2010年12月28日火曜日

アフガニスタンに正義を求めるパシュトゥーン人の緊急の叫び  

アフガニスタンに正義を求める緊急の叫び
 
 
私、Rahmat Rabi Zirakyar博士は、2010年12月10日に(アフガニスタンに住むパシュトゥーン人の母語で書かれた)以下の記述を受け取った。この手紙に現れた彼の悲痛な思いから察して、書き手は明らかにアフガニスタンのパシュトゥーン人議員である。彼の身の安全への懸念から、その名前を明らかにすることは私にはできない。Rahmat Rabi Zirakyar博士、2010年12月13日、アメリカにて。
 
 

尊敬を込めて。アフガン人の同胞たちのためにも貴方が長寿を保たれることを祈ります。
 
選挙管理委員会の長である(Fazil Ahmad)Manawiは、Rabani( 元大統領)やFahim(副大統領)、Abdullah(元外相、前大統領候補)、そしてQanooni(副大統領)が企てていたことを行いました。そして、Manawiは彼らの前任者であるAhmad Shah Massoud(2001年に爆殺されたラバニー政権の国防相、副大統領)を凌いでいます。彼らは国際的なレベルでイランからの援助を享受しています。選挙が行われる以前、彼らは内務省をどうにか支配しているに過ぎず、パシュトゥーン人とペルシア語を話すアフガン人とが共に暮らしている地域の治安状況を悪化させました。Manawiは、Besmellahと共にそれらの州への視察を行い、彼の計画を練り直しました。そして彼らは共に、次の三つのことを行いました。
 
第一に、彼らは彼らは下院(The House of Representatives)におけるパシュトゥーン人の数を減らす計画を考え出しました。
第二に、彼らはアフガン社会民主党(Afghan Mellat)とイスラーム党(ヘクマティアルのヒズビー・イスラーミー)のメンバーの数を減らしました。
第三に、彼らは筋金入りのSetamyたち(ペルシア語を話すアンチ・パシュトゥーン人的集団ーーいつもイランのみならず、かつてのソ連、現在のロシアなどから援助を受けています)のための下地を準備しました。
全ての脅迫と危険にもかかわらず、かなりの数のパシュトゥーン人が勇気を持って、彼らの候補者に投票しました。しかし恥知らずにも、クンドゥズ州、ヘラート州、バルフ州、ガズニー州、そしてその他の諸州において、それらのパシュトゥーン人候補者への投票は法的に無効なものとされました。
 
最終的に、馬鹿げた理由によって、当選した僅かな数のパシュトゥーン人候補者も落選を言い渡されました。Manawiと彼の主人たちは、アフガニスタンの政治システムと国家機構を変えることを望んでいます。Latin PedramやHafiz Mansurのような人々が議会へと送り込まれています。彼らは連邦制度を望んでいるのです。議会の三分の二の議席を獲得しようと試みることによって、彼らはーーもし大統領の反対がない場合にはーー国家機構を変化させ、アフガニスタンに連邦制度を築こうとするでしょう。議会の三分の二という多数の議席によって、彼らは“melli sarod” (国家を賛美する歌)やペルシア語の国家の専門用語を導入しようとするでしょう。2010年12月12日に、Manawiは、この選挙のやり直しを行わないことを公に主張しました。彼は、選挙をやり直した場合、その結果が国内の新たな暴動を招くだろうこと、そしてその責任はそのような試みを行った人間の肩にかかってくるということで、脅迫しているのです。彼らが背後から協力な支援を受けていることは明らかです。
 
今日、この問題の解決策は次を置いてありません。ガズニー、クンドゥズ、カブール、バルフ、その他の疑わしい諸州のいくつかの場所における選挙結果を無効とし、そして再び選挙をやり直す下準備が整うまでは、以前の議会のメンバーが続投するほうがおそらくよいだろうということです。もしパシュトゥーン人が無視され、選挙において公平な扱いを受けられないとすれば、国は恐るべき事態に直面することになるでしょう。これは国際社会による試みを失敗させ、そしてアフガニスタンに更なる大惨事をもたらしかねない深刻な問題なのです。
 
これは抑圧されたパシュトゥーン人の声です。この声が世界中のメディアによって伝えられ、そして世界の人々がそれに耳を傾けられることを望みます。
 
アフガニスタンの統一と発展を祈って。
http://www.sabawoon.com/articles/index.php?page=Pashtoon_Cry

 

2010年12月24日金曜日

パキスタン洪水被災者 および アフガニスタン難民の支援のお願い!

ジャパン・イスラミック・トラスト(宗教法人・日本イスラーム文化センター)
マスジド(モスク)大塚 から
パキスタン洪水被災者 および アフガニスタン難民の支援のお願い!

■衣類支援と、食料や医療品支援のためのサダカをお願いします!
先日はパキスタン洪水被災者およびアフガニスタン難民キャンプへの衣類支援にご協力頂きありがとうございました。アルハムドゥリッラー(すべての賞賛はアッラーに有り)、たくさんの方々のご協力により、支援物資を40フィートのコンテナーで送ることができました。12月10日ごろにカラチの港に到着し、到着次第衣類を仕分けし、被災者および難民の方たちに分配しております。
しかし洪水や土砂崩れの被害は甚大で、支援を必要としている方たちはまだまだたくさんいます。
そこでジャパン・イスラミック・トラストは、被災された方々への支援およびアフガニスタン難民支援を再度下記の通り行ないます。

 支援金および冬物衣類などの支援物資のご協力を引き続きお願いいたします。なお、支援物資はすべて下記の倉庫へ郵送し、マスジド大塚へは持ち込まないよう、ご理解とご協力の程よろしくお願いします。
 
振込先:
【パキスタン洪水被災者支援金】
■郵便振替00120-6-314542 宗教法人 日本イスラーム文化センター
■三菱東京UFJ銀行、大塚支店 普通口座1363828 ジャパン イスラミック トラスト

【支援物資現地までの運賃およびアフガニスタン難民支援金】
■郵便振替00150-9-98307 JITアフガン難民ファンド
■三菱東京UFJ銀行大塚支店 普通口座1415181 JITアフガン難民ファンド
(一部ネットバンクなどでは、ジェーアイティーアフガンナンミンファンドと記入してください。)

支援物資受付期間:2010年12月10(金) 〜 12月31日(金)必着(土日祝日休み・期間内必着厳守)
(ジャパンエキスプレスでは救援物資ということで、特別のサービスを提供下さっております。従いまして、期間内に必着するようお願い致します。)

送付先:〒140-0003 東京都品川区八潮2-9 ジャパンエキスプレス大井物流センター
TEL:03-3971-5631(伝票記載専用)『アフガニスタン救援物資』と明記のこと
*マスジド大塚には保管場所がありません。マスジドには送らないでください。
*個人持込は出来ません。必ず郵送でお願いします。

<<<贈っていただきたいもの>>>
○セーター ○ジャケット ○カーディガン ○暖かい肌着、靴下 ○子供用衣類 ○毛布、タオル 
船便で送るため、保管期間が長くなります。クリーニング・洗濯後の乾燥等につきましてもご配慮下さるようお願い致します。

■現地までの運賃(船便+現地輸送費)を必ずお振り込み下さい。
ミカン箱(縦+横+高さ=120cm未満を目安)よりも、小さな箱(1箱)・・・500円、大きな箱(1箱)・・・1,000円

※皆様から贈って頂きました衣類は、パキスタン洪水被災者とアフガン難民に必要に応じて分配いたします。
※サダカ/支援金は、パキスタン洪水被災者とアフガン難民では振込口座が違いますので、ご確認の上お振込ください。
※経費の節約により現地までの運賃に余剰金が出来た場合は、医療品、食糧、毛布などを現地で購入するための資金とすることをご了承下さい。 
※集荷場所までの送料は別途お支払い下さい。
※箱の中に、お金を入れないでください。現地でゴミと間違われてしまいます。よろしくお気遣いください。

ジャザークムッラーフハイラー。
ワッサラーム


Japan Islaimc Trust
Masjid ( Mosque ) Otsuka
3-42-7 Minami Otsuka
Toshima-ku
Tokyo 170-0005
Tel:03-3971-5631
Fax:03-5950-6310
Email: Email: info@islam.or.jp
HP:     www.islam.or.jp

2010年12月20日月曜日

「アラビア語既習者用一日で教えるヘブライ語」教本

中田先生

とりあえず最低限の表記・綴字の修正をしておきました。
要望等ございましたらいつでも言って下さい。時間が合うのでしたら、同席・代行承ります。

☆------------
辻 圭秋 Yoshiaki Tsuji
同志社大学大学院神学研究科博士後期課程
日本学術振興会特別研究員(DC1)
mail : an-die-musik@hotmail.com




Subject: Fwd: 「アラビア語既習者用一日で教えるヘブライ語」
From: hassankonakata@gmail.com
Date: Sun, 19 Dec 2010 02:04:46 +0900
To: an-die-musik@hotmail.com




「アラビア語既習者用一日で教えるヘブライ語」 完成だ!

文字対応
     א آ
ב ب
ג ج
ד د
ה ه
ו و
ז ز ذ
ח ح ج
ט ط
י ي
כ ك
ל ل
מ م
נ ن
ס س
ע غ ع
פ ف
צ ص ض ظ
ק ق
ר ر
שׁ ش ث
שׂ س
ת ت

ב ג ד כ פ ת 
は中点(ダゲシュ)があると
בּ, גּ, דּ, כּ, פּ, תּ
t, p, k, d, g, b
は中点(ダゲシュ)がないと
ב, ג, ד, כ, פ, ת
th, ph(f), kh, dh, gh, bh(v)

ダゲシュには弱ダゲシュと強ダゲシュの二種類があり、上記6文字は見かけ上区別できない。強ダゲシュ=シャッダ。

ヘブライ語には、ア、イ、ウ、エ、オの母音があるが、元々母音記号はなく、母音は子音アא,ה、イי、ウוで代用することが多い。

ヘブライ語は(1)名詞(2)動詞(3)辞詞からなる。
(1)名詞
名詞には性(男女。中性なし)、数(単複。対器官以外双数なし)の区別がある。
男性複数は יםを語尾に付ける。
女性複数は ה を וֹת に変える。
不規則複数は非常に少ない。
例:  若者(男)נַעַר - נְעָרִים 
       若者(女) נַעֲרָה - נְעָרוֹת
       王(男) מֶלֶך-מְלָכִים
       女王(女) מַלְכָּה-מְלָכוֹת
       家(男不規則複数) בַּיִת - בָּתִּים
冠詞は定冠詞הのみ(喉音א, ה, ח, ע, רの場合を除き次の音に強ダゲシュ)
格変化なし 
対格はなく、動詞目的語に前置詞אֶת をつける。
所有格もなく、後ろではなく前の名詞の母音が変ることが多い。女性名詞単数形はהがתに変る。    ...תוֹרָה מֹשֶה← תוֹרַת
名詞に形容詞が付く場合、更に定冠詞がつく場合の語順はアラビア語と同じ
מלך טוב
התורה הקדושה

指示代名詞、人称代名詞の用法は概ねアラビア語と同じ(三人称男女単数人称代名詞に冠詞が付き指示形容詞化האב ההואはヘブライ語のみ)だが双数形はなく、指示代名詞の遠称もない。
指示代名詞
هذا זה
هذه זאת
ذلك 
تلك 
هؤلاء אלה 
أولئك 
人称代名詞 独立形 結合形(+ל)
أنا אני, אנוכי  לי 
نحن אנחנו  לנו
أنت אתה  לך ָ
أنت את  לךְ
أنتم אתם  לכם 
أنتن אתן  לכן
هو הוא  לו
هي היא לה
هم הם  להם 
هن הן. להן
関係代名詞性数無し
الذي אשר 
疑問詞
ما מה 
لمذا למה
أين איפה
متى כאשר
كيف כיצד

動詞
完了形、未完了形、能動分詞、受動分詞 はアラビア語に対応
(未完了接続形、未完了短形はない)
未完了形、完了形の人称変化はアラビア語に対応(双数なし)
パアル動詞(=1型動詞)
أنا قتلت אני קטלתי أقتل אקטוֹל
نحن قتلنا אנחנו קטלנו نقتل נקטול
أنتَ قتلتَ אמה קטלת تقتل תקטול
أنتم قتلتم אתם קטלתם تقتلون תקטלו
أنتِ قتلتِ את קטלת تقتلين תקטלי
أنتن قتلتن אתן קטלתן تقتلن תקטלנה 
هو قتل הוא קטל يقتل יקטול
هم قتلوا הם קטלו يقتلون יקטלו
هي قتلَتْ היא קטלה تقتل תקטול
هنَّ قتلن הן קטלו يقتلن תקטלנה
能動分詞  קוֹטֵל فاعل
受動分詞 קָטוּל مفعول
なお、様々な条件の下で
יִלְמַד
のように、二語根目の母音がoではなくaになるものも多い。

ヘブライ語では受動態も派生形として扱い母音の音に即して(1)ピエル(2)プアル(3)ヒフィル(4)ホアル(5)ヒトゥパエル(6)二ファル、と名付けるが、これらは(1)2型能動態(2)2型受動態(3)4型能動態(4)4型受動態(5)5型能動態(6)7形にほぼ対応する。
2型能動 קִטֵּל יְקַטֵּל מְקַטֵּל
      受動 קֻטַּל יְקֻטַּל מְקֻטַּל
2型に対応しているので、ダゲシュは上記6文字であっても常に強ダゲシュ(シャッダ)
4型能動 הִקְטִיל יַקְטִיל מַקְטִיל
      受動 הֻקְטַל יֻקְטַל מֻקְטַל
5型能動 הִתְקַטֵּל יִתְקַטֵּל מִתְקַטֵּל
5型に対応しているので、ダゲシュは上記6文字であっても常に強ダゲシュ(シャッダ)
7型        נִקְטַל יִקָּטֵל נִקְטַל

半母音や喉音などを含む動詞は人称活用で変則 例:היה ある
完了形
אני  הייתי
אנחנו  היינו
אתה  הייתָ 
את  הייתְ 
אתם  הייתם 
אתן  הייתן  
הוא  היה
היא  היתה
הם/הן היו

未完了形
אני  אהיה
אנחנו  נהיה
אתה  תהיה 
את  תהיי 
אתם  תהיו  
אתן  תהיינה 
הוא  יהיה
היא  תהיה
הם יהיו
הן תהיינה
講読 
בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ והארץ היתה תהו ובהו וחשך על-פני תחום ורוח אלהים מרחפת על-פני המים.
be-reeshiith : by beginning 
baraa : create
Elohim
eth : ~を
ha-shshamaim : the sky
we-eth : and ~を
ha-erez : the earth
we-ha-erez : and the earth
haithaa (弱動詞haayaa の女性完了形) : became
thoohu : desert
wa-bhoohu : emptiness
we-xooshekh : darkness
'al-penee : on faces of (複数連結形)
thehoom : abyss
we-ruuax : and spirit
Elohim 
meraxepheth : is hovering (ピエル分詞女性形)
'al-penee : on faces of
ha-mmayim : the water

2010年12月17日金曜日

『人定法の裁定』

ここに訳出する『人定法の裁定』の著者は、ワッハーブ派の名祖ムハンマド・ブン・アブドルワッワーブ(西暦1791年没)の直系の子孫で、元サウディアラビア王国ムフティー(イスラーム教義最諮問官)ムハンマド・イブラーヒーム・アール・アル=シャイフ(ヒジュラ暦1389年西暦1969/70年没)のファトワーで、ヒジュラ暦1380年(西暦1960/1)年に初版が発行されたものです。
翻訳の底本としたのは、訳者が在サウディアラビア日本大使館に勤務中に入手したヒジュラ暦1411年(西暦1990/1)発行の「出版権は全てのムスリムに属する」と記されたダール・アル=ワタン出版による第3版です。翻訳に当たってはこの版を底本とし、Dr.サファル・アル=ハワーリーの注釈『人定法の裁定・注釈』を参照しました。
ムハンマド・イブラーヒーム師は、本書の中で、西欧法を継受したイスラーム諸国を不信仰の最悪の形態の多神崇拝を犯すもの、として激しく批判していますが、実は、イスラーム法裁判所長官であったヒジュラ暦1375年(西暦1956年)にサウジの商工会議所設立令の布告に当たってそれが人定法の裁定に当たるとして断固拒否する書簡をリヤド州知事に送っています。
それゆえ、ムハンマド・イブラーヒーム・アール・アル=シャイフの名は半ばタブーとなっており、その業績を知っている者も多くは口を噤んでいます。『人定法の裁定』の注釈を書いたサファル博士も、訳者のリヤド勤務中に、逮捕され長く監禁生活を送っていましたが、幸い『人定法の裁定・注釈』はネット上で読むことが出来ます。
 本書を読めば、政治が宗教と不可分であり、しかも単なる行為規範の問題ではなく、信仰の根幹に関わること、そしてそれが一般に非政治的だと思われているサラフィー主義、ワッハーブ派の当代最高権威によって、解釈の余地なく明らかにされていることが理解できるかと思います。アッラーフアゥラム


 慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名において

 呪われるべき人定法をクルアーンと取り替えることこそ、明々白々な最大の不信仰であり、「なにごとであれ汝らが相争うなら、汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら、それをアッラーとその使徒のもとに持ち込め。それが最善であり、最も良い結論である。」との尊くも畏きアッラーの御言葉に対する違背、頑迷な敵対である。クルアーンは天使ジブリールが、ムハンマドの心に明瞭なアラビア語で啓示したものであり、それによって世々を統べ治め、係争者たちの訴訟にあたって準拠すべきものであり、彼が警告者の一人となるように、とのものであった。
 自分たちの間に生じた争いについて、預言者ムハンマドに裁定を求めない者について、アッラーは、否定詞の繰り返しと誓言によって強調された否認によって、その者が信仰を有することを否定している。至高者は仰せられる。「それゆえ否。汝(ムハンマド)の主に誓って、彼らは自分たちの間に生じた争いを汝に裁定を求め、それで汝が判決を下したことに心にわだかまりを抱かず、服従し従うまで、信仰したことにはならない。」彼らが単に使徒ムハンマドに裁定を求めるだけではなく、加えて心にわだかまりを少しでも抱かないのでない限り、アッラーは十分であるとはされなかった。それは「汝が判決を下したことに心にわだかまりを抱かず」との御言葉に基づくが、「わだかまり」とは「不満」であり、使徒の裁定によって彼らの心が晴れ、懸念や疑問を抱かないことが必要とされるのである。
 またアッラーは、服従が付け加えられない限り、それら二つ(使徒に裁定を求めその裁定に不満を抱かないこと)だけでも十分とはされなかった。服従とは、使徒の裁定に対する完全な従順であり、それに対して心に何事も気に留めず、それを真理の裁定に、最も完全な服従によって従うことによるのである。それゆえ、そこにおいては単に従うだけでは十分ではなく、絶対的服従が必要であることを明らかにする「服従し」との御言葉の強調の同属目的語の動名詞によって、アッラーはそれを強調されているのである。
 第一のアッラーの御言葉「なにごとであれ汝らが相争うなら、汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら、それをアッラーとその使徒のもとに持ち込め。それが最善であり、最も良い結論である。」争いの種類や量が想像できる一般論である「汝らが争うなら」との条件節の中で、「なにごとであれ」との非限定名詞をアッラーがいかにして用いられているかを、よく考えてみよ。
 次いで、「汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら」との御言葉で、アッラーがいかにしてそれをアッラーと最後の日に対する信仰の成立の条件とされたかを、よく考えてみよ。
 次いで、アッラーは「それが最善」と仰せられている。そしてアッラーが無条件に(不定名詞で)「最善」と仰せになられたものは、悪が決して触れることがなく、現世と来世における純粋な善なのである。
 次いで、アッラーは「最善の結論」と仰せられている。つまり、現世と来世における(最善の)結末を意味する。それゆえ、係争におけるアッラーの使徒ムハンマド以外への準拠は、純粋な悪であり、現世と来世における最悪の結末となることを帰結する。
 それは丁度、偽信者たちが「我らは善行と調停を望むのみである」、「ただ我々は改善者である」と言うのと逆であり、それゆえアッラーは、こうした偽信者たちを論駁して「彼らこそは害悪をなす者ではないか。しかし彼らは気づいていない。」と仰せられているのである。
 またそれは、世界は人定法への準拠を必要としている、いやそれが必要不可欠である、との人定法支持者たちの人定法についての判断とも逆である。そしてそれはアッラーの使徒ムハンマドがもたらしたものに対する純粋な蔑視、アッラーとその使徒の明証の軽侮、それが人々の係争を満足に解決できないとの判断なのであり、現世と来世の悪しき結末こそが、彼らに必定なのである。
 また(クルアーンの)次の節の中の「自分たちの間に生じた争いを」との御言葉の一般原則についてよく考えてみよ。
 また(クルアーンの)次の節の中の「自分たちの間に生じた争いを」との御言葉の一般原則についてよく考えてみよ。また法理学者などの見解によると、関係代名詞と関係代名詞文は一般論の形式を伴う。そしてそれの一般性、包括性は、種や類の面におけるのと同様に量の面においてもであり、ある種類を異にしても相違は無く、また多寡に拘らず変わりは無いのである。それゆえアッラーは、アッラーの使徒ムハンマドの齎したもの(クルアーン)以外に裁定を求めた偽信者たちの信仰を否定され、仰せられている。「おまえは、おまえに下されたものとおまえ以前に下されたものを信じると言い張る者たちが邪神に裁定を求めようとするのを見なかったか。それを拒絶するよう命じられていたにもかかわらず。そして悪魔は彼らが遠く迷い去ることを望んでいる。(4:60)」
 「言い張る」との御言葉は、彼らの言い張る信仰において彼らが嘘つきであるとしている。なぜならば預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)以外に裁定を求めることは、人の心中の信仰とそもそも共存することはありえず、一方が他方を排除するからである。「邪神(taghut)」とは、「限界を超えること」を意味する「法外(tughyan)」の派生語である。そして預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)以外によって裁く者、あるいは使徒ムハンマドが齎したもの(クルアーン)以外に裁定を求める者は全て、邪神に従って裁き、邪神に裁定を求めたことになるのである。それというのも、預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)のみに基づき、それ以外に依拠することなく裁くことが、万人の義務だからである。
 また同様に預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)のみに裁定を求めることが、万人の義務であり、それ以外のものに基づいて(自ら)裁くか、それ以外のものに裁定を求めた者は、(自らの)裁定、あるいは(他者に)裁定を求めることにおいて、彼の限界を超え、法外な行いを為したことになり、それによって彼の限界を超えることにより法外な邪神と化したことになるのである。
 そして「それを拒絶するよう命じられていたにもかかわらず」との御言葉についてよく考えてみよ。これから欧米人定法讃美者たちがこの問題についてアッラーが彼らに求めていることに頑迷に敵対し背反を望んでいることが知られる。なぜならば聖法によって彼らに求められていること、そしてそれによってアッラーを崇拝すべきことは、邪神の拒絶であり、邪神に裁定を求めることではないからである。「そして不正を犯した者たちは、言葉を彼らが語られたもの以外に取り替えた。」
 ついで「そして悪魔は彼らが遠く迷い去ることを望んでいる」とのアッラーの御言葉、それが迷妄であることをアッラーがいかに示されたかを、よく考えよ。欧米人定法讃美者たちは、人定法が導きとなると考えている。それはこのクルアーンの節が、欧米人定法讃美者たちが、自分たちが悪魔から遠く離れており、人定法が人々の役に立つと思い込んでいるのとは逆に、人定法(導入)は悪魔の意思であり、彼らの主張に従うと悪魔の望む諸事は人々の福利であり、アッラーの望むところのものとなり、(逆に)預言者ムハンマドが携えて遣わされたところのもの(クルアーン)は、その名(人々の利益)に値しないもの、その任(人々の福利とアッラーの御意思の実現)に耐えないものとなるのである。
 アッラーはこの類の輩を拒絶し、彼らが無明時代の裁定を欲していることを確証し、アッラー御自身の裁定が最善の裁定であることを明らかにした上で、「それでも汝らは無明時代の裁定を望むのか。確信する民にとって、アッラーよりその裁定が勝る者が誰かいようか。」とおおせられているのである。この節が、裁定の区分は二元的であり、アッラーの裁定以外には、無明時代の裁定しか存在しないこと、そして欧米人定法讃美者たちは、彼ら自身がそれを認めようと認めまいと、無明の徒の仲間であること、いや彼らよりも性状が邪悪で言論において嘘が多いことを示されているかをよく考えてみよ。
というのは、無明の徒には、この件に関して、二枚舌だけはないからである。一方、欧米人定法讃美者たちたちは預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)を信ずると言い張りながらも、それに矛盾することを行い、「その中間に(折衷の)道を得ようと望んでいるから」(4章150節)である。そしてアッラーはこうした類の輩について「これらの者たちこそ、本当に不信仰者である。我らは不信仰者たちに恥辱の懲罰を用意した。」と仰せられている。
また、この節が、欧米人定法讃美者たちに対して、彼らの思いつきのがらくた、でっちあげた考えが素晴らしいとの主張を、「確信する民にとって、アッラーよりその裁定が勝る者が誰かいようか。」との御言葉で、いかに論駁しているかをよく考えてみよ。
ハディース学匠イブン・カスィール(1373年没)は、この節の注釈の中で以下のように述べている。
「あらゆる良きものを含みあらゆる悪を禁ずる確定したアッラーの裁定から離れ、アッラーの聖法に依拠せずにそれ以外に人間が作った思いつき、妄念、制度などに逸れる者を拒否される。それは丁度無明時代の者たちが、彼らの思いつきや妄念によって作り上げた虚妄に依拠して裁定したのと同じであり、また(イルハン国の)モンゴル人たちが、ジンギズカンが彼らに制定したユダヤ教、キリスト教、イスラームなどの様々な教えの部分を抜き出した法規の寄せ集めの法典から取った政令に依拠して裁定したのと同じなのである。そしてその中にはただの彼らの思いつき、妄念から作り出した多くの規定があり、それらは彼の子孫たちにとって従われるべき法となり、彼ら(イスラームに改修したイルハン国のモンゴル人の王たち)はそれをクルアーンとアッラーの使徒ムハンマドのスンナに基づく裁定に優先しているのである。そしてそのようなことを行う者は不信仰者であり、そうした者に対しては、アッラーとその使徒の裁定に帰順し、多少に拘らずそれ以外のものに裁定を求めなくなる迄、戦闘が義務となる。
アッラーは「それでも汝らは無明時代の裁定を望むのか」(5:50)、つまり、アッラーの裁定から逸れて無明自体の裁定を好み欲するのか」、そして「確信する民にとって、アッラーよりその裁定が勝る者が誰かいようか」(5:50)、つまりアッラーからその聖法を授かり、それを確信、信奉し、アッラーはその被造物に対して母親がその子に対するよりも慈悲深いことを知った者にとって、裁定においてアッラーよりも更に公正な者が誰かいようか、と仰せられている。なぜならアッラーこそ、全てのことを知り、全てのことが可能で、全てのものに対して公正な御方であらせられるからである。」(了)
 またアッラーはこの前の節で、その預言者ムハンマドに語りかけ、「それゆえ彼らの間をアッラーが下されたものによって裁き、おまえにもたらされた真理から離れ、彼らの欲望に従ってはならない。・・・(5:48)」、「そして彼らの間はアッラーが下されたもので裁き、彼らの欲望に従ってはならない。彼らがおまえを、アッラーがおまえに下されたものの一部から惑わし逸らせることを、彼らに警戒せよ。」(5:49)と仰せられている。
またアッラーはその預言者ムハンマドに、ユダヤ教徒たちが彼の許に裁定を求めてやってきた場合に、彼らの間を裁くか、あるいはそれを拒むかのどちらを選ぶことも許され、仰せられた。「・・・それでもし彼らがおまえの許に来たなら、彼らの間を裁くか、あるいは彼らから背を向けよ。そしてたとえおまえが彼らから背を向けても、彼らはおまえをわずかにも害することは決してない。また、もし、おまえが裁くなら、彼らの間を公平に裁け。まことにアッラーは公正な者たちを愛し給う。」(5:42)「公平」とは「公正」であり、本当はアッラーとその使徒の裁定以外には「公正」は存在せず、それ以外に基づく裁定は不公平、不正、迷妄、不信仰、邪悪なのである。それゆえアッラーはその後の節で「・・・アッラーが下し給うたもので裁かない者、それらの者こそは不信仰者である」(5:44)、「・・・そしてアッラーの下されたもので裁かない者、それらの者こそは不正な者である」(5:45)、「・・・そしてアッラーが下されたものによって裁かない者、それらの者こそは邪な者である」(5:47)と仰せなのである。
それゆえ、アッラーが下されたもの以外によって裁く者たちについて、アッラーが、いかに不信仰、不正、邪悪と書き留められたかを見よ。
アッラーが下されたもの以外によって裁く者をアッラーが不信仰者と名づけておられるのに、その者が不信後者ではない、ということは有りえず、行為における不信仰か、信条における不信仰のいずかの、総称的不信仰者なのである。そしてターウースなどが伝えるところの、この節に関するイブン・アッバースの言葉は、アッラーが下されたもの以外によって裁く者が、ムスリム共同体から破門される(nqil al-millah)信条の不信仰か、共同体から破門まではされない行為における不信仰のいずれかの不信仰者であることを示しているのである。
第一は、信条の不信仰であり、それにはいくつかの種類がある。
それらの第一はアッラーの下されたもの以外によって裁く者が、アッラーとその使徒の裁定の最善性を否定する場合である。これがイブン・アッバースから伝えられた意味であり、イブン・ジャリール(アル=タバリー)が、これこそがアッラーが下された聖法の裁定の否定であると選定したものであり、これについては学識者の間に異論は存在しない。なぜなら、宗教の基礎(神学的信条)のうちの一つ、あるいは宗教の枝葉(法学的規範)であってもコンセンサスの成立している一つの事項を否定する、あるいはアッラーの使徒が確実に齎したと知られるもののうちの一言でも拒絶する者は、イスラーム共同体から破門される不信仰を犯した不信仰者であることは学識者の間で合意され確定した原則だからである。
第二はアッラーの下されたもの以外によって裁く者が、アッラーとその使徒の裁定が正しいことは否定しないが、アッラーの使徒以外の裁定の方が、使徒の裁定よりも更に良く完全で、また人々の間の係争を裁くにあたって彼らが必要とするものについてよい行き届いていると信ずることである。それは一般的であっても、時代の進歩と状況の変化の結果として生じた現代的な事柄に関してであろうと、やはり疑いの余地無く不信仰である。なぜならその者は、被造物である人間のがらくたのような思いつき、こしらえた考えを誉むべき英明なる御方(アッラー)の裁定よりも勝ると考えているからである。
アッラーとその使徒の裁定は、それ自体においては、時代の進歩、状況の変化、事象の進展によって変わることはない。なぜなら、いかなる問題であれ、テキストの明文、表意、含意などの形で、クルアーンとアッラーの使徒のスンナの中にその裁定がないものは存在しないからである。そのことを知る者は知っているが、知らない者が知らないのである。
状況の変化によってファトワー(教義回答)が変化する、とイスラーム学者たちが述べている意味は、イスラームの諸規範の論点、事由の知識が乏しいか無い者たちが考えているのとは違うのである。というのは、彼らはその意味を自分たちの間違った有害な動物的欲求、現世的願望、考えに合うように都合よく解釈しているからである。それゆえ彼らはそれを擁護し、(クルアーンとスンナの)明文テキストを力の限りその下位に置き、従属させ、その言葉を文脈から外して歪曲しているのである。
それゆえ、状況と時代の変化に伴いファトワーが変るという意味は、イスラーム学者たちの意図するところでは、聖法の基本、考慮すべき事由、アッラーとその使徒が意図していた種類の福利は変らずに継続しているようなものなのである。欧米人定法の信奉者たちは、それから逸脱しており、なんであれ自分たちの欲望に適うことしか言わないのである。現実が何よりも雄弁な証拠である。
第三は、(欧米人定法が)アッラーとその使徒の裁定よりも良いとは信じないが、それと同等だと信ずることである。これは、イスラーム共同体から破門される不信仰を犯した不信仰者であることにおいて前の二つの範疇と同じである。なぜならばそれは、、被造物(人間)を創造主(アッラー)と同等とすることを帰結し、また「何ものも彼(アッラー)のようではない」との御言葉のような主(アッラー)の完全性の占有、本体、属性、行為における人々の係争の裁定における被造物に対する優越の超越性を示しているクルアーンの諸節への違背、頑迷な敵対であるからである。
第四は、アッラーの下されたもの以外によって裁く者の裁定が、アッラーとその使徒の裁定より優れていることはもとより、それと同等とも信じないが、にもかかわらずアッラーとその使徒の裁定と異なるものによる裁定が許されると信ずることである。決定的に明瞭な真正な(クルアーンとスンナの)明文テキストによって禁じられていることが知られることをその者が許されると信じているために、これにも前の諸範疇に当てはまること(イスラーム共同体から破門される不信仰)が当てはまる。
第五は、聖法に対する頑迷な敵対、その諸法規を見下す傲慢、アッラーとその使徒への背反、イスラーム法裁判所に対する競合において、装備、浸透性、所管、基礎付け、展開、組織性、多様性、実効性、強制性、準拠法令、公文書において、(それら不信仰の信条のうちで)最も重大で、最も包括的で、最も明白なものである。(それらに準拠法令、公文書があるのは)イスラーム法裁判所にもその根拠が全てクルアーンとその使徒のスンナのみである演繹された準拠法令があるのと同じく、それらの(欧米実定法)裁判所にも準拠法令がある。それはフランス法、アメリカ法、イギリス法などの多くの法律や、聖法を僭称する異端的諸派の様々な法の寄せ集めの法律なのである。
イスラームの諸国の多くのこれらの裁判所は、完全に整備され、門戸が開かれ、人々はそれに続々と押し寄せ、それらの支配者たちは人々をクルアーンとスンナに背くその人定法の諸法規によって裁き、人々にそれを強制し、彼らにそれを認めさせ、それを義務付けるのである。この不信仰よりも重大ないかなる不信仰があろうか。そして「ムハンマドはアッラーの使徒である」との信仰告白に対する違背があろうか。この違背以上の、預言者ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)に対するいかなる違背があろうか。

上記に簡単に述べた典拠の全体は周知でもあり、ここで繰り返すことはできない。理性を有する者たち、賢者たち、知恵ある者たちよ。あなた方と同等か、それ以下の者たちの(作った)法規、思い付きがあなたがたに課せられることにどうすれば満足していられるか。彼らは過ちを犯すことがあるというのに。いや、彼らは間違うことの方が正しいことより遥かに多い。いや、彼らの裁定が正しいのは、明文テキストにしろ含意によるにしろ、アッラーとその使徒の裁定から演繹された場合だけなのである。どうすればあなた方は、彼らが過ちが生じることがなく決して不正が起きない誉むべき英明なるアッラーからの啓示であるアッラーとその使徒の裁定によってあなた方を裁くことを怠り拒否する一方で、あなた方の身体、血、皮膚、名誉、そしてあなた方の妻子、家族、そしてあなた方の財産、その他の全ての権利について(人定法で)裁くのを放置していることが出来るのか。人々がその主アッラーの裁定に従い、服するのは、自分を崇拝するようにと人間を創造された御方アッラーの裁定に従い、服することである。それゆえ人間がアッラー以外に跪拝せず、アッラー以外に崇拝を捧げず、被造物を崇拝しないのと同じように、疑惑、妄執、混乱によって滅び、無関心、冷酷、不義に心を奪われた不正で無知な被造物の裁定を拒否せねばならず、慈悲深く憐れみ深く誉むべき全能な英知ある御方アッラーの裁定以外に従い、服し、屈することがあってはならないのである。
それゆえ理性ある者は、「・・・アッラーが下し給うたもので裁かない者、それらの者こそは不信仰者である」(5:44)とのアッラーの御言葉の明文により、それ(人定法による支配)が不信仰であることに加えて、人間の奴隷化、人間に対する欲望、悪意の目的、迷妄、過誤による支配があるが故にそれを警戒しなければならないのである。
第六は、砂漠の遊牧部族、氏族の族長たちの多くが則って裁定している父祖の言い伝えや、自分たちの「サルーム」と呼んでいる慣習である。無明時代の掟に留まり、アッラーとその使徒の裁定からの離反を望み、彼らはそれを先祖代々受け継ぎ、それによって裁き、係争に当たってはそれに裁定を求めるのである。
アッラーの他に力も権能もありません。

アッラーの下されたもの以外によって裁く者の不信仰の二つの種類のうちの第二のものは、イスラーム共同体からの破門を招かないものである。
「・・・アッラーが下し給うたもので裁かない者、それらの者こそは不信仰者である」(5:44)とのアッラーの御言葉についてのイブン・アッバースの釈義が、この種類の不信仰に該当することは既に述べた。それは、この節についての「不信仰以下の不信仰」、及び「あなた方が思い浮かべる不信仰ではない」との言葉である。
それは、欲望と煩悩に負けてアッラーが下されたもの以外によって問題の裁定をしてしまうことで、アッラーとその使徒の裁定こそが真理であることを信じ、自分が間違っており、導きから逸れていることを自分自身でも認めた上でのことなのである。
これはその不信仰がイスラーム共同体からの破門を招くものではないとしても、姦通、飲酒、窃盗、偽証などの諸々の大罪よりも重大な背神行為なのである。なぜならばアッラーがクルアーンの中で「不信仰」と呼ばれている背神行為は、「不信仰」と呼ばれなかった背神行為よりも重大だからである。
ムスリムが団結し信服してクルアーンに裁定を求めるようになることを我らはアッラーに祈り求めます。まことにアッラーこそ、それがおできになり、それを引き受け給う御方にあらせられます。



المقدمة

أما بعد, فقد بعث الله تعالى الشيخ محمد بن عبد الوهاب رحمه الله لأمة حبيبه محمد صلى الله عليه وسلم كي يمكنها تمييز الإسلام من الشرك من جديد حتى تعود كونها ظاهرة على الحق وتقود البسرية قاطبة كما كانت في صدر الإسلام, حين وقعت في مظلمة التقاليد الباطلة المخالفة للسنة التي ارتكمت أثر تطورات الأزمنة وتغيرات أحوالها حتى تدهورت فغُلِبت واستُعمرت بأيدي الكفرة سياسياً واقتصادياً وثقافيا كما قال رسول الله صلى الله عليه وسلم:" تداعت عليكم الأمم كتداعيكم على قصعة الطعام."
فما زال الشيخ وأتباعه سوط الله الذي هذّب الله تعالى به الأمة حتى كَتَبَ آخِرُ دعاتهم العظام الشيخ محمد بن إبراهيم آل الشيخ رحمه الله, مفتي الديار السعودية الأسبق, المجتهد المجاهد الممتثل بقوله صلى الله عليه وسلم " أفضل الجهاد كلمة عدل(في رواية"كلمة حق") عند سلطان جائر "كتاب " تحكيم القوانين" التي بين يدي القارئ وهو ,مع صغر حجمه, أهم كتاب كُتِبَ في مجال السياسة الشرعية كما في مجال الدعوة السلفية في عصرنا هذا.
في حقيقة الأمر, القوانين الوضعية هي روح الحضارة الغربية وسر تغلبها على العالم ووسيلة هيمنتها على الشعوب الأقوام بالإضافة إلى كونها شركاَ حيث أنها إلزام أوامر المخلوقين ونواهيهم على الناس بكلّ قوة الدولة و إلزام الأوامر والنواهي على المخلوق هو عين الألوهية التي لا بد من توحيدها لله الخالق رب العالمين وحده لا شريك له.
فإذاً لا يمكن الأمة أن تحقّق توحيد الألوهية فتكون أمة مسلمة, فضلاً عن أن تتخلّص من الاستعمار الغربي, إلا بعد أن تتجرّد من نظام القوانين الوضعية المصطنعة في الغرب الذي يسيطر على البلاد الإسلامية

وقد أوضح الشيخ محمد رحمه الله حقيقة نظام القوانين الوضعية وحكمها وضوح الشمس حتى لا يترك أي شبهة قابلة لسوء فهمه أو تأويل خاطئ, لأن أسلوب كتاب " تحكيم القوانين" منظّمٌ ومنهجيٌّ بحسن الترتيب حيث أنها بيّن في بداية الكتاب أن تحكيم القوانين الوضعية ما هو إلا نقيض الحكم بما أنزل الله و جزم كفره ثمّ بعد ذلك قسّم في بداية الكتاب الكفر إلي قسمَْينِ.والقسم الأول هو كفر اعتقادٍ يُخرج صاحبه عن الملّة والقسم الثاني هو كفرُ عملٍ لا يُخرج صاحبه عن الملّة.
أما كفر اعتقادٍ فقسّمه إلى ستة أنواع والأنواع الأربعة الأولية يتعلّق اعتقادها بالقلب في قضية انفرادية ورتّبها الشيخ رحمه الله بترتيب من الأشّد إلى الأخفّ, أيْ, الأول هو الاعتقاد يبطلان حكم من أحكام الله, والثاني هو الاعتقاد بالأفضلية لحكم من غير أحكام الله على حكم من أحكام الله, والثالث هو الاعتقاد بالمماثلة لحكم من غير أحكام الله على حكم من أحكام الله والرابع هو الاعتقاد بجواز لحكم من غير أحكام الله مع اعتقاده بالأفضلية حكم الله, و هذه كلّها كفرُ اعتقادٍ ناقل عن الملّة.
ثمّ ذكر الشيخ رحمه الله النوعان الآخران من كفرُ اعتقادٍ ناقل عن الملّة وليس اعتقادهما أمر باطني متعلّق بالقلب في قضية انفرادية بل هو أمر ظاهري متعلّق بنظام الحكم كظاهرة اعتقادية اجتماعية. وأولهما اتخاذ القانون المُلفّق من قوانين كثيرة كالقانون الفرنسي والقانون الأمريكي والقانون البريطاني وغيرها و بعض أحكام الشريعة وغير ذلك كمرجع لنظام الحكم بشكل تنظيمي إلزامي شامل ويقول الشيخ رحمه الله "وهو أعظمها وأشملها وأظهرها معاندة للشرع ومكابرة لأحكامه ومشاقّة لله ورسوله ومضاهاة بالمحاكم الشرعية" و" فأيُّ كُفر فوق هذا الكفر، وأيُّ مناقضة للشهادة بأنّ محمدًا رسولُ اللهِ بعد هذه المناقضة." جدير الذكر هنا أن استعمال كلمة "محاكم" لا يقتضي أن موضوع القوانين الوضعية يقتصر على نظام القضاء بل هي كناية عى نظام الحكم كلّه لأنه يقال أنها " وتُلزمهم به وتُقِرُّهم عليه وتُحتِّمُه عليهم" و ليس إقرار القوانين على الناس كمرجع التنازع وإلزام حكمها القضائي على الناس وظيفة المحكمة أبداً.
أما ثانيهما فهو متعلّق بالمجتمع السعودي خاصّةً, وهو اتخاذ عادات القبائل المسمّاة ب"سلوم" نظام الحكم على مستوى المجتمع القَبَلي.
النوعان الآخران هما النوع الخامس والسادس من كفرُ اعتقادٍ بحسب تقسيم الشيخ رحمه الله نفسه وجزم بأنهما كفر ناقل عن الملّة مثل الأنواع الأربعة الأولية ولكنه لا يناقش الشيخ رحمه الله فيهما اعتقادهم بخلاف ما ناقشه في الأنواع الأربعة السابقة لأنهما ظاهرة اعتقادية اجتماعية لا يُهِمُّها اعتقاد الأفراد فلا يحتاج إلى السؤال عن الاعتقاد القلبي الباطني بل واقع تطبيق القوانين الوضعية وإلزامها على الشكل المُنظَّم
ب ذات عينه أصدق دليله وأظهره.
وأما القسم الثاني من قسمي كفر الحاكم بغير ما أنزل الله هو الذي تحمله شهوته وهواه على الحكم في القضية بغير ما أنزل الله مع اعتقاده أن حكم الله ورسوله هو الحق واعترافه على نفسه بالخطأ ومجانبة الهدى وهو الكفر غير الناقل عن الملة الذي أُشيرَفي قول ابن عباس رضي الله عنه " كفر دون كفر" و"ليس بالكفر الذي تذهبون إليه" في تفسيره لقول الله تعالى : {ومن لم يحكم بما أنزل الله فأولئك هم الكافرون}. إلا أن هذا القسم الثاني من قسمي كفر الحاكم بغير ما أنزل الله خارج موضوع هذا الكتاب.
فليس تحكيم القوانين الوضعية أعظم كفر اعتقادٍ ناقل عن الملّة وأشمله وأظهره فقط, ولكنه أكثرانتشارا وأشدّ نفوذاً في بلاد المسلمين. بل لا تبقى على الأرض بقعة لا تُُطَبَّق فيه هذه القوانين الوضعية قط, بما فيها البلد الذي كان الشيخ رحمه الله يتولّى منصب المفتي.
قال الشيخ رحمه الله في خطابه إلى أمير الرياض بما يلي:

فبالإشارة إلى خطابكم رقم 4926 وتاريخ 11/4/1375 المرفق به الأوراق الخاصّة بموضوع تأسيس غرفة تجارية بالرياض.
نفيدكم أنه جرى درس النظام المرفق ولاحظنا أهمها الفقرة. د - من المادّة 3, التي نصّها:أن تكون الفرفة مرجعاً لحل الخلافات التجارية بين المتنازيين من التجار سواء كان المدّعى عليه مسجّلا أو غير مسجلاً. وقد انتهى إلين انسخة عنوانها "نظام المحكمة التجارية للمملكة العربية السعودية" المطبوع بمطبعة الحكومة بمكّة عام 1379 للمرّة الثانية, ودرسنا قريباً نصفها فوجدنا مافيها نٌظما وضعية قانونية لا شرعية فتحقّقنا بذلك أنه حيث كانت تلك الغرفة هي المرجع عند النزاع أنه سيكون فيها محكمة وأن الحكام غير شرعيين بل نظاميون قانونيونى ولا ريب أن هذه مصادمة لما بعث الله به رسوله صلى الله عليه وسلم
من الشرع الذي هو وحده المتعيّن للحكم به بين الناس المستضاء منه عقائدهم وعباداتهم ومعرفة حلاحهم من حرامهم وفصل النزاع عندما يحصل التنازع. واعتبار شيء من القوانين للحكم بها ولو قلّ قليل لا شكّ أنه عدم رضا بحكم الله ورسوله ونسبة حكم الله ورسوله إلى النقص وعدم القيام بالكفاية في حل النزاع وإيصال الحقوقى إلى أربابها وحكم القوانين إلى الكمال وكفاية الناس في حلّ مشاكلهم واعتقاد هذا كفر ناقل عن الملّة والأمر كبير مهمّ وليس من الأمور الاجتهادية. وتحكيم الشرع وحده دون كلّ ما سواه شقيق عبادة الله وحده دون كلّ ما سواه, إذ مضمون الشهادتين أن يكون الله هو معبود وحده لا شريك له وأن يكون رسوله صلى الله عليه وسلم هو المَّتبَع و المحكَّم ما جاء به فقط. ولا جُرِّدت سيوف الجهاد إلا من أجل ذلك والقيام به فعلاً وتركاّ وتحكيماّ عند النزاع... - إلى آخر خطابه.

فقد أوضح الشيخ رحمه الله أن لا يتمّ التوحيد إلا بعد التبرئة من تحكيم القوانين قائلاً :"تحكيم الشرع وحده دون كلّ ما سواه شقيق عبادة الله وحده دون كلّ ما سواه" وهو مراد قول الشيخ عبد الهادي أونغ, رئيس الحزب الإسلامي الماليسي, حفظه الله : "إيمان توحيد الربوبية و الألوهية ينبغي أن يثبت بتوحيد الحاكمية,أي مرجعية الأحكام"
للأسف الشديد, لم يُسمَع كلام الشيخ في ذلك الوقت, ليس عند الحكّام فقط, ولكن عند كثير من طلبة العلم, وذلك ما كان يأدّي إلى تدهوُّر أحوال المسلمين يوماً فيوماً حتى عصرنا هذا ويجعلنا نحسّ حاجة إلى إعادة طبع هذا الكتاب القيّم و ترجمة إلى سائراللغات ونشره إلى أنحاء العالم حتى تتبرّأ الأمّة من تحكيم القوانين الوضعية الغربية الذي كفر اعتقاد ناقل عن الملّة بل أشده وأسوأه وتعود إلي توحيد الحاكمية لله وحده حتى توحّد صفوفها تحت القيادة الموحَّدة الخاضعة لحكم الشرع وحده دون كلّ ما سواه, وهي الخلافة الراشدة التي يجب علينا قيامها, كما تعود إلى مكانها الرائد لتحرير البشرية قاطبةً من عبودية المخلوق, وهي عين تحكيم القوانين الوضعية الغربية التي تسود العالم كلّه بما فيه بلاد المسلمين.
نسأل الله التوفيق, ولا حول ولا قوة إلا بالله العلي القدير.

『カリフ国家の諸制度 ― 統治と行政』 2

第9章.司法

司法とは強制を伴う判断の宣告である。それは人々の間の訴件の裁定、あるいは共同体の権利を害するものの阻止、あるいは人々と、統治者であれ、公務員であれ、カリフであれ、その配下の者であれ統治機構に属する者との間の紛争の解決である。
司法とその正当性の典拠は、クルアーンとスンナである。
クルアーンについては、至高者の御言葉「彼らの間をアッラーが啓示されたもので裁け」(5:49)、「アッラーとその使徒が呼ばれたなら、彼らの間を裁け」(24:48)であり、スンナについては、使徒は自ら裁判を執り行い、人々の間を裁かれたのである。
またアッラーの使徒は裁判官を任命もされた。アリーをイエメンの裁判官に任命し、裁判の方法について示し、「2人の訴人がお前に裁きを求めて来れば、他方の言い分を聞く前に、最初の者に有利な判決を下してはならない。そうすればいかに裁くべきか分かるだろう。」と言って戒められた。 また使徒はムアーズ・ブン・ジャバルをアル=ジャナドの裁判官に任命されている。これらは皆、司法の正当性の典拠なのである。
司法の定義は上述の人々の間の裁判を含むと共に、市場監督(isbah)も含む。「市場監督」とは、山積みの食物に関するハディースに述べられているような「共同体の権利を害することに対する強制を伴う判断の宣告」である。
「アッラーの使徒が食べ物が山積みになっているところへ通りかかられた。使徒がその中まで手を入れられると指に湿ったものが触れた。そこで使徒は『食べ物の売り手よ、これは何だ』と詰問されました。売り手が『雨に降られたのです』と答えると、使徒は『人々に分かるように、なぜそれを表面に置かなかったのか。商売で誤魔化す者は、我々(ムスリム)の一員ではない。』と咎められた。」
また司法の定義には行政問題の検分も含まれる。なぜならそれも裁判の一種だからである。それは統治者に対しての苦情、つまり行政上の不正である。その定義は、「人々と、カリフ、あるいはその補佐、総督、公務員の誰かの間で生じた紛争、あるいは裁判の判決と統治の依拠する聖法のテキストの意味の解釈をめぐる人々の間での争いに対する強制を伴う判断の宣告」である。行政上の不正(malim)の語は価格統制に関して、「私は、アッラーに見える時、血(傷害・殺人)、財産について、その者に対して犯した不正(malamah)で私を訴える者が誰もいないことを望む」とのハディース に言及されている。為政者、地方総督、公務員などに対して誰であれ不正を訴えた案件は行政不正裁判官に申し立てられ、行政不正裁判官は強制を伴う判断を宣告する。これで使徒の言行録にある三種の裁判を包括する定義が与えられる。それは「人々の間の訴件の裁定、共同体の権利を害するものの阻止、あるいは臣民(rayah)と統治者の間の紛争、あるいは国民と公務員の間の公務員の仕事をめぐる紛争の解決」である。

裁判官の種類
 裁判官は三種類である。その第一は、裁判官であり、それは社会関係行為(mumalt)や刑罰に関する人々の間の訴訟の裁定の担当者である。第二は市場監督官(mutasib)であり、それは共同体の権利を害する違反の裁きの担当者である。第三は、行政不正裁判官であり、それは人々と国家の間の紛争の解決の担当者である。
 これが裁判の種類の説明であるが、即ち人々の間の訴訟を裁定する裁判の典拠は、使徒自身が裁判を行われ、またムアーズ・ブン・ジャバルをイエメン地方の裁判官に任命されたことである。市場監督とも呼ばれる共同体の権利を害する違反を裁く裁判の根拠は使徒の言行である。使徒は「商売で誤魔化す者は、我々(ムスリム)の一員ではない」と言われている。 このように使徒は、商売で誤魔化しをしている者を見つけ出して止めさせられ、また市場の商人たちに誠実(idq)と浄財(adaqah)を命じておられたのである。「我々はマディーナの市場で商売をしていたが、我々は「仲介屋(samsirah)」と呼ばれていた。そこにアッラーの使徒が我々の許にやって来られ、我々の自称より良い名(「商人」)で我々を呼ばれました。彼は『商人たちよ、こうした商売には無駄口や誓がつきものだ、それゆえそれを浄財で清めよ』と言われたのでした。」
「ザイド・ブン・アルカムとアル=バラーゥ・ブン・アーズィブは共同経営者だったが、二人で銀を即金と後払いで買った。その報が預言者に届くと、預言者は二人に、『即金で買った分は追認し、後払いで買ったものは返却せよ』と命じられた。」
こうしてアッラーの使徒は後払いのリバー(利子取引)を禁じられた。これらはすべて市場監督の裁判である。
共同体の権利を害する違反を裁く裁判を「市場監督(isbah)」と呼ぶことは、イスラーム国家に特有の専門用語であり、つまりそれは商人、職人などの商売、労働、生産、計量などにおいて共同体に害を及ぼす誤魔化しがないかの監督である。二人に後払い(の利子取引)を禁じられたアル=バラーゥ・ブン・アーズィブのハディースに明らかなように、こうしたことを預言者は説明し、命じ、その裁定に人を任じられたのである。またイブン・サアドの『大列伝』、イブン・アブド・アル=バッルの『全書』に記されているように、アッラーの使徒はサイード・ブン・アル=アースをマッカ征服後、マッカの市場の監督官に任じられた。それゆえ、市場監督の典拠はスンナなのである。
 またウマル・ブン・アル=ハッターブは彼の部族の女性アル=シファーゥ・ウンム・スライマーン・ブン・アビー・ハスマを市場の裁判官、つまり市場監督裁判官に任命し、アブドッラー・ブン・ウトゥバをマディーナの市場監督に任命した。これはマーリク(マーリーキー法学祖、ハディース学者、795年没)が『踏み均された道(al-Muwaa)』、アル=シャーフィイー(シャーフィイー派法学祖、ハディース学者、820年没)が『遡及伝承集(al-Musnad)』に収録している。またウマルは預言者が為されていたように、自分自身でも市場監督の裁判を行い、市場を巡回していたのである。アル=マフディー(アッバース朝第3代カリフ在世775-785年)の治世までは、カリフは自ら市場監督を行っていたが、彼は市場監督に特化した機関を創設し、それは司法機関の一部になった。アル=ラシード(アッバース朝第3代カリフ在世786-809年)の時代には市場監督官は市場を巡回し、計量の誤魔化しを検査し、商人の商売を監督していた。
 行政不正裁判と呼ばれる裁判の典拠は、至高者の御言葉「お前たちが何かで争うなら、それをアッラーと使徒の許に持ち込め」(4章59節)である。この句は「信仰する者よ、アッラーに従い、使徒と汝らの中の権威ある者に従え」(4章59節)の句に後続している以上、臣民(rayah)と権威の間の紛争も、アッラーとその使徒、つまりアッラーの裁定に持ち込まなくてはならないのである。そしてそれにはこの紛争を裁く裁判官の存在が必要となるが、それが行政不正裁判官なのである。なぜなら行政不正裁判の定義は、人々とカリフの間の問題の裁定が含まれているからである。
 また使徒の言動も行政不正裁判の典拠である。但し、使徒は、国家の領域内のどこにも、行政不正裁判に特化した裁判官は任命されなかった。同様に正統カリフたちも同じ道を辿り、自分たち自身で行政不正裁判を行った。アリー・ブン・アビー・ターリブもそうであったが、特にそのための時間を決めていたわけでもなく、特別な手続きも定めず、不正が生じた時に、職務の一部として場当たり的に対応していたのである。その状態はウマイヤ朝第5代カリフ・アブドルマリク・ブン・マルワーンの治世まで続いたが、彼が行政の不正のために特別な時間と手続きを設け、そのために特定の日を定めた最初のカリフとなった。彼は自ら不正を取り調べたが、難しい問題は、その裁判官にまわしてそれを裁かせた。それからカリフは自分に代わって人々の間の不正を取り調べる代行者たちを置くようになり、不正の取調べための機関が設置されることになった。当時それは「正義の館」と呼ばれた。行政の不正の裁きに特化した裁判官を任命することは許される。なぜならカリフは、自分自身に許されていることなら何事でも、自分に代わってそれを行う代行者を任命することが許されているからである。またそれに特化した日時と手続きを決めることも、許容事項(mubt)に属するので許されるのである。

裁判官の資格条件:
 裁判官にはムスリム、自由人、成人、正気、義人、そして現実にイスラーム法の規定の何が当てはまるかを理解できることが資格条件となる。行政不正裁判を司る者は、それに加えて司法長官と同じく、男性であること、独自の法判断ができる学識者(ムジュタヒド)であることが条件となる。なぜならその職務は裁判に加えて統治であり、行政不正裁判官は統治者を裁き、統治者に対して聖法を執行するので、裁判官の他の資格に加えて男性であることが条件となる。また通常の裁判官の資格としては法学者であればよかったが、行政不正裁判官はそれだけではなく独自の法判断ができる学識者(ムジュタヒド)でなくてはならない。なぜなら行政不正裁判官が裁く不正には、聖法上の典拠がないか、典拠とした聖法が当該事件に当てはまらないかで、統治者がアッラーの啓示に則らずして裁いたことが含まれるが、こうした不正は、「独自の法判断ができる学識者(ムジュタヒド)」にしか裁くことができないからである。「独自の法判断ができる学識者」でない者が無知によって裁くことは、禁じられており、許されない。それゆえ行政不正裁判官には、統治者の資格条件、裁判官の資格条件に加えて、「独自の法判断ができる学識者(ムジュタヒド)」であることが条件となるのである。
 
裁判官の任命
使徒の為されたことに基づき、裁判官、市場監督官、行政不正裁判官は、全国の全ての訴件に対しての一般的任命によって任命されることも許され、また特定の場所で特定の種類の訴件についてのみ任じられることも許される。使徒はアリー・ブン・アビー・ターリブをイエメンの裁判官に任じ、ムアーズ・ブン・ジャバルをイエメンの地方の裁判官に任じたが、アムル・ブン・アル=アースには1件の訴訟についてのみ裁かせたのである。

裁判官の俸給
 アル=ハーフィズ(イブン・ハジャル・アル=アスカラーニー)は『神佑』の中で「『俸給rizq』とは、『イマームが国庫からムスリムの福利厚生を行う者に支給するもの』である」と述べている。裁判は国庫から俸給を受け取るに値する仕事の一つである。それは国家がムスリムの福利厚生のためにそれを行うように彼ら(裁判官)を雇用する仕事なのである。そしてムスリムの福利厚生のために、国家が聖法に則ってそれを行う者を雇う仕事は全て、それを行う者は、それが崇神行為であろうと、なかろうと、その賃金を受け取る権利がある。その典拠は、アッラーが、「それに従事する者」(9章60節)と言われ、浄財の徴税吏に浄財を配分されているからである。
「何であれ我々が誰かを雇ってその者に俸給を決めたなら、俸給を得た後で彼が得たものは、欲得である。」(ハディース)
アル=マーワルディーは『網羅(al-w)』の中で以下のように述べている。
「裁判は国庫から俸給を得ることが許される仕事に含まれる。なぜならアッラーが、『それに従事する者』(9章60節)と言われ、浄財の徴税吏に浄財を配分されているからである。またウマルはシュライフを裁判官に任じ、彼に毎月100ディルハムの俸給を払ったからである。カリフ位がアリーに移ると、アリーは彼の月給を500ディルハムに増額された。またザイド・ブン・サービトは裁判で俸給を受け取った。」
 またアル=ハーフィズ(イブン・ハジャル・アル=アスカラーニー)は『神佑』の中で以下のように述べている。
「アブー・アリー・アル=カラービースィーは、『預言者の直弟子とその後の世代の学識者全員の見解として、裁判官が裁判で俸給を得ることに問題はない。そしてそれは諸地方の法学者の見解でもあり、彼らの間に私は異論を知らない。確かに一部の者たちはそれを忌避しており、その中にはマスルークがいる。しかそれらの者たちの中でそれを禁じている者を私は誰も知らない』と述べている。イブン・クダーマ(ハンバリー派法学者、1223年没)も『大全(al-Mughn)』の中で「ウマルはムアーズ・ブン・ジャバルとアブー・ウバイダをシリアに派遣した時に、彼らに『お前たちの許にいる者たちの中の義人を探して、裁判官に任用し、彼らを優遇し、彼らに俸給を、アッラーの財(国庫)から支給せよ』と書き送った」と述べている。

法廷の組織構成
 裁判の判決の権限を有する一人の裁判官以外で法廷が構成されることは許されない。彼の他に、一人以上の裁判官が臨席することは許される。しかし彼らに判決の権限はなく、ただ協議、意見表明の権限を有するのみで、彼らの見解は拘束力を持たない。
 それは使徒が1件の訴訟で2人の裁判官を任命されたことは一度もなく、1件の訴訟につき一人の裁判官を任命されたからである。また裁判とは強制を伴う聖法の判断の宣告であるが、ムスリムにとって聖法の判断は一つであり、複数とはならない。それはアッラーの規定であり、アッラーの規定は一つだからである。確かに、その解釈は複数になることもあるのも事実である。しかし実際に行われるべきものということでは、ムスリムにとってそれは一つでしかなく、決して複数にはなりえないのである。裁判官が訴訟で強制を伴う聖法の判断を宣告する時、この宣告は唯一でなければならない。なぜならそれは本質においてアッラーの規定の執行であり、アッラーの規定は、その解釈が複数に分かれることがあっても、それが実行される時には唯一であり、複数とはなりえないからである。それゆえ1件の訴訟において、つまり一つの法廷において、裁判官が複数となることは許されない。
 全ての訴訟において、一つの地方であるが、人の場所に、別個の二つの法廷がある場合、それは許される。なぜなら裁判はカリフの代行であるので、代理委任(waklah)に準じて、複数になることが許されるのである。また一つの場所に複数の裁判官がいることも許される。一つの場所で、訴人たちの間で、2人の裁判官のどちらを執るかで争いが生じた場合は、原告の側が優先され、原告が望む裁判官がその訴訟を担当する。なぜなら原告は権利請求者であり、それゆえ原告が被請求者(被告)に勝るからである。
 裁判官は、法廷の座でしか判決を下すことは許されない。証拠証言も誓言も法廷の座以外では有効とは看做されない。その典拠は「アッラーの使徒は、2人の訴人は判事(kim)の前に座るように裁定された」とのハディース である。このハディースは裁判が成立する形式を明らかにしている。そしてそれはそれ自体が聖法で定められた形式である。つまり、裁判が成立する特定の形式が存在しなくてはならないのであり、それは2人の訴人が判事の前に座ることである。「アッラーの使徒がアリーに『2人の訴人がお前の前に座ったなら、最初の者の言い分を聞いたように、他方の言い分を聞くまでは発言してはならない』と言われた」とのアリーが伝えるハディースもそれを支持している。またそれは「2人の訴人がお前の前に座ったなら」との言葉で特定の形式を示しているのである。それゆえ法廷は裁判の成立条件であり、アル=ブハーリーがアナスから伝える「誓言は被告に課される」との使徒の言葉にある誓言の有効性の条件でもある。原告にここで言われること(誓言)が求められるのは、法廷において以外はない。アル=バイハキーの伝える「証拠は原告に課され、誓言は被告に課される」との使徒の言葉にある証拠も法廷でしか有効ではない。被告がここで言われること(証拠提出)を求められるのも、法廷において以外はないのである。
 裁判の種類に関して、裁判所に複数のレベルがあることは許され、一部の裁判官に一定期間、特定の訴件を任せ、それ以外の訴件を別の裁判所に委ねることも許される。
 それは、裁判はカリフの代行であり、それは代理委任と全く同じで、いかなる相違もないからである。それは代理であり、代理は不特定であることも、特定されていることも許される。それゆえ裁判官はある裁判官(甲)を特定の訴件について任命し、他の訴件については(代理委任を)拒むことも許され、また別の裁判官(乙)を別の訴件に任命することも許され、また同じ場所であっても最初の裁判官(甲)が任命された同じ訴件に任命することも許される。それゆえ第一世代のムスリムたちの間で存在したように、法廷のレベルが複数存在することは許される。
アル=マーワルディーは『統治の諸規則(al-Akm al-Sulaiyah)』の中で以下のように述べている。
「アブー・アブドッラー・アル=ズバイリーは言った。『バスラの我々の指揮官たちは一定の期間、裁判官を大モスクに勤務させ、「モスク付裁判官」と呼んでいた。200ディルハムと20ディーナール、あるいはそれ以下で裁判を行い、必要経費を課した。彼はその場を外れることも、決められた金額を超えることもなかった。』」
使徒はアムル・ブン・アル=アースに彼の代行を委ねたように、1件の訴訟のみの裁判に彼の代行を任じたこともあれば、アリー・ブン・アビー・ターリブにイエメンでの裁判を代行させたように、ある地方の全ての訴訟での裁判の代行を任命することもあった。それは裁判を限定することが許されるのと同じく、その一般化も許されることを示しているのである。
 破毀院、控訴院もない。裁判は決定のレベルにおいては単一であり、裁判官が判決を下せば、その判決は執行される。それを他の裁判官の判決が破棄することはありえない。イスラーム法原則に「イジュティハード(独自の法判断)は同格の判断を破棄しない」とある通りである。どのムジュタヒドにも他のムジュタヒドに対する論駁はない。それゆえ他の裁判所の判決を棄却する裁判所の存在は有効ではない。
 但し裁判官が、イスラーム法の法規定を捨てて、不信仰の法規定で裁いたか、クルアーンか、スンナか、預言者の直弟子たちのコンセンサスの確定的な明文に反する裁定を下すか、あるいは故意の殺人で同害報復刑の判決を下したところが、真犯人の殺人犯がみつかったなどの事実と異なる判決を下したような場合には、裁判官の判決は破棄される。
それは「われわれのこのこと(宗教)に本来そこになかったものを捏造した者は否定される」とのハディース による。またジャービル・ブン・アブドッラーは「男が女と姦通をした。そこで預言者の命令で彼は鞭で打たれた。その後でその男は既婚者であると判明した。そこでその男は預言者の命令で石打に処された。」と伝えており、マーリク・ブン・アナスは、以下の話を伝え聞いたと伝えている。「ウスマーンの許に6か月で出産した女性が連れてこられたが、ウスマーンは彼女を石打にするように命じた。するとアリーが彼に「彼女に石打はない。なぜなら至高なるアッラーは『妊娠と離乳は30か月』(46章15節)と言われ、また『母親は授乳の全うを望む者には、彼女らの子を満2年間授乳する』(2章233節)と言われているので、妊娠は6か月であることになり、それゆえ彼女には石打はない。」と言った。そこでウスマーンは彼女の釈放を命じた。」
 アブドッラッザーク(al-ann, ハディース学者、827年没)はアル=サウリー(Sufyn, ハディース学者、法学者、778年没)が「もし裁判官がクルアーンか、スンナか、コンセンサスの成立していることに反する判決をくだしたら、彼の後の裁判官がそれを棄却する。」と述べたと伝えている。
 そしてこれらの(誤った)判決を棄却する権限を有しているのは行政不正裁判官なのである。

市場監督官
 市場監督官とは、法定刑の課される罪や傷害・殺人の範疇には入らないが、公共の権利にかかわり、しかし原告がいないような、全ての問題を司る裁判官である。
 これが市場監督裁判官の定義であり、山積みにされた食物のハディースから取ったものである。使徒は山積みにされた食べ物の湿気を感知し、人々が見えるように、それを山の表面に置くように命じられた。これは人々に共通する権利であり、使徒はそれを視察し、誤魔化しがなくなるように、湿った食べ物を山の表面に置くように裁定されたのである。これはこの種の全ての権利を含んでいるが、法定刑犯罪、傷害・殺人罪は含まない。なぜならそれらは本来、人々の間の争いであり、この範疇には入らないからである。 

 市場監督官の権限
 市場監督官は法廷を開廷することなくいかなる場所でも違反に気付いた現行犯でその違反を裁くことが出来る。市場監督官はその命令をその場で執行するために配下に複数の警察官を従える。
 市場監督官は訴訟を司るために法廷を要さず、違反の存在を確認さえすればそれを裁くことができる。市場監督官は、市場であれ、民家であれ、乗り物の上であれ、戦場であれ、昼夜を問わず何処でも何時でも裁く権限を有する。なぜならば訴訟を司るのに法廷が条件となることを論証する典拠は市場監督官には当てはまらないからである。裁判に法廷が条件となることを証明するハディースは「2人の訴人が判事(kim)の前に座る」、「2人の訴人がお前の前に座ったなら」と述べているが、こうした条件は市場監督の裁判官には存在しないのである。なぜならば市場監督の裁きにはそもそも原告と被告がおらず、公共の権利の侵害か、あるいは聖法の違反があるだけだからである。また使徒は山積みの食べ物を視察した時には、市場を巡回中であったが、その食べ物が売り物として山積みされているのを見聞したのであり、その持ち主を彼の許に召喚したりはせず、違反を見つけたその場で裁きを下されたのである。これは市場監督の裁判が法廷を必要としない典拠なのである。
 市場監督官には、市場監督官の資格条件を備えた代行者を選任し、様々な方面に配属する権限を有する。こうした代行者たちには、その委任された問題について、任命された地域、地区内で、市場監督の任務を遂行する権限が与えられる。
 但しこれは市場監督官の任命の時点で、その任命に代行任命権、つまり後任指名(istaikhlf)権の授与が含まれていた場合である。もし彼に後任指名権、つまり代行任命権が与えられていなければ代行の任命の権限はないのである。 

行政不正裁判官
 
 行政不正裁判官とは、臣民(rayah)であれ、「非―国民」であれ、国家権力下に暮らす個人が、カリフであれ、それ以下の為政者や公務員であれ、国家から蒙った不正の除去のために設けられた裁判官職である。
 以上は行政不正裁判官の定義であるが、行政不正裁判官の典拠は、預言者が為政者が不当に行った行為を不正と呼ばれたと伝える以下ハディースである。
「使徒の治世に物価が上昇し、人々が『アッラーの使徒よ、物価統制をされてはどうでしょう』と言うと、使徒は言われた。『アッラーこそ、物価を創造し、高め、低くし、恵まれる御方である。私は、(楽園で)アッラーに見える時、血についでであれ、財産についてであれ、私がその者に不正を為したと誰も訴えないことを望む。』と言われた。」
使徒は物価統制を不正(malimah)と呼ばれた。なぜなら、もしそれを行えば、彼に権利のないことを行ったことになるからである。同様に国家が人々の福利厚生のために計らった公共的諸権利に関して生じた諸問題の不正の処理は行政不正裁判の管轄となる。
 もし人々の公正福利のために何らかの行政の制度を設けたところ、臣民(rayah)の誰かがその制度によって不正を蒙ったと訴えるなら、その訴件は行政不正裁判の管轄となる。なぜならそれは国家が人々の福利厚生のために設けた行政によって生じた不正だからである。
例えばそれは、公共の水を国家が設置した水車で農業の潅漑のために引いた場合に生じた不正のようなケースである。その典拠は、あるマディーナの「援助者」の一人が、国家の潅漑によって蒙った不正についての以下のハディースである。それは潅漑用水を一人、一人、順番に農地に流す、という制度であったが、その「援助者」は、アル=ズバイルが、彼の農地に水を遣る前に、自分の農地に水を流すことを望んだ。それはその用水路がアル=ズバイルの土地に先に通っていたからであるが、アル=ズバイルはそれを拒んだ。そこでこの問題はアッラーの使徒の許に持ち込まれたが、使徒は、先ずアル=ズバイルが自分の農地に軽く水を引いた後にその「援助者」の隣人に水を回すようにと(つまり、アル=ズバイルがその「援助者」を助けるために水車に一杯の水を取らないようにと)、と2人の間を裁定した。しかしその援助者はその裁定に満足せず、アル=ズバイルの潅漑の前に自分の農地に水が流れることを望んだ。そしてアッラーの使徒に、彼のその裁定がアル=ズバイルが自分の従兄弟であるから(身内を贔屓したのだ)と言った。(それはアッラーの使徒に対する重大な不敬であったが、使徒はその「援助者」がバドルの戦いに参加した古参の信者であったために、その発言を赦された)
そこで使徒はアル=ズバイルが潅漑における彼の権利を全うすること、それは水が、塀の土台、つまり側壁、あるいは木の根元に達するまで水を引くようにと裁定した。(学者たちは、その意味を「人のくるぶしまで水が達するまで」と解釈している)。
それゆえ上述のこの二つのハディースから理解されるように、統治者によるものであれ、国家機関とその命令によるものであれ、誰が蒙った不正であれ、不正行政とみなされ、その件は、その不正の解決のために、カリフか、カリフがその代行を委任した行政不正裁判官に訴えることができる。

行政不正裁判官の任命と罷免
行政不正裁判官はカリフ、あるいは司法長官によって任命される。なぜなら行政不正裁判は裁判、つまり強制を伴う聖法の判断の宣告であり、既述の通り使徒が全ての種類の裁判官を任命されていたことから、全ての裁判官はカリフによって任命されることになるからである。それゆえカリフが行政不正裁判官の任命権者なのであり、司法長官は、カリフによって任命された時点で行政不正裁判官の任命を認めた場合、その任命が許される。
首都にある最高行政不正裁判所はカリフ、大臣、司法長官に対する訴件のみを扱い、行政不正裁判所の地方支部が、地方総督、知事、その他の公務員に対する行政訴訟を管掌すると定めることも許される。カリフは中央行政不正裁判所に、その下にある地方支部の行政不正裁判官の任命と罷免の権限を委譲することも許される。
カリフが首都の最高行政不正裁判所の裁判官たちを任命、罷免する。最高行政不正裁判所長官、つまりカリフの罷免を審査する行政不正裁判官、の罷免に関しては、原則は、他の全ての裁判官の場合と同様に、カリフに任命権と同じく罷免権がある。しかし、もし罷免権がカリフの手にあれば、その権限が禁止事項を導く蓋然性が高い状況が生じうるため、その際には、「禁止事項の誘引となるものは禁止事項である」との法原則が適用されるのである。というのはこの原則には蓋然性があれば十分だからである。
その禁止事項の誘引となる状況とは、カリフ、大臣、司法長官(カリフが司法長官に行政不正裁判官の任命、罷免権を与えた場合)に対する行政訴訟がおこされた場合である。なぜならこの場合に罷免権がカリフの手中にあるなら、その行政不正裁判官の判決に影響し、結果的に行政不正裁判官のカリフとその補佐たちを罷免する権力を制限することになるかもしれないからである。それゆえ罷免権はこの場合には禁止事項への誘引となるので、こうした状況では、罷免権をカリフに与えることは禁止されるのである。
 それ以外の場合には、規定は原則のままとなる。つまり行政不正裁判官の罷免権は任命権と全く同じくカリフが有するのである。

行政不正裁判の権限
行政不正裁判所は国家機関に働く者による不正であれ、カリフによる聖法の規定に対する違反であれ、憲法、法令その他の、カリフが定めたあらゆる政令の立法の文言の解釈であれ、行政法令によって臣民(rayah)が蒙った法益の侵害であれ、不当な税金の押し付けであれ、その他の何事であれ、あらゆる行政上の不正を審査する権限を有する。
行政不正裁判には、法廷の開廷、被告の訴え、原告の存在は条件とならず、行政不正裁判所はたとえ誰からの訴えがなくとも、行政上の不正の審査を開始する権限がある。それは行政訴訟が、国家機関の人間に関わる場合も、カリフの聖法への違反に関わる場合も、立法、憲法、カリフの定めた法令の意味の解釈に関わる場合も、課税に関わる場合も、国家の国民への(rayah)弾圧、暴力による迫害、財産の没収などの不正、公務員や兵士の俸給の不払い、減額、支給遅延などあらゆる場合について同じなのである。(法廷、被告、原告の訴え不要)
なぜなら、行政不正裁判には原告が不要であり、そもそも原告が存在しない以上、訴訟の審議が法廷の存在を条件とする典拠は、行政不正裁判には当てはまらないからである。行政不正裁判所は、誰も訴える者がいなくとも、また被告が出廷する必要もないので、被告がいなくとも、行政の不正を審査する。なぜなら行政不正裁判所は行政上の不正を精査するのであるから、裁判に法廷の存在が条件となる典拠であるハディース「アッラーの使徒は、2人の訴人は判事の前に座るように裁定された」 と「2人の訴人がお前の前に座ったなら」 は行政不正裁判には当てはまらないからである。
それゆえ行政不正裁判は場所にも時間にも法廷にもその他の何物にも縛られるとなく、全く無制限に、行政の不正を審査することが出来る。但し行政不正裁判所の権限の格の高さに鑑み、それなりの威厳が保たれる必要がある。エジプトとシリアでは王侯たちの時代には、行政不正裁判はスルターンの宮廷で行われ、「正義の館」と呼ばれ、スルタンの代行者たちを従事させ、裁判官や法学者たちが臨席した。アル=マクリーズィー(歴史家、1441年没)は『王たちの国の知識への道(al-Sulk il Marifah Duwal al-Mulk)』の中で、「スルタン・アル=サーリフ・アイユーブ王(アイユーブ朝初代スルタン在位1169-1193年)は、行政上の不正を取り除くために、『正義の館』に公証人、裁判官、法学者たちと共に、自分の代行者たちを召集した」と述べている。それゆえ、行政不正裁判所に、壮麗な部屋を作ることに問題はない。なぜならそれは許されたことであり、特にそれによって正義の重大さが際立つならそうなのである。

カリフ制が再興される以前の契約、商行為、訴訟
カリフ制が再興される前に確定し、執行された契約、商行為、訴訟の判決は、その当事者の間で有効に成立し、カリフ制の樹立以前に執行済みであると看做され、カリフ制の下での裁判により覆されることはなく、蒸し返されることもなく、また同じ訴件がカリフ制の樹立後に再度受理されることもない。
但し、以下の2つの場合は例外となる。
(1) 確定し執行済みの件であっても、それがイスラームに反する悪影響を将来まで持続的に及ぼす場合。
(2) その件が、イスラームとムスリムに害を為す者にかかわっている場合。
上記の2つの場合を除いて、カリフ制が再興される前に確定し、執行された契約、商行為、訴訟の判決が、覆されず、再考されないのは、使徒が(イスラーム以前の)無明(ジャーヒリーヤ)時代の商行為、契約、訴訟などを、彼らの居住地が「イスラームの家」に転化した時に、破毀されなかったからである。使徒はマッカの征服後も、かつてそこを捨てた町(マッカ)に戻らなかった。アキール・ブン・アビ-・ターリブ(預言者ムハンマドの従兄弟)がクライシュ族の慣習法に従って、イスラームに入信してマディーナに亡命した預言者の親族たちの家屋を相続し、それを処分し、売却しており、その中には預言者自身の家も含まれていた。そしてその(マッカを征服)の時、預言者は「どこに宿泊されますか?」と尋ねられ、「アキールは我々に住まい(rib)を残しているか?」と聞き返された。  
アキールは既にアッラーの使徒の家を売ってしまっていたが、使徒はそれ(我が家の売却)を取り消されなかったのである。
またアブー・アル=アース・ブン・アル=ラビーウは、彼の妻がアッラーの使徒の娘のザイナブで先にイスラームに入信しバドルの戦いの後でマディーナに亡命していたが、彼はまだその時点では多神教徒のままでマッカに留まっていたが、遅れて自分もイスラームに入信しマディーナに亡命した時、使徒は無明時代に結んだ婚姻契約を追認し、婚姻契約を新たに結びなおさせることなく、妻で自分の娘のザイナブを彼に返された。イブン・マージャはイブン・アッバースから「アッラーの使徒は、娘のザイナブを最初の婚姻から2年後にアブー・アル=アース・ブン・アル=ラビーウに返された」と伝えているが、それはアブー・アル=アースが入信した後のことであった。
 イスラームに反し継続的な悪影響のある問題の再考に関しては、使徒は彼らがイスラーム国家に住むようになった後では、残っていた利子を帳消しにして、元金だけを彼らに残した。つまりイスラームの家の成立後は、彼らに残っていた利子は無効にされたのである。
「『別離の巡礼』でアッラーの使徒は『無明時代の利子のうちの全ての利子は無効となった。お前たちには資本金は残る。お前たちの誰も不正をはたらかず、不正を蒙ることもない』言われた。」
また同様に無明時代の慣習法で4人以上の妻と結婚していた男たちはイスラームの家の後には4人のみに止めるようになった。
「ガイラーン・ブン・サラマ・アル=サカフィーが10人の妻と共にイスラームに入信した時、預言者が彼に彼女らの中から4人を選ぶようにと命じられた」(ハディース)
イスラームに反する継続的な悪影響がある契約については、カリフ国家が樹立されればその悪影響は除去されなくてはならない。その除去は義務なのである。たとえば、もしムスリム女性がイスラーム入信前にキリスト教徒であったとすれば、カリフ国家の樹立後には聖法に則り、この契約は取り消される。
 イスラームとムスリムを害する者に関わる問題については、使徒はマッカを征服された時、無明時代にイスラームとムスリムに害をなしていた数人の処刑を許された。
「イスラーム入信によっても、それ以前になしたことは義務である」とのハディース があるにもかかわらず、カアバ神殿の外布にしがみつこうとも彼らは処刑されるとして、処刑を許されたのは、イスラームとムスリムを害する者がこのハディースの規定の例外として除外されるからである。
しかし使徒は彼らの中でもイクリマ・ブン・アビー・ジャハルを赦された。後に彼らの一部を赦されたことから、カリフはこれらの者については再考することも、赦すことも出来るのである。これは、真理の言葉を口にしたムスリムを迫害したか、イスラームを誹謗した者に当てはまる。なぜならそれらの者には「イスラーム入信によっても、それ以前になしたことは義務である」とのハディースは当てはまらず、彼らはそこから除かれるからである。それゆえカリフが適当とみなすなら、彼らの問題は再考に付されるのである。
これらの2つの場合以外には、カリフ制樹立以前の契約、商行為、判決は、カリフ制樹立前に確定され、執行が終わっている限り、取り消されることもなく、再考されることもないのである。
たとえば学校の門を壊した容疑で2年の入牢の判決を受けて、カリフ国家樹立以前にその2年の刑期を終えて出所していた者が、カリフ国家樹立後に、自分は入牢は不当であると考え、彼に入牢の判決を下した者を訴えても、その訴えは棄却される。なぜならカリフ制樹立以前に裁判は行われ、判決が下され、それは既に執行されたのであるから、彼の問題はアッラーに委ねられるのである。
一方、10年の入牢の判決を受け、刑期が2年経った時点でカリフ制度が樹立された場合、カリフにはその件を取り扱うことができ、(1)刑罰を完全に取り消し無罪放免にするか、(2)あるいは経過分のみを追認する、つまり判決が2年の刑であったとして釈放するか、(3)残りの判決については、臣民(rayah)にとって有益な聖法の規定が適用され、特に個人の権利に関わる問題であった場合には、人間関係の改善に役立つ聖法の規定が適用されるような判断を下すかのいずれも許される。

10.行政機関(国民福祉)
 国事行政、国民福祉は、国事を担当し人々の福祉を実現する諸官庁、諸局(dawir)、諸部(idrt)が管掌する。全ての官庁(malaah)には事務総長(mudr mm)が任命され、全ての部、局には直接に責任を負ってその行政を司る部、局長を置く。これらの部、局長は、実務においては、彼らの属する官庁、部局の事務総長に対して責任を負い、一般法規や規則の遵守面においては総督や知事に対して責任を負う。
 かつてアッラーの使徒は、諸官庁を自ら管掌する一方、その行政の書記を任じていた。使徒はマディーナで人々の福祉を司り、諸事の世話をし、問題を解決し、人間関係を調整し、需要を満たし、それらにおいて彼らの状況が改善されるように導かれていた。これらは全て人々の生活を問題、支障なく安楽にするための行政なのである。
教育に関しては、アッラーの使徒は戦利品としてのムスリムの財産となった不信仰者の捕虜の解放にあたって身代金の代わりに、10人のムスリムの子弟の教育を課された。教育の保証は人々の福祉の一部であった。
医療に関しては、アッラーの使徒に医者が贈られたが、彼はその医者をムスリムたちのために提供された。アッラーの使徒が、贈り物としてもらった医者を(売ったり賃貸ししたり)処分もせず、侍医ともせず、ムスリムたちのために提供されたことは、医療がムスリムの福祉の一部であった典拠である。
労働問題については、アッラーの使徒は、ある男に、人々に物乞いをして貰ったり、断られたりする替わりに、紐と斧を買って薪を集めて人々に売るように指導された。
「『援助者』の一人の男が預言者の許にやって来て物乞いをした。預言者は『お前の家に何かないか』と尋ねられた。男は『はい、一部を着たり、一部を敷いたりする布と、器があります』と答えた。そこで預言者は『それらを私に持って来なさい』と言われ、男はそれらを持参した。アッラーの使徒はそれらを手にされ『誰かこれらを買う者はいないか』と言われた。ある男が『私がそれを2ディルハムで買います』と言ったので、使徒はそれらを彼に与え2ディルハムを受け取り、それを件の『援助者』に渡され、『1ディルハムで家族に何か買い与えなさい。そして残りの1ディルハムで手斧を買ってそれを持ってきなさい』と言われた。そして彼が手斧を買って持ってくると、アッラーの使徒は自らの手でそれに柄を付けられ、そして『行って、薪を集めて、売りなさい。私は今後、15日間、お前には会わない。』と言われた。そして彼はそれを実行し、10ディルハムを儲けてやって来たのであった。」
道路問題では、アッラーの使徒はその治世に、紛争が生じた場合は、道路の幅を7腕尺にして、道路の整備をされている。
「預言者は通り道について人々が争った時には、7腕尺と裁定された」(ハディース)
それは当時にあっては道路整備行政であった。シャーフィイー派の見解にあるように、必要があれば、より大きくても構わない。
また使徒は道の侵害を禁じられている。
「ムスリムの公道を1指尺でも奪う者には、復活の日、アッラーは7つの地をその首に巻きつけ給う」(ハディース)
農業に関しては、アル=ズバイルとある「援助者」の男が、二人の土地を流れる水路の潅漑で争った時に、使徒は「ズバイルよ、先ず水を引き、それからお前の隣人に水を流してやれ」と言われている。
 このように、使徒はムスリムの福祉を司り、その行政問題を、易しく簡単に解決され、そのために時には直弟子たちの手を借りられた。その後、人々の「福祉(mali)」は、カリフが管掌するか、そのためにそれを担う有能な事務長を任命する(国家)機関となった。そしてそれが我々の決定でもあるが、それはカリフの重責を軽くするためである。特に、福祉が多様化、増大したので、人々の福祉のための機関が創設される。その機関は、有能な事務長が臣民(rayah)の暮らし易い方法と手順で運営し、煩雑でなく簡単で容易に必要なサービスを十分に提供するのである。
 この機関は諸官庁、諸局(dawir)、諸部(idrt)で構成される。官庁 (malaah)は最高行政府であり、国籍管理、運輸、貨幣鋳造、教育、保健、農業、労働、道路など国家のあらゆる公益を司る。この官庁は、官庁自体の行政及び、下位の部局の行政を管掌する。局は局自体及び、下位の部の行政を管掌する。部は部自体及び、下位の支部(fur)や係(aqsm)の行政を管掌する。
 これらの官庁、部局は、あくまでも国事を担当し、人々の福祉を実現するために創設される。これらの官庁、部局の運営を保証するためには、その責任者の任命が必要である。全ての官庁にはその官庁の諸事を直接管掌し、下位の全ての部局を監督する事務総長が置かれる。全ての部、局には、その部、局には直接責任を負い、下位の支部(fur)や係(aqsm)にも責任を負う事務長が置かれる。

行政機関は行政の統治に非ず
 行政機関とは、行為の実行の方策の一つ、手段の一つでしかなく、特別にその根拠を要しない。その基礎を示す一般的根拠で十分である。これらの方策は人間の行為であるので、聖法の規定に則って機能しないと有効ではない、とは言われない。そうは言われないのである。なぜならばこれらの聖法の典拠は、その基礎を一般的に示しており、それがそこから派生する諸行為を含んでいるのである。但しその基礎から派生する行為の聖法の典拠があるなら、その時、それはその典拠に従属するのである。例えば、至高者は「浄財を納めよ」(2章83節他多数)と言われている。これは一般的典拠である。そして、浄財の義務が生ずる資産最低額、浄財徴税、浄財のかかる資産の種類などのそこから派生する諸行為の典拠が来る。これらは全て「浄財を納めよ」との聖句からの派生である。しかし浄財徴税吏の浄財の具体的徴収方法の詳細については、騎乗で行くのか、徒歩で行くのか、手助けに賃労働者を雇うのか、それを帳簿に計算、記入するのか、彼らに集合場所を決めておくのか、彼らが徴収した浄財を置く貯蔵庫を設けるか、これらの貯蔵庫は地下に作られるか、あるいは穀倉のように地上に建てられるのか、通貨の浄財は袋によって徴収されるのか、箱によってなのか、などは「浄財を納めよ」の派生であるから、その一般的典拠(「浄財を納めよ」)に全て含意されているのである。なぜならそれらに関する特定の典拠はないからである。方策は全て同様なのである。つまり方策とは、一般的典拠が示されている基礎となる行為の派生的行為で、この派生的行為には特に典拠は示されていないが、その基礎となる行為の典拠がその(派生的行為の)典拠なのである。
 それゆえ行政の方策は、特定の行政の方策の禁止を示す個別のクルアーン、スンナの明文のテキストがない限り、いかなる制度を採用しても構わない。行政機関の仕事の効率化と、人々の福祉の実現に適しているなら、それ以外の行政の方策は採用できるのである。なぜならば行政の方策は聖法の典拠を要する統治ではないからである。それゆえウマルは兵士と臣民(rayah)に恩賞や報償などの公有財や国家財を分配するために、彼らの名前の登録のために登記庁制度を採用したのである。
「ウマルは登記簿の記帳についてムスリムたちに諮問したが、アリー・ブン・アビー・ターリブが『毎年、あなたの許に徴収された富を分配し、そこから何も取ってはならない』と言い、ウスマーン・ブン・アファーンは『私は富は人々に十分にあると思います。もし受け取った者とまだ受け取っていない者が区別できるように記録していなければ、混乱が生ずるのでは、と懸念します』と言った。そこでアル=ワリード・ブン・ヒシャーム・アル=ムギーラが『私はかつてシリアに居たが、そこの王たちが登記簿に登記し、兵士を徴兵しているのを見ました。それゆえ登記簿に登録し、兵士を徴兵してください。』と言った。ウマルはアル=ワリードの意見を採用し、アキール・ブン・アビー・ターリブ、マフラマ・ブン・ヌファイル、ジュバイル・ブン・ムトイムを呼び出し、『人々を家ごとに書き記せ』と命じられた。」この三人は、クライシュ族の系譜に詳しい者であった。」
 その後、イラクでイスラームが勝利したが、登記庁は、それ以前のままであった。シリアはギリシャ人の王国であったのでシリアの登記庁はギリシャ語が用いられていたが、イラクはペルシャ人の王国であったためイラクの登記庁ではペルシャ語が用いられていた。ウマイヤ朝カリフ・アブドルマリクの治世のヒジュラ暦81年にシリアの登記庁はアラビア語に変わったが、その後、臣民(rayah)の必要に応じて、登記庁の新設が続いた。当時、軍の登記庁は軍籍と俸給を司り、労務の登記庁は税と権利を司り、地方総督と知事の登記庁は任命と罷免を司り、財務の登記庁は収入と支出を司る、といった形であった。当時の登記庁の新設は需要に応じてであり、方策や手段の変化に応じてその法策は時代に応じて異なっていたのである。
 それゆえ官庁の役所、あるいは登記庁と呼ばれるものの新設には必要性が考慮されるのであり、その必要な責務の遂行に役立つ行動の方策、実行の手段は時代毎、地域ごと、国毎に異なってよいのである。
 以上は、官庁、あるいは登記庁の創設についてであった。それらの公務員の責任については、彼らは被雇用者であると同時に「臣民(rayah)」の一人である。彼らは被雇用者である、つまりその職務を遂行する限りにおいて、所属部局の上司、つまり部局長に対して責任を負い、「臣民(rayah)」としては、地方総督、カリフ補佐に対して責任を負い、カリフに対して責任を負い、聖法の諸規定と行政規則に拘束される。

官庁の行政政策
 官庁の行政政策は、制度において簡易、職務遂行において迅速、行政担当者が有能であることを旨とする。それは福祉の現実の実態から引き出される。福祉を望む者はそれが迅速かつ、完全な形で実現することだけを望む。使徒も「アッラーは万事において最善を尽くすことを命じ給うた。殺す時にも最善の殺し方をし、屠る時も、最善の屠殺をせよ」(ムスリムがシャッダード・ブン・アウスから伝えるハディース)と言われている。それゆえ職務遂行に当たって最善を尽くすことは聖法によって命じられているのである。そして福祉の実現における至善の達成には行政部局は、(1)制度における簡易性、(2)仕事の遂行の迅速性、(3)時実務担当者の能力と適正性、の3つの性質を備える必要がある。なぜなら制度の簡易さは手続を簡単で易しくし、複雑さは困難にするからであり、迅速性は、福祉を要する者の便宜となるからである。これらはその職務遂行自体に必要なだけでなく、職務に最善を尽くすためにも不可欠なのである。

行政機関就労資格者
 国籍(tbiyah)と適正を有する者は全て、男女、ムスリム、非ムスリムの区別を問わず、全ての省庁の長官、公務員に任命されることが出来る。
 これは賃契約(ijrah)の規定から演繹される。なぜなら国家の行政官、公務員は、賃契約の規定によると、賃労働者(被雇用者)であり、賃労働者の雇用は、ムスリムであれ、非ムスリムであれ、無条件に許されているからである。これは賃契約の合法性の一般的、無限定的典拠によっている。
至高なるアッラーは「もし彼女たちがお前たちのために授乳したなら、彼女らにおの賃金を支払え」(65章6節)と言われているが、この節は一般的であり、ムスリムに限定していないのである。
「至高なるアッラーは『復活の日に我は3人の者を糾弾する。・・・中略・・・賃労働者を雇い、契約通りに働かせておいて彼にその賃金を払わない者である。』と言われる。」(ハディース)
このハディースも無限定で、ムスリムの賃労働者と限定していない。またアッラーの使徒はアル=ディール族(バクル族の支族)の男と賃契約を結ばれたが、その男は当時まだその部族の宗教(多神教)に従っていた。これもムスリムとの賃契約と同じように非ムスリムとの賃契約が許されることの典拠となる。同様に典拠の一般性、限定の不在から、男性との賃契約が許されるのと同じく、女性との賃契約も許される。女性も国家の行政部局の部局長になることも、公務員になることも許され、また非ムスリムも国家の行政部局の部局長になることも、公務員になることも許される。なぜならそれらは賃労働者(被雇用者)であり、賃労働の根拠は、一般的、無限定だからである。

第11章.国庫
 「国庫(bait al-ml)」とは熟語であり、「国家収入を支出されるまで保管する場所」を意味して用いられることもあり、「ムスリムたちが権利を有する財物を徴収し、支給する権限を占有する機関」を意味して用いられることもある。
 既述の通り、我々は(地方)総督が、軍、司法、財務を除いて、地域を管轄すべきである、と定めた。それに基づき、軍には全体の中央執行機関(ジハード総司令)があり、司法にも、全体の中央執行機関(司法長官)があったが、同様に財務にも全体の中央執行機関があり、それが国庫である。それゆえ国庫は他の国家機関から独立した機関であり、他の国家機関と同様にカリフに直属する。
 加えて、国庫がかつてアッラーの使徒、あるいはカリフ、あるいはその(使徒、カリフ)の許可を得てそれを管掌した者に直属していたことを示す典拠は豊富にある。アッラーの使徒は時に自ら国富を金庫に搬入し、時に財物を受け取り、それを分配し、それを倉庫に入れ、時にそれらの仕事を他者に委任された。同様に使徒の後の正統カリフたちも国庫の管理を自ら執り行ったり、その代行を他者に委ねたりしていた。
以下の3つのハディースにあるように、アッラーの使徒は国富を、モスクに置くか、彼の妻たちの部屋のどこかに置くか、あるいは倉庫に収められていた。
「預言者の許にバハレーンから財物が届けられると、預言者は『それをモスクに置いてきなさい』と言われた」(ハディース)
「私(ウクバが)はマディーナで晩午の礼拝を預言者の背後で行ったが、預言者は礼拝終了の平安の挨拶を済ますと、急いで立ち上がり、人々の頭上を跨ぎ越えて彼の妻たちの部屋のどれかに向かわれた。人々は彼の様子に恐れをなしていた。その後、使徒は人々の間に現れ、彼が急いだことを人々が訝しんでいるのを見て『(礼拝中に)私たちの許に置いてあった砂金のことを思い出したもので、それが私の心を占めるのを嫌って、それを分配してしまうように命じてきたのだ』と言われた」(ハディース)
「私(ウマル)が『アッラーの使徒は何処にいらっしゃるか』と尋ねると、『アル=マシュルバの倉庫におられます』と彼女(ハフサ)は答えた。・・・中略・・・私はアッラーの使徒の倉庫を我が目で見たが、部屋の片隅におよそ手に一杯分ほどの大麦と、同じほどの量のネムリグサの葉と、動物の生皮が掛けられていた。私の両目に涙があふれた。すると使徒は『イブン・アル=ハッターブよ、なぜ泣くのか』と尋ねられた。私は『アッラーの預言者よ、あなたの脇腹にはゴザの跡があり、あなたの倉庫には私が眼にしたものしか見出せないというのに、どうして泣かないでいられましょう』と答えた。」
 正統カリフの治世に、国富が保管される場所が「国庫」と呼ばれるようになった。
「アブー・バクルはアル=スンフに国庫を有していたが、誰も番をする者はいなかった。私が『あれには番人をおかないのですか』と言うと、彼は『あれには鍵がある』と答えた。彼はその中にあるものを空になるまで与えていた。彼がマディーナに移るとそれも移して彼の自宅においた。」
「ある男がウマルのところにやって来て『信徒の長よ、私を乗せて行ってください。私はジハードを望んでいます。ウマルは男に『自分で取りなさい』と言い、彼を国庫に入れ、彼は望むままに取った。』と語った」
「アブー・フザイファの解放奴隷のサーリムは、サルマー・ビント・ヤアールという名の女性の解放奴隷だった。無明時代にサーイバが彼を奴隷の身分から解放した。彼(サーリム)がヤマーマで戦死した時、ウマル・ブン・アル=ハッターブがその遺産を持ってきて、ワディーア・ブン・フザームを呼び、『これはあなたたちの解放奴隷(サーリム)の遺産だ。あなた方がそれに最も権利を有する』と言った。すると彼(ワディーア)は言った。『信徒の長よ、アッラーは我々を豊かにして下さいました。彼をかつて我々の仲間のサーイバが解放しましたが、我々は彼(サーリム)から何も得よう(nand, narza’a)とは望みません。』そこでウマルはそれを国庫に入れた。」
「スフヤーン・ブン・アブドッラー・ブン・ラビーア・アル=サカフィーが皮袋の落し物を見つけ、ウマル・ブン・アル=ハッターブの許に届けた。ウマルは『一年間、それを公示し、落とし主が分かれば彼のものとなり、そうでなければあなたのものとなる』と言ったが、結局(落とし主は)知られなかった。翌年の巡礼で、ウマルは彼にそれを持参し、彼にそれを思い出させて『これはあなたのものだ。アッラーの使徒はそれを我々に命じられた(落とし物は1年の公示の後に落とし主が分からなければ拾い主に渡すこと)』と言った。彼が『私はそれを要りません』と言うと、ウマルはそれを取って、国庫に入れた。」
「ウスマーンの時代に、アリーの解放奴隷が死んだが、彼には後見人がいなかった。そこでウスマーンの命令で、彼の遺産は、国庫に入れられた。」
「アリーは国庫が殻になるまで財物を分配し、それからそれを水で洗い、そこに座りました」
以上が「場所」を指す第一の用語法である。
第二の「機関」を指す用法の根拠は、倉庫で保管できない財もあることである。例えば、土地、井戸、石油、ガス、鉱山、あるいは国庫に編入せず、直接有資格者に分配された富裕者から徴収した浄財などである。「国庫」の語は時に、「場所」を意味することは不可能な「機関」の意味で用いられてきた。
「(カリフ・ウマルは)イブン・マスウードを裁判と国庫に派遣した」 と伝えられているが、ウマルがイブン・マスウードを国庫の門番に任命したということはありえない。それは受け取り、支給する機関を意味するしかない。
イブン・アル=ムバーラク(ハディース学者、797年没)が『禁欲(al-Zuhd)』の中で以下のように伝えているのも、この意味、つまり「機関」としての「国庫」である。
「アル=ハサンからバスラの司令官たちがアブー・ムーサー・アル=アシュアリーと共にやって来てウマルに彼らに食べ物を分けてくれるように頼んだ。そこでウマルは最後に『司令官たちよ、私はあなたがたに国庫から羊2頭と麦2ジャリーブを分け与える』と言った。」
国庫の収入と支出の処分権者はカリフである。アッラーの使徒は「苦難の軍」へのウスマーンの寄付を自分の家で受け取られた。
「預言者が『苦難の軍』の装備をされているところに、ウスマーンが1000ディーナールを持参し、預言者の家でそれを渡したが、預言者はそれを受け取り、『ウスマーンは今日為したことゆえ、害を受けることはない』と言い、それを何度も繰り返された。」
預言者は時に自分で分配された。
「預言者の許にバハレーンから財物が届けられると『それをモスクに置いてきなさい』と言われた。・・・中略・・・礼拝を終えると、やって来て底に座り、目に入った者全員に分け与えられた。そして彼が立ち上がったとき、わずか1ディルハムが残っただけであった。」(ハディース)
また同様にアブー・バクルもバハレーンから届けられた財物を自ら分配した。
「アッラーの使徒は私に言われた。『もしバハレーンから財物が届いていたなら、お前に、これと、これと、これを与えていただろう。』つまり、3つである。そしてアッラーの使徒が亡くなられて、バハレーンの財物が届くと、アブー・バクルは告知者に命じ、『アッラーの使徒に債権、あるいは約束があった者は我々の許に来なさい』、と呼ばわった。そこで私は彼の許に行き、『アッラーの使徒は、私にこれとこれ、と言われました』と言うと、彼は私に3つをくれました。」(ハディース)
「ウマル・ブン・アル=ハッターブの許にイラクで拾ったものを持参した時、国庫の管理人が彼に、私がそれを国庫に入れましょう、と言うと、ウマルは『カアバ神殿の主にかけて、それが国庫に入れられれば私は即座にそれを分配して決して残さない』と言い、モスクに置かせ、その上に皮布を置き、『援助者』と『亡命者』の男たちがそれを警護した。翌日になると、アル=アッバース・ブン・アブドルムッタリブとアブドッラフマーン・ブン・アウフが彼と共におり、二人のうちの一人の手を取って、あるいは二人のうちの一人が彼の手を取り、それを見て、皮布をめくると、それまで見たこともない光景を見た。その中には金、サファイア、トパーズ、真珠が輝いていた。するとウマルが泣き出した。そこで二人のうちの一人が彼に『アッラーにかけて、今日は泣く日ではなく、感謝と喜びの日です。』ウマルは答えた。アッラーにかけて、私はあなたが行ったところに私は行っていない。しかし民の間にこのようなものが増えれば、必ず彼らの間に災難が起きる。そしてキブラ(礼拝の方向)に向き直り、天に両手をかざして言われた。『アッラーよ、私が知らぬ間に陥られる者にならないよう、私はあなたに庇護を求めます。私はあなたが『我らは彼らを知らない間に陥れる』(7章182節)と言われるのを聞きました。』そして言った。『スラーカ・ブン・ジャウシャムはどこか』と尋ねた。毛深く細い腕の男が彼を連れて来たが、ウマルはスラーカにペルシャ皇帝ホスローの腕輪を与え、『それを腕に付けよ』と言い、彼はそうした。そこでウマルは『アッラーは至大なり、アッラーは至大なり、と言え。ペルシャ皇帝ホスローから腕輪を取り上げ、ムドリジュ族のベドウィンのスラーカ・ブン・ジュウスムにつけさせ給うたアッラーに称えあれ、と言え』と言い、それを杖でまわし、「これを果たした者は信託者だ」と言った。するとある男が、『私はあなたにあなたこそアッラーの信託者です、と言いましょう。人々はあなたがアッラーに対して果たしたことをあなたに対して果たしたているのです。あなたが豊かになれば、彼らも豊かになるのです。』ウマルは『あなたは正しい』と言い、それを分配した。」
「ウスマーンの時代に、アリーの解放奴隷が死んだが、彼には後見人がいなかった。そこでウスマーンの命令で、彼の遺産は、国庫に入れられた。」 と「アリーは国庫が殻になるまで財物を分配し、それからそれを水で洗い、そこに座りました」 は既に記した。
「預言者は『(礼拝中に)私たちの許に置いてあった砂金のことを思い出したもので、それが私の心を占めるのを嫌って、それを分配してしまうように命じてきたのだ』と言われた」(ハディース)
「アッラーの使徒はビラールが浄財を保管していた倉庫に入られたが、そこでナツメヤシの実の山を見つけ、『ビラールよ、このナツメヤシの実は何か』と尋ねられた。ビラールが『私はこれをあなたがお困りの時のためにとっておいたのです』と答えた。すると使徒は『おまえは火獄の煙から免れているのか。施しなさい。玉座の主が、貧しくしたり飢えさせたりし給うのではと恐れるな』と言われた。」(ハディース)
「私(アブドッラー・ブン・ルハイー・アル=ハウザーニー)はアッラーの礼拝告知者ビラールに会って『アッラーの使徒の扶養費はどうなっていましたか。』と尋ねた。すると彼は『何も持っていませんでした。アッラーが彼を使徒として使わされて以来、亡くなられるまで、私がそれを管理していました。彼の許にムスリムの男がやって来て、その男が裸だと見ると、彼は私に出かけて借金をして服を買い、彼に着せ食べさせるように命じられました』」(ハディース)
「アッラーの使徒は若いラクダを借りていました。彼の許に浄財のラクダが運ばれてきました。そこで彼は私(アブー・ラーフィウ)に男に若ラクダを返すように命じられました。しかし私は最良の立派なラクダしか見つけられませんでした。しかしアッラーの使徒はそれを彼に与えよ、と命じ、『最善の人間とは、最善のものを返す者だ』と言われました。」(ハディース)
「アッラーの使徒はムアーズをイエメンに使わされた時、言われた。『・・・もし彼らがお前に従えば、彼らにアッラーが彼らに彼らの中の豊かな者から徴収し彼らの貧しい者に戻される浄財があることを教えよ。もし彼らがそれでお前に従えば、お前は彼らの財産の貴重なものを取り上げてはならない。不正を蒙る者の祈りを恐れよ。その祈りとアッラーの間には覆いはないのだから』」(ハディース)
正統カリフたちは使徒の足跡を歩み、彼ら以外の者にも財務を任せることがあった。
「アブー・バクルはアブー・ウバイダ・ブン・ジャラーフに国庫を任せ、その後、彼をシリアに派遣した」
「アブー・バクルとウマルは彼(ムアイキーブ)に国庫を任せた」
「彼(アブドッラー・ブン・アル=ズバイル)はアブー・バクルに手紙を送り、彼は彼に国庫を任せた。ウマル・ブン・アル=ハッターブも彼ら2人(アブドッラー・ブン・アル=ズバイルとアブドッラー・ブン・アル=アルカム)を追認した。」

国庫は2種に分類できる。
(1)収入部:3つの登記庁を含む。
回収と地租登記庁:戦利品、地租、征服地、人頭税、回収、税を含む。
公共財登記庁:石油、ガス、電気、鉱脈、海、河川、池、泉、森林、牧草地、禁猟区
浄財登録庁:正貨の浄財、商品の浄財、農産物の浄財、果実の浄財、ラクダの浄財、牛の浄財、羊の浄財
(2)支出部:8つの登記庁を含む
カリフ官房登記庁
国家省庁登記庁
俸給登記庁
ジハード登記庁
浄財配分登記庁
公有財産配分登記庁
非常事態登記庁
公共収支、公共会計、公共監査登記庁

第10章:情宣
情宣は宣教と国家の重要事であり、国民福祉行政に属する省庁の一つではなく、その位置づけは、独立機関としてカリフに直属し、その地位は国家の他の機関と同じである。
 イスラームを印象的に紹介する独自の情宣政策の存在理由は、人々がイスラームに目を向け、それを学び、それについて考えるようになるよう、そしてイスラーム教徒の住む土地のイスラーム国家(カリフ国家)への編入を容易にするために、人々の理性に訴えかけることである。そもそも情宣に関わる事柄の多くは、国家に深く関わるものであり、カリフの命令なしには公にすることは許されない。軍隊の動き、勝利や敗戦の報、軍需産業などの軍事に関わることの場合、それは明らかであろう。これらは全て、発表するか隠蔽するかの決定がカリフにかかっている情報なのである。
 その典拠は、クルアーンとスンナである。クルアーンについては、「・・・安全または危険の事情がもたらされる度、彼らはそれを言いふらす。それを使徒、または彼らのうち権威を持った者に戻せば、それを見つけ出した者はそれを彼らから知ったであろうに。・・・」(4:83)」である。この節の主題は、情報の開示である。
 スンナについては、以下ハディースである。「クライシュ族には情報がなく、アッラーの使徒の情報は彼らに届かず、使徒が何をしているのか、彼らには分からなかった」
「預言者がアーイシャに言われた。『私の軍装の用意をせよ、ただしそれを誰にも言うな』それから行路を指示したが、彼女(アーイシャ)はそれを隠したので、マッカのクライシュ族の多神教徒たちには情報が届かなかった。」
また「苦難の戦い」についてアル=ブハーリーとムスリムがカアブから以下のように伝えている。「アッラーの使徒は戦いに出陣しようと考えたとき、必ず別のことでそれを隠された。」その戦い(「苦難の戦い」の)でも、実際には、酷暑の中、砂漠を越えて遠征し、多くの敵を相手に戦ったのであるが、ムスリムたちにはその戦争に備えるように事態を明かしたが、彼が望むような形で知らせられたのである。
「預言者は、ザイドとジャアファルイとイブン・ラワーフの訃報が届く前に、その死を悼まれ、『ザイドが旗印を持っていたが戦死し、それからじゃあファルがそれを取ったが戦死し、それからイブン・ラワーフがそれを取って戦死した。アッラーの剣の一本がそれを取り、アッラーが彼らに勝利を授けられるまで、彼の両目には涙があふれていた』と言われた。」
 この正統カリフたちによるこの規定の適用の例としては以下の伝承がある。
「ウマルの許に、アブ・ウバイダがシリアを包囲したが、彼に対して備えがなされている、との報がもたらされた。そこでウマルは彼に手紙を送った。
『汝に平安あれ。アッラーは、信仰する僕に、苦難を与えられた時には、必ず後で安楽を授け給り、苦難が二つの安楽に勝ることはない。アッラーは仰せられる。「信仰する者たちよ、忍耐し、競って忍耐し、配置に就け。そしてアッラーを畏れ身を守れ。きっとおまえたちは成功するであろう。」(3章200節)』
 アブ・ウバイダは返書した。『汝に平安あれ。アッラーは言われる。「・・・知れ、現世の生活は遊びにして戯れ、そして虚飾であり、おまえたちの間での誇示のし合い、財産と子供における多さの競い合いにほかならないと。 ・・・」(57:20)。ウマルはこの手紙を持って出かけ、説教壇に座り、それをマディーナの住民に読み上げ、『マディーナの民よ、アブー・ウバイダはあなたがたに彼がジハードを望むことを暗示したのだ』と言った。」
 カリフかカリフの代行者と不信仰の諸国の代表者たちの間で行われる交渉、協議、討論なども軍事情報に準ずる。こうした交渉の例としては、フダイビーヤ協定における最終的に協定の文言が決定するまでの使徒とクライシュ族の代表との間で行われた協議があり、直接の討論の例としては使徒とナジュラーンのキリスト教徒の使節との討論と呪詛の呼びかけがあり、また使徒の命令によるサービト・ブン・カイスとハッサーンのタミーム族の使節との討論などがある。これらは全て内容が公開されており、秘密は何処にもなかった。
 また日常生活のニュースや政治、文化、科学のプログラム、世界のニュースなど、国家と直接に重大な関係がなく、それについてカリフ自身の見解を知るまでの必要がない種類の情報もある。そういった情報でも部分的に生活の一部において国家の見解と異なり、また国際関係における国家の立場と衝突することもありうるが、そうした場合の国家の監督は、問題毎に異なるものとなるのである。
 それゆえ情宣機関は主要な二つの部門を備える必要があることになる。
第一部門:軍事、軍需産業、外交など、国家に関わる重大な情報の処理。この部門の仕事はこの種の情報の直接の監督であり、国営のメディアであれ、民営のメディアであれ、この種の情報は、情宣機関の検閲を受けた後でなければ、報道されない。
第二部門:その他の情報の処理。その監督は間接的であり、国営メディアであれ民営メディアであれ、その報道のために事前に検閲を受けて許可を得る必要は一切ない。
 
メディアの認可
 情報メディアは認可を必要としない。イスラーム国家「カリフ国家」の「国籍(tbyah)」を有する者は誰でも、読み物(新聞、雑誌)であれ、聴く物(ラジオ)であれ、見る物(テレビ)であれ、いかなる情報メディアを立ち上げることも許され、ただ情宣機関に立ち上げる情報メディアについて知らせる報告以外のことは必要とされない(報告義務のみで、認可は不要)。
 彼はただ上述のような国家に関わる重大な情報(軍事、軍事産業、外交)の報道には事前に許可を得る必要があるが、それ以外の情報は事前の許可なく報道できるのである。いずれにしてもあらゆる場合にメディアの責任者は報道するすべての情報に責任を負い、他の臣民(rayah)のどの個人とも同じく、聖法へのいかなる違反をも審問されるのである。
 聖法の諸規定に基づく国家の情宣政策の大綱を明らかにする法令が発布される。そして国家はその大綱の要請に従って、イスラームとムスリムの利益に奉仕し、団結し強く、アッラーの絆に縋り、善に満ち善を広め、堕落した思想、迷妄の文化を寄せ付けない社会、悪しきものを拒み良きものを認め、万世の主アッラーを称えるイスラーム社会の建設のために奉仕するのである。

第13章:国民議会(衆議・査問院)

 それは世論においてムスリムを代表する人々から構成される議会であり、カリフは諸事において彼らに諮り、彼らは国民(ummnah)に代わって為政者たちを査問する(musabh)。それは使徒がマッカの『避難者』とマディーナの『援助者』の中からそれぞれの民を代表する人々と衆議され、衆議し意見を採用するにあたって、アブー・バクル、ウマル、ハムザ、アリー、サルマー・アル=ファーリスィー、フザイファなどの一部の弟子たちを他の者たちよりも重んじた先例に倣っているのである。
 同様にアブー・バクルも何か問題が生じた時には、マッカの『避難者』とマディーナの『援助者』の一部の人々の意見を聞きくために衆議を行った。アブー・バクルの治世に諮問されたのは、イスラームの学者や教義回答者たちであり、「アブー・バクルは意見を持つ人々、イスラームの学識を有する人々と衆議したい事態が生じた時には、『避難者』とマディーナの『援助者』の人々を呼び、ウマル、ウスマーン、アリー、アブドッラフマーン・ブン・アウフ、ムアーズ・ブン・ジャバル、ウバイ・ブン・カアブ、ザイド・ブン・サービトを呼び出していた。」 これらの者たちはアブー・バクルのカリフ在世中、教義回答を行っていた。教義についての質問で、人々が彼らに頼ったのであり、アブー・バクルもそれを認めたのである。その後、ウマルがカリフに就任したが、やはりこれらの人々を呼び出したのである。また同様にムスリムに為政者の査問を求める典拠も存在する。正統カリフの治世に生じたように、ムスリムたちは為政者の査問を行っていた。そして国民(ummah)は衆議において代表を立てることが許されたように、査問においても代表に委ねることができる。それらのことはすべて、為政者の査問と、クルアーンとスンナの明文において確定している衆議の双方において、「国民(ummah)」を代表する特別議会を設けることの合法性を示している。それは無限定に「国民議会(majlis ummah)」と呼ばれる。なぜならそれは査問と衆議において「国民(ummah)」を代表しているからである。
 そしてこの議会に「臣民(ray)」の非ムスリムの議員が、為政者から蒙った不正、彼らに対するイスラーム法の乱用、あるいは彼らへのサービスの提供の不足などを訴えるために存在することは許される。

衆議の権利
 衆議は全てのムスリムがカリフに対して有する権利である。カリフが諸事において彼らに諮問し、依拠することは、彼らの権利である。
至高者は言われる。「事にあたっては彼らと協議せよ、しかし何時が決意を固めたなら、アッラーに一任せよ。」(3章159節)
また言われる。「彼らのことは彼らの間での衆議」(42:38)
そして使徒は衆議のために人々に諮っておられ、バドルの戦いでは戦闘の場所について彼らの意見を聞き、ウフドの戦いの際にも、マディーナの市外で迎え撃つか、市内引き込んで戦うかについて、彼らと衆議した。第一のケース(バドルの戦い)では、アル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルの意見に従って陣を敷いた。それは経験豊富な専門家の戦術的な意見だったので、それを採用したのである。そしてウフドの戦いの第二のケースでは自分自身の考えと違っていたにもかかわらず、多数意見に従って陣を敷かれたのである。
 ウマルはイラクの征服地の処理問題で、それは戦利品なので、それをムスリムたちの間で分配するか、それとも、その土地はその住人の占有に留めたままで、地租を課し、その土地自体はムスリムの国庫の所有とするかで、ムスリムたちに諮った。結果的にウマルは自分自身の推論(イジュティハード)で結論し、殆どの預言者の直弟子たちの殆どが賛成したことを実行し、そのイラクの土地をその地租を払うという条件で、元の持ち主たちの占有のままに残すことに決めたのである。

査問の義務
 ムスリムがカリフに対して衆議の権利を有したのと同じく、ムスリムは為政者たちの行為、行動を査問しなくてはならない。アッラーはムスリムに為政者の査問を課し、為政者が臣民の権利を侵害するか、臣民に対する彼らの義務を疎かにするか、臣民の問題を放置するか、イスラームの諸規定に背くか、アッラーの啓示以外に基づく統治を行うかした場合には、臣民に、統治者の査問と更迭を厳命し給うているのである。
「アッラーの使徒は『いずれおまえたちが耐える支配者、否認する支配者が現れる。忍耐した者には罪はなく、否認した者は安心である。しかし満足して従った者は(どうであろう)。』と言われた。人々が『我々は彼らと戦ってはなりませんか』と尋ねると、使徒は『いや、彼らが礼拝をしている限りは』と答えられた」(ハディース)
ここでは「礼拝」はイスラームによる統治の比喩である。
 アブー・バクルの背教戦争の決断を、ムスリムたちは最初は反対した。その筆頭がウマルだった。
「アッラーの使徒が亡くなった時、アブー・バクルがおり、アラブ遊牧民の不信仰に陥った者が不信仰に陥った。ウマルは「アッラーの使徒が『私は、人々がアッラーの他に神はない、と言うまで彼らまで戦うことを命じられた。それを唱えた者は、その財産と生命が私にとって不可侵となる。但し、その権利による場合を除く。その者の裁定はアッラーにある。』と言われているというのに、どうして我々が人々と戦えるでしょうか」と言った。するとアブー・バクルは『アッラーにかけて、私は礼拝と浄財を分ける者と戦う。浄財は、財産の権利なのである。アッラーにかけて、もし彼らがアッラーの使徒に納めていた羊の貢納を私に拒むなら、私はその拒絶に対して彼らと戦う』と言った。そこでウマルは言った。『アッラーにかけて、これはアッラーがアブー・バクルの胸を開き給うたに他ならない。私はそれが正しいと分かった。』」(ハディース)
 またビラール・ブン・ラバーフ、アル=ズバイルなどはウマルがイラクの征服地を戦士たちに分配しなかったことに反対していた。またある遊牧民の男はウマルに、彼が土地の一部を反故地にしたことで反対していた。
「遊牧民の男がウマルのところに来て言った。『信徒の長よ、我々の土地は、我々が無明時代に戦い取ったもので、イスラーム時代になってその上で我々はイスラームに入信しました。それなのになぜあなたはそれを保護地にして取り上げるのですか』ウマルは黙って頭を垂れ、口髭を振るわせた。というのはウマルは怒ると口ひげが震えたのである。それを見た遊牧民は彼に対してその言葉を繰り返した。そこでウマルは言った。『財産はアッラーの財産であり、僕はアッラーの僕である。アッラーにかけて、もしアッラーの道での運搬用の動物がいないのなら、私は1シブルの土地も保護地としなかった。』」
ウマルは共有財の土地の一部をムスリムの馬のために保護地としたのである。またある女性は、婚資が400ディルハムを越えることを禁じたことで、ウマルを非難して「ウマルよ、それはあなたの権限ではない。アッラーの御言葉『お前たちが彼女らの一人にキンタールを与えていても、彼女から少しでも取り上げてはならない』をあなたは聞いていないのか。』ウマルは、女性が正しく、ウマルが間違った、と言った。
 またアリーはカリフであったウスマーンの巡礼と小巡礼の完遂についての言葉を批判した。
「我々はウスマーンとアル=ジャフファの地にいた。彼と共にシリア人の一団がいた。その中にはハビーブ・ブン・マスラマ・アル=ファフリーもいた。彼がウスマーンに小巡礼を巡礼と纏めることを提案したところ、ウスマーンは彼に『巡礼と小巡礼をもっとも完全に行うには、その両方を共に巡礼月中にしないほうがよい。小巡礼を遅らせて、アッラーの館(カアバ神殿)を2度訪れるほうがより良い。アッラーは誠に良いことに広い幅を持たせ給うた。』と言った。その時、アリー・ブン・ターリブは谷底でラクダに草を食べさせていたが、ウスマーンの言葉が彼の耳に届くと、ウスマーンのところへ行き、面前に立って、言った。『あなたはアッラーの使徒が定められたスンナと、アッラーがクルアーンでその僕たちのために許された軽減措置に楯突き、それを禁じて、人々を苦しめるのですか。それは、やむをえない事情がある者、遠くの者のために許されていたというのに。』そこでウスマーンは人々の方を向いて言った。『私はそれを禁じましたか。私はそれを禁じたわけではありません。あれはただ私が示唆した意見に過ぎません。望む者はそれを採用し、望む者はしなければよい。』」
 これらの伝承の全てに基づき、国民議会には衆議の権利があり、査問の義務があることになる。既述の通り、衆議と査問は異なる。衆議とは、(カリフが)決定の前に、意見を求める、あるいは意見を聞くことであり、査問は、決定をした後、あるいはその執行を終えた後での反対表明なのである。

国民議会議員選挙
 国民議会議員は指名により任命されるのではなく、選挙で選ばれる。なぜならば彼らは意見表明における人々の代理だからであり、代理はただ代理任命者によってのみ選ばれるからである。代理は代理委任者に対していかなる条件も課されない。なぜなら国民議会議員は個人、集団としての、意見表明における人々の代表であるが、広大な地域における互いに知らない民の間での代表を知ることは、その者を代表に選んだ者にしか可能でないからである。そしてまた使徒も、意見を聞くのに依拠した者を選ぶにあたって、その者の能力、適性、人格などを基準にはせず、第一に能力や適性に関わらず世話役(nuqab)であること、第二にマッカの「避難者」とマディーナの「援助者」の代表者であること、の二つの基準で選任されたからである。衆議院議員設立の目的は、人々を代表することにある。それゆえ国民議会の議員が選ばれる基準は、世話役からの選任の場合に意図されていたように人々を代表していることであるか、「避難者」と「援助者」からの選任の場合に意図されていたように諸集団を代表していることか、である。周知でない人々の間では、個人であれ団体であれ代表することは選挙による以外にはできないため、国民議会の議員の選任は選挙に定まるのである。誰に相談するかを使徒が決めていたことについては、「避難者」と「援助者」が住んでいた土地、マディーナは狭く、使徒ムハンマドは、ムスリムたちは全てのムスリムをよく知っていたからである。その証拠として、(マディーナの住民が集団入信しムスリムの数が増えた)「第二次アカバの誓い」では、もはや誓いをたてたムスリムたちを使徒は知っていたわけではなかったので、「お前たちの中からそれぞれの部族に責任を負う12人の世話役を私のために選び出しなさい」と彼らに言って、世話役の選任を彼ら自身に任せたのである。
 それゆえ国民議会の議員が意見表明における代理人であること、国民議会設立の目的が意見表明及び監査における個人と集団が代表されていることであること、そして互いに顔見知りでない人々の間ではその目的は総選挙によってしか実偏しないこと、これらの全てから、国民議会の議員が指名によって任命されるのではなく、選挙によって選ばれることが結論されるのである。

国民議会選挙の方法
(1)地方総督についての議論の中で既に述べた通り、我々は地域についてその住民を代表する議会の選挙を採用した。その目的は二つあり、第一はその地域の現実と需要についての必要な情報を総督に知らせることである。それは地域住民に平穏な暮しを保証し、必要なものを揃え、サービスを提供する任務を総督が遂行する手助けのためである。第二に総督の地域住民の統治に対する満足、不満の表明である。議会が多数決で総督の不信任を議決すれば、総督は罷免されるのである。つまり地域議会の地位は、総督がその地域を知る手助けと、住民の総督に対する信任、不信任の表明による行政的地位であり、総督の職務遂行の円滑化が目的の全てであり、以下に述べる国民議会の場合と異なり、地域議会には他のいかなる権限もないのである。
(2)我々はここで国民議会(衆議・査問院)の設立、及びそれが国民の代表として選挙によって選ばれ、以下にのべるような権限を有することを法制化する。
(3)つまり、地域議会議員の選任のための選挙と、国民議会議員の選挙があることになる。
(4)選挙手続を簡略化し、臣民の選挙の重複による負担を無くすため、地域議会の選挙が先ず行われ、次いで地域議会の当選者が集まり、彼らの中から国民議会議員が選ばれる、つまり地域議会は国民の直接選挙により、国民議会は地域議会が選ぶと我々は決めた。つまり国民議会の任期は地域議会の任期と一致するのである。
(5)選ばれて国民議会議員に昇格した地域議会議員の欠員は、地域議会選挙で時点で落選した者が繰り上げ当選する。同点だった場合は籤引きで決める。
(6)庇護民は地域議会における自分たちの代表を選挙で選ぶ。そしてそれらの代表が国民議会の代表を選ぶ。それは地域議会選挙、国民議会選挙と同時に行われる。
 以上の事項を考慮し、地域議会選挙法、国民議会選挙法が起草される。アッラーのお許しがあれば、詳細については適当な時期に議論されることになる。
 
国民議会議員資格
 (カリフ国家の)国籍(tbiyah)を有する全てのムスリムは、成人で正気でありさえすれば、男女を問わず、国民議会の議員の選挙権、被選挙権を有する。なぜなら、国民議会は統治機構の類ではないので、ハディースにある女性が統治者となることの禁止は該当しないからである。国民議会は衆議と査問を任とし、それは男性の権利であるのと同じく女性の権利でもある。召命13年目(つまりマディーナ聖遷の年)、マディーナから男性73名と女性2名の合計75名のムスリムがマッカのアッラーの使徒の許にやって来て、全員が第二次アカバ誓約を使徒に捧げた。
この第二次アカバ誓約は、戦争における忠誠誓約、政治的誓約であった。この誓約の締結の後、使徒は彼ら全員に向かって言った。「お前たちの中からそれぞれの部族に責任を負う12人の世話役を私のために選び出しなさい」と彼らに言って、部族長の専任を彼ら自身に任せたのである。
これは使徒の彼ら全員に対して全員の中から代表者を選べとの命令であり、選挙人に関しても被選挙人に関しても男性のみに限定して女性を排除してはいないのである。無限定な表現は特に限定する典拠がない限り、限定されない意味を表す。それは一般語が特殊化されない限り一般的意味を表すのと同様である。ここでの使徒の言葉は一般的で無限定であり、どこにも限定、特殊化する言葉はない。それゆえ使徒はこの2名の女性にも世話人を選ぶことを命じると同時にムスリムの世話人に選ばれる権利も認められたのである。
 そしてある日、使徒は人々と忠誠誓約を交わすために座られたが、アブー・バクルとウマルは彼と共に座っており、男女のムスリムたちが彼に忠誠を誓ったのである。この忠誠誓約は統治に対する誓約であって、イスラーム入信の誓約ではなかった。なぜなら彼女らは既にムスリムになっていたからである。そしてフダイビーヤでの「満悦の誓約」の後にも、女性もまた使徒に忠誠を誓っている。至高なるアッラーは言われる。「預言者よ、おまえの許に信仰する女が来て、アッラーになにものをも同位とせず、盗みをせず、姦通をせず、子供たちを殺さず、手と足の間で捏造した虚偽をもたらさず、善においておまえたちが背かないことをおまえに誓約したなら、彼女らと誓約し、彼女らのためにアッラーに赦しを乞え。まことに、アッラーはよく赦す慈悲深い御方。」(60章12節)この誓いも統治に対する誓いである。なぜならばクルアーンは彼女らが信仰あるムスリムであることを認めているからである。この忠誠誓約は、善において使徒に背かないことに対してであったのである。
加えて、女性には意見の表明において代理を立てることも、他人の代理として意見を述べることも許されている。と言うのは、自ら意見を述べることも、代理にそれを依頼することも女性の権利だからである。それは代理委任契約には、男性であることは条件とならず、女性も代理人となることができるからである。
またウマルの事跡から、彼が世論を聴取したいと思う出来事が起きた時には、それが聖法の諸規範に関わるものであれ、統治に関わるものであれ、あるいは国家のあらゆる行為に関わるものであれ、ムスリムたちをモスクに呼び集めたことが知られている。彼は男性と女性を呼び、彼ら全員の意見を聞いたのであり、婚資の上限設定のケースである女性が彼を論駁した時は、自分の意見を撤回したのである。
またムスリムが国民議会に権利を有するように、非ムスリムも国民議会に代表を送ることも、そこで自分たちの選挙人の代議員となり、イスラームの法規定が彼らに対して濫用されていないか、統治者から不正を蒙っていないかについて、彼らに代わって意見を述べることができる。
ただし、意上とは違って、イスラーム聖法の規定については、非ムスリムには意見を述べる権利はない。なぜならばイスラーム聖法はイスラームの教義から派生し、聖法の詳細な典拠から演繹される行為規範であり、イスラームの教義によって決まる特定の観点から人間の諸問題を扱うのであるが、非ムスリムはイスラームの教義と矛盾する教義を信奉し、生き方についてイスラームの見方と対立する見方を有しているため、聖法の規定について彼らの意見が聞かれることはないのである。
また非ムスリムにはカリフの選挙権、カリフ候補推薦権もない。なぜなら非ムスリムは統治については権利を有さないからである。それ以外の国民議会の権限とそれに関する意見の表明については、非ムスリムはムスリムと同じである。

国民議会議員の任期
国民議会議員には任期が定められる。なぜならアブー・バクルは諮問の人選にあたって、使徒が諮問に依拠した人々に限らなかったし、ウマル・ブン・アル=ハッターブも諮問の人選にあたってアブー・バクルが諮問した人々に限らなかったからである。またウマルがその治世の後半に依拠した者は、治世の前半に諮問していた人々とは違っていた。これらのことは国民議会の議員の任期が特定期間であることを示している。我々はここでその期間を5年間と定めたい。

国民議会の権限
国民議会は以下の権限を有する。
(1).(a)カリフによる国民議会への諮問
 国民議会は、深遠な思想や研究を必要としない内政上の臣民の諸事に関わる実務的な仕事や問題についてカリフに答申する。例を挙げるなら、統治、教育、保健、経済、商業、工業、農業などの諸問題で臣民が生活の安心を感じられるような必要なサービスを充実させること、都市の防衛、治安の維持、敵襲への備えなどの臣民の要求であり、これらの全てにおいて、議会の見解はカリフを拘束する。つまり議会の多数意見は執行される。
(b) 真理の発見、開戦の決定など、深遠な研究や精査を必要とする思想問題や、戦争計画の準備などの経験、情報、知識を必要とする事柄、全ての技術的問題、実践的問題については、多数決ではなく、専門家の意見が採用される。
また財政、軍事、外交問題は、カリフが聖法の規定に則り自らの判断と裁量で直轄し、議会の見解を行うのではない。カリフはそれらの問題についても議会に諮り、その見解を採用することもでき、議会もそれについての見解を答申することできるが、これらの問題については議会の見解は拘束力を持たないのである
(2).立法においては議会の意見は採られない。立法はクルアーンとスンナ、その両者に導かれた預言者の直弟子たちのコンセンサス、聖法に則った類推、つまり正しい法演繹に基づく。聖法の諸規定の法制化、法令の制定はこの方式となる。カリフは議会に法制化を望む諸規定、法令を移管することができ、議会のムスリム議員は、その検討、正誤の指摘の権限を有する。もし議会がそれらの聖法の諸規則の典拠と演繹の正当性についてカリフと見解を異にした場合、それが国家によって採用された聖法の法制化の法理論と不整合によるものであれば、その裁定は行政不正裁判所に移管され、それについては行政不正裁判所の判断が拘束力を持つ。
(3)議会は、内政、外政、財務、軍事など全ての国事において、カリフが行った行為についての査問権を有する。(カリフの査問においては)議会の多数決が拘束力を有する問題に関しては議会の見解が拘束力を持つが、多数決が拘束力を有さない問題に関しては拘束力はない。
 カリフが既に執行済みの行為のイスラーム法的正当性の有無について議会とカリフが意見を異にした場合、その正当性の有無の認定は行政不正裁判所に移管され、それについての行政不正裁判所の決定は拘束力を有する。
(3)議会は、カリフ補佐、地方総督、知事に対する不信任案提出権を有し、不信任案の議会の多数決は拘束力を持ち、カリフはその即座の罷免が課される。
地方総督と知事の信任、不信任に関して、国民議会と当該地域の地域議会の判断が異なった場合、地域議会の判断が優先される。
(4)国民議会のムスリム議員には、行政不正裁判所がカリフ就位資格条件に適うと認めた者の中からカリフ候補を絞込む権限がある。それはカリフの選挙手続についての箇所で詳述した通りで、6人に絞り込もうと2人に絞り込もうと同じである。また議会が絞り込んだ候補者以外の候補者は受け入れられない。」
以上が国民議会の権限であり、以下はこれら権限の典拠である。
第1項.(a) - 研究や精査を必要としない実務的な仕事や問題についての国民議会の見解が拘束力を有する典拠は、ウフドの戦いでアッラーの使徒と高弟たちはマディーナでの迎撃を考えていたにもかかわらず、多数の意見に従って多神教徒軍を迎え撃つためにマディーナから出征したこと、また使徒がアブー・バクルとウマルに述べた言葉「もし諮問してお前たち2人が一致したなら、私がお前たち2人に反対することはない」である。それゆえ臣民の平穏な生活のためのサービスの提供、治安の維持、都市の防衛、敵襲への備えなどのための行動を決める見解に関係する実践的な事柄は全て、使徒が自分の意見と異なるにもかかわらず、多数意見に従ってウフドに出陣したように、カリフ自身の考えと異なろうとも議会の多数決が拘束力を有するのである。
第1項.(b) – この種の事柄では、バドルの戦いでアッラーの使徒がアル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルの意見に従って戦陣を敷いたように。カリフは学者、技術者、専門家の意見を採用するのが原則である。イブン・ヒシャームの『預言者伝』は以下のように伝えている。
「アッラーの使徒が、バドルのオアシスの近くに陣取った時、アル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルはその場所に不満で使徒に次のように尋ねた。『アッラーの使徒よ、この場所は、至高なるアッラーがあなたにここで止まることを命じられたのでしょうか。それなら、我々はここから前にも後ろにも動きますまい。それとも、ここで停まったのは、あなた自身の判断、戦略、策謀でしょうか。』預言者が『いやこれはわたし自身の判断、戦略、策謀である』と答えると、アル=フバーブは言った。『ここは軍営には向きません。人々と一緒に立ち敵のクライシュ族の水場の近くまで進軍しそこに軍営を設け、その周辺の井戸を埋めてしまい、その上に溜池を作りそこに水を満たすのです。そうすれば我々はクライシュ族と戦いながら水を飲めますが、彼らは水を飲めません。』そこでアッラーの使徒は共に居た者たちと出立し、クライシュ族の水場の近くまで進軍しそこに軍営を設け、その周辺の井戸を埋めてしまうように命じられ、軍営を敷いた井戸の上に溜池を作りそこに水を満たし、人々は器をその中に入れた。」使徒はアル=フバーブの話を聞き、その意見を採用したのである。
判断、戦略、作戦の類のこうした件においては、その決定において、人々の考えには何の価値はなく、専門家の意見だけが価値を有するのである。技術的問題、研究と精査を要する思想などもその例となる。この定義により、こうした問題では人数には価値がなく、知識、経験、専門性だけが価値を有するので、人々の世論ではなく、技術者、専門家の見解が依拠されるのである。
財政問題もこうした例である。なぜなら聖法は徴税されるべき富の種類を定め、またその支給先、徴税時期も定めているので、徴税とその使途について、人々の意見を考慮する余地はないからである。軍事も同様で、聖法はその指揮をカリフに委ね、ジハードの諸規則を定めているので、やはり聖法が既に規定していることでは、人々の意見を考慮する必要はないからである。また他国との外交関係も同様である。なぜなら外交は研究、精査を要する思想問題であり、また作戦、戦略、策謀であるジハードとも関わるので、世論、人数の多寡に意味はないのである。しかしカリフはこうした事柄についても議会に諮問のために議題にし、意見聴取することは許される。なぜなら提案自体は合法な事項の一つに過ぎないからである。バドル戦いの事例から明らかにしたとおり、こうした問題における議会の見解は拘束力がない。権限を有する者のみが決定権を有するのである。
第1項の(a)と(b)の違いを、例を挙げて説明しよう。交通手段のない辺境の地の村などの住人の福祉のサービスで川に橋をかけるにあたっては、
国民議会の多数決はカリフを拘束するが、橋をかけるのに技術的に最適な場所の選定や橋の工学的に最善の設計、けた橋にするか、吊り橋にするか、などは技術者、専門家が諮問を受けるのであり、議会の多数決で決めるわけではないのである。
 年の学校に子弟を通わせるのが大変な村に学校を建てる場合も同様で、議会の多数決はカリフを拘束する。しかし村のどこに学校を建てるか、学校のデザインに調和し教育に最適な環境はどこか、あるいは土地も建物も国有化するのか、それとも年契約で借り上げるのか、などの具体的手続きについては、議会の多数意見ではなく、技術者、専門家に諮問する。こうした問題でもカリフは議会にも諮問できるが、その意見に拘束されることはない。
 また敵国との最前線の辺境の地については、村の防備、敵襲の撃退、敵襲にあたって住民を殺害、難民化から守ることについては、議会の多数決は拘束力を有するが、いかに防備を固めるか、敵襲の撃退にはどういう手段、武器を用いるかなどの問題はすべて専門家、技術者たちが諮問を受けるのであり、国民議会ではない。
第2項.立法はアッラーのみの大権である。アッラーは言われる。「統治権はアッラーにのみ属する」(クルアーン12章40節)
また言われる。「いや、汝(預言者ムハンマド)の主にかけて、彼らは自分たちの間で生じた紛争において汝を調停者とし、汝の裁定に対して心中に不満を抱かず、全てを委ねるのでない限り、信仰したことにはならない」(クルアーン4章65節)
同様に「彼らはアッラーを差し置いて、彼らの中の律法学者や修道士たちを主と崇める」(9章31節)の聖句の解釈についてアル=ティルミズィーが伝えるところでは、アディー・ブン・ハーティムは以下のように言っている。
「私(アディー・ブン・ハーティム)が首に金の十字架をかけて預言者の許を訪れたところ、彼は私に『アディーよ、その偶像を捨てなさい』と言われました。私は彼が『彼らはアッラーを差し置いて、彼らの中の律法学者や修道士たちを主と崇める』(9章31節)を読誦し、『ユダヤ教徒やキリスト教徒は確かに律法学者や修道士を拝んでいたわけではない。しかし彼らは律法学者や修道士たちが彼らに許可したものは許されているとみなし、彼らに禁じたものは何であれ、自分たちもそれを禁じていたのである』と言われたのを聞いた。」
それゆえ立法は全員一致であれ、多数決であれ、国民議会の意見が採用されることはない。立法はクルアーン、スンナとその両者に導かれた正当な法的推論(イジュティハード)のみに基づくのである。それゆえアッラーの使徒はフダイビーヤの和約に際して「私はアッラーの僕、その使徒であり、彼の御命令に背くことは決してない」と言われ、ムスリムの多数意見を拒否されている。和約はアッラーからの啓示だったからである。それゆえ立法において人々の意見に依拠することはないのである。この原則に基づき、聖法の諸規定の法制化、法令の制定は記述の通り、カリフのみの大権となるのである。とは言え、カリフは聖法の諸規定、法令を法制化するにあたって、国民会議の意見を知るために、事前にそれを国民会議に諮問することはできる。ウマル・ブン・アル=ハッターブは聖法の規定についてムスリムたちに意見を求め、預言者の直弟子たちの誰もそれを非難しなかった。一例を挙げると、イラクの征服地に関して、ムスリムたちはウマルに征服地をそれを勝ち取った戦士たちの間で分配するように求めていた。ウマルは人々の考えを聞いたが、最終的にその土地を人頭税に加えて一定の地租を支払う条件で元の所有者たちの手中の占有のままに残すことに決めたのである。ウマルと、その前にはアブー・バクルが聖法の規定について預言者の弟子たちの意見を聞き、時にそれを採用し、そのことで彼らの誰も両名を非難しなかったことは、それが許されていることについての預言者の弟子たちのコンセンサスの証明なのである。
 カリフが制定したこうした法令の聖法からの演繹、あるいは国家によるその法制化の方法論の正当性をめぐって、カリフと国民議会が対立した場合、行政不正裁判所に付託することについては、カリフが法制化した法規定について、その法規定に聖法上の典拠があるか、その聖法上の典拠が事実に該当しているか否かについて審査することは行政不正裁判官の権限であるので、カリフと議会の多数派がカリフの制定した法規定がイスラーム聖法上合法か否かで争う場合、その裁定は行政不正裁判官の権限であるため、彼に委ねられ、行政不正裁判の判決は拘束力を有するのである。
非ムスリムの国民議会議員には、カリフが法制化を望む法規定、法令の法案を審議する権限はない。それは彼らがイスラームを信じていないからであり、為政者からこうむる不正についての意見の表明は彼らの権限であるが、法規定や聖法の法令自体について意見を差し挟むことは彼らの権限にないからである。
第3項. その典拠は統治者の査問について述べたハディースの一般原則である。
アッラーの使徒は言われた。「いずれ自分たちが行わないことをお前たちに命ずる司令官たちがお前たちの上に立つことになる。彼らの嘘を本当とし、彼らの不正を助ける者は我らの一員ではなく、私は彼と関わりはない。彼は楽園の池で私の許に来ることはない。」
「最高のジハードは不正なスルタンの許で真実を口にすることである」(ハディース)
「殉教者の長はハムザ・ブン・アブドルムッタリブ、そして不正なイマームに向かって立って、彼に(善を)命じ(悪を)禁じ、その結果殺された者である。」(ハディース) 「いずれおまえたちが耐える支配者、否認する支配者が現れる。忍耐した者には罪はなく、否認した者は安心である。しかし満足して従った者は(どうであろう)。」(ハディース)

と言われた、と述べたと伝えている。これらのテキストは一般的であり、聖法の諸規定に基づいて統治者を査問すべきこと、また査問はあらゆる行為に関わる典拠である。それゆえカリフやその他の補佐、総督、知事たちに対する議会の査問は実際に行われたすべての行為に及ぶ。それは聖法への背反、あるいは過誤、ムスリムへの加害、臣民への不正、臣民の諸事の世話の怠慢であれ、そうであり、カリフはそうした査問、抗議に対して自分の言動、行政について、自分の視点、言い分を説明して応答し、自分の行政、行動が正しく潔白であることを議会に納得させる義務がある。議会がカリフの視点を受け入れず、言い分を拒絶した場合には、第1項.(a)のように議会の多数意見が拘束力を有する問題であれば、議会の見解が拘束力を持ち、第1項(b)のようにそうでない場合には拘束力を有さない。たとえば前出の例で言えば、査問が「なぜある地方には十分な数の学校がないのか」、というものであれば、査問が拘束力を有するが、査問が「ある学校がなぜ甲の設計によって建てられ、乙の設計でなかったのか」との査問は拘束力を持たない。それゆえ「信仰する者よ、アッラーに従い、使徒と汝らの中の権威ある者に従え。そしてお前たちが何かで争うなら、それをアッラーと使徒の許に持ち込め」(4:59)とのアッラーの御言葉により、その問題は議会の求めに応じて行政不正裁判所に付託される。この節の意味は「ムスリムたちよ、お前たちが何事であれ権力者と争うなら、それをアッラーと使徒に訴えよ、つまり、聖法に照らして判断せよ」ということであり、「聖法に照らして判断する」とは「裁判にかけること」であり、それゆえに行政不正裁判所に訴えるのであり、その裁定は拘束力を持つ。なぜならこの件では行政不正裁判所が所轄だからである。
第4項.その典拠は、アッラーの使徒によるバハレーン知事アル=アラーゥ・アル=ハドラミーの罷免である。その理由はアブド・アル=カイス族が彼への苦情を使徒に訴えたからである。イブン・サアドはムハンマド・ブン・ウマルから以下の逸話を伝えている。
「アッラーの使徒はアル=アラーゥ・ブン・アル=ハドラミーにアブドルカイス族の20名の男を連れて使徒の許に出頭するように書き送り、アル=アラーゥはアブドッラー・ブン・アウフ・アル=アシャッジュを団長とするアブドルカイス族の20名の男を伴い、バハレーンにはアル=ムンズィル・ブン・サーウィーを代行として残して使徒の許に来た。そこで(アブドルカイス族の)使節団はアル=アラーゥ・ブン・アル=ハドラミーに苦情を申し立て、アッラーの使徒は彼を罷免し、アバーン・ブン・サイード・ブン・アル=アースをその後任に任命され、彼に『アブド・カイス族に気を配り、彼らの長を優遇せよ』と言われた。」
 またウマル・ブン・アル=ハッターブもサアド・ブン・アビー・ワッカースを管区の人々の苦情のみによってその総督職から罷免し「私が彼を罷免したのは無能故でも、背任のためでもない」と言っており、これらの事例は、地域住民は自分たちの総督や知事に対する不満、不信任を表明する権利があり、カリフはそれに基づいて彼らを罷免する義務があることを示しているのである。つまり、地域議会と国民議会にはムスリム全ての代理人として総督や知事に対する不信任を表明する権利があり、多数決で不信任案が可決された場合、カリフは直ちにそれらの総督、知事を罷免しなければならない。地域議会と国民議会の議決が異なった場合は、地域議会の議決が通る。なぜなら地方総督、知事の行状については地域議会の方が国民議会よりも詳しいからである。
第5項.第一は候補者の絞込みであり、第二はまず6人に、次いで2人に絞り込むこと。第一の候補者の絞込みについては、正統カリフの擁立の歴史的経緯は、ムスリムの代表たちが自分たちで直接に行うか、あるいは自分たちに代わってカリフに任せることによって候補の絞込みがなされたことを示している。
 サアーダ族の屋形では、候補者はアブー・バクル、ウマル、アブー・ウバイダ、サアド・ブン・ウバーダで、彼らだけであった。つまり彼らにまで絞られていた。それはサアーダ族の屋形に集まった預言者の直弟子たちの合意で決まり、その後、アブー・バクルに忠誠誓約がなされたときに直弟子たち全員の合意がなった。
 アブー・バクルの治世の末期に、彼は後任のカリフについてムスリムたちと3か月にわたり協議を重ねた結果、彼らは彼の推薦するウマルに賛同した。つまり候補者は一人に絞られたのである。
 カリフ候補の絞込みのプロセスがより明らかになったのはウマルの刺殺によってであった。ムスリムたちはウマルに後任の推薦を頼み、周知のごとくに彼は6人の候補を挙げ、彼らに限るように言明したのである。
 アリーへの忠誠誓約では、そもそも彼が唯一の候補者であったので、候補者を絞り込む必要はなかった。
 こうした絞込みは、ムスリムたちの多くの前でなされたので、もしカリフへ推薦されるべき他の人々の権利を損なうため許されないようなら、拒絶され執行されなかっただろう。それゆえカリフ候補の絞込みは預言者たちの直弟子たちのコンセンサスで許可されているのです。それゆえウンマ(ムスリム共同体)、つまりその代表は、ウンマが直接にであれ、カリフにその代行を委ねてであれ、候補を絞り込むことが許されるのである。
 以上が絞込みの許可の典拠であったが、それを最初6人にまで絞り込むことについては、ウマルの事例に倣うものであり、その後で2人に絞り込むのはアブドッラフマーン・ブン・アウフの先例であると同時に、ムスリムの選挙人の多数派による忠誠誓約の実現のためでもある。つまり候補者が2人以上いた場合、選挙者の30%しか獲得していない、つまり50%以上の多数を得ていないことがありうるが、候補者が2人を超えなければ多数派の勝利が実現するのである。
 行政不正裁判所がカリフ就位資格条件を満たすと認めた候補者の中から国民議会が2名の候補を絞る込むことについては、国民議会による絞込みがカリフを選ぶためであるから、つまりその者がカリフ就位資格条件を満たしている必要があるのである。それゆえ行政不正裁判所がカリフ候補者から就位資格条件を備えていない者を全て排除し、その後、国民議会が、行政不正裁判所がカリフ就位資格条件を満たすと認めた候補者の中から絞込みを行うのである。これが第5項なのである。

支障なき発言、意見表明権
 国民議会の全ての議員は、聖法の許す範囲内で、いかなる制限もない発言、意見表明の権利を有する。議員は、意見表明におけるムスリムの代理である。そして査問においては、その任務は、カリフや、その他の国家の統治者、あるいは国家機関のあらゆる公務員が行うことの批判であり、彼らへの査問は彼らに対して勧告、意見表明、提案、討議、国家の犯罪への抗議による。そして国民議会がこうしたことを行うのは全て、ムスリムの勧善懲悪、為政者への査問、勧告、協議の義務の履行における彼らの代理としてに他ならない。なぜならそれらはムスリムにとって義務であるからである。
至高なるアッラーは言われる。「汝らは人類に出現した最善の共同体であり、善を命じ、悪を禁ずる」(2章231節)
「地上に我らが彼に力を与えれば、礼拝を挙行し、浄財を払い、善を命じ、悪を禁ずる」(22:41)
また以下のように、勧善懲悪を指示するハディースも数多く伝わっている。
「わが魂を御手に握られる御方にかけて、善を命じ、悪を禁じよ。さもなければアッラーはその御許からお前たちに懲罰を下され、その後には、もはやお前たちが祈っても、お応えにならないであろう。」)
「お前たちが悪を見たなら、手でそれを糾せ。もしそれができなければ舌で。それもできなければ心で。それが最弱の信仰である。」
 これらのクルアーンの節、ハディースはムスリムに勧善懲悪を命じている。為政者の査問は、勧善懲悪の一つに他ならない。統治者に対する勧善懲悪の重要性に鑑みて、統治者に対する勧善懲悪を特記するハディースさえも存在している。
「最善のジハードとは、不正なスルタンの許で真実を語ることである」
これは統治者の査問、統治者の許で真実を語ることの義務、それがジハード、しかも最高のジハードであることを示す明文であり、それは「殉教者の長はハムザ・ブン・アブドルムッタリブ、そして不正なイマームに向かって立って、彼に(善を)命じ(悪を)禁じ、その結果殺された者である。」とアッラーの使徒の真正なハディースに述べられているように、たとえ殺されるに至るとしても、とまで、それを強く促し、勧めているのである。
 使徒が、フダイビーヤの和約の締結において、弟子たちが彼に激しく反対した時も、彼らの反対をたしなめられることなく、ただ彼らの意見を拒んで和約を結ばれたのである。なぜなら彼の行為はアッラーからの啓示によるものであったので、それについては人々の意見には何の価値もなかったからである。しかしその後で、使徒が彼らに供犠の羊を屠り、髪を剃り巡礼の潔斎を解くように求めたのに、彼らが使徒の命令に従わなかったときには、彼らを譴責されたのである。またアル=フバーブ・ブン・アル=ムンズィルがバドルの戦いで使徒の定めた軍営地に反対した時も、彼を叱責せず、逆に彼の諫言に従ったのである。同様にウフドの戦いでは自分の考えと違ったにもかかわらず多数意見に従ってクライシュ族の敵軍を迎え撃つためにマディーナから出征された。これらの全てにおいてアッラーの使徒は彼らの反対に耳を傾け、応えられたのである。
 また使徒の直弟子たちは、使徒の跡を継いだ正統カリフたちを査問したが、正統カリフは彼らを譴責しなかった。また彼らはウマルが説教壇に立って貢納のイエメンの上着を分配している時に彼を査問し、また彼が婚資の値上がりを禁じた時に一人の女性が彼に反対した。また預言者の直弟子たちは、ウマルがイラクを征服した後、その土地を分配しなかったので、彼に反対し、査問した。ビラールとアル=ズバイルは特に激しく反対したが、ウマルは彼らが自分の意見に納得するまで彼らと話し合い、協議し続けたのであった。
 それゆえ国民議会のどの議員にも、ムスリムの代理であることに鑑みて、いかなる妨害もなく、害を被ることもなく、望むままに意見を表現することができる。国民議会議員は、カリフ、カリフ補佐官、地方総督、知事、そして国家機関のいかなる公務員でも査問する権利があり、彼らにはそれに応える義務があったのである。
 そして同様に非ムスリムの国民議会議員も、彼らが被った不正に関しては、それが意見表明における聖法の規則の範囲内にある限り、いかなる妨害もなく、害を被ることもなく、意見を述べる権利を有するのである。

付録1.旗章、旗印
アッラーの使徒がマディーナに樹立された初期イスラーム国家において以下のように存在していたことからの帰結として、イスラーム国家には旗章と旗印がある。
(1).語義的には「旗章(liw)」、「旗印(ryah)」はアラビア語辞典『包括』によると、どちらも「旗(alam)」を意味する。
 その上で、聖法は用法においてそれぞれに固有の聖法的意味を付与した。
*「旗章」は、白地に黒で「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使徒なり」と書かれている。「旗章」は、軍司令(amr)、軍総揮官(qid)に授けられ、その周囲を巡回する彼の場を示す印となる。
「預言者がマッカを征服し入城された時、彼の旗印は白色だった」(ハディース)
「預言者はウサーマ・ブン・ザイドをギリシャ攻撃軍の司令官に任じ、彼に旗章を授けた」(ハディース)
*「旗印」は、黒地に白で「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはその使徒なり」と書かれている。「旗印」は師団、旅団、連隊などの軍の下位の単位の司令官たちに授けられる。その典拠はアル=ブハーリーとムスリムが伝えるハディース「使徒はハイバルの戦いで『私は明日、アッラーとその使徒を愛し、アッラーとその使徒もその者を愛する男に旗印を授ける』と言われ、それをアリーに授けた。」である。その時点でのアリーは師団長、あるいは旅団長にあたった。アル=ハーリス・ブン・ハッサーン・アル=バクリーは以下のように述べている「私たちがマディーナに着くと、アッラーの使徒が説教壇に立っておられ、ビラールが剣を手にして彼の前に立っており、多くの黒旗がありました。『これらの旗はなんですか』と私が尋ねると人々は『アムル・ブン・アル=アースが戦いから帰還したのだ』と答えた。」『多くの黒旗がありました』とは、アムル・ブン・アル=アースが軍指令でありながら、黒旗はたくさんあった、つまり師団長、旅団長たちがそれぞれ黒旗を持っていたことを意味するのである。
 それゆえ旗章は軍司令のものであり、旗印は残りの軍、軍団、師団、旅団などのものであった。つまり旗章は一つの軍に一つしかないが、旗印は一つの軍の中にも複数存在したのである。
 それゆえ旗章は、軍司令唯一人の印であり、旗印は兵士たちの印であったことになる。
旗章は軍司令に授けられ、彼の司令部の印となる。つまり軍司令部に固定される。戦闘中には、軍指令自身であれ、軍指令が任命した別の指揮官であれ、戦闘の指揮官が旗印を授けられ、戦場での戦闘中にそれを掲げる。それゆえ旗印(ryah)は戦場で戦闘の指揮官の許に掲げられているので「戦争の母(umm arb)」とも呼ばれるのである。
 それゆえ戦闘中には旗印は全ての戦闘の指揮官の許にあることになり、それは当時においては周知の事柄であり、旗印が立っていることは戦闘の指揮官の戦闘力の印であった。こうしたことは軍の戦闘の慣習に応じて遵守すべき組織行政なのである。
 アッラーの使徒は、ザイドとジャアファルイとイブン・ラワーフの訃報が届く前に、その死を悼まれ「ザイドが旗印を持っていたが戦死し、それからじゃあファルがそれを取ったが戦死し、それからイブン・ラワーフがそれを取って戦死した。」と言われた。
 また戦闘中に軍の総揮官が戦場におり、それがカリフ自身である場合には、旗印だけでなく旗章が戦場に掲げられることが許される。イブン・ヒシャームの『預言者伝』には、大バドルの戦いの話の中で、その戦場で旗章と旗印が掲げられていたことが伝えられている。
 平時、あるいは戦争終結後には、ムル・ブン・アル=アース軍についてのアル=ハーリス・ブン・ハッサーン・アル=バクリーのハディースにあるように、旗印は軍の中に分散され、師団、旅団、連隊に掲げられる。
(2)カリフはイスラームにおける軍総司令官であるので、聖法に則り、旗章は彼の本営、カリフ宮に掲げられる。なぜなら旗章は軍司令官に渡されるからである。またカリフは国家諸機関の行政上の長でもあるので、行政府としてのカリフ公邸に旗印を掲げることも許される。
 他の国家機関、官庁、役所については旗印だけが掲げられる。なぜなら旗章は軍司令だけに、その本営の印として、特別に与えられるからである。
(3)旗章は槍に結び、巻かれ、軍団の数に応じて軍司令官に授けられる。第一軍団長、第二軍団長、第三軍団長、・・・シリア軍団長、イラク軍団長、パレスチナ軍団長、・・・アレッポ軍団長、ヒムス軍団長、ベイルート軍団長・・・など軍の名称に従って、軍団長に与えられる。
 原則は、槍に巻きかれており、例えばカリフの重要性ゆえにカリフ宮の上に掲げられる場合や、平時であっても軍の旗章の栄光をウンマ(ムスリム共同体)が目にするために、軍団長たちの軍営の上に掲げる場合のような必要性がない限り掲げられない。但しこの場合でも敵に軍団長の軍営地を知られる恐れがあるなど国防面で問題が生ずる場合は、原則に戻り、巻かれてしまったままにし、掲げない。
 旗印は現在の普通の旗のように風になびくままにしておけばよく、諸官庁に掲げられる。
 要約:
第一.軍
(1).交戦状態においては、旗章は軍団長の軍営に置かれる。原則は広げず槍に巻きつけておくが、安全が確保できれば掲げることも出来る。 旗印は戦場でも戦闘の指揮官が掲げ、カリフが戦場にいるなら、旗印を掲げることも出来る。
(2).平時には、旗章は軍団長たちに渡され、槍に巻かれるが、軍団長たちの軍営に掲げられることもできる。
旗印は軍の中で、師団、旅団、連隊、大隊やその他の部隊に分散され、各師団、旅団、連隊、大隊やその他の部隊毎に行政的に独自の旗印を持ち、それを掲げても構わない。
第二.国家諸機関、官庁、治安機関
旗印のみが掲げられる。但しカリフ宮は例外で、カリフは軍総司令官であることから、旗章が掲げられる。また行政的にはカリフ宮は官庁の最高府でもあるから、旗章と旗印を共に掲げることもできる。また民間団体や民間人もまた、特に祝日や戦勝記念日などの機会などに、その社屋や自宅に旗印を持ち、掲げることが出来る。

付録2.カリフ国家の国歌
 特定の集団を他集団と、あるいは国家を別の国家と区別するために唱える標語を定めることは許容事項の一つである。ムスリムたちは他国との会戦での標語を作っており、アッラーの使徒の治世にも彼の承認の下にそれを用いていた。「塹壕の戦い」、「クライザ族との戦い」では「ハーミーム。彼らは神佑を得ない。」「ムスタラク族との戦い」では「神佑を得た者よ、私は殺せ、私を殺せ」という標語などを採用していた。
 加えて、アッラーは人間に、聴力、視力、発話能力などの身体的特性を恵み給うたのであり、それは許可の一般的根拠となる。特別に何かが禁止されたとの典拠がない限り、望むがままに、聞き、見、話し、標語を唱えればよいのである。
 それゆえカリフ国家には、他の国と自らを識別するために唱えられる標語を採用することは許される。外交関係において、カリフが他国を訪問するとき、あるいは他国の使節を謁見する時などにそれを用いるのである。同様に一般庶民も、様々は機会に、寄り合い、公共の集会、学校、放送などでそれを唱えることが出来る。朗唱の方法については、大きな声で唱えようと、小さな声で唱えようと、抑揚をつけて唱えようと、抑揚無しに唱えようと、それらは全て許されているのである。ムスリムたちは彼らがそれを唱える機会に応じて心を打つ声で自分たちの標語を吟唱していたのである。
 そこでカリフの諸外国の元首たちとの公式会見で必ず唱えられ、国民(ウンマ)が特定の機会に唱える国歌を作詞することに決めた。アッラーのお許しにより正統カリフ国家が再興された時には、その国歌には以下のような条件が遵守される。
(1)その中で、正統カリフ国家の再来についてのアッラーの使徒の予言が実現し、アッラーの使徒である鷲の旗が再び掲げられることが述べられること。
(2)カリフ国家再興の暁には大地は財宝を吐き出し、天はその恵みを降らせ、不正に満ちた大地を正義で満たすとの使徒の予言について言及する。
(3)参詣される3つのモスク、マッカの聖モスク、マディーナの預言者モスク、そしてユダヤ人機構の根絶の後のエルサレムの最果てのモスクを筆頭とするイスラーム諸地方のカリフ国家への編入後の全世界の征服と善の普及について言及する。
(4)ウンマ(イスラーム共同体)が、アッラーの御望みになる人類最善のウンマに戻り、その最大の目標がアッラーの御満悦であり、アッラーがその恩寵、慈悲、最高の楽園の栄光を授けてくださることを最後に述べて終わる。
(5)国家の中で「アッラーは至大なり」と繰り返し唱える。「アッラーは至大なり」の語は、イスラーム、ムスリムの生活に特別な地位を占める。それはムスリムたちの勝利や祝日に繰り返し唱えられ、感動的なあらゆる場で口を衝いて出るのである。
以上に述べたことに基づき、アッラーのお許しにより適当な機会に、カリフ国家の国歌の全文テキストが本書の付録に収められることになろう。
我々は最後に祈る。万世の主アッラーにこそ称えあれ。

『カリフ国家の諸制度 ― 統治と行政』 1

『カリフ国家の諸制度
― 統治と行政』


発行:解放党



増補版


2005/1426年



P.O.Box 135190
Dr al-Ummah, Beirut, Lebanon

目次

増補版前書き
序文

カリフ国家の諸制度 ― 統治と行政

第1章:カリフ
称号
カリフの資格条件
就位の資格条件
カリフ任命手続
カリフ任命と忠誠誓約の具体的手順
カリフ臨時代行
候補者の絞込み
忠誠誓約の形態
カリフの唯一性
カリフの権限
カリフ立法のイスラーム法による制限
カリフ国家 非神政人治国家
カリフの任期
カリフの罷免
カリフ制樹立猶予期間

第2章:カリフ補佐(全権大臣)
全権補佐の資格条件
全権補佐の職務
全権補佐の任命と罷免

第3章:執行大臣

第4章:地方総督
カリフの地方総督監督義務

第5章:ジハード司令 - 軍部(軍隊)
ジハード
(1)軍隊
(2)国内治安
(3)軍需産業
(4)国際関係 
軍隊の分類
軍司令官としてのカリフ

第6章:国内治安
 治安部門の任務

第7章:外交

第8章:工業

第9章:司法
裁判官の分類
裁判官の資格条件
裁判官の任命
裁判官の給与
法廷の構成
風紀監督官
風紀監督官の権限
行政不正裁判官
行政不正裁判官御任命と罷免
カリフ国家樹立以前の契約、社会行為、裁判

第10章:行政機関(福祉)
非統治的行政機構
福祉政策
行政機構官吏資格者

第11章:国庫

第12章:情宣
情報メディアの許認可
情宣国家政策

第13章:国民議会(協議と査問)
協議の権利
査問の義務
国民議会議員選挙
国民議会選挙の方法
国民議会の議員資格
国民議会の議員任期
国民議会議員の権限
自由な発言、発議権
付録
旗章、旗印
国歌


増補版 前書き

アッラーに称えあれ。アッラーフの使徒ムハンマドとその御家族、御一統、そして彼に従う者に祝福と平安あれ。

「アッラーは、汝らの中で信仰し、善行を為す者たちに、約束し給うた。彼ら以前の者たちに継がせ給うたように、彼らに大地を継がせ給い、また彼らのために嘉し給う宗教を彼らに堅固なものとし給い、恐怖の後で、代わりに安心を授け給う、と。彼らは我(アッラー)を崇め、我に何物も並置しない。しかしその後に不信仰に陥る者は、不義の輩である。」(クルアーン24章55節)
またアッラーの使徒は言われた。
「おまえたちの中に預言者制はアッラーが望まれる間は続くが、彼は望まれる時にそれを取り上げられる。次いで尚武の王制が現れる。それはアッラーが望まれる間は続くが、彼は望まれる時にそれを取り上げられる。次いで専制王制が現れる。それはアッラーが望まれる間は続くが、彼は望まれる時にそれを取り上げられる。そして預言者職に倣うカリフ制が現れる。」
こう語り終えてアッラーの使徒は黙された。(アフマド・ブン・ハンバル が収録するハディースより)

我々、解放党は、アッラーの御約束とアッラーの使徒ムハンマドの吉報の予言を信じ、ウンマ(ムスリム共同体)と協働し、カリフ制の再興のために献身する。
我々は、カリフの兵士となりその旗を掲げ、勝利を重ね、カリフ制の樹立に成功するようにと、その実現を確信しつつ、アッラーに祈る。アッラーにはそれはいとも容易いこと。
我々は本書では、明瞭で分かり易く実践的な表現で、カリフ国家の統治と行政の制度について、なによりも心から納得できて胸に響くような厳密な論証を行うようにと心がけた。 
我々が本書を書くに至ったのは、今日のイスラーム世界に存在する多くの政治体制が、形式においても実質においても、本来のイスラームの統治制度とかけ離れていることによる。
実質については、現行の政治体制は全て、クルアーンとその使徒のスンナ(言行)に基礎をおかず、それを指針としておらず、むしろイスラーム的統治とは真逆の政体であることは、ムスリムたちの誰の目にも明らかである。それ誰にも異議がない明々白々たる事実である。但し、イスラームの統治体制が、制度面においては現行の(西欧の国民国家の)統治制度と大差なく、現在の人定法の統治制度と同様な構成と権限を有する内閣や省庁といったものがあっても構わない、と考える誤解の余地はあるかもしれない。
そこで我々は、カリフ国家の統治制度について、アッラーの御心により将来その実現を見る前に、その統治機構の姿を脳裏に思い描くことが出来るようにと、それを詳述することにした。またカリフ国家の旗章、旗印、将来発布するカリフ選挙法、忠誠誓約の形式、カリフが捕虜になった際の解放が見込まれる場合とそうでない場合の臨時代行の権限、地方警察の執行と行政の組織、治安部門の女性警官の任命、地方議会、国民議会の選挙法、国歌など、原著になかった必要事項を該当箇所に書き加えた。
アッラーが我々の勝利を早められ、我々の共同体が人類最善の共同体となり、カリフ国家が、世界最高の国家となり、世界の隅々にまで善と正義を広めることができるよう、我々に恩寵を垂れ、栄光と恵みを授け給いますように。そしてその時、信仰者はアッラーの神佑を喜び、アッラーは信ずる民の心を癒し給うでしょう。最後に我々は祈る。万世の主アッラーにこそ賞賛あれ。


序.
 カリフ国家の機構の詳細について論ずる前に、以下の点を先ず明らかにしておく必要がある。

(1):万世の主アッラーが義務として課されたイスラームの統治制度はカリフ制である。

 この制度においては、アッラーの啓示に則る統治を行うために、アッラーの啓典クルアーンとその使徒ムハンマドのスンナ(言行)への忠誠の誓いに基づき、カリフが擁立されるのである。クルアーンとスンナと預言者ムハンマドの直弟子たちのコンセンサスの中に、それを示す典拠は無数に存在する。
 クルアーンでは、至高なるアッラーは預言者ムハンマドに訓戒し以下のように述べられている。
「アッラーが啓示されたものによって彼らの間を治めよ。彼らの欲望に従い、汝のもとに齎された真理から逸れてはならない。」(クルアーン5章48節)
「アッラーが啓示されたものによって彼らの間を治め、彼らの欲望に従ってはならない。アッラーがお前に啓示されたものの一部から逸らせるように彼らが汝を誘惑することを警戒せよ。」(クルアーン5章49節)
 彼らの間をアッラーの啓示に則って治めよ、との使徒ムハンマドへの訓戒は、彼のムスリム共同体への訓戒であり、それは、使徒ムハンマドの逝去後にアッラーの啓示に則って治める為政者を擁立せよ、との意味なのである。ここでの訓告の主題は義務を課すことであり、訓告の命令法は法理学の教える通り、厳命を示す文脈であるから、それは厳命を意味するのである。そしてこの「使徒ムハンマドの逝去後にアッラーの啓示に則って治める為政者」がカリフであり、このような統治制度がカリフ制なのである。他方、法定刑などの全ての法規の執行は義務であるが、為政者が存在しなければその執行が不可能である。そして義務の遂行に不可欠な行為はそれ自体もまた義務である。つまりイスラーム法を施行する為政者の擁立もまた義務なのである。そしてこのような為政者がカリフであり、この統治制度がカリフ制度なのである。
 スンナについては、預言者の孫弟子のナーフィウは預言者の直弟子アブドッラー・ブン・ウマルが彼に以下のように語ったと伝えている。「私はアッラーの使徒が『服従から手を引いた者は、最後の審判の日にアッラーにまみえるが、彼には弁明の余地はない。忠誠誓約をせずに死んだ者は(イスラーム到来以前の)無明時代の死に方をしたことになる』と言われるのを聞いた」(ムスリム が収録するハディース)
預言者は全てのムスリムに忠誠誓約を立てるように命じ、忠誠誓約をせずに死んだ者を無明時代の死に方をしたのだと言われたが、アッラーの使徒の逝去後には、忠誠誓約は、カリフ以外の誰にも与えられることはない。それゆえ全てのムスリムにカリフに忠誠誓約をすることを義務付けるこのハディース(預言者ムハンマドの言行録)は、つまりその前提として全てのムスリムの忠誠誓約を受けるに相応しいカリフの存在をも義務付けているのである。
またムスリムが伝えるところでは、アブー・ハーズィムは「私はアブー・フライラに5年間仕えたが彼はいつも預言者が以下のように言われた」と語っていた。
「イスラエルの民は預言者によって統治されてきた。それで、一人の預言者が亡くなると次の預言者が跡を継いだ。だが私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。一人一人順に忠誠を尽くし、アッラーが彼らに授けられた権限に従え。まことにアッラーは、彼が彼らに何をしたのか、彼らに尋ね給うであろう。」
これらのハディースには、ムスリムを統治する者がカリフであるとの言明があるが、預言者がカリフへの服従と、カリフ位に異を唱える者たちの討伐を命じられている以上、その言明はカリフ擁立を求めている、つまりカリフ擁立の命令であり、カリフへの反逆者の討伐によるカリフの守護の命令なのである。
またムスリムは預言者が「イマーム(カリフ)に忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は可能な限り服従し、彼に背く者が現れれば、その反逆者の首を刎ねよ。」と言われたと伝えている。カリフへの服従の命令は、カリフ擁立の命令を含意し、カリフに背く者の討伐の命令は、カリフは常に唯独りでなくてはならないとの厳命を文脈的に示しているのである。
また預言者ムハンマドの直弟子たちのコンセンサスについては、彼らはアッラーの逝去後にカリフを擁立する必要があることに合意し、先ずアブー・バクル(初代カリフ在位632-634年)を、次いでウマル(第2代カリフ在位634-644年)、次いでウスマーン(第3代カリフ在位644-656年)を、それぞれの死後にカリフとして擁立することで合意した。そして死体は死後直ぐに埋葬することが義務であるにもかかわらず、預言者が亡くなった後、直弟子たちが彼のカリフ(後継者)擁立に専心し、彼の埋葬を遅らせたことも、カリフ擁立についての彼らのコンセンサスを裏付けている。
また預言者の直弟子たちは、彼らの生涯にわたって、カリフの擁立が義務であることでは合意していた。彼らは誰がカリフに選ばれるべきかについては意見が対立していたが、アッラーの逝去に際しても、正統カリフのどの一人の死に際しても、カリフの擁立義務自体に関しては誰も反対する者はいなかった。預言者の直弟子たちのコンセンサスは、カリフ擁立の義務の明白かつ強力な証拠なのである。

(2)イスラームの統治制度(カリフ制)は、知られている世界のどの統治制度とも異なっている。

それは立脚する原理についても、諸事を処理する指針となる思想、概念、基準によっても、施行し適用する憲法や法律によっても、またイスラーム国家が成り立ち、世界の全ての統治体制と相違するその体制の形態においても、異なっているのである。
 それは王制ではない。
イスラームは王制を認めず、カリフ制は王制に似てもいない。なぜなら王制では、王子が世襲によって王になり、ウンマ(国民)はそれに関与しないからである。他方、カリフ制においては、世襲はなく、ウンマの忠誠誓約が、カリフ就位の手順なのである。また王制は、王にのみ、彼以外の臣下の誰にもない大権、特権を認めている。また一部の王制では、王を法律の上に置き、ウンマ(国民)の象徴としており、王は君臨するが統治はしない。また別の王制では、王は自らの欲望のままに土地と臣民を処分し、君臨し、統治し、自分がいかなる悪行、不正を行おうとも、裁かれることを拒否する。
他方、カリフ制は、王制のような臣民の上に立ついかなる特権もカリフに認めず、裁判においても国民の一人と異なるような特権を与えない。またカリフは、王制のような意味において、国民の象徴であるわけでもない。カリフは、ウンマ(国民)に対してアッラーの聖法を施行するために、ウンマ(国民)が自ら選び忠誠を誓った統治と権力におけるウンマ(国民)の代行者に過ぎず、その全ての行為、裁定、国民の諸事、福利の処理において、イスラームの法規定によって束縛されているのである。
またカリフ制は帝国制でもない。
帝国制はイスラームと異なること甚だしい。イスラームが治める遠隔地方は、いかにその民族が多様で違っていようとも、唯一の中心に帰一するからである。イスラームは諸遠隔地方を帝国制によって統治するのではなく、逆に帝国制の反対の原理によって治めるのである。なぜならば帝国制は、帝国の遠隔諸地方における異なる民族を平等に扱わず、統治、富、経済において帝国の中心に特権を付与するからである。
イスラームの統治の仕方は、国家のどこにあっても被統治者たちを平等に扱い、民族主義を否定し、市民権を有する非ムスリムにも、イスラーム法に則って、臣民の権利と義務を与える。非ムスリムもムスリムが享有するのと同じく権利において公正に扱われ、またムスリムに課されるのと同じく義務においても公正に裁かれる。更に言うならば、裁判においてイスラームは、属する宗教・宗派が何であるかにかかわらず、たとえムスリムであっても、市民の誰にも他の者と違う特権を認めない。この平等性においてカリフ制は帝国制と異なり、遠隔諸地方を植民地化せず、搾取の場、中央だけに収益をもたらす財源とはしないのである。カリフ制は、いかに中央からの距離が離れていようとも、また住民の民族構成が多様であろうとも、地域の全体を単一の一体、全ての地域をカリフ国家の一部とみなし、全地域の住民に、中央と他の地域の住民と同じ権利を与え、全ての地域において、統治権、統治制度、立法権が等しく行き渡るようにするのである。
またカリフ制は連邦制でもない。
連邦制では、外交など共通の政策のみにおいて統一されている他は、諸地域が政治的自治権を有するが、カリフ制はあくまでも一体である。もしイスラーム国家の首都がエジプトのファイユーム地方であればカイロであるように、東部であれば中央アジアのホラサーン、西部であればモロッコのマラケシュとなるが、どの地域に対しても、国家財政、予算は単一で、地域にかかわりなくカリフ国家全域の住民全ての福利を考慮して支出される。たとえばある地域が資源と生産が需要の倍あったとしても、その地域には資源と生産高に応じてではなく需要に応じて財政支出される。つまりある地域の資源と生産が需要に追いつかなくても、それを考える必要はなく、その地域の資源と生産が需要をカヴァーするかしないかにかかわらず、国家の一般会計からその需要は賄われるのである。
またカリフ制は共和制でもない。
共和制は、そもそも王制の暴政に対する反動として、つまり王が自分の意のままに恣意的に土地と人を支配し、自分の望み通りに法を制定する主権、権力を有する暴政に対する反動として成立した。共和制の諸政体が生まれると、民主制と呼ばれるものでは、主権と権力は臣民に移管され、法律を定め、許可し、禁じ、善と悪を決めるのは臣民となる。統治権は、大統領(共和)制においては大統領とその大臣たちの手中に、議院内閣(共和)制では議会の手中にある。(王が統治権を剥奪され「君臨するが統治しない」立憲君主制においても同様に統治権は議会にある)
他方、イスラームにおいては、立法権は臣民には属さない。立法権はただアッラーのみに属し、アッラーを差し置いては誰にも何かを許し、禁ずる権利はない。人間に立法権を認めることは、イスラームにおいては重大な犯罪なのである。
「彼らはアッラーを差し置いて、彼らの中の律法学者や修道士たちを主と崇める」(9章31節)の聖句が啓示された時、アッラーの使徒は、この句を釈義して「彼ら(ユダヤ教徒、キリスト教徒)は人々に掟を定め、許されたもの、禁じられたものを決め、人々は彼らに服従していたのである」と説明された。 使徒が明らかにされた通り、これが「律法学者や修道士を主と崇めること」の聖句の意味であり、それはアッラーを差し置いて、許されたこと、禁じられたことを人間が定めることの罪の深さを示している。
またイスラームの統治行政は内閣を通じて行われるわけではない。カリフ制では人々の公益が集権化された単一の行政機構によって処理されるので、内閣制のように各大臣に他の大臣と区別された固有の職務、職権、予算があって、公益に関する一つの問題に関わる多くの官庁の管轄事項が重複し、煩雑を極め時間のかかる手続を経なくてはある省から別の省への権限、予算の移行ができず、人々の福祉の実現に困難をきたすようなことはない。
 共和制においては、統治行政は各官庁に分権されており、集団体制で統治行政権を有する内閣がそれを集約する。他方、イスラームにおいては、(民主制の形態で)集合体として統治行政権を有する内閣は存在せず、カリフこそが、アッラーの啓典クルアーンと使徒のスンナ(言行)に則って国民(ウンマ)を治めるという条件で国民(ウンマ)が忠誠を誓った為政者であり、そのカリフが自分を助けてその様々な職務を分担する補佐(全権全権補佐)を任命する。これが語源的な意味での大臣(wuzar)、つまり、カリフが自分のために任命したカリフの補佐役(muwin)なのである。
イスラームにおける統治制度は、「臣民が立法権を有し、許可し、禁じ、善と悪を決め、自由の名の下にイスラーム法の規定に拘束されない」という民主制の真の意味においては、民主制ではない。ムスリムがこの真の意味での民主制を決して受け入れないことを不信仰の徒たちは理解している。それゆえ植民地主義の不信仰の国々(今日では特にアメリカが)は、民主制が為政者の選挙の手段であるかのごとくにムスリムたちを欺き、ムスリムの国々に民主制を輸出しようと謀っている。彼らは為政者の選挙に話を絞り、民主制の基礎は為政者の選挙であるかのような誤解を招く偽りのイメージをムスリムたちに抱かせ、ムスリムたちの民主制に対する認識を誤らせようとしている。なぜならムスリムの国々は、暴虐、不正、言論弾圧、抑圧(そして独裁)に苦しめられており、それはそれらの政権が王制を名乗っていようと共和制を名乗っていようと変わらないからである。ムスリムの国々はこうした不正と弾圧にあまりにも苦しめられているので、(独裁者から解放され、選挙で自分たちの支配者を選ぶことさえできるなら、どんな政体にでも飛びつくようになっているので)不信仰者たちは、為政者の選挙だということで民主制をムスリムの国々密輸するのは容易なのである。その際、彼らは民主制の本質であるところの「立法、許可、禁止が人間の主であるアッラーではなく、人間の権利となる」という事実を隠蔽しており、そのため、一部の者たちは(イスラーム主義者、そればかりか彼らの中の伝統的イスラーム学者までが)善意から、あるいは知っていながら確信犯として、この欺瞞の民主制を受け入れているのである。
 もし彼らに「民主制とは何か」と尋ねれば、彼らは、「民主主義は為政者の選挙である」と考えて、「それではイスラームでも許されている」と答えるであろう。悪意の確信犯たちは、民主制の創始者たちが意図した真の意味を故意に隠蔽して話を逸らす。つまり、民主制とは人民主権であり。人民が多数決で望みのままに法を定め、許可し、禁じ、善と悪を定めることであり、個人は自分自身の行為については「自由」であり、民主主義と自由の名の下に、酒を飲もうと、姦通を犯そうと、背教しようと、聖なるものを誹謗中傷しようと、望みのままに振舞ってよいということなのである。これが民主制であり、これがその真相、意味するところ、本質なのである。イスラームを信ずるムスリムが、「民主制は許される」、あるいは「民主制はイスラームに属する」などとどうして言うことができようか?
 国民(ウンマ)による為政者の選任、つまりカリフの選任について言えば、それはクルアーンとスンナの明文が定めていることなのである。イスラームにおいて主権は聖法(shar)に属するが、人々によるカリフに対する忠誠誓約が、カリフ就位の前提条件なのであり、かつて世界が独裁者の暗黒と王の専制の下に暮らしていた時代に、イスラームにおいてはカリフの選挙が実践されていたのである。
アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリー(第4代カリフ在位656-666年)の正統カリフの選任の方法について研究した者は、「解き結ぶ者(有力者たち)」とムスリムの代表者たちのうちの一人がムスリムたちに服従が義務となるカリフになるために、彼らによる正統カリフたちに対する忠誠誓約がどのように締結されたかを明瞭に知ることが出来る。ムスリムの代表たち(それは首都マディーナの住民である)の見解を調べることを任されたアブドッラフマーン・ブン・アウフは、彼らの間を回り、あの家、この家と訪ね、誰彼となく聞き回り、男性にも女性にも、カリフの候補者の中から誰を選ぶかを質問した結果、最終的に人々の意見はウスマーンをカリフに選ぶことに落ち着き、彼に対して忠誠の誓いが締結されたのであった。
 要約すると、民主制は不信仰の政体であるが、それは為政者が選挙で選ばれるからではない。それは本質的な問題ではないのである。そうではなく民主制の本質は立法権を万世の主アッラーから奪い人間に与えることなのである。アッラーは言われる。「統治権はアッラーにのみ属する」(クルアーン12章40節、67節)また言われる。「いや、汝(預言者ムハンマド)の主にかけて、彼らは自分たちの間で生じた紛争において汝を調停者とし、汝の裁定に対して心中に不満を抱かず、全てを委ねるのでない限り、信仰したことにはならない」(クルアーン4章65節)
立法権がアッラーのみに属することを示す典拠は数多く知られている。このことは、民主制が認めるところ「個人の自由」を別にしての話である。民主制の「個人の自由」により、男と女は、イスラーム法上許されているか禁じられているかを問題とすることなく、好きなことができるのである。またいかなる束縛もない背教と改宗の宗教的自由も同様である。そして更に様々な手段による強者による弱者の搾取を許す所有権の自由があり、富める者はますます豊かになり、貧しい者はますます困窮していくのである。思想の自由も同様で、それは真理の言葉についてではなく、ウンマ(ムスリム共同体)が神聖とみなすものに敵対する言論の自由でしかない。彼らは思想の自由の名によってイスラームを侮辱する者を優れた思想家とみなし、多くの賞を授けさえするのである。
それゆえ上述の通りで、イスラームの統治制度(カリフ制)は、王制でもなく、帝国制でもなく、連邦制でもなく、共和制でもなく、民主制でもないのである。

(3)カリフ国家の制度は、外見上、一面的には類似点があるとしても、現在知られている他のいかなる政治体制とも異なっている。

カリフ国家の制度は、アッラーの使徒がマディーナに移住し、そこにイスラーム国家を樹立した後で立ち上げられ、彼の逝去後、正統カリフたちが、それを踏襲した制度を引き継いでいる。
 それについて書かれたクルアーンとスンナの明文を詳細に検討すれば、カリフ国家の統治と行政の機構は、およそ以下のようなものであることが分かる。

カリフ - 補佐(全権大臣) - 執行大臣 - 地方総督 - ジハード司令官 - 国内治安 - 外交 - 工業 - 司法 - 行政機構(福祉) - 国庫 - 情宣 国民議会(協議と査問)

次章以下では、アッラーが我々を勝利せしめ、正統カリフ制の再興を成功させ、イスラームとムスリムに栄光を授け、不信仰と不信仰の徒を卑しめ、全世界に善が広まるように、祈りつつ、これらのカリフ国家の制度の詳細と、その典拠について述べていきたい。
「アッラーは彼の命令を貫徹し給う。アッラーは万物に一定の分を定められた。」(クルアーン65章3節)
 アッラーこそ援けを求められるべき御方であらせられます。彼にのみこの身をお任せいたします。

1425年ズルヒッジャ月14日/2005年1月24日


カリフ国家の諸制度(統治と行政)


第1章:カリフ

 カリフは統治と権力、イスラーム聖法の諸法規の執行におけるウンマ(ムスリム共同体)の代行者である。というのは、イスラームは統治と権力をウンマのものとし、アッラーはウンマに聖法の法規の全てを執行することを義務付けられたが、ウンマの代理としてそれを代行する者が、ウンマの代わりを務めるからである。
 そしてムスリムがカリフを擁立するのであるから、実際には、カリフは、統治と権力、イスラーム聖法の諸法規の執行におけるウンマの代行者なのである。カリフはウンマが忠誠を誓うことによってしかカリフになることはできないので、彼のカリフ位に対するその忠誠誓約がカリフをウンマの代行者とし、この忠誠誓約によるカリフ位の締結がカリフに権力を付与し、ウンマにカリフへの服従を義務付けるのである。
 ムスリムの諸事を司る者は、ウンマの中の有力者たち「解き結ぶ者」が、カリフ就位後にイスラーム聖法を執行するとの条件で、カリフの資格を満たす者を納得して選んだ上でその者とカリフ位締結の忠誠誓約を交わすことによって初めてカリフとなるのである。

称号
 彼を指す称号は、カリフ(アラビア語の原音では「ハリーファ(khalfa)」)、イマーム、あるいはアミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令)であり、これらの称号は、真正なハディースや預言者ムハンマドの直弟子たちのコンセンサスの中で用いられており、正統カリフたちはこれらの称号で呼ばれたのである。
以下の預言者のハディースに、イスラームにおいて聖法を執行する為政者の称号が述べられているが、それがカリフ、あるいはイマームなのである。
「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ」
「イマームに忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は彼に服従せよ」
「お前たちのイマームで最善の者とは、お前たちがその者を愛し、またその者もお前たちを愛し、お前たちがその者に祝福を祈り、その者もお前たちのために祝福を祈るようなイマームである」
 アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)の称号については、最も信頼できるのは、以下の伝承である。

 ウマル・ブン・アブドルアズィーズ(ウマイヤ朝第8代カリフ在位717-720年)がアブー・バクル・スライマーン・ブン・アビー・ハスマに「初代カリフアブー・バクルの治世には、『アッラーの使徒のカリフ(後継者)より・・・』と書簡には書かれており、次いでウマルは初めは『アブー・バクルのカリフ・・・』と書いていた。それでは誰が最初に『アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)』と書いたのか?」と尋ねた。
そこでアブー・バクル・スライマーン・ブン・アビー・ハスマは答えた。
「最初のマッカから亡命した女性信徒の一人であったアル=シファーゥ が私に語ったところでは、第2代カリフウマル・ブン・アル=ハッターブがイラク総督に自分の許にイラクとその住民について尋ねたいので二人の強健な使者を送るようにとの書簡を送った。
そこでイラク総督はラビード・ブン・ラビーアとアディー・ブン・ハーティムを送った。二人がマディーナに到着すると二人はラクダをモスクの中庭に停めてモスクに入ったが、そこでアムル・ブン・アル=アースに出会ったので、『アムルよ、アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)に取り次いでください』と言った。
アムルは『お前たちは、彼の名称を正しく呼んだ。まさに彼は<司令官(アミール)>で、我々は<信徒(ムウミヌーン)>だ。』と言い、ウマルの許に駆けつけ、『貴方に平安あれ、アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)よ』と呼びかけた。
そこでウマルは尋ねた『イブン・アル=アースよ、その名前は何か?我が主にかけて、お前の言ったことを説明せよ』
アムルは答えた。「ラビード・ブン・ラビーアとアディー・ブン・ハーティムがマディーナにやって来てはラクダをモスクの中庭に停めて私のところにやって来て、『アムルよ、アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)に取り次いでください』と私に頼んだのです。アッラーにかけて、彼らは、あなたの名称を正しく呼びました。まさに私たちは信徒『(ムウミヌーン)』であなたは『私たちの司令官(アミール)』ですから。
(アブー・バクル・スライマーン・ブン・アビー・ハスマは)続けて言った。「その時から彼は書簡にそう署名するようになりました。」
こうして預言者の直弟子たちの時代、およびその後も、カリフをその称号「アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)」で呼ぶことが定着したのである。

カリフの資格条件
カリフの有資格者となり、カリフ就位の忠誠誓約が締結されるためには、カリフは7項の資格条件を満たしていなくてはならない。この7項の資格条件は就位締結のための条件であり、そのうちの一項でも欠けていればカリフ位は成立しない。
就位締結条件
第1項:ムスリムであること
不信仰者には、カリフ位は無条件に無効であり、服従は義務ではない。なぜなら至高なるアッラーが「アッラーは不信仰者にムスリムの上に決して道を設け給わない」(4章141節)と言われているが、統治こそ、統治者が被統治者の上に立つ最も強い『道』であり、また未完了否定詞『決して・・・ない』という表現は、カリフであれ、それ以下の官職であれ、不信仰者がムスリムを支配し治めることは将来に亘って決してないとの決定的な禁止を示しているのである。不信仰者にムスリムの上に道をつけることをアッラーが禁じ給うた、ということは、ムスリムに対して、ムスリムが不信仰者を彼らムスリムの統治者に任ずることを禁じ給うた、ということを意味しているのである。
またカリフは「権威(wal al-amr)」であるが、アッラーは「信仰する者よ、アッラーに従い、使徒と汝らのうちの権威者に従え」(4章59節)「安全、あるいは危険な事柄が彼らにもたらされた時には彼らはそれを言いふらした。もし彼らがそれを使徒と彼らの中の権威者の許に持ち込んでいたならば」(4章83節)、ムスリムの権威がムスリムであることを条件クルアーンの中では「権威(ul al-amr)」の語は、彼らがムスリムであるような文脈でしか用いられない。それは「権威」はムスリムであることが条件であることを示しているのである。そしてカリフは彼自身が「権威」であり、補佐、官吏、総督などの権威者の任命者でもある以上、ムスリムであることが条件となるのである。
第2項:男性であること
カリフが女性であることは許されない、つまりカリフは男でなければならず、「ペルシャ人がホスローの娘を女王に選んだとの報を聞いたアッラーの使徒は『女性に自分たちの政治を任せる民は栄えることはない』と言われた」とのハディース により、女性のカリフ位は有効ではない。女性による統治の政務、とはカリフとその下の統治にかかわる公職のことを指している。なぜならこのハディースのテーマはホスローの娘の女王就位であるが、それはホスロー(ホスロー2世、在位591-628年)の娘の就位のケースだけに限られた話ではなく、ハディースが述べる統治を特に扱ったテーマであり、万事に当てはまる一般論でもなく、統治のテーマの他には適用されないが、それは裁判、諮問議会、行政監査、為政者の選挙は含んでいない。これらは全て女性にも参与が明白に許されているのである。
第3項:成人であること
 アッラーの使徒は「3種の者からは筆が上げられる。(悪行が火獄行きの帳簿に記されない)すなわち、子供は成人するまで、眠っている者は目覚めるまで、痴呆の者は癒えるまで。」と言われているからである 。また別のヴァージョンの文言では「3種の者からは筆が上げられる。理性を失った狂人は正気に返るまで。眠っている者は目覚めるまで、子供は精通があるまで。」となっている。「筆が上げられる者」とは、イスラーム法上、責任能力者でなく、自分自身の問題を自分で処理しても有効とならないため、カリフ、あるいはそれより下の統治の役務に就いても有効ではないのである。なぜなら彼には行為能力がないからである。
またアル=ブハーリーの伝えるハディース「ザイナブ・ビント・フマイドが、『アッラーの使徒よ、息子と忠誠誓約を交わしてください』と頼んだが、預言者は『彼はまだ子供だ』と言われ、彼の頭を撫で、彼のために祈られた」 もまた子供がカリフとなることが許されないことの典拠となる。なぜなら子供の忠誠誓約が有効とみなされず、他人に対してカリフの忠誠誓約ができないなら、なおさら自分自身がカリフになることは許されないからである。
 第4項:理性を備えているこ。
 「3種の者からは筆が上げられる。・・・理性を失った狂人は正気に返るまで。」とのアッラーの使徒の言葉により、狂人のカリフ位は有効ではない。「筆が上げられた者」は責任能力者でない。なぜなら理性こそ義務付加の事由、法律行為の有効性の条件だからである。ところがカリフは統治の法律行為を行い、イスラーム聖法上の諸義務を果たさなければならない以上、狂人では務まらないのである。なぜなら狂人は自分自身の事柄においてすら法律行為を有効に行うことができない以上、人々の諸事に対する彼の法律行為はなおさら有効でないのである。
 第5項:公正であること
 悪人(のカリフ位)は有効ではない。正義は、カリフ位締結と継続の必要資格条件である。なぜならアッラーは「汝らの中の2人の義人を証人に立てよ」(65章2節)と言われ、証人に義人であることを条件として課されているが、カリフは証人よりも重要であるので、正義が証人の条件となるなら、カリフには尚更の条件として課されるのである。
 第6項:自由人であること
 なぜなら奴隷は主人の所有物であり、自分自身のための法律行為を行うことができない以上、他人のために法律行為を行うこと、人々の上に立つ権威を持つことはなおさら出来ないからである。
 第7項:有能であること
 カリフの職責を果たしうる能力の持ち主であること。なぜならそれは忠誠誓約が要請するところだからである。とういうのは、無能であれば、忠誠を誓ったクルアーンとスンナに則って公務を処理することができないからである。有能な人材の中から能力ある者がカリフとなるように、行政不正裁判所(makamah al-Malim)が無能力の審査を行わなければならない。
 オプショナル条件
 上記が、カリフ位締結の資格条件であった。この7条件以外の条件は、たとえクルアーンとスンナの明文の典拠が真正であったとしてもオプショナル条件であるか、あるいは真正な明文の定める規定となるだけであり、どれもカリフ位締結の必要条件ではない。なぜならカリフ位締結の必要条件であるためには、それが必要条件であることを示す典拠が、文脈的に義務であることを明示する決定的要請命令を含意していなければならないからである。そうした決定的要請命令を示す典拠がなければ、その条件はオプショナル条件であり、カリフ位締結の必要条件ではないが、上記の7条件以外には、決定的要請命令を示す典拠は存在しないため、この7条件のみが、締結の必要条件なのである。クライシュ族の出自や、独自裁量の許されるイスラーム学識や、武器の操作などの要請決定的でない典拠しかないそれ以外の条件は、言うならばオプショナル条件に過ぎないのである。
 カリフ擁立の手続き
 イスラーム聖法がウンマ(ムスリム共同体)にカリフの擁立を義務付けた時、同時にカリフの擁立において採るべき手続きも定めている。その手続きはクルアーンとスンナと預言者の直弟子たちのコンセンサスで確定しているのであり、それは忠誠誓約なのである。カリフの擁立は、クルアーンとアッラーの使徒のスンナに則って、ムスリムたちが彼に対して忠誠を誓うことで成立する。「ムスリムたち」とは、カリフ制が存在している場合には先代のカリフの治めた民であり、カリフ制が不在である場合にはカリフ制が樹立される地の住人である。
 統治者擁立手続きが忠誠誓約であることは、ムスリムの使徒に対する忠誠誓約と、イマームに対する忠誠誓約を使徒が我々に命じられたことによって定められている。ムスリムの使徒に対する忠誠誓約は、預言者としての使徒に対する忠誠誓約ではなく、あくまでも彼の統治に対する忠誠誓約であった。つまりそれは行為に関する忠誠誓約であり、信仰における忠誠誓約ではなかったのである。彼は統治者として、忠誠を誓われたのであり、預言者、使徒としてではない。なぜなら彼が預言者であること、使徒であることを認めるのは、信仰であり、忠誠誓約ではないからである。忠誠誓約は、国家元首としての彼に対して以外にはありえない。
忠誠誓約はクルアーンとスンナの中で述べられている。至高なるアッラーは言われた。「預言者よ、おまえの許に信仰する女が来て、アッラーになにものをも同位とせず、盗みをせず、姦通をせず、子供たちを殺さず、手と足の間で捏造した虚偽をもたらさず、善においておまえたちが背かないことをおまえに誓約したなら、彼女らと誓約せよ・・・」(60章12節)また言われた。「まことにお前に忠誠を誓った者たちは、アッラーに忠誠を誓ったのに他ならない。アッラーの御手は彼らの上にある」(48章10節)
またアル=ブハーリーはウバーダ・ブン・アル=サーミトが「我々はアッラーの使徒に対して、好むと好まざるとに関わらぬ聴従、権威者の命令に背かないこと、どこにいようとも真理を行い、語ること、アッラーに関して謗る者の非難を恐れぬことで、忠誠を誓った」と言ったと伝えている。
またムスリムは以下のハディースを伝えている。
「イマームに忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は彼に服従せよ。」
「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ。」
「イスラエルの民は預言者によって統治されてきた。それで、一人の預言者が亡くなると次の預言者が跡を継いだ。だが私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。一人一人順に忠誠を尽くし、アッラーが彼らに授けられた権限に従え。まことにアッラーは、彼が彼らに何をしたのか、彼らに尋ね給う。」
 クルアーンとスンナの明文は、カリフ擁立の手続きが忠誠誓約であることを明示している。預言者の直弟子たちはそれを理解し、それに倣った。正統カリフの忠誠誓約がその証しなのである。

カリフ擁立と忠誠誓約の具体的手順
カリフに忠誠を誓う前の段階の、カリフの擁立が完了するための具体的な手順は、様々な形がありうる。使徒ムハンマドの逝去後の正統カリフたち、つまり、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーのカリフ擁立もそうであったのでる。総ての預言者の直弟子たちは、正統カリフたちのカリフ就位の様々な手順を黙認したが、もし手順がイスラーム聖法に反していたなら、彼らはそれを拒絶していたはずである。なぜならカリフ位はムスリムの共同体としての存在、イスラームによる統治の存続がそれにかかっている要であり、最重要事項だったからである。
これらの正統カリフたちの就位がどのように行われたかを調べるなら、それが以下のようであったことが分かる。
先ず一部のムスリムたちがサアーダ族の館で討議したが、カリフ候補者は、サアド・ブン・ウバーダ、アブー・ウバイダ、ウマル、アブー・バクルの4人であったが、ウマルと、アブー・ウバイダはアブー・バクルと争うことを好まず、アブー・バクルとサアドの二人だけが競う形となり、協議の結果として最終的にアブー・バクルに忠誠が誓われた。そして翌日ムスリムたちが預言者モスクに招集されアブー・バクルに忠誠を誓ったのである。この最初のサアーダ族の館での忠誠誓約が(カリフ位)締結の忠誠誓約(baiah iniqd)であり、それによってアブー・バクルはムスリムのカリフとなったのであり、翌日のモスクでの忠誠誓約は服従の忠誠誓約(baiah ah)であった。
そしてアブー・バクルが自分が死病に罹っていることを自覚した時、特にムスリム軍が当時の二大超大国ペルシャ帝国と東ローマ帝国と戦っていたこともあり、ムスリムたちを招集し、誰が彼の次のムスリムのカリフになるのかを協議した。この協議は3か月続いたが、アブー・バクルはムスリムの多数の考えを知り協議を終えて、彼らにウマルが彼の次のカリフになるとの後任指名を行ったが(ahada)、これは現代の用語では「推薦(rasshaa)」にあたる。この後任指名、あるいは推薦は、彼の後任としてウマルがカリフになるとの統治契約ではなかった。なぜなら、アブー・バクルの死後、ムスリムたちはモスクに集まり、ウマルにカリフ就位の忠誠誓約を行っており、ウマルはこの忠誠誓約によりカリフになったのであり、事前の協議によってカリフになったのでも、アブー・バクルによる後任推薦によってカリフになったのでもない。なぜならもしアブー・バクルによるウマルの推薦がカリフ就位の統治契約であったなら、改めてムスリムたちが忠誠誓約を交わす必要はなかったからである。それに加えて既述の通り、ムスリムたちの忠誠誓約なしには誰もカリフになることはできないことを明示するクルアーンとスンナの明文が存在しているのである。
それゆえウマルが(モスクでペルシャの刺客に)刺された時、ムスリムたちは彼に後任のカリフを指名するように求めたが、ウマルはそれを拒否した。しかし彼らがなおも彼に執拗に求めたため、ウマルは6人の候補の名を挙げ、その6人とは別に人々の礼拝の導師としてはスハイブを指名し、彼が指定した3日の間に、彼が推薦した6人のうちからカリフを自分たちで選任するようにと指示したのである。ウマルはスハイブに「そしてもし5人が1人をカリフに選んで合意しているのに、1人だけがそれを拒むようならその反対者の首を剣で刎ねよ」と言っていた。
その後で、ウマルはタルハ・アル=アンサーリーを50人の配下をつけて彼らカリフ候補者の護衛に任じ、アル=ミクダード・ブン・アル=アスワドに候補者たちの会合の場の選定を課した。そしてウマルが亡くなり、カリフ候補者たちの会合が開かれると、アブドッラフマーン・ブン・アウフが「あなた方の中で辞退して最善者がカリフ位も就くようにそれを委ねる者はいないか」と尋ねた。全員が黙っているとアブドッラフマーンは「私は辞退する」と言って、彼を除いて誰が最もカリフに相応しいかを1人ずつ尋ねて回った。その結果、彼らの答えは、アリーとウスマーンの2人に集約された。その後でアブドッラフマーンはムスリムたちが二人のうちのどちらを望むかを、男性にも女性にも昼夜を徹して人々の意見を聞き集めたのである。アル=ブハーリーはアル=ミスワル・ブン・マフラマが「私が眠りについた時、アブドッラフマーンが扉を叩いて私を起こし『あなたは眠っていたようだが私はこの3日間(つまり3夜)、殆ど眠っていない』と言った」と伝えている。そして人々が夜明け前の礼拝を挙行し、ウスマーンの忠誠誓約が執り行われ、それによってウスマーンはムスリムのカリフになったのであり、ウマルによる6人のカリフ候補者指名によってカリフになったのではないのである。
そしてその後、ウスマーンが殺害されるとマディーナとクーファのムスリムの大多数がアリー・ブン・アビー・ターリブに忠誠を誓ったので、アリーがムスリムの中世誓約によりカリフになったのである。
正統カリフたちの忠誠誓約を精査すれば、カリ不候補者たちが全てカリフ位締結の資格条件を満たしていることが先ず人々に周知され、その後で、ウンマ(ムスリム共同体)を代表するムスリムの有力者たち「解き結ぶ者」の意見が集約され、預言者の直弟子たち全て、あるいは大半が(カリフに就けること)を望む者が、カリフ位締結の忠誠誓約を交わされ、カリフに就位し、それによってムスリムたちは彼への服従が義務となり。彼に服従の忠誠を誓うのである。こうしてカリフが誕生し統治と権力におけるウンマの代理人となるのである。ちなみに正統カリフ時代には、ウンマの代表者たちは、周知であった。というのもそれは預言者の直弟子たちか、首都マディーナの住人であったからである。
 これが正統カリフに対する忠誠誓約の歴史的事実から我々が理解したことであるが、その他にウマルの6人の指名とウスマーンの忠誠誓約の手順から学ぶべき二つの事柄がある。それは新カリフを選ぶまでの期間を取り仕切る臨時代行の存在と、候補者の最大定員が6人となることである。

カリフ臨時代行
 カリフは、自分の死期を悟った場合、カリフ位を失う直前の適切な時期に、新しいカリフ擁立の手続き期間中にムスリムの諸事を取り仕切る臨時代行を指名する権限を有する。この臨時代行はカリフの死後、その職務を開始するが、その基本的役割は、新カリフ擁立までの3日間の穴埋めである。
 この臨時代行は政令を発布することはできない。なぜならそれはウンマが忠誠を誓ったカリフの大権だからである。また同様に彼にはカリフ候補としての自薦も、候補者の推薦もできない。なぜならウマルはカリフ候補に推薦した者たちとは別に臨時代行を任命したからである。
 この臨時代行の任期は新カリフの就位で終了する。なぜなら彼の任務はこの(新カリフの選定)仕事のための一時的なものだからである。
 スハイブがウマルにより任命された臨時代行であったという根拠は、ウマルの6人のカリフ候補者に対する言葉「あなた方が協議する3日の間はスハイブに礼拝を挙行させよ」と、スハイブに対する言葉「3日の間、人々の礼拝を先導せよ。・・・中略・・・そしてもし5人が1人をカリフに選んで合意しているのに、1人だけがそれを拒むようならその反対者の首を剣で刎ねよ」である。これはスハイブがウマルにより彼らに対して任命されたたリーダーであったことを意味している。というのは、ウマルは彼を礼拝の先導者に任命していたが、当時は、礼拝の先導職は人々の指導者であることを意味していたからであり、またウマルは彼に処罰の権限(剣で首を刎ねよ)を授与したが、処刑の権限を有するのは、為政者だけだからである。
 そしてこの出来事は、預言者の直弟子たちが集まる場で、1人の反対者もなく、進められたのであり、それによってカリフには新しいカリフを擁立する手続きを取り仕切る臨時代行者を指名する権限があることについてのコンセンサスとなったのである。またこの事例に基づき、新しいカリフの擁立手続きを取り仕切る臨時代行を特に指名せずにカリフが死亡した場合のために、一定の人物が臨時代行となるような政令をカリフが生前に発布することも可能となる。たとえばカリフが病で亡くなる前に臨時代行を指名しなかった場合に、彼の側近の補佐たちの中から一番の年長者が臨時代行となることを原則とし、例外的に他の有力候補がある場合には年齢を考慮して選び、側近の補佐の中に適切な者がいない場合は、後述の執行官の中から選ぶ、といった規則を定めておくことができる。これはカリフの罷免の際にも適用され、適当な候補者が居ない場合には、自動的に側近の補佐の中の最年長者が臨時代行となるが、側近の中に候補者が居る場合は、それらの候補者の中で最も年齢が高い者がなり、候補者が側近の全てを見渡してもがない場合には、執行官の中で最も年齢の高い者がなる、といった形になるが、彼ら全てが推薦を望むなら、臨時代行職は最年少の執行官に定まる。
 またこれはカリフが捕虜になった場合にも当てはまる。但しこの場合はカリフの救出の見込みがある場合とない場合とで臨時代行者の権限の詳細は異なる。そうした権限についてはカリフが在職中に発布する法令によって定められる。
 この臨時代行者は、カリフのジハード出征中、旅行中の代理とは異なる。それはアッラーの使徒がジハードに出征された時や、別離の巡礼を行われたときになされたのと同じなのである。こうした際に代理となる者は、こうした代理が関わる事柄の処理において、カリフが受権した限定された権限のみを有するのである。

候補者の絞込み
 正統カリフの擁立の方法を調べた者には、カリフ候補者の数には限りがあることが分かる。サーイダ族の館では、候補者はアブー・バクル、ウマル、アブー・ウバイダ、サアド・ブン・ウバーダであり、彼らだけしかいなかったが。ウマルとアブ・ウバーダはアブー・バクルには匹敵しなかったので争うことを好まず、実際には推薦はアブー・バクルとサアドの二人だけの間で争われ、その館に居合わせた有力者たち「解き結ぶ者」はアブー・バクルに忠誠を誓い、そして翌日ムスリムたちが預言者モスクでアブー・バクルに服従の忠誠誓約を交わしたのである。
 アブー・バクルはウマルをカリフに推薦したが、ウマルの他には候補者はおらず、そこでムスリムたちは先ずウマルにカリフ位締結の忠誠を近い、次いで服従の忠誠を誓ったのである。
 ウマルは6人を推薦し、カリフ候補を彼らだけとし、彼らの間でカリフを選ぶように指示した。そこでアブドッラフマーン・ブン・アウフが(自分が辞退した後の候補者の)残りの5人と相談し、残りの候補者たちから委任を取り付けて、アリーとウスマーンの二人に候補を絞った。そししてアブドッラフマーンは人々の意見を調べ、結果的に世論はウスマーン(をカリフとすること)で固まったのである。
 アリーの場合は、他にカリフの候補はおらず、マディーナとクーファのムスリムの大半は彼に忠誠を誓い、彼は第4代カリフとなった。ウスマーンに対する忠誠誓約において、カリフ選出に許される最長の猶予期間3昼夜と、6人から2名まで絞られる最大候補者数が明示された。そこで以下に我々のテーマに関わる限りで、この出来事について少し詳しく論じよう。
(1)ウマルはヒジュラ暦23年ズルヒッジャ月を4日を残す水曜日の夜明け前にモスクで礼拝に立っているところを呪わしいアブー・ルウルウにより刺された傷が元で、24年ムハッラム月初日の日曜朝に亡くなり、ウマルの遺言に従ってスハイブが彼の葬礼を執り行った。
(2)ウマルの葬儀を終えた後、アル=ミクダードはウマルが諮問を遺言した6人をある家に集めた。アブー・タルハが立って彼らの議論を纏め、彼らは座って協議し、アブドッラフマーン・ブン・アウフに彼らの中からカリフを選ぶように委任することで合意した。
(3)アブドッラフマーンは彼らと話し合いを始め、個別にもし自分でないとするなら残りの者の中で誰がカリフになるべきかと尋ねたが、彼らはアリーかウスマーンしかいない、と答えた。そこでアブドッラフマーンは6人のうちからこの2人に絞った。
(4)その後、アブドッラフマーンは、周知のように人々の意見を聴取した。
(5)そして水曜の夜、つまりウマルが亡くなった日(月曜)から3夜が経った後、アブドッラフマーンは甥のアル=ミスワル・ブン・マフラマの家を訪ねた。以下にイブン・カスィール(ハディース学者、1373年没)の『初めと終り(al-Bidya wa al-Nihyah)』から引用しよう。
ウマルが亡くなってから4日経った夜、アブドッラーは甥のアル=ミスワル・ブン・マフラマの家を訪ねて言った。『ミスワル、お前は眠っていたのかね。アッラーにかけて、私はこの3晩の間、殆ど眠っていない ― つまり日曜の朝にウマルが亡くなってからの月曜の夜、火曜の夜、水曜の夜の3夜である』 ― 中略・・・そして言った。『行って、アリーとウスマーンを私の許に呼んできなさい』そこで彼は二人を連れてモスクに行った。そこで住民全体に『礼拝に集合せよ』との号令がかけられた。それは水曜の夜明け前の礼拝であった。その後、アブドッラフマーンはアリーの手を取り、彼にクルアーンとアッラーの使徒のスンナとアブー・バクルとウマルの先例に則ることで忠誠誓約を交わすことを求めた。それに対してアリーは『クルアーンとスンナについては然り。しかしアブー・バクルとウマルの先例に関しては、個人の自由な裁量に過ぎない』との有名な答えを返した。そこでアブドッラフマーンはアリーの手を離し、ウスマーンの手を取り、アリーに求めたのと同じことを求めた。そこで、ウスマーンは『アッラーにかけて、然り』と応えたので、ウスマーンに対する忠誠の誓いが締結されたのである。スハイブはその日の夜明け前の礼拝と昼の礼拝では人々を先導したが、晩午の礼拝はウスマーンがムスリムのカリフとして人々を先導した。」
つまり、ウスマーンに対するカリフ位締結の忠誠誓約の開始は夜明け前の礼拝の時点であったにもかかわらず、スハイブの臨時代行権は、マディーナの有力者たち「解き結ぶ者」が(揃って)ウスマーンに忠誠を誓った後で初めて完了するのであるが、それは晩午の礼拝の直前に完了したのである。というのは、預言者の直弟子たちが日中から晩午の前にかけてウスマーンへの忠誠誓約に呼びかけあったので、晩午の少し前に事が終わったからである。それでスハイブの臨時代行権は終了し、ウスマーンが人々のカリフとして彼らの晩午の礼拝を先導したのである。
 『初めと終り』の著者は、ウスマーンへの忠誠誓約が夜明け前の時点で締結されていたにもかかわらず、スハイブが昼の礼拝で人々を先導したのかについて、以下のように説明している。
「人々はモスクで彼(ウスマーン)に忠誠を誓った。そしてその後で、彼(ウスマーン)は衆議院(dr al-shr) ― つまり衆議をする者たちが集まる家 ― に連れて行かれ、そこで残りの人々が彼に忠誠を誓ったので、忠誠誓約は、昼過ぎまで完了しなかったかのようでもあったのである。それで預言者モスクでのその日の昼の礼拝はスハイブが執り行い、ウスマーンが『アミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)』として最初にムスリムたちを先導して挙行した礼拝は、晩午の礼拝だったのである。」(ウマルが刺された日、亡くなった日、ウスマーンへの忠誠誓約がなされた日の日付については、異論が存在するが、我々はここで最有力説を挙げている)
 以上を踏まえて、カリフが空位(死亡や罷免などによる)になった後での次のカリフの推挙においては、以下の事項が考慮に入れられなければならない。
推挙の活動は猶予期間中、昼夜を徹して行われなければならない。
カリフ位締結の資格条件を満たす候補者の絞込みは、行政不正裁判所が行う。
有資格の候補者の絞込みは2回にわたる。初回は6名で、第2回は2名である。この2回の候補者の絞込みを行うのは、ウンマの代表としての国民議会(majlis al-ummah)である。というのは、ウンマはウマルに委任したのであり、ウマルがそれを6人に委任し、その6人が自分たちの中からアブドッラフマーンに委任し、彼が討議の末に2人に絞ったのであるから、これらの全ての最終的な拠り所は明らかにウンマ、つまりウンマの代表者たちだからである。
カリフ臨時代行者の任期は忠誠誓約の手続きの完結、カリフ就位によって終結するのであり、選挙結果の公表によるのではない。それゆえスハイブの任務はウスマーンの専任によってではなく、彼への忠誠誓約の完結によって終了したのである。
既述の見地から、3昼夜の期間内のカリフ選任形態を定める法令が発布される。既にそのための法令は起案されているが、アッラーのお許しにより、適切な時期に、それを討議の上で法制化することになろう。
 これまで述べたことは、カリフが死んだか罷免された場合に、新しいカリフをその代わりに立てることを意図していた。そもそもカリフが存在しない場合については、イスラーム聖法の諸法規を施行し、世界にイスラームの宣教を広めるために、自分たちのカリフを擁立することがムスリムに課された義務となる。そして1924年3月3日(ヒジュラ暦1342年らジャブ月28日にイスタンブルでイスラーム・カリフ制が滅亡して以来の現状がそうなのである。そしてイスラーム世界に存在するイスラーム諸地域のあらゆる地域(qaar)が、忠誠誓約を受けてカリフ位が締結される候補地となる。イスラーム諸地域のうちのどの地域であれ、カリフに忠誠誓約を行えば、その者にカリフ位が締結され、その他のイスラーム地域に住むムスリムたちは全て彼に服従の忠誠、つまり従属の忠誠を誓うことが義務となる。但しそれは以下の4つの要件を満たした上で、その土地の住民による忠誠誓約によって彼にカリフ位が締結された場合である。
(1)その地域の権力が、ムスリムのみに依拠する独立権力であり、不信仰(非ムスリム)の国家、あるいは不信仰者(非ムスリム)の影響力に依拠していないこと。
(2)その地域のムスリムの安全保障がイスラームの安全保障であり、不信仰の安全保障でないこと。つまり内外のその防衛が純粋なイスラーム軍事力と看做しうるムスリム軍によるイスラームの防衛であること。
(3)イスラーム法の包括的革命的全面的に適用を即座に断行し、イスラームの宣教に努めること。
(4)カリフが、オプショナル資格条件は満たしていなくても、忠誠誓約を受けたカリフが、カリフ就位資格条件は完備していること。必要なのは就位資格条件である。
 その地域がこの4つの要件を満たしていれば、その地域のみの忠誠誓約によってカリフ制は成立し、それだけでカリフ位は締結され、その地の住民が忠誠を誓い合法的に就位したカリフは、イスラーム聖法に則る正当性を有するカリフであり、彼以外に対する忠誠誓約は無効となる。
 それ以降は、たとえいかなる地域であれ、別のカリフを擁立し忠誠を誓ったとしても、それは無効であり、カリフ位は成立しない。それは「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ」、「(カリフの)一人一人順に忠誠を尽くせ」、「イマーム(カリフ)に忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は可能な限り服従し、彼に背く者が現れれば、その反逆者の首を刎ねよ」とのアッラーの使徒の言葉によるのである。
 
忠誠誓約の形態
忠誠誓約の合法性の典拠、忠誠誓約こそイスラームにおけるカリフ就位の手続きであることは既に説明した。その具体的な形態について言えば、それは按手であるが、時には文書によることもありうる。アブドッラー・ブン・ディーナールは言った。
「人々がアブドルマリク(ウマイヤ朝第5代カリフ在位685-705年)の周りに集まった。私はイブン・ウマルが『私はアミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)アブドルマリクに出来る限りクルアーンとアッラーの使徒のスンナに則り聞き従うことを承認します』と書いたのを見た。」
そして忠誠誓約はどのような方法でも有効であり、また忠誠誓約の文言は、特定の文言に限定されてはいない。しかしカリフの側ではクルアーンとスンナに則って行動することが含まれていなくてはならず、忠誠誓約を与える側には苦しいときにも快適な時にも意に沿うことにも意に沿わないことにも服従することが含まれていなくてはならない。そしてここに述べたことに基づき、その形式を定める法令が発布される。
 誓約者がカリフに忠誠を誓った時点で、その誓約は誓約者の首にかかった信託となり、彼にはその撤回は許されない。それはカリフ位締結に関してそれを誓うまでは誓約者の権利であるが、一旦誓約を与えれば、その遵守が課され、撤回を望んでも許されないのである。
「遊牧民がアッラーの使徒にイスラームにおける忠誠を誓ったが、それから病気になり、『私の忠誠誓約を解除してください』と頼んだが、使徒はそれを拒否された。それからその遊牧民がまたやって来て『私の忠誠誓約を解除してください』とまた頼んだが、使徒はまた拒まれたので、遊牧民は退出した。そこでアッラーの使徒は『マディーナはふいごのようであり、悪いものを篩い落とし、良きものを認知する』と言われた。」(ハディース)
「私(アブドッラー・ブン・ウマル)はアッラーの使徒が『服従から手を引いた者は、最後の審判の日にアッラーにまみえるが、彼には弁明の余地はない』と言われるのを聞いた。」(ハディース)
カリフへの忠誠の誓いを破ることは、アッラーへの服従から手を引くことに他ならない。但しこれはその忠誠の誓いがカリフ就位の忠誠誓約であるか、カリフ就位の忠誠誓約が締結されているカリフへの服従の忠誠誓約であった場合であり、カリフに初めに忠誠を誓ったが、彼への忠誠誓約が最終的には成立しなかった場合には、ムスリムたちがその者のカリフ就位の忠誠誓約を成立させなかったのであるからも、彼も自分の忠誠誓約を破棄することが出来る。このハディースは、カリフへの忠誠誓約の撤回(の禁止)に当てはまるのであり、カリフ位が締結されなかった者への忠誠誓約の撤回についてではないのである。
カリフ制の一体性
ムスリムは一つの国家に纏まり、ただ1人のカリフを頭に戴かなくてはならない。イスラーム法上、ムスリムが世界の中で2つ以上の国家を有し、2人以上のカリフを戴くことは禁じられている。
同様にイスラームにおける統治制度は、集権制(nim wadah)でなくてはならず、連邦制は禁じられている。典拠はいずれもムスリムが収録している以下のハディースである。
「イマームに忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は可能な限り服従し、彼に背く者が現れれば、その反逆者の首を刎ねよ。」
「お前たちが1人の男の下で団結しているところに、お前たちの統一を乱し団結を崩させようと望む者がやって来たなら、その者を殺せ。」
「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ。」
「イスラエルの民は預言者によって統治されてきた。それで、一人の預言者が亡くなると次の預言者が跡を継いだ。だが私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。一人一人順に忠誠を尽くし、アッラーが彼らに授けられた権限に従え。まことにアッラーは、彼が彼らに何をしたのか、彼らに尋ね給う。」
第1のハディースは、イマーム位、つまりカリフ位が1人に付与されたら、そのカリフへの服従が義務となり、別の者がそのカリフ位に背くなら、反逆を止めない限りその者と戦い、殺すことが義務となることを明らかにしている。
第2のハディースはムスリムが1人のカリフの権威の下に団結している時に、ムスリムの統一を乱し、団結を壊す者が現れたなら、その者の処刑が義務となることを明らかにしている。この2つのハディースの内容は、たとえ武力に訴えてでも、カリフ国家の分裂を阻止し、その分割を許可せず、分離を禁止すべきことを示している。
第3のハディースは、死亡、罷免、辞任などにより、カリフが空位になった場合に、2人のカリフに忠誠誓約が為された場合、2人のうちの後の方の処刑が義務となることを示している。つまりカリフは、正当な忠誠誓約を最初に受けた者であり、その後で忠誠誓約を受けた者は、そのカリフ位の放棄を宣言しない限り処刑されるのである。2人より多数に忠誠誓約が為された場合は尚更である。これは国家の分割の禁止、つまり一つの国家を複数の国家に細分してはならず、一つの国家を維持しなくてはならないことの比喩表現なのである。
第4のハディースは使徒の逝去後に多数のカリフが現れることを示している。また多くのカリフが現れた場合にどうすべきかとの直弟子たちの質問に答えて、ムスリムは最初に忠誠を誓ったカリフに忠義を尽くすべきである、と使徒は教えられた。それは、最初に忠誠誓約を受けた者だけが、イスラーム法が正当性を認めるカリフであり、彼だけが服従に値するからである。それ以外の者たち(カリフ僭称者たち)のカリフ位は無効であり、イスラーム法上合法ではない。なぜならムスリムのカリフが存在するにもかかわらず、別のカリフに忠誠が誓われることは許されないからである。またこのハディースは、服従はただ1人のカリフに対してのみ義務となることを示しており、その帰結として、ムスリムが1人以上のカリフ、1つ以上の国家を有することが許されないことをも示しているのである。

カリフの権限
カリフは以下の権限を有する。
(a)カリフは、ウンマの諸事の処理に必要な限りにおいて、クルアーンとアッラーの使徒のスンナから正当なイジュティハード(法的推論)によって演繹されたイスラーム法の諸規則を法制化する。その規則は服従が義務付けられ違反が許されない法令となる。
(b)カリフは国家の内政と外政の双方の責任者である。またカリフは軍の最高司令官であり、宣戦、休戦、停戦、その他の条約締結の権限を有する。
(c)カリフは、外国人の大使の承認、否認、ムスリムの大使の任命、罷免の権限を有する。
(d)カリフは、補佐と総督の任命権、罷免権を有する。彼らはカリフと国民(ウンマ)議会に対して責任を負う。
(e)カリフは司法長官(qd al-quat)とその他の裁判官を任命し、罷免する。例外は行政不正裁判官(q malim)で、カリフが任命するが、罷免に関しては「裁判」章の該当箇所で詳述するところの一定の条件がカリフに課される。
(f)またカリフは諸官庁の役人、軍司令官、参謀、将軍を任命し、罷免する。これらの者は全てカリフのみに対して責任を負い、国民(ウンマ)議会に対しては責任を負わない。
(g)カリフは、国家予算を定めるイスラーム法の諸規則を法制化する。カリフは歳入であれ、歳出であれ、使途が決まっている全ての予算額の配分を決定する。
 上記の6項目の詳細の典拠は以下の通りである。
(a)項の典拠は預言者の直弟子たちのコンセンサスである。というのは、「法令(qnn)」は専門用語としての意味は「人々がそれに則って行動するように権力者(suln)が発布した命令」であり、「権力者が人民に人間関係において服従を強制する法規の集合」と定義される。つまり権力者が特定の規則を命令すれば、それらの規則は法令となり、人々にそれが課されるが、権力者がそれを命じたのでない限り、それは法令とはならず、人々には課されることもない。ムスリムはイスラーム聖法の諸規則に則って生きる、つまりアッラーの命令と禁止に則って生きるのであり、権力者の命令と禁止に則って生きるのではない。ムスリムが則って生きるのはイスラーム聖法の規則であって、権力者の命令ではない。但し預言者の直弟子たちは、これらのイスラーム法の諸規則について見解を異にしていた。彼らの一部は聖法のクルアーンとスンナの明文から、他の者には分からなかった何かを発見することもあり、彼らは皆、聖法の明文の各自の理解に従って生きていたのであり、彼らのそれぞれにとっては自分の理解がそのままでアッラーの規則であったのである。
しかし一方で、ウンマの諸事を処理するためにはムスリム全員が一つの意見に纏まって行動しなくてはならず、各自が自分の判断で行動してはならないようなイスラーム聖法の諸規則も存在し、それはかつて現実に生じたのであった。たとえばアブー・バクルは公金(戦利品)に対してムスリムは全員が平等に権利を有するので、彼らの間で平等に分配されるべきである、と考えた。ところがウマルは、かつて(多神教徒として)アッラーの使徒と敵対して戦った者(新参の改宗者)が、アッラーの使途の側で戦った者と同じ分配を受け、貧しい者が富める者と同じだけを与えられるのは正しくない、と考えた。しかし、その時点ではアブー・バクルがカリフであったので、彼の見解の執行を命じ、つまり財の平等な分配を決定し、ムスリムたちはそれについて彼に倣い、裁判官も総督たちもその決定に従って行為し、ウマルもアブー・バクルに服し、彼の見解にしたがって行動し、それを執行したのであった。
しかしウマルがカリフになるとアブー・バクルの考えと違う自分の考えを法制化し、公金を平等ではなく、功績と必要に応じて与える論功行賞による分配という彼の見解を命じ、ムスリムたちは彼に倣い、総督や裁判官はそれに従って行為したのである。こうしてカリフには独自の正しい法的推論により聖法から演繹した特定の法規定を法制化し、その執行を命ずる権限があり、ムスリムはそれが自分の推論と異なる場合には、自分の推論と考えを実行せずにカリフの判断に従うことが義務となることで、直弟子たちの間にコンセンサスが成立したのである。
そしてこれらの法制化された法規定が法令であり、この法令の制定はカリフのみの大権であり、他の何者といえどもその権限を有することは決してないのである。
(b)項の典拠は使徒の行為である。なぜなら使徒こそが総督、裁判官を任命し、監査したのであり、また使徒が売買を監督し、偽装を禁じたのであり、人々に財を配分したのであり、使徒が失業者に職の世話をしたのであり、使徒が国政の内政の全てを取り仕切り、また使徒が王たちに書簡を送ったのであり、使徒が外交使節を引見したのであり、使徒が国政の外政を全て担当したのであり、また使徒が実際に軍隊を率いたのであり、多くの戦役で彼自身が戦闘の陣頭指揮をとったのである。
また遠征隊に関しては、使徒が遠征隊を派遣し、隊長を任命したのである。ウサーマ・ブン・ザイドをシリア派遣軍の司令官に任命した時は、ウサーマが年若かったために弟子たちがそれに不満を抱いたが、使徒は彼らに彼の指揮を受け入れるように命じた。この話は、カリフは単なる名目上の軍の最高司令官ではなく実際の指揮官でなければならないことを示している。また使徒こそがアラブ多神教徒のクライシュ族に宣戦布告し、またユダヤ教徒3部族(クライザ族、アル=ナデール族、カイヌカーウ族)に、そしてハイバル、東ローマ帝国に宣戦布告されたのである。起こったどの戦争においても使徒がその宣戦を布告しているのであり、これらは宣戦布告が預言者の大権だったことを示している。
また同様にユダヤ教徒と協定を結んだのも使徒なら、ムドゥリジュ族とダムラ族のその同盟者と協定を結んだのも使徒、アイラの町の長ユハンナ・ブン・ルウバと協定を結んだのも使徒、フダイビーヤの協定を結んだのも使徒であった。フダイビーヤの協定にはムスリムたちは不満であったが、使徒は彼らの声に耳を貸さず、彼らの意見を退け、協定を締結された。このことは他の誰でもなくカリフだけが、和平協定にせよ、他の協定にせよ、協定の締結の権限を有することを示しているのである。
(c)項の典拠は、偽預言者ムサイリマの二人の使節を接見されたのも使徒ムハンマドであり、クライシュ族の使節アブー・ラーフィウを引見されたのも使徒であり、また東ローマのヘラクリウス帝、ペルシャ帝国のホスロー帝、エジプトのアル=ムカウキス王、ヒーラのアル=ハーリス・アル=ガッサーニー王、イエメンのアル=ハーリス・アル=ヒムヤリー王、エチオピアのナジャースィー王らに書簡を送られたのも使徒であり、フダイビーヤの和議で、ウスマーン・ブン・アッファーンをクライシュ族への使節として派遣されたのも使徒であった。これらの事績は外交使節を接見し面会を拒否するのはカリフであり、また使節を任命するのもカリフであることを示している。
(d)項の典拠については、総督を派遣するのは使徒であり、使徒がムアーズをイエメンに総督として派遣されたのであり、また総督を罷免するのも使徒であり、彼はバハレーンの総督のアル=アラーゥ・ブン・アル=ハドラミーを住民の彼に対する苦情のために罷免されたのである。総督は地方の住民に対して責任を負っており、またカリフに対しても責任を負っている。また彼らは国民(ウンマ)議会に対しても責任を負っているが、それは国民議会が全ての地方を代表しているからである。
これは総督の話であったが、補佐については、アッラーの使徒には二人の補佐がいた。それはアブー・バクルとウマルであり、使徒は在世中、両名を罷免せず、また彼ら二人以外の補佐を任命されることもなかった。つまり彼は両者を任命したが罷免はしなかったのである。補佐の権力はカリフから授権されたものなので、補佐はカリフの代理人に相当する。それゆえカリフは代理との類推から補佐の罷免権を有する。なぜなら代理委任者には代理を罷免する権利があるからである。
(d)項の典拠は、使徒がアリーにイエメンの裁判を任せたことである。アフマドがアムル・ブン・アル=アースの以下の言葉を伝えている。「使徒の許に相争う2人の訴人がやって来た。そこで使徒は『アムルよ、両名の間を裁いてみよ』と言われた。そこで私が『アッラーの使徒よ、あなたは私よりそれに適任です』答えると使徒は『たとえそうであってもである』と言われました。そこで『もし私が両者を裁けば、私には何があるのでしょう』と尋ねると、使徒は『もしお前が両名を裁き、正しい判決を下せば、お前には10の報奨がある。もしお前が独自の推論に努め、結果的には誤った判決を下しても、お前には1つの報奨がある』と言われました。」
またウマルも総督、裁判官を任命、罷免していた。ウマルはシュライフをクーファの裁判官、アブー・ムーサーをバスラの裁判官に任命し、シリヤ総督シュラフビール・ブン・ハサナを解任し、ムアーウィヤを新総督に任命した。シュラハビールがウマルに「私が臆病なせいで私を罷免したのですか、それとも背任のせいですか」と尋ねると、ウマルは「どちらでもない。ただ私はもっと強い男を欲したのだ。」と答えた。またアリーはアブー・アル=アスワドを任命したが、その後彼を解任した。そこでアブー・アル=アスワドが「なぜ私を罷免したのですか。私が背任したのですか、それとも罪を犯したのですか。」と彼が尋ねると、アリーは「お前が訴人たちを圧する話し方をすると思うからだ」と答えた。
ウマルとアリーは他の預言者の直弟子たちが見聞きしているところでそれ(任命、罷免)を行ったのであるが、誰一人この両名を非難する者はいなかった。それゆえこれらの事例は全て一般論としてカリフには裁判官の任命権があることの典拠となるのである。同様にカリフには代行者に裁判官の任命を任せることもできる。それは代理委任(waklah)との類推によるもので、カリフには自分に処理権のあるすべての法律行為について代理を立てることが許されているのと同じく、自分の権限の範囲内のことは全て代行を委ねられる(inbah)。
行政不正裁判官(qd malim)の罷免が(許されない)例外となるのは、カリフか、その補佐か、最高裁長官が被告となる訴件の場合であり、その根拠は「禁止事項の誘因となるものは禁じられる」との法原則(qidah)である。なぜならこのようなケースで、カリフにその件を裁く行政不正裁判官の罷免権を与えると(罷免されるのを恐れて)裁判官の判決に影響を与える可能性があり、結果的に、イスラーム法による裁判が機能不全をきたすが、それは禁じられているからである。病勢裁判官の罷免権をカリフに与えることは、禁止事項の誘因となるのである。特にこの法原則の適用に当たっては(行政不正裁判官が罷免を恐れてカリフや配下に有利な判決を下す恐れについて)確実性ではなく蓋然性があれば十分なのである。それゆえこうしたケースにおいては行政不正裁判官の罷免権は行政法廷に与えられるが、それ以外のケースでは規定は原則通り、つまり行政不正裁判官の任命、罷免権はカリフが有するのである。
また諸官庁の役人の任命についても、使徒ムハンマドは国家機構の官庁の書記たちを任命していたが、それらの書記たちは現行の諸官庁の役人に相当するのである。使徒はアル=ムアイキーブ・ブン・ファーティマ・アル=ドゥースイーを印璽官に任命し、また彼を戦利品担当にも任じた。またフザイファ・ブン・アル=ヤマーンをヒジャーズ地方の農産物勘定官に任命し、アル=ズバイル・ブン・アル=アワームを浄財管理官に任命し、アル=ムギーラ・ブン・シュウバを債務・商取引会計官に任命したのはそうした任命の例である。
軍司令官や将軍たちについては、使徒はハムザ・ブン・アブドルムッタリブを海岸でクライシュ族を襲撃するための30人隊の指揮官に任命され、ウバイダ・ブン・アル=ハーリスを60人隊の指揮官に任じ、クライシュ族との会戦のためにラービグ渓谷に派遣され、サアド・ブン・アビー・ワッカースを20人隊の指揮官に任命し、マッカ方面に派遣された。このように使徒は軍司令官たちを任命されていたことは、カリフの軍司令官、将軍の任命権の典拠となるのである。
そして彼らは皆、使徒に対して責任を負っていたのであり、使徒の他の誰に対しても無答責であったことは、裁判官、諸官庁の役人、軍司令官、参謀、その他の全ての官吏はカリフに対してのみ責任を負い、国民(ウンマ)議会に対して責任を負うわけではない。彼らの誰も国民議会に対しては無答責であるが、補佐、総督、そして知事も彼らに準じて別となる(国民議会に対しても責任を負う)。なぜならこうした者たちは為政者(ukkm)の一種であるからである。それ以外の官吏は誰も国民議会には責任を負わず、全員がカリフに対してのみ責任を負うのである。
(e)項の国家財政については、収入も支出もイスラーム聖法の規定によるものに限定され、1ディーナールといえども、イスラーム聖法の規定に依らずして徴税されることはなく、また1ディーナールといえどもイスラーム聖法の規定に依らずして費やされることはないのである。ただし支出の詳細、あるいは「予算の内訳」と呼ばれるものの決定はカリフの判断と自由裁量に任されるのであり、収入に関しても同様である。たとえば、カリフは歳入に関しては、地租納税地の地租はいくらであり、人頭税納税地の人頭税はいくらであるなどと決定するのであり、歳出については道路にはいくら、病院にはいくら、などと決めるのである。こうしたことはカリフの考えにかかっており、カリフは自分の考えと裁量に従ってそれを決定するのである。それは使徒が代官たちから収入を受領し、その配分を自ら取り仕切られ、イエメン総督のムアーズの場合のように、一部の総督には収入の受領とその配分を委ねられたからである。そしてその後には、正統カリフたちは、全員がカリフとしての職責において自分の考えと裁量に基づきその国家予算の受領と支出を自分だけで行ったが、預言者の直弟子たちの誰もそれに反対しあなかった。またウマルがムアーウィヤを起用した場合のように、カリフの許可なくしては、カリフ以外の誰一人として、そこから1ディーナールといえども自分で受け取ることはなく、また使い込むこともなかったのである。これらの事例の全てが、国家予算の内訳はカリフ、あるいはカリフが代行に指名した者が定めることを示している。
 以上が、カリフの権限の内訳の詳細な典拠は、「イマームは羊飼いであり、自分のすべての羊に対して責任がある」とのハディース である。つまり、臣民の諸事の世話にかかわる万事は全てカリフの権限であり、代理委任との類推から、カリフには、望む者に、望むことを、望む形で、代行を委ねることが許されるのである。

カリフは法制化(法令制定)において聖法の規則に拘束される
 カリフは法制化において聖法の規則に拘束され、聖法の典拠から正しい推論によって演繹されたのではない規則を法制化することは禁じられる。カリフは法制化する諸規則において拘束され、課された法的推論の方法によって拘束される。それゆえカリフには以前に法制化した方法論と矛盾する方法論に基づく法規定の法制化は許されず、以前に法制化した法規定に反する命令を出すことも許されない。カリフはこのような二重の拘束に服するのである。
 第一の拘束、つまりカリフが法制化において聖法の諸規則に拘束されることの典拠は、第一に、アッラーはカリフであれカリフ以外であれ、全てのムスリムに、行為の全てを聖法の規則に則った行動を課されたということである。
至高なるアッラーは言われる。「いや、汝の主にかけて、彼らの間で生じた諍いの裁定を汝に求めない限り彼らは信仰したことにはならない」(クルアーン4章60節)
聖法の規則に則って行動するためには、立法者の言葉の解釈が分かれた時、つまり聖法の規則が複数生じた場合には、一つの特定の規則の制定が必要となり、複数の規則の中から一つの特定の規則を法制化することがムスリムの義務となるのである。つまりイスラーム法規定を執行しようと望む時には、カリフがその任務を果たす、つまり統治を行う時には、カリフの義務となるのである。
第二に、カリフが忠誠を誓われた基礎になる忠誠誓約の文言が彼にイスラーム法の遵守を課すからである。というのは、それはクルアーンとスンナの実行を条件とする忠誠誓約であるので、カリフにはその双方から逸脱することは許されない。もし確信犯としてそれを逸脱すればそのカリフは不信仰に陥ったのである、確信犯ではなくそれを逸脱しても悪人、不正、罪人なのである。
第三に、カリフは聖法の執行のために擁立されたのであるから、ムスリムに対して執行するのに、聖法以外のものを採用することは許されない。なぜならば聖法はそうした行いを、イスラーム以外に裁定を求めることを信仰の否定の段階に達するとの断定を示す表現で、厳禁しているからである。そしてその意味は、カリフが諸規則の法制化、つまり法令の制定において、聖法の法規定のみに拘束されということであり、またもしそれ以外によって法令を制定するなら、その聖法以外のものを信じてのことなら不信仰に陥っており、信じてはいなかったとしても悪人、不正、罪人だということなのである。
 第二の問題、つまりカリフが課された法的推論の方法によって拘束される根拠はカリフが執行する聖法の規則は、彼自身に対しての聖法の規則なのであって、彼以外の者に対しての聖法の規則ではないからである。つまり、それはカリフが自分の行動をそれに基づいて律するために法制化した聖法の規則なのであり、(それ自体が)聖法の規則であるわけではないからである。それゆえカリフが一つの法規定を演繹するか、あるいは他の学者の説に追随して(qallada)ある法規定の採用を採用した場合、その聖法の規則はカリフにとってはアッラーの法規定に他ならないので、他のムスリムたちに法制化するに当たっては、その聖法の規則を制定しなくてはならず、それに反する規則の制定は許されないのである。なぜなら(カリフが自分の判断で聖法の規則だと信じた規則に反する規則は)カリフ自身に関してはアッラーの法規定とはみなされないので、彼にとっては聖法の規則ではなく、それゆえ他のムスリムにとっても聖法の規則ではなくなるからである。そしてまたそれゆえにカリフは臣民に対して発布する命令においても彼が制定したこの聖法の規則に拘束され、彼自身が制定した法規定に反する命令を発することは許されないのである。なぜならもし自分が制定した法規定に反する命令を発したなら、聖法の規則に反する命令を発したのと同じことになるからであり、それゆえカリフには自分が制定した法規定に反する命令を発することはできないのである。
また法規定演繹(istinb)の方法論によって、聖法の規則の理解は異なってくる。それゆえカリフがもし聖法のクルアーンとスンナの明文から引き出されたものであるなら法規定の類推事因(illah)は聖法に適った類推事因であると考える一方、福利(malaah)は聖法に適った類推事因とはみなさず、明文に言及されない福利(malaah mursalah)は聖法上の典拠とみなさないなら、そう考えたことでカリフは独自に特定の法規定演繹の方法論を採用したことになり、その時点でその方法論に拘束される義務が生じ、明文に言及されない福利(malaah mursalah)を典拠とする法規定も、聖法のクルアーンとスンナの明文から引き出されたものでない類推事因(illah)に基づいた類推による法規定も法制化することは許されない。なぜならカリフはその典拠を聖法上の典拠と考えないので、その法規定はカリフ自身にとって聖法に適う法規定とはみなされない。それゆえ彼の見解ではそれは聖法上の法規定ではなく、カリフ自身にとって聖法の法規定とみなされない限り、他のムスリムにとっても聖法の法規定とはみなされないので、それはあたかも聖法の法規定ではない法規定を法制化したのと同様になるため、カリフにはそれが禁じられるのである。
もしカリフが「独自の法判断の出来ない追従者(muqallid)」であるか、「無限定な独自の法判断が出来る学者(mujtahid mulaq)」ではなく、特定問題のみの法判断しかできない学者であるか、法演繹の特定の方法論に拘束される学派の範囲内での選択判断のみができる学者である場合には、法制化にあたっては彼が追随する「独自判断のできる学者(mujtahid)」に従うか、自分の通暁した問題であれば典拠か、それに類するものがあれば、独自の判断を下す。この場合には、カリフにはただ自分が以前に制定した法規定に矛盾する命令を発布しないことのみが義務となるのである。

カリフ国家は世俗(basharyah)国家であり、神性(ilhyah)国家ではない
イスラーム国家とはカリフ制である。そしてそれは現世のムスリム全てに対する総合的首長職である。「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ」とのハディース(ムスリム)により、ムスリムの土地のいかなる国においてであれ、一人のカリフに正当な忠誠誓約がなされ、一旦カリフ制が樹立されたならば、ムスリムにはこの世の他のあらゆる地域においても他のカリフ制を立てることは禁じられる。
そしてカリフ制は、イスラームのもたらす思想とその定めた規則に基づきイスラーム聖法の諸規則を施行し、世界中の人々にイスラームを知らせ、呼び招くイスラームの宣教を世界中に弘め、アッラーの道において闘うために樹立された。
カリフ(後継者)制はまたイマーム(指導者)制、イマーラ・アル=ムウミニーン(信徒の長)制とも言われる。そしてそれは現世的職務(manab dunyaw)であり、来世的(ukhraw)職務ではない。それはイスラームの教えを人々に施行し、人々の間にそれを広めるために存在するのであり、それは預言者職とは決定的に違っている。
というのは、預言者職は神職(manab ilh)であり、アッラーはそれを御望みの者に授与し給う。その職においては、預言者、あるいは使徒が、啓示を通じて、アッラーから聖法を授かる。一方、カリフ制は人的(bashar)職であり、ムスリムたちが、自分たちが望む者に忠誠を誓い、ムスリムの中で彼らが望むカリフを自分たちの上に擁立するのである。我らの長ムハンマドは、為政者であり、彼がもたらした聖法を施行した。彼は預言者職と使徒職を担うと同時に、イスラームの諸規則の実施のためにムスリムの首長職をも担われたのである。アッラーは彼に宣教を命じられたように、統治をも命じ給うた。「彼らの間をアッラーが啓示されたものによって裁け・・・」(5章49節)また曰く。「我らは汝が人々の間をアッラーが汝に示されたものによって裁くために真理をもって汝に啓典を下した」(4章105節)また彼に命じ給うた。「使徒よ、汝の主から汝に啓示されたものを伝えよ」(5章67節)また曰く「私にこのクルアーンが啓示された。それによって私がお前たちと届いた者に警告するようにと」(6章19節)「包まる者よ、立って警告せよ」(74章2節)
このように使徒は(1)預言者職と使徒職、及び(2)彼に啓示されたアッラーの聖法(シャリーア)を執行するための現世におけるムスリムたちの首長職という二重の職務を担われていたの。他方、使徒の逝去後のカリフ制は、預言者ではないただの人間が担い手であり、彼らは人間が犯す過ち、不注意、失念、罪などを犯す。それは彼らが人間であり、預言者でも使徒でもないので、無謬ではないからである。使徒は既にイマーム(カリフ)が過ちを犯すことがあること、そして不正や堕落などによって人々の怒りを買うこともあることを予言されていた。いやそれどころかカリフが明白な不信仰に陥ることもあり、その場合にはそのカリフには服従の義務はなく、むしろ討伐されるべきことまで予言されているのである。ムスリムはアブー・フライラから預言者が「イマームはその背後で戦い、それによって身を守る盾に他ならない。もしイマームが畏くも尊きアッラーを畏れることを命じ正義を行うなら、それによって彼には褒賞があるが、そうしなければそれに対して応報がある。」と言われたと伝えているが、このハディースはイマームが無謬ではなく、敬神以外を命ずることもありうることを意味している。またムスリムはアブドゥッラー・ブン・マスウードから、アッラーの使徒が「私の後に専制、お前たちが嫌悪するいろいろなことが起きるだろう」と言われ、人々が「そういう時代に私たちがめぐり合わせた場合、どうするようにと貴方は命じられますか」と尋ねると、「お前たちに課された義務を果たし、お前たちに権利があることに関してはアッラーに求め祈りなさい」と答えられた、と伝えている。
「私たちは病気のウバーダ・ブン・アル=サーミトを見舞い、『アッラーが貴方を治してくださいますように。そして貴方が預言者から聞いた役に立つハディースを話してください。』と尋ねた。するとウバーダは答えました。『預言者が私たちを呼び、私たちは彼に忠誠を誓いました。彼は私たちに対して、私たちの好むことでも嫌うことでも、苦しい時も楽な時も、私たちに対する専制に対しても、権威を権威ある者から奪わないことで私たちが忠誠を誓うように言われました。そして、アッラーの許からの明証があなたがたにある明らかな不信仰をその者に見出さない限りは、と付け加えられました。』」(ハディース)
「出来る限り、ムスリムたちには法定刑の執行を回避せよ。もし抜け道があるなら彼に道を開いてやれ。イマーム(カリフ)が誤って赦免する方が誤って罰を下すよりも良い。」
(ハディース)
これらのハディースはカリフ(イマーム)が過り、忘れ、罪を犯しうることを明言している、にもかかわらずアッラーの使徒はカリフがイスラームに則って統治しており、明白な不信仰が顕わにならない限り、アッラーに背くことの命令を除き、服従を守ることを命じられたのである。それゆえアッラーの使徒の後のカリフたちは間違うこともあれば正しいこともあり、無謬ではなく、預言者でもないので、カリフ制は神的国家である、などとは言えない。そうではなくて、それは、イスラームの聖法の諸規則の施行のために、ムスリムがカリフに忠誠誓約を行う人的国家に過ぎないのである。

カリフの任期
カリフには特定の任期はない。聖法を護持し、その法規定を施行し、国事を行い、カリフの職責を果たす能力を保持している限り、カリフはその地位に留まる。なぜならばハディースに述べられた忠誠誓約の文言は無限定であり、特定の任期による制限がないからである。
「たとえお前たちの上に顔の潰れたエチオピア人の奴隷が総督に任命されようとも、聞き従え」(ハディース)
また正統カリフたちは皆、(期間の)限定のない忠誠誓約を受けており、それはハディースに述べられている忠誠誓約であり、彼らには任期の限定はなかった。彼らは皆、忠誠誓約を受けてから死ぬまでカリフの任務を担っていたのであり、それはカリフには任期はなく、(期間)無限定であり、一旦忠誠誓約がなされたなら、シムまでカリフの位に留まることに対する預言者の直弟子たちのコンセンサスとなったのである。
 但しカリフに解任事項か、罷免を義務付ける事態が生じた場合には、その時点で彼の任期は終了し罷免されるが、それはカリフ制における任期の特定ではなく、カリフの資格条件の欠格の発生なのである。忠誠誓約の文言はクルアーン、スンナ、と預言者の直弟子たちの間で確定しており、カリフ制を任期はないが、クルアーンとスンナ忠誠を誓ったもの、それはクルアーンとスンナの実践、その諸規則の施行の義務を負っており、もし聖法を護持しないか、それを施行しないならば、その罷免が義務となるのである。

カリフの罷免
カリフがその就位資格条件の一つでも失うと、イスラーム法上、カリフ位に留まることは許されず、罷免されねばならないが、その罷免の決定権を有するのは行政不正裁判所(makamah malim)のみであり、この行政不正裁判所だけがカリフがその就位資格条件を喪失したか否かを判定することが出来る。なぜならばカリフが罷免され、解任に値する事項とは、除去されるべき行政上の不正(malimah)であり、また裁判による事実認定を要する事件でもあるので、裁判官の前での認定が必要となるのである。行政不正裁判所こそ、行政上の不正を裁くために設立された法廷であり、その裁判官には行政上の不正を認定し裁く権限が付与されているのである。それゆえカリフが就位資格条件を喪失したかどうかを認定し罷免を決定するのは行政不正裁判所となるのである。但し、カリフには就位資格条件を失った場合、彼が自ら辞任すれば、それで問題は解決する。
 ムスリムたちがカリフが就位資格条件の一つを失い罷免されねばならないと考え、カリフがそれに抵抗した場合は、「もし汝らが何事であれ相争うなら、それをアッラーと使徒の許に持ち込め」(4章59節)との至高者の御言葉により、その解決は裁判に委ねられる。このケースは、「汝らと権力者」つまり、権力者と人民(ウンマ)が争った場合であり、それを「アッラーと使徒の下に持ち込め」とは、裁判、つまり「行政不正裁判所」に訴えよ、との意味になるからである。

 ムスリムが新カリフを擁立するまでの猶予期間
 ムスリムが新カリフを擁立するまでに猶予される期間は、3昼夜であり、ムスリムは忠誠誓約なしに3夜を過ごすことは許されない。最長で3夜なのである。前任カリフが死ぬか罷免された時点から、新カリフの擁立が義務となるが、そのために専念しているという条件で、擁立が3昼夜までは遅れることが許される。もし3夜を超えてもカリフを擁立できなかった場合は、更に待たれる。ムスリムたちがカリフの擁立に専念し、それでも自分たちで克服することの出来ない圧倒的な障害があって3夜の間にそれを実現できなかった場合には、義務の履行のために力を尽くしたにもかかわらず自分たちにはどうしようもない事情によって遅れるにいたったことを無念に思っているなら、彼らの罪は免ぜられる。
「アッラーは我がウンマ(共同体)から加護、忘却、強制されたことを免責された」(ハディース)
それゆえもしムスリムたちがカリフ擁立の義務の履行に従事していなかったならば、カリフが擁立されて彼らの義務が履行され消滅するまで、全員が罪に陥っているのである。カリフ擁立を怠ったことによって犯した罪に関しては、消えることはなく(最後の審判で)アッラーによる応報の罰を蒙るまで残り続ける。それは義務の履行を怠ることで、ムスリムが犯した他のあらゆる罪が罰されるのと同じことなのである。
カリフが空位になった場合に直ぐに忠誠誓約の手続に従事しなければならない典拠は使徒の直弟子たちが、使徒が逝去されたその日のうちからその埋葬よりも前に、サーイダ族の屋敷に集まりそれに取り掛かったことによる。アブー・バクルのカリフ就位の忠誠誓約はその当日に完了し、翌日には人々が預言者モスクに集まり、アブー・バクルと忠誠の誓いを交わしたのである。
 カリフ擁立のためにムスリムに与えられる最長の猶予期間が3昼夜である根拠はウマルの例である。刺し傷が元で死ぬことが明らかになった時点で、ウマルは評議員を任命し、3日と期限を決め、その3日のうちに新カリフの合意が成立しなければ反対者、不同意者は預言者の高弟であり、評議員であってもを処刑せよ、と遺言し、その執行のために50人を任命した。この件は預言者の直弟子たちが見聞きしている場で行われたが、彼らの誰もそれを非難せず、異を唱えなかったので、ムスリムがカリフを空位のままで3昼夜以上放任することが許されないことは、預言者の直弟子たちのコンセンサスとなった。預言者の直弟子たちのコンセンサスはクルアーンとスンナと同じく聖法上の典拠なのである。アル=ブハーリーはアル=ミスワル・ブン・マフラマが「私が眠りについた時、アブドッラフマーンが扉を叩いて私を起こし『あなたは眠っていたようだが私はこの3日間(つまり3夜)、殆ど眠っていない』と言った」と伝えている。そして人々が夜明け前の礼拝を済ませた時、ウスマーンの忠誠誓約が完了したのである。
 それゆえムスリムにはカリフ制の中央の空位に際しては新カリフの忠誠誓約に専心し、5日のうちにそれを完了させなければならない。カリフへの忠誠誓約に専念せず、カリフ制が滅びるままに黙殺した者は、カリフ制の消滅と黙認の時点から罪人となるのである。それが今日の状況でもあり、ムスリムは1342年ラジャブ月28日(西暦1924年3月3日)の(オスマン朝)カリフ制の廃止以来、その再興の日まで、カリフ制を再興していないことにより、有罪なのである。免責されるのは、誠実で献身的な組織と共にそのために真剣に献身している者だけであり、それによってのみ罪から救われるのである。そしてそれは「忠誠誓約をせずに死んだ者は(イスラーム到来以前の)無明時代の死に方をしたことになる」とのアッラーの使徒のハディースがその罪の深さを示している通り、大罪なのである。

第2章:補佐(全権補佐)
「補佐(muwinn)」とは、カリフがその職務を担い職責を果たす上でカリフと共にあって彼を助けるために、カリフが任命した「大臣(wuzar)」のことである。カリフの職務は多大で、特にカリフ国家が拡大するに連れてカリフが一人でそれを担うことは難しくなり、それを担い職責を果たすために、カリフを助ける者を必要とするようになった。
これらの補佐を限定なしに「大臣(wuzar)」と呼ぶことは正しくない。それはイスラームにおける「大臣」の意味内容と、民主主義・資本主義・世俗主義(ulmn)の原理に立脚する現行の人定法の政治体制や、現在我々が目のあたりにしているその他の政治体制における「大臣」の意味内容とを混同してはならないからである。
「全権委任(tafw)大臣(wazr)」、あるいは「全権補佐」とは、カリフが彼と共に統治と権力の職責を担うために任命する大臣であり、カリフは彼に自分の考えで諸事を処理し、聖法の諸規則に則り自己の独自裁量(イジュティハード)でそれを裁定するように委任する。カリフは彼に包括的な判断と代行を任せる。アッラーの使徒は「私の天の2人のwazrはジブリール(ガブリエル)とミーカーイール(ミカエル)であり、地上の2人のwazrはアブー・バクルとウマルである」(アブー・サイード・アル=フドリーが伝えるハディース) と言われた。
このハディースにおける「大臣(wazr)」の語は「助手」、「援助者」を意味しているが、それがその語源的意味なのである。聖クルアーンも「大臣」の語をこの語源的意味で使用している。至高なるアッラーは言われる。「私の家族の中から私のwazrを立てて下さい」(20章29節)つまり、「助手」、「援助者」の意味である。ハディースのwazrの語は無限定で、あらゆる問題におけるあらゆる形の「助け」、「援助」をも含みうる。その中にはカリフの職責や仕事においてカリフを助けることも含まれる。上記のアブー・サイード・アル=フドリーのハディースも統治における援助に限定されない。なぜならジブリールとミーカーイールは点におけるアッラー使徒のwazrだと言われているが、彼ら両名は彼の職責や仕事における援助とは全く無縁だからである。それゆえハディースの(wazr)語は、「私の2人の助手」という、一般的意味のみを示しているのである。そしてまたこのハディースからは補佐が複数存在することをも許している。
アブー・バクルとウマルの2人は、使徒が両者を補佐に任じたこと以外に、具体的に使徒と共に統治の職務を担ったという記録はない。使徒は特に権限の範囲を指定せずに万事において彼を補佐する権限を両者に与えていたのであり、その中に統治の諸事とその様々な仕事も含まれていたのである。アブー・バクルはカリフに就任してからウマル・ブン・アル=ハッターブを彼の補佐に指名したが、ウマルによるアブー・バクルの補佐は良く知られている。ウマルがカリフになると、ウスマーンとアリーがその補佐であった。しかし2人のうちのどちらが統治においてウマルの補佐の仕事をしたのかは明らかではない。彼ら2人の地位は使徒の許でのアブー・バクルとウマルの立場に似ていた。ウスマーンの治世にはアリーとマルワーン・ブン・アル=ハカムが彼の補佐だった。アリーはウスマーンの補佐の仕事に不満であったため、距離をおいていたが、マルワーン・ブン・アル=ハカムによるウスマーンの統治の仕事の補佐ははっきりしていた。
裁量委任の大臣が、カリフに良いことはすべて助言し、それについて彼を助ける誠実な大臣であるなら、彼はカリフにとって大いに役立つ。
「アッラーが指導者(amr)に善をなそうと御望みなら彼に誠実な補佐を授ける。彼はカリフが忘れたことは思い出させ、思い出せば、その実行を助ける。アッラーが彼にそれ以外のことを御望みになれば、彼に悪の補佐を授ける。彼はカリフが忘れても思い出させず、たとえ思い出してもそれの実現を助けようとしないしない。」(ハディース)
アッラーの使徒の時代と正統カリフの時代の補佐の研究によって、補佐には、特定の任務に対してその包括的な処理を委ねることも、全ての問題について包括的な処理を任せることも可能であることが分かった。また同様にある地域に包括的な処理権限を有する補佐を任命することも出来れば、複数の地域に跨る管轄で包括的な処理権限を有する補佐を任命することも可能である。
「アッラーの使徒はウマルを浄財の徴収に派遣された」(ハディース)
「アッラーの使徒はアル=ジウラーナの小巡礼から戻られた後で、アブー・バクルを巡礼の指揮に派遣された」(ハディース)
つまりアブー・バクルとウマルはアッラーの使徒の2人の補佐であったが、2人とも裁量委任の大臣職が要請するように包括的処理権限と代行権を序よされていた補佐(大臣)であったにもかかわらず、アッラーの使徒の治世においては全ての任務ではなく特定の任務においてのみ包括的処理を任されていたのである。ウマルの治世のアリーとウスマーンも同様であった。アブー・バクルの治世においては、ウマルによるアブー・バクルの包括的処理と代行の補佐はあまりにも目立ったので、預言者の直弟子のある者が「カリフはあなたなのかウマルなのか私たちには分からない」と言うほどであった。しかしアル=ハーフィズ(イブン・ハジャル・アル=アスカラーニー、ハディース学者、1449年没)が信憑性が高いとみなしている伝承経路でアル=バイハキー(ハディース学者、1066年没)が伝えているように、アブー・バクルはある時期にはウマルに裁判(のような特定の職務)を任せたこともあったのである。
それゆえ使徒と彼の後の正統カリフたちの伝記から分かることとして、預言者がアブー・バクルとウマルに、またアブー・バクルがウマルに対してしたように、補佐は包括的処理権を代行権を授与されるが、地域であれ職務であれ特定して補佐を任ずることも許されるのである。例えば補佐の一人を北部管轄、他方を南部管轄とすることもでき、前者を後者の役割を交代させることもできるし、カリフの補佐職の要請する形で一方にある任務、他方に別の任務を移植することもでき、特に改めて新しく任命する必要はなく。一つの任務から別の任務に移動させるだけで良い。なぜなら補佐は本来、包括的処理権と代行権を有するので、こうした職務は補佐への任命に含意されているからである。この点において補佐は総督とは異なる。総督はある地方における包括的処理権を授与されているだけなので、別の地方に移動させられることはない。それには改めて新しく任命される必要がある。なぜなら新任地(任務)は先の職務委任には含まれて居なかったからである。一方、補佐は包括的処理権と代行権を与えられているので、本来的にあらゆる職務について包括的処理と代行を任せられている以上、どの地域からどの地域に移動させられようとも、改めて任命しなおす必要はないのである。
以上から、カリフにはその代官に全ての職務における包括的処理を任せると共に、国家の全ての地方における彼の代行を委ねることができることが分かった。但しカリフには、例えばある補佐を東部諸地域、別の補佐を西部諸地域管轄とするといったように、補佐に特別な任務を課すこともできる。大臣の数が多くなった場合には管轄が重複衝突しないためにこうするのはやむをえないのである。
特に国家が拡大した場合には、カリフの必要から大臣は複数になるが、国家の全ての地域でこれらの大臣が皆、それぞれが包括的処理を行えば、彼ら全員が包括的処理と代行を委ねられている限り、任務の重複と衝突がおき、大臣たちがそれぞれの任務を行うのに支障をきたすことになる。
それゆえ我々は以下のように定めよう。
任命に関しては、補佐は国家の全ての地域において、包括的処理と代行を委嘱される。
職務に関しては、補佐は、国家の一部において、一つの任務を任される。つまり、国家は補佐毎に地域に分けられ、例えば某はカリフの東部地域の補佐、某は西部地域の補佐、某は北部地域の補佐、といった形である。
移動に関しては、補佐が、ある地域から別の地域に、ある職務から別の職組むに移動する場合、改めて新任される必要はなく、最初の任命だけで足りる。なぜなら補佐に任命した時点で本来的に、全ての職務が含意されているからである。
 
全権補佐の資格条件
 全権補佐にはカリフの資格条件が条件として課される。つまり、男性、自由人、ムスリム、成人、理性人、義人、そして代理として任された職務の適任者で有能であることである。これらの資格条件の典拠はカリフの場合の典拠と同じである。なぜならば補佐の職務は統治行為であり、「女性に自分たちの政治を任せる民は栄えることはない」とのハディース により男性でなくてはならず、奴隷は自分自身の法律行為を行う行為能力も有さないので、他人の行為を処理する行為能力は尚更有さないので、自由人でなくてはならず、「3種の者からは筆が上げられる。すなわち、子供は成人するまで、眠っている者は目覚めるまで、痴呆の者は癒えるまで。」とのハディース により、成人でなくてはならず、同じハディースの「痴呆の者は癒えるまで」と別のヴァージョンの文言「理性を失った狂人は正気に返るまで」により、正気でなくてはならず、アッラーは「汝らの中の2人の義人を証人に立てよ」(65章2節)と言われ、証人に義人であることを条件として課されているが、カリフの補佐には尚更条件として課されるので、義人でなくてはならず、またカリフを補佐し、カリフの職務を担い、統治と権力の職責を果たすことができるために、そして統治行為の適任者であることが条件となるのである。

全権補佐の職務
 全権補佐の任務は、カリフに自分が行うと決めた政務について報告することである。その後、自分の権限において行動しカリフと肩を並べないように、カリフに自分の解決案、地域や職務の決定状況について上申し判断を仰ぐ。彼の任務はカリフに判断を仰ぎ、カリフがその執行停止を命じない限り、上申したことを執行することである。
 その根拠は、補佐とはカリフが委任した事項における彼の代行者である、という事実でもある。代行者はその職務をただ自分に代行を委任した者に代わって行うだけである。それ故、補佐はカリフから独立することは出来ず、ウマルがアブー・バクルの補佐だった時に彼に対して行ったように、あらゆる行為をカリフに全て上申して判断を仰ぐのである。ウマルはアブー・バクルの判断を仰ぎ、彼の考えを執行した。とは言え、カリフに上申し判断を仰ぐことは、あらゆる瑣事にわたってカリフの許可を求めることを意味しない。それは補佐の実態と異なるのである。上申し判断を仰ぐとは、例えばある地方には有能な総督を派遣する必要があるとか、ある地方では人々が訴えている市場の食糧不足を解消する必要がある、といった全ての国政問題をカリフにブリーフィングすることなのである。あるいはカリフが把握し何が問題かを知るためにこうした事柄をただ報告するだけであり、それについて全ての詳細について記されていることを行うには、その執行許可を得る必要はなく、こうした報告だけで十分なのである。但し、この報告を施行しないとの命令が下された場合に限って、その執行は非合法となる。上申は、単なる状況報告であり、その実行の許可ではない。補佐には、カリフが執行停止を命じない限り、それを執行する権限があるのである。
 カリフは全権補佐の諸行為、諸事の処理を評定し、正しい行いは承認し、過ちは正さなくてはならない。なぜなら「イマームは牧者であり、その民草に責任がある」との臣民への責任を述べた預言者のハディースにより、ウンマ(ムスリム共同体)の諸事の処理はカリフ自身に託され、彼の裁量(イジュティハード)に委ねられているからである。カリフこそが諸事の処理を委任されており、彼が臣民に対して責任があるのであり、全権補佐は臣民に対して責任はない。補佐はただ自分が任された職務の遂行にのみ責任を負うのである。臣民に対する責任はただカリフにのみある。それゆえカリフは自分自身の義務を果たすために、補佐の仕事、政務の処理の評定の義務を負うのである。また全権補佐は時に誤りを犯すこともあるため、カリフは補佐の犯した過ちを正すためにその行為の全てを評定する必要があるのである。臣民に対する責任を果たし、全権補佐の過ちを正すというこの二つの理由から、カリフには補佐の全ての行為を評定する義務があるのである。
 全権補佐が何かを処理しカリフがそれを承認すれば、補佐はそれを加減せずカリフが承認した通りに忠実に執行しなければならない。もしカリフが翻意し、補佐が決めたことを差し戻すことで彼に反対した場合は、考慮される。もし補佐が適切に執行した決定であるか、補佐がその使途に支出した予算であれば、全権補佐の判断が実行される。なぜならそれ(カリフの補佐の決定は)は本来カリフの考えとみなされるべきものであり、カリフは既に執行した法規定、支出した予算を訂正することはできないからである。一方、総督の任命や軍の武装などそれ以外のことで補佐が決めたことは、カリフは全権補佐への反対が許され、カリフの見解が執行され、補佐の行為は取り消される。なぜならそれらの事項に関してはカリフが自分自身の行為を訂正する権利があるので、自分の補佐の行為も訂正する権利があるのである。
以上が全権補佐の職務遂行とカリフによる補佐の職務の評定の方法の説明であるが、これは撤回が許されるカリフの職務と撤回が許されないカリフの職務に対応している。なぜなら全権補佐の行為はカリフの行為とみなされるからである。その理由は、全権補佐は自分が代行を委ねられたことに関しては、カリフと同様に、自ら取り仕切ることも、執政官を任命することも許されている。なぜなら彼には執政官の資格条件を備えているからである。また行政不正裁判を自ら行うことも、代行を任ずることも許される。行政不正裁判の資格条件も満たしているからである。また戦争の資格条件も有するので、ジハードを自ら陣頭指揮することも、指揮官を任命することも許される。また補佐は自ら企画立案した案件を自ら処理することも代行者を任じて執行させることも許される。なぜなら企画立案の資格条件があるからである。
但し、だからと言って、カリフが上申を受けていた限り、補佐が行ったことをカリフが取り消すことが決して出来ないというわけではない。その意味はただ、補佐はカリフが彼に託した任務に関してはカリフと同じ権限を有するということである。但しそれは、あくまでもカリフの代行者としてであって、カリフから独立にではないのである。それゆえカリフには補佐が承認したことを差し戻して補佐に反対することも、補佐が執行した行為を取り消すことも出来る。但し補佐の行為を取り消せるのは、カリフが自ら行ったとした場合に自分で取り消すことが許される行為に限られるのである。もし補佐が適切に決定を執行したか、予算をその使途に応じて支出したのであれば、補佐が執行した後にカリフが彼に異を唱えても、そのカリフの反対に意味はなく、補佐の行為の執行が追認され、カリフの意見、異議は却下される。なぜならば、そもそも補佐の判断は本来(補佐に職務の代行を委任した責任者である)カリフの判断とみなされるのであり、そうした状況では、カリフは自分の判断を撤回したり、既に執行した行為を取り消すことはできないからである。
他方、補佐による総督、官吏、軍司令官の任命のような人事や、経済計画、軍事作戦、工業振興策などの政策立案のようなものについては、カリフにはその取り消しが許される。なぜなら、そうしたことも、(補佐の任命責任者である)カリフの考えとみなされるのであるが、それはカリフが自分で行ったとしたなら、後でそれを撤回することが許される事項なので、それにおける自分の代行者の行為であっても取り消すことが許されるのであり、こうした場合にはカリフには補佐の行為の取り消しが許される。この問題に関しては、カリフは自分の行為であれば訂正が許される全ての事項において、補佐の行為を訂正することが許されるが、自分の行為であっても訂正が許されない全ての事項においては、補佐の行為の訂正も許されない、というのが原則である。
全権補佐には、例えば情報省のような特定の行政官庁に配属されることはない。なぜなら行政実務を行うのは被雇用者(ujar)であり、執政官(ukkm)ではなく、全権補佐は執政官であって被雇用者ではなく、その職務は臣民の世話であり、被雇用者がそれをするために雇われた仕事をこなすことではないからである。
全権補佐が行政実務に直接手を下さない、と言っても、彼にはどんな行政実務も禁じられているという意味ではない。その意味は、行政補佐は行政実務を分担するのではなく、その総括が仕事だということである。 

補佐の任命と罷免
補佐はカリフの命令により、任命、罷免される。カリフの死亡に際して、補佐の任期は終了し、カリフ臨時代行の執政中を除き、その職務を継続しない。もし継続するなら、新カリフから改めて新任される必要があり、特に罷免を必要としない。なぜなら彼らの職は、彼らを補佐に任命したカリフの死によって、完了消滅しているからである。

第3章:執行大臣
 執行大臣とは、カリフが自分と国家機構、臣民、外国との仲介として、執行、実務、履行を自分の代わりに、あるいは自分に対して行うための自分の補佐として任命した大臣である。それは諸事の執行の補佐であり、その総督(wl)でもなければ、実務者(mataqallid)でもない。その職務は行政の仕事であり、統治ではない。彼の職域はカリフの発した命令を執行する内務、外務の国家機構であり、またこれらの機関から奏上されたものをカリフに伝えもする。それはカリフからの命令をカリフに代わって執行させ、カリフへの奏上を処理する、カリフと他者との仲介なのである。
 この執行の補佐はアッラーの使徒と正統カリフの治世には「書記」と呼ばれていた。その後、書簡記録管理者(ib dwn rasil)、あるいは文書記録管理者(ib dwn maktabt)と呼ばれるようになり、その後、公文書書記(ktib insh)、尚書礼(ib dwn insh)などの呼び名が定着し、その後、法学者の間では、「執行大臣(wazr tanfdh)」と呼ばれるようになったのである。
 カリフは統治と執行、人々の諸事の世話を行う為政者である。そして統治、執行、世話は行政事務を必要とする。そしてそれはカリフの側にあってカリフの職責を果たすために必要とされる行政庶務を分担する特別な機関の創設を必要とし、それは統治の職務ではなく、この行政庶務を行うためにカリフが任命するところの執行の補佐を置くことを必要とするのである。それゆえその仕事は統治ではなく、行政におけるカリフの補佐であり、彼には全権補佐とは違い、統治の職務は一切行う権限を持たず、総督や管理を任命することはなく、人々の諸事の世話をすることもない。彼の仕事はただ、統治の職務か、カリフか全権補佐が発令した行政の職務の執行のための行政実務に過ぎないのである。それゆえこの役職には「執行補佐」の名が冠せられたのであり、「大臣(wazr)」の語は語源的には「補佐(mun)」を意味するので、法学者は「執行大臣(wazr tanfdh)」、つまり「執行補佐(mun tanfdh)」と呼び習わしているのである。法学者たちは、「この大臣は、カリフと、臣民と総督との間の仲介役であり、カリフに代わってカリフの命じたことを実行し、発令したことを執行し、決定したことを処理し、総督への委嘱を報告し、軍と防衛隊を装備し、カリフに臣民と官吏からの奏上事項、また先の命令が正しく実行されるために新しく生じた事態について報告する」と述べている。この職は、あくまでも諸事の執行の補佐であり、その上に立つ総督でも、その処理を命じられた実務者でもない。この執行補佐職は現在の国家元首たちの官房長官にほぼ相当するのである。
 執行補佐は全権補佐と同様にカリフの側近であり、カリフの腹心(bina)であり、彼の仕事は統治者(カリフ)に密着している。その仕事はカリフに上申し判断を仰ぎ、昼夜を問わずカリフと密談、会合することを要する。そしてそれは聖法に則るなら、女性の職環境には馴染まない。それゆえ執行補佐は男性でなければならない。また執行補佐はカリフの腹心であるため、「信仰する者たちよ、おまえたち(ムスリム)以外に腹心をもってはならない。彼らはおまえたちの破滅になにも厭わず、おまえたちが苦しむことを望む。憎悪は彼らの口からすでに顕わになっている。だが、彼らの胸が隠すものはさらに大きい。・・・」(3章118節)との至高者の御言葉により、執行補佐は不信仰者であってはならず、ムスリムでなければならない。カリフが非ムスリムを自分の腹心とすることが禁じられていることは、この聖句に明らかである。それゆえ全権補佐の場合と同じく、執行補佐もカリフから離れない側近なので不信仰者であってはならず、ムスリムでなければならないのである。
 また必要に応じ、そして執行補佐がカリフとそれ以外の他者との仲介役になるような任務に応じて、執行補佐の数が複数となることは許される。
 執行補佐がカリフとそれ以外の他者との仲介役になるのは、以下の4事項である。

1. 外交。カリフが直接管掌するかそれを管掌する外務省を設立。
2. 軍隊、あるいは兵団
3. 軍を除く国家機構
4. 人民との関係
これが執行補佐の行う任務の実態である。執行補佐はカリフと他の者の仲介、つまりカリフからの連絡機関、カリフへの連絡機関なのである。ただし連絡機関であるとはいえ、国家機関の職務の遂行が必要である限りにおいて、そうした職務も行うのである。
カリフは実際の統治者であり、カリフこそが自ら統治、執行、人々の諸事の世話を管掌する。それゆえカリフは常に統治機構、外交筋、人民(ウンマ)と接触していなくてはならず、法規定を定め、決定を下さし、人々の世話をし、統治機関の運営、その抱える問題、必要とすることを調べなければならず、またカリフの許には人民(ウンマ)から陳情、苦情、問題が寄せられる。またカリフは外交にも目配りが必要である。それゆえこうした職務の実際は、執行補佐が仲介し、カリフに代わってそれを執行し、またそれをカリフの許に上げるのである。カリフから統治機関に下される指令や、統治機関からカリフに提出される奏上は、その執行のためのフォローアップが必要であり、執行補佐は執行が完了するまでそのフォローアップを任とするのである。執行補佐は、カリフをフォローアップし、統治機構をフォローアップする。執行補佐は、カリフが停止を求めない限り、フォローアップを止めないが、カリフの命令には従い、フォローアップを中止しなくてはならない。なぜならカリフが統治者なのであり、彼の命令が行われなくてはならないからである。
また軍事と外交は概ね機密に属し、カリフの専権事項である。それゆえ執行補佐は軍事・外交には手を染めず、その執行のフォローアップもしない。特にカリフからその一部の分担を求められた場合は別であるが、その場合でもカリフから求められたことだけを分担し、それ以外には手を出さない。
人民の世話、陳情の処理、不正の除去などの人民との関係は、カリフとその代行の仕事であり、執行補佐の任ではない。それゆえ執行補佐は、特にカリフから関与の求めがあった場合を除き、手を出さない。その場合に執行補佐が実際にしたことはカリフの命令の履行であって、分担ではないのである。これらは全てカリフが行うべき職務の内容の一部であり、それゆえ執行補佐が行うべきことでもあるのである。
以下は、使徒と正統カリフの治世の執行補佐(当時は書記と呼ばれていた)の仕事の例である。
1. 外交
* アル=フダイビーヤの和約(この和約のテキスト自体は周知であるので省略する)に関して
 「預言者は書記を呼ばれた」  (「書記」の語は見られないが、「筆記せよ」との預言者の言葉が記録されている伝承の例)
 「(預言者は)『筆記せよ』と言われた」
 「アッラーの使徒はアリー・ブン・アビー・ターリブを呼び、『筆記せよ』と言われた」
 「(預言者は)アリーに『アリーよ、筆記せよ』と言われた」
「(預言者は)『アリーよ、筆記せよ』と言われた」
* 預言者からローマ帝国ヘラクレイオス帝への手紙
「慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名において。アッラーの僕、アッラーの使徒ムハンマドから、ローマ皇帝ヘラクレイオスへ。私はあなたにイスラームの宣教を呼びかける。イスラームに帰依しなさい。そうすれば安寧を得よう。イスラームに帰依しなさい。そうすればアッラーはあなたに二重の報償を授け給おう。しかしあなたが背くなら、あなたは臣民の罪をも負おう。『啓典の民よ、我々とあなた方の間で共通の言葉、「我々はアッラー以外を崇めず、彼に何ものの並べず、アッラーを差し置いて我々の仲間のうちの者を主としない。」の許に来たれ。もし彼らが背くなら、我々がムスリムであることを証言せよ、と言いなさい。』(3章64節)」
* ヘラクレイオス帝からのアッラーの使徒の書簡への返書。
「アッラーの使徒にヘラクレイオスはムスリムであり使徒にディーナール金貨を送ったと書き送った。アッラーの使徒はその手紙を読んで『アッラーの敵が嘘をついている。彼はムスリムではなくキリスト教徒のままだ』と言われた。」
* マンビジュの住民からのウマルへの手紙と彼の返信。
「マンビジュの住民(シリアのチグリス河畔の敵性異教徒)がウマル・ブン・アル=ハッターブに『私たちが貿易商としてあなたの土地に入るのを許し、十分の一税を徴収してください』との手紙を遣した。そこでウマルはアッラーの使徒の直弟子たちとそれについて協議し、彼らはウマルにそれを勧めた。こうしてマンビジュの民は敵性異教徒で最初に十分の一税を納めて貿易を許された者となった。」
2. 軍隊、あるいは兵団 文書から
* アブー・バクルからハーリドへのシリアへの進軍を命じた手紙
「ハーリドはヒーラに居を定めたいと望んでいた。しかし彼の許にアブー・バクルから、アブー・ウバイダとムスリム軍の援軍として、彼にシリア進軍を命じる手紙が届いた。」
* シリアの軍からウマルへの援軍要請とウマルから彼らへの返書。
「我々はアブー・ウバイダ・ブン・アル=ジャッラーフ、ヤズィード・ブン・アビー・スフヤーン、イブン・ハサナ、ハーリド・ブン・アル=ワリード、イヤーズ(サッマークにハディースを語ったイヤーズとは別人)の5人の指揮官と共にヤルムークの戦いに臨んだ。ウマルは、もし戦闘になればお前たちはアブー・ウバイダに従え、と命じていた。私たちが、私たちは死地にあります、とウマルに手紙を書き、彼に援軍を求めた。するとウマルは、『私の手許に援軍を求めるお前たちの手紙が届いた。私はお前たちに誰が最も偉大な援助者、最大の援軍の送り手であるかを教えよう。畏くも尊きアッラーである。それゆえアッラーに助けを求めよ。ムハンマドはバドルの戦いでお前たちより少ない軍勢で勝利を収められたのである。お前たちに私のこの手紙が届いたなら、彼らと戦い、私に相談してくるな。』との返書を私たちに送ってきた。そこで私たちは彼らと戦い勝利し4ファルサフにわたって彼らを殺した。」
* シリアの軍団がウマル・ブン・アル=ハッターブに「私たちは敵と遭遇したが、彼らは武器を絹布で飾っていて、それが私たちの心に恐怖を引き起こしました」との手紙を書き送った。するとウマルは「彼らが武器を絹で飾っているようにお前たちも武器を絹で飾りなさい」と返事を送った。
* 軍隊以外の国家機関 その範疇の書簡と文書
* 十分の一税について預言者がムアーズに送った手紙。
「アッラーの使徒はイエメンのムアーズに『天水か、川の水での耕作地には十分の一税、潅漑耕作地には二十分の一税』と書き送った」(ヤフヤー・ブン・アーダムが『地租の書』の中でアル=ハカムから伝えており、アル=シャアビーからも同様なハディースを伝えている。)
* 人頭税に関する預言者からアル=ムンズィル・ブン・サーウィーへの手紙。
アブー・ユースフは『地租の書』の中でアブー・ウバイダから以下のように伝えている。「預言者はアル=ムンズィル・ブン・サーウィーに、我々の礼拝を祈り、我々のキブラ(礼拝の方角)を向いて礼拝し、我々の屠殺肉を食する者はムスリムであり、その者にはアッラーの庇護とその使徒の庇護がある。マギ教徒でそれを欲する者は信仰を得た。それを拒む者には人頭税が課される。」アブー・バクルがアナスをバハレーンに遣わした時にアナスに送った浄財の義務についての手紙。「アブー・バクルはアナスにアッラーとその使徒が命じられた浄財について書き送った」(アル=ブハーリーがアナスから伝えている)
* 飢饉の年のウマルからアムル・ブン・アル=アースへの手紙
 「飢饉でアラブの地が旱魃に見舞われた時、ウマルはアムル・ブン=アースに以下の手紙を送った。『アッラーの僕にして信徒の長であるウマルからアムル・ブン=アースへ。我が命にかけて、お前は自分が肥え太っているのに、私が痩せ細っていても気にかけない。神佑あれ。』アムルは返書した。『あなたに平安あれ。さて、あなたの許に参上しました。あなたの許に参上しました。キャラバンの積荷の最初のものはあなたの許に届き、私の許には最後に届きます。私は海路でも運ぶ方策を見つけたいと思っています。』」
* ムハンマド・ブン・アビー・バクルからアリーへの背教者についての手紙
アリーの返書
アリーはムハンマド・ブン・アビー・バクルをエジプトに総督として派遣した。
ムハンマド・ブン・アビー・バクルがアリーに異端(zandiqah)について尋ね、彼らの中には太陽と月を拝む者がおり、またその他のものを拝む者もおり、またイスラームの信仰を自称する者もいる、と書き送った。そこでアリーは彼に返書を書き、異端についてはイスラームの信仰を自称する者は処刑し、その他の者は好きなものを拝むままに放置しておけ」と命じた。(イブン・アビー・シャイバがカーブース・ブン・マハーリクがその父から聞いた話として伝えている)

3. 人民に直接宛てた手紙
 預言者からナジュラーンの住民への手紙。
* 預言者のタミーム・アル=ダーリーへの手紙
「タミーム・アル=ダーリー(ラフム族のタミーム・ブン・アウス)が立ち上がって言った。『私にはパレスチナに隣人がいますが、彼らにはハブラーとアイヌーンという村があります。もしアッラーがあなたにシリアでの勝利を授け給えばその二つの村を私に下さい。』預言者が『両者はお前のものだ』と答えられると、彼は『そのことを私のために書いてください』と頼んだ。
そこで預言者は以下のように書かれた。
『慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名によって。これはアッラーの使徒ムハンマドからタミーム・ブン・アウス・アル=ダーリーへの手紙である。ハブラーとバイト・アイヌーンの両村は、平地も山も、水も農作物も、馬も牛も全て彼(タミーム)とその子孫のものであり、何者もそこで彼を侵害せず、誰も彼らに不正を為してはならない。もし不正を働き、彼らから何かを奪う者があれば、その者にはアッラーと天使と人間全ての呪いがあろう。』
アリーがそれを書き留めた。
アブー・バクルがその地の総督となると彼は彼らに以下の手紙を送った。『慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名によって。これは地の相続者とされたアッラーの使徒ムハンマドかの秘書アブー・バクルが、ダーリー家の者たちに書き送る手紙である。何者も彼らと彼らの所有するハブラーとバイトを侵害しない。アッラーに聞き従う者は両村でいかなる悪もなさない。両者の門に閂をかけ、悪党たちから守りなさい。』」
カリフには必要に応じて書記を任命することができる。書記を任命しなければ職務を果たせないなら、任命はむしろ義務になる。預言者伝の作者たちはアッラーの使徒には約20人の書記がいたと述べている。アル=ブハーリーはその『正伝集』の中で、アッラーの使徒がザイド・ブン・サービトにヘブライ語を習い、彼らが預言者に手紙を遣した場合に読み聞かせるように命じられ、ザイドは25日にわたってヘブライ語を習ったことを伝えている。またイブン・イスハークはアブドゥッラー・ブン・アル=ズバイルから「アッラーの使徒は、アブドゥッラー・ブン・アル=アルカム・ブン・アブド・ヤグースを書記に任じ、彼が使徒に代わって王たちに返書を認めた」と伝えている。
「また預言者の許にある男から手紙が届いた。そこで彼はアブドゥッラー・ブン・アル=アルカムに『私に代わって返事を書きなさい』と命じられたので、彼は返事を書き、それを預言者に読み聞かせた。すると預言者は『良い出来だ。うまく書けている。アッラーが彼を成功させ給いますように』と言われた。」(ハディース)
ムハンマド・ブン・マスラマはアッラーの使徒の命令により、ムッラ族への手紙を書いた者であり、アリー・ブン・アビー・ターリブは条約が締結されたとき、和約が成立した時の協定文の書記であり、ムアイキーブ・ブン・アビー・ファーティマがその印璽官であった。
アル=ブハーリーはその『史書』の中で、ムハンマド・ブン・ビシャールから彼の祖父ムアイキーブについて「銀を飾り彩色された鉄のアッラーの使徒の指輪印は私の手中にあった。アル=ムアイキーブはアッラーの使徒の印璽官だった」と述べた、と伝えている。

第4章:総督
 総督とは、カリフがカリフ国家の特定の地域に対する統治者、司令として任命する者である。カリフ国家が支配する土地は下位ユニットに分割されるが、その各ユニットが地域(wilyah)であり、各地域はさらに下位ユニットに分割され、そのそれぞれが地区(amlah)である。地域を管掌する者が総督(wl)、あるいは指令(amr)と呼ばれ、地区を管掌する者は区長(mil)、あるいは知事(kim)と呼ばれる。地区も下位の行政ユニットに分割されるが、その各ユニットが街区であり、その街区(qabah)もさらに最下位行政ユニットに分割される、その各ユニットが町内である。街区の長、町内の長は、いずれも行政官と呼ばれ、その職務は行政である。
総督は統治者である。なぜならここでは総督(wilyah)とは統治(ukm)を意味するからである。アラビア語辞典『包括(al-Qms al-Mu)』には、「何かを『waliya(管掌する)』とは、『その上にwilyah(権威)あるいはwalyah(近しさ)を持つこと』、あるいは動名詞(管掌)とも言われる。wilyahとは地位khuah、指揮権imrah、権力sulnである」
 総督は統治者であるので、統治者の資格条件がその資格条件となるので、総督は男性、自由人、ムスリム、成人、正気、義人、そして適任者であることが資格条件となる。総督職はカリフか、カリフからその任命について代行を任せられた者から任命される必要があり、カリフによってしか、総督は任命されないのである。
 地域権力や司令部の、つまり総督や司令の根拠は使徒の事跡である。使徒が諸国に総督を任命し、彼らにその地方の統治権を付与したことは史実である。使徒はムアーズ・ブン・ジャバルをアル=ジャナド、ズィヤード・ブン・ラビードをハドラマウト、アブー・ムーサー・アル=アシュアリーをザビードとアドンの総督に任命された。
 使徒は、敬虔で知られた統治に優れた者、学識者の中から総督を選任し、それらの者の中から適任で、人民の心に信仰と国家への畏怖を植えつけられる者を選ばれた。
「アッラーの使徒は軍隊や遠征隊に司令を任命した時には、司令には特にアッラーを怖れることを、彼の配下のムスリムたちには善行を訓示されました。」(ハディース)
総督は彼の管区の司令でもあるので、このハディースに含意されているのである。
総督の罷免については、カリフが罷免すべきと考えるか、彼の管区の住民の大半かその代表が彼への不満か怒りを表明すれば罷免される。
それゆえ我々は以下の2つの目的で、地域住民から地域議会が選任されると定めた。
第一に、総督が管区の現実を把握する手助けである。と言うのは、彼らこそその管区の住人であり、その地について最も良く知っているので、彼らの知識と情報により、総督がその任務を滞りなく果たすことができるように助けることができるからである。
第二に必要な場合の総督の評定のためであり、もし議会が多数決で不信任を議決すればカリフは総督を罷免する。なぜならば使徒はバハレーン知事のアル=アラーゥ・ブン・アル=ハドラミーをアブド・カイス族の使節の苦情申し立てにより罷免したからである。またカリフには格別な理由なく総督を罷免することができる。使徒も特に理由なくイエメン総督のムアーズ・ブン・ジャバルを罷免されている。またウマル・ブン・アル=ハッターブも地方総督たちを理由の有無にかかわらず罷免しており、ザイヤード・ブン・アビー・スフヤーンの場合は理由を特定せず罷免し、サアド・ブン・アビー・ワッカースは人々の苦情により罷免し、「私が彼を罷免したのは無能故でも、背任のためでもない」と言った。これらの事例は、カリフは望むときに地方総督を罷免できるが、その管区の住人が苦情を申し立てたときには罷免すべきことを示している。
最初期の総督の職務は、2種類で、礼拝の職務と地租の職務であった。それゆえ歴史書は司令官たちの職権について語るときに、「礼拝の指令職」と「礼拝と地租の指令職」の二つの表現を用いている。つまり司令官は、礼拝と地租の司令であるか、礼拝だけの司令であるかのいずれかであったのである。しかし「礼拝の総督」、「礼拝の司令」の語は「人々の礼拝の先導職」だけを意味するわけではない。そうではなく、それは財務を除く全ての問題における権威を意味していたのである。つまり「礼拝」の語は徴税を除く統治行為の全てを意味していたのである。それゆえ地方総督が礼拝と地租を兼務していれば、それは即ちその視職権が包括的であったということなのであり、もしその職権が礼拝、あるいは地租に限られていれば、その職権は限定的であったのである。
これら全てにおいて限定的職権は、カリフの采配次第である。カリフはそれを地租に限定することも出来れば、裁判に限定する事もでき、また徴税、裁判、軍事を除く、といった限定も許され、国家行政、あるいは地域行政に役立つと思う何をしても許されるのである。なぜならば聖法は総督に特定の任務を定めていないが、逆に統治の全ての仕事を担うことも義務付けていないからである。ただ定められているのは、総督と指令の任務は統治と権力であること、彼がカリフの代行であること、特定の場所における司令であることだけなのである。そしてそれは使徒がなされたことだからである。それゆえカリフには職務によって、包括的な職権を授けることも、限定的な職権を授けることもできるのである。そしてそれは使徒の事跡に明らかなのであり、アムル・ブン・ハズムをイエメンで包括的職権を持つ総督に任じる一方、アリー・ブン・アビー・ターリはイエメンでの裁判権だけを授与したのであるイブン・ヒシャーム(歴史家、828年没)の『預言者伝(al-Srah)』にはアッラーの使徒がファルワ・ブンムサイクをザビードとマズハジュの諸部族の司令に任じ、浄財の徴収のためにハーリド・ブン・サイード・ブン・アル=アースを彼と共に派遣されたことが記されており、同じく同書には使徒がズィヤード・ブン・ラビードをハドラマウトに浄財の徴収のために派遣されたこと、アリー・ブン・アビー・ターリブをナジュラーンに浄財と地租の徴収のために遣わされたことが記されている。またアル=ハーキムが伝えているように、アリーはイエメンの裁判官としても派遣されている。また『全書(al-Istb)』(イブン・アブドルバッル、マーリキー派法学者、ハディース学者、1071年没)によると、使徒は、人々にクルアーンとイスラームの聖法を教え、彼らの間を裁くようにと、ムアーズ・ブン・ジャバルをアル=ジャナドに派遣されたが、同時に彼に、イエメン各地の司令たちが徴収した浄財を受け取る権限も授けられたのである。
 カリフには包括的権限を有する総督を任命することも、限定的権限のみを有する総督を任命することも許されていた。しかしアッバース朝カリフが弱体化した時代には包括的権限により地方政権が独立し、カリフにはアッラーへの祈願の中で名前を読み上げられること、貨幣に名前が彫りこまれること以外に何の実権も持たなくなってしまったことから、包括権限の授与がイスラーム国家に害をもたらす原因となったことが明らかにされている。
 総督は包括的権限を与えられて任命されることも許されるのと同様に、限定的権限を与えられて任命されることも許されるが、地方総督への包括的権限授与は時に国家に危害を及ぼすことがあるため、総督の敬神の念が弱まるとカリフからの独立を可能にさせるような事項を除いた限定的権限のみを与えて総督を任命することに決めるべきである。史実を調べるなら、そうした事項は、軍事、司法、財政である。それゆえ軍事、司法、財政に関しては、カリフ国家の他の(中央)機関と同様な(地方レベルでも)地方総督から独立のカリフ直属の機関が設立されるべきなのである。
 総督はある地方から別の地方に転勤になることはないが、一旦解任され、新たに任命されることは可である。なぜなら使徒は総督たちを罷免しているが、総督をある地域から別の地域に転勤させた事例は伝わっていないからである。また総督職は契約の一つであり、明確な文言によって成立する。そして地域、あるいは地方総督の契約は総督が治める場所を特定しなくてはならず、総督はカリフから罷免されない限り、その場所における統治の権限は存続する。それゆえもし彼が別の場所に移動させられても、その移動によって最初の管区の総督を解任されることにはならず、移動させられた場所の総督に任命されたことにもならない。なぜなら最初の管区からの解任は彼の総督職からの解任の明言を必要とし、また移動させられた土地での総督の就任にはその土地を特定した新たな任命の契約を要するからである。それゆえ総督はある土地から別の土地に移動するのではなく、前任地で解任されて、新任地で新しい総督職に任命されるだけであることになるのである。

カリフによる総督の行為の査定義務
 カリフは総督の行動を査定し、彼らを厳しく監督しなくてはならない。それはカリフ自ら行おうと、自分に代わって彼らを調査しその行状を明るみに出す者を任命してもどちらでもよい。またカリフの補佐にも自分の任地における総督の行動の監視し、自らが実見した彼らの行状あるいは、執行補佐の任務について前述したやり方で彼らを処して確認したことをカリフに報告する権限を有する。このようにカリフは常に総督の行状を注視し、追跡調査しなくてはならず、また様々な機会に彼らを一同に集め、あるいは一部を呼び出し、人民の彼らに対する苦情に耳を傾けなければならないのである。
 預言者が総督を任命する時点で、ムアーズやアブー・ムーサーに対して行われたように彼らを試され、またアムル・ブン・ハズムに対して行われたようにいかに行動すべきかを説明され、またアバーン・ブン・サイードをバハレーン総督に任命された時に「アブド・カイス族に気を配り、彼らの長を優遇せよ」といわれたように、重要な案件に注意を促されたことが知られている。また預言者は総督たちを評定し、彼らの行状を明らかにし、彼らについて持ち込まれる情報に耳を傾け、総督の収入と支出を監査されていた。
 「預言者はイブン・アル=ルトゥビーヤをスライム族の浄財徴収官に任じられた。彼が預言者の許に戻ってきたとき、預言者は彼を査問された。彼が『これはあなたに納めるもの(浄財)で、これは私に贈られた貰い物です』と答えると、預言者は、『お前が正しいなら、お前に贈り物がやって来るまで、お前は父の家にでも母の家にでも座して待っていなかったのか』と言われた。」(ハディース)
またウマルは総督たちを厳しく監視し、ムハンマド・ブン・マスラマに彼らの調査と行状の解明の任を与えた。またウマルは巡礼の季節に総督たちを集め、彼らの行動について調べ、また彼らの行状を知るため、人民の総督たちに対する苦情を聞き、彼らと地域の行政について話し合った。ウマルについて以下のように伝えられている。「ある日、ウマルは周りの者に『もし私が知っている中で最善の者をお前たちの司令に任命し、その者に正義を命じたなら、私は自分の義務を果たしたことになると思うか』と尋ねた。人々が『はい』と答えると、ウマルは『いや、私が命じた通りに彼が行動したかどうかを、私が彼の行動を見て実際に確認するまでは、違う』と言った。」
 ウマルは彼の総督や司令たちの評価に厳しく、その査定の峻厳さは証拠がなくても容疑だけで彼らの一人を罷免し、時には容疑とも言えない疑いで罷免することさえあった。ある日、そのことについて尋ねられて、ウマルは「簡単に人民に役に立つことは、彼らの司令官を別の司令官に替えることだ」と答えた。但しウマルは峻厳ながらも彼らを自由にし、彼らの統治における威厳を守り、彼らから意見を聞き、彼らの言い分に耳を傾け、もしその言い分に納得すれば、それを聞き入れることを躊躇わず、その後でその部下を誉めた。ある時、フムスの彼の司令ウマイル・ブン・サアドがフムスのモスクの説教壇で「権力者が峻厳である限り、イスラームは強靭である。権力者の峻厳さとは、剣による処刑、鞭打ちではなく、真理に則る裁き、正義の貫徹である。」と語ったとの話が彼の許に届いた。そこでウマルは彼について「ウマイルのような男が私のそばに居て、ムスリムたちのための仕事で私の手助けをしてくれたら、と思う」と称えたのである。

第5章.ジハードの司令 - 戦事省(軍部)

ジハード
 ジハードはイスラーム(帰依)の頂点であり、また外の世界へのイスラームの宣教のためにイスラームが定めた方法の基本である。そしてイスラームの宣教は国内におけるイスラームの法規定の施行に次ぐイスラーム国家の存在理由とみなされる。
 ジハードは、アッラーの御言葉の宣揚のための惟神の道における戦闘であり、戦闘には軍を要し、またそれに付随してその司令部、参謀、士官、兵士の設立、養成、その後の訓練、扶養養成を必要とし、また武器も必要となり、武器製造には工業がなくてはならない。それゆえ、工業もまた軍とジハードに不可欠なのである。それゆえカリフ国家の全ての工場は軍需産業を基礎として築かれねばならないのである。
 また内政の安定は戦闘における軍の士気を高めるので、内政が不安定であるようなら、軍はジハードに出陣する以前に治安の確保に専念しなくてはならない。背後の国内の治安が乱れているままに出征したとしても、軍の戦闘能力は低下してしまうからである。
 また他国との外交関係も、イスラームの宣教のための基本前提となる。
 それゆえこの4省庁、つまり、軍、治安、工業、外交は、ジハードと関連するため、カリフがその司令を任命する統合領域とされることが出来るが、これらの省庁を分離し、各省庁にそれぞれ長官を任命し、軍に司令、指揮官を任命することも許される。なぜならば、アッラーの使徒は戦争において軍司令官たちを任命されたが、工業は彼らの管轄ではなく、工業には使徒は別の者を配されたからである。警察、巡査、強盗、窃盗の処分などの治安部門も同様であるが、外交部門も同じで、それぞれの長官を任命できる。アッラーの使徒からの同時代の王や諸侯への書簡もそれを示している。
 これらの諸省庁のそれぞれに別々の責任者をおくことができることには、以下のような典拠がある。
1. 軍
使徒はマウタの戦いでザイド・ブン・ハーリサを司令官に任命し、更に彼が殉教した場合の後任の司令官たちも任命された。イブン・サアドはアッラーの使徒は「指揮官はザイド・ブン・ハーリサであるが、彼が殺されればジャアファル・ブン・アビー・ターリブが指揮を取り、彼も殺されるなら、アブドッラー・ブン・ラワーハが後任となる。彼も殺されるようムスリムたちの間で納得のいく者を一人選んで、その者を自分たちの長として上に立てよ。」と言われたと伝えている。またアル=ブハーリーもアブドゥッラー・ブン・ウマルが「アッラーの使徒はマウタの戦いでザイド・ブン・ハーリサを司令官に任命した・・・」と伝えている。またアル=ブハーリーとムスリムはアブドゥッラー・ブン・アル=アクワウから「私はザイドと出陣した。彼は我々の指揮官に任命されていた」と述べたと伝えている。またアル=ブハーリーとムスリムはアブドゥッラー・ブン・ウマルが「預言者は遠征軍を派遣され、ウサーマ・ブン・ザイドを軍の司令官に任命された。ところが一部の者が(若輩の)ザイドが司令官であることを批判した。そこで預言者は『お前たちは彼が司令官であることを批判しているが、以前にも彼の父(ザイド・ブン・・)を司令官とすることを批判した。アッラーによって彼は司令官に適任であったのに・・・』と言われた」と伝えている。預言者の直弟子たちはムウタの戦いを「司令官たちの戦い」と呼んでいた。ムスリムはブライダが「アッラーの使徒は軍や遠征隊に司令官を任命された時にはその司令官に訓告された・・・」と言ったと伝えている。
* アブー・バクルは背教者戦争とヤルムークの戦いでハーリドを総司令官に任じた。カリフは言った。「ハーリド・ブン・アル=ワリードを人々の司令官に任命した。『マディーナの援助者たち(anr)』の司令官にはサービト・ブン・カイス・ブン・シャッマースを任じたが、ハーリドは全体の総司令官である。」
アブー・バクルはシリアの全軍をハーリドの下に糾合した。イブン・ジャリール(アル=タバリー)は「アブー・バクルはイラクにいたハーリドに、シリアに向かい、シリアにいる軍の指揮を執るようにとの書簡を送った」と伝えている。ウマルがシリアの全軍をアブー・ウバイダの下に糾合した時に同じことをしたのである。イブン・アサーキルは「彼(アブー・ウバイダ)はシリアで総司令官(amr al-umar)と最初に命名された者である」と伝えている。

2. 治安
「カイス・ブン・サアド(イブン・ウバーダ・アル=アンサーリー・アル=ハズラジー)の預言者にとの関係は、王侯と警察長官のようであった。」(ハディース)
「カイス・ブン・サアドの預言者との関係は、王侯と警察長官のようであった。アル=アンサーリーは『つまり彼の身辺警護をつかさどっていた』と述べている」(ハディース)
「アッラーの使徒は、騎士であった私(アリー)とアル=ズバイルとアブー・マルサドを派遣し『ラウダ・ハージュ(地名。アブー・アワーナの伝承。他伝ではアブー・ハーフ)に行きなさい。そこにハーティブ・ブン・アビー・バルタアから多神教徒に宛てた手紙を隠し持った女性がいるので、彼女を私(預言者)の下に連行せよ。』と言われた。そこで我々は馬で出発し、アッラーの使徒が我々に言われた所でラクダに乗った彼女を見つけた。ハーティブ・ブン・アビー・バルタアはマッカの多神教徒たちにアッラーの使徒が彼らを急襲すると知らせる手紙を書いていた。我々が『手紙はどこだ』と詰問すると、彼女は『私は手紙など持っていません』と答えた。我々は彼女のラクダを停めて彼女の積荷を調べたが何も見つからなかった。私の二人の同僚(アル=ズバイルとアブー・マルサド)は『彼女は手紙を持っていないようだ』と言ったが、私は『アッラーの使徒が嘘を言われたことは一度もない。誓って、お前が手紙を差し出さないなら、お前を身ぐるみ剥いで調べる』と言い、彼女は布で頭を覆っていたのでその頭巾に触れた。そこで彼女は手紙を差し出した。そこで我々は彼女をアッラーの使徒の許に連行した。」(ハディース)

3. 工業
 アッラーの使徒は投石器と戦車の製造を命じられた。
「アッラーの使徒はターイフの町の住民を包囲され、17日間にわたって彼らに投石器を向けられました」(ハディース)
「預言者はターイフの住人に対して投石器を向けられた」(ハディース)
また『アレッポの行跡(al-Srah al-alabyah)』の著者(Nr al-Dn al-alab, 歴史家、1635年没)は「サルマーン・アル=ファーリスィーが『我々はイランでは城砦を攻めるときには投石器を建造して我々の敵を攻撃するのです』と言って預言者に投石器を教えたのである。サルマーンは自らの手でそれを建てたと言われている。」と述べている。
「ターイフの城壁の崩壊の日、アッラーの使徒の直弟子たちの一部は戦車の下に身を隠してターイフの城壁に焼き討ちをかけた。しかしサキーフ族は彼ら(預言者の直弟子たち)に灼けた鉄輪を浴びせかけたので、彼らが戦車から脱出したところ、サキーフは彼らに矢を射かけ、彼ら(預言者の直弟子たち)の多くを殺した。」
 サルマーンが投石器を教えた、そして自らの手でそれを製作したとも言われるが、それには、預言者がそれを命ずる必要があった。『アレッポの歴史(al-Srah al-alabyah)』の「預言者に投石器を教えた」との表現に着目しなくてはならない。それは「預言者に投石器を作るように命ずるよう示唆した」という意味なのである。これらの伝承から、軍需産業はカリフの責任であるが、それを組織し、実行するにあたっては望みの者に手助けを求めることができる。それには司令官である必要はなく、担当官(mudr)であればよい。サルマーンも軍需産業の司令官であったわけではなく、投石器作成を担当しただけであり、自らもおそらく働いたのである。
軍需産業は義務である。なぜなら「彼らに対してお前たちのできる限りの武力と軍馬を備え、アッラーの敵と汝らの敵、そしてお前たちは知らないがアッラーがご存知のそれ以外の他の者たちを恐れさせよ」(8章60節)との至高者の御言葉で、威嚇(irhb)が求められているからである。そしてこうした威嚇は、軍備によってしか可能ではなく、軍備は工業の存在を要請するからである。それゆえこの節は付帯的必要の指示、あるいは「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則から、軍需産業の育成の義務を示しているのであり、またジハードの義務の典拠もその付帯的必要の指示により工業育成の義務を示しているのである。
アッラーが育成を国家に義務付けられた工業は軍需産業には限られない。カリフ国家が育成すべきその他の工業は、『カリフ国家』の「財政」章に以下のように述べられている。
 「工業:国家は人々の福利を実現するために2種類の工業を育成しなくてはならない。
第1種:公共財そのもの自体に関わる工業。例としては、石油採掘精製工場等の鉱物の発掘、精製、溶鉱工業など。この種の工業は資源そのものが公共財でムスリム全体の共有財産であるので当該の資源に従い公共財となり、その工業全体も公共財となり、国家がムスリム全体を代行して運営する。
第2種:重工業、武器製造に関わる工業。これらの工業は私的所有物であるので、私有財産であっても構わない。しかしこれらの工場、工業は莫大な資本を必要とするので個人では資本調達が困難である場合が多く、また今日の重火器は使徒とその後の正統カリフの時代のような個々人が所有する私的武器とはみなされず、むしろ国有化されているので、資本調達も国家が行うことになる。なぜなら自国民の庇護は国家の義務であるが、特に武器が恐ろしいほどに発達し、その原料調達が難しく膨大なコストを要するようになった今日では、軍需産業や重工業の育成は国家の義務となるのである。但しそれは個人がこうした工業を興してはならないということを意味しない。」
これらの工業の育成は国家の義務、つまりカリフの義務であり、カリフはその総裁を任命するが、総裁は自らそれを経営するか代行者に任せるかのいずれかを選ぶことができる。

4.外交
 既に述べた通り、カリフと外国との仲介としての外交は、執行大臣の要務の一つである。
 使徒とその後の正統カリフの治世の先例では、使徒と正統カリフたちは書記を、つまり執行大臣を介して自ら直接外交を執り行っていた。フダイビーヤの和議のための交渉や、和平協定の締結などを行っていたのは、使徒自身であった。ウマルはペルシャ皇帝ホスローの使者が使徒の許に到着し、使徒を探していたとき、使徒がマディーナの入り口で眠っているのを彼が見つけた、と伝えている。
 カリフには執行大臣を介して外交を自ら執り行うこともできるし、国家の他のどの機関とも同じく、外交を管掌する担当官(mudr)を任命することもできる。
 そしてこれらの4省庁はジハードの司令の省庁に統合することも可能である。なぜならその課題は相互に関連しているからである。
 また既述の通りの使徒の前例に従って分立させることも可能である。これらの省庁の拡大と、特に我々が今日、目にしているところの、軍事部門、国内問題、諸国家とその手先、売国政治家層、犯罪の種類の増大、及び国際関係の複雑化、そして工業の多様化と技術の進化に伴い、ジハードの司令官の権限では処理しきれなくなってきている。そして国家の内部に、軍事力の中枢があることは、その敬神の念が弱まると、国家に害を及ぼす。これらの全てを考慮し、我々は、これらの諸省庁を以下のように国家機構の独立の諸機関としてカリフに直属する別個の省庁とすることに決めたい。
1. ジハードの司令官 -戦事省(軍部)(dirah arbyah)
2. 内務省(dirah amn dkhil)
3. 工業省(dirah inah)
4. 外務省(dirah khrijyah)

戦事省
戦事省(dirah arbyah)とは、国家機関の一つであり、その長は「ジハードの司令(amr)」と呼ばれる。ジハードの担当官(mudr)ではない。それは使徒が、ジハードの指揮官たちを司令と呼んでいたからである。
「指揮官はザイド・ブン・ハーリサであるが、彼が殺されればジャアファル・ブン・アビー・ターリブが指揮を取り、彼も殺されるなら、アブドッラー・ブン・ラワーハが後任となる。彼も殺されるようムスリムたちの間で納得のいく者を一人選んで、その者を自分たちの長として上に立てよ。」(ハディース)
「私(アブドゥッラー・ブン・アル=アクワウ)はザイドと出陣した。彼は我々の指揮官に任命されていた」(ハディース)
「預言者はマウタの戦いの遠征軍を派遣され、ウサーマ・ブン・ザイドを軍の司令官に任命された。ところが一部の者が(若輩の)ザイドが司令官であることを批判した。そこで預言者は『お前たちは彼が司令官であることを批判しているが、以前にも彼の父(ザイド・ブン・ハーリサ)を司令官とすることを批判した。アッラーによって彼は司令官に適任であったのに・・・』と言われた。」(ハディース)
預言者の直弟子たちはムウタの戦いを「司令官たちの戦い」と呼んでいた。
「アッラーの使徒は軍や遠征隊に司令官を任命された時にはその司令官に訓告された・・・」(ハディース)
 戦事省は軍事に関わる万事、軍隊、兵站、兵器、軍事物資、武装など、及び、国防大学、軍事、使節団、必要なイスラーム教養、軍隊の一般教養、戦争と兵站に関わることを管掌する。敵性不信仰者たちの間にスパイを放つことも戦事省の権限に含まれ、そのための部局は戦事省に併設される。その典拠は使徒の前例から知られる。
 これらは全て戦事省が管掌し、統括する。その名称は戦争と戦闘に関連している。戦争は軍を必要とし、軍はその兵站、司令、参謀から仕官と兵卒に至る組織化を要する。そして軍の組織化は装備と肉体的訓練、そして進歩に見合った様々な兵器の操縦法を含む兵術的訓練を必要とする。それゆえ戦術、軍事教練は戦争の必要事項の一つであり、兵術と兵器操縦の訓練も戦争の要件の一つなのである。 
 アッラーはムスリムに、イスラームのメッセージを全世界に広める使命の担い手たる名誉を授け、それを担う方法が宣教(dawah)とジハードであると定められ、ジハードを彼らに課された義務とされ、軍事訓練をも義務とされた。
 15歳になった男性ムスリム全員にジハードに備えて軍事訓練が課される。一方、徴兵は連帯義務である。
 軍事訓練の典拠は至高者の御言葉「試練が無くなり、宗教が全てアッラーに帰属するようになるまで、彼らと戦え」(2章193節)
とアブー・ダーウードがアナス経由で伝えるアッラーの使徒の言葉「多神教徒たちとお前たちの財産と身体と舌でジハードを戦いなさい」である。今日の戦闘は聖法によって求められている敵の支配、国々の解放が実現する形でそれが遂行されるためには軍事訓練が必要なのである。それゆえ「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則に則り、ジハードが義務であるのと同じく軍事訓練も義務なのである。なぜなら「戦え」は包括的であり、戦闘を命じていると同時に、戦闘を可能とすることをも命じているので、戦闘の要求はそれ(軍事訓練)も含んでいるからである。それよりも、至高者は「彼らに対してお前たちのできる限りの武力と軍馬を備えよ」(8章60節)と言われているが、訓練と高度な軍事経験こそ、「武力を備えること」なのである。なぜなら戦闘が可能になるにはそれが不可欠であるからであり、それ(軍事訓練)も武器や軍事物資のように「武力」に数えられるものの一部だからである。
 徴兵とは、人々に武装を施し恒久的に軍の兵士に編入することである。つまりそれはジハードが要する条件を満たしてジハードを実際に遂行するジハード戦士の創出であり、それは義務なのである。なぜなら、実際に敵襲があるか否かにかかわらず、ジハードの遂行は、恒久的継続的義務だからである。それゆえ徴兵はジハードの規定に含まれる義務なのである。
 15歳との年齢制限は以下のハディースである。
「イブン・ウマルが私(ナーフィウ)に言った。『ウフドの戦いの日、14歳だった私はアッラーの使徒に出征を申し出たが許可されなかった。塹壕の戦いの日、15歳になった私が出征を申し出たところ許可された。』
私(ナーフィウ)はウマイヤ朝カリフウマル・ブン・アブドルアズィーズを訪れ、彼にこのハディースを伝えた。すると彼は『まことにそれは子供と大人の境界である』と言い、臣下の区長たちに、15歳以上のものを徴兵するように書き送った。」」
 つまり彼らに軍の登記から兵士の給料を算定するように区長らに命じたのである。
 我々もこれを採用しており、15歳に達した者には軍事訓練が課されるのである。

軍の分類
 軍は2種類に分かれる。
第一は予備役であり、それは武器を取れる全てのムスリムである。
第二は常備軍で、彼らには公務員と同じく、国家予算から特定の給料が支給される。
 これはジハードが義務であることの帰結である。全てのムスリムにジハードが課されており、その訓練も課されているので、全てのムスリムは予備役となる。ジハードは彼らの義務だからである。彼らの一部を常備軍とすることの典拠は、「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則である。恒久的にジハードを行い、イスラームの土地とムスリムの財産を不信仰者から守ることは、常備軍がなければできないからである。それゆえイマームには常備軍の創設が義務付けられるのである。
 この常備軍に公務員と同じく給料を支払うことについては、非ムスリムについては自明である。なぜなら不信仰者はジハードが求められていないが、申し出れば受け入れられるのであり、その場合に給料を与える典拠は以下のハディースである。
「預言者は彼と共に戦ったユダヤ教徒の一団に(戦利品を)分配された」
「サフワーン・ブン・ウマイヤは預言者と共にフナインの戦いに参戦したが、その時まだ多神教徒だった。しかし預言者は彼にフナインの戦いの戦利品を『懐柔された者』と共に彼にも分配された。」 である。
 またこのハディースに基づき、不信仰者がイスラーム軍に入ること、そしてイスラーム軍に入ったことで彼に給料を与えることが許される。また用益(manfaah)に対する代償との契約との賃契約の定義が、賃契約は雇用者が被雇用者から用益を完済させられるあらゆる用益に対して許されていることを示しているが、軍役と戦闘は用益の一種なので、軍役と用益に対してある者と賃契約を結ぶ(雇用する)ことは許されるのである。あらゆる用益に対して賃契約が成立するとの一般的根拠が、不信仰者との軍役と戦闘に対する賃契約の合法性の根拠となるのである。
 以上が非ムスリムへの給与の支払いの合法性の根拠であったが、ムスリムに関しても、ジハードが崇神行為(ibdah)であったとしても、ムスリムと軍役と戦闘に対して賃契約を結ぶことは、賃契約の合法性の一般的根拠により許されており、また崇神行為の遂行に対する賃契約がその用益が(崇神行為の)実行者以外に及ぶ場合には許されているためやはり許されている。その典拠は、「お前たちが賃金を得るのに最も相応しいものはクルアーンである」とのハディースである。
それゆえムスリムがクルアーンの教授、礼拝の先導、礼拝の呼びかけ等の崇神行為に対して賃契約を結ぶことが合法なのと同じく、軍役と戦闘に対して賃契約を結ぶことも合法なのである。これらは全てその用益が行為者以外にも及ぶ崇神行為だからである。ジハードが義務である当人のムスリムとのジハードに対して賃契約を結ぶことの許可についてはハディースの中にその明白な典拠がある。
「戦士には報償があり、賞金を払う者には、彼自身の報償と、戦士への報償がある」(ハディース)
このハディースは自分の代わり戦ってもらうことで、他人に賃金を払う、つまり戦いのために人を雇用することの許可を示している。
「私の共同体の中で、戦って懸賞を得て、敵を撃退する者は、我が子に授乳して報酬を貰ったムーサーの母のようなものである」(ハディース)
ここでの報酬(ajr)は賃金(ujrah)の意味である。という訳で、兵隊に公務員のように給与を懸賞とするのである。
 ムスリム軍は、たとえ給料を貰っていたとしても、彼らがジハードを行ったことによってアッラーの御許で報償があるのである。それは前述のアル=ブハーリーの伝えるクルアーンを教えることで、それが敬神行為であるにもかかわらず賃金を得ても良い、つまりクルアーンを教えるとの意図に応じてアッラーの御許で報償があることを示すハディースによるのである。
 イスラーム軍は複数の軍団から構成される統一軍である。これらの軍団のどの軍にも番号がつけられ、例えば、第1軍団、第3軍団のように呼ばれるか、地域や地方の名前にちなんで、例えばシリア軍団、エジプト軍団、サンアーゥ軍団などと呼ばれる。
イスラーム軍は特設の軍営に配属される。どの軍営にも、一軍団であれ、軍団の一部であれ、あるいは複数の軍団であれ、兵士の集団が配属される。ただしこれらの軍営は複数の地域に置かれなければならない。一部は軍事基地の中に置かれ、一部は常に移動する移動キャンプとされ、攻撃軍となる。どの軍営もアル=ハバーニヤ軍営などの固有名をつけられ、固有の軍旗を持つ。
こうした手続きは、軍団の名前を地域に因んで命名するか、固有の番号で呼ぶか等の、カリフの意見と判断(イジュティハード)に任され許可事項であるか、国防のために国境に軍団を配置したり、戦略的に重要な地の軍営に軍を配置する等、国防のために必要なことのように「それなしに義務が履行できないこと」の範疇に入るかのいずれかである。
ウマル・ブン・アル=ハッターブは軍営を地域ごとに分け、パレスチナに一兵団(failaq)、モスルに一兵団、そして国家の中枢部に一兵団を置き、自分の手許の難攻の地に指令待ちの臨戦態勢の一群団を置いていたのである。

カリフこそが軍の総帥
カリフが軍の総帥であり、カリフが参謀総長を任命し、カリフが師団長、旅団長を任命する。それ以下の将官に関しては師団長、旅団長が任命する。参謀に関しては、その戦事教養のレベルに応じて参謀長が任命する。
それはカリフ職とは、聖法の諸規定を施行し、世界に宣教を弘布する世界のムスリム全ての総首座であるが、世界に宣教を広める方法の基本はジハードなので、カリフ自身がジハードを管掌しなくてはならないのである。なぜならカリフ就位契約はカリフ個人に対して結ばれるので、他者がその代わりを務めることは許されないからである。それゆえジハードの諸事項の管掌はカリフの大権である、他者がそれを行うことは許されない。たとえジハードは全てのムスリムが行うべきことであったとしても、ジハードを自ら行うことと、ジハードを指揮することは別である。ジハードは全てのムスリムの義務であるが、ジハードの総指揮はカリフのみの大権なのである。
カリフが自分の行うべきことを自分に代わって実行してくれる者に代行を委任することは、カリフがそれを照覧し監督しているという条件では許されるが、カリフの照覧も監督もなく代行者が独立するような無条件な代行委任は許されない。ここで言う「照覧(iil)」とはカリフ補佐の「上申(mulaah)」の類とは違う。ここでの「カリフの照覧」とはカリフの代行の行為がカリフによる彼の監督の下、統括下にあることである。カリフの監督と照覧の条件の下でのみ、カリフは軍の指揮を望む者に委ねることが許される。しかし彼の照覧がない名ばかりの形式であれば許されない。なぜならカリフ就位契約はカリフ個人に対して他締結されるので、彼自身がジハードの諸事を管掌しなければならないのである。
それゆえイスラーム以外の政治体制で、国家元首が軍の最高司令官である、と言われながら、形式上だけ最高司令官とされ、実際には軍を牛耳る別の司令官の任命が行われているのは、イスラーム的見地からは無効である。それは聖法の認めない議論である。そうではなく、聖法は軍の実際の司令官がカリフであることを義務付けている。但し総指揮(qiydah)以外の戦術的、行政的事項に関しては、総指揮とは異なり、カリフは実際に監督下に置く必要なく代行者を任命することが許される。
使徒は自ら実際の軍の指揮を執られたのである。彼は戦闘の指揮も執られる一方で、自分が参加しない遠征隊の司令官を任命され、マウタの戦いでのことのように、時には司令官が戦死した場合に備えて司令官の後任まで任命されたていたのである。アル=ブハーリーはアブドゥッラー・ブン・ウマルが「アッラーの使徒はマウタの戦いでザイド・ブン・ハーリサを司令官に任命した。そしてアッラーの使徒は『ザイドが殺されればジャアファル、彼も殺されるなら、アブドッラー・ブン・ラワーハ』と言われた」と伝えている。カリフこそが、軍司令官の任命者であり、彼が師団長を任命し、彼らに軍旗を授け、旅団の司令官を任命するのである。マウタの戦いの軍団や、ウサーマの軍団のようにシリアに派遣された軍団は、ウサーマが軍旗を授けたことから分かる通り師団であり、マッカの周辺に派遣されたサアド・ブン・アビー・アル=ワッカースの遠征隊のようなアラビア半島の中で出征し帰還していた遠征隊は、旅団に相当する。そしてそれらの事跡は、師団の司令官、旅団の指揮官はカリフが任命していたことを示している。一方、軍団の司令官、遠征隊の指揮官以下の人事については、使徒が任命されたとの記録はなく、それは使徒が戦闘におけるその任命を上官たちに任せられていたことを示している。他方、参謀総長は戦術面の責任者であり、軍の指揮官と同様にカリフに任命されるが、カリフの命令下にはあっても、カリフの直接の監督下に置かれることなくその任務を遂行するのである。

第6章.治安
 治安はその長は内務省長官(mudr dirah amn dkhil)を長とする内務省が司る。この省は各地域に地域警察長官を長とする支部を置くが、地域警察長官は行政上は内務省に属するが、執行においては地域総督の下におかれる。その組織は法令によって定められる。
内務省は治安に関わるあらゆる事項を管掌する省であり、警察を通じて国内の治安の維持を司り、警察が治安維持の主要な手段である。内務省は任意のいかなる時にも如何様にも警察を使用する権限を有し、その命令は即座に執行される。軍の協力が必要な場合は、内務省は問題をカリフに上奏しなくてはならず、カリフは軍に内務省への協力、あるいは治安の維持のために内務省への兵士派遣による助勢、あるいは適切とみなす別の何事であれ命じることができ、また求めを拒絶し、警察のみで処理するよう命ずることもできる。
警察は、カリフ国家に服属する成人男性から構成されるが、女性も内務省の任務に関わる女性の需要を満たすために警察に加わることが許される。聖法に則りこの目的を達するための法令が発布される。
警察には、憲兵(軍警察)と、統治者に従属する警察である。警察は制服と治安維持のために目を引く徽章を付ける。
 アル=アズハリー(アラビア語辞書Tahdb al-Lughahの著者、 980年没)は、「shurah(警察)とは、全ての選良を指し、shura(警察官)もその一つである。なぜならそれ(shura)は軍の中の選良だからである。それは軍の中の最前列とも言われ、また彼らはその制服と装備で人目を引くのでshura(警察)と呼ばれる、とも言われる。」これはアル=アスマイー(アラビア語学者、831年没)の説でもある。また『辞典(al-Qms)』には「『警察(shurah)』は集合名詞『警察官(shura)』の単数形であり、殉教を覚悟した最前線の小隊、地方総督の手勢の集団であり、その構成員は、turk(トルコ人)、juhan(ジュハイ族)と同じ音韻でshur(警官)と呼ばれる。人目を引く印で自分たちを目立たせることから、『警察(shurah)』と呼ばれる。」とある。
憲兵とは軍の規律維持のために軍を先導する徽章を有する軍の小隊である。それはジハードの司令官の指揮下にある、つまり戦事省の指揮下の軍属である。一方、統治者に属する警察は、内務省の指揮下にある。アル=ブハーリーはアナスから「カイス・ブン・サアドの預言者にとの関係は、王侯と警察長官のようであった。」と伝えている。
カリフは、国内治安を維持する警察の全機構を軍の一部とする、つまり戦事省の指揮下におくことも許され、独立の省庁とする、つまり内務省の所管とすることも許されるが、我々はこの部門、つまり治安維持のために統治者に属する警察が軍から独立し、他の国家機関と同様にカリフに直属する独立の機関として内務省の指揮下に置かれることを選ぶ。それは前述のカイス・ブン・サアドのハディースにも即応しており、またジハードに関わる4つの省庁(戦事省、内務省、工業省、外務省)が互いに独立し、各個がカリフに直属することにし、全体で一つの機関とはしないこと(戦事省に統合しない)を選択したのと同様である。このような次第で警察は内務省に属することになるのである。

内務省の諸任務
 内務省の仕事は国内の治安の維持である。国内の治安を脅かす様々な物事がある。それには、イスラームからの背教、国家に対する反逆がある。国家への反逆には、ストライキや国家の重要施設を占拠し立て籠もり、私有財産、公有財産、国有財産を侵害するような破壊活動と、武装蜂起による反乱がある。
 また財物を奪うために人々を襲い殺める盗賊、強盗も国内の治安を脅かす。同様に窃盗、置き引き、ひったくりなどの財物への侵害、暴行、傷害、殺人など人身への侵害、誹謗中傷、誣告、姦通など名誉の侵害も国内の治安への脅威である。
 また疑わしい人物をマークし、共同体(ウンマ)と国家に対するその危害を防ぐことも内務省の任務である。
 以上が、国内の治安を脅かす主要な事項であり、内務省はこうした全ての脅威から国家と人民を護るのである。それゆえ背教者は悔悟を求めても撤回しなければ死刑判決を受けるが、処刑執行は内務省が行う。背教が集団であった場合は、イスラームに帰順するように通信連絡し、悔悟、帰順し、聖法の規定に従うなら、過去は問わず免罪されるが、あくまでも背教に固執するなら討伐される。もし小集団で警察だけで討伐が可能なら、警察が彼らを討伐するが、もし大集団で警察が鎮圧できないようなら、警察はカリフに兵士による助勢を要請しなくてはならない。また兵士でも十分でなければカリフに軍隊の出動による救援を要請しなくてはならない。
 以上は、背教者についてであったが、叛徒に対しては、彼らの反逆が武装闘争に至らず、ストライキ、デモや国家の重要施設を占拠し立て籠もり、私有財産、公有財産、国有財産を侵害、毀損するような破壊活動に留まっているなら、内務省は、これらの破壊活動の鎮圧のために警察力を用いるだけで足りる。しかし警察が鎮圧できないようなら、これらの国家に対する叛徒が行う破壊活動の鎮圧のためにカリフに兵士の助勢を求める。
 国家への叛徒が武装し軍営を敷き、内務省が警察だけで彼らを帰順させ、蜂起と反乱を鎮圧させることができないなら、叛徒と戦うために必要に応じて、兵士か軍隊による警察への助勢をカリフに要請する。叛徒を討伐する前に彼らと話し合い、彼らの言い分を聞き、彼らに帰順、団結への復帰、武装解除を求め、それで叛徒が応えて悔い改め、帰順し、聖法の規定に従うなら、彼らを放免する。しかし帰順を拒み、あくまで反抗と戦闘に固執するようなら、イマーム・アリーがハワーリジュ派と戦ったように、殲滅と殺戮のためではなく懲戒のために、彼らが帰順し、反乱を止め、武器を捨てるまで彼らと戦う。彼らには先ず帰順を呼びかけ、それに応えれば放免するが、あくまでも反抗を続けるなら、彼らが帰順し、反乱を止め、武器を捨てるように、懲戒のために彼らと戦うのである。
 盗賊とは強盗団であり、人々を襲い、道行く人を脅かし、財物を奪い、人を殺める徒党であり、内務省は彼らの逮捕のために警察を遣わし、「アッラーと彼の使徒と戦い、地上で害悪をなして回る者の報いは、殺されるか、磔にされるか、手足を互い違いに切断されるか、土地から追放されるかにほかならない。」(クルアーン5章33節)との聖句が定める通りに、処刑と十字架、あるいは処刑、あるいは手足の交互切断、あるいは国外追放の刑罰を科す。
 これらの輩との戦闘は国家に反逆する叛徒との戦闘とは違う。叛徒との戦闘は懲戒の戦いであったが、強盗との戦闘は処刑と磔刑のための戦闘であり、向かってくる者も逃げる者も襲われ、聖句に記された通りに処されるのである。つまり強盗の中で殺して金品を奪った者は処刑された上で死体を十字架に晒され、殺しただけで盗みはしなかった者は処刑されるが死体は十字架には晒されず、金品を奪っただけで殺人は犯さなかった者は手足を交互に切断されるが処刑はされず、武器をみせつけ人々を脅したが盗みも殺しもしなかった者は処刑されず、十字架にもつけられず、手足を交互に切断されることもなく、(カリフ)国家の内部ではあるが居住地から遠く離れた土地に追放されるのである。
 内務省は治安の維持のために警察のみを用い、警察以外の手を借りない。但し、警察が治安を護ることができない場合に限って、必要に応じて、カリフに別の兵士か、軍隊の女性を要請する。
 窃盗、置き引き、ひったくりなどの財物への侵害、暴行、傷害、殺人など人身への侵害、誹謗中傷、誣告、姦通など名誉の侵害については、内務省は、警戒、護衛、巡回によってその防止に努め、更に身体、財産、名誉への侵害者への司法の判決を執行する。これらは全て警察力以外を要しない。
 預言者がカイス・ブン・サアドを自らの側近の(baina-yadai-hi)警察長官の地位につけられたとのアナスの伝える前出のハディースに基づき、警察には体制の維持、治安の監督、そのための執行面での全ての行為がゆだねられている。なぜならこのハディースは警察が統治者たちの側近であることを示しているが、統治者の側近であるとは、統治者が必要とする聖法の施行、体制の護持、治安の維持のための執行のマンパワーを警察が提供するということである。また警察は夜の巡回、盗人の追跡、極道や悪党の捜査も行う。かつてアブドッラー・ブン・マスウードはアブー・バクルの治世に夜警隊の司令官であった。ウマル・ブン・アル=ハッターブは(カリフでありながら)自ら夜警も兼務した。彼には彼の解放奴隷が同行し、おそらくアブドッラフマーン・ブン・アウフも同行することがあった。それゆえ今日、イスラームの地の一部で、小店主たちが自警団を組織して夜回りをしたり、小店主たちの費用負担で国家が治安業務を行っているのは誤りなのである。なぜならそれは夜警の任務に含まれ、国家の義務、警察の任務の一つであり、人々は責任を負わず、費用負担を求められるべきではないからである。
「疑わしい人物(ahl raib)」とは、国家と社会、ひいては個々人の存在への危害を及ぼす恐れのある者であり、疑わしい人物の取り扱いは、このような嫌疑は国家が監視すべきであり、その疑わしい行動を目撃した者はそれを通報すべきである。その典拠は以下のハディース である。
「私(ザイド)が戦士たちの中にいた時、アブドッラー・ブン・ウバイイが『アッラーの使徒の許にいる者たちに施すな。そうすれば彼らは彼の周りから離れていくだろう。もし我々がマディーナに戻れば、下賎な者たちが貴族を追い出すだろう。』と言っているのを耳にしました。私はそれを父方の伯父に(あるテキストではウマルに)話しました。そこで彼(ザイドの伯父かウマル)がそれを預言者に話したので、預言者は私を呼び出され、私は彼にそれを話しました。(ムスリムのテキストでは「私は預言者を訪れ、彼にそれを伝えました」)」
イブン・ウバイイは敵方の不信仰者との交際で知られており、また敵方の不信仰者たちと同様にマディーナの周辺のユダヤ教徒やイスラームの敵たちとの関係も周知であった。それゆえここでは「詮索をするな」(49章12節)との至高者の御言葉で禁じられている人民への詮索と混同しないように、細心の注意を払ってこの問題を扱わなければならない。それゆえここでは、疑わしい人物の場合に限定しているのである。
 「疑わしい人物」とは、実際に交戦状態にあるか、あるいはイスラーム国際法上交戦状態にある敵の不信仰者と交際があると判断される者である。
 なぜなら戦時の政治とムスリムへの加害の阻止のためには、それについて述べたクルアーンとスンナの明文の典拠によっても、それは全ての戦争における敵を含んでいるので、敵方の不信仰者に対する諜報活動は許されているからである。実際に交戦状態にある敵(との交際のある者)については、国家の(諜報)義務は自明であろう。イスラーム国際法上交戦状態にある敵(との交際のある者)についても許されるのは、彼らとは何時でも交戦状態になりうるからである。
 それゆえ臣民(ray)の誰であれ、敵方の不信仰者と交際のある者は皆、合法的な諜報活動の対象となる者、つまり敵方の不信仰者との交流により、嫌疑がかけられるのである。
 詳細は以下の通りである。
1. 実際に交戦状態にある敵については、諜報が国家の義務である。上で述べたことに加えて「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則がそれを確証する。なぜなら敵の兵力、作戦、目標、戦略拠点などを知ることは敵に勝利するために不可欠な事柄であるので、戦事省が管掌するが、それには敵方の不信仰者と実際に交流のある(カリフ国家の)臣民(ray)も含まれる。なぜならば交戦関係にある以上、(カリフ国家の)臣民には敵方とは通常の交流は現実には存在しないのが基本だからである。
2.イスラーム国際法上交戦状態にある敵に対する諜報は許され、彼らが実際に交戦状態にある敵を支援したり、彼らに合流する恐れがある危険時には、国家の義務となる。
イスラーム国際法上交戦状態にある敵には二種類ある。
第一は、イスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者で、彼らの国に居住している者たちである。彼らに対する諜報活動は戦事省が管掌する。
第二は、イスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者で、外交使節や協定国民等として我々の国(カリフ国家)に入国している者である。彼らに対する監視と諜報は内務省が管掌する。
 我々の国(カリフ国家)に滞在するイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちと交流のある(カリフ国家の)臣民に対する監視と諜報は内務省が管掌し、彼らの国(敵国)にいるイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちと交流のある(カリフ国家の)臣民に対する監視と諜報は戦事省が管掌するが、それには以下の二つの条件がある。
第1条件:イスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちに対する戦事省と内務省の監視の結果として、国内であれ国外であれ、その(カリフ国家の嫌疑をかけられた)臣民のそれらの不信仰者との交流が、尋常でなく目を引くものであれば、それを公表すること。
第2条件:戦事省と内務省が諜報活動で把握した事実を風紀裁判官(q isbah)に提出すること。風紀裁判官はこの報告を基にその交流がイスラームとムスリムに有害か否かを判断する。
もしこのように行われるなら、我々の国(カリフ国家)に滞在するイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちと交流のあるこの種の臣民に対する内務省による諜報、彼らの国(敵国)にいるイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちと交流のある臣民の個々人に対する戦事省による諜報は許される。上述のそれぞれに該当する典拠は以下の通りである。
(1)「詮索をするな」(49章12節)とのクルアーンの節の明文により、ムスリムに対する諜報は禁じられている。これは諜報活動に対する一般的な禁止であり、それを特定する典拠がない限り、その一般的(禁止の)表意が有効である。
「アッラーの使徒は『為政者(amr)が人々を疑うと、彼らを堕落させる』と言われた」とのハディース も、これ(諜報の禁止)を確証している。それゆえムスリムに対する諜報活動は禁じられている。そして同じ規定が(カリフ)国家の自国民(rayah)である庇護民にも適用される。ムスリムであれ、非ムスリムであれ、自国民(rayah)に対する諜報は禁じられているのである。
(2)実際に交戦状態にある敵の不信仰者、あるいは外交使節のような協定国民や安全保障取得者として我々の国(カリフ国家)に入国しているイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者、あるいは彼らの国(敵国)にいるイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者に対する諜報は、全て許されているばかりか、実際に交戦状態にある敵の不信仰者に対しては義務であり、イスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者に対しても危険がある場合は義務なのである。
その典拠は、以下の『預言者伝』の記述の中に明らかである。
「使徒は手紙を書き、アブドッラー・ブン・ジャフシュに2日間行軍するまでその中身を読まないように命じられた。アブドッラー・ブン・ジャフシュは2日間行軍したところでアッラーの使徒の手紙を開封し、内容を読んだところ、そこには『お前がこの手紙を読んだら、マッカとターイフの間のナフラまで進み、そこでクライシュ族を待ち伏せし、我々のために彼らの情報を集めよ』と書かれていた。」
「アッラーの使徒とアブー・バクルはラクダに乗っていたが、アラブ遊牧民の老人の許で泊まり、彼にクライシュ族と、ムハンマド、そしてその弟子たちについて、また彼らについて伝え聞いていることについて尋ねられた。するとその老人は、『あなた方二人がどこから来たのかを明かさない限りあなた方には話しません』と答えた。そこでアッラーの使徒は言われた。『あなたが私たちに話してくれれば、私たちも話しましょう』それで老人が『話せば話す、ということですか』と言うと、使徒は『その通りです』と答えられた。そこで老人は『クライシュ族は何日と何日に出発したと伝え聞いている。もし私に語った者が本当のことを言ったのなら、彼らは今日、某所、某所にいるはずです。クライシュ族がいるところです。』と言った。老人は話し終えると『あなたがたはどこから来たのか』と尋ねた。そこでアッラーの使徒は『我々は「水」から来た』と答えて、その老人の許を立ち去った。その老人は、『水から、イラクの水からか』と言った、と言う。
 それからアッラーの使徒は弟子たちの許に戻られ、夜になると、アリー・ブン・アビー・ターリブ、アル=ズバイル・ブン・アルアワーム、サアド・ブン・アビー・ワッカースを弟子の一団と共にバドルの水場に派遣し、その情報を収集させた。つまりクライシュ族にスパイを送ったのである。」
これらは実際に戦っていた敵であるクライシュ族に対しての(諜報の義務の)典拠であるが、イスラーム国際法上交戦状態にある敵に対しても、交戦が予期されるので、同様に適用される。違いはただ、交戦状態にある敵に対しては、敵に勝つために戦時政策が諜報を必要とするので義務になるのに対し、イスラーム国際法上交戦状態にある敵については彼らとの交戦が予期されるだけなので許されている(義務ではない)ことだけである。そして危険があるなら、つまり彼らが実際に交戦状態にある敵を支援したり、彼らに合流する恐れがある時には、同じく国家の義務となるのである。
このように敵の不信仰者に対する諜報はムスリムに許されており、(カリフ)国家には諜報活動が義務となる。その典拠は、先に挙げたアッラーの使徒のその実践の命令であるが、それはまた「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則にも該当するのである。
 ムスリムであれ庇護民であれ、自国民(rayah)の誰かが、実際に交戦状態にあるのであれイスラーム国際法上交戦状態にあるのであれイスラーム敵の不信仰者と、我々の国(カリフ国家)においてであれ、彼らの国(敵国)においてであれ、交流するなら、その者は「疑わしい人物」であり、彼らに対しては諜報と情報収集が許される。なぜならば彼らは諜報を許される者たちと交流しているからであり、もし彼らが不信仰者のスパイであれば、(カリフ)国家に害を及ぼす恐れがあるからである。
しかし諜報が許されるこれらの一部の自国民に対する場合でさえ、既述の二つの条件が満たされる必要があるのである。
戦事省は実際に交戦状態にある敵と交流のある自国民及び、不信仰者の国でイスラーム国際法上の交戦状態にある敵の異教徒の責任者や代表者と交流のある自国民に対する諜報を管掌し、内務省は我々の国(カリフ国家)に住んでいるイスラーム国際法上の交戦状態にある敵の異教徒の責任者や代表者と交流のある自国民に対する諜報を管掌する。

第7章.外交
 外務省は、カリフ国家と外国との関係にかかわる事項を、いかなる関係、いかなる事項であろうとも全て管掌する。それには政治の領域と、その一部である協定、和議、休戦、外交交渉、大使の交換、使節や代表の派遣、大使館や領事館の建設、あるいは経済、農業、商業、郵便、電話、無線通信などの諸分野も含まれる。これらの事項は全て(カリフ)国家と外国の関係に関わるので、外務省が管掌するのである。
 執行大臣についての研究の中で既に論じた通り、かつては使徒は、国家やそれ以外の集団との外交関係を自ら司られていた。彼はクライシュ族との交渉のためにウスマーン・ブン・アッファーンを遣わされたが、彼自身がクライシュ族の使節を交渉されることもあった。また彼は諸国の王たちに使節を使わされると同時に、自ら王侯の使節を接見され、また協定や和議を自ら締結された。
 同様に使徒の跡を継いだ正統カリフたちも彼ら自身で諸国や諸集団らの他国人らとの外交を執り行った。また彼らはそれらの任務において自分たちの代行者を任命することもあった。それは、自分自身ができることは他者をその代理に指名することも、その代行を任せることも許されているからである。
 国際政治の複雑化と外交関係の拡大と多様化に鑑みて、我々はカリフが外交に特化した国家機関に代行を委ねることを選ぶ。カリフは、国家の他の統治と行政の諸機関と同じように、それ(外務省)を自分自身で、あるいは執行大臣を介して、聖法の該当する諸規定に則って、統括するのである。

第8章.工業
 工業省は重工業であれ、軽工業であれ、工業に関わる万事を管掌する。重工業には発動機関、機械工業や建設業、材料生産業、電子工業などが含まれる。また工場の中でも公有財産である工場や私有財産であっても軍需産業と関わる工場も同様に含まれる。様々な工場は、軍事政策に基づいて建設されなくてはならない。なぜならばジハード、戦闘は軍を必要とするが、軍が戦うためには武器が要り、軍が最高水準の武器を十分に揃えるには国内産業、特にジハードと深い関係がある軍需産業が必要だからである。
 国家が他国の影響を受けることなく独自の政策運営ができるためには、自国内で武器の製造、改良が可能である必要があり、それによって初めて自分自身の主人となり、どんなに武器が進歩し改良されても、最新最強の武器を保有し、必要とするあらゆる武器を使用することができるようになるのである。そしてそれは至高者が「彼らに対してお前たちのできる限りの武力と軍馬を備え、アッラーの敵と汝らの敵、そしてお前たちは知らないがアッラーがご存知のそれ以外の他の者たちを恐れさせよ」(8章60節)と言われているように、顕在的な敵と潜在的な敵とを共に恐れさせるためなのである。それによって国家は自らの意思を有することができ、必要な武器を製造し、改良し、最高最強の武器の所有が可能なまでに改良を継続させることができ、現実に顕在的な敵と潜在的な敵とを共に恐れさせることができるようになるのである。それゆえ国家は自国内で武器を製造しなくてはならず、他国からの購入に依存することは許されないのである。なぜならそれはその(武器を買い付けている)外国に、カリフ国家と、その国家意思、軍備、戦争、戦闘を支配させることになるからである。
 今日の世界において、武器輸出国が全ての武器を輸出しているわけではないこと、特に最新の武器はそうでないこと、使用法の特定を含む付帯条件なしには売却しないこと、また購入を希望する国の需要によるのではなく売却する国が考える特定の数しか売却しないことは、誰もが見て知っていることである。それは武器輸出国に武器輸入国への支配力と影響力を与え、自国の意思を押し付けることを可能にさせるのである。特に武器輸出国が戦争をしている場合はそうである。なぜならその場合、ますます多くの武器、代替部品、弾薬を必要とするようになり、武器輸出国に自己と、その意思、戦争、体制を質入することになるのである。
それゆえ国家は自前で武器と戦争に必要な道具、代替部品を製造しなくてはならない。そしてそのためには国家は重工業を興し、軍事物資であれそれ以外であれ重工業品を製造する工場を造らねばならない。また様々な核兵器、宇宙船の製造、ロケット、人工衛星、飛行機、戦車、大砲、戦艦、装甲車、様々な重火器、軽火器の製造が可能な工場、工具、発動機、資材、電子工業の工場も持たねばならない。また公有財と関わる工場、軍需産業と関わる軽工業の工場も必要である。
至高者は言われる。「彼らに対してお前たちのできる限りの武力を備えよ・・・」(8章60節)これらは全てムスリムに課された軍備の義務の要請なのである。
 イスラーム国家は、伝道とジハードによるイスラームの宣教を実施する国家である以上、ジハードの遂行に常に備えのある国家でなくてはならない。そのためには、戦時政策に基づく重工業、軽工業が国内に存在し、様々な軍需産業への転用が必要となった時には、いつでも望む時点で簡単に転用できなくてはならないのである。それゆえカリフ国家においては、重工業であれ、軽工業であれ、工業は全て戦時政策に立脚して建造されなくてはならない。こうした政策がありさえすれば、国家が必要とする時に何時でもそれを軍需産業に容易に転用することができるのである。