2018年8月5日日曜日

東西の自然理解 - 環境・生命・倫理 ー イスラームの立場から

於:2018年8月5日 京都パレスサイドホテル 東西宗教交流学会

「東西の自然理解 - 環境・生命・倫理」 「イスラームの立場から

                        中田考(同志社大学客員教授)

1.現代のイスラーム世界でのディスコース
* 大量に「研究」あり。例えば、Dr.Derya Iner(Charles Sturt Univ.)「イスラームにおける環境倫理と生命倫理(Emvimental Ethics and Bioethics in Islam)」 https://www.isra.org.au/site/user-assets/docs/workshop-2a--beliefs-providing-moral-and-ethical-framework--islam.pdf
* 問題を考える手掛かりにならないことはないが、全く信用できない
* 現代西欧の同名の学問論文のフォーマット(環境倫理、生命倫理)にクルアーンやハディースなどの適当な文言を代入しただけ
* 重要なのは、ここのテキストの断片ではなく、伝統イスラーム学には「環境倫理」、「生命倫理」などとおう問題設定、学問分野が存在しなかったこと

2.現代イスラーム世界のディスコースの問題点
* 「西欧の世界支配の19世紀」のムスリム世界の植民地化
* 現在世界に存在する「宗教」は、リヴァイアサン(主権国家:権力)とマモン(富:金)の配偶神に隷属する偶像崇拝(「拝金教」by和田秀樹)のみ
* 自称ムスリムたちも実際に崇拝しているのは、神ではなく国家。好例がハラール認証。

3.イスラームの合法秩序
* カリフ制 vs  領域国民国家システム
* 金本位制 vs 不換紙幣 
 法人国家と紙幣 = どちらも実体のない、名前、記号 = 偶像

4.イスラームの二元論的世界観
* 純粋一神教 = 二元論(神=創造主 vs 世界=被造物)
* 「イスラームは現世(ドンヤー)と来世(アーヒラ) or現世と宗教(ディーン)」
* 広義のイスラーム = 現世と来世 = 世界のあり方の全て
* 狭義のイスラーム ≒ 宗教=来世 (現世と来世の二元論→イスラーム的「政教」分離)

5.イスラームのアニムズム的世界観
* 森羅万象がそれぞれの原語で神を称える
「7つの天と大地、またその間にある凡てのものは、かれを讃える。何ものも、かれを讃えて唱念しないものはない。だがあなたがたは、それらが如何に唱念しているかを理解しない。…」(クルアーン17章44節)
* 身体部位も全て意識を持つ
「その日(最後の審判)、アッラーの敵は集められ、火獄への列に連らなる。かれらが(審判の席)に来ると、その耳や目や皮膚は、かれらの行ってきたことを、かれらの意に背いて証言する。するとかれらは、(自分の)皮膚に向かって言う。「あなたがたは何故わたしたちに背いて、証言をするのですか。」それらは(答えて)「凡てのものに語らせられるようにされたアッラーが、わたしたちに語らせられます。かれは最初にあなたがたを創り、そしてかれの御許に帰らせられます。」と言う。(41章19‐21節)

6.死体を傷つけることの禁止
「死体の骨を折ることは生者の骨を折るに等しい」(イブン・マージャ、アブー・ダーウードのハディース[預言者ムハンマドの言葉]集成)イブン・アブドルバッル(マーリキー派法学者1071年没)注釈「死者も生者と同じように苦しむ」

7.世界の無時間性
* 世界は全て神の永遠の知の中に恒存
* 来世も神の視点からは現存

2018年6月16日土曜日

俺の妹がカリフなわけがない! 【エピソード0】

俺の妹がカリフなわけがない!


إذا رأيتم الرايات السود قد جائت من قبل المشرق فأتوه فإن فيها خليفة الله المهدي

若見黑旗來自東方 汝等即往 彼有訶黎佛都羅 乃天導者也




【エピソード0】
世界制覇を公約に掲げて生徒会長に当選した俺の妹が「生徒会長」を「カリフ」に改称した。俺の妹がカリフなわけがない!男性であることは、カリフ有資格者の10条件の一つだ!!





「カリフになれ」
小さくつぶやかれた言葉が、耳に残る。あれはまだ俺と双子の妹愛紗が四歳にも満たなかった頃。
「お兄しゃま、かりふとはなんでしょう」
「エラい人のことだぞ、きっと。長官よりもエラいんだぞ」
あの頃の俺には、幼児向け特撮戦隊モノの長官が、誰より偉い人に見えていたんだと思う。祖父の今際の枕元でそんな会話をする俺たち兄妹に、父夢眠は無言だった。
「垂葉、愛紗……天馬家の使命を受け継ぐ子どもたち」
俺たちの頭をゆっくりと撫で、そうして祖父は静かに息を引き取ったのだ。



君府学院は、俺たち兄妹の祖父天馬真筆のさらに祖父天馬真人が設立した、中等部・高等部を持ち、全寮制の、完全学費無料の学校で、自由と正義を実現する人材を創るという理念を掲げている。
でも、完全学費無料で全寮制とか、無理があるに決まっている。普通に考えてどうやって経営するんだ?と思うだろう?俺だってそう思う。
それでも祖父の代までは苦しいながらも頑張っていたようだ。しかし、それも父が経営破綻させて、世界的大企業、石造財閥に譲り渡すことになるのは、祖父の死後あっという間だった。
少人数教育、徳育重視で大アジア主義に基づき、外国語として中国語、アラビア語、トルコ語、ペルシャ語が学べるという風変りな学校だったが、経営破綻した学院をグローバル・エリートを養成する受験名門校へと生まれ変わらせたのが石造財閥の長、石造高遠新理事長だ。
新たにクラスは成績順に分けられ、石造理事長が建てた新校舎に上位クラスを移動させ、中でもプラチナクラスの教室は高遠の徹底したエリート主義、能力主義、信賞必罰の教育方針に基づいて、生徒一人一人の椅子も飛行機のファーストクラス並みの快適さだ……と学院パンフレットには書いてある。
そうして、学院近くの邸宅をも追われ、学院の経営からも身を引いた父は、石造財閥当主の恩情というか、俺は絶対に嫌がらせだと思うんだが、用務員兼雑用として小さな部屋を与えられ、俺たち兄妹もそのまま君府学院に通うことが許されたんだ。



あれから10年、成績順に別れたクラスに、やはり成績順、男女別に分けられた寮へと別れ住むことになった愛紗と顔を合わせることはほとんどない。
「は?愛紗が生徒会長に立候補?え、あり得ないだろ?」
成績最下位クラスのブロンズクラスが定席の俺と違って、愛紗は入学以来常に学年トップを走り続けているし、成績だけで言えば不思議でもなんでもないんだが。
「だって……誰が愛紗になんか入れるんだ?」
俺は生徒会役員選挙告示の前で、本気で首を捻った。
確かに愛紗は成績もいいし、アラブの血が混ざっていると言われれば納得するくらいには、彫りも深く大きな目に小さな頭、整った顔立ちをしている。美人と言って差し支えないと思う。まっすぐに伸びた背中、凜とした立ち姿は彼女が武道を嗜んでいるからだろうか。
だが、いかんせん愛紗の無愛想さは常軌を逸したレベルだ。喜怒哀楽という人間らしい感情を持っていないんじゃないかとすら思わせる。それに生真面目で一切の妥協を許さないという性格だから、友だちらしい友だちはいないはず……いや、愛紗と2人だけの武術部で鍛錬している新免衣織だけは、もしかしたら愛紗の親友と言えるかも知れない。
「親友っていうより、信奉者ぽいけどな」
思わず苦笑が漏れる。高校一年で剣道の全日本大会を征した、剣術二天一流の達人である衣織と、手裏剣術の愛紗。幼い頃から二天一流の継承者として育てられ、武道一筋で浮き世離れした言動で、同級生たちから敬遠されていた衣織に、愛紗だけが生真面目に相手をして、決して笑うことがなかった。そのせいか、衣織は愛紗の信奉者とも言えるほどに、愛紗を慕っているようだ。
「まぁ、でも愛紗が生徒会長とか……普通にあり得ないだろ」
そう、その時は俺もそう思っていた。
生徒会長立候補者は2人。多少美人でも無愛想で、口を開けばウエメセで人をバカにしたような話し方しかできない愛紗には人望とうものが決定的に欠けている。その上愛紗の対立候補・石造無碍は、父のあと理事長になった石造財閥当主の御曹司で、愛紗と同じプラチナクラス、つまり成績トップのクラスで、演劇部部長、さらにテニス部にも在籍しエースでもある、という絵に描いたような王子様だ。
しかもその王子様は学院の広告塔とも言える、子役からのアイドル藤田波瑠哉を筆頭に、見目麗しい男女のお取り巻きを引き連れているのだ。
「だいたい、なんで生徒会長になんかなりたいんだ?愛紗のヤツ」
双子には以心伝心がある、なんて漫画の世界のことだ。俺には妹の考えていることがまったく、これっぽっちも理解できない。
実際、チラホラと聞こえてくる下馬評も圧倒的に無碍有利だったんだ。
そう、その日生徒会総選挙の立候補者演説で、少なくとも無碍の挨拶が終わるまでは、確実に。
「私たちは、神に自由な人間として創造されました。私はこの学院の創立者の掲げた理念に則り、自由と正義に基づく地球の解放の前衛とするために、地上における神の代理人、神の預言者の後継者、カリフとして、生徒会長に立候補します」
壇上の愛紗は声を張り上げるでもなく、淡々とそう言うと言葉を切った。
ざわざわと生徒達の声が広がる。
「なに、あれ?マジで言ってるの?」
「中二病?でもオレらもう高校生だよな」
「あの人、学年トップの天才じゃなかったの?」
戸惑いよりも嘲笑の声が多いのも当然だろう。
応援演説のために衣織が愛紗に近寄っても、ざわついた講堂は静かにならない。
「私たちは生徒会のために、この身と命を捧げます」
愛紗の前に膝を折った衣織が、腰に佩いた長刀を一閃する。
左腕を真っ直ぐに伸ばしていた愛紗は身動ぎもしなかった。
「きゃーーーーー!」
女生徒の悲鳴があがる。
「きゅっ救急車を!!」
「な、なんてことを……」
阿鼻叫喚と化した講堂で、壇上の2人だけが静かだった。
自分が切り落とした愛紗の左腕をそっと持ち上げた衣織が、愛紗に付き従う。
「大丈夫です。救急車は事前に呼んであります。剣の達人に名工の鍛えた刀で切られた者は、切られたことに気づかないと言います。筋肉繊維も神経も骨組織も壊さず切り落とした腕は直ぐに縫合すれば元通りになるはずです。私たちには神のご加護があるのです」
さすがにこの度肝を抜くパフォーマンスの後で、生徒会選挙はいったん中止になった……はずだった。
翌日、愛紗が自らの言葉通り、なんでもない顔をして登校してくるまでは。
立候補者演説、応援演説とも終了していたため、日を改めて行われた投票は、下馬評をひっくり返して、圧倒的多数により、愛紗が当選してしまったのだ。
「いや、まぁ生徒会長になろうと、なんだっていいけどさ」
双子の兄妹として産まれながら、片や成績トップの生徒会長様、片や万年最下位クラスの俺としては、やっぱり少し面白くないっていうか……。
そんな俺の前で生徒会長就任挨拶のために再び壇上に上がった愛紗が淡々とした表情のまま、口を開いた。
「皆さんの信託に基づき、私、天馬愛紗は生徒会を自由と正義に基づく解放の礎とすべく、最初の仕事として、生徒会長をカリフと改称致します」
「ちょっと待てーーーーっ!」
俺は思わず起ち上がって叫んでいた。
「それ、おかしいだろう?なんだってたかが一私立学校の生徒会長がカリフなんだよ、だ、第一高校生が真剣を持ち歩いてるとかあり得ないだろうがっっ」
「はぁ、もう少し静かに、論理的に話せないのですか?衣織が腰に差しているのは、新免家に代々伝わる銘刀《姥捨て》と《過労死》、本阿弥光悦が研いだ逸品で重要文化財に指定された美術品です。丁重に取り扱えば何の問題はありません。」
「いや大問題だろ~、いきなり人の腕を切り落とすのは!」
 「あれは古来より伝わる刀の切れ味の鑑定法、試し斬りです。校医のドクター和田も、さすが重要文化財、見事な切れ味、と感心していました」
「あのマッドサイエンティスト、ってか、校内で手術済ませたのか?」
「我らが君府学院の保健室は創立以来救急病院の指定を受けているのです」
「ウソだろぅ…いや……だから、そうじゃなくて、カリフ制なんて、とっくの昔に廃止されてるだろう」
俺だって祖父さんの死後、ちょっとは気になってカリフについて勉強したんだ。
「トルコ共和国でカリフ制度が廃止されたのは一九二四年でしたね」
「あ、ああ、そうだ。なのに……」
「しかし、そもそもカリフ制はトルコ共和国が作ったものではありません。従ってトルコ共和国によって廃止されることもありません。世界はお兄様がネットを覗いて想像していらっしゃるよりもずっと複雑で奥深いものなのです」
「……あっ、うっ」
「では、まだ少し貧血気味ですので、カリフ就任挨拶はここまででよろしいですね?」
これが、俺の妹、天馬愛紗がカリフに就任した瞬間だった……わけがない!生徒会長とカリフが一緒にされていいわけがない!俺の妹がカリフなわけがない!

2017年12月17日日曜日

第二部理論枠組:漸進戦略と圏域政治 第1章 地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ Ⅰ. 空間把握、地理認識と地図

第二部理論枠組:漸進戦略と圏域政治

第1章
地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ
1. 空間把握、地理認識と地図
 フェルナン・ブローデルは『文明史』冒頭の文章において、地理学の文明形成におけるオリジナルな貢献をイスラーム文明の例として示すために、「地図は真の物語を知らしめる」と言う 。実のところ、個人であれ、その個人からなる社会であれ、より大きい尺度の文明の集合であれ、それを支える一番の基礎は、「文明の自己認識」 となる実存意識に対応する空間-時間把握である。
 強大な文明が飛躍していくのを先導しその文明の裾野の周辺にある種の秩序を形成する社会は、歴史の舞台に登場した時点から、その影響力によってその歴史の舞台を形作り始める時期の間に、それ自身の故地から世界を認知していく。より単純な地理的環境把握からより複雑な世界把握へと直接的に発展するこの意識は、地図の上に最も具体的な形をとって現われる。戦略思考の形成に関して既に述べたように、地理学は客観的な現実であるが、地図はこの客観的現実の文明的認識過程を経た主観的形態である。天文学が科学の中心を占めた存在認識によっていくつもの文明を作り上げたバビロニア人は天空の物質との関連において地表における空間認識を構築し、イラン人は世界を互いに平等な7つの円から成る7つの領域(国)へ分け、自分達の空間を4番目の中心の円に配置した後に他の6つの円を互いに接する形でこの中心の円の周囲に配置した。
 地理に関する最初の系統立った知識は、一方ではエジプトを超えて、他方ではベロッススの現ボドルム湾の端にあるコス島(スタナコ、あるいはスタンチオ、[トルコ語名]イスタンキョイ)において紀元前640年代に設立された学校によりバビロン的知識を手中にしたギリシャ人の地理認識も、自己の文明圏を広げたことで包括的な形を採ったエーゲ海中心の認識である。世界を周囲を大洋に囲まれた平坦な円盤として認識したホメロスの世界観はギリシャの空間認識の限界をも描き出していた。世界を円柱の底面として描いたミレトスのアナクシメネス(紀元前500年代)も同様にギリシャ都市国家群の影響圏が拡散する地域をそのまま広げ続けていくという認識だった。この認識はシチリア島からカスピ海にまで達する一つの世界を思い描いていた。
 マケドニアから出発し、東へと伸びる古代文明圏を影響下に組み込んだ(多文化他宗教)混淆的な帝国を樹立したアレクサンドロス大王によって、こうした空間認識とその認識を基にした地図も変化した。 マケドニアからメソポタミア、インドとエジプトへと伸びた帝国に自分の名前を冠した都市(アレキサンドリア)の建設を戦略の支柱に据えたアレキサンダー大王は、自分自身を文明のジンテーゼの地理把握とその(空間)把握の中心概念の具象化としたのである。世界と地理の把握は、アレキサンダー大王の非常に戦略的な決定によって古代エジプト、地中海、メソポタミアの「肥沃な三日月地帯」に建設したアレキサンドリアから始まり、アレキサンダーによってメソポタミア、イラン、インドに相次いで作られたアレキサンドリアの名に由来する都市によって普及していったのである。この認識の学問的下部構造と地図測量学上の実質的な具体化もまたアレキサンドリアによって形を取った。人類のその時代までの知的遺産の蓄積が詰まったこの都市(アレキサンドリア)は、最初の地理基準(経緯度)を作ったエラトステネス(天文学者、数学者、前194年没)は、地理の認識と地図測量学に重要な新しい道を開いたストラボン(地理学者、前23年没)と、最も重要な古典的世界観形成において中心的な役割を演じたプトレマイオス(天文学者、168年没)の仕事の苗床を準備した。これらの仕事の元になった地図がアレキサンダー大王の支配領域の包摂と、その結果としてイランとインドをも地理的認識がその位置づけることになったことは、文明圏と政治的支配の関係を明瞭に示している。
 イタリヤ中部の都市国家という自己理解によって生まれたローマも拡大するにつれて、自己を中心とする空間把握を支配領域に広めていった。古典的地図において「Mare Interum(中海)」と呼ばれた地中海はローマ人にとって「Mare Nostrum(我らの海)」であった。西欧からメソポタミアへ黒海から地中海へ広がり(ローマ)帝国の戦略的脊柱を成す幹線道路は、そのネットワークにおいて「全ての道はローマに通ずる」という格言によって空間把握の中心として具体的に認識されていたのである。
 キリスト教によって変化した空間把握と地理意識の格好の例もまたアレキサンドリア出身の6世紀の人コスマス・インディコプレウステス(地理学者、没年不明)であった。古典的に知られていた地域を超えて、エチオピア、インド洋、スリランカまで旅し、キリスト教に入信して後に『キリスト教地誌』を著したコスマスの主たる目的は、聖書とキリスト教正統信仰に適合した空間認識を地理学の形式で表現することであった。世界はその時代のものとノアの洪水以前のものとの二つの部分であり、地中海と、イラン、アラブ、カスピの海と湾からなると述べるコスマスは、地表は海で囲まれており、そしてこれらの海の向こうに(Terra ultra Oceanum,海上の陸)人類が洪水の前に住んでいた地域とアダムの楽園があると主張した。
 世界は四方に東はインド人、西はケルト人、北はスキタイ人、南はエチオピア人がいると述べるコスマスは、この説明によって、一方でキリスト教の世界観に適合した空間把握、他方で、キリスト教世界を中心とする地理的認識の限界を明らかにした。 この中心を受容をこのように前に持ってこられたことで、アジアの遠くムスリムを破ってキリスト教世界を護るプレスター(司祭)ジョンと名乗る聖王が治める(キリスト教)王国があるとの伝説が出来上がった。教皇アレクサンデル3世(在位1159-81年)は1177年にこの伝説的な王に自らの書簡を託した博士を遣わせた。しかしその教学博士の使節は帰ってこず、ムスリムに敵対するモンゴル王との接触を望んだ教皇インノケンチウス世(在位1198-1226年)が派遣したドミニコ会とフランシスコ会の修道士たちが極東(元朝)に旅した後には、そのような王国が存在しないことが判明した。同じ時期にゴグとマゴグの概念をめぐって紡ぎあげられた議論は、伝説、歴史、地理の知識がいかに入り込んでいるかを示す例に満ちている。しかし、これらはみな内側から見られた連続的な要素であるが、古代ギリシャからローマとキリスト教を経た後で、植民地主義の文化に中でも「私と他者」の区別として近代地理学の認識の形をとって受け継がれた。
 イスラーム文明の歴史の舞台への登場も、ブローデルが強調したように独自の地理的諸条件に直接的に関わっていた。古代の文明圏の周辺地帯に現れたイスラームは、アレキサンダー大王の時代に生まれその後に広がった諸文明が影響しあう領域の全てを支配下におさめ、スペインからインド、中国文明圏にまで広がる地域に新しい空間認識が生まれるための土台を用意した。
 初期のイスラームの地誌学者たちは、プトレマイオスの伝統の中で(アッバース朝)カリフ・マァムーン(在位813-833年)に献呈された最初の世界地図であったようにプトレマイオスの伝統を大きく進歩させる一方で、他方でバルフ学派の中でイスラーム世界を中心とする新しい空間認識を反映し全く独自の進歩を遂げた。学派の創始者の(アブー・イスハーク・イブラーヒーム)バルヒーは『イスラームの国(Mamlakah Islam) 』の諸地域を扱った地図を作り、すべての地域に地帯の名前を与えた。この学派の重要な代表者の一人マクディスィーは地中海中心の古典的地誌学を超えて、インド洋志向の重要な作品に数えられるが、それまで未知であった地域を加えた地図を作り上げた。バルヒー学派のマッカを中心とする円形の世界の地図を発展させたこと、南北差の再定義は諸文明の「自己認識」から出発して地理的認識を発展させたことの重要な例の一つである。ビールーニーの最初の大西洋とインド洋の間の繋がりを示した地図を発展させたことは、イスラーム文明が広まった地域と空間把握の間の関係を示すこと、後のヨーロッパの旅行者たちによって発展させられた新しい地理学の理解の最初の先触れであるとの点で重要である。
 社会が中心の周辺での空間把握を発展させたもう一つの好例はトルコの地誌学である。1072年と1074年の間に書かれた『トルコ語辞典(Diwan Lughah al-Turk )』の著者マフムード・カシュガリーがトルコ語の方言の分布に則って描いた世界地図はべラサグン市を中心としてなされ、7つの川の地域がトルコ系諸部族民の定住地として識別されている。ユーラシアの遠方にあるベルサグンから、すべての古代文明が交差する地域にあるイスタンブールのオスマン帝国の時代の地誌に至る時間は、
空間把握の変化、文明の進化、世界秩序の概念の関係を明白な形で生み出した。
 1413年にアフマド・スライマーン・タンジーが作った黒海と大西洋の東岸のヨーロッパとアフリカ沿岸、イギリス(ブリテン)諸島を描いた海図は、同時に空間の地平の早い時代の反映とみなされる。オスマン帝国の地誌学の奇跡の最高峰ピール・ライースの地図は、アレキサンダー大王の文明のジンテーゼの引力圏の古代の全ての遺産がアレキサンドリアで統合されたのと同じことがオスマン帝国の黄金時代のイスタンブールでもなされたことを示している。1567年のマジャール・アリー総督の地図とほとんど同じ時期に発展させられたフマーユーン地図が含む(1)黒海とマルマラ海、(2)東地中海とエーゲ海、(3)中央地中海とアドリア海、(4)西地中海とスペイン、(5)西欧の大西洋岸とイギリス諸島、(6)エーゲ海、(7)モレアス専制公領と南イタリヤ、(8)世界、(9)ヨーロッパと北アフリカ、という9つの地域からなる地図の内容もオスマン帝国の権威がいきわたった領域をカバーしており、古代の地図の伝統を超えた豊富な内容を有する独自なものとなっている。
地球全体の認識を可能にした「地理上の発見」、資本主義の前段階である重商主義、明確な国境の中で組織化される国民国家という現象は、ヨーロッパの(国際政治)秩序の礎石を成すウエストファリア体制が次第に整っていく過程における近代西洋文明の空間認識と経済、政治認識の間の密接な関係を明るみに出す。ヨーロッパを上の中心に置くヨーロッパ中心の世界地図は、ヨーロッパ中心の商業システムとヨーロッパ型の国家形成の広まりと並行して発展したのである。

2017年11月12日日曜日

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨
2017年11月11日 イベントバー・エデン     
 中田考(同志社大学客員教授)

1.「フトゥーワ」
「フルースィーヤ馬術」≒「ムルーアおとこらしさ」≒「フトゥーワ若々しさ」
騎手、男性、若者という特定の集団に特有の気質、倫理、理想像などを表す語になった。
イブン・カイイム(1350年没)『ムハンマドのフルースィーヤ(騎士道)』(注)
「フルースィーヤと勇敢さには二種類ある。最も完全なものは宗教と信仰の持ち主のものであり、もう一つは全ての勇者に共通するものである。本書はムハンマドのシャリーアに適った騎士道について纏めたものであるが、それは心と身体を共に捧げる最高の崇拝の形態であり、その徒を慈悲深き御方(アッラー)のための戦いに駆り立て、楽園の最上階に導くのである」
2.スラミー
アブドゥッラフマーン・スラミー(1021年没)
ニーシャープールで活躍した高名なハディース学者であり、イスラーム思想史上初めてスーフィーの立場からクルアーンの注釈書を書いた。多くの弟子を育てたが、中でも有名なのは同じニーシャープール出身の古典教科書『クシャイリーの書簡』の著者クシャイリー。
3.スーフィズムとは
スラミー『スーフィズムについての序論』
「(スーフィズムの要件)現世における禁欲、念神(ズィクル)と崇拝の励行、人々に依存しないこと、僅かな飲食や衣服で満足すること、貧しい者たちの世話、煩悩の滅却、勤行(ムジャーハダ)、謙抑(ワラウ)、常に志を高くもつこと、最小限しか食べず必要なことだけを話し睡魔に襲われた時だけ眠ること、自己反省、被造物(人間)から遠ざかり疎遠になること、導師たち(マシャーイフ)の拝顔、モスクで時間を過ごすこと、粗衣の着用」

(注)勇気は人間の性格の中の高貴な性格の一つであり、以下の四つの形で結実する。(1)果敢であるべきところでの果敢さ、(2)自重すべきところでの自重、(3)堅忍であるべきところでの堅忍、(4)転身すべきところでの転身。その逆は勇気の瑕疵であるが、それは臆病、無分別、軽薄、放心である。そして見識と勇気を兼ね備えた男こそが、軍隊を率い戦事行政を行うことができるのである。人には、「男」、「半人前」、「なにものでもない者」の三種がある。「男」とは正しい見識と勇気を兼備した者である。・・・「半人前の男」とは、二つのうちの一つを有するが他方を持たない者であり、「なにものでもない者」とは、どちらも欠く者である。・・・    ムジャーヒド(聖戦士)には5つの特質がある。どんな軍であれそれらが揃えば、相手の多寡にかかわらず、神佑に恵まれずにはいない。第1:堅忍不抜。第2:至高なるアッラーを多く念ずること。第3:アッラーと、アッラーの使徒への服従。第4:合意があり、失敗と弱体化を招く内紛がないこと。第5:その全ての要、支、そして基礎であるもの、即ち忍耐である。これら5つの上に勝利のドームが建てられる。

2017年11月2日木曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 2章 2節 3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識


3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識
 戦略理論の欠如の重要な要素の一つは、心理的不安定の原因となるアイデンティティーと歴史意識の間の矛盾とその矛盾が戦略思想に与える影響である。既に心理学の古典となったレインの『引き裂かれた自己』がこの問題を解明する出発点になる。自我の分裂に道を開く心理的危機を究明するこの作品は、心理学以外にも利用できる多種多様な分野における危機を分析する重要な概念と方法論の道具立てを提供している。特にレインが明らかにした実存的安心と自我の関係と、「具体化された(embodied)自我」と「具体化されない(unembodied自我」を区別することで立証したクリティカルな領域、とりわけ政治の領域における多くの問題に関する我々の理解を容易にしてくれる。
 レインは、心理学的危機の根本には、個人の実存とその自我の結びつ断絶が見出されると述べ、そしてその断絶が不可避的に自我の分裂をもたらすことを解明した。自己の実存を疎外する人物は、やがて、自我の諸要素の統合性を失う一方で、他者に対しては自己を統合的に見せかける虚偽自我(false-self)の像を作り出す。内的自己(Inner self)と外的自己(embodied self)の間に裂け目が開かれると、危機は深刻化し、自分自身と外部環境の双方との間で発生する危機の迷路に入り込んでしまう。
 トルコで起きている多面的な危機もまた、内的自己と外的自己の間の分裂の所産とみなされる。共同体のレベルで、個人の実存に対応するものが、その歴史と地理の次元である。共同体が歴史と地理の次元で自己疎外を起こすと、個人が自己疎外を起こして、虚偽自我に陥るのと似ている。周知のように小学校から歴史と地理の教育に多くの時間が割かれているにもかかわらず、我々は一種の没歴史化の時代を生きている。記念日や祭日を祝うことは我々の歴史の知識を強化する代わりに、超歴史的分野への方向性に道を開いている。1998年にはトルコ共和国建国75周年、1999年にはオスマン帝国建国500周年が祝われた。しかし共和国の10周年行進曲やオスマン帝国のトルコ行進曲(mehter)は、メタ歴史的レベルでの認識を超えて、今日まで連なる我々のアイデンティティーのさまざまな全ての要素を統合する個人アイデンティティー意識と社会的全体性によって、我々は表現することができるだろうか?
 伝統の諸要素を受け入れずに、我々のアイデンティティーを偽装すれば、その対極をもたらすことになる。そして内的自己からかけ離れた虚偽自我に続き、隣接する別人たちと同一化しするうちに、ついには、「他者」、敵さえも生み出すことになる。我々の聖なるシンボルのためには戦いも辞さず、引き裂かれた自己の裂け目を埋めようとするが、歴史と地理の次元のすべてを断ち切った新たな引き裂かれた自我を生み出したことには気付くことができない。
 内的自己と外的自己の間の裂け目を覆い隠すために、安っぽい勝利に酔い、同じように安っぽい退廃に陥る。我々はサッカーの試合でのトルコの勝利に10周年行進曲に熱狂し、フィンランドに負けたことを審判の贔屓のせいにしている。それゆえ、自分たちの成功を訓練された努力の成果とみなすことも、失敗から学ぶこともできず、事実ではなく事実を超えた心理に目を向け、個人のレベルでの問題においてと同じように、自分たちの実存、つまり歴史を疎外し、また自分たちの環境、つまり地理的次元も断絶するのである。
 歴史の記憶と意識が弱い共同体は、その歴史に実存を記銘することが非常にむつかしい。歴史の方向を決める場合、主体的で活動的な共同体と、歴史の成り行きまかせの主体性を欠く受動的な共同体の間の極めて重要な違いもまた歴史的認識の型である。
 歴史の意識と記憶が深い共同体は、思いがけない勝利に浮かれることも、敗北主義に陥ることもない。歴史経験から得た情報と現実の力の配置の間に、戦略的合理性と予想に基づく有意味な関係を構築し、慎重に未来図を描くのである。歴史の意識と記憶が弱く受け身で主体性がない共同体は、取り残されるか、取るに足らない成功に酔ったり些細な失敗に落ち込んだりを繰り返す心の弱さから、戦略的決定を下すことができなくなる。それゆえいつも浮沈を経験しするが、成功も失敗も他人次第なのである。
 この観点から見ると、さかんに議題にのぼったセーブル条約の共和国建国75周年記念とオスマン帝国建国700年記念が重なったことは意味のある一致である。セーブル条約はオスマン帝国とトルコ共和国の間の「狭い海峡」である。この「狭い海峡」を我々が生き、乗り越えてきた。しかし生きてきたということは、我々がその間ずっとこの「狭い海峡」の恐怖の中で生きてきたということではなく、またこの「海峡」を乗り越えるにもずっと勝利の思い出に浸っている必要はない。
 フランス人は今日の存在を続け、戦略的計画を立てるのに、ナポレオンの勝利をずっと思い起こして勝利に酔い痴れているわけでもなければ、ナポレオンの敗北の後のフランス人の命運を握ったウィーン会議の成り行きをいつまでも気に病んでいるわけでもない。同様にドイツ人も、ビズマルクとヴィルヘルム2世によるドイツのアイデンティティーと統一を実現した帝国的勝利が今もドイツの戦略的言説の中心をなしているわけではなく、またセーブル条約が我々を陥れた「狭い海峡」にも似た「狭い海峡」に陥れたヴェルサイユ条約を、自分たちの頭上でずっと揺れているデモクレスの剣のように見なし続けているわけではない。もっと近い過去の例を取るなら、ヒットラーの華々しい軍事的勝利と、その勝利の後の全世界にドイツ民族を軽蔑させ、破壊し、呪わせた敗北を共に経験したアデナウアー、シュミット、コールのようなドイツの指導者たちが、このような勝利-敗北の振り子の不可避の振幅に一喜一憂していたなら、はたしてドイツは今日、歴史の舞台の上、歴史の流れの中で、再び重きをなす国となることができたであろうか。
 戦略意識は歴史に、戦略計画立案はその時点でのリアリティーに基づかなければならない。
我々にとってのセーブル条約の記憶と認識は、それに至る過程における我々の問題点を視野に収めた分析によって、評価を下すことができるなら、意味あるものとなる。しかし逆に我々を金縛りにし自己弁護に終始させるような心的トラウマに突き動かされていては、前に進むことはできず、新しいセーブル条約への道を開くことになるのである。物事を歴史の流れの中において見ることができるほど、我々は弱点を克服することができる。
 グローバルな、あるいは地域的な野心を持つ国家はしばしば何世紀にもわたる歴史的、地理的、文化的な土台である定数に根差していればいるほど、繰り返しダイナミックに解釈されうる長期的なビジョンを有する戦略思考に基づいた未来志向の戦略計画を立てることができる。対外的な脅威の認識については、長期的な戦略を短期的な戦術に落とし込むことができ19世紀には「太陽が沈むことがない」帝国となったイギリスには長期的で野心的な戦略があったが、力をつけた大国となったドイツがこの(イギリスの)戦略に挑戦する脅威として認識された。第二次世界大戦後、グローバルで野心的なアメリカの戦略が練り上げられたが、ソ連の脅威がこの戦略を妨げる脅威として認識されることで戦術が査定され決められた。日本には太平洋戦略、ドイツには7B(ベルリン-ブダペスト-ベルグラト-ビュクレシュ-ボアズラル-バグダト-ボンベイ)ユーラシア戦略があったが、ドイツも日本も何世紀にもわたるその遠大で野心的な戦略には短期的な脅威の認識が欠けてはいなかった。手段は変わっても、戦略の基本と優先事項は不変なのである。
 野心のある国家はその戦略に従って脅威を認識するが、主体性がなく受け身の国家は脅威の認識に左右され近視眼的な戦略を立てる。国家は、理由が何であれ、内部矛盾こそが戦略の基本であると明言している限り、その国が二度と弱体化することはありえない。
 他の国の経験からこの問題を自問すれば、この問題をより明らかに理解することができる。IRAの存在の脅威は、少なくとも3世紀にわたって、イギリスの国家戦略、軍事戦略の認識を規定してきたのではなかったか。オクラホマ連邦政府ビル爆破事件(1995年)を起こしたキリスト教原理主義白人優越主義民兵の存在を理由に、グローバルなアメリカの国家的、軍事的戦略がこの民兵たちによって再構築される必要があると言う戦略家が、アメリカでいかなる戦略研究機関に就職できるだろうか?冷戦期にドイツで活動的であった極左テロ組織は、ドイツの東西戦略の中でどう位置付けられていたのか?あるいは国家の内部矛盾を基本的な戦略の優先事項とみなしているようなら、影響力のある戦略を実効に移すことができる野心的な大国の一つになることができるだろうか?わかりやすく、我が国の歴史を例に取ろう。16世紀の「オスマン帝国の時代」を作ったオスマン帝国の大陸と海洋の戦略はこの世紀に広まった「ジェラーリーの乱」を基本とする土台で組織化されるなら、オスマン帝国のこの政界での秩序を作る主張である「世界秩序(Nizam-ı Âlem)」構想など、笑うべき非現実的なレトリック以上のものであったであろうか?
 この国の戦略を単なる一極の外敵脅威とみなす視野狭窄は、内的脅威によって認識するなら、仮想敵国を利する弱点となる。ポスト冷戦期の歴史的地理的深みを有するダイナミックなトルコの戦略の定義と実行が必要な時代に、制度的、歴史的、心理的要素によって、トルコの内部矛盾による衰退過程を説明することは、トルコ民族の全ての力を動員する共通戦略構築に対する最も深刻な障害となるのである。

2017年10月19日木曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 2章 2節 2.歴史的背景

2.歴史的背景
 このグローバルなアプローチと戦略理論の欠如の制度的弱点を生んだより深い原因は歴史的体験の蓄積の中に求められなければならない。それは歴史的体験の最も顕著な特徴の一つであるオスマン‐トルコ帝国の対外政策の伝統の帝国主義‐植民地主義的戦略を実施していないことの中に見出すことができる。 
 大国が古典的国家戦略を発展させた19世紀は、植民地の世紀だったが、この19世紀のオスマン帝国にとっての懸案は、国家の一体性の維持とこれ以上の土の喪失を防ぐことに他ならなかった。そしてこれが、国境の内部だけに限定した防衛戦略という現状維持のアプローチがやがて対外政策の慣行となるに至る端緒となったのである。大国はこの理論枠組に則った戦略に従い、国境の内側に留まり、その新しい均衡の維持に努めることになった。
 このように失われた全ての部分の後に手に残ったものが守られたことに不安、混乱、恐れ、の中に居れられた、それで国境を超えた領域との関連は切断される。トルコ行進曲の「敵から故地へ」のリフレインのノスタルジックなメロディーの両極の戦略の間で選択がなされる。絶対的な支配か、絶対的な放棄か、となり、支配権が失われた土地は直ちに放棄される一方、新しい国境は死に物狂いで防衛するようになったのである。それが、絶対的な支配と絶対的な放棄の中間の影響領域を作り上げたり、国境を国境を超えた外交によって守ったり、戦略によって同盟したり、放棄せざるをえない領土は自己の戦略に近い政治エリートに委ねたり、大国の間の紛争を利用しながら戦術的可動域を確保するような中間的戦術の余地をなくしてしまう。
 これ、オスマン帝国の衰退期の重要な例外の一つであるアブデュルハミト2世が模索した植民地政策である。アブデュルハミト2世の植民政策は(世界の)ムスリムたちに国境を超えて影響し、列強のオスマン帝国に対する浸食政策を一定程度防ぎ遅らせることができた。この理由で、アブデュルハミト2世の33年間には、93回の戦争があった他には、深刻な領土の喪失はなかったが、この中間的を放棄し、「絶対的な支配権か絶対的な放棄」政策を復活した「統一と進歩委員会(青年トルコ党)」の治世に、オスマン帝国は、大国としての存在を、とりわけその最後の支えであったバルカン-中東中軸を、わずかな間に失ったのである。
 この両極端の間の行きつ戻りつは、その結果として、オスマン-トルコ帝国の対外政策の伝統であったグローバルな戦略的地平を狭め、戦術的選択肢を減らし、近い地域に対する影響力を失い、内政における矛盾を外敵の脅威に転嫁する悪循環に陥った。尚、重要性は、対外政策の必要性、と国内政治文化の間の調和的各種多様を実現させない。それゆえ、国内政治で支配的になったイデオロギー的言説とプラグマティズムが、対外政策の必要性を棚上げしたのである。
 件のオスマン-トルコ帝国の19世紀における対外政策によって例証することができる。この時期のバルカン諸国、カフカース、中東の政治は、絶対的な支配権と絶対的な放棄の間に挟まれたこの戦術の不毛性の好例である。例えば、バルカン諸国を放棄してから後は、オスマン-トルコ帝国の対外政策の伝統におけるこの地域に対する関係は、絶対的放棄の特徴に数えられえる移民に限られることになった。豊かな天然資源を有する中東とアラブ地域を放棄してから後は、イデオロギー上の連環のある東方に背を向ける政策が実行された。シャイフ・シャーミルの(反乱の失敗の)後にカフカースがロシアに引き渡されて以降は、カルス、アルダハン、エルズルム台地の防衛が懸案となった。国際法上も議論があるモスルとキルクークの放棄の後では、この地域での完全に放棄された土への野望が、絶対的支配権を死守すべき東アナトリアに否定的な影響をあたえないように努めた。最終的(1911年)に植民地主義者に奪われたリビアの西トリポリの抵抗戦の後には、北アフリカの喪失が続くことになるこの地域に対する一方的なの関係は、50年後に共産圏に対して我々が西側の友好国であることの証としてアルジェリアのムスリム(の独立闘争)に対してフランスの植民地主義者を支持するという形で示したのである。
 バルカン諸国を放棄した後、オスマン帝国が残した文化的、政治的意味での資産の維持に十分な熱意を示さなかったように、国内の政治文化的変化の否定的な影響によって、オスマン帝国の歴史の遺産とイスラーム文化の影響を失うことに為す術がなく、特にブルガリアとギリシャでそうであった。トルコ外交の政策決定者たちは、ブルガリアでのオスマン帝国の遺産である文化の立脚点としての様々な宗教施設の抹消に対して抗議しないままに、政治文化の国境を越えての影響を及ぼすべき関係の範囲について誤った判断を下したが、その結果はジブコフ(ブルガリア総書記)時代の同化運動によって明らかになった。
 ポスト冷戦期においてもそれが続いていたことがボスニア政策において明らかになった。対外政策において影響力があった一部の政治家が、ボスニア紛争の最初の局面でイゼトベヴィッチのイスラームのアイデンティティーを嫌って、フィクレト・アブデチュのような世俗の指導者たちをトルコが支援すること望んだ。後になってアブデチュがセルビア人の側についたことがバルカン諸国のイスラームのアイデンティティー及びオスマン帝国の遺産とトルコの域内政治との間の不可避の従属関係を作り上げた。バルカン諸国で破壊された全てのモスク、解散させられた全てのイスラーム組織、文化の領域で消された全てのオスマン帝国の伝統の一つ一つが、トルコがこの地域での国境を超えた影響力の名残の礎石なのである。トルコはバルカン諸国での絶対的放棄のシンボルになった移民の政策の代わりとなるオルタナティブの中庸の政策を取らねばならない。この中庸の政策の土台となっているバルカン諸国のオスマン-イスラーム文化の存続が不可避である。特にバルカン諸国におけるオスマン臣民の子孫の二主要民族、つまりボスニア人とアルバニア人の独立国家を持とうとの試みは、その自然な同盟諸国とトルコの間にある共通の歴史的文化の絆の土台によって支えられていることが必要である。
 トルコは、バルカン諸国の政策を、バルカン戦争の悲劇の苦い記憶が織り成し冷戦のパラメーターが強化した東トラキアとイスタンブールを死守せねばならないとの心理的トラウマから解放しなくてはならない。この地域の新たな状況下での東トラキヤとイスタンブールの防衛は東トラキアをめぐる従来の同盟ではなく、バルカン諸国における国境を超えた影響下にある領域を外交的、軍事的意味で能動的な利用対象とすることを断念することによる。今日のバルカンでは地域的な規模での活動的な諸勢力が均衡状態を作り出しており、その自然な帰結としての中間的な形態を、柔軟でダイナミックに使いこなせる国々が影響力を増している。不活発で停滞した国はこの地域でのリーダーシップを失い、次第に孤立化していくのである。
 絶対的支配権‐絶対的放棄の二項対立という難題はコーカサスにおいては現実的である。実質的にはエルズルム高原の北東部分でありながら93年戦争以来現在にいたるまでカフカースにおいてはそれと似たような状態になっている。その時以来現在まで、オスマン‐トルコ帝国の対外政策の最も重要な課題は、ロシア-ソ連の拡張戦略においてアナトリアの地政学上の鍵であるエルズルム高原を南西に下ることを防ぐことである。それには、一つは失敗、他は失敗の二つの例外がある。エンヴェル・パシャ(陸軍大臣)の「アッラーフエクベル山脈の悲劇」を生み、カズム・カラベキル(1948年没、大国民議会議長)はロシア内部騒乱を見据えて実現させた活動の結果として、当時の2世紀の間で初めてコーカサスで攻勢に出てカルス・アルダハン国境周辺を取り戻し、ナフジュバン問題でも明確な保証を手にすることができた。この二つの例の帰結は、冒険と見通しのある攻勢との違いに関して、対外政策の担当者に対する重要な歴史の教訓となる。
 カズム・カラベキルによる成功は、絶対的支配権を確立しようとの大規模な軍事動員と絶対的放棄を代表する広範囲な人口移動とを調和させる政策の伝統の基礎となる柔軟性をも明らかにしている。危機的な状況を正しく認識し、時を見計らい、外交と軍事を組み合わせ、成功を収める有効な振る舞いができる。
 トルコが対コーカサス政策を長期にわたって放棄してきた最も重要な理由は、エルズルム高原の北東での影響力の回復の自信の欠如と新たな93もの戦争の悲劇を繰り返さないかとの不安に由来する弱気である。そのために、冷戦期に、NATOが策定した軍事戦略は単にエルズルム高原の南西の防衛のために設定された。拡大するロシアの同盟勢力を、コンヤ平原に至るまでに、どれほど弱体化させられるかを、計算したのである。
 トルコはこの心理的防衛機構のせいで、カフカース地方での自然の同盟者たちを強化し、ロシア人の内部矛盾を利用することに思いもよらなかった。カフカース諸国と中央アジアの問題で見られる政策の矛盾と準備不足の最も重要な原因はこの心理的欠陥である。
 トルコの対外政策策定者はこの臆病さを乗り越えてカフカースでも積極的で柔軟な攻勢が必要である。コンヤ平原へ下ることができると考えるロシアはチェチェンへの侵攻でさえ困難に直面した。これは誇大広告ではない。この状況の適切な条件の下での洞察力のある積極的な政策の成果を無視するなら、将来の東アナトリアの防衛にかかる費用は甚大になる。バルカン諸国になぞらえるなら、東トラキアとイスタンブールの防衛は、アドリア海とボスニア、東アナトリアとエルズルム防衛、北カフカースとグロズヌイから始まっているのである。
 トルコの中東政策には絶対的支配権‐絶対的放棄のジレンマと戦略計画の欠如が刻印されている。第一次世界大戦後、中東との政治‐文化‐戦略的橋渡しの役割を投げ捨て、背をむける政策を取ったトルコは、この地域でのすべてのグローバルな関係を決定するパワーによる天然資源の分配過程の中で、そこでの五百年続いた(オスマン帝国の)支配権がもたらした利点を十分に活用されていない。この唯一の例外は、フランスの撤退により発生した空白と第二次世界大戦の前の混乱に巧みに乗じたアタチュルクのハタイ作戦であった。
 トルコは、中東に対して、特に経済地理的枠組において、背を向ける政策を取ることで、この地域での資源と力の分配を決めるにあたって静的パラメーターだけを勘案しており、文化的意味で疎外されたこの地域の民衆にも、政治的エリートにも十分な影響を行使することができないでいる。しかしトルコには、この地域を放棄したオスマン帝国の生き残りの知的‐政治的エリートと、その歴史的伝統、その様々な共同体の間の文化地理的同質性があり、柔軟に対応すれば、それらの長所それだけで中東に対する戦略の礎石となりうる。ダマスカスやバグダードのようなアラブの多くの大都市では最近までトルコ語で普通にコミュニケーションがとれる社会階層が存続していたのである。トルコは、この階層との良い関係による影響力と歴史的な特権を有する地域国家であるとのイメージを形成しなければ、グローバル・パワーのいくつかの中心地の中東における代表として振る舞うことで、この地域での疎外感を次第に深めていくことになる。
 この疎外が進むことでトルコは、この地域における影響力を失うと同時に南東アナトリアを防衛しなければならない現実に直面させられる。国境を超えた優位性を効果的に活用できないでいるトルコは国境とその内部での自己完結性というヨーロッパ中心主義のテーゼを押し付けられている。更に悪いことには、今日のトルコは、この地域を500年間にわたり支配してきた歴史を有するにもかかわらず、この地域にわずか50年の歴史しか持たないイスラエルの諸々の戦略を裏書きすることで、この地域にかかわる政策において域内での疎外を深めてきたのである。イスラエルがシリアに対して行っている和平においてトルコのその資源の和平の諸要因の間にある地域でのダイナミックな利害関係がどこまで柔軟な対外政策の立場を必要としたケースをまたもっと見せる。
 この対外政策の弱点の全体という氷山の水面下には、心理的準備不足、戦略理論の見通しの欠如、ダイナミックに変化する条件に適応するのに障害となる硬直した外交的言辞、国内政治文化と対外政治の間の不調和などの様々な問題が隠れている。対外政策策定者は、なによりもまず、国境を超えた戦術を生み出しそれを固持するとの心の準備があることが必要である。そしてその心の準備には、国内世論をその方向に誘導する社会心理的文化とその正当性の基盤の統合が必要である。
 そのための心理的基礎は、トルコの地政学的、文化地理的、経済地理的事実から出発する理論枠組の起点であらねばならない。現在に至るまで、欠乏を認識する戦略理論は、欠乏の克服のためには、研究機関によって政策決定者の間に健全な関係回路が形成されなければならない。この戦略を適用するにあたっては、あらゆる種類のイデオロギー的言説の狂信を逃れることが最も大切である。バルカン諸国のムスリム・マイノリティー集団を反体制派への避難所と、すべてのロシア語学習者を共産主義者のエージェントと、すべてのアラビア語話者を反政府派か、保守反動とみなすような決めつけが、さまざまな現象の解釈に無批判になされるままにされてきたことは明白である。1980年代に中東に向けての輸出増大に対してアラビア語話者の不足をきたしたトルコは、今日ではカフカースと中東との関係において、ロシア語話者とロシア研究者の不足があらゆるレベルで痛感された。ロシアとの何世紀にもわたる戦争の歴史を有する民族(共同体)に現れたロシア語話者とロシア研究者の不足は、冷戦期のトルコの政治エリートの中が感じていた不安の典型的な兆候であった。この点で、トルコは、何よりも前に、国内の治安問題を超えて、接触状態にあったすべての地域と諸共同体を分析することができ、役に立つ人材の育成が必要である。
 それは、国内政治文化と対外政策の間の再調整が必要であることの最も重要な証である。民衆を信頼しその内部から生まれた民衆文化を統合するためにその力を引き出すことができないエリートは、国境を超えたグローバルな開かれた地平に向き合うことも、国内の治安と統一を守ることもできない。それゆえ歴史的連続性の重要な証の一つである戦略的思考において、心理的要素の問題は戦略の立案の中心になるのである。

2017年10月13日金曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』 第一部 第1章 Ⅱ.戦略理論の欠如 組織的、構造的背景


Ⅱ.戦略理論の欠如

 トルコの対外政策の最も重要な弱点の一つは戦略的及び戦術的行動を首尾一貫した枠組の中で組み立てていないことである。つまり、異なる地域での戦術的行動と適合した上位の戦略を立案することにおいても、戦術を段階的に組み立てることにおいても、深刻な弱点が存在するのである。その結果、そうした戦術的行動は、分を超えると戦略的意味を帯びてしまい、国家の前を塞ぎ、可動域を狭める結果を生む。

 内的に首尾一貫した連続性を示すと同時に変化してゆく条件に順応できる戦略理論をトルコの立案には相対立するさまざまな弱点があることには、歴史的、心理的、文化的、そして組織的原因があるのである。

 

  1. 組織的、構造的背景

 戦略理論の欠如には、直接的な制度の構造上の原因が存在する。そうした(戦略立案の)営為の制度的基礎である組織には、外務省、TBMM(トルコ国民大議会)、対外政策に関わるものとしてMGK(国民安全保障会議)、参謀本部、そしてその関連省庁のようなその他の官庁、大学、学術機関、政党、そして官立、半官、独立の研究機関がある。

 対外政策の政治的、行政的責任を負う外務省は、その責任の自然な帰結としての戦略の分析、説明、オルタナティブの検討において中心的地位を占める。しかし、戦略研究、戦略形成において、良い制度を備え、豊富なリソースを有する国家においてさえ、外務省が政治的、行政的性格を有し、オルタナティブの複数の対立する理論的枠組を設定することは、否定的な影響を与えうる。対外政策を司る組織の行政的性格に由来する通常業務は、律動し、広範囲にわたる深い戦略的分析の障害になることがある。

 一方、短期の政治的成果の方が長期的な戦略的な成果よりも影響力があり重要になるのは

外交政策を担う組織の政治的次元のせいである。この状況は他の公職にも当てはまる。他方、対外政策の中核をなす優先事項の社会政治的正当性の基礎となる国家機関、戦略アプローチは、優先事項の方向性を左右するのであり、そのために思想的、合理的過程であるべき戦略理論の研究も官僚的、国家的性格を帯びることになる。それもまた単調と停滞に道を開くのである。

 戦略理論とその理論による分析は、対外政策のオルタナティブが必要である場合に対応できるだけの有益性がある。単調で形式主義の戦略分析は自己限定による不毛なループに陥る。この形式主義的アプローチをイデオロギー的枠組にしてしまうと、不毛なループ、停滞を引き起こす。

 冷戦期のアメリカとソ連の戦略の相異なる成り立ちは、そのイデオロギー的枠組の比較の最良の教材である。硬化したイデオロギー上の但しさに還元する公式な戦略分析に頼るソ連の対外政策の単調さは、異なる起源に由来するために別のシナリオが可能になったアメリカの対外政策の柔軟性に対抗できなかった。ソ連の対外政策の官僚主義的な硬直した行為は、独立研究機関、戦略分析者たちの多くの視角を包摂する様々なアプローチを検討することができ、それに従って組織的行動を取ることができたアメリカの対外政策の、多くの選択肢を有するダイナミックな行為と対照的であった。ソ連は対外政策担当者たちが行動領域を狭めているときに、アメリカの対外政策担当者は新しい行動領域とそれを実行に移す主体を容易に見出すことができていた。

 トルコの対外政策の組織面を見るなら、何よりもまず外務省を筆頭とする国家機関が、戦略研究を遂行する十分な金銭的、制度的下部構造を備えていない。外務省はその組織の貧しい資能力の範囲内で要請に応じようと務める戦略研究センターは、この地域の他の多くの同種の組織と共に、準備期間がなかったトルコは国家として、人材の点でも組織の点でも多くの限界を抱えている。意思決定過程で戦略分析が必要であると考える外務省を筆頭とする国家組織が、そ戦略分析の必要を適える手段を備えており、官僚主義的に陥らないようにそれらの間で調整がなされることが、戦略理論分析の欠如を克服するために制度的に不可欠な条件である。

 ことなる政治的優先順位を有する諸政党がさまざまな優先事項を工夫し、実行可能な対外政策のオルタナティブを発展させ、そしてそれをTBMMのプラットホームに載せるのもトルコのオルタナティブ戦略研究を積極的に多様化するための重要なリソースとなる。このためにも政党自体が決まりきった日常業務の政治を超えて、長期にわたる行動の基礎となるためには、政治と外交のある意味での学校を持つ必要がある、

 政党がその内部に長期的なパースペクティブで国政の議題を準備することができるスタッフを抱えていれば、政権が交代しても、言論と政策アプローチの伝達において政治的意思を官僚組織に容易につなぐことができる。全く準備期間を経ていない野党のスタッフが政治権力を使える立場にアクセスすることは、政治意志を官僚機構のスタッフにつなぐコミュニケーションを破壊し、きわめてデリケートな言葉と慎重な動きを要する対外政策の実行に否定的な影響を与えることがある。相異なる対外政策を有するいろいろな政党を正しく知らしめる戦略アプローチを理論化し、議会に届けることは、対外政策の国論をより理性的に正しく方向付けることができる。一部の国でみられる「影の内閣」の制度は、継続性のある戦略と政策の研究に実効性を与えることができる。

 大学と独立研究機関の政策形成への参加は、この問題における長い伝統が存在することと、この参加を継続的なものとすることを保証する下部構造と、財政支援の保証を必要とする。こうした組織の知的生産と分析力の増加は、グローバル規模の戦略を展開する国の対外政策を支える最重要要素の一つとみなされる。国際関係が急激に変化する時代において国家戦略に新地平を開くグローバルな規模と内容を有する理論枠組の構築とその枠組を補完する地位的専門領域が成立すれば、ダイナミックな諸条件に素早く適合し、突発的自体にも適切に対応する対

外政策への反映が実現する。そうして作られた対外政策の優先事項の社会政治的な正当性の基礎形成にこうした組織が貢献していることも見逃されてはならない。大学は単なる教育機関の一つではなく、同時に研究機関とも見做されており、独立の研究センターが持続的な財政支援を見出しうる環境に参加することが、対外政策の社会的組織化の下部構造を構成する。

 トルコでは、経済のボトルネックによるにせよ、人口増加圧力が教育を必要とするためにせよ、大学は研究機関としての性格から遠ざかり、次第に国民教育と就職に役立つ高等教育機関に変わってしまったことが、大学が戦略理論とその分析を継続的に遂行することを妨げている。大学の構造の中で様々な分野で専門化のために設立された諸機関が十分な資金と機関に必要な物理的下部構造を有していないことが、そのユニットの組織化を遅らせ、この領域の空洞化の進行に道を開いている。この格好の例が、EUへのフルメンバーシップを申請した1987年以来現在に至るまで、数多くのECの機関が設立されたにもかかわらず、EUの多くの分野での専門家の不足を託っていることである。

 トルコで見られる戦略理論の欠如はまた、政治学者と政治実務家の間の制度的断絶の徴とも見做される。大学と学術環境はこの種の理論的営為が不足しているだけでなく、政治実務者である官僚や外交官との橋渡しをする有効なチャンネルともなっていない。こうした理由で、マハンとスパイクマン[1]によるアメリカのグローバル戦略、ハウスホファー[2]のドイツ、マッキンダー[3]の英露の戦略に関する影響の研究に類似した対外戦略の理論‐実践関係についてのアプローチは、トルコにはまだ存在しない。最新のフクヤマ[4]とハンチントン[5]の「新世界秩序」の思想や、その理論を、アメリカの政治実務家がグローバルな紛争に対して戦略的に使用することが正当であることを支持していること、及びキッシンジャー[6]やブレジンスキー[7]のような理論‐実践について独自の経験を有した戦略理論家がプロジェクトを立案していることが、この関係がどれほど重要であるかを示している。



[1] N.J. Spykman, The Geography of the Peace, New York: Harcourt Brace, 1944.
[2] Karl Haushofer, Bausteine zur Geopolitik, Berlin, 1928, Weltmeere und Weltmëchate, Berlin, Zeitgeschichite Vertag, 1941, Geopolitik des Pazifischen Ozeans, Heidelberg, Kurt Vowinckel Vertag, 1938.
[3] H.J. Mackiner, “The Geograhical Pivot of History”, Geographical Journal, 1904/23, pp.421-442.
[4] F. Fukuyama, “The End of History?”, The National Interest, 1989/16(Summer)pp.3-18,  The End of History and the Last Man, New York, The Free press, 1992.
[5] S. Huntington, “The Clash of Civilizations”, Foreign Affairs, 1993/72(Summer), 22-49, The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, New York , Simon & Schuster, 1996. Ahmet Davutoğlu, “The Clash of Interests; An Explanation of the World (Dis)Order”, Perceptions, Journal of International Affairs, Dec, 1997-Feb. 1998, 11/4, pp.92-121.
[6] Kissinger, Diplomacy(The New World Order Reconsidered), New York, Simon & Schuster, 1994.
[7] Zbigniew Brzezinski, The Grand Chessboard: American Primacy and Its Geo-strategic Imperatives, New York, Basic Books, 1997.