以下はアフガニスタン・イスラーム首長国公式サイトに掲載された論文の私訳です。
ターリバーン(イスラーム首長国)の思想の基礎(1)
初出al-Somood 44号(1431年Safar/2010/1-2)
http://www.alsomod.org/index.php?option=com_content&view=category&id=50:44somoodmag&Itemid=58&layout=default
`Abd Al-Wahhaab Al-Kaabuli著(2010/1/17)
ターリバーン(イスラーム首長国)運動は、西暦20世紀の終わりに、21世紀のイスラーム諸運動の前衛として出現した。至高なるアッラーは地上における最も傲慢な軍勢、つまりキリスト教十字軍世界の軍勢によって、地上で最も弱い軍勢を攻撃せしめることを望み給うた。それは人々が真の力とは信仰の力であり、現代の殆どの人間が崇拝している物質的力ではないことを改めて教えるためであった。そしてターリバーン運動が誕生し、政権を獲得し、そしてそれは人類に、人々が何世紀にもわたって忘れていた新しい統治形態を示したのである。それこそはアッラーの啓示に基づく統治だったのである。
(ターリバーンは)アッラーのイスラーム聖法(シャリーア)を施行し、人々に安全と安心の満喫による幸福をもたらし、不正、腐敗、そして植民地主義者たちが、彼らを崇拝する名ばかりのムスリムたち(アフガン人世俗主義者)の手によってアフガン人に押し付けた無明の法令(qawaaniin jaahiliyyah)と戦った。それゆえキリスト教十字軍諸国はターリバーンと戦い、不信仰世界はそれに一丸となって矢を引き、不信仰と偽善の諸国民は現代の国際キリスト教十字軍の指揮下にターリバーンの抹殺において合意したのである。しかしアッラーの御恵みにより、イスラーム首長国に不信仰世界の軍勢を前にして堅忍不抜を貫き、そして今や、至高なるアッラーの御意思によって、再び明白な勝利を目前にしているのである。
ターリバーン運動は、その闘争形態、思想、理論武装、世界観、人間観、対他関係を律する基準において、他に例を見ないユニークな運動である。
ではターリバーン運動が政治を行うにあたって基礎とし、それに基づいてその綱領、政策を実践に移すその思想的基礎は何であろうか?
これは世界中の人々がその答えを知りたいと切望している問題である。しかしこの問いに答えるには、その思想的背景、影響の原資料、イスラーム首長国(ターリバーン)の指導部たちが教育を受けた教育方法に遡って語る必要がある。
ここで我々には「ターリバーン」という現象、そしてその統治と政治に関する理論、そのイスラームのイスラーム聖法(シャリーア)理解、イスラーム史の解釈について知ることがである。小生は長年にわたりこの(ターリバーン)運動の中で活動し、その誕生から発展の諸段階を実際に目撃証人となり、その指導部とメンバーの心理を観察し、また彼らが学んだ同じプログラムと方法(デオバンド派イスラームのカリキュラム)で自分自身が学び、彼らが影響を受けた同じ環境の影響下にあったことから、アッラーは私に、外部からの西欧のメディアの誹謗中傷のプロパガンダによる影響を受けることなく(ターリバーン)運動を身近で知ることを可能にして下さった。ところが多くの人々はそれ(西欧のメディアの誹謗中傷のプロパガンダ)によって(ターリバーン)運動とその振舞についてのイメージを形成し、故意にそれ(ターリバーン)について偏見を助長するか、あるいはその実態について殆ど知らずに、それを怪物視しているのである。それゆえ私はこの論文の中で、(ターリバーン)運動の思想的基盤、運動の基本原則、統治、政治制度、不信仰とイスラームに関するその見解について要約を試みた。私はこれらの基本理論についての私の知識から到達した結論が100%正しいと主張するつもりはない。ただこれはこの運動の実態、歴史的事件や事態の推移に直面してのそれが採った対応から私が演繹したところの、その思想の基本原則、綱領であるに過ぎない。
そしてそれら(その思想の基本原則、綱領)は以下の通りである。
(現在までに発表されている第1、2講においては、1.イスラームの理解、2.思想、行状、政治、制度における西欧文明の生んだ退廃による思想と知性の汚染の不在、3.国際秩序(合法性)(shar`iyyah dawaliyyah)、国連、その法令、決議等と称されるものに裁定を求めないこと、4.アッラーの宗教のみに忠誠を捧げ虚偽の徒との取引を拒絶すること、5.領主と世俗主義者の指導部からの追放と(イスラーム)学者と宗教者を指導部によるその代替、6.民主主義を現代の無明の宗教とみなし信仰しないこと、7.一致団結と無明の民族主義の拒絶、の7原則が明らかにされている。)
1.(ターリバーン)運動の指導部とその創設者たちのイスラーム理解:
運動の創設者たち、指導部は、政治家も軍人も全て、イスラーム学を修めた学者、あるいは勉強中の学生、つまりイスラーム学に関わる者である。そして彼らの学問の源泉の典籍は、このイスラーム共同体の先達の時代に、過去の世紀にイスラームの学者たちが著した書籍の中で彼らが学んだイスラーム聖法の諸典拠である。そしてその過去の世紀とは、人々が宗教を、外来の逸脱した解釈や思想の混ざり物がまだ無かい純粋な状態で理解していた時代であり、それはイスラーム世界諸国での教育課程に西欧の植民地主義者、イスラームを憎むオリエンタリストたちが影響を及ぼすようになってから後で、近代の(イスラーム)学者たちが書いた書物や教科書を通してイスラームの学知の中に混入したものなのである。こうした書物の影響の一つとして、それらの書物は、(イスラーム)イスラーム聖法の知識を、西欧風に、魂の抜け殻として教えるようになった。そこではそれを学ぶ者は、自分たちが学ぶ宗教理論、イスラーム聖法の規定を実践する必要はなくなった。むしろ、そうした書物は、イスラーム聖法の学知を文化遺産の一つのように教え、それには、イスラーム聖法として真正であり適用が有効であることに疑いを引き起こさせるオリエンタリストの思想の大きな影響が入り込んでいたのである。このような(イスラーム)学者の階層は、イスラーム世界の中で、イスラームをイスラーム聖法(シャリーア)、人間生活の法としては信じていない諸政府によって設立された国立やそうでない大学によって生み出されたのである。いや、それらの政府は、それ(イスラーム)イスラーム聖法を現実生活から切り離し、人定法や西欧の諸法にその場所を譲らせるように奔走した。それらの諸政府は人々が西欧思想の悪影響を受けない純粋なイスラームを理解することを望まないのである。それはそれらの政府が真のイスラームの教えから逸脱していることを知って、政府に対して革命を起さないように、である。
一方、ターリバーンは、これらのイスラームを汚す理解を免れている。なぜならば彼らは西欧の手先の(`amiilah)諸政府の支配の及ばない純正の宗教学校(madrasah)やモスクでイスラームを学んだので、彼らは、先人たちが宗教とイスラーム聖法を理解したのに近い理解による正統な学問方法論と清純な知識を身につけることが出来たのである。勿論、これらの宗教学校には、運営管理、システムの近代化、情報処理の方法などにおいて多くの問題点があるのは疑う余地が無く、またその(宗教学校の)カリキュラムに、知識の領域において新たに生じた不可欠な科学の一部が入っていないことも欠点に数えられるかもしれない。
しかしこうした欠点は、このカリキュラムで学ぶ者たちが、イスラームをイスラーム聖法の目的に適い、先人たちの道に沿って理解することを妨げはしない。このカリキュラムが西欧思想の様々な影響を全く受けていなかったことは、結果として、この純正な宗教学校の卒業生たちの思想と政治行動と、西欧が彼らの流儀で教育した者たちの思想と政治行動との間の完全な乖離をもたらし、イスラームとその信奉者たちがそれによって義務付けられることと、不信仰とその追随者たちの間には接点がないことになったのである。
これが西欧を怒らせ、不信仰の諸国民をして、政治、統治、法制、国際関係などの生活の諸領域において西欧的様式に従わないターリバーンに敵対するように扇動させることになったのである。
それゆえ西欧は、ターリバーンの思想とそのイスラームの理解に対し、国際的全面的戦争を宣戦したのである。それは軍事力による戦争だけに留まらず、教育、広報、経済、政治、社会の領域でターリバーンに対して多くの戦いに突入し、これらの諸領域で、この地域において様々な形で現れたターリバーンの影響を根絶するために何千億ドルもを費やした。それはこの(ターリバーンの)思想が、西欧人たちが、イスラーム世界のムスリムたちの脳中に定着させようと努力してきた西欧の諸理論を抹消してしまうことを恐れてであった。それゆえアフガニスタンにおけるイスラーム首長国に対する戦争は、ウサーマ(ビン・ラーディン)師(アッラーが彼を護り給いますように)やその他の逮捕のための戦争ではなく、十字軍の西欧とイスラーム諸国のその手下の支配者たちと妥協しない純粋なイスラーム思想に対する戦争なのである。
ターリバーンの政治理論とその政治的立場について論じたが、次に述べることは、彼らにとってのイスラーム聖法の知識は、学位を取るためや、職にありつくためや、学歴を誇るために学ばれるべきものでは決してなく、いかなる犠牲を払おうとも理論から実践に移すべき宗教に他ならない、ということである。そしてイスラーム聖法(シャリーア)の施行には、ムスリムにイスラームに基づいた体制の樹立を妨げる様々な障害の除去が必要とされるが、この除去は、議論と論証の力が役に立たなかった場合には、軍事力の行使によるしかないことは疑う余地が無い。そしてそれがターリバーンがアフガニスタンを統治した時期に行ったことなのである。そして彼らは彼らが学んだ自分たちの主(アッラー)のイスラーム聖法の施行のために血を流し命を投げ出しているのである。そしてこれが彼ら(ターリバーン)と、宗教を学問と教育の西欧流の学術研究様式で宗教を学んだ者たちとの違いなのである。大学のイスラーム学者(ウラマーゥ)たちは、研究と検証のためにイスラーム聖法の諸学を学ぶが、ターリバーンは、新学校とモスクの申し子であり、イスラーム聖法の諸学を実践と施行のために学ぶのである。
2.思想、行状、政治、制度における西欧文明の生んだ退廃による思想と知性の汚染の不在
イスラーム諸国(bilaad)とその民衆を支配している専制的(T_aaghuutiyyah)諸制度、諸政府の殆どは西欧の植民地主義者によって創られたが、それは彼らが、(西欧人)植民地主義者たちの(本国への)帰還後にイスラーム世界の将来の支配者になるべく彼ら(現地人の欧化主義者)を養成するために、イスラーム諸国に設立した学校におけるこれらの世代の教育とその養成を成し終えるか、あるいは留学生団が西欧人の手で、あらゆるイスラームの影響から遠く離れた環境で教育を受けるために、西欧諸国に派遣された後のことであった。
それで彼らは(西欧人)植民地主義者たちが彼ら(現地人ムスリム)の洗脳のために定めたカリキュラムを学び、彼らの理性と思考は西洋哲学と、宗教のあらゆる束縛から解放された西洋人の哲学の無神論に汚染され、統治、政治、制度における非宗教的やり方を習得した。それで彼らの精神が、宗教とそれへの服従の拒否において不信仰の教説に冒され、この世代が完全に西洋風に染まり、西洋の大学から戻った後、植民地主義諸国は、彼らに植民地化されたイスラーム世界の統治権を引き渡したのである。それゆえ彼らは自分たちの政治と行政において西洋の無神論のやり方と理論に従い、イスラーム聖法(シャリーア)を統治と思考から遠ざけ、そればかりかそれに激しく戦いを挑み、生活の全ての領域において(ムスリム)諸民族を(西欧人)植民地主義者たちがイスラーム世界の未来の染色のために定めた基準に則り、西洋分に染め上げるために、様々な新しい様式を定めたのである。それで(イスラーム世界の現地人の支配者の)一部の者たちは無神論の共産主義政権を立て、別の者たちはイスラーム聖法(シャリーア)に法裁定を求めないという意味での「リベラル」な世俗主義政権を樹立し、暴力的支配、拷問、投獄によって舶来の(政治)諸原理を押しつけることによって、イスラーム世界の諸民族に災厄につぐ災厄をもたらしてきた。こうしてイスラーム世界は一世紀を経ずして、そのイスラーム的性格を失い、西欧の尻尾に成り下がり、イスラームは、その地において風変わりなものとみなされるようになり、ムスリムたちもまた自分たちの地において、外国の法令と理論によって支配される異邦人となってしまったのである。
一方、ターリバーンは、世俗主義、民主主義、プラグマティズム、便宜主義、(現世的)利益と快楽の論理、諸国民と諸民族の扱いにおける暴力的支配、裏切りと策謀による語用論などの西洋哲学の生み出した退廃によって、理性を汚染されておらず、自らの生の思想、理論、哲学と他者との関係の基準をイスラーム聖法から採っており、非宗教主義が(人間の)生の全ての領域において抹殺したイスラーム聖法の諸規定の再生に取り掛かり、イスラームが命じている限り、「国際社会」と称されるものの承認することに、それが反するか、一致するかなどを気にかけず、イスラーム聖法に反し、かつての非宗教的諸政権が輸入した全ての制度、法令を廃止したのである。
それゆえ、人類を西洋の物質的な基準の闇からイスラームの光明とイスラーム聖法の正義へと、そして西洋の諸政策の偽善からイスラームの純潔とその寛大で繊細な教えへ、(西洋の)手先の(イスラーム世界内の現地)諸政権の欺瞞からイスラームの共同体の先達に倣う道へと導き出すところの思想と理論の別のモデルをターリバーンが、ムスリムと世界(全体)に提示しているのを知って、西欧はその(ターリバーンの統治)中に自分たちがイスラーム世界に広め、長年にわたってムスリムたちを誑(たぶら)かしてきた彼らの諸原理に対する危険な脅威を見出したのである。
それゆえ西洋は、ターリバーンの思想と制度に誹謗中傷を浴びせ始めたのである。それは人々にそれを嫌悪させるためであり、他のイスラームの国々、西洋の法令が人々の宗教的自由を抑圧し、西洋の考え方が人々の理性と思考を堕落させている土地で、ムスリムたちがそれ(ターリバーンの思想、制度)に倣うことがないように、とのためなのである。
3.国際秩序(合法性)(shar`iyyah dawaliyyah)、国連、その法令、決議等と称されるものに裁定を求めないこと
今日、国際秩序、国連とその全ての文民的、軍事的付属機関、下部機構などと呼ばれているものは、実際には(西洋の)拡張主義的植民地主義の行動、政策を隠蔽し、強国による弱小国に対する政治的、法的支配を押し付けるための、目晦ましにすぎない。イスラームの国々もそうした弱小国の一部である。そしてそれらの強国は、「国際機構」と称されるもの(国連)の法令、決議などを、他の(弱小)国に優越する形で、制定、採択し、不公平な法令によってその(弱小国の)行動範囲を制限し、その手を縛っているのである。これが世界が60年以上にわたって目にしてきたことなのである。そしてそれは実際には、(西洋)植民地主義国家が弱小国、民族に対して犯してきた犯罪を正当化する装置に他ならないのである。
これらの法令を抑圧された民族たち全てに押し付けるために、西洋はそれを驚くべきほどに神聖化し、まるでそれが至高なるアッラーが人類の幸福のためにその預言者たちを通じて啓示した天啓の教えと聖なるものの全ての上にあるかの如くに、それに対するいかなる批判、議論も認めず、その形式の再考も、その条文の変更も認めないのである。
イスラーム世界の諸政体、政府が西洋植民地主義の産物であり、それを牛耳っているのが、至高なるアッラーとその使徒(ムハンマド)を裏切り、自分たちを支配者の座につけ、その地位を保全している植民地主義(西欧)諸国への忠誠を尽くす者たち(名ばかりのムスリム)であることから、ムスリムがイスラームを信奉するように、彼ら(イスラーム世界の為政者たち)はこれらの(国際)機構の法令や決議を信奉し、ムスリムがアッラーの聖法に裁定を求め、自分たちの生活の諸問題にそれを実践するのと同じように、彼ら(イスラーム世界の為政者たち)はそれら(国連の法令、決議など)に裁定を求め、それを実践するのである。
こうして西洋の法制的覇権がイスラーム世界の彼ら(ムスリム)の生活の中に根を下ろしてしまい、これらの法に敵対すること、それに裁定を求めることの拒否は、それに反した国家や民族が集団虐殺、破壊、追放、政権の打倒、国富の収奪によって罰される最大の犯罪と(みなされるように)なり、これらの法令に、否応なく屈従させられることになってしまったのである。
ところがターリバーンは、この虚構の神話を打ち壊し、それに敵対を宣言し、内政と外政の全てにおいて最初から最後までアッラーの聖法のみに裁定を求めなければならないことを声高に呼びかけ、堅忍不抜に自らの原理と信仰を固守し、それは、いかなる暴風にも揺らぐことは無かった。まことに栄光はアッラーとその使徒と信仰者たちのものである。しかし偽信者たちは悟らないのである。
そしてイスラームを自称する一部の者たちとは違い、ターリバーンにとってこの思想原理は空虚なスローガンに留まらなかった。国際的な決議に裁定を求めるか、万事においてイスラーム聖法にのみを権威として認め国際秩序の決議への屈従を拒むか、との誘惑の試練の選択に直面した時に、彼らの行動が、それを実証した。
そして彼らは、イスラームを固守したが、それはその固守の代償が、多大な犠牲を払い自らの血と命をもって樹立した自分たちの政権、体制を失うことになることになってでもであった。なぜならば、彼ら(ターリバーン)にとって統治の目的は至高なるアッラーの御言葉の宣揚にあるため、アッラーの御言葉が宣揚されていない限り、彼ら(ターリバーン)の考えでは、政府になど、西洋と取引するべきいかなる価値もないからである。
とはいえ、この事は、彼ら(ターリバーン)がイスラームの教えに反しない国際条約、決議を遵守することを妨げるものではない。そしてこの考え方は使徒ムハンマド(s)が弟子たちにマッカからの移住を説いた時に教えた考えと同じものなのである。つまり使徒はマッカでジャーヒリーヤ(非イスラーム的無明)と共に政権に参加することに同意しなかったのであるが、それはたとえマッカの(多神教徒の)住人たちが、統治、掟、彼ら(マッカの多神教徒)の父祖たちから受け継いだ慣習に基づく裁定において彼らのジャーヒリーヤ(非イスラーム的無明)に(使徒が)手をつけず温存するという条件で、使徒が元首となることに同意していたにもかかわらずであったのである。
こうした(使徒の)考えを甦らせたことは、(イスラーム世界の)支配者たちが権力の座に居座るために、(西洋の)異教徒たちの不信仰の法令にいそいそと平身低頭し、屈従するこの現代における、ターリバーンの偉大な功績なのである。
4.アッラーの宗教のみに忠誠を捧げと虚偽の徒との取引を拒絶すること
試練や苦難が無い限りにおいては、至高なるアッラーへの忠誠を掲げる多くのイスラーム運動、イスラーム団体が存在している。しかし厳しい試練、過酷な苦難に見舞われると、彼ら(自称イスラーム運動、イスラーム団体)は直ぐに妥協、打算に流れ、イスラームの原則を代償に現世の利権の確保するために虚偽の徒たちと取引をするのである。それより更に有害なのは、恥ずべき姿で敵たちと同盟することであり、彼らはムジャーヒィドゥーン(アッラーの戦士たち)、アッラーの宗教の擁護者たちに対する内戦を仕掛け、ムジャーヒィドゥーンたちに対してテロ、過激主義、(イスラーム学の)知識の不足、イスラームの精神の理解の欠如などの誹謗中傷を浴びせる策謀を企て、(イスラームの)敵(の異教徒)たちが、ムジャーヒドゥーンとジハードを貶めるために流布させることに狂奔しているまさにその同じレッテル、スローガンを斉唱しているのである。我々のウンマ(イスラーム共同体)は、イスラームを売り払ったこれらの団体、運動によっていかなる苦難を被ってきたことか。どれほどのイスラームの諸概念が、これらの恥ずべき団体とその振舞によって、歪曲されてきたことか。これらのイスラームに属すると証する諸団体のどれほど多くが、テロと過激主義を非難するとの口実で、ムジャーヒドゥーンに敵対する国際十字軍同盟に加入するのを我々は目にしてきたことか。
しかし、ターリバーン運動は、アッラーの恩寵により、その(設立の)最初の日から、イスラームにのみその忠誠を捧げ、政権の獲得のために、いかなる怪しい団体、党派とも取引をせず、そしてその(政権獲得)後、長い年月わたって施行されないままになっていたイスラーム聖法の実施においても、その忠誠の専一の立場を改めて堅持したのである。そして(ターリバーン運動)は、世界のイスラーム主義者たちができなかったこの偉業を、自分たちに向けられた誹謗、中傷、嫌疑にも拘らず成し遂げたが、この困難な道における確固たる支えとは至高なるアッラーの宗教への忠誠の専一に他ならないのである。
しかしそれで我々はターリバーンがイスラーム聖法の適用においていかなる過失も犯さず無謬であったとも、その内部に邪悪な成員がいなかったとも主張しているわけではない。それ(ターリバーン)もまた、他の全ての運動と同様に、(現世的)野心を秘めた者たち、権勢を求める者たちを内部に抱えており、またアメリカのドルを目の前にするとイスラームへの忠誠心が揺らぐような、昔の(対ソ連)ジハード諸組織からの流入した者たちもいるかもしれない。しかしそうした者たちは、試練に見舞われると(ターリバーン)運動を見捨て、(ターリバーン)運動も彼らを放逐するので、彼らはターリバーンの内部にいかなる地位も保持し続けることはできないのである。(続く)
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