2017年1月1日日曜日

イスラーム国訪問記(2)

イスラーム国訪問記(2)
 2014年3月イスタンブール、ガズィアンテップに所用があり、またシリアに足を伸ばすことにした。主な目的は、ISIS(イラクとシャームのイスラーム国)がアル=ラッカでキリスト教徒に対して改宗か死か、と迫って、イスラームへの改宗を強制し、ジズヤ(人頭税)を課してているとの欧米のメディアの報道の検証だった。
そこで前回、シリアで世話になったトルコとシリアの越境担当司令官のウマル・グラバーゥ師を訪ねたのだが、実はウマル師はISIS潰しのためにサウディアラビアの後押しで作られたイスラーム戦線に支配地を奪われ、家、農地、車など全ての財産を失い着の身着のままでトルコ側に脱出し、アンタキヤの隠れ家に潜伏中だった。
アンタキヤでは、イスラーム系NGOダール・アズィーザの代表の立場で、シリア難民が運営する「フダ-・モデル小学校」を訪ね、日本からの寄付を渡してきた。この希望する子供は誰でも受け入れており、学費が無料なだけでなく、食事と制服も無料で支給される。丁度給食の時間にお邪魔したので見学させてもらったが、食事はパンと牛乳かジュースで、校長が自ら配って回っていたが、400人分の毎日の食事がサウジの一人の篤志家の寄付に依っているらしい。子供たちに将来の夢を聞いたところ、殆どが医者か教師だったが、一人だけムジャーヒド(聖戦士)になりたい、という男の子がいて、校長が慌てて「私たちは武器ではなく知識によってジハード(聖戦)することを教える」と言い繕っていてのが面白かった。
そうこうしているうちにウマル師の紹介でアル=ラッカに入ることになったのだが、「シャンル・ウルファの町にホテルを取れ、そうすればホテルに迎えの者を送る」との彼の言葉を信じてシャンル・ウルファに投宿したが、迎えの者など来ず、ウマル師からもらったエージェントの連絡先に電話すると「自分で国境に来い」と言われる。初めての土地でいきなり、「国境に来い」という大雑把な指示でいったいどうすればいいのか、と思った。なにしろトルコとシリアの国境は約900キロもあるのだ。しかし、いくら聞き返しても、「国境」としか言わないので、仕方ないのでタクシーに乗って、「国境まで」と言うと、慣れているようで、黙って国境の検問所に連れて行かれた。国境に着いても迎えもいないし、屋台のサンドイッチ屋があるだけで何もない。仕方ないので迎えを寄こすよう、エージェントに電話し、ビルの一角の礼拝所で礼拝を済ませ、サンドイッチとお茶を頼み、お茶を飲みながら、迎えを待った。
国境の検問所の前の屋台で、ただでさえ目立つ日本人がぼんやり何時間もお茶を飲んでいれば目立つことこの上ない。セキュリティーも何もあったものではない。屋台でたむろしている人たちに聞いたところ、国境は週に二日だけしか開かないが、今日は生憎閉まっているので明後日出直して来い、という。いったいどうなっているのか。
ようやくエージェントと連絡がつき、「運び屋」の電話番号を教えられるが、アラビア語が分からないトルコ人の運転手なので話が全く通じない。そこでエージェントに電話して「なんとかしてくれ」と頼むと、「誰でもいいのでその辺の人間に携帯を渡して『運び屋』に電話してもらえ」、と言う。本当にセキュリティー感覚のかけらもない話だ。結局、屋台のまわりの人間全員を巻き込み、「ちょうどアル=ラッカに戻ろうと思っていた」と言うISISのムジャーヒディーンを自称し煙草をすぱすぱ吸っているヤンキー風の若者も便乗することになり、「運び屋」に連れられて国境越えに向かうことになった。
国境の検問から小一時間走り、日暮れ前に車を降りて、前もよく見えない叢の中を「運び屋」たち4人で国境に向かう。トルコの国境警備隊が追いかけてきた。威嚇射撃で発砲されても気にせず後も振り向かずひたすら国境を目指し、泥水をはった堀を渡り、傷だらけになりながら鉄条網をくぐり抜けると、国境警備隊は諦めて帰っていった。
後で聞くと、足が悪くて走れないため一番遅れて国境を越えた私は、背後数十メートルの距離まで国境警備隊に迫られており、皆、私がつかまるものと思って見ていたらしい。
シリアに入るとISISの支配地で、間もなく迎えの車がやって来て、検問らしい検問もなく、夜道をISISの「西の首都」アル=ラッカまで直行した。アル=ラッカでは、ムジャーヒディーン移民管理局に投宿した。このムジャーヒディーン移民管理局の建物は、元は学校だったのを転用したもので、大部屋の教室に布団が敷かれて各部屋に十人前後の国籍も様々なムジャーヒディーンが雑魚寝している。飛び交う言語はアラビア語の他に、ロシア語が、フランス語、トルコ語、英語など様々だった。驚いたのは日本語で声をかけられたことで、話を聞くと、シベリアから来たタタール系のロシア人だそうで、日本語は日本のアニメで覚えた、と言う。『るろうに剣心』のファンで昔は相楽左之助のコスプレをしていたというが、シリアに転戦してくる前はマリでジハードを戦っていたという筋金入りの勇者だ。若い世代のムジャーヒディーンの文化的背景は我々の想像を遙かに超えて多様なのである。
翌日、当初の目的であるキリスト教徒に対するインタビューを行なった。ISISのムジャーヒディーンの宗務担当者のアレンジでキリスト教徒家庭を二軒訪れたが、二軒ともオスマン朝末期に迫害を逃れてシリアに移住してきたアルメニア人であった。彼らは難民だった彼らの父祖たちを暖かく迎えてくれたシリアのムスリムへの感謝を述べ、これからもここで生きていきたい、と語った。
ただし彼らアルメニア人も司祭ら教会の責任者たちはアル=ラッカから逃げてしまったので教会はISISに接収されていた。対して住民たちがイスラーム裁判所に書面で教会の返還を求めていたが、この時点ではまだ教会は封鎖されたままだった。
ジズヤ人頭税に関しては、上流、中流、下流に分かれ、月収約10万円を超える者が上流とみなされるが、広いアパートに住み上流と目される二軒目の家では、「年間10万シリア・ポンド(約7万円)は高すぎるのでなんとかして欲しい」と、一家の主人が同行した宗務担当者に苦情を述べていた。ちなみに年間10万シリア・ポンドという富裕者へのジズヤ人頭税の額は、富裕者には年間4ディーナール(金約16グラム)との、ハナフィー法学派の学説にほぼ一致している。
改宗か死か、と迫害されているはずのキリスト教徒が、狂信的で残忍と言われているムジャーヒディーンの宗務担当者と和やかにジズヤ(人頭税)の値切り交渉をしている姿がなんともおかしく、強く印象に残った。
ちなみに最初に訪れた家庭は公務員だそうで、月収約1万2千円はISISの支配下でもダマスカスの中央政府から支払われているそうだ。この時に聞いた話だと、アル=ラッカのムジャーヒディーンの月給は約五千円だそうで、一般の公務員と較べても安いが、住居と食事を無料で支給されているので、チョコレートを買うぐらいしか使い道がないので別に困らない、とのことだった。
強制改宗とジズヤ人頭税の賦課についての調査をここで纏めておこう。ISISは、「キリスト教徒には先ずイスラームに入信するか否かを尋ね、それで入信しない場合はジズヤ人頭税を払うかと尋ね、それも拒否した場合は戦闘になる」とのイスラーム法の規定に則り、入信とジズヤ(人頭税)の賦課について尋ねた上で、ジズヤ(人頭税)を払った者の安全は保障しており、キリスト教徒がISISの支配下で特に迫害を被ることもなく暮らしていることを確認することができた。とはいえ、アルメニア人でもアル=ラッカに残っているのは数百人ということで、司祭ら聖職者は逃亡しており、教会も接収されていたのも事実だ。また他のキリスト教の宗派には会えなかったことから、他の宗派は既に逃亡しているものと推測される。ISIS支配地がキリスト教徒にとって住みよい場所とは言えないのは確かであろう。しかし、彼らが迫害されている、とまで言うべき事実は一つも確認することが出来ていない。
ISISがキリスト教徒にイスラーム法を適用し、ジズヤ人頭税の支払いを求めた時の、欧米の報道は、「ISISがキリスト教徒に、改宗か死か、と脅し強制改宗を迫っている」、といった見出しのセンセーショナルなものが多く、多少ましなものでも、「改宗するかジズヤ人頭税を払うか死か、の選択を迫っている」、と書き立てた。しかし、これは理論的にもおかしく、事実としても間違っている。正しくは、イスラーム法の規定は、「改宗かジズヤ人頭税支払いか死か」ではなく、「改宗かジズヤ人頭税支払いか戦争か」、だ。そしてイスラームの戦争法の規定では、敵は必ずしも殺す必要はない。敵は捕虜にすることもでき、捕虜は無償で解放することも、捕虜交換で解放することも、身代金を取って解放することも、奴隷にすることも、処刑することもできるのであり、死は選択肢のうちの一つに過ぎない。そして、実際に、ISISは改宗もジズヤ人頭税支払いも拒否したキリスト教徒を、いきなり殺すことも捕虜にすることもなく、無償で「解放」し、傷つけることなくISISを立ち去らせている。このことからも分かる通り、
ISISはイスラーム法の運用においても決して極度に厳格主義的、教条主義的ではなく、ましてや憎悪に満ちた独善的な狂信者でもなければ、残酷無慈悲な血に飢えた殺人鬼集団でもない。アル=ラッカでアルメニア人とインタビューを行なって、その思いを強よめた。
インタビューが終わった後で、宗務担当者の車で市内を見学させてもらった。そこここに爆撃や自動車爆弾による自爆攻撃で破壊された家屋があるのが内戦を思い出させるとはいえ、商店街はそこそこ繁盛しており街には活気があるように見えた。
移民管理局に戻ると、ムジャーヒディーン全員に夕食が配られた。調理場を見学させてもらったが、大鍋を前にした炊事係はカタール人とインド人のムジャーヒディーンだった。さすがインド人、彼がつくった野菜カレーは絶品だった。
この夜は、寝床がない、ということでムジャーヒディーンの雑居房からも追い出され、移民管理局のモスクとして使われている広間の礼拝室の片隅に毛布を敷いて寝かされることになった。夜明け前になるとアザーン(礼拝の呼びかけ)が鳴り響き、ムジャーヒディーンたちが集まって来て集団礼拝が始り、その後も礼拝したい者が三々五々やって来る。プライバシーなど全くなく、着替えることもゆっくり眠ることもできはしない。まぁ、ムジャーヒディーンたちにとっては、雨露しのぐ屋根があるところで毛布にくるまって眠れるだけでも天国なのだろうが。
ちなみに、アル=ラッカは携帯電話回線はまったく繋がらない。ただし移民管理局にはインターネット回線があり、私もパスワードを教わり、一度だけネットに繋がせてもらい外部と通信することが出来た。
ジズヤ(人頭税)に関するインタビューも無事終えたので、翌日にはアル=ラッカを後にした。移民管理局の車で街を出ようとすると、検問で銃を持った覆面の男に呼び止められた。何を調べられるのか、と少し身構えたが、覆面の奥でにこっと笑って、チョコレートをくれた。5千円の月給で足りるのか、と尋ねた時に、「うーん、チョコレートを買うぐらいしかお金の使い道がない」と答えられたのはこういうことなのか、と納得したのだった。
帰り道はトルコ側の病院に連れて行くという赤ん坊を抱えた女性も同行していたので、楽なルートを通れるのかと期待したが、結局、トルコの国境警備隊の監視が厳しく、予定していたルートは通れず、結局来た道を帰ることになり、赤ん坊連れの女性は越境を断念しシリアに戻された。
トルコからシリアに入った同じ場所から、同行者3人とまた鉄条網をくぐって今度は夜遅くにトルコ領内に入った。しばらく叢を歩いていると、突然サーチライトに照らされた。事前の打ち合わせ通り、散開して逃げた。走れない私だけはその場に横になって、することもないのでツイッターで実況中継をしていた。その時の実況をTwilogから復元してみよう。
3月18日
トルコ観光旅行中銃を持った暴漢に襲われ友人たちとはぐれ草原に寝転び、呆然と空を眺めているなう
posted at 05:51:15 (日本とトルコで7時間の時差があるのでトルコ現地時間では17日22時51分15秒)
どうしたものか...
posted at 05:53:16
ああ、泥まみれ (T_T)
posted at 05:57:19
草原に泥まみれで一人寝転び空を眺めているなう。ともあれ、雨あまり降ってなくて、無視もいない季節で良かった。アルハムドリッラー。
posted at 06:02:14
田舎の夜は静かで声が遠くまで聞こえます。蛙と犬の声もします。まだ遠くで暴漢の声が聞こえるので暫く隠れています。トルコ観光中Tek tek daglari milli parki の近くで道に迷っています。
posted at 06:24:16
捕まって解放されたなう
posted at 07:54:12
"@masanorinaito: @HASSANKONAKATA ←大丈夫ですか?" 3時間畑の中を歩いて友人の友人の車に拾われたなう。アルハムドリッラー。
posted at 09:52:50
1時間余り銃声が鳴り止まぬ捕り物の末に全員が捕まってしまった。撃ってきたのは今回は国境警備隊ではなく村の自警団で、銃声は猟銃のものだった。
銃を突きつけられていろいろ尋問された。煎じ詰めると、どうやら我々が頼んでいた「逃がし屋」の運転手が余所者で、自分たちの村を通るのに何の挨拶もなく、余所者の逃がし屋だけが儲けて村に金が落ちないのが気にくわない、という話だったようだ。結局、私は所持金の約300ドルの現金を巻き上げられた上で、夜道に放り出され泥濘の田旗の中を2時間ほど歩いた末にようやく電話連絡がついたシリア人の友人の車に救出され、翌日疲労困憊して日本への帰路についたのだった。(続く)

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