2013年6月30日日曜日
Abstract of “The Concept of ‘State’ from Islamic Perspective”
Abstract of “The Concept of ‘State’ from Islamic Perspective”
for 2nd INTERNATIONAL ISAR SYMPOSIUM with a Special Focus on State: Between Tradition and Future
Dr. Hassan Ko Nakata
The concept of ‘state’ which has become prevalent all over the world today because of the hegemony of its advocator, the West, that had once conquered the world by its imperialistic rule, stems from the experience historically specific to the modern West.
It is characterized by two ideas, namely, ‘legal body’, and ‘representation’, both of which are product of Euro-Christian metaphysical tradition. The Western concept of ‘legal body’ has its root in the Christian terminology of ‘CORPUS CHRISTI’ from which the word ‘corporation’ comes, while the concept of ‘representation’ has echoes of Platonic ontology. Consequently it has connotation that the legal body is not an abstract concept which exists only in human mind but an entity which has a metaphysical reality.
As for the modern concept of ‘nation state’ as legal body or corporation, what is represented by it is ‘the nation’ which is supposed to have the sovereignty. On the contrary, in the tradition of Islamic political thought, there is neither the concept of ‘legal body’ nor the concept of ‘representation. In Islam, only the ‘natural person’ can be an agent for the legal actions which result in the sanctions at the Day of Judgment, thus there is categorically no room for the concept of legal body. In Islam, the rulers can’t represent the people, but they can only act in behalf of the people according to the authorities which were conferred by Allah.
Thus we should replace the concept of ‘state’ by another authentic term of Islamic sciences.
2013年4月5日金曜日
" “Memorandum for the knowledge of ‘Aqīdah required for Muslims in Japan"
2013年3月31日日曜日
「日本のムスリムに求められるアキーダ(信条)の知識」覚書 (2012年6月12日 国際イスラーム思想研究所東京ワークショップ発表に基づく)
アキーダ(信条)とはムスリムが信ずるべき内容を纏めた綱要であるが、日本のようなアキーダが依って立つ基本公理を共有せず、不断に疑問を突きつける非イスラーム社会に生きるムスリムは、「イスラームの信憑構造」を客観的に把握する必要がある。 アキーダの公理となる「理性と啓示」の関係に関して、人類が「日常の社会生活が支障なく送れる程度の言語運用能力」という意味での理性を有することは、人類に啓示が下されるにあたっての前提条件となる。それはつまり、人類は他の動物と同じく啓示がなくとも現世での日常生活は支障なく送れる程度には生きていける、つまり日常生活に啓示は必要ではないことを意味する。 従って啓示の意義は先ず日常を超えた生活(来世)の救済のためであり、ついで、「よりよき」良き生活のためである。普通の人間の有する理性は、それだけでは日常の世界生活が支障なく送れる程度の知識を得ることは出来ても、来世を知り、その時点において最適な社会秩序を見通す、ことはできない。啓示と使徒の派遣の目的は来世と社会秩序を教えることにある。 それでは啓示の「正しさ」を知ることはできるだろうか。啓示によって啓示の「正しさ」は、循環論法に陥るため証明できない。また啓示が理性によって知り得ない「来世」のことを語る以上、啓示の正しさが価値中立的な事実的な真偽に還元できるとの立場からは、理性によって啓示の真理性を厳密な「強い意味」において証明することはできない。 事実判断の純粋理性と価値判断の実践理性を区別せず、理性は価値判断の真偽、即ち善悪を判断できる、と考える伝統イスラーム学の立場からは、啓示はアプリオリに正しい必然知ではなく獲得知の一種である伝聞知であり、啓示の正しさは、理性による「偽の証明の不成立」とイスラームのもたらす良き生の「蓋然性の証明」と、伝聞知の「正しさ」の条件である話者の信憑性に基づく使徒の四条件、(1)賢慮、(2)正直、(3)信頼性、(4)真理の秘匿をしない、という意味での情報公開、によって保証される。更に、使徒の在世中は、啓示の正しさは、理性の及ばない来世、幽玄界の存在を垣間見させるものとしての奇跡によって啓示の正しさが証明されるが、スンナ派の立場からは使徒ムハンマドの逝去後は使徒の無謬性をウンマ(共同体)の無謬性が受け継ぐが、啓示は途絶えると考えられるため、原理的に「理性による弱い証明」だけが残り、使徒の信憑性と奇跡は歴史学の研究の対象となり、原理的に「理性による弱い証明」が成立している啓示もテキストとして、歴史学(古典文献学)の対象になり、古典文献学者以外には、啓示の「正しさ」は理解できない。 翻って、ムスリムの信憑性構造を分析すると、イスラーム学の全てに通じた碩学を除く信徒は、無謬の預言者ならぬムスリム、非ムスリムの言葉を歴史学的考証もせずに「盲信」していることが明らかになる。 ムスリムは自らが「盲信」することが許されているとしても、他者にその盲信を押しつけることは許されない。それではムスリムはイスラームについて何を語りうるのか。 伝統イスラーム学は、啓示(クルアーンとスンナ)の中にも、理性のみによってその(弱い意味での)真理性を知りうるもの(tawfīqīyah)と、理性のみによってはその真理性が知られず啓示によってのみその正しさが明かされるもの(tawqīfīyah)を区別してきた。 理性によって真理性を知りうるもの(tawfīqīyah)の例としては、信仰告白の第一段、「神(崇拝対象)なし。アッラーを除く」が挙げられ、理性のみによってはその真理性が知られず啓示によってのみその正しさが明かされるもの、即ち現時点では歴史学の研究対象となるもの例としては、信仰告白の第二段、「ムハンマドはアッラーの使徒」が挙げられる。 それゆえ理念的には「イスラーム」とはアッラーへの帰依を意味するとしても、実定宗教としてのイスラームとは使徒ムハンマドﷺへの帰依を意味することとなる。 「イスラーム」とはその語義において、帰依、絶対服従である以上、イスラームにとっての最重要問題は、誰、あるいは何が権威であるのか、従うべきか、との権威・代理権(wilāyah)の問題。「アッラーと使徒と権威者(ulī al-amr)に従え」(クルアーン4章59節)。 歴史上の人物である使徒ムハンマドﷺの教えに基づく実定宗教としてのイスラームは歴史学(古典文献学)的宗教であり、ムスリムが必ず知っていなければならないことは、歴史学的考証を経ずして知り得、それ故に万人が知りうることはイスラームの信仰告白の第一段「神(崇拝対象)なし。アッラーを除く。」であり、正にイスラームの最も基底となる教えが、誰にも崇拝を要求しないこと、つまり誰にも何事も押しつけないことだということである。ムスリムがイスラームの教えについて疑問が生じた時、あるいはムスリム同士で見解の対立が生じた時に還るべきは、この信仰告白の第一段であり、誰にも何物をも押しつけない、とのイスラームの根本原則、第一戒なのである。 従って使徒無き時代にあってのイスラームは、あくまでも信用に基づく自発的同意のみによらねべならない。ムスリムは自分を信用することを決して押しつけてはならず、むしろ謙遜では無く客観的事実として強い意味で自分たちが啓示そのものでは無くそれについての「噂」を盲信しているに過ぎず、信用される資格がないことを積極的に示す義務がある。 それ故、現在のムスリムがイスラームを語る場合に、現世においてイスラームを執行する暴力装置による強制力なしにイスラームが説かれたマッカ期の宣教がある意味でモデルとなる。マッカの宣教は、善悪、来世の存在、現世来世の主、価値定立者としてのアッラーの唯一性、正義、寛大、弱者の援助などの教えであった。このマッカ期のイスラームと対比されるモデルとしてのマディーナ期のイスラームには、所謂「法的規定」の施行のための暴力装置が形成され、その威嚇を背景とした一種の強制によるイスラームへの入信が現れ、「偽信者」の発生というイスラームの宿痾が生じた。 マッカ期のイスラームは現代において参考とすべきだが、マッカ期と現代では決定的な本質的相違が存在する。 つまり、マッカ期には、強制力を有する暴力装置は存在しなかったが、イスラームが何かについては信徒にとっての唯一の絶対的な権威、最終審級(預言者ムハンマドﷺ)が存在したのに対して、現代においては最終審級が不在である一方で、イスラームの名を騙り強制する暴力装置が存在しえいるということである。これがカリフ問題である。 現代におけるムスリムの最初の課題は、イスラームが何であるのかを決める最終審級が存在しないにもかかわらず、イスラームの名を騙り、現世と来世における威嚇によって人を支配する者たちによる「似非マディーナ期のイスラーム」を、イスラームを強制する暴力装置は欠き、自発的信仰のみに基づくマッカ期のイスラームに戻すことであり、次いでイスラームの最終審級たる宗教的権威、そしてそのイスラームを強制執行する政治的権威の再確立、つまりカリフ制の再興となる。 イスラームの名を騙る現世と来世における威嚇による似非イスラームの打破において、イスラームの似非の宗教的権威も政治的権威も存在しない日本は、むしろ恵まれた立場にあると言うことも出来る。なぜならば、イスラームの権威が不在の地「戦争の家」に生まれ育ってイスラームに入信した者は、歴史学的考証の対象である啓示法の遵守義務を免じられているので(注)、似非権威に対する盲信、恐怖、遠慮などの不純な動機によらず、自発的な学びと納得のみによってイスラームを再構築することが容易だからである。 イスラームを強制する暴力装置は欠き、自発的信仰のみに基づくマッカ期のイスラームに戻すことであり 宗教的権威の再興には、サラフィー主義的とも言うべき歴史学、古典文献学的作業が不可欠であるが、しかし究極の基準はアッラーの使徒ﷺの代理人に相応しい人格性である。そしてこの使徒の代理人たる人格性の涵養はイスラーム学の伝統の中ではスーフィズムが担ってきた。しかし、イスラームの最終審級たる権威が不在である現代において、常人には真偽を判断できない幽玄界の知識を自称するスーフィーの権威要求は、「誰にも何ものも押しつけない」とのイスラームの第一戒への侵犯として峻拒退されなくてはならない。現在求められるスーフィズムは、言うならばスーフィズムを弾圧するスーフィズム、つまり地上の権威を一切纏わずただアッラーのみ以外に何物にも護られることのないスーフィズムなのである。 そしてこの宗教的権威が再興され、ムスリム大衆がイスラームの学知に目覚め、カリフ制再興の義務がムスリム大衆の共通理解となった時、 カリフ制が再興され、ムスリムは人類と大地を偶像神の支配から解放する、という使命を担う「人類の中に出現した最善の共同体」(クルアーン3章110節)の名誉ある地位を回復するのである。 注 アル=ナーブルスィー曰く。「二人の使徒の間の中間時の民の行為には、彼らの時代には宣教が成立しないので罪はない。人々から隔絶した地に育った、あるいは『戦争の家』でイスラームに入信し「『イスラームの家』に移住しなかった者も同様である。但し、これれは全て身体行為についてであり、アッラーへの不信の罪については誰もそれについて免責されない。なぜならば理性がその認識については十分だからである。アッラーはそれ(理性)を全ての人間に導き手として遣わし給うたのである。但し、(アッラーが)地平線と自分自身の中に彼を示すものとして設けられた彼の様々な徴や証拠について彼に対する考察が有効に成立したとの条件においてである。」 وأهل الفترة بين كل رسولين ليس في أعمالهم ذنوب لعدم حصول التبليغ في زمانهم كذلك من نشأ في مكان منقطع عن الناس أو أسلم في دار الحرب ولم يهاجر إلى دار الإسلام وهذا كله في أعمال الجوارح. وأما ذنب الكفر بالله فلا يعذر فيه أحد. لأن العقل كاف في معرفة ذلك. فالله تعالى بعثه إلى كل إنسان هاديا بشرط صحة النظر به في آياته وحججه التي نصبها دالة عليه في الآفاق والأنفس. (عبد الغني النابلسي, حقائق الإسلام وأسراره, القاهرة, 1986,ص.31)
2013年3月2日土曜日
“Reconstruction of Concept of Ṣulḥ as Diplomatic Tool”
2013/03/18 Fatih Sultan Mehmet Vakıf Üniversitesi Medeniyetler İttifakı Enstitüsünde Enstitü
“Reconstruction of Concept of Ṣulḥ as Diplomatic Tool”
Dr. Hassan Ko Nakata (Doshisha University)
Introduction
In this presentation, first we clarify that the term “ṣulḥ” has two different meanings in diplomatic context, and then we argue that both meanings of “ṣulḥ” are very useful for the contemporary Muslim ummah.
1. Definition of Ṣulḥ
The most voluminous encyclopaedia of Islamic jurisprudence classify ṣulḥ into 5 kinds as bellow.
أحدهما : الصّلح بين المسلمين والكفّار.
والثّاني : الصّلح بين أهل العدل وأهل البغي .
والثّالث : الصّلح بين الزّوجين إذا خيف الشّقاق بينهما ، أو خافت الزّوجة إعراض الزّوج عنها.
والرّابع : الصّلح بين المتخاصمين في غير مال . كما في جنايات العمد.
والخامس : الصّلح بين المتخاصمين في الأموال. (الموسوعة الفقهية)
And it is said that the first kind of ṣulḥ is synonymous with ʽahd and hudnah, and Muslim jurists of the major 4 schools define hudnah or ṣulḥ in similar formula, for example. قال الحنفية: هي الصلح على ترك القتال مدة بمال أو بغير مال إذا رأى الإمام مصلحة في ذلك. (الموسوعة الفقهية)
But this definition has a fatal defect because it does not cover one of the most important usages, i.e., ṣulḥ by which Muslims conquest the land of the Non-Muslims, Tanwīr al-Abṣār says, ما فتح عنوة وأقر أهله عليه أو صلحا خراجية.
We can define ṣulḥ of this meaning as “reconciliation in which conditions of Muslim conquest of Non-Muslims’ land and its integration into dār al-islām are agreed by both sides in addition to payment of jizyah tax.
This type of ṣulḥ is different from the first kind of ṣulḥ categorically.
Dr.Muḥammad Khair Haylal pointed out that this first kind of ṣulḥ is not the above difined ṣulḥ, saying;
هذا الصلح لا يقتضي دفع الجزية من قبل البلاد المحاربة ولا خضوعها للنظام الإسلامي ولا السماح للدعوة الإسلامية فيها بالانتشار والكف عن إيذاء المؤمنين بها من رعاياهم.
(الجهاد والقتال في السياسة الشرعية, ج.3 ص.1493)
So, we call the former ṣulḥ With “ṣulḥ of truce” and the later one “ṣulḥ of conquest”.
2. Dār al-Islam and Dār al-Ḥarb
With “ṣulḥ of truce” Non-Muslims’ land remains dār al-ḥarb, while with “ṣulḥ of conquest” it becomes dār al-Islām.
This differentiation is worth mentioning here because nowadays there are confusions of usage of ṣulḥ among Muslim scholars and intellectuals and some of them claim that there is the third category of dār, i.e., dār al-ṣulḥ,beside dār al-Islām and dār al-ḥarb ”, independent from these both dārs. But the truth is that there is only dār al-Islām into which Non-Muslims’ land is integrated by “ṣulḥ of conquest” and dār al-ḥarb, part of which has “ṣulḥ of truce”
It seems that both of these concepts of ṣulḥ are useful for our ummah to adapt itself to the contemporary world, in which there is neither legitimate Islamic polity, i.e. khilāfah, nor Islamic territory which is governed by sharīʽah, dār Islām.
Dr. Haykal defines the concept of dār al-Islām after citing Hanafi definition.
دار الكفر تصير دار الإسلام بظهور أحكام الإسلام فيها واختلفوا في دار السلام أنها تصير دار الكفر؟ قال أبو حنيفة أنها تصير دار الكفر إلا بثلاث شرائط أحدها ظهور أحكام الكفر فيه والثاني أن متاخمة لدار الكفر والثالث أن لا يبقى فيها مسلم ولا ذمي آمنا بالأمان الأول وهو أمان المسلمين وقال أبو يوسف ومحمد رحمهما الله أنها تصير دار الكفر بظهور أحكام فيها. …دار اللإسلام هي البلاد التي يكون فيها هو النظام الإسلامي وفي نفس الوقت يكون الأمن الداخلي والخارجي فيها هو بيد المسلمين. (بضائع الصنائع,ج.7.ص.130),ج.1,ص.662-669.
3. Absence of Khilāfah and “Ṣulḥ of Truce”
Ummah has neither Islamic political power, i.e., khilāfah, nor sharīʽah governed space, dār al-islām. And according to the majority of Muslim jurists, the contract of the “ṣulḥ of the truce” is the prerogative of the khalīfah (and his deputy) as only the khalīfah can conclude the pact of ṣulḥ and contract of dhimmah, however Hanafi jurists consider any Muslim group can conclude ṣulḥ if it is profitable for them without permission from the khalīfah.
يرى جمهور الفقهاء أن يكون العاقد للهدنة هو الإمام أو نائبه. ... الرأى الثاني للحنفية وهو أنه لا يشترط إذن الإمام للموادعة فيجوز عقد الموادعة لفريق من المسلمين ... لأن المعول عليه وجود المصلحة في عقدها فحيث وجدت جازت. (الموسوعة الفقهية)
Actually, there is hardly essential difference between the majority’s view on the ṣulḥ and the Hanafi’s one, because from the standpoint of Hanafi school, the contract of the ṣulḥ of the truce is jā’is, voidable, thus the khalīfah can cancel the ṣulḥ which is concluded by a certain group of Muslims if he finds benefit in its cancelation, thus the khalīfah is the final authority to confirm the ṣulḥ.
وذهب الحنفية إلى أن عقد الهدنة غير لازم محتمل للنقض فللإمام نبذه إليهم فإن رأى الإمام أن في الموادعة خيرا للمسلمين فوادعهم ثم نظر فوجد أنها شر على المسلمين نبذ إليهم. (الموسوعة الفقهية)
As for the ṣulḥ of truce, it is permissible to pay tribute to enemy states in case of weakness of Muslims. Thus nowadays local Muslim governments can conclude the pacts of ṣulḥ tentatively with neighboring countries to avoid the loss of the life and property of Muslims because of their weakness until the legitimate Islamic state, i.e., khilāfah, came into existence to examine these pacts whether to confirm or to cancel.
4. Khilāfah and “Ṣulḥ of Conquest”
While the Islamically illegitimate local governments maintains mundane order of Muslims in the former dār al-Islām, Ummah should struggle for reestablish khilafah and dār al-Islām, but since all the Muslims’ lands have once become dār al-ḥarb, the new dār al-Islām should be rebuilt after clearance of the old dār al-Islām.
Islamic jurisprudence classifies dār al-Islām into the land conquered by ‘unwah(war) and the land conqured by ṣulḥ (reconciliation). Nowadays it seems quite unlikely that the ummah would conquer the lands by war again. Therefore the coming new dār al-Islām will be based on ṣulḥ newly contracted. While building of a new church is no allowed in the land which is conquered by ‘unwah, it is permissible to build a new church if the ṣulḥ contains its permission.
In the ‘unwah conquered land, many restrictions are imposed on Non-Muslims after the model of ṣulḥ of ‘Umar’s conquest of Jerusalem. For example, building of new church is not allowed in ‘unwah conquered land, but it is permitted if ṣulḥ of conquest is concluded on the condition that they may build a new church in their territory.(Ibn Qudāmah, al-Mughnī, vol., 13, pp.241-242)
5. Conclusion
We believe that the khilāfah and the dār al-Islām are attractive not only to Muslims but also to Non-Muslims only if they are understood properly because they guarantee the true freedom and autonomy for the various ethnic and religious communities with justice.
Thus, we can duly anticipate that many Non-Muslims dominating lands will be integrated to the new dār al-Islām under the coming khilāfah through voluntary conclusion of ṣulḥ of conquest.
So, the ummah is responsible for preparing drafts of ṣulḥ which is not only in accordance with sharī‘ah, but acceptable to Non-Muslims who are accustomed to living in the illusion of the Western “human rights” and “democracy” for the sake of peaceful coexistence of the Muslim ummah and the outer world. And this task is an indispensable part of process of reestablishing the khilāfah and the dār al-Islām. (1)
(1) As for the concept of “khilāfah”, see, Hassan Ko Nakata, "The deconstruction of Sunnite Theory of Caliphate: Spreading the Rule of Law on the Earth", Journal of the Interdisciplinary Study of Monotheistic Religions (JISMOR) 6 / March 2011, pp.67-86. (http://www.cismor.jp/en/publication/jismor/documents/nakata6E.pdf)
2013年1月6日日曜日
تحريف أحكام الجهاد للأزهر
ﻛﺘﺐ ﺷﻴﺦ ﺍﻷﺯﻫﺮ ﺍﻟﺴﺎﺑﻖ ﻃﻨﻄﺎﻭﻱ ﺍﻟﻔﻘﻪ ﺍﻟﻤﻴﺴﺮ، هو ﻛﺘﺎﺏ ﺍﻟﻤﻘﺮﺭ ﻟﻠﻔﻘﻪ ﻟﻠﺼﻒ ﺍﻟﺜﺎﻟﺚ ﻟﻠﻤﻌﻬﺪ ﺍﻹﻋﺪﺍﺩﻱ، ﻭﻳﻘﻮﻝ ﻓﻲ ﺑﺎﺏ ﺍﻟﺠﻬﺎﺩ: (ﺗﻌﺭﻳفه ﺷﺮعا) ﺑﺬﻝ ﺍﻟﻨﻔﺲ ﻭﺍﻟﻤﺎﻝ ﻣﻦ ﺃﺟﻞ ﺇﻋﻼﺀ ﻛﻠﻤﺔ ﺍﻟﻠﻪ ﺗﻌﺎﻟﻰ ﻭﻣﻦ ﺃﺟﻞ ﺍﻟﺪﻓﺎﻉ ﻋﻦ ﺍﻟﺪﻳﻦ ﻭﺍﻟﻨﻔﺲ ﻭﺍﻟﻮﻃﻦ ﻭﺍﻟﻤﺎﻝ ...
يكون الجهاد فرض عين إذا داهم العدو أرض الوطن واستنفر ولي الأمر في الدولة جميع أفرادها من أجل أنفسهم.(اه)
ولكن تعريف الجهاد شرعا أو اصطلاحا عند الجمهور "قتال الكفار لأجل إعلاء كلمة الله"، فيتقيد الجهاد بقتال الكفار فأخرج قتال البغاة وقطاع الطريق ولكن لا يتقيد بالدفاع. ولا يدخل "الوطن" فيما يجب الدفاع عنه إلا أنه من دار الإسلام.
و يصبح الجهاد فرض عين (1) إذا هاجم العدو الكافر دار الإسلام لو لم يكن إذن من الإمام أي الخليفة أو(2) استنفر الإمام أو (3) التقيا الجيشان من المسلمين والكفار.
كيف يكون القتال جهادا لو كان الوطن أرض لا يحكم فيها شرع الله أو حاكم الدولة كافر له واستنفر جميع المواطنين سواء كانوا مسلمين أوغيرهم لأجل دفاعها؟!
هكذا خان شيخ الأزهر السابق علماء الشريعة القدماء وحرف أحكام الجهاد وأضل طلبة العلم.
أرجو أن يعود الأزهر إلى أن يكون منار العلم بعد أن أصبح خادم الطواغيت، والله المستعان.
2012年12月30日日曜日
イスラームと経済
イスラームと経済
(本稿は、奥田敦/中田考 編著『イスラームの豊かさを考える』丸善プラネット
序
「イスラーム経済」、「イスラーム金融」、「イスラーム銀行」が流行っている。しかしそうした流行の「イスラーム経済」、「イスラーム金融」、「イスラーム銀行」は、「イスラーム国家」などといった他の「イスラーム」の名を冠した事物と同様にいかがわしい紛い物でしかない。
イスラーム法が人間の行為範疇を「禁止」「忌避自粛」「中立」「推奨」「義務」に五分していることはよく知られている。現在イスラーム経済と呼ばれているものは、ヨーロッパによる植民地化によって蔓延したヨーロッパ流の経済慣行に表層的にイスラームの鍍金を被せただけのもので、イスラーム法的に禁じられているかどうかが疑わしい限りなく黒に近い灰色か、脱法行為である。
資本主義、社会主義を問わず、どのような国の経済であれ、権力を傘に着て利権を貪る者、また他人の弱みや無知、射幸心に付け込んで利益を得る者、あるいは怠けて働かずして報酬だけをせしめる者などがいる。法の網にかからないからと言うだけで、そうした者たちの行動をもって、その国の経済を語ることは果たして適切であろうか。
そもそも、預言者ムハンマドの時代にも、その後のカリフたちの時代にも、イスラーム国家、イスラーム経済、イスラーム銀行、イスラーム学校など銘打ったものなど何も存在しなかった。ムスリムの行うことがイスラームなのであり、誰がムスリムであるのか、何がイスラームであるのかは、一人一人の信徒の判断に任されており、誰もが自らの責任でそれを考え、その正否は、最後の審判の日にアッラーによって各人が問われる。
そもそも何ゆえイスラーム経済、イスラーム金融、イスラーム銀行などと呼ばれているものが出現したのか、と自問しなくてはならない。「経済」、「金融」、「銀行」などというものが、イスラームに反しているからに他ならない。ムスリム社会に、イスラーム八百屋イスラーム肉屋、イスラーム床屋、イスラーム雑貨屋などというものは存在しなかった。八百屋も、肉屋、床屋も、雑貨屋もイスラームの教えに悖る職業ではないからである。勿論、八百屋がキャベツと偽って白菜を売ったり、肉屋が豚を売ったり、魚屋が盗んだ魚を売ったり、床屋で男性の美容師が女性の髪を切ったり、雑貨屋が盗品を売ったりしたら、それはイスラームに反する行為になる。イスラーム八百屋認証、イスラーム肉屋認証、イスラーム床屋認証、イスラーム雑貨屋認証を出す、認証を得た店の営業がイスラーム的である、という発想自体が、イスラームの教えとは真逆なのである。
現在「イスラーム経済」、「イスラーム金融」、「イスラーム銀行」などと呼ばれているものは、ムスリムの生活様式のイスラームからの離反への反動、巻き返しというよりは、むしろイスラームからの離反の深化と呼ぶべきものである。それは丁度、20世紀における「ムスリム諸国」の旧ヨーロッパ植民地からの「独立」が、ヨーロッパの植民地支配下からの独立を意味せず、ムスリム自身がヨーロッパの世界観、生活様式を内面化したことによる植民地支配の完成であったのと同様である。
それゆえ、イスラームと経済を論ずるには、先ずイスラームの世界観の中で、われわれが経済と呼ぶものがいかに位置づけられるかを考えことから始めなくてはならない。
1.
イスラームの労働
現代アラビア語で「労働」を意味する単語は「アマル(‘amal)」である。現代の日本でも、「労働」とは概ね雇用者から対価としての賃金を受け取る仕事、職業労働と考えられている。一方、クルアーンや古典イスラーム学のアラビア語においては、「アマル」は単なる行為を指し、対価を受け取る賃労働はその特殊な一形態を指し、単に「アマル」と言った場合に、それが賃労働を想起させるということは全くない。
クルアーンに頻出する「アマル」の用例は「信仰し善行(複数)をアマル(行為)する…」などの表現であり、「アマル」は神、預言者、来世の信仰と並んで人間に求められるべき行為を指す。そしてクルアーンの中で「アマル」すべき善行の典型として挙げられるものは、礼拝の挙行と浄財の施しである。イスラームの礼拝とは、最低でも一日に五回義務付けられた一連の文言と動作からなる儀礼であり、浄財は一定額を超えた金銀の場合1年を通して退蔵した資産の2.5%が課される宗教税である。
礼拝も、浄財も、金銭の対価を受け取るような行為ではなく、現代的意味での労働とは対極にある行為である。クルアーンを読むと、クルアーンがアマル(行為)の重要性を強調しながらも、金銭を対価とする「労働」に殆ど無関心なことが分かる。
一見、イスラームのアマル観は現代の「アマル=労働」観とは全く異質なように見える。しかし、実は、中東の商業文化を背景とするイスラームには、現代の労働観と通底する論理を見出すことができる。イスラームにおける行為の論理と現代の労働観の類似と相違を最も明瞭に示しているのが以下のクルアーンの節である。
「信仰する者たちよ、痛苦の懲罰からお前たちを救う商売を教えようか。アッラーとその使徒を信じアッラーの道におまえたちの財と肉体(労働)により奮闘することである。お前たちが理解するなら、それが最善である。(アッラーは)お前たちの罪を赦し、下を川の流れる楽園、永住の楽園の良き住処に入らせ給う・・・」(クルアーン6章9-10節)
行為は商売に喩えられ、財産の贈与と肉体労働の対価として、アッラーから永住の楽園の褒章が与えられるのである。つまり、イスラームにおいては現世の延長上に来世が組み込まれていることによって、本質的に現世の商売と同じ効用・財・サービスの論理で宗教的行為の理解の処理が可能になっているのである。
イスラームにおいては、一見、何をどう費やすか(財と肉体労働)に関心が集中しており、何をどう稼ぐか、の関心が薄いように見える。しかしそれは現世のみを考える世俗化された現代人の見方なのであって、実はイスラームは、アッラーの御満悦を得て楽園の褒
イスラームは、現世でいかに「費やす」か、来世でいかに「稼ぐ」かについては詳細に教えているが、現世での「稼ぎ」については比較的語ることが少ない。
「信仰する者たちよ、お前たちの間でお前たちの財産を不当に貪ってはならない。但しお前たちの互いの納得の上での商売は別である。・・・」(4章29節)とクルアーンにあるように、稼ぎの原則は各人に任されており、互いに納得の上での取引であればそれでよいとされ、正しい稼ぎのあり方がポジティブに逐一示されるのではなく、ネガティブな形で不当な取引が禁じられることになる。
禁じられる取引とは、不当利得を生ずるもので、利息、賭博がその代表である。しかしイスラームで「禁じられる」とは「来世での懲罰に値する」との意味であり、世俗化された現代社会におけるように国家の制定する法律により罰則が設けられ、規制されている、ということでは必ずしもない。
それゆえ我々は次章において少し寄り道をして「経済」を包摂するイスラームの秩序について概観しよう。
2.イスラーム的秩序
イスラーム的秩序とは法の支配である。預言者ムハンマド亡き後のウンマ(ムスリム共同体)は、アッラーの御言葉「クルアーン」と預言者ムハンマドの言行録(ハディース)によって示された天啓法シャリーア、所謂「イスラーム法」に従う。人口に膾炙した「宗教に強制はない」とのクルアーンの句に基づく、イスラームは信仰を武力によって強制することはないが、イスラーム的秩序、あるいはシャリーアによる法の支配は、ウンマにその力があるならば武力に訴え、ジハードによってでも地球全土に広げる義務がある。ジハードによってでも全世界に広める必要があるのは、イスラームの信仰ではなく、イスラーム法の支配である。そしてイスラーム法の支配を全世界に広めるとは、神の所有地であるこの地球全土を「ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)」に転化すること、つまり地球全土を宗教、民族、出自などの区別なく全ての住人と、物資、資本が自由に移動することができる法治空間に添加させることである。そしてそれは今日の世界においては、地球を寸断する国境を廃絶し、領域国民国家の檻から全人類を解放し、法の支配の確立によって世界の支配者たちによる富の壟断を打破することに他ならない。
しかしそもそも、イスラームの信仰ではなくイスラームの秩序を武力に訴えてでもジハードによって広げるとは何を意味し、またなぜそれがイスラームの使命と言えるのか。
マッカにおいて預言者ムハンマドが宣教を始めた時点では、その宣教の内容は、神の唯一性、楽園と火獄のような幽玄界の信仰、困窮者、弱者の扶助などの倫理であり、あくまでも個人を対象としていた。ところが預言者と信徒たちがマッカからマディーナに移住(ヒジュラ)し、マディーナにムスリム信徒団を中心とする「都市国家」が成立した後は、教えに傷害殺人、強盗、窃盗などの犯罪に対する刑罰の執行による治安の維持、徴税と厚生福祉、異教徒の取り扱い、交戦法規などの法規定、つまり政治的権威を有する者が果たすべき義務が付け加わり、マッカを征服しアラビア半島をイスラームの教えの下に統一し、預言者ムハンマドに下されたアッラーの啓示が完了した時点において、イスラームの宣教の形は、マッカ期の個人に対する信仰と倫理の教宣から、ジハードによるイスラーム的秩序の拡大による世界の解放へと変質を遂げる。
イスラームの宣教が、イスラーム的秩序の拡大へと変質した、と言っても、勿論、それは個人と社会のレベルでの信仰と倫理の教宣が廃棄された、ということではなく、そうした個人、社会レベルの教宣はあくまでもムスリム個々人が各自でおこなうべきことであり、秩序の樹立を可能とする軍事力を保有するに至ったウンマ(ムスリム共同体)が全体として行動する集団的行為目標としては、イスラーム的秩序の拡大が優先事項となった、ということを意味する。
このことはイスラームの交戦規定の中に明瞭に現れている。クルアーンに曰く「啓典を授けられた者たちで、アッラーも最後の日も信じず、アッラーと彼の使徒が禁じられたものを信じず、真理の宗教を受け入れられない者たちとは、彼らが卑しめられて手ずからジズヤ(税)を支払うまで戦え」(クルアーン9章29節)。預言者の直弟子であったアル=ムギーラはニハーバンドの戦いの日にペルシャ軍に対して「我々の主の使徒である預言者は、我々に対してお前達がアッラーフのみを崇拝するか、税(ジズヤ)を支払うまでお前達と戦えと命令した」(ハディース:アル=ブハーリー)と述べたと伝えられる。イスラームに入信はしなくとも、税(ジズヤ)が納められさえすれば、それ以上の戦いは許されないが、納税も拒否されたときは、戦いが不可避となる。即ちジハードの目的は、異教徒のイスラームへの入信ではなく、異教徒の地の納税によるイスラーム的秩序への編入なのである。逆に言うなら、イスラーム的秩序の拡大は、武力によってでも推し進めなければならない最優先課題なのである。
確かにイスラームへの入信は、「最初に呼びかける」という意味においては、最も望ましいことは事実であるが、それが拒まれた場合には納税という別の選択肢が提示される以上、イスラームの入信はあくまでもオプショナルであって、強制される納税こそが優先事項なのである。
預言者ムハンマドへの啓示が完了し、アラビア半島の統一で完成をみたイスラーム共同体は、世界へのイスラームの公宣に取り掛かかる。ところがその公宣に対して拒むことが許されず、武力を用いても強制されるべきなのは税金(ジズヤ)の支払いであって、イスラームへの入信ではなかった。ウンマを束ねるカリフがイスラーム法によって統治し、多数の宗教共同体が宗教的自治を享受して共存する法治空間が「イスラームの家」であり、イスラームの公宣の使命とは、このアッラーの大地、即ち地球全土を、イスラーム法の支配する法治空間、「イスラームの家」に変えることなのである。
ダール・アル=イスラームは単一の法治空間であり、その単一性の象徴がカリフである。それゆえ、カリフはただ一人でなければならず、ただ一人のカリフを選ぶことはイスラーム全法学派の一致する義務であるばかりか、ムスリムの義務の中でも最重要な義務なのである。
3.イスラームのマクロ経済
個人の営みではなく、「ダール・アル=イスラーム」全体に関わる「経済」活動を仮に「マクロ経済」と呼ぶなら、イスラームはイスラーム法がその「マクロ経済」の大枠を定めているということが出来よう。
第一は通貨制度である。イスラームは合法な商品の全てを交換手段とすることを認めているが、オスマン・カリフ国民法典「アル=メジェッレ」130条が明記する通り、通貨(nuqūd)は金と銀だけである。イスラーム法上、義務の浄財(ザカー)の最低額、窃盗罪の手首切断刑が適用される盗品価格の最低額、殺人・傷害の血の代償(diyah)などは金、銀によって定められている。金貨、銀貨の品質管理はカリフの職務の一つであり、金、銀の裏付の無い紙片を通貨として強制することはカリフの権限ではない。
イスラームは利息を禁ずるため、法定金利の操作のような金融政策の余地はイスラームの「マクロ経済」には存在しない。イスラームの通貨政策は金貨(ディーナール:22金4.25g)と銀貨(ディルハム:3g)の発行と品質管理となる。
カリフ制の財政政策の財源は、(1)戦利品、(2)浄財、(3)ファイ、に三分される。(1)戦利品は、異教徒との戦争によって獲得されたもので、参戦した兵士、貧者、孤児、カリフの間で分配されるが、カリフの取り分が公益のために用いられる。
(2)浄財はムスリムの資産に対する定率の宗教税にあたり、その使途は貧者、極貧者、徴税吏、旅人、債務者、奴隷解放、新入信者、アッラーの道(ジハード従軍者、イスラーム学徒、学者)の8種類のカテゴリーに分配される。
(3)ファイとは本来は、クルアーンの59章6節「アッラーがその使徒に戻し(afā'a)給うたもので、お前たちがそれに対して馬や乗り物を駆ったわけでもないもの・・・」(59章6節)に基づき戦わずして降伏した敵からの貢物であったが、後に戦闘によらずに国庫に入る財の総称となり、異教徒からのジズヤ(人頭税)の他に、相続人のいない者の遺産などが含まれるようになった。
ちなみに「ジズヤ」は人頭税、貢租などと訳され、あたかも重税のような印象を与えがちであるが、実は極めて安い。ムスリム対象の浄財(ザカー)が定率なのに対して、ジズヤは原則的に定額である。ジズヤはカリフの裁量で決められるとの説が有力であるが、おおよその目安のために、ジズヤの額を定めている学説を紹介すると、女性、子供、無職の貧者は最初から免除されており、課税される成人男性でも、ハナフィー派とハンバリー派では、1万ディルハム以上の資産のある富裕層で年間48ディルハム、中間層で24ディルハム、貧困層で12ディルハム(ハンバリー派、ハナフィー派)、マーリキー派では40ディルハムか4ディーナール、シャーフィー派では、上流で4ディーナール、中流で2ディーナール、下流では1ディーナールでしかない。
つまりジズヤは上流階級ですら現在の金銀の価格で最高でも僅か年間6万5千円弱にしかならないのである。
カリフ国家の財源は、上記の(1)戦利品、(2)ムスリムに課される浄財、(3)ファイの三種に限られる。
ハンバリー派の大法学者イブン・タイミーヤ(1328年没)が「あらゆる税(mukūs)の禁止は4法学者の一致」と述べている通り、ムスリムに課される浄財、異教徒に課されるジズヤ以外に「税」を課すことは、イスラーム法上厳しく禁じられている。(Cf., Ibn Taimiyyah, Majmu`ah al-Fatawa, al-Mansurah, 2001,
vol.28, p.155)
徴税とは強盗に他ならず、徴税者は戦闘による殺害が義務づけられてすらいる。ハナフィー派の大法学者アル=ジャッサースは述べている。「人々の富を徴発し、税(darāÙib)を課す不正な権力者(mutasalliţ)に関しては、全てのムスリムは彼らと戦い殺す義務がある。彼らは利子を取る者よりも悪い。 -中略- 彼らは強盗の範疇に入る。」 (Cf., Al-Jassas, Ahkam al-Qur’an, vol.1, p.472.)
そして歴史的にもサウディアラビアの建国に際して、ムハンマド・ブン・アブドゥ・アル=ワッハーブは、ナジュドの豪族イブン・サウードから宣教の庇護にあたり徴税を禁じず追認してくれるようにとの頼みを「アッラーフが貴方に征服地を与え、(現在得ている)租税(収入)以上の戦利品によって償って下さろう。」(Åusain bn Ghann±m, T±rµkh Najd, Riyadh, 1403, pp.78-80)と述べて拒絶している。
「代表なくして課税なし」との標語により、民主主義国家の議会は徴税の名目で国民にいかなる重税をも課すことができる。しかし、イスラームにおいては、誰にも他人に税を課しその財を奪うことは許されない。既述の通り、唯一のカリフを戴くダール・アル=イスラームは一つの法治空間である。イスラームが徴税を禁じるということはダール・=アル=イスラームには、その内部の地方の間は言うに及ばず、その外部「ダール・アル=ハルブ」との交易に対しても関税が課されないということであり、法に護られた資本、商品、人間の自由な流通が高品質の金貨の信用と相俟って、イスラームの黄金時代の活発な貨幣経済を現出せしめた。所謂「イスラーム資本主義」である。
ヨーロッパ連合(EU)が先ず、欧州経済共同体として出発し、域内の関税を撤廃し、その後、域内の人間の移動の自由化、共通通貨(ユーロ)を実現したように、「イスラーム経済」も、まず資本、商品、人間が自由に流通し、ディーナール金貨とディルハム銀貨を共通通貨とするダール・アル=イスラームの一体性を前提とする。
イスラームの「マクロ経済」は、イスラーム法を施行するカリフ制、単一の法治空間としてのダール・アル=イスラームの一体性を前提とするのであり、領域国民国家の枠組の中では実現できるものではないのである。
4.イスラームのミクロ経済
前章「イスラームのマクロ経済」で述べた通り、(1)戦利品、(2)浄財、(3)カファイはカリフが処分権を有する謂わば「国有財産」である。解放党(Hizb u-Tahrir)やムハンマド・バーキル・アル=サドルは、この「国有財産」と、「私有財産」の間に、「公有財産」の概念を設ける。イスラームの「私有財産」について論ずる前にこの「共有財産」について述べておこう
カリフの裁量に任されるわけでもなく、純粋な私有財産でもなく、共同体の誰もが享受することを許される公有財産概念の典拠は「ムスリムは、(1)水、(2)草、(3)火の3つの物の共同所有者であり、その代価を取ることは禁じられている」とのハディース(イブン・マージャ)である。公有財産概念を支持する者によると、石油などのエネルギー資源は「火」からの類推により公有財産となり、カリフはウンマ全体がそれを享有できるように管理する責任を負うことになる。エネルギー資源が公有であるなら、カリフはそれを管理し収益をムスリムの公益のために用いられなければならない。ところが現実には、その富で一部の湾岸産油国が世界一の高層ビルの建設に狂奔する一方で、スーダン、ソマリア、アフガニスタンなどの国々は飢餓、絶対的貧困に苦しんでいるのである。
「隣人が傍で飢えているのを知っていながら、満腹で眠る者は私を信じていないのだ」(ハディース:アル=バイハキー、アル=ハーキム)と預言者ムハンマドがムスリム同士の相互扶助を説かれているにもかかわらず、ウンマの現状は、国境の檻に阻まれて、豊かな国の富は貧しい国に行き渡らず、貧しい国のムスリムは同じ同胞のムスリムでありながら豊かな国に移住することを許されない。それは「領域国民国家」という牢獄がムスリムのウンマを分断しているからに他ならず、前章で述べた通り、領域国民国家の枠組がある限り、イスラーム経済の実現は不可能なのである。
私有財産に関しては、その処分は「納得の上での商売・・・」(4章29節)の句に基づき、原則的には当事者間の合意に任される。利息や賭博が例外として禁じられているのは周知であるが、それ以外に重要な原則が、「債権による債権の売買は禁じられる」(アル=ダールクトゥニー、アル=ハーキム、アル=バイハキー)とのハディースに基づく債権による債権の売買の禁止であり、特に通貨(金・銀)に関しては、現物の即金の取引以外は厳禁される。金銀の裏付の無い銀行券を債権とみなすなら、先物売買は言うに及ばず証券取引の全ては債権による債権の取引として禁じられることになるのである。
もう一つの重要な一般原則が「貸借と売買の結合、あるいは二つの条件を付した売買は許されない」(アル=ティルミズィー)のハディースに基づく付帯条項付約款の禁止である。
前章で述べた通り、イスラーム的秩序とは「法の支配」に他ならない。「法の支配」とは、ドイツ流の「法治国家Rechtsstaat」や中国の法家の「法治主義」のような権力が立法権を武器に制定法で人民を支配する統治のスタイルとは対極の、権力の上に法がある、との思 想である。
西欧では、イギリスのコモン・ローの伝統の中に僅かに見出された「法の支配」であるが、イスラームにおいては、千年あまりの歴史を有する。
高名なドイツの法学者であるGustav Radbruch (d.1949)は、法にはお互いに矛盾対立するベクトルを有する3要素(1)正義(Gleichheit), (2)合目的性・具体的妥当性(Zweckmäßigkeit) 、(3)法的確実性( Rechtssicherheit )があるが、最も根本的なものは法的安定性であるとした。法的確実性とは、法の安定性と予見性を意味する。つまり「法」は変ってはならず、人口に膾炙していなくてはならないのである。
安定性については、イスラーム法体系は8−9世紀に発生し、12−13世紀に確立し、それ以降その内容は殆ど変化しておらず、東はマレーシアから西はモロッコに至る気候も多様な広大な地域で驚くべき斉一性を示している。イスラーム法は歴史的、地理的に高度な安定性を有していることは、今日の「領域国民国家」による「国民教育」の洗脳による思想の国家管理の下においてさえ、イスラーム世界では、イスラーム法学のアラビア語の標準的古典が、公教育の内外で今も教えられ続けていることから誰にでも容易に見て取ることが出来る。
「イスラームにおいては、『法の支配』は西暦12世紀より前に定式化されており、いかなる官吏も法を超越していると主張することは出来ず、カリフでさえも同様であったのである。」[i]
このイスラーム法と比較すると、現代世界で法的安定性をいくらかでも主張できる法体系は僅かにイギリスのコモン・ローだけであるが、そのイギリスですら、「法の支配」の原則がエドワード・コーク(d.1634)らの努力により成立したのは17世紀の末であり、今日のコモン・ローの形が完成するのは、1873―1875年にコモン・ロー法廷とエクイティ(衡平法)法廷が併合されて以降である。[ii]
20世紀の最も影響力のある法哲学者の一人と言われるH. L. A.ハート (d.1992)はその主著『法の概念(The Concept of Law)』の中で、オースティン (d.1859)の「法の主権者命令説」を批判して、支配者によるその場しのぎの恣意的な命令は法と呼ぶことはできないと論じている。2008年に麻生政権の下で制定された12000円の定額給付金、2009年のオバマ政権の下で下院が可決したAIGのための二億ドルの公的支援、幹部の給与への90%の課税の法案のようなものは、たとえ立法府によって制定されて「法律」となったとしても、「法」の名には値しない。実のところ、そのような「法律」による支配は、ドイツ流「法治国家(Rechtsstaat)」ではあっても、「国民代表」のフィクションで粉飾し「議会」の影に隠れた少数の為政者たちによる支配、「法の支配」の名を借りた「人の支配」に他ならないのである。現代世界には、法治国家は存在するとしても、「法の支配」の理念はもはやどこにも存在しないのである。
「法の支配」の不在が最も明瞭になるのが法学教育である。既述の通り、イスラーム世界では、公教育の内外で初等教育レベルからイスラーム法学標準古典教科書に基づいた法学教育がなされている。ところが振り返って、日本を例にとるなら、法学は義務教育の小学校、中学校のカリキュラムには全く含まれておらず、日常生活と遊離した憲法のごく一部のみが中学の「現代社会」などで教えられるのみであり、刑法の殺人罪さえ教えられないのである。法学の基礎さえ全く教えられていない市民が、他者を裁く裁判員になることを強制される日本のような国に「法の支配」などそもそも存在しようが無いのである。
経済学者ですら理解できないような複雑な構成のデリバティブだけでなく、現代資本主義社会の取引の多くは、読みきれないような大部の冊子の契約によって成り立っている。
「法の支配」は、法がそもそも人々の理解し納得できるものであって初めて成立する。既述の通り、イスラームは付帯条項付約款を禁止する。「クルアーンの中にない附款を設ける者たちがどうしたというのか。クルアーンにない附款は、たとえ100の附款がつけられていようとも無効である。」 (アル=ブハーリー、ムスリム)とのハディースにこの上なく明らかな通り、イスラームの「法の支配」は、高価な弁護士を雇う大企業が法律を操って民衆を支配するこのような煩雑化した現代の資本主義の商取引のあり方を総体として否定するものである。
5.イスラーム経済と社会
前章で述べたように、ムハンマド・バーキル・アル=サドル、解放党らの「現代イスラーム経済学」は、財産を、国(カリフ)有財産、私有財産、公有財産に分類する。つまり、イスラームにおいては、私人と個人の間の社会の自律性が確保されなければならないのである。上記の通り、イスラームは付帯条項的約款を認めない。しかし、そのことは、「国家」が契約の全てを管理し、法的に禁止しなければならない、ということではない。
そもそも来世での懲罰と褒章によって行為を分類するイスラーム法は、その性格上自然人のみを対象とし、「国家」のような法人概念が入りこむ余地は無い。イスラーム法上の禁止とは、あくまでも、来世における懲罰に値する行為であり、必ずしも現世で為政者カリフがその取締りに責任を負うとは限らない。
付帯条項付約款が無効とされる一方で、「ムスリムは条項(shrūţ)に縛られる」(アブー・ダーウード)のハディースが説く一般原則は、ムスリムが自らなした約束を遵守すべきことを教えている。それゆえ、付帯条項的約款も、現代西欧社会的意味で法的保護を受けない、つまり訴訟において有効とされ、公権力によって強制されないとしても、道徳規範・社会規範として、私的道義的、及び社会商慣習的には、一定の拘束力を有し、人々がそれに納得する限りにおいて流通することには問題は無いのである。
このような商業規範は実はlex mercatoriaとして、国家機能が肥大する以前の西欧にも知られていたものである。 “Even though it is not commanded by any state or powe-center, or
backed up with sanctions, the lex mercatoria has neverthless a positive
rather than a purely notional or moralistic existence.”p.94.Jeremy Waldron,
“Cosmopolitan Norms”Seyla Benhabib, Another Cosmopolitanism, Oxford,
2006
つまり、規範の遵守は、国家・政治ではなく、商人の信用に基づく淘汰によるサンクション、つまり市場に委ねられていたのである。このような経済のありかたこそ、国家・政治の介入による立法と制定法の強制執行ではなく、経済が、社会、あるいは市場の自律性に委ねられている、という意味で、真の経済自由主義と呼ぶべきものなのである。
このように見ると、現在アメリカがその旗印の下にグローバリゼーションを押し進めている経済自由主義とは、経済の自由化ではなく、アメリカの軍事政治的覇権を背景に自らに有利な商形態を恣意的な罰則を定める法律により強制する国家主義経済の偽装であることが明らかになるのである。
イスラームは、カリフの責任である(1)戦利品、(2)浄財、(3)ファイの管理を除き、「経済」活動を社会に委ね、原則的には、イスラーム法に反する契約にも、訴訟に際して法的保護を与えないというネガティブな形でしか干渉しない。しかし、例外が利息(リバー)である。 信仰する者たちよ、アッラーを畏れ身を守り、利子の残りを放棄せよ、おまえたちが信者であるならば。(2:278)
おまえたちが行わないならば、アッラーと彼の使徒からの戦いと悟れ。おまえが悔い改めれば、おまえたちの財産の元本はおまえたちのものである。おまえたちは不正をなすことはなく、不正を受けることもない。(2:279)
②戦利品:イマーム(公益)、軍、貧者、孤児、旅人
③ファイ:イマーム(公益)
(イスラーム以外の教育、医療などは民間)
*金貨銀貨鋳造
The Islamic specie is only gold and silver
as clause 130 of Al-Majallah, a civil code of the Ottoman
Caliphate, prescribes that the Nuqud(species) are gold and
silver, and its commentator Ali Haidar explains that the banknote,
or paper money, is just a commodity (not money). So, we, Muslim nations should
mint gold Dinar and silver
現世の延長上に来世が組み込まれている(本質的に同じ効用・財・サービスの論理で処理可)
イスラーム財産法の特徴
•
「1940年代から散発的に続けられてきた様々な理論的探求」
•
長岡慎介「2つの国際会議から見たイスラーム経済研究の現在」『イスラーム世界研究』,2-1,2008,p.279.
•
2潮流:(1)経済システム創出、(2)経済法規適用のみ
•
(1) シーア派:1960-70年にシーア派のイスラーム思想家たちはユニークなイスラーム経済哲学を発展させた。Mahmud
Taleqani, Islam wa Malekiyyah(1951), Muhammad Baqir Al-Sadr, Iqtisadu-na(1961)(『イスラーム経済論』(1993), (Wikipedia, Islamic Economic Jurisprudence)
•
* 実はスンナ派のHizb ut-Tahrirが先行:Taqi Al-Din
al-Nabhani, Al-Nizam Al-Iqtisadi fi Al-Islam(イスラームにおける経済システム)(1949/52), Abdurrahman al-Maliki, al-Siyasah al-Iqtisadiyah
al-Muthla(理想的経済政策)(1963)
•
(2)1976年第一回イスラーム経済国際会議(サウジ・ジェッダ)(2008年第7回)
•
1977年Islamic Economic Research Center(キング・アブドルアズィーズ大付属)
•
1984年International Association for Islamic Economics
「2つの国際会議から見たイスラーム経済研究の現在」279ミクロ経済 財産法の合法/違法(利息など)
*マクロ経済
収入: ①浄財、②戦利品、③ファイ
(浄財・ジズヤ以外の)徴税の禁止
価格統制の禁止
通貨論
cf., Aziz Abdul,
Ekonomi
Islam Analisis Mikro dan Makro,
2008, Grah IlmuYogyakarta
① 法人概念の不在
イスラーム法は来世での賞罰によって定義される。 = 神学的必然
② 二つ以上の約款の付いた契約の無効
(複雑な契約は全て無効)
③ 負債:強制取立、利息、債務奴隷の不在
浄財から救済、3回帳消で喜捨
②有効/無効
*ネガティブに「違法でない」
*ポジティブなイスラームの理想との合致
ムハンマド・ナジャトゥッラー・スィッディーキー:イスラーム金融研究の現状「初期のイスラーム経済研究が常に念頭に置いてきた望ましい経済システム・経済制度像のような理念的なビジョンが欠如」 「2つの国際会議から見たイスラーム経済研究の現在」p.281.
*イスラーム法の五値論理
①義務②推奨③中立④忌避⑤違法
①⑤は罰(来世)、④⑤は報酬(来世)で定義
西洋実定法に対応するのは①⑤だけだが、イスラーム法では④⑤も法的に扱える
大地はアッラーのもの=関税の禁止、労働力移動制限の禁止
*財政
①浄財:貧者、徴税吏、旅人、債務者、奴隷解放、新入信者、アッラーの道(聖戦、学問)
②戦利品:イマーム(公益)、軍、貧者、孤児、旅人
③ファイ:イマーム(公益)
(イスラーム以外の教育、医療などは民間)
*金貨銀貨鋳造
(穀物等にも通貨性、コモディティー・バスケット論と通底?)
•
*度量衡監督(hisbah) *所有権三分法:①私有、②共有、③国有
•
重要なのは「共有概念」
•
一般には共有と国有は截然と区別されない。
•
ex. Wahbah Al-Zhhaili, al-Fiqh al-Islami
wa Adillatu-hu
•
シーアで発展、共有財(水、エネルギー、農地)論 イラン・イスラーム革命の大土地所有制限の理論的根拠 (Wikipedia, Islamic Economic Jurisprudence)
•
Hizb ut-Tahrirも同じ三分法 → 石油・ガスはイスラーム共同体全体の共有財、諸国民「国家」に処分権無
•
イスラームの通貨は金銀本位制
古典:ムジャーヒド、ナハウィー、ハナフィー派アブー・ハニーファ、アブー・ユースフ、 シャーフィー派多数説、マーリキー派少数説、ハンバリー派一説
現代:サドル、ナブハーニー、マフルーフらが20世紀半ばに p.143.
Mohamed Aslam Haneef and Emad Rafiq Barakat, “Gold and Silver as Money:
A Preliminary Survey of Fiqhi Opinion and Their Implications”, Ahamed Kameel
Mydin Meera(ed.), Stable and Just Globl Monetary System - Validity of the
Islamic Dinar, Proceedings 2002 International Conference on Stable
and Just Global Monetary System, 2002, Kuala Lumpur, Research Center
International Islamic University Malaysia, p.143.
実践ではムラービトゥーン先行。1980年代にマレーシアに展開、マハティールに取り入り、政府内にも浸透。2002年国際会議。
Umar Vadillo, Fatwa on Paper
Money, 1991, End of Economics:
Islamic Critique of Economics, 1991,
Return of the Gold Dinar, 1996, Shaykh Abdulqadir As-sufi, Technique
of the Coupe de Banque, Mayurqa, 2000
その他、Ahamed Kameel Mydin Meera,Islamic
Gold Dinar, 2002, The Theft Of Nations: Returning To Gold ,2004, Imran N. Hosein, The Gold Dinar and Silver
Dirham: Future of Money and Islam, 2007
•
* 金の価格の安定性 預言者ムハンマドの時代から羊一頭1ディナール(約1万円)イスラームでは金銀だけが正貨で、紙幣はただの紙切れであり、それを通貨として強制することは許されない。
•
*浄財が課されるのは金銀だけ。紙幣には浄財はない。浄財が機能しなくなる。(だから紙幣は許されるとの転倒した議論。クウェイト・イスラーム法百科)
•
*中央銀行が発行する紙幣銀を政策金利によって借り、信用創造によって債権を取引する銀行は多重にハラーム(違法)
•
*イスラーム銀行は語義矛盾:「(銀行は)種自体がハラーム。紙幣は利息付債券。」(Abdulqadir Assufi)
•
イスラーム法は、行為の結果は来世での審判に委ねるのが基本。国家の介入が許されるのは法定刑施行等、浄財徴収などに限られる。(現在の「ムスリム国家」は施行すべき刑法は施行しない一方で、許されない監禁、税は課しており、二重に反イスラーム的)
•
*利子を合法化する政体とは戦争が義務。
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「(利息を放棄しない者は)アッラーとその使徒からの戦争と知れ。」(2章279節)
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*マーリキー派法学者クルトゥビー(d.1272):ある地方の住民が利子を合法化してそれを認めれば、彼らは背教者となり、その規定は背教者に準ずる。もし公然と合法化しなくとも、カリフには彼らを攻めることが許される。アッラーは既にそれを許し給うている, al=Qurtbi, Jami` li-Ahkam al-Qur’an, vol. 3., p.364.
•
*ハナフィー派法学者ジャッサース(d.981):(利息を取る民は)もしカリフに背くなら、たとえ彼らが背教者でなくとも攻撃されなくてはならない。Cf., Al-Jassas, Ahkam al-Qur’an, vol.1, p.471.
•
*イスラーム国家の任務は、二重に違法な「自称イスラーム銀行」など創ることではなく、利子を認める集団と戦い殲滅すること。
•
*民主主義の「代表なくして課税無し」の代表のフィクションも否定。
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アッラー以外に、支配権(立法権、課税権)なし イスラームのミクロ経済実現には、違法な徴税や有利子銀行の物理的な排除、マクロ経済実現には、違法な課税を廃し、規定の浄財、ジズヤ、戦利品、ファイの徴収、分配、金貨・銀貨の鋳造品質管理、共有財(エネルギー資源の公共的利用)が必要。 → カリフ制必要
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* 不当な税、関税なく、人間(労働力)、金銭(資本)、モノ(商品)の自由な移動、良識に則った商売の安全が保障された「法治空間」が「ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)」
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* The origins of capitalism and free markets can be traced back to the
Islamic Golden Age and Muslim Agricultural Revolution,where the first market
economy and earliest forms of merchant capitalism took root between the
8th?12th centuries, which some refer to as "Islamic capitalism". A
vigorous monetary economy was created by Muslims on the basis of the expanding
levels of circulation of a stable high-value currency (the dinar) and the
integration of monetary areas that were previously independent.
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真の経済自由化とは経済問題を経済システムの自律性に委ねること。全ての契約の履行の国家による強制ではなく、契約自体を市場の淘汰に任せること、つまり契約不履行は、法システムによる罰ではなく、経済システムによる罰、つまりそれが不当であれば信用を失い市場から閉め出されることによる淘汰に任せること。
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* Cf. lex mercatoria “Even though it is
not commanded by any state or powe-center, or backed up with sanctions, the
lex mercatoria has neverthless a positive rather than a purely notional or
moralistic existence.”p.94.Jeremy Waldron, “Cosmopolitan Norms”Seyla Benhabib, Another
Cosmopolitanism, Oxford, 2006
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*イスラーム法は、神の認めた公正な有効な契約のみを保護し、その他は無効とし、保護もせず罰しもせず不干渉。
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*賭博、籤、利息のような欲望につけこみ理性を狂わせ、市場による淘汰が機能しない行為だけを可罰的違法とし法システムに委ねる。
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*中小企業のエンパワーメントのための独占を許さない自由市場創設
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「ムスリムの市場はモスクと同じで、どこであれ最初に場所を取った者がその日一日はそこを去るまでその場の権利を有する。」(ハディース:アブー・ウバイド)سوق المسلمين
كمصلى المصلين من سبق إلى شيء فهو له يومه حتى يدعه
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*全地球のリバーによる汚染の予言の実現
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人々が誰一人リバー(利息)を取らずにはいない時代がやってくる。直接リバーを取らない者も、その埃を被る。(アブー・ダーウード、イブン・マージャ)
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أتي على الناس
زمان لا يبقى أحد إلا أكل الربا و من لميأكل الربا أصابه
غباره
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* ハナフィー派では、ダール・アル=ハルブでの非ムス
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リムとの間での有利息の取引は合法。
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①非ムスリム国家の銀行利息は問題なく合法、
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②ムスリム国家であっても、ダール・アル=ハルブとみ なせば合法
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③法人である銀行は、ムスリムではなく、非ムスリム なので、銀行から利息を取ることは合法
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*なぜ、誰も言わないのか? イスラーム世界全土が
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ダール・アル=ハルブであるのが明らかになるのが怖いから
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主義は、資本の利益のために、需要の創出が不断に要求される、つまり欲望を解禁するのみならず欲望そのものを作り出しつつ(巨大な広告業の成立)成長を続けなければ存続できない自転車操業システム。
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* 消費と生産は通貨を媒介とし、肥大化した欲望を満たすために不断の生産を継続するには、通貨は慢性的に不足する。しかし(産業/金融)資本主義の下では、本来流用の許されない預金主からの預り金の流用を厳格な元本保証があるとの擬制により銀行に許し、利息を誘引に集めた預金を預金準備の名による信用創造で膨らませるカラクリで通貨を現金の何十倍にもし、それでも足りない場合には紛いようもない債務である国債の発行により資金を調達する。実際には全ては先送りしただけの返済の裏づけのない債務に過ぎない。
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* マレーシアの「イスラーム銀行」の実際の準備は4-6%、10%の顧客が預金を引き上げれば破産。cf.Nik
Mahani Mohammad, “Are Islamic Banking transactions truly Shariah compliant?”, The
Criteria, 2nd, Apr. 2008, p.13.
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* イスラームは債務による債務の売買、債務を通貨とすることをリバーとして厳禁。ではどうやって産業の資本調達?
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「アッラーに良き貸付をする者は誰か」(クルアーン2章245節)「人々の財産において利を増やすためにおまえたちが与えるところの利息、それはアッラーの御許では利を増やさない。一方、おまえたちがアッラーの御顔を望んで差し出した浄財があれば、それらの者たち、彼らは倍増する者たちである。」(30章39節)
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* 来世において10倍から700倍で返済。
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* アッラーの富は無限、約束は必ず守られるとの前提により、信用不安はなく満足が保証され、予め返済は来世とされ、現世での破綻は定義上ありえない。(真の「信用創造」)
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*「信じ、行いを正した者には恐れはなく、悲しむことはない。」(6章48節)
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カリフ政体は浄財、戦利品、ファイを徴収、配分する。
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カリフ政体は、不換紙幣を廃し、金貨銀貨を鋳造し、イスラーム法に反した利息、債務による債務の取引を行う銀行を廃止する。
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カリフ政体は、債務の投機的取引を禁じ、法人を認めず、自然人による中小企業をエンパワーメントするために自由市場を創設し、カジノ経済を根絶し、物価を安定させ、実体経済を奨励する。
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カリフ政体は、ダール・アル=イスラームをを分断する現行の全ての国境を廃絶し、イスラーム法の施行により、域内におけるモノ、資本、労働力の移動の完全な自由化と、取引の安全を保証し、資源の最適配分を実現する。
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カリフ政体はエネルギー資源を公共財として管理し、ダール・アル=イスラーム全体の公共の福祉に役立て、貧しい地域の住民を援助し、社会正義を実現する。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/コモン・ロー(2010年7月31日現在)。そしてこのイギリスのこのイギリスのコモン・ローでさえ、その成立はノルマン人によるイングランドの制服の際にイスラーム法の影響を受けてのこととも言われている。Cf., "The Islamic Origins
of the Common Law", Makdisi, John A., 1999, North Carolina Law Review
, 77 (5), pp. 1635‐1739.
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