イスラーム国訪問記(3)
ISIS(イラクとシャームのイスラーム国)は、2014年6月末、「イラクとシャームの」を国名から外し、「イスラーム国(al-Dawlah al-Islamiyah, Islamic State)」と改称し、自分たちの「イスラーム国」が「イスラームのカリフ制(al-Khilafah al-Islamiyah)」であり、指導者のアブー・バクル・バグダーディーが世界中の全てのムスリムのカリフであると宣言した。
ISISだけでなく、ヌスラ戦線をはじめ、シリアで戦うサラフィー・ジハード主義者の多くは、1924年にトルコ共和国が廃止したカリフ制の再興が目標であると公言している。サラフィー・ジハード主義者とは、クルアーンとスンナの法規定を施行しない為政者を背教者と断じてジハードによる打倒を目指すスンナ派イスラーム主義反体制武装闘争派のことだ。
前回の訪問でもウマル・グラバーゥ師などは、気が早いことに「カリフ制の地へようこそ」などと言っていたので、ISISのカリフ制樹立宣言は青天の霹靂というわけではなかったが、このタイミングは予想外だった。と言うか、ISISがカリフ制再興を宣告しないことを、心の底では望んでいたのかもしれない。
カリフが擁立されて、シャリーア(イスラーム法)が施行されるダール・アル=イスラーム(イスラームの家)が現出すれば、全てのムスリムは、カリフが治めるダール・アル=イスラームにヒジュラ(移住)するのが義務となる。
さて、どうしたものか。しかし、ともあれ、畢生の仕事クルアーンの翻訳の公刊もまだだし、秋に発売予定の新書の校正も済ませないといけないし、ツイッターに連載したカリフ・ラノベ『俺の妹がカリフなわけはない!』も出版社を探さないといけないし、なによりも3月のようにトルクの国境警備隊や自警団の追撃を振り切って泥水の堀を渡り鉄条網をくぐっての国境越えは、この病軀には無理だ。まぁ、今抱えている仕事が終わるまでは様子見を決め込もう。
と思っているうちに、クルアーンの翻訳も出版され、カリフ制再興について新たに執筆依頼など受けたりと、貧乏暇無しの日々が続く中、突然、8月27日ウマル・グラバーゥ師から「我々の許に日本人のジャーナリストが捕らわれており、信頼できるアラビア語-日本語の通訳を推薦して欲しい。」とのメッセージが届いた。イスラーム国が捕虜にしている湯川氏に公正を期して日本人の通訳をつけようというのだ。
サラフィー・ジハード主義者の間で「信頼できる」というのは「サラフィー・ジハード主義者」ということだ。サラフィー・ジハード主義者でアラビア語ができて、危険な戦争のただ中にあるイスラーム国に送って死んでもよい者など私以外にだれがいよう。9月7-9日はタイのパタニ大学で『イスラームの中道』をテーマとする国際会議にゲストスピーカーとして招待されていたのだが、人命がかかっているとあってはそちらを優先するしかない。
という訳で、ちょっと情けないが、「この前のような肉体的に過酷な越境は無理なので、もっと楽な道があるなら私が行きましょう」ということで話を纏め、イスラーム国の捕虜裁判の通訳のボランティアとして自弁で格安航空券を買い、9月6日にイスラーム国に足を踏み入れることになった。
本当に楽に越境できるのか不安だったが、電話番号をもらったエージェントに連れて行かれたガズィアンテップの彼らのアジトには片足がなく松葉杖をついたムジャーヒディーンや女性も一緒だったので、これならそう過酷な旅にはなるまいと、ちょっと安心した。迎えの車が来るまで、一緒になったムジャーヒディーンたちと話をしたが、中にはパスポートもなく中国から陸路ベトナム、カンボジアを通ってマレーシア経由でトルコに辿り着いたというウイグル人のムジャーヒディーンもいた。顎髭を伸ばしているとクルド人のスナイパーに狙撃されるから顎髭を剃れ、と言われ、髭を短く刈り揃えさせられた時には少し不安になったが、実際に行ってみると、国境は鉄条網も倒れて地面に這っており、楽々と歩いて乗り越えることができた。
シリア領内に入ると、イラクでの戦利品と思われるモスル大学のバスが迎えに来たが、その夜は他のムジャーヒディーンたちとジャラーブルスのムジャーヒディーンの宿舎で一泊することになった。宿舎に着くと、名前を聞かれ、ハサン中田考だと答えると、「中田考」は聞き取れなかったようで、「ハサン・ヤーバーニー(日本人)でいいな」と言って「ハサン・ヤーバーニーと紙に書いてお終いだ。
そもそも入国審査は、パスポートを見るわけでもなく、自己申告の名前を聞くだけで、その自己申告の名前さえちゃんと記録していない。入国の時点でスパイをスクリーニングしようとは思っていない、あるいはそれは最初から諦めているようだ。なにしろ上述のウイグル人のように、ムジャーヒディーンの中にはパスポートなどそもそも持っていない者もいたりするのだから。もっとも、パスポートなどもともとイスラーム法にないものだし、ヒジュラ(移住)してくる者は全て受け容れるのがカリフ制である以上、それが当然だ、と言われればそれまでのことではあるのだが。
ジャラーブルスはトルコの携帯の電波が届くのでネットもつなぎ放題だ。GPSとかを使えば位置情報も全て筒抜けになってしまうわけだが、携帯を取り上げられるどころか、切るように求められもせず、電話をかけようとネットにつないでツイートをしていようと、誰も何も文句など言わない、相変わらずセキュリティーもなにもあったものではない。ジャラーブルスの宿舎は大部屋ではなく客室だったが、客室といっても蟻などの虫の巣窟で全身を虫に刺さ、満足に眠ることも出来なかった。
翌朝、迎えの車が来て、アルラッカ市に向かう。ジャラーブリスから少し離れるとトルコの携帯電話が繋がらなくなる。ジャラーブリスからアルラッカまでは180キロほど離れている。
3時間ほど車に揺られて、アル=ラッカ市に入り3月にも訪れたムジャーヒディーン移民管理局に連れて行かれたが、通り道では、数時間前にアサド政権による空爆があり市民が犠牲になったばかりだと、生々しい空爆の跡を見せられた。
途中、欧米のメディアでも報じられた破壊されたウワイス・カラニー廟の側を通った。イランの援助で作られた、と教えられたが、素人にも一目で分かるイラン風建築だ。民衆は、この聖者廟に7回詣でるとマッカ巡礼と同じ功徳がある、と吹き込まれて、参詣していたそうだ。イラン・シーア派のイマーム・ザーデ(廟)参詣に関してよく聞く話で、そういうクルアーンとスンナの教えに反する迷信を弘めているなら破壊されても仕方がない。
移民管理局に着いても、まぁ、極秘のミッションと言えば極秘のミッションでもあるので、当然とも言えるが、私が何者で、何をしに来たのか、話が全く通っていない。漫然と待つこと時間、やっとウマル・グラバーゥ師が現れた。ところが、今回のミッションを指揮する司令官が姿を隠してしまって、ウマル師自身も彼と電話もネットも繋がらない状態なので、連絡を取れず、話を進めることができなくなっていたのだ。
時期も悪かった。アメリカは、イラクの内戦の一局面であるヤズィーディー居住区での戦闘をIS空爆の口実にするため、イスラーム国が民族浄化を行なっているとのプロパガンダを繰り広げ、8月8日からイラクでイスラーム国への空爆を開始しており、それに対する報復として、8月19日に米国人ジャーナリストの捕虜が処刑されると、シリアに対する米軍の空爆も時間の問題とみなされるようになった。イスラーム法では老人や修道士などを除いて成人男性は戦闘員とみなされる。ジャーナリストは情報収集が仕事であり、イスラーム国に限らず、外国人記者はスパイの疑いをかけられるのが常である。イスラーム国から予め入国許可の安全保障を得ずにイラクとシリアに入った以上、スパイの嫌疑がかけられた敵国の異教徒のジャーナリストを解放するか処刑するかは、イスラーム国の裁量次第なのである。
実は、斬首はシリア国内では意外と市民の支持を得ている。今回聞いた話では、アサド政権と通謀していたスパイを捕まえて銃殺刑に処したところ、市民が「なぜ首を切らずに銃殺ですませた」と抗議して騒ぎになり、イスラーム国当局が謝罪に追い込まれたということだ。
ともあれ、米国人の処刑に呼応し、アサド政権によるアル=ラッカへの空爆も頻繁化し始めた。アメリカがアサド政権に情報提供しているとの話も聞かれるようになっていた。9月1日、オバマは空爆の決定を議会に委任し、9月2日には米国人の2人目の捕虜が処刑され、米軍のシリア空爆は不可避の情勢になっていた。
そのため、イスラーム国の幹部たちは皆、空爆を避けるため、アル=ラッカを離れて身を隠し、連絡が取れなくなってしまっていたのだ。ウマル師も結局、日本人捕虜の裁判の責任者と連絡がつかず、取り敢えずネットと電話が繋がるトルコ国境に近い彼のアジトに戻ることになった。
ウマル師のアジトでジャガイモ入りサリードをご馳走になる。サリードとは古くなったパン炊き込んだ粥で、「(預言者ムハンマドの若妻)アーイシャが他の婦人たちより優っているようにサリードは他の食べ物に優る」との預言者ムハンマドの言葉にも名が上がっている由緒正しいアラブ料理だが、少なくとも預言者ムハンマドの時代にはジャガイモは入っていなかったはずだ。
翌日昼食にカプサをいただいてから再びアル=ラッカの移民管理局に行き、責任者とコンタクトを試みる。待たされた末に、責任者の伝令が現れて、「これから捕虜(湯川氏)のところに連れて行くが、もう1週間居てもらう」、と言われる。「冗談ではない、私は12日にはイスタンブール-ドーハ便のチケットを予約してあり帰国しなくてはならないと、予め帰国便の日程も伝えているはずだ、約束が違うではないか。カリフ制を名乗っている以上、ちゃんと約束を守れ。」と思わず伝令を叱りつけてしまった。アラブの伝令はただのつかい走りでなんの権限もない。「私にそんなこと言われてもねぇ」と困った顔をしている伝令を連れてウマル師がどこかに消えた。しばらくして戻って来たウマル師が説明してくれたところでは、日本人の捕虜は他の捕虜たちと一緒で、安全のために秘密裏に居場所を転々と変えているので誰にも居場所が分からない。それで、「会うにはもう1週間ほど居てもらう必要がある」、ということだった。イスラーム国の裁判に通訳として立ち会うという滅多にない貴重な機会だし居残りたい気持ちもあったが、12日にはドーハで別の重大なミッションがあり、それにこの調子だと、米軍の空爆も始まり外国人捕虜の居場所の保秘はますます厳重になるであろう為、1週間居残っても会える保証は全然ない。イスラーム国は捕虜の裁判に公正を期しており、湯川氏は英語で裁判のやりとりが出来る英語力は全くなさそうなので、日本語通訳がみつからない限り即決裁判で処刑される懸念はなくなった。そうであれば、無理して残ることもない。いずれ、暇が出来ればゆっくり再訪すればよい。空爆の巻き添えになり他の捕虜たちと一緒に殺されなければ、ではあるが。
その晩は、アル=ラッカに済むウマル師の娘婿の家に一泊させていただき、アラブ湾岸料理の炊き込みご飯カプサなどをご馳走になった。
ジャラーブルスからアル=ラッカまで、殆ど検問らしい検問もなく、イスラーム国の治安の回復と支配の安定は実感できた。しかし、一方、アル=ラッカ市内の中心部のさびれかたは目を蔽うばかりだった。3月に訪れた時は賑わっていたナイーム広場、時計台広場などの中心部の繁華街も、露天は全く姿を消しており、店舗も軒並みシャッターを下ろしていた。アサド政府軍による空爆の激化、米軍による空爆が始まるとの予想から一時的に店を閉めているケースもあるだろうが、イスラーム法の厳格な適用を掲げるイスラーム国の施政を嫌ってアル=ラッカを去った者も少なくはないだろう。
翌日、捕虜に会えないなら長居は無用、トルコに帰ろう、と思っていたところ、180キロほど離れたアル=バーブ在住のエジプト人の友人が車で訪ねててきてくれた。これからクワイリス空港を攻撃に行く、ジハードには天国で報償があるから是非一緒に行こう、と言う。帰国まではもう一日余裕があるのでトルコのホテルでゆっくり休もうかと思っていたが、せっかく遙々アルバーブから会いに来てくれたのだから、アル=バーブまで足を伸ばすことにした。
しかし市内のインターネットの繋がる小洒落たレストランでのんびりカプサなど食べておもむろにアル=ラッカを出て、アサド政権からさきごろ奪ったタブカ空港を横目に通り過ぎ、アル=バーブに戻った頃には夕方近くになっていた。友人の家に泊めてもらうが、家族3人で5階建てのアパートに住んでいる。彼のアパートは、アサド政権などに味方していてイスラーム国の支配を嫌ってアル=バーブ市から逃れ出した住民からの戦利品としてイスラーム国に接収されたもので、ムジャーヒディーンである彼の家族に与えられている。家賃が無料なので月給約1万円(独身は5千円、家族持ちは1万円)で暮らせていけるのだ。隣や上や下の階の住人は、前から住んでいる普通のシリア市民だ。
イスラーム国が、民間人を空爆の盾にしている、というのは西欧のメディアが流したデマで、もともと外国人ムジャーヒディーンたちは、住民が逃げ出してたまたま空きが出たアパートの部屋をイスラーム国が接収したものをもらいうけてばらばらに住んでいたのだ。
友人は、奥さんに2回目の離婚宣言をしている。イスラームの離婚法では、夫の離婚宣言は2回までは取り消し可能だが3回宣言すると、もう撤回できず離婚が確定する。あと1回離婚宣言すれば離婚が成立してしまい、もう後がないのだが、なぜか仲良く一緒に暮らしており、夕食には奥さんの手料理をご馳走になった。
湯川氏のことも、アラブのメディアでもプロフィールが詳しく報じられていたので知っていたが、一言「どうでもいい狂人だ」で片付けられてしまった。スパイにしてはあまりに無能で行動が愚かしかったのが幸いしたと言うべきか。勿論、最終的にはイスラーム法学者による裁判結果を見るまでは分からないが、ウマル師も最初、「スパイ容疑が晴れれば日本に連れ帰ってもらうかもしれない」と希望的観測を述べていたぐらいで、湯川氏がイスラーム国のセキュリティーを脅かす大物スパイと疑われている可能性は低そうだ。
また友人から、「北朝鮮でもどこでもいいから防空システムを買い付けることができないか」、と相談を受けたが、そんなことは考えるだけ無駄だ、と諭した。アメリカは軍事的には核兵器などの大量破壊兵器を使いさえすれば、文字通り一瞬でイスラーム国を滅ぼすことができる。それをなぜしないのか、というと、たとえシリアやイラクのムスリムであっても巻き添えで数百万人の民間人を殺すことには、アメリカ人は耐えられないからだ。それを理解すれば「最善の防空システムが何か」は自ずと分かるはずだ。
それはイスラーム国が、欧米の一般の民間人、ジャーナリストや観光客にクルアーンが定める一時滞在者の安全保障を与えて受け容れ、イスラーム国中を自由に歩き回れるようにすることだ。またそれは、「もし多神教徒の誰かが、お前の許に滞在許可を求めてくれば、その者に入国許可を与えてアッラーの御言葉を聞かせてやり、それから彼を安全なところまで送り返してやれ。後略」(クルアーン9章6節)にあるように、イスラーム法上合法である。イスラーム国内に欧米人の民間人が溢れていれば欧米は絶対にイスラーム国を攻撃できない。防空システム構築は、軍事ではなく外交の課題なのだ。そしてイスラーム国の中でいかにクルアーンの教えが実践されているかを、欧米人に実際に来てその目で見てもらった上で本国に安全に送り返し、イスラーム国の実態について本国で報告してもらうことこそが、クルアーンが教えるイスラームの伝道の正しい方法なのだ。
翌朝、友人に送られ、ジャラーブルスの移民管理局に向かった。途中、アル=マンビジ市で、聖法事務所(al-Idarah al-Sharʽiyah)という意味不明の建物の写真を撮ったら、ムジャーヒディーンの警備兵に「撮影許可はあるのか」と絡まれカメラを没収されかけたが、友人がかけあってカメラを取り返してくれた、といった小さなトラブルはあったが、無事に移民管理局に到着し、友人と再会を訳して別れを告げた。
移民管理局でトルコに出国を待つムジャーヒディーンたちと一緒に昼食にジャガイモのトマト煮を振る舞われ、喫茶店でドイツからきた生粋の白人のムジャーヒディーンとお茶したりしながら数時間待ち、夜になって来た道と同じルートでトルコに戻った。一緒に越境した羊の群れに踏みつぶされそうになって、ちょっと焦ったこと以外、トルコの国共警備隊や、自警団に襲われることもなく、スムーズに国境を越えてトルコ領内に入ることができた。
迎えの中型バスに乗り込み、ガズィアンテップに向かった。最初、市内の長距離バスターミナルで解散の予定だったが、バスターミナルには警察が張り込んでいて危険だ、との情報が入ったらしく、結局幹線道路でバスを泊めて解散ということになった。トルコ側もイスラーム国からの「密入国者」を完全に黙認しているわけではなく、一応は取り締まってはいるようだった。
余談になるが、後で同行した邦人ジャーナーリストに聞いた話だと、私がイスラーム国に入った後、日本の外交官が4人、湯川氏が解放された場合に身柄を押えるために、ガズィアンテップのノボテルホテルに投宿し、他にやることもなく、ずっと私のツイートをおって時間を潰していたらしい。「税金泥棒」、とはよく言ったものである。
徒労感あふれるイスラーム国への旅だったが、イスラーム国が、「発展途上」というか「お試し期間中」のカリフ制であることが分かった、という意味では得がたい経験だった。
そもそもカリフ制以前に、「イスラーム国(IS)」は未だに、「イラクとシャームのイスラーム国(ISISI)」の看板を掲げ、「イラクとシャームのイスラーム国」のレターヘッドの入った便箋で公文書を発布していた。イスラーム国はカリフ制であるよりも、イラクとシリアの地方政権である。それどころかイスラーム国にはまだ統一貨幣すらなく、シリア地域ではシリア政府発行のシリア・リラ、イラク・地域ではイラク地域ではイラク・ディーナールが使われている。イラクとシリアの国境を開いたとはいえ、イラクとシリアの統合さえまだ始まったばかりであり、全ムスリム世界を統べるカリフ制への道は前途遼遠である。
なによりも、捕虜の裁判の通訳のために1週間居残るように、と言われた時、もしカリフの命令として強制的に私を連行して行くことも出来たのに、それをしなかったことが
は、彼らの良識を示している。彼らが「これはカリフの命令だ」と言えば、イスラーム法的に私はそれを拒むことはできず、勿論、丸腰の私がそれを実力で阻止することも出来なかった。それでも、彼らはそんなことはしなかった。それどころか、「カリフ国なら約束を守れ」と罵られても、「不敬である」と逆ギレすることもさえもなかった。
彼らはイスラーム国こそカリフ制であり、アブー・バクル・バグダーディーは、全てのムスリムが従うべきカリフであると信じている。しかし同時に、現実には、イスラーム国が12億人とも16億人とも言われる世界の全てのムスリムの生命、財産の安全を保証する力がないことも自覚しており、カリフと忠誠の誓いバイアを交わしていない私のような一般のムスリムに、カリフの命令を力づくで押しつけようともしない。
シリアとイラクという過酷きわまりない政治環境で生まれたにしては、カリフ制再興を目指す「イスラーム国」は、実はどうしてなかなか柔軟で良識的なのだ。中東事情に疎く、その政治風土に馴染みのない日本人にはなかなか理解してもらえないとは思うけれど。(終り)