2012年9月9日日曜日

MSAJ Annual Meeting 2012, Kanazawa,  Muslims in Japan, Challenges & Duties


201年9月17日 MSAJ Annual Meeting 2012, Kanazawa,  Muslims in Japan, Challenges & Duties 「法の支配による大地の解放のカリフ制」 中田考(同志社大学一神教学際毛球センター上席研究員) "تحكيم القوانين" تأليف: الشيخ محمد بن إبراهيم بن عبد اللطيف آل الشيخ مفتي الديار السعودية الأسبق قال تعالى بعد ذلك: {ومَنْ لَمْ يَحْكُمْ بِمَا أَنْزَلَ اللهُ فَأُولئِكَ هُمُ الكافِرون} و{ومَنْ لَمْ يَحْكُمْ بِمَا أَنْزَلَ اللهُ فَأُولئِكَ هُمُ الظالِمُون} و{ومَنْ لَمْ يَحْكُمْ بِمَا أَنْزَلَ اللهُ فَأُولئِكَ هم الفاسِقون}. فانظر كيف سجّل تعالى على الحاكمين بغير ما أنزل اللهُ الكفرَ والظلمَ والفسوق ومِن الممتنع أنْ يُسمِّي اللهُ سبحانه الحاكمَ بغير ما أنزل اللهُ كافرًا ولا يكون كافرًا ، بل هوكافرٌ مطلقًا، إمّا كفر عمل وإما كفر اعتقاد، وما جاء عن ابن عباس - رضي الله عنهما - في تفسير هذه الآية من رواية طاووس وغيره يدلُّ أنّ الحاكم بغير ما أنزل اللهُ كافرٌ: إمّا كفرُ اعتقادٍ ناقل عن الملّة، وإمّا كفرُ عملٍ لا ينقلُ عن الملّة. أمّا الأول: وهو كفر الاعتقاد, فهو أنواع .... الخامس: وهو أعظمها وأشملها وأظهرها معاندة للشرع ومكابرة لأحكامه ومشاقّة لله ورسوله ومضاهاة بالمحاكم الشرعية، إعداداً وإمداداً وإرصاداً وتأصيلاً وتفريعاً وتشكيلاً وتنويعاً وحكماً وإلزاماً ومراجع ومستندات. فكما أنّ للمحاكم الشرعية مراجعَ مستمدّات، مرجعها كلُّها إلى كتاب الله وسنة رسوله صلى الله عليه وسلم, فلهذه المحاكم مراجع هي: القانون المُلفّق من شرائعَ شتى وقوانين كثيرة كالقانون الفرنسي والقانون الأمريكي والقانون البريطاني وغيرها من القوانين ومن مذاهب بعض البدعيين المنتسبين إلى الشريعة وغير ذلك. فهذه المحاكم الآن في كثير من أمصار الإسلام مهيّأة مكملة مفتوحةُ الأبواب والناس إليها أسرابٌ إثْر أسراب يحكُمُ حُكّامُها بينهم بما يخالف حُكم السُنّة والكتاب، من أحكام ذلك القانون، وتُلزمهم به وتُقِرُّهم عليه وتُحتِّمُه عليهم. فأيُّ كُفر فوق هذا الكفر، وأيُّ مناقضة للشهادة بأنّ محمدًا رسولُ اللهِ بعد هذه المناقضة. وذِكْرُ أدلّة جميع ما قدّمنا على وجه البسْطِ معلومةٌ معروفة، لا يحتمل ذكرها هذا الموضوع. فيا معشر العُقلاء! ويا جماعات الأذكياء وأولي النُهى! كيف ترضون أنْ تجري عليكم أحكامُ أمثالكم وأفكارُ أشباهكم، أو مَن هم دونكم، مِمّن يجوز عليهم الخطأ بل خطأهم أكثرُ من صوابهم بكثير، بل لا صواب في حُكمهم إلاّ ما هو مُستمدٌّ من حُكم اللهِ ورسولهِ نصًّا أو استنباطًا, تَدَعونهم يحكمون في أنفسكم ودمائكم وأبشاركم وأعراضكم وفي أهاليكم من أزواجكم وذراريكم وفي أموالكم وسائر حقوقكم ! ويتركون ويرفضون أن يحكموا فيكم بحُكم الله ورسوله الذي لا يتطرّق إليه الخطأ ولا يأتيه الباطل من بين يديه ولا من خلفه تنزيل من حكيم حميد. وخُضوع الناس ورضوخهم لحكم ربِّهم خضوعٌ ورضوخٌ لِحُكم مَنْ خلقهم تعالى ليعبدوه فكما لا يسجدُ الخلقُ إلاّ للهِ، ولا يعبدونَ إلاّ إياه ولا يعبدون المخلوق، فكذلك يجب أن لا يرضخوا ولا يخضعوا أو ينقادوا إلاّ لحُكم الحكيم العليم الحميد الرءوف الرحيم, دون حُكم المخلوق الظلوم الجهول الذي أهلكته الشكوكُ والشهواتُ والشبهات واستولت على قلوبهم الغفلة والقسوة والظلمات. فيجب على العُقلاء أن يربأوا بنفوسهم عنه لما فيه من الاستعباد لهم والتحكم فيهم بالأهواء والأغراض والأغلاط والأخطاء، فضلاً عن كونه كفرًا بنصِّ قوله تعالى: {ومَنْ لَمْ يَحْكُمْ بِما أَنْزَلَ اللهُ فأُولئكَ هُمُ الكافِرونَ}. 『人定法に裁定を求めること』 ムハンマド・ブン・アブディッラティーフ・アール・アル=シャイフ(サウジアラビア王国ムフティー)著 慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名において 呪われるべき人定法をクルアーンと取り替えることこそ、明々白々な最大の不信仰であり、「なにごとであれ汝らが相争うなら、汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら、それをアッラーとその使徒のもとに持ち込め。それが最善であり、最も良い結論である。」との尊くも畏きアッラーの御言葉に対する違背、頑迷な敵対である。 アッラーが啓示されたもの(シャリーア)に則らずに統治する者は不信仰者であるが、ムスリム共同体から背教者として排除される信条における不信仰を犯す不信仰者か、ムスリム共同体からは排除されない行動における不信仰を犯す不信仰者のいずれからである。信条における不信仰には多くの種類がある。(中略)・・・第五は、聖法に対する頑迷な敵対、その諸法規を見下す傲慢、アッラーとその使徒への背反、イスラーム法裁判所に対する競合において、装備、浸透性、所管、基礎付け、展開、組織性、多様性、実効性、強制性、準拠法令、公文書において、(それら不信仰の信条のうちで)最も重大で、最も包括的で、最も明白なものである。(それらに準拠法令、公文書があるのは)イスラーム法裁判所にもその根拠が全てクルアーンとその使徒のスンナのみである演繹された準拠法令があるのと同じく、それらの(欧米実定法)裁判所にも準拠法令がある。それはフランス法、アメリカ法、イギリス法などの多くの法律や、聖法を僭称する異端的諸派の様々な法の寄せ集めの法律なのである。 イスラームの諸国の多くのこれらの裁判所は、完全に整備され、門戸が開かれ、人々はそれに続々と押し寄せ、それらの支配者たちは人々をクルアーンとスンナに背くその人定法の諸法規によって裁き、人々にそれを強制し、彼らにそれを認めさせ、それを義務付けるのである。この不信仰よりも重大ないかなる不信仰があろうか。そして「ムハンマドはアッラーの使徒である」との信仰告白に対する違背があろうか。この違背以上の、預言者ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)に対するいかなる違背があろうか。 既に簡単に述べた典拠の全ては周知でありここで繰る返すことはしない。理性を有する者たち、賢者たち、知恵ある者たちよ。あなた方と同等か、それ以下の者たちの(作った)法規、思い付きがあなたがたに課せられることにどうすれば満足していられるか。彼らは過ちを犯すことがあるというのに。いや、彼らは間違うことの方が正しいことより遥かに多い。いや、彼らの裁定が正しいのは、明文テキストにしろ含意によるにしろ、アッラーとその使徒の裁定から演繹された場合だけなのである。どうすればあなた方は、彼らが過ちが生じることがなく決して不正が起きない誉むべき英明なるアッラーからの啓示であるアッラーとその使徒の裁定によってあなた方を裁くことを怠り拒否する一方で、あなた方の身体、血、皮膚、名誉、そしてあなた方の妻子、家族、そしてあなた方の財産、その他の全ての権利について(人定法で)裁くのを放置していることが出来るのか。人々がその主アッラーの裁定に従い、服するのは、自分を崇拝するようにと人間を創造された御方アッラーの裁定に従い、服することである。それゆえ人間がアッラー以外に跪拝せず、アッラー以外に崇拝を捧げず、被造物を崇拝しないのと同じように、疑惑、妄執、混乱によって滅び、無関心、冷酷、不義に心を奪われた不正で無知な被造物の裁定を拒否せねばならず、慈悲深く憐れみ深く誉むべき全能な英知ある御方アッラーの裁定以外に従い、服し、屈することがあってはならないのである。 それゆえ理性ある者は、「・・・アッラーが下し給うたもので裁かない者、それらの者こそは不信仰者である」(5:44)とのアッラーの御言葉の明文により、それ(人定法による支配)が不信仰であることに加えて、人間の奴隷化、人間に対する欲望、悪意の目的、迷妄、過誤による支配があるが故にそれを警戒しなければならないのである。 1 イスラームとは「政治」である。我々の思考を麻痺させ真実の認識を妨げている元凶は、現代のマジックワード「政教分離」。現代世界は、リヴァイアサン「領域国民国家」を主神とし、マモン「銭神」をその配偶神とする政教一致の多神教「世俗的ナショナリズム」によって、人間の身体と精神の全てが支配され、政治/宗教化されており、人間のいかなる営為も、政治・宗教とならざるをえない。 2 イスラームは「政治」であるとの命題は、政教一致という時代を超えたイスラームの「本質」の帰結ではなく、政教一致の多神教「世俗的ナショナリズム」が人間の身体と精神の全てを支配するこの現代世界という特殊な環境においてこそ、多神教を断固否定する純正な一神教としてのイスラームが政治となることを強いられているために成立する。 3 「イスラーム」とは、宇宙の創造主アッラーただひとりに服従を捧げることを意味する。人間を隷属させる「ジャーヒリーヤ(無明)」の邪神は「ターグート」と呼ばれるが、木や石のいわゆる偶像「アスナーム」、「アンサーブ」などだけではなく、「ジャーヒリーヤ(無明)」の悪習によって人々を支配する有力者たちも「ターグート」と呼ばれた。 4 「現代国家」はフーコーが「生-権力」と呼ぶように、学校、軍、病院、監獄など強制的調教機関によって人間の内心に至る生のあらゆる領域を「積極的」に全面的な管理下に置こうとする。現代はこの国家による「政治」が人間生活の全ての領域を覆い尽くした時代。 5 イスラームが、人間の生死、運命を司る創造主と専一的な庇護-服従関係、つまり「政治」であるなら、イスラームが否定するイスラームの対極の状態「ジャーヒリーヤ(無明)」もまた「政治」である。現代国家による「政治」こそ、イスラームの対極にある「ジャーヒリーヤ(無明)」に他ならない。イスラームは「政治」である、との命題は、人類全てが「領域国民国家」の「生-権力」の政治に絡め取られた我々の住むまさにこの現代世界において成り立つ命題なのである。 6 「領域国民国家」が地球を覆い尽くし、「政治」が肥大した「ジャーヒリーヤ(無明)」の現代にあっては、「ジャーヒリーヤ(無明)」の対極のイスラームもまた「政治」として表象されなければならない。 7 9世紀(イスラーム暦2世紀)以降のイスラームを「祭政一致」、「政教一致」などと呼ぶことは出来ない。「政治」が肥大化した現代において、まさに「政治」こそがイスラームであるのに対し、前近代のイスラームにおいては、「政治」はイスラームの部分システムでしかなく、「イスラーム」と等しくはなく、キリスト教ヨーロッパ文明が「宗教」と呼ぶようなものは、政治とは明確に分化していた。 8 絶対的なカリスマで使徒ムハンマドの存命中は、使徒ムハンマドの命に服することによってアッラーとの庇護-服従関係に入ることが出来る、との彼の神の代理権(ウィラーヤ)は疑いを容れない前提。教えの具体的な内容より以前に、信じ従うべき権威の所在を明らかにすることこそが、イスラームの最重要問題。 9 絶対的なカリスマであったアッラーの使徒ムハンマドの逝去後直ぐに、「権威ある者」とは誰かをめぐって、イスラーム共同体は、後にスンナ派となる「法の支配」の原則を掲げ「政教分離」を認める多数派と、後にシーア派となる「人の支配」と「政教一致」の原則を固守する少数派の二大党派に分裂。 10 ムハンマドは超越神アッラーの啓示を授かり人々に伝える使命を授かった使徒として、絶対的なカリスマとしてムスリム信徒団に君臨。預言者ムハンマドの権威は、一般信徒にはアクセスの不可能なアッラーの啓示の神意の超越的な権威に基づくという意味において絶対的、また啓示の神意が一般の信徒が理性によって知ることができない、という意味において「非合理的」「神秘的」。従って預言者ムハンマドの権威は言葉の正しい意味において「宗教的」とであった。 11 信徒の側から見ると、アッラーとのアクセスを独占しており、その言葉が疑いを挟む余地無く無条件の服従が要求されるという点において、イマームの権威は「非合理的」、「神秘的」、そして「宗教的」であり、使徒の絶対的な権威に等しい。このシーア派の考え方は、イスラームとはアッラーのメッセージを伝える無謬の預言者その人に従うことである、との預言者の存命中の「人格的イスラーム」理解の延長上にある。 12 スンナ派の考える使徒の後継者「カリフ」は、使徒の存命中の可謬の代官たちと同質。カリフはアッラーとのアクセスを有さず、シャリーアの解釈権を独占していないため、一般のムスリムであっても、カリフがアッラーとその使徒に従っているか背いているかをシャリーアに照らして判断することが可能。 13 原始イスラームにおいてすでに萌芽的に存在したスンナ派の「法の支配」、「シーア派」の「人の支配」の統治理念は、実際にはイスラーム法学が成立し、イスラーム法体系が完成する8世紀(イスラーム暦2世紀)頃から13世紀(イスラーム暦7世紀)頃にかけて徐々に理論的に結晶化。アッラーの使徒を介したアッラーへの絶対服従を意味するイスラームの内実は、預言者ムハンマドの在世中は彼自身の人格に対する帰依、服従であったが、その逝去後は、クルアーンとハディースのテキストの文言に秘められた神意を忖度し生きる指針としてそれに従うことに変化した。こうしてイスラームは、預言者への「人格的」帰依から、「非人格的」なテキストへの聴従に変る。そして更にイスラーム法体系の成立、発展に伴い、イスラーム法に従うことことこそがイスラームであるとみなされるようになる。 14 イスラーム法はローマ法と並んで典型的な法曹法、学者法。イスラーム法とローマ法とを比べると、同じく法曹法、学者法と呼ばれながらも、ローマ法においては皇帝権が法に対して優位だが、イスラーム法においては「法の支配」の理念が優位。イスラームにおいては、イスラーム法学、イスラーム法体系はカリフから独立に形成され、イスラーム法の権威がカリフに従属する事態は生じなかった。 15 ヨーロッパ諸語ではカノン法とは教会法を指すが、ギリシャ語κανώνがアラビア語化したカーヌーンは逆に、天啓の神法シャリーアと対置され、人定法の政令(執行命令)を意味する。イスラーム文明においては、カリフや王侯(スルタン)たちは、恣意的な場当たり的な命令によって支配するのではなく、政令の集成、法典を制定するようになった。これらの法令の束が「法令(カーヌーン)集」。「法令」はシャリーア、イスラーム法とは別物、カリフがイスラーム法を施行するための行政細則、政令(執行命令)。 16 制度的にも、シャリーア、イスラーム法が、マドラサ(神学校)で全てのイスラーム学徒に教えられたのと異なり、「法令」がマドラサのカリキュラムに組み込まれることはなかった。またシャリーアに基づく裁判がイスラーム法学者の裁判官(カーディー)によって行われたのに対して、行政裁判はカリフの管轄下の「マザーリム(行政不正審査)」と呼ばれる法廷で行われた。 17 シーア派の考えでは、使徒ムハンマドの権威は、その後継者イマームの一身に全てが継承されるが、スンナ派においては、使徒の権威は、政治的権威とシャリーア、イスラーム法の権威に分化し、前者がカリフに、後者がイスラーム法学者に継承される。使徒ムハンマドは、政治的権威、法的権威の他に、アッラーからの直接的教示により来世や天界などの一般のムスリムが知り得ない不可視の事柄を知る「霊的」権威、西洋宗教学的意味における「宗教的権威」と呼ぶべき「権威」を有していた。この使徒の「宗教的」権威はスンナ派の理解では、スーフィーと呼ばれる「聖者」たちによって、継承された。 18 ギリシャ政治思想以来、政治を「人間による人間の支配」、「人に支配」とみなしてきた西欧政治観は、特殊西欧的なものであり、実はそれは特殊西欧的な人間観に由来。ヨーロッパの政治思想は、初期キリスト教会の人間観から派生する「人の支配」。「支配する聖職者-支配される俗人」の支配構造の世俗の領域が更に「支配する貴族-支配される平民・奴隷」に分化される「人の支配」の二重構造が、西洋キリスト教文明の社会構造であり、それが全世界規模に広まったのが現代世界。 19 現代西欧が喧伝するデモクラシーは「民衆支配(デモクラティア)」とは似て非なるもの。ミュヘルスの「寡頭制の鉄則」により、近代国家のような巨大な組織には、寡頭制以外の政体は有り得ない。現代西欧のデモクラシーとは、実は「間接民主制(indirect democracy)」の美名で粉飾した寡頭制に過ぎない。 20 「人の支配」以外の政治体制を想像することができず、「法」と「法律」を明確に区別することもできない西洋にとっては、「人権」の理念は「人の支配」の弊害を緩和し欠陥を補う解毒剤。「人の支配」、寡頭制の偽名でしかない西洋流の「民主主義」とセットになった「人権」は、西洋とその植民地においては「人による人の支配」の不正、恣意性の掣肘に一定の意味を有しても、「人の支配」とは異なる人間観・政治観を有する文明圏に西洋流の「(議会制/間接)民主主義(=寡頭制)」と「人権」概念を持ち込み、人権侵害を喧しく騒ぎ立てることは、無知な自文化中心主義に過ぎず不適切。 21 イスラームの「法の支配」の理念においては、天啓の法「シャリーア」への服従こそが、アッラーへの服従、「イスラーム(帰依)」、逆に天啓の法「シャリーア」を蔑し人間の定めた人定法「カーヌーン」に従って統治を行う(法治主義)は、ジャーヒリーヤ(無明)に他ならない。 22 現代のイスラーム政治思想の理解には、人定法(西欧実定法)に裁定を求めること、つまり西洋法の継受が、重大な不信仰にあたる、との現代イスラーム政治学の基本命題の理解が必要。 23 元サウディアラビア王国最高ムフティー(イスラーム教義諮問官)ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・アル=シャイフ(1969年没)の『人定法に裁定を求めること』は、フランス法、英米法などの法律にシャリーアの規定の一部を混ぜた寄せ集めの法律を全体主義的・組織的に強制する「領域国民国家」の統治システムを「それこそシャリーアに対する頑迷な反対、その諸法規定への軽視、アッラーとその使徒に対する敵対において、最も重大、最も包括的、最も明瞭な不信仰である。」、「これ以上の不信仰があろうか。ムハンマドがアッラーの使徒であるとの信仰告白に対するこれ以上の敵対があろうか」と断罪。 24 厳格な「タウヒード(唯一神崇拝)」の信奉者を自認し、タウヒード(唯一神崇拝)とシルク(多神崇拝)の区別を明確にし、イスラームの純化を自らの使命と心得、伝統的に「非政治的」であり、シーア派とスーフィズムの聖廟参詣の「宗教儀礼」を主要敵としてきたワッハーブ派の最高権威が、法制の西欧化、西欧法の導入こそが「シャリーアに対する頑迷な反対、その諸法規定への軽視、アッラーとその使徒に対する敵対において、最も重大、最も包括的、最も明瞭な不信仰」であるとの判断を下したことは、イスラームの現代における「宗教から政治へ」の位相転換を如実に示す。 25 「国家」が肥大化し、生の全ての領域を「政治化」し、「領域国民国家」が地球全土を覆い尽くした時代にあっては、「政治」から遠ざかり、「非政治的」であることはできない。全てが「政治化」した時代に合って、「非政治的である」とは「国家」の支配を全面的に受け入れ、何の疑問も抱かくことなく「国家」の命令、統制に唯々諾々と従うというそれ自体極めて「党派的」な「政治的」立場に立つことに過ぎない。 26 「国家」が弱く、「宗教」が自律性を保っていた前近代にあって、「非政治的」であったワッハーブ派の「政治化」は、「イスラームの政治化」である前に、「世界の政治化」の一つの顕れであり、「全てが政治化した世界」にあってはイスラームもまた政治化せざるをえないイスラーム世界の現状を示すものである。 27 存在する社会集団と個人の多様性を暴力的に抹消し無理やりに均質化することによって成立した「国民国家」は、「国民主権」、「一般意志」等のフィクションの下に、「国民」の集合体、総意の化身として、人格化、神格化される。また世俗的ナショナリズムは「信仰の表現」であり、教義、神話、倫理、儀礼を持つ「部族宗教」の一種。 28 イスラームと世俗的ナショナリズムは同一の現象のネガとポジのように正反対であると同時にそっくり。イスラームを「宗教」と呼ぶなら、世俗的ナショナリズムも「宗教」であり、世俗的ナショナリズムが「政治」であるなら、イスラームもまた「政治」。我々が現在「政治」と思い込んでいる世俗的ナショナリズムは実は、現代を生きる我々の生の全てを支配する「領域国民国家」リヴァイアサンを祭神とする「宗教」であり、イスラームがアッラーに全面的に服従し絶対帰依する「宗教」であろうとする限り、「領域国民国家」リヴァイアサンというターグート(邪神)の支配ジャーヒリーヤ(無明)を打破するために「政治化」せざるを得ない。 29 日本語で「政教分離」と呼び習わされている言葉は英語ではむしろ、separation of religion and politics(政教分離)よりも church separation of state and church(国家と教会の分離)の方が一般的。キリスト教の歴史においては、当初から、ローマ帝国の国家機構と、ローマ帝国に倣った位階制度を有するキリスト教会という、現世の二つの「政治組織」が対立。ローマ皇帝がキリスト教に改宗してからも事情は同じで、この構図がそのまま引き継がれ、ローマ教皇を元首とするローマ教会と皇帝を元首とするローマ帝国という二つの政治組織、現世の権力が対立を続け、ローマ帝国滅亡後も、この国家と教会の対立が形を変えつつ続いている。 30 政教分離が、社会分化に基づく普遍的な原則であるとすれば、なぜ他の領域との分離が論じられないのかが説明できない。高度に社会文化を遂げた近代社会にあっては、経済、法、科学、芸術、教育などは、宗教と同じく政治とは文化を遂げた別領域であり、宗教と政治が分離されるべきであるなら、経済、法、科学、文化、芸術、教育などもまた政治から分離されなければならない。また宗教と同じ人間の精神、分化の領域に属するイデオロギー、共産主義、資本主義、社会主義、世俗主義、ナショナリズムなどの様々なイデオロギーも同様である。ところが、それらの政治との関わりは問題にされることなく、政教分離のみが近代国家の原則であるように喧伝されるのが何故か。 31 ヨーロッパの歴史上、ローマ帝国と教会とは、二つの政治組織として主導権を争ってきた。近代以降の教会と国家の権力闘争は「領域国民国家」成立後、国家権力の不可逆的な肥大化、教会権力の縮小の一途を辿った。世俗化とは、まず国家が教会領を没収し経済的独立を奪い、学問研究及び教育を教会から引き離すこと。特殊西欧的歴史の中で教会が国家の「政治的」対抗者であったために、国家が肥大し、経済、法、科学、文化、芸術、教育などの生の全ての領域を併呑し「政治化」する中で、「宗教」を基礎とする教会を「政治」から排除する必要があったが、「教会」という「国家」に対抗する「政治組織」を有さない宗教以外の領域は、政治との分離が問題にされることはなく、むしろ歯止めのない国家管理化、「政治化」が進行。 32 「政教分離」は、ナポレオン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などの戦争を防ぐのになんらの効果も及ぼさなかったし、それらの戦争の主因となった「ナショナリズム」が戦争を引き起こしたとの理由で政治に関わることを禁じる原則が成立することもなかった。 33 また「政教分離」が、人間の内心に関わる問題と国家権力との結びつきの危険から説明されることがある。しかし近代国家は、学校教育を手中に収め「国民教育」を義務化してからは、人間の内心の管理・統制をますます強化、宗教の一種、あるいは宗教の代替物、機能的等価物である「世俗的ナショナリズム」の教義を強制し、洗脳。 34 高度に発達した社会では機能的に異なる複数の自律的な領域に分化すること自体は普遍的に見られる現象。様々な社会、文明において、我々が日本語で「宗教」と呼ぶような領域が、「政治」と呼ばれる領域から分化することも事実。ところがキリスト教会はローマ帝国の国家機構の内部のローマの神官団から生まれたものではなく、ローマ帝国の外部の非合法カルトとして別途の政治組織として発達を遂げたものが、ローマ帝国と野合したに過ぎない。それゆえ、この社会分化の変則であるキリスト教の政教関係をもって、全ての文明、社会のモデルとすることはそもそも無理。 35 高度に分化した社会で、政治と宗教の分化は生じ有るが、政治と宗教が分化した場合でも、両者が完全に分離することはありえない。「政教分離」は端的に存在し得ない。言いうることはただ、宗教と政治が分化した社会においては、相対的に自立した宗教の領域と同じく相対的に自立した政治の領域が分化し、両者は複雑な社会関係の中で多様な関係を取り結ぶ、との事実の指摘のみである。 36 政教関係は無限に多様な形態を取りうるので、「政教分離原則」なるものには内実はなく、それぞれの国で支配的な政治勢力の恣意によって決る。「政教分離原則」なるものが生まれたとされるキリスト教西洋ですら、現代においてなお、「政教分離」の名の下に実際に語られているのは、政教関係の多様な実態であり、「政教分離の不在」でしかない。そうであるなら、非キリスト教非西洋世界で、「政教分離」原則が成立しないのは当然。 37 社会分化を遂げたいかなる社会においても、機能分化したそれぞれの下位システムは相対的な自律性を保ちながら他の下位システムと有機的に結合し全体システムを形作るのであり、各下位システム間の完全な分離は有り得ず、政治システムと宗教システムも例外ではなく、政教分離は存在しない。問うべきは、イスラームにおいて、政治と宗教はどのように分化してきたか。 38 キリスト教において権威が、教皇/教会の教権と皇帝国家の俗権に分化したのとは異なり、イスラームでは権威は、カリフに代表される政治的権威と、法学者に代表されるシャリーアの法的権威と、スーフィーに代表される宗教・霊的権威に分化。それゆえイスラームをキリスト教的な「政教関係」の概念で分析しようとしてもキリスト教の歪んだ像が見えるだけ。 39 国家「リヴァイアサン」、は人間が作った人造人間でありながら人間を超えた実体を持ち可死の神となり人間を支配する。絶対王政の時代、人造人間であると同時に可死の神であった近代国家リヴァイアサンは、西欧において王政が民主制に取って代わられ、王権が消滅し、教会と国家の戦いが国家の勝利に終わったとき、神を名乗ることを止め、現代国家は真の偶像、人神「法人」に姿を変えた。 40 国家リヴァイアサンが人間を支配する武器は「法律」という名の命令(執行命令、政令)。「人造人間」リヴァイアサンは「法律」によって次々と「人造人間」を産み出し自己増殖することが可能となる。「法人」は「人造人間」リヴァイアサン「国家」の自己増殖、リヴァイアサンの肢体。 41 リヴァイアサンとその生み出した法人たちに責任を押し付けることによって、生身の人間の責任はいつの間にか何処かに雲散霧消する。我々は、知らず知らずのうちに物質的利益のためにリヴァイアサンとその配下に魂を売り渡しその支配に身を委ねてしまっている。「可死の神・人造人間」リヴァイサンとその配下の法人たちへの隷属こそ今日の偶像崇拝、多神教。 42 イスラームの世界観はアニミズム。森羅万象はアッラーを讃えている。人間だけを理性的存在として特別視する発想はイスラームには無縁。イスラームにおいて人間を他の存在者と分けるのは、アッラーの命令に従うか背くかを自ら選ぶ意思の存在。罪を犯し罰を引き受ける可能性と引き換えに自らの意思でアッラーの命令に従いアッラーの下僕となる可能性を選び取ったことのうちに人間の尊厳と栄光の全てが存ずる。アッラーから授かった自らの義務を負う責任を放棄し自分たちが作った人造人間「法人」に肩代わりさせることは、アッラーの下僕たる倫理的存在としての人間の本質の否定に他ならない。 43 イスラーム法は人間の行為を来世の賞罰によって(1)行わないことが来世での懲罰に値する義務行為、(2)行わなくとも来世での罰はないが行うことで来世の報償に値する推奨行為、(3)行っても行わなくとも来世で罰も報償もない合法行為、(4)行っても来世で罰はないが行わなければ来世で報償に値する忌避行為、(5)行えば来世で罰に値する禁止行為の5つの範疇に分ける。人造人間たる「法人」は義務を負うことも、来世で報償を得ることも懲罰を被ることもありえない。イスラーム法には「法人」の存在を認める余地はない。 44 「代理」、定額の賃金と特定の労働の交換である「雇用」などの概念を組み合わせることにより、莫大な商行為といえども、「法人」を必要とせず、個人の集合が行うことができる。つまり最終的にあらゆる行為の責任が「法人」に押し付けられて雲散霧消することなく「自然人」に課され、イスラーム法が機能する。統治行為もまた、代理、雇用、後見、連帯義務などの概念を組み合わせることによって自然人の行為として概念構成することができ、国家のような法人概念を必要としない。 45 世俗主義ナショナリズムはリヴァイアサンを祭神とする「政教一致」の宗教でもある。ローマや日本の多神教が、他の宗教の神話を換骨奪胎し、その神々を適当に作り替えて取り込み、メタモルフォーゼ(変態)を続けていったのと同じく、世俗的ナショナリズムもまたあらゆる宗教を便宜主義的に歪曲して取り込むアモルファス(不定形)な多神教。 46 中国においては国家が阿弥陀如来の化身「活仏」パンチェン・ラマを認定することによって、チベット仏教は中国ナショナリズムという多神教に取り込まれ、パンチェン・ラマは国家を主神とする神統譜に組み入れられたが、イスラームは別の形で世俗的ナショナリズムに組み込まれる。西洋の人定法に裁定を求めること、つまりシャリーア以外の立法、議会による「立法」という名の人間が作った法律の強制を多神崇拝の最悪の形式である、とムハンマド・ブン・アール・アル=シャイフは喝破したが、今やイスラーム世界の全ての国に議会があり、そこで「立法」が行われている。これが、超越者の権威がシャリーア、イスラーム法に顕現する形をとるイスラームにおける多神教の形態。 47 イスラーム世界の現状は、国民の「一般意志」の化身とされる国家を主神とする世俗主義ナショナリズムという宗教において、国家の命令体系の中で僅かにその権威を相続法において認められた陪神の一人にアッラーが貶められた多神崇拝が蔓延するジャーヒリーヤ(無明)に他ならない。現代におけるイスラームとは、生活の全て領域を政治/宗教化した偶像神リヴァイアサン領域国民国家の支配を打破し、世俗的ナショナリズムに取り込まれ多神教の周辺的構成要素の一つに貶められた「宗教」としてのイスラームから脱却することに他ならない。 48 イスラームが唯一神教である、とは、アッラーが多神教の神統譜の中に組み込まれることがあってはならない、との意味。アッラーは神統譜の中の陪神であることは言うまでもなく、主神であることも決して許されない。アッラーは唯独りの神でなければならない。それがタウヒード(唯一神崇拝)である。人は、アッラーのみを神とする唯一神崇拝者(muwaḥḥid)、ムスリムであるか、あるいは多神教徒(mushrik)、不信者(kāfir)であるか、のいずれかであり、その中間は存在しない。 49 人間の生の全てを支配する偶像神リヴァイアサン主権国家が成立する以前には、政治は国家の独占物ではなく、ウンマの成員ムスリムの間で各自の能力に応じて分担されていた。ところが、政治が主権国家の専有物となった現代においては、人間の生の全てが政治化されており、政治から逃れる術はない。人間の生の全てを支配する偶像神リヴァイアサン「領域国民国家」によって全面的に政治化されたイスラーム世界の文脈において、「政教分離」、「世俗主義」を唱え「政治から遠ざかる」ことは、「世俗的ナショナリズム」祭政一致の多神教を奉じ、その主神リヴァイアサンに仕えることであり、それ自体が極めて宗教的であると同時に政治的な行為。 50 この現代世界には、イスラームの名を冠した事物が溢れている。真のイスラームを理解するためには、我々は先ずこれらのイスラームの名を騙る事物の正体を見破らなければならない。イスラームのあるべき姿は、シャリーアの「法の支配」を実現する唯一のカリフの下に統一されたウンマによる単一の法治空間ダール・アル=イスラームの再興である。既存秩序の改編を迫り支配層の既得権を脅かすこのイスラーム世界の統一への民衆の動きを押さえるべく結成されたのがOIC(Organization of Islamic Cooperation:イスラーム協力機構)(2011年にOrganizaof the Islamic conferenceイスラーム諸国会議機構から改称)。OICとはイスラームの連帯を謳う憲章とは裏腹に、「相互に主権を尊重する」との美名の下に、加盟諸国の支配者の間で結ばれた「互いの縄張りを犯さない」との「紳士協定」、イスラーム世界の再統合の阻止、分裂の現状の固定化し既得権を守るためのカルテル。 51 現在のイスラーム世界は、「領域国民国家」システムに組み込まれ、「世俗的ナショナリズム」という名の多神教がその支配的イデオロギーであり、イスラームの名を冠した事物もイスラームの名を騙る紛い物である。それは権力を握る「イスラーム諸国」の政権だけでなく、その改革を唱えるイスラーム主義政治運動もまた同様である。 52 真のイスラーム国家、即ち、人間による人間の支配、大地の切り分けと囲い込みによる人類の分断をを否定し、天啓のシャリーアの「法の支配」による大地と人類の解放を目指すカリフ制の再興を掲げるイスラーム政治運動は、「領域国民国家」システムの管理者たちの既得権を脅かすため、ムスリム諸国内で激しく弾圧されてきただけでなく、思想と結社の自由を謳う欧米などでも行動を制限され、反イスラーム・プロパガンダによる攻撃に晒されている。こうした厳しい状況のため、真のイスラーム国家体制としてのカリフ制に関する理解は、ムスリム「大衆」の間に未だ浸透しておらず、カリフ制の再興を目標に掲げて国際的に活動している組織は事実上「解放党(ḥizb al-Taḥrīr)」のみ。 53 2010年から2011年にかけての所謂「アラブの春」において、チュニジアに端を発した反政府暴動はアラブ各地に飛び火し、チュニジアのベン・アリー、エジプトのムバーラク、リビヤのカッザーフィー、イエメンのサーレフと230年に及んだ独裁政権がまたたく間に崩壊し、シリアも内戦状態に陥った。彼らはいずれも人権を侵害し民主主義を抑圧する独裁者であったにもかかわらず、強権的にイスラームを弾圧しイスラーム復興に対する防壁を演ずることで、西欧の支持を取り付け独裁体制を維持してきたが、チュニジアの露天商の政府の不正に対する抗議の焼身自殺をきっかけとした民衆の抗議により、脆くも崩壊。 54 チュニジア、エジプト、リビヤ、イエメンのみならず、イスラーム世界の諸政権がいずれも、イスラームを弾圧する反イスラーム政権であるのみならず、腐敗し人権を蹂躙する不正な独裁政権であることは、イスラーム世界では万人の知る事実。ところがこの30年の間に、国家ムフティー(イスラーム教義諮問官)などの公職にある者は言うに及ばず、イスラーム大学の教授や大モスクの説教師などの高位のイスラーム学者の間にも、また神との特別に親密な関係を誇り超俗を気取ったスーフィーの導師たちの間にも、民衆の側に立ち正義を求め、これらの不正な独裁者に対して身命を賭して抗議する者はたった一人としていなかった。逆に政教分離の名の下にイスラームから政治を切り離し、イスラーム政治の実現への献身を「政治的イスラーム」と貶め、たった一人の生命を賭けた抗議で崩壊する独裁政権に対する抗議を封じる込める役割を喜々として果たす御用学者としてこれらの独裁政権の不正に荷担してきたのが、イスラーム学者とスーフィーたち(欧米日本のイスラーム地域研究者、オリエンタリスも同罪)。 55 今日におけるイスラームの試金石は「政治」であり、政治運動は言うに及ばず、霊性の涵養の道であるスーフィズムでさえ、人間による人間の支配、人間が創り上げた偶像「法人」による人間の支配を拒絶し主権を神に返すカリフ制の再興の闘いに参与しない者は信ずるに値しない。 56 欧米の「領域国民国家システム」の管理者たちとその手先のイスラーム世界の独裁者たちの手によって、真のイスラームの政治理念であるカリフ制について語ることが抑圧され隠蔽されてきたため、世俗的ナショナリズムという偶像崇拝の多神教に絡め取られた紛い物が、イスラーム国家、イスラーム政党、イスラーム運動、イスラーム経済などの名を騙って蔓延し、イスラーム学者もスーフィー導師も政教分離を唱えてこの多神教の祭司に成り下がってしまった、というのがイスラーム世界の現況。 57 アッラーは全知全能の創造主であり、創造から終末に至る世界の歴史の全ては、創造以前の無始の永遠の過去において、既にアッラーの知の中に既に存在。我々人間の運命も同様である。森羅万象は、時の無い永遠の相において、アッラーの属性「神知」の中に先在する。現象界とは、永遠のアッラーの属性が時間の中で展開した顕現。時間の中に現象するこの世界は、アッラーの属性の顕現であり、人間もまたその一部。人間の現象界における存在の目的は、それがアッラーの属性の顕現であることを知ることであり、その時、人は自らもまたアッラーの属性の顕現であることを悟る。アル=ナーブルスィーによると、火獄の業火で永遠に焼かれる不信仰の徒も永劫の時を経て、その業火の中にアッラーの荘厳の属性の顕現を見出し、忘我の中に懲罰の苦しみは神の御許への帰還の悦びの至福に変る。 58 イスラームは人間を宇宙の歴史の中に位置づけ、意味を与える。世界はアッラーの顕現であり我々に知られるべき意味に満ちている。しかしその意味は、偶像の束縛、偽りの神々への隷従から自らを解放し、真の神である宇宙の創造主アッラーの代理人として彼に仕えることによってしか開示されない。それには先ず、人間が引いた国境に人間を囲い込み、民族に縛り付け、人間の創り上げた虚構でありながら人間の身体と精神の全てを支配する偶像神リヴァイアサンの正体を見破り、大地におけるアッラーの代理人(カリフ)としての自らの実存を取り戻す必要。 59 永年にわたる西欧の植民地支配により、政教分離の名の下に、イスラームは「政治」から切り離され矮小化され、偶像神リヴァイアサンを主神とする多神教の中に取り込まれてしまった。このイスラームに偽装した多神教が生み出したのが、今日のイスラーム国家、イスラーム政党、イスラーム経済、イスラーム銀行といった紛い物のイスラームである。 60 この偶像崇拝、多神教からイスラームを浄化し再生させるためには、アッラーの代理人(カリフ)としての人間の霊性を高め、知性を研ぎ澄ませ、心眼を磨き、真理と虚偽を見分けることが必要。それは「政治」から離れて「私的領域」、「宗教」に引き籠もって「心の浄化」をはかるのではなく、むしろ人類と大地を「領域国民国家」の牢獄から解き放ちシャリーアの「法の支配」を地上の全人類に実現するカリフ制再興のために自らの能力の限りを尽くして闘うことによってのみ成し遂げることが可能。

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