2017年3月18日土曜日

アフメト・ダウトオール『戦略的縦深性』前書


前書

 ポスト冷戦期の戦略のテーマを定め、再評価するように努めることは大変難しい。というのは、それ自体が極めてダイナミックな問題を、それもまた極度にダイナミックな環境の文脈の中で主題化して理解する試みだからである。おそらくその歴史上最も重要な変化を経験しつつあるトルコが、やはり歴史上最も大きな変化の舞台となっている国際環境の中で、新たな変容を遂げつつあるのだ。形成途上のこのダイナミックな過程は、本書の序文で定義する概念化、解明、意味づけ、解説、オリエンテーションはどれも、どの頁でもすべてその全体において、極度に濃密な思考活動の断片にとどまっている。
 これらの方法論的困難にもかかわらず、論理的に首尾一貫しており、時空(歴史と地理)の理解の中で意味を有し、状況に照らして正当な戦略の分析をすることが、価値判断とは別に行うべき固有性を有することは、この問題構成自体に由来する。安定した構造であれば静態的な枠組の中で主題を定めて、平板な頭脳活動によって理解することが出来る。そのような(静態的)分析も、状況がもっと安定している時代であったならば明晰な事実を再構成できたであろう。しかしダイナミックな変化を経験している危機の移行期には、歴史的な影響力を考慮にいれた上で継続性のある戦略を練り上げることが重要となる。国の未来のオルタナティブを視野に入れた戦略分析の枠組が今こそ必要であり、本書もそれを目指したささやかな貢献となればと思う。
 社会の大きな変化は、時代に即したこの方法論の問題に真剣に取り組み、超克に努める戦略的アプローチ、分析、理論化が社会の歴史の舞台へ躍り出ること、そして歴史の舞台上のエスタブリッシュメントたちが既存の体制の推進力を変化させうる可能性の乗数効果での加速をもたらすことが出来る。近代のドイツの国力を成立させたドイツの戦略的オリエンテーションの基礎が、ドイツ統一の形成期の苦難の中で築かれたこと、安定的、累積的なイギリスの戦略思考がイギリス内戦後の進歩とその思想の向上の帝国拡張期の経験の中で、ロシアの戦略的オリエンテーションがすべてのパラメーターと19世紀のダイナミックな勢力均衡の中で形成されたこと、「アメリカの世紀」を現出させた戦略の累積が第一次、第二次世界大戦後の混乱期に集中したことは決して偶然ではない。
 ダイナミックな変化の過程にあある社会の中にあって、それに属する個体として当該社会に関する戦略を分析することは、急いで流れる波頭の高い川に流されながら、川床、流速、水流の方向、他の川との関係をなどの問題を研究することに似ている。自分が調査している川の中で自分自身も流されつつも、その流れの性質を理解し、その特質に鑑みて、その川に関して、表象、説明、解説、オリエンテーションの枠組を構成することを引き受けるのである。川の外からの傍観の中で(同時代の歴史の)流れに翻弄される人々の心情と人生を疎外することは、道義的に無関心な月並みで表面的な観察に成り下がる。一方、(歴史の)川に飛び込んで流れに身をまかせてしまっては、自分が飲み込まれた流れについて、事態を客観的に理解することはできず、自分の期待が混じっては、歴史の現実の意義を把握することはできない。社会科学の方法論において、このジレンマは、研究者「自身が試験管内で暮らす」と表現されている。
 このジレンマにおいては、川が(流される人々の)心情と人生を疎外することが道義的に責任があり、川に流されてしまえば、知的責任を負う余地は狭まる。道義的責任と知的責任の全体を理論的に調和させる研究者が、思考にあたってアカデミシャン自身の中で個人的な首尾一貫性を保つことも、社会文化的関係が普遍的真理の領域に影響を及ぶすことも非常に大きな力となる。思想家、知識人も、一般の人々と同じように、空間と時間、つまり歴史と地理の意味世界に、いやむしろ他の人々より以上に自己同一化できるので、自分が流された川だけでなく他の川の流れにも自己同一化してアプローチできるのである。
 一個人として普遍を感知でき、実存の意識とその深みと文明の主体としての特定の時代の流れを感じられる社会帰属の主体、そして歴史意識とその深み、つまりその意識が反映していると考えられる場を感得できる社会帰属の主体も、戦略的意識と縦深性を必要としている。個人のレベルでのミクロ・レベルから、社会、文明、歴史のレベルのマクロ・レベルへの向上、浸透は完成の探求であり、そしてすべての文化圏域は、この探求それ自体を真理の定義として表現している。
 本書では、この二つのレベルの意識の最も可視的である戦略的縦深性と、道義的学問的責任のバランスを取りつつ研究するように努力した。一連なりとみなしうるこの完成への冒険の歴史の縦深性と、実在の認識に関する諸々の部分を、同時代の同じ川を我々と共に流れゆく同志である我々の読者たちに捧げたい。
 本書の問題点は著者一人に帰されるが、主張すべきものがもしあるとすれば、主体という観点に立てば、同じ川を下る冒険を共にする者たちの匿名の文化の環境の産物である。同じ理由で、なによりもこの文化環境(伝統)の歴史的連続性を担保してきた先師たちとその一統、そしてこの環境(伝統)の全ての側面を共有してきた友人たちに、筆者は恩義がある。
 本書が時間把握の視角からは過去の歴史から未来への、空間把握の視角からは中心から周辺への架け橋となりますように。

2017年3月12日日曜日

アフメト・ダウトオール著『戦略的縦深性(Stratejik Derinlik)』目次

トルコ元首相アフメト・ダウトオールの109版のベストセラー『戦略的縦深性』の目次を取りあえず訳してみました。

『戦略的縦深性』

目次
序文

第一部 概念的、歴史的理枠組

第1章:
Ⅰ.力のパラメーターと戦略
1. 定数:地理、歴史、人口、文化
2. 変数:経済、技術、軍事力、
3. 戦略思考、文化的アイデンティティ
4. 戦略と政治的野望
Ⅱ.人的要素と戦略的制度における乗数効果
Ⅲ.典型的応用領域:防衛産業
1. 力のパラメーターと防衛産業
2. トルコの力のパラメーターと防衛構造
第2章
戦略理論の不備とその帰結
Ⅰ.トルコの力の要素の再評価
Ⅱ.戦略理論の不備
1. 文化的、構造的背景
2. 歴史的背景
3. 心理的背景:引き裂かれた自我と歴史意識
第3章
歴史遺産とトルコの国際的地位
Ⅰ.歴史におけるトルコの国際的地位
Ⅱ.ポスト冷戦期と国際的地位の外生変数
Ⅲ.政治文化と国際的地位の内生変数
1. 歴史遺産と政治文化の下部構造
2. 歴史的連続性と政治トレンド
3. ポスト冷戦期と政治トレンド

第二部 理論枠組:漸進戦略と領域政治
第1章
地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ
Ⅰ.空間把握、地理認識、地図
Ⅱ.地政学理論とグローバル戦略
Ⅲ.ポスト冷戦期と地政学的空白地帯
Ⅳ.トルコの地政学的構造の再評価
第2章
近隣陸上圏域 バルカン半島-中東-コーカサス
Ⅰ.歴史・地政学的諸問題とバルカン半島
Ⅱ.アジアへの扉とコーカサス
Ⅲ.不可欠のヒンターランド:中東
Ⅳ.近隣陸上圏域の境界の柔軟性と近隣諸国との関係
第3章 隣海上圏域 黒海-東地中海-ペルシャ湾-カスピ海
Ⅰ.歴史的背景
Ⅱ.冷戦期とトルコの海洋政策
Ⅲ.ポスト冷戦期の新海洋政策の諸要素
 1.黒海と周辺の水路
 2.ユーラシアの戦略的結節点:海峡
 3.東地中海圏域:エーゲ海とキプロス
 4.バスラ湾(ペルシャ湾)とインド洋
 5.カスピ海
第4章 近隣大陸圏域 欧州、北アフリカ、南アジア、中央アジア、東アジア
Ⅰ.ポスト冷戦期の規範的大陸政策とその定義
Ⅱ.グローバル大国と地域大国の大陸政策
Ⅲ.トルコの近隣大陸圏域の主要素
 1.ヨーロッパ概念の変遷とトルコ
 2.アジアの縦深性
 3.アフリカへの展開
 4.諸大陸の交流地域:大西洋、ステップ地帯、北アフリカ、西アジア

第三部 応用領域:戦略目標と地域政策
第1章 トルコの戦略的関係と外交目標
Ⅰ.NATOの新戦略ミッションの枠組みにおける大西洋枢軸とトルコ
 1.アメリカの戦略とNATO
 2.ポスト冷戦期とNATOの新しいミッションの模索
 3.コソボ作戦とNATOのグローバルなミッションの定義
 4.NATOの新しい戦略ミッションとトルコ
Ⅱ.全ヨーロパ安全保障協力機構AGİT
Ⅲ.İKÖ:アフロ・ユーラシアの地政学的人文地理学的交流図
 1.20世紀のイスラーム世界:概念的、政治的変化
 2.ポスト冷戦期と21世紀のイスラーム世界
 3.トルコとイスラーム世界
 4.İKÖ の未来と再組織化
Ⅳ.ECO:アジアの縦深性
Ⅴ.KEİ:ステップと黒海
Ⅵ.G-8 とアジアアフリカ関係
Ⅶ.国際政治経済とG-20
第2章 戦略的変化とバルカン(諸国)
Ⅰ.ポスト冷戦期後の組織的矛盾とバルカン諸国
Ⅱ.ポスト冷戦期と域内勢力(勢力)均衡
Ⅲ.ボスニア危機とダイトン協定
Ⅳ.NATOの介入とコソボの未来
Ⅴ.トルコのバルカン政策の基礎
1. 歴史遺産とバルカン諸国
2. 域内諸国関係
3. 域内(勢力)均衡
4. 地域を取り巻く政治
5. バルカン政策におけるグローバルな戦略目標
第3章 中東:政治経済的、戦略的(勢力)均衡の鍵
 Ⅰ.中東の国際的な地位に影響する要素
1. 地理的、地政学的要因
2. 歴史的、人文地理的要素
3. 経済地理的要素
 Ⅱ.グローバル大国と中東
  1.アメリカの戦略の基本的パラメータと中東
  2.ヨーロッパ諸勢力と中東
  3.アジア諸勢力と中東
 Ⅲ.域内(勢力)均衡と中東
1. 地域の地政学と戦略的三角メカニズム
2. アラブ世界の(勢力)均衡:アラブ民族主義の危機と政治的正当性問題
3. イスラエルの新戦略と中東
4. 地域(勢力)均衡と中東和平プロセス
 Ⅳ.中東政策の基本的ダイナミズムとトルコ
1. 国際経済の視点からのトルコの北中東政策
2. 中東の地政学的変化とトルコの北中東(東大西洋‐メソポタミア)政策:トルコ、シリア、イラク
3. トルコ―アラブ関係から見たトルコの中東政策
4. トルコ―イスラエル関係のグローバルな次元と地域的次元
5. 歴史的縦深性の視点からみたクルド問題
6. グローバル及び地域的(勢力)均衡の視点から見たクルド問題
第4章 ユーラシアの(勢力)均衡における中央アジア政策
 Ⅰ.中央アジアの国際的地位に影響を与える要素
1. 地理的、地政学的要素
2. 歴史的、人文地理的要素
3. 人口学的要素
 Ⅱ.ポストソ連期と中央アジアの変化
 Ⅲ.ポスト冷戦期の国際諸勢力の(勢力)均衡と中央アジア
1. グローバル大国と中央アジア
2. アジア内(勢力)均衡、地域大国と中央アジア
3. 域内(勢力)均衡
Ⅳ.トルコ外交と中央アジア政策
第5章 ヨーロッパ共同体:多次元的、多面的関係の分析
 Ⅰ.外交的/政治的関係の平面
 Ⅱ.経済的/社会的分析の平面
 Ⅲ.法的分析の平面
 Ⅳ.戦略的分析の平面
1. グローバル次元
2. 大陸的次元
3. 地域的次元
4. 二国間戦略の分析の例:歴史的縦深性とポスト冷戦期のトルコ‐アルメニア関係
 Ⅴ.文明/文化思想の平面
1. 新しい伝統的反応としてのEUの歴史的背景
2. 周辺化/中心化の振り子における歴史的背景とEU-トルコ関係
 Ⅵ.歴史の反映の把持におけるトルコ-EU関係
結語

 

2017年1月3日火曜日

許可が必要なものは禁じられている(『文學界』2014年7月号掲載エッセイ草稿)



許可が必要なものは禁じられている。道を歩いたり、自転車に乗るのは特に免許を必要としない。だから、道を歩くのは自由だ、自転車に乗るのは自由だ、と言うことが出来る。
一方、自転車に乗るように自動車を乗り回すことは出来ない。運転が出来るかどうかは関係ない。どんなに運転が上手くとも運転免許を取らずに車を運転すれば犯罪とされ警察に捕まる。だから車の運転は自由ではない。それは禁止されている。
許可が取れるのだから、許されている、自由だ、ということにはならない。殺人でも、死刑を執行する時には許可される。だからと言って殺人が許されている、自由だ、と言うことが出来ないのと同じである。
他方、道を歩くのは許されており自由だ、と言っても、治安や衛生上の理由で立ち入り禁止に指定された場所は入る自由もなく歩くことも許されない。しかし歩くことが禁止されることがあるとしても、それが自由でない、とは言えない。
どんな自由も制限を受け禁止されるうるし、どんな禁止も解禁されうる。だから、行なうために特に許可を必要としないことを「自由である」と呼び、許可を要することは「禁止されている」と呼ぶのだ。
今、人は歩くのは自由だ、と言った。しかし本当はそれは嘘だ。現在、全ての人類は地上を歩くことを禁じられている。人が歩くことを許可されているのは、領域国民国家の領域内だけだ。その領域から一歩足を踏み出そうと思うと、自国から相手国に宛てた通行許可証パスポートを持ち、それに相手国の入国許可ビザをもらわなくてはならない。
この春に私はアラブの友人を訪ねにシリアに行ってきた。最近知り合った日本人の若者は一緒にシリアに連れて行ってくれ、と言うが、パスポートが取れないために行くことができない。幸い私はパスポートを持っているので出国の禁止はクリアーし、トルコの入国禁止に関しても日本のパスポート保持者は空港でビザが下りるので無事に乗り切ることができた。
シリア入国は、友人が住む地域は、シリアの反政府勢力の「解放地」であり、入国にはビザなど必要ない。しかし、問題はトルコからの出国だ。その解放区はトルコ政府との「非公式」な外交関係すらもない地域なので、トルコがその地帯に入ることを禁じ、国境に鉄条網を張り巡らしているのだ。
シリア人との4人連れで日暮れ前に国境に向かうと、トルコのジャンダルマ(国家憲兵)が追いかけてきた。発砲されても気にせず後も振り向かずひたすら国境を目指し傷だらけになりながら鉄条網をくぐり抜けると、ジャンダルマは諦めて帰っていった。後で聞くと、背後数十メートルの距離まで迫られていたらしい。
シリア滞在を終えての帰りも、シリア側から国境を越えるのは「自由」だが、問題はやはりトルコ側だ。トルコからシリアに入った同じ場所から4人でまた鉄条網をくぐって今度は夜にトルコ領内に入った。しばらく叢を歩いていると、突然サーチライトに照らされた。事前の打ち合わせ通り、散開する。1時間余り銃声が鳴り止まぬ捕り物の末に全員が捕まってしまった。撃ってきたのはジャンダルマではなく村の自警団で、銃声は猟銃のものだった。
銃を突きつけられていろいろ尋問された。煎じ詰めると、どうやら我々が頼んでいた「逃がし屋」の運転手が余所者で、自分たちの村を通るのに何の挨拶もなく、余所者の逃がし屋だけが儲けて村に金が落ちないのが気にくわない、という話だったようだ。結局、私は所持金の約300ドル、連れは約2000ドルの現金を巻き上げられた上で、夜道に放り出され、翌日疲労困憊して日本への帰路についた。
現在の人類は皆、領域国民国家の捕囚だ。ただ友人に会うためであっても、自由に歩こうにも国境で阻止される。それでも敢えて自分の自由を守ろうとして歩き続けると銃で撃たれ脅され力尽くで拘束される。人は地上を自由に歩くことすら出来ない。にもかかわらず、人権や自由を誰もが恥ずかしげもなく口にする、それが現代世界の現実だ。
私たちから所持金を巻き上げた自警団の連中も、パスポートやビザを売りつける役人たちも、人間の移動の自由を自分たちで奪った上でそれを返すのに金を取る盗賊、あるいはみかじめ料を徴収するやくざの類いであることに違いはない。密輸や、密入国、不法滞在などという言葉があるが、とんでもない。本来自由な商売、人の移動を禁じ、商品に関税をかけ、人を拘束する方が強盗、誘拐であり、犯罪なのだ。
イスラームは、大地の主権は神に属し、神はアダムを地上における代理人(カリフ)に任命し、人類は皆アダムの子孫として大地を相続した、と教える。
大地を縄張りに切り分け、虚構の偶像神である国民国家リヴァイアサンの陰に隠れて神が人類に託した主権を簒奪する権力者たちのカルテルというのが、現在の国際社会、つまり領域国民国家システムの実相だ。そしてこれらの不正な権力者たちの仮面を剥ぎ取り、大地を人々の手に取り戻すことがイスラームの使命であり、そのイスラームの政治制度がカリフ制だ。
大地を人類に解放するカリフ制の再興のためにジハードに身を投じて殉教するべく、持ち家を処分して私はホームレスになった。仮の住まいは地球の全土。帰る我が家は天の楽園。

2017年1月1日日曜日

イスラーム国訪問記(3)

イスラーム国訪問記(3)
ISIS(イラクとシャームのイスラーム国)は、2014年6月末、「イラクとシャームの」を国名から外し、「イスラーム国(al-Dawlah al-Islamiyah, Islamic State)」と改称し、自分たちの「イスラーム国」が「イスラームのカリフ制(al-Khilafah al-Islamiyah)」であり、指導者のアブー・バクル・バグダーディーが世界中の全てのムスリムのカリフであると宣言した。
ISISだけでなく、ヌスラ戦線をはじめ、シリアで戦うサラフィー・ジハード主義者の多くは、1924年にトルコ共和国が廃止したカリフ制の再興が目標であると公言している。サラフィー・ジハード主義者とは、クルアーンとスンナの法規定を施行しない為政者を背教者と断じてジハードによる打倒を目指すスンナ派イスラーム主義反体制武装闘争派のことだ。
前回の訪問でもウマル・グラバーゥ師などは、気が早いことに「カリフ制の地へようこそ」などと言っていたので、ISISのカリフ制樹立宣言は青天の霹靂というわけではなかったが、このタイミングは予想外だった。と言うか、ISISがカリフ制再興を宣告しないことを、心の底では望んでいたのかもしれない。
カリフが擁立されて、シャリーア(イスラーム法)が施行されるダール・アル=イスラーム(イスラームの家)が現出すれば、全てのムスリムは、カリフが治めるダール・アル=イスラームにヒジュラ(移住)するのが義務となる。
さて、どうしたものか。しかし、ともあれ、畢生の仕事クルアーンの翻訳の公刊もまだだし、秋に発売予定の新書の校正も済ませないといけないし、ツイッターに連載したカリフ・ラノベ『俺の妹がカリフなわけはない!』も出版社を探さないといけないし、なによりも3月のようにトルクの国境警備隊や自警団の追撃を振り切って泥水の堀を渡り鉄条網をくぐっての国境越えは、この病軀には無理だ。まぁ、今抱えている仕事が終わるまでは様子見を決め込もう。
と思っているうちに、クルアーンの翻訳も出版され、カリフ制再興について新たに執筆依頼など受けたりと、貧乏暇無しの日々が続く中、突然、8月27日ウマル・グラバーゥ師から「我々の許に日本人のジャーナリストが捕らわれており、信頼できるアラビア語-日本語の通訳を推薦して欲しい。」とのメッセージが届いた。イスラーム国が捕虜にしている湯川氏に公正を期して日本人の通訳をつけようというのだ。
サラフィー・ジハード主義者の間で「信頼できる」というのは「サラフィー・ジハード主義者」ということだ。サラフィー・ジハード主義者でアラビア語ができて、危険な戦争のただ中にあるイスラーム国に送って死んでもよい者など私以外にだれがいよう。9月7-9日はタイのパタニ大学で『イスラームの中道』をテーマとする国際会議にゲストスピーカーとして招待されていたのだが、人命がかかっているとあってはそちらを優先するしかない。
という訳で、ちょっと情けないが、「この前のような肉体的に過酷な越境は無理なので、もっと楽な道があるなら私が行きましょう」ということで話を纏め、イスラーム国の捕虜裁判の通訳のボランティアとして自弁で格安航空券を買い、9月6日にイスラーム国に足を踏み入れることになった。
本当に楽に越境できるのか不安だったが、電話番号をもらったエージェントに連れて行かれたガズィアンテップの彼らのアジトには片足がなく松葉杖をついたムジャーヒディーンや女性も一緒だったので、これならそう過酷な旅にはなるまいと、ちょっと安心した。迎えの車が来るまで、一緒になったムジャーヒディーンたちと話をしたが、中にはパスポートもなく中国から陸路ベトナム、カンボジアを通ってマレーシア経由でトルコに辿り着いたというウイグル人のムジャーヒディーンもいた。顎髭を伸ばしているとクルド人のスナイパーに狙撃されるから顎髭を剃れ、と言われ、髭を短く刈り揃えさせられた時には少し不安になったが、実際に行ってみると、国境は鉄条網も倒れて地面に這っており、楽々と歩いて乗り越えることができた。
シリア領内に入ると、イラクでの戦利品と思われるモスル大学のバスが迎えに来たが、その夜は他のムジャーヒディーンたちとジャラーブルスのムジャーヒディーンの宿舎で一泊することになった。宿舎に着くと、名前を聞かれ、ハサン中田考だと答えると、「中田考」は聞き取れなかったようで、「ハサン・ヤーバーニー(日本人)でいいな」と言って「ハサン・ヤーバーニーと紙に書いてお終いだ。
そもそも入国審査は、パスポートを見るわけでもなく、自己申告の名前を聞くだけで、その自己申告の名前さえちゃんと記録していない。入国の時点でスパイをスクリーニングしようとは思っていない、あるいはそれは最初から諦めているようだ。なにしろ上述のウイグル人のように、ムジャーヒディーンの中にはパスポートなどそもそも持っていない者もいたりするのだから。もっとも、パスポートなどもともとイスラーム法にないものだし、ヒジュラ(移住)してくる者は全て受け容れるのがカリフ制である以上、それが当然だ、と言われればそれまでのことではあるのだが。
ジャラーブルスはトルコの携帯の電波が届くのでネットもつなぎ放題だ。GPSとかを使えば位置情報も全て筒抜けになってしまうわけだが、携帯を取り上げられるどころか、切るように求められもせず、電話をかけようとネットにつないでツイートをしていようと、誰も何も文句など言わない、相変わらずセキュリティーもなにもあったものではない。ジャラーブルスの宿舎は大部屋ではなく客室だったが、客室といっても蟻などの虫の巣窟で全身を虫に刺さ、満足に眠ることも出来なかった。
翌朝、迎えの車が来て、アルラッカ市に向かう。ジャラーブリスから少し離れるとトルコの携帯電話が繋がらなくなる。ジャラーブリスからアルラッカまでは180キロほど離れている。
3時間ほど車に揺られて、アル=ラッカ市に入り3月にも訪れたムジャーヒディーン移民管理局に連れて行かれたが、通り道では、数時間前にアサド政権による空爆があり市民が犠牲になったばかりだと、生々しい空爆の跡を見せられた。
途中、欧米のメディアでも報じられた破壊されたウワイス・カラニー廟の側を通った。イランの援助で作られた、と教えられたが、素人にも一目で分かるイラン風建築だ。民衆は、この聖者廟に7回詣でるとマッカ巡礼と同じ功徳がある、と吹き込まれて、参詣していたそうだ。イラン・シーア派のイマーム・ザーデ(廟)参詣に関してよく聞く話で、そういうクルアーンとスンナの教えに反する迷信を弘めているなら破壊されても仕方がない。
移民管理局に着いても、まぁ、極秘のミッションと言えば極秘のミッションでもあるので、当然とも言えるが、私が何者で、何をしに来たのか、話が全く通っていない。漫然と待つこと時間、やっとウマル・グラバーゥ師が現れた。ところが、今回のミッションを指揮する司令官が姿を隠してしまって、ウマル師自身も彼と電話もネットも繋がらない状態なので、連絡を取れず、話を進めることができなくなっていたのだ。
時期も悪かった。アメリカは、イラクの内戦の一局面であるヤズィーディー居住区での戦闘をIS空爆の口実にするため、イスラーム国が民族浄化を行なっているとのプロパガンダを繰り広げ、8月8日からイラクでイスラーム国への空爆を開始しており、それに対する報復として、8月19日に米国人ジャーナリストの捕虜が処刑されると、シリアに対する米軍の空爆も時間の問題とみなされるようになった。イスラーム法では老人や修道士などを除いて成人男性は戦闘員とみなされる。ジャーナリストは情報収集が仕事であり、イスラーム国に限らず、外国人記者はスパイの疑いをかけられるのが常である。イスラーム国から予め入国許可の安全保障を得ずにイラクとシリアに入った以上、スパイの嫌疑がかけられた敵国の異教徒のジャーナリストを解放するか処刑するかは、イスラーム国の裁量次第なのである。
実は、斬首はシリア国内では意外と市民の支持を得ている。今回聞いた話では、アサド政権と通謀していたスパイを捕まえて銃殺刑に処したところ、市民が「なぜ首を切らずに銃殺ですませた」と抗議して騒ぎになり、イスラーム国当局が謝罪に追い込まれたということだ。
ともあれ、米国人の処刑に呼応し、アサド政権によるアル=ラッカへの空爆も頻繁化し始めた。アメリカがアサド政権に情報提供しているとの話も聞かれるようになっていた。9月1日、オバマは空爆の決定を議会に委任し、9月2日には米国人の2人目の捕虜が処刑され、米軍のシリア空爆は不可避の情勢になっていた。
そのため、イスラーム国の幹部たちは皆、空爆を避けるため、アル=ラッカを離れて身を隠し、連絡が取れなくなってしまっていたのだ。ウマル師も結局、日本人捕虜の裁判の責任者と連絡がつかず、取り敢えずネットと電話が繋がるトルコ国境に近い彼のアジトに戻ることになった。
ウマル師のアジトでジャガイモ入りサリードをご馳走になる。サリードとは古くなったパン炊き込んだ粥で、「(預言者ムハンマドの若妻)アーイシャが他の婦人たちより優っているようにサリードは他の食べ物に優る」との預言者ムハンマドの言葉にも名が上がっている由緒正しいアラブ料理だが、少なくとも預言者ムハンマドの時代にはジャガイモは入っていなかったはずだ。
翌日昼食にカプサをいただいてから再びアル=ラッカの移民管理局に行き、責任者とコンタクトを試みる。待たされた末に、責任者の伝令が現れて、「これから捕虜(湯川氏)のところに連れて行くが、もう1週間居てもらう」、と言われる。「冗談ではない、私は12日にはイスタンブール-ドーハ便のチケットを予約してあり帰国しなくてはならないと、予め帰国便の日程も伝えているはずだ、約束が違うではないか。カリフ制を名乗っている以上、ちゃんと約束を守れ。」と思わず伝令を叱りつけてしまった。アラブの伝令はただのつかい走りでなんの権限もない。「私にそんなこと言われてもねぇ」と困った顔をしている伝令を連れてウマル師がどこかに消えた。しばらくして戻って来たウマル師が説明してくれたところでは、日本人の捕虜は他の捕虜たちと一緒で、安全のために秘密裏に居場所を転々と変えているので誰にも居場所が分からない。それで、「会うにはもう1週間ほど居てもらう必要がある」、ということだった。イスラーム国の裁判に通訳として立ち会うという滅多にない貴重な機会だし居残りたい気持ちもあったが、12日にはドーハで別の重大なミッションがあり、それにこの調子だと、米軍の空爆も始まり外国人捕虜の居場所の保秘はますます厳重になるであろう為、1週間居残っても会える保証は全然ない。イスラーム国は捕虜の裁判に公正を期しており、湯川氏は英語で裁判のやりとりが出来る英語力は全くなさそうなので、日本語通訳がみつからない限り即決裁判で処刑される懸念はなくなった。そうであれば、無理して残ることもない。いずれ、暇が出来ればゆっくり再訪すればよい。空爆の巻き添えになり他の捕虜たちと一緒に殺されなければ、ではあるが。
その晩は、アル=ラッカに済むウマル師の娘婿の家に一泊させていただき、アラブ湾岸料理の炊き込みご飯カプサなどをご馳走になった。
ジャラーブルスからアル=ラッカまで、殆ど検問らしい検問もなく、イスラーム国の治安の回復と支配の安定は実感できた。しかし、一方、アル=ラッカ市内の中心部のさびれかたは目を蔽うばかりだった。3月に訪れた時は賑わっていたナイーム広場、時計台広場などの中心部の繁華街も、露天は全く姿を消しており、店舗も軒並みシャッターを下ろしていた。アサド政府軍による空爆の激化、米軍による空爆が始まるとの予想から一時的に店を閉めているケースもあるだろうが、イスラーム法の厳格な適用を掲げるイスラーム国の施政を嫌ってアル=ラッカを去った者も少なくはないだろう。
翌日、捕虜に会えないなら長居は無用、トルコに帰ろう、と思っていたところ、180キロほど離れたアル=バーブ在住のエジプト人の友人が車で訪ねててきてくれた。これからクワイリス空港を攻撃に行く、ジハードには天国で報償があるから是非一緒に行こう、と言う。帰国まではもう一日余裕があるのでトルコのホテルでゆっくり休もうかと思っていたが、せっかく遙々アルバーブから会いに来てくれたのだから、アル=バーブまで足を伸ばすことにした。
しかし市内のインターネットの繋がる小洒落たレストランでのんびりカプサなど食べておもむろにアル=ラッカを出て、アサド政権からさきごろ奪ったタブカ空港を横目に通り過ぎ、アル=バーブに戻った頃には夕方近くになっていた。友人の家に泊めてもらうが、家族3人で5階建てのアパートに住んでいる。彼のアパートは、アサド政権などに味方していてイスラーム国の支配を嫌ってアル=バーブ市から逃れ出した住民からの戦利品としてイスラーム国に接収されたもので、ムジャーヒディーンである彼の家族に与えられている。家賃が無料なので月給約1万円(独身は5千円、家族持ちは1万円)で暮らせていけるのだ。隣や上や下の階の住人は、前から住んでいる普通のシリア市民だ。
イスラーム国が、民間人を空爆の盾にしている、というのは西欧のメディアが流したデマで、もともと外国人ムジャーヒディーンたちは、住民が逃げ出してたまたま空きが出たアパートの部屋をイスラーム国が接収したものをもらいうけてばらばらに住んでいたのだ。
友人は、奥さんに2回目の離婚宣言をしている。イスラームの離婚法では、夫の離婚宣言は2回までは取り消し可能だが3回宣言すると、もう撤回できず離婚が確定する。あと1回離婚宣言すれば離婚が成立してしまい、もう後がないのだが、なぜか仲良く一緒に暮らしており、夕食には奥さんの手料理をご馳走になった。
湯川氏のことも、アラブのメディアでもプロフィールが詳しく報じられていたので知っていたが、一言「どうでもいい狂人だ」で片付けられてしまった。スパイにしてはあまりに無能で行動が愚かしかったのが幸いしたと言うべきか。勿論、最終的にはイスラーム法学者による裁判結果を見るまでは分からないが、ウマル師も最初、「スパイ容疑が晴れれば日本に連れ帰ってもらうかもしれない」と希望的観測を述べていたぐらいで、湯川氏がイスラーム国のセキュリティーを脅かす大物スパイと疑われている可能性は低そうだ。
また友人から、「北朝鮮でもどこでもいいから防空システムを買い付けることができないか」、と相談を受けたが、そんなことは考えるだけ無駄だ、と諭した。アメリカは軍事的には核兵器などの大量破壊兵器を使いさえすれば、文字通り一瞬でイスラーム国を滅ぼすことができる。それをなぜしないのか、というと、たとえシリアやイラクのムスリムであっても巻き添えで数百万人の民間人を殺すことには、アメリカ人は耐えられないからだ。それを理解すれば「最善の防空システムが何か」は自ずと分かるはずだ。
それはイスラーム国が、欧米の一般の民間人、ジャーナリストや観光客にクルアーンが定める一時滞在者の安全保障を与えて受け容れ、イスラーム国中を自由に歩き回れるようにすることだ。またそれは、「もし多神教徒の誰かが、お前の許に滞在許可を求めてくれば、その者に入国許可を与えてアッラーの御言葉を聞かせてやり、それから彼を安全なところまで送り返してやれ。後略」(クルアーン9章6節)にあるように、イスラーム法上合法である。イスラーム国内に欧米人の民間人が溢れていれば欧米は絶対にイスラーム国を攻撃できない。防空システム構築は、軍事ではなく外交の課題なのだ。そしてイスラーム国の中でいかにクルアーンの教えが実践されているかを、欧米人に実際に来てその目で見てもらった上で本国に安全に送り返し、イスラーム国の実態について本国で報告してもらうことこそが、クルアーンが教えるイスラームの伝道の正しい方法なのだ。
翌朝、友人に送られ、ジャラーブルスの移民管理局に向かった。途中、アル=マンビジ市で、聖法事務所(al-Idarah al-Sharʽiyah)という意味不明の建物の写真を撮ったら、ムジャーヒディーンの警備兵に「撮影許可はあるのか」と絡まれカメラを没収されかけたが、友人がかけあってカメラを取り返してくれた、といった小さなトラブルはあったが、無事に移民管理局に到着し、友人と再会を訳して別れを告げた。
移民管理局でトルコに出国を待つムジャーヒディーンたちと一緒に昼食にジャガイモのトマト煮を振る舞われ、喫茶店でドイツからきた生粋の白人のムジャーヒディーンとお茶したりしながら数時間待ち、夜になって来た道と同じルートでトルコに戻った。一緒に越境した羊の群れに踏みつぶされそうになって、ちょっと焦ったこと以外、トルコの国共警備隊や、自警団に襲われることもなく、スムーズに国境を越えてトルコ領内に入ることができた。
迎えの中型バスに乗り込み、ガズィアンテップに向かった。最初、市内の長距離バスターミナルで解散の予定だったが、バスターミナルには警察が張り込んでいて危険だ、との情報が入ったらしく、結局幹線道路でバスを泊めて解散ということになった。トルコ側もイスラーム国からの「密入国者」を完全に黙認しているわけではなく、一応は取り締まってはいるようだった。
余談になるが、後で同行した邦人ジャーナーリストに聞いた話だと、私がイスラーム国に入った後、日本の外交官が4人、湯川氏が解放された場合に身柄を押えるために、ガズィアンテップのノボテルホテルに投宿し、他にやることもなく、ずっと私のツイートをおって時間を潰していたらしい。「税金泥棒」、とはよく言ったものである。
徒労感あふれるイスラーム国への旅だったが、イスラーム国が、「発展途上」というか「お試し期間中」のカリフ制であることが分かった、という意味では得がたい経験だった。
そもそもカリフ制以前に、「イスラーム国(IS)」は未だに、「イラクとシャームのイスラーム国(ISISI)」の看板を掲げ、「イラクとシャームのイスラーム国」のレターヘッドの入った便箋で公文書を発布していた。イスラーム国はカリフ制であるよりも、イラクとシリアの地方政権である。それどころかイスラーム国にはまだ統一貨幣すらなく、シリア地域ではシリア政府発行のシリア・リラ、イラク・地域ではイラク地域ではイラク・ディーナールが使われている。イラクとシリアの国境を開いたとはいえ、イラクとシリアの統合さえまだ始まったばかりであり、全ムスリム世界を統べるカリフ制への道は前途遼遠である。
なによりも、捕虜の裁判の通訳のために1週間居残るように、と言われた時、もしカリフの命令として強制的に私を連行して行くことも出来たのに、それをしなかったことが
は、彼らの良識を示している。彼らが「これはカリフの命令だ」と言えば、イスラーム法的に私はそれを拒むことはできず、勿論、丸腰の私がそれを実力で阻止することも出来なかった。それでも、彼らはそんなことはしなかった。それどころか、「カリフ国なら約束を守れ」と罵られても、「不敬である」と逆ギレすることもさえもなかった。
彼らはイスラーム国こそカリフ制であり、アブー・バクル・バグダーディーは、全てのムスリムが従うべきカリフであると信じている。しかし同時に、現実には、イスラーム国が12億人とも16億人とも言われる世界の全てのムスリムの生命、財産の安全を保証する力がないことも自覚しており、カリフと忠誠の誓いバイアを交わしていない私のような一般のムスリムに、カリフの命令を力づくで押しつけようともしない。
シリアとイラクという過酷きわまりない政治環境で生まれたにしては、カリフ制再興を目指す「イスラーム国」は、実はどうしてなかなか柔軟で良識的なのだ。中東事情に疎く、その政治風土に馴染みのない日本人にはなかなか理解してもらえないとは思うけれど。(終り)

イスラーム国訪問記(2)

イスラーム国訪問記(2)
 2014年3月イスタンブール、ガズィアンテップに所用があり、またシリアに足を伸ばすことにした。主な目的は、ISIS(イラクとシャームのイスラーム国)がアル=ラッカでキリスト教徒に対して改宗か死か、と迫って、イスラームへの改宗を強制し、ジズヤ(人頭税)を課してているとの欧米のメディアの報道の検証だった。
そこで前回、シリアで世話になったトルコとシリアの越境担当司令官のウマル・グラバーゥ師を訪ねたのだが、実はウマル師はISIS潰しのためにサウディアラビアの後押しで作られたイスラーム戦線に支配地を奪われ、家、農地、車など全ての財産を失い着の身着のままでトルコ側に脱出し、アンタキヤの隠れ家に潜伏中だった。
アンタキヤでは、イスラーム系NGOダール・アズィーザの代表の立場で、シリア難民が運営する「フダ-・モデル小学校」を訪ね、日本からの寄付を渡してきた。この希望する子供は誰でも受け入れており、学費が無料なだけでなく、食事と制服も無料で支給される。丁度給食の時間にお邪魔したので見学させてもらったが、食事はパンと牛乳かジュースで、校長が自ら配って回っていたが、400人分の毎日の食事がサウジの一人の篤志家の寄付に依っているらしい。子供たちに将来の夢を聞いたところ、殆どが医者か教師だったが、一人だけムジャーヒド(聖戦士)になりたい、という男の子がいて、校長が慌てて「私たちは武器ではなく知識によってジハード(聖戦)することを教える」と言い繕っていてのが面白かった。
そうこうしているうちにウマル師の紹介でアル=ラッカに入ることになったのだが、「シャンル・ウルファの町にホテルを取れ、そうすればホテルに迎えの者を送る」との彼の言葉を信じてシャンル・ウルファに投宿したが、迎えの者など来ず、ウマル師からもらったエージェントの連絡先に電話すると「自分で国境に来い」と言われる。初めての土地でいきなり、「国境に来い」という大雑把な指示でいったいどうすればいいのか、と思った。なにしろトルコとシリアの国境は約900キロもあるのだ。しかし、いくら聞き返しても、「国境」としか言わないので、仕方ないのでタクシーに乗って、「国境まで」と言うと、慣れているようで、黙って国境の検問所に連れて行かれた。国境に着いても迎えもいないし、屋台のサンドイッチ屋があるだけで何もない。仕方ないので迎えを寄こすよう、エージェントに電話し、ビルの一角の礼拝所で礼拝を済ませ、サンドイッチとお茶を頼み、お茶を飲みながら、迎えを待った。
国境の検問所の前の屋台で、ただでさえ目立つ日本人がぼんやり何時間もお茶を飲んでいれば目立つことこの上ない。セキュリティーも何もあったものではない。屋台でたむろしている人たちに聞いたところ、国境は週に二日だけしか開かないが、今日は生憎閉まっているので明後日出直して来い、という。いったいどうなっているのか。
ようやくエージェントと連絡がつき、「運び屋」の電話番号を教えられるが、アラビア語が分からないトルコ人の運転手なので話が全く通じない。そこでエージェントに電話して「なんとかしてくれ」と頼むと、「誰でもいいのでその辺の人間に携帯を渡して『運び屋』に電話してもらえ」、と言う。本当にセキュリティー感覚のかけらもない話だ。結局、屋台のまわりの人間全員を巻き込み、「ちょうどアル=ラッカに戻ろうと思っていた」と言うISISのムジャーヒディーンを自称し煙草をすぱすぱ吸っているヤンキー風の若者も便乗することになり、「運び屋」に連れられて国境越えに向かうことになった。
国境の検問から小一時間走り、日暮れ前に車を降りて、前もよく見えない叢の中を「運び屋」たち4人で国境に向かう。トルコの国境警備隊が追いかけてきた。威嚇射撃で発砲されても気にせず後も振り向かずひたすら国境を目指し、泥水をはった堀を渡り、傷だらけになりながら鉄条網をくぐり抜けると、国境警備隊は諦めて帰っていった。
後で聞くと、足が悪くて走れないため一番遅れて国境を越えた私は、背後数十メートルの距離まで国境警備隊に迫られており、皆、私がつかまるものと思って見ていたらしい。
シリアに入るとISISの支配地で、間もなく迎えの車がやって来て、検問らしい検問もなく、夜道をISISの「西の首都」アル=ラッカまで直行した。アル=ラッカでは、ムジャーヒディーン移民管理局に投宿した。このムジャーヒディーン移民管理局の建物は、元は学校だったのを転用したもので、大部屋の教室に布団が敷かれて各部屋に十人前後の国籍も様々なムジャーヒディーンが雑魚寝している。飛び交う言語はアラビア語の他に、ロシア語が、フランス語、トルコ語、英語など様々だった。驚いたのは日本語で声をかけられたことで、話を聞くと、シベリアから来たタタール系のロシア人だそうで、日本語は日本のアニメで覚えた、と言う。『るろうに剣心』のファンで昔は相楽左之助のコスプレをしていたというが、シリアに転戦してくる前はマリでジハードを戦っていたという筋金入りの勇者だ。若い世代のムジャーヒディーンの文化的背景は我々の想像を遙かに超えて多様なのである。
翌日、当初の目的であるキリスト教徒に対するインタビューを行なった。ISISのムジャーヒディーンの宗務担当者のアレンジでキリスト教徒家庭を二軒訪れたが、二軒ともオスマン朝末期に迫害を逃れてシリアに移住してきたアルメニア人であった。彼らは難民だった彼らの父祖たちを暖かく迎えてくれたシリアのムスリムへの感謝を述べ、これからもここで生きていきたい、と語った。
ただし彼らアルメニア人も司祭ら教会の責任者たちはアル=ラッカから逃げてしまったので教会はISISに接収されていた。対して住民たちがイスラーム裁判所に書面で教会の返還を求めていたが、この時点ではまだ教会は封鎖されたままだった。
ジズヤ人頭税に関しては、上流、中流、下流に分かれ、月収約10万円を超える者が上流とみなされるが、広いアパートに住み上流と目される二軒目の家では、「年間10万シリア・ポンド(約7万円)は高すぎるのでなんとかして欲しい」と、一家の主人が同行した宗務担当者に苦情を述べていた。ちなみに年間10万シリア・ポンドという富裕者へのジズヤ人頭税の額は、富裕者には年間4ディーナール(金約16グラム)との、ハナフィー法学派の学説にほぼ一致している。
改宗か死か、と迫害されているはずのキリスト教徒が、狂信的で残忍と言われているムジャーヒディーンの宗務担当者と和やかにジズヤ(人頭税)の値切り交渉をしている姿がなんともおかしく、強く印象に残った。
ちなみに最初に訪れた家庭は公務員だそうで、月収約1万2千円はISISの支配下でもダマスカスの中央政府から支払われているそうだ。この時に聞いた話だと、アル=ラッカのムジャーヒディーンの月給は約五千円だそうで、一般の公務員と較べても安いが、住居と食事を無料で支給されているので、チョコレートを買うぐらいしか使い道がないので別に困らない、とのことだった。
強制改宗とジズヤ人頭税の賦課についての調査をここで纏めておこう。ISISは、「キリスト教徒には先ずイスラームに入信するか否かを尋ね、それで入信しない場合はジズヤ人頭税を払うかと尋ね、それも拒否した場合は戦闘になる」とのイスラーム法の規定に則り、入信とジズヤ(人頭税)の賦課について尋ねた上で、ジズヤ(人頭税)を払った者の安全は保障しており、キリスト教徒がISISの支配下で特に迫害を被ることもなく暮らしていることを確認することができた。とはいえ、アルメニア人でもアル=ラッカに残っているのは数百人ということで、司祭ら聖職者は逃亡しており、教会も接収されていたのも事実だ。また他のキリスト教の宗派には会えなかったことから、他の宗派は既に逃亡しているものと推測される。ISIS支配地がキリスト教徒にとって住みよい場所とは言えないのは確かであろう。しかし、彼らが迫害されている、とまで言うべき事実は一つも確認することが出来ていない。
ISISがキリスト教徒にイスラーム法を適用し、ジズヤ人頭税の支払いを求めた時の、欧米の報道は、「ISISがキリスト教徒に、改宗か死か、と脅し強制改宗を迫っている」、といった見出しのセンセーショナルなものが多く、多少ましなものでも、「改宗するかジズヤ人頭税を払うか死か、の選択を迫っている」、と書き立てた。しかし、これは理論的にもおかしく、事実としても間違っている。正しくは、イスラーム法の規定は、「改宗かジズヤ人頭税支払いか死か」ではなく、「改宗かジズヤ人頭税支払いか戦争か」、だ。そしてイスラームの戦争法の規定では、敵は必ずしも殺す必要はない。敵は捕虜にすることもでき、捕虜は無償で解放することも、捕虜交換で解放することも、身代金を取って解放することも、奴隷にすることも、処刑することもできるのであり、死は選択肢のうちの一つに過ぎない。そして、実際に、ISISは改宗もジズヤ人頭税支払いも拒否したキリスト教徒を、いきなり殺すことも捕虜にすることもなく、無償で「解放」し、傷つけることなくISISを立ち去らせている。このことからも分かる通り、
ISISはイスラーム法の運用においても決して極度に厳格主義的、教条主義的ではなく、ましてや憎悪に満ちた独善的な狂信者でもなければ、残酷無慈悲な血に飢えた殺人鬼集団でもない。アル=ラッカでアルメニア人とインタビューを行なって、その思いを強よめた。
インタビューが終わった後で、宗務担当者の車で市内を見学させてもらった。そこここに爆撃や自動車爆弾による自爆攻撃で破壊された家屋があるのが内戦を思い出させるとはいえ、商店街はそこそこ繁盛しており街には活気があるように見えた。
移民管理局に戻ると、ムジャーヒディーン全員に夕食が配られた。調理場を見学させてもらったが、大鍋を前にした炊事係はカタール人とインド人のムジャーヒディーンだった。さすがインド人、彼がつくった野菜カレーは絶品だった。
この夜は、寝床がない、ということでムジャーヒディーンの雑居房からも追い出され、移民管理局のモスクとして使われている広間の礼拝室の片隅に毛布を敷いて寝かされることになった。夜明け前になるとアザーン(礼拝の呼びかけ)が鳴り響き、ムジャーヒディーンたちが集まって来て集団礼拝が始り、その後も礼拝したい者が三々五々やって来る。プライバシーなど全くなく、着替えることもゆっくり眠ることもできはしない。まぁ、ムジャーヒディーンたちにとっては、雨露しのぐ屋根があるところで毛布にくるまって眠れるだけでも天国なのだろうが。
ちなみに、アル=ラッカは携帯電話回線はまったく繋がらない。ただし移民管理局にはインターネット回線があり、私もパスワードを教わり、一度だけネットに繋がせてもらい外部と通信することが出来た。
ジズヤ(人頭税)に関するインタビューも無事終えたので、翌日にはアル=ラッカを後にした。移民管理局の車で街を出ようとすると、検問で銃を持った覆面の男に呼び止められた。何を調べられるのか、と少し身構えたが、覆面の奥でにこっと笑って、チョコレートをくれた。5千円の月給で足りるのか、と尋ねた時に、「うーん、チョコレートを買うぐらいしかお金の使い道がない」と答えられたのはこういうことなのか、と納得したのだった。
帰り道はトルコ側の病院に連れて行くという赤ん坊を抱えた女性も同行していたので、楽なルートを通れるのかと期待したが、結局、トルコの国境警備隊の監視が厳しく、予定していたルートは通れず、結局来た道を帰ることになり、赤ん坊連れの女性は越境を断念しシリアに戻された。
トルコからシリアに入った同じ場所から、同行者3人とまた鉄条網をくぐって今度は夜遅くにトルコ領内に入った。しばらく叢を歩いていると、突然サーチライトに照らされた。事前の打ち合わせ通り、散開して逃げた。走れない私だけはその場に横になって、することもないのでツイッターで実況中継をしていた。その時の実況をTwilogから復元してみよう。
3月18日
トルコ観光旅行中銃を持った暴漢に襲われ友人たちとはぐれ草原に寝転び、呆然と空を眺めているなう
posted at 05:51:15 (日本とトルコで7時間の時差があるのでトルコ現地時間では17日22時51分15秒)
どうしたものか...
posted at 05:53:16
ああ、泥まみれ (T_T)
posted at 05:57:19
草原に泥まみれで一人寝転び空を眺めているなう。ともあれ、雨あまり降ってなくて、無視もいない季節で良かった。アルハムドリッラー。
posted at 06:02:14
田舎の夜は静かで声が遠くまで聞こえます。蛙と犬の声もします。まだ遠くで暴漢の声が聞こえるので暫く隠れています。トルコ観光中Tek tek daglari milli parki の近くで道に迷っています。
posted at 06:24:16
捕まって解放されたなう
posted at 07:54:12
"@masanorinaito: @HASSANKONAKATA ←大丈夫ですか?" 3時間畑の中を歩いて友人の友人の車に拾われたなう。アルハムドリッラー。
posted at 09:52:50
1時間余り銃声が鳴り止まぬ捕り物の末に全員が捕まってしまった。撃ってきたのは今回は国境警備隊ではなく村の自警団で、銃声は猟銃のものだった。
銃を突きつけられていろいろ尋問された。煎じ詰めると、どうやら我々が頼んでいた「逃がし屋」の運転手が余所者で、自分たちの村を通るのに何の挨拶もなく、余所者の逃がし屋だけが儲けて村に金が落ちないのが気にくわない、という話だったようだ。結局、私は所持金の約300ドルの現金を巻き上げられた上で、夜道に放り出され泥濘の田旗の中を2時間ほど歩いた末にようやく電話連絡がついたシリア人の友人の車に救出され、翌日疲労困憊して日本への帰路についたのだった。(続く)

「イスラーム国訪問記」(1)

「イスラーム国訪問記」(1)

 シリアへはエジプト留学時代以来何度も訪問しているが、これまでは首都ダマスカスにしか行ったことはなかった。ダマスカスを訪問の目的はウラマーゥ(イスラーム学者)たちとの意見交換が目的だった。ダマスカスで会ったウラマーゥの中には、前シリア・アラブ共和国最高ムフティー(イスラーム教義諮問官)故アフマド・クフタロー博士、現代アラブで最高のイスラーム法学者とみなされているワフバ・ズハイリー博士、アサド政権の御用学者としても知られた故ラマダーン・ブーティー博士、そして
そして知る人ぞ知るジハードに関する研究に於ける現代イスラーム学の最高峰『シャリーア(イスラーム聖法)に基づく政治に於けるジハードと戦闘(al-Jihād wa-al-Qitāl fī al-Siyāsah al-Shar’īyah)』の著書ムハンマド・ハイル・ハイカル博士もいる。
中でも前シリア・アラブ共和国最高ムフティー(イスラーム教義諮問官)故アフマド・クフタロー博士には、何度も自宅にお邪魔させていただき、いろいろな質問をさせていただいた。余談になるが、中でも貴重なのは、啓典の民であるキリスト教徒が屠殺した肉は食用が許されているので、キリスト教徒が国民のマジョリティーであるアメリカやオーストラリアからの輸入肉は食べても構わない、との書面のファトワー(教義回答)である。クフタロー博士が生きておられたら、ハラール認証を利権に変えて食い物にする詐欺師どもの跋扈を見てどう思われることだろう。
シリアでダマスカス以外に足を踏み入れたのは、内戦が本格化して以降、2013年の3月が初めであった。当時はまだエジプトで軍のクーデターでムスリム同胞団のムルスィー政権が倒される前で、タハリール広場でもカリフ制再興について自由に演説することが出来た。エジプト留学時代からのジハード団の旧友でカリフ制再興を訴えるムハンマド師の弟子たちがアサド政権を打倒しカリフ制を樹立するためにジハードをしにシリアに渡った、と聞き、彼らに会ってジハードの実情を見に行こう、と思っていた。そこでイスタンブールのスルタン・アフメト・ファーティフ大学文明連帯研究所でワークショップに参加する機会があったので、足を伸ばして国境の町キリス経由でシリアに入ることにしたのだった。
それ以降、2013年8月、12月、2014年3月、9月と合計5回シリアに入っているが、今にして思うと、この時が一番楽な国境越えだった。というのはこの時は国境のシリア側を自由シリア軍が支配しており、国境が普通に開いていたからだ。国境の幹線道路ではシリアに荷物を運ぶ大型トラックが最後尾が見えないほどの長蛇の列を為していた。私もエジプトの友人から紹介されたエージェントに連れられて、乗り合いバスでシリア人に混じってパスポート・チェックもなく、シリアに入ることができた。当時は多くの反体制グループが割拠しており、いくつものチェック・ポイントを通過してムハンマド師の弟子たちが待つアル=バーブ市に入った。当時はまだイスラーム・カリフ国もその前身の「イラクとシャームのイスラーム国」(以下、ISISと略記)も存在せず、彼らはヌスラ(援助)戦線に所属していた。アル=バーブ市ではヌスラ戦線が最も力があったが自由シリア軍ほか、様々な武装勢力が雑居、共存していた。
我々を暖かく出迎えてくれたムハンマド師の弟子たちは、3LDKのアパートに数名のほ若いムジャーヒディーンたちと一緒に暮らしていた。彼らの同居人はチュニジア、モロッコ、スーダン、サウディアラビアなどで、多国籍ながら全員アラブ人だった。同行者がトルコに帰らなくてはならない予定があるため3日しかいられなかったが、その間は、彼らのアパートに泊めてもらった。客室などはなく、一緒の食事を摂り、皆で雑魚寝だった。ムジャーヒディーンといっても、最前線にいるわけではない彼らは基本的に暇を持て余しており、部屋でプロレスごっこなどをしていた。要するに運動部のノリであり、いわば終わらない合宿なのである。
月給はこの時は僅か約3000円。それでもムジャーヒディーンには住居が無料で支給されるので、主食のパンが1枚3円と物価が安いシリアでは十分暮らしていけるらしい。第一、お金を使う遊興施設もなければ、女の子とデートなど考えられないムジャーヒディーンにはお金の使い道がない。
アル=バーブ市は町外れの丘の上で時々トルコの携帯電話が通じることもあるが、市中は電話回線は一切繋がらない。しかし町中にネットカフェがあり、彼らはインターネットで外界とアクセスしていた。電気は一日に数時間停電しており、時に断水した。もっとも、日に数時間の停電や時々の断水はアフガニスタンの首都カーブルで暮らしたときもそうであったが、慣れればそう不便には感じなくなるものだ。
この旅では戦場を見ることはなかったが、武器工場を見せてもらった。元は小さな町工場だった、という鉄工所で、手作り感一杯の迫撃砲や砲弾が並んでいた。爆薬は不足しているので、なんとシリア政府軍の空爆の不発弾や、第一次世界大戦でイギリス軍が埋めたのを掘りおこした地雷から火薬を抜き出して使っているという話だった。
 精強で知られたヌスラ戦線だったが、実は兵器は不足していた。予想に反して武器市場は機能しておらず、彼らの武器はもっぱら戦闘で鹵獲した戦利品だ。つまり市場に流れた鹵獲品を買うしかないとのことで、彼らの中にも自分の自動小銃カラシニコフを持っておらず、出陣する時には非番の仲間のを借りている者もいた。カラシニコフと言えば100ドルから200ドルが世界の相場だが、シリアでは1000ドルの高値だった。ちなみにチェコ製拳銃は400ドル、ロシア製の軽機関銃は8000ドル、スナイパーライフルは9000ドル、RPGは500ドルで砲弾は300-700ドル、迫撃砲は1000―3000ドル、砲弾は1000ドル、手榴弾50ドルということだった。
 2回目にシリアに入ったのは2013年の9月でカタル、エジプト、トルコでの調査のついでに足を伸ばしたのだが、この時の国境越えはやはりキリスからだったが別のルートで、徒歩で鉄条網を超えてだった。鉄条網を超えると言っても、下に人が屈んでくぐれるほどの穴が掘ってあり、そこを通り抜けるだけだ。一応、国境警備隊がパトロールしており、彼らが居なくなってから急いで渡るのだが、鉄条網越しにトルコ側の住民とシリア側の住民がのどかに歓談しており、国境警備隊も仕事なので一応見回ってはいる、という風情で、完全に黙認状態だった。
 しかし、シリアに入ると情勢は一変していた。2013年4月にイラク・イスラーム国が、「ヌスラ戦線は自分たちの下部組織であったがこの度正式に合併し、今後はISISを名乗る」と宣言したが、ヌスラ戦線が合併を拒否し、両者は分裂し、抗争が始まっていた。アル=バーブ市はISISがほぼ掌握していたが、ムハンマド師の弟子の友人たちはISIS側に移籍していた。しかし彼らの友人や親戚の中にはヌスラ戦線に残った者もいて、相互に交流があり、アル=バーブ市に限って言えば、その時点では両者はまだ共存していた。それ以上に大きな変化は町の雰囲気で、3月にはあった「外国人」ムジャーヒディーンに対する市民の歓迎ムードは完全に消え、終りの見えない内戦に疲弊した市民の中には、「外国人」ムジャーヒディーンこそが内戦の原因だと考え、冷たい視線を投げかける者や、あからさまな敵意を向ける者が増えていた。特にこの時に知り合った非アラブのカザフスタン人のムジャーヒドは、「シリア人は全く信じられない。いつ寝首をかかれるか分からない」と言って、一歩でも家を出る時は決して拳銃を手放さなかった。
 私がアル=バーブ市に入った翌日、シリア政府軍がアル=バーブ市を空爆し、それに呼応して町に残っていたシャッビーハ(新アサド派民兵)が攻撃を仕掛けてきた、ということで、友人たちも戦闘に駆り出されることになった。そこで、「ここは危険になった。安全を保障できないので直ぐにトルコに戻ってほしい。」と言われた。戦闘に巻き込まれて殉教死するのは大歓迎だが、武器も扱えないばかりか満足に歩ることもままならない役立たずの私が側にいて彼らの足手まといになるのは不本意の極みなので、予定を早めに切り上げてトルコに戻ることにした。
 3回目にシリア入ったのは、2013年12月だった。15日にインドネシアで解放党のカリフ会議で発表、20日にトルコのISAR(イスタンブール研究教育基金)主催の国際会議で発表があったので、その合間に駆け足でシリアに入ることにしたのだ。この時は、前々からジャーナリストのシャミル常岡さんの知人で「イラクとシャームのカリフ国」の越境担当司令官のウマル・グラバー師から「是非会いたい」と言われていたので、彼を訪ねてみることにした。
この時はトルコのハタイから川を渡って越境することになった。川といっても、川幅は20メートルほどしかなく、寒い中を子供が水遊びで泳いでいるのを横目に、両岸に渡した太い綱をつたって大きな盥のような船で越境した。人間が渡っている横で、ポリタンクに詰めた原油が同じ盥の船に積まれてどんどん輸送されていた。ここでもトルコの国境警備隊のパトロールの車はやはり申し訳程度に数十分間隔で回って来ていた。そのだけ間は渡し船の動きは止まるが、パトロールの車が対岸をゆっくり通り過ぎていく間も、シリア側では人間は身を隠さず、また石油のポリタンクも隠そうともせず、彼らの姿が見えなくなるや否や渡河を再開する。トルコ側が黙認しているのはここでも明らかだった。
その日はサルキーンのウマル師の家で夕食をご馳走になり、離れに泊めていただいたが、翌朝、アル=バーブ市のエジプト人の友人たちが私に会いにやって来た。1悪路を車を飛ばして、150キロも離れたアル=バーブから会いに来てくれたのを断るわけには行かないの。明日、クワイリス軍用空港の攻撃作戦があるから一緒に行こう、ということでアル=バーブに連れて行ってもらうことになった。
3回目のシリア入りで初めて戦場に足を踏み入れることになったわけだ。ところが朝早く出撃のはずが、結局だらだら昼食まで食べてから友人のムジャーヒディーンたちを車で拾っておもむろに出発。武器庫でピックアップトラックに乗り換えて、組み立て式の迫撃砲を積んで空港に向かう。空港の近くに行くと、検問所で覆面の兵士たちに「テロリスト(イルハービー)ども、何しに来たんだ?」と呼び止めらた。すわ、政府軍と遭遇か、とビクッとしたが、彼らの顔は笑っており、仲間のムジャーヒディーンで、空港を包囲している部隊だと分かり安心した。安心はしたが、友軍の間でも横の連絡も上からの指示も全くなく、数人単位の小部隊が気まぐれで攻撃を仕掛けていることも分かってしまった。もっとも連絡を取ろうにも携帯電話の電波がないので連絡の取りようもないのだが。
結局、空港から1キロほど離れた低い丘の影に運んできた迫撃砲を据え付け、小一時間かけて10発の砲弾を撃ち込んでゆうゆうと撤収した。空港側からも迎撃の砲声、銃声が聞こえるが、丘を隔てての盲撃ちなので近くに着弾した気配は全くなかった。実はこちらの攻撃も同じで敵側に損害を与えた様子は全く見られなかった。
「砲弾一発が1000ドル、これで10000ドルが無駄に消えたのかー、あぁ勿体ない。」が初めての戦場体験の感想だった。
 クワイリス空港攻撃作戦から無事生還して、エジプト人の友人たちに送られて、サルキーンのウマル司令官の許に戻り、ウマル司令官に連れられて、イドリブ県知事のウマル・ミルアート司令官に会いに行きISISの施政方針などにつき一時間ほど懇談した。
特に話題になったのは、その時点で、既にアブー・バクル・バグダーディーがカリフの別称でもある「アミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)」を名乗っていたことだった。ウマル・ミルアート知事は、あくまでもアブー・バクル・バグダーディーはISISの指導者であって、全ムスリムのカリフではない、と説明してくれた。そしてそれが正しかったことは、2014年6月末にアブー・バクル・バグダーディーが改めてカリフ就位を宣言したことで証明されることになる。
 ウマル・ミルアート知事は私が初めて会ったISISの高官だったが、30歳そこそこの若者ながらが、笑顔を絶やさず私のただたどしいアラビア語の言葉に静かに辛抱強く耳を傾け、気負いもてらいもなく誠実に応対してくれた。ウマル・ミルアート知事は、30年を超えるアラビスト人生の中で、私がこれまで会ったアラブ人の中で最も気持ちのいい好青年だった。彼との出会いは、独善的、権威主義的、残酷な狂信者、といったISISの指導部のイメージを完全に覆すもので、彼のような人材がいる限りISISの未来は決して暗くはない、との希望を持たせてくれるものだった。
 翌日、慌ただしくまた盥の船で川を渡ってトルコに戻り、イスタンブールでのISARの国際会議での発表の冒頭で、私がISISの支配地を訪れたこと、彼らがカリフ制再興を目指して国作りをしている現場をこの目で見て、イドリブ州知事と意見交換をしてきたことを報告し、日本に戻った。
 そして今回のイスラーム・カリフ国訪問で、私がこの時イスタンブールでISISについて客観的で好意的な報告をしたことがイスラーム・カリフ国の指導部に伝わっていたことを知ることになった。(続く)




2016年12月2日金曜日

「間違いだらけのハラール認証」発表要旨

2016年12月3日                                       イべントBarエデン

間違いだらけのハラール認証

中田考(同志社大学客員教授)
発表要旨


1. ハラール認証を論じることの難しさ
(1) ハラール認証の欺瞞を暴くことは、ムスリムと非ムスリムの敵対を助長する。
(2) ムスリム諸国が全て反イスラーム的であり、「公的」に見える「イスラーム」自体が実は反イスラームであり、ハラール認証もそうした「公的」イスラームの一つである。 → (イスラームの唯一の合法政体)カリフ制再興だけが解答

2. ハラールとは何か
クルアーンには定義なし。定義はハディースに。
「アッラーがその書(クルアーン)の中でハラール(合法)としたものがハラールであり、ハラーム(禁止)とされたものがハラームである。黙されたものは御目こぼしであるので、アッラーからのそのお赦しを受け取れ。汝の主は忘れていたわけではない。」(ダールクトゥニー、ハーキム、タバラーニー)

3. イスラーム法とハラール
行為の5範疇 ①義務②推奨③許可(ハラール、ムバーフ)④忌避⑤禁止(ハラーム)
属人法→ 非ムスリムには義務負荷なし、許されない罪多神崇拝を犯せば不信仰者

「・・・アッラーフは他の神と並べられることは許さないが、それ以下のことなら御望みの者を赦される・・・」(4章48節)

4. 言語としての啓典
クルアーンは人間の言語であり、啓典クルアーンは有限な言語からなる導きの指針
クルアーンは、ムスリムが自分の行為の判断ができるための善悪の一般的なカテゴリーを示す十分な基準
クルアーンはハラール、ハラームの範疇を示し、個物の判断は各ムスリムに任される

5. 多神崇拝(シルク)
 クルアーンは、ユダヤ教やキリスト教を多神教とみなすのは、彼らが、教義を決める聖職者制度を作ったから。

6. クルアーンの食物規定
禁止:死肉、血、豚肉、アッラーの名を唱えられえた物以外(2:173,5;3,6:145)

6.イスラーム法上のハラーム
哺乳類、鳥類では豚以外、猛禽、猛獣。屠殺されないもの。
虫や爬虫類、両生類はイナゴとトカゲを除いてハラームが通説。
水生動物は見解が分かれる。魚以外はハラーム説。ただし魚とは何か?

7. 食品がハラールであるかどうかを誰が知るのか
肉を屠殺した者、肉を買った者
自分自身に関してはハラール、ハラームの判断を下す義務と権限(ウィラーヤ)
人間はすべて自由で自分に対する権限 他人に対して命令権を持つのはアッラーの使徒とその後継者(カリフ)だけ

8. ハラームを避けるとは
なによりもまず不正に入手されたものを避けること

9.ビドア
ビドア=新奇に人間の手によって作り上げられたもの
アラブ遊牧民の伝統では「周知のもの=善」「知らないもの=悪」

10.ハラール認証はビドア
ハラール認証は預言者や正統カリフ時代はおろか、アッバース朝、オスマン朝のカリフ国家でも、4法学祖たちも行わず、現在でさえ、サウジアラビアやイランなどには存在せず

11.イスラームの統治制度
イスラームにはアッラーの使徒の没後、聖職者も教義決定機関もなし。教義に関しては、自分で判断できなければ、誰でも自分が信ずる者を選んだ相手に質問することができるが、その場合でさえ、その回答(ファトワー)は拘束力を持たない。
社会関係行為で訴えがあった場合、カリフの代理人であるカーディーによる裁判。
行政のイニシアチブとしてはカリフの下のヒスバ(行政監督)制度

12.啓典の民
「今日(清き)良いものがあなたがたに許される。啓典を授けられた民の食べ物は、あなたがたに合法であり、あなたがたの食べ物は、彼らにも合法である。また信者の貞節な女、あなたがた以前に、啓典を授けられた民の中の貞節な女も。…」(5章5節)