2018年11月17日土曜日

2018/11/17 於:京都エデン 「どうなるサウディアラビア? ―トルコとサウディの250年戦争―」

2018/11/17 於:京都エデン
「どうなるサウディアラビア? ―トルコとサウディの250年戦争―」
中田考(同志社大学客員教授)

1. サウディ崩壊のシナリオ:カショギー(ジャーナリスト暗殺)事件で顕在化
2018年10月2日:サウディ在イスタンブール総領事館で殺害
トランプがサルマン国王に「お前の王座は米国の軍事支援がなければ2週間もたない」
サルマン皇太子「サウディはアメリカができる30年前1744年からここにある」
2. サウディ(第2代アブドゥルアズィーズ在位1765-1803年)-トルコ250年戦争
1818年:オスマン朝のエジプト総督ムハンマド・アリーにより第一次王国滅亡
2018年3月:エジプトのメディアに対してムハンマド皇太子
「オスマン・トルコ(Ottoman)とイランとテロリスト(ムスリム同胞団、IS)は悪の三極枢軸、トルコのエルドアンはカリフ制を押し付けようとしている。」
3. サウディの特殊性
 オスマン帝国存在時にその権威に挑戦、1902年にリヤド首長国として独立。
 領域国民国家システムによって承認される前からイスラーム国家として存在。
4.カリフ制としてのサウディアラビア
ワッハーブ派のジハードは、オスマン帝国の支配の正当性を支える当時のスンナ派イスラームに対する全面的否定による「宗教/政治的殲滅戦」。
5.1744年サウディ・ワッハーブ派政教盟約
 1744年、ダルイーヤ(リヤド市の一部)でイマーム(教主)イブン・サウード(その末裔がサウディ王家)とシャイフ(首長)イブン・アブドゥルワッハーブ(その末裔がシャイフ家)が「政教盟約」が締結され、ワッハーブ派教団国家成立。
 ジハードによるワッハーブ派の教義広宣により、サウード家はナジュドの覇者となり、孫の大サウード(在位1803-14年)の時代には東はアフサー、カティーフからカタルまで、西はヒジャーズ地方全域、北はアラビア半島を越えてシリア、イラクの一部まで、南はアスィール、ナジュラーンからイエメンとオマーンの一部を支配下におき、アラビア湾から紅海に至るサウド家最大の版図を実現。
サウディアラビアは教義的にジハードによる宣教を正当化するのみならず、財政的にも存続のために構造的に不断のジハードによる戦利品収入を要請する軍事拡張主義国家。
5.ワッハーブ派の基本教義と政治理念、国家原理
ワッハーブ派はスンナ派超正統主義アフル・ハディース-サラフィー主義の一派
スンナ派のハディース、クルアーンのみの権威を認め、外来思想、後代の権威否定
特殊ワッハーブ派的思想は政治思想:政教盟約に凝縮されている。
政治理念:①タウヒードの宣教②善の命令と悪の禁止③イスラーム法の厳格な施行
国家原理:①ジハードによる宣教②サウード家の王政の承認③無課税財
6. 第三次王国の成立
第二次王国の最後の教主(イマーム)アブドゥッラフマ―ンの息子アブドゥルアズィーズ(1902-1953年)がリヤドを奪回しナジュドを平定し1902年リヤド首長国を建国。
1913年アハサーを落とし東部州に覇権確立
1925年ヒジャーズ全域制圧(オスマン帝国1922年滅亡)
1926年にはナジュド・ヒジャーズ王国の建国を宣言
1932年サウディアラビア王国と改称
1934年にはイエメンと戦いアスィール地方を併合、軍事的拡大ほぼ終結。
7. ワッハーブ派教団国家の変質
ジハードを続けるワッハーブ派屯田兵イフワーンを1929年のシビラの戦いで殲滅
ジハードによるタウヒードの宣教は、政教盟約に基づくワッハーブ派教団国家樹立のレゾンでトール。ジハード放棄はワッハーブ派教団国家の決定的な変質の印。
以後サウディアラビアは、リアルポリティクスにおいて、西欧の領域国民国家システムに完全に組み込まれながら、ワッハーブ派の3つの政治理念と3つの国家原理を掲げる建前を維持し続ける難しい舵取りを強いられることになる。
8. 冷戦とOICの結成
冷戦構造下で、1950年代から60年代にかけてアラブ社会主義の既成秩序への挑戦に対抗し湾岸の王制諸国や保守的なモロッコやヨルダンなどのアラブ王制諸国を糾合し、イスラーム外交の名の下にアラブ社会主義を共産主義=無神論と断じるイデオロギー闘争を展開したのがサウディアラビアの故ファイサル国王(当時の皇太子)。1962年マッカに本部をおく世界のイスラーム団体の調整・支援機関世界イスラーム連盟結成。
エジプト・シリア統合の失敗、シリア・イラク両バアス党の分裂、エジプトのイエメン内戦介入の失敗、第三次中東戦争の敗北などによって、アラブ社会主義は最終的に自壊。ファイサルのイスラーム外交は、1969年のOIC(イスラーム諸国会議機構、後のイスラーム協力機構)の創設決定に結実
9. ムスリム同胞団の庇護
全体主義抑圧体制アラブ社会主義諸国(エジプト、シリア、イラク等)の「宗教弾圧」を逃れたムスリム同胞団員にサウディアラビアはかっこうの亡命先を提供した。
ワッハーブ派は極めて偏狭であったが、この時期には無神論のアラブ社会主義という共通の敵を前にしてスンナ派イスラーム主義改革派の諸グループを支援し共闘。
10. 反人定法論の成立
1960年代にアラブ社会主義とのイデオロギー闘争の中で、シャイフ家のサウディアラビア初代ムフティー(教義諮問官)ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・アッシャイフ(1969年没)『人定法に裁定を求めること(Taḥkīm al-Qawānīn)』執筆。
11. イラン・イスラーム革命、GCCの結
12. ホメイニーの「イスラーム法学者の後見」理論に基づいて建国されたイラン・イスラーム共和国は、イラン・イスラーム革命をイラン一国を越えるイスラーム革命と位置づけ、「革命輸出」戦略をとった。ワッハーブ派はシーア派を不倶戴天の仇とみなし、イラクに侵攻しシーア派の聖地カルバラーやナジャフで住民を虐殺し、東部州のシーア派住民に対しても異教徒として扱い迫害。
ホメイニーはイスラーム共和国を樹立するや、「世界イスラーム解放運動機構」、サウディアラビアにも「アラビア半島イスラーム革命組織」を組織。
13. イラン・イスラーム共和国の成立以降、スンナ派のワッハーブ派宣教国家サウディアラビアとイラン・イスラーム共和国が主導権を争う国際イスラーム運動の基本構図定着。
王制批判の国内への波及防止のため、イラン封じ込め政策。
国内的には、シーア派を憎むワッハーブ派を重用。
国際的には①1981年に湾岸王制諸国(クウェート、アラブ首長国連邦、バハレーン、カタル、オマーン)を糾合し集団安全保障体制構築を目指してGCC(湾岸協力会議)を結成。②世界イスラーム連盟などの配下の国際イスラーム団体を通じて世界のスンナ派イスラーム諸運動を支援しイランに対抗してイスラーム世界の盟主の地位の確保をはかる。
14. マッカ聖モスク占拠事件
イラン革命はシーア派を超えて全てのムスリムに王制の打倒を呼びかけた。イラン革命に呼応するかのように1979年11月20日(ヒジャラ暦1400年元日)、イフワーンの流れを汲む約300名の武装集団がモスクを訪れる予定であったハーリド国王を廃位し、マフディー(救世主)の支配の到来を告げ人々にマフディーへの忠誠を要求してモスクを占拠。「政教盟約」を根底から否定する流れの存在が露呈。
15. 湾岸戦争から9.11へ
冷戦構造の下ではイラクのバアス党(アラブ復興社会党)サッダーム・フセイン政権は社会主義とアラブ民族主義による王制諸国打倒、アラブ統一を目指す革命国家の急先鋒、つまりサウディアラビアの主要仮想敵であったが、革命の混乱に乗じてイランに攻め込んだイラクをサウディアラビアは「敵の敵は味方」と支援。
ところがイラン・イラク戦争(1980-1989年)が終結するとイラクは1990年年8月クウェートに攻め入り併合。自国の油田地帯にもイラクが手を伸ばすことを恐れたサウディアラビアは米軍を援軍として招き入れた。
異教徒の米軍を「聖地」アラビア半島の国土に引き込んだサウド王家の「イスラームの盟主」としての威信失墜、情報統制の緩和によって、湾岸戦争以降、イスラーム主義者の政府批判の動きが、「覚書グループ」(サルマーン・アルアウダ、サファル・アルハワーリーら著名なウラマー)と呼ばれるイスラーム主義者集団によるファハド国王への上奏文の形を取った一連の政府批判文書の流布によって一挙に顕在化。この「覚書グループ」が含まれていた。またサウディアラビアの富豪でアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは米軍を招き入れたサウド王家を厳しく批判、2001年9月11日にアメリカで同時多発攻撃。実行犯19人のうち15人がサウディアラビア人であったことは、それまでサウディアラビアの情報操作によって隠蔽されてきたワッハーブ派の反米感情の強まりを世界に知らしめた。
16. シーア派の伸長
イラン革命後、イランの指導の下で全世界のシーア派の政治的覚醒。
*レバノン:イラン革命の影響でイスラーム共和制の樹立を目指して1982年に結成されたヒズブッラ―は独自の軍事部門を有し1983年には米仏軍を、2000年にはイスラエル軍をレバノンから撤収させ、レバノン内の「国家内国家」とも言われる存在となった。
*イラク: 2003年アメリカがフセイン政権を打倒しイラクを占領すると、政権を担える勢力はダウワ党とその分派でよりイランに近い「イラク・イスラーム革命最高評議会」などのシーア派イスラーム主義勢力しかなく、イラクにはイル・ハーン国がシーア派に改宗して以来(1304-1353年)のシーア派政権が誕生。
18.アラブの春
スンナ派諸国の腐敗した専制、独裁政権が長期にわたって続き民衆には閉塞感が「アラブの春」を可能に。「アラブの春」で民衆蜂起によって長期独裁政権の崩壊は、スンナ派ムスリム諸国の専制君主、独裁者たちに大きな衝撃を与え、生き残った政権は以前にも増して弾圧を強めることに。
19.「アラブの春」後に政治の舞台に躍り出たのは、厳しい弾圧の中で草の根型の社会運動としてかろうじて生き延びていたアラブ最大の社会運動ムスリム同胞団。個人の覚醒、社会の覚醒を経て、議会主義に立脚し選挙を通じてイスラーム国家を樹立し、各地のイスラーム国家の合邦統一によりカリフ制を再興し、最後に世界をイスラーム化する、というのがムスリム同胞団の綱領。アラブの春の飛び火を最も恐れたのが、国内に多くのムスリム同胞団の出稼ぎ労働者を抱えながら、選挙も人権も自由も平等も存在しない専制王制諸国、特にサウディアラビアとUAE。
20.イエメン内戦
イエメンではイラン革命の影響を受け反米、反イスラエルのスローガンを掲げるシーア派の分派ザイド派のイスラーム主義運動フーシー派(アンサール・アッラー)が2014年に首都サナアを攻略し2015年には完全に政府機能を掌握。サウディアラビアはフーシー派がサナアを制圧すると即座にスンナ派諸国連合軍を組織し、イエメンに軍事介入、アムネスティーから人権侵害を批判される空爆を続けながら3年が経過してもサウディアラビアはサナアを攻略できないばかりか、報復に首都リヤドがフーシー派によるミサイル攻撃に。
21.カタル団交、宮廷クーデター、ワッハーブ派ウラマーの弾圧
サウディアラビアは、2017年6月5日、アラブ首長国連邦、エジプト、バハレーンと謀ってカタルとの断交、経済封鎖に踏み切った。第一次サウディアラビア王国はオスマン帝国によって滅ぼされたが、実際にサウディアラビアを討伐したのは当時半独立状態にあったオスマン帝国エジプト総督ムハンマド・アリー。また冷戦期には、サウディアラビアのファイサルはエジプトのナセルとイエメンで代理戦争を戦っている。また教義的にもエジプトはワッハーブ派が異端視するスンナ派伝統主義イスラーム学の牙城であるアズハル機構を擁しており、厳しく対立。
カタルとの断交は、設立当初より「西欧の基準」の「自由な報道」でサウディアラビアの専制政治、人権蹂躙、腐敗を糾弾するアルジャジーラを庇護するカタルに苛立ちを隠していなかったが、テロの支援を口実に、テロ支援国家イランや、「テロ組織」同胞団との絶縁、アルジャジーラの閉鎖などの要求を掲げて。ついで6月21日サウディアラビアではムハンマド・ブン・ナーイフ皇太子が解任され、代わってサルマーン国王の息子の副皇太子ムハンマド・ブン・サルマーンが皇太子に昇格する「宮廷クーデター」。
これに対しトルコのエルドアン大統領は直ちにカタルへの支持を表明したのみならず、カタル防衛のために軍を派遣。カタルはサウディアラビアの要求を拒絶し、GCCのクウェートやオマーンすら断交に追随せずサウディアラビアによるカタル孤立化の目論見は失敗。これによってサウディアラビアとカタル断交の陰にトルコとカタルの対立があることが顕在化。
カタル断交の背景は2018年3月のエジプトのメディアに対するムハンマド皇太子の「オスマン・トルコ(Ottoman)とイランとテロリスト(ムスリム同胞団、IS)は悪の三極枢軸である」と呼び「トルコのエルドアンはカリフ制を押し付けようとしている。」とトルコのエルドアンがカリフ制の再興を目指している、との非難。
アラブ各地でテロリストの汚名を着せられたムスリム同胞団のメンバーが、カタルとトルコに亡命した。ムルスィーの失脚、逮捕投獄によりアラブのカリフ擁立の夢破れた同胞団が、エルドアンに夢を託した。ナセル時代の同胞団弾圧を逃れエジプトからドーハに亡命した同胞団の精神的指導者カラダーウィーが2017年の5月にエルドアンをオスマン帝国のカリフの別称「スルタン」の称号で呼び、17億のムスリムはエルドアンに忠誠を誓うべきである、と述べ、その映像がインターネットを通じて世界に配信。
サウディアラビアがイラン、トルコ、カタル、テロリスト(同胞団、IS)との敵対に踏み切ったのは、アメリカにイスラエルから距離を取りイランに融和的だったオバマに代わって親イスラエルでイランに敵対的なトランプ大統領の登場のため。
サウディアラビアはイスラエルと結びトランプに全面的に協力しアメリカの支持を得ることで、「イスラーム法学者による後見」論を国是とするシーア派のイラン、カリフ制再興を目指すスンナ派伝統派のエルドアンと同胞団、カリフ制再興を称するジハードによるタウヒードの宣教のワッハーブ派の原理念に忠実なISのムスリム世界統一への動きを阻止し、サウド王家の既得権益を守る生存戦略を選択。トランプの支持を取り付けるために、ムハンマド皇太子は2018年4月アメリカの『アトランティック』のインタビューに答え、ユダヤ人国家としてのイスラエルを承認した。3イスラエルの承認は、サウディアラビア外交の根本的な変化を示すものであるが、とりわけアメリカの大使館のイスラエル移転(2018年5月14日)に対してパレスチナにみならずムスリム世界各地で抗議の声が沸き起こっている時期に、トランプのイスラエル政策を支持し、イスラエルの国家承認を口にすることは、イスラームの盟主を称してきたサウディアラビアの威信を大きく傷つけた。
サルマン・アウダ、サファル・ハワーリーら逮捕、死刑求刑。
21.このような背景の下、カショギー(サウジ国籍『ワシントンポスト』などに寄稿)*2018年10月2日サウディ在イスタンブール総領事館で殺害
サウディの発表:4日全面否定、総領事館を歩いて出た、12日内相殺害否定、21日外相殺害はならず者によって行われた大失敗、25日検察殺害計画的
*23日 サウディ投資会議の日にぶつけてエルドアン演説(サルマン国王のみ免責)
MBS:エルドアンとサルマンの間を引き裂こうとの陰謀は成功しない
*11月1日 『ワシントンポスト』MBS、カショギー殺害後クシュナーとボルトンに電話で危険なイスラーム主義者と誹謗(カショギーは反ワッハーブ派、成文法制定要求)
*イエメン内戦:10月30日ポンペオ、マチスが停呼びかけ
22.サウディの命運
短期的にはカタル・ボイコットとイエメン内戦介入をやめられるかが焦点
*25日MBS:カタルの経済は良好、今後5年で大きな貢献が期待できる
カタル・ボイコットは、真の目標はトルコとムスリム同胞団
*「イエメン内戦は最悪の人道危機」スティーブン・クック米議会外交問題上級研究員『ニューズウィーク』(10月30日)トルコは直接の利害関係なし。(むしろイランに有利なのでトルコも米国もそれほど乗り気でないが人道的に無視できない)
マティス(米)のイエメン停戦の呼びかけはイランの勝利とみなされる。Monitor 11/1
*エルドアンは11月2日付『ニューズウィーク』に寄稿:カショギー殺害はサルマン国王ではない最高レベルからの指示
*11月15日:サウディアラビア検察11人起訴5名死刑求刑と発表
*11月17日CIA! MBAが弟ハーリド駐米大使に命じてカショギーをイスタンブール総領事館に誘き寄せて殺させる。

纏め
*サルマン朝は始まる前に終わる?MBS専制王制から独裁者(≠啓蒙君主)を目指した
(サウディ王制支持基盤のワッハーブ派と敵対:飴と鞭で黙らせているが)
*サウディアラビアの未来に3つのレベル
①領域国民国家システムvs帝国の復興(西欧、英米、ロシア、インド、中国、イスラーム)
②スンナ派vsシーア派
③スンナ派内:サラフィー、改革派(同胞団)、伝統派、世俗派(反イスラーム)
④サラフィー内:サラフィー非政治派、ワッハーブ派、サラフィー・ジハード主義者

2018年9月20日木曜日

イスラーム法学におけるカリフ論の発展覚書


نهاية المطلب في دراية المذهب, لإمام الحرمين عبد الملك بن عبد الله بن يوسف الجويني, دار المنهاج, جدة, 1428ه-2007. ج.17.
ولا مطمع في ذكر أوصاف الأئمة وما تنعقد (ص.125) الإمامة به فإن القول في هذا يتعلق بفن مقصود, والقدر الذي يجب الاكتفاء به ذكر الإمام العادل والخروج عن طاعته الواجبة.(ص.126)

العزيز شرح الوجيز المعروف بالشرح الكبير
أبو القاسم عبد الكريم بن  محمد بن عبد الكريم الرافعي القزويني الشافعي
(  م1160- 1226 هـ = 555- 623)

, لبنان1997  - 1417 , دار الكتب العلمية. ج.10, ص.71, فصل: في شروط الإمام-  :
 وهي أن يكون مكلفا,  .... مسلما ... عدلا ... حرا  ذكرا عالما مجتهدا ... شجاعا ...ودا الرأي وكفاية وفي (الأحكام السلطانية) لأقضى القضاة الماوردي: اشترط سلامة الأعضاء ... وأن يكون من قريش....
ص.72.:  فصل: لا بد للأمة من إمام يحيي الدين ويقسم السنة وينسف المظلومين ويستوفي الحقوق ويضعها مواضعها يصلح الناس فوضى, وتنعقد الإمامة بطرق: أحدها: البيعة ....(ص.73) والثاني استخلاف الإمام من قبل ... (ص.75)
 والثالث: القهر والاستيلاء, فإذا مات الإمام وتصدى للإمامة من يستجم شرائطها من غير استخلاف وبيعة وقهر الناس بشوكته وجنوده انعقدت الخلافة لانقياد الناس وانتظام الشمل بما فعل ولو لم يكن مستجمعا للشرائط بل بل كان فاسقا أو جاهلا....  ولأن المقصود من نصب الإمام أن تتحد الكلمة وتندفع الفتن ولو لم تجب الطاعة واالتأبي غالب على الطباع استبد كل برأيه وثارت الفتن ولا يجوز نصب إمامين في (ص.76) وقت واحد, لما فيه من اختلاف الرأي وتفرق الشمل.

2018年8月5日日曜日

東西の自然理解 - 環境・生命・倫理 ー イスラームの立場から

於:2018年8月5日 京都パレスサイドホテル 東西宗教交流学会

「東西の自然理解 - 環境・生命・倫理」 「イスラームの立場から

                        中田考(同志社大学客員教授)

1.現代のイスラーム世界でのディスコース
* 大量に「研究」あり。例えば、Dr.Derya Iner(Charles Sturt Univ.)「イスラームにおける環境倫理と生命倫理(Emvimental Ethics and Bioethics in Islam)」 https://www.isra.org.au/site/user-assets/docs/workshop-2a--beliefs-providing-moral-and-ethical-framework--islam.pdf
* 問題を考える手掛かりにならないことはないが、全く信用できない
* 現代西欧の同名の学問論文のフォーマット(環境倫理、生命倫理)にクルアーンやハディースなどの適当な文言を代入しただけ
* 重要なのは、ここのテキストの断片ではなく、伝統イスラーム学には「環境倫理」、「生命倫理」などとおう問題設定、学問分野が存在しなかったこと

2.現代イスラーム世界のディスコースの問題点
* 「西欧の世界支配の19世紀」のムスリム世界の植民地化
* 現在世界に存在する「宗教」は、リヴァイアサン(主権国家:権力)とマモン(富:金)の配偶神に隷属する偶像崇拝(「拝金教」by和田秀樹)のみ
* 自称ムスリムたちも実際に崇拝しているのは、神ではなく国家。好例がハラール認証。

3.イスラームの合法秩序
* カリフ制 vs  領域国民国家システム
* 金本位制 vs 不換紙幣 
 法人国家と紙幣 = どちらも実体のない、名前、記号 = 偶像

4.イスラームの二元論的世界観
* 純粋一神教 = 二元論(神=創造主 vs 世界=被造物)
* 「イスラームは現世(ドンヤー)と来世(アーヒラ) or現世と宗教(ディーン)」
* 広義のイスラーム = 現世と来世 = 世界のあり方の全て
* 狭義のイスラーム ≒ 宗教=来世 (現世と来世の二元論→イスラーム的「政教」分離)

5.イスラームのアニムズム的世界観
* 森羅万象がそれぞれの原語で神を称える
「7つの天と大地、またその間にある凡てのものは、かれを讃える。何ものも、かれを讃えて唱念しないものはない。だがあなたがたは、それらが如何に唱念しているかを理解しない。…」(クルアーン17章44節)
* 身体部位も全て意識を持つ
「その日(最後の審判)、アッラーの敵は集められ、火獄への列に連らなる。かれらが(審判の席)に来ると、その耳や目や皮膚は、かれらの行ってきたことを、かれらの意に背いて証言する。するとかれらは、(自分の)皮膚に向かって言う。「あなたがたは何故わたしたちに背いて、証言をするのですか。」それらは(答えて)「凡てのものに語らせられるようにされたアッラーが、わたしたちに語らせられます。かれは最初にあなたがたを創り、そしてかれの御許に帰らせられます。」と言う。(41章19‐21節)

6.死体を傷つけることの禁止
「死体の骨を折ることは生者の骨を折るに等しい」(イブン・マージャ、アブー・ダーウードのハディース[預言者ムハンマドの言葉]集成)イブン・アブドルバッル(マーリキー派法学者1071年没)注釈「死者も生者と同じように苦しむ」

7.世界の無時間性
* 世界は全て神の永遠の知の中に恒存
* 来世も神の視点からは現存

2018年6月16日土曜日

俺の妹がカリフなわけがない! 【エピソード0】

俺の妹がカリフなわけがない!


إذا رأيتم الرايات السود قد جائت من قبل المشرق فأتوه فإن فيها خليفة الله المهدي

若見黑旗來自東方 汝等即往 彼有訶黎佛都羅 乃天導者也




【エピソード0】
世界制覇を公約に掲げて生徒会長に当選した俺の妹が「生徒会長」を「カリフ」に改称した。俺の妹がカリフなわけがない!男性であることは、カリフ有資格者の10条件の一つだ!!





「カリフになれ」
小さくつぶやかれた言葉が、耳に残る。あれはまだ俺と双子の妹愛紗が四歳にも満たなかった頃。
「お兄しゃま、かりふとはなんでしょう」
「エラい人のことだぞ、きっと。長官よりもエラいんだぞ」
あの頃の俺には、幼児向け特撮戦隊モノの長官が、誰より偉い人に見えていたんだと思う。祖父の今際の枕元でそんな会話をする俺たち兄妹に、父夢眠は無言だった。
「垂葉、愛紗……天馬家の使命を受け継ぐ子どもたち」
俺たちの頭をゆっくりと撫で、そうして祖父は静かに息を引き取ったのだ。



君府学院は、俺たち兄妹の祖父天馬真筆のさらに祖父天馬真人が設立した、中等部・高等部を持ち、全寮制の、完全学費無料の学校で、自由と正義を実現する人材を創るという理念を掲げている。
でも、完全学費無料で全寮制とか、無理があるに決まっている。普通に考えてどうやって経営するんだ?と思うだろう?俺だってそう思う。
それでも祖父の代までは苦しいながらも頑張っていたようだ。しかし、それも父が経営破綻させて、世界的大企業、石造財閥に譲り渡すことになるのは、祖父の死後あっという間だった。
少人数教育、徳育重視で大アジア主義に基づき、外国語として中国語、アラビア語、トルコ語、ペルシャ語が学べるという風変りな学校だったが、経営破綻した学院をグローバル・エリートを養成する受験名門校へと生まれ変わらせたのが石造財閥の長、石造高遠新理事長だ。
新たにクラスは成績順に分けられ、石造理事長が建てた新校舎に上位クラスを移動させ、中でもプラチナクラスの教室は高遠の徹底したエリート主義、能力主義、信賞必罰の教育方針に基づいて、生徒一人一人の椅子も飛行機のファーストクラス並みの快適さだ……と学院パンフレットには書いてある。
そうして、学院近くの邸宅をも追われ、学院の経営からも身を引いた父は、石造財閥当主の恩情というか、俺は絶対に嫌がらせだと思うんだが、用務員兼雑用として小さな部屋を与えられ、俺たち兄妹もそのまま君府学院に通うことが許されたんだ。



あれから10年、成績順に別れたクラスに、やはり成績順、男女別に分けられた寮へと別れ住むことになった愛紗と顔を合わせることはほとんどない。
「は?愛紗が生徒会長に立候補?え、あり得ないだろ?」
成績最下位クラスのブロンズクラスが定席の俺と違って、愛紗は入学以来常に学年トップを走り続けているし、成績だけで言えば不思議でもなんでもないんだが。
「だって……誰が愛紗になんか入れるんだ?」
俺は生徒会役員選挙告示の前で、本気で首を捻った。
確かに愛紗は成績もいいし、アラブの血が混ざっていると言われれば納得するくらいには、彫りも深く大きな目に小さな頭、整った顔立ちをしている。美人と言って差し支えないと思う。まっすぐに伸びた背中、凜とした立ち姿は彼女が武道を嗜んでいるからだろうか。
だが、いかんせん愛紗の無愛想さは常軌を逸したレベルだ。喜怒哀楽という人間らしい感情を持っていないんじゃないかとすら思わせる。それに生真面目で一切の妥協を許さないという性格だから、友だちらしい友だちはいないはず……いや、愛紗と2人だけの武術部で鍛錬している新免衣織だけは、もしかしたら愛紗の親友と言えるかも知れない。
「親友っていうより、信奉者ぽいけどな」
思わず苦笑が漏れる。高校一年で剣道の全日本大会を征した、剣術二天一流の達人である衣織と、手裏剣術の愛紗。幼い頃から二天一流の継承者として育てられ、武道一筋で浮き世離れした言動で、同級生たちから敬遠されていた衣織に、愛紗だけが生真面目に相手をして、決して笑うことがなかった。そのせいか、衣織は愛紗の信奉者とも言えるほどに、愛紗を慕っているようだ。
「まぁ、でも愛紗が生徒会長とか……普通にあり得ないだろ」
そう、その時は俺もそう思っていた。
生徒会長立候補者は2人。多少美人でも無愛想で、口を開けばウエメセで人をバカにしたような話し方しかできない愛紗には人望とうものが決定的に欠けている。その上愛紗の対立候補・石造無碍は、父のあと理事長になった石造財閥当主の御曹司で、愛紗と同じプラチナクラス、つまり成績トップのクラスで、演劇部部長、さらにテニス部にも在籍しエースでもある、という絵に描いたような王子様だ。
しかもその王子様は学院の広告塔とも言える、子役からのアイドル藤田波瑠哉を筆頭に、見目麗しい男女のお取り巻きを引き連れているのだ。
「だいたい、なんで生徒会長になんかなりたいんだ?愛紗のヤツ」
双子には以心伝心がある、なんて漫画の世界のことだ。俺には妹の考えていることがまったく、これっぽっちも理解できない。
実際、チラホラと聞こえてくる下馬評も圧倒的に無碍有利だったんだ。
そう、その日生徒会総選挙の立候補者演説で、少なくとも無碍の挨拶が終わるまでは、確実に。
「私たちは、神に自由な人間として創造されました。私はこの学院の創立者の掲げた理念に則り、自由と正義に基づく地球の解放の前衛とするために、地上における神の代理人、神の預言者の後継者、カリフとして、生徒会長に立候補します」
壇上の愛紗は声を張り上げるでもなく、淡々とそう言うと言葉を切った。
ざわざわと生徒達の声が広がる。
「なに、あれ?マジで言ってるの?」
「中二病?でもオレらもう高校生だよな」
「あの人、学年トップの天才じゃなかったの?」
戸惑いよりも嘲笑の声が多いのも当然だろう。
応援演説のために衣織が愛紗に近寄っても、ざわついた講堂は静かにならない。
「私たちは生徒会のために、この身と命を捧げます」
愛紗の前に膝を折った衣織が、腰に佩いた長刀を一閃する。
左腕を真っ直ぐに伸ばしていた愛紗は身動ぎもしなかった。
「きゃーーーーー!」
女生徒の悲鳴があがる。
「きゅっ救急車を!!」
「な、なんてことを……」
阿鼻叫喚と化した講堂で、壇上の2人だけが静かだった。
自分が切り落とした愛紗の左腕をそっと持ち上げた衣織が、愛紗に付き従う。
「大丈夫です。救急車は事前に呼んであります。剣の達人に名工の鍛えた刀で切られた者は、切られたことに気づかないと言います。筋肉繊維も神経も骨組織も壊さず切り落とした腕は直ぐに縫合すれば元通りになるはずです。私たちには神のご加護があるのです」
さすがにこの度肝を抜くパフォーマンスの後で、生徒会選挙はいったん中止になった……はずだった。
翌日、愛紗が自らの言葉通り、なんでもない顔をして登校してくるまでは。
立候補者演説、応援演説とも終了していたため、日を改めて行われた投票は、下馬評をひっくり返して、圧倒的多数により、愛紗が当選してしまったのだ。
「いや、まぁ生徒会長になろうと、なんだっていいけどさ」
双子の兄妹として産まれながら、片や成績トップの生徒会長様、片や万年最下位クラスの俺としては、やっぱり少し面白くないっていうか……。
そんな俺の前で生徒会長就任挨拶のために再び壇上に上がった愛紗が淡々とした表情のまま、口を開いた。
「皆さんの信託に基づき、私、天馬愛紗は生徒会を自由と正義に基づく解放の礎とすべく、最初の仕事として、生徒会長をカリフと改称致します」
「ちょっと待てーーーーっ!」
俺は思わず起ち上がって叫んでいた。
「それ、おかしいだろう?なんだってたかが一私立学校の生徒会長がカリフなんだよ、だ、第一高校生が真剣を持ち歩いてるとかあり得ないだろうがっっ」
「はぁ、もう少し静かに、論理的に話せないのですか?衣織が腰に差しているのは、新免家に代々伝わる銘刀《姥捨て》と《過労死》、本阿弥光悦が研いだ逸品で重要文化財に指定された美術品です。丁重に取り扱えば何の問題はありません。」
「いや大問題だろ~、いきなり人の腕を切り落とすのは!」
 「あれは古来より伝わる刀の切れ味の鑑定法、試し斬りです。校医のドクター和田も、さすが重要文化財、見事な切れ味、と感心していました」
「あのマッドサイエンティスト、ってか、校内で手術済ませたのか?」
「我らが君府学院の保健室は創立以来救急病院の指定を受けているのです」
「ウソだろぅ…いや……だから、そうじゃなくて、カリフ制なんて、とっくの昔に廃止されてるだろう」
俺だって祖父さんの死後、ちょっとは気になってカリフについて勉強したんだ。
「トルコ共和国でカリフ制度が廃止されたのは一九二四年でしたね」
「あ、ああ、そうだ。なのに……」
「しかし、そもそもカリフ制はトルコ共和国が作ったものではありません。従ってトルコ共和国によって廃止されることもありません。世界はお兄様がネットを覗いて想像していらっしゃるよりもずっと複雑で奥深いものなのです」
「……あっ、うっ」
「では、まだ少し貧血気味ですので、カリフ就任挨拶はここまででよろしいですね?」
これが、俺の妹、天馬愛紗がカリフに就任した瞬間だった……わけがない!生徒会長とカリフが一緒にされていいわけがない!俺の妹がカリフなわけがない!

2017年12月17日日曜日

第二部理論枠組:漸進戦略と圏域政治 第1章 地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ Ⅰ. 空間把握、地理認識と地図

第二部理論枠組:漸進戦略と圏域政治

第1章
地政学理論:ポスト冷戦期とトルコ
1. 空間把握、地理認識と地図
 フェルナン・ブローデルは『文明史』冒頭の文章において、地理学の文明形成におけるオリジナルな貢献をイスラーム文明の例として示すために、「地図は真の物語を知らしめる」と言う 。実のところ、個人であれ、その個人からなる社会であれ、より大きい尺度の文明の集合であれ、それを支える一番の基礎は、「文明の自己認識」 となる実存意識に対応する空間-時間把握である。
 強大な文明が飛躍していくのを先導しその文明の裾野の周辺にある種の秩序を形成する社会は、歴史の舞台に登場した時点から、その影響力によってその歴史の舞台を形作り始める時期の間に、それ自身の故地から世界を認知していく。より単純な地理的環境把握からより複雑な世界把握へと直接的に発展するこの意識は、地図の上に最も具体的な形をとって現われる。戦略思考の形成に関して既に述べたように、地理学は客観的な現実であるが、地図はこの客観的現実の文明的認識過程を経た主観的形態である。天文学が科学の中心を占めた存在認識によっていくつもの文明を作り上げたバビロニア人は天空の物質との関連において地表における空間認識を構築し、イラン人は世界を互いに平等な7つの円から成る7つの領域(国)へ分け、自分達の空間を4番目の中心の円に配置した後に他の6つの円を互いに接する形でこの中心の円の周囲に配置した。
 地理に関する最初の系統立った知識は、一方ではエジプトを超えて、他方ではベロッススの現ボドルム湾の端にあるコス島(スタナコ、あるいはスタンチオ、[トルコ語名]イスタンキョイ)において紀元前640年代に設立された学校によりバビロン的知識を手中にしたギリシャ人の地理認識も、自己の文明圏を広げたことで包括的な形を採ったエーゲ海中心の認識である。世界を周囲を大洋に囲まれた平坦な円盤として認識したホメロスの世界観はギリシャの空間認識の限界をも描き出していた。世界を円柱の底面として描いたミレトスのアナクシメネス(紀元前500年代)も同様にギリシャ都市国家群の影響圏が拡散する地域をそのまま広げ続けていくという認識だった。この認識はシチリア島からカスピ海にまで達する一つの世界を思い描いていた。
 マケドニアから出発し、東へと伸びる古代文明圏を影響下に組み込んだ(多文化他宗教)混淆的な帝国を樹立したアレクサンドロス大王によって、こうした空間認識とその認識を基にした地図も変化した。 マケドニアからメソポタミア、インドとエジプトへと伸びた帝国に自分の名前を冠した都市(アレキサンドリア)の建設を戦略の支柱に据えたアレキサンダー大王は、自分自身を文明のジンテーゼの地理把握とその(空間)把握の中心概念の具象化としたのである。世界と地理の把握は、アレキサンダー大王の非常に戦略的な決定によって古代エジプト、地中海、メソポタミアの「肥沃な三日月地帯」に建設したアレキサンドリアから始まり、アレキサンダーによってメソポタミア、イラン、インドに相次いで作られたアレキサンドリアの名に由来する都市によって普及していったのである。この認識の学問的下部構造と地図測量学上の実質的な具体化もまたアレキサンドリアによって形を取った。人類のその時代までの知的遺産の蓄積が詰まったこの都市(アレキサンドリア)は、最初の地理基準(経緯度)を作ったエラトステネス(天文学者、数学者、前194年没)は、地理の認識と地図測量学に重要な新しい道を開いたストラボン(地理学者、前23年没)と、最も重要な古典的世界観形成において中心的な役割を演じたプトレマイオス(天文学者、168年没)の仕事の苗床を準備した。これらの仕事の元になった地図がアレキサンダー大王の支配領域の包摂と、その結果としてイランとインドをも地理的認識がその位置づけることになったことは、文明圏と政治的支配の関係を明瞭に示している。
 イタリヤ中部の都市国家という自己理解によって生まれたローマも拡大するにつれて、自己を中心とする空間把握を支配領域に広めていった。古典的地図において「Mare Interum(中海)」と呼ばれた地中海はローマ人にとって「Mare Nostrum(我らの海)」であった。西欧からメソポタミアへ黒海から地中海へ広がり(ローマ)帝国の戦略的脊柱を成す幹線道路は、そのネットワークにおいて「全ての道はローマに通ずる」という格言によって空間把握の中心として具体的に認識されていたのである。
 キリスト教によって変化した空間把握と地理意識の格好の例もまたアレキサンドリア出身の6世紀の人コスマス・インディコプレウステス(地理学者、没年不明)であった。古典的に知られていた地域を超えて、エチオピア、インド洋、スリランカまで旅し、キリスト教に入信して後に『キリスト教地誌』を著したコスマスの主たる目的は、聖書とキリスト教正統信仰に適合した空間認識を地理学の形式で表現することであった。世界はその時代のものとノアの洪水以前のものとの二つの部分であり、地中海と、イラン、アラブ、カスピの海と湾からなると述べるコスマスは、地表は海で囲まれており、そしてこれらの海の向こうに(Terra ultra Oceanum,海上の陸)人類が洪水の前に住んでいた地域とアダムの楽園があると主張した。
 世界は四方に東はインド人、西はケルト人、北はスキタイ人、南はエチオピア人がいると述べるコスマスは、この説明によって、一方でキリスト教の世界観に適合した空間把握、他方で、キリスト教世界を中心とする地理的認識の限界を明らかにした。 この中心を受容をこのように前に持ってこられたことで、アジアの遠くムスリムを破ってキリスト教世界を護るプレスター(司祭)ジョンと名乗る聖王が治める(キリスト教)王国があるとの伝説が出来上がった。教皇アレクサンデル3世(在位1159-81年)は1177年にこの伝説的な王に自らの書簡を託した博士を遣わせた。しかしその教学博士の使節は帰ってこず、ムスリムに敵対するモンゴル王との接触を望んだ教皇インノケンチウス世(在位1198-1226年)が派遣したドミニコ会とフランシスコ会の修道士たちが極東(元朝)に旅した後には、そのような王国が存在しないことが判明した。同じ時期にゴグとマゴグの概念をめぐって紡ぎあげられた議論は、伝説、歴史、地理の知識がいかに入り込んでいるかを示す例に満ちている。しかし、これらはみな内側から見られた連続的な要素であるが、古代ギリシャからローマとキリスト教を経た後で、植民地主義の文化に中でも「私と他者」の区別として近代地理学の認識の形をとって受け継がれた。
 イスラーム文明の歴史の舞台への登場も、ブローデルが強調したように独自の地理的諸条件に直接的に関わっていた。古代の文明圏の周辺地帯に現れたイスラームは、アレキサンダー大王の時代に生まれその後に広がった諸文明が影響しあう領域の全てを支配下におさめ、スペインからインド、中国文明圏にまで広がる地域に新しい空間認識が生まれるための土台を用意した。
 初期のイスラームの地誌学者たちは、プトレマイオスの伝統の中で(アッバース朝)カリフ・マァムーン(在位813-833年)に献呈された最初の世界地図であったようにプトレマイオスの伝統を大きく進歩させる一方で、他方でバルフ学派の中でイスラーム世界を中心とする新しい空間認識を反映し全く独自の進歩を遂げた。学派の創始者の(アブー・イスハーク・イブラーヒーム)バルヒーは『イスラームの国(Mamlakah Islam) 』の諸地域を扱った地図を作り、すべての地域に地帯の名前を与えた。この学派の重要な代表者の一人マクディスィーは地中海中心の古典的地誌学を超えて、インド洋志向の重要な作品に数えられるが、それまで未知であった地域を加えた地図を作り上げた。バルヒー学派のマッカを中心とする円形の世界の地図を発展させたこと、南北差の再定義は諸文明の「自己認識」から出発して地理的認識を発展させたことの重要な例の一つである。ビールーニーの最初の大西洋とインド洋の間の繋がりを示した地図を発展させたことは、イスラーム文明が広まった地域と空間把握の間の関係を示すこと、後のヨーロッパの旅行者たちによって発展させられた新しい地理学の理解の最初の先触れであるとの点で重要である。
 社会が中心の周辺での空間把握を発展させたもう一つの好例はトルコの地誌学である。1072年と1074年の間に書かれた『トルコ語辞典(Diwan Lughah al-Turk )』の著者マフムード・カシュガリーがトルコ語の方言の分布に則って描いた世界地図はべラサグン市を中心としてなされ、7つの川の地域がトルコ系諸部族民の定住地として識別されている。ユーラシアの遠方にあるベルサグンから、すべての古代文明が交差する地域にあるイスタンブールのオスマン帝国の時代の地誌に至る時間は、
空間把握の変化、文明の進化、世界秩序の概念の関係を明白な形で生み出した。
 1413年にアフマド・スライマーン・タンジーが作った黒海と大西洋の東岸のヨーロッパとアフリカ沿岸、イギリス(ブリテン)諸島を描いた海図は、同時に空間の地平の早い時代の反映とみなされる。オスマン帝国の地誌学の奇跡の最高峰ピール・ライースの地図は、アレキサンダー大王の文明のジンテーゼの引力圏の古代の全ての遺産がアレキサンドリアで統合されたのと同じことがオスマン帝国の黄金時代のイスタンブールでもなされたことを示している。1567年のマジャール・アリー総督の地図とほとんど同じ時期に発展させられたフマーユーン地図が含む(1)黒海とマルマラ海、(2)東地中海とエーゲ海、(3)中央地中海とアドリア海、(4)西地中海とスペイン、(5)西欧の大西洋岸とイギリス諸島、(6)エーゲ海、(7)モレアス専制公領と南イタリヤ、(8)世界、(9)ヨーロッパと北アフリカ、という9つの地域からなる地図の内容もオスマン帝国の権威がいきわたった領域をカバーしており、古代の地図の伝統を超えた豊富な内容を有する独自なものとなっている。
地球全体の認識を可能にした「地理上の発見」、資本主義の前段階である重商主義、明確な国境の中で組織化される国民国家という現象は、ヨーロッパの(国際政治)秩序の礎石を成すウエストファリア体制が次第に整っていく過程における近代西洋文明の空間認識と経済、政治認識の間の密接な関係を明るみに出す。ヨーロッパを上の中心に置くヨーロッパ中心の世界地図は、ヨーロッパ中心の商業システムとヨーロッパ型の国家形成の広まりと並行して発展したのである。

2017年11月12日日曜日

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨
2017年11月11日 イベントバー・エデン     
 中田考(同志社大学客員教授)

1.「フトゥーワ」
「フルースィーヤ馬術」≒「ムルーアおとこらしさ」≒「フトゥーワ若々しさ」
騎手、男性、若者という特定の集団に特有の気質、倫理、理想像などを表す語になった。
イブン・カイイム(1350年没)『ムハンマドのフルースィーヤ(騎士道)』(注)
「フルースィーヤと勇敢さには二種類ある。最も完全なものは宗教と信仰の持ち主のものであり、もう一つは全ての勇者に共通するものである。本書はムハンマドのシャリーアに適った騎士道について纏めたものであるが、それは心と身体を共に捧げる最高の崇拝の形態であり、その徒を慈悲深き御方(アッラー)のための戦いに駆り立て、楽園の最上階に導くのである」
2.スラミー
アブドゥッラフマーン・スラミー(1021年没)
ニーシャープールで活躍した高名なハディース学者であり、イスラーム思想史上初めてスーフィーの立場からクルアーンの注釈書を書いた。多くの弟子を育てたが、中でも有名なのは同じニーシャープール出身の古典教科書『クシャイリーの書簡』の著者クシャイリー。
3.スーフィズムとは
スラミー『スーフィズムについての序論』
「(スーフィズムの要件)現世における禁欲、念神(ズィクル)と崇拝の励行、人々に依存しないこと、僅かな飲食や衣服で満足すること、貧しい者たちの世話、煩悩の滅却、勤行(ムジャーハダ)、謙抑(ワラウ)、常に志を高くもつこと、最小限しか食べず必要なことだけを話し睡魔に襲われた時だけ眠ること、自己反省、被造物(人間)から遠ざかり疎遠になること、導師たち(マシャーイフ)の拝顔、モスクで時間を過ごすこと、粗衣の着用」

(注)勇気は人間の性格の中の高貴な性格の一つであり、以下の四つの形で結実する。(1)果敢であるべきところでの果敢さ、(2)自重すべきところでの自重、(3)堅忍であるべきところでの堅忍、(4)転身すべきところでの転身。その逆は勇気の瑕疵であるが、それは臆病、無分別、軽薄、放心である。そして見識と勇気を兼ね備えた男こそが、軍隊を率い戦事行政を行うことができるのである。人には、「男」、「半人前」、「なにものでもない者」の三種がある。「男」とは正しい見識と勇気を兼備した者である。・・・「半人前の男」とは、二つのうちの一つを有するが他方を持たない者であり、「なにものでもない者」とは、どちらも欠く者である。・・・    ムジャーヒド(聖戦士)には5つの特質がある。どんな軍であれそれらが揃えば、相手の多寡にかかわらず、神佑に恵まれずにはいない。第1:堅忍不抜。第2:至高なるアッラーを多く念ずること。第3:アッラーと、アッラーの使徒への服従。第4:合意があり、失敗と弱体化を招く内紛がないこと。第5:その全ての要、支、そして基礎であるもの、即ち忍耐である。これら5つの上に勝利のドームが建てられる。

2017年11月2日木曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 2章 2節 3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識


3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識
 戦略理論の欠如の重要な要素の一つは、心理的不安定の原因となるアイデンティティーと歴史意識の間の矛盾とその矛盾が戦略思想に与える影響である。既に心理学の古典となったレインの『引き裂かれた自己』がこの問題を解明する出発点になる。自我の分裂に道を開く心理的危機を究明するこの作品は、心理学以外にも利用できる多種多様な分野における危機を分析する重要な概念と方法論の道具立てを提供している。特にレインが明らかにした実存的安心と自我の関係と、「具体化された(embodied)自我」と「具体化されない(unembodied自我」を区別することで立証したクリティカルな領域、とりわけ政治の領域における多くの問題に関する我々の理解を容易にしてくれる。
 レインは、心理学的危機の根本には、個人の実存とその自我の結びつ断絶が見出されると述べ、そしてその断絶が不可避的に自我の分裂をもたらすことを解明した。自己の実存を疎外する人物は、やがて、自我の諸要素の統合性を失う一方で、他者に対しては自己を統合的に見せかける虚偽自我(false-self)の像を作り出す。内的自己(Inner self)と外的自己(embodied self)の間に裂け目が開かれると、危機は深刻化し、自分自身と外部環境の双方との間で発生する危機の迷路に入り込んでしまう。
 トルコで起きている多面的な危機もまた、内的自己と外的自己の間の分裂の所産とみなされる。共同体のレベルで、個人の実存に対応するものが、その歴史と地理の次元である。共同体が歴史と地理の次元で自己疎外を起こすと、個人が自己疎外を起こして、虚偽自我に陥るのと似ている。周知のように小学校から歴史と地理の教育に多くの時間が割かれているにもかかわらず、我々は一種の没歴史化の時代を生きている。記念日や祭日を祝うことは我々の歴史の知識を強化する代わりに、超歴史的分野への方向性に道を開いている。1998年にはトルコ共和国建国75周年、1999年にはオスマン帝国建国500周年が祝われた。しかし共和国の10周年行進曲やオスマン帝国のトルコ行進曲(mehter)は、メタ歴史的レベルでの認識を超えて、今日まで連なる我々のアイデンティティーのさまざまな全ての要素を統合する個人アイデンティティー意識と社会的全体性によって、我々は表現することができるだろうか?
 伝統の諸要素を受け入れずに、我々のアイデンティティーを偽装すれば、その対極をもたらすことになる。そして内的自己からかけ離れた虚偽自我に続き、隣接する別人たちと同一化しするうちに、ついには、「他者」、敵さえも生み出すことになる。我々の聖なるシンボルのためには戦いも辞さず、引き裂かれた自己の裂け目を埋めようとするが、歴史と地理の次元のすべてを断ち切った新たな引き裂かれた自我を生み出したことには気付くことができない。
 内的自己と外的自己の間の裂け目を覆い隠すために、安っぽい勝利に酔い、同じように安っぽい退廃に陥る。我々はサッカーの試合でのトルコの勝利に10周年行進曲に熱狂し、フィンランドに負けたことを審判の贔屓のせいにしている。それゆえ、自分たちの成功を訓練された努力の成果とみなすことも、失敗から学ぶこともできず、事実ではなく事実を超えた心理に目を向け、個人のレベルでの問題においてと同じように、自分たちの実存、つまり歴史を疎外し、また自分たちの環境、つまり地理的次元も断絶するのである。
 歴史の記憶と意識が弱い共同体は、その歴史に実存を記銘することが非常にむつかしい。歴史の方向を決める場合、主体的で活動的な共同体と、歴史の成り行きまかせの主体性を欠く受動的な共同体の間の極めて重要な違いもまた歴史的認識の型である。
 歴史の意識と記憶が深い共同体は、思いがけない勝利に浮かれることも、敗北主義に陥ることもない。歴史経験から得た情報と現実の力の配置の間に、戦略的合理性と予想に基づく有意味な関係を構築し、慎重に未来図を描くのである。歴史の意識と記憶が弱く受け身で主体性がない共同体は、取り残されるか、取るに足らない成功に酔ったり些細な失敗に落ち込んだりを繰り返す心の弱さから、戦略的決定を下すことができなくなる。それゆえいつも浮沈を経験しするが、成功も失敗も他人次第なのである。
 この観点から見ると、さかんに議題にのぼったセーブル条約の共和国建国75周年記念とオスマン帝国建国700年記念が重なったことは意味のある一致である。セーブル条約はオスマン帝国とトルコ共和国の間の「狭い海峡」である。この「狭い海峡」を我々が生き、乗り越えてきた。しかし生きてきたということは、我々がその間ずっとこの「狭い海峡」の恐怖の中で生きてきたということではなく、またこの「海峡」を乗り越えるにもずっと勝利の思い出に浸っている必要はない。
 フランス人は今日の存在を続け、戦略的計画を立てるのに、ナポレオンの勝利をずっと思い起こして勝利に酔い痴れているわけでもなければ、ナポレオンの敗北の後のフランス人の命運を握ったウィーン会議の成り行きをいつまでも気に病んでいるわけでもない。同様にドイツ人も、ビズマルクとヴィルヘルム2世によるドイツのアイデンティティーと統一を実現した帝国的勝利が今もドイツの戦略的言説の中心をなしているわけではなく、またセーブル条約が我々を陥れた「狭い海峡」にも似た「狭い海峡」に陥れたヴェルサイユ条約を、自分たちの頭上でずっと揺れているデモクレスの剣のように見なし続けているわけではない。もっと近い過去の例を取るなら、ヒットラーの華々しい軍事的勝利と、その勝利の後の全世界にドイツ民族を軽蔑させ、破壊し、呪わせた敗北を共に経験したアデナウアー、シュミット、コールのようなドイツの指導者たちが、このような勝利-敗北の振り子の不可避の振幅に一喜一憂していたなら、はたしてドイツは今日、歴史の舞台の上、歴史の流れの中で、再び重きをなす国となることができたであろうか。
 戦略意識は歴史に、戦略計画立案はその時点でのリアリティーに基づかなければならない。
我々にとってのセーブル条約の記憶と認識は、それに至る過程における我々の問題点を視野に収めた分析によって、評価を下すことができるなら、意味あるものとなる。しかし逆に我々を金縛りにし自己弁護に終始させるような心的トラウマに突き動かされていては、前に進むことはできず、新しいセーブル条約への道を開くことになるのである。物事を歴史の流れの中において見ることができるほど、我々は弱点を克服することができる。
 グローバルな、あるいは地域的な野心を持つ国家はしばしば何世紀にもわたる歴史的、地理的、文化的な土台である定数に根差していればいるほど、繰り返しダイナミックに解釈されうる長期的なビジョンを有する戦略思考に基づいた未来志向の戦略計画を立てることができる。対外的な脅威の認識については、長期的な戦略を短期的な戦術に落とし込むことができ19世紀には「太陽が沈むことがない」帝国となったイギリスには長期的で野心的な戦略があったが、力をつけた大国となったドイツがこの(イギリスの)戦略に挑戦する脅威として認識された。第二次世界大戦後、グローバルで野心的なアメリカの戦略が練り上げられたが、ソ連の脅威がこの戦略を妨げる脅威として認識されることで戦術が査定され決められた。日本には太平洋戦略、ドイツには7B(ベルリン-ブダペスト-ベルグラト-ビュクレシュ-ボアズラル-バグダト-ボンベイ)ユーラシア戦略があったが、ドイツも日本も何世紀にもわたるその遠大で野心的な戦略には短期的な脅威の認識が欠けてはいなかった。手段は変わっても、戦略の基本と優先事項は不変なのである。
 野心のある国家はその戦略に従って脅威を認識するが、主体性がなく受け身の国家は脅威の認識に左右され近視眼的な戦略を立てる。国家は、理由が何であれ、内部矛盾こそが戦略の基本であると明言している限り、その国が二度と弱体化することはありえない。
 他の国の経験からこの問題を自問すれば、この問題をより明らかに理解することができる。IRAの存在の脅威は、少なくとも3世紀にわたって、イギリスの国家戦略、軍事戦略の認識を規定してきたのではなかったか。オクラホマ連邦政府ビル爆破事件(1995年)を起こしたキリスト教原理主義白人優越主義民兵の存在を理由に、グローバルなアメリカの国家的、軍事的戦略がこの民兵たちによって再構築される必要があると言う戦略家が、アメリカでいかなる戦略研究機関に就職できるだろうか?冷戦期にドイツで活動的であった極左テロ組織は、ドイツの東西戦略の中でどう位置付けられていたのか?あるいは国家の内部矛盾を基本的な戦略の優先事項とみなしているようなら、影響力のある戦略を実効に移すことができる野心的な大国の一つになることができるだろうか?わかりやすく、我が国の歴史を例に取ろう。16世紀の「オスマン帝国の時代」を作ったオスマン帝国の大陸と海洋の戦略はこの世紀に広まった「ジェラーリーの乱」を基本とする土台で組織化されるなら、オスマン帝国のこの政界での秩序を作る主張である「世界秩序(Nizam-ı Âlem)」構想など、笑うべき非現実的なレトリック以上のものであったであろうか?
 この国の戦略を単なる一極の外敵脅威とみなす視野狭窄は、内的脅威によって認識するなら、仮想敵国を利する弱点となる。ポスト冷戦期の歴史的地理的深みを有するダイナミックなトルコの戦略の定義と実行が必要な時代に、制度的、歴史的、心理的要素によって、トルコの内部矛盾による衰退過程を説明することは、トルコ民族の全ての力を動員する共通戦略構築に対する最も深刻な障害となるのである。