2016年5月11日水曜日

イスラーム地域研究と観察問題

 記述科学としての地域研究は「あるべきムスリム」ではなく、現実のムスリムの実際の姿を客観的に記述することを目指す。
 それは正しいが、言語認識の規範性の意識に欠ける地域研究者は、方法論敵個人主義があくまでも一つの規範的概念措定の様式の一つでしかないことに無自覚に、「現実のムスリムの実際の姿」なるものが研究者による規範的な概念措定を抜きに外界に実在するとのナイーブに思い込みがちである。
 物質としての人間は不断に構成する粒子が入れ替わっており、数ヶ月で完全に別の存在になると言われる。にもかかわらず、時間軸の中で変化する人間を同一の人間とみなすことができるのは、要素としての物質の同一性によるのではなく、それらを纏め上げるパターン、ある種の「あるべきイデア」の存在を規範的に措定しているからである。目に見え触れることが出来る肉体ですらそうであるなら、五感によって知覚することのできない、「人格」、「思想」などというものは、尚更である。ある人間が定常的な人格、思想を有する、との考えは、人文社会科学においてのみならず、日常生活においても、極めて大雑把な意味においては古今東西を問わずありふれた考え方であろう。
しかし、厳格に論ずるなら、人が統合された固定的な人格、思想を有する、との考えは、「近代的自我の確立」を人間の正常な発展段階と考えた近代西欧の考え方である。前近代、非西欧世界においてはむしろ、人間とは、悪魔や天使、それに我々が「自我」と呼ぶようなものも含めた様々なモノ、あるいは力がせめぎ合う「場」であり、我々が「その人の人格の持つ思想の表現」と考えるものも、その時々にその「場」を制したモノ、力の意志の発現と考えられてきた。勿論、それは天使や悪魔といったそれらの様々なモノ、力のそれぞれにも同様に言えることであり、「人間」も含めて、全ての「人格」は、外部と内部の境界が固定しており外部から独立した強固に統合された定常的な「個体」ではなく、さまざまなモノ、力、人格の相互作用の「場」である。「個人の人格」とは、その「場」にボンヤリと漂う霧のような不定型で曖昧な存在なのである。
つまり、方法論敵個人主義が措定するような、一人でいる個人の独立の人格がもつ固有の思想、などというものはなく、誰であれ人の「人格」は、周囲のモノ(者、物)との相互作用の中でしか存在せず、その思想も同様に、相互作用の表出でしかないのである。
これは、特にインタビューやアンケートを使用する社会科学で問題となる。自然科学においてすら、量子力学は、観測が観測対象に影響を与えるために、観測による対象の状態を完全に客観的に正確に認識、記述することが原理的に不可能であることを明らかにしたが(不確定性原理)、社会科学においては「観測」の影響はより明らかである。アンケートやインタビューは、対象に、それまで存在しなかった問題とその答えを作り出しながら、それを対象の思想として観測し記述する。
シュレジンガーの猫が観測によって生きるか死ぬかいずれか一つに決定されるように、たとえばカリフ制再興についてそれまで一度も考えたことがなかった者も、カリフ制再興に賛成か、反対か、という質問を受けることによって、賛成者か反対者のどちらかに選り分けられる。また、人間とは相互作用の場である、という人間観に立てば、イスラーム地域研究の観測問題の更に別の一面も明らかになる。というのは、人間が相互作用の場であるなら、イスラーム地域研究者のアンケートやインタビューに答える時、回答者は、単に研究者のアンケートやインタビューに応じてそれがなかった場合にはなかった新しい反応をしただけではなく、ある国家、民族、宗教、言語、文化、階層的背景を背負った質問者と相互作用を行なった回答者は、それ以前とは別の人間に変容した、と考えなければならないからである。
この問題は、別の文化背景を担ったイスラーム地域研究者との相互作用では殊更顕著に顕れるとはいえ、当該地域内のムスリム社会の日常生活においても存在している。平凡なムスリムであれば、有徳のイスラーム学者と共に神を崇拝している時と悪友と遊興に耽っている時では、別人となる。初代カリフ・アブー・バクルでさえ、預言者ムハンマドと共にいる時は信仰心が高まった、と伝えられている。イスラームの世界観においては、いかなるものにも影響されることなく常に善を行なう存在が天使、逆にいかなるものにも影響されず常に悪を犯す存在が悪魔であり、人間はその中間にあり、共に居る人間次第で良くも悪くもなると考えられている。篤信、高徳の学者は他人に影響されること少なく常に高い信仰心、正しい判断力を維持できるが、不信仰で品性下劣な者は心が頑なになり預言者の感化すら受け付けなくなる。彼らの「人格」は高度の安定性を有していると言うことが出来る。他方、一般の信徒の「人格」は、共にいる者によって大きく変容する。「朱に交われば赤くなる」、のである、
それゆえイスラーム地域研究者が一般のムスリムを対象にインタビューなどの調査を行なう場合は、観察による対象の変容を考慮に入れなければならないのである。変容の度合いは調査に先立って予想することが出来ないのは勿論、調査後に客観的に計る基準も存在せず、アドホックに処理するしかないにしても。

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