何を目的にしているかを明らかにすることで確定することができる。これは両面的関係である。戦略の方針を決める軍団が互いに無関係な小競り合いで単発的な勝利を収めても、最終的な平和をもたらすことにはならない。同じく、理論的な戦略的方針と共に、その一部をなす戦闘の戦術を有さない軍団が成功することも可能ではない。

 外交においても事情はそうは異ならない。ただ最終目的に到達するための手段が違うだけである。戦術に従事する人間たちを一つの方針の中で纏めあげることは、時間が経つと戦略方針を大きく変えることにも繋がる。なぜなら戦術にかかわる人間を任命する外交官たち自身が戦術にかかわる人間を戦略上の駒として見始めるからである。自分が指揮する戦闘を、平和に向けての戦略全体と同一視する将官が、最終的な平和に関して軍の戦略においてどれほど誤った方針に道を開くか、自分の戦術的選好を国家の外交の中心に据える外交官も同じように深刻な過失を犯す。オスマン帝国軍が第一次世界大戦において多方面で戦果をあげながらも最終的には敗北したことは、その最も良い例である。自らの戦略的方針が定まらなかったため、オスマン帝国軍をドイツの戦略に追随させた(オスマン帝国の)軍事/外交的指導者たちが、その戦略の一貫性を失って以来、戦況はオスマン帝国に不利になっていった。

 特に一時的で経済的利害に基づいているような同盟関係において、短期的戦術が決定的であるようなダイナミックな勢力均衡が成り立っている状況で成功するための最も重要な条件は、長期的戦略と短期的戦術の均衡のとれた組み合わせである。あらゆる種類の変化に対応して勢力均衡を実現できる戦略的目的を短期、即決の戦術に落とし込めることができる国家が発展するのである。それは意思決定において、外交関係を絶対化せず、千変万化の戦略目的の選択にあたって柔軟でありながら右往左往しないことが必要なのである。そのように活動できる国家は、長期的な勢力均衡を実現する上で有利になっていく。冷戦終了後の僅かな間、アメリカ一極構造なった国際関係は、今日では加速度的に(再び)勢力均衡の諸特性を示し始めているようだ。前もってその準備があった地域大国は、多くの選択肢を有する政策と、柔軟な外交に舵を切ることができた。

 このような状況では、こうした戦術を完全に指揮下において、軍事/外交のユニットを自在に操縦する戦略の政治的意思がなければ、戦術的勝利をいくら積み重ねても戦争に最終的勝利を手にすることはできない。国家の安全保障とその未来に開ける地平は、国際関係のスケジュール立案、交渉プロセスにおける心理的優位、イニシアチブのパワーによって測られる。未来に関わる地平は、縦深性を有する国家の政治的指導者たちは、決定した議題の跡ではない。逆に議題の彼らの手で片付くった、そしてこの形の受信、これはその国家に第三国の関係においてさえ効果ある要素になる。

 政治的意思の不十分さによって、対外政策を危機的状況の浮沈の流れに任せ、スケジュール計画を受け入れることができない国家は、他者からの提案を示されての場当たりの反応によって矛盾し混迷の状況に陥る。この種の国家の政治的エリートたちは、依って立つべき歴史もなく、目指すべき地平もなく、大胆でなく決然としておらず、臆病で受け身である「解決のために私はいる。」は大胆さではない。危険なところには私はいない。」防御に熟練した心理の中でふるまう。

 この個性のないエリートたちは、危機的時代に前線に踊り出る決断的人間ではなく、覚悟もなく、イニシアチブを取らないことが条件となる。国々を世界管理計画の議題で役立つようにしておくことは、新たな責任を負うために受動的であることが安全で危険がない政策と見做す。議題を決定した後で舞台に出て交渉のテーブルの端に連なるようにあがく。目立つことから逃げる。しかし一旦、列車に乗り遅れるとの不安に襲われると、あわてふためいてどんな怪しい関係であれもぐりこもうとする。現象の中心にいれば安全であると思うのでもなく、傍観者であることにも満足しない。問題の中心に直接関わる責任から逃れる道を探しながらも、蚊帳の外に置かれると、中心に一歩でも近づくためなら、なんでも代わりに差し出そうとする気紛れである。行動と期待がもたらす責任から逃げることと、放置されないできることの間で行きつ戻りつし、おどおどと落ち着くことがない。

 チェスの駒を操る棋士なのか、それともチェスの駒なのか、己が何者なのか謎なままの矛盾を彼らは抱えている。駒を操る棋士として踏み出す一歩の結果は恐れるが、他人が操る駒となることにも甘んじられない。駒でもなく、ゲームでもなく、棋士でもなければよかったのに、と考えて混乱し、最も強い棋士の陰に隠れることが最も安全であると自己暗示をかけるのである。その後には、そのゲームは、最強の棋士たちが操る盤上(の前線)の歩兵が戦争のカギとなる。歩兵は戦争での小さな勝利を勝ち誇り、桂馬、女王、王が盤上(の前線)にないという理由で自分の弱さをごまかそうとした。ゲームのルールを変え、自分の力(弱さ)を思い出させるすべてのものを恐れる。危険を予防して、自己の潜在力を隠して、他の者たちが有する本当リアルパワーの流れに合わせて泳ぐほうがより安全だと考える。自己の歴史と地理の広大な地平で真摯に利害を考量し決断的に行為するより、他者の戦略の陰で右顧左眄することを選ぶのである。彼らが有しているのは、歴史の伝統ではない「請求書」、地理が有する戦略的潜在力とも資産でもないグレートゲームに捧げられた掛け金なのである。

2017年9月4日月曜日

ダウトオウル著『戦略的縦深』第一部 1章 1節 3項:戦略思考、文化的アイデンティティー


3.戦略思考、文化的アイデンティティー
 共同体の戦略思考とは、文化的、心理学的、宗教的、社会的価値世界も含む歴史的伝統とこの伝統が作り反映される地理的生活領域の共同産物としての意識と、その共同体が世界の上でいかなる位置を占めるかについての観方の決定の産物である。この観点からは、思考と戦略の関係は、地理的与件に関わる空間把握と歴史意識に関わる時間把握が交差する領域に生成する。異なる共同体が異なる戦略的視点を有することは、本来この異なる場所と時間の次元による世界観の産物である。
 共同体自体の地理的位置を枢軸とする空間把握と、自己の歴史的経験を枢軸とする時間把握は、方針と対外政策策形成に影響する思考の下部構造を作る。民族の昔からの政治的一体性は、移ろいゆく個々人から成る社会よりもずっと安定した過程の産物としての長い歴史の事象の積み重ねの一体性を受け入れるなら、その戦略思考が政治プロセスの中でアイデンティティー意識を主張することと、不断に更新される一時だけの仮象の政治的浮き沈みを共に超えた連続性を示していることを我々は知ることができる。
 たとえばドイツの戦略的発想は、神聖ローマ・ゲルマン帝国の起源に遡り9世紀にわたる歴史的経験の、近代国民国家が哲学的基礎、歴史的現実性、イデオロギー的下部構造を備える19世紀に至るまで伸びた歴史意識の所産である。この(歴史)意識は、中世の封建的/宗教的伝統と近代世俗/イデオロギー的伝統の諸要素とを共に含む。ヘーゲルによるドイツ意識の歴史的起源を明らかにする歴史的解釈とヒトラーの第三帝国の概念の間にある平行関係はこの戦略的発想の継続性から生まれた。
 同じように正教に基づくロシア帝国と無神論に基づくソビエト連邦共和国の戦略上の優先事項の間の平行関係と継続性も、共同体の戦略が歴史や地理のような与件によってどの程度まで決定されていたかを示す指標である。ロシアのアイデンティティーが普遍的イデオロギーとしての社会主義であったにもかかわらず、冷戦期に急進マルクス主義が取ることになった新しい民族主義的潮流の中でも自己の政治的アイデンティティーを再設定して存続できたことは、この戦略思考が継続していた結果である。政治的キャリアを、社会主義者として始めたミロセヴィッチがポスト冷戦期に急進的な人種主義者に変わったスラブ民族主義のリーダーになったこともその例である。
 我々自身の歴史から例を挙げるならば、セユートで勢力があったトルコマン人が建国した小侯国(ベイリク)から始めて時を経て、古代から場を占めてきた文明の圏域全体に広まり、人類史上最も多様、混交的、複合的な政治構造体の一つにオスマン朝を進化させた主たる要素も、その政治的下部構造を織りなす時空意識なのであった。この戦略思考がオスマン朝の伝統のパワーと、この伝統のパワーが作るオスマン体制(オスマンの平和;パクス・オスマニカ)の安定を実現させた。過去に遡る「万古の」という概念も、未来を規定する「不滅の国家」という概念も、この戦略的思考を作り上げる歴史とアイデンティティー意識を反映している。
 オスマン朝の解体過程も、トルコ共和国の樹立から今日に至るまで直面してきた国際問題の中で現れた最も重要な緊張の領域も、この連続する戦略意識のさまざまな要素と国際的パワーバランスの間の差が生んだ心理的緊張と、この緊張のアイデンティティー意識の上に、トラウマとしての影響を及ぼしている。この視点から、オスマン‐トルコ戦略意識の主なもろもろの要素のうちで継続するものと変化するものを改めてこの視点から議論することは、我々が直面しなければならない最も重要な例の一つである。
 アイデンティティーと時空意識を歴史的伝統と目前の現実の枠組において再構成することが、歴史の中での存在し、人類の伝統を守ることができるための必須条件である。戦略思考なしには、翻弄されるばかりである。戦略思考を有し、その戦略思考を変更条件に応じて新しい概念、手段、形式によって再生産できる共同体は、国際的パワーのパラメーターを操作することができる。この逆に、戦略思考を急に破却することでアイデンティティーを失った共同体は、自らの歴史的実存を危険に晒し、他の共同体を操るべき対象としかみなさいことで人間性の理念を見失い自己疎外に陥る。

2017年8月29日火曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 1章 1節 2項:潜在的定項:経済、技術、軍事力

2.潜在的定項:経済、技術、軍事力
 国家の潜在的定項とは、国家の潜在力を短期的、中期的に利用する能力の諸要素である。経済的資源、技術的下部構造、軍備が、諸国間の勢力均衡における可変的要素である。これらの可変的諸要素が外交政策に有効に調整された形で組み込まれれば、国際的勢力均衡の中でその国の地位を高めることができる。逆に、これらの要素が適切な計画で十分機能的に再整備されていない国々の国際的な関係を反映したパワーにおいては、深刻な弱さが現れ始める。
 ポスト冷戦期の国際関係において後退した最も重要な領域は、地政学と国際経済政治学であった。この枠組においては対外経済関係を方向づける経済/政治を優先することは一般戦略の重要な状要素になった。これは、グローバルな経済/政治的競争者としての大国(パワー)にいたるまで、この競争における能動的及び、受動的な地域大国の双方にとって正しい。第二次世界大戦直後に独立を勝ち取り、冷戦の間に一般的に侵略的植民政策から独立した国際経済の領域の構築を目指したこれらの地域大国は、80年代に始まりポスト冷戦期に徐々に加速した輸出依存型発展モデルによって、グローバル経済における比重を増す政策を採用した。この変革過程は、「経済/政治」を、独立性の強化と経済利益を外交戦略の主要素にした。
 国内経済と貿易のバランスの問題は、対外政策形成とその政策の実施プロセスの古典的外交範囲を超えている。第二次世界大戦後、軍事/外交分野を制限された日本の経済が戦略的パラメーターとして対外政策の中核となったことが、その発展の分かりやすい例の一つである。ド・ゴールがフランス通貨フランの力を外交政策形成の主要素としたことは、財政分野における経済/政治大国(パワー)間での競争の観察による長期的な戦略上の競争の中での経済/政治の常なる重要性を証明している。今日の国際経済/政治の均衡に影響を大きな及ぼすとみられるユーロ/ドルの金融上の競合により、当然とはいえEUとアメリカの戦略関係がぎくしゃくすることになったのは、この状況の最近の分かりやすい例である。
 ポスト冷戦期になって、国家のパワーのパラメーターの布置の中で経済力というものが重要な本質的変化を被った。通信技術の飛躍的進化に伴って非常に加速化した地球環境の相互依存関係は、国家戦略における非国家主体の重要性を高めた。今日では多国籍企業の間の関係は国家規模の関係を超えた影響を及ぼしうる。地域統合の実現によってより複雑になったこの状況は、侵略的植民地化政策をまさしく実行している国民経済の独立の概念を根底から揺るがしている。
 今日の公式な主体と非公式な主体を合わせた国民の全体的な活動は、単に国家の支配に服するだけの国民の独立を妨げるとみなされる。多国籍企業、市民社会組織、地域的、国際的組織のような、国民-国家の構造外の主体の活動が増加することで、地球規模のマクロ戦略と地方規模でのミクロ戦略を調整しなければならないという問題が生みだされる。このように複数の主体が錯綜するダイナミックな危機的状況において、国家の固有のパワーには、この調整問題を超えうる可能性が備わっている。
 この枠組において、科学技術の生産性と収益が国家のもパワーのパラメーターの可変的要素の筆頭となった。国の防衛産業の下部構造を例にとっても、経済発展のレベルにおける固定資源を正当に評価するためには、その領域の優れたマンパワーという要素を考慮にいれなくてはならない。アメリカのヘゲモニーの実現には科学技術力の進歩が大きく与っている。最近の経済サミットでいつも議題のアジェンダに上っている著作権と職業教育は、もともとは(経済)発展を可能にする(マン)パワーの獲得を望んだ副産物である。日本が経済政治大国になった主たる原因は応用技術の分野で成し遂げた進歩を商業市場に乗せたからである。それゆえ、科学技術の優位をめぐって繰り広げられる競争は、ポスト冷戦期の幕の後ろの主要な電圧の領域の一つを成していた。この原因の技術の戦争の結果の熱い戦争の結果よりずっと決定的である。熱い戦争に勝ったように見えても、長期的には技術戦争において勝った者に屈することにならざるをえない。それゆえ、世界システム中心を占める諸大国(パワー)にとっての最も重要な目標は、技術的優位を手放さないことなのである。これは大国間の組織的な闘争をも無慈悲な競合に変える。熱い戦争で一時的に同盟し連合した大国は、技術戦争では相互に対立し、(軍事的に)最も密に同盟していた期間でさえ、対立の徴候を帯びていた。軍事同盟は一時的だが、技術的優越は永続的なのである。
 国際関係における覇権の維持を望むアメリカはこの覇権の基盤である技術的優位とその支配力を失わないために、国際法秩序形成を求める一方、中国を筆頭に、日本、EUなどの競争相手である勢力(パワー)と過酷に競合している。日本とは、マルティメディアと通信技術で、中国とは著作権と国際特許条約、フランスとは産業スパイ問題で対立するアメリカの目標は、将来にわたってテクノロジーの開発と支配権を手にし続けることである。
 1990年代半ば頃、一方で日本にその市場を自国の資本に開放せよとの圧力を増したアメリカは、他方で将来においても情報技術の先進性を維持するために本格的に開発に注力し始めた。1995年初頭、副大統領AI ゴアは、アメリカ政府とアメリカ企業によるグローバル経済の支配の継続を目指し、国民の知識と情報の下部構造を保護するために、協同組合への呼びかけに始まり、この開発の基盤、特に、情報スーパーハイウエー、コンピューター情報網とマルティメディアの分野での独占を目標として追求した。この分野で立ち遅れた日本に対して、大胆な2010年を目標とし、250万の職を設け年間12億3千万ドルの予算をつけたプロジェクトの実施をせまった。
 アメリカと中国の間での近年の最も重大な懸案となった著作権と国際特許条約の問題も、枝葉末節の国際法上の細かい数々の係争よりもはるかに深い重要性を帯びている。問題はただいくつかのアメリカ企業の国際市場での権利を守ることではない。過去25年の間に自分たちが生み出したテクノロジーが日本人たちにより器用に市場価値をもつ商品になったのがアメリカ自体の経済市場でさえ有罪宣告を受けたことは、アメリカ政府の中国に対する明白な警告であった。国際経済戦争での問題は、単なる技術の発展だけではない。その技術は同時に使用価値が高い市場での資材にもなる。日本の(経済発展の)奇蹟はこの技術的熟練の優位性を高め、国際市場で多くの分野におけるアメリカ企業の影響を殺いだ。
 アメリカが中国に対して圧力をかけるもう一つの理由は、東アジアで特に頻出している新しい技術発展を支配下に置くためである。国際著作権と国際特許条約において影響力の中心であることは、アメリカは外国において新技術の開発に国際性を獲得することで、独自性と優位性を実現することができることが重要である。近年において発明の領域での東アジアの役割が徐々に増していることと、中核的テクノロジーの漏洩のリスクは相関している。今日ではアメリカ国内のテクノロジーの発明においては、アメリカ出身でない研究者たちの割合が増えている。大西洋を枢軸とする世界システムによって作られた国際法は、技術漏洩を抑えるための最も重要な手段としての役割を果たしている。このためアメリカは、中国でこの国際特許法が承認されることが人権侵害よりはるかに重要性であるとみなし、天安門事件で適用したより更に厳しい制裁を課すことを控えた。
 また1995年初頭にエスカレートしたアメリカとフランスの間の産業技術スパイ事件も別の分野での主導権争いを反映していた。国際政治経済における主導権をめぐる最重要な戦略的領域の一つである航空機産業のボーイング社とエアバス社間の競争はアメリカとヨーロッパの競争にかわった。その後、完全な経済戦争に変わったこの競争は、ヨーロッパがアメリカに対して示した最も重要な勝利の一つとなった。通信技術においてアメリカと日本に遅れを取ったヨーロッパであったが、エアバス社によって航空産業における重要な進歩をなしとげた。フランス在住のアメリカの外交官も名を連ねたこの産業技術スパイ事件は大国間にも暗闘が常に存在していることを示す重要な証明である。
 次第に激しくなるこの経済戦争は、将来における経済的、政治的、軍事的な争いの強度を決定する。アメリカが多方面で続けているこの戦争は同時に21世紀におけるアメリカの覇権のあり方をも規定することになる。
 これらの要素の全てをリアルなパワーに返還する軍事力は、国家の平時における潜在力と、戦時においてリアルに現れるパワーの基本的な指標の一つである。軍事力は、変わりつつある危機的状況に対応する形で自己革新のパラメーターとして経済的、外交的、政治的決定から影響を受けているが、この決定に方向を与え施行する形を決めることもできる。国家の安全保障のパラメーターは経済資源の使用と移転の形に影響を与え、外交的、政治的関係の経緯もかなりな程度に決定する。
 新技術の発達と危機的状況変化に(国家の)軍事部門が対応できないと、長期的には政策を内向きにさせ資源が浪費されることになる危険があり、適切な場と時においてなされた戦略的決定による自己革新と社会的紐帯を伴う軍事力の使用は、国家が国際的なパワーのヒエラルキーの中で高い地位に昇りつめることができ、政治/経済の様々な分野で影響領域を及ぼすことができる。たとえばビスマルクの鉄拳政治のパワーの源泉であった軍事力は、同時に政治におけるドイツ統一、経済におけるドイツの発展の結果であり、その反映でもあった。同様に、ピョートル大帝が軍事部門で行った改革が、平原を国境としていたモスクワ大公国から変貌しーラシア全体で戦略的主導権を握ることを目指すようになったロシア帝国が領土を拡大していくにあたって、その政治、経済、外交の諸々の要素をリアルパワーの土台へと変換させたのである。今日のアメリカの軍事部門とアメリカの経済、外交の間には直接的な関係があり、その関係は地球の主要な大陸から遠く離れたアメリカが国際関係を決定的な影響を及ぼす覇権を有する超大国(パワー)にしている主たる要因の一つである。

2017年8月14日月曜日

『戦略的縦深』第Ⅰ部:概念的、歴史的枠組み 1章 1節:パワーのパラメーターと戦略計画  1項:パワーの等式と諸要素

第1章:パワーのパラメーターと戦略計画
 ツキディデスからイブン・ハルドゥーン、クラウゼビッツからモーゲンソーにいたるまで、政治の歴史の流れと、その流れの中での政治の行為者の状態をテーマとして研究し、思想家に焦点を当てることは、基本的問題のパワーの定義、表示、軸の変化と関係している。
 古代から今日までの政治哲学における「権力と価値の関係」を理解、解説し、政治の現実に関するこの分析は、パワーの軸の変化を理解し、この変化のダイマミズムを定義することを目指す。この枠組でソクラテスとティラスィマコスの間での正義と権力の議論は、政治哲学の最も基本的な議論の一つを創始したのであり、ティラスィマコスのペロポネソス戦争に関する分析は、政治を実現する上での権力の中心的重要性の解明に向かった。同様にファーラービーは、『有徳都市』の研究において、理想的な政治の別の次元を提示し、イブン・ハルドゥーンは「アサビーヤ(血族意識)」概念によって政治権力中枢の移行を起こす動的諸要素の確定に努めた。
 古典文化がパワーと価値の間に一種の調和をもたらそうとしたのに対して、マキャベリーに始まって次第に受け入れられるようになった近代思想は、リアルポリティクスと価値の次元を切り離す新しいアプローチを生み出した。古典文化が交差する領域での、オスマンの平和を現出させたオスマン朝の重要な思想家たちからクナルザーデの『至高道徳』と、西洋の封建制度から国民国家の形成への移行のシンボルとなったマキャベリーの『王子』の間の考え方の違いはこの変化を明らかに示している。
 30年戦争の後のウエストファリア条約によってできあがったウエストファリア体制が、国民国家の成立と、その成立を支えるパワーを様々に定義する法的枠組の獲得を可能にしたのである。フランス革命の後の19世紀に発展した大きな理論的枠組と哲学的下部構造に応じた国民国家形成は、今度はその世紀に起きた統合運動、植民地獲得競争によって、最も基礎的なリアルポリティクスのパワーの単位、プレーヤーの性格を帯びるようになった。
 古典的帝政を終わらせた第一次世界大戦の後のヨーロッパで、そして植民地を支配する帝国を終わらせた第二次世界大戦の後のヨーロッパの外の世界で、様々な規模の多数の国民国家が出現したことによって、その単位(である国民国家)のパワーの諸要素の分析の問題が、国際関係論の主要問題になった。パワーの様々な定義を利益と主権の概念と統合するリアリスト学派は国際秩序が国民国家の間のリアルなパワーのバランスの上に形成されると主張するのに対して、国際関係に権利と価値の次元を持ち込む理想主義学派は国民国家のこの権利の名宛人とみなす。古典的リアリスト学派の最も重要な代表であるモルゲンソーのパワーの定義は、近代における国民国家という単位の最も内容ある分析の一つを成している。
 20世紀の第三四半世紀に始まり最後の四半世紀に加速した経済政治的要素と共に増加する相互依存性は、国家の権力の様々な定義とますます対立するようになっている。国民国家を正当化する近代の諸イデオロギーの影響の喪失と、伝統文化の価値と新しい諸要素の国際的な広まりにより、諸国家の国際的情勢にも影響する新たな定義のプロセスが始まった。
 このようなグローバルな経済政治的発展が、様々な国家の間での主権の相互関係に生じた影響のグレーゾーンを広めるのに対し、リアルポリティクスの領域にも影響する歴史と文化のパラメーターは、諸国の対内的なパワーと、対外的なパワーの形成に直接に影響する。この状況下では、以前の単純な概念で記述されたパワーのパラメーターでは不十分になり、多数のパラメーターの影響を考慮に入れた概念の提示に道が開かれた。政治経済的、地政学的、地理文化的、地理経済的、地理戦略的などの概念が、国家のパワーの定義において、多用され始めることは、ポスト冷戦期のダイナミックな諸条件がもたらした独自の危機的状況によって、より明晰性をますことになった。
 それゆえ、国家のパワーのパラメーターは、無関係なばらばらの要素の寄せ集めではなく、各個が独自の機能で相互に影響するダイナミックな諸要素の有機体とみなされなくてはならない。このダイナミックな諸要素は人間の諸要素につきものの乗数とまとめて論じられなくてはならない。

 Ⅰ.パワーの等式と諸要素
 
 国際関係の中でのある国家の固有の存在感とパワーに関し、こうした関心に対応する可変的な定義を発展させることができる。定数(SV)、歴史(T)、地理(G)、人口(N)、文化(K)として、変数(PV)は、経済力(Ek)、技術力(Tk)、軍事力(Ak)として定義され、一国の力をこのような形で示すことができる。
G=(SV+PV)×(SZ×SP×SI)
この定式で、SZは戦略思考、SPは戦略的計画、SIは政治的意思を意味する。
SV=T+C+N+K & PV=Ek+Tk+Ak となるので、この式を展開すると
G={(T+C+N;K)+Ek+Tk+Ak)}×(SZ×SP×SI)
となる。

 1.定数:地理、歴史、人間、文化
 この定式の中の要素を一つずつ論じていこう。定数とは、国家のパラメーターの中で短期的、中期的には、自己の意思で変えることのできない要素である。しかし既述の諸要素が国家のパワー・バランスの中で重みを変えないとは考えられない。国際的な危機的状況が流動的であることで、国家のパワー・バランスの中でこれらの定数の重みの変化に道が開かれるのである。
 この変化を正しい時代認識で再評価することができる国家は、これらの定数はダイナミックな外交を行う準備をなしたことである。例えば、(1939年に)合併されたハタイのトルコの定常のデータとしての地理と、国外での最近75年の変化としての地理は、冷戦期のその戦略的重みと冷戦の最終段階での戦略的重みの重要な違いを示している。
 このような理論的枠組を作り上げるには、いくつかの基本的地政学概念を定義し、それに対応する意味の枠組を作る必要がある。国民国家の成立という現象は、それが国際システムの主要素になったことで、政治的共同体としての「民族(ulus)」、この共同体が主権者として組織化された国家と、その政治的主権が通用する領域である「国家(ülke)」概念を内包する「内(iç)」という全体性と従属性を共に含む概念を生み出した。地理的空間が、主権の客体のとしての国家の間で分割されること、そしてその分割が国際法的秩序となることが、近代的な国境の概念の基礎となる。この観点による「国境(sınır)」という概念は、政治的共同体の活動領域の観点からは、一方を対内主権として定義されるポジティブな意味、他方を対外主権の境界を定義するネガティブな意味の、二つの意味領域を構成する。
 国際的かつ地域的な地政学的紛争が起きる場では、この「国境」の定義が想定する主権の領域と、物理、経済、文化地理の織りなす内的-関係の領域が異なっている。この(国際法的)枠組における「国境」と、地政学における「ベルト(kuşak)」、「フロンティア(hat)」の間の違いは、極めて重要である。物理、経済地理の観点から互いに補完しあう領域を構成する地政学的「ベルト」と、それに対立する様々な定義による国境が、互いに異なる単位になることは、この「ベルト」にそって、いつでも主権(国家)が衝突する可能性を亢進させる。この植民地主義帝国の崩壊と共に現れた国民国家の間の衝突の多くは、(国際)法的国境と地政学上の「断層」が一致しないことが重要な一因となっている。
 文化歴史的伝統によって支えられた一つの共同体の「前線」は、共同体の国際的イメージを形成する上で重要な役割を果たす。たとえば、ドイツというアイデンティティーと神聖ローマ/ゲルマン帝国の歴史に影響されたドイツの戦略が前提とした地政学上の前線と現実的/法的国境の間のズレが、過去においては、二つの世界大戦の原因になったが、第二次世界大戦後には、その同じズレが平和的方向でEUの結成の動因の一つとなった。アメリカがスーパーパワー(超大国)として歴史の舞台に登場することになった主要因は、19世紀にその「前線(フロンティア)」のイメージが、大西洋から太平洋の彼方へと一直線に伸びる境界から、法的/政治的主権の領域に変わったためである。
 この英語の概念の意味の混乱は示唆的である。「国境」の曖昧な「境界(boundary)/領土(territory)」概念は1、その内容からも理解されるように、国家を限界づけるという意味を帯びているなら、我々の地政学的前線として我々が定義したように、以前に簡潔に「線」の意味で我々が使った「フロンティア」概念を、共同体が目指す前方の領域として表現されるようになった。「戦略的ベルト」という概念は、囲い込み、主権の変化に従って伸縮可能である「ベルト」のために用いられる。2この枠組で比較するなら、アメリカがアメリカ大陸中の広大なフロンティアというビジョンを抱けたことは、その国境の内部だけで大陸を東西と南北に切断する地政学的ベルトを拡張することができたのに対して3、ヨーロッパの内部の様々な民族の地政学的思考が形成されるにあたって想定されたフロンティア認識と、その実現を目指す前進が生んだ現実の国境の間の緊張が大陸内の多くの戦争の源泉となった。(国際)法的国境(boundary)と地政学的フロンティアの間のこのズレが今日のユーラシアにおける地政学のダイナミズムの主要因をなす。
 対内主権の領域を定義すると同時に対外主権の交渉において(国際)法上の境界にも用いられる「国境」と、特に、新しい領域に開かれ、パワーの中核を形成し始める共同体の戦略的拡大の範囲の認識を反映する地理文化/地政学フロンティアの間にズレがあることが、複数の中核領域(コア・エリア)からの運動によって、戦略的動員を望む諸大国(パワー)を対立に巻き込む地政学的「衝突地帯(shatterbelt)」を生み出す。それゆえ、地政学的ベルトが分断した諸領域と(国際)法的領域の間のズレが凝縮した地域は、多方向の衝突の可能性がある地域である。
 新しい領域に開かれたパワーは、一般的に、自己を制限する国境の概念を超える前線と地平を作ろうとする。たとえばターリク・ブン・ズィヤード(ウマイヤ朝武将、720年没)がイスパニヤ(スペイン)に辿り着いた後に、船団を焼き払ったことは、彼が率いる軍団によって北アフリカからジブラルタルにかけての国境を再設定しようとの試みであった。それ以後は、ジブラルタルという障壁を国境と思い込んでいた人々の国境の意識の前線はピレネー山脈にまで拡張された。太平洋に向けて(フロンティアの)前線を伸ばし続けたアメリカの建国と拡大も、同様である。こうした発展における戦略的拡張が、そのフロンティアにおいて激しい抵抗を被らなかった諸大国(パワー)は、中核地域と新たな(開拓地)ベルトを、完全に統合する。
 一部の国々では中核的諸領域は、地政学的/文化地理的フロンティアと(国際)法的国境の間の自然な調和と外の世界との自然な分水嶺が存在する。これらの国々の最も典型的な例はイギリスと日本のような島国である。これらの国が島であること自体が、中核地域を特定することを容易にしており、近隣の大陸の戦略的均衡を図る(外交)政策が、この中核地域と近隣の大陸の関係の安定をもたらす。近くの大陸で、一つのパワー(強国)が抜きんでると、島国は戦略的に外向きな膨張期には、中核地域から大陸との関係強化、進出を選び、内向きな収縮期には、一種の中核的地域に引き籠ることになる。イギリスの百年戦争に始まる三十年戦争、(スペイン)継承戦争、ナポレオン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦でのヨーロッパ大陸に向けて進出する戦略において、この当然の(ヨーロッパ諸国)分裂政策は国境に重要な影響を与えた。島‐大陸関係におけるアメリカの対ヨーロッパ外交政策も、より大きな規模での同様な性格の問題である。
 国によっては、中核地域と地政学的/文化地理的境界の定義と法的国境を明確に区別することができない。その最も典型的な例はドイツである。ドイツは歴史的にブランデンブルクとプロシャ地方が枢軸であって常に伸縮する中核領域であるとの自己認識を有しているが、この自意識とそれがドイツ系諸民族共同体が存在する諸地域に手を伸ばすことで変わりうる地政学的/文化地理的境界との統合との間で、つまり(国際)法的国境とこの戦略的自己意識の間の解き難い対立を過去2世紀のドイツは抱えてきた。ドイツがそうであり、この国の戦略家たちが頻繁に「Mittellage(中間)」の語で呼んだこの状態は、ヨーロッパ内の諸々の紛争の焦点となった。

 地政学的文化地理的前線と(国際)法的国境とが一致している地域と期間においては、一般的に安定した関係が生まれる。例えば、何世紀も続いたオスマン帝国とイランの多くの戦争の後の1639年のカスレ・シーリーン城条約によって定められたオスマン帝国とイランの国境が変更なく今日まで通用していることは、地政学的フロンティアが(国際)法的国境になった当然の結果である。その逆に、国境と前線(フロンティア)が食い違い、国際(法)的国境と地政学的フロンティアの間にズレが生まれた状態においては、二つかそれ以上の政治的アクターが勢力圏をめぐって争う紛争地帯が生まれる。こうした状況の最も分かりやすい例はトルコ/イラク国境をめぐる近年の問題である。この問題の背景には、両国間の国際法的国境とその地域の地政学的フロンティア文化地理的布置が一致していないことがある。こうしたフロンティアが歴史を通じて不変の国境とは決してみなされないことも、地政学的及び文化地理的基礎がない国境が危機の種であることの重要な証拠である。インドとパキスタンの間のカシミールに関する長引く紛争も、この矛盾が生み出した衝突のもう一つの分かりやすい例の一つである。
 本書でしばしば言及されるため定義しておく必要があるもう一つの重要な概念が「圏域(havza)」である。複数の地政学的、文化地理的、文化経済的フロンティアが交差し、内的に統合された地域を我々は「圏域」と定義する。ドイツの地政学的圏域、ロシアの草原圏域のような定義は、これらの国々の地理が自然に帰結する広範な戦略的作戦領域を反映している。
 我々は、この枠組みで、大陸レベル、地域レベルでの「相互影響地域」を、「大国(büyük güç)」の圏域認識が交差するところで使用する。たとえば、アジアともヨーロッパとも異なる東欧の草原は、近代外交史の中で、一般的にはスラブ人とゲルマン人の、特殊的にはロシアとドイツの圏域意識の相互影響領域をなしてきた。中東地域は、概念的にも、また現実に衝突が頻発する地域としても、アジア、アフリカ、ヨーロッパ大陸を統一数る多くの圏域が交差する一つの相互に影響するフロンティアを構成している。
 「中核領域」、「国境」、「大陸」、「圏域」、「相互影響地域」のような概念を、一纏まりとして説明することは、それぞれの国の戦略と対外政策の形成過程の理解の観点からも、極めて重要である。リアルポリティクスの観点からは、「圏域」概念とは、戦略作戦領域であり、「相互影響地域」とは、その作戦領域が多方面にわたる戦略的戦いの場に変わる地理的領域であり、フロンティアとベルトの定義は、戦略目標を戦術的対象にし実行する領域であり、(国際)法的国境とは、防衛と攻撃の戦略的ポジションに合法性を与える分割線であり、中核領域とは、戦略的実存の基底の輪郭を定める。この枠組で為される定義は、静的な分割線ではなく、国際的、地域的な危機的状況に応じて柔軟に定義する必要がある地理的空間把握を反映している。
 この地政学的、文化地理的、経済地理的定義は、様々な共同体の時間と歴史の認識とも連関している。共同体がいかなる文明に属するか、文化的アイデンティティー、組織や外向けの公式の形態を構成する歴史の過程も定数である。第三部で詳述するように、トルコの定数としてのオスマン帝国の歴史的遺産は、冷戦期における意義のポスト冷戦期における重要な変化をもたらし、バルカン諸国とコーカサス諸国でトルコが更に活発な外交政策を取ることに道を開いた。この10年のトルコがバルカン諸国とコーカサス諸国に介入した多くの域内問題は根本的にはこの歴史的遺産の影響を受けている。
 これらの地域におけるオスマン帝国の残存諸要素は、新たに生じた地政学的空白が生みだした風圧によって、歴史的に安全保障領域とみなされてきたバルカン諸国/アナトリアを枢軸とするオスマン帝国の中核地域(ハートランド)に向かうことになった。20世紀の初めにオスマン帝国の歴史的遺産から新しい定義によって国民国家として出現したトルコ共和国は、20世紀の終わりには、その遺産の文化的及び地政学的責任を再び引き受けなければならなくなった。トルコの外交政策に重大な責任と共に新しい地平と可能性を付与したこれらの任務は、トルコの現前の戦略思考とアイデンティティー再形成における最も決定的な要素となった。
 トルコの若年層とダイナミックな人口構成もまた重要なパワーのパラメーターであり、特に、EUとの関係において常に考慮にいれるべき要素となっている。冷戦の間、ロシアが(不凍港)がある温かい海への南下に対する最重要な軍事的/人口統計学的障害とみなされてきたこの人工的要素は、冷戦後の発展におけるヨーロッパ内の人間の動きの最重要な経済的/人口統計学的要素の一つとみなされ始めている。 ヨーロッパ統合プロセスの自然な延長である自由な移動の権利についての、トルコ系(移)民の移動の場であるヨーロッパ諸国、特にドイツの態度は、人口という要素がパワーのパラメーターの一つであることの帰結である。
 特定の人的要素(人間が)が特定の場所(地理)、特定の時間(歴史)の中で形成したアイデンティティーによって生みだした価値の世界に依拠する心理的、社会的、政治的、経済的建物の石材から成る「文化」というものは、国家の固定した与件をその潜在的なパワーの変項に換える最も重要な要素である。この要素は、一方では、固定項が運動のプロセスの中で存続することを可能にし、他方では、潜在的な変項の主要な原動力の役割を演ずる。
 この共通の時間―空間理解に由来する強いアイデンティティーと帰属意識を有し、そしてその帰属意識によって心理的、社会的、経済的、政治的、経済的諸要素を変動させる文化的構造を保有している共同体は、常なる革新の戦略的展開を実現することが可能である。これに対してアイデンティティー・クライシスに陥り、そしてその危機(アイデンティティー・クライシス)を文化的危機状況に転化させる共同体は、心理、社会、政治、経済の変動の波に捕らわれると戦略上の難局に陥ることになる。

2017年7月18日火曜日

「どうなるイスラーム国消滅後の世界?」

2017年7月17日 
『帝国の復興と啓蒙の未来』出版記念講演 
 イベントバー・エデン  
                
「どうなるイスラーム国消滅後の世界?」
               中田考
            
       発表レジュメ
                

啓蒙: 人類と世界史の誕生
世界宗教の誕生:仏教、道教、儒教、キリスト教、イスラーム
イスラームにおいて真の普遍的宗教の概念が生まれる(dīn)
アッバース朝によるイスラーム文明を地理的中心とする西欧、東欧、インド、アフリカ、中国をつなぐ世界ネットワークの形成
アッバース朝のネットワークを継承したモンゴルによるパクス・モンゴリカの時代
イル・カーン国、キプチャク・カーン国、チャガタイ・カーン国のイスラーム化
(イラン文明、ロシア文明、インド文明にイスラーム文明の刻印)
イル・カーン国宰相ラシードゥッディーン(1318年没)『集史』=最初の世界史

2.現代: 文明の再編
 19世紀=西欧による世界支配
20世紀=西欧の自滅米ソによる破産処理ソ連の崩壊米の長期的衰退
 21世紀=帝国の復興による文明の再編
  ロシア文明、中国文明、イスラーム文明、インド文明、西欧文明
  イスラーム文明:中核国家無し。トルコ、エジプト、サウジ、パキスタン、イラン
  インド文明:西欧化(ブリティッシュラジャ)?イスラーム化(ムガールラジャ)?
  西欧文明:西欧と英語圏(アングロスフィア)の分裂?
地政学・文明論・国際政治
 それぞれが独自の主体(アクター)とタイムスパン
アクター:地政学=地域、文明論=文明、国際政治=領域国民国家
タイムスパン:地政学=長、文明論=中、国際政治=短
 それぞれは独自の理路とメカニズムを有し、それらは往々にして矛盾
 それゆえ、世界の動きは、その多層性、錯綜性において分析されねばならない
イスラーム文明
文明は時間的に誕生や終焉の時点を明確に言えず、空間的な広がりも領域国民国家と違い明確な国境によって区切られておらず、同一文明内部でも成熟、衰退には時間差存在。
 住民と一対一で対応する関数でもなく、一人の人間が複数の文明に所属することも可。
 トインビー:イスラーム文明はシリア文明(アケメネス帝国)の継承文明
 三木亘:西洋「一神教諸派複合」東洋「儒・仏・道教複合」南洋「仏教・ヒンズー教複合」
 井筒俊彦:西洋―東洋(イスラームを含む)
 イスラーム文明
文明的一体性を認識しつつ、国際政治、地域研究では中核の中東と周辺部を区別すべき
 過去にイラン文明を吸収、統合したように将来的にインド文明も統合か?
 (イラン文明が独自のペルシャ・シーア派サブ文明となったようにインド文明も?)
 但し「世界宗教」はリヴァイアサンとマモンを配偶神とする国家崇拝・拝金教
 どの文明圏もこの「国家崇拝・拝金教」の論理で動く。イスラーム圏も例外ではない。
キリスト教(カトリック、正教、プロテスタント)、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教だけではなく、現在「イスラーム」と呼ばれているものも、この「国家崇拝・拝金教」の正体を覆い隠す仮面として、「領域国民国家システム」と「資本主義」の支配をイデオロギー的に補強する機能を果たしている。

文明の再編
現代:西欧(+米)の長期的衰退、非西欧文明の担い手であった近世の世界帝国の継承国家(ロシア帝国、オスマン帝国、清帝国、ムガール帝国)による文明の再編の時代
西欧の覇権の衰退は不可逆であるが、西欧文明は今なお世界を動かしており、文明の再編の成否は、まず諸文明圏における「内なる西欧文明」の批判的克服を成し遂げることができるか、そしてそれを西欧(あるいは西洋、欧米)にフィードバックすることができるか否かにかかっている。(序.頁より)

地政学
 覇権の海洋国家から大陸国家への移転
 「新しいグレートゲーム」、中国、ロシアの挑戦。隠れた主役はトルコ。
我々の前に開かれた21世紀とは、「カロリング朝欧州」を中核とする西欧の大陸国家がオスマン朝カリフ国の旧領を統合した「新しいローマ帝国」として西欧・中東の文明的的見取り図を塗り替え、トルコとイギリスを二つの焦点として、トルコを焦点に中央アジアのチュルク系諸国、ロシア、中国のユーラシア帝国同盟を、イギリスを焦点に、英語文化圏諸国と連帯する楕円構造を有することでハートランドを制し、ワールドアイランドを支配するような未来が可能性として開かれているような世界 

イスラーム国の出現の背景
 フランス革命以来のヨーロッパの植民地支配における民族主義とヒューマニズムの矛盾
  国境の廃絶、領域国民国家システムの打破
 シーア派の台頭:イラン・イスラーム革命、法学者の統治論によるシーア派の統一
  アッバース朝の首都バグダードがシーア派イランの勢力圏に
 チェルディラーンの戦い(1514年-ゾハブ条約1638年)以来の勢力図の塗り替え
 スンナ派は腐敗堕落、分裂、為す術無し カリフ制再興だけが解答

イスラーム国が壊した世界
 民族主義の差別主義とヒューマニズムの矛盾を糊塗する虚飾と偽善の世界
   暴力と差別の第三世界への囲い込みに風穴  可視化  西欧への浸潤
 イスラーム、アラブの大義と国益(支配者の私益)の矛盾を糊塗する偽善と矛盾の世界
 サラフィー主義、ムスリム同胞団などスンナ派ムスリム運動全ての弾圧
 イスラエルとサウジの接近

カリフ制再興
 「大地と人類を領域国民国家システムの牢獄から解放するカリフ制」の理念
 スペクタクルなイスラーム国樹立、カリフ制再興宣言により世界に拡散
 人類の啓蒙が不十分な時点での領域支配は時期尚早  「イスラーム国」消滅
カリフ制の理念と共に、第三世界に囲い込まれていた「暴力と差別」が「平等に」「先進国」にも拡散 (先進国におけるテロとゼノフォビア)
イスラーム国の世界同時(ジハード)革命路線によるイスラーム国樹立(領域支配)
一国議会主義によりカリフ制樹立を目指していたエルドアンを窮地に
(西欧からカリフ制に対する懸念が強まり、支持者からは生温いと突き上げ)
エルドアン支持:オスマン朝再興を目指すナクシュバンディー教団+ムスリム同胞団
イスラーム国がもたらしたスンナ派世界の分裂(影の主役はイスラーム国)
イスラーム(カリフ)派と(カタル・トルコ枢軸)vs
反イスラーム派に分裂(サウジアラビア、UAE、エジプト)
 GCC危機(カタル・ボイコット) サウジアラビア滅亡加速化 

10.「平等な世界」
西欧の啓蒙によって自由、民主主義の平等な世界の実現ではなく、暴力による強権支配と民族差別による西欧の後進国化による世界の平等の実現
西欧の欺瞞と偽善が破綻 右翼(ゼノフォビア+ファシズム)の台頭(トランプ、安倍)

結論
 世界の未来は文明の再編の複数の可能性に開かれており、私たちの双肩にかかっている
「大地と人類を領域国民国家システムの牢獄から解放するカリフ制」だけが解答




資料『帝国の復興と啓蒙の未来』

序 (6頁)
21世紀は文明の再編の時代であるが、それは「カロリング朝欧州」(ドイツ財務相ショイブレ)を中核とする西欧の大陸国家がオスマン朝カリフ国の旧領を統合した「新しいローマ帝国」として西欧・中東の文明的的見取り図を塗り替え、トルコとイギリスを二つの焦点として、トルコを焦点に中央アジアのチュルク系諸国、ロシア、中国のユーラシア帝国同盟を、イギリスを焦点に、英語文化圏諸国と連帯する楕円構造を有することでハートランドを制し、ワールドアイランドを支配するような未来が可能性として開かれているような世界なのである。
 西欧の覇権の衰退は不可逆であるが、西欧文明は今なお世界を動かしており、文明の再編の成否は、まず諸文明圏における「内なる西欧文明」の批判的克服を成し遂げることができるか、そしてそれを西欧(あるいは西洋、欧米)にフィードバックすることができるか否かにかかっている。そして文明の再編は、ウィーン条約体制とも言われる、相互に独立平等と仮定された主権国家を単位とする領域国民国家システムの解体を必要とする。
そしてこの文明の再編の鍵を握っているのは私見によるとトルコである。理由は現在のトルコのエルドアン政権が地政学的にもアフロ・ヨーロシアの世界国家オスマン帝国の自覚的な継承国家を目指しており、中央アジアのチュルク系国家の盟主的地位にあることだけではない。西欧の植民地支配の遺制であるサイクス・ピコ協定によるイラクとシリアの国境を「解放」し、領域国民国家システムに真っ向から挑戦し、イスラームの合法政体「カリフ制」の再興を謳った「イスラーム国」が2014年に成立し、アメリカの主導する有志連合による侵攻で破綻国家化していたイラクに次いで、「アラブの春」の波及による内戦によりシリアも破綻国家化し、百万人を超える難民がトルコ経由でヨーロッパに流入したことは、域内におけるトルコの存在感を高めると共に、中東における領域国民国家システムの有効性に疑問を投げかけ、オスマン帝国の統治システムの再評価を求め、人権と平等の尊重を唱えるEUの難民への対応における二重基準を非難するトルコの主張に重みを与えている。
また仮にエルドアン政権が政敵によって打倒された場合、イスラーム主義者と世俗主義者の対立が激化し、トルコは内乱に陥り、シリア化することが予想される。シリアの4倍の人口規模を持ちヨーロッパと陸続きのトルコが内戦状態になった場合、トルコから一千万人規模の「難民」がヨーロッパに押し寄せることになり、ヨーロッパの「ムスリム難民問題」は制御不能になり、新たな秩序構築のためにやはりヨーロッパは新たな根本的な変化を伴う再編を強いられることになる。トルコが文明の再編の鍵を握るとは、このポジティブな意味とネガティブな意味の二重の意味においてなのである。

後書 (277-281頁)
 欧米で顕在化しつつあるのは、領域国民国家システムの中で偽善的にオブラートに包まれ明言されずにきたナショナリズムの民族差別主義、排外主義だけではない。より本質的な問題は、欧米がこれまで自らのアイデンティティの拠り所としてきた自由、人権が次々と失われつつあることである。9・11アメリカ同時多発攻撃事件を機に、ブッシュ元大統領が制定した愛国者法を皮切りに、テロ対策を口実とする自由と人権の制限が、西欧諸国で進行しつつある。
 それは勿論、西欧に限ったことだけではない。偽善的ではあっても、これまで自由と人権の擁護者の役目を演じてきた欧米、特に「世界の警察」を気取ったアメリカが、その役目を放棄したことにより、箍がはずれたロシアや中国のような旧共産圏の全体主義諸国、独裁者たちが支配する第三世界の国々は「テロとの戦い」を口実に、ますます人権を蹂躙し抑圧体制を強化しつつある。
 東アジアの中国、韓国、北朝鮮、日本におけるナショナリズムの差別主義、排外主義の高まりも、このグローバルな動きの一環である。そして第二次世界大戦の敗戦後、米の占領の下での改憲によって国民を主権者とする国家に生まれ変わり欧米自由民主主義陣営に組み込まれたとはいえ、戦前のファシズムの十分な清算をすませることなく、西欧流の自由主義、民主主義、人権などの価値観を表層的にしか内面化してこなかった日本において、現在、欧米から、極右と呼ばれる政権によって特定機密保護法、共謀罪などが制定され、警察国家化が進行しているのは、むしろ当然とも言えよう。
 筆者は、1986年から1992年にかけてムバーラク独裁政権のエジプト、故ファハド国王が専制政治を行うサウジアラビアで暮らしていたが、日本の現状には、奇妙な既視感を抱かざるをえない。まだ大きな隔たりがあるとはいえ、日本は着実に中東の独裁、専制国家への道を歩みつつあるように思われる。
 これまで日本は、市民革命で民主化を達成した先進欧米諸国を範として学び近代化を進めてきた。麻生副総理は「ナチスの手口に学べ」と発言し物議をかもしたが、現代日本がモデルとすべきは、もはや欧米ではなく、中東諸国なのかもしれない。世界システム論者のイマニュエル・ウォーラーステインは、西欧は世界を、自らの属する西欧近代文明社会、他者たる近代以前の高文明社会、未開社会に分け、西欧近代文明社会の認識には社会科学(社会学、経済学、政治学、社会心理学etc.)、高文明社会の認識には東洋学(オリエンタリズム)、未開社会の認識には人類学を割り振ってきた。しかしグローバリゼーションと世界システムの一体化がここまで進行した現在、この認識論的分断はもはや維持できない。
 そして皮肉なことにグローバリゼーションは、「進んだ」西欧によって啓蒙された世界ではなく、「遅れた東洋」の「専制」抑圧体制が西欧に浸透し、ハイブリッドな全体主義的システム独裁警察国家のジョージ・オーウェル的ディストピアを生み出そうとしているようにも見える。
 そうであるならば、我々に今求められているのは、これまで「他者」として排除してきた「東洋(オリエント)」、特にエドワード・サイードの『オリエンタリズム』が主たる研究対象とした中東・イスラーム世界を、相互に絡まり支え混ざり合い一つにシステムを構成する同時代現象の一部として、自分たちの主体的な自己認識の中に組み込むことであろう。
 本書が、イスラーム研究の立場から、我々が目の当たりにしているリアルタイムの帝国の復興と文明の再編のプロセスを描き出した所以である。30万人の死者、500万人の難民を出したシリア内戦を我々と無関係な遠い世界の問題ではない。「テロ」対策の名の下に万単位の国民を平然と殺すことができるアサド政権は、ブッシュの「テロとの戦争」が生み出した警察国家のディストピアの戯画であり、それは明日の日本の姿かもしれない。そして過去において多くの文明と共存し、それを統合し発展してきたイスラーム文明の歴史の中には、西欧文明の病理であるナショナリズムの差別主義、排外主義と、全体主義的システム独裁に対する解毒剤、有効な処方箋が見つかるかもしれない。
 文明の再編は歴史の必然であるが、不幸なのは、世界的な政治の劣化の中でそれが行われつつあることである。ブッシュは「対テロ」戦争の名の下に、アフガニスタンでターリバーン政権、イラクでサダム・フセイン政権を打倒した。軍事的には、最初から勝敗の帰趨は最初から明らかであったが、政権崩壊後の青写真が描けないために、イスラーム地域研究者たちはおしなべて軍事行動に反対であった。ところがブッシュは圧倒的な軍事力、経済力があれば軍事的な制圧のみならず、その後の民主化、西欧化も容易であると考えて軍事行動に踏み切った。そしてその結果として、アフガニスタンでは国土の7割から8割がターリバーンの支配下に入り、イラクでは「イスラーム国」が樹立されるなど、両国は破綻国家化することになったのである。占領軍に対するレジスタンスが殆ど皆無であった第二次世界大戦後のドイツ、日本におけるアメリカの占領行政と比べても、今日のアメリカ政治の劣化は誰の目にも明らかである。
 アメリカのネオリベラリズムに見られるように、病膏肓に入った資本主義社会において、資本は、あらゆるものを物理的な形を取り数量化され計算可能で短期的に確実な利益が見込めるものに還元し支配しようとするようになるが、そうした視野が狭く単眼的な資本主義的思考様式が至らしめるところが、現在欧米だけでなく日本でも進行しつつある政治の劣化なのである。
 文明の再編がカタストロフをもたらさないためには、こうした政治の劣化に歯止めをかけねばならない。そのためには軍事や経済だけではなく、現在なお命脈を保っている諸文明が千年以上にわたって存続することを可能にさせたその基底にある世界観、即ち人間の生を宇宙と歴史と社会の中に位置づけ、生きる意味と行動の指針を与える宗教が蓄積してきた宗教の叡智に再び目を向け、謙虚に耳を傾ける必要がある。本書が、読者諸賢が今もなお生きる宗教の叡智の学びへと誘うことができれば筆者にとって望外の喜びである。 

2017年6月30日金曜日

イブン・タイミーヤの礼拝に関するファトワー

【礼拝の時刻について】

質問
播種・耕作・大いなる汚れの状態▼1、主人への奉仕などの仕事により夜間の礼拝を昼頃まで遅らせる人々がいるが、それは許されるか否か。

答え
昼間の礼拝を夜まで、あるいは、夜間の礼拝を昼まで遅らせることは誰にも許されない▼2。それは収穫・耕作・業務・大いなる汚れの状態・小さな汚れの状態▼3・狩猟・娯楽・遊技・主人への奉仕など、いかなる行為によるのであっても許されない。否、ムスリムはすべて、ズフルとアスルの礼拝を昼間に、ファジュルの礼拝を日の出前に行い、いかなる業務、娯楽などの行為によってもそれを怠ってはならないこと、また、主人は奴隷が、雇主は雇人が定められた刻限内に礼拝を行うことを妨げる権利がないこと、業務・狩猟・主人への奉仕などで、それらの礼拝を太陽が沈むまで遅らせる者には懲罰が科されなければならないことなどに関して、合意(イジュマー)が成立している。それどころか、学者の多数派の意見では、悔い改めを呼びかけられた後なら、(礼拝を故意に遅らせたり、怠ったりすることには)死刑を科すことが義務となる。つまり、悔い改めたなら、定刻内に礼拝しなければならず、礼拝が義務として課されるのであるが、もし、業務・狩猟などに忙殺されて、「日没後まで私は礼拝しない」と(公然と)言うならば、(そのような者は)処刑されるべきである。
 両『正伝集』によれば、預言者(彼に神の平安と祝福あれ)は、「アスルの礼拝をやり過ごした者は、家族と財産を損なうようなものだ」、あるいは、「アスルの礼拝をやり過ごした者は、彼の行為も無に帰すのである」と語られたと確認されている。(『日訳ムスリム』第1巻、422■423頁)また、(初代カリフ)篤信者アブー・バクルの(第2代カリフ)ウマルへの遺言にも、「神には、夜には夜の権利があり、それは昼には受け入れ給わない。また昼には昼の権利があり、それは夜には受け入れ給わない」と言われている。
 また、預言者(彼に神の平安と祝福あれ)はハンダクの戦いの日、不信仰者に対する聖なる戦いにかかりきりで、アスルの礼拝を遅らせ日の出の後でそれを行われた。そこで至高なる神は、「各礼拝(『日訳ムスリム』第1巻424■425頁)、中間の礼拝を守れ」(Q. 2章238節)という節を下されたのである。また、両『正伝集』は、預言者(彼に神の平安と祝福あれ)が、「中間の礼拝とはアスルの礼拝である」と言われたと伝えているが、その言葉ゆえに、大多数の学者は、(クルアーンの)この節によりアスルの礼拝の遅延は認められなくなったと言い、たとえ戦争状態にあっても、礼拝の遅延は許されず、定刻内での礼拝が義務とされるのである。これがマーリクやアッ=シャーフィイーの考えであり、またアフマド・ブン・ハンバルの考えとしても知られている。しかし、アフマド・ブン・ハンバルについては、彼は戦争状態においては、(定刻内の)礼拝の実行と、(止むを得ない)遅延のどちらかを選ぶことを許したとも伝えられている。アブー・ハニーファの考えは、先ず戦争に専念し、定刻後に礼拝すべきであるとする。業務や農業や狩猟や種々の仕事など、ジハード以外の理由による礼拝の遅延については、学者は誰もそれを認めていない。
 否、至高なる神は、「禍あれ、礼拝しながらも、礼拝に身が入らず」(Q. 107章4・5節)と仰せになったが、サラフ(初期のムスリムたち)の一部は、「それは礼拝を定刻から遅らす者のことである」と言い、また、別の者たちは、「それは、たとえ定刻内に礼拝をするとしても、定められた形でそれを行わない者のことである」と言っている。
 礼拝を定刻より遅らすことは、学者たちの間の合意によれば、禁止事項(ハラーム)であるとされる。学者たちは、夜間の礼拝を昼に、昼間の礼拝を夜に遅らせることは、ラマダーン月の断食斎戒をシャッワール月に遅らせることに等しい、という見解で一致している。つまり、「ズフルとアスルの礼拝を夜に行なう」と言う者は、「私はシャッワール月に断食斎戒する」と言う者と等しいということで、学者たちの意見は一致している。
 遅延が許されるのは、寝過ごした者と、(礼拝の時刻を)忘れていた者のみである。それは、預言者(彼に神の平安と祝福あれ)が次のように言われたとおりである。「礼拝を寝過ごしたり、あるいは、忘れていた者は、そのことに気づいた時に礼拝を行え。そしてその時が、礼拝の時刻となるのであり、それ以外に償いは必要ではない。」
 また、大いなる汚れ、小さい汚れ、それ以外の汚れ▼4などを理由として、定められた時刻から礼拝を遅らせることも認められない。
 ひとは、(それぞれの)状況に応じて「定刻内に礼拝しなければならない。つまり、小さい汚れの状態にあって、水がないか、あるいは、水の使用が有害である場合は、土や砂による洗浄▼5を行ってから礼拝すべきである。大いなる汚れの状態にあるときも同様で、水がないか、病気に障ったり冷たすぎるなど、水の使用が有害であるとの恐れがあるなら、土や砂で体を浄めてから礼拝すべきである。また同様に、裸体の者も、裸体のままで、定刻内に礼拝すべきであり、着衣で礼拝できるようになるまで礼拝を遅らしてはならない。また、ひとに、拭い去れない汚れがある時には、その状態のまま定刻内に礼拝すべきである。
 また、預言者(彼に神の平安と祝福あれ)がイムラーン・ブン・フサインに、「立って礼拝せよ。もしできなければ座って、もしそれもできなければ横になってせよ」と言われたように、病人も同様に、その病状に従ってそれぞれの状態で定刻内に礼拝すべきである。学者たちの一致した見解では、病人は、立つことによって病状が重くなるようなら、座るか、横になって定刻内に礼拝しなければならず、(病状の回復を待って)定刻を過ぎてから、立って礼拝しようなどと考えるべきではない。
 それはつまり礼拝は定刻内に行うことが義務であり、時刻こそ礼拝に関する諸義務の中で最も優先されるべきものだからである。それはラマダーン月の斎戒が、その期間内の遂行が義務であり、誰にもそれを遅らせることが許されないのと同じである。但し(礼拝に関しては)ムスリムたちのイジュマーで、アラファ▼6でのズフルとアスルを一緒に続けて行うこと(結合)、ムズダリファでのマグリブとイシャーアを一緒に続けて行うこと(結合)は許されており、また多くの学者の意見によると、旅行や病気などの理由があれば、マグリブとイシャーア、ズフルとアスルの礼拝を一緒に続けて行うこと(結合)も許されるのである。
 しかし昼間の礼拝を夜に、夜間の礼拝を昼まで遅らすことについては、学者のイジュマーで、病気によっても、旅行によっても、どんな仕事、工作によっても許されない。(ウマイヤ朝第8代カリフ)ウマル・ブン・アブド・アル=アジーズ(神よ彼を嘉し給え)は言った。「理由なく2つの礼拝を一緒に続けて行うこと(結合すること)は大罪の一つである。しかし旅行者は2ラクア▼7の礼拝で済ますことができ、4ラクアの礼拝をする義務はない。」学者のイジュマーによって、「短縮」(の許される)旅行中の旅行者には2ラクアで足りるのである。
「全ての旅行者が、4ラクアの礼拝を行わねばならない」と言う者は「全ての旅行者が、ラマダーン月に斎戒を行わねばならない。」と言う者と同じで、どちらもともに誤っているのである。また、ムスリムたちのイジュマーに反しているのである。それを唱える者は悔い改めを求められ、それがいれられなければ処刑される。ムスリムたちは、旅行者が4ラクアの礼拝を2ラクアで行いファジュルの礼拝を2ラクア、マグリブの礼拝を4ラクアで行い、ラマダーン月に斎戒を行わず、後にその埋め合せの斎戒(断食)を行えば良いことでイジュマーに達している。
 旅行中に、ラマダーン月に斎戒(断食)を行い、あるいは4ラクアの礼拝を行う者については、学者の間で判断に相違があることが知られている。中には、「それは正しくない」という者もある。病人に関してはムスリムのイジュマーで斎戒を遅らすことが許されるが、逆に礼拝は遅らすことが出来ないのがムスリムたちのイジュマーなのである。旅行者は斎戒は遅らすことが出来るが、礼拝は遅らすことが許されない、というのがムスリムたちのイジュマーなのである。
 そしてこれは、礼拝を定刻に行うことの遵守が、期間中に斎戒を行うことより、より重要であることを示すものである。至高なる神は、「礼拝を放擲し、欲情に耽ける後継者が彼らの跡を継いだのだ」(Q. 19章59節)と仰せになったが、サラフの或る者たちは、「『礼拝を放擲し』とは、礼拝の遅延のことを指す。(なぜなら)もし彼らが礼拝を拒否するなら、彼らは不信仰者となるのだから」と言っている。
 預言者(彼に平安と祝福あれ)は言われた。「私の後ろに礼拝を定刻から遅らせる指導者たちが出現することになる。しかし定刻どおりに礼拝を行え。そして彼らと行う汝らの礼拝は、任意の礼拝とせよ。」ムスリムはアブー・ザッル(教友)からの伝承として、それを伝えている。アブー・ザッルはこう述べている。「預言者(彼に平安と祝福あれ)は言われた。『もしおまえの上に、礼拝を定刻から遅らせ、後回しにする指導者が現れたらどうする。』私は言った。『私に何をお命じになるのですか。』彼は言われた。『定刻内に礼拝を行え。そのうえで彼らの礼拝に居合わせたなら、ともに礼拝せよ。それはおまえにとって任意の礼拝となる。』」
 またウバーダ・ブン・サーミト(教友)によると、預言者(彼に平安と祝福あれ)はこう言われた。「『汝らの上に、世事にかまけて定刻が過ぎるまで礼拝を怠る者が出る。しかし礼拝は定刻内に行え。』ある男が言った。『私は彼らと礼拝します。』預言者は言われた。『うむ、もしおまえがそうしたいなら。そしてそれは任意の礼拝とせよ。』」アフマド・ブン・ハンバルとアブー・ダーウードがそのハディースを伝えている。また、イブン・マスウードはこう伝えている。「預言者は言われた。『もし私にそれが起こったなら、私に何をお命じになりますか、アッラーの使徒よ。』彼は言われた。『定刻内に礼拝せよ。そして彼らとの礼拝は任意のものとせよ。』」
 それゆえ、船が難破したとか、追い剝ぎが服を奪ってしまったとかで、裸になってしまった者は、裸ででも定刻内に礼拝すべきである、ということで学者たちはイジュマーに達している。また旅行者は、定刻過ぎに水を見つけられるとしても、水がなければ砂で浄め(タヤンムム)を行って礼拝すべきことが学者たちのイジュマーである。同様に大汚の旅行者も、水がなければ砂で浄めをして礼拝し、やり直しの必要がないことは、四法学派の学祖たちのイジュマーである。同様に、寒さが厳しくとも、沐浴をしてから礼拝しようと、礼拝を遅らしてはならないのである。預言者(彼に平安と祝福あれ)は言われた。「たとえ10年間水を見いださなかったとしても、清浄な砂がムスリムを浄めてくれる。しかし水を見つけたときは、それで皮膚を濡らせよ。それはなお良いからである。」
 水(による浄め)によって許されるようになることは、全て砂による浄めによっても許される。それゆえ、砂による、礼拝のための義務の浄めを行ったなら、礼拝の中であれ、それ以外の時であれ、たとえ大汚の状態にあったとしても、クルアーンを読むことが出来るのである。
 砂で浄めて礼拝を行うことを禁ずる者は、ユダヤ教徒やキリスト教徒の類である。なぜなら、砂による浄めはムハンマド(彼に平安と祝福あれ)に従った者の共同体にのみ、許されたことだからである。そして、それは預言者(彼に平安と祝福あれ)が、真正なハディースにおいて、次のように言われている通りである。
「我々は次の三点で、他の人々に優る恩恵を与えられている。先ず、我々の団結(列)は、天使の団結(列)のようにされている。第二に、私のために大地がモスクとされ、その土が(ムスリムを)浄めるものとされた。第三に、私は戦利品を取ることが許されたが、それは私以前の預言者たちには許されていなかったのである。」また別のテキストでは「私のために大地が、モスクであり、かつ(ムスリムを)浄めるものとされた。それゆえ、我がウンマに属する者は、どこで礼拝の時間をむかえようとも、その土地がモスクとなり、それによって身を浄めることが出来るのである。」
 定刻前に砂での浄めが許されるか、また砂での浄めは各礼拝毎に行わねばならないか、言い換えるならば、、定刻が過ぎれば無効となるのか、それとも水で浄めた場合と同様に礼拝でき、洗浄を無効とするものによってのみ無効とされるのか。あるいは、水の使用が可能となった時点で無効となるのか、などの問題については学者の間に見解の対立がある。水の使用が可能となった時点で無効となる、というのがハナフィー派の見解であり、ハンバリー派などにもこの説を採るものがある。それは預言者(彼に平安と祝福あれ)が、「たとえ10年間、水を見いださなかったとしても、清浄な土埃がムスリムを浄めてくれる。しかし水を見つけたときは、それで皮膚を濡らせ。それはなお良いからである」と言われたからである。アッ=ティルミジーはこの伝承を正しく真正ものだと言っている。
 またある人に汚れがあり、それを取り除く手段がない場合には、汚れのあるまま定刻内に礼拝すべきである。ウマルも傷が出血していたとき、定刻が過ぎるまで礼拝を遅らせず、そのまま礼拝した。
 汚れた衣服しか持たない者については、裸体で礼拝せよとも、それを着けて礼拝し、(あとで清浄な服を着て)やり直せとも、それを着て礼拝すれば良く、やり直すには及ばないとも言われるが、最後の説が正しい学説である。なぜなら、神は義務の礼拝を繰り返すことを、命じ給わないからである。ただし、可能であったのに、やるべきことをやらなかった場合は別である。例えば、各動作毎に間をとらずに礼拝した場合は、その礼拝はやり直すべきであり、預言者(彼に平安と祝福あれ)は、間合いを取らずに礼拝をした者に、「戻って礼拝をやり直せ。おまえは礼拝をしたことにならない」と言われて、礼拝のやり直しを命ぜられたのである。
 同様に浄めを忘れ、洗浄しないで礼拝をした者も、礼拝をやり直さねばならない。預言者(彼に平安と祝福あれ)は、洗浄をしながらも、足の一部を洗い忘れて、水がかからなかった者に、洗浄と礼拝のやり直しを命ぜられたのである。
 命じられたことを力の限り行った者については、至高なる神は、「可能な限り、神を畏れよ」と仰せになり、預言者(彼に平安と祝福あれ)も、「私が汝らに何かを命じたなら、出来る限りのことを果たせ」と言われている。
 定刻内に目覚めたが、水が遠くにしかなく、そこまで行くと定刻が過ぎてしまう場合には、砂で浄めを行って定刻内に礼拝すべし、というのが学者たちのイジュマーである。
 同様に寒さが厳しく、冷水が身体(健康)を損なうとき、風呂に行ったり、湯を沸かしていると、定刻が過ぎてしまう場合には、砂で浄めを行って定刻内に礼拝すべし、というのが学者たちのイジュマーである。
 このことに関して男女の区別はなく、二人が大汚の状態にあり、定刻内に沐浴が不可能ならば、その二人は砂で浄めを行って、定刻内に礼拝すべきなのである。
 また、月経のあった女性が、礼拝時刻内に、出血が止まったが、沐浴をしていると定刻が過ぎてしまう場合には、砂による浄めを行い礼拝すべきなのである。
 定刻を過ぎても、水で洗浄を行ってから礼拝する方が、砂で浄めをするだけで定刻内に礼拝を行うより、よいと考える者は無学で誤っているのである。
 ファジュルの礼拝の定刻の終わるギリギリに目覚め、沐浴をしていると日が昇ってしまう場合には、大多数の学者は、「沐浴をして日の昇った後に礼拝すべきである」と述べている。ハナフィー派、シャーフィイー派、ハンバリー派はこの説を採るが、マーリキー派には、「いやこの場合も、砂の浄めを行っただけで、日の出前に礼拝すべきである」という説を採る者もいる。その根拠は、これまで述べたような、「砂の浄めによる定刻内の礼拝は、沐浴による定刻後の礼拝に優る」ことであろうが、ここでは多数派説の方が正しい。なぜなら眠っていた者にとっての定刻とは、目覚めたときだからである。それは預言者(彼に平安と祝福あれ)も、「礼拝を寝過ごしたか、忘れていた者は、気付いた時それを行え。そしてその時こそ礼拝の時刻なのである」と言われているとおりなのである。つまり眠っていた者にとっての定刻とは、目覚めたときにほかならず、それ以前のことについては、それは彼にとっては礼拝時刻ではなかったのである。そしてそうであれば、日の出前に目覚め、沐浴と礼拝をしていて日が昇ってしまった者は、その礼拝を定刻通りに行なったことになり、やり過ごしたことにはならないのである。それは、定刻の初めに目覚めた者の場合とは違うのであり、彼の場合の定刻は、日の出前までなのであり、礼拝を遅らせてはならないのである。
 また礼拝を忘れていた者の場合も同様で、いかなる時刻であれ、思い出したときに、沐浴をし礼拝をすればよいのである。それは彼にとっては、気付いた時が礼拝時刻だからである。
 ハイバル遠征の時、預言者(彼に平安と祝福あれ)の教友たちが礼拝を寝過ごして目覚めたときのように、日が出てから目覚めた者は、たとえ太陽の南中まで礼拝を遅らすことになろうとも、完全な清めの上で礼拝すべきである。もし、大汚の状態であるようなら、太陽の南中近くまで礼拝を遅らすことになろうとも、風呂に入り沐浴をすべきであり、砂による浄めだけして礼拝してはならないのである。また(この場合)預言者(彼に平安と祝福あれ)が、「ここは悪魔が我々を襲った場所である」と言われ、教友たちとともに、寝過ごした場所から移動したことから、寝過ごした場所から移動することが望ましい。アフマド・ブン・ハンバルらがそれを規定しているが、その場所で礼拝したとしても、その礼拝は無効ではある。
「それはカダー(定刻内に出来なかったことを後で行うこと)なのか、アダー(定刻内に行うこと)なのか」と問われるなら、それらの語の区別は神とその使徒の言葉に根拠を持たない虚構の区別に過ぎない。なぜなら至高なる神は、金曜の集団礼拝について、「礼拝をカダーすれば(済ませば)、大地に散らばれ。(62章10節)」と仰せになり、また(巡礼について)「汝らの儀礼をカダーし(果たし)神を唱念せよ(2章196節)」と仰せになられているが、どちらも定刻内に行われたことに対して用いられているのである。「カダー」とは、語源的には、ものごとを仕上げること、完成することを意味する。つまり、至高なる神は、「そしてそれらを7つの天にカダーした」と仰せられたが、それはすなわち、仕上げたとか、完成させたという意味なのである。
 それゆえ、宗教行為(イバーダ)を完全に行う者は、たとえそれが定刻内であってもカダーしたと言えるのである。私の知る限り、定刻内であると信じ、礼拝のアダーを意図して礼拝し、後に定刻を過ぎていたことがわかったとき、あるいは、逆に定刻が過ぎていると信じ、礼拝のカダーを意図し、後にまだ時間が残っていたことが判明したときには、どちらの場合もその礼拝が有効であることについて、学者たちのイジュマーがある。アダーであると意図しようと、カダーであると意図しようと、命じられた時間にその儀礼(礼拝)を行った者すべてにとって、その礼拝は有効なのである。金曜の集団礼拝はアダーで行なおうと意図しても、カダーで行おうと意図しても、ともに有効である。(カダーの場合も)彼はクルアーンに述べられた(語の用法での)カダーを意図しているのである。礼拝を寝過ごした者、忘れていた者に関しては、目覚めたり、気付いた時に礼拝すれば、彼ら以外の人たちにとっては定刻過ぎとなる時刻に礼拝しようと、礼拝を命じられた時間内に礼拝したことになるのである。それをこの意味でカダーと呼び、一般的には命じられた定刻を過ぎて宗教行為を行うことをカダーと言うことについては、毒にも薬にもならない。
 要約するなら、どんな人間であれ、昼間の礼拝を夜に、夜間の礼拝を昼に遅らせるといった形で、定刻の礼拝をしなくて済むようになる、いかなる事態も存在しないということである。礼拝は必ず時刻内に行わなければならない。その際、人は各々の状況に応じて礼拝すべきなのであり、やるべきことのうちできることは行なうべきであり、できないことは免除されるのである。ただし、理由があれば、昼間の二つの礼拝、夜間の二つの礼拝を一緒に続けて行う(結合する)ことが許される、というのが学者たちの多数意見であり、また旅行者も旅が厳しいときは(昼間夜間の二つの礼拝を)一緒に続けて行うこと(結合)が許される、というのが、マーリクとアッ=シャーフィイーの見解である。アフマド・ブン・ハンバルに関してはそれを認めたとも、認めなかったとも伝えられている。また、認めないというのがアブー・ハニーファの見解である。
(礼拝の)短縮の場合と異なり、困難がなければ定刻内に礼拝を行う方が、一緒に続けて結合を行うより優る。(逆に短縮に関しては)学者たちの多数意見では、(短縮の)2ラクアの方が4ラクアより優るのであり、旅行者が4ラクアの礼拝した場合、その礼拝が有効であるかどうかについては二説ある。預言者(彼に平安と祝福あれ)は、彼の旅行すべてにおいて、2ラクアの礼拝を行っていたのであり、一度も4ラクアの礼拝を行わなかったし、アブー・バクルもウマルもやはりそうであった。

▼1 交接、月経、出産などにより陥る不浄。
▼2 スンナ派では一日の礼拝は、ズフル、アスル、マグリブ、イシャーァ、ファジュルの5回であるが、昼間の礼拝とはズフルとアスルの礼拝であり、ズフルの定刻は太陽の南中からアスルの始まりまで。アスルの定刻は陰の長さが本体と同じになる時刻からマグリブの始まりまで。マグリブの定刻は日没からイシャーァの始まりまで。イシャーァの定刻は後の残光が消えてからファジュルの始まりまで、ファジュルの定刻は夜が白み始めてから日の出まで。
▼3 排泄、嘔吐などにより陥る不浄。
▼4 豚、犬などに由来する不浄。
▼5 地面の土埃に触れた手で、手や顔を擦ることによる浄め、水による浄めの代用。
▼6 アラファ、ムズダリファは共にメッカ郊外の地名。巡礼は、カァバ神殿での儀礼を終えた後、この両地を訪れる。
▼7 ラクアとは、立札、座礼などからなる礼拝の動作の単位を指し、ズフル、アスルは4ラクア、マグリブは2ラクア、イシャーァは4ラクア、ファジュルは2ラクアからなるが、旅行時には、ズフル、アスル、イシャーァの4ラクアを2ラクアに短縮して行なうことが許される。

2017年6月27日火曜日

エデン謎講義質疑応答



イスラームについて
▼シーア派とスンナ派は、なぜここまで争うのか
答: どこまで?近世ヨーロッパの人口が3分の1に減ったと言われるプロテスタントとカトリックの殲滅戦のような争いはシーア派とスンナ派との間では、歴史上も現在も起きていません。
▼イスラム教徒が、少数民族を攻撃するのは何故か
答: イスラームは民族で人間を区別しませんので、少数民族への攻撃は存在しません。
▼イスラム法学の一派であるワッハーブ派が、コーランの復古主義的解釈をおこなっており、なおかつ当法学派が、サウジアラビアでの影響力が絶大であり、結果としてテロを行う過激派の理論の土台になっているとアメリカの情報機関が指摘していると聞いたことがあるが、中田先生はイスラム法学者という立場から、ワッハーブ派に過激になる要素が他の法学派より多いと思うか。なぜワッハーブ派が一国の国教として受け入れられるまでになったのか。
答: ワッハーブ派の特徴は、イスラーム内部のシーア派、及びスンナ派伝統的な神学、神秘主義の全否定、背教者認定にあり、イスラームにおいて背教罪が死刑であるため、イスラーム世界内部で、他のイスラーム諸宗派と暴力的衝突を起こす可能性は高いが、異教徒に関する限り、他宗派と教義上の違いはほとんどない。
 サウジアラビアで国境になったのは、アラビア半島内陸部が、他宗派の文化的影響が少なかったので広まりやすかったため。
▼日本ではハラルフードの対応が進んでいないと感じるが、オリンピックに向けてもっと広めるべきなのか。
答: ハラールフードなどというものは、日本人のイスラームへの無知に付け込んだイスラームの教義に反して詐欺師の利権屋たちが売り込んでいるものであり、神を冒涜する呪われた悪行。
▼イスラーム研究者は日本にもいるが、何故改宗までしようと思ったのか。ムスリムとして日本で不便はないか。
答: 私の場合は、イスラームが真理だから入信した、のだが、入信動機は人により様々、人類学系だと、フィールド調査でムスリムの方が入って話を聞きやすい、という理由で入信した者もいる。
不便かどうかは、真摯なムスリムは、そもそも不便かどうかなど気にしないので、あまり不便を感じないし、熱心でないムスリムはそもそもイスラームの教えに従って生きていないので、やはりあまり不便を感じていない。


ISについて
世界のイスラム教徒たちはイスラム国の存在をどう思っているのか
答: ムスリムのほとんど(99.9%以上)はイスラームの教義を詳しくは知らず、特にイスラーム政治論については大学でイスラーム学を専攻している者でもあまり知らないので、自分の意見は持っていない。新聞、テレビ、ネットなどの反イスラーム国のプロパガンダをうのみにしているだけ。
▼イスラム国は無差別なテロをヨーロッパなどで起こす事で、世界にどのようなメッセージを伝えようとしているのか。
答: ヨーロッパがイスラーム世界でこれまで行ってきた、そして今も行っているムスリムの殺害、弾圧は不正であり、裁かれなければならないことを思い起こせ、とのメッセージ。
▼イスラム国がテロを起こしている国やタイミングは、何か大きな計画の一つなのか。世界の反応を予想しての事なのか。
答: 事件のほとんどは、指導部の指令に基づくものではなく、「一匹狼」型、「野良犬」型と言われる、共鳴者(たち)が単独で立案、実行したもの。しかし中には、指導部の援助を受けたものもある。
大きな計画としては、(1)異教徒にイスラーム世界で自分たちが行ってきた罪状を気付かせること、(2)イスラームへの恐怖から、ムスリムへの弾圧を強化することによって、ムスリムに異教徒の下で暮らすことの誤りに気付かせ、弾圧に報復するか、イスラーム国への移住を促すこと。
▼今後の5年後、10年後のイスラム国はどうなっていくのか。
答:5年後、10年後に、世界が存在するか、サウジアラビア、シリアなどの国が存在しているかも疑問。重要なのは、イスラーム国ではなく、カリフ制の再興。
▼(ブランディング化に関する質を踏まえ)現代、ISに参加することの線引きはどこにあると考えるか?
答: カリフ・バグダーディーか、その代理人であることを直接確認できた者との間で個人的忠誠誓約を交わすこと。
▼ISによるテロ行為が始まって以来、日本にいるイスラム教徒と日本人の関係はどうなったか。(阪上)
答: ほとんど影響なし。いろいろ不利益を被っているのは私だけ(イスラーム関係の本を沢山出せたのは望外の幸運)
▼現在のISのサイバー攻撃能力はどのくらいか。
答:申し訳ないけどITに弱いのでよく分からない。ニュースを見る限り、ほとんどないのでは。
▼ISの組織のトップの人は、宗教の教義を利用して(人が宗教を信じる心を利用して)人を動かしているという側面はあるのか? 
答: ISに限らず、イスラームでは宗教の教えが行動指針になるべきなので、学識がある者の教えを学識が劣る者が尊重するのは当然。しかし現実にはムスリムの大半はそもそもイスラームの教えに従って生きることに興味が殆どないので、学識者の意見も尊重されることは少ない。
テロリズムについて
▼日本でのテロの可能性はあるのか。イスラム国は日本をどう見ているのか。       
答: イスラーム神学は、必然存在(造物主)の存在以外の世界のすべての事象を可能と考える。「可能性」であれば、左翼(無神論者)であれ、右翼(神道)であれ、政権与党であれ、天皇主義者であれ、仏教団体であれ、キリスト教団体であれ、あらゆる個人、集団がテロを起こす可能性があり、イスラームだけが例外的に可能性がないということはない。
▼先日、テロ等準備罪が可決されたが、日本に対してプラス、或いはマイナスどちらに働くと考えているか。
答:もともと法律は恣意的に運用されているので、いずれにしても大きな影響はないが、プラスに働くケースはほとんど考えられない(治安当局の無能さを考えると)
▼東京オリンピックが狙われる可能性はあるか。
答: 可能性は、すべてにあるが、ゼロの誤差の範囲内。むしろ理論上は、警備が東京に集中するので、地方で事件を起こすのが容易になるので、オリンピック期間に地方都市を狙うのが効率的だが、それも机上の空論。
▼テロが暴力装置としての単純な様相から、ISが後発的に声明を出しテロリズムとして仕立て上げるような傾向があるように思われる。ISからすればブランディング化であり、テロリストからすればISへの共鳴であるこの相互関係はどの様な利益構造になっているのか?またテロリスト側から見たテロリズムを起こす上での誘因は何か?
答: IS側からは存在アピールであり、そもそも合法的な手段でその主張を広める道が閉ざされているため、なんであれ、話題になり、彼らの主張に耳を傾けるきっかけが生ずることはメリット。実行者の側では、自己の行為に、ISによってジハードして正当化されるメリット、話題になることが好きな者なら、話題になるメリット。
▼テロリストのメンタリティとして、死ぬことを正当化するとはどういったものなのか?日本社会との死生観の違いはどのようなものか?
答: イスラーム教徒であれば、誰であれ、死後の復活と天国と地獄を信じており、ジハードの殉教が最高の死に方であることに関しては、コンセンサスがある。
▼近年EUをはじめとする先進国で顕著なHome-grown terroristの生い立ちや発生過程はどのようなものか?
答: 人それぞれで共通項は少ない。イスラームを少しでも学べば、イスラーム世界の現状がイスラームの教えから完全に逸脱していることまでは誰でも分かり、そもそもヨーロッパのような異教徒の国に自分が住んでいることの問題性にも気づく。そこから、自分がどうするべきか、への答を見い出すには、知性や文化資本の他に、当該社会で過去にどう扱われてきた、現在どういう地位にあるか、といった、社会経済的要因、家庭環境、教育などが人格形成に与えた心理的影響など、さまざまな要因によって差が生ずる。
▼ISの主要指導者層がいなくなった後もテロリズムは続くのか。また、次世代のテロリズムはどのような様相を見せるのか?
答: 続く。ISだけでなく、世界自体の未来がもはや見通せない。
▼何故テロリストはテロ行為に及ぶと考えるか。意思表明、目的達成のためには様々な手段がある中で何故無差別殺人を選ぶのか。
答: そもそも無差別ではなく、様々な手段がある、というのも間違えだが、無差別殺人を選ぶには、一番手っ取り早く、目立つから。

その他
▼スペインでの住民投票で、イスラム系移民の数が多かったことで、その地方の伝統文化である闘牛場がモスクに建て替えられたという話がある。これはイスラムとヨーロッパの文化対立という側面と、その文化対立の枠組み自体が「住民投票」という非イスラム的なものになっているというねじれた側面、そしてその枠組みの中ですらイスラムが勝利を収めたというさらにねじれた側面がある。これに対する姿勢は一概にイスラム系移民を支持しても、民主主義(住民投票)を肯定する可能性を孕むし、逆に民主主義(住民投票)を否定しても、今度はイスラム系移民の意思を否定してしてまう可能性がある。大変難しい問題である。民主主義とイスラム教の価値観のバランス感覚の取り方の難しさ、文化対立が、本来多様な意見を包摂して多様性を確保するはずの民主主義によって、むしろ激化しているように思うが、イスラム法学者としての立場から民主主義は、イスラム法学や価値観、社会のあり方とは相容れない部分はあるとお考えか。今後も対立は深まっていくのだろうか。
答: 民主主義自体には多様な意見を包摂する機能は存在しない。それは民主主義とは対立する自由主義の考え方。現行の「自由民主主義」は、ご都合主義の日和見の折衷の制度であり、場当たり式に利害を調整することはできても、まじめな議論に耐えうるものではない。
▼IS、アルカイダなどの組織は何故生まれると考えるか。彼らの思想や行いをどう見ているか。→教化される人々や子どもではなく、組織の柱となるような宗教的思想を所有する人々はどのような人生をたどることで現状に至るのか。例があれば教えていただきたい。
答: イスラームの合法政体カリフ制(イマーム制)が存在せず、イスラームの教えが全く実践されていないため。ただし、IS、アルカイダはスンナ派の中でも少数派のサラフィー主義、その中でも少数派のサラ―フィー・ジハード主義に属するので、もともとイスラーム教徒の多数派から支持される可能性は極めて低かった。