2020年4月3日金曜日

ガザ―リー著『宗教諸学の再生要約』邦訳(知識の書・知の徳)

本書ガザ―リー著『宗教諸学の再生要約』はオスマン帝国最大の文人キャーティブ・チェレビー(Khājī Khalīfah、1657年没)の書誌学の主著『疑念の払拭(Kashf Ẓunūn)』にも「イスラームの書籍が全て消えて『宗教諸学の再生』が残れば、同書だけで失われたものを補って十分である。」 とまで言われたスンナ派イスラーム学の最も標準的な古典「神学大全」アブー・ハーミド・ムハンマド・ガザ―リー(1111年)の主著『宗教諸学の再生』の要約である。
 本訳で底本としたMu’assasah al-Kutub al-Thaqāfīyah(1990年初版)はこの要約をアブー・ハーミド・ガザ―リー自身の作としているが、al-Hay’ah al-Miṣrīyah al-‘Āmmah li-al-Kitāb(2008年版, ‘Āmir al-Najjār, ed.)では、同書を『疑念の払拭(Kashf Ẓunūn)』(24頁)がアブー・ハーミド・ガザ―リーの実弟でニザーミーヤ学院で彼の教授職の後任でもありスーフィーとしても高名であったアフマド・ガザ―リー(1126年没)が『再生の神髄(Lubāb al-Ihyā’)』と命名した要約と同定している。
ちなみに、『宗教諸学の再生』自体の第1章第1節「知の徳」節を全訳すると以下の通りである。

「知の徳」
 そのクルアーンの典拠は以下のアッラーの御言葉である。「アッラーは彼の他に神はないと証言され天使たちと正義を行う知の持ち主も・・・」アッラーがいかに御自身から始め、天使を次に、知識の持ち主を第三位に置いたことを見よ。それが光栄、優越、名誉であることは言うまでもない。アッラーは仰せである。「アッラーはお前たちの中で信仰する者たち、知を授かった者たちの位階を高め給う。」イブン・アッバースは言った。「学者は信仰者より700階梯上にいる。それぞれ階梯は500年の工程がある。アッラーは仰せになる。「・・・知ってる者たちと知らない者たちが同じであろうか・・・」(39章9節)「彼のしもべたちの中の学者だけがアッラーを恐れる」(35章28節)「言え。私とあなた方の間には、アッラーだけで証人として十分。彼の御許から啓典の知。」(13章43節)「・・・私がそれをあなたに持ってきます。・・・」(27章39節)知の力によって(イフリートにはそれが)できることを示して。「知識を与えられた者たちは言った。「お前たちに災い有れ。信仰し善を行った者へのアッラーの報奨はより良い。・・・」(28章80節)来世の偉大さは知によって理解されることを明らかにされている。「これらのたとえはアッラーが人々に示したが、学者しかそれを理解しない。」(29章43節)それを使徒、または彼らのうち権威を持った者に戻せば、それを捜し当てる者たちはそれを彼らから知ったであろう。」(4章83節)
もろもろの事件におけるその判断を彼らの推論に帰し、アッラーの裁定の発見において彼らの位階を預言者の位階に付随させられた。
そして「あーダムの子孫よ、われらはおまえたちに陰部を覆う衣服と装束を確かに下した。そしてタクワーの衣服・・・」とのアッラーの御言葉について、「衣服」とは「知識」、「装束」とは「確信」、「タクワーの衣服」とは「廉恥」を意味するとも言われている。「そしてわれらは知識に基づいて解明した啓典を、・・・彼らにもたらした。」(7章52節)
そしてアッラーは仰せである。「われらは彼らに啓典をもたらし、それを知識に基づいて説明した。またアッラーは仰せである。「人間を創造し明証を教えられた。」「それからわれらは必ずや知識をもって彼らについて語る。・・・」(7章7節)「いや、それは知識を授けられた者たちの胸の中にある明白なもろもろの徴である。」(29章49節)「人間を創り給うた。表現を教え給うた。」(55章3-4節)これらはただその恩寵を示すために述べられているのである。
伝承については、アッラーの使徒は言われた。
「アッラーは良かれと望まれる者には宗教の知解を授け(yufaqqihu)、その導きを示される。」
「知者たちは預言者たちの相続人である。」 周知の通り、預言者であることを超える位階はなく、その位階の相続以上の栄誉はない。
また使徒は言われた。「諸天と地にあるものは知者のために赦しを請う。」 諸天と地の天使たちがそのために赦し請いに務める者の地位に優る地位があろうか。知者は自分自身に専念し、天使たちは彼の赦し請いに専念する。
使徒は言われた。「叡智は貴人の栄誉を増し、奴隷さえ王侯の地位に届かせる。」
使徒はこのハディースで知識の現世における効果を述べているのであるが、周知の通り、来世の方がより良く、より長続きするのである。使徒は言われた。「偽信者(munāfiq)にはない二つの性質は寡黙と宗教の知解(fiqh)である。」
我々の時代の法学者たち(fuqahā':fiqhの持ち主)の一部の偽善のためにこのハディースを疑ってはならない。それはあなたが「理解(fiqh)」の意味を誤解しているからである。「知解(fiqh)」の意味は後述するが、法学者(faqīh:fiqhの持ち主)の最低条件は、来世が現世に優ることを知っていることであり、その知識が本物で持ち主を支配しているなら、偽善(nifāq)と見栄を免れる。
使徒は言われた。「最善の人間とは、求められる時は他人の役に立ち、求められない時は自足している学のある信仰者である、」
「信仰は裸形であり、その衣服は敬虔さ、装飾は廉恥、果実は知識である。」
「預言者職に最も近い者は学者と戦士(ジハードの人)である。学者は使徒たちがもたらしたもの(聖法)を人に示し、戦士は使徒たちがもたらしたものに則って剣でジハードを行うのである。」
「一人の知者が亡くなるよりも、一部族が死に絶えることの方がましである。」
「人間は金鉱や銀鉱のような鉱脈のようなものである。ジャーヒリーヤ(イスラーム以前の無明時代)の選良は、理解した後のイスラームの選良になった。」
「最後の審判の日に学者のインクは殉教者の知と等価に計られる。」
「私のウンマ(ムスリム共同体)のためにスンナの40のハディースを覚え、それらを人々に伝えたなら、最期の審判の日に私がその者の仲保者、証人となる。」
「私のウンマ(ムスリム共同体)で40のハディースを伝えた者は、最期の審判の日に知解者、知者としてアッラーにまみえる。」
「アッラーの宗教を知解する者は、アッラーがその者の問題を引き受け、思いがけないところから糧を恵み給う。」
「アッラーはイブラーヒームに、『イブラーヒームよ、我は智者であり、あらゆる智者を愛する』と啓示された。」
「学者は地上におけるアッラーの受託者である。」
「私のウンマの二種の者が清廉であれば人々も良くなり、堕落すれば人々も堕落する。王侯と知解者(フカハー)である。」
「私がアッラーに自分を近づけてくれる知識を増やさない日があれば、私はその日の日の出に祝福されることはない。」
知が崇拝と殉教に優っていることについて使徒は言われた。「知者の崇拝者より優れているのは、教友たちの最低の者より私が優れているのに等しい。」 使徒がいかに知識を預言者の地位と等置し知識を欠く行為の地位を貶められたかを見よ。というのは崇拝者は励むべき勤行の対象を知っていなければならないので、その知なしにはそもそも崇拝などないのである。
それゆえ使徒は言われた。「知者が崇拝者に対する優るのは満月の夜の月が他の星に優るかのようである。」
「最後の審判の日に三種の者が執り成しをする。預言者、知者、殉教者である。」 それゆえ知は、殉教が徳が(数多く)伝えられているにもかかわらず、位階において殉教に優り、預言の次に優れているのである。
使徒は言われた。「アッラーを崇める手段として、宗教における理解以上の物は何もない。悪魔にとっては一人の知解者(ファキーフ)の方が千人の崇拝者よりも手強い。全ての物に支柱があり、この宗教の支柱は知解である。」
「あなたがたの宗教の最善のものはその最も容易なものであり、最善の崇拝は知解である。」
「知ある信者は崇拝者である信者に70段階優る。」
「あなたがたは知解者が多く、読誦者、説教者が少なく、物乞いが少なく贈与者が多く、知識が実践より価値がある時代に生きている。しかしやがて知解者が少なく、説教者が多く、贈与者が少なく物乞いが多く知識が実践より価値がある時代が人々にやってくる。」
「知者と崇拝者の間には100の階段があり、各段の間は駿馬の早駆けで70年の行程である。」
「アッラーの使徒よ、最善の行為は何ですか。」と尋ねられると、使徒は「アッラーについての知識である。」と答えられた。「私たちは行為について聞きたいのです。」と言われたが、また「アッラーについての知識である。」と言われた。そこでまた「私たちは行為について尋ねているのに、あなたは知識について答えられました。」と言われると、使徒は言われた。「アッラーについての知識があれば僅かな行為でも役立に立つが、無知であれば多くの行為も役に立たない。」
使徒は言われた。「アッラーは最後の審判の日に人々を復活させ、それから知者たちを復活させ、仰せになる。『知者たちよ、我は我が知を汝らに託したのは、汝らについての我が知識によってでしかない。我は汝らを罰するために我が知識を汝らに託したのではない。我は既に汝らを赦した。行くがよい。』」
私たちはアッラーに良い末期を冀います。
また伝聞には以下のようにある。
アリー・ブン・アビー・ターリブはクマイルに言った。「知識は財産に優る。知識はあなたを守るが、あなたが財産を守る。知識が支配し、財産は支配されるのである。財産は費やせば減るが、知識は費やすほど増す。」 またアリーは言った。「知者は昼は斎戒し夜は礼拝に立つジハード戦士に優る。知者が亡くなると、その後継者(の知者)によってしか埋まらない隙間がイスラームに開く。」 また以下の詩を詠んだ。
知者以外に栄光はない
彼らは正道にあり、導きを求める者の案内人
全ての人間の価値は学んだものによる
無知な輩は知者の敵
それゆえ知識を得てずっとそれで生きろ
人々は死者であり、知者こそ生者
アブー・アスワドは言った。「知識よりも偉大なものは何もない、王侯は支配者であるが、知者は王侯の支配者である。」
イブン・アッバースは言った。「スライマーン・ブン・ダーウード(ソロモンの子ダビデ)は知識、財産、王権の選択肢を与えられ、知識を選ばれたが、それと共に財産と王権も授けられた。」
イブン・ムバーラクは「人間とは誰ですか。」と尋ねられ、「学者である。」と答え、「王侯とは誰ですか。」と尋ねられ、「禁欲者である。」と答え、「下衆とは誰ですか。」と尋ねられ、「宗教を食い物にする者である。」と答えた。
イブン・ムバーラクが知者以外を人間とみなさなかったのは、人間が他の動物から区別される特徴は知識だからである。人間は人間がそれによって高貴であるものによって人間なのであるが、それはその身体の力ではない。それならラクダの方が人間より強いからである。またその大きさによるのではない。それなら象の方が大きいからである。また勇猛さによるのでもない。それなら猛獣の方が獰猛である。また食べるためでもない。それなら雄牛の方が大食である。また交尾のためではない。それなら小さな雀でさえ人間より生殖能力がある。そうではなく人間は知のために創造されたのである。
 ある賢者は言った。「知を失った者が何で埋め合わせられようか、知を得た者に何か失う者があろうか。」
 預言者は言われた。「クルアーンを授けられた者が誰かがそれ以上のものを与えられた者がいると考えたなら、アッラーが重んじられたものを侮ったことになる。」
 またフォトゥフ・マウスィリーが「病人が食べ物、飲み物、薬を禁じられて与えられなければ死ぬのではないか。」と言うと、人々は「はい」と言った。そこで(ファトフは)「心も同じで叡智と知識を3日禁じられて与えられなければ死ぬ。」と言った。彼は真実を述べた、身体にとっての食糧が食べ物と飲み物なように、心の食糧は知識と叡智あり、その二つによって生きるのである。知識を失った者の心は病み、気づかないままに死ぬことは必定である。なぜなら現世の欲と雑念に紛れて(自分が病気であることを)感じないからである。それは傷を負っても死の恐怖がその場の傷の痛みを気づかなくさせるのと同じである、しかし死によってそうした雑念が払われると、死んだことに気づき、終わりのない激しい苦痛に苛まれることになるが、その時はもう遅いのである。それは安堵した者、酔いが醒めた者が、恐怖、酩酊中に負った傷の痛みに気づくのと同じである。私たちはアッラーに覆いが取り上げられる日の庇護を冀います。「人々は眠っており死んだ時に・・・」(ハディース)。気をつけなさい。
 ハサンは言った。「学者の墨と殉教者の血を測れば学者の墨が殉教者の血にまさる。」
 イブン・マスウードは言った。「知識が取り上げられてしまう前にあなたがたは知識を学ばねばならない。知識はその伝承者たちが死に絶えることで取り上げられる。我が魂がその御手にある御方(アッラー)にかけて、アッラーの道に殉教者として死んだ者は、アッラーによる学者たちの厚遇を見て、アッラーが自分たちを学者として蘇らせてくれればと願う。学者として生まれる者は一人もいない。知識は学問による。」
 イブン・アッバースは言った。「私は、(礼拝や勤行で)徹夜をするより、夜の一時に知識を学ぶことをより好む。」 同様な言葉がアブー・フライラやアフマド・ブン・ハンバルからも伝えられている。ハサンは「我らが主よ、我らに現世で善福を来世でも善福を与え、獄火の懲罰から我らを護り給え。」との御言葉について「『善福』とは現世において知識と崇拝、来世では楽園のことである。」と言った。
 ある賢者は「何を手にすべきか。」と問われ、「あなたの船が沈んだ時にあなたと共に泳ぐもの -つまり「知識」- である。」と言った。また「船の沈没は死による肉体の滅亡を意味する。」と言われた。
 またある者は言った。「叡智を手綱とする者を、人々は導師とする。そして叡智をもって知られた者を、衆目は敬意をもって眺める。」
 シャーフィイーは言われた。「知の誉とは、それに関わる者は皆、たとえ些細なものであれ、喜び、それを取り上げられた者が悲しむことである。」
 ウマルは言った。「あなたがたには知が課される。アッラーには愛の外套がある。知識の一部門でも求める者にアッラーはその外套を着せ給う。その者が罪を犯しても悔い改め、また罪を犯しても悔い改め、また罪を犯しても悔い改め、たとえ死ぬまでその罪を重ねようとも、その(愛の)外套を脱がさないようにと。」
 アフナフは言った。「学者はまるで主人であるかのようになり、風格はすべて崩れ、卑小さがその行き先となる。」
 サーリム・ブン・アビー・ジャァドは言った。「私のご主人は私を300ディルハムで買って私を解放した。私は『どんな仕事をしましょうか。』と言い、学問を仕事にしました。そして1年が経つとマディーナの総督が私に会いにやってきたが、私は彼に許しを与えなかった。」
 ズバイル・ブン・アビー・バクルが言った。「イラークにいた私の父が私に手紙をよこした。『学問をしなさい。あなたが貧しい時はそれはあなたの財産となり、富める時にはあなたの装飾となる。』」
 それはルクマーンの子供への遺言の中でも述べられている。「我が子よ、学者たちと膝附合わせ席に連なりなさい。アッラーは空からの雨で大地を賦活するように叡智の光で心を賦活する。」
 賢者の一人が言った。「学者が死ぬと、海の魚も空の鳥もそれを嘆く。その顔は忘れられても、その(学問の)記憶は消えない。」
 ズフリーは言った。「知は男性であり、大人の男だけがそれを愛する。」


『宗教諸学の再生・要約』

(序)
イスラームの証(フッジャトゥルイスラーム)アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザ―リーは述べた。
アッラーにこそあらゆる恵みに対する称賛は属す。称賛をさせていただくこと自体(を含む恵み)に至るまで。その預言者、使徒、しもべである使徒たちの長ムハンマドとその御一統、教友、その逝去後の後継者(カリフ)、その存命中の副官たちに祝福あれ。
旅先でかさばって持ち運びが大変なので『宗教諸学の再生』を抜粋しようと思いつき、アッラーに助けを求め、正導を願い、その預言者に祝福を祈りつつ、それに取り掛かった。それは40章からなる。アッラーこそ正答を恵み給う。


第1章:知識と学習

(第1「知の徳」節)
 知りなさい。知の徳については、クルアーンに多くが述べられれている。「ムジャーダラ章11節」イブン・アッバースは言った。「学者は信仰者より700階梯上にいる。それぞれ階梯は500年の工程がある。至高者は仰せになる。「ズンマル19節」至高者は仰せになる。「蜘蛛章43節」
 また伝承の中には、以下のようなハディースがある。「学者は預言者たちの相続人である。」「最善の人間とは、求められる時は他人の役に立ち、求められない時は自足している学のある信仰者である、」「信仰は裸形であり、その衣服は敬虔さ、装飾は廉恥、果実は知識である。」「預言者職に最も近い者は学者と戦士(ジハードの人)である。学者は使徒たちがもたらしたもの(聖法)を人に示し、戦士は使徒たちがもたらしたものに則って剣でジハードを行うのである。」「学者は地上におけるアッラーの受託者である。」「復活の日には、預言者たちが(信者のためにアッラーに)執り成しを行い、ついで学者が、ついで殉教者たちが。」
 またフォトゥフ・マウスィリーが。「病人が食べ物、飲み物、薬を禁じられて与えられなければ死ぬのではないか。」と言うと、人々は「はい」と言った。そこで(ファトフは)「心も同じで叡智と知識を3日禁じられて与えられなければ死ぬ。」と言ったが、彼は真実を述べた、身体にとっての食糧が食べ物と飲み物なように、心の食糧は知識と叡智あり、その二つによって生きるのである。
知識を失った者の心は病み、気づかないままに死ぬことは必定である。なぜなら現世の雑用に忙殺されるからである。しかし死によってそうした雑用から目覚めると、終わりのない激しい苦痛に苛まれることになる。それが「人々は眠っており死んだときに目覚める。」とのハディースの意味である。
学習の徳については「学究には天使が満足して翼で抱きしめる。」「朝に知識の一分野を学ぶことは100ラクアの礼拝よりも良い。」とのハディースが示している。
アブー・ダルダーゥは言った。「学びに行くことをジハードだと考えない者は理性、考えに欠けている。」教えることの徳は「アッラーが知識を与えられた者に、人々にそれを教え、それを隠すな、との約定を取られた時」とのアッラーの御言葉が示している。アッラーの使途はこの節を読まれた時に言われた。「アッラーは学者には必ず、預言者たちになされたように、知識を教え隠すなかれとの約定を取られた。」
 預言者はムアーズをイエメンに派遣された時に言われた。「アッラーがあなたを介して一人の男を導かれたなら、あなたにとってそれはこの世界とその中にあるもの(全て)よりも価値がある。」ウマルは言った。「誰かが何かを話して、それを誰か(他人)が実行したなら、彼(話をした者)にも、それを行ったのと同じだけの報償がある。」ムアーズ・ブン・ジャバルは教えることと知について、以下のように述べているが、その伝承は預言者にまで遡ることができる。「知識を学べ。アッラーのために知識を学ぶことは善行、知を求めることは勤行、勉学は賛美、探求はジハード、教えることは喜捨、知をそれに相応しい者に授けることは奉献である。知は孤独の慰め、独居の伴侶、禍福に応じた導き手、親友の中の腹心、朋友の中の同志、楽園への道の光塔である。アッラーは知識によって人々を高め、彼らを人々を牽引し行き先を示す善の先導者、幸福の案内人とされ、彼らの行跡は辿られ、彼らの行為を注視され、天使は彼らの装飾を望み、その翼で彼らを愛撫し、湿ったものも乾いたものも全てが彼らを称え、海の魚介類や陸の獣や家畜、空と星に至るまで彼らのために赦しを請う。なぜならば知識は心の蒙を開き、闇の中で目を照らし、身体の弱さを強め、人は知によって篤信者の境地、最高の段階に達し、知識の思索は斎戒、勉学は夜の礼拝に匹敵し、アッラーが従われ、崇拝されるのは知によってであり、主が唯一の神として畏れられるのも知に基づいてであり、知によって親戚関係が繋がれる。知が主で、行為は従なのである。アッラーは幸運な者には知を授け、惨めな者には知を遮断されるのである。
理性に照らしても、学問の徳は隠れもない。なぜならそれによって至高なるアッラー、その近く、その側に到達するからであり、それは終わることのない永遠の至福、永久の快楽であり、それによって現世の栄光と来世の至福があるからである。現世は来世の畑であり、学者はその知識によって、自分自身のために、その知識の要請に応じた自己修練によって来世の至福のための種を植えるのである。また教育によっても永遠の至福の種を植えることになるだろう。なぜなら人々の人格を陶冶し、彼らを自らの知識により至高なるアッラーに近づけるものに誘うからである。「叡智と良き訓戒であなたの主の道に招き、彼らと最善のもので議論せよ。」(16章125節)それゆえ彼(学者)は選良は叡智によって、大衆は訓戒によって、頑迷な者は議論によって呼びかけ、自分を救い、他人をも救う。これこそ人間の感性なのである。