2017年8月29日火曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 1章 1節 2項:潜在的定項:経済、技術、軍事力

2.潜在的定項:経済、技術、軍事力
 国家の潜在的定項とは、国家の潜在力を短期的、中期的に利用する能力の諸要素である。経済的資源、技術的下部構造、軍備が、諸国間の勢力均衡における可変的要素である。これらの可変的諸要素が外交政策に有効に調整された形で組み込まれれば、国際的勢力均衡の中でその国の地位を高めることができる。逆に、これらの要素が適切な計画で十分機能的に再整備されていない国々の国際的な関係を反映したパワーにおいては、深刻な弱さが現れ始める。
 ポスト冷戦期の国際関係において後退した最も重要な領域は、地政学と国際経済政治学であった。この枠組においては対外経済関係を方向づける経済/政治を優先することは一般戦略の重要な状要素になった。これは、グローバルな経済/政治的競争者としての大国(パワー)にいたるまで、この競争における能動的及び、受動的な地域大国の双方にとって正しい。第二次世界大戦直後に独立を勝ち取り、冷戦の間に一般的に侵略的植民政策から独立した国際経済の領域の構築を目指したこれらの地域大国は、80年代に始まりポスト冷戦期に徐々に加速した輸出依存型発展モデルによって、グローバル経済における比重を増す政策を採用した。この変革過程は、「経済/政治」を、独立性の強化と経済利益を外交戦略の主要素にした。
 国内経済と貿易のバランスの問題は、対外政策形成とその政策の実施プロセスの古典的外交範囲を超えている。第二次世界大戦後、軍事/外交分野を制限された日本の経済が戦略的パラメーターとして対外政策の中核となったことが、その発展の分かりやすい例の一つである。ド・ゴールがフランス通貨フランの力を外交政策形成の主要素としたことは、財政分野における経済/政治大国(パワー)間での競争の観察による長期的な戦略上の競争の中での経済/政治の常なる重要性を証明している。今日の国際経済/政治の均衡に影響を大きな及ぼすとみられるユーロ/ドルの金融上の競合により、当然とはいえEUとアメリカの戦略関係がぎくしゃくすることになったのは、この状況の最近の分かりやすい例である。
 ポスト冷戦期になって、国家のパワーのパラメーターの布置の中で経済力というものが重要な本質的変化を被った。通信技術の飛躍的進化に伴って非常に加速化した地球環境の相互依存関係は、国家戦略における非国家主体の重要性を高めた。今日では多国籍企業の間の関係は国家規模の関係を超えた影響を及ぼしうる。地域統合の実現によってより複雑になったこの状況は、侵略的植民地化政策をまさしく実行している国民経済の独立の概念を根底から揺るがしている。
 今日の公式な主体と非公式な主体を合わせた国民の全体的な活動は、単に国家の支配に服するだけの国民の独立を妨げるとみなされる。多国籍企業、市民社会組織、地域的、国際的組織のような、国民-国家の構造外の主体の活動が増加することで、地球規模のマクロ戦略と地方規模でのミクロ戦略を調整しなければならないという問題が生みだされる。このように複数の主体が錯綜するダイナミックな危機的状況において、国家の固有のパワーには、この調整問題を超えうる可能性が備わっている。
 この枠組において、科学技術の生産性と収益が国家のもパワーのパラメーターの可変的要素の筆頭となった。国の防衛産業の下部構造を例にとっても、経済発展のレベルにおける固定資源を正当に評価するためには、その領域の優れたマンパワーという要素を考慮にいれなくてはならない。アメリカのヘゲモニーの実現には科学技術力の進歩が大きく与っている。最近の経済サミットでいつも議題のアジェンダに上っている著作権と職業教育は、もともとは(経済)発展を可能にする(マン)パワーの獲得を望んだ副産物である。日本が経済政治大国になった主たる原因は応用技術の分野で成し遂げた進歩を商業市場に乗せたからである。それゆえ、科学技術の優位をめぐって繰り広げられる競争は、ポスト冷戦期の幕の後ろの主要な電圧の領域の一つを成していた。この原因の技術の戦争の結果の熱い戦争の結果よりずっと決定的である。熱い戦争に勝ったように見えても、長期的には技術戦争において勝った者に屈することにならざるをえない。それゆえ、世界システム中心を占める諸大国(パワー)にとっての最も重要な目標は、技術的優位を手放さないことなのである。これは大国間の組織的な闘争をも無慈悲な競合に変える。熱い戦争で一時的に同盟し連合した大国は、技術戦争では相互に対立し、(軍事的に)最も密に同盟していた期間でさえ、対立の徴候を帯びていた。軍事同盟は一時的だが、技術的優越は永続的なのである。
 国際関係における覇権の維持を望むアメリカはこの覇権の基盤である技術的優位とその支配力を失わないために、国際法秩序形成を求める一方、中国を筆頭に、日本、EUなどの競争相手である勢力(パワー)と過酷に競合している。日本とは、マルティメディアと通信技術で、中国とは著作権と国際特許条約、フランスとは産業スパイ問題で対立するアメリカの目標は、将来にわたってテクノロジーの開発と支配権を手にし続けることである。
 1990年代半ば頃、一方で日本にその市場を自国の資本に開放せよとの圧力を増したアメリカは、他方で将来においても情報技術の先進性を維持するために本格的に開発に注力し始めた。1995年初頭、副大統領AI ゴアは、アメリカ政府とアメリカ企業によるグローバル経済の支配の継続を目指し、国民の知識と情報の下部構造を保護するために、協同組合への呼びかけに始まり、この開発の基盤、特に、情報スーパーハイウエー、コンピューター情報網とマルティメディアの分野での独占を目標として追求した。この分野で立ち遅れた日本に対して、大胆な2010年を目標とし、250万の職を設け年間12億3千万ドルの予算をつけたプロジェクトの実施をせまった。
 アメリカと中国の間での近年の最も重大な懸案となった著作権と国際特許条約の問題も、枝葉末節の国際法上の細かい数々の係争よりもはるかに深い重要性を帯びている。問題はただいくつかのアメリカ企業の国際市場での権利を守ることではない。過去25年の間に自分たちが生み出したテクノロジーが日本人たちにより器用に市場価値をもつ商品になったのがアメリカ自体の経済市場でさえ有罪宣告を受けたことは、アメリカ政府の中国に対する明白な警告であった。国際経済戦争での問題は、単なる技術の発展だけではない。その技術は同時に使用価値が高い市場での資材にもなる。日本の(経済発展の)奇蹟はこの技術的熟練の優位性を高め、国際市場で多くの分野におけるアメリカ企業の影響を殺いだ。
 アメリカが中国に対して圧力をかけるもう一つの理由は、東アジアで特に頻出している新しい技術発展を支配下に置くためである。国際著作権と国際特許条約において影響力の中心であることは、アメリカは外国において新技術の開発に国際性を獲得することで、独自性と優位性を実現することができることが重要である。近年において発明の領域での東アジアの役割が徐々に増していることと、中核的テクノロジーの漏洩のリスクは相関している。今日ではアメリカ国内のテクノロジーの発明においては、アメリカ出身でない研究者たちの割合が増えている。大西洋を枢軸とする世界システムによって作られた国際法は、技術漏洩を抑えるための最も重要な手段としての役割を果たしている。このためアメリカは、中国でこの国際特許法が承認されることが人権侵害よりはるかに重要性であるとみなし、天安門事件で適用したより更に厳しい制裁を課すことを控えた。
 また1995年初頭にエスカレートしたアメリカとフランスの間の産業技術スパイ事件も別の分野での主導権争いを反映していた。国際政治経済における主導権をめぐる最重要な戦略的領域の一つである航空機産業のボーイング社とエアバス社間の競争はアメリカとヨーロッパの競争にかわった。その後、完全な経済戦争に変わったこの競争は、ヨーロッパがアメリカに対して示した最も重要な勝利の一つとなった。通信技術においてアメリカと日本に遅れを取ったヨーロッパであったが、エアバス社によって航空産業における重要な進歩をなしとげた。フランス在住のアメリカの外交官も名を連ねたこの産業技術スパイ事件は大国間にも暗闘が常に存在していることを示す重要な証明である。
 次第に激しくなるこの経済戦争は、将来における経済的、政治的、軍事的な争いの強度を決定する。アメリカが多方面で続けているこの戦争は同時に21世紀におけるアメリカの覇権のあり方をも規定することになる。
 これらの要素の全てをリアルなパワーに返還する軍事力は、国家の平時における潜在力と、戦時においてリアルに現れるパワーの基本的な指標の一つである。軍事力は、変わりつつある危機的状況に対応する形で自己革新のパラメーターとして経済的、外交的、政治的決定から影響を受けているが、この決定に方向を与え施行する形を決めることもできる。国家の安全保障のパラメーターは経済資源の使用と移転の形に影響を与え、外交的、政治的関係の経緯もかなりな程度に決定する。
 新技術の発達と危機的状況変化に(国家の)軍事部門が対応できないと、長期的には政策を内向きにさせ資源が浪費されることになる危険があり、適切な場と時においてなされた戦略的決定による自己革新と社会的紐帯を伴う軍事力の使用は、国家が国際的なパワーのヒエラルキーの中で高い地位に昇りつめることができ、政治/経済の様々な分野で影響領域を及ぼすことができる。たとえばビスマルクの鉄拳政治のパワーの源泉であった軍事力は、同時に政治におけるドイツ統一、経済におけるドイツの発展の結果であり、その反映でもあった。同様に、ピョートル大帝が軍事部門で行った改革が、平原を国境としていたモスクワ大公国から変貌しーラシア全体で戦略的主導権を握ることを目指すようになったロシア帝国が領土を拡大していくにあたって、その政治、経済、外交の諸々の要素をリアルパワーの土台へと変換させたのである。今日のアメリカの軍事部門とアメリカの経済、外交の間には直接的な関係があり、その関係は地球の主要な大陸から遠く離れたアメリカが国際関係を決定的な影響を及ぼす覇権を有する超大国(パワー)にしている主たる要因の一つである。

2017年8月14日月曜日

『戦略的縦深』第Ⅰ部:概念的、歴史的枠組み 1章 1節:パワーのパラメーターと戦略計画  1項:パワーの等式と諸要素

第1章:パワーのパラメーターと戦略計画
 ツキディデスからイブン・ハルドゥーン、クラウゼビッツからモーゲンソーにいたるまで、政治の歴史の流れと、その流れの中での政治の行為者の状態をテーマとして研究し、思想家に焦点を当てることは、基本的問題のパワーの定義、表示、軸の変化と関係している。
 古代から今日までの政治哲学における「権力と価値の関係」を理解、解説し、政治の現実に関するこの分析は、パワーの軸の変化を理解し、この変化のダイマミズムを定義することを目指す。この枠組でソクラテスとティラスィマコスの間での正義と権力の議論は、政治哲学の最も基本的な議論の一つを創始したのであり、ティラスィマコスのペロポネソス戦争に関する分析は、政治を実現する上での権力の中心的重要性の解明に向かった。同様にファーラービーは、『有徳都市』の研究において、理想的な政治の別の次元を提示し、イブン・ハルドゥーンは「アサビーヤ(血族意識)」概念によって政治権力中枢の移行を起こす動的諸要素の確定に努めた。
 古典文化がパワーと価値の間に一種の調和をもたらそうとしたのに対して、マキャベリーに始まって次第に受け入れられるようになった近代思想は、リアルポリティクスと価値の次元を切り離す新しいアプローチを生み出した。古典文化が交差する領域での、オスマンの平和を現出させたオスマン朝の重要な思想家たちからクナルザーデの『至高道徳』と、西洋の封建制度から国民国家の形成への移行のシンボルとなったマキャベリーの『王子』の間の考え方の違いはこの変化を明らかに示している。
 30年戦争の後のウエストファリア条約によってできあがったウエストファリア体制が、国民国家の成立と、その成立を支えるパワーを様々に定義する法的枠組の獲得を可能にしたのである。フランス革命の後の19世紀に発展した大きな理論的枠組と哲学的下部構造に応じた国民国家形成は、今度はその世紀に起きた統合運動、植民地獲得競争によって、最も基礎的なリアルポリティクスのパワーの単位、プレーヤーの性格を帯びるようになった。
 古典的帝政を終わらせた第一次世界大戦の後のヨーロッパで、そして植民地を支配する帝国を終わらせた第二次世界大戦の後のヨーロッパの外の世界で、様々な規模の多数の国民国家が出現したことによって、その単位(である国民国家)のパワーの諸要素の分析の問題が、国際関係論の主要問題になった。パワーの様々な定義を利益と主権の概念と統合するリアリスト学派は国際秩序が国民国家の間のリアルなパワーのバランスの上に形成されると主張するのに対して、国際関係に権利と価値の次元を持ち込む理想主義学派は国民国家のこの権利の名宛人とみなす。古典的リアリスト学派の最も重要な代表であるモルゲンソーのパワーの定義は、近代における国民国家という単位の最も内容ある分析の一つを成している。
 20世紀の第三四半世紀に始まり最後の四半世紀に加速した経済政治的要素と共に増加する相互依存性は、国家の権力の様々な定義とますます対立するようになっている。国民国家を正当化する近代の諸イデオロギーの影響の喪失と、伝統文化の価値と新しい諸要素の国際的な広まりにより、諸国家の国際的情勢にも影響する新たな定義のプロセスが始まった。
 このようなグローバルな経済政治的発展が、様々な国家の間での主権の相互関係に生じた影響のグレーゾーンを広めるのに対し、リアルポリティクスの領域にも影響する歴史と文化のパラメーターは、諸国の対内的なパワーと、対外的なパワーの形成に直接に影響する。この状況下では、以前の単純な概念で記述されたパワーのパラメーターでは不十分になり、多数のパラメーターの影響を考慮に入れた概念の提示に道が開かれた。政治経済的、地政学的、地理文化的、地理経済的、地理戦略的などの概念が、国家のパワーの定義において、多用され始めることは、ポスト冷戦期のダイナミックな諸条件がもたらした独自の危機的状況によって、より明晰性をますことになった。
 それゆえ、国家のパワーのパラメーターは、無関係なばらばらの要素の寄せ集めではなく、各個が独自の機能で相互に影響するダイナミックな諸要素の有機体とみなされなくてはならない。このダイナミックな諸要素は人間の諸要素につきものの乗数とまとめて論じられなくてはならない。

 Ⅰ.パワーの等式と諸要素
 
 国際関係の中でのある国家の固有の存在感とパワーに関し、こうした関心に対応する可変的な定義を発展させることができる。定数(SV)、歴史(T)、地理(G)、人口(N)、文化(K)として、変数(PV)は、経済力(Ek)、技術力(Tk)、軍事力(Ak)として定義され、一国の力をこのような形で示すことができる。
G=(SV+PV)×(SZ×SP×SI)
この定式で、SZは戦略思考、SPは戦略的計画、SIは政治的意思を意味する。
SV=T+C+N+K & PV=Ek+Tk+Ak となるので、この式を展開すると
G={(T+C+N;K)+Ek+Tk+Ak)}×(SZ×SP×SI)
となる。

 1.定数:地理、歴史、人間、文化
 この定式の中の要素を一つずつ論じていこう。定数とは、国家のパラメーターの中で短期的、中期的には、自己の意思で変えることのできない要素である。しかし既述の諸要素が国家のパワー・バランスの中で重みを変えないとは考えられない。国際的な危機的状況が流動的であることで、国家のパワー・バランスの中でこれらの定数の重みの変化に道が開かれるのである。
 この変化を正しい時代認識で再評価することができる国家は、これらの定数はダイナミックな外交を行う準備をなしたことである。例えば、(1939年に)合併されたハタイのトルコの定常のデータとしての地理と、国外での最近75年の変化としての地理は、冷戦期のその戦略的重みと冷戦の最終段階での戦略的重みの重要な違いを示している。
 このような理論的枠組を作り上げるには、いくつかの基本的地政学概念を定義し、それに対応する意味の枠組を作る必要がある。国民国家の成立という現象は、それが国際システムの主要素になったことで、政治的共同体としての「民族(ulus)」、この共同体が主権者として組織化された国家と、その政治的主権が通用する領域である「国家(ülke)」概念を内包する「内(iç)」という全体性と従属性を共に含む概念を生み出した。地理的空間が、主権の客体のとしての国家の間で分割されること、そしてその分割が国際法的秩序となることが、近代的な国境の概念の基礎となる。この観点による「国境(sınır)」という概念は、政治的共同体の活動領域の観点からは、一方を対内主権として定義されるポジティブな意味、他方を対外主権の境界を定義するネガティブな意味の、二つの意味領域を構成する。
 国際的かつ地域的な地政学的紛争が起きる場では、この「国境」の定義が想定する主権の領域と、物理、経済、文化地理の織りなす内的-関係の領域が異なっている。この(国際法的)枠組における「国境」と、地政学における「ベルト(kuşak)」、「フロンティア(hat)」の間の違いは、極めて重要である。物理、経済地理の観点から互いに補完しあう領域を構成する地政学的「ベルト」と、それに対立する様々な定義による国境が、互いに異なる単位になることは、この「ベルト」にそって、いつでも主権(国家)が衝突する可能性を亢進させる。この植民地主義帝国の崩壊と共に現れた国民国家の間の衝突の多くは、(国際)法的国境と地政学上の「断層」が一致しないことが重要な一因となっている。
 文化歴史的伝統によって支えられた一つの共同体の「前線」は、共同体の国際的イメージを形成する上で重要な役割を果たす。たとえば、ドイツというアイデンティティーと神聖ローマ/ゲルマン帝国の歴史に影響されたドイツの戦略が前提とした地政学上の前線と現実的/法的国境の間のズレが、過去においては、二つの世界大戦の原因になったが、第二次世界大戦後には、その同じズレが平和的方向でEUの結成の動因の一つとなった。アメリカがスーパーパワー(超大国)として歴史の舞台に登場することになった主要因は、19世紀にその「前線(フロンティア)」のイメージが、大西洋から太平洋の彼方へと一直線に伸びる境界から、法的/政治的主権の領域に変わったためである。
 この英語の概念の意味の混乱は示唆的である。「国境」の曖昧な「境界(boundary)/領土(territory)」概念は1、その内容からも理解されるように、国家を限界づけるという意味を帯びているなら、我々の地政学的前線として我々が定義したように、以前に簡潔に「線」の意味で我々が使った「フロンティア」概念を、共同体が目指す前方の領域として表現されるようになった。「戦略的ベルト」という概念は、囲い込み、主権の変化に従って伸縮可能である「ベルト」のために用いられる。2この枠組で比較するなら、アメリカがアメリカ大陸中の広大なフロンティアというビジョンを抱けたことは、その国境の内部だけで大陸を東西と南北に切断する地政学的ベルトを拡張することができたのに対して3、ヨーロッパの内部の様々な民族の地政学的思考が形成されるにあたって想定されたフロンティア認識と、その実現を目指す前進が生んだ現実の国境の間の緊張が大陸内の多くの戦争の源泉となった。(国際)法的国境(boundary)と地政学的フロンティアの間のこのズレが今日のユーラシアにおける地政学のダイナミズムの主要因をなす。
 対内主権の領域を定義すると同時に対外主権の交渉において(国際)法上の境界にも用いられる「国境」と、特に、新しい領域に開かれ、パワーの中核を形成し始める共同体の戦略的拡大の範囲の認識を反映する地理文化/地政学フロンティアの間にズレがあることが、複数の中核領域(コア・エリア)からの運動によって、戦略的動員を望む諸大国(パワー)を対立に巻き込む地政学的「衝突地帯(shatterbelt)」を生み出す。それゆえ、地政学的ベルトが分断した諸領域と(国際)法的領域の間のズレが凝縮した地域は、多方向の衝突の可能性がある地域である。
 新しい領域に開かれたパワーは、一般的に、自己を制限する国境の概念を超える前線と地平を作ろうとする。たとえばターリク・ブン・ズィヤード(ウマイヤ朝武将、720年没)がイスパニヤ(スペイン)に辿り着いた後に、船団を焼き払ったことは、彼が率いる軍団によって北アフリカからジブラルタルにかけての国境を再設定しようとの試みであった。それ以後は、ジブラルタルという障壁を国境と思い込んでいた人々の国境の意識の前線はピレネー山脈にまで拡張された。太平洋に向けて(フロンティアの)前線を伸ばし続けたアメリカの建国と拡大も、同様である。こうした発展における戦略的拡張が、そのフロンティアにおいて激しい抵抗を被らなかった諸大国(パワー)は、中核地域と新たな(開拓地)ベルトを、完全に統合する。
 一部の国々では中核的諸領域は、地政学的/文化地理的フロンティアと(国際)法的国境の間の自然な調和と外の世界との自然な分水嶺が存在する。これらの国々の最も典型的な例はイギリスと日本のような島国である。これらの国が島であること自体が、中核地域を特定することを容易にしており、近隣の大陸の戦略的均衡を図る(外交)政策が、この中核地域と近隣の大陸の関係の安定をもたらす。近くの大陸で、一つのパワー(強国)が抜きんでると、島国は戦略的に外向きな膨張期には、中核地域から大陸との関係強化、進出を選び、内向きな収縮期には、一種の中核的地域に引き籠ることになる。イギリスの百年戦争に始まる三十年戦争、(スペイン)継承戦争、ナポレオン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦でのヨーロッパ大陸に向けて進出する戦略において、この当然の(ヨーロッパ諸国)分裂政策は国境に重要な影響を与えた。島‐大陸関係におけるアメリカの対ヨーロッパ外交政策も、より大きな規模での同様な性格の問題である。
 国によっては、中核地域と地政学的/文化地理的境界の定義と法的国境を明確に区別することができない。その最も典型的な例はドイツである。ドイツは歴史的にブランデンブルクとプロシャ地方が枢軸であって常に伸縮する中核領域であるとの自己認識を有しているが、この自意識とそれがドイツ系諸民族共同体が存在する諸地域に手を伸ばすことで変わりうる地政学的/文化地理的境界との統合との間で、つまり(国際)法的国境とこの戦略的自己意識の間の解き難い対立を過去2世紀のドイツは抱えてきた。ドイツがそうであり、この国の戦略家たちが頻繁に「Mittellage(中間)」の語で呼んだこの状態は、ヨーロッパ内の諸々の紛争の焦点となった。

 地政学的文化地理的前線と(国際)法的国境とが一致している地域と期間においては、一般的に安定した関係が生まれる。例えば、何世紀も続いたオスマン帝国とイランの多くの戦争の後の1639年のカスレ・シーリーン城条約によって定められたオスマン帝国とイランの国境が変更なく今日まで通用していることは、地政学的フロンティアが(国際)法的国境になった当然の結果である。その逆に、国境と前線(フロンティア)が食い違い、国際(法)的国境と地政学的フロンティアの間にズレが生まれた状態においては、二つかそれ以上の政治的アクターが勢力圏をめぐって争う紛争地帯が生まれる。こうした状況の最も分かりやすい例はトルコ/イラク国境をめぐる近年の問題である。この問題の背景には、両国間の国際法的国境とその地域の地政学的フロンティア文化地理的布置が一致していないことがある。こうしたフロンティアが歴史を通じて不変の国境とは決してみなされないことも、地政学的及び文化地理的基礎がない国境が危機の種であることの重要な証拠である。インドとパキスタンの間のカシミールに関する長引く紛争も、この矛盾が生み出した衝突のもう一つの分かりやすい例の一つである。
 本書でしばしば言及されるため定義しておく必要があるもう一つの重要な概念が「圏域(havza)」である。複数の地政学的、文化地理的、文化経済的フロンティアが交差し、内的に統合された地域を我々は「圏域」と定義する。ドイツの地政学的圏域、ロシアの草原圏域のような定義は、これらの国々の地理が自然に帰結する広範な戦略的作戦領域を反映している。
 我々は、この枠組みで、大陸レベル、地域レベルでの「相互影響地域」を、「大国(büyük güç)」の圏域認識が交差するところで使用する。たとえば、アジアともヨーロッパとも異なる東欧の草原は、近代外交史の中で、一般的にはスラブ人とゲルマン人の、特殊的にはロシアとドイツの圏域意識の相互影響領域をなしてきた。中東地域は、概念的にも、また現実に衝突が頻発する地域としても、アジア、アフリカ、ヨーロッパ大陸を統一数る多くの圏域が交差する一つの相互に影響するフロンティアを構成している。
 「中核領域」、「国境」、「大陸」、「圏域」、「相互影響地域」のような概念を、一纏まりとして説明することは、それぞれの国の戦略と対外政策の形成過程の理解の観点からも、極めて重要である。リアルポリティクスの観点からは、「圏域」概念とは、戦略作戦領域であり、「相互影響地域」とは、その作戦領域が多方面にわたる戦略的戦いの場に変わる地理的領域であり、フロンティアとベルトの定義は、戦略目標を戦術的対象にし実行する領域であり、(国際)法的国境とは、防衛と攻撃の戦略的ポジションに合法性を与える分割線であり、中核領域とは、戦略的実存の基底の輪郭を定める。この枠組で為される定義は、静的な分割線ではなく、国際的、地域的な危機的状況に応じて柔軟に定義する必要がある地理的空間把握を反映している。
 この地政学的、文化地理的、経済地理的定義は、様々な共同体の時間と歴史の認識とも連関している。共同体がいかなる文明に属するか、文化的アイデンティティー、組織や外向けの公式の形態を構成する歴史の過程も定数である。第三部で詳述するように、トルコの定数としてのオスマン帝国の歴史的遺産は、冷戦期における意義のポスト冷戦期における重要な変化をもたらし、バルカン諸国とコーカサス諸国でトルコが更に活発な外交政策を取ることに道を開いた。この10年のトルコがバルカン諸国とコーカサス諸国に介入した多くの域内問題は根本的にはこの歴史的遺産の影響を受けている。
 これらの地域におけるオスマン帝国の残存諸要素は、新たに生じた地政学的空白が生みだした風圧によって、歴史的に安全保障領域とみなされてきたバルカン諸国/アナトリアを枢軸とするオスマン帝国の中核地域(ハートランド)に向かうことになった。20世紀の初めにオスマン帝国の歴史的遺産から新しい定義によって国民国家として出現したトルコ共和国は、20世紀の終わりには、その遺産の文化的及び地政学的責任を再び引き受けなければならなくなった。トルコの外交政策に重大な責任と共に新しい地平と可能性を付与したこれらの任務は、トルコの現前の戦略思考とアイデンティティー再形成における最も決定的な要素となった。
 トルコの若年層とダイナミックな人口構成もまた重要なパワーのパラメーターであり、特に、EUとの関係において常に考慮にいれるべき要素となっている。冷戦の間、ロシアが(不凍港)がある温かい海への南下に対する最重要な軍事的/人口統計学的障害とみなされてきたこの人工的要素は、冷戦後の発展におけるヨーロッパ内の人間の動きの最重要な経済的/人口統計学的要素の一つとみなされ始めている。 ヨーロッパ統合プロセスの自然な延長である自由な移動の権利についての、トルコ系(移)民の移動の場であるヨーロッパ諸国、特にドイツの態度は、人口という要素がパワーのパラメーターの一つであることの帰結である。
 特定の人的要素(人間が)が特定の場所(地理)、特定の時間(歴史)の中で形成したアイデンティティーによって生みだした価値の世界に依拠する心理的、社会的、政治的、経済的建物の石材から成る「文化」というものは、国家の固定した与件をその潜在的なパワーの変項に換える最も重要な要素である。この要素は、一方では、固定項が運動のプロセスの中で存続することを可能にし、他方では、潜在的な変項の主要な原動力の役割を演ずる。
 この共通の時間―空間理解に由来する強いアイデンティティーと帰属意識を有し、そしてその帰属意識によって心理的、社会的、経済的、政治的、経済的諸要素を変動させる文化的構造を保有している共同体は、常なる革新の戦略的展開を実現することが可能である。これに対してアイデンティティー・クライシスに陥り、そしてその危機(アイデンティティー・クライシス)を文化的危機状況に転化させる共同体は、心理、社会、政治、経済の変動の波に捕らわれると戦略上の難局に陥ることになる。