「コロナ禍を生きる - 人々は眠っている。死んではじめて気づく」
1.序
この連載も今回で最終回ですが、前々回、前回とパレスチナとトルコという個別の問題に焦点を絞って扱ったCOVOID-19について、イスラームに絡めて巨視的に論じてみようと思います。
まず最初に言っておかなければならないのは、私の予想は大きく外れた、ということです。COVOID-19自体の出現は誰にも予想できませんでしたので、それが予想外だったのは当然ですのでそのことではありません。
本連載で何度も繰り返しているように、現代のムスリム世界にイスラームは形だけしか残っておらず、国家のレベルでも社会のレベルでも個人のレベルでもイスラームの教えは実践されていません。それはヨーロッパの植民地支配によって骨抜きにされた現在に始まってことではなく、文明的にはイスラームの絶頂期とも言われるアッバース朝時代においてすらそうでした。しかしこの話をし始めるとキリがないので、詳しくは拙著『イスラーム学』(作品社2020年)、特に第6章「末法の法学」をお読みください。
現代のムスリム国家、ムスリム社会、ムスリムの行動は基本的に全て西欧の領域国民国家、資本主義、西欧近代科学の論理に基づいており、イスラームは表面的な文化的残滓以上のものではありません。外の人間にはまるで別物に見えても、違いは表層の見かけだけに過ぎません。それはちょうど「COVOID-19」が、日本語では「新コロナウィルス」、英語ではnovel coronavirus、中国語では「新型冠状病毒」と書かれるので、日本語、英語、中国語を知らない人間にはまったく別物に見えても、実は同じものであるのと似ています。
そのことはよくよく分かっていたつもりでしたが、それにしてもここまでだとは思っていなかった、というのが予想外だった、という意味です。また私は1982年に東大のイスラーム学研究室に進学し1983年にイスラームに入信して以来、イスラーム学研究室出身のただ一人のムスリム学生であり、ずっと自分の世界観、価値観が他の日本人とは違い、理解されないことを自覚して生きてきました。またエジプト留学以来、25か国以上のムスリム国を訪れましたが、そこでも日本文化の中で育ち13-4世紀のスンナ派国法学を専門とする古典イスラーム学者として、自分たちがイスラームを実践していると信じている現代の自称ムスリムたちとも全く別の世界観を生きていることをいやというほど痛感してきました。しかしCOVOID-19に対するムスリム世界、日本の反応を見て、私自身の世界観と感性が、ここまで日本人とも現代のムスリムたちとも、勿論、それ以外の世界の人々とも、ここまでかけ離れていたのか、と我ながら驚かされました。今回はそれはなぜか、というお話をしていきましょう。
2.
専門性とは何か
世界を巻き込んだCOVOID-19ですが、最初に事実関係についてはっきりさせておきましょう。政府も新型コロナウイルス感染症対策専門家会議などというものを立ち上げて、様々な提言を行っており、SNSでは「専門家以外は黙っていろ」といった怒声、罵声が飛び交う一方で、自称、他称の専門家の言葉があふれています。しかしそもそも「専門家」とは誰のことなのでしょうか。どんな学問分野であれ知識というものは「有る」「無い」という二値論理で語れるものではありません。ですから本来は学問に専門家、非専門家などという線引きはできません。
しかしそれでは西欧的近代社会の基盤となる研究、教育が組織できないために、できあがったのが博士という制度です。学問を「人文科学」、「社会科学」、「自然科学」に分け、それらの全てにおいて、特定の分野において世界中の先行研究を全て押さえたうえでそれまで誰一人考え付いたことがないことを確認されたその時点で反証不能とその分野の専門家によって認められた学説を立て人類に新しい知見をもたらした者にのみ博士の称号を与える、というルールを作りあげることでやっと、互いの研究内容を理解していない教員同士がすべての大学教員をひとしなみに科学の研究者として扱い学生に専門教育を提供する専門家という同業者集団としてまがりなりにも相互認知し自己組織化することが可能になり、「大学」という制度が成り立っているのです。
博士論文の審査制度からも明らかなように「専門家」の「専門」を理解できる人間は、「専門家」しかいませんので、だいたい世界中で数人しかいないのが普通です。それ以外の人間は「専門家」の「専門」分野については「客観的」には判断できません。そして「客観的」に「専門家」以外が「専門家」について、何の「専門」かについて判断できるのは、「博士論文」のテーマだけです。勿論「博士論文」のテーマの内容を理解できる、というわけではありません。博士論文のテーマにまで専門性を狭く絞ると、その「分野」の「専門家」ですら査読者に選ばれた数人をのぞいて本当には理解できないのが実態です。素人が「客観的に専門性を判断できる」というのは、内容がわかなくても、そのテーマに関しては、それで博士の論文審査が通っている以上、その研究者がその論文のテーマに関してだけは全く目を通さなくてもそれがその者の専門であると、判断して良い。
医学の専門家などというものはいないのは勿論、伝染病の専門家、インフルエンザの専門家などというものはいません。たとえば、私の場合、本当に専門と言えるのは、13‐14世紀にシリア、エジプトで活動し膨大な著作を残した大イスラーム学者イブン・タイミーヤ(1328年没)の政治哲学だけです。「イスラーム学の専門家」や「イスラーム法学の専門家」はもちろんな存在しませんし、「イブン・タイミーヤの専門家」でさえいません。医学を例にとるなら、私の持病の痛風のような古来からあり標準的な治療法が確立している病気でも、痛風の全てを知っている専門家などいません。例えばインターネットで検索してみると痛風に関する博士論文として獨協医科大学の染谷啓介「痛風の実験的研究 : 尿酸塩結晶食作用に及ぼすvinblastineの影響」、慶應大学の安田大輔「尿酸のラジカル消去機構を規範とした新規抗酸化活性医薬品リード化合物の創製研究」、近畿大学の中尾紀久世「漢方医学に学ぶ薬食同源素材からの尿酸生成阻害作用生薬、並びにその有効成分の探索に関する研究」などが見つかります。これが専門というものです。博士論文のテーマ以外については、専門である場合もあれば、違う場合もある、としか言いようがありません。医者の場合は、専門医という制度もあるので、たとえば痛風専門医はそれ以外に比べれば痛風に詳しいぐらいのことは言えますが、それは研究者のレベルでの専門性とは違う話です。たとえば日本救急学会、外傷医学会専門医の木下喬弘先生は「『専門家』って微妙な用語で、例えば峰先生はウイルス学者ですが感染症臨床の専門家ではないし、EARL先生は感染症臨床の専門家ですが基礎研究やってるわけではないです。私は救急医療が専門で公衆衛生もやってますが、同じく基礎研究はわかりません。そして3人とも感染症疫学が専門とは言い難い。」とツイートしています。
博士論文以外にも学会誌に発表された学術論文によって専門性を判断することも理論的には可能ですが、実際には自分自身がその分野の博士クラスの研究者でなければ難しいでしょう。最近話題になったABC予想の証明が良い例です。最も厳密かつ客観的と思われている数学ですら、京大の望月教授の論文が国際学術誌『PRIMS』に受理されるのに査読が7年あまりに及び、しかも欧米で意義が相次いでいます。「学術論文」は玉石混交であり、箸にも棒にもかからないゴミのような「石」が大半な一方で、逆に研究者のレベルなら一定の手続きさえ踏めば誰でも同じような結論を導ける程度の博士論文と違い、「玉」の場合は同じ分野の同業者でも見解が分かれることもあり、「専門家」でない人間には判断のしようがありませんので、結局、誰が何の「専門家」なのか「素人」にも分かる基準としては博士論文のテーマを調べて、それと照らし合わせるしかない、ということになります。もちろん、博士論文で扱っていなくても、十分「専門家」並みに詳しい人というのは居るのですが、それは「検証」できないので、その言葉を信ずるかどうかは、占い師の占いを信ずるのと変わらない、「客観的」でない、というのはそういうことです。
そして大学の博士の期間は特例はあっても5年が標準です。COVOID-19は2019年の冬ですからまだ発見から半年ほどしか経っていません。どんな分野であれ、半年かそこらの研究で「専門家」を名乗れるほど、「学問」とは安易なものではありません。特にCOVOID-19のように狭義の医学の研究だけとっても発生源とされる中国が政治的な理由から、調査、研究、その発表の自由を制限しており、基本的なデータさえ十分に得られないところでまともな専門的学術研究がなされようがありません。更に公衆衛生のような、医学だけでなく経済、政治、政治も世界各国のそれぞれの国内法の違いまで考慮しなければならないような分野に「専門家」などまだいるはずがありません。
3.科学と価値観
と、関係のなさそうな話を延々と論じてきたのは、要は、この問題に関して、政府の専門家会議も含めて誰一人「専門家」などおらず、自称、他称の「専門家」たちの言うことも、現段階ではとても学術的に厳密な議論といえるものではないので鵜呑みにしてはならない、ということです。逆に言えば、「専門家」たちでさえいい加減なデータに基づいた大雑把な議論しかできないのですから、誰でも過去の伝染病の事例などに基づいて雑な議論をしてもよいということです。
もう一点、重要なのは、科学が語るのは事実「Sein(ある)」だけであり、規範「Sollen(すべし)」ではない、ということです。ですから、医学の専門家の科学的根拠に基づいていると謳っていても「~すべき」という提言は、たとえ「専門家」たちの言葉であっても彼らの「専門知」に基づくものではなく、すべて個人的価値観による意見の押し付けでしかありません。
医者の場合、たとえ明日処刑が決まっている死刑囚であっても健康な状態で処刑できるようにその健康維持に最善を尽くす、といった極端な人命尊重の職業倫理を有する人々です。そういう価値観を有する人の提言が目の前にいる病人の命の尊重に極端に偏ったものになるのは無理もないことです。数字に表れる富の増大を至上価値とする経済学者、万事を自己の権力の増大の手段として利用する政治家の提言が偏っているのはなおさらです。
と、前置きはここまでにして、なぜ私がCOVOID-19に対する世界の対応が予想外だったのか、具体的にお話していきましょう。
4.
歴史の中の伝染病
生理学博士で進化生物学者でもあるダイヤモンド博士は『鉄・病原菌・銃』の中で、ヨーロッパの植民地主義者たちによる先住民の抹殺において、伝染病の方が武力よりも大きな役割を果たした、と述べています。
「インフルエンザなどの伝染病は、人間だけが罹患する病原菌によって引き起こされるが、 これらの病原菌は動物に感染した病原菌の突然変異種である。家畜を持った人びとは、新しく生まれた病原菌の最初の犠牲者となったものの、時間の経過とともに、これらの病原菌に対する抵抗力をしだいに身につけていった。すでに免疫を有する人びとが、それらの病原菌にまったくさらされたことのなかった人びとと接触したとき、疫病が大流行し、ひどい ときには後者の九九パーセントが死亡している。このように、もともと家畜から人間にうつった病原菌は、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸、南アフリカ、そして太平洋諸島の先住民を征服するうえで、決定的な役割を果たしたのである。」
これまで多くの伝染病の流行にもかかわらず、かつては今よりはるかに人口が少なく医学も未発達でそれらの伝染病に対する有効な治療法もなかったにもかかわらず人類が今日まで生き残ってきたという事実自体が、医学が発達し人口も急増し80億人に達しようとしている現在、人類というレベルで伝染病がその存続を脅かすリスクは限りなく小さいと言えるでしょう。14世紀のペストの世界的大流行では当時の人類の推定総人口4億5000万人が3億5000万人にまで減少したと言われていますが、それでも人類は生き残ったどころか、ヨーロッパでは労働人口の減少により労働条件の改善と農工業の効率化がはかられ、社会、経済が発展したとも言われています。最近の最大の伝染病の流行は1918-1920年のスペイン風邪(インフルエンザ)の流行で、当時の地球の総人口20億人弱のうち2千万人から4千万人が死んだと言われていますが、それによっても人類は滅びず、その後も人口は増え続け、今やむしろ多すぎる人口が問題となっています。
スペイン風邪のグローバルな流行は人類の滅亡が懸念されるほどの危機にはいたらなかったばかりか、民族の消滅、国家崩壊はおろか、さしたる社会問題も引き起こしませんでした。『鉄・病原菌・鉄』は、伝染病は人類全体を滅ぼすほどではなくとも、民族、国家のレベルでは存亡の危機とも言える脅威となりうることを教えています。しかしCOVOID-19は対症療法しかなくまだ誰も免疫を持っていないとされる(私は本当かどうか疑っていますが)状態でも感染者の致死率はシンガポールなどでは1%を下回っており、医療崩壊が起きている場合でも10%ほどでしかありませんので、地域的な民族、国家レベルでさえもその存在を脅かすほどの危機ではないことは明らかです。
私たちがよく知る世界史上の民族、国家レベルでの存亡の危機となった伝染病は、1346年から1352年にかけて流行し当時のヨーロッパの全人口の4分の1が失われイングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し全滅した街や村もあった黒死病(腺ペスト)です。しかし既に述べたようにヨーロッパは医学的には有効な治療法を発見できないままにペスト禍を克服し、それどころか遡及的に分析するなら、後の産業革命、科学革命の準備をすることになりました。
5.イスラームと伝染病
前回述べた通り、イスラームは預言者ムハンマドとその弟子たちの正統カリフの時代にペスト(ターウーン)の流行に遭遇しています。そしてターウーン(伝染病、腺ペスト)にに対しては、その地への人の出入りを禁ずる、とのロックダウンの法規定が定められています。実はこの規定は「天使たちは言う。『アッラーの大地は広大ではないか。その中で移住せよ』」(クルアーン4章97節)と、大地は全て神のものであると宣言し、「大地を旅し、(アッラーが)いかに創造を始めたかを考察せよ」(クルアーン29章20節)と、人間の移動の自由を認めるのみならず神の創造の御業を想うために世界を見て回ることを積極的に勧めるイスラームの教えの中で例外的に移動の自由を制限するものです。
クルアーンに「我ら(アッラー)は使徒を遣わさない限り、罰することはない」(クルアーン17章15節)、「律法(トーラー)が降示される前には、イスラエル(ヤコブ)が自分自身に禁じたものを除き、すべての食べ物はイスラエルの民に許されていた」(4章93節)とある通り、スンナ派イスラームは人間の義務負荷は理性ではなく啓示により、預言者によって法が与えられない限り人間は「自由」であり、すべては許されている、と教えます。
「自由」と「権利」について本格的に論じ始めると更に10回連載を続けても足りませんので、ザックリとした話をすると、イスラームは(近代ではなく)現代西欧的な人権は認めませんが、絶対的な自然権と啓示による義務の反射としての権利を認めます。
啓示による義務の反射とは、神が殺人、窃盗を禁じているので、生命、財産の尊重の義務が生じ、その反射として生命、財産の権利が生れることを意味します。イスラーム法理学はイスラーム法の義務の反射として生ずる権利を、身命、財産、理性、血統/名誉、宗教の法益に整理します。
絶対的自然権とは、人間が作ったのではない自然に対する処分の「自由」です。人は開いているところであれば陸であれ海であれどこでも好きなところに移動することも、留まることもでき、木の実であれ、魚であれ、動物であれ、石油であれ、好きに取って処分できることを意味します。私がこれを「絶対的自然権」と呼ぶのは、法を前提とする義務の反射ではないからです。ですからどこにでも行くことができる、と言っても、自分に移動手段があればの話で、体が不自由で動けなかったり、遠方で乗り物がなくてたどり着けなかったり、船がなくて海や川が渡れなかったからといって、誰かが連れていってくれるわけではありません。木の実にしろ、動物にしろ、魚にしろ、石油にしろ、自分で手に入れれば好きにして構いませんが、自分で取ってこなければ、誰も持って来てはくれません。
この「絶対的自然権」とは、「権利」というよりむしろ「事実」そのものに近い、西欧的な「権利」が発生する起源にある最も根源的な「規範」である「自由」としての「事実」です。イスラーム法の義務の反射として生ずる権利は、啓示の神への信仰を前提としますが、この「絶対的自然権」は、神の顕現に先立って生成する権利です。つまり絶対的自然権はイスラームの第一信仰告白「ラー・イラーハ・イッラー・アッラー(no god but Allah)」の前段「ラー・イラーハ(no god)」に基づくもので、無神論者、世俗主義者、理神論者とも共有できる政治的議論のプラットフォームだと私は考えています。私が国境の廃絶、領域国民国家の牢獄からの人類の解放としてのカリフ制再興をムスリム諸国のムスリムたちだけでなく宗教にかかわらず日本人相手にもずっと説き続けているのはこのためです。残念ながら、「絶対的自然権」、つまり究極の「自由」を信じないリヴァイアサンの偶像崇拝者、多神教徒には話が通じませんが、それは自称ムスリムでも、それ以外でも同じことです。
この連載でも、それ以外の場所でも、現在のムスリム世界がイスラームとは無縁、自称ムスリムたちが名ばかりで、実態はリヴァイアサンの偶像崇拝者でしかないことは繰り返し繰り返し述べています。ですから今更、COVOID-19に対する対応がイスラームの教えに反しているからといって、驚きはしません。しかし、今述べたように、ロックダウンは絶対的自然権、「自由」の制限ですので、特別な、意味を持ちます。カリフ制再興を自らの使命と心得る私にとっては特に、です。そこでこの問題を少し掘り下げましょう。
前回詳しく述べたように、ハディースにある「ターウーン」の流行時のロックダウンが狭く「腺ペスト」を意味するのか、伝染病(ワバーゥ)一般の規定なのか、そしてまたロックダウンが厳密な移動禁止規定なのか、柔軟な行動指針としての推奨規定なのかは、イスラーム法学者の間でも見解が分かれています。私自身は、ハディースのターウーンは腺ペストを指しているが、他の伝染病にも状況に応じて類推して行動指針とすることができる、と考えています。
というのは、預言者の時代のアラブの間では都市は伝染病が多いことが知られており、特に伝染病の多くでは幼児の死亡率が高いため、新生児は乳母をつけて砂漠に送って育てさせる習慣があったからです。預言者ムハンマド自身も乳母ハリーマによって砂漠で育てられました。また預言者が移住した農村であったマディーナは岩山の商都マッカと比べても、より湿気が高く更に伝染病が多い土地であり、預言者ムハンマドと共にマッカから移住した教友たち(ムハージル―ン)たちはその気候を嫌っていました。それにもかかわらず新生児を砂漠に送って乳母をつけて育てさせるアラブ人の慣習は、慣習としては残りますがイスラーム法には組み込まれませんでした。ですから、通常の伝染病には状況に応じて個々人が理性で判断すればよく、共同体の存続を脅かすターウーン(腺ペスト)にだけ、絶対的自然権を制限し人々の移動を禁ずるロックダウンを行動指針として定めた、と考えるのが妥当だと私は思います。
スンナ派ムスリム世界はおおむね、ロックダウンを命ずるターウーンを典拠に国際線の乗り入れを全面的に停止したり、国内でもさまざまなレベルの移動制限を実施しています。私は個人的には、COVOID-19は現存する数々の伝染病と比べてもターウーンと類推するほどの脅威ではなく、むしろ風邪やインフルエンザと同じような個人的な注意喚起の対応で十分であり、絶対的自然権を制限するロックダウンを強制するのは間違いだと思っています。そもそもイスラーム法は神と個人の関係を律するものであり、法人の概念は存在せず、国家によって強制されるものではありません。勿論、イスラームを知らない人間には近代国家の刑法のように映るものがイスラーム法にあるのも事実です。例えば手首切断刑が定められている窃盗罪については、クルアーン5章38節に「男と女の窃盗犯にはその手を切断せよ…」と書かれています。つまりこれは近代国家の刑法のような、窃盗犯の手首を我々が切断する、という国家による声明ではありません。そうではなく、礼拝をせよ、喜捨をせよ、といったムスリムに対する命令と同じく、窃盗犯に対してその手を切断せよ、とのムスリムに対する神の命令なのです。
この場合、命令形は複数形になっており、連帯義務を指します。連帯義務とは、誰かが行えば他の人々は免責されるが誰も行わなければ共同体の全員が罪に陥るような義務です。刑罰の執行はこの連帯義務であり、カリフとその代官が執行の義務を負い、彼らがそれを実行しなければ神に背いたことになります。ちなみに、窃盗犯は死後の最後の審判で裁かれ窃盗の罪で火獄で罰せられますが、悔い改めてこの世で手首の切断刑を受ければ、それが罪の償いとなり、来世での罰を免じられます。ただの窃盗の禁止なら、ムスリムに対する「盗むな」という命令になります。実際、普通のイスラームの規定に関しては、そのような形の命令だけで、違反者に対して刑罰を課す命令は定められていません。たとえば有名な豚肉食の禁止やラマダーン月の断食に関しては、現世でのカリフとその代理人による刑罰は特に定められておらず、禁止を守るかどうかは個人の良心に任されています。
クルアーンやハディースの中で、カリフとその代理人に対して違反者への刑罰の執行が命じられている規定、いわゆる「イスラーム刑法」をアラビア語で「フドゥード」と言いますが、フドゥードの法益は「フクーク・アッラー(アッラーの権利)」、それ以外の規定の法益を「フクーク・アーダミーイーン(人間の権利)」と呼びます。フクーク・アッラー(神の権利)と言うと、狭義の宗教儀礼のように勘違いされるかもしれませんが、そうではなくムスリム共同体全体にかかわる公益と定義されています。フクーク・アーダミーイーン(人間の権利)は婚姻法や商法などで、個々人の事情によって判断が大きく変わるもので、当事者間で解決するのが原則で、どうしても解決できず、裁判になった場合にのみ裁判官、行政官が介入することになります。
といっても、公然と禁を破った場合は、豚を食べたこと、断食を破ったことではなく、公然と神の命令を破ることで、神の法の権威の否定、ムスリム共同体全体の法秩序に対する挑戦とみなされるため、フクーク・アッラー、公益に反する罪を犯したされ、フドゥードの一つである背教罪で罰される可能性が生じますが、それはまた別の話であり、ここではこれ以上踏み込みません。
ターウーンのハディースも原文は「もしターウーンのニュースを聞いたなら、そこには行ってはならない。もしあなたがいるところにそれが発生したらそこから逃れてはならない」とあり、個々人に対する命令であって、カリフとその代官への都市のロックダウンを命ずるものではありません。これまでムスリム諸国ではターウーンのハディースを指針に都市のロックダウンなどを行っている、と書いてきましたが、正確には、ターウーンのハディースは、カリフとその代理人にロックダウンを命ずるものではなく、個々のムスリムに都市間の移動を止めるように命ずるもので、公権力による強制が命じられていない、という点で、近代国家の感覚だと都市間移動自粛勧告、といったニュアンスです。
近代国家にも国会の作る法律の他に、法律の下に行政府の発する行政命令があるように、イスラーム法にも、クルアーンとハディースに基づくシャリーア(天啓法)の規定の範囲内で、カリフには独自の状況判断に基づいて行政命令を下すことができます。しかし、預言者の後に無謬の宗教的権威の存在を認めないスンナ派イスラームでは(12代イマームが9世紀に神隠しにあってからは、シーア派も事実上同じです)、行政命令は必ずしも神の命令に沿っているとは限りませんので、ムスリムは最終的にはクルアーン、ハディースを参照しつつ、自分自身の判断で行政命令に従うか否かを決めなければなりません。同様にカリフとその代理たちも行政命令の発布の可否を最後の審判において神に糾問されることになります。
伝染病の対策としては罹患した者を隔離するのが良い、というのは経験的にもハディースに照らしても間違ってはいませんので、ターウーンのハディースを典拠としたCOVOID-19対策としてのロックダウンの行政命令は神の命令に明白に反する、とまでは言えません。しかし前回も述べた通り、非ムスリム諸国の対応と比べると、ムスリムの対応は神の命令に従うことを求めた結果ではなく、単なる覇権国の後追いであり、現在のムスリムは、非ムスリムと同じく死の脅威を煽られ不安に駆られ領域国民国家というリヴァイアサンの偶像の命令に唯々諾々と従う偶像崇拝者にしかみえません。
私はやはり絶対的自然権、移動の「自由」を制限するターウーンのハディースは、腺ペストレベルの人類レベルではなくとも地方の共同体の滅亡のレベルの脅威となる伝染病にしか類推(キヤース)しないのが正しく、ハディースの知恵は現在にも通じると思っています。
6.ウィルスの変化
ウィルスは進化が早くどんどん変わっていくためにワクチンを作ってもいたちごっこにしかならず完全な防疫は不可能です。ダイヤモンド博士も「インフルエンザがしょっちゅうはやるのは、抗原の部分がちがう新種のインフルエンザ ウイルスが登場しつづけているせいである」と言っています。生まれたばかりのCOVOID-19にしても既に3つの型に分化しています。京都大学大学院医学研究科の上久保靖彦特定教授らの研究グループによると新型コロナウイルスには最初に発生した無症候性も多い弱毒性のS型、それが変異したK型、武漢でさらに変異した感染力の強いG型の3種類があり、日本人には新型コロナウイルスの免疫があったので死者数を抑え込むことができたことになります。日本政府が武漢以外の国からの入国制限を始めるのが遅かったおかげで、K型への集団免疫ができ、感染力や毒性の強いG型の感染を大幅に抑えることができた、つまり他国に比べて入国制限のタイミングが遅かったために、逆に感染予防に功を奏した、ということです。米スタンフォード大学の生物物理学者マイケル・レヴィッド教授は、英紙テレグラフで「都市封鎖は、国民の生命を守るよりもむしろ多くの死亡者を出す結果を招いている」と英国での都市封鎖に異を唱え、「専門家が統計を誤って読み解き、新型コロナウイルス感染症の実際の疫学を誤ってモデル化している」と指摘しています。また20年1月に中国で新型コロナウイルスの感染が拡大した際、武漢市の感染者数と死亡者数のデータを独自に分析し、「新型コロナウイルス感染症による死亡者数は3250名程度にとどまる」との精緻な予測に成功したノーベル賞受賞者でもある生物物理学者マイケル・レヴィッド・スタンフォード大学教授は、COVOID-19感染症が発生すると、都市封鎖など、感染拡大防止のための措置が講じられるか否かにかかわらず、2週間にわたって指数関数的に感染者数と死亡者数が増加したのち、増加ペースが鈍化するという数理パターンが認められると分析し、「COVOID-19には感染拡大防止のための措置とは無関係の独自の動力学があるのかもしれない」と述べています。また前回紹介したトルコ東部の80万にが収容されているシリア人難民キャンプでもCOVOID-19対策をしないうちに集団免疫が成立し劣悪な医療環境にもかかわらず死者がゼロであった、という例も、騒ぎ立てずにいつの間にか集団免疫が成立している、というのがCOVOID-19対策として最善であることの例証となっています。また医療崩壊を起こし6月1日の時点で3万人以上と世界でも3番目の死者を出しているイタリアのサンラフェーレ病院の院長は臨床的観点からCOVOID-19が変化し弱毒化し致死力が大幅に低下していると述べています。
勿論、最初に述べた通り、COVOID-19についてはまだ本当の意味での専門的な学術研究は蓄積されていませんので確かなことは言えません。また仮に上久保教授の研究が正しかったとしても、入国制限を遅らせたことで感染を抑えられたのは偶然的要素が強いので、対策をしないのが最善と言い切ることなどできないのは当然です。しかし5月27日時点での日本のCOVOID-19による死者は公式発表ではわずか882人です。ちなみに2018年の日本の年間死亡者数は約136万2482人で、死因の1位は腫瘍で37万3547人、2位は心疾患20万8210人、3位老衰10万9606 人、第4位は脳血管疾患で10万8165人、第5位が肺炎で9万4654人です。COVOID-19の場合、死亡率は低く症状が出た場合でも、実際に死ぬのはほとんどが肺炎を起こした場合です。肺炎は、誤嚥性肺炎3万8462人を合わせると13万3116人で日本人の死因の第3位になります。1年を通じて肺炎で約13万人がなくなっている事実を鑑みて、約半年で千人弱しか死亡していないCOVOID-19肺炎を特別視することにどれだけ意味があるのでしょうか。多くの批判を浴びている厚生省のクラスター対策班の西浦教授による全く対策を行わなかった場合の試算に基づく最大の見積もりでさえ推定死亡者数は42万人にでしかありません。これは共同体レベルの滅亡の脅威にはほぼ遠い数です。腫瘍による死者数に近い数ですが、腫瘍の予防と治療などの対応に比べてもCOVOID-19に対する反応はやはり常軌を逸しているとしか言えません。
精神科医の和田秀樹国際医療福祉大学院教授も、アメリカでは2017~18年のシーズンには6万人以上の死者を出していたが、アメリカからのインフルエンザの感染を防ごうとの動きは一切なかったし、アルコール関連死も年間約5万人だがアルコール全面禁止化の動きもない事実をあげ、東京で推定感染経験者数約83.7万人、感染して入院した者の累計で4880人、死亡者数189人(5月11日現在)の病気をそこまで特別視する必要があるのか、と問いかけます。目前の『感染拡大』にばかりとらわれ他の重要なことを冷静に考えないこうした対応を、和田先生は「視野狭窄」と呼んで批判しています。
日本の年間死亡者数を見たところで、人口動態による共同体の存続への脅威という観点からCOVOID-19の問題を考えてみましょう。COVOID-19は完全に放置しなんの対策も講じなかった場合でも最大42万人の死者しか出しません。ところが厚労省の2018年の人口動態統計によると2018年の出生数と死亡数を比べると 91万 8397人に対して136万2482人で44万4085人の減少です。これは2017年と比べるとそれぞれ94万6065人と134万397人で39万4332人よりも更に4万9753人減少していますが、この人口の自然増減は数・率ともに12 年連続で減少かつ低下しているのです。つまりCOVOID-1に全く対策を講じなかった場合最悪の死亡数の見積もり42万人よりも、人口の自然減44万4085人の方が多く、しかも今後ますます減少することが予想されているのです。日本という国、日本人の共同体の存続にとっては、COVOID-19よりも出生数の減少と高齢化社会の進展による死亡率の増加の方が遥かに重要で緊急性がある問題であると私は思います。
またCOVOID-19の感染爆発を抑えるため、自粛要請と称して、多くの店が閉店を強いられ、統計の数字にはまだ表れていませんが、多くのバイトや契約社員が職を失い、既に倒産、廃業した会社も少なくありません。COVOID-19による自粛要請による経済的被害が1997年の消費税の3%から5%への引き上げに端を発しアジア金融危機のあおりで山一証券などの金融機関が倒産し1997年度、1998年と-0.7%、-1.9%と2年連続マイナス成長を記録した平成不況のものより大きくなるのは確実ですが、平成不況では自殺者の数が1998年に前年の2万3494人から8261人急増し3万1755人となって以降は10年余り3万人前後の状態が続きました。
こういったことを考え合わせると効果が不確かであるにもかかわらず絶対的自然権である移動の自由を制限するロックダウンを強制するよりも、年間の事故死、病死、自殺などの数ある死亡の原因と数と現在まで明らかになっている範囲でのCOVOID-19の危険性と予防法と罹った場合の対策の「客観的」な情報を官民をあげて提供し、どうするかは個々人の判断に任せるのが、もっとも適切な対応だと私は思います。
勿論、ウィルスが変化しやすいということは逆に強毒化する可能性もあり、より警戒を強めるべき、とも考えられるかもしれません。しかしそれを言うならそもそもまったく未知の致死率百パーセントで空気感染し潜伏期間が長い人類をあっという間に滅ぼす新型ウィルスが現れる可能性もあります。私はCOVOID-19が中国が開発した生物兵器だったとは思いませんが、将来中国、ロシア、アメリカなどが凶悪なウィルス兵器を開発するかもしれません。そうなると未知のウィルスに対応できるようにあらゆる場合を想定した医学の研究に、国家は安全保障の予算の最大限を割かなければならなくなります。いや、それなら伝染病より危険は大隕石の衝突への備えはどうするべきなのでしょう。こううい愚かな思考を「杞憂」と言います。
7.不安の伝染と自粛警察
分子生物学者の福岡伸一もCOVOID-19について「エボラ出血熱やマールブルグ病のような致命的なウィルスが攻めてきたわけではない。むしろ致死率が高いウィルス病は、宿主を殺してしまうゆえに広がることが少ない」と述べ、「世界を混乱に陥れた」のは「急速に伝播されたのはウィルスそのものというよりも、人々の不安である。これほど大きな社会的・経済的インパクトが地球規模でもたらされるとは、誰も予想できなかった。」と述べています。私もこの福岡氏の「現実的な」意見に賛成です。危険度とは釣り合わない巨大な社会的・経済的インパクトを地球規模で及ぼし世界を混乱に陥れたのは、ウィルスではなくて人間の不安であり、不安を煽ったメディアです。
「コロナ禍」が起こる前には、不安を煽るのが商売のメディアの格好の題材がイスラーム・テロでした。「コロナ禍」の後では、彼らが煽ったイスラーム・テロなどたとえ起こったとしても、通常の犯罪の誤差として無視できる些末事だったことが誰の目に明らかになったかと思いますが、そもそも起こる確率自体が殆ど存在しませんでした。実際に日本ではイスラーム・テロなど一件も起きていません。まぁ、イスラーム研究者としては、そういうデマでも、文科省や外務省がイスラーム・テロ対策のポストを設けて、イスラーム地域研究者の若手の就職先が広がりましたので歓迎ですし、この連載自体がそうした言説の産物とも言えるわけですが。「コロナ禍」はイスラーム・テロとは規模が3桁違いますが、それでも共同体にデモグラフィックな変動をもたらすようなリスクではそもそもありません。それを、世界を分断し、政治・経済・社会的混乱を引き起こす大問題にしてしまったのは、COVOID-19の危険を書きたて不安を煽ったマッチポンプのようなメディアの責任が大きいと私は思っています。
前々回、パレスチナで日本人がコロナと呼ばれて嫌がらせを受けた問題を取り上げましたが、中国で発生したとされるCOVOID-19問題には最初から差別と他罰的行動がつきまとっています。自分は健康であり、COVOID-19をうつす他者を隔離させる自分の行動は正しく、それに従わない者は悪である、というのがその論理です。それが民族レベルで表れたのが、新しい「黄禍論」とも呼ぶべき東洋人差別でした。欧米での感染者数、死亡者数が東アジアをはるかに超えた今も、2020年5月12日付のドイツの地方紙が、デュッセルドルフにあるミシュランの星付きレストランの料理長がSNS上で「中国人はお断りだ」と書きこみ、それに対して中国系をはじめとする多くのネットユーザーから「人種差別」との批判が噴出したと報じています。
14世紀のヨーロッパでのペストの大流行に際しては、当時のキリスト教会はペストをユダヤ人のせいにし、1391年には「ユダヤ人に対する聖戦」を煽動し暴徒がユダヤ人街を襲いおよそ4万1000人のユダヤ人を殺害したと言われる他、ヨーロッパ各地で多くのユダヤ人が殺されています。現在のヨーロッパではまだこのような事態は生じていませんが、中東、アフリカでCOVOID-19が蔓延し、COVOID-19の感染が疑われる難民が大挙してヨーロッパに押し寄せるようなことがあれば、ヨーロッパが「先祖返り」することは十分に考えられます。中世の宗教は現代では民族であり、民族浄化が「現在の魔女狩り」です。ユーゴスラビア内戦や、コソボ紛争などで起きた民族浄化を思い返せば、デモグラフィックな大変動を伴う民族問題が今日において大きな危険を秘めていることが分かります。
この「魔女狩り」が、内側に向けられたのが、「自分は健康であり、COVOID-19をうつす他者を隔離させる自分の行動は正しく、それに従わない者は悪である」という「自粛警察」です。自分は陰性であると決めつけ、COVOID-19陽性であるかどうかも分からない他人を家に監禁し、外出する時は他人から離れること、マスクを着けることを強要し、あまつさえ飲食店などの営業妨害をしてまわるのが「自粛警察」で、大日本帝国の隣組を思い出させます。サウジアラビアで暮らしていた私は、「ムタウワー」と呼ばれる「宗教警察」が頭に浮かびます。
そもそも病人は犯罪者ではないので犯罪者扱いすること自体が間違い、というより罪ですが、相手が罹患者であるかどうかも分からない、罹患者であっても接触したからといっても感染するかも分からない、また感染したからといって症状が出るかも分からない、しかも自分自身が罹患者かもしれない(陰性証明があっても、それが間違っているばあいもあれば、その後に罹患した可能性があるので同じことです)と、誤った前提にたって可能性の低い憶測の上に憶測を重ねた妄想から生まれたのが「自主警察」です。視野の狭さと独善を特徴とするこの「自主警察」現象は、残念ながら洋の東西を問わずどこにでも存在します。
アメリカの実験心理学者アーヴィング・ジャニスは、集団がストレスにさらされ、全員の意見の一致を求められるような状況下で起こる思考パターンを「集団的浅慮」と呼び、その兆候として、以下のような特徴を挙げています。(1)代替案を充分に精査しない、(2)目標を充分に精査しない、(3)採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない、(4)いったん否定された代替案は再検討しない、(5)情報をよく探さない、(6)手元にある情報の取捨選択に偏向がある、(7)非常事態に対応する計画を策定できない。和田秀樹先生は、この「集団浅慮」に陥った集団には、(1)自分たちは無敵だという幻想が生まれる、(2)集団は完全に正しいと信じるようになる、(3)集団の意見に反対する情報は無視する、(4)ほかの集団はすべて愚かであり、自分たちの敵だと思う、(5)集団内での異論は歓迎されない、(6)異論があっても主張しなくなる、といった行動パターンが見られる、と言います。魔女狩り、ヘイトスピーチ、宗教警察、自粛警察を統一的に見る視点です。
8.連帯義務と公益
もちろん、何をしてもよい、ということではありません。イギリスではCOVOID-19の自称者に唾をかけられた駅員とタクシー運転手がCOVOID-19で死亡しています。殺意をもって故意に唾を吐きかける行為をとがめるのは構いません。COVOID-19とは関係なく、他人に唾を吐きかける行為は、洋の東西を問わず礼節に反する悪行だからです。そういう行為をしたわけではなく、ただこれまで通りの行動をとっていた人たちには何の咎もありません。そして重要なことは、自粛警察が犯罪者扱いしている市民にとっての自粛警察も罹患者であるかどうかも分からない、罹患者であっても接触したからといっても感染するかも分からず、また感染したからといって症状が出るかも分からないという点で全く同じだということです。つまり「自分は健康=正しい」と思い込んでいる「自粛警察」自身も、彼が罹患しているか疑わしいので罪深いととして攻撃する相手も疑わしいという点で全く同じということです。違いはただ自粛警察の被害者がその可能性は小さく日常生活を失うデメリットの方がより大きい、と判断して自ら感染して死亡するリスクを引き受けて外出して行動してるのに対して、「自粛警察は」、政府の「自粛要請」の「虎の威」を借りて、自分の判断を他人に強要しようとしていることです。リスクを避けたいなら外出しないデメリットを甘受してでも自分たちが外出しない、あるいは防護衣をつける、あるいは慰謝料を用意して止めてもらうように頼むのが筋です。(ご不便をおかけします、という丁寧なお願いの言葉も慰謝料の一種です)。自粛警察の論理は休業補償という自らの責任は果たさず、「自粛要請」という語義矛盾の理不尽な強要を行う政権と同じです。しかしおそらく日本人の大半にはこの論理の方が、私が「筋」と考えるものよりもすっきりと腑に落ちるのでしょうから、もはや大幅に字数をオーバーしていますが(いつものことですが)、少し丁寧に私が言うところの「筋」を説明しましょう。特に「自粛警察」に共感する人間は洋の東西を問わず、視野が狭く、独善的ですので。
問題の根本は、自粛警察は、自分たちが公益に従っており、「自粛」しない者が、公益を無視し私益に則って行動している、と思っていることです。しかしそもそも「公益」とは何でしょう。先に述べたように、イスラームでは「公益」とはザクっと言うと、「アッラーの権利」であり、共同体全体の存続にかかわることであり、それゆえ公権力が介入すべきことです。それ以外は私益です。勿論、イスラームでは、公益であれ、私益であれ、アッラーの法に照らしてその可否が問われることは当然の前提です。公益とは私益の総和ではありません。これはルソーが特殊意志の総和としての「全体意思」と「一般意思」を区別したのに対応しています。個人の私益、欲望の総和である「全体意思」を、共同体全体の福利によって矯正したものが「一般意思」です。ルソーの「一般意思」の正確な理解は難しいので、これ以上を知りたい人は自分で調べて考えてください。「人間は個人としては有限で無力だが、類としては無限で万能である」と言ったのはマルクスですが、個人は遅かれ早かれ死ぬものであり、重要なのは個人の生死ではなく、共同体の存亡です。まぁ、人類もそのうち滅びますが、まだもうしばらく時間があると思いましょう。そう思わないと話が終ってしまいますので。
既に少し述べましたが、COVOID-19はかつてのペストのような「恐ろしい」伝染病と違い、人類レベルでも国家や地方都市のレベルでも共同体の滅亡をもたらすようなリスクはありません。そもそも医学が未発達で治療法もなかった時代のペストの流行で人類の総人口が4億5千万人しかいなかった時代に1億人が死んで3億5千万人にまで減っても人類は生き延びたのです。医学が発達し人類全体で80億人、日本には1億2千万人も人間が存在する現在、極端な話、人口が10分の1に減っても生物学的レベルでは共同体は生き残れるかもしれません。しかし問題は単純に人口総数ではなく人口構成です。日本の人口が1年に44万人以上減っているのは出生数が死亡数を上回り、その差が増え続けている、つまり高齢化が進んでいるからです。ですから日本で人口の9割が死んで10分の1に減っても各世代が一律に死んだのなら、その後に若者が尊重され希望を持つ社会になり出生率が回復しさえすれば日本は蘇ります。しかし人口の3割が死ぬだけでも、それが30歳以下に集中すれば日本は百年絶たずに滅亡するでしょう。その意味でも幼児死亡率が高いインフルエンザと違い、死亡者が高齢者に偏っているCOVOID-19は大きな脅威ではありません。つまり、COVOID-19問題は共同体の存亡にかかわるような公益に関する問題ではなく、個人のライフスタイルの好悪、私益の問題でしかない、ということです。公益に関する議論とは人口減、高齢化対策のようなものを言うのです。
私益が重要でない、と言っているわけではありません。逆です。私益は個々人にとってはかけがえなく大切なものです。中でも生命はそうです。しかし、それは自分にとってだけであり、他の人間にとっては大切でもなんでもなく、その尊重を求めることは倫理的に不可能だということです。ヴィトゲンシュタインなら「倫理の文法において」とでも言うところでしょう。他人に倫理的に求めることができるのはせいぜい人類全体、あるいは民族や国家の存続を脅かす行為を避けることだけです。もちろん、人類、国家、民族、共同体などどうでも良い、取りあえず周囲のものに迷惑をかけなければそれでよい、という価値観も存在します。ただそういう人たちとはそもそも倫理の議論が成立しない、のでここでは無視します。倫理学の議論に慣れていない読者のために、蛇足ながら補足を加えると、どんな共同体もどうでも良い、という人間とは倫理の議論が成立しない、ということはそういう人間を殺してしまえ、ということでもなければ、一緒に仲良く暮らしていくことができない、ということでもありません。飼い犬と倫理的な議論が成立しなくても仲良く一緒にくらしていけるのと同じ、というシンプルな話です。
客観的、理性的に公益を論ずることと主観的、感情的に私益を主張することは厳密に区別しなければなりません。人類の視点に立って倫理的に論ずる場合には、自分にとって得か日本人の利益になるか、などといった私益を顧みず、シリア軍の連日の空爆で樽爆弾で殺されているイドリブの市民、イエメンでサウジアラビアとその同盟国によって包囲され飢餓と伝染病で命を失っているサナアの子供たちも自分と同じ一人の地球人として平等に扱われるために何をすべきか、を考えなければなりません。日本人として倫理的に論ずるなら縁もゆかりもなくとも、原発事故の被害によって未だに自宅に戻れない福島の人々、米軍基地の存在に苦しめられている沖縄の人々がどうすれば日本人として自分たちと同じ生活ができるかと心を配らなくてはなりません。
しかし私的領域では私たちは法が許す範囲で自分たちのことだけを考えればよく、遠く離れた見も知らぬ人のことなど考えなくても構いません。そもそも70億人を超える人類全体のことを考えることなど不可能ですから、知りもしない人間に同情するふりなどする必要はどこにもありません。イスラームは、公共の安全と秩序の維持に責任を持つカリフとその代理人には、「フドゥード(イスラーム刑法)」の執行と、私人間の「人間の権利(フクーク・アッラー)」を巡る訴訟の裁定においては、私益を離れてあらゆる人間をイスラーム法が定めるカテゴリーに則り平等に扱うことを命じていますが、私人にはすべての人間を平等に扱えなどとは決して求めません。むしろ預言者ムハンマドは「アッラーの道に費やした1ディーナールと、奴隷解放に費やした1ディーナールと、貧者に施した1ディーナールと、あなたの家族のために費やした1ディーナールの中で最も(来世での)報酬が多いのはあなたの家族のために費やしたものである」(ムスリムの伝えるハディース)と述べて、貧者への施しよりも家族の扶養を優先するように教えています。
COVOID-19の話に戻ると、COVOID-19は共同体の存亡のかかった公益の問題ではないので、公権力は医学、公衆衛生、経済などを総合的に考慮して他の伝染病とバランスのとれた扱いをすることが求められます。公益と私益を区別すれば、医療崩壊への懸念にも別の見方をすることが出来ます。COVOID-19問題は、はからずも日本の人工呼吸器不足の実態を露呈させました。医療機関に人工呼吸器を充実させるべきだ、という議論は一般論としては異議はありませんが、COVOID-19への対応としての妥当性には疑問があります。
たとえば、『ビジネスインサイダージャパン』は、「48時間治療をしても回復しなければ場合によって人工呼吸器を外す」といったニューヨーク州の人工呼吸器の使用方法に関するガイドラインの一部と「人工呼吸器があれば助けられるのに、人工呼吸器が無い……。一方で、あと数日で亡くなってしまう可能性が高い患者に人工呼吸器を使い続けている……」との新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の会見での武藤香織教授の発言を引用し、自分たち自身が「あと数日で亡くなってしまう可能性が高い患者から人工呼吸を取り外しその分を助けられる患者の治療にあてる」との「この究極の選択を問われる当事者であることを強く意識させる」と書いています。
こうした当事者面をしたお為ごかしの感情論の綺麗ごとがはびこるのも、視野狭窄の私益と公益の混同のせいです。患者の家族であれば家族のためにできるだけのことをしたいと思うのは当然です。また医者とは目の前にいる患者であれば1秒でも長く生かそうと務めるのが職業倫理です。しかしそれは私益であり、他の人間には関係のないことです。実はニューヨーク市周辺でCOVOID-19患者2600人余りを対象とした大規模研究で対象となった患者の死亡率は21%でしたが、人工呼吸器が必要になった重症者の死亡率は88%、65歳以上の人工呼吸器使用者の生存率はわずか3%だったことが明らかになっています。要するにCOVOID-19患者に限れば人工呼吸器の効果は極めて低いのです。
世界中のすべての病人の手に全ての必要な医療器具を届けることができる状況にあるなら、全てのCOVOID-19患者に人工呼吸器を用意するのも良いでしょう。しかしユニセフ協会によると、2017年において8億4,400万人が清潔な飲料水にさえ事欠き、不潔な水を飲むことで命を落とす乳幼児は年間30万人、毎日900人以上にのぼっています。清潔な飲料水さえあれば死ななくて済む乳幼児を毎日900人も平気で見殺しにしておきながら、殆ど救命の役に立たたないCOVOID-19患者につける人工呼吸器が不足していて誰に回すかを医者が選ぶことを「究極の選択」と深刻がってみせ、人工呼吸器を買い揃える権限と責任、それを患者に使う権限も責任もないただの部外者に当事者だと錯覚させるような詐術も公益と私益の混同から生じます。
9.ブラック労働への呪縛からの解放から公正な社会へ
権限も責任もない人間が、自分の私益にすぎないものを公益のごとくに見せ掛けて他人を支配する詐術の一つが、医療関係者や運送業者などを「なくてはならない」と持て囃しブラック労働に呪縛するお為ごかしの呪いの言葉です。こうした呪いの言葉は世界中で普遍的に見られますが、中でも特に主語が曖昧な日本でよくみられるように感じます。医療関係者にしろ、運送業者にしろ、高級を取っている役人や大企業の役員たちが快適で安全な暮らしを送るために、その人が「働かなければならない」理由は一つもありません。嫌なら辞めればよいのです。少なくとも、こういう呪いの言葉が口にされる「先進国」では辞めても生活保護が受けられ、死ぬことはありません。そうすることによってはじめてそれら人々が、ブラック労働から解放され、その社会的有用性に相応しい給与と待遇を受けることになります。
COVOID-19に対する自粛要請の唯一の良かった点は、今までいかにも「しなくてはならない」と言われてきた仕事のほとんどが不要不急であったこと、そして多くの民間企業が大打撃を受ける一方で、COVOID-19対策に国家が介入すべきとの声を利用し、「アベノマスク」のような無用の長物に不透明な巨額の資金が投入されたことが明らかになったことです。ですから、本当になすべきことは、現在の不正な搾取のシステムを支えている医療関係者や運送業者などに、「『外で働かなければならない』人たちのことを考えろ」などと猫なで声でブラックな環境に労働者を「呪縛する」呪いの言葉をかけることではなくて、「あなた方は不当な条件でブラックな職場で働き続ける必要などない、辞めて良いのだ」と解放の言葉を贈ることです。
ここでもイスラームの考え方を紹介しておきましょう。既述のようにイスラームでは、義務を全ての責任能力者が行うべき個人義務と、誰かが行えば他の人々は免責されるが誰も行わなければ共同体の全員が罪に陥る連帯義務に分けます。イスラーム教育やジハード(聖戦)、イスラーム刑法の執行のような宗教行為だけでなく、農業、製造業、医学など共同体に必要な仕事も連帯義務になります。自分が何の責任も負わず相手の立場に立ったふりをして呪いの言葉を述べるのではありません。連帯義務とは、他の誰もが行わなければ、自分も神の前で罪を犯したことになる、義務です。医療関係であれ、運送業であれ、「外に出て行わなければならない」のは今そこで働かされている人間ではなく、それを必要とする社会の全ての人間であり、その人間がブラックな環境に耐えかねて「職場放棄」をしたとしても、罪に陥るのは、その者だけではなく、全ての人間が連帯責任でその罪を負うのであり、全ての人間が実際に最後の審判で裁かれる当事者になるのです。イスラームの国法学者イブン・タイミーヤ(1328年没)は、ムスリムが連帯義務を負う社会が必要とする仕事で労働者が正当な権利を奪われ不当に働かせることがないようにすることが為政者の義務であると述べています。
10.終りに
連載も最後なのでまだまだぜんぜん言い足りないのですが、大幅にまた字数をオーバーしてしまったのでそろそろお別れです。最後に思いっきり大雑把な話をして締めくくりとしましょう。
COVOID-19の感染には、韓国のキリスト教カルト「新天地イエス教証しの幕屋聖殿」や、イタリアのカトリック教会、イランのシーア派聖廟などがクラスターになって感染が広がったことが大きく報じられたこともあり、「宗教と科学の対立」というヨーロッパの啓蒙主義以来の議論が蒸し返されることになりました。日本の優れた宗教学者の中村圭志先生は、コロナ禍は相当な長期にわたって「端的に合理的に振る舞う」ことへの圧力が持続するため、宗教にとって大きな打撃となり、神学者・教学者はコロナ禍を切り抜けても、一般信徒は宗教に飽き、宗教の空洞化が進む公算が高い、と予想しています。
この連載でたびたび繰り返している通り、私は現在の世界には、自称他称のムスリムの実践を含めて実際に存在する宗教はほとんどリヴァイアサンとマモンの偶像崇拝でしかなく、そんな宗教の延命にはなんの興味もありません。しかし、コロナ禍によって科学が進歩し人類の行動が合理化する、という中村先生の楽観には与しません。というのは、最初に述べた通り、科学には事実しか語らずいかなる規範も存在しないからです。「存在するものは合理的である」とは哲学者ヘーゲル(1831年没)の言葉ですが、科学の世界には善も悪もありません。存在するものはただあるがままにあり、次の瞬間にはただ消えさるのみです。
「知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれども私はなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。私は心に言った、『愚者に臨むことは私にも臨むのだ。それでどうして私は賢いことがあろう』。私はまた心に言った、『これもまた空である』と。そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。」(『旧約聖書』「コヘレートの書」2章14-16節)」
人間が科学的真理に則って暮らそうと、迷信と狂信に生きようと、清廉潔白を貫こうと悪逆非道を尽くそうと、愛する家族に囲まれて希望に満ちて幸せに生きようと、病苦と絶望のうちに孤独死しようと、科学的にはすべてただの粒子の離合集散でしかなく、その間にいかなる違いもありません。ただ無意味に行きて無意味に死んでいくだけです。そもそも科学的に生きることが、「現世的」に「有益」かどうかさえ疑わしいものです。世界の長寿者のリストを眺めても著名な科学者の名前はみつからず、ギネスの日本の最高齢の田中カ子さんは1903年、農家の9人兄弟の三女第7子として生まれ1915年に小学校を卒業後12歳から子守奉公をし1952年にキリスト教に入信し現在に至っており、第二位のシスター・アンドレさんは1904年生まれのカトリックの修道女です。幸せに長生きするのに科学的思考が必要と言うわけでもなさそうです。日本の宗教学者島田裕巳先生によると、職業別平均寿命は宗教家がダントツで第一だそうです。
それはともかく、「科学的であれ」という科学主義の主張は科学の命題ではありません。科学主義者にとって重要なのは科学の教える事実そのものではありません。科学主義者にとっての科学は依存症患者の酒、賭博、麻薬、SNSのようなものです。「科学依存」もまた、生きることには価値はなく、誰もが遠からず無意味に死ぬ、という事実から目を逸らす暇つぶしになる、ということです。科学もまたリヴァイアサンやマモンと同じく人間の欲望が虚空に映し出す幻影であり、人を奴隷にする偶像にすぎません。
中世ヨーロッパではペストの流行は、絵画の「死の舞踏」のモチーフを生み、古代ローマでは快楽主義的標語であった「メメント・モリ(死を想え)」を、死を日常的に意識する内省的なキリスト教倫理の格言に変えました。
人口が半減したような凄惨なペストとちがい、COVOID-19はメディアのヒステリックな過剰反応とは裏腹に身の回りでほとんど死者を目にすることはありません。私自身、会う人毎に聞いていますが、直接の知り合いで陽性反応が出た者は一人もいません。知り合いの知り合いでのレベルで、入院して回復したタクシー運転手の知り合いがいる知人が一人いるだけです。これではペストの流行のように万人が死と向き合う、といった実存的経験を日本社会全体に求めることは期待できません。しかし、自粛要請で、強制的に職場を離れさせられたことで、今まで「自分がいなければこの職場は立ち行かない」、「自分が働かねばならない」、「自分の会社が国を、社会を支えている」と洗脳されていた人たちの一部は、「不要不急」の烙印を押されたことで、無意味な虚業と無駄な消費忙殺させることで現世のあらゆる欲望を無価値化する死を忘れさせる物質主義と資本主義の呪縛による微睡から一瞬であれ覚醒しました。
預言者ムハンマドは「人々は眠っている。死んではじめて気づく」との言葉を残しています。コロナ禍は、世界中に600万人を超える感染者、40万人にせまる死者を出し、航空会社の国際線の運航停止、外出自粛、ロックダウンなどのせいで1930年代の世界大恐慌以来の経済危機をもたらしたのみならず、失業、貧富の格差の拡大、人種・民族差別、排外主義の高揚、非常事態を口実とした国家権力の強化などの様々な社会問題を生み出しています。コロナ禍を奇貨として、自分がいつ死ぬかわからない儚い存在であることに気づいた読者諸賢が再び微睡に戻ることなく、いずれ死に逝く人間にとって本当に必要なものが何かを見出されることを望んでやみません。長い間、連載にお付き合いいただきありがとうございました。ではまたお会いする日まで。
「不幸に見舞われた時に『我らはアッラーのもの。彼の許へと帰り逝く』と言って耐え忍ぶ者たちに吉報を告げよ。」(クルアーン2章155‐156節)
ワッサラーム