2019年10月17日木曜日

「イスラーム世界を見る視線の交錯 ——日本とフランスの対話」応答


「イスラーム世界を見る視線の交錯 ——日本とフランスの対話」応答  2019/10/16
中田考

 「イスラーム世界を見る視線」という今回のシンポジウムのテーマに深く関わっているので、私事になりますが最初に少し詳しく自己紹介をさせていただきます。
私は神道の家系に生まれました。子供の頃は夏休みは実家の里の神社で暮らしていました。二人の叔父は今も神主をしております。私自身は無宗教でしたが小学校の時からカトリックとプロテスタントの教会に通いキリスト教に親しんでいました。1980年に東大に入学して駒場聖書研究会に入会し、1982年に東大に新設されたイスラム学研究室に進学し、翌1983年にイスラームに入信しました。卒論、修論ではイブン・タイミーヤの思想を専攻しました。1986年にエジプトに渡航しカイロ大学に留学し、1992年にイブン・タイミーヤの政治哲学をテーマにカイロ大学文学部哲学科から博士号を授与されました。留学中にジハード団の学者ムハンマド・ヒジャーズィー師からイスラーム法学などを習う一方、キプロスのナクシュバンディーヤ・スーフィー教団のシャイフ・ナーズィムに弟子入りし、1996年にはシャーズィリーヤ教団に移りました。その後、1992年から1994年までサウディアラビアの日本大使館で「内政における宗教勢力の動向」の調査を委嘱され専門調査員を務めました。その後、帰国し、山口大学、同志社大学でイスラーム学を教えてきましたが、同志社大学一神教学際センター幹事、日本ムスリム協会理事として宗教間対話にも参加しました。2013-2014年にイスラーム国を5回訪問し、私戦予備及び陰謀罪で捜査され、本年8月に不起訴が決まりました。

1.日本からムスリム世界を見る
 私は、ムスリムでありながらムスリム世界を遠くから哲学者の目で眺めているという点でビダール先生と同じであり、イスラーム国の出現の原因と責任が欧米ではなくムスリム世界にあり、その起源がワッハーブ派にあり現代のワッハーブ派が金銭崇拝(worship of this false God called Money)、つまり銭神崇拝(Mammonism)であるとの認識においてビダール先生に同意します。
 もちろん、違いもあります。ビダール先生がムスリムとして育ち、旧ローマ帝国領で哲学者として活動されているのに対し、私はキリスト教徒でも1%以下、ムスリムは0.1%もいない日本で世俗教育を受けて育ち西欧的な人文社会科学を学んだ後でイスラーム学の訓練を受けてイスラームに入信したという点で、ムスリム世界をより遠く距離をおいて眺めています。またイスラーム国の出現の原因がムスリム世界にありワッハーブ派が起源であることには同意しますが、私の実際に目にしたイスラーム国は決して特別な怪物ではなく、怪物であるとすれば、それは領域国民国家(territorial nation states)という怪物リバイアサン(leviathan)たちの一匹に過ぎず、現代のワッハーブ派サウディアラビアの問題も、銭神崇拝とリヴァイアサン崇拝の多神崇拝と考えるのがより正確です。
 ユダヤ教でもキリスト教でもイスラームでも仏教でもヒンドゥー教でも伝統宗教には、生まれながらに信徒である、という受動的なあり方と、教義を学んだ上で本人の意思による入信という主体的な有り方の二つがあり、現実には前者が圧倒的に多数であり、後者の主体的であるべき入信さえ慣習制度化されているのが普通です。これはキリスト教では幼児洗礼の問題としてよく知られています。
 私はアッラーとその使徒ムハンマドを信ずる職業的イスラーム古典文献学者ですので、私にとっての「ムスリム」とは、アッラーの御許でムスリムと認められ(アッラーの御許の宗教はイスラーム[クルアーン319節])救済を約束された者のことでしかなく、自称他称のムスリムたちには興味はありません。とは言っても、誰がムスリムかを神が名指しで教えてくれるわけではないので、神の代理人という概念を持たないイスラームでは、誰がムスリムかは啓典クルアーンと神の使徒ムハンマドの言行録(ハディース)を手掛かりに自分で考えるしかありません。

2.末法のイスラーム
 現在世界のムスリムの数は15億人とも言われていますが、その絶対多数はただ先祖がムスリムだったというだけの「名ばかりムスリム」、「エスニック・ムスリム」で、ムスリムの名に値せず論ずるに足りません。預言者ムハンマドも言われています。「食客たちが大盆に互いに呼ばわり群がるように諸国民がお前たちに群がりよせることになろう。その時お前たちは多数だが川面の塵芥のようで、お前たちの心には弱さ(死の恐れ)があり、敵たちの心からはお前たちへの恐怖は取り去られている。」[1]
 仏教には、時代が経つにつれて僧侶も戒律を守らなくなり分派の争論により仏法の正しい理解が失われ、教えの形だけが残り中身は失われ、悟り開く者がなくなる「末法(“sad-dharma-vipralopa”, disappearance of the true dharma)」という考え方があります。日本でも1052年が末法元年とされ、以来、千年の長い時間を経て末法思想は人々の間に広く行き渡りました。
 イスラームの教えでも、ウンマ(ムスリム共同体)は預言者ムハンマドの時代から堕落を続け、ついには最後の審判を迎えます。最後の審判が何時かは正確には誰にも分かりませんが、最後の審判のさまざまな徴は予言されています。ちなみにマムルーク朝エジプトの大学者スユーティー(al-Suyūṭī 1505年没)は、ムスリムのウンマの寿命を1000年以上1500年以下と計算してます。今年は1441年なのでまだ少し余裕があります。,
日本の仏教徒の数は人口は約9割ですが、現代の日本人の思考も行動も釈迦の教えとは殆んど何の関係もないことは日本人なら誰でも知っています。ですから日本人である私には、末法の仏教と同じく、現代のイスラームが形だけでムスリムとは名ばかりであることは、体感的に理解できます。
 キリスト教のように、人が神の子になったり、神の子の代理人がいたり、人に神(聖霊)が憑く、といった概念を持たないイスラームにおいては、誰がムスリムかを判断できるのは、神だけです。しかしイスラームの教えはアッラーとその使徒を信ずる者にしか課されませんから、共同生活を送るには、ムスリムとそうでない者を区別する必要が生じます。ジハードやイスラーム刑法を持ち出さなくとも、食物規定やドレスコードが違えば共同生活が困難なのは、イスラームに限った話ではありません。そこでこの世で暫定的に誰かをムスリムとして扱うかどうか、という問題が生じます。
 カリフとダールルイスラーム(イスラームの家 dār al-islām)が存在し、まがりなりにもムスリムが主権を持ち、シャリーア(≒イスラーム法)が通用していた時代には、誰がムスリムか、が問題になることは通常ありませんでした。ムスリムの社会、ムスリムの家庭に生まれた者は自動的にムスリムであり、誰がムスリムかは自明で、あえて問うまでもなかったからです。しかし、カリフがいなくなり、ムスリム世界がヨーロッパ列強によって植民地化され、西欧の法制が押し付けられると状況はすっかり変わってしまいました。名ばかりのムスリムが本当にムスリムか、を問わざるをえないシチュエーションが露呈することになってしまったわけです。
もちろん、既に述べたようにムスリムかどうか、という問いは現世での便宜的な判断であり、他のムスリムについて「その信仰が本物か」を問うものではありません。それは神だけが知ることであり、人間が知ることができることでも、知る必要があることでもないからです。キリスト教とは違いイスラームには内心の信仰を問い質す告解や異端審問のような制度は有りません。人間の内心には干渉しない。これがイスラームにおける「信仰の自由」の意味です。そしてこの世の便宜的な判断はイスラーム法裁判官(カーディー qāḍī)が下しますが、イスラーム法裁判官の司法権は預言者ムハンマドの現世の裁定権の延長であるため、カリフ不在の世界では、この便宜的な判断も下せないことになります。これが現在のムスリム社会の混迷の主要な原因の一つです。

4.イスラーム国の誕生の背景
 イスラームに限らず伝統宗教では、宗教は生得的なものであり、通常それが問題されることはありません。しかし例外的にそれが問われる状況は存在し、イスラーム法にも規定があります。この発表の文脈で重要なのは、学者(アーリム ālim)と無学者(ジャーヒル jāhil)あるいは大衆(アーンミー āmmī)の区別です。無知な大衆には多くを求めるのは無理だとの冷めたリアリズムです。大伝承学者ハーキム(al-Hākim 1014年没)は「地上にクルアーンの一つの節も残っておらず、残っているのは、人々の諸集団の老人や老女が、『我々は、アッラーの他に神はない、とのこの言葉を、父祖たちから受け継ぎ、それを唱えている』ということだけ、となる。」との預言者ムハンマドの予言と、「その『アッラーの他に神はない』との言葉で地獄の業火から救われる」とのムハンマドの高弟フザイファ(Khudhaifah)の言葉を伝えています。この問題はイスラーム国などのサラフィー・ジハード主義者(Salafī jihādī)の間でも「無知による免責(udhr bi-jahl)」問題として広く知られ盛んに論じられているものです。
 「怪物はあなた方の自身の内側から来たのです(the monster has come from your own innards)」とはビダール先生の言葉ですが、イスラーム国 ― ビダール先生が言う「怪物」 ― はまさにムスリムこのムスリム社会の知的、道徳的堕落から生まれたものです。ビダール先生はその慢性病(chronic illnesses)が、宗教のドグマに対する良心の自由の完全な権利を本当に断固として認める永続するデモクラシーを確立できない無力、政治権力を支配的な宗教的権威から十分に分離できないことpowerless in establishing lasting democracies which really and definitely recognize the complete right of conscientious freedom towards the religious dogmas; the inability to sufficiently separate political power from the controlling religious authorityであると書かれています。しかし事実はむしろ、ムスリム社会の慢性病は、人権や平等などのデモクラシーのドグマに対する良心の自由を認めるカリフ制を確立できない無力、宗教的権威を支配的な政治権力から十分に分離できないこと(powerless in establishing caliphate which recognizes the complete right of conscientious freedom towards the secular dogmas like democracy, human rights, and equality; the inability to sufficiently separate religious authority from the controlling political power)にあります。
 アーノルド・トインビーが「世界の残りと同じく西洋世界の人民の90%の宗教の90%はナショナリズム(nationalism is 90% of the religion of 90% of the people of the Western World and the rest of the World as well)」、つまり「国家崇拝(state worship)」と喝破した通り、ムスリム世界を支配している真の宗教は、イスラームではなく。西欧と同じく民主主義、人権、民族主義,、国家主義などの世俗主義のイデオロギーです。それは領域国民国家の警察力と軍事力によって、反対者を犯罪者として抹殺するだけでなく、小児期から学校教育の洗脳によって強制されています。ムスリム世界の全ての国で全ての人間を支配しているのは世俗の民主主義によって選ばれた支配者と、議会が定めた法律であり、宗教はその世俗の支配者、議会が「宗教」と認めたもの以外は、たとえクルアーンに明記されていようとも、預言者ムハンマドの言葉であろうとも、非合法化され、それに反対する「自由」はありません。そしてそれらの国家は領域国民国家システムの支配者たちによって正当性を与えられ、つまり欧米諸国の武力によって守られることによって存続しているのです。そして、西欧の真の宗教が、民族主義(nationalism)、国家崇拝(state worship)であり、人権も民主主義も平等も全てそれを粉飾するための隠れ蓑に過ぎないことを明らかにしたのがイスラーム国でした。

5.イスラーム国が明らかにしたもの
 イスラーム国の特徴を一言で言うなら、自由なヒューマニズムの法の支配、つまり法による全ての人間の自由な信仰に基づく支配です。つまり、イスラーム国の理念に共鳴する者であれば誰であれ受け入れ、共に法(sharī‛ah)に則って支配する、というのがイスラーム国の特徴です。私自身が実際にこの目で見たことですが、イスラーム国の入国審査では、パスポートの提示も求められず、国籍、民族、宗教、思想の違いを問われることなく、誰でも受け入れられます。もちろん、ムジャーヒディーンになって支配する主体になるためには、イスラーム国でもサラフィー・ジハード主義であることが求められたと思いますが、イスラーム国は、万人に開かれています。イスラーム国がインターネットを駆使しして全てのムスリムにヒジュラ(移住)を呼びかけていたことはよく知られています。
 欧米がイスラーム国を恐れ、シリアとイラクに干渉して攻め込んだのは、欧米の偽善を暴露するイスラーム国のこの道義的力を恐れたからです。それは欧米によるイスラーム国への攻撃によって故郷を追われたシリア「難民」がヨーロッパに押し寄せたことではっきりします。
 ヨーロッパは、百万あまりのシリアからの「難民」が流入すると、続々と押し寄せる「難民」にパニックに陥り、彼らに国境を閉ざし受け入れを拒否します。今日人権と言われるものの殆どは社会権と呼ばれるもので、普遍的と自称しようとも、ある時代に西欧という一地方の国々の為政者たちが自分たちの趣味と都合で適当に決めた法律に過ぎず、普遍的どころか、アメリカとヨーロッパで大きく違うだけでなく、EU内部でも大きく異なります。特に宗教と政治の関係はそうです。
社会権は、西欧諸国によってこしらえられたローカル・ルールであり、そこに正義などありません。「緯度の三度の違いが、すべての法律をくつがえし、子午線一つが真理を決定する。数年の領有のうちに、基本的な法律が変わる。。川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である。(Trois degrés d’ élévation du pôle renversent toute la jurisprudence. Un méridien décide de la vérité. En peu d’années de possession les lois fondamentales changent.. Plaisante justice qu’une rivière borne ! Vérité au-deçà des Pyrénées, erreur au-delà.)」とのパスカルの言葉は今も真理です。しかし他方、 人権の中でも、自由権、特に社会契約以前による国家の成立以前から存在した、と措定される自然権には、ある程度の時代と地域を超えた「普遍性」があります。その中でも最も基本的な権利は私見では移動の自由(freedom of movement)です。人間は陸であれ、海であれ、空であれ、好きな時に好きな処に移動することが出来ます。移動の自由を妨げることは誰にも許されません。人種であれ、民族であれ、宗教であれ、言語であれ、国籍であれ、人間を差別し、人為的な国境によって中の人間を閉じ込め、外の人間を締め出すことは、人権侵害です。国境により人間の移動の自由を妨げる領域国民国家の正当性を認める者は一人の例外もなく全員が、自由も平等も人権もヒューマニティーも口にする資格がないばかりでなく、「人道に対する罪(crime against humanity)」を犯しているのです。
戦火を逃れ故郷を捨て安住の地を求めて彷徨う者の移動の自由を奪う者に、自由も平等も人権もヒューマニティーも語る資格は有りません。特にその「難民」たちが故郷を捨てざるをえなくなった原因が自分たちの空爆による責任者であるなら猶更です。百万人の難民が流入したことでEUはシリア難民の拒否を宣告し、スロバキアのロベルト・フィツォ首相は、「自国にはイスラム教徒を1人たりとも入れない」と明言し、ハンガリーのオルバン首相も、移民の流入を拒絶するために国境にフェンスを設け、ムスリム移民は受け入れられない、と述べました。
EUとトルコの対応を比較すると、問題はより明確になります。人権の擁護者をもって任じ他国にもそれを押し付けるEU、西欧諸国と違い、あからさまなトルコ民族主義を国是とする「国民国家」であるトルコですが、350万人のシリア難民を受け入れています。言うまでもなく、シリア人は他国民であるだけでなく民族的にもトルコ人ではなく異民族のアラブ人です。しかし、いきなり350万人もの難民が流入したことでさまざまな社会経済的問題が起き難民に対する不満が高まっているにもかかわらず、コスモポリタンなAKPは言うまでもなく、トルコ民族主義のCHP(人民共和党)だけでなく、極右トルコ超民族主義の民族主義行動党(MHP)の支持者の間ですら、EUのネオナチのような極右排外主義集団による難民の追放運動は生じていません。
面積約80万㎡、人口約8千万人、GDP2兆ドルのトルコが350万人の異民族の難民を受け入れることが出来るのに、面積400万㎡以上、人口約5億人、GDP22兆ドルのEU100万人の難民しか受け入れられないというのはどういうことでしょうか。このことは、西欧人にとって、人権、平等、自由、ヒューマニティーなどはせいぜい自己欺瞞の建前でしかなく、真の行動原理は、排外民族主義と拝金主義であることを示しています。リヴァイアサン崇拝とマモン崇拝の多神教徒であることで、EUもサウディアラビアも五十歩百歩でしかありません。もちろん、中で暮らす者にとって、五十歩と百歩の差は重要ですが、私のような哲学者にとっては理論的な差はありません。
移住して来ようとする者たちを締め出した上でEUの内部の人間にしか保証されない権利はEU市民の「特権」でしかなく、人間の普遍的権利「人権」ではありません。人権というものがもしも存在するなら、それは特定の人間だけでなく、例外なく全ての人間が有するもののはずです。国籍で人を差別し、難民に自国領に入国する移動の自由さえ与えもせず、他国の人間には自分たちの価値観を押し付けようとする西欧人は、自由、平等、人権、ヒューマニティー、民主主義の擁護者などではなく、自民族優越思想に染まった帝国主義者に過ぎません。
イスラーム国の戦いは、ヒューマニティーを否定する西欧の領域国民国家の支配から人類を解放し、自由なヒューマニズムの法の支配を確立するためのものであり、私たちはイスラーム国を崩壊させたことで、人類の解放の夢を自らつぶしたことになるのです。イスラーム国には別のさまざまな問題があることを私は否定しませんし、イスラーム国がユートピアでないことは言うまでもありませんが、それはヒューマニズムとはまた別の話です。ビダール先生は「経済危機の解決だけによってではなく、本質的に我々人類全体に関わる前例のない精神的/霊的危機の解決によってしか人類の未来はない。我々はこの根本的な挑戦に応えるために、全地球規模で、一つに纏まることができるだろうか?(the future of humanity will occur not only by the resolution of the financial crisis, but essentially by the resolution of the spiritual crisis without precedent which involves our humanity in its entirety. Saurons-nous tous nous rassembler, à l'échelle de la planète, pour affronter ce défi fondamental ?)」と言われています。しかし、そのためには、まず地上の全ての人間が、領域国民国家という牢獄、国境という檻から解放され、望むままに望むところに、EUであれ、アメリカであれ、日本であれ、イスラーム国であれ、移住することができるようにすることであり、「知識人」の役目は、なによりもまず、それを訴えることだと私は信じています。ですから。我々がなすべきことは、イスラーム国をつぶすことでなく、イスラーム国の成立を奇貨として、イスラーム国のオルタナティブとなる「ヒューマニズムの法の支配」を提示すること、即ち、欧米は国籍による差別を廃して地上の全ての人間に平等な社会権とヘゲモニー国家群の為政者の選挙権を与えること、ムスリム世界はアブー・バクル・バグダーディーに不満なら、より相応しいと自分たちが考えるカリフを擁立することであったはずです。

6.スーフィズムと宗教間対話
 ビダール先生は、人類全体に関わる精神的/霊的危機の解決の希望を、スーフィズム、特に哲学的スーフィズムによる宗教間対話interreligious dialogue, ecumenism)に託しているように思いますが、残念ながら私は賛同できません。私自身、一神教学際研究センターの幹事の資格で研究者として、日本ムスリム協会の理事の資格で宗教者として、数多くの宗教対話に参加してきました。また時祷(wird)も実践しない怠慢な徒弟(murid, apprentice)ですのであまり名乗りませんが、最初に述べたようにナクシュバンディーヤ、シャーズィリーヤの教団とバイア(誓約)を交わしたスーフィーであり、Ibn Qudāmah(620年没)Ibn al-Jawzī(597年没) から法衣(khirqah)を受け継いだカーディリー教団の導師であったイブン・タイミーヤを信奉するイスラーム学者として、初学者向けの入門書Muammad Amīn Kurdī(1914年没)著『シャーフィイー師の学派に則り宗教学を学ぶ初学者の悦び(Sa‛ādah al-mubtadi'īn fī ‛ilm al-dīn ‛alā madhhab al-Imām al-Shāfi‛ī)、またオスマン朝期スーフィズムの最高峰と信ずる‛Abd al-Ghanī al-Nābulusī(1731年没)の『イスラームの真義(Ḥaqā'iq al-islām)』を翻訳するなど、スーフィズムの意義を認めています。しかし現代のスーフィーにも宗教間対話にもポジティブな意味があるとは思いません。
現代においてムスリム世界のスーフィーたちは、人民を抑圧搾取する腐敗堕落した支配者たちの言動を100%唯々諾々と誉めそやし、彼らにイスラーム的正当性の外観を与えるためだけに存在を許されている茶坊主に成り下がっており、西欧的な基準に照らしても、イスラーム的にも、人類に対してもムスリム世界に対してもポジティブな貢献は見当たりません。彼らの役目は、支配者たちのあからさまなイスラームからの逸脱を糾弾する者に、「原理主義者」、「過激派」、「形式主義者」、「テロリスト」などのレッテルを貼ることだけです。スーフィーたちはこの世の支配者たちの政策を100%追認しますが、スーフィーの提言によって政策や立法が変わった、という話は一つも聞きません。もしイスラームの教養もない腐敗堕落した支配者たちの思い付きの政策が、すべてスーフィーたちによって賛同できるものであるなら、スーフィーだけの知る深遠な知恵など最初からどこにもないことになります。またスーフィーの精神性/霊性が、合理的に理解可能な行動や言葉によって示される、つまり祈りが聞き届けられることによる、というなら、アラブのスーフィズムの中心であるシリアでなぜ25万人が殺され、500万人が難民になっているのでしょうか。
欧米で活動するスーフィーも事情は同じで、欧米で自分たちが築いてきた既得権を失い、迫害、追放されないように、保身に汲々とするばかりで、ポジティブな貢献は何もありません。彼らは欧米に敵対的なアルカーイダやイスラーム国などのためにイスラームフォビアが高まり、自分たちが巻き添えにならないために、彼らはイスラームとは無関係であり、自分たちこそが真のムスリムであると論証し、欧米社会に適応した宗教であるとのお墨付きを得るために西欧の宗教者たちとの宗教間対話に精を出しますが、欧米内部の不公正であれ、欧米と第世界の間の不公正であれ、あるいは地域紛争であれ、行動によってであれ、言論によってであれ、祈りの力によってであれ、なんら解決せず、また男女平等、思想の自由、宗教的寛容、デモクラシーなど西欧の流行の後追いの猿真似以外に、欧米に対してイスラーム、あるいはスーフィズムに独自なポジティブなオルタナティブを提供したという話も聞きません。
 プロテスタント神学者小原克博が以下のように述べているように、政教分離と宗教対話が思想の自由や宗教的寛容をもたらさず国家崇拝、排外的ナショナリズムの道具になることは、大日本帝国の歴史が証明しています。「日本近代史においても、万国宗教大会(1893年)や宗教家懇談会(1896年)のように、現代の宗教間対話に近いものがあった。しかし、宗教同士の宥和が進むことは、必ずしも日本社会全体が寛容な社会となることを意味しなかった。 ―中略― 宗教の共存そのものが国家秩序に組み込まれ、政教分離の形式のもとに、排他的なナショナリズムの一部として機能した(In the modern age of Japan there were already interreligious dialogues such as the World's Parliament of Religions (1893) and the Council of the Religious Leaders (1896), which seem to be comparable with the contemporary ones. However, cooperation between religions did not always result in the tolerant Japanese society as a whole.The coexistence of religions have been embedded into the national order and played a role of exclusive nationalism in the separation of state and religion”)。エラノス会議(Eranos)にも参加し、日本的霊性の唱道者として国際的に有名な鈴木大拙も、日本の軍国主義だけでなくナチスにも賛同していました。政教分離の名の下に民族主義、国家主義を容認する宗教者に高い霊性など期待できません。

7.モンゴルの寛容とイスラーム世界の世俗化
 西洋では政教分離、より正確には「国家と教会の分離」、は近代的価値のように思われていますが、実は、東アジアでは見慣れた光景です。もっとも正確には近代西欧が言う政教分離とは国家により宗教管理であり、むしろWeber宗教社会学の「皇帝教皇主義(Caesaropapism)」に近いものですが。そしてそれはイスラーム世界でも既に経験済みのものです。モンゴルの支配です。モンゴルの侵入により、西遼(Qara-Khitai, 1218年滅亡)、ホラズムシャー朝(Khwarazmian dynasty, 1231年滅亡)、ルーム・セルジューク朝(Seljūqs of Rūm, 1243年服属)、アイユーブ朝(Ayyubids, 1250年滅亡)、アッバース朝カリフ国(Abbasids, 1258年)が滅亡し、イスラーム世界は壊滅的な打撃を蒙ります。モンゴル帝国は血統を重んずる「民族主義」国家でしたが、特定の宗教を公定宗教とせず全ての宗教を保護する「モンゴルの寛容」と呼ばれる政教分離政策を特徴としました。東アジアの元(Yuan)朝は滅亡まで政教分離政策を続けましたが、残りの3帝国イル・ハーン国(Ilkhanids )、キプチャク・ハーン国(Golden Horde)、チャガタイ・ハーン国(Chagatayids)はイスラーム化します。支配者のガーザーン・ハーン(1304年没)のイスラーム改宗後日が浅くモンゴル的「世俗主義」の特徴をまだ色濃く残していたイル・ハーン国に和平使節として訪れたイブン・タイミーヤが当時の状況について貴重な証言を残しています。
 彼らは名目的にムスリムにはなっており、イスラームを尊重してはいますが、義務は一部しか果たしておらず、偶像崇拝にも「寛容」です。しかし何より重要なことは、彼らがそのために戦う究極の忠誠の基準がモンゴル帝国の敵か味方かであり、従うべきは支配者の命令であることです。味方であれば異教徒とでも戦わず、敵であればムスリムとでも戦い、神の命令に則っているか反しているかに関係なくて支配者の命令に従うのです。
イブン・タイミーヤは言います。「たとえアッラーとその使徒の敵である不信仰者であろうとも、モンゴル帝国のために戦う者ならば、むしろ賞賛したりそのまま好きにさせておくが、逆にモンゴル帝国から離反したり、反抗する者に対しては、たとえそれが模範的なムスリムであろうとも、戦うことを認める(بل من قاتل على دولة المغول عظموه وتركوه وإن كان كافرا عدو الله ورسوله وكل من خرج عن دولة المغول أو عليها استحلوا قتاله  وإن كان من خيار المسلمين)」この記述はイスラーム国と戦うムスリム世界の「世俗国家」に住む領域国民国家リヴァイアサン崇拝者たちにそのまま当てはまります。
 またイブン・タイミーヤは言います。「彼らにとってのムスリムというものは、ムスリムたちにとっての、自分たちの中の公正な者、行い正しい者、義務(のみならずそれ)以上の良いことを進んで行う者といった存在であり、彼らにとっての不信仰者とは、ムスリムにとっての、自分たちの中の不正な者、最低限の義務しか行わない者といった者に等しいということである。(المسلم عندهم بمنزلة العدل أو الرجل الصالح أو المتطوع في المسلمين والكافر عندهم بمنزلة الفاسق في المسلمين أو بمنزلة تارك التطوع)」[2]
 世俗主義のイル・ハーン国のムスリムたちにとっては、ムスリムとは善良な人、不信仰者とは邪悪な人、ほどの意味しか持ちません。このイブン・タイミーヤの言葉もまた、政教分離の名によってイスラームを西欧キリスト教的な「宗教」に切り詰め、法的側面、政治的側面をイスラームから切り離した現代の世俗主義者のムスリムたちが口にしたとしても、少しも違和感がありません。

結語
 既に述べたように、政教分離や世俗主義は、西欧では最新の流行ではあっても、東アジアでは馴染みのものです。そしてイスラーム世界もまた政教分離・世俗主義のモンゴル帝国による支配によって遥か昔に通り過ぎた道です。もちろん、過去の世俗主義と現代の世俗主義、過去の民族主義と現代の民族主義とは違います。現代の民族主義、世俗主義は、「代表(representation)」と「法人(legal body)」という誤魔化しの(delusive)フィクションによって個々の人間が抵抗できないまでに肥大化し人間の精神と肉体を完全に支配し奴隷化する「可死の神(Mortal God)」リヴァイアサンを主神とする偶像崇拝です。この偶像神は「大量破壊兵器」で武装した軍隊と警察の暴力を背景に、学校とマスメディアという洗脳機関を通じて、ナショナリズム、エタティズムの教義を、信仰の対象、即ち「宗教」ではなく、普遍的真理であるかのように教え込みます。このリヴァイアサンの許では「宗教」は、リヴァイアサンに隷属する限り、慣習や趣味のように、生き方の本質に社会に影響を与えず、人生の本質に無関係な些末事として「自由」を与えられるのです。
 タウヒード(tawḥīḍ, unification)の教えとしてのイスラームの現代における使命は、精神、身体、社会、経済、政治の全てにおいて超越者のみを志向することにより、被造物によるあらゆるしがらみから解放された自由を全ての人類にもたらすことだと私は信じています。
「木を見て森を見ず」という諺があります。ムスリム世界の最果て、アブラハムの宗徒が1%もいない極東に生きるムスリムには、アブラハムの宗徒の世界、ムスリム世界の住人には距離が近すぎて見えないイスラームの全景、本質がかえって見通せる、ということもあるのではないでしょうか。
私見では、我々が生きる現代世界のリヴァイアサン崇拝の本質を理解するためには、ヘレニズム・キリスト教の「受肉(incarnation)」の概念にまで遡った哲学・神学的分析が必要となります。しかしそれは割り当てられた発表時間と私の能力を超えています。いつか改めて議論する機会があるなら、発表者にとって望外の幸せです。

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参考文献
中田考『イスラーム国訪問記』( 20193月、現代政治経済研究社)
[本書は一般書店では取り扱っておらず、Amazon.co.jpで販売、発送]
筆者は「イスラーム国」とその前身である「ヌスラ(助勢)戦線」、「イラクとシリアのイスラーム国」を、20133月、9月、12月、20143月、9月と計5回にわたって訪問した。本書は「ASAHI中東マガジン」に連載されたその記録「イスラーム国訪問記」を大幅に書き直し、未発表の資料と写真を組み込み、新たにイスラーム国の思想と歴史に関する解説、ラッカ在住のキリスト教徒に対して行ったインタビューの翻訳、イスラーム法上の異教徒の取り扱い規定、及びそのインタビューに同行した戦場カメラマンの横田徹氏の手記を新たに加えて編集したものである。



[1] قال رسول الله صلى الله عليه وسلم: يوشك الأمم أن تداعى عليكم كما تداعى الأكلة إلى قصعتها. فقال قائل: ومن قلة نحن يومئذ. قال: بل أنتم يومئذ كثير ولكنكم غثاء كغثاء السيل ولينزعن الله من صدور عدوكم المهابة منكم وليقذفن الله في قلوبكم الوهن. قال قائل: يا رسول الله وما الوهن قال: حب الدنيا وكراهية الموت.  (أخرجه أبو داود)
[2] 問題の民(タタール)は、その軍隊は、不信仰のキリスト教徒や多神教徒も含んでいるが、大多数は求められれば(イスラームの)信仰告白の言葉を唱え、使徒を讃えてみせるようなムスリムを名乗る者からなるのであるが、礼拝をする者はごく少数にしか過ぎない。ラマダーンの斎戒(断食と禁欲)は(日常の)礼拝よりは守られている。また彼らはムスリムを他の者たちより優遇しており、さらに彼らの許では真面目なムスリムは敬意が払われている。彼らはイスラームを部分的に実践しており、イスラームの遵守の度合において様々なのではあるが、彼らの大半の依って立つ立場、彼らが戦う立場は、イスラームの諸規定の多くを、あるいは、そのほとんどを無視していることを示している。なぜならば、彼らは最初にイスラームへの入信を義務づけたとしても、その諸規定の遵守を怠る者と戦おうとはしないからである。いや、むしろ彼らは、たとえアッラーとその使徒の敵である不信仰者であろうとも、モンゴル帝国のために戦う者ならば、むしろ賞賛したりそのまま好きにさせておくが、逆にモンゴル帝国から離反したり、反抗する者に対しては、たとえそれが模範的なムスリムであろうとも、戦うことを認めるのである。また彼らは不信仰者に対してジハードを行わず、啓典の民にジズヤ(人頭税)を課し卑しめることもなく、彼らの兵隊たちの誰であれ、太陽や月など好きなものを崇拝するのを禁じようともしない。つまり、彼らの行ないから明らかなことは、彼らにとってのムスリムというものは、ムスリムたちにとっての、自分らの中の公正な者、行い正しい者、義務(のみならずそれ)以上の良いことを進んで行う者といった存在であり、彼らにとっての不信仰者(カーフィル)とは、ムスリムにとっての、自分たちの中の不正な者、最低限の義務しか行わない者といった者に等しいということである。
 また、彼らの多くは、彼らの支配者(スルタン)が禁じるのでない限り、ムスリムの生命、財産を不可侵としない、つまり、それに手を付けずにはおかない。彼らは支配者(スルタン)がそうしたことを禁じた場合にはそれに従うが、それは命じた者が王だからであって、イスラームの教えのみによるのではないのである。また、彼らの大半は、礼拝、喜捨、巡礼などの義務を遵守せず、自分たちの間の裁きをアッラーの定めに基づいて行わず、彼らの慣習法に基づいて裁くのであるが、それはイスラームに一致していることもあれば、背反していることもある(فهؤلاء القوم المسؤول عنهم(ا دَولَة الإلخانية) عسكرهم مشتمل على قوم كفار من النصارى والمشركين وعلى منتسبين إلى ألإسلام وهم جمهور العسكر ينطقون بالشهادتين إذا طلبت منهم يعظمون الرسول وليس فيهم من يصلي إلا قليل جدا وصوم رمضان أكثر فيهم من الصلاة وأعظم من غيره والصالحين من المسلمين عندهم قدر وعندهم من الإسلام بعضه وهم متفاوتون فيه لكن الذي عليه عامتهم والذي يقاتلون عليه متضمن لترك من شرائع الإسلام أو أكثرها. فإنهم أولا يؤجبون الإسلام ولا يقاتلون من تركه. بل من قاتل على دولة المغول عظموه وتركوه وإن كان كافرا عدو الله ورسوله وكل من خرج عن دولة المغول أو عليها استحلوا قتاله  وإن كان من خيار المسلمين. فلا يجاهدون الكفار ولا يلزمون أهل الكتاب بالجزية والصغار ولا ينهون أحدا من عسكرهم أن يعبد ما شاء  من شمس أو قمر أو غيرذلك. بل الظاهر من سيرتهم أن المسلم عندهم بمنزلة العدل أو الرجل الصالح أو المتطوع في المسلمين والكافر عندهم بمنزلة الفاسق في المسلمين أو بمنزلة تارك التطوع. كذلك أيضا عامتهم لا يحرمون دماء المسلمين واموالهم إلا أن ينهاهم عنها سلطانهم أي لا يلزمون تركها وإذا نهاهم عنها أو غيرها أطاعوه لكونه سلطانا لا بمجرد الدين)。

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