2020年9月29日火曜日

第28「名声と偽善」章:『宗教諸学の再生・要約』

 



第28章「名声と偽善」

 知りなさい。名声は心(カルブ)が好むものであり、篤信者(スィッディーク)以外はそれを退けることはできない。それゆえ篤信者の頭から最後まで離れないものが支配権(リヤーサ)の愛だと言われる。それでその意味を節に分けて説明する。

 知りなさい。名声の本質は評判が広がることで、それは非難されるべきものである。例外はアッラーがその宗教(イスラーム)を広めるために有名にされた者である。アナスはアッラーの使徒が以下のように言われたと述べている。「アッラーが護り給う者を除いてその宗教と現世(の生活)について人々から後ろ指を指されるより悪いことはない」。

 アリーは言った。「散財しても有名になるな。噂され知られるために自分を目立たせるな。隠し沈黙せよ。そうすれば平安である。敬虔な者は上機嫌だが、悪人は不機嫌である」。

 イブラーヒーム・ブン・アドハムは言った。「欲望(対象)を好む者はアッラーを認めない」。タルハは一緒に歩いている者たちの方を見て言った。「まとわりつく蠅、灯火に群がる蛾」と言った。スライマン・ブン・ハンザラは言った。「私たちがウバイイ・ブン・カアブと一緒にいて、私たちが彼の後を歩いていると、ウマルが彼をみつけ、鞭で打って言った。『見なさい、信徒たちの長よ、何をするか』すると(ウマルは)言った。「それは付いていく者たちにとっては恥辱、前を歩く者には(思いあがりの)誘惑だからだ」。

 ハサンが伝えて言うところ。ある日、イブン・マスウードが家を出ると、人々が彼の後をついて歩いた。そこで(イブン・マスウードは)彼らに目を向けて言った。「なぜ私についてくるのか?アッラーにかけて、もしあなたがたが私の(家の)扉が閉められた時(の私の姿)を知っていれば、誰も私について来ないだろう」。ハサンは言った。「人々の背後で靴音が響くと愚か者どもは気もそぞろになる」。

 匿名の徳:

 アッラーの使徒は言われた。「誰も気にもかけず、乱れ髪、誇りまみれで粗末な服を着ていても、アッラーに誓えば、必ず果たす者がいる。バラーゥ・ブン・マーリクはそのような者の一人である」。イブン・マスウードもアッラーの使徒が以下のように言われたと述べている。「誰も気に留めない粗末な衣服を着た者であってもアッラーに請願すれば適い、『アッラーよ、あなたに楽園を祈願します』と言えば、アッラーが現世では何も授けなくとも楽園を授け給うような者がいかにたくさんいることか」。

 アブー・フライラは預言者が以下のように言われたと述べた。「楽園の民とは、王侯に面会の許可を申し込んでも許されず、女性に結婚を申し込んでも結婚してもらえず、発言しても静聴してもらえないような誰も気にかけない粗末な服を着て埃にまみれ髪も乱れた者ばかりである。彼らは困っていることがあっても心の中で繰り返し呟くばかりである。しかし最後の審判の日にその(一人の)光が人々に分配されれば彼らに十分に行き渡る」。

 以下のように伝えられている。ウマルが(マディーナの預言者)モスクに入ると、ムアーズ・ブン・ジャバルがアッラーの使徒の墓のところで泣いていた。そこで(ウマルが)「なぜ泣いているのか」と尋ねると、(ムアーズは)言った。「私はアッラーの使徒が以下のように言われるのを聞いた。『些細な偽善も多神崇拝(シルク)である。アッラーは、居なくなっても探されず、居ても気付かれないような目立たぬ敬虔な者たちを愛で給う。彼らの心は導きのランプであり、あらゆる暗闇から救われる」。

 イブン・マスウードは言った。「地上の人間には知られずと、天上の天使たちに認められる

知識の鉱脈、導きのランプ、家の敷布(底本ではأجلاسだがナッジャール版の أحلاسで読む)、夜のランプ、心中の反省、衣服の襤褸のような者でありなさい」。

「名声欲の非難について」節

 アッラーは仰せである。「それは来世の家であり、我らはそれを地上での驕り高ぶり、堕落を望まない者のために作った」(28章83節)

 知りなさい。財貨の意味が諸物の所有であったように、名声の本質は心(カルブ)の所有である。そして財貨の所有者がその財貨によって求める対象を得るように、心の所有者はそれによって求める対象を得るのであり、名声はその求める対象の一つである。

 財貨が職業や産業によって得られるのと同じく、心は様々な行動(ムアーマラート)によって得られる。心は信条によってしか支配できない。ある種の完成に達していると信じられるあらゆる者に対して、人の心は従う。心の所有とは人々に崇拝させることであり、また奴隷にすることである。そして財貨が愛されるなら、名声は猶更である。

 知りなさい。名声は支配と主権を求める霊の糧である。というのは霊はアッラーの命令の世界に属するからであり、それは人間に対して主権と支配と奴隷化を求め、完全性を愛し、それを求める。それゆえあなたはこの欲求のない(底本ではينفعكだがナッジャール版のينفكで読む)者を見つけることはできないだろう。

 知りなさい。魂はただ賞賛されることで安らぎ、それで感激する。なぜなら魂は充足を愛し、それ(賞賛)によって充足を感じるからである。逆に非難されるのを嫌うのは、(魂は)不足を嫌い、それ(非難)によって(自分に何かが)不足していると感じるからである。

名声欲への処方の説明:

 知りなさい。名声欲に憑りつかれた者は、名声を欲し、それをいかに増して、被造物(人間)の心を奪うかにしか関心がなくなる。そしてそれによって偽善と偽信仰を余儀なくされる。

 それゆえアッラーの使徒はそれ、つまり金銭欲と名声欲を家畜の柵の中の獰猛な二匹の狼に譬えられ、言われた。「水が草を育むようにそおれは偽信仰を育む」。その対処は知識と校医の組合せである。

 知識とは、その目的が心の所有であることを知ることである。我々は(心は)たとえ澄んで健全であろうとも、その最後は死であることを既に明らかにした。それは正しく永続するものではない。地上の東西全ての者があなたに跪拝しても、50年たてば跪拝した者も跪拝された者も生存していないのである。あなたはあなた以前に死んだ有名な者たちと同じである。それは実体のない幻の充足である。なぜならそれは死によって消滅するからである。

 それはハサン・バスリーがウマル・ブン・アブドゥルアズィーズに書簡を送った時に書いたとおりである。「あなたが死が書き定められた者の最後の者で既に死んだかのようであれ」。そこで(ウマル・ブン・アブドゥルアズィーズが)その返事に書いた。「あなたが現世に存在しないかのように、またあなたがすでに来世にいるかのようであれ」。彼らは末路を見すえ、来世が近いことを知っていたのである。

 行為について言えば、彼らにはそのための道がある。彼らの中には酒に似た飲み物を飲み、人々が酒を飲んでいると誤解して彼を避ける者もいる。また中には禁欲によって有名であっても、風呂に入り、別人の服を着て現れ、道の途中で止まり、遂には人々が彼(の正体)を知り、彼を捉え、服を脱がせ、殴って、「この泥棒め」と言って追い出すような者もいる。

 そのための最短の道は孤立と知り合いのいない場所への移住である。地元で隠棲するなら人々が自分が隠棲し引き籠ったことを知っているために一種の偽善を免れない。

賞賛を好み非難を嫌うことから救われるための処方の説明:

 その原因が充足が幻想にすぎないためであることは既に述べた。それには根拠がなく、此岸でしか意味がなく、たとえ賞賛が宗教的な事柄についてであっても来世では無意味であることを知れば、それは幻想でしかない。というのは充足は良き末期によってでしかないが、それはこの危険を乗り越えた後だからである。

この章の第二の主題「偽善」の説明

 知りなさい。偽善(リヤーゥ)は禁じられており、偽善者はアッラーの御許で御怒りを被った者である。「礼拝に気もそぞろで偽善的に(他人に)見せるだけに礼拝する者たちに災いあれ」(107章4節)とのアッラーの御言葉がそれを示している。またアッラーは仰せである。

「その主に拝謁することを望む者は善行を行い、その主の崇拝において何物も並べてはならない」(18章110節)。

 また「アッラーの使徒よ、どうすれば救われますか」と尋ねられ、(預言者は)答えられた。「しもべが人間(の表か)を意識せずにアッラーに服従することである」。また(預言者は)言われた。「あなた方に対して最も心配なのは小さな多神崇拝です」。(人々が)「アッラーの使徒よ、小さな多神崇拝とは何でしょうか」と尋ねると、(預言者は)「偽善(リヤーゥ)です。アッラーは『最後の審判の日にしもべたちにその行為に対して報われる時に、『お前たちが下界で偽善的に(行為を)見せびらかした者たちのところに行って彼らの許に報償があるか見るがよい』と仰せになる。」また(預言者は)言われた。「アッラーに『悲しみの谷』からの庇護を求めなさい」。そこで「アッラーの使徒よ、それは何ですか」と尋ねられ、(預言者は)答えられた。「(他人に)みせびらかすために偽善者にクルアーンを読誦する者たちのために用意された火嶽にある涸れ谷です」。

 アブドゥッラー・ブン・ムバーラクはその伝承経路である男から以下のように伝えている。

その男はムアーズ・ブン・ジャバルに言った。「あなたがアッラーの使徒から聞いたハディースを私に語ってください。」

(その男は)言った。「すると(ムアーズは)私が彼は泣き止まないのではないかと思うほどに泣いた後で静かになり、それから言った。「私はアッラーの使徒が私に『ムアーズよ』と言われるのを聞き、彼に『ここにおります。アッラーの使徒よ。あなたは我が父母より大切ンあ御方です、アッラーの使徒よ』。そこで(預言者は)言われた。『あなたに記憶すればあなたの役に立つが、それを忘れて失くしてしまうと、最後の審判の日にアッラーの御許であなたの弁明が尽きてしまうようなハディースを話しましょう』」。ムアーズよ、アッラーは天地を創造する前に7人の天使を創造された。それから7つ天を創造しそれぞれの天に、それぞれに門番の天使を作り、それらに威厳を備えさせました」。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちがしもべの行為のうちの善行を取り上げて進み、それを浄めて増やし、それを第二天まで届けると、第二天担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴れ。私は誇りの天使である。この者はその行為で現世の名誉を求めていた。我が主はその行為が私を超えて他の者(第三天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである。この者は人々の集まりで彼らに対して自慢したからである。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは喜捨と斎戒と礼拝の光に悦び満足してしもべの知識を持って第三天に向かって昇っていった。するとその(第三天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴れ。私は傲慢の天使である。この者はその行為で現世の名誉を求めていた。我が主はその行為が私を超えて他の者(第四天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである。この者は人々の集まりで彼らを見下したからである。

(ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは蜂のブンブンうなる羽音のような賞賛、礼拝、大巡礼、小巡礼の騒音を立てるしもべの行為を携えて第四天に向かって昇っていった。するとその(第四天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴り、それでその背と腹を殴れ。私は自己満足の天使である。我が主はその行為が私を超えて他の者(第五天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである。この者は行為を行う時に、自分の行為に自己満足を混ぜ込んだからである。」

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは実家に向かう婚礼の花嫁のようにしもべの行為を運んで第五天に向かって昇っていった。するとその(第五天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴り、それを彼の肩の上に担がせよ。私は嫉妬の天使である。なぜならその者は人々を嫉妬し、学びんで自分の行為と同じことを行った者、崇拝の功徳を得た全ての者を嫉妬し、彼らを謗っていたからである。我が主はその行為が私を超えて他の者(第六天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである」。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは礼拝、浄財、小巡礼、大巡礼、斎戒のようなしもべの行為を携えて第六天に向かって昇っていった。するとその(第六天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴れ。なぜなら試練や害悪に見舞われたアッラーのしもべを少しも慈しまず、見下して見捨てた私は慈悲の天使である。(我が主は)その行為が私を超えて他の者(第七天以上の担当天使たち)に渡してはならない、と仰せである」。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは雷鳴のような音響、陽光のような光を放ち、三千の天使が同行する斎戒、礼拝、扶養、イジュティハード、敬神のようなしもべの行為を携えて第七天に向かって昇っていった。するとその(第七天)担当天使が彼らに言う。「止まり、この行為でその行為者の顔を殴り、それで彼の四肢を殴り、それでその心に錠をかけよ。我が主は私に、その者と我が主の顔を望んで行わなかったあらゆる行為とを遮断せよ、と命じられた。なぜならその行為においてアッラー以外を意識し、法学者たちの間での高い地位、学者たちの許での評判、諸国での名声を望んでいたからである。我が主はその行為が私を超えて他の者に渡してはならない、と仰せである。アッラーだけに捧げられたのでない行為は全て偽善(リヤーゥ)であり、アッラーは偽善者の行為を受け入れません」。

 (ムアーズは)言った。

 それから記帳天使たちは礼拝、浄財、斎戒、大巡礼、小巡礼、良い性格、沈黙、アッラーの唱念斎のようなしもべの行為を携え、第七天の天使たちの行列と共に昇っていき、遂に全ての覆いを過ぎ去りアッラー御前に至った。そして彼ら(天使たち)は彼(アッラー)の御前に立ち、彼のためにアッラーのみに捧げられた行為を証言します。

 (ムアーズは続けて)言った。

 アッラーは彼らに仰せられる。「あなたがたは我がしもべの行為の記帳天使であるが、私はその魂(ナフス)の監視者である。あの者はその行為で私を意識せず、それで私以外を意識していた。それゆえ彼には我が呪いがあり、天使たちは皆、「この者にあなたの呪いあれ、またこの者に我らの呪いあれ、七つの天とその中にいる者たちもこの者を呪います」。

 ムアーズは言った。

 私は言った。「アッラーの使徒よ。あなたはアッラーの使徒であり、私はムアーズです。どうすれば救われるのでしょう。」

 すると(預言者は)言われた。「あなたの預言者に倣い、クルアーン読誦者などのあなたの同胞に対する誹謗に口を慎みなさい。自分の罪を自分で負い、彼らにそれを担わせるな。彼らを非難することで自分を浄め、自分を彼らの上に立たせようとするな。現世の行為を来世の行為に混入させるな。あなたの口座で高慢に振舞い、あなたの悪い性格を人々に疎んじさせるな。他の人間がいるところで一人だけと密談してはならない。また現世の善福が立たれないように人々に対して孤高になってはならない。人々(の間)を引き裂いて、最後の審判の日に獄火の犬があなたを噛み千切ることがあってはならない。アッラーは『活発に活動する者たちにかけて』(79章2節)と仰せである。ムアーズよ、それ『活発に活動する者たち(ナーシタート)』とは何か分りますか。」

 私が「あなたは私の父と母より大切な御方です、アッラーの使徒よ、それは何でしょうか」と言うと、(預言者は)「肉と骨を焼き尽くす(ナシャタ)獄火の犬です。」と言われました。私が「あなたは私の父と母より大切な御方です、アッラーの使徒よ、だれがこのような難題に耐えられるでしょうか。誰がそれから救われるのでしょうか」と尋ねると、(預言者は)言われました。「ムアーズよ、アッラーが易しくされた者には易しいこと。あなたは自分のために望むことを人々にも望み、自分が嫌うことを他人がされるのも嫌だとおもえば十分です」。

 (ムアーズ)は言った。「私はこのハディースの内容への訓戒のためにムアーズ以上にクルアーンを多く読む者を知りません」。

 イクリマは言った。アッラーはしもべにその意図に応じて、その行為に応じては与えないものを授け給う。なぜならば意図は、偽善が入り込まないほど更に奥深くにあるものだからである」。

偽善の本質の説明:

 「偽善(riyā')」は「見ること(ru'yah) 」の派生語、「声望(sum‛ah)」は「聞くこと( samā‛)」の派生語である。「偽善」の語義は人々が自分たちの許での地位を見ることを求めることであり、人々の許での地位を求めることは、崇拝行為以外の行為によることもあれば、崇拝行為によることもある。

 それゆえ崇拝行為以外における偽善とは粗末な服を着たり、それ(服)をたくし挙げてたり、黄色い顔をし、目を窪ませ、髪をほつらせ、声を潜め、無理にゆっくり静かに歩いたり、悪筆で書いたりして見せることである。これらのことは全て崇拝行為による偽善の保管物である。それらの目的が他人にみせびらかすことならばそれらは全て禁じられている。

 学者が説教で韻をふんで博識をみせびらかすのも同じである。それ(韻文)によって宗教がより受け入れられる近道になることを狙っているなら別で、説教の核心でのその(韻文を使う)意図が正しいこともあり、その場合は許されることもある。

 偽善は崇拝行為の要件についてであることもある。それは人々が自分について禁欲的で敬虔だと思い込むようにと人々の前で長々と屈身礼と跪拝することである。無理に人々の前で行う必要がないため、自宅で長々と屈身礼や跪拝をすれば偽善を免れることができると思って、わざと独りでそうするかもしれない。しかしそれがその決意であればそれ(偽善)を免れるどころか、偽善を増すことになるのである。

 これについては偽善とは名声を求めることである、と言うのが正しい。そしてそれは崇拝行為についてか、それ以外についてかのどちらかになる。財貨について合法なものを求めるような崇拝行為以外についてであれば、ごまかしがない限り禁じられていない。しかしそれ(ごまかし)は財貨についても名声についても同じように禁じられているのであり、名声を求めることが全面的に禁じられているとは考えるべきではない。というのは、生活の必要のために必要最小限の名声は僅かな財貨は必要に鑑み求めることが許されるのと同じである。そしてそれが「私をこの地の宝庫の上に置いてください。私は博識な管理人です」(12章55節)とのユースフの言葉の意図するところである。それゆえ財貨について既述の通り名声にも毒と仙薬が共に存在するからである。

 多くの財貨がアッラーの唱念を妨げ気を逸らすように、多くの名声も同じである。自分から求めたのでなく大きな名声を得たのであり、それでアッラーの唱念から気が逸れないなら、それを利用するのは、気前良さ、利他、福利を被造物(人類)に及ぼすことによって大きな財貨を使うのと同じである。それゆえその規定は既述の多くの財貨の規定と同じである。

 名声は預言者たちや学匠たちや正統カリフの名声を超えることがあってはならない。そうならず、それによってアッラーから気を逸らしてはならず、それ(名声)が無くなっても悲しんではならない。それで美しい服を見せるため(リヤーゥ)に人間の間に出ていくことは禁じられていない。なぜならそれには崇拝行為による偽善(リヤーゥ)でなはいからである。それはアーイシャの伝承が示している。

 アーイシャは言った。「アッラーの使徒は教友たちのところに出かける時には水鏡を眺めターバンと髪を整えられました。

 (アーイシャが)言った。「私が『アッラーの使徒であるあなたがそんなことをするのですか』と言うと、(預言者は)「そうです。アッラーはしもべが同胞たちの前に出る時には彼らのために着飾るのを愛で給います」と言われた。

 そう、それはアッラーの使徒の崇拝行為であったのである。なぜならば(預言者は)被造物への宣教を命じられていたのであり、もし人々に見下されたなら、それ(宣教)がダメになるからである。

 知りなさい。偽善にも段階がある。もし行為の目的が100パーセント偽善であれば、それは崇拝行為を完全に無効にする。崇拝行為の意図において偽善が優勢であった場合もこれとほぼ同じである。

 もし崇拝行為と偽善が拮抗しており両方を意図した場合、どちらにも傾かずに保身が出来れば、それで儲けものである。

 基本が崇拝行為の意図であれば偽善が劣位となる。偽善がなかったとすれば崇拝行為に向かう。崇拝行為を意図しない単なる偽善であっても偽善は侮れない。行為の大本が損なわれるこことはなくとも、報償が減るか、その偽善に応じて罰せられる。「私は多神崇拝(シルク)を最も必要としない自足者である」とのアッラーの御言葉は、(崇拝行為と偽善の)二つの意図が等しい場合を指しており、この最後の種類を排除するものである。

 知りなさい。もし偽善が信仰の原則に及ぶならそれは偽信仰(ニファーク)であり、獄火の最下層に永遠にとどまる。信仰の原則ではなく法的義務の原則に関わっているなら、より(罪は)軽い。(偽善が)(法的)随意行為や崇拝行為の諸性質に関わっている場合については既に述べた。、

隠れた偽善の説明:

 それは黒蟻よりももっと隠れたものであり、それは被造物に見られることで崇拝行為を損ねることはないが、崇拝行為の遂行に影響することもない。しかしその崇拝行為を知るか見るかしなくてはならず、それを喜ぶ。これが隠れた偽善である。

 偽善を防ぎ治療する方法はその原因が財貨と名声への愛、賞賛への愛であることを知ることだが、それについては既に述べた。その後で生ずること(次の段階)では、アッラーが自分の秘密をご覧になっており、いずれ(最後の審判の日に)自分に「私はあなたを見る者たちの中で最も(評価が)甘い者である」と仰せになることを熟考するのが良い。それからもしそれ(名声)を得た者が行き着くところ(死)、ぞれ(名声)が死によって消えることを熟考すれば、その脱却が望ましいことが分る。

罪の隠蔽の軽減措置の説明:

 知りなさい。純粋信仰(イフラース)の基本は内密でも公然でも同じであることである。ウマルは言った。「あなたがたは公然の行為に気をつけよ」。人々が「信徒たちの長よ、公然の行為とは何ですか」と尋ねると、ウマルは答えた。「あなたがたの誰かがそれを見ても恥ずかしくないことである」。

 (預言者は)言われた。「これらの醜行の何かを犯した者はアッラーの覆いに隠れなさい」。罪が表に出ることは自分自身からの場合と同じく他人からであっても忌避することが望ましい。

偽善を恐れて崇拝行為を放棄することが許されないことの説明:

 我々は言おう。動因は偽善の元ではない。その過程で虚偽が恐れられる。それゆえ崇拝行為を放棄するのは望ましくない。なぜなら悪魔の目的は(人間が)崇拝行為をやめてしまうことで達成されるからである。だから崇拝行為を敢行し、(偽善を治す)薬で偽善を防ぎなさい。それゆえ彼ら(スーフィー)のある者は言う。「偽善とは被造物(人間)が見ているからといって崇拝行為を放棄することである。被造物(人間)のためにそれ(崇拝行為)を行うのは純然たる偽信仰(ニファーク)に他ならない。

 崇拝行為の中には、カリフ職、イマーム職、スルタン職や教育や説教のような被造物(人間)に関わるものもある。(預言者は)言われた。「正義のイマーム(カリフ)の一日は独りで行う60年の崇拝行為に優る」。

 知りなさい。敬虔な者たちはそれから逃げる。なぜならそれには大きな危険があるからである。なぜならそこでは財貨や名声やその他の厄災によって内面の諸属性が動揺するからである。それゆえ預言者は言われた。「どんな集団の後見人であれ、最後の審判の日には腕を鎖で首に繋がれてやって来るが、彼が行った正義がそれを解き放つか、不正がそれを固く結びつけるかのいずれかである」。

  それゆえ理性ある者は危険な場からは逃げるのが正しい。それゆえ自分自身を見つけなさい、そして自分を支配しているのが(来世での崇拝行為の)報償を求めることであれば行いなさい。その徴は自分の代わりになる者が現れたらそれで満足し、怒らずその者を任用することである。理解し益を得よ。アッラーこそ正答を最もよくご存知である。

2020年6月12日金曜日

コロナ禍を生きる ―人々は眠っている。死んではじめて気づく

「コロナ禍を生きる - 人々は眠っている。死んではじめて気づく」

1.序
この連載も今回で最終回ですが、前々回、前回とパレスチナとトルコという個別の問題に焦点を絞って扱ったCOVOID-19について、イスラームに絡めて巨視的に論じてみようと思います。
まず最初に言っておかなければならないのは、私の予想は大きく外れた、ということです。COVOID-19自体の出現は誰にも予想できませんでしたので、それが予想外だったのは当然ですのでそのことではありません。
本連載で何度も繰り返しているように、現代のムスリム世界にイスラームは形だけしか残っておらず、国家のレベルでも社会のレベルでも個人のレベルでもイスラームの教えは実践されていません。それはヨーロッパの植民地支配によって骨抜きにされた現在に始まってことではなく、文明的にはイスラームの絶頂期とも言われるアッバース朝時代においてすらそうでした。しかしこの話をし始めるとキリがないので、詳しくは拙著『イスラーム学』(作品社2020年)、特に第6章「末法の法学」をお読みください。
現代のムスリム国家、ムスリム社会、ムスリムの行動は基本的に全て西欧の領域国民国家、資本主義、西欧近代科学の論理に基づいており、イスラームは表面的な文化的残滓以上のものではありません。外の人間にはまるで別物に見えても、違いは表層の見かけだけに過ぎません。それはちょうど「COVOID-19」が、日本語では「新コロナウィルス」、英語ではnovel coronavirus、中国語では「新型冠状病毒」と書かれるので、日本語、英語、中国語を知らない人間にはまったく別物に見えても、実は同じものであるのと似ています。
そのことはよくよく分かっていたつもりでしたが、それにしてもここまでだとは思っていなかった、というのが予想外だった、という意味です。また私は1982年に東大のイスラーム学研究室に進学し1983年にイスラームに入信して以来、イスラーム学研究室出身のただ一人のムスリム学生であり、ずっと自分の世界観、価値観が他の日本人とは違い、理解されないことを自覚して生きてきました。またエジプト留学以来、25か国以上のムスリム国を訪れましたが、そこでも日本文化の中で育ち13-4世紀のスンナ派国法学を専門とする古典イスラーム学者として、自分たちがイスラームを実践していると信じている現代の自称ムスリムたちとも全く別の世界観を生きていることをいやというほど痛感してきました。しかしCOVOID-19に対するムスリム世界、日本の反応を見て、私自身の世界観と感性が、ここまで日本人とも現代のムスリムたちとも、勿論、それ以外の世界の人々とも、ここまでかけ離れていたのか、と我ながら驚かされました。今回はそれはなぜか、というお話をしていきましょう。

2. 専門性とは何か
 世界を巻き込んだCOVOID-19ですが、最初に事実関係についてはっきりさせておきましょう。政府も新型コロナウイルス感染症対策専門家会議などというものを立ち上げて、様々な提言を行っており、SNSでは「専門家以外は黙っていろ」といった怒声、罵声が飛び交う一方で、自称、他称の専門家の言葉があふれています。しかしそもそも「専門家」とは誰のことなのでしょうか。どんな学問分野であれ知識というものは「有る」「無い」という二値論理で語れるものではありません。ですから本来は学問に専門家、非専門家などという線引きはできません。
しかしそれでは西欧的近代社会の基盤となる研究、教育が組織できないために、できあがったのが博士という制度です。学問を「人文科学」、「社会科学」、「自然科学」に分け、それらの全てにおいて、特定の分野において世界中の先行研究を全て押さえたうえでそれまで誰一人考え付いたことがないことを確認されたその時点で反証不能とその分野の専門家によって認められた学説を立て人類に新しい知見をもたらした者にのみ博士の称号を与える、というルールを作りあげることでやっと、互いの研究内容を理解していない教員同士がすべての大学教員をひとしなみに科学の研究者として扱い学生に専門教育を提供する専門家という同業者集団としてまがりなりにも相互認知し自己組織化することが可能になり、「大学」という制度が成り立っているのです。
博士論文の審査制度からも明らかなように「専門家」の「専門」を理解できる人間は、「専門家」しかいませんので、だいたい世界中で数人しかいないのが普通です。それ以外の人間は「専門家」の「専門」分野については「客観的」には判断できません。そして「客観的」に「専門家」以外が「専門家」について、何の「専門」かについて判断できるのは、「博士論文」のテーマだけです。勿論「博士論文」のテーマの内容を理解できる、というわけではありません。博士論文のテーマにまで専門性を狭く絞ると、その「分野」の「専門家」ですら査読者に選ばれた数人をのぞいて本当には理解できないのが実態です。素人が「客観的に専門性を判断できる」というのは、内容がわかなくても、そのテーマに関しては、それで博士の論文審査が通っている以上、その研究者がその論文のテーマに関してだけは全く目を通さなくてもそれがその者の専門であると、判断して良い。
医学の専門家などというものはいないのは勿論、伝染病の専門家、インフルエンザの専門家などというものはいません。たとえば、私の場合、本当に専門と言えるのは、13‐14世紀にシリア、エジプトで活動し膨大な著作を残した大イスラーム学者イブン・タイミーヤ(1328年没)の政治哲学だけです。「イスラーム学の専門家」や「イスラーム法学の専門家」はもちろんな存在しませんし、「イブン・タイミーヤの専門家」でさえいません。医学を例にとるなら、私の持病の痛風のような古来からあり標準的な治療法が確立している病気でも、痛風の全てを知っている専門家などいません。例えばインターネットで検索してみると痛風に関する博士論文として獨協医科大学の染谷啓介「痛風の実験的研究 : 尿酸塩結晶食作用に及ぼすvinblastineの影響」、慶應大学の安田大輔「尿酸のラジカル消去機構を規範とした新規抗酸化活性医薬品リード化合物の創製研究」、近畿大学の中尾紀久世「漢方医学に学ぶ薬食同源素材からの尿酸生成阻害作用生薬、並びにその有効成分の探索に関する研究」などが見つかります。これが専門というものです。博士論文のテーマ以外については、専門である場合もあれば、違う場合もある、としか言いようがありません。医者の場合は、専門医という制度もあるので、たとえば痛風専門医はそれ以外に比べれば痛風に詳しいぐらいのことは言えますが、それは研究者のレベルでの専門性とは違う話です。たとえば日本救急学会、外傷医学会専門医の木下喬弘先生は「『専門家』って微妙な用語で、例えば峰先生はウイルス学者ですが感染症臨床の専門家ではないし、EARL先生は感染症臨床の専門家ですが基礎研究やってるわけではないです。私は救急医療が専門で公衆衛生もやってますが、同じく基礎研究はわかりません。そして3人とも感染症疫学が専門とは言い難い。」とツイートしています。
博士論文以外にも学会誌に発表された学術論文によって専門性を判断することも理論的には可能ですが、実際には自分自身がその分野の博士クラスの研究者でなければ難しいでしょう。最近話題になったABC予想の証明が良い例です。最も厳密かつ客観的と思われている数学ですら、京大の望月教授の論文が国際学術誌『PRIMS』に受理されるのに査読が7年あまりに及び、しかも欧米で意義が相次いでいます。「学術論文」は玉石混交であり、箸にも棒にもかからないゴミのような「石」が大半な一方で、逆に研究者のレベルなら一定の手続きさえ踏めば誰でも同じような結論を導ける程度の博士論文と違い、「玉」の場合は同じ分野の同業者でも見解が分かれることもあり、「専門家」でない人間には判断のしようがありませんので、結局、誰が何の「専門家」なのか「素人」にも分かる基準としては博士論文のテーマを調べて、それと照らし合わせるしかない、ということになります。もちろん、博士論文で扱っていなくても、十分「専門家」並みに詳しい人というのは居るのですが、それは「検証」できないので、その言葉を信ずるかどうかは、占い師の占いを信ずるのと変わらない、「客観的」でない、というのはそういうことです。
そして大学の博士の期間は特例はあっても5年が標準です。COVOID-19は2019年の冬ですからまだ発見から半年ほどしか経っていません。どんな分野であれ、半年かそこらの研究で「専門家」を名乗れるほど、「学問」とは安易なものではありません。特にCOVOID-19のように狭義の医学の研究だけとっても発生源とされる中国が政治的な理由から、調査、研究、その発表の自由を制限しており、基本的なデータさえ十分に得られないところでまともな専門的学術研究がなされようがありません。更に公衆衛生のような、医学だけでなく経済、政治、政治も世界各国のそれぞれの国内法の違いまで考慮しなければならないような分野に「専門家」などまだいるはずがありません。




3.科学と価値観
と、関係のなさそうな話を延々と論じてきたのは、要は、この問題に関して、政府の専門家会議も含めて誰一人「専門家」などおらず、自称、他称の「専門家」たちの言うことも、現段階ではとても学術的に厳密な議論といえるものではないので鵜呑みにしてはならない、ということです。逆に言えば、「専門家」たちでさえいい加減なデータに基づいた大雑把な議論しかできないのですから、誰でも過去の伝染病の事例などに基づいて雑な議論をしてもよいということです。
もう一点、重要なのは、科学が語るのは事実「Sein(ある)」だけであり、規範「Sollen(すべし)」ではない、ということです。ですから、医学の専門家の科学的根拠に基づいていると謳っていても「~すべき」という提言は、たとえ「専門家」たちの言葉であっても彼らの「専門知」に基づくものではなく、すべて個人的価値観による意見の押し付けでしかありません。
 医者の場合、たとえ明日処刑が決まっている死刑囚であっても健康な状態で処刑できるようにその健康維持に最善を尽くす、といった極端な人命尊重の職業倫理を有する人々です。そういう価値観を有する人の提言が目の前にいる病人の命の尊重に極端に偏ったものになるのは無理もないことです。数字に表れる富の増大を至上価値とする経済学者、万事を自己の権力の増大の手段として利用する政治家の提言が偏っているのはなおさらです。
 と、前置きはここまでにして、なぜ私がCOVOID-19に対する世界の対応が予想外だったのか、具体的にお話していきましょう。

4. 歴史の中の伝染病
 生理学博士で進化生物学者でもあるダイヤモンド博士は『鉄・病原菌・銃』の中で、ヨーロッパの植民地主義者たちによる先住民の抹殺において、伝染病の方が武力よりも大きな役割を果たした、と述べています。
「インフルエンザなどの伝染病は、人間だけが罹患する病原菌によって引き起こされるが、 これらの病原菌は動物に感染した病原菌の突然変異種である。家畜を持った人びとは、新しく生まれた病原菌の最初の犠牲者となったものの、時間の経過とともに、これらの病原菌に対する抵抗力をしだいに身につけていった。すでに免疫を有する人びとが、それらの病原菌にまったくさらされたことのなかった人びとと接触したとき、疫病が大流行し、ひどい ときには後者の九九パーセントが死亡している。このように、もともと家畜から人間にうつった病原菌は、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸、南アフリカ、そして太平洋諸島の先住民を征服するうえで、決定的な役割を果たしたのである。」
 これまで多くの伝染病の流行にもかかわらず、かつては今よりはるかに人口が少なく医学も未発達でそれらの伝染病に対する有効な治療法もなかったにもかかわらず人類が今日まで生き残ってきたという事実自体が、医学が発達し人口も急増し80億人に達しようとしている現在、人類というレベルで伝染病がその存続を脅かすリスクは限りなく小さいと言えるでしょう。14世紀のペストの世界的大流行では当時の人類の推定総人口4億5000万人が3億5000万人にまで減少したと言われていますが、それでも人類は生き残ったどころか、ヨーロッパでは労働人口の減少により労働条件の改善と農工業の効率化がはかられ、社会、経済が発展したとも言われています。最近の最大の伝染病の流行は1918-1920年のスペイン風邪(インフルエンザ)の流行で、当時の地球の総人口20億人弱のうち2千万人から4千万人が死んだと言われていますが、それによっても人類は滅びず、その後も人口は増え続け、今やむしろ多すぎる人口が問題となっています。
スペイン風邪のグローバルな流行は人類の滅亡が懸念されるほどの危機にはいたらなかったばかりか、民族の消滅、国家崩壊はおろか、さしたる社会問題も引き起こしませんでした。『鉄・病原菌・鉄』は、伝染病は人類全体を滅ぼすほどではなくとも、民族、国家のレベルでは存亡の危機とも言える脅威となりうることを教えています。しかしCOVOID-19は対症療法しかなくまだ誰も免疫を持っていないとされる(私は本当かどうか疑っていますが)状態でも感染者の致死率はシンガポールなどでは1%を下回っており、医療崩壊が起きている場合でも10%ほどでしかありませんので、地域的な民族、国家レベルでさえもその存在を脅かすほどの危機ではないことは明らかです。
私たちがよく知る世界史上の民族、国家レベルでの存亡の危機となった伝染病は、1346年から1352年にかけて流行し当時のヨーロッパの全人口の4分の1が失われイングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し全滅した街や村もあった黒死病(腺ペスト)です。しかし既に述べたようにヨーロッパは医学的には有効な治療法を発見できないままにペスト禍を克服し、それどころか遡及的に分析するなら、後の産業革命、科学革命の準備をすることになりました。

5.イスラームと伝染病
前回述べた通り、イスラームは預言者ムハンマドとその弟子たちの正統カリフの時代にペスト(ターウーン)の流行に遭遇しています。そしてターウーン(伝染病、腺ペスト)にに対しては、その地への人の出入りを禁ずる、とのロックダウンの法規定が定められています。実はこの規定は「天使たちは言う。『アッラーの大地は広大ではないか。その中で移住せよ』」(クルアーン4章97節)と、大地は全て神のものであると宣言し、「大地を旅し、(アッラーが)いかに創造を始めたかを考察せよ」(クルアーン29章20節)と、人間の移動の自由を認めるのみならず神の創造の御業を想うために世界を見て回ることを積極的に勧めるイスラームの教えの中で例外的に移動の自由を制限するものです。
 クルアーンに「我ら(アッラー)は使徒を遣わさない限り、罰することはない」(クルアーン17章15節)、「律法(トーラー)が降示される前には、イスラエル(ヤコブ)が自分自身に禁じたものを除き、すべての食べ物はイスラエルの民に許されていた」(4章93節)とある通り、スンナ派イスラームは人間の義務負荷は理性ではなく啓示により、預言者によって法が与えられない限り人間は「自由」であり、すべては許されている、と教えます。
 「自由」と「権利」について本格的に論じ始めると更に10回連載を続けても足りませんので、ザックリとした話をすると、イスラームは(近代ではなく)現代西欧的な人権は認めませんが、絶対的な自然権と啓示による義務の反射としての権利を認めます。
啓示による義務の反射とは、神が殺人、窃盗を禁じているので、生命、財産の尊重の義務が生じ、その反射として生命、財産の権利が生れることを意味します。イスラーム法理学はイスラーム法の義務の反射として生ずる権利を、身命、財産、理性、血統/名誉、宗教の法益に整理します。
絶対的自然権とは、人間が作ったのではない自然に対する処分の「自由」です。人は開いているところであれば陸であれ海であれどこでも好きなところに移動することも、留まることもでき、木の実であれ、魚であれ、動物であれ、石油であれ、好きに取って処分できることを意味します。私がこれを「絶対的自然権」と呼ぶのは、法を前提とする義務の反射ではないからです。ですからどこにでも行くことができる、と言っても、自分に移動手段があればの話で、体が不自由で動けなかったり、遠方で乗り物がなくてたどり着けなかったり、船がなくて海や川が渡れなかったからといって、誰かが連れていってくれるわけではありません。木の実にしろ、動物にしろ、魚にしろ、石油にしろ、自分で手に入れれば好きにして構いませんが、自分で取ってこなければ、誰も持って来てはくれません。
この「絶対的自然権」とは、「権利」というよりむしろ「事実」そのものに近い、西欧的な「権利」が発生する起源にある最も根源的な「規範」である「自由」としての「事実」です。イスラーム法の義務の反射として生ずる権利は、啓示の神への信仰を前提としますが、この「絶対的自然権」は、神の顕現に先立って生成する権利です。つまり絶対的自然権はイスラームの第一信仰告白「ラー・イラーハ・イッラー・アッラー(no god but Allah)」の前段「ラー・イラーハ(no god)」に基づくもので、無神論者、世俗主義者、理神論者とも共有できる政治的議論のプラットフォームだと私は考えています。私が国境の廃絶、領域国民国家の牢獄からの人類の解放としてのカリフ制再興をムスリム諸国のムスリムたちだけでなく宗教にかかわらず日本人相手にもずっと説き続けているのはこのためです。残念ながら、「絶対的自然権」、つまり究極の「自由」を信じないリヴァイアサンの偶像崇拝者、多神教徒には話が通じませんが、それは自称ムスリムでも、それ以外でも同じことです。
この連載でも、それ以外の場所でも、現在のムスリム世界がイスラームとは無縁、自称ムスリムたちが名ばかりで、実態はリヴァイアサンの偶像崇拝者でしかないことは繰り返し繰り返し述べています。ですから今更、COVOID-19に対する対応がイスラームの教えに反しているからといって、驚きはしません。しかし、今述べたように、ロックダウンは絶対的自然権、「自由」の制限ですので、特別な、意味を持ちます。カリフ制再興を自らの使命と心得る私にとっては特に、です。そこでこの問題を少し掘り下げましょう。
前回詳しく述べたように、ハディースにある「ターウーン」の流行時のロックダウンが狭く「腺ペスト」を意味するのか、伝染病(ワバーゥ)一般の規定なのか、そしてまたロックダウンが厳密な移動禁止規定なのか、柔軟な行動指針としての推奨規定なのかは、イスラーム法学者の間でも見解が分かれています。私自身は、ハディースのターウーンは腺ペストを指しているが、他の伝染病にも状況に応じて類推して行動指針とすることができる、と考えています。
というのは、預言者の時代のアラブの間では都市は伝染病が多いことが知られており、特に伝染病の多くでは幼児の死亡率が高いため、新生児は乳母をつけて砂漠に送って育てさせる習慣があったからです。預言者ムハンマド自身も乳母ハリーマによって砂漠で育てられました。また預言者が移住した農村であったマディーナは岩山の商都マッカと比べても、より湿気が高く更に伝染病が多い土地であり、預言者ムハンマドと共にマッカから移住した教友たち(ムハージル―ン)たちはその気候を嫌っていました。それにもかかわらず新生児を砂漠に送って乳母をつけて育てさせるアラブ人の慣習は、慣習としては残りますがイスラーム法には組み込まれませんでした。ですから、通常の伝染病には状況に応じて個々人が理性で判断すればよく、共同体の存続を脅かすターウーン(腺ペスト)にだけ、絶対的自然権を制限し人々の移動を禁ずるロックダウンを行動指針として定めた、と考えるのが妥当だと私は思います。
 スンナ派ムスリム世界はおおむね、ロックダウンを命ずるターウーンを典拠に国際線の乗り入れを全面的に停止したり、国内でもさまざまなレベルの移動制限を実施しています。私は個人的には、COVOID-19は現存する数々の伝染病と比べてもターウーンと類推するほどの脅威ではなく、むしろ風邪やインフルエンザと同じような個人的な注意喚起の対応で十分であり、絶対的自然権を制限するロックダウンを強制するのは間違いだと思っています。そもそもイスラーム法は神と個人の関係を律するものであり、法人の概念は存在せず、国家によって強制されるものではありません。勿論、イスラームを知らない人間には近代国家の刑法のように映るものがイスラーム法にあるのも事実です。例えば手首切断刑が定められている窃盗罪については、クルアーン5章38節に「男と女の窃盗犯にはその手を切断せよ…」と書かれています。つまりこれは近代国家の刑法のような、窃盗犯の手首を我々が切断する、という国家による声明ではありません。そうではなく、礼拝をせよ、喜捨をせよ、といったムスリムに対する命令と同じく、窃盗犯に対してその手を切断せよ、とのムスリムに対する神の命令なのです。
この場合、命令形は複数形になっており、連帯義務を指します。連帯義務とは、誰かが行えば他の人々は免責されるが誰も行わなければ共同体の全員が罪に陥るような義務です。刑罰の執行はこの連帯義務であり、カリフとその代官が執行の義務を負い、彼らがそれを実行しなければ神に背いたことになります。ちなみに、窃盗犯は死後の最後の審判で裁かれ窃盗の罪で火獄で罰せられますが、悔い改めてこの世で手首の切断刑を受ければ、それが罪の償いとなり、来世での罰を免じられます。ただの窃盗の禁止なら、ムスリムに対する「盗むな」という命令になります。実際、普通のイスラームの規定に関しては、そのような形の命令だけで、違反者に対して刑罰を課す命令は定められていません。たとえば有名な豚肉食の禁止やラマダーン月の断食に関しては、現世でのカリフとその代理人による刑罰は特に定められておらず、禁止を守るかどうかは個人の良心に任されています。
クルアーンやハディースの中で、カリフとその代理人に対して違反者への刑罰の執行が命じられている規定、いわゆる「イスラーム刑法」をアラビア語で「フドゥード」と言いますが、フドゥードの法益は「フクーク・アッラー(アッラーの権利)」、それ以外の規定の法益を「フクーク・アーダミーイーン(人間の権利)」と呼びます。フクーク・アッラー(神の権利)と言うと、狭義の宗教儀礼のように勘違いされるかもしれませんが、そうではなくムスリム共同体全体にかかわる公益と定義されています。フクーク・アーダミーイーン(人間の権利)は婚姻法や商法などで、個々人の事情によって判断が大きく変わるもので、当事者間で解決するのが原則で、どうしても解決できず、裁判になった場合にのみ裁判官、行政官が介入することになります。
といっても、公然と禁を破った場合は、豚を食べたこと、断食を破ったことではなく、公然と神の命令を破ることで、神の法の権威の否定、ムスリム共同体全体の法秩序に対する挑戦とみなされるため、フクーク・アッラー、公益に反する罪を犯したされ、フドゥードの一つである背教罪で罰される可能性が生じますが、それはまた別の話であり、ここではこれ以上踏み込みません。
ターウーンのハディースも原文は「もしターウーンのニュースを聞いたなら、そこには行ってはならない。もしあなたがいるところにそれが発生したらそこから逃れてはならない」とあり、個々人に対する命令であって、カリフとその代官への都市のロックダウンを命ずるものではありません。これまでムスリム諸国ではターウーンのハディースを指針に都市のロックダウンなどを行っている、と書いてきましたが、正確には、ターウーンのハディースは、カリフとその代理人にロックダウンを命ずるものではなく、個々のムスリムに都市間の移動を止めるように命ずるもので、公権力による強制が命じられていない、という点で、近代国家の感覚だと都市間移動自粛勧告、といったニュアンスです。
近代国家にも国会の作る法律の他に、法律の下に行政府の発する行政命令があるように、イスラーム法にも、クルアーンとハディースに基づくシャリーア(天啓法)の規定の範囲内で、カリフには独自の状況判断に基づいて行政命令を下すことができます。しかし、預言者の後に無謬の宗教的権威の存在を認めないスンナ派イスラームでは(12代イマームが9世紀に神隠しにあってからは、シーア派も事実上同じです)、行政命令は必ずしも神の命令に沿っているとは限りませんので、ムスリムは最終的にはクルアーン、ハディースを参照しつつ、自分自身の判断で行政命令に従うか否かを決めなければなりません。同様にカリフとその代理たちも行政命令の発布の可否を最後の審判において神に糾問されることになります。
伝染病の対策としては罹患した者を隔離するのが良い、というのは経験的にもハディースに照らしても間違ってはいませんので、ターウーンのハディースを典拠としたCOVOID-19対策としてのロックダウンの行政命令は神の命令に明白に反する、とまでは言えません。しかし前回も述べた通り、非ムスリム諸国の対応と比べると、ムスリムの対応は神の命令に従うことを求めた結果ではなく、単なる覇権国の後追いであり、現在のムスリムは、非ムスリムと同じく死の脅威を煽られ不安に駆られ領域国民国家というリヴァイアサンの偶像の命令に唯々諾々と従う偶像崇拝者にしかみえません。
私はやはり絶対的自然権、移動の「自由」を制限するターウーンのハディースは、腺ペストレベルの人類レベルではなくとも地方の共同体の滅亡のレベルの脅威となる伝染病にしか類推(キヤース)しないのが正しく、ハディースの知恵は現在にも通じると思っています。

6.ウィルスの変化
ウィルスは進化が早くどんどん変わっていくためにワクチンを作ってもいたちごっこにしかならず完全な防疫は不可能です。ダイヤモンド博士も「インフルエンザがしょっちゅうはやるのは、抗原の部分がちがう新種のインフルエンザ ウイルスが登場しつづけているせいである」と言っています。生まれたばかりのCOVOID-19にしても既に3つの型に分化しています。京都大学大学院医学研究科の上久保靖彦特定教授らの研究グループによると新型コロナウイルスには最初に発生した無症候性も多い弱毒性のS型、それが変異したK型、武漢でさらに変異した感染力の強いG型の3種類があり、日本人には新型コロナウイルスの免疫があったので死者数を抑え込むことができたことになります。日本政府が武漢以外の国からの入国制限を始めるのが遅かったおかげで、K型への集団免疫ができ、感染力や毒性の強いG型の感染を大幅に抑えることができた、つまり他国に比べて入国制限のタイミングが遅かったために、逆に感染予防に功を奏した、ということです。米スタンフォード大学の生物物理学者マイケル・レヴィッド教授は、英紙テレグラフで「都市封鎖は、国民の生命を守るよりもむしろ多くの死亡者を出す結果を招いている」と英国での都市封鎖に異を唱え、「専門家が統計を誤って読み解き、新型コロナウイルス感染症の実際の疫学を誤ってモデル化している」と指摘しています。また20年1月に中国で新型コロナウイルスの感染が拡大した際、武漢市の感染者数と死亡者数のデータを独自に分析し、「新型コロナウイルス感染症による死亡者数は3250名程度にとどまる」との精緻な予測に成功したノーベル賞受賞者でもある生物物理学者マイケル・レヴィッド・スタンフォード大学教授は、COVOID-19感染症が発生すると、都市封鎖など、感染拡大防止のための措置が講じられるか否かにかかわらず、2週間にわたって指数関数的に感染者数と死亡者数が増加したのち、増加ペースが鈍化するという数理パターンが認められると分析し、「COVOID-19には感染拡大防止のための措置とは無関係の独自の動力学があるのかもしれない」と述べています。また前回紹介したトルコ東部の80万にが収容されているシリア人難民キャンプでもCOVOID-19対策をしないうちに集団免疫が成立し劣悪な医療環境にもかかわらず死者がゼロであった、という例も、騒ぎ立てずにいつの間にか集団免疫が成立している、というのがCOVOID-19対策として最善であることの例証となっています。また医療崩壊を起こし6月1日の時点で3万人以上と世界でも3番目の死者を出しているイタリアのサンラフェーレ病院の院長は臨床的観点からCOVOID-19が変化し弱毒化し致死力が大幅に低下していると述べています。
勿論、最初に述べた通り、COVOID-19についてはまだ本当の意味での専門的な学術研究は蓄積されていませんので確かなことは言えません。また仮に上久保教授の研究が正しかったとしても、入国制限を遅らせたことで感染を抑えられたのは偶然的要素が強いので、対策をしないのが最善と言い切ることなどできないのは当然です。しかし5月27日時点での日本のCOVOID-19による死者は公式発表ではわずか882人です。ちなみに2018年の日本の年間死亡者数は約136万2482人で、死因の1位は腫瘍で37万3547人、2位は心疾患20万8210人、3位老衰10万9606 人、第4位は脳血管疾患で10万8165人、第5位が肺炎で9万4654人です。COVOID-19の場合、死亡率は低く症状が出た場合でも、実際に死ぬのはほとんどが肺炎を起こした場合です。肺炎は、誤嚥性肺炎3万8462人を合わせると13万3116人で日本人の死因の第3位になります。1年を通じて肺炎で約13万人がなくなっている事実を鑑みて、約半年で千人弱しか死亡していないCOVOID-19肺炎を特別視することにどれだけ意味があるのでしょうか。多くの批判を浴びている厚生省のクラスター対策班の西浦教授による全く対策を行わなかった場合の試算に基づく最大の見積もりでさえ推定死亡者数は42万人にでしかありません。これは共同体レベルの滅亡の脅威にはほぼ遠い数です。腫瘍による死者数に近い数ですが、腫瘍の予防と治療などの対応に比べてもCOVOID-19に対する反応はやはり常軌を逸しているとしか言えません。
精神科医の和田秀樹国際医療福祉大学院教授も、アメリカでは2017~18年のシーズンには6万人以上の死者を出していたが、アメリカからのインフルエンザの感染を防ごうとの動きは一切なかったし、アルコール関連死も年間約5万人だがアルコール全面禁止化の動きもない事実をあげ、東京で推定感染経験者数約83.7万人、感染して入院した者の累計で4880人、死亡者数189人(5月11日現在)の病気をそこまで特別視する必要があるのか、と問いかけます。目前の『感染拡大』にばかりとらわれ他の重要なことを冷静に考えないこうした対応を、和田先生は「視野狭窄」と呼んで批判しています。
日本の年間死亡者数を見たところで、人口動態による共同体の存続への脅威という観点からCOVOID-19の問題を考えてみましょう。COVOID-19は完全に放置しなんの対策も講じなかった場合でも最大42万人の死者しか出しません。ところが厚労省の2018年の人口動態統計によると2018年の出生数と死亡数を比べると 91万 8397人に対して136万2482人で44万4085人の減少です。これは2017年と比べるとそれぞれ94万6065人と134万397人で39万4332人よりも更に4万9753人減少していますが、この人口の自然増減は数・率ともに12 年連続で減少かつ低下しているのです。つまりCOVOID-1に全く対策を講じなかった場合最悪の死亡数の見積もり42万人よりも、人口の自然減44万4085人の方が多く、しかも今後ますます減少することが予想されているのです。日本という国、日本人の共同体の存続にとっては、COVOID-19よりも出生数の減少と高齢化社会の進展による死亡率の増加の方が遥かに重要で緊急性がある問題であると私は思います。
またCOVOID-19の感染爆発を抑えるため、自粛要請と称して、多くの店が閉店を強いられ、統計の数字にはまだ表れていませんが、多くのバイトや契約社員が職を失い、既に倒産、廃業した会社も少なくありません。COVOID-19による自粛要請による経済的被害が1997年の消費税の3%から5%への引き上げに端を発しアジア金融危機のあおりで山一証券などの金融機関が倒産し1997年度、1998年と-0.7%、-1.9%と2年連続マイナス成長を記録した平成不況のものより大きくなるのは確実ですが、平成不況では自殺者の数が1998年に前年の2万3494人から8261人急増し3万1755人となって以降は10年余り3万人前後の状態が続きました。
こういったことを考え合わせると効果が不確かであるにもかかわらず絶対的自然権である移動の自由を制限するロックダウンを強制するよりも、年間の事故死、病死、自殺などの数ある死亡の原因と数と現在まで明らかになっている範囲でのCOVOID-19の危険性と予防法と罹った場合の対策の「客観的」な情報を官民をあげて提供し、どうするかは個々人の判断に任せるのが、もっとも適切な対応だと私は思います。
勿論、ウィルスが変化しやすいということは逆に強毒化する可能性もあり、より警戒を強めるべき、とも考えられるかもしれません。しかしそれを言うならそもそもまったく未知の致死率百パーセントで空気感染し潜伏期間が長い人類をあっという間に滅ぼす新型ウィルスが現れる可能性もあります。私はCOVOID-19が中国が開発した生物兵器だったとは思いませんが、将来中国、ロシア、アメリカなどが凶悪なウィルス兵器を開発するかもしれません。そうなると未知のウィルスに対応できるようにあらゆる場合を想定した医学の研究に、国家は安全保障の予算の最大限を割かなければならなくなります。いや、それなら伝染病より危険は大隕石の衝突への備えはどうするべきなのでしょう。こううい愚かな思考を「杞憂」と言います。

7.不安の伝染と自粛警察
分子生物学者の福岡伸一もCOVOID-19について「エボラ出血熱やマールブルグ病のような致命的なウィルスが攻めてきたわけではない。むしろ致死率が高いウィルス病は、宿主を殺してしまうゆえに広がることが少ない」と述べ、「世界を混乱に陥れた」のは「急速に伝播されたのはウィルスそのものというよりも、人々の不安である。これほど大きな社会的・経済的インパクトが地球規模でもたらされるとは、誰も予想できなかった。」と述べています。私もこの福岡氏の「現実的な」意見に賛成です。危険度とは釣り合わない巨大な社会的・経済的インパクトを地球規模で及ぼし世界を混乱に陥れたのは、ウィルスではなくて人間の不安であり、不安を煽ったメディアです。
「コロナ禍」が起こる前には、不安を煽るのが商売のメディアの格好の題材がイスラーム・テロでした。「コロナ禍」の後では、彼らが煽ったイスラーム・テロなどたとえ起こったとしても、通常の犯罪の誤差として無視できる些末事だったことが誰の目に明らかになったかと思いますが、そもそも起こる確率自体が殆ど存在しませんでした。実際に日本ではイスラーム・テロなど一件も起きていません。まぁ、イスラーム研究者としては、そういうデマでも、文科省や外務省がイスラーム・テロ対策のポストを設けて、イスラーム地域研究者の若手の就職先が広がりましたので歓迎ですし、この連載自体がそうした言説の産物とも言えるわけですが。「コロナ禍」はイスラーム・テロとは規模が3桁違いますが、それでも共同体にデモグラフィックな変動をもたらすようなリスクではそもそもありません。それを、世界を分断し、政治・経済・社会的混乱を引き起こす大問題にしてしまったのは、COVOID-19の危険を書きたて不安を煽ったマッチポンプのようなメディアの責任が大きいと私は思っています。
前々回、パレスチナで日本人がコロナと呼ばれて嫌がらせを受けた問題を取り上げましたが、中国で発生したとされるCOVOID-19問題には最初から差別と他罰的行動がつきまとっています。自分は健康であり、COVOID-19をうつす他者を隔離させる自分の行動は正しく、それに従わない者は悪である、というのがその論理です。それが民族レベルで表れたのが、新しい「黄禍論」とも呼ぶべき東洋人差別でした。欧米での感染者数、死亡者数が東アジアをはるかに超えた今も、2020年5月12日付のドイツの地方紙が、デュッセルドルフにあるミシュランの星付きレストランの料理長がSNS上で「中国人はお断りだ」と書きこみ、それに対して中国系をはじめとする多くのネットユーザーから「人種差別」との批判が噴出したと報じています。
14世紀のヨーロッパでのペストの大流行に際しては、当時のキリスト教会はペストをユダヤ人のせいにし、1391年には「ユダヤ人に対する聖戦」を煽動し暴徒がユダヤ人街を襲いおよそ4万1000人のユダヤ人を殺害したと言われる他、ヨーロッパ各地で多くのユダヤ人が殺されています。現在のヨーロッパではまだこのような事態は生じていませんが、中東、アフリカでCOVOID-19が蔓延し、COVOID-19の感染が疑われる難民が大挙してヨーロッパに押し寄せるようなことがあれば、ヨーロッパが「先祖返り」することは十分に考えられます。中世の宗教は現代では民族であり、民族浄化が「現在の魔女狩り」です。ユーゴスラビア内戦や、コソボ紛争などで起きた民族浄化を思い返せば、デモグラフィックな大変動を伴う民族問題が今日において大きな危険を秘めていることが分かります。
この「魔女狩り」が、内側に向けられたのが、「自分は健康であり、COVOID-19をうつす他者を隔離させる自分の行動は正しく、それに従わない者は悪である」という「自粛警察」です。自分は陰性であると決めつけ、COVOID-19陽性であるかどうかも分からない他人を家に監禁し、外出する時は他人から離れること、マスクを着けることを強要し、あまつさえ飲食店などの営業妨害をしてまわるのが「自粛警察」で、大日本帝国の隣組を思い出させます。サウジアラビアで暮らしていた私は、「ムタウワー」と呼ばれる「宗教警察」が頭に浮かびます。
そもそも病人は犯罪者ではないので犯罪者扱いすること自体が間違い、というより罪ですが、相手が罹患者であるかどうかも分からない、罹患者であっても接触したからといっても感染するかも分からない、また感染したからといって症状が出るかも分からない、しかも自分自身が罹患者かもしれない(陰性証明があっても、それが間違っているばあいもあれば、その後に罹患した可能性があるので同じことです)と、誤った前提にたって可能性の低い憶測の上に憶測を重ねた妄想から生まれたのが「自主警察」です。視野の狭さと独善を特徴とするこの「自主警察」現象は、残念ながら洋の東西を問わずどこにでも存在します。
アメリカの実験心理学者アーヴィング・ジャニスは、集団がストレスにさらされ、全員の意見の一致を求められるような状況下で起こる思考パターンを「集団的浅慮」と呼び、その兆候として、以下のような特徴を挙げています。(1)代替案を充分に精査しない、(2)目標を充分に精査しない、(3)採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない、(4)いったん否定された代替案は再検討しない、(5)情報をよく探さない、(6)手元にある情報の取捨選択に偏向がある、(7)非常事態に対応する計画を策定できない。和田秀樹先生は、この「集団浅慮」に陥った集団には、(1)自分たちは無敵だという幻想が生まれる、(2)集団は完全に正しいと信じるようになる、(3)集団の意見に反対する情報は無視する、(4)ほかの集団はすべて愚かであり、自分たちの敵だと思う、(5)集団内での異論は歓迎されない、(6)異論があっても主張しなくなる、といった行動パターンが見られる、と言います。魔女狩り、ヘイトスピーチ、宗教警察、自粛警察を統一的に見る視点です。

8.連帯義務と公益
もちろん、何をしてもよい、ということではありません。イギリスではCOVOID-19の自称者に唾をかけられた駅員とタクシー運転手がCOVOID-19で死亡しています。殺意をもって故意に唾を吐きかける行為をとがめるのは構いません。COVOID-19とは関係なく、他人に唾を吐きかける行為は、洋の東西を問わず礼節に反する悪行だからです。そういう行為をしたわけではなく、ただこれまで通りの行動をとっていた人たちには何の咎もありません。そして重要なことは、自粛警察が犯罪者扱いしている市民にとっての自粛警察も罹患者であるかどうかも分からない、罹患者であっても接触したからといっても感染するかも分からず、また感染したからといって症状が出るかも分からないという点で全く同じだということです。つまり「自分は健康=正しい」と思い込んでいる「自粛警察」自身も、彼が罹患しているか疑わしいので罪深いととして攻撃する相手も疑わしいという点で全く同じということです。違いはただ自粛警察の被害者がその可能性は小さく日常生活を失うデメリットの方がより大きい、と判断して自ら感染して死亡するリスクを引き受けて外出して行動してるのに対して、「自粛警察は」、政府の「自粛要請」の「虎の威」を借りて、自分の判断を他人に強要しようとしていることです。リスクを避けたいなら外出しないデメリットを甘受してでも自分たちが外出しない、あるいは防護衣をつける、あるいは慰謝料を用意して止めてもらうように頼むのが筋です。(ご不便をおかけします、という丁寧なお願いの言葉も慰謝料の一種です)。自粛警察の論理は休業補償という自らの責任は果たさず、「自粛要請」という語義矛盾の理不尽な強要を行う政権と同じです。しかしおそらく日本人の大半にはこの論理の方が、私が「筋」と考えるものよりもすっきりと腑に落ちるのでしょうから、もはや大幅に字数をオーバーしていますが(いつものことですが)、少し丁寧に私が言うところの「筋」を説明しましょう。特に「自粛警察」に共感する人間は洋の東西を問わず、視野が狭く、独善的ですので。
問題の根本は、自粛警察は、自分たちが公益に従っており、「自粛」しない者が、公益を無視し私益に則って行動している、と思っていることです。しかしそもそも「公益」とは何でしょう。先に述べたように、イスラームでは「公益」とはザクっと言うと、「アッラーの権利」であり、共同体全体の存続にかかわることであり、それゆえ公権力が介入すべきことです。それ以外は私益です。勿論、イスラームでは、公益であれ、私益であれ、アッラーの法に照らしてその可否が問われることは当然の前提です。公益とは私益の総和ではありません。これはルソーが特殊意志の総和としての「全体意思」と「一般意思」を区別したのに対応しています。個人の私益、欲望の総和である「全体意思」を、共同体全体の福利によって矯正したものが「一般意思」です。ルソーの「一般意思」の正確な理解は難しいので、これ以上を知りたい人は自分で調べて考えてください。「人間は個人としては有限で無力だが、類としては無限で万能である」と言ったのはマルクスですが、個人は遅かれ早かれ死ぬものであり、重要なのは個人の生死ではなく、共同体の存亡です。まぁ、人類もそのうち滅びますが、まだもうしばらく時間があると思いましょう。そう思わないと話が終ってしまいますので。
既に少し述べましたが、COVOID-19はかつてのペストのような「恐ろしい」伝染病と違い、人類レベルでも国家や地方都市のレベルでも共同体の滅亡をもたらすようなリスクはありません。そもそも医学が未発達で治療法もなかった時代のペストの流行で人類の総人口が4億5千万人しかいなかった時代に1億人が死んで3億5千万人にまで減っても人類は生き延びたのです。医学が発達し人類全体で80億人、日本には1億2千万人も人間が存在する現在、極端な話、人口が10分の1に減っても生物学的レベルでは共同体は生き残れるかもしれません。しかし問題は単純に人口総数ではなく人口構成です。日本の人口が1年に44万人以上減っているのは出生数が死亡数を上回り、その差が増え続けている、つまり高齢化が進んでいるからです。ですから日本で人口の9割が死んで10分の1に減っても各世代が一律に死んだのなら、その後に若者が尊重され希望を持つ社会になり出生率が回復しさえすれば日本は蘇ります。しかし人口の3割が死ぬだけでも、それが30歳以下に集中すれば日本は百年絶たずに滅亡するでしょう。その意味でも幼児死亡率が高いインフルエンザと違い、死亡者が高齢者に偏っているCOVOID-19は大きな脅威ではありません。つまり、COVOID-19問題は共同体の存亡にかかわるような公益に関する問題ではなく、個人のライフスタイルの好悪、私益の問題でしかない、ということです。公益に関する議論とは人口減、高齢化対策のようなものを言うのです。
私益が重要でない、と言っているわけではありません。逆です。私益は個々人にとってはかけがえなく大切なものです。中でも生命はそうです。しかし、それは自分にとってだけであり、他の人間にとっては大切でもなんでもなく、その尊重を求めることは倫理的に不可能だということです。ヴィトゲンシュタインなら「倫理の文法において」とでも言うところでしょう。他人に倫理的に求めることができるのはせいぜい人類全体、あるいは民族や国家の存続を脅かす行為を避けることだけです。もちろん、人類、国家、民族、共同体などどうでも良い、取りあえず周囲のものに迷惑をかけなければそれでよい、という価値観も存在します。ただそういう人たちとはそもそも倫理の議論が成立しない、のでここでは無視します。倫理学の議論に慣れていない読者のために、蛇足ながら補足を加えると、どんな共同体もどうでも良い、という人間とは倫理の議論が成立しない、ということはそういう人間を殺してしまえ、ということでもなければ、一緒に仲良く暮らしていくことができない、ということでもありません。飼い犬と倫理的な議論が成立しなくても仲良く一緒にくらしていけるのと同じ、というシンプルな話です。
客観的、理性的に公益を論ずることと主観的、感情的に私益を主張することは厳密に区別しなければなりません。人類の視点に立って倫理的に論ずる場合には、自分にとって得か日本人の利益になるか、などといった私益を顧みず、シリア軍の連日の空爆で樽爆弾で殺されているイドリブの市民、イエメンでサウジアラビアとその同盟国によって包囲され飢餓と伝染病で命を失っているサナアの子供たちも自分と同じ一人の地球人として平等に扱われるために何をすべきか、を考えなければなりません。日本人として倫理的に論ずるなら縁もゆかりもなくとも、原発事故の被害によって未だに自宅に戻れない福島の人々、米軍基地の存在に苦しめられている沖縄の人々がどうすれば日本人として自分たちと同じ生活ができるかと心を配らなくてはなりません。
しかし私的領域では私たちは法が許す範囲で自分たちのことだけを考えればよく、遠く離れた見も知らぬ人のことなど考えなくても構いません。そもそも70億人を超える人類全体のことを考えることなど不可能ですから、知りもしない人間に同情するふりなどする必要はどこにもありません。イスラームは、公共の安全と秩序の維持に責任を持つカリフとその代理人には、「フドゥード(イスラーム刑法)」の執行と、私人間の「人間の権利(フクーク・アッラー)」を巡る訴訟の裁定においては、私益を離れてあらゆる人間をイスラーム法が定めるカテゴリーに則り平等に扱うことを命じていますが、私人にはすべての人間を平等に扱えなどとは決して求めません。むしろ預言者ムハンマドは「アッラーの道に費やした1ディーナールと、奴隷解放に費やした1ディーナールと、貧者に施した1ディーナールと、あなたの家族のために費やした1ディーナールの中で最も(来世での)報酬が多いのはあなたの家族のために費やしたものである」(ムスリムの伝えるハディース)と述べて、貧者への施しよりも家族の扶養を優先するように教えています。
COVOID-19の話に戻ると、COVOID-19は共同体の存亡のかかった公益の問題ではないので、公権力は医学、公衆衛生、経済などを総合的に考慮して他の伝染病とバランスのとれた扱いをすることが求められます。公益と私益を区別すれば、医療崩壊への懸念にも別の見方をすることが出来ます。COVOID-19問題は、はからずも日本の人工呼吸器不足の実態を露呈させました。医療機関に人工呼吸器を充実させるべきだ、という議論は一般論としては異議はありませんが、COVOID-19への対応としての妥当性には疑問があります。
たとえば、『ビジネスインサイダージャパン』は、「48時間治療をしても回復しなければ場合によって人工呼吸器を外す」といったニューヨーク州の人工呼吸器の使用方法に関するガイドラインの一部と「人工呼吸器があれば助けられるのに、人工呼吸器が無い……。一方で、あと数日で亡くなってしまう可能性が高い患者に人工呼吸器を使い続けている……」との新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の会見での武藤香織教授の発言を引用し、自分たち自身が「あと数日で亡くなってしまう可能性が高い患者から人工呼吸を取り外しその分を助けられる患者の治療にあてる」との「この究極の選択を問われる当事者であることを強く意識させる」と書いています。
 こうした当事者面をしたお為ごかしの感情論の綺麗ごとがはびこるのも、視野狭窄の私益と公益の混同のせいです。患者の家族であれば家族のためにできるだけのことをしたいと思うのは当然です。また医者とは目の前にいる患者であれば1秒でも長く生かそうと務めるのが職業倫理です。しかしそれは私益であり、他の人間には関係のないことです。実はニューヨーク市周辺でCOVOID-19患者2600人余りを対象とした大規模研究で対象となった患者の死亡率は21%でしたが、人工呼吸器が必要になった重症者の死亡率は88%、65歳以上の人工呼吸器使用者の生存率はわずか3%だったことが明らかになっています。要するにCOVOID-19患者に限れば人工呼吸器の効果は極めて低いのです。
 世界中のすべての病人の手に全ての必要な医療器具を届けることができる状況にあるなら、全てのCOVOID-19患者に人工呼吸器を用意するのも良いでしょう。しかしユニセフ協会によると、2017年において8億4,400万人が清潔な飲料水にさえ事欠き、不潔な水を飲むことで命を落とす乳幼児は年間30万人、毎日900人以上にのぼっています。清潔な飲料水さえあれば死ななくて済む乳幼児を毎日900人も平気で見殺しにしておきながら、殆ど救命の役に立たたないCOVOID-19患者につける人工呼吸器が不足していて誰に回すかを医者が選ぶことを「究極の選択」と深刻がってみせ、人工呼吸器を買い揃える権限と責任、それを患者に使う権限も責任もないただの部外者に当事者だと錯覚させるような詐術も公益と私益の混同から生じます。

9.ブラック労働への呪縛からの解放から公正な社会へ
権限も責任もない人間が、自分の私益にすぎないものを公益のごとくに見せ掛けて他人を支配する詐術の一つが、医療関係者や運送業者などを「なくてはならない」と持て囃しブラック労働に呪縛するお為ごかしの呪いの言葉です。こうした呪いの言葉は世界中で普遍的に見られますが、中でも特に主語が曖昧な日本でよくみられるように感じます。医療関係者にしろ、運送業者にしろ、高級を取っている役人や大企業の役員たちが快適で安全な暮らしを送るために、その人が「働かなければならない」理由は一つもありません。嫌なら辞めればよいのです。少なくとも、こういう呪いの言葉が口にされる「先進国」では辞めても生活保護が受けられ、死ぬことはありません。そうすることによってはじめてそれら人々が、ブラック労働から解放され、その社会的有用性に相応しい給与と待遇を受けることになります。
COVOID-19に対する自粛要請の唯一の良かった点は、今までいかにも「しなくてはならない」と言われてきた仕事のほとんどが不要不急であったこと、そして多くの民間企業が大打撃を受ける一方で、COVOID-19対策に国家が介入すべきとの声を利用し、「アベノマスク」のような無用の長物に不透明な巨額の資金が投入されたことが明らかになったことです。ですから、本当になすべきことは、現在の不正な搾取のシステムを支えている医療関係者や運送業者などに、「『外で働かなければならない』人たちのことを考えろ」などと猫なで声でブラックな環境に労働者を「呪縛する」呪いの言葉をかけることではなくて、「あなた方は不当な条件でブラックな職場で働き続ける必要などない、辞めて良いのだ」と解放の言葉を贈ることです。
ここでもイスラームの考え方を紹介しておきましょう。既述のようにイスラームでは、義務を全ての責任能力者が行うべき個人義務と、誰かが行えば他の人々は免責されるが誰も行わなければ共同体の全員が罪に陥る連帯義務に分けます。イスラーム教育やジハード(聖戦)、イスラーム刑法の執行のような宗教行為だけでなく、農業、製造業、医学など共同体に必要な仕事も連帯義務になります。自分が何の責任も負わず相手の立場に立ったふりをして呪いの言葉を述べるのではありません。連帯義務とは、他の誰もが行わなければ、自分も神の前で罪を犯したことになる、義務です。医療関係であれ、運送業であれ、「外に出て行わなければならない」のは今そこで働かされている人間ではなく、それを必要とする社会の全ての人間であり、その人間がブラックな環境に耐えかねて「職場放棄」をしたとしても、罪に陥るのは、その者だけではなく、全ての人間が連帯責任でその罪を負うのであり、全ての人間が実際に最後の審判で裁かれる当事者になるのです。イスラームの国法学者イブン・タイミーヤ(1328年没)は、ムスリムが連帯義務を負う社会が必要とする仕事で労働者が正当な権利を奪われ不当に働かせることがないようにすることが為政者の義務であると述べています。

10.終りに
連載も最後なのでまだまだぜんぜん言い足りないのですが、大幅にまた字数をオーバーしてしまったのでそろそろお別れです。最後に思いっきり大雑把な話をして締めくくりとしましょう。
COVOID-19の感染には、韓国のキリスト教カルト「新天地イエス教証しの幕屋聖殿」や、イタリアのカトリック教会、イランのシーア派聖廟などがクラスターになって感染が広がったことが大きく報じられたこともあり、「宗教と科学の対立」というヨーロッパの啓蒙主義以来の議論が蒸し返されることになりました。日本の優れた宗教学者の中村圭志先生は、コロナ禍は相当な長期にわたって「端的に合理的に振る舞う」ことへの圧力が持続するため、宗教にとって大きな打撃となり、神学者・教学者はコロナ禍を切り抜けても、一般信徒は宗教に飽き、宗教の空洞化が進む公算が高い、と予想しています。
この連載でたびたび繰り返している通り、私は現在の世界には、自称他称のムスリムの実践を含めて実際に存在する宗教はほとんどリヴァイアサンとマモンの偶像崇拝でしかなく、そんな宗教の延命にはなんの興味もありません。しかし、コロナ禍によって科学が進歩し人類の行動が合理化する、という中村先生の楽観には与しません。というのは、最初に述べた通り、科学には事実しか語らずいかなる規範も存在しないからです。「存在するものは合理的である」とは哲学者ヘーゲル(1831年没)の言葉ですが、科学の世界には善も悪もありません。存在するものはただあるがままにあり、次の瞬間にはただ消えさるのみです。
「知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれども私はなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。私は心に言った、『愚者に臨むことは私にも臨むのだ。それでどうして私は賢いことがあろう』。私はまた心に言った、『これもまた空である』と。そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。」(『旧約聖書』「コヘレートの書」2章14-16節)」
人間が科学的真理に則って暮らそうと、迷信と狂信に生きようと、清廉潔白を貫こうと悪逆非道を尽くそうと、愛する家族に囲まれて希望に満ちて幸せに生きようと、病苦と絶望のうちに孤独死しようと、科学的にはすべてただの粒子の離合集散でしかなく、その間にいかなる違いもありません。ただ無意味に行きて無意味に死んでいくだけです。そもそも科学的に生きることが、「現世的」に「有益」かどうかさえ疑わしいものです。世界の長寿者のリストを眺めても著名な科学者の名前はみつからず、ギネスの日本の最高齢の田中カ子さんは1903年、農家の9人兄弟の三女第7子として生まれ1915年に小学校を卒業後12歳から子守奉公をし1952年にキリスト教に入信し現在に至っており、第二位のシスター・アンドレさんは1904年生まれのカトリックの修道女です。幸せに長生きするのに科学的思考が必要と言うわけでもなさそうです。日本の宗教学者島田裕巳先生によると、職業別平均寿命は宗教家がダントツで第一だそうです。
それはともかく、「科学的であれ」という科学主義の主張は科学の命題ではありません。科学主義者にとって重要なのは科学の教える事実そのものではありません。科学主義者にとっての科学は依存症患者の酒、賭博、麻薬、SNSのようなものです。「科学依存」もまた、生きることには価値はなく、誰もが遠からず無意味に死ぬ、という事実から目を逸らす暇つぶしになる、ということです。科学もまたリヴァイアサンやマモンと同じく人間の欲望が虚空に映し出す幻影であり、人を奴隷にする偶像にすぎません。
中世ヨーロッパではペストの流行は、絵画の「死の舞踏」のモチーフを生み、古代ローマでは快楽主義的標語であった「メメント・モリ(死を想え)」を、死を日常的に意識する内省的なキリスト教倫理の格言に変えました。
人口が半減したような凄惨なペストとちがい、COVOID-19はメディアのヒステリックな過剰反応とは裏腹に身の回りでほとんど死者を目にすることはありません。私自身、会う人毎に聞いていますが、直接の知り合いで陽性反応が出た者は一人もいません。知り合いの知り合いでのレベルで、入院して回復したタクシー運転手の知り合いがいる知人が一人いるだけです。これではペストの流行のように万人が死と向き合う、といった実存的経験を日本社会全体に求めることは期待できません。しかし、自粛要請で、強制的に職場を離れさせられたことで、今まで「自分がいなければこの職場は立ち行かない」、「自分が働かねばならない」、「自分の会社が国を、社会を支えている」と洗脳されていた人たちの一部は、「不要不急」の烙印を押されたことで、無意味な虚業と無駄な消費忙殺させることで現世のあらゆる欲望を無価値化する死を忘れさせる物質主義と資本主義の呪縛による微睡から一瞬であれ覚醒しました。
預言者ムハンマドは「人々は眠っている。死んではじめて気づく」との言葉を残しています。コロナ禍は、世界中に600万人を超える感染者、40万人にせまる死者を出し、航空会社の国際線の運航停止、外出自粛、ロックダウンなどのせいで1930年代の世界大恐慌以来の経済危機をもたらしたのみならず、失業、貧富の格差の拡大、人種・民族差別、排外主義の高揚、非常事態を口実とした国家権力の強化などの様々な社会問題を生み出しています。コロナ禍を奇貨として、自分がいつ死ぬかわからない儚い存在であることに気づいた読者諸賢が再び微睡に戻ることなく、いずれ死に逝く人間にとって本当に必要なものが何かを見出されることを望んでやみません。長い間、連載にお付き合いいただきありがとうございました。ではまたお会いする日まで。
「不幸に見舞われた時に『我らはアッラーのもの。彼の許へと帰り逝く』と言って耐え忍ぶ者たちに吉報を告げよ。」(クルアーン2章155‐156節)
ワッサラーム

2020年4月3日金曜日

ガザ―リー著『宗教諸学の再生要約』邦訳(知識の書・知の徳)

本書ガザ―リー著『宗教諸学の再生要約』はオスマン帝国最大の文人キャーティブ・チェレビー(Khājī Khalīfah、1657年没)の書誌学の主著『疑念の払拭(Kashf Ẓunūn)』にも「イスラームの書籍が全て消えて『宗教諸学の再生』が残れば、同書だけで失われたものを補って十分である。」 とまで言われたスンナ派イスラーム学の最も標準的な古典「神学大全」アブー・ハーミド・ムハンマド・ガザ―リー(1111年)の主著『宗教諸学の再生』の要約である。
 本訳で底本としたMu’assasah al-Kutub al-Thaqāfīyah(1990年初版)はこの要約をアブー・ハーミド・ガザ―リー自身の作としているが、al-Hay’ah al-Miṣrīyah al-‘Āmmah li-al-Kitāb(2008年版, ‘Āmir al-Najjār, ed.)では、同書を『疑念の払拭(Kashf Ẓunūn)』(24頁)がアブー・ハーミド・ガザ―リーの実弟でニザーミーヤ学院で彼の教授職の後任でもありスーフィーとしても高名であったアフマド・ガザ―リー(1126年没)が『再生の神髄(Lubāb al-Ihyā’)』と命名した要約と同定している。
ちなみに、『宗教諸学の再生』自体の第1章第1節「知の徳」節を全訳すると以下の通りである。

「知の徳」
 そのクルアーンの典拠は以下のアッラーの御言葉である。「アッラーは彼の他に神はないと証言され天使たちと正義を行う知の持ち主も・・・」アッラーがいかに御自身から始め、天使を次に、知識の持ち主を第三位に置いたことを見よ。それが光栄、優越、名誉であることは言うまでもない。アッラーは仰せである。「アッラーはお前たちの中で信仰する者たち、知を授かった者たちの位階を高め給う。」イブン・アッバースは言った。「学者は信仰者より700階梯上にいる。それぞれ階梯は500年の工程がある。アッラーは仰せになる。「・・・知ってる者たちと知らない者たちが同じであろうか・・・」(39章9節)「彼のしもべたちの中の学者だけがアッラーを恐れる」(35章28節)「言え。私とあなた方の間には、アッラーだけで証人として十分。彼の御許から啓典の知。」(13章43節)「・・・私がそれをあなたに持ってきます。・・・」(27章39節)知の力によって(イフリートにはそれが)できることを示して。「知識を与えられた者たちは言った。「お前たちに災い有れ。信仰し善を行った者へのアッラーの報奨はより良い。・・・」(28章80節)来世の偉大さは知によって理解されることを明らかにされている。「これらのたとえはアッラーが人々に示したが、学者しかそれを理解しない。」(29章43節)それを使徒、または彼らのうち権威を持った者に戻せば、それを捜し当てる者たちはそれを彼らから知ったであろう。」(4章83節)
もろもろの事件におけるその判断を彼らの推論に帰し、アッラーの裁定の発見において彼らの位階を預言者の位階に付随させられた。
そして「あーダムの子孫よ、われらはおまえたちに陰部を覆う衣服と装束を確かに下した。そしてタクワーの衣服・・・」とのアッラーの御言葉について、「衣服」とは「知識」、「装束」とは「確信」、「タクワーの衣服」とは「廉恥」を意味するとも言われている。「そしてわれらは知識に基づいて解明した啓典を、・・・彼らにもたらした。」(7章52節)
そしてアッラーは仰せである。「われらは彼らに啓典をもたらし、それを知識に基づいて説明した。またアッラーは仰せである。「人間を創造し明証を教えられた。」「それからわれらは必ずや知識をもって彼らについて語る。・・・」(7章7節)「いや、それは知識を授けられた者たちの胸の中にある明白なもろもろの徴である。」(29章49節)「人間を創り給うた。表現を教え給うた。」(55章3-4節)これらはただその恩寵を示すために述べられているのである。
伝承については、アッラーの使徒は言われた。
「アッラーは良かれと望まれる者には宗教の知解を授け(yufaqqihu)、その導きを示される。」
「知者たちは預言者たちの相続人である。」 周知の通り、預言者であることを超える位階はなく、その位階の相続以上の栄誉はない。
また使徒は言われた。「諸天と地にあるものは知者のために赦しを請う。」 諸天と地の天使たちがそのために赦し請いに務める者の地位に優る地位があろうか。知者は自分自身に専念し、天使たちは彼の赦し請いに専念する。
使徒は言われた。「叡智は貴人の栄誉を増し、奴隷さえ王侯の地位に届かせる。」
使徒はこのハディースで知識の現世における効果を述べているのであるが、周知の通り、来世の方がより良く、より長続きするのである。使徒は言われた。「偽信者(munāfiq)にはない二つの性質は寡黙と宗教の知解(fiqh)である。」
我々の時代の法学者たち(fuqahā':fiqhの持ち主)の一部の偽善のためにこのハディースを疑ってはならない。それはあなたが「理解(fiqh)」の意味を誤解しているからである。「知解(fiqh)」の意味は後述するが、法学者(faqīh:fiqhの持ち主)の最低条件は、来世が現世に優ることを知っていることであり、その知識が本物で持ち主を支配しているなら、偽善(nifāq)と見栄を免れる。
使徒は言われた。「最善の人間とは、求められる時は他人の役に立ち、求められない時は自足している学のある信仰者である、」
「信仰は裸形であり、その衣服は敬虔さ、装飾は廉恥、果実は知識である。」
「預言者職に最も近い者は学者と戦士(ジハードの人)である。学者は使徒たちがもたらしたもの(聖法)を人に示し、戦士は使徒たちがもたらしたものに則って剣でジハードを行うのである。」
「一人の知者が亡くなるよりも、一部族が死に絶えることの方がましである。」
「人間は金鉱や銀鉱のような鉱脈のようなものである。ジャーヒリーヤ(イスラーム以前の無明時代)の選良は、理解した後のイスラームの選良になった。」
「最後の審判の日に学者のインクは殉教者の知と等価に計られる。」
「私のウンマ(ムスリム共同体)のためにスンナの40のハディースを覚え、それらを人々に伝えたなら、最期の審判の日に私がその者の仲保者、証人となる。」
「私のウンマ(ムスリム共同体)で40のハディースを伝えた者は、最期の審判の日に知解者、知者としてアッラーにまみえる。」
「アッラーの宗教を知解する者は、アッラーがその者の問題を引き受け、思いがけないところから糧を恵み給う。」
「アッラーはイブラーヒームに、『イブラーヒームよ、我は智者であり、あらゆる智者を愛する』と啓示された。」
「学者は地上におけるアッラーの受託者である。」
「私のウンマの二種の者が清廉であれば人々も良くなり、堕落すれば人々も堕落する。王侯と知解者(フカハー)である。」
「私がアッラーに自分を近づけてくれる知識を増やさない日があれば、私はその日の日の出に祝福されることはない。」
知が崇拝と殉教に優っていることについて使徒は言われた。「知者の崇拝者より優れているのは、教友たちの最低の者より私が優れているのに等しい。」 使徒がいかに知識を預言者の地位と等置し知識を欠く行為の地位を貶められたかを見よ。というのは崇拝者は励むべき勤行の対象を知っていなければならないので、その知なしにはそもそも崇拝などないのである。
それゆえ使徒は言われた。「知者が崇拝者に対する優るのは満月の夜の月が他の星に優るかのようである。」
「最後の審判の日に三種の者が執り成しをする。預言者、知者、殉教者である。」 それゆえ知は、殉教が徳が(数多く)伝えられているにもかかわらず、位階において殉教に優り、預言の次に優れているのである。
使徒は言われた。「アッラーを崇める手段として、宗教における理解以上の物は何もない。悪魔にとっては一人の知解者(ファキーフ)の方が千人の崇拝者よりも手強い。全ての物に支柱があり、この宗教の支柱は知解である。」
「あなたがたの宗教の最善のものはその最も容易なものであり、最善の崇拝は知解である。」
「知ある信者は崇拝者である信者に70段階優る。」
「あなたがたは知解者が多く、読誦者、説教者が少なく、物乞いが少なく贈与者が多く、知識が実践より価値がある時代に生きている。しかしやがて知解者が少なく、説教者が多く、贈与者が少なく物乞いが多く知識が実践より価値がある時代が人々にやってくる。」
「知者と崇拝者の間には100の階段があり、各段の間は駿馬の早駆けで70年の行程である。」
「アッラーの使徒よ、最善の行為は何ですか。」と尋ねられると、使徒は「アッラーについての知識である。」と答えられた。「私たちは行為について聞きたいのです。」と言われたが、また「アッラーについての知識である。」と言われた。そこでまた「私たちは行為について尋ねているのに、あなたは知識について答えられました。」と言われると、使徒は言われた。「アッラーについての知識があれば僅かな行為でも役立に立つが、無知であれば多くの行為も役に立たない。」
使徒は言われた。「アッラーは最後の審判の日に人々を復活させ、それから知者たちを復活させ、仰せになる。『知者たちよ、我は我が知を汝らに託したのは、汝らについての我が知識によってでしかない。我は汝らを罰するために我が知識を汝らに託したのではない。我は既に汝らを赦した。行くがよい。』」
私たちはアッラーに良い末期を冀います。
また伝聞には以下のようにある。
アリー・ブン・アビー・ターリブはクマイルに言った。「知識は財産に優る。知識はあなたを守るが、あなたが財産を守る。知識が支配し、財産は支配されるのである。財産は費やせば減るが、知識は費やすほど増す。」 またアリーは言った。「知者は昼は斎戒し夜は礼拝に立つジハード戦士に優る。知者が亡くなると、その後継者(の知者)によってしか埋まらない隙間がイスラームに開く。」 また以下の詩を詠んだ。
知者以外に栄光はない
彼らは正道にあり、導きを求める者の案内人
全ての人間の価値は学んだものによる
無知な輩は知者の敵
それゆえ知識を得てずっとそれで生きろ
人々は死者であり、知者こそ生者
アブー・アスワドは言った。「知識よりも偉大なものは何もない、王侯は支配者であるが、知者は王侯の支配者である。」
イブン・アッバースは言った。「スライマーン・ブン・ダーウード(ソロモンの子ダビデ)は知識、財産、王権の選択肢を与えられ、知識を選ばれたが、それと共に財産と王権も授けられた。」
イブン・ムバーラクは「人間とは誰ですか。」と尋ねられ、「学者である。」と答え、「王侯とは誰ですか。」と尋ねられ、「禁欲者である。」と答え、「下衆とは誰ですか。」と尋ねられ、「宗教を食い物にする者である。」と答えた。
イブン・ムバーラクが知者以外を人間とみなさなかったのは、人間が他の動物から区別される特徴は知識だからである。人間は人間がそれによって高貴であるものによって人間なのであるが、それはその身体の力ではない。それならラクダの方が人間より強いからである。またその大きさによるのではない。それなら象の方が大きいからである。また勇猛さによるのでもない。それなら猛獣の方が獰猛である。また食べるためでもない。それなら雄牛の方が大食である。また交尾のためではない。それなら小さな雀でさえ人間より生殖能力がある。そうではなく人間は知のために創造されたのである。
 ある賢者は言った。「知を失った者が何で埋め合わせられようか、知を得た者に何か失う者があろうか。」
 預言者は言われた。「クルアーンを授けられた者が誰かがそれ以上のものを与えられた者がいると考えたなら、アッラーが重んじられたものを侮ったことになる。」
 またフォトゥフ・マウスィリーが「病人が食べ物、飲み物、薬を禁じられて与えられなければ死ぬのではないか。」と言うと、人々は「はい」と言った。そこで(ファトフは)「心も同じで叡智と知識を3日禁じられて与えられなければ死ぬ。」と言った。彼は真実を述べた、身体にとっての食糧が食べ物と飲み物なように、心の食糧は知識と叡智あり、その二つによって生きるのである。知識を失った者の心は病み、気づかないままに死ぬことは必定である。なぜなら現世の欲と雑念に紛れて(自分が病気であることを)感じないからである。それは傷を負っても死の恐怖がその場の傷の痛みを気づかなくさせるのと同じである、しかし死によってそうした雑念が払われると、死んだことに気づき、終わりのない激しい苦痛に苛まれることになるが、その時はもう遅いのである。それは安堵した者、酔いが醒めた者が、恐怖、酩酊中に負った傷の痛みに気づくのと同じである。私たちはアッラーに覆いが取り上げられる日の庇護を冀います。「人々は眠っており死んだ時に・・・」(ハディース)。気をつけなさい。
 ハサンは言った。「学者の墨と殉教者の血を測れば学者の墨が殉教者の血にまさる。」
 イブン・マスウードは言った。「知識が取り上げられてしまう前にあなたがたは知識を学ばねばならない。知識はその伝承者たちが死に絶えることで取り上げられる。我が魂がその御手にある御方(アッラー)にかけて、アッラーの道に殉教者として死んだ者は、アッラーによる学者たちの厚遇を見て、アッラーが自分たちを学者として蘇らせてくれればと願う。学者として生まれる者は一人もいない。知識は学問による。」
 イブン・アッバースは言った。「私は、(礼拝や勤行で)徹夜をするより、夜の一時に知識を学ぶことをより好む。」 同様な言葉がアブー・フライラやアフマド・ブン・ハンバルからも伝えられている。ハサンは「我らが主よ、我らに現世で善福を来世でも善福を与え、獄火の懲罰から我らを護り給え。」との御言葉について「『善福』とは現世において知識と崇拝、来世では楽園のことである。」と言った。
 ある賢者は「何を手にすべきか。」と問われ、「あなたの船が沈んだ時にあなたと共に泳ぐもの -つまり「知識」- である。」と言った。また「船の沈没は死による肉体の滅亡を意味する。」と言われた。
 またある者は言った。「叡智を手綱とする者を、人々は導師とする。そして叡智をもって知られた者を、衆目は敬意をもって眺める。」
 シャーフィイーは言われた。「知の誉とは、それに関わる者は皆、たとえ些細なものであれ、喜び、それを取り上げられた者が悲しむことである。」
 ウマルは言った。「あなたがたには知が課される。アッラーには愛の外套がある。知識の一部門でも求める者にアッラーはその外套を着せ給う。その者が罪を犯しても悔い改め、また罪を犯しても悔い改め、また罪を犯しても悔い改め、たとえ死ぬまでその罪を重ねようとも、その(愛の)外套を脱がさないようにと。」
 アフナフは言った。「学者はまるで主人であるかのようになり、風格はすべて崩れ、卑小さがその行き先となる。」
 サーリム・ブン・アビー・ジャァドは言った。「私のご主人は私を300ディルハムで買って私を解放した。私は『どんな仕事をしましょうか。』と言い、学問を仕事にしました。そして1年が経つとマディーナの総督が私に会いにやってきたが、私は彼に許しを与えなかった。」
 ズバイル・ブン・アビー・バクルが言った。「イラークにいた私の父が私に手紙をよこした。『学問をしなさい。あなたが貧しい時はそれはあなたの財産となり、富める時にはあなたの装飾となる。』」
 それはルクマーンの子供への遺言の中でも述べられている。「我が子よ、学者たちと膝附合わせ席に連なりなさい。アッラーは空からの雨で大地を賦活するように叡智の光で心を賦活する。」
 賢者の一人が言った。「学者が死ぬと、海の魚も空の鳥もそれを嘆く。その顔は忘れられても、その(学問の)記憶は消えない。」
 ズフリーは言った。「知は男性であり、大人の男だけがそれを愛する。」


『宗教諸学の再生・要約』

(序)
イスラームの証(フッジャトゥルイスラーム)アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザ―リーは述べた。
アッラーにこそあらゆる恵みに対する称賛は属す。称賛をさせていただくこと自体(を含む恵み)に至るまで。その預言者、使徒、しもべである使徒たちの長ムハンマドとその御一統、教友、その逝去後の後継者(カリフ)、その存命中の副官たちに祝福あれ。
旅先でかさばって持ち運びが大変なので『宗教諸学の再生』を抜粋しようと思いつき、アッラーに助けを求め、正導を願い、その預言者に祝福を祈りつつ、それに取り掛かった。それは40章からなる。アッラーこそ正答を恵み給う。


第1章:知識と学習

(第1「知の徳」節)
 知りなさい。知の徳については、クルアーンに多くが述べられれている。「ムジャーダラ章11節」イブン・アッバースは言った。「学者は信仰者より700階梯上にいる。それぞれ階梯は500年の工程がある。至高者は仰せになる。「ズンマル19節」至高者は仰せになる。「蜘蛛章43節」
 また伝承の中には、以下のようなハディースがある。「学者は預言者たちの相続人である。」「最善の人間とは、求められる時は他人の役に立ち、求められない時は自足している学のある信仰者である、」「信仰は裸形であり、その衣服は敬虔さ、装飾は廉恥、果実は知識である。」「預言者職に最も近い者は学者と戦士(ジハードの人)である。学者は使徒たちがもたらしたもの(聖法)を人に示し、戦士は使徒たちがもたらしたものに則って剣でジハードを行うのである。」「学者は地上におけるアッラーの受託者である。」「復活の日には、預言者たちが(信者のためにアッラーに)執り成しを行い、ついで学者が、ついで殉教者たちが。」
 またフォトゥフ・マウスィリーが。「病人が食べ物、飲み物、薬を禁じられて与えられなければ死ぬのではないか。」と言うと、人々は「はい」と言った。そこで(ファトフは)「心も同じで叡智と知識を3日禁じられて与えられなければ死ぬ。」と言ったが、彼は真実を述べた、身体にとっての食糧が食べ物と飲み物なように、心の食糧は知識と叡智あり、その二つによって生きるのである。
知識を失った者の心は病み、気づかないままに死ぬことは必定である。なぜなら現世の雑用に忙殺されるからである。しかし死によってそうした雑用から目覚めると、終わりのない激しい苦痛に苛まれることになる。それが「人々は眠っており死んだときに目覚める。」とのハディースの意味である。
学習の徳については「学究には天使が満足して翼で抱きしめる。」「朝に知識の一分野を学ぶことは100ラクアの礼拝よりも良い。」とのハディースが示している。
アブー・ダルダーゥは言った。「学びに行くことをジハードだと考えない者は理性、考えに欠けている。」教えることの徳は「アッラーが知識を与えられた者に、人々にそれを教え、それを隠すな、との約定を取られた時」とのアッラーの御言葉が示している。アッラーの使途はこの節を読まれた時に言われた。「アッラーは学者には必ず、預言者たちになされたように、知識を教え隠すなかれとの約定を取られた。」
 預言者はムアーズをイエメンに派遣された時に言われた。「アッラーがあなたを介して一人の男を導かれたなら、あなたにとってそれはこの世界とその中にあるもの(全て)よりも価値がある。」ウマルは言った。「誰かが何かを話して、それを誰か(他人)が実行したなら、彼(話をした者)にも、それを行ったのと同じだけの報償がある。」ムアーズ・ブン・ジャバルは教えることと知について、以下のように述べているが、その伝承は預言者にまで遡ることができる。「知識を学べ。アッラーのために知識を学ぶことは善行、知を求めることは勤行、勉学は賛美、探求はジハード、教えることは喜捨、知をそれに相応しい者に授けることは奉献である。知は孤独の慰め、独居の伴侶、禍福に応じた導き手、親友の中の腹心、朋友の中の同志、楽園への道の光塔である。アッラーは知識によって人々を高め、彼らを人々を牽引し行き先を示す善の先導者、幸福の案内人とされ、彼らの行跡は辿られ、彼らの行為を注視され、天使は彼らの装飾を望み、その翼で彼らを愛撫し、湿ったものも乾いたものも全てが彼らを称え、海の魚介類や陸の獣や家畜、空と星に至るまで彼らのために赦しを請う。なぜならば知識は心の蒙を開き、闇の中で目を照らし、身体の弱さを強め、人は知によって篤信者の境地、最高の段階に達し、知識の思索は斎戒、勉学は夜の礼拝に匹敵し、アッラーが従われ、崇拝されるのは知によってであり、主が唯一の神として畏れられるのも知に基づいてであり、知によって親戚関係が繋がれる。知が主で、行為は従なのである。アッラーは幸運な者には知を授け、惨めな者には知を遮断されるのである。
理性に照らしても、学問の徳は隠れもない。なぜならそれによって至高なるアッラー、その近く、その側に到達するからであり、それは終わることのない永遠の至福、永久の快楽であり、それによって現世の栄光と来世の至福があるからである。現世は来世の畑であり、学者はその知識によって、自分自身のために、その知識の要請に応じた自己修練によって来世の至福のための種を植えるのである。また教育によっても永遠の至福の種を植えることになるだろう。なぜなら人々の人格を陶冶し、彼らを自らの知識により至高なるアッラーに近づけるものに誘うからである。「叡智と良き訓戒であなたの主の道に招き、彼らと最善のもので議論せよ。」(16章125節)それゆえ彼(学者)は選良は叡智によって、大衆は訓戒によって、頑迷な者は議論によって呼びかけ、自分を救い、他人をも救う。これこそ人間の感性なのである。

2020年3月6日金曜日

ボードゲーム「カリフ」イジュティハード


1 経済アドバイザーを名乗る男が現れ、金貨銀貨を廃止し自国に紙幣を発行する中央銀行を作るよう言ってきた。アドバイスを受け入れるべき? 
シャリーアの認める通貨(ナクド)は金と銀だけであり、義務の浄財(ザカー)の最低額、殺人・傷害の血の代償(ディヤ)などは金、銀によって定められています。ハナフィー派では義務の浄財の最低額は金20ディーナールか銀20ディルハムです。(現代の度量衡だと金1ディーナールは22金で約4.25グラム、銀は約3グラム)。殺人の血の代償はアブー・ハニーファは「ラクダか金か銀」と述べており、第二代正統カリフ・ウマルはラクダなら百頭、金なら千ディーナール、銀なら一万ディルハムと定めました。
金貨、銀貨の品質管理はカリフの職務の一つであり、金、銀の裏付がないただの無価値な紙片を、武力による威嚇を背景に高価な物品との交換を強制することは詐欺に他ならず、カリフであっても許されません。
 但し個人の間で自分たちの信用に基づく約束手形を発行するのは自由ですので、金銀をいつも身につけて持ち運ぶ必要はありません。

2 息子がラッパーになりたいと言い出した。父親である貴方はこれを認めるべきだろうか。
音楽については、楽器、特に管楽器の使用は禁じられているという説が有力です。預言者ムハンマドも「音楽に伴う 笛(ミズマール)の音と、不運に見舞われた時の呪詛(じゅそ)の声は、現世と来世で呪われます」と言われています。但し楽器の定義が曖昧であり、預言者の弟子たちも楽器を使ったとの伝承もあるため、ガザリーなどの法学者も、可否の基準は意図と目的であり、音楽の目的が遊興であり、劣情を煽(あお)り、飲酒や婚外交渉などの禁じられた行為の誘因にならないなら許される、と述べています。
ラッパーになりたいと言っているなら、楽器を使わず、神を称え、神に仕え愛と正義を実践するよう訴えるラッパーになるように勧めるべきです。

3 イスラーム法学者同士、ファトワーとファトワーが対立した場合はどうするのでしょうか。
ファトワーとは質問に対する答えであり、ムスリムは誰にでも好きなことを尋ねることが出来ます。ですからいろいろな人がいろいろな人にいろいろな質問をするので、いろいろなファトワーが世の中に出回ることになります。自分が尋ねたのでもない人間のファトワーを気にする必要はありません。とはいえ、自分で質問したからといって、そのファトワーに従う義務もありませんし、たまたま目にした知らない人の発したファトワーでも、それに納得すれば従っても構いません。
ただしイスラーム法を学ぶ者の間では、クルアーンとハディースの解釈はアブー・ハニーファ、マーリク・ブン・アナス、シャーフィイー、アフマド・ブン・ハンバルの4人の法学祖がイジュティハードで演繹(えんえき)した法体系に収斂(しゅうれん)し、4つの法学派が確立しているので、自分でイジュティハードできるようになりたいとの志がある学徒はいずれかの法学派に属して勉強してください。

4 嘘をつくことはハラームですが、つくり物の映画はハラームだろうか。

嘘はもちろん悪で、ある意味では最も重い罪です。預言者ムハンマドは、「信仰者が不倫したり、泥棒したりしますか」と尋ねられた時は、「そういうこともあります」と答えらえましたが、「では信仰者は嘘をつきますか」と尋ねられた時には「いいえ」と答え、クルアーン「信仰のない者だけが嘘を吐く」(16105節)を読み上げられました。
  しかし定義が曖昧なので法学的な意味でのハラーム(禁止)と呼ぶのは不適切です。預言者ムハンマドも、戦争での策略の場合、いがみ合う人々の仲を取り持つ場合、夫婦の間での御世辞の3つの場合の嘘は許されました。
 クルアーンにも、不信仰者を雷雨の夜の暗闇を歩む者、聾啞(ろうあ)の盲人になぞらえる話(217‐20節)など数多くのたとえ話があります。
 要するに、たとえ話のようにつくり物だと分かっていて誰も騙(だま)されず、内容が教訓を得るという良い目的で作られたものであれば禁じられた嘘にはなりません。

5 私財を投じて他人へ施すことと、他人の世話にならないように個人の財産を貯蓄することのどちらを優先すべきだろうか。

自分と妻子の扶養分以上の財産があれば、喜捨することがスンナです。しかしイスラーム法は、妻子の扶養を蔑ろにして施すことは罪であると定めています。
 預言者ムハンマドは「上の手(施す手)は下の手(物乞いの手)に勝る。おまえの扶養する者から始めよ。最善の喜捨は富裕な者によるもの。」「人間にとって自分が養う者を飢えさせることより重い罪があろうか」 と言われています。
 妻子の扶養義務を怠って施すことは禁じられますが、妻子の扶養の義務には将来のために貯蓄することは含まれません。将来のことはアッラーに任せればよいからです。
 アッラーは仰せです。「彼(アッラーを畏れる者)には彼が考えもつかないところから、(アッラーは)恵みを与えられる。アッラーを信頼する者には、かれは万全であられる。」(653節)


6 自分の息子/娘が同性愛者かもしれない。その場合は息子/娘にどのように接すればいいだろうか。

「同性愛」という表現は不正確です。男女の別なくムスリム同士は愛し合うべきですから。禁じられているのは心中の「愛」ではなく「婚外性交」という行為であり、イスラーム法は、全ての婚外性交を禁じていますが、同性性交の禁止はロトの逸話に遡るもので創世記19章に、クルアーンでは78081節に述べられています。
しかしハディースには「アッラーは善悪を定め教えられた。悪行をしようと思ったが思いとどまった者にアッラーは一つの善行を行ったと書き留め、それを犯した者には一つの悪を行ったと書き留められる。」と言われています。
 ハディースには「ムスリムの隠し事を追求するな」とも言われており、性行為は秘め事ですから、公然と行わないなら追求すべきではありません。親の義務はクルアーンとハディースを教えることだけです。同性を愛し性交を望んだ者が実行して罪を犯すか、自制して善行の報奨を得るか、どちらを選ぶかは本人に任されます。

7 イスラム教に改宗したキリスト教徒に、改宗の意思がない配偶者と、成人していない子供がいる場合、家族の中で自分だけがイスラム教徒として生活するということは許されるのだろうか。

クルアーン55節「今日(清き)良いものがあなたがたに許される。中略あなたがた以前に啓典を授けられた民の中の貞節な女も。」により、キリスト教徒の妻との結婚は許されており、夫のイスラーム入信後も入信前の婚姻契約がそのまま有効です。
子供については、父親の入信後に生まれたなら自動的にムスリムになりますが、イスラーム入信前に生まれていた場合にはその規定は適用されません。父親は子供にイスラームを教えなければなりませんが、強制はできません。キリスト教に入信した二人の息子に入信を強要して拒まれたムスリムの男が、息子を連れて預言者ムハンマドの許にやって来て「地獄の業火が自分の子供たちに迫っているのを、どうして見逃せましようか」と訴えた時、「宗教に強制はない」とのクルアーンの節(2256節)が啓示され、預言者が二人を放免したと伝えられていることから、子供は成人後に自分で宗教を選ぶことになるでしょう。

8 夫婦喧嘩をして、どちらも主張を譲らない場合、夫と妻のどちらが妥協するべきでしょうか。
  喧嘩の内容によります。イスラーム法は夫と妻にそれぞれ権利と義務を定めていますので、喧嘩の内容が、夫に権利があることであれば、妻はその義務を果たさなければなりません。逆に妻に権利があることであれば夫は自分の義務を果たさなければなりません。
 夫の権利は生理期間を除き妻と性交をすることであり、妻の義務は夫の性交の求めに応じ夫の許可がない限り家に居て夫の財産を保管することです。妻の権利は結婚する時に婚資(マハル)、結婚している間に扶養費、離婚する時に離婚金をもらうこと、夫との性生活を楽しむことです。
 妻が義務を果たさなければ、クルアーンに「男は女の上に立つ者である。 中略 反抗的な女たちには諭し、臥所(ふしど)に置き去りにし、打擲(ちょうちゃく)せよ」(434節)とあるように夫は言うことをきかせる権利があり、それでも言うことを聞かなければ離婚します。夫が義務を果たさなかった場合は妻は裁判官に訴え離婚することが出来ます。

9 日本人でもカリフになれますか。
  イスラーム法はカリフの資格を成人、理性、イスラーム、イスラーム法の学識、公正さ、敬虔(けいけん)、男性、政治力、勇気、健常な四肢と感覚、クライシュ族の男系出自、カリフの選出手続きをイスラーム学者と政治権力者たちによる選挙か、前任のカリフからの後継者指名、と定めています。
ですから日本人がカリフになるには、クライシュ族の男性が日本に渡来し日本人女性と結婚して生まれた男子が前任のカリフから後継者に指名されるか、カリフに選ばれるかどちらかです。
しかしシャーフィイー派の大学者アブドルカリーム・ラーフィイー(1226年没)が、武力で覇権を握ってダールルイスラームに実効支配を確立した場合、カリフの資格を満たさず、選挙されたのでもなく前任のカリフからの指名もなくとも正当なカリフと認める、との理論を編み出しましたので、クライシュ族でない日本人でもダールルイスラームを武力で征服すればカリフになれることになります。

10 仕事ができず、いつも皆に迷惑をかけています。自分なりに頑張っているのですがうまくいきません。どうすれば有能な人間になれるでしょうか。

一般に無能な人間は有能にはなれません。アッラーは誰にも、できないことをしろ、とは命じられません。あなたはあなたにできることだけを真面目にやればそれで十分です。できない仕事を押し付けてミスが生じたなら、そのミスの責任は、あなたではなく、あなたの能力を見誤った上司にあります。失敗の責任を取るために、上司は大きな権限を持たされ高い給料をもらっているのです。
「アッラーは誰にもその能力以上のことは課されません。誰もが自分が稼いだものに権利があり、自分が犯してしまったことに責任を負う。我らが主よ、私たちが忘れたり、ミスを犯したとしても、私たちを責めないでください。」(クルアーン2286節)

11 彼女が欲しいのですがなかなかできません。どうすればモテるでしょうか。

預言者ムハンマドは、「財産、貴い家柄、美しさ、宗教性の4つによって、結婚しなさい。宗教的な女性を娶(めと)れば糟糠(そうこう)の妻となる。」と言われました。学者たちによるとこのハディースは男性にも当てはまります。
生まれついての家柄は自分ではどうしようもありません。ですので、もてたければ、金持ちになるか、美しくなるか、宗教的になるか、のどれかを目指すのがよいでしょう。化粧すれば少しはカッコよくなるかもしれませんが、美しくなるのもかなりハードルが高いでしょう。金持ちになるのも、元手か商才か運のどれかがないと難しいです。一番簡単なのが、宗教的になることです。内心の敬虔(けいけん)はなかなか身に付きませんが、モスクに足繁く通ったり、礼拝をたくさんしたり、斎戒断食したり、顎鬚(あごひげ)を伸ばしたり、宗教的に見える振る舞いをするのは誰にでもできますので、やってみましょう。

12 神はなぜ人間を作ったのですか。
 アッラーはクルアーンの中で「私が人間とジンを創造したのは、ただ彼らが私を崇拝するためにでしかない。」(5156節)と仰せです。
 預言者の高弟イブン・アッバースは、「崇拝する」とは「知る」という意味だと解説しています。人間が創造された目的は神に仕え神を知ることです。
 また「己を知る者はその主を知る」とも言われています。主に仕えることで、己を知り神を知ることが人間が存在する意味です。

13 神様が本当にいるのなら、虐げられている弱者を助けないのはなぜですか。

神は「死と生を、あなた方の誰が最も良い行いをするか、あなたがたを試みるために創造した御方」(クルアーン672節)です。
生も死も幸運も不運も神からの試練です。虐げられている弱者が、神から命じられている忍耐を行い死後の楽園の報奨をもらい、虐げられた弱者を助ける者が正義を行うことで来世で楽園の報奨をもらう機会を得るためです。

14 万物は神が作ったものなら、どうして食べてはいけない物があるのですか
豚肉の禁止(5節)などが書かれたクルアーン5[食卓章]は「信仰する者たちよ、契約を守れ。」から始まり、「アッラーは困難をあなたがたに課すことを望まれない」(6節)を挟み、「(アッラーが)あなたがたと結ばれた約定を思い起こし、アッラーを畏れなさい」(7節)で結ばれます。
 食べ物だけではなく、人間の行為を含む森羅万象は全て、アッラーの創造になります。食べ物の禁止も、行為の禁止も、全て神との契約であり、人間にとっての悪とは契約に背くことです。神が禁止を定めたのは人間を苦しめるためではなく、恵みを授けるためです。預言者ムハンマドは「悪行をしようと思ったが思いとどまった者にアッラーは一つの善行を行ったと書き留められる。」と言われました。
 食べたいのを我慢するだけで来世で報奨をもらえるために食べてはいけない物があるのです。しかしもっと大切なのは、禁じられた食べ物を見る度に、神の恩恵を思い出すことです。

15 カリフ制は国家を否定すると聞きました。国家とは何でしょうか。
 国家とは幻想、虚構です。国家を否定する、という意味は、存在するものを拒絶して無くそう、ということではありません。存在もしないものが存在するかのように騙(だま)されない、ということです。
 フランス国王ルイ14世は「朕は国家なり」と言いました。では天皇、それとも首相、それとも「主権者」と言われる私やあなたが日本の国家なのでしょうか。それとも国会議事堂の建物が国家でしょうか。あるいは富士山や琵琶湖が国家でしょうか。
 政治学では主権、国民、領土を国家の三要素を言います。しかしそんなものが戦争をしたり、税金を取ったり、子供の教育をしたりするでしょうか。
カリフ制と神の法による人間の生き方です。最初のカリフは人類の太祖アーダムです「私(アッラーは)は地上にカリフをおいた」(クルアーン230節)名前に欺かれ、教育、福祉、安全保障を非在の国家に委ね、国家の名に隠れて人間が権力を恣(ほしいまま)にするのを許してはならないのです。

16 いじめを目撃しました。止めたいですが止めると自分が次の標的になってしまいます。どうしたらよいでしょうか。

預言者ムハンマドは言われました。「お前たちの誰でも悪行を見かけたら自分の手でそれを変えなさい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。」
いじめている者たちより自分の方が強くて仕返しされないと思えば力づくでとめればよいでしょう。それができそうもなければ、いじめをやめるように説得してとめれれると思うなら説得してみればよいでしょう。それもできそうもなければ、心の中でいじめがなくなるように、と神に祈ればよいでしょう。大切なのは自分に何ができるかを見極めることです。

17 毎日がつらくて死にたくなります。どうしたらよいでしょうか。
預言者ムハンマドは言われました。「刃剣で割腹自殺した者は、地獄の火中でその刃剣を手にもって自らの腹を永久に刺し続ける者となるだろう。また、毒を飲んで自殺した者は、地獄の火中で永遠に毒をすすり続ける者となるだろう。更にまた、山頂から投身自殺した者は、地獄の火中を永遠に落ち続ける者となるだろう。」 
イスラームでは自殺は禁じられていますが、殉教で死ぬことは勧められています。ムハンマドは言われます。「死後、アッラーの御許で恩典を与えられた者は、たとえこの世とそれに存在する全てを与えられるとしても、再びこの世に帰ることを望む者は一人も無いであろう。だが殉教者は別である。彼は殉教の恩典として受けるものがあまりにも素晴らしい故、再びこの世に戻って殉教することを望むであろう。」 
どうしても死にたければ、過酷な戦場にジハードに行き殉教しましょう。

18 就職活動がうまくいきません。どうすれば良い仕事につけるでしょうか。
 アッラーは仰せです。「またアッラーを畏れる者には、彼は脱出口を備えられる。(アッラーは)考えつかないところから彼に糧を恵まれる。アッラーに拠り頼む者には、彼は十全であられる。」(652-3節) 
 アッラーにお任せすれば、思いもかけない良い仕事が見つかるかもしれません。取りあえず祈りましょう。

19 幼いわが子がちっとも可愛いと思えません。このままでは虐待しそうです。
 あんな芋虫みたいなもの、可愛いと思う方がおかしいです。預言者ムハンマドも当時のクライシュ族の習慣に従って、4年から5年、砂漠に送られ乳母の許で育てられ、歩けるようになると牧童として羊などの家畜の世話をするようになりました。
 可愛くない子供は砂漠に送って働かせましょう。

20 実力がないのにチヤホヤされている人を見るとイライラします。ああいう人が注目されないようにするにはどうすればいいでしょうか。

預言者ムハンマドは「自分に関係のないことは放っておくことが、ムスリムの美点です」と言われています。 そういう人を見るといらいらするなら、足を引っ張ろうなどと考えず、そもそもそんな人のことなど見ないようにするのが一番です。

21 保険加入や貯金は神を信じていないことになりますか。
アッラーは「彼らは酒と賭矢に就いてあなたに問うであろう。言ってやるがいい。『それらは大きな罪であるが、人間のために益もある。だがその罪は益よりも大である』。」(クルアーン2219節) と仰せになり、賭博を禁じられました。また預言者ムハンマドはリスク(gharar)の売買を禁じられました。
イスラーム法は不確定な未来の売買を禁じています。起きるかどうか分らないリスクに対して決まった対価を与える保険には、禁じられた賭博とリスクの売買の要素があり、合法性に疑いの余地があります。
またアッラーは「(アッラーは)考えつかないところから彼に糧を恵まれる。アッラーに拠り頼む者には、彼は十全であられる。」(652-3節)と仰せなので、アッラーへの深い信頼があれば保険や貯金などは要らない、とも言えます。 
しかし、これらは罪や信仰の弱さではあっても、不信仰、多神崇拝にはあたりません。

22 イスラム教のお坊さんはなんという名前なのですか。
神の子や、神の代理人のような特別な人間の存在を認めないイスラームには、聖職者、いわゆる「お坊さん」はいません。それでも日本人から見て、「お坊さん」のように見える人はいます。地方や民族によって、いろいろな呼び名がありますが、アラビア語の主だった名前には以下のようなものがあります。まずはアーリム。イスラーム学者の意味です。複数形のウラマーの方が有名かもしれません。その他、導師を意味するイマーム、老師を意味するシャイフ、教義回答者の意味のムフティーなどの呼び名もあります。またマウラーナー(我らが主)、サイイディー(我が)のような敬称もあります。


23 自国内の異教徒は改宗させるべきか?

 クルアーンには「宗教に強制はない」(2256節)とあります。バイダーウィーのクルアーン注釈によると、使徒の召命以前にキリスト教に入信した二人の息子がいたムスリムが「地獄の業火が私の子供たちに迫っているのを、見逃せましようか」と言って二人の息子を連れて預言者の許に来てイスラームの入信を強要するように求めて預言者ムハンマドの許に来た時、この節が啓示され、預言者は二人の息子を自由にしたと言われています。
 また異教徒がダールルイスラームにやってきた場合も、イスラームが実践される姿を見て承服し見習って自発的に入信しなかった場合は改宗を強制することはできず、以下のクルアーンの聖句により安全に本国に送還しなければなりません。
「もし多神教徒の中に,あなたに保護を求める者があれば保護し,アッラーの御言葉を聞かせ,その後かれを安全な所に送れ。これはかれらが,知識のない民のためである。」(クルアーン96節)

24 専業主婦の妻が家事を一切やりたくないのでメイドが欲しいと言ってきた。雇ってあげるべき?

 雇う余裕があれば夫には雇う義務があります。イブン・マージャ「夫に余裕があれば、妻は召使いを一人所有する権利があり、夫には召使いの経費を負担する義務がある。それは妻には、夫の身の回りの世話に専念するために家事を司り彼女に仕える召使いが必要だからである。」と夫に妻のために召使いを雇う義務を明言しています。クルアーン656節に基づき夫には妻の扶養の義務があるからです。
妻の義務は、夫との性交と貞節を護ること、留守中の夫を家財の保管で、「夫の身の回りの世話」とは快適な性生活の用意をすることです。家事は妻が望まねば、夫は召使いを雇わねばなりません。
 勿論、これは夫にそれなりの収入がある場合のことで、「アッラーは誰にもできないことは課されない」(クルアーン2286節)の原則により、夫が貧しい場合には借金をしてまで無理に雇う必要はなく、夫婦で家事を分担するか、別れるか、二人で相談して決めます。