ターリバーン(イスラーム首長国)の思想の基礎(2)
初出 al-Somood, 46号
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`Abd Al-Wahhaab Al-Kaabuli著(2010/3/20)
5.領主と世俗主義者の指導部からの追放と(イスラーム)学者と宗教者を指導部によるその代替
ターリバーン運動は、この宗教(イスラーム)の精神と、その栄光の歴史に対する理解に基づき、イスラーム共同体(ウンマ)の政治的指導権は、宗教(イスラーム)学者と預言者たちの相続人たち(学者)に属すると考える。これはイスラームという宗教の教えが明確に定めるところであり、この思潮の最善の実例は、預言者(S)の人格である。というのは、彼は高貴な預言者職の加えてイスラーム国家の最高指導者でもあり、彼こそが共同体に対する政治、軍事、財務、法制の諸事項を司られ、また彼こそが、ムスリム共同体(ウンマ)に彼らの宗教を教え人類を闇から光明へ導き出されたのみならず、イスラーム国家に外交政策の大綱をも定められたからである。
そして彼の逝去後には、ムスリム共同体の指導権は、至高なるアッラーの宗教について最も良く知り、イスラーム聖法の精神を最も良く理解した人間、即ち(初代カリフ)アブー・バクル(r)に委ねられた。そのように指導権は、知者から知者に移ったのであり、彼らの指導の下で、イスラーム国家の領土は広がり、その宣教は世界各地に弘まったのである。
しかし最善の世代(初期三世代)が過ぎ去った後、人々が宗教の教えから逸脱したために衰退の局面に入る。そしてムスリム共同体の政治的指導権は、しばしば人類の主の聖法に則るよりもむしろ自分たちの我欲に従って人々を支配する者たちに手渡されるようになった。そこでイスラーム聖法の施行が忽(ゆるが)せにされるようになって、ムスリム共同体の威勢が弱まることになり、ムスリムは多くの領土を失っていき、ムスリム共同体は災厄に次ぐ災厄を味わわされることになり、アル=アイユービー(サラーフディーン:アイユーブ朝始祖、1193年没)やアル=ガズナウイィー(マフムード:ガズナ朝在位997-1030年)やアル=ムザッファル・クツズ(バフリー・マムルーク朝在位1259-1260年)などの(僅かな)例外を除き、この屈辱の泥沼から抜け出さなかった。彼らは万事においてイスラーム聖法に裁定を仰ぎ、諸事をその支配下に戻したのであるが、彼らはイスラーム聖法の知識を備えていたか、あるいは傍らにいるイスラーム学者たちの学識により啓蒙されていたのである。
しかしこのような繁栄の時代は長くは続かず、支配権は自らの欲望を宗教より優先させ、宗教(イスラーム)家、宗教(イスラーム)学者たちを抑圧し、イスラーム聖法の学者たちを政治と指導権の場から遠ざけるよう策謀する専制君主たちの手に渡に戻ってしまったのである。
そして外国人の占領者たちは、ムスリムの土地を支配した後に、宗教を生活から切り離し、世俗主義(laa-dinniyyah)を広め、生活と統治の諸領域から宗教を根絶し、いかなる役目も無いようにし、生活と政治の問題における(イスラーム)学者の役割を縮減し、彼ら(イスラーム学者)は、こそこそと個人の崇拝の勤行の一部(だけ)を行い、そしてかつては宣教と善導、ムスリムの領土を防衛する指導者たちを輩出する光塔であったのが、社会から切り離された修道院に成り下がった自分たちの宗教学校でその(個人的崇拝の勤行の)規定の一部を教えるだけになったのである。しかし(外国人)植民地主義者たちは、それだけでは満足せず、官立学校出のムスリム子弟の新世代を要請した。そしてこれらの官立学校は、彼ら(外国人)が設立したもので、その中では、外国人教師か、彼ら(外国人教師)の弟子で、植民地行政の下でオリエンタリストやキリスト教宣教師たちの懐で育まれた我々と同じ民族の子弟の手によって世俗主義のカリキュラムが教えられることを決定したのである。
そしてこの新世代は宗教(イスラーム)に敵対し始め、その諸原則と諸規定を否定するようになり、自分たちが軍事的に撤退した後に彼ら(現地人の新世代)に国事の支配権を委ねた外国人占領者たちに忠誠を尽くすようになった。そしてこの欧化世代の任務は外見上はイスラームに属しているように見えるがその内実は宗教(イスラーム)から離反し、その諸儀礼、諸規定から離反した支配と統治の新しい形態を創り上げることであった。
そしてこの領域(支配と統治)の全てをこの欧化世代に明け渡すために、生涯泣くイスラームの諸民族をより広い分野で西欧風に染め上げることができるようにと、彼らはイスラーム学者と篤信の徒たちを指導層、(政治的)決定権を有する地位から遠ざけたのである。
こうして外国人植民者たちは、自分たちが撤退する前に、この新世代に、至高なるアッラーの宗教に代わる新宗教を設立したのであるが、それが人類を人間の欲望に寄って支配する民主主義という宗教であり、それにおいては政治的権利と主権の享有資格において現代における最善の人間(被造物)と最悪の被造物が平等なのである。そして無宗教の支配者たちは、自分たちの有する軍事力と、拷問、投獄の技術の全てを投入して、自分たちの新宗教(民主主義)を確立させたのである。
そしてイスラームの国々での統治の生活のこの様式を持続させえるために、彼らはイスラームの国々での教育法をイスラームの国土における西洋人たちの目的に適合するような方法に染め上げたのである。
諸政府が統括するイスラーム学校や大学における教育法は、また別の問題をも抱えている。そこではイスラーム聖法の諸教科は、魂を抜かれ、技巧を凝らした文飾や現実に合致しないギリシャ哲学の言葉遊びの難渋な表現で教えるようになってしまった。
こうして宗教(イスラーム)は、礼拝、浄財、家族法などの限られた儀礼行為と、数百年も前に存在した思弁神学諸派に属する僅かばかりのイスラームと信条の教義に切り詰められてしまった。その一方で、イスラーム世界を端から端まで席巻している現代のイデオロギーの諸派、諸団体と、そのもたらす破壊的な悪影響については、これらの国々の我々のイスラーム教育のカリキュラムは扱っておらず、それに警戒して備えることが出来るようになるのに十分な程に人々にその害悪を教えていなかたった。その結果として、共産主義がやって来て、人々の思念と感情を魅了し、次いで邪悪な自由主義が到来したが、それはアッラーの人類に対する統治権とその聖法の施行に楯突くものだったのである。
ターリバーン運動が出現したのは、こうした嘆かわしい状況下においてであり、同運動は、政治と支配の戦場に正面から突入し、力関係を逆転させ、価値基準を転換させ、諸事を改めて元のあるべき位置に戻したのである。そしてモスクの導師が再び世界に向かって出かけ世界に対して高らかに「アッラー以外に支配権はない」と宣言し、共産主義者と自由主義者たちの耳に「アッラーの啓示し給うたもの基づいて支配しない者たちは不信仰者である」(食卓章44節)のメッセージを響かせたのである。
こうしてこの地においてモスクの導師が約千年振りに、政治的最高指導権を再び手にし、モスクの導師こそが、他の何者よりも、最高指導者職(imaamah `uz_maa)に相応しいこと、そしてそれこそがアッラーの使徒(S)と正統カリフたちの慣行(スンナ)であること、ムスリム共同体が非宗教的支配に屈したことは、この宗教(イスラーム)本質に悖(もと)ることを、改めて確証したのである。
そしてターリバーン運動は政府を樹立しイスラーム聖法を施行した事実によって、2世紀近くにわたって西欧がムスリムの心中に深く植え付けようとしてきた大嘘、つまり現代においてはイスラーム聖法が国家と政治の運営に友好ではないとの嘘を反駁したのである。そしてそれによってターリバーン運動は、現実の行動によって、宗教(イスラーム)学徒とモスクの導師たちが、国家と政体の行政運において、彼ら以外の西欧思想のひよっこたちに比べてより有能であることを立証したのである。
しかしムスリム共同体がそれが成功することはないと諦めかけていたこの実験に成功するに至るターリバーンの道は決して薔薇色ではなかった。むしろそれは血、命、そして様々な犠牲と、長い忍耐の道であった。彼らはそのために地方(アフガニスタン)、地域(イスラーム世界)、国際的な挑戦に直面し、何万人もの最善の若者、(イスラーム)学徒、クルアーン暗誦者たちを犠牲にしつつ、夜に日を継いで、全ての障害を乗り越え、確固たる信仰と宗教の誇りによって新しい道を切り開き、「人々がおまえたちに対して(抹殺するために)集まっているぞ。それゆえ彼らを恐れよ。」と彼らに言う人々の脅しも彼らを妨げることは出来なかったのである。「『人々がおまえたちに対して(抹殺するために)集まっているぞ。それゆえ彼らを恐れよ。』しかしそれによって彼ら(ムスリム)はますます信仰を深め、『我々にはアッラーのみで十分。何と良い後見人であることか。』と言ったのである。」(「イムラーン家」章173節)
彼ら(ターリバーン)は、この運動の発展の諸段階のあらゆる局面において彼らに対して為された地域(イスラーム諸国)的、国際的圧力に屈せず、いかに試練が厳しくとも、彼らの信ずる原則に関して取引に応じず、またイスラーム聖法を、専制君主の邪神(T_aaghuut)の法や、アッラーの支配に敵対する人間の皮をかぶった悪魔たちの政令と混淆することも決してなかったのである。
不信仰世界がターリバーンを平和的手段と、政治的取引によって買収することを諦め、多くのイスラーム運動・団体を「平和的共存」という酸で溶かし邪神の専制的政体の化粧・仮面に変えて変質させた「民主主義」の鋳型に嵌め込む試みが全て失敗した時、不信仰世界は彼ら(ターリバーン)に対して侵略戦争を宣言し、西洋の悪魔たちがその悪魔的な策謀によってムスリムたちを麻痺させた麻酔による眠りからムスリムたちが覚醒して気付く前に、この(ターリバーンの)(イスラーム学者によるイスラーム聖法に基づく国家建設の)実験を流産させようと力の限りを尽くしたのである。
しかし至高なるアッラーは、不信仰世界と闘うために自分たちの血と命と8年以上前に自分たちの政権が崩壊した時に土に埋めた錆びた弾薬しかない僅かな軽火器しか持たない貧者たち(ターリバーン)の手によって、不信仰世界全てを打ち負かすことを望み給うたのである。
これが、(現在)彼ら(ターリバーン)に色目を使い摺り寄り、自分の手下たちのためにカーブルに樹立した政府(カラザイ政権)に抱き込もうとしている虚妄のアメリカなのである。そしてそれ(アメリカ)がこの卑しい立場にまで妥協するに至ったのは、過去8年にわたるターリバーンとの戦争の経験を経てのことに他ならない。
他方、ターリバーン運動は、モスクとその壁龕から外に出た者たちが指導する運動として、国際政治の上で、西洋画育てた世俗主義者の政治家たちが考えたのとは全く違った振舞をしたのである。この(ターリバーン)運動の指導部は、賢明で確固たる立場を貫くことによって、この運動が、国際政治の悪魔たちにその悪魔的罠、策謀によって弄ばれる神経症のスーフィー乞食坊主(ダルヴィーシュ)たちの集まりではないことを証明した。そうではなく、それ統治と戦争と国際的な挑戦の経験によって鍛えられイスラーム学者たちが支配する運動であり、彼らは政治的賢慮と、この地域(イスラーム世界)と世界の政治情勢、謀略に対する精確な理解を持ち合わせているのである。
ターリバーンの思想のこの原則は、ただ政治と指導の領域から領主たちと世俗主義者たちを追放しイスラーム学者をその地位に付けたに留まらず、それ以上のことを為した。それは戦争、政治、情宣、国際的陰謀との対決についての賢明な理解を有するジハード戦士たる若者を育て上げたことである。それは強いられた闘争の様々な段階における絶え間ない対応の戦いについての彼らの理解に加えてのものであった。そしてそれが(ターリバーン)運動に、西欧とその手下で自分たちの権力を失うことを恐れて西洋の言いつけには何でも従うイスラーム世界の罪深い支配者たちが率いる十字軍戦争におけるイスラームの諸民族の指導層たちの成員立ちを引き付けたのである。この原則をターリバーン運動の思想の諸原則の一つであると述べようと思うなら、ターリバーン運動は、現代においてもイスラーム学者とジハード戦士たちがムスリムを指導する能力があるとの信頼性をムスリムに与えた、ムスリムのイスラーム学者たちに生じた沈滞と固陋を取り除き、再び彼らを指導と統治の場に引き出し、現在と未来の指導と抵抗を可能として備えるために、先行したイスラーム諸運動の経験から学んでいるのである、と我々は言おう。但し、これらの経験はより正しい導き、この運動の全ての側面を包括する歴史学的検証を必要とするのである。そしてそれ(ターリバーン運動)は、イスラームの実践の新しいモデルを提供したのである。そしてそれは先達(イスラーム初期三世代)の時代に在ったところのイスラームへの復帰と、信仰の揺らいだ者や偽信者たちが軽視しようとしているイスラームとその敵の不信仰の諸宗派の間の宗教的・文明的闘争の
戦場における現代の新しい諸事象への対応を兼ね備えたイスラーム聖法の枠組み内での軍事・民事の実践を通してなのである。
統治と指導の両分野におけるその(ターリバーンの)指導と霊性の実験は学ぶに値する。そしてイスラームの思想の探求者ともあろうものが、この時勢に、不信仰者たちがそれ(ターリバーン運動)とそのジハードと統治に関する見解と国際情勢と現代のイデオロギー闘争の成り行きに対するその影響に関心を抱いているよりも、興味を持っていないというようなことがあってはならない。
6.民主主義を現代の無明の宗教とみなし信仰しないこと
ターリバーンの思想の重要な基本原則の一つに、民主主義を信じず、それをアッラーの最後の使徒Sムハンマドへの啓示の導きを拒否し、生活の全ての領域において人類の欲望を最終審級とする現代西欧の無明の信仰であると看做すことがある。
ターリバーン運動は、イスラームが政治制度、立法、経済、道徳、社会についての完全な宗教であり、民主主義であれ、他の宗教であれ、法制であれ、継ぎ接ぎをする必要がないことを固く信ずる。そしてそれが至高なるアッラーのその書の明文における御言葉「今日、我は汝らに汝らの宗教を完成し、汝らに我が恩寵を全うした。そして我は汝らの宗教がイスラームであることに満足した。それゆえ、罪に逸れず飢餓に強いられた者には、まことにアッラーはよく赦し給う慈悲深い御方。」(「食卓」3節)、及び「イスラーム以外を宗教として求める者は、その者から受け入れられることは決してなく、その者は来世において損失者の一人である。」(「イムラーン家」章85節)
イスラームは、人間生活の全ての次元を包摂し、復活の日に至るまでの全ての問題、課題を宗教である。それゆえもしそうでなかったとすれば、復活の日に至るまでの人類の他の全ての宗教と同じく、(アッラーは)それに満足し給うことはなく、それから逸れる者を損失者のうちに数え給うことはなかったのである。
またターリバーンは民主主義をアッラーの主権を否定し、多数決の形で地上の至上権を人類に属さしめる現代の無明の宗教であると信ずる。そしてこの多数派が法令を制定し、合法と禁止を定める権限を独占し、また彼らの妄執に従って、自分たちの利権を守るために、支配者を選ぶのである。それで彼らは何事においても真理のアッラーの聖法に従わない。それゆえ民主主義における多数派は、神の地位を占めており、彼らの妄執が神の聖法の地位を占めるのである。
ターリバーンは民主主義について、民主主義とは教会の堕落、そのあらゆる人権の蹂躙の後の近代西洋の哲学者たちが作った宗教であると信ずる。そこでの立法の源泉は人間の妄執と思念であり、それは重要な二つの原理の上に成り立っている。
その二つの原理とは、(第一は)主権原理である。即ち合法と禁止の最高主権が人間にあり順位においてこの主権より上位、あるいは同位のいかなる他の主権も認めないことであり、それは、モノ、人、状況に対する、特権的多数派の見解から生じた絶対権力なのである。
そして第二(原理)とは、権利と自由の原則である。それは要約するなら、個人に、その自由が他人の自由を脅かさない限り、自分が欲するあらゆることを為さしめることであり、いかなる聖法も宗教も、その宗教や聖法がいかなる(社会での尊敬される)地位を占めていようと、人間にこの民主主義が人間に与えた自由と権利を禁ずることは許されないのである。民主主義には、信仰者も不信仰者もなく、また信仰も不信仰もない。ただそこでは全ての権利における人類の完全な平等があり、またそこには善と悪があるが、善とは多数派が善と看做すものであり、悪とは多数派が悪と看做すものであり、宗教がそれ(多数派の決める善悪)を認めようが、認めまいが無関係なのである。
また、民主主義はこの理論に尽きるわけではない。それは別の諸概念、民主的制度として知られるものにも及ぶ。その中には西洋の占領者たちがイスラームの国々に移植に奔走して一つの国のムスリムを分裂させるために支援した政治的多党制(多元主義:ta`addudiyyah)がある。ターリバーンはムスリムの国における政治的多党制は、諸党派、諸集団が権力の椅子を目指して互いに騙し争うようにムスリムを分裂させる手段であると考える。それゆえターリバーンは支配権を得るための避難すべき争いを防ぐために、単一のイスラームの旗印の下に唯一神信仰(タウヒード)の言葉の上にムスリムを統合する単一の公正なイスラーム政体を樹立すべきことを信ずる。また(ターリバーンは)同時に、ムスリムの為政者たちへの助言のために門戸が開かれる必要をも信ずる。なぜならば「宗教とは助言」(ハディース)であり、また「最善のジハードは不正なスルタンの許での真理の言葉である」からである。そして最善の助言とは、ムスリムのイマームに対して向けられたものだからである。
侵略者の占領者たちが育てた、あるいは諸々の植民国家が育て、遅かれ早かれ自分たちの目的を達するための手段(mat_iyyah?)として味方につけるために巨額の投資をしてきた無宗教の世俗主義者や民族主義者などは、イスラームとイスラーム聖法の基準に照らせば無に等しく、イスラームの地で無宗教の活動を行うことが許可され、認められることは許されない。
アフガニスタンとイスラーム世界のムスリムは、昨日に悩まされた共産主義者たちによる殺人、拷問、追放、宗教と聖なる物の冒涜、ムスリム共同体からの宗教の取り上げを忘れてはいない。ところがこの傷が癒えないうちに(tandamil)、自由民主主義者が西洋の空爆の傘下にやって来て、ムスリムたちに最も過酷な虐待、拷問を味あわせた。そしてアフガニスタン、イラク、ソマリヤ、パレスチナなどのイスラームの国々の出来事は、イスラーム世界で不信仰諸国のおかげで(mubaarakah)成長したこれらの諸党派(自由民主主義)が犯した罪に他ならない。
またターリバーンは、信仰するアフガン人民の過去30年にわたるジハードは民主主義のためでも西洋思想に門戸を開くためでもなかったと考える。そうではなく、それは至高なるアッラーの御言葉を宣揚し、その聖法を彼の僕(しもべ)たちの間に施行するために、人民が数百万人の殉教者を捧げたイスラームのジハードであり、また今もあり続けているのである。
そして我が信仰する人民をこの高貴な目的から逸らし、ジハードと殉教者の地にイスラーム政体を樹立することを妨げる全ての思想、理論は、許容されるべきではなく、むしろアッラーへと近づく献身、その道におけるジハードとして、抹殺されねばならないのである。
それゆえ民主主義はターリバーンの考えでは、その弘布のために世界中を暴力と鉄で席巻する現代の無明の宗教であり、他方彼らの考えではイスラームは別の宗教であり、至高なるアッラーがそれを最善の人間ムハンマドに啓示し給う真理の宗教で、その中にだけ人類の幸福があるのである。両者の間には不信仰と信仰の違いなのである。
7.一致団結と無明の民族主義の拒絶
一致団結の維持と無明の民族主義の拒絶はターリバーン運動の重要な原則の一つである。それゆえ、厳しい数々の試練と、運動のメンバーを「過激派」と「急進派」などと名づけたものに分裂させようとの敵たちによる多くの策謀に晒されながらも、一貫して強く団結しており、運動の戦列に分裂、内紛が生じることはなく、不信仰世界全体との運動の偉大な戦いにおける確固たる信仰の立場を取ることによる指導者への適格性を確証したその(最高)指導者(モッラー・ウマル師)の指導の下に、その戦列の統一を維持しているのである。
以下は、この運動における戦列の統一を支える重要な要因である。
(1)運動の各構成員の(最高)指導者に対する善(なる命令)における自発的な絶対的服従。なぜならばイスラームにおいて、権威者に対する服従は聖法の明文が命ずるところの聖法によって定められた事柄だからである。ムスリムの集団は聖この法の明文の違反の帰結を警戒しなくてはならない。なぜならば(ターリバーン運動)の指導部と成員の大半は、イスラーム教の学者、聖法の学徒であり、彼らこそそれらの聖法の明文を最も理解しその教えの適用を遵守するのに相応しく、またそれが可能な者だからである。この(聖法の)理解と遵守のために、(ターリバーン)運動の成員たちには、しばしば(他の)イスラーム諸運動の分派が陥るように妄執の虜になったり、名声や現世の享楽を追い求めることがないのである。
(2)敵の流言に耳を傾けず、敵たちが(ターリバーン)運動の指導部、様々な事態に対するその立場に関して敵たちが言うことを気に留めないこと。なぜならばイスラーム諸運動の内紛の殆どは、そうした運動の追随者の間に敵が広める流言飛語に起因する指導部への猜疑心から生ずるからである。なぜなら(ターリバーン)運動の成員の殆どは聖法の知識を有しているので、その彼らの聖法の知識が彼らを敵の流言飛語による撹乱から守っているのである。そしてそれは「もし彼らの許に彼らが流す安全と危険の報がもたらされた時、それを使徒と彼らの中の権威者たちに委ねたなら、彼らからそれを知った者たちがそれを知ることになったであろう。もしアッラーからの汝らへの御恵みと御慈悲がなければ、僅かな者を除いて汝らは悪魔に従ったであろう。」(「女人」章:83節)との至高者の御言葉の実践によるのである。
彼らは何事も権威者たちに委ね、敵が宣伝する通りに鵜呑みにしたりはしない。他方また、イスラームにおいて服従は、気に入ったことでも、嫌なことにおいてもであり、(ターリバーン)運動の実態に対するこの忠誠と理解が、その戦列の分裂を防ぐ重要な要因となっているのである。
(3)(ターリバーン)運動の指導者たちは、残りのメンバーとこの世の生活において全く区別がなく、指導者たちには部下たちに猜疑羨望の念を抱かせるようなことは何もない。なぜなら彼ら(指導部)全員が貧者、庶民であり、人々が暮らすのと同じように暮らし、(ターリバーン)運動の平メンバーが食べ、着るのと同じものを食べ、同じものを着ているからである。それどころか、指導者たちの生活水準は、平メンバーの状態より質素で粗末な場合すらあるかもしれない。それゆえ西欧人たちは今に至るまで、彼ら(ターリバーン指導者)から没収し、圧力をかける道具にするためのいかなる財産も不動産も見つけることができないでいるのである。この(ターリバーンの指導者たちの)清貧、質素な生活のために、運動の平メンバーと庶民も、(ターリバーン)運動の指導者たちがこの世の快適な暮しに無欲であると納得しており、この特質(質素、清貧)があるために、人々が、(ターリバーン)運動の指導者たちの周りに結集しようと欲し、彼らからの離反を望まないのである。
4.諸運動、諸団体の内部分裂は殆どの場合、地位や職務を巡る競争から生ずる。ところがターリバーン運動においては事情は異なる。というのは、そこ(ターリバーン運動内)での地位とは名誉特権ではなく義務負荷でからである。それは顕職(minah_)ではなく試練(mih_an)、ジハードと戦闘の戦場への出陣、死、負傷、捕らわれ、苦難に身を晒すことなのである。それは現在の情勢下においてのみではなく、(ターリバーン)運動の治世においても常態だったのである。その(ターリバーンの)メンバーの一人が今日大臣であったのが明日には最前線の指揮官であり、明後日には普通の職にあり、その後にはいかなる公職にもつかず、その後にはどこかの州の知事になっている、というようなこともあるかもしれない。こうした(ターリバーン運動の)地位は重い義務負荷であり、人々が手に入れようと競う現世の利権ではないのである。それゆえ(ターリバーン)運動の指導者たちやメンバーたちの心中には競争心はなく、むしろ彼らは地位を担うことの困難な重責と考え、現世の欲がない者以外はそれを求めないのである。
ターリバーンの敵たちは、運動の参加者たちを過激派と穏健派に分裂させようとしばしば試みてきた。しかし運動の隊列の中には彼らのプロパガンダにのせられる者はおらず、彼らの策謀は失敗に終わった。敵たちはこの方法で金銭的・政治的賄賂や莫大な見返りを提示したが役に立たなかった。なぜならば(ターリバーン)運動への帰属とは信仰とアッラーの道での献身の繋がりでしかなく、地位の獲得のためではないからである。
と言っても、(ターリバーン)運動の隊列が、利権を求める者、規律の弛緩した者、なんらかの野望を抱く者が全くおらず無謬である、と言いたいわけではない。それもまた他のあらゆるイスラーム運動と同じく人間からなるのであり、天使ではない。ただターリバーンを他の運動から区別するのは、運動の自己監視的性格と苦難の道程のせいで、そうした規律の弛緩した者たち、利権を求める者たちが運動の隊列に残り続けることができない(で淘汰される)ことなのである。病んだ魂の者らは、苦難、試練、生活の過酷さを耐え忍ぶことはできないのである。
また(ターリバーン)運動の結束を強めるものとして、民族(エスニック・グループ)、言語、地域などの忌わしい無明の党派主義を避けていることがあげられる。(ターリバーン)運動はイスラーム・スンナ派の全ての民族から構成されており、その指導者の中にはウズベク人、トルコマン人、タジク人、バルーチ人、パシュトゥーン人、ヌーリスターン人など様々な民族に属する者たちがいる。
これがそれ(ターリバーン運動)がアフガニスタンの全ての州に広範に存在している秘密なのである。(ターリバーン)運動の(人物評価)基準は、献身の純粋性と仕事の熱心さに加えて神への畏れである。そしてそれ(神への畏れ)
こそが(ターリバーン)運動が、全き真剣さと決意をもってその維持に努めるものなのである。
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