4.戦略計画と政治意志
戦略思考と戦略計画の間には、内容‐形式の関係が存在する。与件が決定する戦略思考の内容は、その潜在項を合理的な筋書きに整序する戦略的計画によって理解できるように造形される。著名な軍略学者カール・フォン・クラウゼビッツ(1831年没)は戦術と戦略の間の関係を「戦術は、兵力を戦争のために使用する技法、戦略は戦争を最終的な平和のために使用する技法である」と定義している。どのような兵力が、どんな小さな戦争で、どのような規模で使用されたかは、それらの戦争の結末の平和が何を目的にしているかを明らかにすることで確定することができる。これは両面的関係である。戦略の方針を決める軍団が互いに無関係な小競り合いで単発的な勝利を収めても、最終的な平和をもたらすことにはならない。同じく、理論的な戦略的方針と共に、その一部をなす戦闘の戦術を有さない軍団が成功することも可能ではない。
外交においても事情はそうは異ならない。ただ最終目的に到達するための手段が違うだけである。戦術に従事する人間たちを一つの方針の中で纏めあげることは、時間が経つと戦略方針を大きく変えることにも繋がる。なぜなら戦術にかかわる人間を任命する外交官たち自身が戦術にかかわる人間を戦略上の駒として見始めるからである。自分が指揮する戦闘を、平和に向けての戦略全体と同一視する将官が、最終的な平和に関して軍の戦略においてどれほど誤った方針に道を開くか、自分の戦術的選好を国家の外交の中心に据える外交官も同じように深刻な過失を犯す。オスマン帝国軍が第一次世界大戦において多方面で戦果をあげながらも最終的には敗北したことは、その最も良い例である。自らの戦略的方針が定まらなかったため、オスマン帝国軍をドイツの戦略に追随させた(オスマン帝国の)軍事/外交的指導者たちが、その戦略の一貫性を失って以来、戦況はオスマン帝国に不利になっていった。
特に一時的で経済的利害に基づいているような同盟関係において、短期的戦術が決定的であるようなダイナミックな勢力均衡が成り立っている状況で成功するための最も重要な条件は、長期的戦略と短期的戦術の均衡のとれた組み合わせである。あらゆる種類の変化に対応して勢力均衡を実現できる戦略的目的を短期、即決の戦術に落とし込めることができる国家が発展するのである。それは意思決定において、外交関係を絶対化せず、千変万化の戦略目的の選択にあたって柔軟でありながら右往左往しないことが必要なのである。そのように活動できる国家は、長期的な勢力均衡を実現する上で有利になっていく。冷戦終了後の僅かな間、アメリカ一極構造なった国際関係は、今日では加速度的に(再び)勢力均衡の諸特性を示し始めているようだ。前もってその準備があった地域大国は、多くの選択肢を有する政策と、柔軟な外交に舵を切ることができた。
このような状況では、こうした戦術を完全に指揮下において、軍事/外交のユニットを自在に操縦する戦略の政治的意思がなければ、戦術的勝利をいくら積み重ねても戦争に最終的勝利を手にすることはできない。国家の安全保障とその未来に開ける地平は、国際関係のスケジュール立案、交渉プロセスにおける心理的優位、イニシアチブのパワーによって測られる。未来に関わる地平は、縦深性を有する国家の政治的指導者たちは、決定した議題の跡ではない。逆に議題の彼らの手で片付くった、そしてこの形の受信、これはその国家に第三国の関係においてさえ効果ある要素になる。
政治的意思の不十分さによって、対外政策を危機的状況の浮沈の流れに任せ、スケジュール計画を受け入れることができない国家は、他者からの提案を示されての場当たりの反応によって矛盾し混迷の状況に陥る。この種の国家の政治的エリートたちは、依って立つべき歴史もなく、目指すべき地平もなく、大胆でなく決然としておらず、臆病で受け身である「解決のために私はいる。」は大胆さではない。危険なところには私はいない。」防御に熟練した心理の中でふるまう。
この個性のないエリートたちは、危機的時代に前線に踊り出る決断的人間ではなく、覚悟もなく、イニシアチブを取らないことが条件となる。国々を世界管理計画の議題で役立つようにしておくことは、新たな責任を負うために受動的であることが安全で危険がない政策と見做す。議題を決定した後で舞台に出て交渉のテーブルの端に連なるようにあがく。目立つことから逃げる。しかし一旦、列車に乗り遅れるとの不安に襲われると、あわてふためいてどんな怪しい関係であれもぐりこもうとする。現象の中心にいれば安全であると思うのでもなく、傍観者であることにも満足しない。問題の中心に直接関わる責任から逃れる道を探しながらも、蚊帳の外に置かれると、中心に一歩でも近づくためなら、なんでも代わりに差し出そうとする気紛れである。行動と期待がもたらす責任から逃げることと、放置されないできることの間で行きつ戻りつし、おどおどと落ち着くことがない。
チェスの駒を操る棋士なのか、それともチェスの駒なのか、己が何者なのか謎なままの矛盾を彼らは抱えている。駒を操る棋士として踏み出す一歩の結果は恐れるが、他人が操る駒となることにも甘んじられない。駒でもなく、ゲームでもなく、棋士でもなければよかったのに、と考えて混乱し、最も強い棋士の陰に隠れることが最も安全であると自己暗示をかけるのである。その後には、そのゲームは、最強の棋士たちが操る盤上(の前線)の歩兵が戦争のカギとなる。歩兵は戦争での小さな勝利を勝ち誇り、桂馬、女王、王が盤上(の前線)にないという理由で自分の弱さをごまかそうとした。ゲームのルールを変え、自分の力(弱さ)を思い出させるすべてのものを恐れる。危険を予防して、自己の潜在力を隠して、他の者たちが有する本当リアルパワーの流れに合わせて泳ぐほうがより安全だと考える。自己の歴史と地理の広大な地平で真摯に利害を考量し決断的に行為するより、他者の戦略の陰で右顧左眄することを選ぶのである。彼らが有しているのは、歴史の伝統ではない「請求書」、地理が有する戦略的潜在力とも資産でもないグレートゲームに捧げられた掛け金なのである。
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