2010年5月6日木曜日

「人定法に裁定を求めること」

「ターリバーンの思想的基礎」を理解するためには、人定法(西欧実定法)に裁定を求めること、つまり西欧法の継授が、重大な不信仰にあたる、との現代イスラーム政治学の基本命題を理解する必要があります。
但し、この命題は西欧に植民地にされ西欧法の継受を押し付けられた植民地政府の継承国家である現代のイスラーム諸国の支配の正当性を真っ向から否定するものであるため、公然と語ることはタブーとなっており、特にイスラーム世界の外では殆ど知られていません。
この人定法の裁定論を最も明晰に力強く述べたのが、元サウディアラビア王国最高ムフティー(イスラーム教義諮問官)ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・アル=シャイフ(1369年没)の『人定法に裁定を求めること』です。本書は小著ながら、現代イスラーム政治論における最重要文献の一つです。しかしその重要性にもかかわらず、本書について触れることは現在では本国のサウディアラビアでさえもタブーであり、一般人の目に触れることは有りません。
イスラーム政治の現在と未来を考える上での本書の重要性に鑑み、私はこれにアラビア語の序文をつけ、アラビア語、日本語、インドネシア語の四ヶ国語で出版することを考えました。既にインドネシア語版は出版されていますが、アラビア語版、日本語版、英語版はまだ出版されていません。そこでこのブログでこの機にアラビア語版、日本語版、英語版を掲載しようと思います。序文は最初にアラビア語で書き、それを自分で和訳しました。英訳も試みましたが、小生の英語力では無理なので、こちらは外注しました。実は英訳はまだチェックを済ませていないのですが、私よりアラビア語も英語もできる方の訳なので仮訳ということで採り合えずここに一挙に掲載してしまいます。
では以下に、私の十分付の『人定法に裁定を求めること』日本語版をお届けいたします。




『人定法による裁定』序文 (ハサン中田考)

ウンマが時代の変遷と状況の変化に伴って蓄積されたスンナに反する虚偽の慣習の闇に沈み、遂には没落し、「おまえたちが食卓に互いに呼び合って押し寄せ貪るように、諸民族がおまえたちの許に互いに呼び合って押し寄せる」と預言者ムハンマドが言われたように、ウンマが異教徒の手によって政治、経済、文化において征服され、植民地化されるに至った正にその時、アッラーはムハンマド・ブン・アブドルワッハーブを遣わし給うた。それはウンマが改めてイスラーム多神崇拝から識別し、イスラーム初期にそうであったように真理の上にあって勝利し、人類全てを導く共同体の地位に復帰するためである。
 そしてムハンマド・ブン・アブドルワッハーブとその追随者たちは、彼らの最後の偉大な宣教者、ムジュタヒドにして「最高のジハードは不正な権力者の故で正義(別伝では真理)の言葉を述べることである」との預言者の言葉を実践したムジャーヒド元サウディ・ムフティー、イブラーヒーム・ブン・ムハンマド・アール・アル=シャイフ(イスラーム暦1389年没)が現れて、読者が今手にしているこの『人定法による裁定』を著すまで、アッラーがそのウンマを矯正するための鞭であり続けた。
 そして本書はその簡潔さにも拘わらず、現代のイスラーム政治論、サラフィー主義宣教論の領域において書かれた最も重要な作品である。
実のところ、人定法は、国家権力の全てを動員して被造物の命令と禁止を人々に強制する者であり、人々に対する命令と禁止の強制こそは、共同者を有さない万世の主アッラー唯御独りのみに崇拝を捧げるべき神性それ自体であることから多神崇拝であるばかりでなく、それこそが西欧文明の精神、西欧による世界の征服の秘密、(非西欧世界の諸国民を支配する道具なのである。
 それゆえウンマはイスラーム諸地域を支配する西洋によって作られた人定法による統治から脱却した後にしか、西欧による植民地支配を脱することができないのは言うに及ばず、神性におけるタウヒードを実践し、ムスリム共同体となることすら出来ないのである。
 アール・アル=シャイフは人定法の本質とその規定を、いかなる誤解、間違った解釈の余地のある曖昧さも残さないようにはっきりと明らかにした。『人定法による裁定』は方法論的によく考えられた分りやすい構成になっている。先ず、冒頭で人定法による裁定がアッラーの啓示に基づく裁定に対立することを明らかにし、それが不信仰にあたると断定し、その後で、不信仰を(1)イスラームからの破門に値する信条における不信仰と(2)破門にはならない行為における不信仰に分類する。
 信条における不信仰については、それを6種類に下位分類する。最初の4種類は、個別の問題におけるもので、その信条は内心に掛かっている。アール・アル=シャイフはそれを重大なものから軽いものへと、順に述べている。つまり、第一は、アッラーの様々の法規定のどれかを無効と考える信条、第二はアッラーの規定以外のある規定をアッラーの規定よりも優れていると考える信条、第三がアッラーの規定以外のある規定がアッラーの規定と同等であると考える信条、第四がアッラーの規定がより優れていると信じながらもアッラーの規定以外のある規定が許されると考える信条である。これらは全て破門に値する不信仰である。
 次いで、アール・アル=シャイフは、破門に値する信条の信仰の最後の2種類について論ずる。それらの信条は個別の問題における内心に掛かっている心的事象ではなく、社会イデオロギー現象として統治システムに関わる外的事象である。
 第一のものは、フランス法、英米法などの法律やイスラーム聖法の一部の寄せ集めの法律に全体主義的強制的組織的形態で、統治システムを準拠させることである。アール・アル=シャイフは「それこそイスラーム聖法に対する頑迷な反対、その諸法規定への軽視、アッラーとその使徒に対する敵対において、最も重大、最も包括的、最も明瞭な不信仰である。」、「これ以上の不信仰があろうか。ムハンマドがアッラーの使徒であるとの信仰告白に対するこれ以上の敵対があろうか」と述べている。
 「裁判所」の語が用いられているとはいえ、人定法の問題が司法制度にのみ関わるということでは必ずしもない。そうではなく、それは統治システム全体の換喩なのである。なぜならば、「それは人定法を人々に強制し、人々に承認させ、人々に押し付ける」と言われているが、紛争解決の際に人々に人定法を承認させ、その判決を人々に強制することは裁判所の権限では決してないからである。
 その第二は、サウディ社会にのみに関わるもので、部族社会のレベルで「サルーム」と呼ばれる部族の慣習法を統治システムとすることである。
 最後の2種類は、アール・アル=シャイフ自身の分類では信条における不信仰の第5と第6にあたるものであり、彼は双方共に先の4種類と同じで破門に値する信条における不信仰であると断じている。但し、アール・アル=シャイフは、先の4種類については論じていたのと異なり、第5と第6については、それらの信条について言及していない。というのは、その第5と第6は社会イデオロギー現象であるので、個人の信条は問題とならず、内心の信条について問い質す必要は無く、むしろ人定法の組織的な施行と強制の事実それ自体が何よりも確かで明らかな(信条の不信仰の)証拠なのである。
  アッラーの啓示以外による統治者の不信仰の第二の種類は、アッラーとその使徒の裁定こそが真実であると信じ、自らの誤りと導きから逸れていることを認めていながら、個人的妄執、欲望によって、その当該案件において、アッラーの啓示以外に基づいて裁定を行ってしまう場合である。これは破門に値する不信仰ではなく、「アッラーの下されたものによって裁かない者は、かれらこそ不信仰者である」とのアッラーの御言葉に対するイブン・アッバースの注釈句「不信仰以下の不信仰」「それはあなた方が思い浮かべるところの不信仰ではない」が示唆するところの不信仰である。しかしアッラーの啓示以外による統治者の不信仰のこの第二種類は本書の主題ではない。
 人定法による裁定は、最も重大、包括的、明白な破門に値する信条の不信仰であるばかりではなく、ムスリムの諸地域において最も広がっており、影響力の強い不信仰である。いや、この人定法が思考されていない場所は地上にひとつも存在しない。その中には、アール・アル=シャイフ自身がムフティー職を務めた国も含まれる。
 アール・アル=シャイフはリヤド州知事に宛てた書簡の中で以下のように述べている。
 
リヤド商工会議所設置に関する文書添付ヒジュラ暦1375年4月11日付No.4926号貴信につき
以下報告。添付書類の法令が検討され、「被告が登録されているか否かに関わらず、この商工会議所が、商人の刑走者間の商業的紛争解決の最終権威である」と定める3条d項が最重要条項であるであることを見出した。サウディアラビア王国の商業法定法令」と題するテキスト(マッカ1379年出版第2版)を入手し、その半分を検討したが、その中にあるのは、イスラーム聖法ではなく人定法の法令であるのを見出した。それに対して我々はこの商工会議所が紛争の最終権威であることから、その中に裁判所が設置されること、その裁定者たちがイスラーム聖法の専門家ではなく、人定法の法律家たちであることを確認した。そして疑いなく、これはアッラーがその使徒に携えさせて啓示したイスラーム聖法と対立する。そしてイスラーム聖法こそ、そこから人々の信条、崇拝儀礼、許されたものと禁じられたものの知識を引き出す決定、係争が生じた時の紛争解決が、それだけの専管となるものであり、人定法の一部であれ、それによって裁定するために考慮することは、たとえ僅かであろうとも、疑いなくアッラーとその使徒の裁定に満足していないことであり、アッラーとその使徒の裁定に欠陥と紛争解決を正しく行い、正当な持ち主が権利を得させる能力の不在を帰し、人定法による裁定に、完全性と人々の問題の処理能力を帰すことになる。これはイスラーム共同体からの破門に値する不信仰であり、この問題は重大で、重要であり、自由裁量(イジュティハード)の可能な問題ではない。他の何物でもなく聖法だけに裁定を求めることは、他の何物でもなくアッラーのみを崇拝することの兄弟である。なぜならイスラームの信仰告白句の内容は、他に共同者を有さないアッラー唯御独りのみが崇拝の対象であり、その使徒のみが、その齎したもの(啓示)が従われ、裁定を求められることであるからである。そしてジハードの剣は、そのため、そして行為であれ、不作為であれ、紛争における裁定を求めることであれ、それを実践するためのみに抜かれたのであるから。・・・以下略)
 こうしてアール・アル=シャイフは、「他の何物でもなく聖法だけに裁定を求めることは、他の何物でもなくアッラーのみを崇拝することの兄弟である」と述べ、人定法の裁決と絶縁することなしには、タウヒード(唯一神崇拝)を完遂することができないことを明らかにした。そしてそれはマレーシア・イスラーム党党首ハーディ・アワンの言葉「主性と神性におけるタウヒードの信仰は、法律の最終権威として立法のタウヒードによって確証されなくてはならない」の意味なのである。
 極めて遺憾ながら、アール・アル=シャイフの言葉は、当時、為政者たちのみならず、イスラーム学徒たちの大半によっても無視され、その結果として、ムスリムの状況は今日に至るまで日に日に悪化してきたのであり、我々はこの貴重な著作を再版し、他の言語に訳し、世界の隅々にまで普及させる必要を痛感することになった。それはウンマが破門に値する信条の不信仰不信仰の最悪の形態である西洋人定法による裁定から脱却し、アッラーの主権のタウヒードに立ち返り、他の何物でもなくイスラーム聖法のみに服従する統合された指導権 ― 即ちその樹立が我々の義務であるところの正統カリフ制 ― の下に、団結し、また全人類を被造物への隷属 ― それはムスリムの諸地域を含む全世界を支配する西洋人定法による裁定に他ならない ― から解放するという指導的地位に立ち返るためなのである。
 アッラーが我々に成功を与えてくださることを冀います。至高全能なるアッラーの他に力も権能もありません。


『人定法に裁定を求めること』
ムハンマド・ブン・アブディッラティーフ・アール・アル=シャイフ(サウジアラビア王国ムフティー)著

慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名において

 呪われるべき人定法をクルアーンと取り替えることこそ、明々白々な最大の不信仰であり、「なにごとであれ汝らが相争うなら、汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら、それをアッラーとその使徒のもとに持ち込め。それが最善であり、最も良い結論である。」との尊くも畏きアッラーの御言葉に対する違背、頑迷な敵対である。クルアーンは天使ジブリールが、ムハンマドの心に明瞭なアラビア語で啓示したものであり、それによって世々を統べ治め、係争者たちの訴訟にあたって準拠すべきものであり、彼が警告者の一人となるように、とのものであった。
 自分たちの間に生じた争いについて、預言者ムハンマドに裁定を求めない者について、アッラーは、否定詞の繰り返しと誓言によって強調された否認によって、その者が信仰を有することを否定している。至高者は仰せられる。「それゆえ否。汝(ムハンマド)の主に誓って、彼らは自分たちの間に生じた争いを汝に裁定を求め、それで汝が判決を下したことに心にわだかまりを抱かず、服従し従うまで、信仰したことにはならない。」彼らが単に使徒ムハンマドに裁定を求めるだけではなく、加えて心にわだかまりを少しでも抱かないのでない限り、アッラーは十分であるとはされなかった。それは「汝が判決を下したことに心にわだかまりを抱かず」との御言葉に基づくが、「わだかまり」とは「不満」であり、使徒の裁定によって彼らの心が晴れ、懸念や疑問を抱かないことが必要とされるのである。
 またアッラーは、服従が付け加えられない限り、それら二つ(使徒に裁定を求めその裁定に不満を抱かないこと)だけでも十分とはされなかった。服従とは、使徒の裁定に対する完全な従順であり、それに対して心に何事も気に留めず、それを真理の裁定に、最も完全な服従によって従うことによるのである。それゆえ、そこにおいては単に従うだけでは十分ではなく、絶対的服従が必要であることを明らかにする「服従し」との御言葉の強調の同属目的語の動名詞によって、アッラーはそれを強調されているのである。
 第一のアッラーの御言葉「なにごとであれ汝らが相争うなら、汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら、それをアッラーとその使徒のもとに持ち込め。それが最善であり、最も良い結論である。」争いの種類や量が想像できる一般論である「汝らが争うなら」との条件節の中で、「なにごとであれ」との非限定名詞をアッラーがいかにして用いられているかを、よく考えてみよ。
 次いで、「汝らがアッラーと最後の日を信ずるなら」との御言葉で、アッラーがいかにしてそれをアッラーと最後の日に対する信仰の成立の条件とされたかを、よく考えてみよ。
 次いで、アッラーは「それが最善」と仰せられている。そしてアッラーが無条件に(不定名詞で)「最善」と仰せになられたものは、悪が決して触れることがなく、現世と来世における純粋な善なのである。
 次いで、アッラーは「最善の結論」と仰せられている。つまり、現世と来世における(最善の)結末を意味する。それゆえ、係争におけるアッラーの使徒ムハンマド以外への準拠は、純粋な悪であり、現世と来世における最悪の結末となることを帰結する。
 それは丁度、偽信者たちが「我らは善行と調停を望むのみである」、「ただ我々は改善者である」と言うのと逆であり、それゆえアッラーは、こうした偽信者たちを論駁して「彼らこそは害悪をなす者ではないか。しかし彼らは気づいていない。」と仰せられているのである。
 またそれは、世界は(西欧流)人定法への準拠を必要としている、いやそれが必要不可欠である、との人定法導入支持者たちの人定法についての判断とも逆である。そしてそれはアッラーの使徒ムハンマドがもたらしたもの(クルアーン)に対する純粋な蔑視、アッラーとその使徒の明証の軽侮、それが人々の係争を満足に解決できないとの判断なのであり、現世と来世の悪しき結末こそが、彼らに必定なのである。
 また(クルアーンの)次の節の中の「自分たちの間に生じた争いを」との御言葉の一般原則についてよく考えてみよ。また法理学者などの見解によると、関係代名詞と関係代名詞文は一般論の形式を伴う。そしてそれの一般性、包括性は、種や類の面におけるのと同様に量の面においてもであり、ある種類を異にしても相違は無く、また多寡に拘らず変わりは無いのである。それゆえアッラーは、アッラーの使徒ムハンマドの齎したもの(クルアーン)以外に裁定を求めた偽信者たちの信仰を否定され、仰せられている。「おまえは、おまえに下されたものとおまえ以前に下されたものを信じると言い張る者たちが邪神に裁定を求めようとするのを見なかったか。それを拒絶するよう命じられていたにもかかわらず。そして悪魔は彼らが遠く迷い去ることを望んでいる。(4:60)」
 「言い張る」との御言葉は、彼らの言い張る信仰において彼らが嘘つきであるとしている。なぜならば預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)以外に裁定を求めることは、人の心中の信仰とそもそも共存することはありえず、一方が他方を排除するからである。「邪神(taghut)」とは、「限界を超えること」を意味する「法外(tughyan)」の派生語である。そして預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)以外によって裁く者、あるいは使徒ムハンマドが齎したもの(クルアーン)以外に裁定を求める者は全て、邪神に従って裁き、邪神に裁定を求めたことになるのである。それというのも、預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)のみに基づき、それ以外に依拠することなく裁くことが、万人の義務だからである。
 また同様に預言者ムハンマドが齎したもの(クルアーン)のみに裁定を求めることが、万人の義務であり、それ以外のものに基づいて(自ら)裁くか、それ以外のものに裁定を求めた者は、(自らの)裁定、あるいは(他者に)裁定を求めることにおいて、彼の限界を超え、法外な行いを為したことになり、それによって彼の限界を超えることにより法外な邪神と化したことになるのである。
 そして「それを拒絶するよう命じられていたにもかかわらず」との御言葉についてよく考えてみよ。これから(西欧流の)人定法導入支持者たちがこの問題についてアッラーが彼らに求めていることに頑迷に敵対し背反を望んでいることが知られる。なぜならば聖法によって彼らに求められていること、そしてそれによってアッラーを崇拝すべきことは、邪神の拒絶であり、邪神に裁定を求めることではないからである。「そして不正を犯した者たちは、言葉を彼らが語られたもの以外に取り替えた。」
 ついで「そして悪魔は彼らが遠く迷い去ることを望んでいる」とのアッラーの御言葉、それが迷妄であることをアッラーがいかに示されたかを、よく考えよ。(西欧流)人定法導入支持者たちは、人定法が導きとなると考えている。それはこのクルアーンの節が、人定法導入支持者たちが、自分たちが悪魔から遠く離れており、人定法が人々の役に立つと思い込んでいるのとは逆に、人定法(導入)は悪魔の意思であり、彼らの主張に従うと悪魔の望む諸事は人々の福利であり、アッラーの望むところのものとなり、(逆に)預言者ムハンマドが携えて遣わされたところのもの(クルアーン)は、その名(人々の利益)に値しないもの、その任(人々の福利とアッラーの御意思の実現)に耐えないものとなるのである。

第一は、信条の不信仰であり、それにはいくつかの種類がある。
それらの第一はアッラーの下されたもの以外によって裁く者が、アッラーとその使徒の裁定の最善性を否定する場合である。これがイブン・アッバースから伝えられた意味であり、イブン・ジャリール(アル=タバリー)が、これこそがアッラーが下された聖法の裁定の否定であると選定したものであり、これについては学識者の間に異論は存在しない。なぜなら、宗教の基礎(神学的信条)のうちの一つ、あるいは宗教の枝葉(法学的規範)であってもコンセンサスの成立している一つの事項を否定する、あるいはアッラーの使徒が確実に齎したと知られるもののうちの一言でも拒絶する者は、イスラーム共同体から破門される不信仰を犯した不信仰者であることは学識者の間で合意され確定した原則だからである。
第二はアッラーの下されたもの以外によって裁く者が、アッラーとその使徒の裁定が正しいことは否定しないが、アッラーの使徒以外の裁定の方が、使徒の裁定よりも更に良く完全で、また人々の間の係争を裁くにあたって彼らが必要とするものについてよい行き届いていると信ずることである。それは一般的であっても、時代の進歩と状況の変化の結果として生じた現代的な事柄に関してであろうと、やはり疑いの余地無く不信仰である。なぜならその者は、被造物である人間のがらくたのような思いつき、こしらえた考えを誉むべき英明なる御方(アッラー)の裁定よりも勝ると考えているからである。
アッラーとその使徒の裁定は、それ自体においては、時代の進歩、状況の変化、事象の進展によって変わることはない。なぜなら、いかなる問題であれ、テキストの明文、表意、含意などの形で、クルアーンとアッラーの使徒のスンナの中にその裁定がないものは存在しないからである。そのことを知る者は知っているが、知らない者が知らないのである。
状況の変化によってファトワー(教義回答)が変化する、とイスラーム学者たちが述べている意味は、イスラームの諸規範の論点、事由の知識が乏しいか無い者たちが考えているのとは違うのである。というのは、彼らはその意味を自分たちの間違った有害な動物的欲求、現世的願望、考えに合うように都合よく解釈しているからである。それゆえ彼らはそれを擁護し、(クルアーンとスンナの)明文テキストを力の限りその下位に置き、従属させ、その言葉を文脈から外して歪曲しているのである。
それゆえ、状況と時代の変化に伴いファトワーが変るという意味は、イスラーム学者たちの意図するところでは、聖法の基本、考慮すべき事由、アッラーとその使徒が意図していた種類の福利は変らずに継続しているようなものなのである。欧米人定法の信奉者たちは、それから逸脱しており、なんであれ自分たちの欲望に適うことしか言わないのである。現実が何よりも雄弁な証拠である。
第三は、(欧米人定法が)アッラーとその使徒の裁定よりも良いとは信じないが、それと同等だと信ずることである。これは、イスラーム共同体から破門される不信仰を犯した不信仰者であることにおいて前の二つの範疇と同じである。なぜならばそれは、、被造物(人間)を創造主(アッラー)と同等とすることを帰結し、また「何ものも彼(アッラー)のようではない」との御言葉のような主(アッラー)の完全性の占有、本体、属性、行為における人々の係争の裁定における被造物に対する優越の超越性を示しているクルアーンの諸節への違背、頑迷な敵対であるからである。
第四は、アッラーの下されたもの以外によって裁く者の裁定が、アッラーとその使徒の裁定より優れていることはもとより、それと同等とも信じないが、にもかかわらずアッラーとその使徒の裁定と異なるものによる裁定が許されると信ずることである。決定的に明瞭な真正な(クルアーンとスンナの)明文テキストによって禁じられていることが知られることをその者が許されると信じているために、これにも前の諸範疇に当てはまること(イスラーム共同体から破門される不信仰)が当てはまる。
第五は、聖法に対する頑迷な敵対、その諸法規を見下す傲慢、アッラーとその使徒への背反、イスラーム法裁判所に対する競合において、装備、浸透性、所管、基礎付け、展開、組織性、多様性、実効性、強制性、準拠法令、公文書において、(それら不信仰の信条のうちで)最も重大で、最も包括的で、最も明白なものである。(それらに準拠法令、公文書があるのは)イスラーム法裁判所にもその根拠が全てクルアーンとその使徒のスンナのみである演繹された準拠法令があるのと同じく、それらの(欧米実定法)裁判所にも準拠法令がある。それはフランス法、アメリカ法、イギリス法などの多くの法律や、聖法を僭称する異端的諸派の様々な法の寄せ集めの法律なのである。
イスラームの諸国の多くのこれらの裁判所は、完全に整備され、門戸が開かれ、人々はそれに続々と押し寄せ、それらの支配者たちは人々をクルアーンとスンナに背くその人定法の諸法規によって裁き、人々にそれを強制し、彼らにそれを認めさせ、それを義務付けるのである。この不信仰よりも重大ないかなる不信仰があろうか。そして「ムハンマドはアッラーの使徒である」との信仰告白に対する違背があろうか。この違背以上の、預言者ムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)に対するいかなる違背があろうか。

既に簡単に述べた典拠の全ては周知でありここで繰る返すことはしない。理性を有する者たち、賢者たち、知恵ある者たちよ。あなた方と同等か、それ以下の者たちの(作った)法規、思い付きがあなたがたに課せられることにどうすれば満足していられるか。彼らは過ちを犯すことがあるというのに。いや、彼らは間違うことの方が正しいことより遥かに多い。いや、彼らの裁定が正しいのは、明文テキストにしろ含意によるにしろ、アッラーとその使徒の裁定から演繹された場合だけなのである。どうすればあなた方は、彼らが過ちが生じることがなく決して不正が起きない誉むべき英明なるアッラーからの啓示であるアッラーとその使徒の裁定によってあなた方を裁くことを怠り拒否する一方で、あなた方の身体、血、皮膚、名誉、そしてあなた方の妻子、家族、そしてあなた方の財産、その他の全ての権利について(人定法で)裁くのを放置していることが出来るのか。人々がその主アッラーの裁定に従い、服するのは、自分を崇拝するようにと人間を創造された御方アッラーの裁定に従い、服することである。それゆえ人間がアッラー以外に跪拝せず、アッラー以外に崇拝を捧げず、被造物を崇拝しないのと同じように、疑惑、妄執、混乱によって滅び、無関心、冷酷、不義に心を奪われた不正で無知な被造物の裁定を拒否せねばならず、慈悲深く憐れみ深く誉むべき全能な英知ある御方アッラーの裁定以外に従い、服し、屈することがあってはならないのである。
それゆえ理性ある者は、「・・・アッラーが下し給うたもので裁かない者、それらの者こそは不信仰者である」(5:44)とのアッラーの御言葉の明文により、それ(人定法による支配)が不信仰であることに加えて、人間の奴隷化、人間に対する欲望、悪意の目的、迷妄、過誤による支配があるが故にそれを警戒しなければならないのである。
第六は、砂漠の遊牧部族、氏族の族長たちの多くが則って裁定している父祖の言い伝えや、自分たちの「サルーム」と呼んでいる慣習である。無明時代の掟に留まり、アッラーとその使徒の裁定からの離反を望み、彼らはそれを先祖代々受け継ぎ、それによって裁き、係争に当たってはそれに裁定を求めるのである。
アッラーの他に力も権能もありません。

アッラーの下されたもの以外によって裁く者の不信仰の二つの種類のうちの第二のものは、イスラーム共同体からの破門を招かないものである。
「・・・アッラーが下し給うたもので裁かない者、それらの者こそは不信仰者である」(5:44)とのアッラーの御言葉についてのイブン・アッバースの釈義が、この種類の不信仰に該当することは既に述べた。それは、この節についての「不信仰以下の不信仰」、及び「あなた方が思い浮かべる不信仰ではない」との言葉である。
それは、欲望と煩悩に負けてアッラーが下されたもの以外によって問題の裁定をしてしまうことで、アッラーとその使徒の裁定こそが真理であることを信じ、自分が間違っており、導きから逸れていることを自分自身でも認めた上でのことなのである。
これはその不信仰がイスラーム共同体からの破門を招くものではないとしても、姦通、飲酒、窃盗、偽証などの諸々の大罪よりも重大な背神行為なのである。なぜならばアッラーがクルアーンの中で「不信仰」と呼ばれている背神行為は、「不信仰」と呼ばれなかった背神行為よりも重大だからである。
ムスリムが団結し信服してクルアーンに裁定を求めるようになることを我らはアッラーに祈り求めます。まことにアッラーこそ、それがおできになり、それを引き受け給う御方にあらせられます。
(了)

1 件のコメント:

  1. 英語版も一挙に掲載してしまおうと思いましたが、テキストファイルを失くしてしまいました。すみません。インシャーアッラー、見つかったときに掲載します。

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