2016年12月2日金曜日

「間違いだらけのハラール認証」発表要旨

2016年12月3日                                       イべントBarエデン

間違いだらけのハラール認証

中田考(同志社大学客員教授)
発表要旨


1. ハラール認証を論じることの難しさ
(1) ハラール認証の欺瞞を暴くことは、ムスリムと非ムスリムの敵対を助長する。
(2) ムスリム諸国が全て反イスラーム的であり、「公的」に見える「イスラーム」自体が実は反イスラームであり、ハラール認証もそうした「公的」イスラームの一つである。 → (イスラームの唯一の合法政体)カリフ制再興だけが解答

2. ハラールとは何か
クルアーンには定義なし。定義はハディースに。
「アッラーがその書(クルアーン)の中でハラール(合法)としたものがハラールであり、ハラーム(禁止)とされたものがハラームである。黙されたものは御目こぼしであるので、アッラーからのそのお赦しを受け取れ。汝の主は忘れていたわけではない。」(ダールクトゥニー、ハーキム、タバラーニー)

3. イスラーム法とハラール
行為の5範疇 ①義務②推奨③許可(ハラール、ムバーフ)④忌避⑤禁止(ハラーム)
属人法→ 非ムスリムには義務負荷なし、許されない罪多神崇拝を犯せば不信仰者

「・・・アッラーフは他の神と並べられることは許さないが、それ以下のことなら御望みの者を赦される・・・」(4章48節)

4. 言語としての啓典
クルアーンは人間の言語であり、啓典クルアーンは有限な言語からなる導きの指針
クルアーンは、ムスリムが自分の行為の判断ができるための善悪の一般的なカテゴリーを示す十分な基準
クルアーンはハラール、ハラームの範疇を示し、個物の判断は各ムスリムに任される

5. 多神崇拝(シルク)
 クルアーンは、ユダヤ教やキリスト教を多神教とみなすのは、彼らが、教義を決める聖職者制度を作ったから。

6. クルアーンの食物規定
禁止:死肉、血、豚肉、アッラーの名を唱えられえた物以外(2:173,5;3,6:145)

6.イスラーム法上のハラーム
哺乳類、鳥類では豚以外、猛禽、猛獣。屠殺されないもの。
虫や爬虫類、両生類はイナゴとトカゲを除いてハラームが通説。
水生動物は見解が分かれる。魚以外はハラーム説。ただし魚とは何か?

7. 食品がハラールであるかどうかを誰が知るのか
肉を屠殺した者、肉を買った者
自分自身に関してはハラール、ハラームの判断を下す義務と権限(ウィラーヤ)
人間はすべて自由で自分に対する権限 他人に対して命令権を持つのはアッラーの使徒とその後継者(カリフ)だけ

8. ハラームを避けるとは
なによりもまず不正に入手されたものを避けること

9.ビドア
ビドア=新奇に人間の手によって作り上げられたもの
アラブ遊牧民の伝統では「周知のもの=善」「知らないもの=悪」

10.ハラール認証はビドア
ハラール認証は預言者や正統カリフ時代はおろか、アッバース朝、オスマン朝のカリフ国家でも、4法学祖たちも行わず、現在でさえ、サウジアラビアやイランなどには存在せず

11.イスラームの統治制度
イスラームにはアッラーの使徒の没後、聖職者も教義決定機関もなし。教義に関しては、自分で判断できなければ、誰でも自分が信ずる者を選んだ相手に質問することができるが、その場合でさえ、その回答(ファトワー)は拘束力を持たない。
社会関係行為で訴えがあった場合、カリフの代理人であるカーディーによる裁判。
行政のイニシアチブとしてはカリフの下のヒスバ(行政監督)制度

12.啓典の民
「今日(清き)良いものがあなたがたに許される。啓典を授けられた民の食べ物は、あなたがたに合法であり、あなたがたの食べ物は、彼らにも合法である。また信者の貞節な女、あなたがた以前に、啓典を授けられた民の中の貞節な女も。…」(5章5節)

2016年11月18日金曜日

「イスラームにおける救済の境界と異教徒との共存」



20161117   オリエンス・セミナー第89   オリエンス宗教研究所

「イスラームにおける救済の境界と異教徒との共存」

中田考(同志社大学客員教授)

  資料                   

 
   イスラームにおける救済の境界
イスラームはアーダム(アダム)以来の全ての預言者の宗教であり、救済は「ムハンマドのウンマ」を越えて、アーダムからイエスに至る預言者たちの教えに従った全ての「一神教徒」、即ち「広義の」ムスリムに及ぶ。これはイスラームの合意事項であり、宗派、学派の違いを超えて異論は存在しない。「イエス・キリスト以前に救いは存在するか」といった問題はイスラームにはそもそも存在する余地はない。
ムハンマドの宣教以降についての「ムハンマドのウンマ」を越えた救済の可能性をめぐっては、アシュアリー派神学が、3つのカテゴリーについてそれを認めている。
第1は、イスラームの宣教が届いていない者で考察によって自力で唯一神崇拝に辿り着いた者である。このカテゴリーに属する者は「広義の」ムスリムと認められる場合もあり、その救済については、同派の中に異論は存在しない。
第2は、イスラームの宣教が届かなかったために宗教に無関心に生きて死んだ者である。後期アシュアリー派の通説では、彼らは救済に与る。
第3は、イスラームの宣教が届かず積極的「無神論者」として確信犯的に神を拒絶して死んだ者である。彼らの救済については同派の中でも見解が分かれるが、救済説も有力である。
以上に概観した通り、異教徒に救済の可能性が開かれていることは、何世紀にも亘る長い議論の末に、反対説と並んで、スンナ派の「正統」神学の一つアシュアリー派の「学説」として承認されており、「学説」として自由な議論の対象となる。そして本稿が明らかにした通り、アシュアリー派による異教徒の救済論は、貿易・交流、征服・被征服などの異教徒との政治・社会・経済関係の利害打算を反映した外在的な妥協案、折衷策、外圧による言論の歪曲の産物ではなく、神学の内在的な理論的要請から生まれたものである。それゆえ一時の流行や状況に流された近視眼的な首尾一貫性のない借り物の「思想」ではなく、このアシュアリー派神学の救済論の伝統を継承し深化発展させることこそが、私見によれば将来のイスラームと他宗教の共存の神学的基礎となる。(中田考「救済の境界 ‐イスラームにおける異教徒の救済ー」『一神教学際研究』2,2006/2)
* 価値観を共有しない敵との対話は可能か
 人間は見も知らぬ人の為に心を動かすように動物として制度設計されていない。
 動物行動学が教えるところによると、 泣いて涙を流すこと、微笑み、そして跪く、お辞儀をするといった儀礼的動作は、人間を「武装解除」させる。人間は隣人を愛おしみ、弱い隣人を哀れむように制度設計されている。
 しかし、人間が動物以上の知能を授かり、道具を発明し、動物としての身体機能を超えた行為が可能になった時、動物としての人間に生得的に備わった武装解除機構はもはや十分ではなくなった。
 目の前で跪いて涙を流して命乞いをする者への攻撃の抑制機構は、顔も見えない遠隔の他人を殺すミサイルの発射スイッチを押すことを防ぐことはできない。
 人間という動物は目の前で寒さに震え飢えに泣く者を憐れむように制度設計されてはいても、遠い異国の目にしたこともない難民に同情するようには創られていない。
 身近な家族と隣人のみしか知らない動物としての人間は、世界の悪に対してイノセント(無罪)である。
 しかし、知性を授けられ、道具を使うことを選び取り、動物としての身体能力を超えた行為が可能となり、自らが知り影響を及ぼすことが出来る可能性空間を地球規模にまで広げた人間は、知性によって力を得たことと引き換えに、生得的に制度設計された憐れみと攻撃抑制の本能の指示を超えて知性を用いて自らの可能性空間全域で起こりうる所業の善と悪を判断し行動するという重い責任を負うことになった。
 『我ら(アッラー)は天と地と山に信託を提示したが、それらはそれを恐れて担うことを拒んだ。ところが人間は、それを引き受けた。実に人間とは不正な存在である。』(クルアーン33章72節)
 かつて人間は遠隔地で起きている出来事にイノセントであった。しかし、書物、テレビ、インターネットを手にし、遠隔地の出来事を知のコンテンツとして消費することを選び取った者は、グローバルな不正をも「身近に」知り、抑制する責任を負うことになる。
 しかし、そうして「身近に」見られるようになった仮想空間は、どこまで世界をリアルに映し出しているのだろうか。生々しく身近に見ることができる野蛮な映像が映し出しているのは、果たしてその映像の野蛮のリアリティーなのか。それともそれは、我々のメディアをもってしても生々しく身近に見ることができない一瞬にして人体を跡形もなく破壊し尽くす隠蔽された野蛮の陰画なのか。
 我々の知性は、この仮想空間から我々が責任を負うべきリアリティーを正しく読み解く能力が果たしてあるのだろうか。
 不正にも知性と自由という重すぎる信託を引き受け、可能性空間をグローバルに拡張してしまった我々は、もはや世界の出来事にイノセントではいられない。我々は今、その現実を目の前に突きつけられているのである。・・・中略・・・
 イスラーム法は戦闘を二種類に区別する。ムスリム同士の戦い「反徒との戦い」と異教徒との戦い「ジハード」である。「反乱との戦い」は同じ価値観、即ちイスラーム法を共有する者同士の間での戦いである。それゆえ争いは、法解釈と事実認識の問題となるのであり、原則的に議論による完全な合意が達成可能である。
 ところが、ジハードは異教徒との戦い、つまり根本的に価値観を異とする敵との戦いである。根本的に価値観を異とする、つまり共役不能な価値観の持ち主の間の対話においては完全な合意の達成は原則的に不可能である。そこでは部分的合意か妥協が成立するか、対話が決裂して武力闘争に発展するかしかありえない。
 イスラーム法はジハードの開戦、休戦などの戦争法規を有する。グロチウス(1645年没)に800年以上先立ち、イスラームはハナフィー法学派の大法学者シャイバーニー(805年没)の『大戦時行為の書(キターブ・アル・=スィヤル・アル・=カビール)』によって戦時国際法を体系化している。
 しかし、イスラームの国際法とグロチウスらが創始した西欧の国際法には根本的な差異が存在する。それは、西欧の国際法が、根本的には西欧キリスト教文明の同じ価値観を共有する等質の国家の間のルールであったのに対し、イスラームの国際法とは根本的に価値観を異にする敵との関係を律するイスラーム教徒だけに適用されるルールであったことである。
 イスラーム法は来世での最後の審判における賞罰によってその効力が担保された神授の天啓法であるためカテゴリカリーにイスラーム教徒だけを拘束する属人法であり、異教徒には適用されない。
 イスラーム法が、戦闘において女子供、老人、病人、修道士のような非戦闘員を殺害してはならないのも、ジズヤ(人頭税)を納めることに同意した異教徒とは戦争が禁じられ永代居住庇護契約を結ばねばならないのも、慣行が成文化したわけではなく、また敵との力関係、利害打算の産物でもなく、 神からそう命じられたからであり、 ムスリムは「一方的」に順守するのである。
 西欧に生まれた国際法が、国際法の正当性/合法性(legitimacy)を承認した法的主体全員を拘束するのに対し、イスラーム国際法はイスラーム教徒のみを拘束し、異教徒はイスラーム国際法の正当性/合法性(legitimacy)の承認を求められることはなく、イスラームの家(イスラーム国家)の内部に住む庇護民はカリフと結んだ庇護契約(アクド・ズィンマ)、イスラームの家の外部の敵性国民の場合はカリフとの間に締結した休戦協定(スルフ、フドゥナ、アフド)を自分がなした約束であるが故に守ることだけを求められるのである。
 イスラームは、イスラームと他の宗教、イデオロギーが共役不能で決して一つにはなれないことを当然の前提とする。他の宗教、イデオロギーを信奉する他者は、価値観を共有しない敵である。しかし、イスラームは、 他の宗教、イデオロギーを信奉する他者が価値観を共有しない敵であると見做すが、価値観を共有しない敵とは対話も交渉も共存もできないとは決して考えない。
 そうではなく、異教徒であれ、「自分の言葉(約束)を守る」なら、対話が成立し交渉による共存が可能であると考える。そして、言葉(約束)を守らないと考えるべき証拠が示されない限り、異教徒であれ人は言葉を守るものである、との人間理解がこの法思想を支えている。それは人間を「理性的(言葉を話す=ナーティク)動物」として定義した イスラーム文明におけるギリシャ文明の受容からも説明できる。
 イスラームはイスラームを絶対的真理、異教徒を価値観を共有しない敵と見做すが、さりとて、その価値観を共有しない敵を対話の成立せず共存が不可能な人外の存在と考え悪魔化することもない。
 むしろ、イスラームは、人が人である限り、つまり「言葉を話す存在」としての言語の内的ルール、「自らの言葉を守る(言葉の意味論的、語用論的、統語論的意味に忠実に約束を履行する)」という条件さえ満たす限り、対話による共存の道が開けている、と考えるのであり、それがイスラーム国際法の考え方なのである。
 そして、対話と共存の枠組の構築に、 相手に対して「自らの言葉を守る(言葉の意味論的、語用論的、統語論的意味に忠実に約束を履行する)」という一点のみしか前提条件を求めないイスラーム国際法のこの考え方の方が、 一定の時代と場所に歴史的に拘束された特種なイデオロギーに過ぎない 「人権」、「自由」、「民主主義」などを普遍的価値であると称して他者に押し付け、その前提を共有しない敵にテロリストなどのレッテルを貼り悪魔化して対話を拒み暴力的に殲滅しようと謀る西欧の国際法の考え方よりも、文明間の共存の必要性がグローバルに視野に上ってきた今日的状況においてより求められていると著者は考える。(中田考「価値観を共有しない敵との対話は可能か」『現代思想 - 総特集 シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃 ; イスラム国とは何か』(2015-0343巻)
* 法的存在としての人間
イスラームは言語中心主義、理性中心主義であるかのように思われるかもしれません。しかし生まれつき言語中枢に障害がある者、あるいは怪我や病気や老いによって言語的思考能力を失った者は人間ではないのでしょうか。
確かにアッラーは人間の言葉の形をとった啓典において顕現し自らを人間に示されます。しかし、クルアーンにおいて言葉を持つ存在は人間だけではありません。動物や植物などの生物は言うに及ばず、無生物も含め、万象はそれぞれ独自の言葉を有しており、それぞれの言葉で神を称えています。ただ私たちがその言葉を理解できないだけなのです。
「諸天と地とその中にある者は彼(アッラー)を称えている。あらゆるものは彼に対する賛美で彼を称えているのである。しかしお前たちは彼らの称賛を理解しない。・・・」(17章44節)
またクルアーン第27「蟻」章では、スライマーン(ソロモン王)は蟻や鳥の言葉を理解します。ちなみに動物行動学の祖コンラート・ローレンスの著『ソロモンの指輪』の題名はこのヘブライ語(旧約)聖書のこのソロモン王の逸話にちなんでいます。
言葉を有しているのは人間以外のモノだけではありません。クルアーンによると最後の審判の日には、人間の四肢がその行いを証言することになります。
「彼らの舌、彼らの手、彼らの足が彼らに対して彼らが行ったことについて証言する日」(24章24節)
つまり人間とは単に言語中枢だけではなく、全身体において神を称える存在なのです。ですから、たとえ言葉がわからない人であってもまた、細胞から四肢に至るさまざまなレベルでの言語によって神を称えているのです。ただ私たちにはそれがわからないだけです。
フィクフ(イスラーム法学)のレベルにおいては、精神障碍者は、サフィーフ(愚者)とマジュヌーン(狂人)に分類されます。サフィーフはフィクフの専門用語としては行為無能力者、禁治産者であり、フィクフはサフィーフには補佐する後見人を指定すると同時に民事上の免責措置を規定しています。いっぽうマジュヌーンは理性を欠く人間で責任無能力者であり、あらゆる罪は免責され、現世でも来世でもいかなる懲罰を被ることもありません。
法学と神学の交差する領域で注目すべきは、「マジュズーブ(憑かれた者)」という概念です。「マジュズーブ」とは原義は「引き寄せられたもの」の意味で、神に引き寄せられ魅了された者を意味し、忘我の状態で「我こそは神なり」、「我を称えよ」などの、表面的には篤信の言葉を吐く者のことを指します。マジュヌーン(狂人)の原義が「ジン(妖霊)に憑依されたもの」であるのに対して、同じく受動分詞であるマジュズーブは何に憑かれたのかが特定されていません。
この「マジュズーブ」について、既述のシャーフィイー派大法学者ナワウィーの著『マカースィド』は「『マジュズーブ(憑かれた者)』の様な、理性を失った、あるいは理性が乱された者については、シャリーアの清い規定を守るために、彼等に生じたアッラーの命に反するように見えることは拒否しなくてはならないが、我々は彼等を放任し、彼等のことはアッラーに委ねるのである。」と述べています。
マジュズーブが忘我の状態で、理性のレベルでは涜神、背教ともとれる言葉を吐こうとも、それがなんらかの理由があって神から直接にあるいは天使を通して間接に神から授けられたイルハーム(霊感)の言葉である可能性を考慮し、その言葉を真に受けて彼を神人として扱うことも、逆に涜神の背教者として処刑することもなく、神に委ねて判断停止することが、スンナ派の定説となっているのです。
つまり、イスラームの言語重視には理性重視の側面があるのは確かですが、だからといって単純にイスラームは言語操作能力に長けた人間を聖別して他の被造物や理性において劣った人間を貶めている。といことにはならないのです。なぜならばイスラームは一方で、人間が言語を持つのと同様に森羅万象はそれぞれの言語を持っており、それにより神を称えており、それには言葉を話すことができない人間の四肢も含まれているとみなしており、また他方では人間の言語についても、マジュズーブ(憑かれた者)のように人間の通常の理性を超えた次元のコミュニケーションの手段になることを認めており、人間の理性を超えた言葉に対しては謙虚に頭を下げ判断を保留することをよしとしているからです。
イスラームが理性的存在としての人間の優位性を高らかに謳歌しているのではないことは、クルアーンの以下の不思議な節からも知ることができます。
「我らは信託を諸天と地に提示したが、それらはそれを恐れてそれを引き受けることを拒んだ。しかし人間はそれを引き受けた。まことに彼は甚だしく無知で不正であった。」(33章72節)
この節の「信託」は、自分の行動を自分で選びその結果に責任を負う自由意思による選択の自由を指す、と言われています。つまり、イスラームの世界観においては、人間は言語と理性を有することによって他の被造物に優越する特別な存在になったのではなく、選択の自由を持ちその結果に責任を負うことを選んだことで人間は他の被造物と本質的に異なる存在となったのです。そして選択の自由を引き受けたことで、人間は悪魔と並んで悪を犯す存在となったのです。
ここで選択の自由と責任を引き受けたことにおいて人間が「甚だしく無知で不正であった」と言われていることは極めて重要です。
「それから(アッラーは)煙霧であった天にのぼり、それと地に対して、自発的に、あるいは強制されて、我の許に来たれ、と言った。すると両者は、自発的に参上いたします、と言った。」(41章11節)人間は自ら善を行いうるとの愚かな思い上がりにより、善のみを行い神の賛美が存在様態であり即自的に善なる被造物であることをやめ、悪を犯す存在になり下がってしまいました。それゆえ、「人間は甚だしく無知で不正であった」と言われているのです。天使と同じく被造物はそれぞれの言語で神を称えるために存在しており、存在様態そのものが善であり、悪を犯すことはありません。逆に悪魔は悪の化身であり存在様態そのものが悪です。人間だけが、自らの意志と責任において善を行うか悪を行うかを選択する、という特別な存在様態を有するのです。ですから人間が単に善を行うことには何の意味もありません。森羅万象の全ては万物の善なる行いなのであり、善であること自体にはなんら特別な意味などないからです。重要なのは「善を行うこと」それ自体ではなく、自らの「自由な選択として」善を行うことです。なぜならそれだけが、人間だけの特別に可能なことだからです。その意味で、自由に善を行う、神の命に自らの自由な選択として従うことだけに人間の栄光は存ずるのです。
学問としてのフィクフは行為を義務、推奨、合法、忌避、禁止に行為を類型化しますが、実はムスリムにとっては、行為が形式的に合法か不法かは問題ではないのです。それが自らの意志で神だけのために選び取られたことだけが、つまりイスラームの代弁者を騙る者への盲従からではなく、世間の目を気にしてでもなく、国家の罰への恐怖からでもなく、ただ神に対する敬慕と畏怖の念だけから神が嘉される善行を自ら進んで行ったことだけが問題になるのです。(中田考『イスラーム法』作品社)

2016年5月11日水曜日

イスラーム地域研究と観察問題

 記述科学としての地域研究は「あるべきムスリム」ではなく、現実のムスリムの実際の姿を客観的に記述することを目指す。
 それは正しいが、言語認識の規範性の意識に欠ける地域研究者は、方法論敵個人主義があくまでも一つの規範的概念措定の様式の一つでしかないことに無自覚に、「現実のムスリムの実際の姿」なるものが研究者による規範的な概念措定を抜きに外界に実在するとのナイーブに思い込みがちである。
 物質としての人間は不断に構成する粒子が入れ替わっており、数ヶ月で完全に別の存在になると言われる。にもかかわらず、時間軸の中で変化する人間を同一の人間とみなすことができるのは、要素としての物質の同一性によるのではなく、それらを纏め上げるパターン、ある種の「あるべきイデア」の存在を規範的に措定しているからである。目に見え触れることが出来る肉体ですらそうであるなら、五感によって知覚することのできない、「人格」、「思想」などというものは、尚更である。ある人間が定常的な人格、思想を有する、との考えは、人文社会科学においてのみならず、日常生活においても、極めて大雑把な意味においては古今東西を問わずありふれた考え方であろう。
しかし、厳格に論ずるなら、人が統合された固定的な人格、思想を有する、との考えは、「近代的自我の確立」を人間の正常な発展段階と考えた近代西欧の考え方である。前近代、非西欧世界においてはむしろ、人間とは、悪魔や天使、それに我々が「自我」と呼ぶようなものも含めた様々なモノ、あるいは力がせめぎ合う「場」であり、我々が「その人の人格の持つ思想の表現」と考えるものも、その時々にその「場」を制したモノ、力の意志の発現と考えられてきた。勿論、それは天使や悪魔といったそれらの様々なモノ、力のそれぞれにも同様に言えることであり、「人間」も含めて、全ての「人格」は、外部と内部の境界が固定しており外部から独立した強固に統合された定常的な「個体」ではなく、さまざまなモノ、力、人格の相互作用の「場」である。「個人の人格」とは、その「場」にボンヤリと漂う霧のような不定型で曖昧な存在なのである。
つまり、方法論敵個人主義が措定するような、一人でいる個人の独立の人格がもつ固有の思想、などというものはなく、誰であれ人の「人格」は、周囲のモノ(者、物)との相互作用の中でしか存在せず、その思想も同様に、相互作用の表出でしかないのである。
これは、特にインタビューやアンケートを使用する社会科学で問題となる。自然科学においてすら、量子力学は、観測が観測対象に影響を与えるために、観測による対象の状態を完全に客観的に正確に認識、記述することが原理的に不可能であることを明らかにしたが(不確定性原理)、社会科学においては「観測」の影響はより明らかである。アンケートやインタビューは、対象に、それまで存在しなかった問題とその答えを作り出しながら、それを対象の思想として観測し記述する。
シュレジンガーの猫が観測によって生きるか死ぬかいずれか一つに決定されるように、たとえばカリフ制再興についてそれまで一度も考えたことがなかった者も、カリフ制再興に賛成か、反対か、という質問を受けることによって、賛成者か反対者のどちらかに選り分けられる。また、人間とは相互作用の場である、という人間観に立てば、イスラーム地域研究の観測問題の更に別の一面も明らかになる。というのは、人間が相互作用の場であるなら、イスラーム地域研究者のアンケートやインタビューに答える時、回答者は、単に研究者のアンケートやインタビューに応じてそれがなかった場合にはなかった新しい反応をしただけではなく、ある国家、民族、宗教、言語、文化、階層的背景を背負った質問者と相互作用を行なった回答者は、それ以前とは別の人間に変容した、と考えなければならないからである。
この問題は、別の文化背景を担ったイスラーム地域研究者との相互作用では殊更顕著に顕れるとはいえ、当該地域内のムスリム社会の日常生活においても存在している。平凡なムスリムであれば、有徳のイスラーム学者と共に神を崇拝している時と悪友と遊興に耽っている時では、別人となる。初代カリフ・アブー・バクルでさえ、預言者ムハンマドと共にいる時は信仰心が高まった、と伝えられている。イスラームの世界観においては、いかなるものにも影響されることなく常に善を行なう存在が天使、逆にいかなるものにも影響されず常に悪を犯す存在が悪魔であり、人間はその中間にあり、共に居る人間次第で良くも悪くもなると考えられている。篤信、高徳の学者は他人に影響されること少なく常に高い信仰心、正しい判断力を維持できるが、不信仰で品性下劣な者は心が頑なになり預言者の感化すら受け付けなくなる。彼らの「人格」は高度の安定性を有していると言うことが出来る。他方、一般の信徒の「人格」は、共にいる者によって大きく変容する。「朱に交われば赤くなる」、のである、
それゆえイスラーム地域研究者が一般のムスリムを対象にインタビューなどの調査を行なう場合は、観察による対象の変容を考慮に入れなければならないのである。変容の度合いは調査に先立って予想することが出来ないのは勿論、調査後に客観的に計る基準も存在せず、アドホックに処理するしかないにしても。

2016年1月23日土曜日

一日で教えるトルコ語の基礎教本

「一日で教えるトルコ語の基礎」教本


文法は(1)母音調和、(2)動詞人称変化、を除きほぼ日本語と同じ。
発疹 チフスの 発生が 見られた   ので 新しい 保健 対策が 取られたそうだ。 
Lekelı    tifo        olguları    görüldüğüden  dolayı   yeni       sağlık  tedbirler  alınmıştır.
1.発音
母音調和
トルコ語は8つの母音を持ち、前舌母音と後舌母音の以下の2グループに分かれ、
前舌母音: i   e  ü  ö
後舌母音 : ı   a  u  o
連続した単語群では母音はどちらかのグループのいずれかに統一されているのが原則
従って、活用語尾や付属助詞などは名詞、動詞の語幹の母音に調和する
(ここではa-e変化ではaü a u 変化はi で表記する)
2.名詞
行く先格助詞(~へ)では前グループの助詞は (y)e 後グループの助詞は(y)aとなる。
el(手)ele(手へ)ağuz(口)ağuza(口へ)AnkaraAnkaraya(アンカラへ)        
名詞動詞目的格(~を)では以下の4種類に変化する
i eü ö ü ı a a u o u
dil(舌)dili(舌を gün(日)günü(日を)yıl(年)yılı(年を)buz(氷) buzu(氷を)ev(家)eve(家へ)göz(目)gözü(目を)at(馬)atı(馬を) kol(腕)kolu(腕を)
名詞に性はないが、複数形ありl ar
格(助詞)
主格(無曲用)(は)    ev(家)       ata(父)
持ち主格(~の)in     evin(家の)      atanun(父の)
行き先格(~へ)a          eve(家へ)     ataya(父へ)
動詞目的格(~を)i        evi(家を)      atayı(家で)
しどころ格(~で)da      evde(家で)     atada(父で)
でどころ格(~から)den   evden(家から)    atadan(父から)
人称代名詞と人称語尾
私 ben  -in 私たち biz –imiz あなた sen -in あなた方siz -iniz
指示代名詞 これ bu それ şu あれo (人称代名詞 彼/彼女/彼らはo / onlar で代用)
主格(無曲用)(は)    ben   sen      biz       siz
持ち主格(~の)in      benin   senin    bizin      sizin
行き先格(~へ)a          bana    sana  bize   size
動詞目的格(~を)i        beni   seni   bizi      sizi
しどころ格(~で)da      bende    sende   bizde     sizde
でどころ格(~から)dan   benden  senden   bizden   sizden
名詞限定語尾 語尾が子音の限定名詞はi-ı -u-ü  母音ならsi-sı -su-süが語尾につく
evi(その家) annesi(その母)
名詞の接続の順 語幹+複数語尾+人称語尾(限定語尾)+曲用語尾
oğullarımızdan 私たちの息子たちから
~である o Türük. ben Türüküm. sen Türüksün. biz Türüküz. siz Türüküsünüz.
~であった o Türük idi. ben Türük idim. sen Türük idin. biz Türük idik. siz Türük idisiniz.
3.形容詞
形容詞は活用しない 名詞を修飾する場合には間に数詞一(bir)をはさむ
Çalışkan  bir kız    güzel.
勤勉な 一人の 娘は 美しい。
否定詞 değil
o Türük değil. ben Türük değilim. sen Türük değilsin. biz Türük değiliz. siz Türük değilsiniz.
疑問詞 mimuは文末か、(y)idiの前などに置かれる
Ahmet bugün buraya gelecek miydi ? Soğuk bir şey elim mi ?
4.動詞
語根mak-mekを付けた動名詞で表記 yazmak(書くこと)
否定ma-meが挿入される。yazmamak(書かないこと)
日本語と同様に終止形yaz書いた)、連体形yazan adım 書いた人)、連用形yazıp okudı(書いて読んだ)、命令形(yaz書け)がある。
終止形には以下の7種類がある。
現在形 yazyor/彼女yazyorumyazyorsunyazyoruz我々yazyorsunuz君達
過去形 yazdı/彼女yazdımyazdınyazdık我々yazdınız君達
未来形 yazacak/彼女yazacağumyazacaksunyazacağuz我々yazacaksunuz君達
伝聞形 yazmış/彼女yazmışımyazmışsınyazmışız我々yazmışsınız君達
無(超越)時制形(不規則変化あり)yazar/彼女yazarızyazarsınyazarız我々yazarsınız君達 
義務形 yazmalı/彼女yazmalıyımyazmalısınyazmalıyız我々yazmalısınız君達
可能形 yazabil/彼女yazabilimyazabilsinyazabilız我々yazabilsiniz君達 
(不可能形 yazmaz/彼女yazmamyazmazsinyazmayız我々yazmazsınız君達
連体形には以下の5種類がある。
(a)n(~する)
mış(~した) yazmış
(a)r(~する) yazar
(y)acak(~する)yazacak
dk(~した)yazdık
acakdık は人称接尾辞をつけることができる。yazacağım kitap(私が書く本) yazdıkım kitap(私が書いた本)
連用形には以下の8種類がある。
(y)a(~して)yaza
(y)ıp(~して)yazıp
(y)arak(~しながら)yazarak
sa(~するなら)yazsa
(y)ınca(~したら)yazınca
dıkça(~するたびに)yazdıkça
(y)alı(~して以来)yazal
madan(~しないで)yazmadan
命令形は語幹のみでぞんざいな命令、二人称複数語尾をつけて丁寧な命令
yaz(書け)yazınız(書いて下さい)
三人称に対して願望、命令などyazsın(書くべし)一人称複数勧誘 yazalım(書こう)
派生形受身形 il,in,nil; veriliyor(与えられる)彼/彼女veriliyorumveriliyorsunveriliyoruz我々veriliyorsunuz君達

派生使役形(変則活用あり) dir, t, ttr, ar, it, yazdırıyor/彼女 yazdırıyorumyazdırıyorsunyazdırıyoruz我々yazdırıyorsunuz君達