第二部理論枠組:漸進戦略と圏域政治
第1章
地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ
1. 空間把握、地理認識と地図
フェルナン・ブローデルは『文明史』冒頭の文章において、地理学の文明形成におけるオリジナルな貢献をイスラーム文明の例として示すために、「地図は真の物語を知らしめる」と言う 。実のところ、個人であれ、その個人からなる社会であれ、より大きい尺度の文明の集合であれ、それを支える一番の基礎は、「文明の自己認識」 となる実存意識に対応する空間-時間把握である。
強大な文明が飛躍していくのを先導しその文明の裾野の周辺にある種の秩序を形成する社会は、歴史の舞台に登場した時点から、その影響力によってその歴史の舞台を形作り始める時期の間に、それ自身の故地から世界を認知していく。より単純な地理的環境把握からより複雑な世界把握へと直接的に発展するこの意識は、地図の上に最も具体的な形をとって現われる。戦略思考の形成に関して既に述べたように、地理学は客観的な現実であるが、地図はこの客観的現実の文明的認識過程を経た主観的形態である。天文学が科学の中心を占めた存在認識によっていくつもの文明を作り上げたバビロニア人は天空の物質との関連において地表における空間認識を構築し、イラン人は世界を互いに平等な7つの円から成る7つの領域(国)へ分け、自分達の空間を4番目の中心の円に配置した後に他の6つの円を互いに接する形でこの中心の円の周囲に配置した。
地理に関する最初の系統立った知識は、一方ではエジプトを超えて、他方ではベロッススの現ボドルム湾の端にあるコス島(スタナコ、あるいはスタンチオ、[トルコ語名]イスタンキョイ)において紀元前640年代に設立された学校によりバビロン的知識を手中にしたギリシャ人の地理認識も、自己の文明圏を広げたことで包括的な形を採ったエーゲ海中心の認識である。世界を周囲を大洋に囲まれた平坦な円盤として認識したホメロスの世界観はギリシャの空間認識の限界をも描き出していた。世界を円柱の底面として描いたミレトスのアナクシメネス(紀元前500年代)も同様にギリシャ都市国家群の影響圏が拡散する地域をそのまま広げ続けていくという認識だった。この認識はシチリア島からカスピ海にまで達する一つの世界を思い描いていた。
マケドニアから出発し、東へと伸びる古代文明圏を影響下に組み込んだ(多文化他宗教)混淆的な帝国を樹立したアレクサンドロス大王によって、こうした空間認識とその認識を基にした地図も変化した。 マケドニアからメソポタミア、インドとエジプトへと伸びた帝国に自分の名前を冠した都市(アレキサンドリア)の建設を戦略の支柱に据えたアレキサンダー大王は、自分自身を文明のジンテーゼの地理把握とその(空間)把握の中心概念の具象化としたのである。世界と地理の把握は、アレキサンダー大王の非常に戦略的な決定によって古代エジプト、地中海、メソポタミアの「肥沃な三日月地帯」に建設したアレキサンドリアから始まり、アレキサンダーによってメソポタミア、イラン、インドに相次いで作られたアレキサンドリアの名に由来する都市によって普及していったのである。この認識の学問的下部構造と地図測量学上の実質的な具体化もまたアレキサンドリアによって形を取った。人類のその時代までの知的遺産の蓄積が詰まったこの都市(アレキサンドリア)は、最初の地理基準(経緯度)を作ったエラトステネス(天文学者、数学者、前194年没)は、地理の認識と地図測量学に重要な新しい道を開いたストラボン(地理学者、前23年没)と、最も重要な古典的世界観形成において中心的な役割を演じたプトレマイオス(天文学者、168年没)の仕事の苗床を準備した。これらの仕事の元になった地図がアレキサンダー大王の支配領域の包摂と、その結果としてイランとインドをも地理的認識がその位置づけることになったことは、文明圏と政治的支配の関係を明瞭に示している。
イタリヤ中部の都市国家という自己理解によって生まれたローマも拡大するにつれて、自己を中心とする空間把握を支配領域に広めていった。古典的地図において「Mare Interum(中海)」と呼ばれた地中海はローマ人にとって「Mare Nostrum(我らの海)」であった。西欧からメソポタミアへ黒海から地中海へ広がり(ローマ)帝国の戦略的脊柱を成す幹線道路は、そのネットワークにおいて「全ての道はローマに通ずる」という格言によって空間把握の中心として具体的に認識されていたのである。
キリスト教によって変化した空間把握と地理意識の格好の例もまたアレキサンドリア出身の6世紀の人コスマス・インディコプレウステス(地理学者、没年不明)であった。古典的に知られていた地域を超えて、エチオピア、インド洋、スリランカまで旅し、キリスト教に入信して後に『キリスト教地誌』を著したコスマスの主たる目的は、聖書とキリスト教正統信仰に適合した空間認識を地理学の形式で表現することであった。世界はその時代のものとノアの洪水以前のものとの二つの部分であり、地中海と、イラン、アラブ、カスピの海と湾からなると述べるコスマスは、地表は海で囲まれており、そしてこれらの海の向こうに(Terra ultra Oceanum,海上の陸)人類が洪水の前に住んでいた地域とアダムの楽園があると主張した。
世界は四方に東はインド人、西はケルト人、北はスキタイ人、南はエチオピア人がいると述べるコスマスは、この説明によって、一方でキリスト教の世界観に適合した空間把握、他方で、キリスト教世界を中心とする地理的認識の限界を明らかにした。 この中心を受容をこのように前に持ってこられたことで、アジアの遠くムスリムを破ってキリスト教世界を護るプレスター(司祭)ジョンと名乗る聖王が治める(キリスト教)王国があるとの伝説が出来上がった。教皇アレクサンデル3世(在位1159-81年)は1177年にこの伝説的な王に自らの書簡を託した博士を遣わせた。しかしその教学博士の使節は帰ってこず、ムスリムに敵対するモンゴル王との接触を望んだ教皇インノケンチウス世(在位1198-1226年)が派遣したドミニコ会とフランシスコ会の修道士たちが極東(元朝)に旅した後には、そのような王国が存在しないことが判明した。同じ時期にゴグとマゴグの概念をめぐって紡ぎあげられた議論は、伝説、歴史、地理の知識がいかに入り込んでいるかを示す例に満ちている。しかし、これらはみな内側から見られた連続的な要素であるが、古代ギリシャからローマとキリスト教を経た後で、植民地主義の文化に中でも「私と他者」の区別として近代地理学の認識の形をとって受け継がれた。
イスラーム文明の歴史の舞台への登場も、ブローデルが強調したように独自の地理的諸条件に直接的に関わっていた。古代の文明圏の周辺地帯に現れたイスラームは、アレキサンダー大王の時代に生まれその後に広がった諸文明が影響しあう領域の全てを支配下におさめ、スペインからインド、中国文明圏にまで広がる地域に新しい空間認識が生まれるための土台を用意した。
初期のイスラームの地誌学者たちは、プトレマイオスの伝統の中で(アッバース朝)カリフ・マァムーン(在位813-833年)に献呈された最初の世界地図であったようにプトレマイオスの伝統を大きく進歩させる一方で、他方でバルフ学派の中でイスラーム世界を中心とする新しい空間認識を反映し全く独自の進歩を遂げた。学派の創始者の(アブー・イスハーク・イブラーヒーム)バルヒーは『イスラームの国(Mamlakah Islam) 』の諸地域を扱った地図を作り、すべての地域に地帯の名前を与えた。この学派の重要な代表者の一人マクディスィーは地中海中心の古典的地誌学を超えて、インド洋志向の重要な作品に数えられるが、それまで未知であった地域を加えた地図を作り上げた。バルヒー学派のマッカを中心とする円形の世界の地図を発展させたこと、南北差の再定義は諸文明の「自己認識」から出発して地理的認識を発展させたことの重要な例の一つである。ビールーニーの最初の大西洋とインド洋の間の繋がりを示した地図を発展させたことは、イスラーム文明が広まった地域と空間把握の間の関係を示すこと、後のヨーロッパの旅行者たちによって発展させられた新しい地理学の理解の最初の先触れであるとの点で重要である。
社会が中心の周辺での空間把握を発展させたもう一つの好例はトルコの地誌学である。1072年と1074年の間に書かれた『トルコ語辞典(Diwan Lughah al-Turk )』の著者マフムード・カシュガリーがトルコ語の方言の分布に則って描いた世界地図はべラサグン市を中心としてなされ、7つの川の地域がトルコ系諸部族民の定住地として識別されている。ユーラシアの遠方にあるベルサグンから、すべての古代文明が交差する地域にあるイスタンブールのオスマン帝国の時代の地誌に至る時間は、
空間把握の変化、文明の進化、世界秩序の概念の関係を明白な形で生み出した。
1413年にアフマド・スライマーン・タンジーが作った黒海と大西洋の東岸のヨーロッパとアフリカ沿岸、イギリス(ブリテン)諸島を描いた海図は、同時に空間の地平の早い時代の反映とみなされる。オスマン帝国の地誌学の奇跡の最高峰ピール・ライースの地図は、アレキサンダー大王の文明のジンテーゼの引力圏の古代の全ての遺産がアレキサンドリアで統合されたのと同じことがオスマン帝国の黄金時代のイスタンブールでもなされたことを示している。1567年のマジャール・アリー総督の地図とほとんど同じ時期に発展させられたフマーユーン地図が含む(1)黒海とマルマラ海、(2)東地中海とエーゲ海、(3)中央地中海とアドリア海、(4)西地中海とスペイン、(5)西欧の大西洋岸とイギリス諸島、(6)エーゲ海、(7)モレアス専制公領と南イタリヤ、(8)世界、(9)ヨーロッパと北アフリカ、という9つの地域からなる地図の内容もオスマン帝国の権威がいきわたった領域をカバーしており、古代の地図の伝統を超えた豊富な内容を有する独自なものとなっている。
地球全体の認識を可能にした「地理上の発見」、資本主義の前段階である重商主義、明確な国境の中で組織化される国民国家という現象は、ヨーロッパの(国際政治)秩序の礎石を成すウエストファリア体制が次第に整っていく過程における近代西洋文明の空間認識と経済、政治認識の間の密接な関係を明るみに出す。ヨーロッパを上の中心に置くヨーロッパ中心の世界地図は、ヨーロッパ中心の商業システムとヨーロッパ型の国家形成の広まりと並行して発展したのである。
第1章
地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ
1. 空間把握、地理認識と地図
フェルナン・ブローデルは『文明史』冒頭の文章において、地理学の文明形成におけるオリジナルな貢献をイスラーム文明の例として示すために、「地図は真の物語を知らしめる」と言う 。実のところ、個人であれ、その個人からなる社会であれ、より大きい尺度の文明の集合であれ、それを支える一番の基礎は、「文明の自己認識」 となる実存意識に対応する空間-時間把握である。
強大な文明が飛躍していくのを先導しその文明の裾野の周辺にある種の秩序を形成する社会は、歴史の舞台に登場した時点から、その影響力によってその歴史の舞台を形作り始める時期の間に、それ自身の故地から世界を認知していく。より単純な地理的環境把握からより複雑な世界把握へと直接的に発展するこの意識は、地図の上に最も具体的な形をとって現われる。戦略思考の形成に関して既に述べたように、地理学は客観的な現実であるが、地図はこの客観的現実の文明的認識過程を経た主観的形態である。天文学が科学の中心を占めた存在認識によっていくつもの文明を作り上げたバビロニア人は天空の物質との関連において地表における空間認識を構築し、イラン人は世界を互いに平等な7つの円から成る7つの領域(国)へ分け、自分達の空間を4番目の中心の円に配置した後に他の6つの円を互いに接する形でこの中心の円の周囲に配置した。
地理に関する最初の系統立った知識は、一方ではエジプトを超えて、他方ではベロッススの現ボドルム湾の端にあるコス島(スタナコ、あるいはスタンチオ、[トルコ語名]イスタンキョイ)において紀元前640年代に設立された学校によりバビロン的知識を手中にしたギリシャ人の地理認識も、自己の文明圏を広げたことで包括的な形を採ったエーゲ海中心の認識である。世界を周囲を大洋に囲まれた平坦な円盤として認識したホメロスの世界観はギリシャの空間認識の限界をも描き出していた。世界を円柱の底面として描いたミレトスのアナクシメネス(紀元前500年代)も同様にギリシャ都市国家群の影響圏が拡散する地域をそのまま広げ続けていくという認識だった。この認識はシチリア島からカスピ海にまで達する一つの世界を思い描いていた。
マケドニアから出発し、東へと伸びる古代文明圏を影響下に組み込んだ(多文化他宗教)混淆的な帝国を樹立したアレクサンドロス大王によって、こうした空間認識とその認識を基にした地図も変化した。 マケドニアからメソポタミア、インドとエジプトへと伸びた帝国に自分の名前を冠した都市(アレキサンドリア)の建設を戦略の支柱に据えたアレキサンダー大王は、自分自身を文明のジンテーゼの地理把握とその(空間)把握の中心概念の具象化としたのである。世界と地理の把握は、アレキサンダー大王の非常に戦略的な決定によって古代エジプト、地中海、メソポタミアの「肥沃な三日月地帯」に建設したアレキサンドリアから始まり、アレキサンダーによってメソポタミア、イラン、インドに相次いで作られたアレキサンドリアの名に由来する都市によって普及していったのである。この認識の学問的下部構造と地図測量学上の実質的な具体化もまたアレキサンドリアによって形を取った。人類のその時代までの知的遺産の蓄積が詰まったこの都市(アレキサンドリア)は、最初の地理基準(経緯度)を作ったエラトステネス(天文学者、数学者、前194年没)は、地理の認識と地図測量学に重要な新しい道を開いたストラボン(地理学者、前23年没)と、最も重要な古典的世界観形成において中心的な役割を演じたプトレマイオス(天文学者、168年没)の仕事の苗床を準備した。これらの仕事の元になった地図がアレキサンダー大王の支配領域の包摂と、その結果としてイランとインドをも地理的認識がその位置づけることになったことは、文明圏と政治的支配の関係を明瞭に示している。
イタリヤ中部の都市国家という自己理解によって生まれたローマも拡大するにつれて、自己を中心とする空間把握を支配領域に広めていった。古典的地図において「Mare Interum(中海)」と呼ばれた地中海はローマ人にとって「Mare Nostrum(我らの海)」であった。西欧からメソポタミアへ黒海から地中海へ広がり(ローマ)帝国の戦略的脊柱を成す幹線道路は、そのネットワークにおいて「全ての道はローマに通ずる」という格言によって空間把握の中心として具体的に認識されていたのである。
キリスト教によって変化した空間把握と地理意識の格好の例もまたアレキサンドリア出身の6世紀の人コスマス・インディコプレウステス(地理学者、没年不明)であった。古典的に知られていた地域を超えて、エチオピア、インド洋、スリランカまで旅し、キリスト教に入信して後に『キリスト教地誌』を著したコスマスの主たる目的は、聖書とキリスト教正統信仰に適合した空間認識を地理学の形式で表現することであった。世界はその時代のものとノアの洪水以前のものとの二つの部分であり、地中海と、イラン、アラブ、カスピの海と湾からなると述べるコスマスは、地表は海で囲まれており、そしてこれらの海の向こうに(Terra ultra Oceanum,海上の陸)人類が洪水の前に住んでいた地域とアダムの楽園があると主張した。
世界は四方に東はインド人、西はケルト人、北はスキタイ人、南はエチオピア人がいると述べるコスマスは、この説明によって、一方でキリスト教の世界観に適合した空間把握、他方で、キリスト教世界を中心とする地理的認識の限界を明らかにした。 この中心を受容をこのように前に持ってこられたことで、アジアの遠くムスリムを破ってキリスト教世界を護るプレスター(司祭)ジョンと名乗る聖王が治める(キリスト教)王国があるとの伝説が出来上がった。教皇アレクサンデル3世(在位1159-81年)は1177年にこの伝説的な王に自らの書簡を託した博士を遣わせた。しかしその教学博士の使節は帰ってこず、ムスリムに敵対するモンゴル王との接触を望んだ教皇インノケンチウス世(在位1198-1226年)が派遣したドミニコ会とフランシスコ会の修道士たちが極東(元朝)に旅した後には、そのような王国が存在しないことが判明した。同じ時期にゴグとマゴグの概念をめぐって紡ぎあげられた議論は、伝説、歴史、地理の知識がいかに入り込んでいるかを示す例に満ちている。しかし、これらはみな内側から見られた連続的な要素であるが、古代ギリシャからローマとキリスト教を経た後で、植民地主義の文化に中でも「私と他者」の区別として近代地理学の認識の形をとって受け継がれた。
イスラーム文明の歴史の舞台への登場も、ブローデルが強調したように独自の地理的諸条件に直接的に関わっていた。古代の文明圏の周辺地帯に現れたイスラームは、アレキサンダー大王の時代に生まれその後に広がった諸文明が影響しあう領域の全てを支配下におさめ、スペインからインド、中国文明圏にまで広がる地域に新しい空間認識が生まれるための土台を用意した。
初期のイスラームの地誌学者たちは、プトレマイオスの伝統の中で(アッバース朝)カリフ・マァムーン(在位813-833年)に献呈された最初の世界地図であったようにプトレマイオスの伝統を大きく進歩させる一方で、他方でバルフ学派の中でイスラーム世界を中心とする新しい空間認識を反映し全く独自の進歩を遂げた。学派の創始者の(アブー・イスハーク・イブラーヒーム)バルヒーは『イスラームの国(Mamlakah Islam) 』の諸地域を扱った地図を作り、すべての地域に地帯の名前を与えた。この学派の重要な代表者の一人マクディスィーは地中海中心の古典的地誌学を超えて、インド洋志向の重要な作品に数えられるが、それまで未知であった地域を加えた地図を作り上げた。バルヒー学派のマッカを中心とする円形の世界の地図を発展させたこと、南北差の再定義は諸文明の「自己認識」から出発して地理的認識を発展させたことの重要な例の一つである。ビールーニーの最初の大西洋とインド洋の間の繋がりを示した地図を発展させたことは、イスラーム文明が広まった地域と空間把握の間の関係を示すこと、後のヨーロッパの旅行者たちによって発展させられた新しい地理学の理解の最初の先触れであるとの点で重要である。
社会が中心の周辺での空間把握を発展させたもう一つの好例はトルコの地誌学である。1072年と1074年の間に書かれた『トルコ語辞典(Diwan Lughah al-Turk )』の著者マフムード・カシュガリーがトルコ語の方言の分布に則って描いた世界地図はべラサグン市を中心としてなされ、7つの川の地域がトルコ系諸部族民の定住地として識別されている。ユーラシアの遠方にあるベルサグンから、すべての古代文明が交差する地域にあるイスタンブールのオスマン帝国の時代の地誌に至る時間は、
空間把握の変化、文明の進化、世界秩序の概念の関係を明白な形で生み出した。
1413年にアフマド・スライマーン・タンジーが作った黒海と大西洋の東岸のヨーロッパとアフリカ沿岸、イギリス(ブリテン)諸島を描いた海図は、同時に空間の地平の早い時代の反映とみなされる。オスマン帝国の地誌学の奇跡の最高峰ピール・ライースの地図は、アレキサンダー大王の文明のジンテーゼの引力圏の古代の全ての遺産がアレキサンドリアで統合されたのと同じことがオスマン帝国の黄金時代のイスタンブールでもなされたことを示している。1567年のマジャール・アリー総督の地図とほとんど同じ時期に発展させられたフマーユーン地図が含む(1)黒海とマルマラ海、(2)東地中海とエーゲ海、(3)中央地中海とアドリア海、(4)西地中海とスペイン、(5)西欧の大西洋岸とイギリス諸島、(6)エーゲ海、(7)モレアス専制公領と南イタリヤ、(8)世界、(9)ヨーロッパと北アフリカ、という9つの地域からなる地図の内容もオスマン帝国の権威がいきわたった領域をカバーしており、古代の地図の伝統を超えた豊富な内容を有する独自なものとなっている。
地球全体の認識を可能にした「地理上の発見」、資本主義の前段階である重商主義、明確な国境の中で組織化される国民国家という現象は、ヨーロッパの(国際政治)秩序の礎石を成すウエストファリア体制が次第に整っていく過程における近代西洋文明の空間認識と経済、政治認識の間の密接な関係を明るみに出す。ヨーロッパを上の中心に置くヨーロッパ中心の世界地図は、ヨーロッパ中心の商業システムとヨーロッパ型の国家形成の広まりと並行して発展したのである。