第5章
11-ジハードとその準備
今日、多くのイスラーム団体がイスラームのため行動すると自称しながら、ジハードとアッラーの道における戦闘に対して否定的な立場を取っている。理由はイスラーム的行動における優先順位を彼らが欠いている為であったり、イスラームに対する理解の不足のためであったりする。彼らはそれ(イスラーム)が執り行う一連の儀礼、あるいは様々な機会に読み上げられる祈りの言葉だと考えているのである。あるいはアッラーの御教えに対する忠誠の純粋性が不足しているためであったり、オリエンタリスト的なイスラーム教育を受けたせいでイスラームの理解が歪んでいるためであったり、現世利益や政府の役職を望んで邪神(ターグート:不正な支配者)たちにすり寄ったせいであったりする。あるいは、ジハード、戦闘、負傷、投獄、逃避行、戦闘準備などの辛く厳しい道での困難を耐え忍ぶ情熱を欠いているためである。
また一方で、アッラーの道でのジハードを謳い文句にするがそれをスローガンにするだけで、犠牲を払い戦闘現場に出ることを望まないイスラーム諸団体もある。彼らは政府がそのジハードに目を瞑っており、現世での名声を得られる限りにおいて、時に他人のジハードに「アッラー・アクバル」と唱えて拍手を送るだけである。しかし政府がジハードを否定し、それに従事する者(ムジャーヒド戦士)たちに敵対するや、ジハードを口にするのをやめ、その民主主義、人権、過激主義の放棄など腐敗した西洋の宣伝が吹き込んだ諸概念を信仰する市民社会(mujtama` madani)の中での自分たちの地位を失わないように、「民主主義」政権であれ、世俗王制政権であれ、その忠誠を新たにするのである。
他方、ターリバーンは、現代におけるジハードを行う最大のイスラーム運動なのである。なぜならそれ(ターリバーン)はアフガニスタンにおいて、不信仰と邪神に妥協しないと の決意で、国際十字軍連合に対してイスラームとムスリムを守るために最も過酷な戦場に踏み込み、その戦場で最も気高い奉仕と自己犠牲を捧げているのである。そして(ターリバーンは)不信仰者たち(アメリカとその同盟軍)と、昨日まではイスラームとジハードの名の下に隠れていたが、今日ではあからさまに十字架の旗の下に立ちムスリムに敵対して十字軍に協力する彼ら(異教徒の侵略軍)の手先どもと戦っているのである。
それではその(ターリバーンの)、ジハードの概念とはどんなものか。
現代におけるジハードの必要条件に関する彼らの知識はどうなっているか。
ジハードと戦闘における彼らの目的は何か。
彼らは国際十字軍同盟に対していかなる備えがあるのか。
この(ターリバーン)運動は、イスラーム世界の他のジハード諸団体をいかに見ているのか。
これらが、世界のムスリムたちが答えを知りたいと切望している問題である。彼らはジハードとそれにまつわる諸問題についてのこの(ターリバーン)運動の理解について明白に知りたいと願っているのである。
アッラーの御許しがあれば本章で我々はこれに答えよう。
アッラーの道におけるジハードについてのターリバーンの理解:
ターリバーン運動の考えでは、ジハードとは民族主義的諸目的や、祖国主義(wataniyyah: patriotism)的利益や、現世の目的の実現のための政治闘争や、軍事的戦争ではなく、またただ祖国主義の邪神(ターグート:不正な支配者)たちがアッラーの啓示でないものに則って統治するようになるために外国の占領から祖国を解放するための戦争でもない。そうではなく(ジハード)とは、アッラーの御言葉の宣揚のため、アッラーの道に出来うる限りの力を尽くして献身するアッラーに対する崇拝行為なのである。預言者が「イスラームの頂上」と形容された通り、それはイスラームにおける崇拝行為の最も高貴な形態なのである。
ジハードの語は、単に「戦闘(qital)」を意味する「戦争(harb)」と異なり、アッラーの御言葉の宣揚、イスラーム体制の樹立のためのあらゆる種類の努力、尽力を指す包括的な語である。
ターリバーンの考えでは、ジハードは無目的な戦闘ではない。アッラーの道のためでなければ、ジハードにはならないのである。そうでなければ、「紊乱(fitnah)がなくなり宗教がアッラーのみに帰されるようになるまで彼らと戦え。しかしもし彼らが止めるなら、不正な者たちに対して以外、攻撃はない。」(Q2章193節)とアッラーが仰せの通り、その目的は紊乱の撲滅でなければならない。
「アッラーの御言葉が至高となるために戦う者が、アッラーの道にあるのである」(ブハーリーとムスリムの伝える伝承)と預言者が言われたように、その目的がアッラーの御言葉の宣揚でない限り、アッラーはそれに満足なさらない。それゆえ利己的、宗派的、民族的目的が少しでも混ぜることなく、アッラーの御尊顔のみを仰ぎ、その御満悦を求めるのでない限り、アッラーはジハードとして受け入れ給わないことは明らかとなるのである。
それゆえこの意味でのジハードは本当はアッラーの御言葉の宣揚、人々をアッラーの導きに従うことから逸らそうとするあらゆる試み、誘惑の根絶のための継続的な努力なのである。そしてそれは不信仰者たちと、ムスリム共同体が不信仰者による加害から安全に暮らすことが出来るようになり、この共同体が世に現れた目的である善の命令と悪の禁止を行うことを誰も妨げることがなくなるまで、不信仰者たちと戦うことなのである。
こうした理解に立って、その初日から、これらの理論武装の上にターリバーン運動は立ち上がり、不信仰者たちに味方し外国の利権の実現のために内戦で国土の農業と牧畜を破壊した諸団体に反対して立ち上がったのである。
それゆえターリバーン運動がそれらの撲滅に立ち上がったとき、不信仰の諸国はターリバーンが「悪と腐敗の諸団体」と呼んでいたそれらの諸団体を支持したのである。そして一部の人々は当時、これらの逸脱諸団体に対するこの命名を認めなかったが、後になってそれらの諸団体の殆どが、アメリカがイスラームに対する十字軍戦争においてアフガニスタンを攻撃した時に十字架の旗の下に立った時に、その(「悪と腐敗の諸団体」との命名)の正しさが明々白々となったのである。
現代においてジハードが個人義務となったとの信条:
ターリバーン運動は、この時代においてはジハードが個人義務であると信ずる。
現代の殉教者アブドッラー・アッザーム師が最も有名な著作『ムスリムの土地の防衛は最も重要な個人的義務』の中で先代と後代の高名なウラマーと現代の宗教の実践と学識において信頼されるべきウラマーから伝えている特殊な条件化でジハードが個人的義務になるというのが、スンナ派の全ての法学派の(一致した)見解である。それは以下の通りであある。
1-いかなる土地であれ、不信仰者がムスリムの土地に侵入した場合。
2-(ムスリム軍と異教徒軍)両陣営が対面し、軍隊が出会った場合。
3-イマーム(カリフ)が名指しの個人であれ、集団であれ召集した場合、彼らには出征が義務となる。
4-不信仰者がムスリムの集団を捕虜にした場合。
先代と後代(のウラマー)が上述の状況のどらか一つでも生じた事態においてジハードが個人的義務となることにおいて合意している以上、これらの全てが一時に実現しているというのに現代においてジハードが個人義務とならないことがいかにしてありえようか。というのは不信仰者たちが侵略軍として多くのイスラームの土地に力づくで押し入り、何十年にも前に両軍の間で戦端が開かれて日を追うごとにその激しさを増しており、ユダヤ教徒やキリスト教徒や共産主義者などの不信心の侵略者たちの襲撃からの防衛のために、正当なムスリムの司令官たちが、東でも西でもムスリムたちを招集しているのである。
またムスリムの捕虜についても、数千人のムスリムが不信仰者の獄中にあり、アッラーをおいて助ける者とてないのであると、言ってよい。
そしてアフガニスタンのジハードは、国際的な不信仰の首魁アメリカの指揮下に全ての十字軍国家が国際的同盟を組んで集合し、アフガニスタン・イスラーム首長国を崩壊させ、その地を武力で占領しているために、あらゆる義務の中で最も重い義務となる。
国連の承認を根拠にアメリカのアフガニスタン攻撃を認める者は、別種の重大な不信仰に陥っている。それはアッラーの啓示以外に裁定を求め、邪神(ターグート:不正な支配者)の裁定に満足することである。疑う余地無く国連は不信仰の行政府であり、不信仰の大国の利権を守るために創設されたことは確かである。それでイスラームの聖法に反しイスラーム世界に恥辱を与える国連決議の裁定に従うことは邪神の裁定を求めることであり、イスラーム共同体の死命を制する問題において不信仰に満足することなのである。
それゆえ現代においては武装ジハードは個人的義務であるだけでなく、加害と屈辱から自己を守るための、虐げられた者の本能的で自然な不可避の反応なのである。なぜならば西欧は、イスラーム世界に防衛力があるのを見ない限り、我々への攻撃、我々の政府の転覆、我々の国の占領、我々の教育法の改変、彼らの不信心の物質文化を我々に押し付けることを止めようとしないからである。
ムスリムたちが今日、西欧から蒙っている扱いは、ムスリムに対する陰謀、資源の強奪、諸民族への侮辱、土地の占領、都市の焼き討ち、ムスリムの頭上に何百万トンもの爆薬を降らすこと、ムスリムに敵対するユダヤ教徒に対する国際的な支持、ムスリムの土地へのキリスト教と無神論の布教、悪人どもと背教者たちをムスリムに対する支配者の地位につけること、アッラーの宗教とそのシンボルに対する戦い、イスラーム世界の不信仰の少数派への国際的な支援であり、それに加えてイスラーム共同体の中のムジャーヒド(戦士)と義人たちと戦い、彼らを投獄し、イスラーム世界の経済を支配するために植民地主義的な外資企業を導き入れ、秘密裏に、そして公然と犯す千ものその他の犯罪行為があり、それにおいて戦車や戦闘爆撃機、正規軍、軍艦、銀行、企業、ムスリムの思想を攻撃し彼らをその宗教と信条から逸らせ、彼らの宗教と来世について知るべき知識を奪うための何千もの教育文化団体を利用しているのである。
そして国連もまたムスリムに対する塹壕の上に立っている。カシミール、パレスチナ、チェチェン、キプロス、アッサム問題など旧来の問題において、国連にはムスリムに対する不正しか見出されないのである。
ムスリムたちはこれまでに自分たちに加えられた不正を取り除こうとあらゆる方法を試みてきた。妥協、関係正常化、追従、政治的、不信仰者たちとの軍事的同盟関係の締結、不正な西欧諸国との同乗、民主主義、世俗主義、民族主義、共産主義などの社会生活の様式の彼ら(西洋の)不信心の物質的イデオロギーを受け入れなどである。にもかかわらず彼ら(ムスリムたち)に加えられた不正が取り除かれることはなかったばかりか、むしろ日が経つにつれて増していった。その結果、ムスリムは「おまえたちがジハードを怠り、脱法行為で商売し、牛の尻尾に追従するようになれば、アッラーはおまえたちに屈辱を与え給い、お前たちがお前たちの宗教(筆者注:つまりおまえたちのジハードに)戻るまで(屈辱を)取り去り給わない。」との預言者の言葉の正しさが実証されたのである。
それゆえ交戦状態にある不信仰者とイスラームの国々にある彼らの権益に対するジハードへの復帰は、イスラーム法上の義務であるだけでなく、ムスリムが蒙っている不正を取り除く当然で唯一の処置なのである。なぜならば不信仰者たちは交渉も、問題の公正な平和的な解決も認めないからである。
ターリバーンの考えるジハードの目的の明白さ:
ターリバーンの考えるところでは、ジハードの目標は太陽のように明らかである。それはアッラーの御言葉の宣揚とイスラームのシャリーアの方法論に則ったイスラーム政府の樹立であり、この目標に対していかなる弥縫も中途半端な解決も受け入れない。
彼らは名前だけはイスラーム国家であっても実際には世俗国家であったり、他のいかなる名であれ人間の我欲を法とする国家を認めはしない。それゆえ彼ら(ターリバーン)は彼らの政府のアッラーのシャリーア以外に裁定を求めるいかなる機関に参加することも認めず、いかなる過酷な試練に見舞われようともこの立場から妥協しない。この問題について彼ら(ターリバーン)が認めるのは、真の意味において彼らがイスラーム国家を作るか、それとも国家が存在しないかのいずれかである。それゆえ不信仰者とも彼らの手下どもとも国家の形態についていかなる交渉も行わない。これは既定事項で妥協の余地は無いのである。
ターリバーンはイスラームの教えに対する献身において、共産主義とロシアと戦ったが西洋民主主義に同調しその中に組み込まれムジャーヒド(ターリバーン戦士)に敵対する十字軍の隊列に立ったかつてのジハード諸組織と全く異なるのである。
ここから明らかになるのはその(かつてのロシアと戦ったジハード諸組織の)ジハードはアッラーの御言葉の宣揚のためではなく。権力の座に上るためであり、権力の座に着くことが容易な情勢になると、イスラームとそのシャリーアを犠牲にすることになろうともジハードを放棄し、国際十字軍に抱き込まれたのである。
ターリバーンのジハードの準備:
アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストラリアなどの十字軍国家の世界の最大最強の国々が率いる国際十字軍同盟に対するジハード、抵抗は困難であり、組織化、作戦、浸透における綿密性を要する。なぜならば侵略国家は強大な軍事的、政治的、財政的、広報的力を有しているのに対して、ターリバーンはアッラー以外に味方する者がないからである。それゆえ現在のジハードによる抵抗はソ連に対するジハードの時期とは非常に違っているのである。なぜなら今回は(中東・中央アジア・南アジア)地域の全ての国々は十字軍の侵略者になんらかの形で協力しており、資金、物資、人員を供給し、空軍基地や軍事基地などの使用を許しているのである。
しかしこれら全てにも拘わらず、ターリバーンは十全な軍備を行い、効果をあげ成功を収めた方法で抵抗のあらゆる領域で彼らの戦力の補給を行っているのである。ターリバーンは以下の領域で効果をあげ成功を収める準備を有している。
1―財政的準備:ターリバーンは戦利品、喜捨、浄財、富裕なムスリムの寄付の奨励に代表されるような純国内的な財源、そしてこれらの財源の効率的な運用からジハードの融資を行っており、国際十字軍はそのあらゆる物資と手段にもかかわらず、彼らに対する偉大なジハードのこれらの財源を枯渇させることができずにいるのである。
このことはターリバーンが綿密で組織的な財源の管理と処理において優れた能力を有していること、またイスラーム共同体はその不可侵なものを守るためには惜しまず与える者たちであることを証明している。たとえ政府はそれをしなくともである。
2―軍事的準備:軍事的準備は、戦闘員と武器の供給、戦闘と防衛の装具の生産、時と場所に応じた戦闘計画の作成、敵陣の目標の設定、宣教の広報、近代戦の訓練などの幾多の領域に関する準備に分類される。
十字軍の広報がムジャーヒド(ターリバーン戦士)の広報より大規模であるにもかかわらず、ムジャーヒド(ターリバーン戦士)の広報の方がより強力で広範囲な影響を及ぼしていることを既に敵たちさえも幾度と無く認めているのである。
3―文学・文化的準備:文学と文化が心底を動かし感情を喚起し、人々に勇敢な行為、献身、贈与を促す効果的な手段であることに疑いは無い。諸共同体は栄光の文化を有し自由、自己犠牲、献身の文学を味わう限りにおいて威厳を保つ。
ターリバーンはアッラーの恩寵によりこの領域においても大いなる準備を有することができた。ムジャーヒド(ターリバーン戦士)の新世代の準備に役立つ思想、軍事、文学の書物があり、ムジャーヒドたちを戦闘と自己犠牲に向かわせる大いなる精神的戦力と看做しうる最も甘美な声とリズムの五千近くのジハード軍歌がある。
これに加えてこれらの効果的なジハードの文学はアフガン人の若い世代を十字軍たちがその軍事基地から放送する破廉恥な歌が広める道徳的退廃の蔓延から護る働きをしている。ターリバーンの野戦指令部の準備は、他の諸組織と根本的に事情が異なっている。この相違の一つが、ターリバーンの野戦指令部は全員がシャリーアの学問に従事する者であることにある。
彼らはシャリーアの学者であるか、(シャリーア)裁判官であるか、ムフティー(教義顧問)であるか、クルアーン暗記者であるか、シャリーア学徒なのである。そして彼らがシャリーアの学問に関わっていることは、彼らを逸脱、物質的な誘惑の罠に陥ることから護る諸要因のうちの大きな要因の一つとなっている。
アッラーは「このように、ただアッラーを懼れるのは、彼のしもべたちのうちのウラマーゥだけである。」(35章28節)と仰せになり、アッラーはその書クルアーンの中でこの意味のことを述べ給うたのである。
ウラマーは他の者たちよりもよりよく試練に立ち向かい苦難にあって堅忍不抜であることができる。
また相違の一つに、ターリバーンにあっては野戦指令部が一定数の個人に集中し他の者に及ばないわけではないことがある。そうではなくそれは献身と自己犠牲を望む者なら誰でも出入りできる開かれた空間なのである。なぜならターリバーンにおける指令部とは、特権でなく、死、捕囚、苦難、試練の覚悟だからである。それゆえ現世よりも来世を選ぶ者だけしかそれに名乗り出ないのである。この美点があればこそ(ターリバーンの)野戦司令部は献身的な若者が率先してその周りに集まり、その献身と自己犠牲への呼びかけに応ずる愛される人々となっているのである。
世界のジハード運動とムジャーヒド(戦士)たちに対するターリバーンの見解:
ターリバーンは、イスラーム、イスラームの信条、イスラームへの献身と奉献、ムスリムの土地の防衛とアッラーの御言葉の宣揚がムジャーヒドを連帯させている限りにおいて、世界のジハード運動の一体性を信じている。それゆえ彼らの宗教が一つであり、彼らの啓典(クルアーン)が一つであり、彼らの預言者が一人であり、彼らと戦う共通の敵が一つであり、イスラーム政体樹立の夢が一つであるなら、あらゆる場所における国際的不信仰に対して彼らが一体となることを何が妨げるであろうか。真理と宗教の防衛という課題において協力し、助言しあい、共に耐え忍び、互いに助け合うことを、何が彼らに妨げようか。
今日、互いに数え切れないほどの違いがあるにもかかわらず、オーストラリアの十字軍とカナダの十字軍が手を組み、ポーランドの十字軍がグルジアの十字軍と手を組んでいるというのに、なぜ西方のムジャーヒド(戦士)が東方のムジャーヒドと手を組まないというのか。
イスラームとムスリムの土地の防衛の問題はイスラーム共同体(全体)の問題であり、個人や国や組織の問題ではない。それは信条と、ムスリムを一つの共同体とする宗教の問題なのである。「これこそ一つの共同体としてのお前たちの共同体。そして我こそは汝らの朱である。それゆえ我を崇めよ。」(21章92節)
今日、手地はムジャーヒド(戦士)たち全てを一列に攻撃しており、アッラーの宗教を護る者全てに対して国際的な連合同盟を組んでいる。それゆえアッラーの道のムジャーヒドたちも敵に対して一体となり、相互扶助に邁進しなけれればならない。そしてそれは「若し彼らが宗教において汝らに助けを求めるなら汝らには援助が課される。ただし汝らとの間に盟約がある民に対しては別である。」(8章72節)
ターリバーンはジハードの戦列の統一に、ここ数世紀の間に誰もそれに類する犠牲を払わなかったほどの犠牲を払ってきた。そしてそれは盟約を確実に護り、忍耐と、廉直と、息が長い持続的方法でムジャーヒド(戦士)たちを誠実に助けてきた。
これが現代におけるジハードとその準備についてのターリバーンの観方の一側面である。彼らの行動がそれを実証し、彼らの理念が理念だけに終わらないこと、アッラーが愛で給う彼の信仰者の僕たちからなる確固たる戦列を彼らが創設するようにアッラーが彼らを助け給うことを我々はアッラーに祈り求める。「まことにアッラーは彼の道にあたかも彼らが堅牢な建物のように一列になって戦う者たちを愛で給う。」(61章4節)
إمارة أفغانستان الإسلامية
الرئیسیةالأخباربيانات ورسائلتحليل الأسبوعالمقالاتالحواراتالصحافة العالميةاتصل بنا
اندر: تدمير مدرعة في إنفجار ومقتل 5 جنود فيهاننجرهار: هجوم على حاكم مديرية حصارك
الدعائم الأساسیة لفكر طالبان الحلقة الخامسة
الثلاثاء, 06 يوليو 2010 13:51 الإدارة
الحلقة الخامسة
11 - الجهاد و الإعداد :
هناك الیوم كثیر من الجماعات الإسلامیة تدّعي العمل للإسلام، ولكنّها تتخّذ موقفا سلبیاً من الجهاد والقتال في سبیل الله، إمّا بسبب عدم معرفتها لأولویات العمل الإسلامي أو لفهما الناقص المبتور عن الإسلام، حیث تعتبره مجموعة من الطقوس تُوّدی، وأدعیة تقرأ في مناسبات مختلفة، أو بسبب عدم إخلاص ولائها لدین الله تعالی، أو بسبب اعوجاج في فهم الإسلام لتلقّیها للتعلیمات الإسلامیة من المراجع الإستشراقیة، أو لتواطئها مع الطواغیت طمعاً في حطام الدنیا والمناصب الحكومیة، أو لقصر هممها عن تحّمل المشقات في الطریق الوعر الشاق للجهاد والقتال، والجروح والسجون والهجرة والإعداد.
وهناك نوع آخر من الجماعات الإسلامیة تتغنی بذكر الجهاد في سبیل الله تعالی، و لكنها تكتفي به في إطار الشعار فقط، ولا ترغب في تقدیم التضحیات، والخروج إلی مبادین القتال، بل تكتفي بالتصفیق وأحیاناً بالتكبیر لجهاد الآخرین إذا كان یحقق لها بعض الوجاهة الدنیویة ما دامت الحكومات تغض الطرف عن ذلك الجهاد، أمّا إذا رفضت حكوماتها الجهاد، أو حاربت أهله فإنها سرعان ما تتخلّی عن ذكر الجهاد بتجدید ولائها للحكومات الدیموقراطیة، أو الملكیات العلمانیة كیلا تخسر مكانتها في المجتمع المدني الذي یؤمن بالدیموقراطیة، وحقوق الإنسان، و نبذ التطرف، وغیرها من المفاهیم التي تنفخ فیها أبواق الغرب الفاجر.
أمّا حركة طالبان التي هي كبری الحركات الإسلامیة في هذا العصر جهاداً حیث تخوض أشرس معركة للدفاع عن الإسلام والمسلمین ضد الحلف الصلیبي العالمي في أفغانستان، و تُقَّدم في هذه المعركة أروع أنواع الفداء والتضحیات، و آلت علی نفسها علی أن لا تصانع الكفر و الطواغیت، وهي تقاتل الكفار وعملائهم الذین وقفوا الیوم بوضوح تحت رایة الصلیب، وعاونوا الصلیبیین علی المسلمین، وإن كانوا یختفون بالأمس تحت التسمیات الإسلامیة والجهادیة.
فما هو تصورها عن الجهاد؟
وما هي معرفتها لمقتضیات الجهاد في العصر الحاضر؟
وما هو هدفها عن الجهاد والقتال؟
وما هي إعداداتها للجهاد ضد الحلف الصلیبي العالمي؟
وكیف تنظر هذه الحركة إلی الجماعات الجهادیة الأخرى في العالم الإسلامي؟
هذه وغیرها هي من الأسئلة التي یتشوق المسلمون في العالم لمعرفة إجاباتها، ویرغبون في أن یعرفوا بوضوح تامّ تصوّر الحركة عن الجهاد والقضایا المرتبطة به.
وسنحاول الإجابة علیها بإذن الله في هذه الحلقة.
تصوّر طالبان عن الجهاد في سبیل الله تعالی: إن الجهاد في نظر حركة طالبان لیس كفاحاً سیاسیاً، أو عملاً حربیاً عسكریاً یقام به لتحقیق الأهداف القومیة، أو المكاسب الوطنیة والغایات الدنیویة.
كما أنه لیس حرباً لتحریر الوطن من الاحتلال الأجنبي لیحكمه طواغیت و طنیون علی غیر ما أنزل الله تعالی، بل هو عبادة الله تعالی ببذل أقصی ما یمكن بذله من الجهد في سبیله، و إعلاء كلمته.
وهو من أشرف أنواع العبادات في الإسلام، وقد وصفه النبيّ صلیّ الله علیه بذروة سنام الإسلام.
وكلمة (الجهاد) كلمة جامعة تشمل جمیع أنواع السعي والجهد لإعلاء كلمة الله تعالی وإقامة النظام الإسلامي، بخلاف كلمة (الحرب) التي تدل علی القتال فقط.
والجهاد في نظر طالبان لیس مجرّد قتال بلا هدف، بل هو لا یكون جهاداً إلا إذا كان في سبیل الله، وإلاّ إذا كان الهدف منه هو القضاء علی الفتنة كما قال الله تعالی {وَقَاتِلُوهُمْ حَتَّى لاَ تَكُونَ فِتْنَةٌ وَيَكُونَ الدِّينُ لِلّهِ فَإِنِ انتَهَواْ فَلاَ عُدْوَانَ إِلاَّ عَلَى الظَّالِمِينَ }البقرة193
ولا یرضاه الله تعالی إلاّ إذا كانت الغایة منه إعلاء كلمته تعالی، كما قال النبيّ صلی الله علیه وسلم: (من قاتل لتكون كلمة الله هي العلیا فهو في سبیل الله) متفق علیه. فتبیّن من ذلك أن الله تعالی لا یقبل من الجهاد إلاّ ما كان خالصاً لوجهه الكریم، وابتغاء لمرضاته، ولا یشوبه شيء من الأغراض النفسیة أو الطائفیة والقومیة.
فالجهاد بهذا المعنی هو فی الحقیقیة السعي المتواصل لإعلاء كلمة الله، والقضاء علی كل الجهود والفتن التي
تصرف الناس عن الاهتداء بهدي الله تعالی.
وهو محاربة للكفار إلی أن تعیش الأمة المسلمة في أمن من إیذاء الكفار، وأن لا یمنعها أحد عن القیام بواجب الأمر بالمعروف والنهي عن المنكر التي أخرجت لها هذه الأمة.
وعلی هذا التصور، وبناءً علی هذه القناعات قامت حركة (طالبان) من یومها الأول، فهي قامت ضد الجماعات التي والت الكفار، وأهلكت في البلد الحرث والنسل في الاقتتال الداخلي لتحقیق الأغراض الأجنبیة.
فلمّا قامت حركة طالبان للقضاء علیها، وقفت ملل الكفر مؤیدة تلك الجماعات التي كانت تسمیها طالبان (جماعات الشر والفساد)، وهذه التسمیة وإن كانت لایستصیغها بعض الناس آنذاك فی حق تلك الجماعات المنحرفة، إلاّ أنه تبیّن صدقها جلیاً فیما بعد حین وقفت معظم تلك المنظمات تحت رایة الصلیب بعد هجوم أمریكا علی أفغانستان في حربها الصلیبیة ضد الإسلام.
الاعتقاد بعینیة فریضة الجهاد في العصر الحاضر:
تعتقد حركة طالبان أن الجهاد فرض عین في هذا الزمن.
وفرض العین هو الفرض الذي یجب علی كل مسلم أن یفعله بنفسه كالصلاة والصوم.
وتتعیّن فرضیة الجهاد عند جمیع مذاهب أهل السنة والجماعة في الحالات الخاصة كما نقلها عنها إمام الجهاد في هذا العصر الشهید الشیخ عبد الله عزّام رحمه الله تعالی في أشهر رسالته المسماة بـــ (الدفاع عن أراضي المسلمین أهمّ فروض الأعیان) عن أشهر علماء السلف والخلف ومن یُعتمد علی دینه وعلمه من علماء هذا العصر، وهي كالتالي :
1 - إذا دخل الكفار بلدة من بلاد المسلمین.
2 - أذا التقی الصفان، و تقابل الزحفان.
3 - إذا استنفر الإمام أفراداً أو قوماً وجب علیهم النفیر.
4 - إذا أسر الكفار مجموعة من المسلمین.
فإذا كان السلف و الخلف مجمعون علی تعیّن فرضیة الجهاد في حال تحقق إحدى الحالات المذكورة، فكیف لا تتعیّن الفرضیة في هذا الزمن وقد تحققت جمیعها في وقت واحد، حیث دخل الكفار محاربین بالقوة إلی كثیر من البلاد الإسلامیة، والمعركة قد نشبت بین الصفین منذ عشرات السنین، ویزداد سعیرها مع مرور كلّ یوم، وأمراء المسلمین الشرعیین استنفروا المسلمین في مشارق الأرض ومغاربها لصدّ عدوان الصائلین من الیهود والنصارى والشیوعیین وغیرهم من ملاحدة البشر.
أمّا عن أسر المسلمین فحّدث ولا حرج، فهناك آلاف المسلمین في سجون الكفار ولا یجدون لهم سوی الله تعالی نصیراً.
أمّا الجهاد في أفغانستان فهو من أوجب أنواع الواجب حیث اجتمعت جمیع الدول الصلیبیة في حلف عالمی بقیادة رأس الكفر العالمي (أمریكا) وأسقطت إمارة أفغانستان الإسلامیة، واحتلت هذا البلد بقوته النار والحدید.
وأمّا من یستدلّ علی جواز الهجوم الأمریكي علی أفغانستان بموافقة الأمم المتحدة علیه فإنه یقع في نوع خطیر آخر من الكفر وهو التحاكم إلی غیر ما أنزل الله، و الرضی بحكم الطاغوت، ولا یشك مؤمن في أن هیئة الأمم المتحدة إدارة كفریة، وأنشئت لحمایة مصالح الدول الكفریة الكبیرة. و أن الاحتكام إلی قراراتها التي تخالف الشرع الإسلامي، و تفرض الذل والهوان علی العالم الإسلامي، هو تحكیم للطاغوت، ورضیً بالكفر في القضایا المصیریة للأمة الإسلامیة.
فالجهاد المسلّح في هذا الزمن لیس فرض عین فسحب، بل هو ضرورة طبیعیة فطریة للمظلومین، لیدفعوا به الشر والذلّ عن أنفسهم، لأن الغرب لن یستنكف عن الاعتداءات علینا، ولا عن إسقاط حكوماتنا، واحتلال بلادنا، وتغییر مناهجنا التعلیمیة، وفرض ثقافته المادیة الملحدة علینا، إلاّ بعد أن یروا القوة الرادعة في العالم الإسلامي.
والمعاملة التي یلقاها الیوم المسلمون من الكفار هي عبارة عن الكید للمسلمین، وسرقة للثروات، وتذلیل للشعوب، واحتلال للبلاد، و إحراق للمدن، و إمطار لملایین الأطنان من الحدید والنار علی رؤوس المسلمین، و مساندة عالمیة للیهود ضد المسلمین، ونشر للمسیحیة والإلحاد في بلاد المسلمین، وتسلیط للفجرة و المارقین من الدین حكاما علی المسلمین، ومحاربة لدین الله تعالی وشعائره، ومناصرة عالمیة للأقلیات الكفریة في العالم الإسلامي، إلی جانب محاربة المجاهدین والصالحین من أبناء الأمة الإسلامیة، و ملء للسجون منهم، وتمكین للشركات الاستعماریة من السیطرة علی اقتصاد العالم الإسلامي، وآلاف من الجرائم الأخرى التي یرتكبونها في السرّ والعلن ضد المسلمین، مستغلین في ذلك الدبابات والطائرات، والجنود المدرّبة والأساطیل البحریة، والبنوك، والمؤسسات الاقتصادیة، وآلاف المؤسسات العلمیة والثقافیة التي تحارب المسلمین في فكرهم، وتسلخهم عن دینهم وعقیدتهم، وتُجهِّلهم عما یجب علیهم معرفته تجاه دینهم وآخرتهم.
أمّا الأمم المتحدة هي الأخرى واقفة في خندق العداء للمسلمین، وما قضایا المسلمین العالقة كقضیة كشمیر وفلسطین، والشیشان، وقبرص، وآسام، وغیرها، إلاّ شواهد علی ظلم هیئة الأمم المتحدة لقضایا المسلمین.
ولقد جرّب المسلمون لرفع الظلم عنهم جمیع الطرق من المصانعات، والتطبیعات، والذیلیة، والدخول مع الكفار في الأحلاف العسكریة والسیاسیة، والسیر في ركاب الدول الغربیة الجائرة، والقبول لنظریاتها المادّیة الملحدة من الدیموقراطیة، والعلمانیة، والقومیة، والشیوعیة، وغیرها من أسالیب الحیاة الاجتماعية، ولكن الظلم الواقع علیهم لیس لم یرتفع عنهم فقط، بل زاد مع مرور الأیام، وأصبح المسلمون مصداق قول الرسول صلی الله علیه وسلم حیث یقول: ( لئن تركتم الجهاد، و تبایعتم بالعینة، واتّبعتم أذناب البقر، سلّط الله علیكم ذلاّ، لا ینزعه عنكم حتی تعودوا إلی دینكم) أی إلی جهاد كم.
فالعودة إلی الجهاد ضد الكفار المحاربین، ومصالحهم في البلاد الإسلامیة لیست فریضة فقط، بل هو العلاج الطبیعي الوحید لرفع الظلم الواقع علی المسلمین، لأن الكفار ما عادوا یقتنعون بالحوار، ولا بالحلول السلمیة العادلة للقضایا.
وضوح الهدف من الجهاد لدی طالبان
إن الهدف من الجهاد لدی الطالبان واضح وضوح الشمس، وهو إعلاء كلمة الله تعالی وإقامة الحكومة الإسلامیة علی منهاج الشریعة الإسلامیة، ولا یقبلون في هذا الهدف أيّ نوع من الترقیعات وأنصاف الحلول.
فهم لا یقبلون بالحكومة التي اسمها حكومة إسلامية وهي فی الواقع حكومة علمانیة، أو تحتكم إلی أهواء البشر تحت أيّ اسم آخر، فهم لذلك لم یرضوا بإشراك أیة جهة في حكومتهم لا تحتكم إلی شرع الله، ولم یتنازلوا عن هذا الموقف مهما اشتدت علیهم المحن، فقناعتهم في هذا الأمر هي أمّا أن تكون حكومتهم إسلامیة بالمعنی الحقیقی، أو لا تكون هناك حكومة، ولذلك لا یجرون أي نوع من المحادثات مع الكفار وأذنابهم علی نوعیة الحكومة، فهذا أمر مقطوع فیه، ولا یتنازلون منه.
إن طالبان بتجرّدهم لدین الإسلام یختلفون كل الاختلاف عن المنظمات الجهادیة السابقة التي قاتلت الشیوعیة والروس، ولكنها وافقت علی الدیموقراطیة الغربیة، وانصهرت في قالبها، ووقفت مع الصلیبیین في صف واحد ضد المجاهدین.
ویبدو من هذا أن جهادها لم یكن لإعلاء كلمة الله تعالی، بل كان للاعتلاء علی كرسی الحكم، وحین تیسّر لها الوصول إلی كرسی الحكم وإن كان علی حساب الإسلام و شریعته، تركت الجهاد، وارتمت في أحضان الصلیبیة العالمیة.
إعداد طالبان للجهاد
إن الإعداد للجهاد والمقاومة ضد الحلف الصلیبي العالمي الذي تقوده أقوی وأكبر دول العالم مثل أمریكا، وكندا، وبریطانیا، وفرنسا، وألمانیا، وأسترالیا، وغیرها من الدول الصلیبیة أمر صعب، ویحتاج إلی دقّّة في التنظیم والتخطیط والشمولیة، لأن الدول الغازیة تتمتّع بإمكانيات حربیة وسیاسیة ومالیة وإعلامیة هائلة، بینما لا یجد طالبان من یقف إلی جانبهم سوی الله تعالی، و أمر المقاومة الجهادية في هذه المرّة یختلف بكثیر عما كان علیه أیام الجهاد ضد الاتحاد السوفيتي، لأن جمیع دول المنطقة في هذه المّرة تقف بشكل أو بآخر مع الغزاة الصلیبیین، وتُمدّهم بالمال أو الإمكانیات أو الرجال، أو أنها تُمكنهم من استخدام قواعدها الجویة والعسكریة والأخرى.
ولكن علی الرغم من كل ذلك قامت طالبان بالإعداد الكامل وتعبئة قواتهم في جمیع مجالات المقاومة بشكل ناجح ومؤثر، وقد قامت طالبان بالإعدادات الناجحة والمؤثرة في المجالات التالیة :
1 – الإعداد المالي : استطاعت ( طالبان ) أن تموّل الجهاد من المنابع المالیة الداخلیة البحتة التي تتمثل في الغنائم، والصدقات، والزكوات، وتنشیط عنصر العطاء في أثریا المسلمین، وحسن التنظیم لهذه الموارد، حیث لم یقدر الحلف الصلیبی العالمي بكلّ إمكانیاته و وسائله أن یجفف هذه الموارد عن الجهاد العظیم ضدهم.
وهذا یدلّ علی أن طالبان تمتلك الكفاءة القویة في تدبیر موارد المال وتصریفه بشكل منظم دقیق، كما أنه یدل علی أن الأمة الإسلامیة أمة مِعطاءة فی سبیل الذود عن حرماتها و إن تقاعست عنه الحكومات.
2 – الإعداد الحربي : والإعداد الحربي ینقسم إلی الإعداد من حیث الرجال المقاتلین وتوفیر السلاح، وصناعة وسائل القتال والدفاع، ووضع الخطط القتالیة المناسبة زمانا ومكاناً، وتحدید الأهداف في صفوف العدو، والتغطیة الإعلامیة لأحداث المعارك، والتدریب علی فنون القتال الحدیثة، وغیرها من المجالات.
وقد اعترف العدوّ مرّات كثیرة بأن تأثیر إعلام المجاهدین أكبر وأوسع من تأثير إعلام الصلیبین وإن كان أكبر حجماً من إعلام المجاهدین.
3 - الإعداد الأدبي والثقافي: لاشك في أن الأدب والثقافة هما من الوسائل المؤثرة في تحریك كوامن النفوس، وتجییش العواطف، وحضّ الناس علی الجرأة والإقدام والبذل والعطاء. وأن الأمم تبقی عزیزة مادامت تتلقی ثقافة العزّ وتتذوق أدب الحرّیة والتضحیة والفداء.
وقد استطاعت طالبان بفضل الله تعالی أن یكون لها إعداد كبیر في هذا المجال أیضاً، فهناك الكتب الفكریة، والعسكریة، والأدبیة التي تعمل عملها في إعداد الجیل الجدید من المجاهدین، وهناك ما یقرب من خمسة آلاف نشید جهادي بأحلى الألحان وأجمل التنغیمات التي تُعتبر قوة روحیة هائلة للمجاهدین في دفعهم إلی میادین القتال والفداء.
وإلی جانب ذلك تفعل هذه الأدبیات الجهادیة المؤثرة فعلها في حمایة النشأ الأفغاني الجدید من الانحلال في الفساد الخلقی الذي تُشیعه الأغاني الخلیعة التي یقوم ببثها إذاعات الصلیبیین من قواعدها العسكریة.
أمّا الإعداد القیادي المیداني لدی طالبان فأمره یختلف تمام الاختلاف عن المنظمات الأخرى، ومن صور هذا الاختلاف أن القیادات الميدانیة في طالبان كلهم ممن ینتمون إلی العلم الشرعي.
فإما أنهم علماء للشرع، أو قضاة، أومفتون، أوحفاظ لكتاب الله تعالی أو طلاب للعلم الشرعي، وانتماؤهم للعلم الشرعي عامل كبیر من العوامل التي تحفظهم من الانحراف أو الوقوع في مصائد المادیات، وقد ذكر الله تعالی في كتابه المجید هذا المفهوم حیث یقول: (كَذَلِكَ إِنَّمَا يَخْشَى اللَّهَ مِنْ عِبَادِهِ الْعُلَمَاء) ( فاطر: 28).
فالعلماء أقدر من غیرهم علی مواجهة الفتن والثبات علی المِحَن.
ومن صور الاختلاف أیضا أن القیادة المیدانیة لا تتمركز في طالبان في عدة أشخاص محدودین لا تخرج عنهم إلی غیرهم، بل هي مجال مفتوح یخرج إلیها كل من یرید البذل والتضحیة، لأن القیادة في صفوف طالبان لیست مغنماً، بل هي استقبال للموت والأسر، والملاحقة، والابتلاءات، فلذلك لا یتقدم إلیها إلاّ من آثر الآخرة علی الدنیا، فهذه المیزات تجعل من القادة المیدانین أناسا مرغوبین یلتف حولهم الشباب المخلصون برحابة صدر، ویلبون نداءاتهم للبذل والفداء.
نظرة طالبان لحركة الجهاد والمجاهدین في العالم :
تؤمن طالبان بوحدة الحركة الجهادیة في العالم مادام الإسلام والعقیدة الإسلامیة والبذل والعطاء للإسلام، والدفاع عن أراضي المسلمین وإعلاء كلمة الله تعالی تجمع المجاهدین، فإذا كان دینهم واحد، وكتابهم واحد، ونبیّهم واحد، ویقاتلهم عدوّ مشترك واحد، وآمالهم في إقامة النظام الإسلامي واحدة، فما الذي یمنعهم من أن یكونوا یداً واحدة ضد الكفر العالمي في كل مكان، وما الذي یمنعهم من المناصرة والمناصحة، والمصابرة، ووقوف بعضهم إلی جانب البعض في قضیة الدفاع عن الحق والدین.
فإذا كان الصلیبي الأسترالي یقف الیوم جنباً إلی جنب مع الصلیبي الكندي، أو یقف الصلیبي البولندي مع الصلیبي الجورجي، وبینها من الاختلافات ما لا تحصی، فلماذا لا یقف المجاهد المغربي إلی جانب أخیه المشرقي؟
إن قضیة الدفاع عن الإسلام وأراضي المسلمین قضیة الأمة، ولیست قضیة الأفراد، أوالدول، أوالمنظمات.
إنها قضیة العقیدة والدین الذي یجعل المسلمین أمة واحدة (إِنَّ هَذِهِ أُمَّتُكُمْ أُمَّةً وَاحِدَةً وَأَنَا رَبُّكُمْ فَاعْبُدُونِ) ( الأنبیاء /92 ).
إن العدوّ الیوم یرمي المجاهدین جمیعاً عن قوس واحدة، وقد شكل حلفاً عالمیاً متّحداً ضد جمیع من یدافع عن دین الله تعالی.
فیجب علی المجاهدین في سبیل الله تعالی أیضا أن یكونوا یداً واحدة علی عدوهم، وأن یهبّ بعضهم لنصرة البعض عملاً بقول الله تعالی : (وَإِنِ اسْتَنصَرُوكُمْ فِي الدِّينِ فَعَلَيْكُمُ النَّصْرُ إِلاَّ عَلَى قَوْمٍ بَيْنَكُمْ وَبَيْنَهُم مِّيثَاقٌ) الأنفال / 72.
وقد ضحّت طالبان لقضیة وحدة الصف الجهادي تضحیة لم یضحّ بمثلها أحد في القرون الأخیرة، فهي ثابتة علی العهد، وناصحة للمجاهدین بالصبر والإستقامة ومواصلة الطریق بنفس طویل.
هذا هو جانب من تصور طالبان عن الجهاد والإعداد في العصر الحاضر، ونسأل الله تعالی أن یصدّقّه منهم العمل، وأن لا یبقي التصوّر تصوّراً فقط، وأن یوفقهم لإیجاد الصف المرصوص الذي یحبه الله من عباده المؤمنين. (إِنَّ اللَّهَ يُحِبُّ الَّذِينَ يُقَاتِلُونَ فِي سَبِيلِهِ صَفًّا كَأَنَّهُم بُنيَانٌ مَّرْصُوصٌ) الصف /4.
http://shahamat.info/arabi/index.php?option=com_content&view=article&id=640:2010-07-06-09-21-46&catid=4:articles&Itemid=7
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿