2017年1月3日火曜日

許可が必要なものは禁じられている(『文學界』2014年7月号掲載エッセイ草稿)



許可が必要なものは禁じられている。道を歩いたり、自転車に乗るのは特に免許を必要としない。だから、道を歩くのは自由だ、自転車に乗るのは自由だ、と言うことが出来る。
一方、自転車に乗るように自動車を乗り回すことは出来ない。運転が出来るかどうかは関係ない。どんなに運転が上手くとも運転免許を取らずに車を運転すれば犯罪とされ警察に捕まる。だから車の運転は自由ではない。それは禁止されている。
許可が取れるのだから、許されている、自由だ、ということにはならない。殺人でも、死刑を執行する時には許可される。だからと言って殺人が許されている、自由だ、と言うことが出来ないのと同じである。
他方、道を歩くのは許されており自由だ、と言っても、治安や衛生上の理由で立ち入り禁止に指定された場所は入る自由もなく歩くことも許されない。しかし歩くことが禁止されることがあるとしても、それが自由でない、とは言えない。
どんな自由も制限を受け禁止されるうるし、どんな禁止も解禁されうる。だから、行なうために特に許可を必要としないことを「自由である」と呼び、許可を要することは「禁止されている」と呼ぶのだ。
今、人は歩くのは自由だ、と言った。しかし本当はそれは嘘だ。現在、全ての人類は地上を歩くことを禁じられている。人が歩くことを許可されているのは、領域国民国家の領域内だけだ。その領域から一歩足を踏み出そうと思うと、自国から相手国に宛てた通行許可証パスポートを持ち、それに相手国の入国許可ビザをもらわなくてはならない。
この春に私はアラブの友人を訪ねにシリアに行ってきた。最近知り合った日本人の若者は一緒にシリアに連れて行ってくれ、と言うが、パスポートが取れないために行くことができない。幸い私はパスポートを持っているので出国の禁止はクリアーし、トルコの入国禁止に関しても日本のパスポート保持者は空港でビザが下りるので無事に乗り切ることができた。
シリア入国は、友人が住む地域は、シリアの反政府勢力の「解放地」であり、入国にはビザなど必要ない。しかし、問題はトルコからの出国だ。その解放区はトルコ政府との「非公式」な外交関係すらもない地域なので、トルコがその地帯に入ることを禁じ、国境に鉄条網を張り巡らしているのだ。
シリア人との4人連れで日暮れ前に国境に向かうと、トルコのジャンダルマ(国家憲兵)が追いかけてきた。発砲されても気にせず後も振り向かずひたすら国境を目指し傷だらけになりながら鉄条網をくぐり抜けると、ジャンダルマは諦めて帰っていった。後で聞くと、背後数十メートルの距離まで迫られていたらしい。
シリア滞在を終えての帰りも、シリア側から国境を越えるのは「自由」だが、問題はやはりトルコ側だ。トルコからシリアに入った同じ場所から4人でまた鉄条網をくぐって今度は夜にトルコ領内に入った。しばらく叢を歩いていると、突然サーチライトに照らされた。事前の打ち合わせ通り、散開する。1時間余り銃声が鳴り止まぬ捕り物の末に全員が捕まってしまった。撃ってきたのはジャンダルマではなく村の自警団で、銃声は猟銃のものだった。
銃を突きつけられていろいろ尋問された。煎じ詰めると、どうやら我々が頼んでいた「逃がし屋」の運転手が余所者で、自分たちの村を通るのに何の挨拶もなく、余所者の逃がし屋だけが儲けて村に金が落ちないのが気にくわない、という話だったようだ。結局、私は所持金の約300ドル、連れは約2000ドルの現金を巻き上げられた上で、夜道に放り出され、翌日疲労困憊して日本への帰路についた。
現在の人類は皆、領域国民国家の捕囚だ。ただ友人に会うためであっても、自由に歩こうにも国境で阻止される。それでも敢えて自分の自由を守ろうとして歩き続けると銃で撃たれ脅され力尽くで拘束される。人は地上を自由に歩くことすら出来ない。にもかかわらず、人権や自由を誰もが恥ずかしげもなく口にする、それが現代世界の現実だ。
私たちから所持金を巻き上げた自警団の連中も、パスポートやビザを売りつける役人たちも、人間の移動の自由を自分たちで奪った上でそれを返すのに金を取る盗賊、あるいはみかじめ料を徴収するやくざの類いであることに違いはない。密輸や、密入国、不法滞在などという言葉があるが、とんでもない。本来自由な商売、人の移動を禁じ、商品に関税をかけ、人を拘束する方が強盗、誘拐であり、犯罪なのだ。
イスラームは、大地の主権は神に属し、神はアダムを地上における代理人(カリフ)に任命し、人類は皆アダムの子孫として大地を相続した、と教える。
大地を縄張りに切り分け、虚構の偶像神である国民国家リヴァイアサンの陰に隠れて神が人類に託した主権を簒奪する権力者たちのカルテルというのが、現在の国際社会、つまり領域国民国家システムの実相だ。そしてこれらの不正な権力者たちの仮面を剥ぎ取り、大地を人々の手に取り戻すことがイスラームの使命であり、そのイスラームの政治制度がカリフ制だ。
大地を人類に解放するカリフ制の再興のためにジハードに身を投じて殉教するべく、持ち家を処分して私はホームレスになった。仮の住まいは地球の全土。帰る我が家は天の楽園。

2017年1月1日日曜日

イスラーム国訪問記(3)

イスラーム国訪問記(3)
ISIS(イラクとシャームのイスラーム国)は、2014年6月末、「イラクとシャームの」を国名から外し、「イスラーム国(al-Dawlah al-Islamiyah, Islamic State)」と改称し、自分たちの「イスラーム国」が「イスラームのカリフ制(al-Khilafah al-Islamiyah)」であり、指導者のアブー・バクル・バグダーディーが世界中の全てのムスリムのカリフであると宣言した。
ISISだけでなく、ヌスラ戦線をはじめ、シリアで戦うサラフィー・ジハード主義者の多くは、1924年にトルコ共和国が廃止したカリフ制の再興が目標であると公言している。サラフィー・ジハード主義者とは、クルアーンとスンナの法規定を施行しない為政者を背教者と断じてジハードによる打倒を目指すスンナ派イスラーム主義反体制武装闘争派のことだ。
前回の訪問でもウマル・グラバーゥ師などは、気が早いことに「カリフ制の地へようこそ」などと言っていたので、ISISのカリフ制樹立宣言は青天の霹靂というわけではなかったが、このタイミングは予想外だった。と言うか、ISISがカリフ制再興を宣告しないことを、心の底では望んでいたのかもしれない。
カリフが擁立されて、シャリーア(イスラーム法)が施行されるダール・アル=イスラーム(イスラームの家)が現出すれば、全てのムスリムは、カリフが治めるダール・アル=イスラームにヒジュラ(移住)するのが義務となる。
さて、どうしたものか。しかし、ともあれ、畢生の仕事クルアーンの翻訳の公刊もまだだし、秋に発売予定の新書の校正も済ませないといけないし、ツイッターに連載したカリフ・ラノベ『俺の妹がカリフなわけはない!』も出版社を探さないといけないし、なによりも3月のようにトルクの国境警備隊や自警団の追撃を振り切って泥水の堀を渡り鉄条網をくぐっての国境越えは、この病軀には無理だ。まぁ、今抱えている仕事が終わるまでは様子見を決め込もう。
と思っているうちに、クルアーンの翻訳も出版され、カリフ制再興について新たに執筆依頼など受けたりと、貧乏暇無しの日々が続く中、突然、8月27日ウマル・グラバーゥ師から「我々の許に日本人のジャーナリストが捕らわれており、信頼できるアラビア語-日本語の通訳を推薦して欲しい。」とのメッセージが届いた。イスラーム国が捕虜にしている湯川氏に公正を期して日本人の通訳をつけようというのだ。
サラフィー・ジハード主義者の間で「信頼できる」というのは「サラフィー・ジハード主義者」ということだ。サラフィー・ジハード主義者でアラビア語ができて、危険な戦争のただ中にあるイスラーム国に送って死んでもよい者など私以外にだれがいよう。9月7-9日はタイのパタニ大学で『イスラームの中道』をテーマとする国際会議にゲストスピーカーとして招待されていたのだが、人命がかかっているとあってはそちらを優先するしかない。
という訳で、ちょっと情けないが、「この前のような肉体的に過酷な越境は無理なので、もっと楽な道があるなら私が行きましょう」ということで話を纏め、イスラーム国の捕虜裁判の通訳のボランティアとして自弁で格安航空券を買い、9月6日にイスラーム国に足を踏み入れることになった。
本当に楽に越境できるのか不安だったが、電話番号をもらったエージェントに連れて行かれたガズィアンテップの彼らのアジトには片足がなく松葉杖をついたムジャーヒディーンや女性も一緒だったので、これならそう過酷な旅にはなるまいと、ちょっと安心した。迎えの車が来るまで、一緒になったムジャーヒディーンたちと話をしたが、中にはパスポートもなく中国から陸路ベトナム、カンボジアを通ってマレーシア経由でトルコに辿り着いたというウイグル人のムジャーヒディーンもいた。顎髭を伸ばしているとクルド人のスナイパーに狙撃されるから顎髭を剃れ、と言われ、髭を短く刈り揃えさせられた時には少し不安になったが、実際に行ってみると、国境は鉄条網も倒れて地面に這っており、楽々と歩いて乗り越えることができた。
シリア領内に入ると、イラクでの戦利品と思われるモスル大学のバスが迎えに来たが、その夜は他のムジャーヒディーンたちとジャラーブルスのムジャーヒディーンの宿舎で一泊することになった。宿舎に着くと、名前を聞かれ、ハサン中田考だと答えると、「中田考」は聞き取れなかったようで、「ハサン・ヤーバーニー(日本人)でいいな」と言って「ハサン・ヤーバーニーと紙に書いてお終いだ。
そもそも入国審査は、パスポートを見るわけでもなく、自己申告の名前を聞くだけで、その自己申告の名前さえちゃんと記録していない。入国の時点でスパイをスクリーニングしようとは思っていない、あるいはそれは最初から諦めているようだ。なにしろ上述のウイグル人のように、ムジャーヒディーンの中にはパスポートなどそもそも持っていない者もいたりするのだから。もっとも、パスポートなどもともとイスラーム法にないものだし、ヒジュラ(移住)してくる者は全て受け容れるのがカリフ制である以上、それが当然だ、と言われればそれまでのことではあるのだが。
ジャラーブルスはトルコの携帯の電波が届くのでネットもつなぎ放題だ。GPSとかを使えば位置情報も全て筒抜けになってしまうわけだが、携帯を取り上げられるどころか、切るように求められもせず、電話をかけようとネットにつないでツイートをしていようと、誰も何も文句など言わない、相変わらずセキュリティーもなにもあったものではない。ジャラーブルスの宿舎は大部屋ではなく客室だったが、客室といっても蟻などの虫の巣窟で全身を虫に刺さ、満足に眠ることも出来なかった。
翌朝、迎えの車が来て、アルラッカ市に向かう。ジャラーブリスから少し離れるとトルコの携帯電話が繋がらなくなる。ジャラーブリスからアルラッカまでは180キロほど離れている。
3時間ほど車に揺られて、アル=ラッカ市に入り3月にも訪れたムジャーヒディーン移民管理局に連れて行かれたが、通り道では、数時間前にアサド政権による空爆があり市民が犠牲になったばかりだと、生々しい空爆の跡を見せられた。
途中、欧米のメディアでも報じられた破壊されたウワイス・カラニー廟の側を通った。イランの援助で作られた、と教えられたが、素人にも一目で分かるイラン風建築だ。民衆は、この聖者廟に7回詣でるとマッカ巡礼と同じ功徳がある、と吹き込まれて、参詣していたそうだ。イラン・シーア派のイマーム・ザーデ(廟)参詣に関してよく聞く話で、そういうクルアーンとスンナの教えに反する迷信を弘めているなら破壊されても仕方がない。
移民管理局に着いても、まぁ、極秘のミッションと言えば極秘のミッションでもあるので、当然とも言えるが、私が何者で、何をしに来たのか、話が全く通っていない。漫然と待つこと時間、やっとウマル・グラバーゥ師が現れた。ところが、今回のミッションを指揮する司令官が姿を隠してしまって、ウマル師自身も彼と電話もネットも繋がらない状態なので、連絡を取れず、話を進めることができなくなっていたのだ。
時期も悪かった。アメリカは、イラクの内戦の一局面であるヤズィーディー居住区での戦闘をIS空爆の口実にするため、イスラーム国が民族浄化を行なっているとのプロパガンダを繰り広げ、8月8日からイラクでイスラーム国への空爆を開始しており、それに対する報復として、8月19日に米国人ジャーナリストの捕虜が処刑されると、シリアに対する米軍の空爆も時間の問題とみなされるようになった。イスラーム法では老人や修道士などを除いて成人男性は戦闘員とみなされる。ジャーナリストは情報収集が仕事であり、イスラーム国に限らず、外国人記者はスパイの疑いをかけられるのが常である。イスラーム国から予め入国許可の安全保障を得ずにイラクとシリアに入った以上、スパイの嫌疑がかけられた敵国の異教徒のジャーナリストを解放するか処刑するかは、イスラーム国の裁量次第なのである。
実は、斬首はシリア国内では意外と市民の支持を得ている。今回聞いた話では、アサド政権と通謀していたスパイを捕まえて銃殺刑に処したところ、市民が「なぜ首を切らずに銃殺ですませた」と抗議して騒ぎになり、イスラーム国当局が謝罪に追い込まれたということだ。
ともあれ、米国人の処刑に呼応し、アサド政権によるアル=ラッカへの空爆も頻繁化し始めた。アメリカがアサド政権に情報提供しているとの話も聞かれるようになっていた。9月1日、オバマは空爆の決定を議会に委任し、9月2日には米国人の2人目の捕虜が処刑され、米軍のシリア空爆は不可避の情勢になっていた。
そのため、イスラーム国の幹部たちは皆、空爆を避けるため、アル=ラッカを離れて身を隠し、連絡が取れなくなってしまっていたのだ。ウマル師も結局、日本人捕虜の裁判の責任者と連絡がつかず、取り敢えずネットと電話が繋がるトルコ国境に近い彼のアジトに戻ることになった。
ウマル師のアジトでジャガイモ入りサリードをご馳走になる。サリードとは古くなったパン炊き込んだ粥で、「(預言者ムハンマドの若妻)アーイシャが他の婦人たちより優っているようにサリードは他の食べ物に優る」との預言者ムハンマドの言葉にも名が上がっている由緒正しいアラブ料理だが、少なくとも預言者ムハンマドの時代にはジャガイモは入っていなかったはずだ。
翌日昼食にカプサをいただいてから再びアル=ラッカの移民管理局に行き、責任者とコンタクトを試みる。待たされた末に、責任者の伝令が現れて、「これから捕虜(湯川氏)のところに連れて行くが、もう1週間居てもらう」、と言われる。「冗談ではない、私は12日にはイスタンブール-ドーハ便のチケットを予約してあり帰国しなくてはならないと、予め帰国便の日程も伝えているはずだ、約束が違うではないか。カリフ制を名乗っている以上、ちゃんと約束を守れ。」と思わず伝令を叱りつけてしまった。アラブの伝令はただのつかい走りでなんの権限もない。「私にそんなこと言われてもねぇ」と困った顔をしている伝令を連れてウマル師がどこかに消えた。しばらくして戻って来たウマル師が説明してくれたところでは、日本人の捕虜は他の捕虜たちと一緒で、安全のために秘密裏に居場所を転々と変えているので誰にも居場所が分からない。それで、「会うにはもう1週間ほど居てもらう必要がある」、ということだった。イスラーム国の裁判に通訳として立ち会うという滅多にない貴重な機会だし居残りたい気持ちもあったが、12日にはドーハで別の重大なミッションがあり、それにこの調子だと、米軍の空爆も始まり外国人捕虜の居場所の保秘はますます厳重になるであろう為、1週間居残っても会える保証は全然ない。イスラーム国は捕虜の裁判に公正を期しており、湯川氏は英語で裁判のやりとりが出来る英語力は全くなさそうなので、日本語通訳がみつからない限り即決裁判で処刑される懸念はなくなった。そうであれば、無理して残ることもない。いずれ、暇が出来ればゆっくり再訪すればよい。空爆の巻き添えになり他の捕虜たちと一緒に殺されなければ、ではあるが。
その晩は、アル=ラッカに済むウマル師の娘婿の家に一泊させていただき、アラブ湾岸料理の炊き込みご飯カプサなどをご馳走になった。
ジャラーブルスからアル=ラッカまで、殆ど検問らしい検問もなく、イスラーム国の治安の回復と支配の安定は実感できた。しかし、一方、アル=ラッカ市内の中心部のさびれかたは目を蔽うばかりだった。3月に訪れた時は賑わっていたナイーム広場、時計台広場などの中心部の繁華街も、露天は全く姿を消しており、店舗も軒並みシャッターを下ろしていた。アサド政府軍による空爆の激化、米軍による空爆が始まるとの予想から一時的に店を閉めているケースもあるだろうが、イスラーム法の厳格な適用を掲げるイスラーム国の施政を嫌ってアル=ラッカを去った者も少なくはないだろう。
翌日、捕虜に会えないなら長居は無用、トルコに帰ろう、と思っていたところ、180キロほど離れたアル=バーブ在住のエジプト人の友人が車で訪ねててきてくれた。これからクワイリス空港を攻撃に行く、ジハードには天国で報償があるから是非一緒に行こう、と言う。帰国まではもう一日余裕があるのでトルコのホテルでゆっくり休もうかと思っていたが、せっかく遙々アルバーブから会いに来てくれたのだから、アル=バーブまで足を伸ばすことにした。
しかし市内のインターネットの繋がる小洒落たレストランでのんびりカプサなど食べておもむろにアル=ラッカを出て、アサド政権からさきごろ奪ったタブカ空港を横目に通り過ぎ、アル=バーブに戻った頃には夕方近くになっていた。友人の家に泊めてもらうが、家族3人で5階建てのアパートに住んでいる。彼のアパートは、アサド政権などに味方していてイスラーム国の支配を嫌ってアル=バーブ市から逃れ出した住民からの戦利品としてイスラーム国に接収されたもので、ムジャーヒディーンである彼の家族に与えられている。家賃が無料なので月給約1万円(独身は5千円、家族持ちは1万円)で暮らせていけるのだ。隣や上や下の階の住人は、前から住んでいる普通のシリア市民だ。
イスラーム国が、民間人を空爆の盾にしている、というのは西欧のメディアが流したデマで、もともと外国人ムジャーヒディーンたちは、住民が逃げ出してたまたま空きが出たアパートの部屋をイスラーム国が接収したものをもらいうけてばらばらに住んでいたのだ。
友人は、奥さんに2回目の離婚宣言をしている。イスラームの離婚法では、夫の離婚宣言は2回までは取り消し可能だが3回宣言すると、もう撤回できず離婚が確定する。あと1回離婚宣言すれば離婚が成立してしまい、もう後がないのだが、なぜか仲良く一緒に暮らしており、夕食には奥さんの手料理をご馳走になった。
湯川氏のことも、アラブのメディアでもプロフィールが詳しく報じられていたので知っていたが、一言「どうでもいい狂人だ」で片付けられてしまった。スパイにしてはあまりに無能で行動が愚かしかったのが幸いしたと言うべきか。勿論、最終的にはイスラーム法学者による裁判結果を見るまでは分からないが、ウマル師も最初、「スパイ容疑が晴れれば日本に連れ帰ってもらうかもしれない」と希望的観測を述べていたぐらいで、湯川氏がイスラーム国のセキュリティーを脅かす大物スパイと疑われている可能性は低そうだ。
また友人から、「北朝鮮でもどこでもいいから防空システムを買い付けることができないか」、と相談を受けたが、そんなことは考えるだけ無駄だ、と諭した。アメリカは軍事的には核兵器などの大量破壊兵器を使いさえすれば、文字通り一瞬でイスラーム国を滅ぼすことができる。それをなぜしないのか、というと、たとえシリアやイラクのムスリムであっても巻き添えで数百万人の民間人を殺すことには、アメリカ人は耐えられないからだ。それを理解すれば「最善の防空システムが何か」は自ずと分かるはずだ。
それはイスラーム国が、欧米の一般の民間人、ジャーナリストや観光客にクルアーンが定める一時滞在者の安全保障を与えて受け容れ、イスラーム国中を自由に歩き回れるようにすることだ。またそれは、「もし多神教徒の誰かが、お前の許に滞在許可を求めてくれば、その者に入国許可を与えてアッラーの御言葉を聞かせてやり、それから彼を安全なところまで送り返してやれ。後略」(クルアーン9章6節)にあるように、イスラーム法上合法である。イスラーム国内に欧米人の民間人が溢れていれば欧米は絶対にイスラーム国を攻撃できない。防空システム構築は、軍事ではなく外交の課題なのだ。そしてイスラーム国の中でいかにクルアーンの教えが実践されているかを、欧米人に実際に来てその目で見てもらった上で本国に安全に送り返し、イスラーム国の実態について本国で報告してもらうことこそが、クルアーンが教えるイスラームの伝道の正しい方法なのだ。
翌朝、友人に送られ、ジャラーブルスの移民管理局に向かった。途中、アル=マンビジ市で、聖法事務所(al-Idarah al-Sharʽiyah)という意味不明の建物の写真を撮ったら、ムジャーヒディーンの警備兵に「撮影許可はあるのか」と絡まれカメラを没収されかけたが、友人がかけあってカメラを取り返してくれた、といった小さなトラブルはあったが、無事に移民管理局に到着し、友人と再会を訳して別れを告げた。
移民管理局でトルコに出国を待つムジャーヒディーンたちと一緒に昼食にジャガイモのトマト煮を振る舞われ、喫茶店でドイツからきた生粋の白人のムジャーヒディーンとお茶したりしながら数時間待ち、夜になって来た道と同じルートでトルコに戻った。一緒に越境した羊の群れに踏みつぶされそうになって、ちょっと焦ったこと以外、トルコの国共警備隊や、自警団に襲われることもなく、スムーズに国境を越えてトルコ領内に入ることができた。
迎えの中型バスに乗り込み、ガズィアンテップに向かった。最初、市内の長距離バスターミナルで解散の予定だったが、バスターミナルには警察が張り込んでいて危険だ、との情報が入ったらしく、結局幹線道路でバスを泊めて解散ということになった。トルコ側もイスラーム国からの「密入国者」を完全に黙認しているわけではなく、一応は取り締まってはいるようだった。
余談になるが、後で同行した邦人ジャーナーリストに聞いた話だと、私がイスラーム国に入った後、日本の外交官が4人、湯川氏が解放された場合に身柄を押えるために、ガズィアンテップのノボテルホテルに投宿し、他にやることもなく、ずっと私のツイートをおって時間を潰していたらしい。「税金泥棒」、とはよく言ったものである。
徒労感あふれるイスラーム国への旅だったが、イスラーム国が、「発展途上」というか「お試し期間中」のカリフ制であることが分かった、という意味では得がたい経験だった。
そもそもカリフ制以前に、「イスラーム国(IS)」は未だに、「イラクとシャームのイスラーム国(ISISI)」の看板を掲げ、「イラクとシャームのイスラーム国」のレターヘッドの入った便箋で公文書を発布していた。イスラーム国はカリフ制であるよりも、イラクとシリアの地方政権である。それどころかイスラーム国にはまだ統一貨幣すらなく、シリア地域ではシリア政府発行のシリア・リラ、イラク・地域ではイラク地域ではイラク・ディーナールが使われている。イラクとシリアの国境を開いたとはいえ、イラクとシリアの統合さえまだ始まったばかりであり、全ムスリム世界を統べるカリフ制への道は前途遼遠である。
なによりも、捕虜の裁判の通訳のために1週間居残るように、と言われた時、もしカリフの命令として強制的に私を連行して行くことも出来たのに、それをしなかったことが
は、彼らの良識を示している。彼らが「これはカリフの命令だ」と言えば、イスラーム法的に私はそれを拒むことはできず、勿論、丸腰の私がそれを実力で阻止することも出来なかった。それでも、彼らはそんなことはしなかった。それどころか、「カリフ国なら約束を守れ」と罵られても、「不敬である」と逆ギレすることもさえもなかった。
彼らはイスラーム国こそカリフ制であり、アブー・バクル・バグダーディーは、全てのムスリムが従うべきカリフであると信じている。しかし同時に、現実には、イスラーム国が12億人とも16億人とも言われる世界の全てのムスリムの生命、財産の安全を保証する力がないことも自覚しており、カリフと忠誠の誓いバイアを交わしていない私のような一般のムスリムに、カリフの命令を力づくで押しつけようともしない。
シリアとイラクという過酷きわまりない政治環境で生まれたにしては、カリフ制再興を目指す「イスラーム国」は、実はどうしてなかなか柔軟で良識的なのだ。中東事情に疎く、その政治風土に馴染みのない日本人にはなかなか理解してもらえないとは思うけれど。(終り)

イスラーム国訪問記(2)

イスラーム国訪問記(2)
 2014年3月イスタンブール、ガズィアンテップに所用があり、またシリアに足を伸ばすことにした。主な目的は、ISIS(イラクとシャームのイスラーム国)がアル=ラッカでキリスト教徒に対して改宗か死か、と迫って、イスラームへの改宗を強制し、ジズヤ(人頭税)を課してているとの欧米のメディアの報道の検証だった。
そこで前回、シリアで世話になったトルコとシリアの越境担当司令官のウマル・グラバーゥ師を訪ねたのだが、実はウマル師はISIS潰しのためにサウディアラビアの後押しで作られたイスラーム戦線に支配地を奪われ、家、農地、車など全ての財産を失い着の身着のままでトルコ側に脱出し、アンタキヤの隠れ家に潜伏中だった。
アンタキヤでは、イスラーム系NGOダール・アズィーザの代表の立場で、シリア難民が運営する「フダ-・モデル小学校」を訪ね、日本からの寄付を渡してきた。この希望する子供は誰でも受け入れており、学費が無料なだけでなく、食事と制服も無料で支給される。丁度給食の時間にお邪魔したので見学させてもらったが、食事はパンと牛乳かジュースで、校長が自ら配って回っていたが、400人分の毎日の食事がサウジの一人の篤志家の寄付に依っているらしい。子供たちに将来の夢を聞いたところ、殆どが医者か教師だったが、一人だけムジャーヒド(聖戦士)になりたい、という男の子がいて、校長が慌てて「私たちは武器ではなく知識によってジハード(聖戦)することを教える」と言い繕っていてのが面白かった。
そうこうしているうちにウマル師の紹介でアル=ラッカに入ることになったのだが、「シャンル・ウルファの町にホテルを取れ、そうすればホテルに迎えの者を送る」との彼の言葉を信じてシャンル・ウルファに投宿したが、迎えの者など来ず、ウマル師からもらったエージェントの連絡先に電話すると「自分で国境に来い」と言われる。初めての土地でいきなり、「国境に来い」という大雑把な指示でいったいどうすればいいのか、と思った。なにしろトルコとシリアの国境は約900キロもあるのだ。しかし、いくら聞き返しても、「国境」としか言わないので、仕方ないのでタクシーに乗って、「国境まで」と言うと、慣れているようで、黙って国境の検問所に連れて行かれた。国境に着いても迎えもいないし、屋台のサンドイッチ屋があるだけで何もない。仕方ないので迎えを寄こすよう、エージェントに電話し、ビルの一角の礼拝所で礼拝を済ませ、サンドイッチとお茶を頼み、お茶を飲みながら、迎えを待った。
国境の検問所の前の屋台で、ただでさえ目立つ日本人がぼんやり何時間もお茶を飲んでいれば目立つことこの上ない。セキュリティーも何もあったものではない。屋台でたむろしている人たちに聞いたところ、国境は週に二日だけしか開かないが、今日は生憎閉まっているので明後日出直して来い、という。いったいどうなっているのか。
ようやくエージェントと連絡がつき、「運び屋」の電話番号を教えられるが、アラビア語が分からないトルコ人の運転手なので話が全く通じない。そこでエージェントに電話して「なんとかしてくれ」と頼むと、「誰でもいいのでその辺の人間に携帯を渡して『運び屋』に電話してもらえ」、と言う。本当にセキュリティー感覚のかけらもない話だ。結局、屋台のまわりの人間全員を巻き込み、「ちょうどアル=ラッカに戻ろうと思っていた」と言うISISのムジャーヒディーンを自称し煙草をすぱすぱ吸っているヤンキー風の若者も便乗することになり、「運び屋」に連れられて国境越えに向かうことになった。
国境の検問から小一時間走り、日暮れ前に車を降りて、前もよく見えない叢の中を「運び屋」たち4人で国境に向かう。トルコの国境警備隊が追いかけてきた。威嚇射撃で発砲されても気にせず後も振り向かずひたすら国境を目指し、泥水をはった堀を渡り、傷だらけになりながら鉄条網をくぐり抜けると、国境警備隊は諦めて帰っていった。
後で聞くと、足が悪くて走れないため一番遅れて国境を越えた私は、背後数十メートルの距離まで国境警備隊に迫られており、皆、私がつかまるものと思って見ていたらしい。
シリアに入るとISISの支配地で、間もなく迎えの車がやって来て、検問らしい検問もなく、夜道をISISの「西の首都」アル=ラッカまで直行した。アル=ラッカでは、ムジャーヒディーン移民管理局に投宿した。このムジャーヒディーン移民管理局の建物は、元は学校だったのを転用したもので、大部屋の教室に布団が敷かれて各部屋に十人前後の国籍も様々なムジャーヒディーンが雑魚寝している。飛び交う言語はアラビア語の他に、ロシア語が、フランス語、トルコ語、英語など様々だった。驚いたのは日本語で声をかけられたことで、話を聞くと、シベリアから来たタタール系のロシア人だそうで、日本語は日本のアニメで覚えた、と言う。『るろうに剣心』のファンで昔は相楽左之助のコスプレをしていたというが、シリアに転戦してくる前はマリでジハードを戦っていたという筋金入りの勇者だ。若い世代のムジャーヒディーンの文化的背景は我々の想像を遙かに超えて多様なのである。
翌日、当初の目的であるキリスト教徒に対するインタビューを行なった。ISISのムジャーヒディーンの宗務担当者のアレンジでキリスト教徒家庭を二軒訪れたが、二軒ともオスマン朝末期に迫害を逃れてシリアに移住してきたアルメニア人であった。彼らは難民だった彼らの父祖たちを暖かく迎えてくれたシリアのムスリムへの感謝を述べ、これからもここで生きていきたい、と語った。
ただし彼らアルメニア人も司祭ら教会の責任者たちはアル=ラッカから逃げてしまったので教会はISISに接収されていた。対して住民たちがイスラーム裁判所に書面で教会の返還を求めていたが、この時点ではまだ教会は封鎖されたままだった。
ジズヤ人頭税に関しては、上流、中流、下流に分かれ、月収約10万円を超える者が上流とみなされるが、広いアパートに住み上流と目される二軒目の家では、「年間10万シリア・ポンド(約7万円)は高すぎるのでなんとかして欲しい」と、一家の主人が同行した宗務担当者に苦情を述べていた。ちなみに年間10万シリア・ポンドという富裕者へのジズヤ人頭税の額は、富裕者には年間4ディーナール(金約16グラム)との、ハナフィー法学派の学説にほぼ一致している。
改宗か死か、と迫害されているはずのキリスト教徒が、狂信的で残忍と言われているムジャーヒディーンの宗務担当者と和やかにジズヤ(人頭税)の値切り交渉をしている姿がなんともおかしく、強く印象に残った。
ちなみに最初に訪れた家庭は公務員だそうで、月収約1万2千円はISISの支配下でもダマスカスの中央政府から支払われているそうだ。この時に聞いた話だと、アル=ラッカのムジャーヒディーンの月給は約五千円だそうで、一般の公務員と較べても安いが、住居と食事を無料で支給されているので、チョコレートを買うぐらいしか使い道がないので別に困らない、とのことだった。
強制改宗とジズヤ人頭税の賦課についての調査をここで纏めておこう。ISISは、「キリスト教徒には先ずイスラームに入信するか否かを尋ね、それで入信しない場合はジズヤ人頭税を払うかと尋ね、それも拒否した場合は戦闘になる」とのイスラーム法の規定に則り、入信とジズヤ(人頭税)の賦課について尋ねた上で、ジズヤ(人頭税)を払った者の安全は保障しており、キリスト教徒がISISの支配下で特に迫害を被ることもなく暮らしていることを確認することができた。とはいえ、アルメニア人でもアル=ラッカに残っているのは数百人ということで、司祭ら聖職者は逃亡しており、教会も接収されていたのも事実だ。また他のキリスト教の宗派には会えなかったことから、他の宗派は既に逃亡しているものと推測される。ISIS支配地がキリスト教徒にとって住みよい場所とは言えないのは確かであろう。しかし、彼らが迫害されている、とまで言うべき事実は一つも確認することが出来ていない。
ISISがキリスト教徒にイスラーム法を適用し、ジズヤ人頭税の支払いを求めた時の、欧米の報道は、「ISISがキリスト教徒に、改宗か死か、と脅し強制改宗を迫っている」、といった見出しのセンセーショナルなものが多く、多少ましなものでも、「改宗するかジズヤ人頭税を払うか死か、の選択を迫っている」、と書き立てた。しかし、これは理論的にもおかしく、事実としても間違っている。正しくは、イスラーム法の規定は、「改宗かジズヤ人頭税支払いか死か」ではなく、「改宗かジズヤ人頭税支払いか戦争か」、だ。そしてイスラームの戦争法の規定では、敵は必ずしも殺す必要はない。敵は捕虜にすることもでき、捕虜は無償で解放することも、捕虜交換で解放することも、身代金を取って解放することも、奴隷にすることも、処刑することもできるのであり、死は選択肢のうちの一つに過ぎない。そして、実際に、ISISは改宗もジズヤ人頭税支払いも拒否したキリスト教徒を、いきなり殺すことも捕虜にすることもなく、無償で「解放」し、傷つけることなくISISを立ち去らせている。このことからも分かる通り、
ISISはイスラーム法の運用においても決して極度に厳格主義的、教条主義的ではなく、ましてや憎悪に満ちた独善的な狂信者でもなければ、残酷無慈悲な血に飢えた殺人鬼集団でもない。アル=ラッカでアルメニア人とインタビューを行なって、その思いを強よめた。
インタビューが終わった後で、宗務担当者の車で市内を見学させてもらった。そこここに爆撃や自動車爆弾による自爆攻撃で破壊された家屋があるのが内戦を思い出させるとはいえ、商店街はそこそこ繁盛しており街には活気があるように見えた。
移民管理局に戻ると、ムジャーヒディーン全員に夕食が配られた。調理場を見学させてもらったが、大鍋を前にした炊事係はカタール人とインド人のムジャーヒディーンだった。さすがインド人、彼がつくった野菜カレーは絶品だった。
この夜は、寝床がない、ということでムジャーヒディーンの雑居房からも追い出され、移民管理局のモスクとして使われている広間の礼拝室の片隅に毛布を敷いて寝かされることになった。夜明け前になるとアザーン(礼拝の呼びかけ)が鳴り響き、ムジャーヒディーンたちが集まって来て集団礼拝が始り、その後も礼拝したい者が三々五々やって来る。プライバシーなど全くなく、着替えることもゆっくり眠ることもできはしない。まぁ、ムジャーヒディーンたちにとっては、雨露しのぐ屋根があるところで毛布にくるまって眠れるだけでも天国なのだろうが。
ちなみに、アル=ラッカは携帯電話回線はまったく繋がらない。ただし移民管理局にはインターネット回線があり、私もパスワードを教わり、一度だけネットに繋がせてもらい外部と通信することが出来た。
ジズヤ(人頭税)に関するインタビューも無事終えたので、翌日にはアル=ラッカを後にした。移民管理局の車で街を出ようとすると、検問で銃を持った覆面の男に呼び止められた。何を調べられるのか、と少し身構えたが、覆面の奥でにこっと笑って、チョコレートをくれた。5千円の月給で足りるのか、と尋ねた時に、「うーん、チョコレートを買うぐらいしかお金の使い道がない」と答えられたのはこういうことなのか、と納得したのだった。
帰り道はトルコ側の病院に連れて行くという赤ん坊を抱えた女性も同行していたので、楽なルートを通れるのかと期待したが、結局、トルコの国境警備隊の監視が厳しく、予定していたルートは通れず、結局来た道を帰ることになり、赤ん坊連れの女性は越境を断念しシリアに戻された。
トルコからシリアに入った同じ場所から、同行者3人とまた鉄条網をくぐって今度は夜遅くにトルコ領内に入った。しばらく叢を歩いていると、突然サーチライトに照らされた。事前の打ち合わせ通り、散開して逃げた。走れない私だけはその場に横になって、することもないのでツイッターで実況中継をしていた。その時の実況をTwilogから復元してみよう。
3月18日
トルコ観光旅行中銃を持った暴漢に襲われ友人たちとはぐれ草原に寝転び、呆然と空を眺めているなう
posted at 05:51:15 (日本とトルコで7時間の時差があるのでトルコ現地時間では17日22時51分15秒)
どうしたものか...
posted at 05:53:16
ああ、泥まみれ (T_T)
posted at 05:57:19
草原に泥まみれで一人寝転び空を眺めているなう。ともあれ、雨あまり降ってなくて、無視もいない季節で良かった。アルハムドリッラー。
posted at 06:02:14
田舎の夜は静かで声が遠くまで聞こえます。蛙と犬の声もします。まだ遠くで暴漢の声が聞こえるので暫く隠れています。トルコ観光中Tek tek daglari milli parki の近くで道に迷っています。
posted at 06:24:16
捕まって解放されたなう
posted at 07:54:12
"@masanorinaito: @HASSANKONAKATA ←大丈夫ですか?" 3時間畑の中を歩いて友人の友人の車に拾われたなう。アルハムドリッラー。
posted at 09:52:50
1時間余り銃声が鳴り止まぬ捕り物の末に全員が捕まってしまった。撃ってきたのは今回は国境警備隊ではなく村の自警団で、銃声は猟銃のものだった。
銃を突きつけられていろいろ尋問された。煎じ詰めると、どうやら我々が頼んでいた「逃がし屋」の運転手が余所者で、自分たちの村を通るのに何の挨拶もなく、余所者の逃がし屋だけが儲けて村に金が落ちないのが気にくわない、という話だったようだ。結局、私は所持金の約300ドルの現金を巻き上げられた上で、夜道に放り出され泥濘の田旗の中を2時間ほど歩いた末にようやく電話連絡がついたシリア人の友人の車に救出され、翌日疲労困憊して日本への帰路についたのだった。(続く)

「イスラーム国訪問記」(1)

「イスラーム国訪問記」(1)

 シリアへはエジプト留学時代以来何度も訪問しているが、これまでは首都ダマスカスにしか行ったことはなかった。ダマスカスを訪問の目的はウラマーゥ(イスラーム学者)たちとの意見交換が目的だった。ダマスカスで会ったウラマーゥの中には、前シリア・アラブ共和国最高ムフティー(イスラーム教義諮問官)故アフマド・クフタロー博士、現代アラブで最高のイスラーム法学者とみなされているワフバ・ズハイリー博士、アサド政権の御用学者としても知られた故ラマダーン・ブーティー博士、そして
そして知る人ぞ知るジハードに関する研究に於ける現代イスラーム学の最高峰『シャリーア(イスラーム聖法)に基づく政治に於けるジハードと戦闘(al-Jihād wa-al-Qitāl fī al-Siyāsah al-Shar’īyah)』の著書ムハンマド・ハイル・ハイカル博士もいる。
中でも前シリア・アラブ共和国最高ムフティー(イスラーム教義諮問官)故アフマド・クフタロー博士には、何度も自宅にお邪魔させていただき、いろいろな質問をさせていただいた。余談になるが、中でも貴重なのは、啓典の民であるキリスト教徒が屠殺した肉は食用が許されているので、キリスト教徒が国民のマジョリティーであるアメリカやオーストラリアからの輸入肉は食べても構わない、との書面のファトワー(教義回答)である。クフタロー博士が生きておられたら、ハラール認証を利権に変えて食い物にする詐欺師どもの跋扈を見てどう思われることだろう。
シリアでダマスカス以外に足を踏み入れたのは、内戦が本格化して以降、2013年の3月が初めであった。当時はまだエジプトで軍のクーデターでムスリム同胞団のムルスィー政権が倒される前で、タハリール広場でもカリフ制再興について自由に演説することが出来た。エジプト留学時代からのジハード団の旧友でカリフ制再興を訴えるムハンマド師の弟子たちがアサド政権を打倒しカリフ制を樹立するためにジハードをしにシリアに渡った、と聞き、彼らに会ってジハードの実情を見に行こう、と思っていた。そこでイスタンブールのスルタン・アフメト・ファーティフ大学文明連帯研究所でワークショップに参加する機会があったので、足を伸ばして国境の町キリス経由でシリアに入ることにしたのだった。
それ以降、2013年8月、12月、2014年3月、9月と合計5回シリアに入っているが、今にして思うと、この時が一番楽な国境越えだった。というのはこの時は国境のシリア側を自由シリア軍が支配しており、国境が普通に開いていたからだ。国境の幹線道路ではシリアに荷物を運ぶ大型トラックが最後尾が見えないほどの長蛇の列を為していた。私もエジプトの友人から紹介されたエージェントに連れられて、乗り合いバスでシリア人に混じってパスポート・チェックもなく、シリアに入ることができた。当時は多くの反体制グループが割拠しており、いくつものチェック・ポイントを通過してムハンマド師の弟子たちが待つアル=バーブ市に入った。当時はまだイスラーム・カリフ国もその前身の「イラクとシャームのイスラーム国」(以下、ISISと略記)も存在せず、彼らはヌスラ(援助)戦線に所属していた。アル=バーブ市ではヌスラ戦線が最も力があったが自由シリア軍ほか、様々な武装勢力が雑居、共存していた。
我々を暖かく出迎えてくれたムハンマド師の弟子たちは、3LDKのアパートに数名のほ若いムジャーヒディーンたちと一緒に暮らしていた。彼らの同居人はチュニジア、モロッコ、スーダン、サウディアラビアなどで、多国籍ながら全員アラブ人だった。同行者がトルコに帰らなくてはならない予定があるため3日しかいられなかったが、その間は、彼らのアパートに泊めてもらった。客室などはなく、一緒の食事を摂り、皆で雑魚寝だった。ムジャーヒディーンといっても、最前線にいるわけではない彼らは基本的に暇を持て余しており、部屋でプロレスごっこなどをしていた。要するに運動部のノリであり、いわば終わらない合宿なのである。
月給はこの時は僅か約3000円。それでもムジャーヒディーンには住居が無料で支給されるので、主食のパンが1枚3円と物価が安いシリアでは十分暮らしていけるらしい。第一、お金を使う遊興施設もなければ、女の子とデートなど考えられないムジャーヒディーンにはお金の使い道がない。
アル=バーブ市は町外れの丘の上で時々トルコの携帯電話が通じることもあるが、市中は電話回線は一切繋がらない。しかし町中にネットカフェがあり、彼らはインターネットで外界とアクセスしていた。電気は一日に数時間停電しており、時に断水した。もっとも、日に数時間の停電や時々の断水はアフガニスタンの首都カーブルで暮らしたときもそうであったが、慣れればそう不便には感じなくなるものだ。
この旅では戦場を見ることはなかったが、武器工場を見せてもらった。元は小さな町工場だった、という鉄工所で、手作り感一杯の迫撃砲や砲弾が並んでいた。爆薬は不足しているので、なんとシリア政府軍の空爆の不発弾や、第一次世界大戦でイギリス軍が埋めたのを掘りおこした地雷から火薬を抜き出して使っているという話だった。
 精強で知られたヌスラ戦線だったが、実は兵器は不足していた。予想に反して武器市場は機能しておらず、彼らの武器はもっぱら戦闘で鹵獲した戦利品だ。つまり市場に流れた鹵獲品を買うしかないとのことで、彼らの中にも自分の自動小銃カラシニコフを持っておらず、出陣する時には非番の仲間のを借りている者もいた。カラシニコフと言えば100ドルから200ドルが世界の相場だが、シリアでは1000ドルの高値だった。ちなみにチェコ製拳銃は400ドル、ロシア製の軽機関銃は8000ドル、スナイパーライフルは9000ドル、RPGは500ドルで砲弾は300-700ドル、迫撃砲は1000―3000ドル、砲弾は1000ドル、手榴弾50ドルということだった。
 2回目にシリアに入ったのは2013年の9月でカタル、エジプト、トルコでの調査のついでに足を伸ばしたのだが、この時の国境越えはやはりキリスからだったが別のルートで、徒歩で鉄条網を超えてだった。鉄条網を超えると言っても、下に人が屈んでくぐれるほどの穴が掘ってあり、そこを通り抜けるだけだ。一応、国境警備隊がパトロールしており、彼らが居なくなってから急いで渡るのだが、鉄条網越しにトルコ側の住民とシリア側の住民がのどかに歓談しており、国境警備隊も仕事なので一応見回ってはいる、という風情で、完全に黙認状態だった。
 しかし、シリアに入ると情勢は一変していた。2013年4月にイラク・イスラーム国が、「ヌスラ戦線は自分たちの下部組織であったがこの度正式に合併し、今後はISISを名乗る」と宣言したが、ヌスラ戦線が合併を拒否し、両者は分裂し、抗争が始まっていた。アル=バーブ市はISISがほぼ掌握していたが、ムハンマド師の弟子の友人たちはISIS側に移籍していた。しかし彼らの友人や親戚の中にはヌスラ戦線に残った者もいて、相互に交流があり、アル=バーブ市に限って言えば、その時点では両者はまだ共存していた。それ以上に大きな変化は町の雰囲気で、3月にはあった「外国人」ムジャーヒディーンに対する市民の歓迎ムードは完全に消え、終りの見えない内戦に疲弊した市民の中には、「外国人」ムジャーヒディーンこそが内戦の原因だと考え、冷たい視線を投げかける者や、あからさまな敵意を向ける者が増えていた。特にこの時に知り合った非アラブのカザフスタン人のムジャーヒドは、「シリア人は全く信じられない。いつ寝首をかかれるか分からない」と言って、一歩でも家を出る時は決して拳銃を手放さなかった。
 私がアル=バーブ市に入った翌日、シリア政府軍がアル=バーブ市を空爆し、それに呼応して町に残っていたシャッビーハ(新アサド派民兵)が攻撃を仕掛けてきた、ということで、友人たちも戦闘に駆り出されることになった。そこで、「ここは危険になった。安全を保障できないので直ぐにトルコに戻ってほしい。」と言われた。戦闘に巻き込まれて殉教死するのは大歓迎だが、武器も扱えないばかりか満足に歩ることもままならない役立たずの私が側にいて彼らの足手まといになるのは不本意の極みなので、予定を早めに切り上げてトルコに戻ることにした。
 3回目にシリア入ったのは、2013年12月だった。15日にインドネシアで解放党のカリフ会議で発表、20日にトルコのISAR(イスタンブール研究教育基金)主催の国際会議で発表があったので、その合間に駆け足でシリアに入ることにしたのだ。この時は、前々からジャーナリストのシャミル常岡さんの知人で「イラクとシャームのカリフ国」の越境担当司令官のウマル・グラバー師から「是非会いたい」と言われていたので、彼を訪ねてみることにした。
この時はトルコのハタイから川を渡って越境することになった。川といっても、川幅は20メートルほどしかなく、寒い中を子供が水遊びで泳いでいるのを横目に、両岸に渡した太い綱をつたって大きな盥のような船で越境した。人間が渡っている横で、ポリタンクに詰めた原油が同じ盥の船に積まれてどんどん輸送されていた。ここでもトルコの国境警備隊のパトロールの車はやはり申し訳程度に数十分間隔で回って来ていた。そのだけ間は渡し船の動きは止まるが、パトロールの車が対岸をゆっくり通り過ぎていく間も、シリア側では人間は身を隠さず、また石油のポリタンクも隠そうともせず、彼らの姿が見えなくなるや否や渡河を再開する。トルコ側が黙認しているのはここでも明らかだった。
その日はサルキーンのウマル師の家で夕食をご馳走になり、離れに泊めていただいたが、翌朝、アル=バーブ市のエジプト人の友人たちが私に会いにやって来た。1悪路を車を飛ばして、150キロも離れたアル=バーブから会いに来てくれたのを断るわけには行かないの。明日、クワイリス軍用空港の攻撃作戦があるから一緒に行こう、ということでアル=バーブに連れて行ってもらうことになった。
3回目のシリア入りで初めて戦場に足を踏み入れることになったわけだ。ところが朝早く出撃のはずが、結局だらだら昼食まで食べてから友人のムジャーヒディーンたちを車で拾っておもむろに出発。武器庫でピックアップトラックに乗り換えて、組み立て式の迫撃砲を積んで空港に向かう。空港の近くに行くと、検問所で覆面の兵士たちに「テロリスト(イルハービー)ども、何しに来たんだ?」と呼び止めらた。すわ、政府軍と遭遇か、とビクッとしたが、彼らの顔は笑っており、仲間のムジャーヒディーンで、空港を包囲している部隊だと分かり安心した。安心はしたが、友軍の間でも横の連絡も上からの指示も全くなく、数人単位の小部隊が気まぐれで攻撃を仕掛けていることも分かってしまった。もっとも連絡を取ろうにも携帯電話の電波がないので連絡の取りようもないのだが。
結局、空港から1キロほど離れた低い丘の影に運んできた迫撃砲を据え付け、小一時間かけて10発の砲弾を撃ち込んでゆうゆうと撤収した。空港側からも迎撃の砲声、銃声が聞こえるが、丘を隔てての盲撃ちなので近くに着弾した気配は全くなかった。実はこちらの攻撃も同じで敵側に損害を与えた様子は全く見られなかった。
「砲弾一発が1000ドル、これで10000ドルが無駄に消えたのかー、あぁ勿体ない。」が初めての戦場体験の感想だった。
 クワイリス空港攻撃作戦から無事生還して、エジプト人の友人たちに送られて、サルキーンのウマル司令官の許に戻り、ウマル司令官に連れられて、イドリブ県知事のウマル・ミルアート司令官に会いに行きISISの施政方針などにつき一時間ほど懇談した。
特に話題になったのは、その時点で、既にアブー・バクル・バグダーディーがカリフの別称でもある「アミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)」を名乗っていたことだった。ウマル・ミルアート知事は、あくまでもアブー・バクル・バグダーディーはISISの指導者であって、全ムスリムのカリフではない、と説明してくれた。そしてそれが正しかったことは、2014年6月末にアブー・バクル・バグダーディーが改めてカリフ就位を宣言したことで証明されることになる。
 ウマル・ミルアート知事は私が初めて会ったISISの高官だったが、30歳そこそこの若者ながらが、笑顔を絶やさず私のただたどしいアラビア語の言葉に静かに辛抱強く耳を傾け、気負いもてらいもなく誠実に応対してくれた。ウマル・ミルアート知事は、30年を超えるアラビスト人生の中で、私がこれまで会ったアラブ人の中で最も気持ちのいい好青年だった。彼との出会いは、独善的、権威主義的、残酷な狂信者、といったISISの指導部のイメージを完全に覆すもので、彼のような人材がいる限りISISの未来は決して暗くはない、との希望を持たせてくれるものだった。
 翌日、慌ただしくまた盥の船で川を渡ってトルコに戻り、イスタンブールでのISARの国際会議での発表の冒頭で、私がISISの支配地を訪れたこと、彼らがカリフ制再興を目指して国作りをしている現場をこの目で見て、イドリブ州知事と意見交換をしてきたことを報告し、日本に戻った。
 そして今回のイスラーム・カリフ国訪問で、私がこの時イスタンブールでISISについて客観的で好意的な報告をしたことがイスラーム・カリフ国の指導部に伝わっていたことを知ることになった。(続く)




2016年12月2日金曜日

「間違いだらけのハラール認証」発表要旨

2016年12月3日                                       イべントBarエデン

間違いだらけのハラール認証

中田考(同志社大学客員教授)
発表要旨


1. ハラール認証を論じることの難しさ
(1) ハラール認証の欺瞞を暴くことは、ムスリムと非ムスリムの敵対を助長する。
(2) ムスリム諸国が全て反イスラーム的であり、「公的」に見える「イスラーム」自体が実は反イスラームであり、ハラール認証もそうした「公的」イスラームの一つである。 → (イスラームの唯一の合法政体)カリフ制再興だけが解答

2. ハラールとは何か
クルアーンには定義なし。定義はハディースに。
「アッラーがその書(クルアーン)の中でハラール(合法)としたものがハラールであり、ハラーム(禁止)とされたものがハラームである。黙されたものは御目こぼしであるので、アッラーからのそのお赦しを受け取れ。汝の主は忘れていたわけではない。」(ダールクトゥニー、ハーキム、タバラーニー)

3. イスラーム法とハラール
行為の5範疇 ①義務②推奨③許可(ハラール、ムバーフ)④忌避⑤禁止(ハラーム)
属人法→ 非ムスリムには義務負荷なし、許されない罪多神崇拝を犯せば不信仰者

「・・・アッラーフは他の神と並べられることは許さないが、それ以下のことなら御望みの者を赦される・・・」(4章48節)

4. 言語としての啓典
クルアーンは人間の言語であり、啓典クルアーンは有限な言語からなる導きの指針
クルアーンは、ムスリムが自分の行為の判断ができるための善悪の一般的なカテゴリーを示す十分な基準
クルアーンはハラール、ハラームの範疇を示し、個物の判断は各ムスリムに任される

5. 多神崇拝(シルク)
 クルアーンは、ユダヤ教やキリスト教を多神教とみなすのは、彼らが、教義を決める聖職者制度を作ったから。

6. クルアーンの食物規定
禁止:死肉、血、豚肉、アッラーの名を唱えられえた物以外(2:173,5;3,6:145)

6.イスラーム法上のハラーム
哺乳類、鳥類では豚以外、猛禽、猛獣。屠殺されないもの。
虫や爬虫類、両生類はイナゴとトカゲを除いてハラームが通説。
水生動物は見解が分かれる。魚以外はハラーム説。ただし魚とは何か?

7. 食品がハラールであるかどうかを誰が知るのか
肉を屠殺した者、肉を買った者
自分自身に関してはハラール、ハラームの判断を下す義務と権限(ウィラーヤ)
人間はすべて自由で自分に対する権限 他人に対して命令権を持つのはアッラーの使徒とその後継者(カリフ)だけ

8. ハラームを避けるとは
なによりもまず不正に入手されたものを避けること

9.ビドア
ビドア=新奇に人間の手によって作り上げられたもの
アラブ遊牧民の伝統では「周知のもの=善」「知らないもの=悪」

10.ハラール認証はビドア
ハラール認証は預言者や正統カリフ時代はおろか、アッバース朝、オスマン朝のカリフ国家でも、4法学祖たちも行わず、現在でさえ、サウジアラビアやイランなどには存在せず

11.イスラームの統治制度
イスラームにはアッラーの使徒の没後、聖職者も教義決定機関もなし。教義に関しては、自分で判断できなければ、誰でも自分が信ずる者を選んだ相手に質問することができるが、その場合でさえ、その回答(ファトワー)は拘束力を持たない。
社会関係行為で訴えがあった場合、カリフの代理人であるカーディーによる裁判。
行政のイニシアチブとしてはカリフの下のヒスバ(行政監督)制度

12.啓典の民
「今日(清き)良いものがあなたがたに許される。啓典を授けられた民の食べ物は、あなたがたに合法であり、あなたがたの食べ物は、彼らにも合法である。また信者の貞節な女、あなたがた以前に、啓典を授けられた民の中の貞節な女も。…」(5章5節)

2016年11月18日金曜日

「イスラームにおける救済の境界と異教徒との共存」



20161117   オリエンス・セミナー第89   オリエンス宗教研究所

「イスラームにおける救済の境界と異教徒との共存」

中田考(同志社大学客員教授)

  資料                   

 
   イスラームにおける救済の境界
イスラームはアーダム(アダム)以来の全ての預言者の宗教であり、救済は「ムハンマドのウンマ」を越えて、アーダムからイエスに至る預言者たちの教えに従った全ての「一神教徒」、即ち「広義の」ムスリムに及ぶ。これはイスラームの合意事項であり、宗派、学派の違いを超えて異論は存在しない。「イエス・キリスト以前に救いは存在するか」といった問題はイスラームにはそもそも存在する余地はない。
ムハンマドの宣教以降についての「ムハンマドのウンマ」を越えた救済の可能性をめぐっては、アシュアリー派神学が、3つのカテゴリーについてそれを認めている。
第1は、イスラームの宣教が届いていない者で考察によって自力で唯一神崇拝に辿り着いた者である。このカテゴリーに属する者は「広義の」ムスリムと認められる場合もあり、その救済については、同派の中に異論は存在しない。
第2は、イスラームの宣教が届かなかったために宗教に無関心に生きて死んだ者である。後期アシュアリー派の通説では、彼らは救済に与る。
第3は、イスラームの宣教が届かず積極的「無神論者」として確信犯的に神を拒絶して死んだ者である。彼らの救済については同派の中でも見解が分かれるが、救済説も有力である。
以上に概観した通り、異教徒に救済の可能性が開かれていることは、何世紀にも亘る長い議論の末に、反対説と並んで、スンナ派の「正統」神学の一つアシュアリー派の「学説」として承認されており、「学説」として自由な議論の対象となる。そして本稿が明らかにした通り、アシュアリー派による異教徒の救済論は、貿易・交流、征服・被征服などの異教徒との政治・社会・経済関係の利害打算を反映した外在的な妥協案、折衷策、外圧による言論の歪曲の産物ではなく、神学の内在的な理論的要請から生まれたものである。それゆえ一時の流行や状況に流された近視眼的な首尾一貫性のない借り物の「思想」ではなく、このアシュアリー派神学の救済論の伝統を継承し深化発展させることこそが、私見によれば将来のイスラームと他宗教の共存の神学的基礎となる。(中田考「救済の境界 ‐イスラームにおける異教徒の救済ー」『一神教学際研究』2,2006/2)
* 価値観を共有しない敵との対話は可能か
 人間は見も知らぬ人の為に心を動かすように動物として制度設計されていない。
 動物行動学が教えるところによると、 泣いて涙を流すこと、微笑み、そして跪く、お辞儀をするといった儀礼的動作は、人間を「武装解除」させる。人間は隣人を愛おしみ、弱い隣人を哀れむように制度設計されている。
 しかし、人間が動物以上の知能を授かり、道具を発明し、動物としての身体機能を超えた行為が可能になった時、動物としての人間に生得的に備わった武装解除機構はもはや十分ではなくなった。
 目の前で跪いて涙を流して命乞いをする者への攻撃の抑制機構は、顔も見えない遠隔の他人を殺すミサイルの発射スイッチを押すことを防ぐことはできない。
 人間という動物は目の前で寒さに震え飢えに泣く者を憐れむように制度設計されてはいても、遠い異国の目にしたこともない難民に同情するようには創られていない。
 身近な家族と隣人のみしか知らない動物としての人間は、世界の悪に対してイノセント(無罪)である。
 しかし、知性を授けられ、道具を使うことを選び取り、動物としての身体能力を超えた行為が可能となり、自らが知り影響を及ぼすことが出来る可能性空間を地球規模にまで広げた人間は、知性によって力を得たことと引き換えに、生得的に制度設計された憐れみと攻撃抑制の本能の指示を超えて知性を用いて自らの可能性空間全域で起こりうる所業の善と悪を判断し行動するという重い責任を負うことになった。
 『我ら(アッラー)は天と地と山に信託を提示したが、それらはそれを恐れて担うことを拒んだ。ところが人間は、それを引き受けた。実に人間とは不正な存在である。』(クルアーン33章72節)
 かつて人間は遠隔地で起きている出来事にイノセントであった。しかし、書物、テレビ、インターネットを手にし、遠隔地の出来事を知のコンテンツとして消費することを選び取った者は、グローバルな不正をも「身近に」知り、抑制する責任を負うことになる。
 しかし、そうして「身近に」見られるようになった仮想空間は、どこまで世界をリアルに映し出しているのだろうか。生々しく身近に見ることができる野蛮な映像が映し出しているのは、果たしてその映像の野蛮のリアリティーなのか。それともそれは、我々のメディアをもってしても生々しく身近に見ることができない一瞬にして人体を跡形もなく破壊し尽くす隠蔽された野蛮の陰画なのか。
 我々の知性は、この仮想空間から我々が責任を負うべきリアリティーを正しく読み解く能力が果たしてあるのだろうか。
 不正にも知性と自由という重すぎる信託を引き受け、可能性空間をグローバルに拡張してしまった我々は、もはや世界の出来事にイノセントではいられない。我々は今、その現実を目の前に突きつけられているのである。・・・中略・・・
 イスラーム法は戦闘を二種類に区別する。ムスリム同士の戦い「反徒との戦い」と異教徒との戦い「ジハード」である。「反乱との戦い」は同じ価値観、即ちイスラーム法を共有する者同士の間での戦いである。それゆえ争いは、法解釈と事実認識の問題となるのであり、原則的に議論による完全な合意が達成可能である。
 ところが、ジハードは異教徒との戦い、つまり根本的に価値観を異とする敵との戦いである。根本的に価値観を異とする、つまり共役不能な価値観の持ち主の間の対話においては完全な合意の達成は原則的に不可能である。そこでは部分的合意か妥協が成立するか、対話が決裂して武力闘争に発展するかしかありえない。
 イスラーム法はジハードの開戦、休戦などの戦争法規を有する。グロチウス(1645年没)に800年以上先立ち、イスラームはハナフィー法学派の大法学者シャイバーニー(805年没)の『大戦時行為の書(キターブ・アル・=スィヤル・アル・=カビール)』によって戦時国際法を体系化している。
 しかし、イスラームの国際法とグロチウスらが創始した西欧の国際法には根本的な差異が存在する。それは、西欧の国際法が、根本的には西欧キリスト教文明の同じ価値観を共有する等質の国家の間のルールであったのに対し、イスラームの国際法とは根本的に価値観を異にする敵との関係を律するイスラーム教徒だけに適用されるルールであったことである。
 イスラーム法は来世での最後の審判における賞罰によってその効力が担保された神授の天啓法であるためカテゴリカリーにイスラーム教徒だけを拘束する属人法であり、異教徒には適用されない。
 イスラーム法が、戦闘において女子供、老人、病人、修道士のような非戦闘員を殺害してはならないのも、ジズヤ(人頭税)を納めることに同意した異教徒とは戦争が禁じられ永代居住庇護契約を結ばねばならないのも、慣行が成文化したわけではなく、また敵との力関係、利害打算の産物でもなく、 神からそう命じられたからであり、 ムスリムは「一方的」に順守するのである。
 西欧に生まれた国際法が、国際法の正当性/合法性(legitimacy)を承認した法的主体全員を拘束するのに対し、イスラーム国際法はイスラーム教徒のみを拘束し、異教徒はイスラーム国際法の正当性/合法性(legitimacy)の承認を求められることはなく、イスラームの家(イスラーム国家)の内部に住む庇護民はカリフと結んだ庇護契約(アクド・ズィンマ)、イスラームの家の外部の敵性国民の場合はカリフとの間に締結した休戦協定(スルフ、フドゥナ、アフド)を自分がなした約束であるが故に守ることだけを求められるのである。
 イスラームは、イスラームと他の宗教、イデオロギーが共役不能で決して一つにはなれないことを当然の前提とする。他の宗教、イデオロギーを信奉する他者は、価値観を共有しない敵である。しかし、イスラームは、 他の宗教、イデオロギーを信奉する他者が価値観を共有しない敵であると見做すが、価値観を共有しない敵とは対話も交渉も共存もできないとは決して考えない。
 そうではなく、異教徒であれ、「自分の言葉(約束)を守る」なら、対話が成立し交渉による共存が可能であると考える。そして、言葉(約束)を守らないと考えるべき証拠が示されない限り、異教徒であれ人は言葉を守るものである、との人間理解がこの法思想を支えている。それは人間を「理性的(言葉を話す=ナーティク)動物」として定義した イスラーム文明におけるギリシャ文明の受容からも説明できる。
 イスラームはイスラームを絶対的真理、異教徒を価値観を共有しない敵と見做すが、さりとて、その価値観を共有しない敵を対話の成立せず共存が不可能な人外の存在と考え悪魔化することもない。
 むしろ、イスラームは、人が人である限り、つまり「言葉を話す存在」としての言語の内的ルール、「自らの言葉を守る(言葉の意味論的、語用論的、統語論的意味に忠実に約束を履行する)」という条件さえ満たす限り、対話による共存の道が開けている、と考えるのであり、それがイスラーム国際法の考え方なのである。
 そして、対話と共存の枠組の構築に、 相手に対して「自らの言葉を守る(言葉の意味論的、語用論的、統語論的意味に忠実に約束を履行する)」という一点のみしか前提条件を求めないイスラーム国際法のこの考え方の方が、 一定の時代と場所に歴史的に拘束された特種なイデオロギーに過ぎない 「人権」、「自由」、「民主主義」などを普遍的価値であると称して他者に押し付け、その前提を共有しない敵にテロリストなどのレッテルを貼り悪魔化して対話を拒み暴力的に殲滅しようと謀る西欧の国際法の考え方よりも、文明間の共存の必要性がグローバルに視野に上ってきた今日的状況においてより求められていると著者は考える。(中田考「価値観を共有しない敵との対話は可能か」『現代思想 - 総特集 シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃 ; イスラム国とは何か』(2015-0343巻)
* 法的存在としての人間
イスラームは言語中心主義、理性中心主義であるかのように思われるかもしれません。しかし生まれつき言語中枢に障害がある者、あるいは怪我や病気や老いによって言語的思考能力を失った者は人間ではないのでしょうか。
確かにアッラーは人間の言葉の形をとった啓典において顕現し自らを人間に示されます。しかし、クルアーンにおいて言葉を持つ存在は人間だけではありません。動物や植物などの生物は言うに及ばず、無生物も含め、万象はそれぞれ独自の言葉を有しており、それぞれの言葉で神を称えています。ただ私たちがその言葉を理解できないだけなのです。
「諸天と地とその中にある者は彼(アッラー)を称えている。あらゆるものは彼に対する賛美で彼を称えているのである。しかしお前たちは彼らの称賛を理解しない。・・・」(17章44節)
またクルアーン第27「蟻」章では、スライマーン(ソロモン王)は蟻や鳥の言葉を理解します。ちなみに動物行動学の祖コンラート・ローレンスの著『ソロモンの指輪』の題名はこのヘブライ語(旧約)聖書のこのソロモン王の逸話にちなんでいます。
言葉を有しているのは人間以外のモノだけではありません。クルアーンによると最後の審判の日には、人間の四肢がその行いを証言することになります。
「彼らの舌、彼らの手、彼らの足が彼らに対して彼らが行ったことについて証言する日」(24章24節)
つまり人間とは単に言語中枢だけではなく、全身体において神を称える存在なのです。ですから、たとえ言葉がわからない人であってもまた、細胞から四肢に至るさまざまなレベルでの言語によって神を称えているのです。ただ私たちにはそれがわからないだけです。
フィクフ(イスラーム法学)のレベルにおいては、精神障碍者は、サフィーフ(愚者)とマジュヌーン(狂人)に分類されます。サフィーフはフィクフの専門用語としては行為無能力者、禁治産者であり、フィクフはサフィーフには補佐する後見人を指定すると同時に民事上の免責措置を規定しています。いっぽうマジュヌーンは理性を欠く人間で責任無能力者であり、あらゆる罪は免責され、現世でも来世でもいかなる懲罰を被ることもありません。
法学と神学の交差する領域で注目すべきは、「マジュズーブ(憑かれた者)」という概念です。「マジュズーブ」とは原義は「引き寄せられたもの」の意味で、神に引き寄せられ魅了された者を意味し、忘我の状態で「我こそは神なり」、「我を称えよ」などの、表面的には篤信の言葉を吐く者のことを指します。マジュヌーン(狂人)の原義が「ジン(妖霊)に憑依されたもの」であるのに対して、同じく受動分詞であるマジュズーブは何に憑かれたのかが特定されていません。
この「マジュズーブ」について、既述のシャーフィイー派大法学者ナワウィーの著『マカースィド』は「『マジュズーブ(憑かれた者)』の様な、理性を失った、あるいは理性が乱された者については、シャリーアの清い規定を守るために、彼等に生じたアッラーの命に反するように見えることは拒否しなくてはならないが、我々は彼等を放任し、彼等のことはアッラーに委ねるのである。」と述べています。
マジュズーブが忘我の状態で、理性のレベルでは涜神、背教ともとれる言葉を吐こうとも、それがなんらかの理由があって神から直接にあるいは天使を通して間接に神から授けられたイルハーム(霊感)の言葉である可能性を考慮し、その言葉を真に受けて彼を神人として扱うことも、逆に涜神の背教者として処刑することもなく、神に委ねて判断停止することが、スンナ派の定説となっているのです。
つまり、イスラームの言語重視には理性重視の側面があるのは確かですが、だからといって単純にイスラームは言語操作能力に長けた人間を聖別して他の被造物や理性において劣った人間を貶めている。といことにはならないのです。なぜならばイスラームは一方で、人間が言語を持つのと同様に森羅万象はそれぞれの言語を持っており、それにより神を称えており、それには言葉を話すことができない人間の四肢も含まれているとみなしており、また他方では人間の言語についても、マジュズーブ(憑かれた者)のように人間の通常の理性を超えた次元のコミュニケーションの手段になることを認めており、人間の理性を超えた言葉に対しては謙虚に頭を下げ判断を保留することをよしとしているからです。
イスラームが理性的存在としての人間の優位性を高らかに謳歌しているのではないことは、クルアーンの以下の不思議な節からも知ることができます。
「我らは信託を諸天と地に提示したが、それらはそれを恐れてそれを引き受けることを拒んだ。しかし人間はそれを引き受けた。まことに彼は甚だしく無知で不正であった。」(33章72節)
この節の「信託」は、自分の行動を自分で選びその結果に責任を負う自由意思による選択の自由を指す、と言われています。つまり、イスラームの世界観においては、人間は言語と理性を有することによって他の被造物に優越する特別な存在になったのではなく、選択の自由を持ちその結果に責任を負うことを選んだことで人間は他の被造物と本質的に異なる存在となったのです。そして選択の自由を引き受けたことで、人間は悪魔と並んで悪を犯す存在となったのです。
ここで選択の自由と責任を引き受けたことにおいて人間が「甚だしく無知で不正であった」と言われていることは極めて重要です。
「それから(アッラーは)煙霧であった天にのぼり、それと地に対して、自発的に、あるいは強制されて、我の許に来たれ、と言った。すると両者は、自発的に参上いたします、と言った。」(41章11節)人間は自ら善を行いうるとの愚かな思い上がりにより、善のみを行い神の賛美が存在様態であり即自的に善なる被造物であることをやめ、悪を犯す存在になり下がってしまいました。それゆえ、「人間は甚だしく無知で不正であった」と言われているのです。天使と同じく被造物はそれぞれの言語で神を称えるために存在しており、存在様態そのものが善であり、悪を犯すことはありません。逆に悪魔は悪の化身であり存在様態そのものが悪です。人間だけが、自らの意志と責任において善を行うか悪を行うかを選択する、という特別な存在様態を有するのです。ですから人間が単に善を行うことには何の意味もありません。森羅万象の全ては万物の善なる行いなのであり、善であること自体にはなんら特別な意味などないからです。重要なのは「善を行うこと」それ自体ではなく、自らの「自由な選択として」善を行うことです。なぜならそれだけが、人間だけの特別に可能なことだからです。その意味で、自由に善を行う、神の命に自らの自由な選択として従うことだけに人間の栄光は存ずるのです。
学問としてのフィクフは行為を義務、推奨、合法、忌避、禁止に行為を類型化しますが、実はムスリムにとっては、行為が形式的に合法か不法かは問題ではないのです。それが自らの意志で神だけのために選び取られたことだけが、つまりイスラームの代弁者を騙る者への盲従からではなく、世間の目を気にしてでもなく、国家の罰への恐怖からでもなく、ただ神に対する敬慕と畏怖の念だけから神が嘉される善行を自ら進んで行ったことだけが問題になるのです。(中田考『イスラーム法』作品社)