2016年11月18日金曜日

「イスラームにおける救済の境界と異教徒との共存」



20161117   オリエンス・セミナー第89   オリエンス宗教研究所

「イスラームにおける救済の境界と異教徒との共存」

中田考(同志社大学客員教授)

  資料                   

 
   イスラームにおける救済の境界
イスラームはアーダム(アダム)以来の全ての預言者の宗教であり、救済は「ムハンマドのウンマ」を越えて、アーダムからイエスに至る預言者たちの教えに従った全ての「一神教徒」、即ち「広義の」ムスリムに及ぶ。これはイスラームの合意事項であり、宗派、学派の違いを超えて異論は存在しない。「イエス・キリスト以前に救いは存在するか」といった問題はイスラームにはそもそも存在する余地はない。
ムハンマドの宣教以降についての「ムハンマドのウンマ」を越えた救済の可能性をめぐっては、アシュアリー派神学が、3つのカテゴリーについてそれを認めている。
第1は、イスラームの宣教が届いていない者で考察によって自力で唯一神崇拝に辿り着いた者である。このカテゴリーに属する者は「広義の」ムスリムと認められる場合もあり、その救済については、同派の中に異論は存在しない。
第2は、イスラームの宣教が届かなかったために宗教に無関心に生きて死んだ者である。後期アシュアリー派の通説では、彼らは救済に与る。
第3は、イスラームの宣教が届かず積極的「無神論者」として確信犯的に神を拒絶して死んだ者である。彼らの救済については同派の中でも見解が分かれるが、救済説も有力である。
以上に概観した通り、異教徒に救済の可能性が開かれていることは、何世紀にも亘る長い議論の末に、反対説と並んで、スンナ派の「正統」神学の一つアシュアリー派の「学説」として承認されており、「学説」として自由な議論の対象となる。そして本稿が明らかにした通り、アシュアリー派による異教徒の救済論は、貿易・交流、征服・被征服などの異教徒との政治・社会・経済関係の利害打算を反映した外在的な妥協案、折衷策、外圧による言論の歪曲の産物ではなく、神学の内在的な理論的要請から生まれたものである。それゆえ一時の流行や状況に流された近視眼的な首尾一貫性のない借り物の「思想」ではなく、このアシュアリー派神学の救済論の伝統を継承し深化発展させることこそが、私見によれば将来のイスラームと他宗教の共存の神学的基礎となる。(中田考「救済の境界 ‐イスラームにおける異教徒の救済ー」『一神教学際研究』2,2006/2)
* 価値観を共有しない敵との対話は可能か
 人間は見も知らぬ人の為に心を動かすように動物として制度設計されていない。
 動物行動学が教えるところによると、 泣いて涙を流すこと、微笑み、そして跪く、お辞儀をするといった儀礼的動作は、人間を「武装解除」させる。人間は隣人を愛おしみ、弱い隣人を哀れむように制度設計されている。
 しかし、人間が動物以上の知能を授かり、道具を発明し、動物としての身体機能を超えた行為が可能になった時、動物としての人間に生得的に備わった武装解除機構はもはや十分ではなくなった。
 目の前で跪いて涙を流して命乞いをする者への攻撃の抑制機構は、顔も見えない遠隔の他人を殺すミサイルの発射スイッチを押すことを防ぐことはできない。
 人間という動物は目の前で寒さに震え飢えに泣く者を憐れむように制度設計されてはいても、遠い異国の目にしたこともない難民に同情するようには創られていない。
 身近な家族と隣人のみしか知らない動物としての人間は、世界の悪に対してイノセント(無罪)である。
 しかし、知性を授けられ、道具を使うことを選び取り、動物としての身体能力を超えた行為が可能となり、自らが知り影響を及ぼすことが出来る可能性空間を地球規模にまで広げた人間は、知性によって力を得たことと引き換えに、生得的に制度設計された憐れみと攻撃抑制の本能の指示を超えて知性を用いて自らの可能性空間全域で起こりうる所業の善と悪を判断し行動するという重い責任を負うことになった。
 『我ら(アッラー)は天と地と山に信託を提示したが、それらはそれを恐れて担うことを拒んだ。ところが人間は、それを引き受けた。実に人間とは不正な存在である。』(クルアーン33章72節)
 かつて人間は遠隔地で起きている出来事にイノセントであった。しかし、書物、テレビ、インターネットを手にし、遠隔地の出来事を知のコンテンツとして消費することを選び取った者は、グローバルな不正をも「身近に」知り、抑制する責任を負うことになる。
 しかし、そうして「身近に」見られるようになった仮想空間は、どこまで世界をリアルに映し出しているのだろうか。生々しく身近に見ることができる野蛮な映像が映し出しているのは、果たしてその映像の野蛮のリアリティーなのか。それともそれは、我々のメディアをもってしても生々しく身近に見ることができない一瞬にして人体を跡形もなく破壊し尽くす隠蔽された野蛮の陰画なのか。
 我々の知性は、この仮想空間から我々が責任を負うべきリアリティーを正しく読み解く能力が果たしてあるのだろうか。
 不正にも知性と自由という重すぎる信託を引き受け、可能性空間をグローバルに拡張してしまった我々は、もはや世界の出来事にイノセントではいられない。我々は今、その現実を目の前に突きつけられているのである。・・・中略・・・
 イスラーム法は戦闘を二種類に区別する。ムスリム同士の戦い「反徒との戦い」と異教徒との戦い「ジハード」である。「反乱との戦い」は同じ価値観、即ちイスラーム法を共有する者同士の間での戦いである。それゆえ争いは、法解釈と事実認識の問題となるのであり、原則的に議論による完全な合意が達成可能である。
 ところが、ジハードは異教徒との戦い、つまり根本的に価値観を異とする敵との戦いである。根本的に価値観を異とする、つまり共役不能な価値観の持ち主の間の対話においては完全な合意の達成は原則的に不可能である。そこでは部分的合意か妥協が成立するか、対話が決裂して武力闘争に発展するかしかありえない。
 イスラーム法はジハードの開戦、休戦などの戦争法規を有する。グロチウス(1645年没)に800年以上先立ち、イスラームはハナフィー法学派の大法学者シャイバーニー(805年没)の『大戦時行為の書(キターブ・アル・=スィヤル・アル・=カビール)』によって戦時国際法を体系化している。
 しかし、イスラームの国際法とグロチウスらが創始した西欧の国際法には根本的な差異が存在する。それは、西欧の国際法が、根本的には西欧キリスト教文明の同じ価値観を共有する等質の国家の間のルールであったのに対し、イスラームの国際法とは根本的に価値観を異にする敵との関係を律するイスラーム教徒だけに適用されるルールであったことである。
 イスラーム法は来世での最後の審判における賞罰によってその効力が担保された神授の天啓法であるためカテゴリカリーにイスラーム教徒だけを拘束する属人法であり、異教徒には適用されない。
 イスラーム法が、戦闘において女子供、老人、病人、修道士のような非戦闘員を殺害してはならないのも、ジズヤ(人頭税)を納めることに同意した異教徒とは戦争が禁じられ永代居住庇護契約を結ばねばならないのも、慣行が成文化したわけではなく、また敵との力関係、利害打算の産物でもなく、 神からそう命じられたからであり、 ムスリムは「一方的」に順守するのである。
 西欧に生まれた国際法が、国際法の正当性/合法性(legitimacy)を承認した法的主体全員を拘束するのに対し、イスラーム国際法はイスラーム教徒のみを拘束し、異教徒はイスラーム国際法の正当性/合法性(legitimacy)の承認を求められることはなく、イスラームの家(イスラーム国家)の内部に住む庇護民はカリフと結んだ庇護契約(アクド・ズィンマ)、イスラームの家の外部の敵性国民の場合はカリフとの間に締結した休戦協定(スルフ、フドゥナ、アフド)を自分がなした約束であるが故に守ることだけを求められるのである。
 イスラームは、イスラームと他の宗教、イデオロギーが共役不能で決して一つにはなれないことを当然の前提とする。他の宗教、イデオロギーを信奉する他者は、価値観を共有しない敵である。しかし、イスラームは、 他の宗教、イデオロギーを信奉する他者が価値観を共有しない敵であると見做すが、価値観を共有しない敵とは対話も交渉も共存もできないとは決して考えない。
 そうではなく、異教徒であれ、「自分の言葉(約束)を守る」なら、対話が成立し交渉による共存が可能であると考える。そして、言葉(約束)を守らないと考えるべき証拠が示されない限り、異教徒であれ人は言葉を守るものである、との人間理解がこの法思想を支えている。それは人間を「理性的(言葉を話す=ナーティク)動物」として定義した イスラーム文明におけるギリシャ文明の受容からも説明できる。
 イスラームはイスラームを絶対的真理、異教徒を価値観を共有しない敵と見做すが、さりとて、その価値観を共有しない敵を対話の成立せず共存が不可能な人外の存在と考え悪魔化することもない。
 むしろ、イスラームは、人が人である限り、つまり「言葉を話す存在」としての言語の内的ルール、「自らの言葉を守る(言葉の意味論的、語用論的、統語論的意味に忠実に約束を履行する)」という条件さえ満たす限り、対話による共存の道が開けている、と考えるのであり、それがイスラーム国際法の考え方なのである。
 そして、対話と共存の枠組の構築に、 相手に対して「自らの言葉を守る(言葉の意味論的、語用論的、統語論的意味に忠実に約束を履行する)」という一点のみしか前提条件を求めないイスラーム国際法のこの考え方の方が、 一定の時代と場所に歴史的に拘束された特種なイデオロギーに過ぎない 「人権」、「自由」、「民主主義」などを普遍的価値であると称して他者に押し付け、その前提を共有しない敵にテロリストなどのレッテルを貼り悪魔化して対話を拒み暴力的に殲滅しようと謀る西欧の国際法の考え方よりも、文明間の共存の必要性がグローバルに視野に上ってきた今日的状況においてより求められていると著者は考える。(中田考「価値観を共有しない敵との対話は可能か」『現代思想 - 総特集 シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃 ; イスラム国とは何か』(2015-0343巻)
* 法的存在としての人間
イスラームは言語中心主義、理性中心主義であるかのように思われるかもしれません。しかし生まれつき言語中枢に障害がある者、あるいは怪我や病気や老いによって言語的思考能力を失った者は人間ではないのでしょうか。
確かにアッラーは人間の言葉の形をとった啓典において顕現し自らを人間に示されます。しかし、クルアーンにおいて言葉を持つ存在は人間だけではありません。動物や植物などの生物は言うに及ばず、無生物も含め、万象はそれぞれ独自の言葉を有しており、それぞれの言葉で神を称えています。ただ私たちがその言葉を理解できないだけなのです。
「諸天と地とその中にある者は彼(アッラー)を称えている。あらゆるものは彼に対する賛美で彼を称えているのである。しかしお前たちは彼らの称賛を理解しない。・・・」(17章44節)
またクルアーン第27「蟻」章では、スライマーン(ソロモン王)は蟻や鳥の言葉を理解します。ちなみに動物行動学の祖コンラート・ローレンスの著『ソロモンの指輪』の題名はこのヘブライ語(旧約)聖書のこのソロモン王の逸話にちなんでいます。
言葉を有しているのは人間以外のモノだけではありません。クルアーンによると最後の審判の日には、人間の四肢がその行いを証言することになります。
「彼らの舌、彼らの手、彼らの足が彼らに対して彼らが行ったことについて証言する日」(24章24節)
つまり人間とは単に言語中枢だけではなく、全身体において神を称える存在なのです。ですから、たとえ言葉がわからない人であってもまた、細胞から四肢に至るさまざまなレベルでの言語によって神を称えているのです。ただ私たちにはそれがわからないだけです。
フィクフ(イスラーム法学)のレベルにおいては、精神障碍者は、サフィーフ(愚者)とマジュヌーン(狂人)に分類されます。サフィーフはフィクフの専門用語としては行為無能力者、禁治産者であり、フィクフはサフィーフには補佐する後見人を指定すると同時に民事上の免責措置を規定しています。いっぽうマジュヌーンは理性を欠く人間で責任無能力者であり、あらゆる罪は免責され、現世でも来世でもいかなる懲罰を被ることもありません。
法学と神学の交差する領域で注目すべきは、「マジュズーブ(憑かれた者)」という概念です。「マジュズーブ」とは原義は「引き寄せられたもの」の意味で、神に引き寄せられ魅了された者を意味し、忘我の状態で「我こそは神なり」、「我を称えよ」などの、表面的には篤信の言葉を吐く者のことを指します。マジュヌーン(狂人)の原義が「ジン(妖霊)に憑依されたもの」であるのに対して、同じく受動分詞であるマジュズーブは何に憑かれたのかが特定されていません。
この「マジュズーブ」について、既述のシャーフィイー派大法学者ナワウィーの著『マカースィド』は「『マジュズーブ(憑かれた者)』の様な、理性を失った、あるいは理性が乱された者については、シャリーアの清い規定を守るために、彼等に生じたアッラーの命に反するように見えることは拒否しなくてはならないが、我々は彼等を放任し、彼等のことはアッラーに委ねるのである。」と述べています。
マジュズーブが忘我の状態で、理性のレベルでは涜神、背教ともとれる言葉を吐こうとも、それがなんらかの理由があって神から直接にあるいは天使を通して間接に神から授けられたイルハーム(霊感)の言葉である可能性を考慮し、その言葉を真に受けて彼を神人として扱うことも、逆に涜神の背教者として処刑することもなく、神に委ねて判断停止することが、スンナ派の定説となっているのです。
つまり、イスラームの言語重視には理性重視の側面があるのは確かですが、だからといって単純にイスラームは言語操作能力に長けた人間を聖別して他の被造物や理性において劣った人間を貶めている。といことにはならないのです。なぜならばイスラームは一方で、人間が言語を持つのと同様に森羅万象はそれぞれの言語を持っており、それにより神を称えており、それには言葉を話すことができない人間の四肢も含まれているとみなしており、また他方では人間の言語についても、マジュズーブ(憑かれた者)のように人間の通常の理性を超えた次元のコミュニケーションの手段になることを認めており、人間の理性を超えた言葉に対しては謙虚に頭を下げ判断を保留することをよしとしているからです。
イスラームが理性的存在としての人間の優位性を高らかに謳歌しているのではないことは、クルアーンの以下の不思議な節からも知ることができます。
「我らは信託を諸天と地に提示したが、それらはそれを恐れてそれを引き受けることを拒んだ。しかし人間はそれを引き受けた。まことに彼は甚だしく無知で不正であった。」(33章72節)
この節の「信託」は、自分の行動を自分で選びその結果に責任を負う自由意思による選択の自由を指す、と言われています。つまり、イスラームの世界観においては、人間は言語と理性を有することによって他の被造物に優越する特別な存在になったのではなく、選択の自由を持ちその結果に責任を負うことを選んだことで人間は他の被造物と本質的に異なる存在となったのです。そして選択の自由を引き受けたことで、人間は悪魔と並んで悪を犯す存在となったのです。
ここで選択の自由と責任を引き受けたことにおいて人間が「甚だしく無知で不正であった」と言われていることは極めて重要です。
「それから(アッラーは)煙霧であった天にのぼり、それと地に対して、自発的に、あるいは強制されて、我の許に来たれ、と言った。すると両者は、自発的に参上いたします、と言った。」(41章11節)人間は自ら善を行いうるとの愚かな思い上がりにより、善のみを行い神の賛美が存在様態であり即自的に善なる被造物であることをやめ、悪を犯す存在になり下がってしまいました。それゆえ、「人間は甚だしく無知で不正であった」と言われているのです。天使と同じく被造物はそれぞれの言語で神を称えるために存在しており、存在様態そのものが善であり、悪を犯すことはありません。逆に悪魔は悪の化身であり存在様態そのものが悪です。人間だけが、自らの意志と責任において善を行うか悪を行うかを選択する、という特別な存在様態を有するのです。ですから人間が単に善を行うことには何の意味もありません。森羅万象の全ては万物の善なる行いなのであり、善であること自体にはなんら特別な意味などないからです。重要なのは「善を行うこと」それ自体ではなく、自らの「自由な選択として」善を行うことです。なぜならそれだけが、人間だけの特別に可能なことだからです。その意味で、自由に善を行う、神の命に自らの自由な選択として従うことだけに人間の栄光は存ずるのです。
学問としてのフィクフは行為を義務、推奨、合法、忌避、禁止に行為を類型化しますが、実はムスリムにとっては、行為が形式的に合法か不法かは問題ではないのです。それが自らの意志で神だけのために選び取られたことだけが、つまりイスラームの代弁者を騙る者への盲従からではなく、世間の目を気にしてでもなく、国家の罰への恐怖からでもなく、ただ神に対する敬慕と畏怖の念だけから神が嘉される善行を自ら進んで行ったことだけが問題になるのです。(中田考『イスラーム法』作品社)