2.トルコのパワーのパラメーターと防衛体制
我々が扱う時代のトルコの他の国々の相違として、上記の定式に照らしてその防衛体制を例として説明すべきである。この防衛体制における歴史の要因は、トルコをして、現行の国際法上の国境の暫定的な影響を超えた防衛戦略を取る必要性に直面させている。オスマン帝国の歴史的、地政学的領土に生まれてその遺産を引き継ぐトルコ共和国の防衛体制は、主権を有する国境内だけに限定されて構築されることはできない。
この歴史遺産は、トルコ共和国の国境を超えた介入を必要とする事実上の状況をいつでも生み出しうる。ボスニア、コソボ紛争は、その最も印象的な例であった。バルカン諸国政策を冷戦パラメーターがもたらした二極構造の周辺に位置したNATO(北米条約機構)の枠組に組み込まれたトルコは、国境を接する隣国であるブルガリアとの関係は、(資本主義・自由主義)ブロックの内部紛争、ギリシャとの関係はブロック内の脅威とみなし、その
考えに基づいて空軍力を整備する。したがってユーゴスラヴィアの解体によって、ドラヴァ-サバ島を地政学的枢軸とするボスニア紛争、モラヴァ-ヴァルダルを地政学的中枢とするコソボ-マケドニア紛争に介入する可能性に基づいて、防衛体制を構築したのである。そしてこの紛争が起きた時、トルコの航空機がボスニア上空で滞空時間がわずか数分しかなかったことが明らかになったため、空中での燃料補給が可能な航空機の購入につながった。その教訓を踏まえると、トルコの防衛戦略は、防衛産業が有する歴史的責任を視野に入れた上で立案しなければならないことがわかる。
トルコの地理は、その防衛産業の構造に直接的に影響を与える重要な様々な要素を含んでいる。半身を三方向で海に囲まれている一方で、陸に奥行きがあるトルコの地理は、多くの国々とは逆に、海と空の防衛戦略を統合的に組み立てることによって守られる。この地理が国防上の必要事項をもその交差する領域で規定する。1964年と1967年のキプロス紛争において、海軍が必要な水陸両用車を保有していなかったことが外交政策のオプションを狭めることが明らかになったことは、その好例である。この軍事的欠陥とジョンソン書簡が海軍の体制を立て直し、トルコは1974年の上陸(キプロス軍事介入)作戦を行うことにできるようになった。この地理的要因の影響の好例は、トルコのエーゲ海政策に見ることができる。エーゲ海の3000近くの大小さまざまな島々や小島より更に小さい岩礁を保有するトルコは、そのような地理が要請する海軍の建設を必要としている。
人口急増の時代が始まったため、20世紀初頭の1500万人から20世紀末には7000万人に達し、この30~40年で人口が二倍になると予想されるトルコのこの(人材という)重要な与件を正当に評価するためには、経済力と防衛の需要、体制、構造の間に持続的で首尾一貫した関係を築く必要がある。正しい価値観を有し健全な教育を受けた国家の機動力である人口という要素は、必要とされる用意周到に準備された状況においても不安定の原因ともなり得る。トルコのような強大な人的潜在力を有し世界の最も不安定な地域の地政学的交差点に位置する国々は場当たり的な政策によっては安定しえない。
トルコの勢力均衡におけるこれらの定項を実現させる大きな可能性は、防衛体制の観点からは同時に大きなリスクでもある。このリスクを最小に減らしながら、その可能性を実行に移すことは、歴史、地理、人口のような定項と、農業、産業構造、交通、天然資源のような経済的諸要因と技術的潜在力をマッチングする戦略を立案することによって初めて可能となる。
この点において、経済発展戦略と防衛戦略の間の関係は、安定した上位戦略によって規定されねばならない。トルコは現在までそれを行わなかったことの問題に直面している。80年代までは、輸入補助制度に頼る経済発展戦略を採用していたトルコは、この戦略に適合した防衛産業(育成)戦略を発展させた。トルコにそのような連携がなかったことで、1974年に平和運動の前にキプロス問題で難局に陥ったことは、受け身の場当たり的な戦略的体制の所産であった。また経済力、技術力と防衛体制の間の緊密な関係に気づけば、それが必然的であったと付言できる。
80年代の後の輸出志向経済発展戦略を採用した時代においても、防衛(産業)部門の輸出の潜在力は十分に評価されておらず、その部門での技術革新も望ましい規模で実現されていなかった。近年では、潜水艦のような一部の製品によって、極東市場に参入を試みたのも、この不足に遅ればせながら気づいたことを示している。F-16戦闘機のアセンブリー生産の部品の一部の生産を担うようになったことを重要な一歩として評価することができるなら、国産技術の発明を付け加えるレベルでの本物の持続的な成功を成し遂げることができよう。航空機の近代化にまだ外国からの支援が必要であることを痛感したトルコが、輸入によって入手された航空機部品の近代化においても、パワーの能力の定項と変項の視点からは、(トルコより)はるかに遅れた国々にも頼らざるをえないことに気づいたことは、問題の深刻さを示していた。
トルコはポスト冷戦期に関して、まだ自前の首尾一貫した戦略を持つに至っていない。防衛産業を含んだ形での新しい戦略を立案することなしには、次第に地域性、グローバル性を増しつつある危機に即応することはできない。今日では、パワーの諸要素と戦略の立案の調整においてなされた最も重大な間違いは、パワーの定項諸要素がダイナミックに活用せず取り残されたままにされていることである。外交における重大な失策に道を開いた静的な理解とその遅れも、元はと言えば、定項と変項の諸要素を調整し統合する長期的な戦略的一体性の不在の結果であったのである。このこともまた、戦略的計画と政治意志の欠如という問題に我々を向い合せる。共同体の政治的、経済的、精神的伝統を統合する新しい戦略の構築と防衛産業を、この枠組みにおいて、パワーの定項要素をダイナミックな解釈し、パワーの変項の潜在力を起動させる形で新しく考え直すことが、基本となる出発点でなくてはならないのである。
我々が扱う時代のトルコの他の国々の相違として、上記の定式に照らしてその防衛体制を例として説明すべきである。この防衛体制における歴史の要因は、トルコをして、現行の国際法上の国境の暫定的な影響を超えた防衛戦略を取る必要性に直面させている。オスマン帝国の歴史的、地政学的領土に生まれてその遺産を引き継ぐトルコ共和国の防衛体制は、主権を有する国境内だけに限定されて構築されることはできない。
この歴史遺産は、トルコ共和国の国境を超えた介入を必要とする事実上の状況をいつでも生み出しうる。ボスニア、コソボ紛争は、その最も印象的な例であった。バルカン諸国政策を冷戦パラメーターがもたらした二極構造の周辺に位置したNATO(北米条約機構)の枠組に組み込まれたトルコは、国境を接する隣国であるブルガリアとの関係は、(資本主義・自由主義)ブロックの内部紛争、ギリシャとの関係はブロック内の脅威とみなし、その
考えに基づいて空軍力を整備する。したがってユーゴスラヴィアの解体によって、ドラヴァ-サバ島を地政学的枢軸とするボスニア紛争、モラヴァ-ヴァルダルを地政学的中枢とするコソボ-マケドニア紛争に介入する可能性に基づいて、防衛体制を構築したのである。そしてこの紛争が起きた時、トルコの航空機がボスニア上空で滞空時間がわずか数分しかなかったことが明らかになったため、空中での燃料補給が可能な航空機の購入につながった。その教訓を踏まえると、トルコの防衛戦略は、防衛産業が有する歴史的責任を視野に入れた上で立案しなければならないことがわかる。
トルコの地理は、その防衛産業の構造に直接的に影響を与える重要な様々な要素を含んでいる。半身を三方向で海に囲まれている一方で、陸に奥行きがあるトルコの地理は、多くの国々とは逆に、海と空の防衛戦略を統合的に組み立てることによって守られる。この地理が国防上の必要事項をもその交差する領域で規定する。1964年と1967年のキプロス紛争において、海軍が必要な水陸両用車を保有していなかったことが外交政策のオプションを狭めることが明らかになったことは、その好例である。この軍事的欠陥とジョンソン書簡が海軍の体制を立て直し、トルコは1974年の上陸(キプロス軍事介入)作戦を行うことにできるようになった。この地理的要因の影響の好例は、トルコのエーゲ海政策に見ることができる。エーゲ海の3000近くの大小さまざまな島々や小島より更に小さい岩礁を保有するトルコは、そのような地理が要請する海軍の建設を必要としている。
人口急増の時代が始まったため、20世紀初頭の1500万人から20世紀末には7000万人に達し、この30~40年で人口が二倍になると予想されるトルコのこの(人材という)重要な与件を正当に評価するためには、経済力と防衛の需要、体制、構造の間に持続的で首尾一貫した関係を築く必要がある。正しい価値観を有し健全な教育を受けた国家の機動力である人口という要素は、必要とされる用意周到に準備された状況においても不安定の原因ともなり得る。トルコのような強大な人的潜在力を有し世界の最も不安定な地域の地政学的交差点に位置する国々は場当たり的な政策によっては安定しえない。
トルコの勢力均衡におけるこれらの定項を実現させる大きな可能性は、防衛体制の観点からは同時に大きなリスクでもある。このリスクを最小に減らしながら、その可能性を実行に移すことは、歴史、地理、人口のような定項と、農業、産業構造、交通、天然資源のような経済的諸要因と技術的潜在力をマッチングする戦略を立案することによって初めて可能となる。
この点において、経済発展戦略と防衛戦略の間の関係は、安定した上位戦略によって規定されねばならない。トルコは現在までそれを行わなかったことの問題に直面している。80年代までは、輸入補助制度に頼る経済発展戦略を採用していたトルコは、この戦略に適合した防衛産業(育成)戦略を発展させた。トルコにそのような連携がなかったことで、1974年に平和運動の前にキプロス問題で難局に陥ったことは、受け身の場当たり的な戦略的体制の所産であった。また経済力、技術力と防衛体制の間の緊密な関係に気づけば、それが必然的であったと付言できる。
80年代の後の輸出志向経済発展戦略を採用した時代においても、防衛(産業)部門の輸出の潜在力は十分に評価されておらず、その部門での技術革新も望ましい規模で実現されていなかった。近年では、潜水艦のような一部の製品によって、極東市場に参入を試みたのも、この不足に遅ればせながら気づいたことを示している。F-16戦闘機のアセンブリー生産の部品の一部の生産を担うようになったことを重要な一歩として評価することができるなら、国産技術の発明を付け加えるレベルでの本物の持続的な成功を成し遂げることができよう。航空機の近代化にまだ外国からの支援が必要であることを痛感したトルコが、輸入によって入手された航空機部品の近代化においても、パワーの能力の定項と変項の視点からは、(トルコより)はるかに遅れた国々にも頼らざるをえないことに気づいたことは、問題の深刻さを示していた。
トルコはポスト冷戦期に関して、まだ自前の首尾一貫した戦略を持つに至っていない。防衛産業を含んだ形での新しい戦略を立案することなしには、次第に地域性、グローバル性を増しつつある危機に即応することはできない。今日では、パワーの諸要素と戦略の立案の調整においてなされた最も重大な間違いは、パワーの定項諸要素がダイナミックに活用せず取り残されたままにされていることである。外交における重大な失策に道を開いた静的な理解とその遅れも、元はと言えば、定項と変項の諸要素を調整し統合する長期的な戦略的一体性の不在の結果であったのである。このこともまた、戦略的計画と政治意志の欠如という問題に我々を向い合せる。共同体の政治的、経済的、精神的伝統を統合する新しい戦略の構築と防衛産業を、この枠組みにおいて、パワーの定項要素をダイナミックな解釈し、パワーの変項の潜在力を起動させる形で新しく考え直すことが、基本となる出発点でなくてはならないのである。
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