2020年6月12日金曜日

コロナ禍を生きる ―人々は眠っている。死んではじめて気づく

「コロナ禍を生きる - 人々は眠っている。死んではじめて気づく」

1.序
この連載も今回で最終回ですが、前々回、前回とパレスチナとトルコという個別の問題に焦点を絞って扱ったCOVOID-19について、イスラームに絡めて巨視的に論じてみようと思います。
まず最初に言っておかなければならないのは、私の予想は大きく外れた、ということです。COVOID-19自体の出現は誰にも予想できませんでしたので、それが予想外だったのは当然ですのでそのことではありません。
本連載で何度も繰り返しているように、現代のムスリム世界にイスラームは形だけしか残っておらず、国家のレベルでも社会のレベルでも個人のレベルでもイスラームの教えは実践されていません。それはヨーロッパの植民地支配によって骨抜きにされた現在に始まってことではなく、文明的にはイスラームの絶頂期とも言われるアッバース朝時代においてすらそうでした。しかしこの話をし始めるとキリがないので、詳しくは拙著『イスラーム学』(作品社2020年)、特に第6章「末法の法学」をお読みください。
現代のムスリム国家、ムスリム社会、ムスリムの行動は基本的に全て西欧の領域国民国家、資本主義、西欧近代科学の論理に基づいており、イスラームは表面的な文化的残滓以上のものではありません。外の人間にはまるで別物に見えても、違いは表層の見かけだけに過ぎません。それはちょうど「COVOID-19」が、日本語では「新コロナウィルス」、英語ではnovel coronavirus、中国語では「新型冠状病毒」と書かれるので、日本語、英語、中国語を知らない人間にはまったく別物に見えても、実は同じものであるのと似ています。
そのことはよくよく分かっていたつもりでしたが、それにしてもここまでだとは思っていなかった、というのが予想外だった、という意味です。また私は1982年に東大のイスラーム学研究室に進学し1983年にイスラームに入信して以来、イスラーム学研究室出身のただ一人のムスリム学生であり、ずっと自分の世界観、価値観が他の日本人とは違い、理解されないことを自覚して生きてきました。またエジプト留学以来、25か国以上のムスリム国を訪れましたが、そこでも日本文化の中で育ち13-4世紀のスンナ派国法学を専門とする古典イスラーム学者として、自分たちがイスラームを実践していると信じている現代の自称ムスリムたちとも全く別の世界観を生きていることをいやというほど痛感してきました。しかしCOVOID-19に対するムスリム世界、日本の反応を見て、私自身の世界観と感性が、ここまで日本人とも現代のムスリムたちとも、勿論、それ以外の世界の人々とも、ここまでかけ離れていたのか、と我ながら驚かされました。今回はそれはなぜか、というお話をしていきましょう。

2. 専門性とは何か
 世界を巻き込んだCOVOID-19ですが、最初に事実関係についてはっきりさせておきましょう。政府も新型コロナウイルス感染症対策専門家会議などというものを立ち上げて、様々な提言を行っており、SNSでは「専門家以外は黙っていろ」といった怒声、罵声が飛び交う一方で、自称、他称の専門家の言葉があふれています。しかしそもそも「専門家」とは誰のことなのでしょうか。どんな学問分野であれ知識というものは「有る」「無い」という二値論理で語れるものではありません。ですから本来は学問に専門家、非専門家などという線引きはできません。
しかしそれでは西欧的近代社会の基盤となる研究、教育が組織できないために、できあがったのが博士という制度です。学問を「人文科学」、「社会科学」、「自然科学」に分け、それらの全てにおいて、特定の分野において世界中の先行研究を全て押さえたうえでそれまで誰一人考え付いたことがないことを確認されたその時点で反証不能とその分野の専門家によって認められた学説を立て人類に新しい知見をもたらした者にのみ博士の称号を与える、というルールを作りあげることでやっと、互いの研究内容を理解していない教員同士がすべての大学教員をひとしなみに科学の研究者として扱い学生に専門教育を提供する専門家という同業者集団としてまがりなりにも相互認知し自己組織化することが可能になり、「大学」という制度が成り立っているのです。
博士論文の審査制度からも明らかなように「専門家」の「専門」を理解できる人間は、「専門家」しかいませんので、だいたい世界中で数人しかいないのが普通です。それ以外の人間は「専門家」の「専門」分野については「客観的」には判断できません。そして「客観的」に「専門家」以外が「専門家」について、何の「専門」かについて判断できるのは、「博士論文」のテーマだけです。勿論「博士論文」のテーマの内容を理解できる、というわけではありません。博士論文のテーマにまで専門性を狭く絞ると、その「分野」の「専門家」ですら査読者に選ばれた数人をのぞいて本当には理解できないのが実態です。素人が「客観的に専門性を判断できる」というのは、内容がわかなくても、そのテーマに関しては、それで博士の論文審査が通っている以上、その研究者がその論文のテーマに関してだけは全く目を通さなくてもそれがその者の専門であると、判断して良い。
医学の専門家などというものはいないのは勿論、伝染病の専門家、インフルエンザの専門家などというものはいません。たとえば、私の場合、本当に専門と言えるのは、13‐14世紀にシリア、エジプトで活動し膨大な著作を残した大イスラーム学者イブン・タイミーヤ(1328年没)の政治哲学だけです。「イスラーム学の専門家」や「イスラーム法学の専門家」はもちろんな存在しませんし、「イブン・タイミーヤの専門家」でさえいません。医学を例にとるなら、私の持病の痛風のような古来からあり標準的な治療法が確立している病気でも、痛風の全てを知っている専門家などいません。例えばインターネットで検索してみると痛風に関する博士論文として獨協医科大学の染谷啓介「痛風の実験的研究 : 尿酸塩結晶食作用に及ぼすvinblastineの影響」、慶應大学の安田大輔「尿酸のラジカル消去機構を規範とした新規抗酸化活性医薬品リード化合物の創製研究」、近畿大学の中尾紀久世「漢方医学に学ぶ薬食同源素材からの尿酸生成阻害作用生薬、並びにその有効成分の探索に関する研究」などが見つかります。これが専門というものです。博士論文のテーマ以外については、専門である場合もあれば、違う場合もある、としか言いようがありません。医者の場合は、専門医という制度もあるので、たとえば痛風専門医はそれ以外に比べれば痛風に詳しいぐらいのことは言えますが、それは研究者のレベルでの専門性とは違う話です。たとえば日本救急学会、外傷医学会専門医の木下喬弘先生は「『専門家』って微妙な用語で、例えば峰先生はウイルス学者ですが感染症臨床の専門家ではないし、EARL先生は感染症臨床の専門家ですが基礎研究やってるわけではないです。私は救急医療が専門で公衆衛生もやってますが、同じく基礎研究はわかりません。そして3人とも感染症疫学が専門とは言い難い。」とツイートしています。
博士論文以外にも学会誌に発表された学術論文によって専門性を判断することも理論的には可能ですが、実際には自分自身がその分野の博士クラスの研究者でなければ難しいでしょう。最近話題になったABC予想の証明が良い例です。最も厳密かつ客観的と思われている数学ですら、京大の望月教授の論文が国際学術誌『PRIMS』に受理されるのに査読が7年あまりに及び、しかも欧米で意義が相次いでいます。「学術論文」は玉石混交であり、箸にも棒にもかからないゴミのような「石」が大半な一方で、逆に研究者のレベルなら一定の手続きさえ踏めば誰でも同じような結論を導ける程度の博士論文と違い、「玉」の場合は同じ分野の同業者でも見解が分かれることもあり、「専門家」でない人間には判断のしようがありませんので、結局、誰が何の「専門家」なのか「素人」にも分かる基準としては博士論文のテーマを調べて、それと照らし合わせるしかない、ということになります。もちろん、博士論文で扱っていなくても、十分「専門家」並みに詳しい人というのは居るのですが、それは「検証」できないので、その言葉を信ずるかどうかは、占い師の占いを信ずるのと変わらない、「客観的」でない、というのはそういうことです。
そして大学の博士の期間は特例はあっても5年が標準です。COVOID-19は2019年の冬ですからまだ発見から半年ほどしか経っていません。どんな分野であれ、半年かそこらの研究で「専門家」を名乗れるほど、「学問」とは安易なものではありません。特にCOVOID-19のように狭義の医学の研究だけとっても発生源とされる中国が政治的な理由から、調査、研究、その発表の自由を制限しており、基本的なデータさえ十分に得られないところでまともな専門的学術研究がなされようがありません。更に公衆衛生のような、医学だけでなく経済、政治、政治も世界各国のそれぞれの国内法の違いまで考慮しなければならないような分野に「専門家」などまだいるはずがありません。




3.科学と価値観
と、関係のなさそうな話を延々と論じてきたのは、要は、この問題に関して、政府の専門家会議も含めて誰一人「専門家」などおらず、自称、他称の「専門家」たちの言うことも、現段階ではとても学術的に厳密な議論といえるものではないので鵜呑みにしてはならない、ということです。逆に言えば、「専門家」たちでさえいい加減なデータに基づいた大雑把な議論しかできないのですから、誰でも過去の伝染病の事例などに基づいて雑な議論をしてもよいということです。
もう一点、重要なのは、科学が語るのは事実「Sein(ある)」だけであり、規範「Sollen(すべし)」ではない、ということです。ですから、医学の専門家の科学的根拠に基づいていると謳っていても「~すべき」という提言は、たとえ「専門家」たちの言葉であっても彼らの「専門知」に基づくものではなく、すべて個人的価値観による意見の押し付けでしかありません。
 医者の場合、たとえ明日処刑が決まっている死刑囚であっても健康な状態で処刑できるようにその健康維持に最善を尽くす、といった極端な人命尊重の職業倫理を有する人々です。そういう価値観を有する人の提言が目の前にいる病人の命の尊重に極端に偏ったものになるのは無理もないことです。数字に表れる富の増大を至上価値とする経済学者、万事を自己の権力の増大の手段として利用する政治家の提言が偏っているのはなおさらです。
 と、前置きはここまでにして、なぜ私がCOVOID-19に対する世界の対応が予想外だったのか、具体的にお話していきましょう。

4. 歴史の中の伝染病
 生理学博士で進化生物学者でもあるダイヤモンド博士は『鉄・病原菌・銃』の中で、ヨーロッパの植民地主義者たちによる先住民の抹殺において、伝染病の方が武力よりも大きな役割を果たした、と述べています。
「インフルエンザなどの伝染病は、人間だけが罹患する病原菌によって引き起こされるが、 これらの病原菌は動物に感染した病原菌の突然変異種である。家畜を持った人びとは、新しく生まれた病原菌の最初の犠牲者となったものの、時間の経過とともに、これらの病原菌に対する抵抗力をしだいに身につけていった。すでに免疫を有する人びとが、それらの病原菌にまったくさらされたことのなかった人びとと接触したとき、疫病が大流行し、ひどい ときには後者の九九パーセントが死亡している。このように、もともと家畜から人間にうつった病原菌は、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸、南アフリカ、そして太平洋諸島の先住民を征服するうえで、決定的な役割を果たしたのである。」
 これまで多くの伝染病の流行にもかかわらず、かつては今よりはるかに人口が少なく医学も未発達でそれらの伝染病に対する有効な治療法もなかったにもかかわらず人類が今日まで生き残ってきたという事実自体が、医学が発達し人口も急増し80億人に達しようとしている現在、人類というレベルで伝染病がその存続を脅かすリスクは限りなく小さいと言えるでしょう。14世紀のペストの世界的大流行では当時の人類の推定総人口4億5000万人が3億5000万人にまで減少したと言われていますが、それでも人類は生き残ったどころか、ヨーロッパでは労働人口の減少により労働条件の改善と農工業の効率化がはかられ、社会、経済が発展したとも言われています。最近の最大の伝染病の流行は1918-1920年のスペイン風邪(インフルエンザ)の流行で、当時の地球の総人口20億人弱のうち2千万人から4千万人が死んだと言われていますが、それによっても人類は滅びず、その後も人口は増え続け、今やむしろ多すぎる人口が問題となっています。
スペイン風邪のグローバルな流行は人類の滅亡が懸念されるほどの危機にはいたらなかったばかりか、民族の消滅、国家崩壊はおろか、さしたる社会問題も引き起こしませんでした。『鉄・病原菌・鉄』は、伝染病は人類全体を滅ぼすほどではなくとも、民族、国家のレベルでは存亡の危機とも言える脅威となりうることを教えています。しかしCOVOID-19は対症療法しかなくまだ誰も免疫を持っていないとされる(私は本当かどうか疑っていますが)状態でも感染者の致死率はシンガポールなどでは1%を下回っており、医療崩壊が起きている場合でも10%ほどでしかありませんので、地域的な民族、国家レベルでさえもその存在を脅かすほどの危機ではないことは明らかです。
私たちがよく知る世界史上の民族、国家レベルでの存亡の危機となった伝染病は、1346年から1352年にかけて流行し当時のヨーロッパの全人口の4分の1が失われイングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し全滅した街や村もあった黒死病(腺ペスト)です。しかし既に述べたようにヨーロッパは医学的には有効な治療法を発見できないままにペスト禍を克服し、それどころか遡及的に分析するなら、後の産業革命、科学革命の準備をすることになりました。

5.イスラームと伝染病
前回述べた通り、イスラームは預言者ムハンマドとその弟子たちの正統カリフの時代にペスト(ターウーン)の流行に遭遇しています。そしてターウーン(伝染病、腺ペスト)にに対しては、その地への人の出入りを禁ずる、とのロックダウンの法規定が定められています。実はこの規定は「天使たちは言う。『アッラーの大地は広大ではないか。その中で移住せよ』」(クルアーン4章97節)と、大地は全て神のものであると宣言し、「大地を旅し、(アッラーが)いかに創造を始めたかを考察せよ」(クルアーン29章20節)と、人間の移動の自由を認めるのみならず神の創造の御業を想うために世界を見て回ることを積極的に勧めるイスラームの教えの中で例外的に移動の自由を制限するものです。
 クルアーンに「我ら(アッラー)は使徒を遣わさない限り、罰することはない」(クルアーン17章15節)、「律法(トーラー)が降示される前には、イスラエル(ヤコブ)が自分自身に禁じたものを除き、すべての食べ物はイスラエルの民に許されていた」(4章93節)とある通り、スンナ派イスラームは人間の義務負荷は理性ではなく啓示により、預言者によって法が与えられない限り人間は「自由」であり、すべては許されている、と教えます。
 「自由」と「権利」について本格的に論じ始めると更に10回連載を続けても足りませんので、ザックリとした話をすると、イスラームは(近代ではなく)現代西欧的な人権は認めませんが、絶対的な自然権と啓示による義務の反射としての権利を認めます。
啓示による義務の反射とは、神が殺人、窃盗を禁じているので、生命、財産の尊重の義務が生じ、その反射として生命、財産の権利が生れることを意味します。イスラーム法理学はイスラーム法の義務の反射として生ずる権利を、身命、財産、理性、血統/名誉、宗教の法益に整理します。
絶対的自然権とは、人間が作ったのではない自然に対する処分の「自由」です。人は開いているところであれば陸であれ海であれどこでも好きなところに移動することも、留まることもでき、木の実であれ、魚であれ、動物であれ、石油であれ、好きに取って処分できることを意味します。私がこれを「絶対的自然権」と呼ぶのは、法を前提とする義務の反射ではないからです。ですからどこにでも行くことができる、と言っても、自分に移動手段があればの話で、体が不自由で動けなかったり、遠方で乗り物がなくてたどり着けなかったり、船がなくて海や川が渡れなかったからといって、誰かが連れていってくれるわけではありません。木の実にしろ、動物にしろ、魚にしろ、石油にしろ、自分で手に入れれば好きにして構いませんが、自分で取ってこなければ、誰も持って来てはくれません。
この「絶対的自然権」とは、「権利」というよりむしろ「事実」そのものに近い、西欧的な「権利」が発生する起源にある最も根源的な「規範」である「自由」としての「事実」です。イスラーム法の義務の反射として生ずる権利は、啓示の神への信仰を前提としますが、この「絶対的自然権」は、神の顕現に先立って生成する権利です。つまり絶対的自然権はイスラームの第一信仰告白「ラー・イラーハ・イッラー・アッラー(no god but Allah)」の前段「ラー・イラーハ(no god)」に基づくもので、無神論者、世俗主義者、理神論者とも共有できる政治的議論のプラットフォームだと私は考えています。私が国境の廃絶、領域国民国家の牢獄からの人類の解放としてのカリフ制再興をムスリム諸国のムスリムたちだけでなく宗教にかかわらず日本人相手にもずっと説き続けているのはこのためです。残念ながら、「絶対的自然権」、つまり究極の「自由」を信じないリヴァイアサンの偶像崇拝者、多神教徒には話が通じませんが、それは自称ムスリムでも、それ以外でも同じことです。
この連載でも、それ以外の場所でも、現在のムスリム世界がイスラームとは無縁、自称ムスリムたちが名ばかりで、実態はリヴァイアサンの偶像崇拝者でしかないことは繰り返し繰り返し述べています。ですから今更、COVOID-19に対する対応がイスラームの教えに反しているからといって、驚きはしません。しかし、今述べたように、ロックダウンは絶対的自然権、「自由」の制限ですので、特別な、意味を持ちます。カリフ制再興を自らの使命と心得る私にとっては特に、です。そこでこの問題を少し掘り下げましょう。
前回詳しく述べたように、ハディースにある「ターウーン」の流行時のロックダウンが狭く「腺ペスト」を意味するのか、伝染病(ワバーゥ)一般の規定なのか、そしてまたロックダウンが厳密な移動禁止規定なのか、柔軟な行動指針としての推奨規定なのかは、イスラーム法学者の間でも見解が分かれています。私自身は、ハディースのターウーンは腺ペストを指しているが、他の伝染病にも状況に応じて類推して行動指針とすることができる、と考えています。
というのは、預言者の時代のアラブの間では都市は伝染病が多いことが知られており、特に伝染病の多くでは幼児の死亡率が高いため、新生児は乳母をつけて砂漠に送って育てさせる習慣があったからです。預言者ムハンマド自身も乳母ハリーマによって砂漠で育てられました。また預言者が移住した農村であったマディーナは岩山の商都マッカと比べても、より湿気が高く更に伝染病が多い土地であり、預言者ムハンマドと共にマッカから移住した教友たち(ムハージル―ン)たちはその気候を嫌っていました。それにもかかわらず新生児を砂漠に送って乳母をつけて育てさせるアラブ人の慣習は、慣習としては残りますがイスラーム法には組み込まれませんでした。ですから、通常の伝染病には状況に応じて個々人が理性で判断すればよく、共同体の存続を脅かすターウーン(腺ペスト)にだけ、絶対的自然権を制限し人々の移動を禁ずるロックダウンを行動指針として定めた、と考えるのが妥当だと私は思います。
 スンナ派ムスリム世界はおおむね、ロックダウンを命ずるターウーンを典拠に国際線の乗り入れを全面的に停止したり、国内でもさまざまなレベルの移動制限を実施しています。私は個人的には、COVOID-19は現存する数々の伝染病と比べてもターウーンと類推するほどの脅威ではなく、むしろ風邪やインフルエンザと同じような個人的な注意喚起の対応で十分であり、絶対的自然権を制限するロックダウンを強制するのは間違いだと思っています。そもそもイスラーム法は神と個人の関係を律するものであり、法人の概念は存在せず、国家によって強制されるものではありません。勿論、イスラームを知らない人間には近代国家の刑法のように映るものがイスラーム法にあるのも事実です。例えば手首切断刑が定められている窃盗罪については、クルアーン5章38節に「男と女の窃盗犯にはその手を切断せよ…」と書かれています。つまりこれは近代国家の刑法のような、窃盗犯の手首を我々が切断する、という国家による声明ではありません。そうではなく、礼拝をせよ、喜捨をせよ、といったムスリムに対する命令と同じく、窃盗犯に対してその手を切断せよ、とのムスリムに対する神の命令なのです。
この場合、命令形は複数形になっており、連帯義務を指します。連帯義務とは、誰かが行えば他の人々は免責されるが誰も行わなければ共同体の全員が罪に陥るような義務です。刑罰の執行はこの連帯義務であり、カリフとその代官が執行の義務を負い、彼らがそれを実行しなければ神に背いたことになります。ちなみに、窃盗犯は死後の最後の審判で裁かれ窃盗の罪で火獄で罰せられますが、悔い改めてこの世で手首の切断刑を受ければ、それが罪の償いとなり、来世での罰を免じられます。ただの窃盗の禁止なら、ムスリムに対する「盗むな」という命令になります。実際、普通のイスラームの規定に関しては、そのような形の命令だけで、違反者に対して刑罰を課す命令は定められていません。たとえば有名な豚肉食の禁止やラマダーン月の断食に関しては、現世でのカリフとその代理人による刑罰は特に定められておらず、禁止を守るかどうかは個人の良心に任されています。
クルアーンやハディースの中で、カリフとその代理人に対して違反者への刑罰の執行が命じられている規定、いわゆる「イスラーム刑法」をアラビア語で「フドゥード」と言いますが、フドゥードの法益は「フクーク・アッラー(アッラーの権利)」、それ以外の規定の法益を「フクーク・アーダミーイーン(人間の権利)」と呼びます。フクーク・アッラー(神の権利)と言うと、狭義の宗教儀礼のように勘違いされるかもしれませんが、そうではなくムスリム共同体全体にかかわる公益と定義されています。フクーク・アーダミーイーン(人間の権利)は婚姻法や商法などで、個々人の事情によって判断が大きく変わるもので、当事者間で解決するのが原則で、どうしても解決できず、裁判になった場合にのみ裁判官、行政官が介入することになります。
といっても、公然と禁を破った場合は、豚を食べたこと、断食を破ったことではなく、公然と神の命令を破ることで、神の法の権威の否定、ムスリム共同体全体の法秩序に対する挑戦とみなされるため、フクーク・アッラー、公益に反する罪を犯したされ、フドゥードの一つである背教罪で罰される可能性が生じますが、それはまた別の話であり、ここではこれ以上踏み込みません。
ターウーンのハディースも原文は「もしターウーンのニュースを聞いたなら、そこには行ってはならない。もしあなたがいるところにそれが発生したらそこから逃れてはならない」とあり、個々人に対する命令であって、カリフとその代官への都市のロックダウンを命ずるものではありません。これまでムスリム諸国ではターウーンのハディースを指針に都市のロックダウンなどを行っている、と書いてきましたが、正確には、ターウーンのハディースは、カリフとその代理人にロックダウンを命ずるものではなく、個々のムスリムに都市間の移動を止めるように命ずるもので、公権力による強制が命じられていない、という点で、近代国家の感覚だと都市間移動自粛勧告、といったニュアンスです。
近代国家にも国会の作る法律の他に、法律の下に行政府の発する行政命令があるように、イスラーム法にも、クルアーンとハディースに基づくシャリーア(天啓法)の規定の範囲内で、カリフには独自の状況判断に基づいて行政命令を下すことができます。しかし、預言者の後に無謬の宗教的権威の存在を認めないスンナ派イスラームでは(12代イマームが9世紀に神隠しにあってからは、シーア派も事実上同じです)、行政命令は必ずしも神の命令に沿っているとは限りませんので、ムスリムは最終的にはクルアーン、ハディースを参照しつつ、自分自身の判断で行政命令に従うか否かを決めなければなりません。同様にカリフとその代理たちも行政命令の発布の可否を最後の審判において神に糾問されることになります。
伝染病の対策としては罹患した者を隔離するのが良い、というのは経験的にもハディースに照らしても間違ってはいませんので、ターウーンのハディースを典拠としたCOVOID-19対策としてのロックダウンの行政命令は神の命令に明白に反する、とまでは言えません。しかし前回も述べた通り、非ムスリム諸国の対応と比べると、ムスリムの対応は神の命令に従うことを求めた結果ではなく、単なる覇権国の後追いであり、現在のムスリムは、非ムスリムと同じく死の脅威を煽られ不安に駆られ領域国民国家というリヴァイアサンの偶像の命令に唯々諾々と従う偶像崇拝者にしかみえません。
私はやはり絶対的自然権、移動の「自由」を制限するターウーンのハディースは、腺ペストレベルの人類レベルではなくとも地方の共同体の滅亡のレベルの脅威となる伝染病にしか類推(キヤース)しないのが正しく、ハディースの知恵は現在にも通じると思っています。

6.ウィルスの変化
ウィルスは進化が早くどんどん変わっていくためにワクチンを作ってもいたちごっこにしかならず完全な防疫は不可能です。ダイヤモンド博士も「インフルエンザがしょっちゅうはやるのは、抗原の部分がちがう新種のインフルエンザ ウイルスが登場しつづけているせいである」と言っています。生まれたばかりのCOVOID-19にしても既に3つの型に分化しています。京都大学大学院医学研究科の上久保靖彦特定教授らの研究グループによると新型コロナウイルスには最初に発生した無症候性も多い弱毒性のS型、それが変異したK型、武漢でさらに変異した感染力の強いG型の3種類があり、日本人には新型コロナウイルスの免疫があったので死者数を抑え込むことができたことになります。日本政府が武漢以外の国からの入国制限を始めるのが遅かったおかげで、K型への集団免疫ができ、感染力や毒性の強いG型の感染を大幅に抑えることができた、つまり他国に比べて入国制限のタイミングが遅かったために、逆に感染予防に功を奏した、ということです。米スタンフォード大学の生物物理学者マイケル・レヴィッド教授は、英紙テレグラフで「都市封鎖は、国民の生命を守るよりもむしろ多くの死亡者を出す結果を招いている」と英国での都市封鎖に異を唱え、「専門家が統計を誤って読み解き、新型コロナウイルス感染症の実際の疫学を誤ってモデル化している」と指摘しています。また20年1月に中国で新型コロナウイルスの感染が拡大した際、武漢市の感染者数と死亡者数のデータを独自に分析し、「新型コロナウイルス感染症による死亡者数は3250名程度にとどまる」との精緻な予測に成功したノーベル賞受賞者でもある生物物理学者マイケル・レヴィッド・スタンフォード大学教授は、COVOID-19感染症が発生すると、都市封鎖など、感染拡大防止のための措置が講じられるか否かにかかわらず、2週間にわたって指数関数的に感染者数と死亡者数が増加したのち、増加ペースが鈍化するという数理パターンが認められると分析し、「COVOID-19には感染拡大防止のための措置とは無関係の独自の動力学があるのかもしれない」と述べています。また前回紹介したトルコ東部の80万にが収容されているシリア人難民キャンプでもCOVOID-19対策をしないうちに集団免疫が成立し劣悪な医療環境にもかかわらず死者がゼロであった、という例も、騒ぎ立てずにいつの間にか集団免疫が成立している、というのがCOVOID-19対策として最善であることの例証となっています。また医療崩壊を起こし6月1日の時点で3万人以上と世界でも3番目の死者を出しているイタリアのサンラフェーレ病院の院長は臨床的観点からCOVOID-19が変化し弱毒化し致死力が大幅に低下していると述べています。
勿論、最初に述べた通り、COVOID-19についてはまだ本当の意味での専門的な学術研究は蓄積されていませんので確かなことは言えません。また仮に上久保教授の研究が正しかったとしても、入国制限を遅らせたことで感染を抑えられたのは偶然的要素が強いので、対策をしないのが最善と言い切ることなどできないのは当然です。しかし5月27日時点での日本のCOVOID-19による死者は公式発表ではわずか882人です。ちなみに2018年の日本の年間死亡者数は約136万2482人で、死因の1位は腫瘍で37万3547人、2位は心疾患20万8210人、3位老衰10万9606 人、第4位は脳血管疾患で10万8165人、第5位が肺炎で9万4654人です。COVOID-19の場合、死亡率は低く症状が出た場合でも、実際に死ぬのはほとんどが肺炎を起こした場合です。肺炎は、誤嚥性肺炎3万8462人を合わせると13万3116人で日本人の死因の第3位になります。1年を通じて肺炎で約13万人がなくなっている事実を鑑みて、約半年で千人弱しか死亡していないCOVOID-19肺炎を特別視することにどれだけ意味があるのでしょうか。多くの批判を浴びている厚生省のクラスター対策班の西浦教授による全く対策を行わなかった場合の試算に基づく最大の見積もりでさえ推定死亡者数は42万人にでしかありません。これは共同体レベルの滅亡の脅威にはほぼ遠い数です。腫瘍による死者数に近い数ですが、腫瘍の予防と治療などの対応に比べてもCOVOID-19に対する反応はやはり常軌を逸しているとしか言えません。
精神科医の和田秀樹国際医療福祉大学院教授も、アメリカでは2017~18年のシーズンには6万人以上の死者を出していたが、アメリカからのインフルエンザの感染を防ごうとの動きは一切なかったし、アルコール関連死も年間約5万人だがアルコール全面禁止化の動きもない事実をあげ、東京で推定感染経験者数約83.7万人、感染して入院した者の累計で4880人、死亡者数189人(5月11日現在)の病気をそこまで特別視する必要があるのか、と問いかけます。目前の『感染拡大』にばかりとらわれ他の重要なことを冷静に考えないこうした対応を、和田先生は「視野狭窄」と呼んで批判しています。
日本の年間死亡者数を見たところで、人口動態による共同体の存続への脅威という観点からCOVOID-19の問題を考えてみましょう。COVOID-19は完全に放置しなんの対策も講じなかった場合でも最大42万人の死者しか出しません。ところが厚労省の2018年の人口動態統計によると2018年の出生数と死亡数を比べると 91万 8397人に対して136万2482人で44万4085人の減少です。これは2017年と比べるとそれぞれ94万6065人と134万397人で39万4332人よりも更に4万9753人減少していますが、この人口の自然増減は数・率ともに12 年連続で減少かつ低下しているのです。つまりCOVOID-1に全く対策を講じなかった場合最悪の死亡数の見積もり42万人よりも、人口の自然減44万4085人の方が多く、しかも今後ますます減少することが予想されているのです。日本という国、日本人の共同体の存続にとっては、COVOID-19よりも出生数の減少と高齢化社会の進展による死亡率の増加の方が遥かに重要で緊急性がある問題であると私は思います。
またCOVOID-19の感染爆発を抑えるため、自粛要請と称して、多くの店が閉店を強いられ、統計の数字にはまだ表れていませんが、多くのバイトや契約社員が職を失い、既に倒産、廃業した会社も少なくありません。COVOID-19による自粛要請による経済的被害が1997年の消費税の3%から5%への引き上げに端を発しアジア金融危機のあおりで山一証券などの金融機関が倒産し1997年度、1998年と-0.7%、-1.9%と2年連続マイナス成長を記録した平成不況のものより大きくなるのは確実ですが、平成不況では自殺者の数が1998年に前年の2万3494人から8261人急増し3万1755人となって以降は10年余り3万人前後の状態が続きました。
こういったことを考え合わせると効果が不確かであるにもかかわらず絶対的自然権である移動の自由を制限するロックダウンを強制するよりも、年間の事故死、病死、自殺などの数ある死亡の原因と数と現在まで明らかになっている範囲でのCOVOID-19の危険性と予防法と罹った場合の対策の「客観的」な情報を官民をあげて提供し、どうするかは個々人の判断に任せるのが、もっとも適切な対応だと私は思います。
勿論、ウィルスが変化しやすいということは逆に強毒化する可能性もあり、より警戒を強めるべき、とも考えられるかもしれません。しかしそれを言うならそもそもまったく未知の致死率百パーセントで空気感染し潜伏期間が長い人類をあっという間に滅ぼす新型ウィルスが現れる可能性もあります。私はCOVOID-19が中国が開発した生物兵器だったとは思いませんが、将来中国、ロシア、アメリカなどが凶悪なウィルス兵器を開発するかもしれません。そうなると未知のウィルスに対応できるようにあらゆる場合を想定した医学の研究に、国家は安全保障の予算の最大限を割かなければならなくなります。いや、それなら伝染病より危険は大隕石の衝突への備えはどうするべきなのでしょう。こううい愚かな思考を「杞憂」と言います。

7.不安の伝染と自粛警察
分子生物学者の福岡伸一もCOVOID-19について「エボラ出血熱やマールブルグ病のような致命的なウィルスが攻めてきたわけではない。むしろ致死率が高いウィルス病は、宿主を殺してしまうゆえに広がることが少ない」と述べ、「世界を混乱に陥れた」のは「急速に伝播されたのはウィルスそのものというよりも、人々の不安である。これほど大きな社会的・経済的インパクトが地球規模でもたらされるとは、誰も予想できなかった。」と述べています。私もこの福岡氏の「現実的な」意見に賛成です。危険度とは釣り合わない巨大な社会的・経済的インパクトを地球規模で及ぼし世界を混乱に陥れたのは、ウィルスではなくて人間の不安であり、不安を煽ったメディアです。
「コロナ禍」が起こる前には、不安を煽るのが商売のメディアの格好の題材がイスラーム・テロでした。「コロナ禍」の後では、彼らが煽ったイスラーム・テロなどたとえ起こったとしても、通常の犯罪の誤差として無視できる些末事だったことが誰の目に明らかになったかと思いますが、そもそも起こる確率自体が殆ど存在しませんでした。実際に日本ではイスラーム・テロなど一件も起きていません。まぁ、イスラーム研究者としては、そういうデマでも、文科省や外務省がイスラーム・テロ対策のポストを設けて、イスラーム地域研究者の若手の就職先が広がりましたので歓迎ですし、この連載自体がそうした言説の産物とも言えるわけですが。「コロナ禍」はイスラーム・テロとは規模が3桁違いますが、それでも共同体にデモグラフィックな変動をもたらすようなリスクではそもそもありません。それを、世界を分断し、政治・経済・社会的混乱を引き起こす大問題にしてしまったのは、COVOID-19の危険を書きたて不安を煽ったマッチポンプのようなメディアの責任が大きいと私は思っています。
前々回、パレスチナで日本人がコロナと呼ばれて嫌がらせを受けた問題を取り上げましたが、中国で発生したとされるCOVOID-19問題には最初から差別と他罰的行動がつきまとっています。自分は健康であり、COVOID-19をうつす他者を隔離させる自分の行動は正しく、それに従わない者は悪である、というのがその論理です。それが民族レベルで表れたのが、新しい「黄禍論」とも呼ぶべき東洋人差別でした。欧米での感染者数、死亡者数が東アジアをはるかに超えた今も、2020年5月12日付のドイツの地方紙が、デュッセルドルフにあるミシュランの星付きレストランの料理長がSNS上で「中国人はお断りだ」と書きこみ、それに対して中国系をはじめとする多くのネットユーザーから「人種差別」との批判が噴出したと報じています。
14世紀のヨーロッパでのペストの大流行に際しては、当時のキリスト教会はペストをユダヤ人のせいにし、1391年には「ユダヤ人に対する聖戦」を煽動し暴徒がユダヤ人街を襲いおよそ4万1000人のユダヤ人を殺害したと言われる他、ヨーロッパ各地で多くのユダヤ人が殺されています。現在のヨーロッパではまだこのような事態は生じていませんが、中東、アフリカでCOVOID-19が蔓延し、COVOID-19の感染が疑われる難民が大挙してヨーロッパに押し寄せるようなことがあれば、ヨーロッパが「先祖返り」することは十分に考えられます。中世の宗教は現代では民族であり、民族浄化が「現在の魔女狩り」です。ユーゴスラビア内戦や、コソボ紛争などで起きた民族浄化を思い返せば、デモグラフィックな大変動を伴う民族問題が今日において大きな危険を秘めていることが分かります。
この「魔女狩り」が、内側に向けられたのが、「自分は健康であり、COVOID-19をうつす他者を隔離させる自分の行動は正しく、それに従わない者は悪である」という「自粛警察」です。自分は陰性であると決めつけ、COVOID-19陽性であるかどうかも分からない他人を家に監禁し、外出する時は他人から離れること、マスクを着けることを強要し、あまつさえ飲食店などの営業妨害をしてまわるのが「自粛警察」で、大日本帝国の隣組を思い出させます。サウジアラビアで暮らしていた私は、「ムタウワー」と呼ばれる「宗教警察」が頭に浮かびます。
そもそも病人は犯罪者ではないので犯罪者扱いすること自体が間違い、というより罪ですが、相手が罹患者であるかどうかも分からない、罹患者であっても接触したからといっても感染するかも分からない、また感染したからといって症状が出るかも分からない、しかも自分自身が罹患者かもしれない(陰性証明があっても、それが間違っているばあいもあれば、その後に罹患した可能性があるので同じことです)と、誤った前提にたって可能性の低い憶測の上に憶測を重ねた妄想から生まれたのが「自主警察」です。視野の狭さと独善を特徴とするこの「自主警察」現象は、残念ながら洋の東西を問わずどこにでも存在します。
アメリカの実験心理学者アーヴィング・ジャニスは、集団がストレスにさらされ、全員の意見の一致を求められるような状況下で起こる思考パターンを「集団的浅慮」と呼び、その兆候として、以下のような特徴を挙げています。(1)代替案を充分に精査しない、(2)目標を充分に精査しない、(3)採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない、(4)いったん否定された代替案は再検討しない、(5)情報をよく探さない、(6)手元にある情報の取捨選択に偏向がある、(7)非常事態に対応する計画を策定できない。和田秀樹先生は、この「集団浅慮」に陥った集団には、(1)自分たちは無敵だという幻想が生まれる、(2)集団は完全に正しいと信じるようになる、(3)集団の意見に反対する情報は無視する、(4)ほかの集団はすべて愚かであり、自分たちの敵だと思う、(5)集団内での異論は歓迎されない、(6)異論があっても主張しなくなる、といった行動パターンが見られる、と言います。魔女狩り、ヘイトスピーチ、宗教警察、自粛警察を統一的に見る視点です。

8.連帯義務と公益
もちろん、何をしてもよい、ということではありません。イギリスではCOVOID-19の自称者に唾をかけられた駅員とタクシー運転手がCOVOID-19で死亡しています。殺意をもって故意に唾を吐きかける行為をとがめるのは構いません。COVOID-19とは関係なく、他人に唾を吐きかける行為は、洋の東西を問わず礼節に反する悪行だからです。そういう行為をしたわけではなく、ただこれまで通りの行動をとっていた人たちには何の咎もありません。そして重要なことは、自粛警察が犯罪者扱いしている市民にとっての自粛警察も罹患者であるかどうかも分からない、罹患者であっても接触したからといっても感染するかも分からず、また感染したからといって症状が出るかも分からないという点で全く同じだということです。つまり「自分は健康=正しい」と思い込んでいる「自粛警察」自身も、彼が罹患しているか疑わしいので罪深いととして攻撃する相手も疑わしいという点で全く同じということです。違いはただ自粛警察の被害者がその可能性は小さく日常生活を失うデメリットの方がより大きい、と判断して自ら感染して死亡するリスクを引き受けて外出して行動してるのに対して、「自粛警察は」、政府の「自粛要請」の「虎の威」を借りて、自分の判断を他人に強要しようとしていることです。リスクを避けたいなら外出しないデメリットを甘受してでも自分たちが外出しない、あるいは防護衣をつける、あるいは慰謝料を用意して止めてもらうように頼むのが筋です。(ご不便をおかけします、という丁寧なお願いの言葉も慰謝料の一種です)。自粛警察の論理は休業補償という自らの責任は果たさず、「自粛要請」という語義矛盾の理不尽な強要を行う政権と同じです。しかしおそらく日本人の大半にはこの論理の方が、私が「筋」と考えるものよりもすっきりと腑に落ちるのでしょうから、もはや大幅に字数をオーバーしていますが(いつものことですが)、少し丁寧に私が言うところの「筋」を説明しましょう。特に「自粛警察」に共感する人間は洋の東西を問わず、視野が狭く、独善的ですので。
問題の根本は、自粛警察は、自分たちが公益に従っており、「自粛」しない者が、公益を無視し私益に則って行動している、と思っていることです。しかしそもそも「公益」とは何でしょう。先に述べたように、イスラームでは「公益」とはザクっと言うと、「アッラーの権利」であり、共同体全体の存続にかかわることであり、それゆえ公権力が介入すべきことです。それ以外は私益です。勿論、イスラームでは、公益であれ、私益であれ、アッラーの法に照らしてその可否が問われることは当然の前提です。公益とは私益の総和ではありません。これはルソーが特殊意志の総和としての「全体意思」と「一般意思」を区別したのに対応しています。個人の私益、欲望の総和である「全体意思」を、共同体全体の福利によって矯正したものが「一般意思」です。ルソーの「一般意思」の正確な理解は難しいので、これ以上を知りたい人は自分で調べて考えてください。「人間は個人としては有限で無力だが、類としては無限で万能である」と言ったのはマルクスですが、個人は遅かれ早かれ死ぬものであり、重要なのは個人の生死ではなく、共同体の存亡です。まぁ、人類もそのうち滅びますが、まだもうしばらく時間があると思いましょう。そう思わないと話が終ってしまいますので。
既に少し述べましたが、COVOID-19はかつてのペストのような「恐ろしい」伝染病と違い、人類レベルでも国家や地方都市のレベルでも共同体の滅亡をもたらすようなリスクはありません。そもそも医学が未発達で治療法もなかった時代のペストの流行で人類の総人口が4億5千万人しかいなかった時代に1億人が死んで3億5千万人にまで減っても人類は生き延びたのです。医学が発達し人類全体で80億人、日本には1億2千万人も人間が存在する現在、極端な話、人口が10分の1に減っても生物学的レベルでは共同体は生き残れるかもしれません。しかし問題は単純に人口総数ではなく人口構成です。日本の人口が1年に44万人以上減っているのは出生数が死亡数を上回り、その差が増え続けている、つまり高齢化が進んでいるからです。ですから日本で人口の9割が死んで10分の1に減っても各世代が一律に死んだのなら、その後に若者が尊重され希望を持つ社会になり出生率が回復しさえすれば日本は蘇ります。しかし人口の3割が死ぬだけでも、それが30歳以下に集中すれば日本は百年絶たずに滅亡するでしょう。その意味でも幼児死亡率が高いインフルエンザと違い、死亡者が高齢者に偏っているCOVOID-19は大きな脅威ではありません。つまり、COVOID-19問題は共同体の存亡にかかわるような公益に関する問題ではなく、個人のライフスタイルの好悪、私益の問題でしかない、ということです。公益に関する議論とは人口減、高齢化対策のようなものを言うのです。
私益が重要でない、と言っているわけではありません。逆です。私益は個々人にとってはかけがえなく大切なものです。中でも生命はそうです。しかし、それは自分にとってだけであり、他の人間にとっては大切でもなんでもなく、その尊重を求めることは倫理的に不可能だということです。ヴィトゲンシュタインなら「倫理の文法において」とでも言うところでしょう。他人に倫理的に求めることができるのはせいぜい人類全体、あるいは民族や国家の存続を脅かす行為を避けることだけです。もちろん、人類、国家、民族、共同体などどうでも良い、取りあえず周囲のものに迷惑をかけなければそれでよい、という価値観も存在します。ただそういう人たちとはそもそも倫理の議論が成立しない、のでここでは無視します。倫理学の議論に慣れていない読者のために、蛇足ながら補足を加えると、どんな共同体もどうでも良い、という人間とは倫理の議論が成立しない、ということはそういう人間を殺してしまえ、ということでもなければ、一緒に仲良く暮らしていくことができない、ということでもありません。飼い犬と倫理的な議論が成立しなくても仲良く一緒にくらしていけるのと同じ、というシンプルな話です。
客観的、理性的に公益を論ずることと主観的、感情的に私益を主張することは厳密に区別しなければなりません。人類の視点に立って倫理的に論ずる場合には、自分にとって得か日本人の利益になるか、などといった私益を顧みず、シリア軍の連日の空爆で樽爆弾で殺されているイドリブの市民、イエメンでサウジアラビアとその同盟国によって包囲され飢餓と伝染病で命を失っているサナアの子供たちも自分と同じ一人の地球人として平等に扱われるために何をすべきか、を考えなければなりません。日本人として倫理的に論ずるなら縁もゆかりもなくとも、原発事故の被害によって未だに自宅に戻れない福島の人々、米軍基地の存在に苦しめられている沖縄の人々がどうすれば日本人として自分たちと同じ生活ができるかと心を配らなくてはなりません。
しかし私的領域では私たちは法が許す範囲で自分たちのことだけを考えればよく、遠く離れた見も知らぬ人のことなど考えなくても構いません。そもそも70億人を超える人類全体のことを考えることなど不可能ですから、知りもしない人間に同情するふりなどする必要はどこにもありません。イスラームは、公共の安全と秩序の維持に責任を持つカリフとその代理人には、「フドゥード(イスラーム刑法)」の執行と、私人間の「人間の権利(フクーク・アッラー)」を巡る訴訟の裁定においては、私益を離れてあらゆる人間をイスラーム法が定めるカテゴリーに則り平等に扱うことを命じていますが、私人にはすべての人間を平等に扱えなどとは決して求めません。むしろ預言者ムハンマドは「アッラーの道に費やした1ディーナールと、奴隷解放に費やした1ディーナールと、貧者に施した1ディーナールと、あなたの家族のために費やした1ディーナールの中で最も(来世での)報酬が多いのはあなたの家族のために費やしたものである」(ムスリムの伝えるハディース)と述べて、貧者への施しよりも家族の扶養を優先するように教えています。
COVOID-19の話に戻ると、COVOID-19は共同体の存亡のかかった公益の問題ではないので、公権力は医学、公衆衛生、経済などを総合的に考慮して他の伝染病とバランスのとれた扱いをすることが求められます。公益と私益を区別すれば、医療崩壊への懸念にも別の見方をすることが出来ます。COVOID-19問題は、はからずも日本の人工呼吸器不足の実態を露呈させました。医療機関に人工呼吸器を充実させるべきだ、という議論は一般論としては異議はありませんが、COVOID-19への対応としての妥当性には疑問があります。
たとえば、『ビジネスインサイダージャパン』は、「48時間治療をしても回復しなければ場合によって人工呼吸器を外す」といったニューヨーク州の人工呼吸器の使用方法に関するガイドラインの一部と「人工呼吸器があれば助けられるのに、人工呼吸器が無い……。一方で、あと数日で亡くなってしまう可能性が高い患者に人工呼吸器を使い続けている……」との新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の会見での武藤香織教授の発言を引用し、自分たち自身が「あと数日で亡くなってしまう可能性が高い患者から人工呼吸を取り外しその分を助けられる患者の治療にあてる」との「この究極の選択を問われる当事者であることを強く意識させる」と書いています。
 こうした当事者面をしたお為ごかしの感情論の綺麗ごとがはびこるのも、視野狭窄の私益と公益の混同のせいです。患者の家族であれば家族のためにできるだけのことをしたいと思うのは当然です。また医者とは目の前にいる患者であれば1秒でも長く生かそうと務めるのが職業倫理です。しかしそれは私益であり、他の人間には関係のないことです。実はニューヨーク市周辺でCOVOID-19患者2600人余りを対象とした大規模研究で対象となった患者の死亡率は21%でしたが、人工呼吸器が必要になった重症者の死亡率は88%、65歳以上の人工呼吸器使用者の生存率はわずか3%だったことが明らかになっています。要するにCOVOID-19患者に限れば人工呼吸器の効果は極めて低いのです。
 世界中のすべての病人の手に全ての必要な医療器具を届けることができる状況にあるなら、全てのCOVOID-19患者に人工呼吸器を用意するのも良いでしょう。しかしユニセフ協会によると、2017年において8億4,400万人が清潔な飲料水にさえ事欠き、不潔な水を飲むことで命を落とす乳幼児は年間30万人、毎日900人以上にのぼっています。清潔な飲料水さえあれば死ななくて済む乳幼児を毎日900人も平気で見殺しにしておきながら、殆ど救命の役に立たたないCOVOID-19患者につける人工呼吸器が不足していて誰に回すかを医者が選ぶことを「究極の選択」と深刻がってみせ、人工呼吸器を買い揃える権限と責任、それを患者に使う権限も責任もないただの部外者に当事者だと錯覚させるような詐術も公益と私益の混同から生じます。

9.ブラック労働への呪縛からの解放から公正な社会へ
権限も責任もない人間が、自分の私益にすぎないものを公益のごとくに見せ掛けて他人を支配する詐術の一つが、医療関係者や運送業者などを「なくてはならない」と持て囃しブラック労働に呪縛するお為ごかしの呪いの言葉です。こうした呪いの言葉は世界中で普遍的に見られますが、中でも特に主語が曖昧な日本でよくみられるように感じます。医療関係者にしろ、運送業者にしろ、高級を取っている役人や大企業の役員たちが快適で安全な暮らしを送るために、その人が「働かなければならない」理由は一つもありません。嫌なら辞めればよいのです。少なくとも、こういう呪いの言葉が口にされる「先進国」では辞めても生活保護が受けられ、死ぬことはありません。そうすることによってはじめてそれら人々が、ブラック労働から解放され、その社会的有用性に相応しい給与と待遇を受けることになります。
COVOID-19に対する自粛要請の唯一の良かった点は、今までいかにも「しなくてはならない」と言われてきた仕事のほとんどが不要不急であったこと、そして多くの民間企業が大打撃を受ける一方で、COVOID-19対策に国家が介入すべきとの声を利用し、「アベノマスク」のような無用の長物に不透明な巨額の資金が投入されたことが明らかになったことです。ですから、本当になすべきことは、現在の不正な搾取のシステムを支えている医療関係者や運送業者などに、「『外で働かなければならない』人たちのことを考えろ」などと猫なで声でブラックな環境に労働者を「呪縛する」呪いの言葉をかけることではなくて、「あなた方は不当な条件でブラックな職場で働き続ける必要などない、辞めて良いのだ」と解放の言葉を贈ることです。
ここでもイスラームの考え方を紹介しておきましょう。既述のようにイスラームでは、義務を全ての責任能力者が行うべき個人義務と、誰かが行えば他の人々は免責されるが誰も行わなければ共同体の全員が罪に陥る連帯義務に分けます。イスラーム教育やジハード(聖戦)、イスラーム刑法の執行のような宗教行為だけでなく、農業、製造業、医学など共同体に必要な仕事も連帯義務になります。自分が何の責任も負わず相手の立場に立ったふりをして呪いの言葉を述べるのではありません。連帯義務とは、他の誰もが行わなければ、自分も神の前で罪を犯したことになる、義務です。医療関係であれ、運送業であれ、「外に出て行わなければならない」のは今そこで働かされている人間ではなく、それを必要とする社会の全ての人間であり、その人間がブラックな環境に耐えかねて「職場放棄」をしたとしても、罪に陥るのは、その者だけではなく、全ての人間が連帯責任でその罪を負うのであり、全ての人間が実際に最後の審判で裁かれる当事者になるのです。イスラームの国法学者イブン・タイミーヤ(1328年没)は、ムスリムが連帯義務を負う社会が必要とする仕事で労働者が正当な権利を奪われ不当に働かせることがないようにすることが為政者の義務であると述べています。

10.終りに
連載も最後なのでまだまだぜんぜん言い足りないのですが、大幅にまた字数をオーバーしてしまったのでそろそろお別れです。最後に思いっきり大雑把な話をして締めくくりとしましょう。
COVOID-19の感染には、韓国のキリスト教カルト「新天地イエス教証しの幕屋聖殿」や、イタリアのカトリック教会、イランのシーア派聖廟などがクラスターになって感染が広がったことが大きく報じられたこともあり、「宗教と科学の対立」というヨーロッパの啓蒙主義以来の議論が蒸し返されることになりました。日本の優れた宗教学者の中村圭志先生は、コロナ禍は相当な長期にわたって「端的に合理的に振る舞う」ことへの圧力が持続するため、宗教にとって大きな打撃となり、神学者・教学者はコロナ禍を切り抜けても、一般信徒は宗教に飽き、宗教の空洞化が進む公算が高い、と予想しています。
この連載でたびたび繰り返している通り、私は現在の世界には、自称他称のムスリムの実践を含めて実際に存在する宗教はほとんどリヴァイアサンとマモンの偶像崇拝でしかなく、そんな宗教の延命にはなんの興味もありません。しかし、コロナ禍によって科学が進歩し人類の行動が合理化する、という中村先生の楽観には与しません。というのは、最初に述べた通り、科学には事実しか語らずいかなる規範も存在しないからです。「存在するものは合理的である」とは哲学者ヘーゲル(1831年没)の言葉ですが、科学の世界には善も悪もありません。存在するものはただあるがままにあり、次の瞬間にはただ消えさるのみです。
「知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれども私はなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。私は心に言った、『愚者に臨むことは私にも臨むのだ。それでどうして私は賢いことがあろう』。私はまた心に言った、『これもまた空である』と。そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。」(『旧約聖書』「コヘレートの書」2章14-16節)」
人間が科学的真理に則って暮らそうと、迷信と狂信に生きようと、清廉潔白を貫こうと悪逆非道を尽くそうと、愛する家族に囲まれて希望に満ちて幸せに生きようと、病苦と絶望のうちに孤独死しようと、科学的にはすべてただの粒子の離合集散でしかなく、その間にいかなる違いもありません。ただ無意味に行きて無意味に死んでいくだけです。そもそも科学的に生きることが、「現世的」に「有益」かどうかさえ疑わしいものです。世界の長寿者のリストを眺めても著名な科学者の名前はみつからず、ギネスの日本の最高齢の田中カ子さんは1903年、農家の9人兄弟の三女第7子として生まれ1915年に小学校を卒業後12歳から子守奉公をし1952年にキリスト教に入信し現在に至っており、第二位のシスター・アンドレさんは1904年生まれのカトリックの修道女です。幸せに長生きするのに科学的思考が必要と言うわけでもなさそうです。日本の宗教学者島田裕巳先生によると、職業別平均寿命は宗教家がダントツで第一だそうです。
それはともかく、「科学的であれ」という科学主義の主張は科学の命題ではありません。科学主義者にとって重要なのは科学の教える事実そのものではありません。科学主義者にとっての科学は依存症患者の酒、賭博、麻薬、SNSのようなものです。「科学依存」もまた、生きることには価値はなく、誰もが遠からず無意味に死ぬ、という事実から目を逸らす暇つぶしになる、ということです。科学もまたリヴァイアサンやマモンと同じく人間の欲望が虚空に映し出す幻影であり、人を奴隷にする偶像にすぎません。
中世ヨーロッパではペストの流行は、絵画の「死の舞踏」のモチーフを生み、古代ローマでは快楽主義的標語であった「メメント・モリ(死を想え)」を、死を日常的に意識する内省的なキリスト教倫理の格言に変えました。
人口が半減したような凄惨なペストとちがい、COVOID-19はメディアのヒステリックな過剰反応とは裏腹に身の回りでほとんど死者を目にすることはありません。私自身、会う人毎に聞いていますが、直接の知り合いで陽性反応が出た者は一人もいません。知り合いの知り合いでのレベルで、入院して回復したタクシー運転手の知り合いがいる知人が一人いるだけです。これではペストの流行のように万人が死と向き合う、といった実存的経験を日本社会全体に求めることは期待できません。しかし、自粛要請で、強制的に職場を離れさせられたことで、今まで「自分がいなければこの職場は立ち行かない」、「自分が働かねばならない」、「自分の会社が国を、社会を支えている」と洗脳されていた人たちの一部は、「不要不急」の烙印を押されたことで、無意味な虚業と無駄な消費忙殺させることで現世のあらゆる欲望を無価値化する死を忘れさせる物質主義と資本主義の呪縛による微睡から一瞬であれ覚醒しました。
預言者ムハンマドは「人々は眠っている。死んではじめて気づく」との言葉を残しています。コロナ禍は、世界中に600万人を超える感染者、40万人にせまる死者を出し、航空会社の国際線の運航停止、外出自粛、ロックダウンなどのせいで1930年代の世界大恐慌以来の経済危機をもたらしたのみならず、失業、貧富の格差の拡大、人種・民族差別、排外主義の高揚、非常事態を口実とした国家権力の強化などの様々な社会問題を生み出しています。コロナ禍を奇貨として、自分がいつ死ぬかわからない儚い存在であることに気づいた読者諸賢が再び微睡に戻ることなく、いずれ死に逝く人間にとって本当に必要なものが何かを見出されることを望んでやみません。長い間、連載にお付き合いいただきありがとうございました。ではまたお会いする日まで。
「不幸に見舞われた時に『我らはアッラーのもの。彼の許へと帰り逝く』と言って耐え忍ぶ者たちに吉報を告げよ。」(クルアーン2章155‐156節)
ワッサラーム

2020年4月3日金曜日

ガザ―リー著『宗教諸学の再生要約』邦訳(知識の書・知の徳)

本書ガザ―リー著『宗教諸学の再生要約』はオスマン帝国最大の文人キャーティブ・チェレビー(Khājī Khalīfah、1657年没)の書誌学の主著『疑念の払拭(Kashf Ẓunūn)』にも「イスラームの書籍が全て消えて『宗教諸学の再生』が残れば、同書だけで失われたものを補って十分である。」 とまで言われたスンナ派イスラーム学の最も標準的な古典「神学大全」アブー・ハーミド・ムハンマド・ガザ―リー(1111年)の主著『宗教諸学の再生』の要約である。
 本訳で底本としたMu’assasah al-Kutub al-Thaqāfīyah(1990年初版)はこの要約をアブー・ハーミド・ガザ―リー自身の作としているが、al-Hay’ah al-Miṣrīyah al-‘Āmmah li-al-Kitāb(2008年版, ‘Āmir al-Najjār, ed.)では、同書を『疑念の払拭(Kashf Ẓunūn)』(24頁)がアブー・ハーミド・ガザ―リーの実弟でニザーミーヤ学院で彼の教授職の後任でもありスーフィーとしても高名であったアフマド・ガザ―リー(1126年没)が『再生の神髄(Lubāb al-Ihyā’)』と命名した要約と同定している。
ちなみに、『宗教諸学の再生』自体の第1章第1節「知の徳」節を全訳すると以下の通りである。

「知の徳」
 そのクルアーンの典拠は以下のアッラーの御言葉である。「アッラーは彼の他に神はないと証言され天使たちと正義を行う知の持ち主も・・・」アッラーがいかに御自身から始め、天使を次に、知識の持ち主を第三位に置いたことを見よ。それが光栄、優越、名誉であることは言うまでもない。アッラーは仰せである。「アッラーはお前たちの中で信仰する者たち、知を授かった者たちの位階を高め給う。」イブン・アッバースは言った。「学者は信仰者より700階梯上にいる。それぞれ階梯は500年の工程がある。アッラーは仰せになる。「・・・知ってる者たちと知らない者たちが同じであろうか・・・」(39章9節)「彼のしもべたちの中の学者だけがアッラーを恐れる」(35章28節)「言え。私とあなた方の間には、アッラーだけで証人として十分。彼の御許から啓典の知。」(13章43節)「・・・私がそれをあなたに持ってきます。・・・」(27章39節)知の力によって(イフリートにはそれが)できることを示して。「知識を与えられた者たちは言った。「お前たちに災い有れ。信仰し善を行った者へのアッラーの報奨はより良い。・・・」(28章80節)来世の偉大さは知によって理解されることを明らかにされている。「これらのたとえはアッラーが人々に示したが、学者しかそれを理解しない。」(29章43節)それを使徒、または彼らのうち権威を持った者に戻せば、それを捜し当てる者たちはそれを彼らから知ったであろう。」(4章83節)
もろもろの事件におけるその判断を彼らの推論に帰し、アッラーの裁定の発見において彼らの位階を預言者の位階に付随させられた。
そして「あーダムの子孫よ、われらはおまえたちに陰部を覆う衣服と装束を確かに下した。そしてタクワーの衣服・・・」とのアッラーの御言葉について、「衣服」とは「知識」、「装束」とは「確信」、「タクワーの衣服」とは「廉恥」を意味するとも言われている。「そしてわれらは知識に基づいて解明した啓典を、・・・彼らにもたらした。」(7章52節)
そしてアッラーは仰せである。「われらは彼らに啓典をもたらし、それを知識に基づいて説明した。またアッラーは仰せである。「人間を創造し明証を教えられた。」「それからわれらは必ずや知識をもって彼らについて語る。・・・」(7章7節)「いや、それは知識を授けられた者たちの胸の中にある明白なもろもろの徴である。」(29章49節)「人間を創り給うた。表現を教え給うた。」(55章3-4節)これらはただその恩寵を示すために述べられているのである。
伝承については、アッラーの使徒は言われた。
「アッラーは良かれと望まれる者には宗教の知解を授け(yufaqqihu)、その導きを示される。」
「知者たちは預言者たちの相続人である。」 周知の通り、預言者であることを超える位階はなく、その位階の相続以上の栄誉はない。
また使徒は言われた。「諸天と地にあるものは知者のために赦しを請う。」 諸天と地の天使たちがそのために赦し請いに務める者の地位に優る地位があろうか。知者は自分自身に専念し、天使たちは彼の赦し請いに専念する。
使徒は言われた。「叡智は貴人の栄誉を増し、奴隷さえ王侯の地位に届かせる。」
使徒はこのハディースで知識の現世における効果を述べているのであるが、周知の通り、来世の方がより良く、より長続きするのである。使徒は言われた。「偽信者(munāfiq)にはない二つの性質は寡黙と宗教の知解(fiqh)である。」
我々の時代の法学者たち(fuqahā':fiqhの持ち主)の一部の偽善のためにこのハディースを疑ってはならない。それはあなたが「理解(fiqh)」の意味を誤解しているからである。「知解(fiqh)」の意味は後述するが、法学者(faqīh:fiqhの持ち主)の最低条件は、来世が現世に優ることを知っていることであり、その知識が本物で持ち主を支配しているなら、偽善(nifāq)と見栄を免れる。
使徒は言われた。「最善の人間とは、求められる時は他人の役に立ち、求められない時は自足している学のある信仰者である、」
「信仰は裸形であり、その衣服は敬虔さ、装飾は廉恥、果実は知識である。」
「預言者職に最も近い者は学者と戦士(ジハードの人)である。学者は使徒たちがもたらしたもの(聖法)を人に示し、戦士は使徒たちがもたらしたものに則って剣でジハードを行うのである。」
「一人の知者が亡くなるよりも、一部族が死に絶えることの方がましである。」
「人間は金鉱や銀鉱のような鉱脈のようなものである。ジャーヒリーヤ(イスラーム以前の無明時代)の選良は、理解した後のイスラームの選良になった。」
「最後の審判の日に学者のインクは殉教者の知と等価に計られる。」
「私のウンマ(ムスリム共同体)のためにスンナの40のハディースを覚え、それらを人々に伝えたなら、最期の審判の日に私がその者の仲保者、証人となる。」
「私のウンマ(ムスリム共同体)で40のハディースを伝えた者は、最期の審判の日に知解者、知者としてアッラーにまみえる。」
「アッラーの宗教を知解する者は、アッラーがその者の問題を引き受け、思いがけないところから糧を恵み給う。」
「アッラーはイブラーヒームに、『イブラーヒームよ、我は智者であり、あらゆる智者を愛する』と啓示された。」
「学者は地上におけるアッラーの受託者である。」
「私のウンマの二種の者が清廉であれば人々も良くなり、堕落すれば人々も堕落する。王侯と知解者(フカハー)である。」
「私がアッラーに自分を近づけてくれる知識を増やさない日があれば、私はその日の日の出に祝福されることはない。」
知が崇拝と殉教に優っていることについて使徒は言われた。「知者の崇拝者より優れているのは、教友たちの最低の者より私が優れているのに等しい。」 使徒がいかに知識を預言者の地位と等置し知識を欠く行為の地位を貶められたかを見よ。というのは崇拝者は励むべき勤行の対象を知っていなければならないので、その知なしにはそもそも崇拝などないのである。
それゆえ使徒は言われた。「知者が崇拝者に対する優るのは満月の夜の月が他の星に優るかのようである。」
「最後の審判の日に三種の者が執り成しをする。預言者、知者、殉教者である。」 それゆえ知は、殉教が徳が(数多く)伝えられているにもかかわらず、位階において殉教に優り、預言の次に優れているのである。
使徒は言われた。「アッラーを崇める手段として、宗教における理解以上の物は何もない。悪魔にとっては一人の知解者(ファキーフ)の方が千人の崇拝者よりも手強い。全ての物に支柱があり、この宗教の支柱は知解である。」
「あなたがたの宗教の最善のものはその最も容易なものであり、最善の崇拝は知解である。」
「知ある信者は崇拝者である信者に70段階優る。」
「あなたがたは知解者が多く、読誦者、説教者が少なく、物乞いが少なく贈与者が多く、知識が実践より価値がある時代に生きている。しかしやがて知解者が少なく、説教者が多く、贈与者が少なく物乞いが多く知識が実践より価値がある時代が人々にやってくる。」
「知者と崇拝者の間には100の階段があり、各段の間は駿馬の早駆けで70年の行程である。」
「アッラーの使徒よ、最善の行為は何ですか。」と尋ねられると、使徒は「アッラーについての知識である。」と答えられた。「私たちは行為について聞きたいのです。」と言われたが、また「アッラーについての知識である。」と言われた。そこでまた「私たちは行為について尋ねているのに、あなたは知識について答えられました。」と言われると、使徒は言われた。「アッラーについての知識があれば僅かな行為でも役立に立つが、無知であれば多くの行為も役に立たない。」
使徒は言われた。「アッラーは最後の審判の日に人々を復活させ、それから知者たちを復活させ、仰せになる。『知者たちよ、我は我が知を汝らに託したのは、汝らについての我が知識によってでしかない。我は汝らを罰するために我が知識を汝らに託したのではない。我は既に汝らを赦した。行くがよい。』」
私たちはアッラーに良い末期を冀います。
また伝聞には以下のようにある。
アリー・ブン・アビー・ターリブはクマイルに言った。「知識は財産に優る。知識はあなたを守るが、あなたが財産を守る。知識が支配し、財産は支配されるのである。財産は費やせば減るが、知識は費やすほど増す。」 またアリーは言った。「知者は昼は斎戒し夜は礼拝に立つジハード戦士に優る。知者が亡くなると、その後継者(の知者)によってしか埋まらない隙間がイスラームに開く。」 また以下の詩を詠んだ。
知者以外に栄光はない
彼らは正道にあり、導きを求める者の案内人
全ての人間の価値は学んだものによる
無知な輩は知者の敵
それゆえ知識を得てずっとそれで生きろ
人々は死者であり、知者こそ生者
アブー・アスワドは言った。「知識よりも偉大なものは何もない、王侯は支配者であるが、知者は王侯の支配者である。」
イブン・アッバースは言った。「スライマーン・ブン・ダーウード(ソロモンの子ダビデ)は知識、財産、王権の選択肢を与えられ、知識を選ばれたが、それと共に財産と王権も授けられた。」
イブン・ムバーラクは「人間とは誰ですか。」と尋ねられ、「学者である。」と答え、「王侯とは誰ですか。」と尋ねられ、「禁欲者である。」と答え、「下衆とは誰ですか。」と尋ねられ、「宗教を食い物にする者である。」と答えた。
イブン・ムバーラクが知者以外を人間とみなさなかったのは、人間が他の動物から区別される特徴は知識だからである。人間は人間がそれによって高貴であるものによって人間なのであるが、それはその身体の力ではない。それならラクダの方が人間より強いからである。またその大きさによるのではない。それなら象の方が大きいからである。また勇猛さによるのでもない。それなら猛獣の方が獰猛である。また食べるためでもない。それなら雄牛の方が大食である。また交尾のためではない。それなら小さな雀でさえ人間より生殖能力がある。そうではなく人間は知のために創造されたのである。
 ある賢者は言った。「知を失った者が何で埋め合わせられようか、知を得た者に何か失う者があろうか。」
 預言者は言われた。「クルアーンを授けられた者が誰かがそれ以上のものを与えられた者がいると考えたなら、アッラーが重んじられたものを侮ったことになる。」
 またフォトゥフ・マウスィリーが「病人が食べ物、飲み物、薬を禁じられて与えられなければ死ぬのではないか。」と言うと、人々は「はい」と言った。そこで(ファトフは)「心も同じで叡智と知識を3日禁じられて与えられなければ死ぬ。」と言った。彼は真実を述べた、身体にとっての食糧が食べ物と飲み物なように、心の食糧は知識と叡智あり、その二つによって生きるのである。知識を失った者の心は病み、気づかないままに死ぬことは必定である。なぜなら現世の欲と雑念に紛れて(自分が病気であることを)感じないからである。それは傷を負っても死の恐怖がその場の傷の痛みを気づかなくさせるのと同じである、しかし死によってそうした雑念が払われると、死んだことに気づき、終わりのない激しい苦痛に苛まれることになるが、その時はもう遅いのである。それは安堵した者、酔いが醒めた者が、恐怖、酩酊中に負った傷の痛みに気づくのと同じである。私たちはアッラーに覆いが取り上げられる日の庇護を冀います。「人々は眠っており死んだ時に・・・」(ハディース)。気をつけなさい。
 ハサンは言った。「学者の墨と殉教者の血を測れば学者の墨が殉教者の血にまさる。」
 イブン・マスウードは言った。「知識が取り上げられてしまう前にあなたがたは知識を学ばねばならない。知識はその伝承者たちが死に絶えることで取り上げられる。我が魂がその御手にある御方(アッラー)にかけて、アッラーの道に殉教者として死んだ者は、アッラーによる学者たちの厚遇を見て、アッラーが自分たちを学者として蘇らせてくれればと願う。学者として生まれる者は一人もいない。知識は学問による。」
 イブン・アッバースは言った。「私は、(礼拝や勤行で)徹夜をするより、夜の一時に知識を学ぶことをより好む。」 同様な言葉がアブー・フライラやアフマド・ブン・ハンバルからも伝えられている。ハサンは「我らが主よ、我らに現世で善福を来世でも善福を与え、獄火の懲罰から我らを護り給え。」との御言葉について「『善福』とは現世において知識と崇拝、来世では楽園のことである。」と言った。
 ある賢者は「何を手にすべきか。」と問われ、「あなたの船が沈んだ時にあなたと共に泳ぐもの -つまり「知識」- である。」と言った。また「船の沈没は死による肉体の滅亡を意味する。」と言われた。
 またある者は言った。「叡智を手綱とする者を、人々は導師とする。そして叡智をもって知られた者を、衆目は敬意をもって眺める。」
 シャーフィイーは言われた。「知の誉とは、それに関わる者は皆、たとえ些細なものであれ、喜び、それを取り上げられた者が悲しむことである。」
 ウマルは言った。「あなたがたには知が課される。アッラーには愛の外套がある。知識の一部門でも求める者にアッラーはその外套を着せ給う。その者が罪を犯しても悔い改め、また罪を犯しても悔い改め、また罪を犯しても悔い改め、たとえ死ぬまでその罪を重ねようとも、その(愛の)外套を脱がさないようにと。」
 アフナフは言った。「学者はまるで主人であるかのようになり、風格はすべて崩れ、卑小さがその行き先となる。」
 サーリム・ブン・アビー・ジャァドは言った。「私のご主人は私を300ディルハムで買って私を解放した。私は『どんな仕事をしましょうか。』と言い、学問を仕事にしました。そして1年が経つとマディーナの総督が私に会いにやってきたが、私は彼に許しを与えなかった。」
 ズバイル・ブン・アビー・バクルが言った。「イラークにいた私の父が私に手紙をよこした。『学問をしなさい。あなたが貧しい時はそれはあなたの財産となり、富める時にはあなたの装飾となる。』」
 それはルクマーンの子供への遺言の中でも述べられている。「我が子よ、学者たちと膝附合わせ席に連なりなさい。アッラーは空からの雨で大地を賦活するように叡智の光で心を賦活する。」
 賢者の一人が言った。「学者が死ぬと、海の魚も空の鳥もそれを嘆く。その顔は忘れられても、その(学問の)記憶は消えない。」
 ズフリーは言った。「知は男性であり、大人の男だけがそれを愛する。」


『宗教諸学の再生・要約』

(序)
イスラームの証(フッジャトゥルイスラーム)アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザ―リーは述べた。
アッラーにこそあらゆる恵みに対する称賛は属す。称賛をさせていただくこと自体(を含む恵み)に至るまで。その預言者、使徒、しもべである使徒たちの長ムハンマドとその御一統、教友、その逝去後の後継者(カリフ)、その存命中の副官たちに祝福あれ。
旅先でかさばって持ち運びが大変なので『宗教諸学の再生』を抜粋しようと思いつき、アッラーに助けを求め、正導を願い、その預言者に祝福を祈りつつ、それに取り掛かった。それは40章からなる。アッラーこそ正答を恵み給う。


第1章:知識と学習

(第1「知の徳」節)
 知りなさい。知の徳については、クルアーンに多くが述べられれている。「ムジャーダラ章11節」イブン・アッバースは言った。「学者は信仰者より700階梯上にいる。それぞれ階梯は500年の工程がある。至高者は仰せになる。「ズンマル19節」至高者は仰せになる。「蜘蛛章43節」
 また伝承の中には、以下のようなハディースがある。「学者は預言者たちの相続人である。」「最善の人間とは、求められる時は他人の役に立ち、求められない時は自足している学のある信仰者である、」「信仰は裸形であり、その衣服は敬虔さ、装飾は廉恥、果実は知識である。」「預言者職に最も近い者は学者と戦士(ジハードの人)である。学者は使徒たちがもたらしたもの(聖法)を人に示し、戦士は使徒たちがもたらしたものに則って剣でジハードを行うのである。」「学者は地上におけるアッラーの受託者である。」「復活の日には、預言者たちが(信者のためにアッラーに)執り成しを行い、ついで学者が、ついで殉教者たちが。」
 またフォトゥフ・マウスィリーが。「病人が食べ物、飲み物、薬を禁じられて与えられなければ死ぬのではないか。」と言うと、人々は「はい」と言った。そこで(ファトフは)「心も同じで叡智と知識を3日禁じられて与えられなければ死ぬ。」と言ったが、彼は真実を述べた、身体にとっての食糧が食べ物と飲み物なように、心の食糧は知識と叡智あり、その二つによって生きるのである。
知識を失った者の心は病み、気づかないままに死ぬことは必定である。なぜなら現世の雑用に忙殺されるからである。しかし死によってそうした雑用から目覚めると、終わりのない激しい苦痛に苛まれることになる。それが「人々は眠っており死んだときに目覚める。」とのハディースの意味である。
学習の徳については「学究には天使が満足して翼で抱きしめる。」「朝に知識の一分野を学ぶことは100ラクアの礼拝よりも良い。」とのハディースが示している。
アブー・ダルダーゥは言った。「学びに行くことをジハードだと考えない者は理性、考えに欠けている。」教えることの徳は「アッラーが知識を与えられた者に、人々にそれを教え、それを隠すな、との約定を取られた時」とのアッラーの御言葉が示している。アッラーの使途はこの節を読まれた時に言われた。「アッラーは学者には必ず、預言者たちになされたように、知識を教え隠すなかれとの約定を取られた。」
 預言者はムアーズをイエメンに派遣された時に言われた。「アッラーがあなたを介して一人の男を導かれたなら、あなたにとってそれはこの世界とその中にあるもの(全て)よりも価値がある。」ウマルは言った。「誰かが何かを話して、それを誰か(他人)が実行したなら、彼(話をした者)にも、それを行ったのと同じだけの報償がある。」ムアーズ・ブン・ジャバルは教えることと知について、以下のように述べているが、その伝承は預言者にまで遡ることができる。「知識を学べ。アッラーのために知識を学ぶことは善行、知を求めることは勤行、勉学は賛美、探求はジハード、教えることは喜捨、知をそれに相応しい者に授けることは奉献である。知は孤独の慰め、独居の伴侶、禍福に応じた導き手、親友の中の腹心、朋友の中の同志、楽園への道の光塔である。アッラーは知識によって人々を高め、彼らを人々を牽引し行き先を示す善の先導者、幸福の案内人とされ、彼らの行跡は辿られ、彼らの行為を注視され、天使は彼らの装飾を望み、その翼で彼らを愛撫し、湿ったものも乾いたものも全てが彼らを称え、海の魚介類や陸の獣や家畜、空と星に至るまで彼らのために赦しを請う。なぜならば知識は心の蒙を開き、闇の中で目を照らし、身体の弱さを強め、人は知によって篤信者の境地、最高の段階に達し、知識の思索は斎戒、勉学は夜の礼拝に匹敵し、アッラーが従われ、崇拝されるのは知によってであり、主が唯一の神として畏れられるのも知に基づいてであり、知によって親戚関係が繋がれる。知が主で、行為は従なのである。アッラーは幸運な者には知を授け、惨めな者には知を遮断されるのである。
理性に照らしても、学問の徳は隠れもない。なぜならそれによって至高なるアッラー、その近く、その側に到達するからであり、それは終わることのない永遠の至福、永久の快楽であり、それによって現世の栄光と来世の至福があるからである。現世は来世の畑であり、学者はその知識によって、自分自身のために、その知識の要請に応じた自己修練によって来世の至福のための種を植えるのである。また教育によっても永遠の至福の種を植えることになるだろう。なぜなら人々の人格を陶冶し、彼らを自らの知識により至高なるアッラーに近づけるものに誘うからである。「叡智と良き訓戒であなたの主の道に招き、彼らと最善のもので議論せよ。」(16章125節)それゆえ彼(学者)は選良は叡智によって、大衆は訓戒によって、頑迷な者は議論によって呼びかけ、自分を救い、他人をも救う。これこそ人間の感性なのである。

2020年3月6日金曜日

ボードゲーム「カリフ」イジュティハード


1 経済アドバイザーを名乗る男が現れ、金貨銀貨を廃止し自国に紙幣を発行する中央銀行を作るよう言ってきた。アドバイスを受け入れるべき? 
シャリーアの認める通貨(ナクド)は金と銀だけであり、義務の浄財(ザカー)の最低額、殺人・傷害の血の代償(ディヤ)などは金、銀によって定められています。ハナフィー派では義務の浄財の最低額は金20ディーナールか銀20ディルハムです。(現代の度量衡だと金1ディーナールは22金で約4.25グラム、銀は約3グラム)。殺人の血の代償はアブー・ハニーファは「ラクダか金か銀」と述べており、第二代正統カリフ・ウマルはラクダなら百頭、金なら千ディーナール、銀なら一万ディルハムと定めました。
金貨、銀貨の品質管理はカリフの職務の一つであり、金、銀の裏付がないただの無価値な紙片を、武力による威嚇を背景に高価な物品との交換を強制することは詐欺に他ならず、カリフであっても許されません。
 但し個人の間で自分たちの信用に基づく約束手形を発行するのは自由ですので、金銀をいつも身につけて持ち運ぶ必要はありません。

2 息子がラッパーになりたいと言い出した。父親である貴方はこれを認めるべきだろうか。
音楽については、楽器、特に管楽器の使用は禁じられているという説が有力です。預言者ムハンマドも「音楽に伴う 笛(ミズマール)の音と、不運に見舞われた時の呪詛(じゅそ)の声は、現世と来世で呪われます」と言われています。但し楽器の定義が曖昧であり、預言者の弟子たちも楽器を使ったとの伝承もあるため、ガザリーなどの法学者も、可否の基準は意図と目的であり、音楽の目的が遊興であり、劣情を煽(あお)り、飲酒や婚外交渉などの禁じられた行為の誘因にならないなら許される、と述べています。
ラッパーになりたいと言っているなら、楽器を使わず、神を称え、神に仕え愛と正義を実践するよう訴えるラッパーになるように勧めるべきです。

3 イスラーム法学者同士、ファトワーとファトワーが対立した場合はどうするのでしょうか。
ファトワーとは質問に対する答えであり、ムスリムは誰にでも好きなことを尋ねることが出来ます。ですからいろいろな人がいろいろな人にいろいろな質問をするので、いろいろなファトワーが世の中に出回ることになります。自分が尋ねたのでもない人間のファトワーを気にする必要はありません。とはいえ、自分で質問したからといって、そのファトワーに従う義務もありませんし、たまたま目にした知らない人の発したファトワーでも、それに納得すれば従っても構いません。
ただしイスラーム法を学ぶ者の間では、クルアーンとハディースの解釈はアブー・ハニーファ、マーリク・ブン・アナス、シャーフィイー、アフマド・ブン・ハンバルの4人の法学祖がイジュティハードで演繹(えんえき)した法体系に収斂(しゅうれん)し、4つの法学派が確立しているので、自分でイジュティハードできるようになりたいとの志がある学徒はいずれかの法学派に属して勉強してください。

4 嘘をつくことはハラームですが、つくり物の映画はハラームだろうか。

嘘はもちろん悪で、ある意味では最も重い罪です。預言者ムハンマドは、「信仰者が不倫したり、泥棒したりしますか」と尋ねられた時は、「そういうこともあります」と答えらえましたが、「では信仰者は嘘をつきますか」と尋ねられた時には「いいえ」と答え、クルアーン「信仰のない者だけが嘘を吐く」(16105節)を読み上げられました。
  しかし定義が曖昧なので法学的な意味でのハラーム(禁止)と呼ぶのは不適切です。預言者ムハンマドも、戦争での策略の場合、いがみ合う人々の仲を取り持つ場合、夫婦の間での御世辞の3つの場合の嘘は許されました。
 クルアーンにも、不信仰者を雷雨の夜の暗闇を歩む者、聾啞(ろうあ)の盲人になぞらえる話(217‐20節)など数多くのたとえ話があります。
 要するに、たとえ話のようにつくり物だと分かっていて誰も騙(だま)されず、内容が教訓を得るという良い目的で作られたものであれば禁じられた嘘にはなりません。

5 私財を投じて他人へ施すことと、他人の世話にならないように個人の財産を貯蓄することのどちらを優先すべきだろうか。

自分と妻子の扶養分以上の財産があれば、喜捨することがスンナです。しかしイスラーム法は、妻子の扶養を蔑ろにして施すことは罪であると定めています。
 預言者ムハンマドは「上の手(施す手)は下の手(物乞いの手)に勝る。おまえの扶養する者から始めよ。最善の喜捨は富裕な者によるもの。」「人間にとって自分が養う者を飢えさせることより重い罪があろうか」 と言われています。
 妻子の扶養義務を怠って施すことは禁じられますが、妻子の扶養の義務には将来のために貯蓄することは含まれません。将来のことはアッラーに任せればよいからです。
 アッラーは仰せです。「彼(アッラーを畏れる者)には彼が考えもつかないところから、(アッラーは)恵みを与えられる。アッラーを信頼する者には、かれは万全であられる。」(653節)


6 自分の息子/娘が同性愛者かもしれない。その場合は息子/娘にどのように接すればいいだろうか。

「同性愛」という表現は不正確です。男女の別なくムスリム同士は愛し合うべきですから。禁じられているのは心中の「愛」ではなく「婚外性交」という行為であり、イスラーム法は、全ての婚外性交を禁じていますが、同性性交の禁止はロトの逸話に遡るもので創世記19章に、クルアーンでは78081節に述べられています。
しかしハディースには「アッラーは善悪を定め教えられた。悪行をしようと思ったが思いとどまった者にアッラーは一つの善行を行ったと書き留め、それを犯した者には一つの悪を行ったと書き留められる。」と言われています。
 ハディースには「ムスリムの隠し事を追求するな」とも言われており、性行為は秘め事ですから、公然と行わないなら追求すべきではありません。親の義務はクルアーンとハディースを教えることだけです。同性を愛し性交を望んだ者が実行して罪を犯すか、自制して善行の報奨を得るか、どちらを選ぶかは本人に任されます。

7 イスラム教に改宗したキリスト教徒に、改宗の意思がない配偶者と、成人していない子供がいる場合、家族の中で自分だけがイスラム教徒として生活するということは許されるのだろうか。

クルアーン55節「今日(清き)良いものがあなたがたに許される。中略あなたがた以前に啓典を授けられた民の中の貞節な女も。」により、キリスト教徒の妻との結婚は許されており、夫のイスラーム入信後も入信前の婚姻契約がそのまま有効です。
子供については、父親の入信後に生まれたなら自動的にムスリムになりますが、イスラーム入信前に生まれていた場合にはその規定は適用されません。父親は子供にイスラームを教えなければなりませんが、強制はできません。キリスト教に入信した二人の息子に入信を強要して拒まれたムスリムの男が、息子を連れて預言者ムハンマドの許にやって来て「地獄の業火が自分の子供たちに迫っているのを、どうして見逃せましようか」と訴えた時、「宗教に強制はない」とのクルアーンの節(2256節)が啓示され、預言者が二人を放免したと伝えられていることから、子供は成人後に自分で宗教を選ぶことになるでしょう。

8 夫婦喧嘩をして、どちらも主張を譲らない場合、夫と妻のどちらが妥協するべきでしょうか。
  喧嘩の内容によります。イスラーム法は夫と妻にそれぞれ権利と義務を定めていますので、喧嘩の内容が、夫に権利があることであれば、妻はその義務を果たさなければなりません。逆に妻に権利があることであれば夫は自分の義務を果たさなければなりません。
 夫の権利は生理期間を除き妻と性交をすることであり、妻の義務は夫の性交の求めに応じ夫の許可がない限り家に居て夫の財産を保管することです。妻の権利は結婚する時に婚資(マハル)、結婚している間に扶養費、離婚する時に離婚金をもらうこと、夫との性生活を楽しむことです。
 妻が義務を果たさなければ、クルアーンに「男は女の上に立つ者である。 中略 反抗的な女たちには諭し、臥所(ふしど)に置き去りにし、打擲(ちょうちゃく)せよ」(434節)とあるように夫は言うことをきかせる権利があり、それでも言うことを聞かなければ離婚します。夫が義務を果たさなかった場合は妻は裁判官に訴え離婚することが出来ます。

9 日本人でもカリフになれますか。
  イスラーム法はカリフの資格を成人、理性、イスラーム、イスラーム法の学識、公正さ、敬虔(けいけん)、男性、政治力、勇気、健常な四肢と感覚、クライシュ族の男系出自、カリフの選出手続きをイスラーム学者と政治権力者たちによる選挙か、前任のカリフからの後継者指名、と定めています。
ですから日本人がカリフになるには、クライシュ族の男性が日本に渡来し日本人女性と結婚して生まれた男子が前任のカリフから後継者に指名されるか、カリフに選ばれるかどちらかです。
しかしシャーフィイー派の大学者アブドルカリーム・ラーフィイー(1226年没)が、武力で覇権を握ってダールルイスラームに実効支配を確立した場合、カリフの資格を満たさず、選挙されたのでもなく前任のカリフからの指名もなくとも正当なカリフと認める、との理論を編み出しましたので、クライシュ族でない日本人でもダールルイスラームを武力で征服すればカリフになれることになります。

10 仕事ができず、いつも皆に迷惑をかけています。自分なりに頑張っているのですがうまくいきません。どうすれば有能な人間になれるでしょうか。

一般に無能な人間は有能にはなれません。アッラーは誰にも、できないことをしろ、とは命じられません。あなたはあなたにできることだけを真面目にやればそれで十分です。できない仕事を押し付けてミスが生じたなら、そのミスの責任は、あなたではなく、あなたの能力を見誤った上司にあります。失敗の責任を取るために、上司は大きな権限を持たされ高い給料をもらっているのです。
「アッラーは誰にもその能力以上のことは課されません。誰もが自分が稼いだものに権利があり、自分が犯してしまったことに責任を負う。我らが主よ、私たちが忘れたり、ミスを犯したとしても、私たちを責めないでください。」(クルアーン2286節)

11 彼女が欲しいのですがなかなかできません。どうすればモテるでしょうか。

預言者ムハンマドは、「財産、貴い家柄、美しさ、宗教性の4つによって、結婚しなさい。宗教的な女性を娶(めと)れば糟糠(そうこう)の妻となる。」と言われました。学者たちによるとこのハディースは男性にも当てはまります。
生まれついての家柄は自分ではどうしようもありません。ですので、もてたければ、金持ちになるか、美しくなるか、宗教的になるか、のどれかを目指すのがよいでしょう。化粧すれば少しはカッコよくなるかもしれませんが、美しくなるのもかなりハードルが高いでしょう。金持ちになるのも、元手か商才か運のどれかがないと難しいです。一番簡単なのが、宗教的になることです。内心の敬虔(けいけん)はなかなか身に付きませんが、モスクに足繁く通ったり、礼拝をたくさんしたり、斎戒断食したり、顎鬚(あごひげ)を伸ばしたり、宗教的に見える振る舞いをするのは誰にでもできますので、やってみましょう。

12 神はなぜ人間を作ったのですか。
 アッラーはクルアーンの中で「私が人間とジンを創造したのは、ただ彼らが私を崇拝するためにでしかない。」(5156節)と仰せです。
 預言者の高弟イブン・アッバースは、「崇拝する」とは「知る」という意味だと解説しています。人間が創造された目的は神に仕え神を知ることです。
 また「己を知る者はその主を知る」とも言われています。主に仕えることで、己を知り神を知ることが人間が存在する意味です。

13 神様が本当にいるのなら、虐げられている弱者を助けないのはなぜですか。

神は「死と生を、あなた方の誰が最も良い行いをするか、あなたがたを試みるために創造した御方」(クルアーン672節)です。
生も死も幸運も不運も神からの試練です。虐げられている弱者が、神から命じられている忍耐を行い死後の楽園の報奨をもらい、虐げられた弱者を助ける者が正義を行うことで来世で楽園の報奨をもらう機会を得るためです。

14 万物は神が作ったものなら、どうして食べてはいけない物があるのですか
豚肉の禁止(5節)などが書かれたクルアーン5[食卓章]は「信仰する者たちよ、契約を守れ。」から始まり、「アッラーは困難をあなたがたに課すことを望まれない」(6節)を挟み、「(アッラーが)あなたがたと結ばれた約定を思い起こし、アッラーを畏れなさい」(7節)で結ばれます。
 食べ物だけではなく、人間の行為を含む森羅万象は全て、アッラーの創造になります。食べ物の禁止も、行為の禁止も、全て神との契約であり、人間にとっての悪とは契約に背くことです。神が禁止を定めたのは人間を苦しめるためではなく、恵みを授けるためです。預言者ムハンマドは「悪行をしようと思ったが思いとどまった者にアッラーは一つの善行を行ったと書き留められる。」と言われました。
 食べたいのを我慢するだけで来世で報奨をもらえるために食べてはいけない物があるのです。しかしもっと大切なのは、禁じられた食べ物を見る度に、神の恩恵を思い出すことです。

15 カリフ制は国家を否定すると聞きました。国家とは何でしょうか。
 国家とは幻想、虚構です。国家を否定する、という意味は、存在するものを拒絶して無くそう、ということではありません。存在もしないものが存在するかのように騙(だま)されない、ということです。
 フランス国王ルイ14世は「朕は国家なり」と言いました。では天皇、それとも首相、それとも「主権者」と言われる私やあなたが日本の国家なのでしょうか。それとも国会議事堂の建物が国家でしょうか。あるいは富士山や琵琶湖が国家でしょうか。
 政治学では主権、国民、領土を国家の三要素を言います。しかしそんなものが戦争をしたり、税金を取ったり、子供の教育をしたりするでしょうか。
カリフ制と神の法による人間の生き方です。最初のカリフは人類の太祖アーダムです「私(アッラーは)は地上にカリフをおいた」(クルアーン230節)名前に欺かれ、教育、福祉、安全保障を非在の国家に委ね、国家の名に隠れて人間が権力を恣(ほしいまま)にするのを許してはならないのです。

16 いじめを目撃しました。止めたいですが止めると自分が次の標的になってしまいます。どうしたらよいでしょうか。

預言者ムハンマドは言われました。「お前たちの誰でも悪行を見かけたら自分の手でそれを変えなさい。それができなければ自分の舌で。それもできなければ心で。だがそれしかできない者は、もっとも信仰の弱い者。」
いじめている者たちより自分の方が強くて仕返しされないと思えば力づくでとめればよいでしょう。それができそうもなければ、いじめをやめるように説得してとめれれると思うなら説得してみればよいでしょう。それもできそうもなければ、心の中でいじめがなくなるように、と神に祈ればよいでしょう。大切なのは自分に何ができるかを見極めることです。

17 毎日がつらくて死にたくなります。どうしたらよいでしょうか。
預言者ムハンマドは言われました。「刃剣で割腹自殺した者は、地獄の火中でその刃剣を手にもって自らの腹を永久に刺し続ける者となるだろう。また、毒を飲んで自殺した者は、地獄の火中で永遠に毒をすすり続ける者となるだろう。更にまた、山頂から投身自殺した者は、地獄の火中を永遠に落ち続ける者となるだろう。」 
イスラームでは自殺は禁じられていますが、殉教で死ぬことは勧められています。ムハンマドは言われます。「死後、アッラーの御許で恩典を与えられた者は、たとえこの世とそれに存在する全てを与えられるとしても、再びこの世に帰ることを望む者は一人も無いであろう。だが殉教者は別である。彼は殉教の恩典として受けるものがあまりにも素晴らしい故、再びこの世に戻って殉教することを望むであろう。」 
どうしても死にたければ、過酷な戦場にジハードに行き殉教しましょう。

18 就職活動がうまくいきません。どうすれば良い仕事につけるでしょうか。
 アッラーは仰せです。「またアッラーを畏れる者には、彼は脱出口を備えられる。(アッラーは)考えつかないところから彼に糧を恵まれる。アッラーに拠り頼む者には、彼は十全であられる。」(652-3節) 
 アッラーにお任せすれば、思いもかけない良い仕事が見つかるかもしれません。取りあえず祈りましょう。

19 幼いわが子がちっとも可愛いと思えません。このままでは虐待しそうです。
 あんな芋虫みたいなもの、可愛いと思う方がおかしいです。預言者ムハンマドも当時のクライシュ族の習慣に従って、4年から5年、砂漠に送られ乳母の許で育てられ、歩けるようになると牧童として羊などの家畜の世話をするようになりました。
 可愛くない子供は砂漠に送って働かせましょう。

20 実力がないのにチヤホヤされている人を見るとイライラします。ああいう人が注目されないようにするにはどうすればいいでしょうか。

預言者ムハンマドは「自分に関係のないことは放っておくことが、ムスリムの美点です」と言われています。 そういう人を見るといらいらするなら、足を引っ張ろうなどと考えず、そもそもそんな人のことなど見ないようにするのが一番です。

21 保険加入や貯金は神を信じていないことになりますか。
アッラーは「彼らは酒と賭矢に就いてあなたに問うであろう。言ってやるがいい。『それらは大きな罪であるが、人間のために益もある。だがその罪は益よりも大である』。」(クルアーン2219節) と仰せになり、賭博を禁じられました。また預言者ムハンマドはリスク(gharar)の売買を禁じられました。
イスラーム法は不確定な未来の売買を禁じています。起きるかどうか分らないリスクに対して決まった対価を与える保険には、禁じられた賭博とリスクの売買の要素があり、合法性に疑いの余地があります。
またアッラーは「(アッラーは)考えつかないところから彼に糧を恵まれる。アッラーに拠り頼む者には、彼は十全であられる。」(652-3節)と仰せなので、アッラーへの深い信頼があれば保険や貯金などは要らない、とも言えます。 
しかし、これらは罪や信仰の弱さではあっても、不信仰、多神崇拝にはあたりません。

22 イスラム教のお坊さんはなんという名前なのですか。
神の子や、神の代理人のような特別な人間の存在を認めないイスラームには、聖職者、いわゆる「お坊さん」はいません。それでも日本人から見て、「お坊さん」のように見える人はいます。地方や民族によって、いろいろな呼び名がありますが、アラビア語の主だった名前には以下のようなものがあります。まずはアーリム。イスラーム学者の意味です。複数形のウラマーの方が有名かもしれません。その他、導師を意味するイマーム、老師を意味するシャイフ、教義回答者の意味のムフティーなどの呼び名もあります。またマウラーナー(我らが主)、サイイディー(我が)のような敬称もあります。


23 自国内の異教徒は改宗させるべきか?

 クルアーンには「宗教に強制はない」(2256節)とあります。バイダーウィーのクルアーン注釈によると、使徒の召命以前にキリスト教に入信した二人の息子がいたムスリムが「地獄の業火が私の子供たちに迫っているのを、見逃せましようか」と言って二人の息子を連れて預言者の許に来てイスラームの入信を強要するように求めて預言者ムハンマドの許に来た時、この節が啓示され、預言者は二人の息子を自由にしたと言われています。
 また異教徒がダールルイスラームにやってきた場合も、イスラームが実践される姿を見て承服し見習って自発的に入信しなかった場合は改宗を強制することはできず、以下のクルアーンの聖句により安全に本国に送還しなければなりません。
「もし多神教徒の中に,あなたに保護を求める者があれば保護し,アッラーの御言葉を聞かせ,その後かれを安全な所に送れ。これはかれらが,知識のない民のためである。」(クルアーン96節)

24 専業主婦の妻が家事を一切やりたくないのでメイドが欲しいと言ってきた。雇ってあげるべき?

 雇う余裕があれば夫には雇う義務があります。イブン・マージャ「夫に余裕があれば、妻は召使いを一人所有する権利があり、夫には召使いの経費を負担する義務がある。それは妻には、夫の身の回りの世話に専念するために家事を司り彼女に仕える召使いが必要だからである。」と夫に妻のために召使いを雇う義務を明言しています。クルアーン656節に基づき夫には妻の扶養の義務があるからです。
妻の義務は、夫との性交と貞節を護ること、留守中の夫を家財の保管で、「夫の身の回りの世話」とは快適な性生活の用意をすることです。家事は妻が望まねば、夫は召使いを雇わねばなりません。
 勿論、これは夫にそれなりの収入がある場合のことで、「アッラーは誰にもできないことは課されない」(クルアーン2286節)の原則により、夫が貧しい場合には借金をしてまで無理に雇う必要はなく、夫婦で家事を分担するか、別れるか、二人で相談して決めます。

2019年10月17日木曜日

「イスラーム世界を見る視線の交錯 ——日本とフランスの対話」応答


「イスラーム世界を見る視線の交錯 ——日本とフランスの対話」応答  2019/10/16
中田考

 「イスラーム世界を見る視線」という今回のシンポジウムのテーマに深く関わっているので、私事になりますが最初に少し詳しく自己紹介をさせていただきます。
私は神道の家系に生まれました。子供の頃は夏休みは実家の里の神社で暮らしていました。二人の叔父は今も神主をしております。私自身は無宗教でしたが小学校の時からカトリックとプロテスタントの教会に通いキリスト教に親しんでいました。1980年に東大に入学して駒場聖書研究会に入会し、1982年に東大に新設されたイスラム学研究室に進学し、翌1983年にイスラームに入信しました。卒論、修論ではイブン・タイミーヤの思想を専攻しました。1986年にエジプトに渡航しカイロ大学に留学し、1992年にイブン・タイミーヤの政治哲学をテーマにカイロ大学文学部哲学科から博士号を授与されました。留学中にジハード団の学者ムハンマド・ヒジャーズィー師からイスラーム法学などを習う一方、キプロスのナクシュバンディーヤ・スーフィー教団のシャイフ・ナーズィムに弟子入りし、1996年にはシャーズィリーヤ教団に移りました。その後、1992年から1994年までサウディアラビアの日本大使館で「内政における宗教勢力の動向」の調査を委嘱され専門調査員を務めました。その後、帰国し、山口大学、同志社大学でイスラーム学を教えてきましたが、同志社大学一神教学際センター幹事、日本ムスリム協会理事として宗教間対話にも参加しました。2013-2014年にイスラーム国を5回訪問し、私戦予備及び陰謀罪で捜査され、本年8月に不起訴が決まりました。

1.日本からムスリム世界を見る
 私は、ムスリムでありながらムスリム世界を遠くから哲学者の目で眺めているという点でビダール先生と同じであり、イスラーム国の出現の原因と責任が欧米ではなくムスリム世界にあり、その起源がワッハーブ派にあり現代のワッハーブ派が金銭崇拝(worship of this false God called Money)、つまり銭神崇拝(Mammonism)であるとの認識においてビダール先生に同意します。
 もちろん、違いもあります。ビダール先生がムスリムとして育ち、旧ローマ帝国領で哲学者として活動されているのに対し、私はキリスト教徒でも1%以下、ムスリムは0.1%もいない日本で世俗教育を受けて育ち西欧的な人文社会科学を学んだ後でイスラーム学の訓練を受けてイスラームに入信したという点で、ムスリム世界をより遠く距離をおいて眺めています。またイスラーム国の出現の原因がムスリム世界にありワッハーブ派が起源であることには同意しますが、私の実際に目にしたイスラーム国は決して特別な怪物ではなく、怪物であるとすれば、それは領域国民国家(territorial nation states)という怪物リバイアサン(leviathan)たちの一匹に過ぎず、現代のワッハーブ派サウディアラビアの問題も、銭神崇拝とリヴァイアサン崇拝の多神崇拝と考えるのがより正確です。
 ユダヤ教でもキリスト教でもイスラームでも仏教でもヒンドゥー教でも伝統宗教には、生まれながらに信徒である、という受動的なあり方と、教義を学んだ上で本人の意思による入信という主体的な有り方の二つがあり、現実には前者が圧倒的に多数であり、後者の主体的であるべき入信さえ慣習制度化されているのが普通です。これはキリスト教では幼児洗礼の問題としてよく知られています。
 私はアッラーとその使徒ムハンマドを信ずる職業的イスラーム古典文献学者ですので、私にとっての「ムスリム」とは、アッラーの御許でムスリムと認められ(アッラーの御許の宗教はイスラーム[クルアーン319節])救済を約束された者のことでしかなく、自称他称のムスリムたちには興味はありません。とは言っても、誰がムスリムかを神が名指しで教えてくれるわけではないので、神の代理人という概念を持たないイスラームでは、誰がムスリムかは啓典クルアーンと神の使徒ムハンマドの言行録(ハディース)を手掛かりに自分で考えるしかありません。

2.末法のイスラーム
 現在世界のムスリムの数は15億人とも言われていますが、その絶対多数はただ先祖がムスリムだったというだけの「名ばかりムスリム」、「エスニック・ムスリム」で、ムスリムの名に値せず論ずるに足りません。預言者ムハンマドも言われています。「食客たちが大盆に互いに呼ばわり群がるように諸国民がお前たちに群がりよせることになろう。その時お前たちは多数だが川面の塵芥のようで、お前たちの心には弱さ(死の恐れ)があり、敵たちの心からはお前たちへの恐怖は取り去られている。」[1]
 仏教には、時代が経つにつれて僧侶も戒律を守らなくなり分派の争論により仏法の正しい理解が失われ、教えの形だけが残り中身は失われ、悟り開く者がなくなる「末法(“sad-dharma-vipralopa”, disappearance of the true dharma)」という考え方があります。日本でも1052年が末法元年とされ、以来、千年の長い時間を経て末法思想は人々の間に広く行き渡りました。
 イスラームの教えでも、ウンマ(ムスリム共同体)は預言者ムハンマドの時代から堕落を続け、ついには最後の審判を迎えます。最後の審判が何時かは正確には誰にも分かりませんが、最後の審判のさまざまな徴は予言されています。ちなみにマムルーク朝エジプトの大学者スユーティー(al-Suyūṭī 1505年没)は、ムスリムのウンマの寿命を1000年以上1500年以下と計算してます。今年は1441年なのでまだ少し余裕があります。,
日本の仏教徒の数は人口は約9割ですが、現代の日本人の思考も行動も釈迦の教えとは殆んど何の関係もないことは日本人なら誰でも知っています。ですから日本人である私には、末法の仏教と同じく、現代のイスラームが形だけでムスリムとは名ばかりであることは、体感的に理解できます。
 キリスト教のように、人が神の子になったり、神の子の代理人がいたり、人に神(聖霊)が憑く、といった概念を持たないイスラームにおいては、誰がムスリムかを判断できるのは、神だけです。しかしイスラームの教えはアッラーとその使徒を信ずる者にしか課されませんから、共同生活を送るには、ムスリムとそうでない者を区別する必要が生じます。ジハードやイスラーム刑法を持ち出さなくとも、食物規定やドレスコードが違えば共同生活が困難なのは、イスラームに限った話ではありません。そこでこの世で暫定的に誰かをムスリムとして扱うかどうか、という問題が生じます。
 カリフとダールルイスラーム(イスラームの家 dār al-islām)が存在し、まがりなりにもムスリムが主権を持ち、シャリーア(≒イスラーム法)が通用していた時代には、誰がムスリムか、が問題になることは通常ありませんでした。ムスリムの社会、ムスリムの家庭に生まれた者は自動的にムスリムであり、誰がムスリムかは自明で、あえて問うまでもなかったからです。しかし、カリフがいなくなり、ムスリム世界がヨーロッパ列強によって植民地化され、西欧の法制が押し付けられると状況はすっかり変わってしまいました。名ばかりのムスリムが本当にムスリムか、を問わざるをえないシチュエーションが露呈することになってしまったわけです。
もちろん、既に述べたようにムスリムかどうか、という問いは現世での便宜的な判断であり、他のムスリムについて「その信仰が本物か」を問うものではありません。それは神だけが知ることであり、人間が知ることができることでも、知る必要があることでもないからです。キリスト教とは違いイスラームには内心の信仰を問い質す告解や異端審問のような制度は有りません。人間の内心には干渉しない。これがイスラームにおける「信仰の自由」の意味です。そしてこの世の便宜的な判断はイスラーム法裁判官(カーディー qāḍī)が下しますが、イスラーム法裁判官の司法権は預言者ムハンマドの現世の裁定権の延長であるため、カリフ不在の世界では、この便宜的な判断も下せないことになります。これが現在のムスリム社会の混迷の主要な原因の一つです。

4.イスラーム国の誕生の背景
 イスラームに限らず伝統宗教では、宗教は生得的なものであり、通常それが問題されることはありません。しかし例外的にそれが問われる状況は存在し、イスラーム法にも規定があります。この発表の文脈で重要なのは、学者(アーリム ālim)と無学者(ジャーヒル jāhil)あるいは大衆(アーンミー āmmī)の区別です。無知な大衆には多くを求めるのは無理だとの冷めたリアリズムです。大伝承学者ハーキム(al-Hākim 1014年没)は「地上にクルアーンの一つの節も残っておらず、残っているのは、人々の諸集団の老人や老女が、『我々は、アッラーの他に神はない、とのこの言葉を、父祖たちから受け継ぎ、それを唱えている』ということだけ、となる。」との預言者ムハンマドの予言と、「その『アッラーの他に神はない』との言葉で地獄の業火から救われる」とのムハンマドの高弟フザイファ(Khudhaifah)の言葉を伝えています。この問題はイスラーム国などのサラフィー・ジハード主義者(Salafī jihādī)の間でも「無知による免責(udhr bi-jahl)」問題として広く知られ盛んに論じられているものです。
 「怪物はあなた方の自身の内側から来たのです(the monster has come from your own innards)」とはビダール先生の言葉ですが、イスラーム国 ― ビダール先生が言う「怪物」 ― はまさにムスリムこのムスリム社会の知的、道徳的堕落から生まれたものです。ビダール先生はその慢性病(chronic illnesses)が、宗教のドグマに対する良心の自由の完全な権利を本当に断固として認める永続するデモクラシーを確立できない無力、政治権力を支配的な宗教的権威から十分に分離できないことpowerless in establishing lasting democracies which really and definitely recognize the complete right of conscientious freedom towards the religious dogmas; the inability to sufficiently separate political power from the controlling religious authorityであると書かれています。しかし事実はむしろ、ムスリム社会の慢性病は、人権や平等などのデモクラシーのドグマに対する良心の自由を認めるカリフ制を確立できない無力、宗教的権威を支配的な政治権力から十分に分離できないこと(powerless in establishing caliphate which recognizes the complete right of conscientious freedom towards the secular dogmas like democracy, human rights, and equality; the inability to sufficiently separate religious authority from the controlling political power)にあります。
 アーノルド・トインビーが「世界の残りと同じく西洋世界の人民の90%の宗教の90%はナショナリズム(nationalism is 90% of the religion of 90% of the people of the Western World and the rest of the World as well)」、つまり「国家崇拝(state worship)」と喝破した通り、ムスリム世界を支配している真の宗教は、イスラームではなく。西欧と同じく民主主義、人権、民族主義,、国家主義などの世俗主義のイデオロギーです。それは領域国民国家の警察力と軍事力によって、反対者を犯罪者として抹殺するだけでなく、小児期から学校教育の洗脳によって強制されています。ムスリム世界の全ての国で全ての人間を支配しているのは世俗の民主主義によって選ばれた支配者と、議会が定めた法律であり、宗教はその世俗の支配者、議会が「宗教」と認めたもの以外は、たとえクルアーンに明記されていようとも、預言者ムハンマドの言葉であろうとも、非合法化され、それに反対する「自由」はありません。そしてそれらの国家は領域国民国家システムの支配者たちによって正当性を与えられ、つまり欧米諸国の武力によって守られることによって存続しているのです。そして、西欧の真の宗教が、民族主義(nationalism)、国家崇拝(state worship)であり、人権も民主主義も平等も全てそれを粉飾するための隠れ蓑に過ぎないことを明らかにしたのがイスラーム国でした。

5.イスラーム国が明らかにしたもの
 イスラーム国の特徴を一言で言うなら、自由なヒューマニズムの法の支配、つまり法による全ての人間の自由な信仰に基づく支配です。つまり、イスラーム国の理念に共鳴する者であれば誰であれ受け入れ、共に法(sharī‛ah)に則って支配する、というのがイスラーム国の特徴です。私自身が実際にこの目で見たことですが、イスラーム国の入国審査では、パスポートの提示も求められず、国籍、民族、宗教、思想の違いを問われることなく、誰でも受け入れられます。もちろん、ムジャーヒディーンになって支配する主体になるためには、イスラーム国でもサラフィー・ジハード主義であることが求められたと思いますが、イスラーム国は、万人に開かれています。イスラーム国がインターネットを駆使しして全てのムスリムにヒジュラ(移住)を呼びかけていたことはよく知られています。
 欧米がイスラーム国を恐れ、シリアとイラクに干渉して攻め込んだのは、欧米の偽善を暴露するイスラーム国のこの道義的力を恐れたからです。それは欧米によるイスラーム国への攻撃によって故郷を追われたシリア「難民」がヨーロッパに押し寄せたことではっきりします。
 ヨーロッパは、百万あまりのシリアからの「難民」が流入すると、続々と押し寄せる「難民」にパニックに陥り、彼らに国境を閉ざし受け入れを拒否します。今日人権と言われるものの殆どは社会権と呼ばれるもので、普遍的と自称しようとも、ある時代に西欧という一地方の国々の為政者たちが自分たちの趣味と都合で適当に決めた法律に過ぎず、普遍的どころか、アメリカとヨーロッパで大きく違うだけでなく、EU内部でも大きく異なります。特に宗教と政治の関係はそうです。
社会権は、西欧諸国によってこしらえられたローカル・ルールであり、そこに正義などありません。「緯度の三度の違いが、すべての法律をくつがえし、子午線一つが真理を決定する。数年の領有のうちに、基本的な法律が変わる。。川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である。(Trois degrés d’ élévation du pôle renversent toute la jurisprudence. Un méridien décide de la vérité. En peu d’années de possession les lois fondamentales changent.. Plaisante justice qu’une rivière borne ! Vérité au-deçà des Pyrénées, erreur au-delà.)」とのパスカルの言葉は今も真理です。しかし他方、 人権の中でも、自由権、特に社会契約以前による国家の成立以前から存在した、と措定される自然権には、ある程度の時代と地域を超えた「普遍性」があります。その中でも最も基本的な権利は私見では移動の自由(freedom of movement)です。人間は陸であれ、海であれ、空であれ、好きな時に好きな処に移動することが出来ます。移動の自由を妨げることは誰にも許されません。人種であれ、民族であれ、宗教であれ、言語であれ、国籍であれ、人間を差別し、人為的な国境によって中の人間を閉じ込め、外の人間を締め出すことは、人権侵害です。国境により人間の移動の自由を妨げる領域国民国家の正当性を認める者は一人の例外もなく全員が、自由も平等も人権もヒューマニティーも口にする資格がないばかりでなく、「人道に対する罪(crime against humanity)」を犯しているのです。
戦火を逃れ故郷を捨て安住の地を求めて彷徨う者の移動の自由を奪う者に、自由も平等も人権もヒューマニティーも語る資格は有りません。特にその「難民」たちが故郷を捨てざるをえなくなった原因が自分たちの空爆による責任者であるなら猶更です。百万人の難民が流入したことでEUはシリア難民の拒否を宣告し、スロバキアのロベルト・フィツォ首相は、「自国にはイスラム教徒を1人たりとも入れない」と明言し、ハンガリーのオルバン首相も、移民の流入を拒絶するために国境にフェンスを設け、ムスリム移民は受け入れられない、と述べました。
EUとトルコの対応を比較すると、問題はより明確になります。人権の擁護者をもって任じ他国にもそれを押し付けるEU、西欧諸国と違い、あからさまなトルコ民族主義を国是とする「国民国家」であるトルコですが、350万人のシリア難民を受け入れています。言うまでもなく、シリア人は他国民であるだけでなく民族的にもトルコ人ではなく異民族のアラブ人です。しかし、いきなり350万人もの難民が流入したことでさまざまな社会経済的問題が起き難民に対する不満が高まっているにもかかわらず、コスモポリタンなAKPは言うまでもなく、トルコ民族主義のCHP(人民共和党)だけでなく、極右トルコ超民族主義の民族主義行動党(MHP)の支持者の間ですら、EUのネオナチのような極右排外主義集団による難民の追放運動は生じていません。
面積約80万㎡、人口約8千万人、GDP2兆ドルのトルコが350万人の異民族の難民を受け入れることが出来るのに、面積400万㎡以上、人口約5億人、GDP22兆ドルのEU100万人の難民しか受け入れられないというのはどういうことでしょうか。このことは、西欧人にとって、人権、平等、自由、ヒューマニティーなどはせいぜい自己欺瞞の建前でしかなく、真の行動原理は、排外民族主義と拝金主義であることを示しています。リヴァイアサン崇拝とマモン崇拝の多神教徒であることで、EUもサウディアラビアも五十歩百歩でしかありません。もちろん、中で暮らす者にとって、五十歩と百歩の差は重要ですが、私のような哲学者にとっては理論的な差はありません。
移住して来ようとする者たちを締め出した上でEUの内部の人間にしか保証されない権利はEU市民の「特権」でしかなく、人間の普遍的権利「人権」ではありません。人権というものがもしも存在するなら、それは特定の人間だけでなく、例外なく全ての人間が有するもののはずです。国籍で人を差別し、難民に自国領に入国する移動の自由さえ与えもせず、他国の人間には自分たちの価値観を押し付けようとする西欧人は、自由、平等、人権、ヒューマニティー、民主主義の擁護者などではなく、自民族優越思想に染まった帝国主義者に過ぎません。
イスラーム国の戦いは、ヒューマニティーを否定する西欧の領域国民国家の支配から人類を解放し、自由なヒューマニズムの法の支配を確立するためのものであり、私たちはイスラーム国を崩壊させたことで、人類の解放の夢を自らつぶしたことになるのです。イスラーム国には別のさまざまな問題があることを私は否定しませんし、イスラーム国がユートピアでないことは言うまでもありませんが、それはヒューマニズムとはまた別の話です。ビダール先生は「経済危機の解決だけによってではなく、本質的に我々人類全体に関わる前例のない精神的/霊的危機の解決によってしか人類の未来はない。我々はこの根本的な挑戦に応えるために、全地球規模で、一つに纏まることができるだろうか?(the future of humanity will occur not only by the resolution of the financial crisis, but essentially by the resolution of the spiritual crisis without precedent which involves our humanity in its entirety. Saurons-nous tous nous rassembler, à l'échelle de la planète, pour affronter ce défi fondamental ?)」と言われています。しかし、そのためには、まず地上の全ての人間が、領域国民国家という牢獄、国境という檻から解放され、望むままに望むところに、EUであれ、アメリカであれ、日本であれ、イスラーム国であれ、移住することができるようにすることであり、「知識人」の役目は、なによりもまず、それを訴えることだと私は信じています。ですから。我々がなすべきことは、イスラーム国をつぶすことでなく、イスラーム国の成立を奇貨として、イスラーム国のオルタナティブとなる「ヒューマニズムの法の支配」を提示すること、即ち、欧米は国籍による差別を廃して地上の全ての人間に平等な社会権とヘゲモニー国家群の為政者の選挙権を与えること、ムスリム世界はアブー・バクル・バグダーディーに不満なら、より相応しいと自分たちが考えるカリフを擁立することであったはずです。

6.スーフィズムと宗教間対話
 ビダール先生は、人類全体に関わる精神的/霊的危機の解決の希望を、スーフィズム、特に哲学的スーフィズムによる宗教間対話interreligious dialogue, ecumenism)に託しているように思いますが、残念ながら私は賛同できません。私自身、一神教学際研究センターの幹事の資格で研究者として、日本ムスリム協会の理事の資格で宗教者として、数多くの宗教対話に参加してきました。また時祷(wird)も実践しない怠慢な徒弟(murid, apprentice)ですのであまり名乗りませんが、最初に述べたようにナクシュバンディーヤ、シャーズィリーヤの教団とバイア(誓約)を交わしたスーフィーであり、Ibn Qudāmah(620年没)Ibn al-Jawzī(597年没) から法衣(khirqah)を受け継いだカーディリー教団の導師であったイブン・タイミーヤを信奉するイスラーム学者として、初学者向けの入門書Muammad Amīn Kurdī(1914年没)著『シャーフィイー師の学派に則り宗教学を学ぶ初学者の悦び(Sa‛ādah al-mubtadi'īn fī ‛ilm al-dīn ‛alā madhhab al-Imām al-Shāfi‛ī)、またオスマン朝期スーフィズムの最高峰と信ずる‛Abd al-Ghanī al-Nābulusī(1731年没)の『イスラームの真義(Ḥaqā'iq al-islām)』を翻訳するなど、スーフィズムの意義を認めています。しかし現代のスーフィーにも宗教間対話にもポジティブな意味があるとは思いません。
現代においてムスリム世界のスーフィーたちは、人民を抑圧搾取する腐敗堕落した支配者たちの言動を100%唯々諾々と誉めそやし、彼らにイスラーム的正当性の外観を与えるためだけに存在を許されている茶坊主に成り下がっており、西欧的な基準に照らしても、イスラーム的にも、人類に対してもムスリム世界に対してもポジティブな貢献は見当たりません。彼らの役目は、支配者たちのあからさまなイスラームからの逸脱を糾弾する者に、「原理主義者」、「過激派」、「形式主義者」、「テロリスト」などのレッテルを貼ることだけです。スーフィーたちはこの世の支配者たちの政策を100%追認しますが、スーフィーの提言によって政策や立法が変わった、という話は一つも聞きません。もしイスラームの教養もない腐敗堕落した支配者たちの思い付きの政策が、すべてスーフィーたちによって賛同できるものであるなら、スーフィーだけの知る深遠な知恵など最初からどこにもないことになります。またスーフィーの精神性/霊性が、合理的に理解可能な行動や言葉によって示される、つまり祈りが聞き届けられることによる、というなら、アラブのスーフィズムの中心であるシリアでなぜ25万人が殺され、500万人が難民になっているのでしょうか。
欧米で活動するスーフィーも事情は同じで、欧米で自分たちが築いてきた既得権を失い、迫害、追放されないように、保身に汲々とするばかりで、ポジティブな貢献は何もありません。彼らは欧米に敵対的なアルカーイダやイスラーム国などのためにイスラームフォビアが高まり、自分たちが巻き添えにならないために、彼らはイスラームとは無関係であり、自分たちこそが真のムスリムであると論証し、欧米社会に適応した宗教であるとのお墨付きを得るために西欧の宗教者たちとの宗教間対話に精を出しますが、欧米内部の不公正であれ、欧米と第世界の間の不公正であれ、あるいは地域紛争であれ、行動によってであれ、言論によってであれ、祈りの力によってであれ、なんら解決せず、また男女平等、思想の自由、宗教的寛容、デモクラシーなど西欧の流行の後追いの猿真似以外に、欧米に対してイスラーム、あるいはスーフィズムに独自なポジティブなオルタナティブを提供したという話も聞きません。
 プロテスタント神学者小原克博が以下のように述べているように、政教分離と宗教対話が思想の自由や宗教的寛容をもたらさず国家崇拝、排外的ナショナリズムの道具になることは、大日本帝国の歴史が証明しています。「日本近代史においても、万国宗教大会(1893年)や宗教家懇談会(1896年)のように、現代の宗教間対話に近いものがあった。しかし、宗教同士の宥和が進むことは、必ずしも日本社会全体が寛容な社会となることを意味しなかった。 ―中略― 宗教の共存そのものが国家秩序に組み込まれ、政教分離の形式のもとに、排他的なナショナリズムの一部として機能した(In the modern age of Japan there were already interreligious dialogues such as the World's Parliament of Religions (1893) and the Council of the Religious Leaders (1896), which seem to be comparable with the contemporary ones. However, cooperation between religions did not always result in the tolerant Japanese society as a whole.The coexistence of religions have been embedded into the national order and played a role of exclusive nationalism in the separation of state and religion”)。エラノス会議(Eranos)にも参加し、日本的霊性の唱道者として国際的に有名な鈴木大拙も、日本の軍国主義だけでなくナチスにも賛同していました。政教分離の名の下に民族主義、国家主義を容認する宗教者に高い霊性など期待できません。

7.モンゴルの寛容とイスラーム世界の世俗化
 西洋では政教分離、より正確には「国家と教会の分離」、は近代的価値のように思われていますが、実は、東アジアでは見慣れた光景です。もっとも正確には近代西欧が言う政教分離とは国家により宗教管理であり、むしろWeber宗教社会学の「皇帝教皇主義(Caesaropapism)」に近いものですが。そしてそれはイスラーム世界でも既に経験済みのものです。モンゴルの支配です。モンゴルの侵入により、西遼(Qara-Khitai, 1218年滅亡)、ホラズムシャー朝(Khwarazmian dynasty, 1231年滅亡)、ルーム・セルジューク朝(Seljūqs of Rūm, 1243年服属)、アイユーブ朝(Ayyubids, 1250年滅亡)、アッバース朝カリフ国(Abbasids, 1258年)が滅亡し、イスラーム世界は壊滅的な打撃を蒙ります。モンゴル帝国は血統を重んずる「民族主義」国家でしたが、特定の宗教を公定宗教とせず全ての宗教を保護する「モンゴルの寛容」と呼ばれる政教分離政策を特徴としました。東アジアの元(Yuan)朝は滅亡まで政教分離政策を続けましたが、残りの3帝国イル・ハーン国(Ilkhanids )、キプチャク・ハーン国(Golden Horde)、チャガタイ・ハーン国(Chagatayids)はイスラーム化します。支配者のガーザーン・ハーン(1304年没)のイスラーム改宗後日が浅くモンゴル的「世俗主義」の特徴をまだ色濃く残していたイル・ハーン国に和平使節として訪れたイブン・タイミーヤが当時の状況について貴重な証言を残しています。
 彼らは名目的にムスリムにはなっており、イスラームを尊重してはいますが、義務は一部しか果たしておらず、偶像崇拝にも「寛容」です。しかし何より重要なことは、彼らがそのために戦う究極の忠誠の基準がモンゴル帝国の敵か味方かであり、従うべきは支配者の命令であることです。味方であれば異教徒とでも戦わず、敵であればムスリムとでも戦い、神の命令に則っているか反しているかに関係なくて支配者の命令に従うのです。
イブン・タイミーヤは言います。「たとえアッラーとその使徒の敵である不信仰者であろうとも、モンゴル帝国のために戦う者ならば、むしろ賞賛したりそのまま好きにさせておくが、逆にモンゴル帝国から離反したり、反抗する者に対しては、たとえそれが模範的なムスリムであろうとも、戦うことを認める(بل من قاتل على دولة المغول عظموه وتركوه وإن كان كافرا عدو الله ورسوله وكل من خرج عن دولة المغول أو عليها استحلوا قتاله  وإن كان من خيار المسلمين)」この記述はイスラーム国と戦うムスリム世界の「世俗国家」に住む領域国民国家リヴァイアサン崇拝者たちにそのまま当てはまります。
 またイブン・タイミーヤは言います。「彼らにとってのムスリムというものは、ムスリムたちにとっての、自分たちの中の公正な者、行い正しい者、義務(のみならずそれ)以上の良いことを進んで行う者といった存在であり、彼らにとっての不信仰者とは、ムスリムにとっての、自分たちの中の不正な者、最低限の義務しか行わない者といった者に等しいということである。(المسلم عندهم بمنزلة العدل أو الرجل الصالح أو المتطوع في المسلمين والكافر عندهم بمنزلة الفاسق في المسلمين أو بمنزلة تارك التطوع)」[2]
 世俗主義のイル・ハーン国のムスリムたちにとっては、ムスリムとは善良な人、不信仰者とは邪悪な人、ほどの意味しか持ちません。このイブン・タイミーヤの言葉もまた、政教分離の名によってイスラームを西欧キリスト教的な「宗教」に切り詰め、法的側面、政治的側面をイスラームから切り離した現代の世俗主義者のムスリムたちが口にしたとしても、少しも違和感がありません。

結語
 既に述べたように、政教分離や世俗主義は、西欧では最新の流行ではあっても、東アジアでは馴染みのものです。そしてイスラーム世界もまた政教分離・世俗主義のモンゴル帝国による支配によって遥か昔に通り過ぎた道です。もちろん、過去の世俗主義と現代の世俗主義、過去の民族主義と現代の民族主義とは違います。現代の民族主義、世俗主義は、「代表(representation)」と「法人(legal body)」という誤魔化しの(delusive)フィクションによって個々の人間が抵抗できないまでに肥大化し人間の精神と肉体を完全に支配し奴隷化する「可死の神(Mortal God)」リヴァイアサンを主神とする偶像崇拝です。この偶像神は「大量破壊兵器」で武装した軍隊と警察の暴力を背景に、学校とマスメディアという洗脳機関を通じて、ナショナリズム、エタティズムの教義を、信仰の対象、即ち「宗教」ではなく、普遍的真理であるかのように教え込みます。このリヴァイアサンの許では「宗教」は、リヴァイアサンに隷属する限り、慣習や趣味のように、生き方の本質に社会に影響を与えず、人生の本質に無関係な些末事として「自由」を与えられるのです。
 タウヒード(tawḥīḍ, unification)の教えとしてのイスラームの現代における使命は、精神、身体、社会、経済、政治の全てにおいて超越者のみを志向することにより、被造物によるあらゆるしがらみから解放された自由を全ての人類にもたらすことだと私は信じています。
「木を見て森を見ず」という諺があります。ムスリム世界の最果て、アブラハムの宗徒が1%もいない極東に生きるムスリムには、アブラハムの宗徒の世界、ムスリム世界の住人には距離が近すぎて見えないイスラームの全景、本質がかえって見通せる、ということもあるのではないでしょうか。
私見では、我々が生きる現代世界のリヴァイアサン崇拝の本質を理解するためには、ヘレニズム・キリスト教の「受肉(incarnation)」の概念にまで遡った哲学・神学的分析が必要となります。しかしそれは割り当てられた発表時間と私の能力を超えています。いつか改めて議論する機会があるなら、発表者にとって望外の幸せです。

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参考文献
中田考『イスラーム国訪問記』( 20193月、現代政治経済研究社)
[本書は一般書店では取り扱っておらず、Amazon.co.jpで販売、発送]
筆者は「イスラーム国」とその前身である「ヌスラ(助勢)戦線」、「イラクとシリアのイスラーム国」を、20133月、9月、12月、20143月、9月と計5回にわたって訪問した。本書は「ASAHI中東マガジン」に連載されたその記録「イスラーム国訪問記」を大幅に書き直し、未発表の資料と写真を組み込み、新たにイスラーム国の思想と歴史に関する解説、ラッカ在住のキリスト教徒に対して行ったインタビューの翻訳、イスラーム法上の異教徒の取り扱い規定、及びそのインタビューに同行した戦場カメラマンの横田徹氏の手記を新たに加えて編集したものである。



[1] قال رسول الله صلى الله عليه وسلم: يوشك الأمم أن تداعى عليكم كما تداعى الأكلة إلى قصعتها. فقال قائل: ومن قلة نحن يومئذ. قال: بل أنتم يومئذ كثير ولكنكم غثاء كغثاء السيل ولينزعن الله من صدور عدوكم المهابة منكم وليقذفن الله في قلوبكم الوهن. قال قائل: يا رسول الله وما الوهن قال: حب الدنيا وكراهية الموت.  (أخرجه أبو داود)
[2] 問題の民(タタール)は、その軍隊は、不信仰のキリスト教徒や多神教徒も含んでいるが、大多数は求められれば(イスラームの)信仰告白の言葉を唱え、使徒を讃えてみせるようなムスリムを名乗る者からなるのであるが、礼拝をする者はごく少数にしか過ぎない。ラマダーンの斎戒(断食と禁欲)は(日常の)礼拝よりは守られている。また彼らはムスリムを他の者たちより優遇しており、さらに彼らの許では真面目なムスリムは敬意が払われている。彼らはイスラームを部分的に実践しており、イスラームの遵守の度合において様々なのではあるが、彼らの大半の依って立つ立場、彼らが戦う立場は、イスラームの諸規定の多くを、あるいは、そのほとんどを無視していることを示している。なぜならば、彼らは最初にイスラームへの入信を義務づけたとしても、その諸規定の遵守を怠る者と戦おうとはしないからである。いや、むしろ彼らは、たとえアッラーとその使徒の敵である不信仰者であろうとも、モンゴル帝国のために戦う者ならば、むしろ賞賛したりそのまま好きにさせておくが、逆にモンゴル帝国から離反したり、反抗する者に対しては、たとえそれが模範的なムスリムであろうとも、戦うことを認めるのである。また彼らは不信仰者に対してジハードを行わず、啓典の民にジズヤ(人頭税)を課し卑しめることもなく、彼らの兵隊たちの誰であれ、太陽や月など好きなものを崇拝するのを禁じようともしない。つまり、彼らの行ないから明らかなことは、彼らにとってのムスリムというものは、ムスリムたちにとっての、自分らの中の公正な者、行い正しい者、義務(のみならずそれ)以上の良いことを進んで行う者といった存在であり、彼らにとっての不信仰者(カーフィル)とは、ムスリムにとっての、自分たちの中の不正な者、最低限の義務しか行わない者といった者に等しいということである。
 また、彼らの多くは、彼らの支配者(スルタン)が禁じるのでない限り、ムスリムの生命、財産を不可侵としない、つまり、それに手を付けずにはおかない。彼らは支配者(スルタン)がそうしたことを禁じた場合にはそれに従うが、それは命じた者が王だからであって、イスラームの教えのみによるのではないのである。また、彼らの大半は、礼拝、喜捨、巡礼などの義務を遵守せず、自分たちの間の裁きをアッラーの定めに基づいて行わず、彼らの慣習法に基づいて裁くのであるが、それはイスラームに一致していることもあれば、背反していることもある(فهؤلاء القوم المسؤول عنهم(ا دَولَة الإلخانية) عسكرهم مشتمل على قوم كفار من النصارى والمشركين وعلى منتسبين إلى ألإسلام وهم جمهور العسكر ينطقون بالشهادتين إذا طلبت منهم يعظمون الرسول وليس فيهم من يصلي إلا قليل جدا وصوم رمضان أكثر فيهم من الصلاة وأعظم من غيره والصالحين من المسلمين عندهم قدر وعندهم من الإسلام بعضه وهم متفاوتون فيه لكن الذي عليه عامتهم والذي يقاتلون عليه متضمن لترك من شرائع الإسلام أو أكثرها. فإنهم أولا يؤجبون الإسلام ولا يقاتلون من تركه. بل من قاتل على دولة المغول عظموه وتركوه وإن كان كافرا عدو الله ورسوله وكل من خرج عن دولة المغول أو عليها استحلوا قتاله  وإن كان من خيار المسلمين. فلا يجاهدون الكفار ولا يلزمون أهل الكتاب بالجزية والصغار ولا ينهون أحدا من عسكرهم أن يعبد ما شاء  من شمس أو قمر أو غيرذلك. بل الظاهر من سيرتهم أن المسلم عندهم بمنزلة العدل أو الرجل الصالح أو المتطوع في المسلمين والكافر عندهم بمنزلة الفاسق في المسلمين أو بمنزلة تارك التطوع. كذلك أيضا عامتهم لا يحرمون دماء المسلمين واموالهم إلا أن ينهاهم عنها سلطانهم أي لا يلزمون تركها وإذا نهاهم عنها أو غيرها أطاعوه لكونه سلطانا لا بمجرد الدين)。