2018年11月17日土曜日

2018/11/17 於:京都エデン 「どうなるサウディアラビア? ―トルコとサウディの250年戦争―」

2018/11/17 於:京都エデン
「どうなるサウディアラビア? ―トルコとサウディの250年戦争―」
中田考(同志社大学客員教授)

1. サウディ崩壊のシナリオ:カショギー(ジャーナリスト暗殺)事件で顕在化
2018年10月2日:サウディ在イスタンブール総領事館で殺害
トランプがサルマン国王に「お前の王座は米国の軍事支援がなければ2週間もたない」
サルマン皇太子「サウディはアメリカができる30年前1744年からここにある」
2. サウディ(第2代アブドゥルアズィーズ在位1765-1803年)-トルコ250年戦争
1818年:オスマン朝のエジプト総督ムハンマド・アリーにより第一次王国滅亡
2018年3月:エジプトのメディアに対してムハンマド皇太子
「オスマン・トルコ(Ottoman)とイランとテロリスト(ムスリム同胞団、IS)は悪の三極枢軸、トルコのエルドアンはカリフ制を押し付けようとしている。」
3. サウディの特殊性
 オスマン帝国存在時にその権威に挑戦、1902年にリヤド首長国として独立。
 領域国民国家システムによって承認される前からイスラーム国家として存在。
4.カリフ制としてのサウディアラビア
ワッハーブ派のジハードは、オスマン帝国の支配の正当性を支える当時のスンナ派イスラームに対する全面的否定による「宗教/政治的殲滅戦」。
5.1744年サウディ・ワッハーブ派政教盟約
 1744年、ダルイーヤ(リヤド市の一部)でイマーム(教主)イブン・サウード(その末裔がサウディ王家)とシャイフ(首長)イブン・アブドゥルワッハーブ(その末裔がシャイフ家)が「政教盟約」が締結され、ワッハーブ派教団国家成立。
 ジハードによるワッハーブ派の教義広宣により、サウード家はナジュドの覇者となり、孫の大サウード(在位1803-14年)の時代には東はアフサー、カティーフからカタルまで、西はヒジャーズ地方全域、北はアラビア半島を越えてシリア、イラクの一部まで、南はアスィール、ナジュラーンからイエメンとオマーンの一部を支配下におき、アラビア湾から紅海に至るサウド家最大の版図を実現。
サウディアラビアは教義的にジハードによる宣教を正当化するのみならず、財政的にも存続のために構造的に不断のジハードによる戦利品収入を要請する軍事拡張主義国家。
5.ワッハーブ派の基本教義と政治理念、国家原理
ワッハーブ派はスンナ派超正統主義アフル・ハディース-サラフィー主義の一派
スンナ派のハディース、クルアーンのみの権威を認め、外来思想、後代の権威否定
特殊ワッハーブ派的思想は政治思想:政教盟約に凝縮されている。
政治理念:①タウヒードの宣教②善の命令と悪の禁止③イスラーム法の厳格な施行
国家原理:①ジハードによる宣教②サウード家の王政の承認③無課税財
6. 第三次王国の成立
第二次王国の最後の教主(イマーム)アブドゥッラフマ―ンの息子アブドゥルアズィーズ(1902-1953年)がリヤドを奪回しナジュドを平定し1902年リヤド首長国を建国。
1913年アハサーを落とし東部州に覇権確立
1925年ヒジャーズ全域制圧(オスマン帝国1922年滅亡)
1926年にはナジュド・ヒジャーズ王国の建国を宣言
1932年サウディアラビア王国と改称
1934年にはイエメンと戦いアスィール地方を併合、軍事的拡大ほぼ終結。
7. ワッハーブ派教団国家の変質
ジハードを続けるワッハーブ派屯田兵イフワーンを1929年のシビラの戦いで殲滅
ジハードによるタウヒードの宣教は、政教盟約に基づくワッハーブ派教団国家樹立のレゾンでトール。ジハード放棄はワッハーブ派教団国家の決定的な変質の印。
以後サウディアラビアは、リアルポリティクスにおいて、西欧の領域国民国家システムに完全に組み込まれながら、ワッハーブ派の3つの政治理念と3つの国家原理を掲げる建前を維持し続ける難しい舵取りを強いられることになる。
8. 冷戦とOICの結成
冷戦構造下で、1950年代から60年代にかけてアラブ社会主義の既成秩序への挑戦に対抗し湾岸の王制諸国や保守的なモロッコやヨルダンなどのアラブ王制諸国を糾合し、イスラーム外交の名の下にアラブ社会主義を共産主義=無神論と断じるイデオロギー闘争を展開したのがサウディアラビアの故ファイサル国王(当時の皇太子)。1962年マッカに本部をおく世界のイスラーム団体の調整・支援機関世界イスラーム連盟結成。
エジプト・シリア統合の失敗、シリア・イラク両バアス党の分裂、エジプトのイエメン内戦介入の失敗、第三次中東戦争の敗北などによって、アラブ社会主義は最終的に自壊。ファイサルのイスラーム外交は、1969年のOIC(イスラーム諸国会議機構、後のイスラーム協力機構)の創設決定に結実
9. ムスリム同胞団の庇護
全体主義抑圧体制アラブ社会主義諸国(エジプト、シリア、イラク等)の「宗教弾圧」を逃れたムスリム同胞団員にサウディアラビアはかっこうの亡命先を提供した。
ワッハーブ派は極めて偏狭であったが、この時期には無神論のアラブ社会主義という共通の敵を前にしてスンナ派イスラーム主義改革派の諸グループを支援し共闘。
10. 反人定法論の成立
1960年代にアラブ社会主義とのイデオロギー闘争の中で、シャイフ家のサウディアラビア初代ムフティー(教義諮問官)ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・アッシャイフ(1969年没)『人定法に裁定を求めること(Taḥkīm al-Qawānīn)』執筆。
11. イラン・イスラーム革命、GCCの結
12. ホメイニーの「イスラーム法学者の後見」理論に基づいて建国されたイラン・イスラーム共和国は、イラン・イスラーム革命をイラン一国を越えるイスラーム革命と位置づけ、「革命輸出」戦略をとった。ワッハーブ派はシーア派を不倶戴天の仇とみなし、イラクに侵攻しシーア派の聖地カルバラーやナジャフで住民を虐殺し、東部州のシーア派住民に対しても異教徒として扱い迫害。
ホメイニーはイスラーム共和国を樹立するや、「世界イスラーム解放運動機構」、サウディアラビアにも「アラビア半島イスラーム革命組織」を組織。
13. イラン・イスラーム共和国の成立以降、スンナ派のワッハーブ派宣教国家サウディアラビアとイラン・イスラーム共和国が主導権を争う国際イスラーム運動の基本構図定着。
王制批判の国内への波及防止のため、イラン封じ込め政策。
国内的には、シーア派を憎むワッハーブ派を重用。
国際的には①1981年に湾岸王制諸国(クウェート、アラブ首長国連邦、バハレーン、カタル、オマーン)を糾合し集団安全保障体制構築を目指してGCC(湾岸協力会議)を結成。②世界イスラーム連盟などの配下の国際イスラーム団体を通じて世界のスンナ派イスラーム諸運動を支援しイランに対抗してイスラーム世界の盟主の地位の確保をはかる。
14. マッカ聖モスク占拠事件
イラン革命はシーア派を超えて全てのムスリムに王制の打倒を呼びかけた。イラン革命に呼応するかのように1979年11月20日(ヒジャラ暦1400年元日)、イフワーンの流れを汲む約300名の武装集団がモスクを訪れる予定であったハーリド国王を廃位し、マフディー(救世主)の支配の到来を告げ人々にマフディーへの忠誠を要求してモスクを占拠。「政教盟約」を根底から否定する流れの存在が露呈。
15. 湾岸戦争から9.11へ
冷戦構造の下ではイラクのバアス党(アラブ復興社会党)サッダーム・フセイン政権は社会主義とアラブ民族主義による王制諸国打倒、アラブ統一を目指す革命国家の急先鋒、つまりサウディアラビアの主要仮想敵であったが、革命の混乱に乗じてイランに攻め込んだイラクをサウディアラビアは「敵の敵は味方」と支援。
ところがイラン・イラク戦争(1980-1989年)が終結するとイラクは1990年年8月クウェートに攻め入り併合。自国の油田地帯にもイラクが手を伸ばすことを恐れたサウディアラビアは米軍を援軍として招き入れた。
異教徒の米軍を「聖地」アラビア半島の国土に引き込んだサウド王家の「イスラームの盟主」としての威信失墜、情報統制の緩和によって、湾岸戦争以降、イスラーム主義者の政府批判の動きが、「覚書グループ」(サルマーン・アルアウダ、サファル・アルハワーリーら著名なウラマー)と呼ばれるイスラーム主義者集団によるファハド国王への上奏文の形を取った一連の政府批判文書の流布によって一挙に顕在化。この「覚書グループ」が含まれていた。またサウディアラビアの富豪でアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは米軍を招き入れたサウド王家を厳しく批判、2001年9月11日にアメリカで同時多発攻撃。実行犯19人のうち15人がサウディアラビア人であったことは、それまでサウディアラビアの情報操作によって隠蔽されてきたワッハーブ派の反米感情の強まりを世界に知らしめた。
16. シーア派の伸長
イラン革命後、イランの指導の下で全世界のシーア派の政治的覚醒。
*レバノン:イラン革命の影響でイスラーム共和制の樹立を目指して1982年に結成されたヒズブッラ―は独自の軍事部門を有し1983年には米仏軍を、2000年にはイスラエル軍をレバノンから撤収させ、レバノン内の「国家内国家」とも言われる存在となった。
*イラク: 2003年アメリカがフセイン政権を打倒しイラクを占領すると、政権を担える勢力はダウワ党とその分派でよりイランに近い「イラク・イスラーム革命最高評議会」などのシーア派イスラーム主義勢力しかなく、イラクにはイル・ハーン国がシーア派に改宗して以来(1304-1353年)のシーア派政権が誕生。
18.アラブの春
スンナ派諸国の腐敗した専制、独裁政権が長期にわたって続き民衆には閉塞感が「アラブの春」を可能に。「アラブの春」で民衆蜂起によって長期独裁政権の崩壊は、スンナ派ムスリム諸国の専制君主、独裁者たちに大きな衝撃を与え、生き残った政権は以前にも増して弾圧を強めることに。
19.「アラブの春」後に政治の舞台に躍り出たのは、厳しい弾圧の中で草の根型の社会運動としてかろうじて生き延びていたアラブ最大の社会運動ムスリム同胞団。個人の覚醒、社会の覚醒を経て、議会主義に立脚し選挙を通じてイスラーム国家を樹立し、各地のイスラーム国家の合邦統一によりカリフ制を再興し、最後に世界をイスラーム化する、というのがムスリム同胞団の綱領。アラブの春の飛び火を最も恐れたのが、国内に多くのムスリム同胞団の出稼ぎ労働者を抱えながら、選挙も人権も自由も平等も存在しない専制王制諸国、特にサウディアラビアとUAE。
20.イエメン内戦
イエメンではイラン革命の影響を受け反米、反イスラエルのスローガンを掲げるシーア派の分派ザイド派のイスラーム主義運動フーシー派(アンサール・アッラー)が2014年に首都サナアを攻略し2015年には完全に政府機能を掌握。サウディアラビアはフーシー派がサナアを制圧すると即座にスンナ派諸国連合軍を組織し、イエメンに軍事介入、アムネスティーから人権侵害を批判される空爆を続けながら3年が経過してもサウディアラビアはサナアを攻略できないばかりか、報復に首都リヤドがフーシー派によるミサイル攻撃に。
21.カタル団交、宮廷クーデター、ワッハーブ派ウラマーの弾圧
サウディアラビアは、2017年6月5日、アラブ首長国連邦、エジプト、バハレーンと謀ってカタルとの断交、経済封鎖に踏み切った。第一次サウディアラビア王国はオスマン帝国によって滅ぼされたが、実際にサウディアラビアを討伐したのは当時半独立状態にあったオスマン帝国エジプト総督ムハンマド・アリー。また冷戦期には、サウディアラビアのファイサルはエジプトのナセルとイエメンで代理戦争を戦っている。また教義的にもエジプトはワッハーブ派が異端視するスンナ派伝統主義イスラーム学の牙城であるアズハル機構を擁しており、厳しく対立。
カタルとの断交は、設立当初より「西欧の基準」の「自由な報道」でサウディアラビアの専制政治、人権蹂躙、腐敗を糾弾するアルジャジーラを庇護するカタルに苛立ちを隠していなかったが、テロの支援を口実に、テロ支援国家イランや、「テロ組織」同胞団との絶縁、アルジャジーラの閉鎖などの要求を掲げて。ついで6月21日サウディアラビアではムハンマド・ブン・ナーイフ皇太子が解任され、代わってサルマーン国王の息子の副皇太子ムハンマド・ブン・サルマーンが皇太子に昇格する「宮廷クーデター」。
これに対しトルコのエルドアン大統領は直ちにカタルへの支持を表明したのみならず、カタル防衛のために軍を派遣。カタルはサウディアラビアの要求を拒絶し、GCCのクウェートやオマーンすら断交に追随せずサウディアラビアによるカタル孤立化の目論見は失敗。これによってサウディアラビアとカタル断交の陰にトルコとカタルの対立があることが顕在化。
カタル断交の背景は2018年3月のエジプトのメディアに対するムハンマド皇太子の「オスマン・トルコ(Ottoman)とイランとテロリスト(ムスリム同胞団、IS)は悪の三極枢軸である」と呼び「トルコのエルドアンはカリフ制を押し付けようとしている。」とトルコのエルドアンがカリフ制の再興を目指している、との非難。
アラブ各地でテロリストの汚名を着せられたムスリム同胞団のメンバーが、カタルとトルコに亡命した。ムルスィーの失脚、逮捕投獄によりアラブのカリフ擁立の夢破れた同胞団が、エルドアンに夢を託した。ナセル時代の同胞団弾圧を逃れエジプトからドーハに亡命した同胞団の精神的指導者カラダーウィーが2017年の5月にエルドアンをオスマン帝国のカリフの別称「スルタン」の称号で呼び、17億のムスリムはエルドアンに忠誠を誓うべきである、と述べ、その映像がインターネットを通じて世界に配信。
サウディアラビアがイラン、トルコ、カタル、テロリスト(同胞団、IS)との敵対に踏み切ったのは、アメリカにイスラエルから距離を取りイランに融和的だったオバマに代わって親イスラエルでイランに敵対的なトランプ大統領の登場のため。
サウディアラビアはイスラエルと結びトランプに全面的に協力しアメリカの支持を得ることで、「イスラーム法学者による後見」論を国是とするシーア派のイラン、カリフ制再興を目指すスンナ派伝統派のエルドアンと同胞団、カリフ制再興を称するジハードによるタウヒードの宣教のワッハーブ派の原理念に忠実なISのムスリム世界統一への動きを阻止し、サウド王家の既得権益を守る生存戦略を選択。トランプの支持を取り付けるために、ムハンマド皇太子は2018年4月アメリカの『アトランティック』のインタビューに答え、ユダヤ人国家としてのイスラエルを承認した。3イスラエルの承認は、サウディアラビア外交の根本的な変化を示すものであるが、とりわけアメリカの大使館のイスラエル移転(2018年5月14日)に対してパレスチナにみならずムスリム世界各地で抗議の声が沸き起こっている時期に、トランプのイスラエル政策を支持し、イスラエルの国家承認を口にすることは、イスラームの盟主を称してきたサウディアラビアの威信を大きく傷つけた。
サルマン・アウダ、サファル・ハワーリーら逮捕、死刑求刑。
21.このような背景の下、カショギー(サウジ国籍『ワシントンポスト』などに寄稿)*2018年10月2日サウディ在イスタンブール総領事館で殺害
サウディの発表:4日全面否定、総領事館を歩いて出た、12日内相殺害否定、21日外相殺害はならず者によって行われた大失敗、25日検察殺害計画的
*23日 サウディ投資会議の日にぶつけてエルドアン演説(サルマン国王のみ免責)
MBS:エルドアンとサルマンの間を引き裂こうとの陰謀は成功しない
*11月1日 『ワシントンポスト』MBS、カショギー殺害後クシュナーとボルトンに電話で危険なイスラーム主義者と誹謗(カショギーは反ワッハーブ派、成文法制定要求)
*イエメン内戦:10月30日ポンペオ、マチスが停呼びかけ
22.サウディの命運
短期的にはカタル・ボイコットとイエメン内戦介入をやめられるかが焦点
*25日MBS:カタルの経済は良好、今後5年で大きな貢献が期待できる
カタル・ボイコットは、真の目標はトルコとムスリム同胞団
*「イエメン内戦は最悪の人道危機」スティーブン・クック米議会外交問題上級研究員『ニューズウィーク』(10月30日)トルコは直接の利害関係なし。(むしろイランに有利なのでトルコも米国もそれほど乗り気でないが人道的に無視できない)
マティス(米)のイエメン停戦の呼びかけはイランの勝利とみなされる。Monitor 11/1
*エルドアンは11月2日付『ニューズウィーク』に寄稿:カショギー殺害はサルマン国王ではない最高レベルからの指示
*11月15日:サウディアラビア検察11人起訴5名死刑求刑と発表
*11月17日CIA! MBAが弟ハーリド駐米大使に命じてカショギーをイスタンブール総領事館に誘き寄せて殺させる。

纏め
*サルマン朝は始まる前に終わる?MBS専制王制から独裁者(≠啓蒙君主)を目指した
(サウディ王制支持基盤のワッハーブ派と敵対:飴と鞭で黙らせているが)
*サウディアラビアの未来に3つのレベル
①領域国民国家システムvs帝国の復興(西欧、英米、ロシア、インド、中国、イスラーム)
②スンナ派vsシーア派
③スンナ派内:サラフィー、改革派(同胞団)、伝統派、世俗派(反イスラーム)
④サラフィー内:サラフィー非政治派、ワッハーブ派、サラフィー・ジハード主義者