2017年5月8日月曜日

アフメト・ダウトオール『戦略的重厚性』前書、序文(試訳)

戦略的重厚性


1.序文

第一部 概念的、歴史的理枠組

第1章:パワーのパラメーターと戦略
Ⅰ.勢力均衡とその諸要素
 1.定数:地理、歴史、人口、文化
 2.変数:経済、技術、軍事力
 3.戦略思考、文化的アイデンティティ
 4.戦略と政治的野望
Ⅱ.人的要素と戦略的制度における乗数効果
Ⅲ.典型的応用領域:防衛産
 1.パワーのパラメーターと防衛産業
 2.トルコのパワーのパラメーターと防衛体制

第2章 戦略理論の不備とその帰結
Ⅰ.トルコのパワーの要素の再評価
Ⅱ.戦略理論の不備
 1.文化的、構造的背景
 2.歴史的背
 3.心理的背景:引き裂かれた自我と歴史意識

第3章 歴史遺産とトルコの国際的地位
Ⅰ.歴史におけるトルコの国際的地位
Ⅱ.ポスト冷戦期と国際的地位の外的変数
Ⅲ.政治文化と国際的地位の内的変数
 1.歴史遺産と政治文化の下部構造
 2.歴史的連続性と政治トレンド
 3.ポスト冷戦期と政治トレンド

第二部 理論枠組:漸進戦略と領域政治

第1章 地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ
Ⅰ.空間把握、地理認識、地図
Ⅱ.地政学理論とグローバル戦略
Ⅲ.ポスト冷戦期と地政学的空白地帯
Ⅳ.トルコの地政学的構造の再評価

第2章 近隣陸上圏域 バルカン半島-中東-コーカサス
Ⅰ.歴史・地政学的諸問題とバルカン半島
Ⅱ.アジアへの扉とコーカサス
Ⅲ.不可欠のヒンターランド:中東  
Ⅳ.近隣陸上圏域の境界の柔軟性と近隣諸国との関係

第3章 近隣海上圏域 黒海-東地中海-ペルシャ湾-カスピ海
Ⅰ.歴史的背景
Ⅱ.冷戦期とトルコの海洋政策
Ⅲ.ポスト冷戦期の新海洋政策の諸要素
 1.黒海と周辺の水路
 2.ユーラシアの戦略的結節点:海峡
 3.東地中海圏域:エーゲ海とキプロス
 4.バスラ湾(ペルシャ湾)とインド洋
 5.カスピ海

第4章 近隣大陸圏域 欧州、北アフリカ、南アジア、中央アジア、東アジア
Ⅰ.ポスト冷戦期の規範的大陸政策とその定義
Ⅱ.グローバル大国と地域大国の大陸政策
Ⅲ.トルコの近隣大陸圏域の主要素
 1.ヨーロッパ概念の変遷とトルコ
 2.アジアの重厚性
 3.アフリカへの展開
 4.諸大陸の交流地域:大西洋、ステップ地帯、北アフリカ、西アジア

第三部 応用領域:戦略目標と地域政策

第1章 トルコの戦略的関係と外交目標
Ⅰ.NATOの新戦略ミッションの枠組みにおける大西洋枢軸とトルコ
 1.アメリカの戦略とNATO
 2.ポスト冷戦期とNATOの新しいミッションの模索
 3.コソボ作戦とNATOのグローバルなミッションの定義
 4.NATOの新しい戦略ミッションとトルコ
Ⅱ.全ヨーロパ安全保障協力機構AGİT
Ⅲ.İKÖ:アフロ・ユーラシアの地政学的人文地理学的交流図
 1.20世紀のイスラーム世界:概念的、政治的変化
 2.ポスト冷戦期と21世紀のイスラーム世界
 3.トルコとイスラーム世界
 4.İKÖ の未来と再組織化
Ⅳ.ECO:アジアの重厚性
Ⅴ.KEİ:ステップと黒海
Ⅵ.G-8 とアジアアフリカ関係
Ⅶ.国際政治経済とG-20

第2章 戦略的変化とバルカン諸国
Ⅰ.ポスト冷戦期後の組織的矛盾とバルカン諸国
Ⅱ.ポスト冷戦期と域内勢力均衡
Ⅲ.ボスニア危機とダイトン協定
Ⅳ.NATOの介入とコソボの未来
Ⅴ.トルコのバルカン政策の基礎
 1.歴史遺産とバルカン諸国
 2.域内諸国関係
 3.域内勢力均衡
 4.地域を取り巻く政治
 5.バルカン政策におけるグローバルな戦略目標

第3章 中東:政治経済的、戦略的勢力均衡の鍵
 Ⅰ.中東の国際的な地位に影響する要素
  1.地理的、地政学的要因
  2.歴史的、人文地理的要素
  3.経済地理的要素
 Ⅱ.グローバル大国と中東
  1.アメリカの戦略の基本的パラメーターと中東
  2.ヨーロッパ諸勢力と中東
  3.アジア諸勢力と中東
 Ⅲ.域内勢力均衡と中東
  1.地域の地政学と戦略的三角メカニズム
  2.アラブ世界の勢力均衡:アラブ民族主義の危機と政治的正当性問題
  3.イスラエルの新戦略と中東
  4.地域勢力均衡と中東和平プロセス
 Ⅳ.中東政策の基本的ダイナミズムとトルコ
  1.国際経済の視点からのトルコの北中東政策
  2.中東の地政学的変化とトルコの北中東(東大西洋‐メソポタミア)政策:トルコ、シリア、イラク
  3.トルコ―アラブ関係から見たトルコの中東政策
  4.トルコ―イスラエル関係のグローバルな次元と地域的次元
  5.歴史的重厚性の視点からみたクルド問題
  6.グローバル及び地域的勢力均衡の視点から見たクルド問題
第4章 ユーラシアの勢力均衡における中央アジア政策
 Ⅰ.中央アジアの国際的地位に影響を与える要素
  1.地理的、地政学的要素
  2.歴史的、人文地理的要素
  3.人口学的要素
 Ⅱ.ポストソ連期と中央アジアの変化
 Ⅲ.ポスト冷戦期の国際諸勢力の勢力均衡と中央アジア
  1.グローバル大国と中央アジア
  2.アジア内勢力均衡、地域大国と中央アジア
  3.域内勢力均衡
Ⅳ.トルコ外交と中央アジア政策
第5章 ヨーロッパ共同体:多次元的、多面的関係の分析
 Ⅰ.外交的/政治的関係の平面
 Ⅱ.経済的/社会的分析の平面
 Ⅲ.法的分析の平面
 Ⅳ.戦略的分析の平面
  1.グローバル次元
  2.大陸的次元
  3.地域的次元
  4.二国間戦略の分析の例:歴史的重厚性とポスト冷戦期のトルコ‐アルメニア関係
 Ⅴ.文明/文化思想の平面
  1. 新しい伝統的反応としてのEUの歴史的背景
  2.周辺化/中心化の振り子運動における歴史的背景とEU-トルコ関係
 Ⅵ.歴史の反映の把持におけるトルコ-EU関係
結語

前書

 ポスト冷戦期の戦略のテーマを定め、再評価するように努めることは大変難しい。というのは、それ自体が極めてダイナミックな問題を、それもまた極度にダイナミックな環境の文脈の中で主題化して理解する試みだからである。おそらく建国以来最も重要な変化を経験しつつあるトルコが、やはり歴史上最も大きな変化の舞台となっている国際環境の中で、新たな変容を遂げつつあるのだ。形成途上にあるこのダイナミックな過程は、本書の序文で定義する記述、解明、理解、説明、指針化はどれも、どの頁においてもすべてその全体において、極度に濃密な思考活動の断片にとどまっている。
 これらの方法論的困難にもかかわらず、時空(歴史と地理)の理解の中で意味を有する論理的に首尾一貫した合理的な戦略を分析することが、価値判断とは別に行うべき固有性を有することは、この問題構成自体に由来する。安定した構造であれば静態的な枠組の中で問題設定を行い、平板な頭脳活動によって理解することが出来る。そのような(静態的)分析も、状況がもっと安定している時代であったならば、事実を明晰に再構成できたであろう。しかしダイナミックな変化を経験している危機の移行期には、歴史的な影響力を考慮にいれた上で継続性のある戦略を練り上げることが重要となる。国の未来のオルタナティブを視野に入れた戦略分析の枠組が今こそ必要であるが、本書がそのためのささやかな貢献となることを望んでいる。
 社会の大きな変化の時代に即した方法論のこの問題に真剣に取り組み、超克に努める戦略的アプローチ、分析、理論化は、社会が歴史の舞台へ躍り出て、歴史の舞台の立役者たちによる既存の体制の推進力を変化させうる可能性を乗数的に加速させることが出来る。近代のドイツの国力を成立させたドイツの戦略的指針設定の基礎が、ドイツ統一の形成期の苦難の中で築かれたこと、安定的、累積的なイギリスの戦略思考がイギリス内戦後の進歩とその思想の向上の帝国拡張期の経験の中で、ロシアの戦略的オリエンテーションがすべてのパラメーターと19世紀のダイナミックな勢力均衡の中で形成されたこと、「アメリカの世紀」を現出させた戦略の蓄積が第一次、第二次世界大戦後の混乱期に集中したことは決して偶然ではない。
 ダイナミックな変化の過程にある社会の中にあって、それに属する個体として、当該社会に関する戦略を分析することは、急いで流れる波頭の高い川に流されながら、川床、流速、水流の方向、他の川との関係などの問題を研究することに似ている。自分が調査している川の中で自分自身も流されつつも、その流れの性質を理解し、その特質に鑑みて、その川に関して、記述、解明、理解化、説明、指針化の理論的枠組を考えださねばならないのである。川の外にいる傍観者として、(同時代の歴史の)流れに翻弄される人々の心情と人生を客体化することは、道義的に無関心な月並みで表面的な観察に成り下がる。一方、(歴史の)川に飛び込んで流れに身をまかせてしまっては、自分が飲み込まれた流れについて、事態を客観的に理解することはできず、自分の期待が混じっては、歴史の本当の意義を把握することはできない。社会科学の方法論において、このジレンマは、研究者「自身が試験管内で暮らす」と表現されている。
 このジレンマにおいては、川に(流される人々の)心情と人生を疎外させるにまかせることは道義的に責任があるが、かといって、川に流されてしまえば知的責任を負う余地は狭まってしまう。道義的責任と知的責任を共に理論的に調和させる研究者であれば、思考にあたってアカデミシャンとして言行を一致させ、社会文化的関係を普遍的真理の領域に力強く反映させることができる。思想家、知識人も、一般の人々と同じように、空間と時間、つまり歴史と地理の意味世界に、いやむしろ他の人々より以上に自己投入が可能であるために、自分が流された川だけでなく他の川の流れにも自己投入するアプローチが可能となるのである。
 一個人として普遍を感知でき、実存の意識とその深みと文明の主体としての特定の時代の流れを感じられる社会帰属の主体、そして歴史意識とその重厚性、つまりその意識が反映していると考えられる場を感得できる社会帰属の主体も、戦略的意識と重厚性を必要としている。個人のレベル、つまりミクロ・レベルから、社会、文明、歴史のレベルのマクロ・レベルに向上、浸透することは完成の探求であり、そしてすべての文化圏域は、この探求それ自体を真理の定義に含めている。
 本書においては、この意識のレベルが最も際立つ戦略的重厚性を、道義的学問的責任のバランスを取りつつ研究するように努めた。ずっと我々が考えてきたことを、完成への冒険の歴史の深みと実存の断片を目にする同時代の同じ川を我々と共に流れゆく同志である我々の読者たちに捧げたい。
 本書の過ちは著者一人に帰されるが、主張すべきものがもしあるとすれば、主体という観点に立てば同じ川を下る冒険を共にする者たちの匿名の文化の環境の産物である。同じ理由で、なによりもこの文化環境(伝統)の歴史的連続性を担保してきた先師たちとその道統に繋がる者たち、そしてこの環境(伝統)の全ての側面を共有してきた友人たちに、筆者は恩義がある。
 本書が時間理解の視角からは過去の歴史から未来への、空間理解の視角からは中心から周辺への架け橋となりますように。

1.序文
 国際関係の領域も、その構造の中で保護する社会的特質の研究の基礎には以下の5つの次元がある。
(1)Tesvir(betimleme)(2)açıklama(3)anlama(4)anlamlandırma(5)yönlendırma。Tesvir(記述)の次元は、研究対象が観察された形で記述することに基礎づけられるが、(2)açıklama(解明)の次元の主目的は、観察される現象が観察されるダイナミズム自体をその(観察)体験の過程との因果関係の枠組に位置づけることである。記述の解明の間の関係は、首尾一貫した概念化を必要とする。研究の対象となる現象の通常の記述は日常的に使用される用語で単純なレベルで行われるが、この記述を解明のレベルに引き上げるには、独自の概念枠組を作り上げねばならない。基本的には、学問における記述、解明の営みとは、日常的な観方とは異なり、明晰で首尾一貫した概念化の枠組が使用されている。特に因果関係の解明とは、後続の過程もまた他の現象に関係する前提条件であるような全ての事象とその過程を対象として使用することができる概念セットを構築することなのである。
 解明の次元に重厚性を加えたanlama(理解)の次元は、現象の生成過程の論理の中で概念化されることができる必要がある。説明は、研究される現象の間での因果関係の確定であるが、理解化とは現象の真相に知的想像力によって肉薄する(nufüz edebilme)試みであり、首尾一貫しシステマティックな抽象化の作業を必要とする。この抽象化作業の必須条件は、現象から知的過程へ、知的過程から現象への移行が可能であることである。理解化の次元は、この往復の移行がなされることを可能とする抽象化作業によって実現されるのである。このような類推が有用であるとすれば、観察されたものを説明することは、平面幾何学の論理を用いるようなものである。諸々の出来事が純粋な論理の枠組の中に現れること自体の中に、正しい諸要素は含まれているが、現象の真相と背景に到達するためには十分ではない。理解化が、肉薄から出発するとしても、かならず重厚性、ついでパースペクティブ(立体的見通し)が必要となってくる。これは平面幾何学との類推と共に立体幾何学のパラメーターによる知的作業がなされることを意味する。
 理解化とは、研究対象が重厚性を概念化するパースペクティブである。:説明(anlamlandırma)といえば、このパースペクティブに方向性を加えた姿勢を有することと言うことができる。現象をただ記述するか、進歩の次元(ileri boyutta)で説明するだけでははならないように、現象をただ相手に意味が伝わっただけでは、総体においては説得することができたということにはならない。説得は最初は独創的な姿勢、その後には独創的な理論枠組を必要とする。これはただ肉薄するだけではなく、同時に体感されること、発展が直観されること、全体の中であるべきものがあるべきところに配置される状態ということができる。あらゆる説得の作業が全体において首尾一貫した理論的枠組に基礎づけられることは困難である。観察から概念化、概念化から抽象化、抽象化から理論への移行、記述から解明、解明から理解化、理解化から説明への移行が方法論の鍵なのである。
 行動指針化(yönlendırma)とは、説明の枠組から結論を演繹し、その結論を、それに依拠したものとして、現象とその過程に応用することである。この応用は不可避的に政治的/社会的責任の領域、間接的に学問倫理の次元へと移入する。最初の4つの次元が知的な問題にとどまっているのに対して、第5の次元は、これらの知的なプロセスと実践との間の架け橋となる。この事態は特に国際関係論の領域においては大いに必要とされる。基本的に国家戦略の方向付けにおいて影響力がある多くの戦略家たちにとって、前の4つの次元はこの最後の次元の実行のための知的な中間段階なのである。異なる仮説と説明を目指す問題意識から出発したマッキンダー、マハン、スパイクマン、ポール・ケネディー、ハンチントンのような同時代に影響力があるとみなされた理論家たちの多くが、最終的に記述から解明に、解明から説明に、そしてすべてのこれらの問題意識からの出発して、行動指針化に向けて思想を発展させていった。最初の4つの次元において論理的に首尾一貫し歴史的に有効な問題意識を有していればいるだけ、最後の次元においても同じだけ永続性がある影響を残すことができるのである。
 記述の平面から行動指針化の平面にまで移行すると、理念的なパラメーターがより多くり始める。記述とは、自らを境界づけることで客観性を最も高いレベルで保証する次元である。解明の次元においては記述行為の客観性の中にとどまることはたいへん容易であるが、理解化の次元で認識と象徴へと移行する。説明の次元は、研究対象以上に研究者主体が前方に現れ、この主体が概念世界と ―それを介して概念パラメーターとも― 説明のために定式化した理論枠組との間の依存関係を強化する。行動指針化は、主体が属する社会/国家/文明と自己同一化しつつ、観察対象と、その現象と過程を解釈する行為になったものである。この最近の最も知られた例の一つを、職業的には社会科学者として出発したハンチントンが「文明の衝突テーゼ」として提示した理論枠組とアメリカの戦略的思考の間に築かれた関係に見ることができる。ハンチントンの「アメリカ/その他(西洋/他者)」という範疇は、思考パラメーターとしてのその説明枠組と、研究の最後でアメリカ政府に対して行った戦略政策提言の行動指針化の枠組を直接に決定している。
 解明者の記述の客観性と行動指針化する者の理解化の主体性の間の関係は、同時に戦略的分析の最も脆弱な点の一つとなっている。この主体性‐客観性問題を超えられない営為は、記述の平面から始まりつつ主体性を求めらるに至っていながらも現実に通用しないか、行動指針化の平面で客観性を訴え続けて説得性をもたないかである。
 原理的に、このすべてのプロセスの全体を見る必要がある。記述できないことを解明することはできず、解明できないことを理解させることはできず、理解させられないことを説明することはできず、説明できないことを行動指針とすることはできない。逆に言うならば、態度を決めないで行動指針を持つこと、行動指針を有さずに説明枠組を作ること、説明枠組なしに現象に肉薄して理解し終点の見通せない次元を解明することはできない。健全で永続的な分析はすべてこれらすべてを内包している。この我々の重厚な方法論の領域で私たちが目指したことも、基本的に、この内的統合性を実現し、そしてこの方法論的重厚性の次元から出発して、現象的かつ地政学的/戦略的重厚性を説明するアプローチを取ることである。
 この分野で重厚性な戦略的分析を選びうる条件は、静的図式の偽りの幻想の影響下に留まらないことである。現象の理解の記述に依拠する静的図式を描くこととその図式の色合い、線、パースペクティブの絶対化が、記述から解明へ、解明から理解化へ、理解化から説明へ移行する前に接ぎ木されると、最終段階で、「パワー」の意味を理解する障害となる。感覚的に明瞭に見て取れる静的な図式の互いに無関係な寄せ集めでしかない戦略分析は、時間の次元を無視した表面的で凡庸な記述となる。
 この方法論的欠陥を克服するためには、単一の次元の安易な記述を避けて、多次元的なプロセスを考慮しなければならない。物理学における運動法則にあたるものが、戦略分析におけるプロセスに相当する。運動のない静的世界観においては物理学の意味は失われる。このような世界観の枠組においては、パワーの定式化作用を果たさせることはできず、歴史の成り行き、プロセスを無視した戦略分析では、戦略的の齟齬を見出したり、他者に説明することはできない。
 たとえば、1950年代、60年代、70年代には、パワーの分立を示す静的図式によって、ソ連は2極体制の超大国の焦点の一つとみなされていた。ソ連がアフガニスタンに侵攻した80年代初頭には、スターウォーズ計画のプログラムに入れられて80年代の中盤には中止された一つ一つの戦略図式が、一枚の一覧表を作り上げていた。これに対して90年代の初頭には中止された戦略的、経済/政治的図式は、ソ連とその継承国ロシアを、多角的なこのパワーのヒエラルキーのずいぶん下位に位置づけるようになっていた。ごく短いタイムスパンに対してなされたのだとしても、静態的記述は変化のダイナミズムを明るみに出すことは不可能である。日常的変化を反映する多くの図式が作られたとしてさえ、これらが互いに時間的に関連しあうプロセスを組み込まずには、戦略を分析、解説することはできない。
 社会現象を諸要素に腑分けする分析と、この分析を国際関係に反映する方策を生み出すことが、それぞれ別途に重要であるとしても、独自の国際関係論のアプローチとなるためには十分ではない。分析の対象となる戦略の部分的諸要素をシステマティックに統合して解説できること、そしてその全体が再び部分的諸要素に還元されうることが必要なのである。分析過程でミクロな部分に下って行けば、システムとしての統合性を損なうことになってしまう。あるいは逆に、システムの統合性を直接的に志向しては、現実のミクロな領域を無視することになってしまう。理論と現実へのアプローチでバランスを保つことは大変難しい。
 国際関係の分野において、深みのある分析を行うと同時にシステム統合の全体の見通すためには、学際的なアプローチが必要である。高度に政治的、外交的である学問領域とみなされる国際関係論において、その割合がどんどん増えて、境界の不明瞭性で覆われるようになっていることは、その必要性の帰結でもある。国際関係論の課題とみなされる政治/外交の表舞台は、本来氷山の海面上に顔を出した部分(氷山の一角)のようなものである。氷山の見える部分から出発して、その全体像を推測することがいかに難しいのと同じく、国際関係論の対象となる事象の諸相について、決定的な結論に到達することもまた困難なのである。
 一例を挙げると、中東和平プロセスの外交/社会的次元と、その次元の展開、国際関係現象がすぐ区別されるが、その結果もまた構造的に観察される部分が反映されているのである。しかし中東問題を一つの全体として概念化するためには、氷山の水面下の深さを認識するための認識論的基礎が必要となる。氷山の最も表層に近い部分は世界の産油の中心地としての政治経済学、そして大陸的影響の深みの地政学的構造があり、最後に歴史の深みに由来する文化的要素という目に見えない諸要素が中東社会の社会的心理的構造に与える影響を理解しない戦略的分析は、浅薄と言わざるをえない。ユダヤ人とムスリムのエルサレムをめぐる象徴界のクラッチペダルを踏み込んで、この象徴界の多くの色を織りなす歴史的、心理的要素を観察することで、二つの社会の双方を方向づける社会学的な動機付けのダイナミズムから、中東問題についての考察に敢えて踏み出すことは、氷山の見えている部分から敢えてその全体像の推定に踏み込むことに似ている。
 目に見える現象の背後の見えない根本的な原因を把握するためには、諸宗教の歴史、政治史、政治経済学、政治社会学、宗教心理学を横断する学際的なアプローチを我が物とすることが必要であり、そうでなければ、一次元的静的図式から多次元的なプロセスを理解させることへと移行することはできない。
 歴史の流れのプロセスの理解化には、時間把握の基礎となる歴史の深みと空間把握の基礎となる地理的深みが必要となる。歴史の深みを反映する精神と、地理の深みが物質界に穿った地理の深みに化身した精神に我々は影響している。ともあれ歴史のような現実に影響が存在することを地理で境界づけ、権力布置を国際社会の中に発見する試みは、この(時空の)対構造の重厚性に対する分析的かつ構造的視角による。相互連関を断ち切り断片化する歴史的な重厚性を欠く分析と、ミクロ‐マクロな重なりを主題化できない重厚性を考慮しない地理的分析は、共に表層的一般化を行うが、この近視眼的‐直線的なシステム統合の還元の過ちを正すことはここでの主題ではない。

***

 トルコに国際的地位を与えることを目的とするあらゆる努力には、この方法論的必要性の自覚が不可欠である。どの国家を主題にする場合にも当てはまるこの方法論的必要は、トルコを主題とする議事録においてはより重要となる。上述の諸次元を視野にいれると、「トルコとは20世紀の歴史の舞台に現れた国民国家である」との定義は、記述の視点による諸要素からなっていることになる。しかしこの概念の説明枠組が、本書の理論的基礎となるためには、20世紀に歴史の舞台に出現した他の近代国民国家に比べて、なぜトルコが特に国際関係においてより多くの問題を抱えることになるのか、という問いに対して答えなければならない。たとえばルーマニヤ、フィリピン、ブラジル、モロッコのような、世界の激動する諸地域の他の国々とは比較して、トルコがこの記述に特に値することにより、トルコが国際的地位を有し、その地位が様々な危機的事態への影響に結実することを説明することができる。
 たとえばこの定義に新しい次元を付け加えて、トルコはこの世紀初頭のユーラシアに覇を唱えた6大多民族帝国(他は英、露、オーストリア‐ハンガリー帝国、仏、独、中国、日本)の構造の一角を成した国民国家である」と記述されれば、トルコと並ぶ他の国民国家との差異を明らかにする歴史的な基準を示し、この方針の説明枠組、理論的基礎を成す記述がなされたことになる。また、たとえば「トルコは地上の中心にある大陸の地政学的主要地帯の相互影響が見出される近代国民国家である」との言明と区別される説明の次元を開く記述ともなっている。そしてこの第一の文化地理的、歴史的記述と、第二の地政学的概念化は相関している。
 これらの記述が内包した基準や概念を通して、個々の事態を説明する解答を与えるための理論的基礎が置かれる。たとえばトルコがボスニア、コーカサス、中東における問題に対してこれまで無関心であることができず、これからもできない理由は、この記述によって初めて説明する道が開かれる。言うならば、独自な諸要素を内包しない記述、説明は、多次元の問題を解きうる方法論的装置を提供できないのである。
 この二つの記述の双方を連関させることによって、個別の諸事象の因‐果関係を示す説明の寄せ集めであることを超えて、トルコが関わってきた時と場の深みの持つ意義を理解する枠組が設定される。時と場の深みを志向するプロセスは、不可避的に抽象化の手続きを組み込むことになる。簡潔に定義するなら、理解をもたらすということは、時と場所の深みを体験し、この深みと思想的理念の間に一種の関係を樹立することによって始まるのである。
 この理解化の枠組は、時と場所の深みの体験に留まらない。;上記の理論枠組に、この深みの新しい理解の次元を加えるのである。たとえば、現行の歴史と地理のパラダイムを問い直し、トルコの独自の位置を再定義することが、そのような理解化作業の理論枠組を生み出すと言うことができる。
 トルコに関わるこの例において、記述とその記述の解明、理解、理解化、行動指針化の諸次元は別様にも表現される。たとえば「トルコは反植民地闘争の結果として樹立された最初の国民国家である。」、あるいはまた「トルコは大陸性と地域性を兼ね備えた国民国家である。」と記述することもまた同様なプロセスである。こうした内容の記述は、分析の次元を豊かにする。
 この方法論的問題が、トルコに関る分析が、他の国々の分析よりずっと内容がある形で論ずることができることは、トルコが世界の中心的な大陸の相互に影響しあう諸領域を含む地理的中心であり、歴史的破局を体験した人的諸要素を含んでいることとも関係している。トルコの地理的重厚性の概念化作業は、多くの陸と海の圏域と直接に関る戦略を分析し、その相関を見出すことを必要とする。
 トルコの人的諸要素は歴史体験の重厚性の刻印を帯びており、そしてこの体験に道を開いた政治、社会、文化的特性の拍動は、文明という軸を有し深みのある歴史の分析が常に不可避である。トルコの人的諸要素が織りなした歴史の深みは、我々の手になる他の営為に意味を与える研究の基礎となり、資料に基づき実証できる外交の戦略的重厚性、歴史の重厚性の研究に資する参照枠組の境界付けることになる。この戦略的重厚性を、人文地理学的、地政学的、経済地理学的に行動指針として統合することで把握し、そしてこの重厚性が戦略の行動指針化に必然的に影響を及ぼす独自性を明らかにしなければならない。
 トルコの基準に適う国家戦略の重厚性を表現しうる記述、解明、理解化、説明、行動指針化の次元は、統合的な視角から、方法論的問題を主題化しながら、発見されることを必要とする。トルコの国際的地位に関わるこの必要性は、国際関係の激動を体験した世代にとっては、魅力的なまでに自明である。冷戦の静態的な二極構造におけるパワー(覇権国)が有した多くの独自な特性は、冷戦後に起きた激動の危機的事態において、すべての側面が明らかになっている。安定した冷静な外交で対応できると思われていた冷戦の下での定型的な国際的危機の記憶に固執することが、歴史と地理の重厚性を有する戦略的を統合的に解き明かすことの障害となる。冷戦期には安定が期待されていたバルカン諸国があっという間に最高強度の紛争による不安定なカオスに陥ったことは、 逆に地政学的、経済地理学的、人文地理学的な様々な要素が、冷戦後期の国際的危機が一触即発のものであることと、歴史と地理の重厚性は戦略の領域にダイナミックな影響を及ぼすことの関係性の、最も説得的な実例となっている。
 全て、このダイナミックな変化の中心においても、周辺においてもである;しかし冷戦後期にその影響下にあったトルコに対して行われた戦略的予想が3つの点でいつも揺れ動いていた根本的な理由も、ダイナミックな独自性を有するトルコが、ダイナミックな国際的な危機的状況によって加速されて歴史の舞台に登場したからである。
 本書の様々な個所で明らかにしていくが、トルコは一面では戦略上、グローバル、および地域的な焦点に位置する枢軸国でありながら、別の面ではアイデンティティーが分裂している国(ハンチントンの言葉によると、「引き裂かれた国」)とみなされるのは、小さな建物を大きな建物に建て替えるためには、外枠の構造を変えなければならないのと同じである。それは互いに全く逆であり、二つの異なる記述と説明枠組を互いに持ち寄りながら異なった点で立ち止まる戦略家たちによる解明と理解化のレベルの根本的な差異の結果に正確に対応している。
 トルコでは、政策決定者と知識人のレベルでの知的混乱は、根本においてこの二つのダイナミックな構造に由来するカオスを浮き彫りにする公式な記述において必要な地理的歴史的深みの次元に達しないことと、システマティックな理解化の統合を達成できないこと重要な関係がある。ダイナミックに変化しつつある国際システムの中で生じている新しい事態は、トルコの戦略的定義と新たな順応の問題とを対立させている。新たな順応の必要と、トルコの歴史的地理的重厚性を新たに説明する必要性は、各々互いに引き寄せあう。静的な定義に慣れた知性は、この新たな説明を必要とするシステム統合の中で出会う事象を無視しては、静的な記述だけで説明できる連関さえ明らかにできない。記述と解明から理解と説明の次元に達しない静的なアプローチによる行動指針化は、スローガンが静的であることの、あるいは静的なスローガンの限界を超えることができない。国際システムにおける激動の逆流の渦に巻き込まれないよう抗う知性は、説明のモメンタムを失い、絶え間なく浮沈を繰り返すことになる。そして逆流の渦に巻き込まれることを拒む知性は、内向的になってしまい、静的な説明枠組では国際的危機に対応できないことを理解できなくなる。
 ダイナミックな国際的環境に身を置きながら、自分自身もダイナミックな変化の過程の中にある社会の前には、3つの異なる心理に基づく3つの選択肢が存在する。第一は、己自身のダイナミズムを抑制し安定を志向し、国際的な構造変化のダイナミズムの消滅を期待し、あらゆる自己定義を国際システムの安定まで先延ばしすることである。もしある社会自体がダイナミズムを志向する自信を有さずむしろそれを恐れ、それゆえ静的な自画像の維持を志向するなら、この選択肢を取ることになる。
 第二は、グローバリゼーションのダイナミズムの展開に心を奪われ、自分自身に焦点を当て覇権の諸要素の一つとしてそのダイナミズムを説明できないことである。これは、自分自体を歴史の主体として定義付けることができず、歴史が流れる川であり、グローバルな覇権の中心はこの川の流れを方向づける要因であるが、自分自身はその流れに巻き込まれるだけの横並びの無個性な対象でしかないとの視点の所産なのである。
 第三は、自分自身のダイナミズムのポテンシャルを、国際的なダイナミズムの坩堝における覇権のパラメーターに変容する営為である。この選好は、二つのダイナミズムの源泉の双方のメカニズムと流れの成り行きを記述し、解明し、理解し、説明できるアプローチの所産である。
 第一の場合は自信、第二の場合は(アイデンティティー)自己認識の問題と取り組むことになるが、第三の場合は、自己の歴史と地理の深みに由来する自尊の精神力のみにより他の二つのアプローチをリスクの要素とみなし、自己のダイナミズムが覇権の生成プロセスの一部であることを自覚するに留まらず、同時に国際的なダイナミズムのバランスの中に位置づけるプロセスにおいて決定的となる戦略のパフォーマンスを示すことが可能となるのである。この枠組においては、第一に、時間を稼ぎ、ダイナミズムを無視すること、第二に、ダイナミズムの興奮の中で時間を忘れること、第三に、時間のあらゆる瞬間を、未来を形作るポテンシャルを担う大きな価値として認識し正しく価値評価することに費やべきすべての時間を、逃した大きな機会として見ることである。第一に、社会が自分自身のポテンシャルをコントロールの下に置き、第二に、社会が自分自身を疎外しグローバルなトレンドの汽車を逃さないように努め、第三に、自分自身の歴史的の進む方向に安定的に歩む中で、社会自身の構造が内包するあらゆるダイナミックな要素が必要とする時間と形態を用いなければならない。第一に、自分自身の(地元の)地域の実存の領域を守り、第二に、(地元の)地域的実存の領域を超えて可能な短期間でグローバルな実存の領域に達し、第三に、自己の内部に地域的実存とグローバルな実存領域の間の新しい了解関係を樹立し、未来の世代を歴史上の名誉ある独自の主体に変える基礎を準備するように努めるのである。第一に、カオスの逆流の渦から身を守り、第二に、この渦に身を任せ、第三に、カオスからコスモスに移行する行為主体となるのである。
 この枠組において、トルコは歴史の重要な道の岐路の前に立っている。トルコが自己の歴史と地理の深みを合理的戦略の立案によって再統合できることは、この一対のダイナミズムの展開がポテンシャルのある状態に変化できる可能性を認めることである。トルコの内部のダイナミズムも、国際関係のグローバル、大陸的、そして地域的な基準でのダイナミックな諸要因、記述、解明、理解化、説明、行動指針化の諸次元を統合的に研究することは、トルコの戦略理論の不在の解消と、それに替わるオルタナティブの創出を実現するのである。
 本書もまた、この不在の解消を目指している。本書は3部構成である。第1部は基本概念と問題提起の3章から成っている。第1章での国家のパワーのパラメーターに関する定義と例証がなされる。第2章ではトルコにおける戦略理論の不在の背景、第3章では国際的関係を方向づける歴史的伝統の内外政のパラメーターに関する影響の研究がなされる。
 戦略分析理論の枠組を設定する第2部は4章からなっている。第1章では、戦略分析により地理の深みを理解し、そしてそれを実現するための主要な概念的、理論的装置の批判的視角による地政学パラダイムへの適用の要旨を示す。そしてこの枠組によって、独自の概念枠組として練り上げられた「近い地」、「近い海」、「近い大陸」のような圏域の定義が説明される。残りの3章では順に、トルコの「近い陸」、「近い海」、「近い大陸」の3つの圏域の独自性と、冷戦後の危機の連関にこの圏域を組み込んだ新しい戦略がトルコの外交に与えた影響を議論する。この分析枠組では、この圏域の間のシステマティックで首尾一貫した戦略を立案する上での主要因を確定するように努めた。
 またこの理論枠組の外の外交を扱う第3部は5章からなるが、まずトルコの外交に役立つ基本的戦略の道具としてのNATO、AGIT、ECO、İKÖ、KEİ、D-8とG-20を論じ、続いてバルカン諸国、中東、中央アジア、EUの政治を順に評価し、起こりうる未来の枠内で実施する必要があると考えられる外交の基本を、歴史的、地理的分析に基づく戦略の重厚性のアプローチによって提起する。

2017年4月14日金曜日

2017年4月11日 1時間半で分かるアメリカのシリア空爆(発表要旨修正版)

2017年4月11日 イベントバー・エデン
「1時間半でわかるアメリカのシリア空爆」
同志社大学客員教授 中田考
前置き
(1).事実
 6日夜(日本時間7日午前)、米駆逐艦がシリアのシュアイラート空港にトマホーク59発を発射
 * 米発表58発命中、シリア発表23発命中
 * 2014年以来シリアに対する7889回目の空爆。シリア政府軍に対して初めてというだけ。
(2).背景
 4月4日のイドリブでの化学兵器の使用 子供を含む100名弱が死亡
 * 化学兵器の使用は初めてではない。3月にも。そもそも2013年以来オバマの警告を無視し化学兵器使用を続け2014年には専任以上を殺傷。しかしロシアの反対で攻撃できず。
(3).米国の行動
 トランプはアサドによる化学兵器による空爆と断じて、化学兵器を積み込む空軍基地としてシュアイラート空港を空爆し化学兵器貯蔵庫と飛行機を破壊
 * 滑走路は破壊せず → 翌日から出撃
(4).事前の準備
 トランプは空爆前にロシアに通知
 * ロシア兵、シリア兵に犠牲者なし

1.歴史的背景 
 シリア・アラブ共和国 1961年アラブ連合共和国から独立 1963年革命によりバアス党(ハーフィズ・アサド)政権成立(アサド一族、イスラーム教シーア派の中の異端ヌサイリー(アラウィー派))
 1967年、第三次中東戦争でイスラエルに敗れゴラン半島を失う
 1980-1988年のイラン・イラク戦争ではイラクと同じバアス党政権にもかかわらず、アラブ連盟諸国の中で唯一、非アラブのイランを支援(今日に至るまでのイランとの同盟関係の元に)
 冷戦時はエジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、イラク、イエメンなどと共にアラブ社会主義諸国として共産主義陣営に属すがソ連の崩壊(1991年12月25日)で後ろ盾を失う
 1991-1992年の湾岸危機ー湾岸戦争において、アラブ社会主義諸国の中で唯一多国籍軍に参加
 ソ連崩壊後、、CIS諸国以外で唯一ロシアの軍事施設が残存
 2000年ハーフィズ・アサドが死に息子のバッシャールが大統領就任
 2011年アラブの春の余波で内戦勃発 2013年にはラッカが陥落し、アサド政権は首都ダマスカスなどのわずかな支配地を残すのみとなる
 2014年6月ラッカを首都にイスラーム国(IS)成立

2.アメリカの国内事情
* トランプVSヒラリー 一国主義VS国際主義
 アサド政権打倒を掲げたオバマ前大統領、ヒラリー候補に対し、ISとの戦いにアサドと共闘の可能性さえ示唆していた 180度の転換、なぜか? 
* オバマ政権2012年 二正面戦略の放棄・アジア(極東)重視(=中東からの撤退)
今回のシリア空爆(直接介入)は、一国主義の転換どころではなく、オバマ以来の二正面戦略放棄の転換のサインでもあるのか?
* 政権内のパワーバランスの変化:一国主義オルタナ右翼→国際主義+軍人
 フリン安保担当補佐官解任、バノンNSC(国家安全保障会議)中枢から排除
 娘婿クシュナー(ユダヤ教正統派、国際派)、マティス(軍人)らが中枢に
(4月6日リーベルマン国防相アサドの化学兵器使用100%確実と発言)
* ロシアのスパイ疑惑 フリン解任 対露強硬派マティス大将国防長官登用
 ロシア・スパイ疑惑を払拭するためにもロシアに対して強硬姿勢を取らざるを得ない 

3、中東の複合対立
* 宗派対立:世俗vs宗教 → イスラームvsユダヤ教(シオニスト、正統派、超正統派)、キリスト教、ヤジーディー → スンナ派(伝統派vsサラフィー(→サラフィー・ワッハービーvsサラフィー・ジハーディー)vs改革派(ムスリム同胞団))vsシーア派(12イマーム派、ヌサイリー・アラウィー派、ザイド派)
* 民族対立:アラブ人、ユダヤ人、トルコ人、ペルシャ人、クルド人
* 国家対立:サウジアラビア、トルコ、イラン、ロシア、レバノン、イスラエル、イラク
* シリアの同盟国:ロシア(ソ連以来の勢力圏、軍事基地確保地政学的重要性、国内のムスリムへの影響の恐れ、、独裁者同盟)、イラン(シーア派(反スンナ派)の宗派的同盟、レバノン(ヒズブッラー支援)への不可欠の通路)、エジプト(反宗教、世俗主義軍事独裁者同盟) 呉越同舟
* シリアの敵:トルコ(スンナ派伝統主義、改革主義、しかし当面の主要敵はクルド、ギュレン運動)、サウジアラビア(サラフィー主義(反シーア))、欧米(人権、反独裁??)、イスラエル(領土紛争、シオニズム)
* トルコの敵のクルド(テロリスト組織)を米、ロシアが支援 
* シリアの同盟国イランはアメリカの『テロとの戦い」の主要敵だったが、イランを主要敵とするISとアルカーイダが主要敵となり、三つ巴に
* 1月23-24日のアスタナ和平体制(トルコ、ロシア、イラン)崩壊(元々反体制派は署名拒否)

4.国際関係
* 西欧(米)の覇権の交代により、非西欧(中国、ロシア、インド、イスラーム)文明の再編状況
* 中華人民共和国、ロシア共和国が清帝国、ロシア帝国という世界帝国の継承国家として、西欧文明(とその世界帝国としてのアメリカ)に挑戦
* 文明の再編状況において、中核国家を欠くイスラーム文明において、トルコ(スンナ派伝統主義/改革主義連合)、サウディアラビア(+イスラーム国)(スンナ派サラフィー主義)、イラン(シーア派)が競合 ー イスラーム文明再興の障害(イスラーム主義vs(欧化)世俗主義)、
* トランプは国際介入主義のヒラリーに対して孤立主義のレトリックを用いたが「世界の警察官をやめる」というのはオバマの外交指針の継続でしかない。むしろ「アメリカの栄光を取り戻す」と軍事力増強こそがトランプの示差的特徴。
* トランプは、ロシアと中国の覇権拡大を容認せず、イラン、北朝鮮、イスラーム国の打倒を目指す

結論 トランプのシリア空爆とは何だったのか
* ロシアのメンツをつぶし挑発することになるにもかかわらず、シリア政府が化学兵器を使用したと断定し、国際法を無視して(国連の決議を経ずに)、攻撃したことは、トランプ政権のアメリカが今後も覇権を軍事力によって維持する、との重大なメッセージ。
* 空爆はロシアに事前に通告しており軍事的効果は極めて限定的(ほとんど皆無)
* そもそも化学兵器による犠牲者(最大でも累計2000人以下)はアサド政権が殺害した民間人20万人の中で無視できる数字であり、空爆がアサド政権に化学兵器の使用をやめさせることに仮に役立ったとししても戦局に影響は与えない→ シリア空爆はシリア人のためではない。
* 誰のためか?
 サウジアラビアのため?(3月16日ムハンマド皇太子米国訪問巨額投資、8日サルマン国王に電話報告)
 イスラエルのため?(バノンVSクシュナー、3月16,17日パルミラ近郊のシリア軍基地空爆)
* 誰のためでもなく、アメリカが人道を守る正義の警察である、とのイメージの再確立のため
* アメリカ(トランプ)は国連決議、国際法、地域大国(覇権挑戦国)に拘束されない、との決意(事実)の証明という象徴的意味
* 本当の狙いは極東:北朝鮮の無力化(それ自体が中国への警告)
 ティラーソン国務長官が9日「シリア空爆は北朝鮮への警告(同時に中国へのメッセージ)」
 ティラーソンはすでに3月17日の韓国訪問で「これまでの戦略的忍耐政策は終わった。軍事行動を含めて全ての選択肢がテーブル上にある」と発言
* カールビンソンなど攻撃空母群を朝鮮半島に展開
* アフガニスタンで非核兵器としては最大の破壊力を有する「全ての爆弾の母」爆弾を使用の示威行為
* シリア空爆は、トランプがオバマと異なり単独軍事行動を行う意思と能力を持つことを実証
* 北朝鮮への軍事オプションが口先だけの威嚇でないとの警告のメッセージ
* 但し警告(恫喝)はあくまでも警告(恫喝)であって、直ちに軍事行動を取る可能性は低い
* シリアでも、ロシアとの本格的な軍事衝突を招かないよう空爆は被害を極小化した象徴的なものに
* (ウクライナ問題を抱える)ロシア、中国という地域大国の覇権拡大の抑制を見据えた北朝鮮への恫喝の駆け引きの道具にシリア空爆は使われた。
* 鍵を握るトルコ。アメリカのシリア空爆でも蚊帳の外。今後もNATOの一員でありながらロシア、イランと組み続ける綱渡りを続けるか、サウジの意を受けて再びアサド排除のレトリックに立ち戻ったアメリカとの同盟に復帰するか(アメリカにクルド独立派勢力と絶縁する意思が見られない以上それも困難)難しい舵取りを迫られる。

2017年3月18日土曜日

アフメト・ダウトオール『戦略的縦深性』前書


前書

 ポスト冷戦期の戦略のテーマを定め、再評価するように努めることは大変難しい。というのは、それ自体が極めてダイナミックな問題を、それもまた極度にダイナミックな環境の文脈の中で主題化して理解する試みだからである。おそらくその歴史上最も重要な変化を経験しつつあるトルコが、やはり歴史上最も大きな変化の舞台となっている国際環境の中で、新たな変容を遂げつつあるのだ。形成途上のこのダイナミックな過程は、本書の序文で定義する概念化、解明、意味づけ、解説、オリエンテーションはどれも、どの頁でもすべてその全体において、極度に濃密な思考活動の断片にとどまっている。
 これらの方法論的困難にもかかわらず、論理的に首尾一貫しており、時空(歴史と地理)の理解の中で意味を有し、状況に照らして正当な戦略の分析をすることが、価値判断とは別に行うべき固有性を有することは、この問題構成自体に由来する。安定した構造であれば静態的な枠組の中で主題を定めて、平板な頭脳活動によって理解することが出来る。そのような(静態的)分析も、状況がもっと安定している時代であったならば明晰な事実を再構成できたであろう。しかしダイナミックな変化を経験している危機の移行期には、歴史的な影響力を考慮にいれた上で継続性のある戦略を練り上げることが重要となる。国の未来のオルタナティブを視野に入れた戦略分析の枠組が今こそ必要であり、本書もそれを目指したささやかな貢献となればと思う。
 社会の大きな変化は、時代に即したこの方法論の問題に真剣に取り組み、超克に努める戦略的アプローチ、分析、理論化が社会の歴史の舞台へ躍り出ること、そして歴史の舞台上のエスタブリッシュメントたちが既存の体制の推進力を変化させうる可能性の乗数効果での加速をもたらすことが出来る。近代のドイツの国力を成立させたドイツの戦略的オリエンテーションの基礎が、ドイツ統一の形成期の苦難の中で築かれたこと、安定的、累積的なイギリスの戦略思考がイギリス内戦後の進歩とその思想の向上の帝国拡張期の経験の中で、ロシアの戦略的オリエンテーションがすべてのパラメーターと19世紀のダイナミックな勢力均衡の中で形成されたこと、「アメリカの世紀」を現出させた戦略の累積が第一次、第二次世界大戦後の混乱期に集中したことは決して偶然ではない。
 ダイナミックな変化の過程にあある社会の中にあって、それに属する個体として当該社会に関する戦略を分析することは、急いで流れる波頭の高い川に流されながら、川床、流速、水流の方向、他の川との関係をなどの問題を研究することに似ている。自分が調査している川の中で自分自身も流されつつも、その流れの性質を理解し、その特質に鑑みて、その川に関して、表象、説明、解説、オリエンテーションの枠組を構成することを引き受けるのである。川の外からの傍観の中で(同時代の歴史の)流れに翻弄される人々の心情と人生を疎外することは、道義的に無関心な月並みで表面的な観察に成り下がる。一方、(歴史の)川に飛び込んで流れに身をまかせてしまっては、自分が飲み込まれた流れについて、事態を客観的に理解することはできず、自分の期待が混じっては、歴史の現実の意義を把握することはできない。社会科学の方法論において、このジレンマは、研究者「自身が試験管内で暮らす」と表現されている。
 このジレンマにおいては、川が(流される人々の)心情と人生を疎外することが道義的に責任があり、川に流されてしまえば、知的責任を負う余地は狭まる。道義的責任と知的責任の全体を理論的に調和させる研究者が、思考にあたってアカデミシャン自身の中で個人的な首尾一貫性を保つことも、社会文化的関係が普遍的真理の領域に影響を及ぶすことも非常に大きな力となる。思想家、知識人も、一般の人々と同じように、空間と時間、つまり歴史と地理の意味世界に、いやむしろ他の人々より以上に自己同一化できるので、自分が流された川だけでなく他の川の流れにも自己同一化してアプローチできるのである。
 一個人として普遍を感知でき、実存の意識とその深みと文明の主体としての特定の時代の流れを感じられる社会帰属の主体、そして歴史意識とその深み、つまりその意識が反映していると考えられる場を感得できる社会帰属の主体も、戦略的意識と縦深性を必要としている。個人のレベルでのミクロ・レベルから、社会、文明、歴史のレベルのマクロ・レベルへの向上、浸透は完成の探求であり、そしてすべての文化圏域は、この探求それ自体を真理の定義として表現している。
 本書では、この二つのレベルの意識の最も可視的である戦略的縦深性と、道義的学問的責任のバランスを取りつつ研究するように努力した。一連なりとみなしうるこの完成への冒険の歴史の縦深性と、実在の認識に関する諸々の部分を、同時代の同じ川を我々と共に流れゆく同志である我々の読者たちに捧げたい。
 本書の問題点は著者一人に帰されるが、主張すべきものがもしあるとすれば、主体という観点に立てば、同じ川を下る冒険を共にする者たちの匿名の文化の環境の産物である。同じ理由で、なによりもこの文化環境(伝統)の歴史的連続性を担保してきた先師たちとその一統、そしてこの環境(伝統)の全ての側面を共有してきた友人たちに、筆者は恩義がある。
 本書が時間把握の視角からは過去の歴史から未来への、空間把握の視角からは中心から周辺への架け橋となりますように。

2017年3月12日日曜日

アフメト・ダウトオール著『戦略的縦深性(Stratejik Derinlik)』目次

トルコ元首相アフメト・ダウトオールの109版のベストセラー『戦略的縦深性』の目次を取りあえず訳してみました。

『戦略的縦深性』

目次
序文

第一部 概念的、歴史的理枠組

第1章:
Ⅰ.力のパラメーターと戦略
1. 定数:地理、歴史、人口、文化
2. 変数:経済、技術、軍事力、
3. 戦略思考、文化的アイデンティティ
4. 戦略と政治的野望
Ⅱ.人的要素と戦略的制度における乗数効果
Ⅲ.典型的応用領域:防衛産業
1. 力のパラメーターと防衛産業
2. トルコの力のパラメーターと防衛構造
第2章
戦略理論の不備とその帰結
Ⅰ.トルコの力の要素の再評価
Ⅱ.戦略理論の不備
1. 文化的、構造的背景
2. 歴史的背景
3. 心理的背景:引き裂かれた自我と歴史意識
第3章
歴史遺産とトルコの国際的地位
Ⅰ.歴史におけるトルコの国際的地位
Ⅱ.ポスト冷戦期と国際的地位の外生変数
Ⅲ.政治文化と国際的地位の内生変数
1. 歴史遺産と政治文化の下部構造
2. 歴史的連続性と政治トレンド
3. ポスト冷戦期と政治トレンド

第二部 理論枠組:漸進戦略と領域政治
第1章
地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ
Ⅰ.空間把握、地理認識、地図
Ⅱ.地政学理論とグローバル戦略
Ⅲ.ポスト冷戦期と地政学的空白地帯
Ⅳ.トルコの地政学的構造の再評価
第2章
近隣陸上圏域 バルカン半島-中東-コーカサス
Ⅰ.歴史・地政学的諸問題とバルカン半島
Ⅱ.アジアへの扉とコーカサス
Ⅲ.不可欠のヒンターランド:中東
Ⅳ.近隣陸上圏域の境界の柔軟性と近隣諸国との関係
第3章 隣海上圏域 黒海-東地中海-ペルシャ湾-カスピ海
Ⅰ.歴史的背景
Ⅱ.冷戦期とトルコの海洋政策
Ⅲ.ポスト冷戦期の新海洋政策の諸要素
 1.黒海と周辺の水路
 2.ユーラシアの戦略的結節点:海峡
 3.東地中海圏域:エーゲ海とキプロス
 4.バスラ湾(ペルシャ湾)とインド洋
 5.カスピ海
第4章 近隣大陸圏域 欧州、北アフリカ、南アジア、中央アジア、東アジア
Ⅰ.ポスト冷戦期の規範的大陸政策とその定義
Ⅱ.グローバル大国と地域大国の大陸政策
Ⅲ.トルコの近隣大陸圏域の主要素
 1.ヨーロッパ概念の変遷とトルコ
 2.アジアの縦深性
 3.アフリカへの展開
 4.諸大陸の交流地域:大西洋、ステップ地帯、北アフリカ、西アジア

第三部 応用領域:戦略目標と地域政策
第1章 トルコの戦略的関係と外交目標
Ⅰ.NATOの新戦略ミッションの枠組みにおける大西洋枢軸とトルコ
 1.アメリカの戦略とNATO
 2.ポスト冷戦期とNATOの新しいミッションの模索
 3.コソボ作戦とNATOのグローバルなミッションの定義
 4.NATOの新しい戦略ミッションとトルコ
Ⅱ.全ヨーロパ安全保障協力機構AGİT
Ⅲ.İKÖ:アフロ・ユーラシアの地政学的人文地理学的交流図
 1.20世紀のイスラーム世界:概念的、政治的変化
 2.ポスト冷戦期と21世紀のイスラーム世界
 3.トルコとイスラーム世界
 4.İKÖ の未来と再組織化
Ⅳ.ECO:アジアの縦深性
Ⅴ.KEİ:ステップと黒海
Ⅵ.G-8 とアジアアフリカ関係
Ⅶ.国際政治経済とG-20
第2章 戦略的変化とバルカン(諸国)
Ⅰ.ポスト冷戦期後の組織的矛盾とバルカン諸国
Ⅱ.ポスト冷戦期と域内勢力(勢力)均衡
Ⅲ.ボスニア危機とダイトン協定
Ⅳ.NATOの介入とコソボの未来
Ⅴ.トルコのバルカン政策の基礎
1. 歴史遺産とバルカン諸国
2. 域内諸国関係
3. 域内(勢力)均衡
4. 地域を取り巻く政治
5. バルカン政策におけるグローバルな戦略目標
第3章 中東:政治経済的、戦略的(勢力)均衡の鍵
 Ⅰ.中東の国際的な地位に影響する要素
1. 地理的、地政学的要因
2. 歴史的、人文地理的要素
3. 経済地理的要素
 Ⅱ.グローバル大国と中東
  1.アメリカの戦略の基本的パラメータと中東
  2.ヨーロッパ諸勢力と中東
  3.アジア諸勢力と中東
 Ⅲ.域内(勢力)均衡と中東
1. 地域の地政学と戦略的三角メカニズム
2. アラブ世界の(勢力)均衡:アラブ民族主義の危機と政治的正当性問題
3. イスラエルの新戦略と中東
4. 地域(勢力)均衡と中東和平プロセス
 Ⅳ.中東政策の基本的ダイナミズムとトルコ
1. 国際経済の視点からのトルコの北中東政策
2. 中東の地政学的変化とトルコの北中東(東大西洋‐メソポタミア)政策:トルコ、シリア、イラク
3. トルコ―アラブ関係から見たトルコの中東政策
4. トルコ―イスラエル関係のグローバルな次元と地域的次元
5. 歴史的縦深性の視点からみたクルド問題
6. グローバル及び地域的(勢力)均衡の視点から見たクルド問題
第4章 ユーラシアの(勢力)均衡における中央アジア政策
 Ⅰ.中央アジアの国際的地位に影響を与える要素
1. 地理的、地政学的要素
2. 歴史的、人文地理的要素
3. 人口学的要素
 Ⅱ.ポストソ連期と中央アジアの変化
 Ⅲ.ポスト冷戦期の国際諸勢力の(勢力)均衡と中央アジア
1. グローバル大国と中央アジア
2. アジア内(勢力)均衡、地域大国と中央アジア
3. 域内(勢力)均衡
Ⅳ.トルコ外交と中央アジア政策
第5章 ヨーロッパ共同体:多次元的、多面的関係の分析
 Ⅰ.外交的/政治的関係の平面
 Ⅱ.経済的/社会的分析の平面
 Ⅲ.法的分析の平面
 Ⅳ.戦略的分析の平面
1. グローバル次元
2. 大陸的次元
3. 地域的次元
4. 二国間戦略の分析の例:歴史的縦深性とポスト冷戦期のトルコ‐アルメニア関係
 Ⅴ.文明/文化思想の平面
1. 新しい伝統的反応としてのEUの歴史的背景
2. 周辺化/中心化の振り子における歴史的背景とEU-トルコ関係
 Ⅵ.歴史の反映の把持におけるトルコ-EU関係
結語

 

2017年1月3日火曜日

許可が必要なものは禁じられている(『文學界』2014年7月号掲載エッセイ草稿)



許可が必要なものは禁じられている。道を歩いたり、自転車に乗るのは特に免許を必要としない。だから、道を歩くのは自由だ、自転車に乗るのは自由だ、と言うことが出来る。
一方、自転車に乗るように自動車を乗り回すことは出来ない。運転が出来るかどうかは関係ない。どんなに運転が上手くとも運転免許を取らずに車を運転すれば犯罪とされ警察に捕まる。だから車の運転は自由ではない。それは禁止されている。
許可が取れるのだから、許されている、自由だ、ということにはならない。殺人でも、死刑を執行する時には許可される。だからと言って殺人が許されている、自由だ、と言うことが出来ないのと同じである。
他方、道を歩くのは許されており自由だ、と言っても、治安や衛生上の理由で立ち入り禁止に指定された場所は入る自由もなく歩くことも許されない。しかし歩くことが禁止されることがあるとしても、それが自由でない、とは言えない。
どんな自由も制限を受け禁止されるうるし、どんな禁止も解禁されうる。だから、行なうために特に許可を必要としないことを「自由である」と呼び、許可を要することは「禁止されている」と呼ぶのだ。
今、人は歩くのは自由だ、と言った。しかし本当はそれは嘘だ。現在、全ての人類は地上を歩くことを禁じられている。人が歩くことを許可されているのは、領域国民国家の領域内だけだ。その領域から一歩足を踏み出そうと思うと、自国から相手国に宛てた通行許可証パスポートを持ち、それに相手国の入国許可ビザをもらわなくてはならない。
この春に私はアラブの友人を訪ねにシリアに行ってきた。最近知り合った日本人の若者は一緒にシリアに連れて行ってくれ、と言うが、パスポートが取れないために行くことができない。幸い私はパスポートを持っているので出国の禁止はクリアーし、トルコの入国禁止に関しても日本のパスポート保持者は空港でビザが下りるので無事に乗り切ることができた。
シリア入国は、友人が住む地域は、シリアの反政府勢力の「解放地」であり、入国にはビザなど必要ない。しかし、問題はトルコからの出国だ。その解放区はトルコ政府との「非公式」な外交関係すらもない地域なので、トルコがその地帯に入ることを禁じ、国境に鉄条網を張り巡らしているのだ。
シリア人との4人連れで日暮れ前に国境に向かうと、トルコのジャンダルマ(国家憲兵)が追いかけてきた。発砲されても気にせず後も振り向かずひたすら国境を目指し傷だらけになりながら鉄条網をくぐり抜けると、ジャンダルマは諦めて帰っていった。後で聞くと、背後数十メートルの距離まで迫られていたらしい。
シリア滞在を終えての帰りも、シリア側から国境を越えるのは「自由」だが、問題はやはりトルコ側だ。トルコからシリアに入った同じ場所から4人でまた鉄条網をくぐって今度は夜にトルコ領内に入った。しばらく叢を歩いていると、突然サーチライトに照らされた。事前の打ち合わせ通り、散開する。1時間余り銃声が鳴り止まぬ捕り物の末に全員が捕まってしまった。撃ってきたのはジャンダルマではなく村の自警団で、銃声は猟銃のものだった。
銃を突きつけられていろいろ尋問された。煎じ詰めると、どうやら我々が頼んでいた「逃がし屋」の運転手が余所者で、自分たちの村を通るのに何の挨拶もなく、余所者の逃がし屋だけが儲けて村に金が落ちないのが気にくわない、という話だったようだ。結局、私は所持金の約300ドル、連れは約2000ドルの現金を巻き上げられた上で、夜道に放り出され、翌日疲労困憊して日本への帰路についた。
現在の人類は皆、領域国民国家の捕囚だ。ただ友人に会うためであっても、自由に歩こうにも国境で阻止される。それでも敢えて自分の自由を守ろうとして歩き続けると銃で撃たれ脅され力尽くで拘束される。人は地上を自由に歩くことすら出来ない。にもかかわらず、人権や自由を誰もが恥ずかしげもなく口にする、それが現代世界の現実だ。
私たちから所持金を巻き上げた自警団の連中も、パスポートやビザを売りつける役人たちも、人間の移動の自由を自分たちで奪った上でそれを返すのに金を取る盗賊、あるいはみかじめ料を徴収するやくざの類いであることに違いはない。密輸や、密入国、不法滞在などという言葉があるが、とんでもない。本来自由な商売、人の移動を禁じ、商品に関税をかけ、人を拘束する方が強盗、誘拐であり、犯罪なのだ。
イスラームは、大地の主権は神に属し、神はアダムを地上における代理人(カリフ)に任命し、人類は皆アダムの子孫として大地を相続した、と教える。
大地を縄張りに切り分け、虚構の偶像神である国民国家リヴァイアサンの陰に隠れて神が人類に託した主権を簒奪する権力者たちのカルテルというのが、現在の国際社会、つまり領域国民国家システムの実相だ。そしてこれらの不正な権力者たちの仮面を剥ぎ取り、大地を人々の手に取り戻すことがイスラームの使命であり、そのイスラームの政治制度がカリフ制だ。
大地を人類に解放するカリフ制の再興のためにジハードに身を投じて殉教するべく、持ち家を処分して私はホームレスになった。仮の住まいは地球の全土。帰る我が家は天の楽園。

2017年1月1日日曜日

イスラーム国訪問記(3)

イスラーム国訪問記(3)
ISIS(イラクとシャームのイスラーム国)は、2014年6月末、「イラクとシャームの」を国名から外し、「イスラーム国(al-Dawlah al-Islamiyah, Islamic State)」と改称し、自分たちの「イスラーム国」が「イスラームのカリフ制(al-Khilafah al-Islamiyah)」であり、指導者のアブー・バクル・バグダーディーが世界中の全てのムスリムのカリフであると宣言した。
ISISだけでなく、ヌスラ戦線をはじめ、シリアで戦うサラフィー・ジハード主義者の多くは、1924年にトルコ共和国が廃止したカリフ制の再興が目標であると公言している。サラフィー・ジハード主義者とは、クルアーンとスンナの法規定を施行しない為政者を背教者と断じてジハードによる打倒を目指すスンナ派イスラーム主義反体制武装闘争派のことだ。
前回の訪問でもウマル・グラバーゥ師などは、気が早いことに「カリフ制の地へようこそ」などと言っていたので、ISISのカリフ制樹立宣言は青天の霹靂というわけではなかったが、このタイミングは予想外だった。と言うか、ISISがカリフ制再興を宣告しないことを、心の底では望んでいたのかもしれない。
カリフが擁立されて、シャリーア(イスラーム法)が施行されるダール・アル=イスラーム(イスラームの家)が現出すれば、全てのムスリムは、カリフが治めるダール・アル=イスラームにヒジュラ(移住)するのが義務となる。
さて、どうしたものか。しかし、ともあれ、畢生の仕事クルアーンの翻訳の公刊もまだだし、秋に発売予定の新書の校正も済ませないといけないし、ツイッターに連載したカリフ・ラノベ『俺の妹がカリフなわけはない!』も出版社を探さないといけないし、なによりも3月のようにトルクの国境警備隊や自警団の追撃を振り切って泥水の堀を渡り鉄条網をくぐっての国境越えは、この病軀には無理だ。まぁ、今抱えている仕事が終わるまでは様子見を決め込もう。
と思っているうちに、クルアーンの翻訳も出版され、カリフ制再興について新たに執筆依頼など受けたりと、貧乏暇無しの日々が続く中、突然、8月27日ウマル・グラバーゥ師から「我々の許に日本人のジャーナリストが捕らわれており、信頼できるアラビア語-日本語の通訳を推薦して欲しい。」とのメッセージが届いた。イスラーム国が捕虜にしている湯川氏に公正を期して日本人の通訳をつけようというのだ。
サラフィー・ジハード主義者の間で「信頼できる」というのは「サラフィー・ジハード主義者」ということだ。サラフィー・ジハード主義者でアラビア語ができて、危険な戦争のただ中にあるイスラーム国に送って死んでもよい者など私以外にだれがいよう。9月7-9日はタイのパタニ大学で『イスラームの中道』をテーマとする国際会議にゲストスピーカーとして招待されていたのだが、人命がかかっているとあってはそちらを優先するしかない。
という訳で、ちょっと情けないが、「この前のような肉体的に過酷な越境は無理なので、もっと楽な道があるなら私が行きましょう」ということで話を纏め、イスラーム国の捕虜裁判の通訳のボランティアとして自弁で格安航空券を買い、9月6日にイスラーム国に足を踏み入れることになった。
本当に楽に越境できるのか不安だったが、電話番号をもらったエージェントに連れて行かれたガズィアンテップの彼らのアジトには片足がなく松葉杖をついたムジャーヒディーンや女性も一緒だったので、これならそう過酷な旅にはなるまいと、ちょっと安心した。迎えの車が来るまで、一緒になったムジャーヒディーンたちと話をしたが、中にはパスポートもなく中国から陸路ベトナム、カンボジアを通ってマレーシア経由でトルコに辿り着いたというウイグル人のムジャーヒディーンもいた。顎髭を伸ばしているとクルド人のスナイパーに狙撃されるから顎髭を剃れ、と言われ、髭を短く刈り揃えさせられた時には少し不安になったが、実際に行ってみると、国境は鉄条網も倒れて地面に這っており、楽々と歩いて乗り越えることができた。
シリア領内に入ると、イラクでの戦利品と思われるモスル大学のバスが迎えに来たが、その夜は他のムジャーヒディーンたちとジャラーブルスのムジャーヒディーンの宿舎で一泊することになった。宿舎に着くと、名前を聞かれ、ハサン中田考だと答えると、「中田考」は聞き取れなかったようで、「ハサン・ヤーバーニー(日本人)でいいな」と言って「ハサン・ヤーバーニーと紙に書いてお終いだ。
そもそも入国審査は、パスポートを見るわけでもなく、自己申告の名前を聞くだけで、その自己申告の名前さえちゃんと記録していない。入国の時点でスパイをスクリーニングしようとは思っていない、あるいはそれは最初から諦めているようだ。なにしろ上述のウイグル人のように、ムジャーヒディーンの中にはパスポートなどそもそも持っていない者もいたりするのだから。もっとも、パスポートなどもともとイスラーム法にないものだし、ヒジュラ(移住)してくる者は全て受け容れるのがカリフ制である以上、それが当然だ、と言われればそれまでのことではあるのだが。
ジャラーブルスはトルコの携帯の電波が届くのでネットもつなぎ放題だ。GPSとかを使えば位置情報も全て筒抜けになってしまうわけだが、携帯を取り上げられるどころか、切るように求められもせず、電話をかけようとネットにつないでツイートをしていようと、誰も何も文句など言わない、相変わらずセキュリティーもなにもあったものではない。ジャラーブルスの宿舎は大部屋ではなく客室だったが、客室といっても蟻などの虫の巣窟で全身を虫に刺さ、満足に眠ることも出来なかった。
翌朝、迎えの車が来て、アルラッカ市に向かう。ジャラーブリスから少し離れるとトルコの携帯電話が繋がらなくなる。ジャラーブリスからアルラッカまでは180キロほど離れている。
3時間ほど車に揺られて、アル=ラッカ市に入り3月にも訪れたムジャーヒディーン移民管理局に連れて行かれたが、通り道では、数時間前にアサド政権による空爆があり市民が犠牲になったばかりだと、生々しい空爆の跡を見せられた。
途中、欧米のメディアでも報じられた破壊されたウワイス・カラニー廟の側を通った。イランの援助で作られた、と教えられたが、素人にも一目で分かるイラン風建築だ。民衆は、この聖者廟に7回詣でるとマッカ巡礼と同じ功徳がある、と吹き込まれて、参詣していたそうだ。イラン・シーア派のイマーム・ザーデ(廟)参詣に関してよく聞く話で、そういうクルアーンとスンナの教えに反する迷信を弘めているなら破壊されても仕方がない。
移民管理局に着いても、まぁ、極秘のミッションと言えば極秘のミッションでもあるので、当然とも言えるが、私が何者で、何をしに来たのか、話が全く通っていない。漫然と待つこと時間、やっとウマル・グラバーゥ師が現れた。ところが、今回のミッションを指揮する司令官が姿を隠してしまって、ウマル師自身も彼と電話もネットも繋がらない状態なので、連絡を取れず、話を進めることができなくなっていたのだ。
時期も悪かった。アメリカは、イラクの内戦の一局面であるヤズィーディー居住区での戦闘をIS空爆の口実にするため、イスラーム国が民族浄化を行なっているとのプロパガンダを繰り広げ、8月8日からイラクでイスラーム国への空爆を開始しており、それに対する報復として、8月19日に米国人ジャーナリストの捕虜が処刑されると、シリアに対する米軍の空爆も時間の問題とみなされるようになった。イスラーム法では老人や修道士などを除いて成人男性は戦闘員とみなされる。ジャーナリストは情報収集が仕事であり、イスラーム国に限らず、外国人記者はスパイの疑いをかけられるのが常である。イスラーム国から予め入国許可の安全保障を得ずにイラクとシリアに入った以上、スパイの嫌疑がかけられた敵国の異教徒のジャーナリストを解放するか処刑するかは、イスラーム国の裁量次第なのである。
実は、斬首はシリア国内では意外と市民の支持を得ている。今回聞いた話では、アサド政権と通謀していたスパイを捕まえて銃殺刑に処したところ、市民が「なぜ首を切らずに銃殺ですませた」と抗議して騒ぎになり、イスラーム国当局が謝罪に追い込まれたということだ。
ともあれ、米国人の処刑に呼応し、アサド政権によるアル=ラッカへの空爆も頻繁化し始めた。アメリカがアサド政権に情報提供しているとの話も聞かれるようになっていた。9月1日、オバマは空爆の決定を議会に委任し、9月2日には米国人の2人目の捕虜が処刑され、米軍のシリア空爆は不可避の情勢になっていた。
そのため、イスラーム国の幹部たちは皆、空爆を避けるため、アル=ラッカを離れて身を隠し、連絡が取れなくなってしまっていたのだ。ウマル師も結局、日本人捕虜の裁判の責任者と連絡がつかず、取り敢えずネットと電話が繋がるトルコ国境に近い彼のアジトに戻ることになった。
ウマル師のアジトでジャガイモ入りサリードをご馳走になる。サリードとは古くなったパン炊き込んだ粥で、「(預言者ムハンマドの若妻)アーイシャが他の婦人たちより優っているようにサリードは他の食べ物に優る」との預言者ムハンマドの言葉にも名が上がっている由緒正しいアラブ料理だが、少なくとも預言者ムハンマドの時代にはジャガイモは入っていなかったはずだ。
翌日昼食にカプサをいただいてから再びアル=ラッカの移民管理局に行き、責任者とコンタクトを試みる。待たされた末に、責任者の伝令が現れて、「これから捕虜(湯川氏)のところに連れて行くが、もう1週間居てもらう」、と言われる。「冗談ではない、私は12日にはイスタンブール-ドーハ便のチケットを予約してあり帰国しなくてはならないと、予め帰国便の日程も伝えているはずだ、約束が違うではないか。カリフ制を名乗っている以上、ちゃんと約束を守れ。」と思わず伝令を叱りつけてしまった。アラブの伝令はただのつかい走りでなんの権限もない。「私にそんなこと言われてもねぇ」と困った顔をしている伝令を連れてウマル師がどこかに消えた。しばらくして戻って来たウマル師が説明してくれたところでは、日本人の捕虜は他の捕虜たちと一緒で、安全のために秘密裏に居場所を転々と変えているので誰にも居場所が分からない。それで、「会うにはもう1週間ほど居てもらう必要がある」、ということだった。イスラーム国の裁判に通訳として立ち会うという滅多にない貴重な機会だし居残りたい気持ちもあったが、12日にはドーハで別の重大なミッションがあり、それにこの調子だと、米軍の空爆も始まり外国人捕虜の居場所の保秘はますます厳重になるであろう為、1週間居残っても会える保証は全然ない。イスラーム国は捕虜の裁判に公正を期しており、湯川氏は英語で裁判のやりとりが出来る英語力は全くなさそうなので、日本語通訳がみつからない限り即決裁判で処刑される懸念はなくなった。そうであれば、無理して残ることもない。いずれ、暇が出来ればゆっくり再訪すればよい。空爆の巻き添えになり他の捕虜たちと一緒に殺されなければ、ではあるが。
その晩は、アル=ラッカに済むウマル師の娘婿の家に一泊させていただき、アラブ湾岸料理の炊き込みご飯カプサなどをご馳走になった。
ジャラーブルスからアル=ラッカまで、殆ど検問らしい検問もなく、イスラーム国の治安の回復と支配の安定は実感できた。しかし、一方、アル=ラッカ市内の中心部のさびれかたは目を蔽うばかりだった。3月に訪れた時は賑わっていたナイーム広場、時計台広場などの中心部の繁華街も、露天は全く姿を消しており、店舗も軒並みシャッターを下ろしていた。アサド政府軍による空爆の激化、米軍による空爆が始まるとの予想から一時的に店を閉めているケースもあるだろうが、イスラーム法の厳格な適用を掲げるイスラーム国の施政を嫌ってアル=ラッカを去った者も少なくはないだろう。
翌日、捕虜に会えないなら長居は無用、トルコに帰ろう、と思っていたところ、180キロほど離れたアル=バーブ在住のエジプト人の友人が車で訪ねててきてくれた。これからクワイリス空港を攻撃に行く、ジハードには天国で報償があるから是非一緒に行こう、と言う。帰国まではもう一日余裕があるのでトルコのホテルでゆっくり休もうかと思っていたが、せっかく遙々アルバーブから会いに来てくれたのだから、アル=バーブまで足を伸ばすことにした。
しかし市内のインターネットの繋がる小洒落たレストランでのんびりカプサなど食べておもむろにアル=ラッカを出て、アサド政権からさきごろ奪ったタブカ空港を横目に通り過ぎ、アル=バーブに戻った頃には夕方近くになっていた。友人の家に泊めてもらうが、家族3人で5階建てのアパートに住んでいる。彼のアパートは、アサド政権などに味方していてイスラーム国の支配を嫌ってアル=バーブ市から逃れ出した住民からの戦利品としてイスラーム国に接収されたもので、ムジャーヒディーンである彼の家族に与えられている。家賃が無料なので月給約1万円(独身は5千円、家族持ちは1万円)で暮らせていけるのだ。隣や上や下の階の住人は、前から住んでいる普通のシリア市民だ。
イスラーム国が、民間人を空爆の盾にしている、というのは西欧のメディアが流したデマで、もともと外国人ムジャーヒディーンたちは、住民が逃げ出してたまたま空きが出たアパートの部屋をイスラーム国が接収したものをもらいうけてばらばらに住んでいたのだ。
友人は、奥さんに2回目の離婚宣言をしている。イスラームの離婚法では、夫の離婚宣言は2回までは取り消し可能だが3回宣言すると、もう撤回できず離婚が確定する。あと1回離婚宣言すれば離婚が成立してしまい、もう後がないのだが、なぜか仲良く一緒に暮らしており、夕食には奥さんの手料理をご馳走になった。
湯川氏のことも、アラブのメディアでもプロフィールが詳しく報じられていたので知っていたが、一言「どうでもいい狂人だ」で片付けられてしまった。スパイにしてはあまりに無能で行動が愚かしかったのが幸いしたと言うべきか。勿論、最終的にはイスラーム法学者による裁判結果を見るまでは分からないが、ウマル師も最初、「スパイ容疑が晴れれば日本に連れ帰ってもらうかもしれない」と希望的観測を述べていたぐらいで、湯川氏がイスラーム国のセキュリティーを脅かす大物スパイと疑われている可能性は低そうだ。
また友人から、「北朝鮮でもどこでもいいから防空システムを買い付けることができないか」、と相談を受けたが、そんなことは考えるだけ無駄だ、と諭した。アメリカは軍事的には核兵器などの大量破壊兵器を使いさえすれば、文字通り一瞬でイスラーム国を滅ぼすことができる。それをなぜしないのか、というと、たとえシリアやイラクのムスリムであっても巻き添えで数百万人の民間人を殺すことには、アメリカ人は耐えられないからだ。それを理解すれば「最善の防空システムが何か」は自ずと分かるはずだ。
それはイスラーム国が、欧米の一般の民間人、ジャーナリストや観光客にクルアーンが定める一時滞在者の安全保障を与えて受け容れ、イスラーム国中を自由に歩き回れるようにすることだ。またそれは、「もし多神教徒の誰かが、お前の許に滞在許可を求めてくれば、その者に入国許可を与えてアッラーの御言葉を聞かせてやり、それから彼を安全なところまで送り返してやれ。後略」(クルアーン9章6節)にあるように、イスラーム法上合法である。イスラーム国内に欧米人の民間人が溢れていれば欧米は絶対にイスラーム国を攻撃できない。防空システム構築は、軍事ではなく外交の課題なのだ。そしてイスラーム国の中でいかにクルアーンの教えが実践されているかを、欧米人に実際に来てその目で見てもらった上で本国に安全に送り返し、イスラーム国の実態について本国で報告してもらうことこそが、クルアーンが教えるイスラームの伝道の正しい方法なのだ。
翌朝、友人に送られ、ジャラーブルスの移民管理局に向かった。途中、アル=マンビジ市で、聖法事務所(al-Idarah al-Sharʽiyah)という意味不明の建物の写真を撮ったら、ムジャーヒディーンの警備兵に「撮影許可はあるのか」と絡まれカメラを没収されかけたが、友人がかけあってカメラを取り返してくれた、といった小さなトラブルはあったが、無事に移民管理局に到着し、友人と再会を訳して別れを告げた。
移民管理局でトルコに出国を待つムジャーヒディーンたちと一緒に昼食にジャガイモのトマト煮を振る舞われ、喫茶店でドイツからきた生粋の白人のムジャーヒディーンとお茶したりしながら数時間待ち、夜になって来た道と同じルートでトルコに戻った。一緒に越境した羊の群れに踏みつぶされそうになって、ちょっと焦ったこと以外、トルコの国共警備隊や、自警団に襲われることもなく、スムーズに国境を越えてトルコ領内に入ることができた。
迎えの中型バスに乗り込み、ガズィアンテップに向かった。最初、市内の長距離バスターミナルで解散の予定だったが、バスターミナルには警察が張り込んでいて危険だ、との情報が入ったらしく、結局幹線道路でバスを泊めて解散ということになった。トルコ側もイスラーム国からの「密入国者」を完全に黙認しているわけではなく、一応は取り締まってはいるようだった。
余談になるが、後で同行した邦人ジャーナーリストに聞いた話だと、私がイスラーム国に入った後、日本の外交官が4人、湯川氏が解放された場合に身柄を押えるために、ガズィアンテップのノボテルホテルに投宿し、他にやることもなく、ずっと私のツイートをおって時間を潰していたらしい。「税金泥棒」、とはよく言ったものである。
徒労感あふれるイスラーム国への旅だったが、イスラーム国が、「発展途上」というか「お試し期間中」のカリフ制であることが分かった、という意味では得がたい経験だった。
そもそもカリフ制以前に、「イスラーム国(IS)」は未だに、「イラクとシャームのイスラーム国(ISISI)」の看板を掲げ、「イラクとシャームのイスラーム国」のレターヘッドの入った便箋で公文書を発布していた。イスラーム国はカリフ制であるよりも、イラクとシリアの地方政権である。それどころかイスラーム国にはまだ統一貨幣すらなく、シリア地域ではシリア政府発行のシリア・リラ、イラク・地域ではイラク地域ではイラク・ディーナールが使われている。イラクとシリアの国境を開いたとはいえ、イラクとシリアの統合さえまだ始まったばかりであり、全ムスリム世界を統べるカリフ制への道は前途遼遠である。
なによりも、捕虜の裁判の通訳のために1週間居残るように、と言われた時、もしカリフの命令として強制的に私を連行して行くことも出来たのに、それをしなかったことが
は、彼らの良識を示している。彼らが「これはカリフの命令だ」と言えば、イスラーム法的に私はそれを拒むことはできず、勿論、丸腰の私がそれを実力で阻止することも出来なかった。それでも、彼らはそんなことはしなかった。それどころか、「カリフ国なら約束を守れ」と罵られても、「不敬である」と逆ギレすることもさえもなかった。
彼らはイスラーム国こそカリフ制であり、アブー・バクル・バグダーディーは、全てのムスリムが従うべきカリフであると信じている。しかし同時に、現実には、イスラーム国が12億人とも16億人とも言われる世界の全てのムスリムの生命、財産の安全を保証する力がないことも自覚しており、カリフと忠誠の誓いバイアを交わしていない私のような一般のムスリムに、カリフの命令を力づくで押しつけようともしない。
シリアとイラクという過酷きわまりない政治環境で生まれたにしては、カリフ制再興を目指す「イスラーム国」は、実はどうしてなかなか柔軟で良識的なのだ。中東事情に疎く、その政治風土に馴染みのない日本人にはなかなか理解してもらえないとは思うけれど。(終り)

イスラーム国訪問記(2)

イスラーム国訪問記(2)
 2014年3月イスタンブール、ガズィアンテップに所用があり、またシリアに足を伸ばすことにした。主な目的は、ISIS(イラクとシャームのイスラーム国)がアル=ラッカでキリスト教徒に対して改宗か死か、と迫って、イスラームへの改宗を強制し、ジズヤ(人頭税)を課してているとの欧米のメディアの報道の検証だった。
そこで前回、シリアで世話になったトルコとシリアの越境担当司令官のウマル・グラバーゥ師を訪ねたのだが、実はウマル師はISIS潰しのためにサウディアラビアの後押しで作られたイスラーム戦線に支配地を奪われ、家、農地、車など全ての財産を失い着の身着のままでトルコ側に脱出し、アンタキヤの隠れ家に潜伏中だった。
アンタキヤでは、イスラーム系NGOダール・アズィーザの代表の立場で、シリア難民が運営する「フダ-・モデル小学校」を訪ね、日本からの寄付を渡してきた。この希望する子供は誰でも受け入れており、学費が無料なだけでなく、食事と制服も無料で支給される。丁度給食の時間にお邪魔したので見学させてもらったが、食事はパンと牛乳かジュースで、校長が自ら配って回っていたが、400人分の毎日の食事がサウジの一人の篤志家の寄付に依っているらしい。子供たちに将来の夢を聞いたところ、殆どが医者か教師だったが、一人だけムジャーヒド(聖戦士)になりたい、という男の子がいて、校長が慌てて「私たちは武器ではなく知識によってジハード(聖戦)することを教える」と言い繕っていてのが面白かった。
そうこうしているうちにウマル師の紹介でアル=ラッカに入ることになったのだが、「シャンル・ウルファの町にホテルを取れ、そうすればホテルに迎えの者を送る」との彼の言葉を信じてシャンル・ウルファに投宿したが、迎えの者など来ず、ウマル師からもらったエージェントの連絡先に電話すると「自分で国境に来い」と言われる。初めての土地でいきなり、「国境に来い」という大雑把な指示でいったいどうすればいいのか、と思った。なにしろトルコとシリアの国境は約900キロもあるのだ。しかし、いくら聞き返しても、「国境」としか言わないので、仕方ないのでタクシーに乗って、「国境まで」と言うと、慣れているようで、黙って国境の検問所に連れて行かれた。国境に着いても迎えもいないし、屋台のサンドイッチ屋があるだけで何もない。仕方ないので迎えを寄こすよう、エージェントに電話し、ビルの一角の礼拝所で礼拝を済ませ、サンドイッチとお茶を頼み、お茶を飲みながら、迎えを待った。
国境の検問所の前の屋台で、ただでさえ目立つ日本人がぼんやり何時間もお茶を飲んでいれば目立つことこの上ない。セキュリティーも何もあったものではない。屋台でたむろしている人たちに聞いたところ、国境は週に二日だけしか開かないが、今日は生憎閉まっているので明後日出直して来い、という。いったいどうなっているのか。
ようやくエージェントと連絡がつき、「運び屋」の電話番号を教えられるが、アラビア語が分からないトルコ人の運転手なので話が全く通じない。そこでエージェントに電話して「なんとかしてくれ」と頼むと、「誰でもいいのでその辺の人間に携帯を渡して『運び屋』に電話してもらえ」、と言う。本当にセキュリティー感覚のかけらもない話だ。結局、屋台のまわりの人間全員を巻き込み、「ちょうどアル=ラッカに戻ろうと思っていた」と言うISISのムジャーヒディーンを自称し煙草をすぱすぱ吸っているヤンキー風の若者も便乗することになり、「運び屋」に連れられて国境越えに向かうことになった。
国境の検問から小一時間走り、日暮れ前に車を降りて、前もよく見えない叢の中を「運び屋」たち4人で国境に向かう。トルコの国境警備隊が追いかけてきた。威嚇射撃で発砲されても気にせず後も振り向かずひたすら国境を目指し、泥水をはった堀を渡り、傷だらけになりながら鉄条網をくぐり抜けると、国境警備隊は諦めて帰っていった。
後で聞くと、足が悪くて走れないため一番遅れて国境を越えた私は、背後数十メートルの距離まで国境警備隊に迫られており、皆、私がつかまるものと思って見ていたらしい。
シリアに入るとISISの支配地で、間もなく迎えの車がやって来て、検問らしい検問もなく、夜道をISISの「西の首都」アル=ラッカまで直行した。アル=ラッカでは、ムジャーヒディーン移民管理局に投宿した。このムジャーヒディーン移民管理局の建物は、元は学校だったのを転用したもので、大部屋の教室に布団が敷かれて各部屋に十人前後の国籍も様々なムジャーヒディーンが雑魚寝している。飛び交う言語はアラビア語の他に、ロシア語が、フランス語、トルコ語、英語など様々だった。驚いたのは日本語で声をかけられたことで、話を聞くと、シベリアから来たタタール系のロシア人だそうで、日本語は日本のアニメで覚えた、と言う。『るろうに剣心』のファンで昔は相楽左之助のコスプレをしていたというが、シリアに転戦してくる前はマリでジハードを戦っていたという筋金入りの勇者だ。若い世代のムジャーヒディーンの文化的背景は我々の想像を遙かに超えて多様なのである。
翌日、当初の目的であるキリスト教徒に対するインタビューを行なった。ISISのムジャーヒディーンの宗務担当者のアレンジでキリスト教徒家庭を二軒訪れたが、二軒ともオスマン朝末期に迫害を逃れてシリアに移住してきたアルメニア人であった。彼らは難民だった彼らの父祖たちを暖かく迎えてくれたシリアのムスリムへの感謝を述べ、これからもここで生きていきたい、と語った。
ただし彼らアルメニア人も司祭ら教会の責任者たちはアル=ラッカから逃げてしまったので教会はISISに接収されていた。対して住民たちがイスラーム裁判所に書面で教会の返還を求めていたが、この時点ではまだ教会は封鎖されたままだった。
ジズヤ人頭税に関しては、上流、中流、下流に分かれ、月収約10万円を超える者が上流とみなされるが、広いアパートに住み上流と目される二軒目の家では、「年間10万シリア・ポンド(約7万円)は高すぎるのでなんとかして欲しい」と、一家の主人が同行した宗務担当者に苦情を述べていた。ちなみに年間10万シリア・ポンドという富裕者へのジズヤ人頭税の額は、富裕者には年間4ディーナール(金約16グラム)との、ハナフィー法学派の学説にほぼ一致している。
改宗か死か、と迫害されているはずのキリスト教徒が、狂信的で残忍と言われているムジャーヒディーンの宗務担当者と和やかにジズヤ(人頭税)の値切り交渉をしている姿がなんともおかしく、強く印象に残った。
ちなみに最初に訪れた家庭は公務員だそうで、月収約1万2千円はISISの支配下でもダマスカスの中央政府から支払われているそうだ。この時に聞いた話だと、アル=ラッカのムジャーヒディーンの月給は約五千円だそうで、一般の公務員と較べても安いが、住居と食事を無料で支給されているので、チョコレートを買うぐらいしか使い道がないので別に困らない、とのことだった。
強制改宗とジズヤ人頭税の賦課についての調査をここで纏めておこう。ISISは、「キリスト教徒には先ずイスラームに入信するか否かを尋ね、それで入信しない場合はジズヤ人頭税を払うかと尋ね、それも拒否した場合は戦闘になる」とのイスラーム法の規定に則り、入信とジズヤ(人頭税)の賦課について尋ねた上で、ジズヤ(人頭税)を払った者の安全は保障しており、キリスト教徒がISISの支配下で特に迫害を被ることもなく暮らしていることを確認することができた。とはいえ、アルメニア人でもアル=ラッカに残っているのは数百人ということで、司祭ら聖職者は逃亡しており、教会も接収されていたのも事実だ。また他のキリスト教の宗派には会えなかったことから、他の宗派は既に逃亡しているものと推測される。ISIS支配地がキリスト教徒にとって住みよい場所とは言えないのは確かであろう。しかし、彼らが迫害されている、とまで言うべき事実は一つも確認することが出来ていない。
ISISがキリスト教徒にイスラーム法を適用し、ジズヤ人頭税の支払いを求めた時の、欧米の報道は、「ISISがキリスト教徒に、改宗か死か、と脅し強制改宗を迫っている」、といった見出しのセンセーショナルなものが多く、多少ましなものでも、「改宗するかジズヤ人頭税を払うか死か、の選択を迫っている」、と書き立てた。しかし、これは理論的にもおかしく、事実としても間違っている。正しくは、イスラーム法の規定は、「改宗かジズヤ人頭税支払いか死か」ではなく、「改宗かジズヤ人頭税支払いか戦争か」、だ。そしてイスラームの戦争法の規定では、敵は必ずしも殺す必要はない。敵は捕虜にすることもでき、捕虜は無償で解放することも、捕虜交換で解放することも、身代金を取って解放することも、奴隷にすることも、処刑することもできるのであり、死は選択肢のうちの一つに過ぎない。そして、実際に、ISISは改宗もジズヤ人頭税支払いも拒否したキリスト教徒を、いきなり殺すことも捕虜にすることもなく、無償で「解放」し、傷つけることなくISISを立ち去らせている。このことからも分かる通り、
ISISはイスラーム法の運用においても決して極度に厳格主義的、教条主義的ではなく、ましてや憎悪に満ちた独善的な狂信者でもなければ、残酷無慈悲な血に飢えた殺人鬼集団でもない。アル=ラッカでアルメニア人とインタビューを行なって、その思いを強よめた。
インタビューが終わった後で、宗務担当者の車で市内を見学させてもらった。そこここに爆撃や自動車爆弾による自爆攻撃で破壊された家屋があるのが内戦を思い出させるとはいえ、商店街はそこそこ繁盛しており街には活気があるように見えた。
移民管理局に戻ると、ムジャーヒディーン全員に夕食が配られた。調理場を見学させてもらったが、大鍋を前にした炊事係はカタール人とインド人のムジャーヒディーンだった。さすがインド人、彼がつくった野菜カレーは絶品だった。
この夜は、寝床がない、ということでムジャーヒディーンの雑居房からも追い出され、移民管理局のモスクとして使われている広間の礼拝室の片隅に毛布を敷いて寝かされることになった。夜明け前になるとアザーン(礼拝の呼びかけ)が鳴り響き、ムジャーヒディーンたちが集まって来て集団礼拝が始り、その後も礼拝したい者が三々五々やって来る。プライバシーなど全くなく、着替えることもゆっくり眠ることもできはしない。まぁ、ムジャーヒディーンたちにとっては、雨露しのぐ屋根があるところで毛布にくるまって眠れるだけでも天国なのだろうが。
ちなみに、アル=ラッカは携帯電話回線はまったく繋がらない。ただし移民管理局にはインターネット回線があり、私もパスワードを教わり、一度だけネットに繋がせてもらい外部と通信することが出来た。
ジズヤ(人頭税)に関するインタビューも無事終えたので、翌日にはアル=ラッカを後にした。移民管理局の車で街を出ようとすると、検問で銃を持った覆面の男に呼び止められた。何を調べられるのか、と少し身構えたが、覆面の奥でにこっと笑って、チョコレートをくれた。5千円の月給で足りるのか、と尋ねた時に、「うーん、チョコレートを買うぐらいしかお金の使い道がない」と答えられたのはこういうことなのか、と納得したのだった。
帰り道はトルコ側の病院に連れて行くという赤ん坊を抱えた女性も同行していたので、楽なルートを通れるのかと期待したが、結局、トルコの国境警備隊の監視が厳しく、予定していたルートは通れず、結局来た道を帰ることになり、赤ん坊連れの女性は越境を断念しシリアに戻された。
トルコからシリアに入った同じ場所から、同行者3人とまた鉄条網をくぐって今度は夜遅くにトルコ領内に入った。しばらく叢を歩いていると、突然サーチライトに照らされた。事前の打ち合わせ通り、散開して逃げた。走れない私だけはその場に横になって、することもないのでツイッターで実況中継をしていた。その時の実況をTwilogから復元してみよう。
3月18日
トルコ観光旅行中銃を持った暴漢に襲われ友人たちとはぐれ草原に寝転び、呆然と空を眺めているなう
posted at 05:51:15 (日本とトルコで7時間の時差があるのでトルコ現地時間では17日22時51分15秒)
どうしたものか...
posted at 05:53:16
ああ、泥まみれ (T_T)
posted at 05:57:19
草原に泥まみれで一人寝転び空を眺めているなう。ともあれ、雨あまり降ってなくて、無視もいない季節で良かった。アルハムドリッラー。
posted at 06:02:14
田舎の夜は静かで声が遠くまで聞こえます。蛙と犬の声もします。まだ遠くで暴漢の声が聞こえるので暫く隠れています。トルコ観光中Tek tek daglari milli parki の近くで道に迷っています。
posted at 06:24:16
捕まって解放されたなう
posted at 07:54:12
"@masanorinaito: @HASSANKONAKATA ←大丈夫ですか?" 3時間畑の中を歩いて友人の友人の車に拾われたなう。アルハムドリッラー。
posted at 09:52:50
1時間余り銃声が鳴り止まぬ捕り物の末に全員が捕まってしまった。撃ってきたのは今回は国境警備隊ではなく村の自警団で、銃声は猟銃のものだった。
銃を突きつけられていろいろ尋問された。煎じ詰めると、どうやら我々が頼んでいた「逃がし屋」の運転手が余所者で、自分たちの村を通るのに何の挨拶もなく、余所者の逃がし屋だけが儲けて村に金が落ちないのが気にくわない、という話だったようだ。結局、私は所持金の約300ドルの現金を巻き上げられた上で、夜道に放り出され泥濘の田旗の中を2時間ほど歩いた末にようやく電話連絡がついたシリア人の友人の車に救出され、翌日疲労困憊して日本への帰路についたのだった。(続く)